第二部プルガトリオ #28

「アーガミパータにも、実は、いわゆる知識人と呼ばれる方々がいらっしゃいましてね。まあ、考えてみれば……当然といえば当然の話ですよね。アーガミパータの全土が絶望的な殺し合いのための一つの壮絶な舞台ではありますが、そうはいっても、舞台の上にいる役者の全員が兵士というわけではありませんから。しかも、人間至上主義勢力が介入を始めてから、もう五十年以上も経過していますからね。例えばアーガミパータにも人権派ジャーナリストはいますし、それに、敵味方の関係なく傷付いた人々の治療をする医師や、戦火を逃れてきた子供達を保護する活動に従事するボランティア。それから、自分の権利のために権力に公然と立ち向かう、勇気ある少女。そういった、まさに平和賞と名の付く各種の賞に相応しい行動をとる方々がいるわけです。

「そういった方々は、しかしながら、いつまでもいつまでもアーガミパータにいるというわけにもいきませんよね。だって、アーガミパータでは、そういった平和賞の素晴らしい威光にはなんの意味もありませんし。それに、そういった方々は、戦争の勝利に役に立つというわけでもありません。役立たず、というかむしろ有害でさえある。そうであるならば、アーガミパータにおいては、嫌悪されてしかるべき存在なわけです。ということで、アーガミパータの一般的な人々からは命を狙われることになって。殺されないように、亡命しなければいけないことになる。

「そのようにして亡命した後に、そういう人々は、アーガミパータがどんなに悲惨な状況であるのかということを世界に向かって発信しようと思うわけです。もうアーガミパータにいない以上は、直接的に関与することは出来ないわけですからね。間接的に、なんとかして平和に貢献しようとすることになる。最初のころは、テレビに出演したり、新聞のインタビューを受けたり――あはは、うちの新聞みたいな新聞ですよ――そういった行動しか出来ないわけですが。次第に次第に、こちらの生活にも慣れてきて。例えば、自分達で基金を作って、アーガミパータに援助活動を行うようになったり。あるいは、ジャーナリストとして、どこかのメディアと契約したり、本を出版したりするようになるわけです。

「仮に、そういった方々のことを……そうですね、亡命知識人とでも呼びましょうか。さて、亡命知識人はそのようにして発言力を強めていくことになります。幾つもの記事を、まあ、意見記事のようなものでしょうが、そんな記事を書いて。アーガミパータの悲劇的な状況と、その中で自分が経験したことについての本を何冊も書く。それに、こちら側の世界の大学に通って、政治学だとか社会学だとかの博士号をとったりもするでしょうね。亡命知識人というものは、とかく知的好奇心に溢れた「優秀な」方が多いですから。そして、最終的には、最も影響力のあるメディアである、SCSを始めるわけです。SINGでもフーズライフでもいいですが、情報発信の場を、そのようなコンテンツに移し始める。

「それでは、それでは。亡命知識人の方々は、そのようにして術遍く手を尽くして。果たしてどのような情報を・どのような意見を発信してきたのでしょうか。それは……あはは、そうです、その通りですよ。まさに「卓越」した方々がそう発信すべき通りの情報を、意見を、発信したのです。人間至上主義の素晴らしい優等生、お手本のような、百点満点の答案。それこそが、亡命知識人が、アーガミパータの状況に対して示した反応だったんです。

「亡命知識人の方々は、アハム・ジャナスミを支持しました。その全体主義への反抗の姿勢を賛美し、人間による人間の解放を熱烈に応援しました。一方で、暫定政府に対しては、その権力的な構造に対して懸念を表明して。周囲に対して覇権的な態度をとり始めた時には、それに反対しました。そして、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの一件に関しては、ほとんど罵倒といってもいいような痛烈な非難を浴びせました。

「その一方で、亡命知識人は。暫定政府に対して痛烈な拒否を突き付けておきながら……その暫定政府の誕生を招いた自分達の言説については、一切の反省を示さなかったのです。一言も、文字通り一言も、自分達がしてきた発信についての悔悟を口にしなかった。それどころか、暫定政府は、自分達のような亡命知識人を裏切ったとまで主張した。亡命知識人が思い描いたアーガミパータ、自由的であり、かつ民主的な、平等の理想郷。そのヴィジョンに対して卑劣な裏切りを行ったと主張したんです。

「もちろん、この主張は誤りです。暫定政府は、まさに亡命知識人が望んでいた通りに行動したわけですから。亡命知識人が、その偽善と欺瞞とに満ちた言説で糊塗する前の、本当の希望通りに行動したわけです。そのことについては、先ほど申し上げましたよね? 暫定政府は、人間至上主義者としてするべきことをしただけです。それにも拘わらず、なぜ亡命知識人達は暫定政府に対してこのような仕打ちを行ったのか。

「それには色々な理由があるでしょう。例えば、亡命知識人に、「善人」として見られたいという打ち勝ちがたい欲求があったこと。亡命知識人は、どういい繕おうと、所詮はアーガミパータから逃げ出してきた方々です。ええ、ええ、そうですね。確かにアーガミパータにとどまり続ければ、間違いなく死んでいたでしょう。ただ、それがどうしたっていうんですか? 死ぬというのならば死ねばいいだけの話でしょう。本当にするべきこと、アーガミパータを「正しさ」の方向へと進めていくために本当に必要なことをして、そして無残に殺されればいいだけの話です。亡命知識人は、それをしなかった。そして、それが出来なかったという罪悪感をなんとか拭い去るために、他人から「あなたは善人である」という承認、ある種の義認のようなものを欲しているというわけです。

「ただ、そうはいっても、そういう方々は……自分の命を無意味に捨てる覚悟も、他人の命を無意味に捨てる覚悟もないわけですからね。この「命を無意味に捨てる」という言葉が意味するものが「命を懸ける」という言葉が意味するものとどう違うのかということは、もう説明しましたよね? とにかく、そういう方法で、物事の根本的な解決を図ろうとは考えないわけです。

「例えば、暫定政府を非難するのならば、ごちゃごちゃいってないで、自分の体に爆弾を巻き付ければいいだけの話です。それで、暫定政府の重要拠点に突っ込んでいけばいいじゃないですか。まあ、確かに、たった一人がそんなことをしてもなんの意味もないでしょうけどね。全ての亡命知識人が、一気に攻撃を仕掛ければ。確実に何かは変わるはずですよ。少なくとも、「言論によって反抗する」よりはね。

「あるいは、政治学やら社会学やらではなく、もっと科学的であったり魔学的であったりする学問を、一から学んで。そして、アーガミパータの軍事的なバランスを一気に傾けることが出来るような兵器を開発すればいいわけです。ASKにさえダメージを与えうる兵器を開発して、それをASKとアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティとの戦闘に投入すればいい……あはは、投入すれば良かったというべきですかね。とにかく、そうすれば、ASKだって、そう簡単にはアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティに手を出せなくなっていたでしょう。しかし、亡命知識人は、そういったことを、一切しなかった。本当に、完全に、一度たりとも、そういうことをしようとはしなかった。

「要するに、亡命知識人の方々には、問題を解決しようという切実な思いはなかったというわけです。もっと正確にいうならば、他人の問題を解決しようという思いはなかった。亡命知識人にとって重要だったのは、自分の内的な葛藤から、なんとかして目を逸らすことだったんです。だからこそ、何が正しいのかということもよく考えずに、ただただ、人間至上主義的な価値観、それもしっかりと筋の通った価値観ではなく、なんとなく、ぼんやりと、皆がこういっているから自分もこういえばいい、誰かに認めて貰えるといった程度の感覚で物事を発信したというわけです。

「さて、これが亡命知識人という生き物であるわけですが……あはは、いやね、別に、私は、こういった方々を非難したくてこの話をしたというわけではないんですよ。そうではなく、こういった方々が、まさに私が問題とするところの問題の、典型的なパターンを示しているからこそ、その分かりやすい一例とするために、ここで提示させて頂いたというだけの話なんです。

「その問題とは、つまり「ヒーロー」という問題です。時折……時折、誤解される方がいらっしゃいますがね。「ヴィラン」というものは、あらゆる意味で、本質的な問題ではないんです。「ヴィラン」が持つ悪そのものという意味でも、あるいは、Aという何者かがBという何者かのことを「ヴィラン」と決めつける、その決めつけの態度としても。そのどちらも、さして問題ではない。なぜなら、それが良くないことであるというのは誰でも分かるからです。悪そのものにしても、誰かを悪であると決めつけることにせよ。それが悪いことであるというのは誰にだって分かることです。

「確かに、それが悪であるとか、決めつけであるとか、はっきりと分からないこともあります。例えば、Aという集団の内部でBが「ヴィラン」であるという共通の了解があるために、それが間違っていると指摘出来る者が誰もいなくて、結局のところ、Bが「ヴィラン」ではないと認識出来ないようなケースですね。ただし、それはあくまでも認識の問題です。それは本質的な問題ではない。なぜなら、それは、認識した瞬間に、悪いことであるということが理解出来るからです。そうであるのならば、人間存在そのものに付随する解きがたい問題というわけではない。ただ単に、その集団Aが馬鹿だというだけの話です。しかし、「ヒーロー」は違います。「ヒーロー」という概念の、絶対的な……不可謬性。そう、不可謬性。それは認識の問題ではないんです。

「亡命知識人は、「ヒーロー」です。間違いなく。この場所、アーガミパータという地獄で、自らの肉体の安全性を顧みることなく、数え切れないほどの人々を救い、あるいは希望を与えてきました。傷付き死にかけている人々を治療し、どこにも逃げる場所がない子供達を治療し。そして、このような地獄の中でも、一人の人間としての誇りを失うことなく生きていくことが出来るということを証明してみせた。そういう何者かのことを「ヒーロー」と呼ばないで、一体誰を「ヒーロー」と呼べますか?

「確かに、確かに「ヒーロー」です。ただしね、砂流原さん。非常に残念なことに、「ヒーロー」というのはただの称号に過ぎないんですよ。いや、称号というよりも……むしろ状態ですね。しかも定常的な状態ですらない、そこから如何様にも遷移しうる状態を指す言葉なんです。「ヒーロー」というのは、物理学的・妖理学的に完全に固定した、ある種の生物学的な分類項目、その生き物の種族名を指す言葉ではないんです。「ヒーロー」は、生物学的には、あくまでも人間に過ぎない。不完全で、欲望によって行動するところの人間に過ぎない。

「欲望……あはは、人間の欲望。これまでの会話の中で、私という人間は、あまりにも不用意にこの言葉を使ってきてしまいましたね。人間の感覚といった時に、それは基本的には外界からの刺激を情報として取得するための方法ではありますが、それでも、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・霊覚という感じに――まあ、この分類が正しいかどうかは置いておいて――様々な感覚に分かれていくように。欲望だって、様々な方向に分岐していく一つのdominionでしかないというのに。そうであるのならば、ここで、欲望というものがどのようにして分かれていくのか。その系統分類についての私なりの論理を提奏しておくべきなのかもしれません。

「これは、あくまでも私の意見ですがね。欲望というものは、まず、大分類として、上下方向への欲望と平面方向への欲望の二種類に分かれるのではないでしょうか。私としては、前者を本質的な欲望、後者を付随的な欲望と呼んでしまいたいところですが、まあ、それについては意見を異にする方もいらっしゃると思いますので、ここではそう呼ぶのはやめておきましょう。そうですね、一度……三次元のマトリクスを考えて頂くと分かりやすいかもしれません。上下の軸と、前後の軸と、左右の軸。この三つを頭の中に思い描いてみて下さい。そして、上下の軸を上下方向への欲望に、前後の軸と左右の軸とによって分割されるそれぞれの象限を平面方向の欲望に当て嵌めるわけです。

「まず、上へ向かう欲望ですが、これは、私が仮にcleansingの欲望と呼んでいるものです。えーと、共通語に直すならば「清めの欲望」とでも申しましょうか。いわゆる、宗教的な感覚を追求したいという欲望ですね、パンピュリア共和国的な言い方をするのであれば真善美愛、トラヴィール教会的な言い方をするのであれば主の栄光アラリリハ、あるいは、砂流原さんの言葉を使うのであれば……あはは、「正しさ」。なんでもいいですが、とにかく、人間以上の存在になりたいという欲望です。それから、下に向かう欲望としては、pollutionの欲望。何も汎用トラヴィール語で言うことはないんですけれど、とにかく、これは「穢れの欲望」とでもいうべき欲望です。人間という存在、その動物としての側面を保持するための、根源的な循環の欲望ですね。食欲、睡眠欲、繁殖欲。それにもちろん呼吸欲もここに分類されるでしょうね。そういった、原始・肉体・本能のレベルでの欲望です。

「さて、それから、平面方向への欲望ですが……これは、いわゆるホモ・ロクエンスとしての欲望です。とある人間が内的空間を獲得するためには、あるいは別の人間と一つの世界構造を作り上げていくためには、言語という方法によって、一般的には意識だとか無意識だとか呼ばれているところの関係知性を獲得していくしかないわけですが。そのような意味で、人間という種が言語的動物としての側面を獲得した時に、その関係知性の内部で具現化した欲望のことです。これは、基本的には恐怖と安寧との原理……つまり、他の人間よりも一層有利な立場に立ちたいという形で現れます。自分が、他の人間よりも一層生存に有利な立場にあるということを、言語的に確認したいという欲望ですね。

「まず、前方へと向かう軸に外面性を、後方へと向かう軸に内面性をとって下さい。言わなくても分かると思いますが、これは、その欲望が肉体的な現在性……つまり「経験」の外側にあるか内側にあるかということを指します。そして、左側の軸には空間性を、右側の軸には時間性をとって下さい。これは、そうですね……空間性と呼んでいるものを現実性と、時間性と呼んでいるものを観念性と言い換えてもいいかもしれませんが。とにかく、この段階ではちょっと分かりにくいと思うので、名前だけ頭に入れて貰って話を先に進めていきましょう。

「こうすることで、平面上には四つの象限が現れてきますね。まあ、象限というのは大体四つなので、別にわざわざ「四つの」象限などという必要はないのですが、その点については気にしないでおいて頂くとして。とにかく、この象限の一つ一つについて、私は欲望を割り振っていくわけです。

「まずは前方左側、外面性・空間性の象限ですね。ここはいわゆる自然の領域です。人間という生き物が、その肉体の外部にある空間を感覚し、それによって自然という混沌を言語化していく、その過程において現れるところの欲望が当て嵌まります。砂流原さんは、自然を……つまり、この世界の物質的側面を把握していく時、一体、言語のどの機能に頼りますか? あはは、そうですね、その伝達的な機能に頼ります。もう少し具体的に言うのならば、技術的な計量可能性です。例えば、自然科学でいえば、全てを数字として表そうとする。そうすることによって、人間の思考を、自然に対して適応可能なものに変換していくというわけです。この過程で、関係知性の内部に生まれてくる欲望。それは、もちろん、経済的な欲望です。あらゆるものを計量可能にすれば、あらゆるものは数字によって比較出来るようになりますね。そうであるとすれば、自分が優れているということを自分に対して証明するために、誰よりも多く、そういった数字を獲得したいと考えるのは理の当然です。それでは、人間が作り出した世界構造において、最も力を持っているところの数字、つまり生存を直接数字化したものとは一体なんでしょうか? そう、貨幣です。だから、この象限のことを「貨幣の欲望」と名付けることにしましょう。

「次に後方左側。内面性・空間性の象限について。ここはいわゆる身体の領域です。人間という生き物が、その肉体の内部にある空間を性質として基盤化し、それによって身体という混沌を言語化していく、その過程において現れるところの欲望が当て嵌まります。この象限については比較的分かりやすいんじゃないですかね。自分の内的世界についての欲望ですから、実感として理解しやすいでしょう。内的世界を統御しようとする時に人間が使用するのは、言語の尺度的な機能です。えーと、分かりやすく言うならば、恣意的な象徴としての方向性。誰の心の中にもある、出来合いで買ってきた定規のことですよ。例えば、そうですね、人間という生き物全体の、理性と感性との根底に、一つの物語を設定する。そうすることによって、あらゆる行動の基準となりうる一つの潜在的な体系を作っていく。さて、その過程で関係知性の内部にはどのような欲望が生まれてくるか? あはは、そうですね、文化的な欲望です。一人一人の物語を統合していき、集団全体を覆い尽くすような、一つの巨大な物語としたもの。それを私達は文化と呼んでいるわけですから。それならば、自分が誰よりも不可欠な存在であるということを確信するには、その文化を形作る全ての人間の物語において、出来る限り重要な役割を果たす必要があるわけです。そのための、最も簡潔な方法は何か? 公における優秀さの承認……そう、名誉を手に入れることです。だから、この象限のことは「名誉の欲望」と呼ぶのが相応しい。

「三つ目、前方右側。外面性・時間制の象限。ここはいわゆる未来の領域です。人間という生き物が、その経験の外部にある時間を想像として思考し、それによって未来という混沌を言語化していく。その過程において現れるところの欲望が当て嵌まります。あはは、未来と言われてもピンと来ないかもしれませんけれどね。簡単に言うと、この先、自分が何をするのか。所与の条件から、自分がどう進んでいくのかということを決定する方法ということです。その場合に人間が使う言語の機能は、もちろん、表現的な機能ですね。何一つとして確定した要素がない、よくて推測しか出来ない未来という世界に向かって、崖から飛び降りるようにして決断する。その決断を少しでも正当なものとするために、意思決定のための体系を構築する。そういった過程において関係知性の内部に生まれてくる欲望は、なんでしょうか。そう、政治的な欲望です。表現というのは、ありていにいえば、永遠の闘争です。想像するしかないものに対して、人間が、一つの計画を作り上げる。しかし、とはいえ、当然ながら、計画というものは一人の人間だけで完結するものではありません。人間は、未知の世界に対抗するために集団を作る。そうであるならば、この世界における最高の未知である未来に、どうして集団が関わらないことがあり得ましょうか? こうして、互いの計画を巡って、誰が最も理想的な未来を表現出来るか、その闘争が終わりなく続くことになる。これは、つまり、政治における権力闘争の最も原初的な形といえるでしょう。だから、この象限は、さしずめ「権力の欲望」とでも呼ぶことにしましょうか。

「最後は後方右側。内面性・時間性の象限です。ここはいわゆる過去の領域です。人間という生き物が、その経験の内部にある時間を記憶とすることで消化し、それによって過去という混沌を言語化していく、その過程において現れるところの欲望が当て嵌まります。ちょっと比喩的な表現になってしまいますが、これは、経験というものを、自分の関係知性と、本当の意味で一体化させていく、そのためにする反復ということが出来るでしょう。そうであるならば、ここで人間が使うべき言語の機能は、蓄積的機能以外あり得ない。過去を想起する。自分はなぜこの時にこういう行動をしたのか。そして、相手はなぜこういう反応をしたのか。それを一つ一つ意味付けていくことで、経験という巨大な矛盾を、制御可能なシステムにまで落とし込んでいく。えーと、その過程では、関係知性の内部に社会的な欲望が出現することになりますね。ある経験がシステムにまで高められるためには、どうしても、個々人が持つ意味を統合していく必要があるわけです。その経験において、誰が何をしたのか。行動の全てに意味付けを行い、そして、それぞれの行動の重要性に応じて、役割が割り振られていく。そういうわけで、より重要な役割を獲得することで、自分の優位を確固としたものにすることが出来る。一つの演劇において、役割の重要性とは何か? それは、より強く観客に愛されることです。そうであるならば、この象限のことは「愛情の欲望」と呼びましょう。

「さて、これで私達は欲望について語られるべきことについて語り終えたのではないでしょうか。上下方向の欲望と、平面方向の欲望と。こうして、この二種類の欲望、一つ一つを数え上げていくと……この二種類の欲望が、ある重要な点において、本質的に異なっているということが理解出来るのではないでしょうか。それは、上下方向の欲望が私的領域における欲望であるのに対して、平面方向の欲望が公的領域における欲望であるということです。

「上下方向の欲望は、そのどちらにしても、人の目からは覆われ、人の耳からは塞がれているべき欲望です。例えば、上に向かって昇華するという欲望、人間であることを超越したいという欲望は、自分以外の誰からも隠されていなければいけません。というか、本来であれば、自分からも隠されていないければいけない。なぜなら、「正しさ」というものは、ただ「正しさ」のために行われなければいけないからです。「清めの欲望」は世界を伴わないんですよ。世界の中にあり、世界のためにありながら、世界に知られてはいけない。そうして、初めて、人間は人間であることを清められるのです。あはは、別に、何も教親の言葉を引用する必要もないのですがね……「主の栄光は、この世に現れとして現れるやいなや、偽りとして無の底に消えていく」、そういうことです。

「あるいは、下に向かって凝結していく欲望。これもやはり、隠された場所でなされるべき事柄についての欲望です。ただ、まあ、「清めの欲望」がそうあるべき理由とは、少しばかり異なった理由ではありますけれどね。この欲望が隠されているべきなのは、それが、人間が人間自身に対して奴隷であることの証明だからです。人間は生きている限り、自分自身を保つために行動し続けなければいけない。そして、行動し続けたところで最後には死に至る。人間は、決して、無限ではあり得ない。「穢れの欲望」は、まざまざと、そのことを人間に思い出させるのです。だから、人間は、食べている時も、寝ている時も、性行為をしている時も。呼吸をしている時でさえ、たった一人なのです。たった一人で、人間として、その肉体の内側に、必然的に閉じ込められているわけです。「穢れの欲望」に他者が介在する余地はない、人間と人間とは「穢れの欲望」を通じて分かり合うことは出来ない。

「一方で、それに対して、平面方向の欲望は、ありていにいえば闘争領域です。そこでは常に勝者がいて、そこには常に敗者がいる。四つの欲望、そのどの領域においても、他者からの強奪なしには欲望の充足は得られない。それは、あらゆる意味において、関係性における搾取なのです。

「「貨幣の欲望」についてはいうまでもありませんね、この領域において、人間は、より多くの金銭を得るために、その数値化に際して、自分の価値を最大に、他人の価値を最小に、それぞれ見積もろうとするわけです。あるいは、「名誉の欲望」。他人からの喝采を得るために、人間が、一体どんなことをすると思いますか? たかが人間に過ぎない自分の物語を、あたかも神々の口から流れ出る叙事詩であるかのごとく語る。その中で、自分の価値は最大化され、他人の価値は最小化される。「権力の欲望」において、人間は、一人でも多くの賛同を得ようとする。自分のプラン、自分のヴィジョンを、誰よりも優れたものであると主張する。もちろん、他人の立てた計画は、不完全で、失敗が予定されているものであると主張する。そして「愛情の欲望」、この領域では……愛の駆け引き、魚と魚とが鱗の美しさを競い合うかのような、そんな駆け引きがなされるわけです。誰かの愛、しかも、その誰かの最も強い愛を手に入れるためにね。

「そう、平面方向の欲望は、公的領域の欲望は、他者という存在がなければ成り立たないんですよ。それが達成されるためには、より多くの人間に見られ、より多くの人間に聞かれ、より多くの人間に知られなければいけない、というか、それが一つの「現実性」になるためには、絶対に、他者の介在を必要とするのです。私以外誰もいないのであれば、貨幣にも、名誉にも、権力にも、愛情にも、なんの意味もない。というか、それらの全てはそれら自身として存在し得ないのです。そして、その領域において、必ず勝者と敗者とが決定されてしまうという性質から……それらの欲望は、その本質からして、他者を犠牲にしても自分が優れているということを証明しようとする、カキストス的な自己陶酔であるということが出来るでしょう。

「あはは、欲望。人間の欲望。人間がそれによって行動するところの全て。もちろん、いうまでもなく、「ヒーロー」が人間である以上は、その行動原理も、たった今、私達が完成させたところの欲望のマトリクスのうちのどこかにポイントとして発見出来るはずです。そう……この中の、どこかに。当然ながら、そのポイントは単純に一つの欲望として定義出来るものではありません。中心となる欲望はあるでしょうが、それでも、そのポイントが見つかるのは。上下・左右・前後、その微妙な関係性の中で均衡を保った一点なのです。

「それでは、「ヒーロー」が「ヒーロー」として行動するにあたって、どのような欲望がその原理となりうるのでしょうか。いえ、この問題提起は……少し違いますね。正確にいうのならば、「卓越」した方々が「ヒーロー」と認めるところの何者か。自らが「ヒーロー」であると認識しているところの何者か。そういった人間が、その行動原理としているところの欲望は何か。私達が考えていくべきなのは、そのことについてでしょう。

「ここでもやはり、亡命知識人を例にして考えるのが一番分かりやすい方法でしょうね。亡命知識人は、なぜ人権派ジャーナリストとして活動してきたのか。なぜあの地獄のような戦場で医師として活動してきたのか。なぜ命を懸けて子供達を助けようと活動してきたのか。そして、なぜ、あの少女は、自分の権利を主張するために、権力が振り翳す銃弾と刀刃とにその身を晒すことが出来たのか。亡命知識人は、なぜ、「ヒーロー」となったのか。

「一般的に、人間の欲望の中で、最も高等なもの――そして、それゆえに最も追及するべきだと考えられているもの――それは、「清めの欲望」だといっていいでしょう。なぜなら、それは、欲望でありながらも、崇高な自己犠牲の上にしか成り立ち得ないものだからです。「清めの欲望」の中には、自分という観点が決定的に欠如しています。それは自分のためになされることではない、というか、それは自分がなすべきことでさえない。先ほども申し上げた通り、「正しさ」というものは、それが一つの現実として証明されてしまった瞬間に致命的な腐敗を開始します。そうであるならば、自分がその行為を行ってしまえば。その自分自身が、自分自身に対しての、証言者となってしまう。そう、欲望は、自分自身によって証明されてしまうわけです。

「「清めの欲望」は、自分が行うことさえ許されない。何か……自分以上の何者かによってなされなければいけない。その何者かのことを、運命と呼ぶのでも主と呼ぶのでも、なんと呼んでも構いませんがね。とにかく、実際にその行為を行うところの肉体が、例え自分の肉体であっても……その行為は、自分が行っている行為であってはいけない。計り知れない何者かによって、自分という肉体が動かされているのでなければいけない。そうして、初めて、人間は……人間から清められるわけです。人間から、何か、別のもの。もっと良いものになることが出来る。

「「ヒーロー」というものが、「卓越」した方々が紡ぎ出す物語の中で、最も優れた登場人物、まさに主人公と呼ばれるべき何かである以上は、その行動原理は、やはり最も優れた欲望であるのが相応しいような気がします。しかしながら……どうも、そうではないらしい。亡命知識人にとって、「清めの欲望」は、その行動原理の内部で中心となっているわけではないらしい。なぜかといえば、亡命知識人は人間至上主義者だからです。その原理の中心にあるのは、人間以上の何者か、超越的な存在ではなく、まさに人間自身であるからです。

「あはは、いやね、例えば、他の種類の「ヒーロー」……例えば環境活動家などは、そうではないように見えるかもしれません。環境活動家は、今までの人間の傲慢な態度が環境を破壊してきたのだ。そういう人間中心の態度を改めて、もっと、自然というものに対して謙虚にならなければいけない。自然の偉大さに比べれば、人間の知性などというものは大したことなんてないのだから、こんな風なことを主張していますから。しかしながらね、こういった環境活動家も、やはり、亡命知識人と全く同じ種類の生き物、人間至上主義者に過ぎないんです。なぜなら、環境活動家は、自分自身が主体的に行動することによって、この世界を変えることが出来ると信じているから。個々人の行動によってこの世界を救うことが出来るという確信、自分自身こそがこの世界の救世主であるという確信のもとに行動しているから。そう、確かに、環境活動家は、人間以外の存在の方が、人間よりも遥かに優れているといいます。けれども、それは、口先だけでそういっているに過ぎないんですよ。だって、そうでしょう? その人間よりも優れているところの自然を、人間が守らなくてはいけないといっているんですから。

「こう言うと、このように反論する方々がいます。「私達は、人間が借星を破壊出来ると主張しているわけではない、そうではなく、人間を育んでいる環境を破壊することが出来ると主張しているのだ」「人間は、自然のバランスを崩し、自分達が生存することが出来る唯一の環境を破壊し尽くす。そして、やがては滅びるだろう。しかし、その後に、借星は再び元の姿に戻り、そうして取り戻された環境の中で新たな種が繁栄するだろう」。まあ、まあ、どこから反論していいのやら! 全く、判断に困る主張ですがね……そうですね、まず最初に、人間は借星を破壊することが出来ます。ちょっと気の利いた対神兵器を一つか二つか、借星の核で爆発させれば、その瞬間に、借星は粉々になって宇宙の塵と消え去るでしょう。私もね、まあ、人間は下等な生き物だと考えてはいますが。借星程度の下らない星を破壊し尽くせないほど下等だとは、さすがに申しませんよ。

「あのですね、借星の全体であろうが、環境活動家の方々がおっしゃる「人間を育んでいる環境」であろうが、そのどちらであろうが私の申し上げているところの世界ではないんです。そもそもね、おんなじなんですよ、おんなじ。どちらも大して変わらないでしょう。確かに、人間という些細かつ極微な存在にとっては大きな違いがあるように感じられるかもしれませんがね、いいですか、このようなものは、神々のような方々にとっては、等しく塵の塵なんです。これは世界ではない。

「ああ、人間! 人間なんですよ! 環境活動家は全てを人間中心に考えているからこのようなものを世界だというんです。環境活動家は、もちろん、人間が一番重要なものだと思っている。そもそもですよ、この借星が、何か特別なものであるかのように、あなたが思うのはなぜですか? 人間から見た場合に重要だからでしょう! これが人間の環世界だからじゃないですか! 要するに、あなたがおっしゃったところの「人間を育んでいる環境」だからです。もしも、あなたが、人間などは取るに足らないものだと考えているならば。このようなものが跡形もなく消え去ったとしてもなんの痛痒も感じないでしょう。テーブルの上から塵が払われることと何も違わないことと感じるでしょう。これが消滅することを重要なことだと考える時点でね、既に人間至上主義者なんですよ。

「私が申し上げているところの世界というはね、このようなものを指しているわけではないんです。つまり、主体にとっての選択肢そのものを世界と申し上げているんです。環境活動家の方々は、人間の滅亡と人間の生存と、二つの選択肢のうちのどちらかを選択することが出来るといっている。つまり、人間は、人間そのものを救うか、人間そのものを滅ぼすか、そのような二つの選択肢のどちらかを、まさに主体的に選択することが出来るといっている。世界じゃないですか! 世界でしょう! 人間そのものの全体性が目の前に選択肢として提示されている。これが救世主ではなくて、一体何者だというんですか?

「確かにね、環境活動家はこういうでしょう。「私達は人間という種がいつまでもいつまでも滅びないと主張しているわけではない」「人間など、生物種の全体からすれば、取るに足らない種に過ぎない」。確かに、確かに。先ほどの議論でも、あなたは人間の後に現れる「新たな種」について触れていましたね。あなたは人間という生物が永遠に滅びないとは考えていないのでしょう。確かにその通りなのでしょう。

「ただね、未来なんてどうでもいいんですよ! 人間のような末梢の生物種にとっては、未来だとか過去だとか、そういったものがさも重要であるかのように思えるかもしれませんがね。未来も、過去も、今ここにないじゃないですか! それが今ここにいる私にとって一体どんな重要性があるっていうんですか? なんの重要性もない。あのですね、未来も過去も私の申し上げている世界ではないんです。まさに今、今のこの私が、生存するか、滅亡するか。その選択肢だけが私にとっての世界なんです。私を救うか私を救わないか。それだけが私にとっての救世主の問題なんです。

「そして、もちろん、環境活動家もそう思っているんです。遠い遠い未来において、結局のところ人類が滅びるか滅びないか。そんなことは、実は、環境活動家にとってはどうでもいいことなんです。未来は環境活動家の世界にも所属していない。環境活動家にとっての世界も、やはり、私の世界と同じなんです。選択肢なんです。環境を破壊するという選択肢と、環境を保護する選択肢と、その二つ。そして、人間は、まさに主体的に、どちらかの選択肢を選ぶことが出来ると考えている。人間は、まさに、人間として、この世界を救うという選択が出来ると思っている。

「つまり、環境活動家は、人間というものを二つの種類に分けて考えている。傲慢で劣等な、環境を破壊する人間。それから……自分達のような、謙虚で優等な、環境を保護する人間。そして、後者の人間が、この世界のあらゆる存在の頂点に位置する、最も優れた存在であると考えているんです。

「また、人間についてのあらゆる業績を懐疑するところの虚無主義者も、やはり人間至上主義者です。虚無主義者は、人間の行動は動物のそれと大して変わらないといいます。農業はハキリアリのコロニーの延長に過ぎず、巨大な都市も蜂の巣と大して変わらない。アフォーゴモンが情報を伝達していく様は、獲物がかかったことを蜘蛛に知らせる、蜘蛛の巣の糸と本質的に何も変わらない。そんなことをいいます。いや、まあ、それはそうですけどね。ただ、人間の方がもっと上手くやっているということは疑いがないことでしょう。虚無主義者に聞いてごらんなさい、農業が生み出す農産物の代わりにハキリアリが育てる菌類を食べて生きていけるか。都市の代わりに蜂の巣で過ごせるか。そんなこと出来るはずがありませんよね? つまり、虚無主義者は、所詮は、人間の範囲内でしか物事を考えていないわけです。人間を絶対的な基準として考えている。それは、まさに、人間至上主義者の行いです。人間を超越したもの、人間とは全く別の論理の中に現出する、人間よりも遥かに優れたもの。もしも、本当に、人間のことを劣っているというのならば……こういったものと比較して貶めるべきではありませんか? しかし、虚無主義者はそれをしない。というか、そんなことは出来ない。なぜなら、そんなことをしてしまえば、その、より一層優れた何かに向かって進んでいくという目的が出来てしまうから。そして、目的が出来ば、虚無主義は虚無主義ではなくなってしまう。

「あるいは、虚無主義者はあらゆる「正しさ」を否定します。真実など虚妄、善良さは害であり、美徳は幻想だと。あらゆる道徳は無意味だ、偽善に過ぎない。人間の真実の姿は、まさに……あはは、まさに、アーガミパータにおいて見ることが出来る、獣の姿である。獣である。アーガミパータで、道徳になんの意味があろうか? 今日を生き延びるために、他人を殺してその肉を食わなければいけない土地で、道徳などがなんの役に立つ? いやー、まあ……あはは、そうはおっしゃいますけどね。それは、アーガミパータから遠く遠く離れた土地、安穏とした書斎の温かい暖炉の前にいるからいえることですよ。アーガミパータのほとんどの人間は、道徳を求めている。アーガミパータが道徳的な場所になることを求めている。道徳が人間達の思考を縛り付けて、それがしっかりとした秩序を生み出し、他人を殺さなくても食べるものが手に入る場所になって欲しいと、切実に願い求めているんです。

「それか、同じようにアーガミパータの現状を例に挙げて、虚無主義者はこういいます。アーガミパータは、アーガミパータの外側からの余計なお節介のせいでこうなった。アーガミパータの外側の集団が、道徳なるものを押し付けて、無理やり正しさの方向に向かわせようとしたからこそこうなった。まあ、まあ、いわんとしていることは分からないではないですが……とはいえですね、それは、少しばかり、アーガミパータへの介入者を美化し過ぎてやいませんかね。いいですか、エスペラント・ウニートにせよ、パンピュリア共和国にせよ、トラヴィール教会にせよ、ASKにせよ、純粋な善意からアーガミパータに介入している集団なんて一つもありませんよ。どの集団だって、口では「アーガミパータの人々のため」とおっしゃっていますがね。それはあくまでも名目であって、実際は自分達の利益のために介入してるんです。アーガミパータが悪くなっているのは、道徳のせいではありません。道徳を利用して、自分達の利益を追求しようとする人間のせいなんです。虚無主義者は、それを無視して、道徳のせいであるとする。なぜなら、もしも道徳のせいでないなら。それを、人間というものが持つ本来的な悪のせいとしなければいけないから。そうすると、その悪を取り除くという目的が出てきてしまい……やはり、虚無主義者はお役御免となってしまうからです。

「砂流原さん、砂流原さん。私がね、虚無主義者という種類の生き物について、最も愚かだと思うのはですよ。自らは虚無主義者だと名乗っておきながら。あらゆる意味は人間によって――もちろんここで虚無主義者が人間というところの「人間」は自分以外の「人間」ということですが――恣意的に価値観を注入されたところの無意味に過ぎないのだと嘯いておきながら。それにも拘わらず、自分が感じるところの「苦痛」と「快楽」とについては、一切否定をしないというところです。それどころか、虚無主義者と名乗る生き物は、そういった「苦痛」と「快楽」とこそが、人間が生きていく際に、唯一指標とするべき、厳然たる事実であるのだと主張する。人間にはより良い何かに進化していく可能性があるという考えを捨て去って、自分が感じる「苦痛」と「快楽」とだけを、ありのままに受け入れて。そして、ただひたすらに、自分自身として生きていけばいい。

「あはは……はははっ! こういう人達は、ちゃんと考えて物事を主張しているんですかね? 「自分自身をありのままに受け入れる」、これこそ、まさに、人間至上主義におけるセントラル・ドグマじゃないですか! 絶対不可侵・完全不可謬の真実! そもそもですよ、「苦痛」という概念、「快楽」という概念、そのどちらか一方でも受け入れてしまえば、そこには、いわゆる「恣意的な価値観」とやらが介在するに決まっているんですよ。なぜなら「快楽」とは善であって、「苦痛」とは悪であるからです。「快楽」が概念するのであれば、その「快楽」に向かって進むべきであるという価値観が生まれる。「苦痛」が概念するのであれば、その「苦痛」から離れるよう退くべきだという価値観が生まれる。そんなことは当たり前なんです。

「いや、まあ、それでも、この世界にあなたしか存在しないというのであれば、それは人間的な文脈でいう価値観ではないという言い訳が成り立つかもしれません。ただ動物のように、刺激に反応しているだけなんだとね。けれども、非常に残念なことに、この世界にはあなた以外の人間がいるんですよ。しかも、何億人も、何十億人も。そうであるのならば、自分と他人との間で、その快楽と苦痛とを調整していかなくてはいかないでしょう。そこから関係知性が生まれてくる、そして、その関係知性の中で、快楽と苦痛との選択の体系、善と悪との価値判断の体系が生まれてくる。そうすれば、これはもう、立派な道徳ですよ。

「つまり、それが「苦痛」と「快楽」とという、非常にプリミティヴな価値感であっても。価値観というものを認めてしまう以上は、それは意味を認めることであり、道徳の発生を許容することなんです。要するにですよ、虚無主義者のいう無意味というのは、本当の無意味ではないんです。ただ単に、幼稚で・無思慮で・浅薄で、それゆえに、未だに正当な思想となり切れていないただの思い付きの考え以上の何ものにもなれていないという、ただそれだけのことなんです。

「虚無主義者は、運命を受け入れろといいます。運命を受け入れて、それと戯れろと。運命は人間のことなど気にしない、だから、それを人間の支配下に置こうと考えるのは無意味だ。人間に出来るのは、それに流されていくことだけである。まあ、この主張自体には、私も幾分かの賛成を表明することにやぶさかではありませんがね。ただしですよ、どうすれば、この主張が、自分自身をありのままに受け入れるなどという馬鹿げた主張に繋がってくるんですか? あはは、どっちなのかはっきりして下さいよ、「自分」というものが存在しているのか、それとも「自分」というものは運命の戯れに過ぎないのか。もしも、もしもですよ、運命というものを想定するというのならば。人間というものを超越した何かを想定するということになりますよね。そうであるならば、その超越した何か――それが完全に無意味な数学的・詩学的偶然であってもです――を受け入れるという価値観と、自分自身を受け入れるという価値観は、完全に相対するものであるはずです。

「もしも、完全に無意味な数学的・私学的偶然を受け入れるとするならば。そして、道徳とは、その場その場における人間関係の調整に過ぎないと仮定するならば。そこからは、決して「ありのまま」なんていう考えが出てくるはずがないんです。なぜなら、そういった考えから生まれてくるのは、動物としての人間の、快楽の最大化だからです。もしも、この世界に、意味がないのなら? 物質としての幸福を追い求めるのが、最も賢いやり方ではないですか? 本当に無意味を受け入れているならね、ありのままの世界を受け入れるなんて、馬鹿なことはいいませんよ。絶対的な合理性の上に、人間の王国を築くはずです。人間の快楽が最大になった王国をね。確かに、技術は危険です。それによって、人類が絶滅する可能性があるほど危険なものです。しかし、人類が絶滅したとして、それに何か不都合があるのですか? この世界の全ては無意味なんです、それを、快楽のために、戯れに滅ぼしたとして、なんの問題があるというんですか?

「要するにですね、虚無主義者は、実は、虚無主義者ではないんです。そうでなければ、現実を「ありのまま」に受け入れようなんていう考えが出てくるはずがない。現実を「ありのまま」に受け入れようと考えるのは、技術が戯れに人間を滅ぼすことを否定しようとするのは、それは、人間というものは、守るに足る何かであると考えている、この上ない証明なんです。

「結局のところ、虚無主義者が虚無であると考えているのは、人間という種ではない。そうではなく、自分以外の全ての人間に過ぎないんです。虚無主義者が否定するのは、人間それ自体ではなく、自分外の人間達が築き上げてきたところの価値観の体系なんです。本当は、虚無主義者は、それに取って代わることが出来るような素晴らしい価値観の体系を築き上げたかった。けれども馬鹿だからそれが出来なかった。だから、そうであるならば……あらゆる価値観というものが虚無だと主張すればいいと考えたんです。何かを作り上げるよりも、何かを壊してしまう方が、遥かに簡単ですからね。そして、この世界に存在する自分以外の人間はみんな馬鹿だと主張することで、自動的に自分こそが最も賢い人間であると主張出来る。虚無主義とはね、その程度の「主義」なんですよ。

「そして、まさに、これこそが、人間至上主義の成れの果てなんです。自分以外のあらゆるものを否定し、自分こそが最も優れていると主張する、より良きものに対して服従することを拒否し、ありのままの自分自身を受け入れることこそが最も重要だと主張する。あはは、欺瞞なんですよ。あらゆるものは虚無だといいながら、自分だけはその「あらゆるもの」から逃れている。自分という人間を、絶対的に過信している。これが人間至上主義でなくて一体なんだというんですか?

「環境活動家にせよ、虚無主義者にせよ、実際のところは、人間至上主義者なんです。だからこそ、「卓越」した方々にとって「ヒーロー」になりうる。環境活動家は、私達の生きる環境を守るために戦う「ヒーロー」に。そして、虚無主義者は、既存の思想、私達の本当の姿を覆い隠してしまうところの不浄な思想を洗い流してくれる、清めの救世主としての「ヒーロー」に。

「そう、人間なんですよ。まさに人間なんです。環境活動家、虚無主義者、そして亡命知識人。それ以外の、「卓越」した方々にとっての全ての「ヒーロー」。そのキーワードは、人間なんです。人間が、人間として、「ヒーロー」になる。人間が、人間らしく、つまり人間としての本性に逆らうことなく、人間を抑圧・搾取する何者かに対して抵抗を行う。例えば、人間の命を奪おうとするアーガミパータの現状に逆らって、怪我人を治療したり、子供を保護したりする。人間が……自分自身が、自分自身らしく、ありのままの自分自身を受け入れることで、運命という、人間の本来を歪める何かに対して闘争を挑む。それが「卓越」した方々にとっての「ヒーロー」なんです。

「つまり、その「ヒーロー」が人間至上主義者である以上、その行動が、人間以上の何者かになろうとする欲望に動機付けられているということはあり得ないわけです。自分自身をより優れた存在にしようとする。そのために、「正しさ」の方向に向かって、「今の私」「ここにある私」という生命を昇華させる。そういう欲望を、「ヒーロー」は、一切持っていない。

「あはは、まあ、口ではおっしゃるかもしれませんね。「ヒーロー」の方々も、より良い自分になるためにだとか、自分を鍛えるためにだとか、そんなことをね。けれども、それは、所詮は自分という範囲内での上昇に過ぎないわけです。自分自身を、何か、それ以上のものにしようとするわけではない。自分の外部に、超越した基準があって、その基準に隷属することによって、自分という枠を超えようとする目的ではない。あくまでも、自分自身を……そう、より一層、本当の自分に近付けていくという、そういうわけの分からない目的であるに過ぎないんです。

「人間至上主義者にとっては、自分自身を何か別のものにしようとすること、もっともっと「正しさ」に近付いた、人間以上のものになろうとすること。それは罪なんです。そういう欲望を抱くということは背教徒の行いなんです。なぜなら、それは、先ほども申し上げたところの人間至上主義のセントラル・ドグマに反することだから。ありのままの自分というものを否定してしまうことは、人間至上主義にとっては、何よりも重い罪なんです。だから、人間至上主義というイデオロギーの支配下では、虚無主義さえもがありのままの自分自身を否定することが出来なくなる。

「さて、そういうわけで……やはり人間至上主義者であるところの亡命知識人が、「清めの欲望」をその行動原理としているということは、絶対にあり得ないわけです。亡命知識人が、命を投げ出してまで、他人のために、自分が出来ることをしようとするのは。自分以上の何かになるためではない、むしろ、自分を自分らしく輝かせるためなんです。では、その「自分を自分らしく輝かせる」というのは、一体どういうことなのか。

「人間至上主義者にとって「自分」とは何か? それは、恐らく、「意識」を指しているのでしょう。あらゆる感覚と、あらゆる判断と、それにあらゆる行動と。それらを言語的に追認し、そして、政治・経済・文化・社会という社会学的な構造の中に、物語化して適応していくための一つの複合的精神器官のことですね。そうであるのならば、「自分」というのは、集団的な関係知性の中で、個人的な関係知性が占める地位だということになります。「自分」だけで完結するものではなく、「自分」という何者かを、他者と他者と他者と、集団を構成する全ての承認を得て、一つのリアリティとして現実化したところの概念ということになります。

「あはは、ということはですよ、「自分を自分らしく輝かせる」というのは、もちろん公的領域における欲望によって基礎付けられているわけです。亡命知識人が成し遂げてきたところの英雄的な行為は、その全てが、自分自身という存在を、自分自身という存在のままで、集団という一つの物語における主人公としようとする、一つの現実化の過程だということが出来る。まあ、とはいえ……その過程は、人間という種が続く限り永遠に続くことが前提とされている過程であるわけですけどね。そうでなければ、自分自身という何かが、神々をも超える絶対的な栄光であるところの不滅を手に入れることが出来なくなってしまいますから。

「はははっ! 栄光! 栄光の羊! 馬鹿みたいな話ですけどね。まあ、それはそれとして、私達が亡命知識人の根底にある欲望を確認しようとするならば、それを公的領域に見いだす必要があるということをご理解頂けたんではないでしょうか。では、公的領域の欲望、平面上の象限のうち、それはどこにポイントされるべき欲望なのか。まずは「貨幣の欲望」ですが、これは除外していいでしょうね。亡命知識人が金のために何かをしたという話は聞きません。それでは、「権力の欲望」は? これもまた違います。亡命知識人の方々の無私の行為が、なんらかの政治権力に繋がったという話は、あまり聞いたことがありません。

「というか、権力だとか貨幣だとか、そういう欲望はですね、実は、公的領域の欲望としては、少しばかり不純な欲望なんですよ。この二つは、どちらかといえば、「穢れの欲望」に傾きがちな欲望なんです。いや、正確にいうと、公的欲望の全てが、上下方向の欲望のどちらかに引っ張られているところがありましてね、完全に純粋な公的欲望というものを見いだすのは非常に難しいものがあるのですが……とにかく、この二つは「穢れの欲望」、つまり自己保存の欲望に傾きがちである。それゆえに、「卓越」した方々は、こういった欲望に基礎付けられた行為について、あまり英雄的とは思わない傾向にあるんです。

「ということで、亡命知識人の欲望は――あくまでもそのベースとなるところの欲望はということですが――「名誉の欲望」であるか「愛情の欲望」であるか、どちらかということになります。まあ、この二つの両方共が、そのベースとなる可能性を有していると思いますけれどね。どちらかといえば、「名誉の欲望」の方が大部分を占めているといえるのではないでしょうか。なぜなら、亡命知識人の行為のほとんどは、怪我人を救うにせよ子供を救うにせよ、何かを救うという行動だからです。もちろん、自分の権利のために権力と戦うというような例外もありますがね、とにかく、何かを救うということは、必ずそこに上下関係が出てきます。救う者がより優れた存在であって、救われた方はより劣った存在であるという定式化ですね。

「そうであるならば、蓄積された関係性の中で発生するところの欲望よりも、それぞれの価値を尺度として計量する中で発生するところの欲望の方が、その行為の原理としてより適切であると考えるのは、それなりに論理的な思考といっても過言ではないはずです。そう、「名誉の欲望」。それこそが、亡命知識人が、その関係知性の中で剥き出しにしている欲望なのです。

「あはは、名誉、名誉。亡命知識人は、名誉の強奪者なんですよ。もちろん、ご自身達ではそんなことをしているなんて欠片たりとも思っていないと思います。けれど、それが主観的にどのような行為であったとしても、それは事実なんです。例えば、戦闘地域において、数え切れないほどの人々の命を救った医師について考えてみましょう。毎日毎日運ばれてくる患者、怪我人だろうが病人だろうが、大人だろうが子供だろうが、ゼニグ族だろうがヨガシュ族だろうが、敵だろうが味方だろうが。なんの差別もなく、完全に平等に、その命を救ってきた医師についてです。」

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