第二部プルガトリオ #29

「その医師は、まさに聖人のごとく治療を続けてきました。そのおかげで、たくさんの命が助かって……しかしですね、それに、一体、なんの意味があったというのでしょうか。確かに、その医師のもとに運ばれてきた人々は、その命は助かりました。しかし、置かれている状況は一つも変わっていないわけです。その患者が、まさに死にかけるまで追い詰められたところの、アーガミパータの紛争は、継続し続けているわけです。今まで、五十年以上続いてきて。そして、恐らくは、これからも続いていく。

「その医師のもとに運ばれた患者の、一体、何人が、惨たらしい苦痛と逃れられない絶望のもとで残りの人生を生きていくことを強制されたと思いますか? それは、もちろん、幸福になった人々もいるでしょう。その医師の治療を受けた後で、なんらかの幸運に恵まれて、アーガミパータを脱出したような人々も、いなくもないとは思います。けれどもね、そんなのは、せいぜいが十数パーセントですよ。それ以外の人々、つまり九十パーセント近くの人々は、またもや地獄の中に放り込まれて、命ある限り続く拷問の中で、目も当てられない人生を送ることになったんです。

「はっきりいいますがね、私だったら、そのまま死んでいた方がましだったと思いますよ。そりゃあ、内臓がはみ出ていたり、骨が砕かれていたり、そのままの状態で数日間生き続けるよりは、治療を受けた方がいいかもしれませんがね。その場合にしても、私が望むのは、治療よりも安楽死でしょう。アーガミパータで何も持たぬまま生きていくよりも、死んだ方が、遥かに、遥かに、ましなんです。それにも拘わらず、その医師は治療を続ける。安楽死によって永遠の平和を与えるのではなく、生命のこちら側に無理やり引っ張ってきて、せっかく逃れることが出来たと思った地獄の拷問に、またもや放り込む。

「まあ、そういった非情さ・非道さには、もちろん人間至上主義に特有の信仰が関わっているというのは否定出来ません。いわゆる肉体可動性信仰ですね。肉体の、どこか一部でも動くのであれば。心臓が動いているのならば、呼吸が出来るのならば、脳波が反応しているのならば。そのことによって、その肉体が人間として生きていると考える、非常に原始的な信仰です。ただ単にその中で血液が流れているところの肉の塊を、生きた人間であるとみなすのは……あはは、ちょっと無理があるように思われますけれどね。まあ、とはいえ、信仰というのは常に不条理なものですから。私は、そのことに関しては口出しする気はありません。

「その信仰に、人間至上主義の人間至上主義的な部分が大きく関係しているということには間違いがありません。人間は、人間であるというだけで肯定されるべきであり、祝福されるべきである。人間以上の価値はこの世界に存在しない。そうであるならば……それが、どんな形の生存であっても。ただただ生理的機能を保持しているというだけの生存であっても、それが人間であるというだけで、素晴らしい人生を生きていると認めるべきである。人間として、この世界に存在出来るというだけで、その存在している人間は――例えそれが終わらざる拷問としての生存であっても――自分自身が幸福であると考えなければいけない。そういう狂信的な態度が、この医師の態度には透けて見えているということです。

「まあ、これもこれでちょっと迷惑な話ですけれどね。とはいえ、この医師の非情さ・非道さの原因となっているのは、当然ながらこういった狂信だけではありません。例えば性欲だとか、そういった生存に直接関わってくる欲望とほとんど同程度にまで肥大化したところの、凄まじい名誉欲です。

「これもまた人間至上主義から直接的に導かれてくるところの欲望なんですけれどね。人間至上主義においては、神々だとか運命だとか、人間以上の何者かを認めることは許されていません。しかし、それでも、人間という生き物は、何かしらの超越した存在を求めるものです。自分の生き方の指標として……あるいは、別のいい方をするのならば、「言語」という絶え間ない混沌に秩序をもたらすための焦点である無限記号として。神々もなく運命もない。そして、その世界における至高の概念は、人間がその担体となっている。そうであるならば、その超越した存在というのは、人間であるということになるわけです。まあ、人間といっても、無限記号を求める人間Aとは異なるところの、任意の人間Bということですがね。とにかく、そういった人間Bのことを、人間至上主義者は仮に「ヒーロー」と呼んでいるわけですよ。

「こうして人間至上主義者は、仮初の神々を手に入れるのですが。しかしながら、ここで問題が発生します。この仮初の神々は、所詮は人間に過ぎないということです。何度も何度もいいますが、人間というのは不完全な存在であるわけです。人間Bのことを、いかに素晴らしい、神のごとき存在であると見せかけようとしても。それは、出来損ないの神に過ぎない。探せばいくらでも粗が出てくるところの下等生命体に過ぎないわけです。

「それでも、人間という生き物は自己欺瞞の能力だけは優れているもので、その粗さえも神々の神々たる所以であるといい繕おうとします。「英雄は自らの子が地に満ちるまで愛を交わす」だの「英雄は予想さえ出来ない窮状から自らを救うがゆえに金を愛す」だの、そういったたぐいの格言ですね。しかしながら、どういい繕おうとも、前者は色情狂ですし後者は我利我利亡者なわけです。ということで、人間の中でも、特に……強欲な方々は。もしかして、こういった不完全な神々に代わって、自分こそが、完全な神になれるのではないかと考えるわけです。

「ここで注意しておいて頂きたいのは、ここでいう「神になる」という欲望が、決して「清めの欲望」ではないということです。なぜなら、この欲望は……まず第一に、自分を超越した存在、自分よりも素晴らしい存在になろうとする動機を完全に欠いているということです。あくまでも、自分という存在が、自分らしく生きることで。自分が自分であるということによって、あらゆる生き物から、絶対的な崇拝を得ようとする。それが、この欲望の本質であるからです。そうである以上、その神になろうとする……あはは、人間Cとでもしておきましょうかね。人間Cが、どんなに、血の滲むような努力をしようとしても。その向上しようとする意志は、決して超越の方向には行かない。あくまでも、自分という限界の中にとどまってしまう。そうであるならば、それは「清めの欲望」とはなんら関わらない欲望なんです。

「また、もう一つ理由があってですね、それは、この欲望が、あくまでも公的領域における欲望であるということです。この欲望は「自分」を優れた存在にしようとする欲望ではありません。「他人」から優れた存在であると見られたいという欲望なんです。そうである以上は……その業績を、見せびらかす必要がある。つまり、人間Cが行うあらゆる行為、常人には真似することの出来ない偉大なる行為は。つまるところ、孔雀の羽のようなものに過ぎないということです、あはは、そうです、その群れの中で自分が一番優れていると主張するための、孔雀の羽なんですよ。

「というわけで、人間Cは、神に……「ヒーロー」になろうとするわけですが。「ヒーロー」になるには一体どうすればいいのか。それが「清めの欲望」における超越的な何者かであれば、ただただ偉業を積み重ねていくだけで、それに近付いていくことが出来ます。まあ、それになれるかどうかは別としてね。しかし、人間至上主義的な意味での「ヒーロー」は、決して、そんな風に、簡単に近付いていけるものではありません。なぜなら、それになるためには、公的領域における承認が必要だからです。

「そう、「ヒーロー」というのは、「正しさ」であるところの行為によってなれる存在ではないんです。現在集団を形作っているところの大部分が正しいと思っているところの行為をして、その上で、その行為をしているということを、やはり現在集団を形作っているところの大部分によって認められなければいけない。そうして、初めて、「ヒーロー」になれるんです。つまり、簡単にいえば、集団の構成員から与えられる名誉、それをより多く集めたものが「ヒーロー」になれるということなんですよ。

「さて、これで……亡命知識人としての医師が、どうして安楽死ではなく治療を与えるのかということが分かってきましたね。例え、安楽死が、その人々にとっての本当の幸福だったとしても。それをしてしまえば、自分が名誉を失ってしまうからです。人間至上主義のもとでは、生きるということが絶対的な価値なのであって、その価値を損なうものは背教者です。背教者には、決して名誉は与えられません。もしも、「ヒーロー」になりたいのならば。より多くの名誉を手に入れたいのならば。患者の本当の幸福など考えず、ただただ、生存のみを追い求めていけばいい。そう、そうなんです。こういった医師にとって、患者の幸福なんてどうでもいいことなんです。ただただ、自分が名誉を与えられればいい。なんのことはない、こういう医師は、自分の命さえかなぐり捨てて、自分の名誉を追い求めているだけなんです。

「あはは、砂流原さん、砂流原さん。なんだか納得がいっていないようなお顔をされていますね。確かに、なんの具体例も示さずに、こんな断定的な口調で物事をいうのは、議論の礼儀に反する行為かもしれません。それならば、とてもとても分かりやすい例を一つ挙げてみましょうか。アーガミパータの、ある医師の話です。

「その医師は、まさに「ヒーロー」でした。元々は、ボランティアとしてアハム・ジャナスミに飛び込んで、従軍医師になった方なんですけれどね。戦場から戦場へと、幾つもの死地を渡り歩いているうちに、次第に次第に、紛争における犠牲者というものには敵も味方も関係ないということに気が付いてきた。敵であれ、味方であれ、戦闘で傷付いている人々は、誰であれ苦しんでいる。そこで、その医師は、アハム・ジャナスミを飛び出して、敵も味方も関係なく、とにかく自分が見つけた患者を治療する医師としての活動を開始したんです。

「その方の活動は……そりゃあ、凄まじいものでしたよ。私も、何度か同行したことがあるんですけれどね。医療用の鞄を、たった一つだけ持って。そして、弾丸が飛び交い刀刃が舞い踊る最前線に突っ込んでいくんです。そして、戦場のそこら中に転がっている、ほとんど死体だとしか思えない人々、それでもまだ生きている人々に、次々と的確な治療を施していく。あの人が何人の患者を救ったのか知りませんけれどね。少なくとも、私が見た限りでは、一日に数十人のペースで救っていました。

「ああ、そうそう、その方の特に非凡なところはですね。その方が身につけている知識が、医学の知識だけではないということです。例えば、その方は、その方が独自に作り出した魔学的な結界を使っていました。その結界は、一種の無菌室として作動するもので、しかも赤イヴェール合金の銃弾さえ弾き返すことが出来るという恐ろしい代物でした。あはは、そう、その方は、「戦場で患者を治療する」ために役立つ知識であれば、手当たり次第に身につけていったんです。しかも、完全に独学でね。

「さて、そんな医師の方なのですが……とある日・とある場所。まあ、まあ、毎度毎度のこととして、単身で戦場に飛び込んでいったんですけどね。ただし、その日は、ちょっとだけいつもと違ったことがあったんです。それは、その戦いが、神国主義者と神国主義者との戦闘だったということです。あはは、砂流原さん、もしかして神国主義者は神国主義者と戦わないと考えていらっしゃいませんか? そんなことはないんですよ。そりゃあ、この土地の外の世界のメディアが流す情報では、神国主義者は人間至上主義者と戦ってばかりいますけれどね。そもそも、アーガミパータは、神と神とが争い合っていた土地なんです。だから、その争い合っていた神と神とによって支配されていた、それぞれ別々の神国主義者達は、人間達だけになった今も、やはり争い合っている、そんなケースもないわけではないんです。まあ、とはいえ、神国主義者は普通であれば人間至上主義者に対して団結するものなので、よほど集団間の憎しみが強かったりだとか、そういうごくごく稀なケースに限られてきますけれどね。

「その戦場も、そういったごくごく稀なケースでした。なぜ、今の今まで、そういった憎しみが続いたのか。それはですね、その二つの集団の間で、延々と、一つの聖地の奪い合いをしていたからです。その聖地がどちらの神に属するものか。それを巡って、二つの集団は神々の時代から争い合っていたんです。あはは、その感情の象徴となるような、目に見える具体的な物質が存在していると、人間の感情というものは、格段に持続しやすくなりますからね。えーと……その寺院について、ああ、そうそう、その土地というのは寺院だったのですが、その寺院については、詳しい話はしなくてもいいでしょう。ここでは、その寺院にまつわるところの、ありきたりな虐殺の歴史は、あまり関係のないことですからね。とにかく、その寺院は、アーガミパータに生きる神国主義者にとっては、大変神聖な場所だということだけを知っておいて下さい。

「そう、神聖な場所だったんです。そして、アーガミパータの神国主義者にとっての神聖な場所というものは――まあ、南アーガミパータはそうでもないところが多いんですけど――大抵の場合は、ヨガシュ族が出入りすることは禁じられていたんです。いや、正確にいうと、ヨガシュ族そのものというよりも、ヨガシュ族が所属することが多い、不浄なジャーティといった方がいいんですけどね。その話をするとまた分かりにくくなるので、ここでは、少しばかり話を単純化させて頂きます。

「そして、その場所も。例に漏れず、ヨガシュ族の出入りを禁止していました。立ち入ることが禁じられていたんです、まあ、実は、例外的に立ち入りが許される場合もあるんですけどね、とはいえ、それは、非常に特殊な条件を全てクリアした場合だけです。普通であれば、絶対に、立ち入ってはいけなかった。

「この悲劇は――あはは、パンピュリア演劇の伝統的な分類にのっとって悲劇と呼ばせて頂きますが――他のほとんどの悲劇と同じように、一つの矛盾が原因となっていました。その寺院は、ヨガシュ族の立ち入りを禁止していた。しかし、それにも拘わらず、その医師は、私達の物語の主人公であるその医師は、ヨガシュ族だったんです。しかも、ただのヨガシュ族ではない、その寺院に入ることが禁じられているところの、長い長いジャーティのリスト、そのジャーティのうちの一つに所属していたんです。まあ、当然といえば当然の話ですけれどね。人間至上主義者になるのなんて、大体はヨガシュ族、しかも不浄なジャーティに所属しているヨガシュ族なんですから。

「本来ならば、その医師は、医師になるのも許されないジャーティに所属していたんです。しかしながら、そういった……はははっ、定められた運命! まさに定められた運命に逆らって、医師になった。人々を救うためにね。これもまた、その方を「ヒーロー」と呼ぶに相応しいエピソードだとは思いませんか?

「まあ、それはいいとして。その医師は、本来であれば、その寺院に入ることは許されなかった。とはいえ……その日・その場所で行われていた戦闘は、まさにその寺院で行われていたんです。いや、まあ、正確にいえばその寺院そのものというよりも、その寺院の敷地内ということですがね。当たり前ですが、本当に神聖な場所では戦闘なんて行いませんよ。とにかく、戦闘が行われた地域は、ヨガシュ族の立ち入りが禁じられていた土地だった。

「とはいえ、そこでは、戦闘が行われていた。そして、人が、人が、傷付いていた。もちろん、戦闘を遂行しているところの両陣営に、衛生兵がいないわけではなかったんですけどね。その数は圧倒的に少なかったし、それに、どうやら、さほど経験を積んだ衛生兵というわけではないようだった。

「聖地で……聖地付近で、戦闘が行われているということからお分かり頂けると思うんですけどね。その戦闘は、両陣営にとっての、いわば最終戦争だったんです。今まで、第二次神人間大戦の終結によって、両陣営が神々を失ってから、ずっと続けられていた、聖地を巡る戦争。その戦争が、ようやく終わろうとしていたタイミングだったんです。そういう性質の戦争だったために、衛生兵が少なかったんです。ヴェテランのほとんどは、今までの戦いの中で死んでしまっていたし。それに、投入出来る人員は、なるべく敵を殺すための兵士にしたかったから。

「我らが「ヒーロー」は、我慢が出来なかった。目の前で人が死んでいくのを、ただただ見ていることなんて、出来なかったんです。だから、立ち入ることが禁じられているにも拘わらず、その場所に飛び込んでいったというわけなんです。患者の、人間の、命を救うためにね。

「その医師が何をしたのかということは、いちいち申し上げなくてもいいでしょう。その医師は、自分がするべきだと思い込んでいることをしたんです。つまり、戦場で、命を救っていった。その戦場に入ることが許されているわけではなかったにも拘わらず。命を救うことさえ、その医師が所属しているジャーティには、許されていなかったにも拘わらず。

「その医師は、自分が救った命の数なんて数えていなかったんですけどね。もう少し後になって触れることになる、とある理由から、その医師がその日に救った命の数は三十四だったということが分かっています。三十四人の人間の、命に関わるような傷を、治療したということです。そして、しかも、幸いなことに。その医師がその戦場で殺されることはありませんでした。確かに、その医師を殺そうとした人々というのは――あはは、患者さんも含めて――数え切れないほどいたんですけどね。それでもその医師は生き延びた。生き延びて、その戦場から脱出することが出来た。まあ、追い出されたといった方が正しいかもしれませんがね。

「さて、そのようなことがあった後で。その戦場で、奇妙なことが起こりました。聖地を巡る戦闘が一時的に中断したんです。どちらの集団も、相手の集団の構成員を殺そうとすることをやめて。そして、その戦場には、不気味なほどの沈黙がひたひたと充満しました。一体、その戦場に、何が起こったのか? いや、それは……沈黙ではありませんでした。よくよく耳を澄ませてみると。両陣営から、声が聞こえてきたんです。その声は、意味のある言葉をなしているわけではありませんでした。ただただ、泣き叫ぶところの、慟哭の声だったんです。

「それは、聖地が汚されたことに対する、抑え切ることの出来ない、あまりにも大き過ぎる、悲しみでした。ヨガシュ族の、しかも不浄なジャーティの人間が聖地に入った。それによって、拭い切れないような穢れが聖地に刻印されたわけです。あはは、まあ、あくまでも、嘆き悲しんでいる人々の主観的にはということですがね。神々自身はね、その神がゼニグ族の神だったりヨガシュ族の神だったり、そういったよっぽどの理由でもなければ、ヨガシュ族かゼニグ族かなんて気にしませんよ。砂流原さんは、台所でゴキブリを見つけて、さて殺そうって時に、そのゴキブリがチャバネゴキブリなのかクロゴキブリなのか気にしますか? そんなこと気にしないで、ささっと殺してしまうでしょう? それと同じですよ、ゼニグ族だろうがヨガシュ族だろうが、肌の色が白かろうが黒かろうが、どっちにせよ下等で不浄な生き物であるということには変わりがないということです。

「とはいえ、ですよ。ゴキブリからすれば、ゴキブリ自身からしてみれば。チャバネゴキブリなのかクロゴキブリなのかという違いは、大変重要な違いであるわけです。自分が、清浄なるチャバネゴキブリに属しているのか……それとも、あの唾棄すべき、不浄の生き物、クロゴキブリに属しているのか。それは、ゴキブリとして生きる生命の、根幹に関わってくるわけです。

「聖地での戦闘に参加していた兵士達は、まあ、当たり前のことですが、皆が皆、ゼニグ族でした。しかも、ゼニグ族の中でも特別に真聖とされるジャーティに所属していた人々でした。真聖というか、なんというか……そういう聖なる戦い、聖戦を戦うべく定められたジャーティの人々だったんです。つまり、チャバネゴキブリの中のチャバネゴキブリ、その羽の色は茶色を通り越して透き通るように美しい白、ホーリー・セイント・ホワイト・コックローチとでもいうべき人々だったということです。

「そんな聖なる人々が。今まで生きてきた自分の人生の全てを懸けて、そのためだけに生きてきたといっても過言ではない、聖なる聖なる戦いの中で。普通であれば命に関わるような傷を負って倒れた。何よりも清い場所で倒れ、自分の血液が、その大地に染み込んでいく。ああ、自分は、ここで死ぬのだ。とはいえ、自分の犠牲によって……きっと、聖地は、正当な所有者の物に、こちら側の集団の物に、なるだろう。そうであるならば、自分の人生は――聖地のために戦い、聖地のために死んでいく、この人生は――他のどんな人生よりも、幸福なものだった。まるで聖骸布のように体を包み込む名誉の感覚。その感覚とともに、絶対的な幸福の感覚とともに、まさに、その一匹のHSWC――ホーリー・セイント・ホワイト・コックローチのことです――が、死のうとしていた時に。あの医師が、我らが「ヒーロー」が、現れたんです。

「不浄なるクロゴキブリ。本来であれば、この場所に立ち入ることさえ許されないはずの、汚らわしい生き物。そのクロゴキブリが、せっかく、幸福の絶頂の中で死のうとしている兵士の体に触れる。その触れられたところから、クロゴキブリの穢れは兵士に伝染していって。美しい白い羽が、汚穢の黒で濁っていく。その黒は、兵士を包み込んでいたはずの名誉を、取り返しがつかないほど腐らせていって――しかも、それどころか、何よりも許せないことに――聖なる犠牲として捧げられたはずの、その兵士の命を。神々のもとに向かうはずのその命を、その神々の手のひらから、奪い返そうとしているのだ。

「兵士は必死に抗った。というか、抗おうとした。けれども、死にかけているその体は、まともに動きさえしないのだ。兵士の聖なる体は、無残にも汚されていき。そして、その命は、神々のもとから、この世界へと、無理矢理に引き戻された。兵士は、医師によって、治療されてしまったのだ。取り返しがつかないくらいに治療されてしまった。その容体は安定し、体中の傷は、既に、命に別状ないほどに回復してしまった。その兵士の、人生をかけた願い、幸福の絶頂の中で死ぬという願いは、完全に失われてしまって。その代わりに残されたのは、禁じられた行いによって生命を取り戻してしまった、不浄の体だけだ。

「あはは、というわけで……実は、聖地における慟哭は、聖地が汚されたことによるものだけではなかったわけです。それだけではなく、聖なる戦士、神々への捧げものとして死んでいくことが出来たはずの兵士達が、その死を奪われたことに対する、絶望の嘆きが含まれていたんです。

「その嘆き、その苦痛が、どれほどのものであったかというと。そうですね、うーん、そのどれ一つとして致命傷ではない傷、全身のいたるところを切り刻まれて。その傷の一つ一つに、薄汚い浮浪者の膿を塗り付けられて。そのままどぶ沼の中に放置される、そんな苦痛だったんじゃないでしょうか。あはは、まあ、簡単にいうと生きながらに腐っていくという絶望感ですかね。確かに、生きている。確かに、命は救われた。けれどそれだけなんです。その兵士達の肉体は、既に汚されてしまった。不浄なジャーティに属する我らが「ヒーロー」が、禁じられた治療行為によって、その兵士達の真聖を、永遠に汚してしまった。だから、もう、その兵士達は、神々のために死ぬことが出来ない。不浄の身を、神々に捧げることなんて、出来るはずがないから。

「えーとですね、繰り返しになりますが、神々はそんなことは気にしません。それどころか、その兵士が、真聖なままで、聖地の奪還のために命を落とそうとも。その命が、果たして神々の祝福を得ることが出来るか。あはは、怪しいものですね。人間という生き物は、とかく聖地のために死にたがるものですから……聖地のために死んだ人間をいちいち祝福してたら、祝福がいくらあっても足りませんよ。

「とはいえ、それはあくまでも客観的な事実に過ぎないんです。兵士達の主観とは全く異なったものであり……そして、往々にして、人間の幸福というのは、客観ではなく主観に依存するものです。兵士達の主観では、兵士達は、聖なる生き物だった。神々に祝福されることが許された、HSWCだったんです。それなのに、汚らわしいクロゴキブリによって、そのクロゴキブリと同じくらいに不浄な生き物とされてしまった。

「あはは、その兵士達が、人間至上主義者のように、肉体可動性信仰の狂信者であればよかったんですけれどね。そうであれば、生きているというそれだけのことで、宗教的な満足感を得られたでしょうから。しかしながら、残念なことに、兵士達は精神異常者ではありませんでした。全く正常な、全く健常な、常人だったんです。だから、自分達について、全く冷静、常識的な結論を出すことが出来ました。つまり、兵士達は、もう生きる価値がない。もう生きていてもなんの意味もない。そういう結論です。

「だってそうでしょう? 兵士達がそのために生きてきたところの目的は、失われてしまったんです。その目的のために生きることは――死ぬこともですが――絶対に出来ない。それならば、兵士達はなんのために生きているんですか? なんのためにでもありません、ただ生きているんです。ただただ生きている。それは、イコール、生きながらに死んでいくということです。そうであるならば、もう生きている必要はない。いや、それどころか、これ以上生きていてはいけない。これ以上生きていれば、より一層汚れてしまうだけだ。ということで、兵士達は死ぬことにしました。

「戦闘が奇跡のように停止したその日のことです。両陣営の慟哭の声。絶望のゆえに自らの胸を引き裂いて、肋骨を抜き出して、そして、その中の肺を握り潰してしまったような声。それが、夕方頃になって、ふと、止まりました。戦場全体が、まるで夢を見ない眠りのように静寂に包みこまれて。その後で、両陣営から……兵士達が出てきました。

「脚が残っている者は歩いて、腕が残っている者は這って。脚も腕も失ってしまった者は、他の兵士によって背負われて。今まで行われてきた戦闘によって死んだ聖なる戦士達の死骸によって、ほとんど覆われるほどになった聖地までやってきました。両陣営の、それぞれの兵士達の間には、一切の争いはありませんでした。それどころか、あの陣営にも、この陣営にも、違いはなかった。どちらの陣営に属する兵士達も同じように汚されて、同じように生きる目的を失った。全く同じ絶望を共有する者同士だったんです。だから、兵士達は、一つでした。平和なまでの静寂のうちに一つでした。

「聖地までやってくると、兵士達は、どちらの陣営に属しているかに関係なく、一つの大きな集団を作りました。その集団、兵士達の人数は三十四人。あはは、そうです。この集団の全員が、医師によって命を救われた者達で。だから、私達は医師が治療した兵士達の人数を知ることが出来たわけですね。とにかく、その三十四人は、一人一人が禅那の姿勢――あるいは、残った肉体で取りうる限り、禅那の姿勢に最も近い姿勢――をとって。そして、巨大な輪を作るようにして、戦場に座りました。

「一人につき一つずつ、兵士達はグラハを持っていました。えーと、砂流原さんにとってはキフィっていった方が分かりやすいですかね。ちなみに、キフィというのはケメト・タアウィ語で「燃え盛るもの」、あるいは「香料」を意味する言葉です。そして、グラハというのはジャーンバヴァ語で「保持するもの」、あるいは「星」を意味する言葉。このように元の意味は違うのですが、どちらにせよ、魔学的な用語として使われる場合は同じ意味を表すのであって、それは「内部に何かしらの魔法を閉じ込めた魔学的なエネルギー」という意味です。

「例えば第一次神人間大戦だとか、そういった遥か昔には、純粋な魔学的エネルギーに魔法を包み込んで、任意のタイミングで呪文だとか真言だとか聖句だとかを唱えることでその魔法を発動させるという、非常に原始的な仕組みの武器だったそうですけれどね。混合法則学が発達した現在では、ほとんど普通の手榴弾みたいな形になってしまっています。細かく砕いたマギメタルだとか魔玉だとかを入れて、それらを複雑に反応し合わせることで、魔学的な力を発生させて。それによって、使用者に魔力と精神力とがなくても魔法を発動出来るようにしているわけですね。

「とにかく、そういったグラハを……魔学的な手榴弾を、その兵士達は持っていました。そして、全員が、輪になって、座り終わると。兵士達は、おもむろにグラハを取り出しました。そして、一言か二言か、それに閉じ込められた魔法を発動させるための真言を口にすると。その直後に、三十四人の兵士達、その全員が、燃え盛る炎に包まれたのです。

「それは、いうまでもなく、ただの炎ではありませんでした。人間の表面的な肉体、それだけを燃やすところの、物理的な炎などではなく。形而上学的な炎、つまり、セミハの炎でした。あはは、まあセミフォルテアとまではいかなかったでしょうけどね。とはいえ、それが肉を焼くための炎ではなくスナイシャクを焼くための炎であったのは確かです。

「砂流原さんは、セミハの炎に焼かれたことがありますか? ふむ、ちょっとばかりお顔を拝見した限りでは……どうやら、ありそうなご様子ですが。あはは、そのことについては話したくありませんか? そうですか、まあ、それはそれでいいんですけれどね。とにかく、砂流原さんもご存じだと思いますが、セミハの炎に焼かれるというのは尋常じゃないほどの苦痛を伴う経験です。私も、何回か焼かれたことがあるんですけどね、あはは、あれだけは何度経験しても慣れるものではありません。なんというか……こう……その炎が、皮膚の表面に当たっているにも拘わらず、骨の髄が蒸発しているような。あるいは、そうですね、それは激痛にまで高められた恐怖といった方がいいかもしれません。セミハの炎に焼かれるというのは、それほどまでに耐え難いことなんです。

「そうであるにも拘わらず、三十四人の兵士達は、その中の一人たりとも悲鳴を上げることはありませんでした。真聖なる炎に全身を包まれて、生命の根底から焼き尽くされて。それでも身動き一つせず、凍り付くような禅那の姿勢のままでじっと座り続けていたんです。そこには苦しみも痛みもなく、かといって、喜悦や快感やがあるというわけでもありませんでした。そこには、何もありませんでした。ただただ、不浄なジャーティによって汚れてしまった自分達の全てを清める、それによって、身体のミクロコスモスと世界のマクロコスモスとが通じるようにして、聖地をも清めようとする。そのような、透徹した信念があるだけでした。

「焼身の儀式は十数分続いたということです。まあ、その十数分の間、それらの兵士達がずっと生き続けていたというのはありそうにない話ですけれどね。とはいえ、少なくとも、セミハの炎は十数分の間燃え続けたということです。それから……全てが灰になりました。三十四人の兵士達は完全に焼き尽くされて。その場所には、ただ灰だけが残って。そして、その灰さえも、風に吹かれて、空の方向に消えていったそうです。

「私は……まあ、職業上、自殺と関わり合いになることが多いんですけどね。はははっ! 自殺と関わり合いになることが多い職業ってなんか面白いですね。それはそれとして、実に様々な方法で、人間という種類の生き物が自ら命を絶つ時には。その自殺の方法ごとに、その自殺にはどのような意味があるのか、その自殺者は、その自殺によって、何を主張したいのか。そういったことが、なんとなく分かってくるものです。自殺もやはり社会における一つの記号ですからね。

「例えば、それが塗り潰したような闇夜に、血管の一本一本までもが凍り付いてしまいそうな真冬の海に向かって行われた投身自殺なのであれば。それは、その自殺者が絶望し切ってしまっていたがゆえの、深い深い泥濘のような自殺である場合が多い。生きるということさえも出来ないほど気力を失い、永遠の暗黒へと一歩を踏み出した。そういった意味合いを持つということです。

「一方で、その対極にあるといってもいいのが焼身自殺でしょう。焼身と投身と。あはは、韻が踏めるくらい似ていますがね、その意味するところはかけ離れています。燃え盛る炎によって焼き尽くされる死……しかしながら、自殺者にとっては、自らの命を燃やすことによって、世界を焼き尽くそうとする行為である場合が多い。それは、本質的には、自分を殺す行為ではないんです。そうではなく、世界に、というか、自分が抗議したい相手に、その炎によって少しでも傷を負わせようという行為なんです。

「あはは、そうなんです、抗議だったんですよ。三十四人が死んだ、その焼身自殺も。やはり抗議の自殺だったんです。何に対する抗議だったのか? いうまでもありませんね、自分の命を救ったことに対する抗議です。これ以上を望むべくもない、最高の死。人生の目的に到達し、栄光の中で人生を終えるという、その死を、奪ったことに対する抗議です。もっとはっきり言ってしまえば、我らが「ヒーロー」の、どうしようもないくらい自分勝手な行いに対する抗議だったんです。

「兵士達は、命を救って欲しいと望みましたか? たった一言でも、その医師に対して、死にたくないと言いましたか? そんなことは言っていません、言っているわけがない。事実は、その反対です。何度も何度も、その治療を拒否した。怒り、激怒し、その医師を殺そうとさえして。嘆き、叫び、その手から逃れようとして。懇願しさえしました、触らないでくれ、このままにしてくれ。聖なる戦士のままで死なせてくれと。それにも拘わらず、その医師は耳を貸さなかった、残酷にもその懇願を無視し、無慈悲にもその兵士の命を救ったのです。

「そう、そうなんですよ。その医師は自分勝手だったんです。身勝手だった、三十四人の兵士達に関していえば、その治療は、決して、絶対に、何があっても、それらの兵士達のために行われたものではなかった。自分のため、自己満足のために行われた治療だったんです。自分自身が狂信者として信じている肉体可動性信仰、その信仰の犠牲として、三十四人の「生きる意味」を捧げた。その医師は、貪欲にも、三十四人から全てを奪い取ったんです。この焼身自殺は、あまりにも醜いその貪欲さに対する抗議だった。

「さて、そうであるとするのならば……その抗議に対して、その医師はどのように反応したんでしょうか。自分がした治療のせいで三十四人もの人間が幸福を奪われて、そして、あらゆる生きる意味を失ったままで、凄まじい苦痛とともに死んでいった。もしも、この医師に、良心というものが欠片でもあるのならば。他人への共感の心が欠片でもあるというのならば、「正しさ」の方向に向かっていこうという明確な意志が、欠片でもあるのならば。自分のその行為に対して、当然ながら、なんらかの反省をしてしかるべきです。だってそうでしょう? 命を懸けてまで抗議をした、その抗議を、真摯に受け取らないなんて。そんなことが出来るはずがない。あはは、そんなことが出来るはずがないんです……普通ならね。

「しかしながら、ここまで何度か申し上げてきた通り。その医師は普通の人間ではなかった、狂信者だったんです。社会不適合者であり、精神異常者であり、もう少し分かりやすい言葉を使うならば、気違いだった。他人への共感の心なんて一切なく、自分自身が気持ちよくなれればそれでいいという生き物。自分が信じているものだけが完全無欠の真理であって、それ以外のものは、一切が間違っている。だから、自分の行為を否定する者は、それがどんなに正当な抗議であっても、それがどんなに切実な抗議であっても、絶対に認めない。そういう人間だったんです。それゆえに……三十四人の命を賭した抗議を受けても。その医師は、もしかしたら自分は間違っているのかもしれないなんて思いもしませんでした。

「あはは、えーと、ここで勘違いして欲しくないのですが、私は医師がした行為が間違っていたと言いたいわけでも、その反対に正しかったと言いたいわけでもありません。この問題は……一つの集団に共有されている価値観と別の集団に共有されている価値観とがぶつかりあった時に発生するあらゆる問題がそうであるように、非常に、非常に、微妙な問題ですからね。そういった問題に対して、たった一人の人間が、恣意的に、その当否を決定することなんて出来るわけがありません。とはいえ……それが、間違っていたのかもしれないとさえ思わないというのは、明らかにおかしいことだ。そう主張したいんです。

「その医師は、その抗議に、どう反応したか? 私は、たまたま……集団焼身自殺についての話をその医師が聞いた時に、その医師の近くにいたんですけれどね。というか、その医師にその話をしたのは私だったんですが。それはともかくとして、その医師は、暫くの間、私が何を言っているのか分からないようでした。呆然としたような顔をして、それから、顔色が、すーっと青ざめていって。あはは、まあ、その方はヨガシュ族ですから、青ざめていくというのはあくまでも比喩的な表現ですがね。なんというか、血の気が引いていくというか、表情が透明になっていくというか。口がぽかんと開いたままで、それなのに呼吸は止まってて。そして、その暫くの間が過ぎた後で……ようやく、私が何を言っているのかということが理解出来たようでした。

「その医師は、その場に立っていられなくなりました。ふらりとよろめいて、近くにあったベッドに、倒れこむみたいにして腰掛けました。あはは、とても簡易な軍事用ポータブル・ベッドだったので、その医師が座り込んだ時に、まるで衝撃でばらばらになってしまいそうな、ぎしっという音を立てたのを覚えていますよ。それから、その医師は、両方の手のひらで自分の顔を覆って。俯いたままで、全く動けなくなりました。

「いやー、あはは、さすがに、私としても、どう慰めていいやら分からなくなりましてね。とにもかくにも、その医師が座っているベッドに私も腰掛けて。それから、その医師の肩に腕を回して、そっと抱き寄せてみはしたのですが。それでも、その医師は、一言も発することが出来ないままでした。まあ、その医師も……まだ二十代、しかも私よりも年下でしたからね。少女とはいわないまでも、そういった経験を正面から受け止めるには若過ぎたのでしょう。そんな風に、私もその医師も、口を開くことなく、ただただベッドの上に座っていました。

「大分時間がたってから。その医師は、ようやく、ある種の爬虫類が冬眠から覚めるようにして動き始めました。顔から、両手を離して。まるで凍えているかのように小刻みに震えている両手を離して……静かに、静かに、私のことを見上げました。それから、口を開いて。死にかけた人が、最後の吐息を吐き出すみたいにして、こう言ったんです。「神々が、神々さえ、いなければ」「私達は、人間は」「こんな風に死ななくて良かったのに」。

「その方の言った「こんな風に死」ぬということが、三十四人の焼身自殺のことを指していたのか、それともアーガミパータという終わりなき地獄の中で絶望とともに死んでいったあらゆる人間の死を指しているのか、それは分かりませんけれどね。ただ、それは、ここでは大して重要なことではありません。その医師の言葉が持っている、最も重要な意味は、つまり次のような意味です。その医師は、その三十四人の死について、自分に責任があるとは思わなかった。自分が悪いかもしれないなんて、疑いもしなかった。それどころか……それらの死は、全て、憎き神国主義のせいであると、百パーセント断定したのです。

「あはは、そうなんです。その医師にとって、起こってしまった悪いことは、全て神国主義のせいなんです。この世界のあらゆる悪は、人間至上主義者を――そして、もちろん、幼かった頃の自分を――抑圧するところの、神国主義という思想なんです。自分は悪くない。自分が信じる人間至上主義という思想が間違っているわけがない。そう思い込んでしまっているわけなんです。

「まあ、まあ、もちろん私だって認めないわけではありませんよ。そういう論理が成り立たないわけではないということは。そもそも自殺した三十四人の兵士達が、その医師と同じように肉体可動性信仰の信徒であったならば。きっと、というか確実に自殺なんてしていなかったでしょうからね。それ以前の問題として、アーガミパータから神国主義というものが完全に消滅して。サヴィエトだとか愛国だとか、あるいはEUだとかみたいな、全体主義的な人間至上主義社会であったならば。聖地を巡る戦闘なんていう、一種の馬鹿げたお祭りが起こることもなかったわけです。そうであるならば、その焼身自殺が神国主義のせいであるという主張も、全然あり得ないことではないわけです。

「とはいえ、とはいえですよ。それは、あくまで人間至上主義の立場に立った場合の論理に過ぎないわけです。盲目的なまでに実存を信じ、盲目的なまでに構造を疑う、人間至上主義の立場に過ぎないわけです。あらゆる価値観は相対的であるために、人間の行動の基準とするにはあまりにも不完全である。だから、この世界において信じるに足るものは自分自身しかいない。そういう前提がなければ、肉体可動性信仰なんて信じることが出来るわけがない。なぜなら、肉体可動性信仰とは、要するに、自分以外のあらゆるものには相対的な価値しかなく、自分自身にこそ絶対的な価値がある。だから、例えどんな形であっても、自分自身を保持しなければいけない、そういう考え方がその裏に隠れているからです。

「けれども、その考え方は、根本的におかしい。なぜなら、人間は、ただ生きているというだけでは幸福になれないからです。集団の持つ関係知性、その中の一部になったという確かな感覚がなければ、意識というものは幸福を感じることが出来ない。そう、生命と幸福ととは別物なんです。そうであるならば、人間は、生命を追い求めるのであってはいけない。絶望と生きていく、苦痛と生きていく、生きながらにして腐り続ける、そういった人生を避けるためには、生命ではなく、幸福を追い求めなければいけない。

「こう考えるならば、焼身自殺した三十四人の主張は、それなりに正当なものであるということが出来るんです。そして、この考え方、この論理は、その医師が結論したところの人間至上主義的な論理に対して反論するものであるわけです。いうまでもなく、この反論に対する再反論もあり得るでしょう。しかしながら、その再反論に対する再々反論もあり得るわけです。こうして、ある集団の価値観と別の集団の価値観とは、永遠に相克しあう。いつか「正しさ」に辿り着けるその日まで議論をし続けるわけです。

「その医師がしたことはですね、つまり、その議論の可能性を最初から潰してしまったということなんです、自分が善きものだと信じ込んでいるイデオロギーを疑うことさえせずに、自分が悪しきものだと信じ込んでいるイデオロギーが全て悪いと決めつける。三十四人の自殺は……そもそも、その決めつけの態度、押し付けの態度に対する抗議だったというのに。そのことに対する反省さえせずに、神国主義がその三十四人を殺したのだという、人間至上主義が全てを解決するのだという、確信だけを護持し続ける。

「なぜ、その医師がこんな態度をとってしまったのか分かりますか? あはは、そうです、そういうことなんです。これこそが、医師の行動の根底にあるのが「名誉への欲望」であることの何よりの証明なんですよ。もしも、その医師が、「正しさ」を追い求めるがゆえに治療行為を行っているんだとしたら。当然ながら、自分が間違っていたのではないかと、常に考え続けているはずです。「清めの欲望」がその行動原理であるのだとすれば、自殺した三十四人の抗議について、そこから、何かしらの気付きを得ていなければおかしい。

「あるいは、そんな欲望があるのだとして……ただただ、命を救いたいという純粋な欲望から、この医師が治療行為を行っていたのだとしたら。それならば、自分が治療した三十四人が、三十四人もの人間が、自ら「命」を絶ってしまったという事態について。一体どうしてこんなことが起こったのかということを、もっと真剣に考えているはずです。もしも、「命」を救うことこそが、自分にとって一番重要なことであるならば。その重要なことを失敗に導いてしまったところの、人間至上主義の押し付けについて、もう少し真剣に反省していないといけないでしょう。だって、その「命」を救うことというのは、人間至上主義より大事なんでしょう? それならば、人間至上主義を捨ててでも、何かしらの方法、今後、この三十四人のような犠牲者を出さなくて済むような方法を考えなければいけないんですよ。例えば、自分をゼニグ族に見せかけるようなシェイプシフトの魔法を身につけるとか……なんでもいいですけど、そういう方法を考えなければいけないんです、普通ならね。

「けれども、その医師は、そういうことを一切しなかった。その医師がしたことは、ただ一つです。なんの建設性もない行動、神国主義を非難するという行動だけ。ああ、そうそう、この件がきっかけで、その医師は神国主義者から命を狙われるようになりましてね。まあ当然ですよね、聖地を汚して、これだけの人間を自殺に追いやって。とにかく、さすがにそれ以上はアーガミパータにいられなくなって、EUに亡命したんですけれど。その後は、アーガミパータを救うためには、一人一人の病気や怪我やを治療するのではなく、神国主義という病を治療しなければいけないという信念のもとで、様々な言論活動を行っているそうです。

「簡単にいえば、この医師の思考の焦点は、自分自身の内的世界に完全に固着してしまっているんです。自分の定規でしか物事を測ることが出来ない、自分の定規がもしかしたら歪んでしまっているのかもしれないなんて考えることさえ出来ない。自分が……自分こそが、この物語の主人公であると、信じ切って疑うことさえしないんです。だから、その、自分が主人公であるところの物語を、他人に対して押し付けて。この世界の全てを、その物語で覆い尽くそうとしている。そうすることによって、自分こそが、この世界で、誰よりも優れた存在、誰よりも重要な存在、まさに不可欠な存在であると、信じ込もうとしている。いやはや! これこそ、まさに、何よりも純粋な「名誉の欲望」でしょう。

「と、いうことで……どうでしょうか? 私は、亡命知識人の行動原理が「名誉の欲望」であるということについて、具体的な事例を示すことが出来たでしょうか? 私自身はそうすることが出来たと考えているんですけれどね。私達が、まさに、この人こそ「ヒーロー」だと考えている人間。自分の命などかなぐり捨てんばかりの献身で、他人の命を救ってきた一人の医師。その医師が、実は、他人の命などどうでもよく、その「他人の命を救ってきた」というレッテル、名誉のレッテルこそが、本当に求めていたものであると。そういう事例を示すことで、人間至上主義者が「ヒーロー」と呼んでいる人間は、実は名誉の強盗であるということを証明出来たのではないでしょうか?

「あはは、そう、「ヒーロー」は……決して、人間的に優れているわけではないんです。例えば、痛みに鈍感だったり、苦しみに鈍感だったり。あるいは、これから先、自分が陥る可能性がある危機的状況に対する危機感が、少しばかり欠如していたり。あるいは、その反対に、名誉に対する欲望が、恐ろしいほど発達していたり。そういった、人間としての奇形的状態にあるというだけなんです。決して、何か、人間的に素晴らしかったり、この世界をより良くすることが出来る革新的な思想を持っていたり。そういうわけではないんです。

「ありていにいえば、ちょっとおかしいんですよ。だから、おかしいことが出来るんです。そして、そのおかしいことは、全て、全て、他人からの承認を、一つの関係知性における名誉を、獲得するという、それだけのために行われている。だから、私達は、その「ヒーロー」が、名誉を与えられるに足る何者かだと考える。そして、そこから自然と、それだけの名誉を与えられるほど優れた思想を持っている何者かだと考えてしまう。

「これが、人間至上主義が抱える問題の、最も基本的な部分にあるシステムなんです。あのですね、これはもう一度申し上げたことですが、馬鹿が馬鹿なことをするのはなんの問題もないんですよ。誰もが、その馬鹿は馬鹿であると理解出来るから。馬鹿が馬鹿であるというのは、なんらかの物理的な問題です。例えば、少しばかり脳に欠陥があるのか、あるいは恵まれない場所・恵まれない時間に生まれたがゆえに、教育の程度が低過ぎたのか。そして、そういう物理的な問題ならば、少なくとも、私達は、解決しようと考えることが出来る、解決するべき問題であると考えることが出来る。

「しかし、「ヒーロー」は解決出来ない。そもそも解決しようと思えない。だって、「ヒーロー」なんですから。どうして「ヒーロー」を解決しなければいけないんですか? むしろ、私達は、「ヒーロー」によって解決しようと思うでしょう。「ヴィラン」という問題でも、その他の危機的状況でも、なんでもいいですがね。私達は、「ヒーロー」こそが問題だとは考えない。しかしながら、まさに、「ヒーロー」こそが問題なんです。もっと分かりやすくいえば、「ヒーロー」が馬鹿であることが問題なんです。

「ご覧になって下さい。あらゆるメディアを。新聞でも、テレビでも、あるいはSCSの中でさえも。「ヒーロー」「ヒーロー」「ヒーロー」、「ヒーロー」が散乱しています。人間が作るメディアというものはね、「ヒーロー」のことしか取り上げないんです。もちろん、ここでいう「ヒーロー」というのは、自分の命を投げ打ってまで、悪人と戦ったり、誰かを救おうとしたり、そういう人々のことだけを指すわけではありません。例えば、権力の支配に対して一市民の立場から反対の意見を表明する方だとか、とある悲劇的な事件の被害者だとか。人間至上主義という物語において主人公となりうる方々のことです。

「そう、物語なんです。誰もが参加している物語、誰もが主人公である物語。人間至上主義とは、そういう物語なんです。そして、その物語の中で、人間は、感動と憎悪とを消費する。物語というものはね、砂流原さん。面白くなければいけないんですよ。そうでなければ、誰も見向きもしない、見たり聞いたりしたとしても、記憶にも残らない。何か困難があって、それを乗り越えるという感動。分かりやすいヴィランがいて、そのヴィランの悪行を憎悪する。そういうイベント、私達に感動という快感・憎悪という快感を提供するイベントがないといけないんです。「ヒーロー」を輝かせることが出来るイベントがないといけない。

「けれどもね、砂流原さん。この世界は、物語ではない、現実です。イベントが起こらないこともある、イベントが起こらない人生だってある。人間は、そういう、退屈に耐えられない。だから、無理やりにイベントを起こすんです。どうでもいいような、取るに足らないことを、イベントにしてしまう。どうでもいい、ちょっとした障害を、艱難辛苦に仕立て上げたり。大した悪いことをしていない人間を、憎むべきヴィランに仕立て上げたり。そうして、そういうイベントを、大袈裟にクリアしてみせることで、自分自身が物語の主人公であると実感しようとするんです。

「そして、主人公になるためには、まずはその前提となる物語を無条件に受け入れなければいけない。物語を疑ってはいけないんです。それでは、その物語とは一体どのような構造をしているのか? もちろん、それは「自分自身こそがヒーローである」という構造です。そして、この「自分自身こそがヒーローである」という構造こそが、他のあらゆる構造を疑い、自分自身の実存だけを信じるという、最悪の思想の根源にあるものなんですよ。

「先ほども申し上げた通り、ここでいう「ヒーロー」とは、亡命知識人のように極端な「ヒーロー」である必要はないんです。既存の体制に抵抗する。自分たちが所属している世代よりも前に存在していた世代が、営々と作り上げてきたところの、あらゆる価値観に反旗を翻す。そうして、自分自身が絶対的な「正しさ」だと思っている、しかしながら、実際は、その誰かが所属している集団において採用されているに過ぎない大変ローカルで大変テンポラリーな価値観だけが正当なものであると思い込む。そういう狂信者達のことを、「ヒーロー」と呼んでいるんです。

「こういう狂信者達は……まあ、大抵の場合は、自分が今まで鬱々として抱えてきたところの感情、例えば親に何かを強制されたりだとか、教師に何かを強制されたりだとか、上司に何かを強制されたりだとか。そういう場合に感じたマイナスの感情を、その本来的な対象であるはずの「親」「教師」「上司」だけではなく、それらの対象が持っていた価値観にまで広げてしまい、そのために、本来は有益な部分もあるはずの価値観を、そのマイナスの感情によって全面的に否定してしまっていると、そういう場合が多いんですけれどね。あはは、驚くほどの単純さだと思いますか、砂流原さん。ただね、これもまた、掘り下げると、少しばかり複雑な話になってくるんですよ。

「第一次神人間大戦が、ノスフェラトゥとトラヴィール教徒との陣営の勝利に終わると。神々は、人間を支配するために自らが住まいする場所を、リリヒアント第二階層に移しました。それによって、神々からの支配、つまり思考ロックが弱まった。そして、更に、第二次神人間大戦によって、神々が、ナシマホウ界へのヴェッセルを完全に閉じてしまうと。人間に対する思考ロックは、完全になくなった。さて、この過程で……人間の思考は完全に変化しました。つまり、人間を支配するための権力が、一部の地域を除いて、神々から人間へと移動したんです。

「また、これは以前も申し上げましたが、二つの戦争は、人間が持つ技術の大規模な進歩をもたらしました。つまり、簡単にいえば、人間は賢くなったんです。あくまでも技術的には、という限定は付けなければいけませんが、それでも、非常に賢くなった。例えばEUにおいては、福祉体制が整い、義務教育が取り入れられ、しかも食料は有り余るほどになった。

「この二つの、ほとんど物理的な要素といってもいいような要素のせいで。ある世代から次の世代へ、そしてまた次の世代へと、世代が進めば進むほど、人間としての傲慢さは強くなり、また、技術的な側面における頭の良さも増大していった。それゆえに、ある世代が、前の世代に対して向ける視線というものが、非常に軽蔑的な色合いを帯びるようになってきたんです。前の世代よりもこの世代の方がこの世界をより良くする力があるという世代的な了解が立ち現れてきたということですね。しかも、それだけではなく、不完全な社会性を持つ生物に特有の、自分だけでなんとかしないといけない、自分だけで新しい社会を作らなくてはいけない、そういう強迫観念のような独立心もある。だから、前の世代は、劣った世代だと考えるようになってきた。

「そういうわけで、狂信者達は……えーと、人間至上主義の狂信者達はということですが、自分達こそがヒーローであると考えるようになっていった。そして、自分達の思想の方が、前の世代の思想、つまり劣った者達の思想よりも優れたものだと考えるようになってきた。しかしながら、先ほども申し上げたように、後の世代が優れている……というか頭が良くなっているのは。あくまでも、技術的な側面に過ぎないんです。それどころか、よくよく考えてみれば。思想的には後の世代になればなるほど、低俗なものになっているはずなんです。だって、そうでしょう? 後の世代になればなるほど、神々の、つまり人間よりも完全な生き物の作った思想からは離れてしまっている。それだけでなく、より一層、傲慢になっている。不完全な生き物、下等知的生命体に過ぎないところの人間に、より確信を抱いてしまっている。そうであるならば、後の世代の方が、より下等な生き物になっている――あくまでも思想面で――というのは疑いのないことじゃないですか。

「そういうわけで……ああーっと……いや、いや、失礼しました。ちょっと話がずれてしまいましたね、なんの話をしていたんでしたっけ? ああ、そうそう、絶対悪としての「ヒーロー」の話から、物語の弊害の話へと、議論を進めようとしていたところでしたね。とにかく、「卓越」した方々は、「名誉の欲望」を満たすために、自分達が「ヒーロー」であると主張する。そして、その過程で、自分達が所属している内的原理を絶対的なものとして肯定してしまう。あはは、そうしないと、自分が「ヒーロー」となるのに不都合なことになってしまいますからね。「ヒーロー」とは絶対的な正義であって、そうであるならば、それが拠って立つところの価値観も絶対的な正義でなければいけない。だから、自分が持っている内的原理は絶対的に正しい。こういう論理構成によって、「卓越」した方々は、自分達のことを不可謬であると規定する。

「そして。

「つまり。

「これこそが。

「カキストクラシー的な。

「全体主義というわけです。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る