第二部プルガトリオ #27

「さて、ここまでがアーガミパータの「現実」の中で実際に起こったことであるわけですが。それでは次にアーガミパータ外に目を向けてみましょう。アーガミパータの外側で、テレビだの新聞だのを通して、他人事として、この一連の出来事をご覧になっていた方々。つまり「卓越」した方々についてです。

「これは誤解されている方が非常に多いことなんですがね、現在のこの世界において、権力が、何かしらの大規模な行動を行った際に、その目的と内容とが隠蔽されるということはほとんどあり得ません。小規模な行動ならともかくとして……例えば、どこかで主権集団と主権集団との戦闘が行われるとか、どこかで主権集団と主権集団との条約が結ばれるとか、そういうことがあった場合は、そういった事実が一般大衆から隠されるようなことは滅多にない。それがなぜかという理由は色々あるのですが……その中でも最も重要なのは、今が人間時代であるということでしょうね。

「その名の通り、人間の時代なんです。権力を有しているのも、私達と同じ、そう、全く同じ生き物であるところの人間なんです。たかが人間に過ぎないんですよ、神々のように絶対的な暴力を持っているわけではないし、神々のように非常に賢明であるというわけでもない。そうであるにも拘わらず、どうやって、それほど重要な事実、それゆえにあまりにも巨大な事実を、私達から隠し通すことが出来ますか? しかも、しかもですよ、私達は、一般大衆は、そういう権力に対抗するために、マスメディアという、全く別個の、一つの巨大な権力を有しているんです。

「あはは、自分がそこに所属しているにも拘わらず、それを「巨大な権力」なんて呼ぶのは少し傲慢な気もしますけどね、とはいえ、それがある種の権力であるということは間違いないことです。マスメディア、マスメディア……多数者が持つ既得権益、つまりイデオロギーの安定性という既得権益を守るために存在しているところなんて、特に権力と呼ぶに相応しいと思いませんか? そこからは、何一つ創造的な思想が出てくることはなく、かえって既存の思想によって少数者を弾圧する方向に働くところなんて……いや、まあ、それはいいんですけどね。とにかく、マスメディアは、一般大衆の目となり耳となり働く一つの権力であるわけです。

「そんな権力が、あらゆる主権集団を監視している。一般大衆が持つイデオロギーから少しでも外れた振る舞いをしないようにと見張り続けている。しかも、「ジョージとメアリー」だとか「アラン・スミス」だとか、そういった秘密警察とは違って、おおっぴらに監視しているわけです。堂々と、正義の名のもとに見張りをしているわけです。人間のような不完全な生命体が、それほど巨大な監視機構から、逃れることが出来ると思いますか? そりゃあ、ちょっとしたことなら隠せるかもしれませんがね。国際的な麻薬取引だとか、組織的な人身売買だとか、それくらいなら隠すことが出来るでしょう。しかし、戦争は無理です。あるいは、条約は不可能です。

「ということで、「卓越」した方々は知っていました。占領軍とアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティとが協力することで、アーガミパータからスーカラマッダヴァを排除することになった戦闘のことも。その戦闘の後に、占領軍とASKとの間で結ばれた契約のことも。もちろん、その詳細について知っていたわけではありませんよ。例えば、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティについて、それがデウス・ダイモニカスによって率いられた集団であるということまでは知ることが出来たわけではありません。なんといっても休戦協定がありますからね、マホウ族についての情報は、一部の例外を除いて、こちらの世界に生きる人間達は知ることが出来ません。とはいえ……必要なことは知っていたわけです。要するに、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが、占領軍に手を貸して戦ったにも拘わらず、その結果として、ASKに売り飛ばされたということです。

「それでは、「卓越」した方々はそのことについてどんな反応を示したか。あはは、実に「卓越」した方々らしい反応を示したわけですよ。つまり、そんな決定をした権力に対して、高潔にして断固たる態度で、非難の意思を表明したんです。占領軍がアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティと手を組んでスーカラマッダヴァに対して立ち向かったことは正しいことだった。とてもとても正しいことだった。なぜなら、その行動は、虐げられた抵抗者である、反骨のヒーローである、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを助けて。悪辣非道なヴィランであるところのスーカラマッダヴァを排除するという行為だったからだ。しかしながら……そうして、命を惜しむことなく、正義のために戦ってくれたアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを、まるで昔別れた恋人から貰った指輪を質屋にでも入れるみたいにして、あっさりとASKに引き渡したというのは、それは、絶対に、してはいけないことだ。そのように非難した。

「エスペラント・ウニートのあらゆる大通りに、あらゆる広場に、デモ隊が溢れ出ました。特にネロ記念公園なんかはすごかったらしいですよ。あはは、私は、その頃は、まだ生まれていませんでしたからね。直接見たというわけではありませんが……写真で見る限りでは、盥の中で芋でも洗ってんじゃないのかという感じの人、人、人の群れでした。まあ、あそこの鳥類観察センターはデモ隊にとっての聖地みたいなもんですからね。それはともかくとして、政府に対する非難は苛烈・熾烈・猛烈を極めました。そのせいで政権が一つ潰れたほどだったそうですよ。まあ、元帥院は選挙で選ばれるわけではありませんから、大して影響はなかったでしょうけどね。それにしても、当時の合理党政権は選挙でぼろ負けをして。そして、博愛党が、大統領と、人間議会での過半数と、その両方を手に入れることになった。政権交代が起こったわけです。

「それに、ASKの製品に対する不買運動も盛り上がりました。当時は、まだ、現在のような形のハンドデヴァイスは開発される前でしたからね。当然ながらASKホンもなかったわけですが、ASKは、他の種類の情報端末を作っていましたから。例えば、一昔前の携帯電話だとか。それにパーソナルコンピューターだとか、とにかくそういった製品に対する不買運動です。まあ、こういった製品は、一回購入したら暫くの間使い続けるものですが……とはいえ、当時は、ASKの製品から他の会社の製品に買い替えるという需要で、一時的に市場が特需状態になったそうですよ。例えば、勾陳科技なんかは、その年のパーソナルコンピューターの売り上げが二十パーセントも増加したそうです。

「ことほどさように、「卓越」した方々は、占領軍の卑劣な仕打ち、ASKの狡猾な振る舞いに抗議したというわけですが。しかしながら、その抗議は、本当に意味があるものだったのでしょうか? つまり、私が言いたいのは……その抗議は、なんらかの結果を伴う抗議だったのでしょうか、ということです。

「確かに、確かにですよ。大規模なデモは政権交代をもたらしました。しかしながら、政権交代という現象に、果たしてどれほどの意味があるのか。デモによって合理党政権から博愛党政権に代わりました。その後、更に、合理党が政権を取って。現在の政権は博愛党政権です。この五十年で、三回の政権交代が起こったということになりますね。それで、アーガミパータの状況は変わりましたか? アーガミパータの内戦は終わりましたか? ああ、違う違う……あはは、失礼。アーガミパータで内戦が終わるわけがありませんね。えーと、エスペラント・ウニートは、アーガミパータの内戦から抜け出すことが出来ましたか?

「もちろん、そんなことは出来ませんでした。暫定政府の支配領域には、未だにBeezeutの多集団籍軍が駐留しています。暫定政府は各地の神閥との戦闘をやめていませんし、領域の取り合いは終わる気配さえありません。つまりですね、合理党政権であろうと博愛党政権であろうと、やっていることは変わっていないということですよ。もちろん、いっていることは少しばかり違いますよ。合理党政権は、アーガミパータにおける全体主義政権を打ち倒すためにこの内戦を続けなければいけないと主張しています。一方の博愛党政権は、アーガミパータで虐げられている人々を解放するために内戦を続けなければいけないと主張しています。とはいえ、結局のところ、「人間至上主義のために内戦を続ける」という方向性についてはなんら違いはないんです。

「それでは、これは元帥院のせいなのか? エスペラント・ウニートの軍事的側面を掌握し、その結果として政治的な側面に対しても隠然たる影響力を持つといわれている元帥院のせいなのか? エスペラント・ウニートで起こる全ての悪いことは、全部、全部、元帥院のせいなのか? あはは、もしもそうだとするならですよ、私が殺しに行きますよ。たった八人くらい、殺そうとして殺せないことはないでしょう。爆弾でもなんでも腹に巻いて突っ込みに行けばいいだけの話です。けれどね、砂流原さん。そんなことをしてもなんの意味もないんです。元帥院は、所詮は象徴的な意味しかありません。せいぜいが、国家の基本方針を大枠で定めることしか出来ないんですよ。それが精一杯です。権力というのはあんなところにはない。もっと別のところにある。

「さて、一方で、ASKに対する不買運動ですが。それにはどの程度の意味があったのか。もちろん、短期的には、ASKの売り上げは大幅に落ち込みました。確か三十パーセントだったかな? もちろんエスペラント・ウニートの売り上げに限った数字ですが、エスペラント・ウニートがASKにとっての二大販売拠点の一つであることを考えれば、決して少ない数字とはいえません。とはいえ……このボイコットが続いたのは、たった五年でした。それも、ASKの売り上げに本格的な影響を与えられたのは、最初の三年だけです。その三年間の売り上げ減少が、確か、一年目が三十パーセント、二年目が二十パーセント、三年目が十パーセント。それ以降の影響は、たった数パーセントにとどまりました。ほとんど惰性で続いていたようなものです。

「それどころか、新製品発表会で初めてASKホンがお披露目された時のことを覚えていますか? あの熱狂、あの狂乱。ASKショップの前、どこまでもどこまでも続いていた、あの大行列を覚えていますか? あはは、あのですね、それは……一時的には、社会的行動によって評価されるかもしれませんよ? 良いことをすれば、ちょっとは売り上げが上がるかもしれない。悪いことをすれば、ちょっとは売り上げが下がるかもしれない。それでも企業というものは、最後の最後には、魅力的な製品によって評価されるものなんですよ。社会的行動なんていうものは、あくまでも付随的な評価基準に過ぎないんです。

「もちろん、こういう方もいるかもしれません。ASKは、あの不買運動を真摯に受け止めた。アーガミパータの国内避難民に対して数億アラン規模の寄付を行ったし、多集団籍軍に対する武器提供も打ち切った。だから、あの不買運動には意味があった。ええ、まあ、そうですね。そういう見方も、出来なくもないかもしれません。しかしながらですよ……はははっ……私が聞いたところによれば、昨日、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは全滅したとのことです。そして、全滅させたのは、言うまでもないことですが、ASKだったとのことです。

「砂流原さんは、たぶん、ハンドデヴァイスはスマートバニーをお使いでしょうね。あはは、私の記事の読者には多いんですよ、ASKホンじゃなくてスマートバニーを使っていらっしゃる方。まあ、あれだけ記事でボロクソにけなせば使いたくもなくなるでしょうね。こんな感じで、色々な理由から、なんとなくASKの製品を買わないようにしているという方々はいらっしゃいます。しかしながら、それに、果たしてどれほどの意味があるんでしょうかね。相も変わらず、ASKの売り上げは右肩上がりです。それに、最も有名な株式指数であるSINSTOKの優良株九十九の中で、いつまでもいつまでも愛される株式であり続けています。私だって、もしも老後のことを考えて株式を買うとしたら、やっぱり、ASKか……あはは、それか、ディープネットの株式を買うでしょうね。ディープネットは素晴らしい企業ですから!

「まあ、冗談は置いておいて。つまり私が言いたかったのは、「卓越」した方々の抗議にはなんの意味もなかったということなんです。いや、なんの意味もなかったというのは言い過ぎかもしれませんがね。無意味な政権交代で政治的な空白期間を作ったり、ASKとは別の軍需企業であるところの勾陳科技の売り上げを増加させたり、それくらいの意味はあったかもしれません。それに、抗議をした方々の心の片隅に、強大な権力に対して自分達は抵抗の声をあげたのだという、消え残るような満足感を残したのも確かでしょうね。けれども、そういった、詩的で私的な余韻以外には、何も残らなかった。

「なぜそんな結果になってしまったのか? 「卓越」した方々の、真摯で懸命な行動は、なぜ実を結ばなかったのか? 答えはね、とてもとても簡単なことですよ。要するに抗議する相手を間違えていたんです。「卓越」した方々が、本当に抗議するべきだったのは、「卓越」した方々自身だったんです。

「あはは、だってそうでしょう? そもそもの話として、燃え上がる憎悪の炎によって左道曼荼羅を焼き尽くそうとしたのはどなたでしたか? 物事の最初の最初に、アーガミパータへの攻撃を、グロリア・グロリアの大合唱で送り出したのはどなたでしたか? あるいは……アハム・ジャナスミ、神国主義への抵抗者にして人間至上主義の守り手、アーガミパータにおける最高のヒーローに対して、己自身の感動を根拠として、惜しみない援助を与えるようにとGLUOに迫ったのは、一体どなたでしたか?

「こういうことをいうと、また、また、またもや! 反論する方が出てくる。あはは、まあ、どんなことであれ自分の間違いを指摘されるというのは不愉快なことですからね、反論したくなる気持ちも分からなくもないですが。まあ、それはともかくとして、こんな感じの反論です。確かに、私達は同盟軍を支持した。多集団籍軍を支持しアハム・ジャナスミを支持した。そして、私達は……決して、その支持が間違っていたとは思わない。なぜなら、多集団籍軍は、アハム・ジャナスミは、私達が支持した時には確かに「正しさ」の方向を向いていたからだ。あの頃は、確かに、同盟軍は、同盟軍だった。占領軍ではなかったのだ。人間至上主義の理想に燃え、悪しき全体主義である神国主義による抑圧と搾取とから弱者を救おうという信念に身を捧げていた。

「それにも拘わらず、同盟軍は、変わってしまった。強大な軍事力を手に入れて、広大な領土を手に入れて、莫大な富裕を手に入れて、変わってしまったのだ。自分達が強者となることによって、弱者達に対する共感の念を失ってしまった。そして、手に入れたものを失うことへの恐怖で、手段を選ばなくなった。つまり、同盟軍自体が、唾棄すべき権力となってしまったのだ。欲望は理想を唆し、安全は信念を弛緩させて。そして、結局のところ、同盟軍は占領軍となってしまった。

「私達は悪くない。決して、私達は悪くない。悪いのは変わってしまった占領軍なのだ。だって、どうして分かる? 多集団籍軍が、アハム・ジャナスミが、ここまで私達を失望させるようなことをするなんて。私達の、無垢で純粋な希望を裏切るなんて。そう、占領軍は隠していたのだ。私達から、自分達の本性を。自分達がどれほど浅ましいけだものであるのかということを隠していた。私達は、信じていた。同盟軍は、自由的かつ民主的な人間至上主義者であると。しかし、それは間違っていた。同盟軍こそは、いや、占領軍こそは、全体主義者だったのだ。そう、間違っていたのは占領軍だ。私達は騙されていただけだ。そして、私達は、もう騙されない。

「あはは、端的に言って、反吐が出ます。まず基本的な部分から質問させて欲しいんですがね、あなた達は、もう騙されないといいますが、どんな根拠があって、それほど自信満々にそんなことをいえるんですか? いいですか、申し上げさせて頂きたいんですがね、あなた達は、これで、何回「騙され」ましたか? まずはアーガミパータの件で騙されましたよね。次にエスカリアの件で騙されました。そして、今はワトンゴラの件で騙されている! 「私達は、もう、騙されない」? 実際に、たった今、騙されているところじゃないですか! もしかして……もしかしてですよ。あなた達は、自分達が、頭がいいとでも思っているんですか? あはは、もしもそう思われていらっしゃるならば、ちょっとご忠告申し上げたいんですけどね、あなた達は、頭が、よく、ありません。あなた達は低能なんです。誰かよりも優れているわけではないし、誰かよりも劣っているわけでもない。ごくごく平凡な低能なんですよ。

「それから、それからですよ。同盟軍でも占領軍でもいいですけど、どうして変わってしまったって分かるんですか? いえ、いえ、誤解しないで下さい。私が言いたいのはですね――えーと、ここでは占領軍で統一させて頂きますが――占領軍が、最初から悪人であったということを言いたいわけではないんです。占領軍がヴィランであったと言いたいわけではない。むしろその逆なんです。占領軍が、今、この状態で、ヴィランになったと、どうしてそういえるんですか? 今の、この、状態で……あなた方が感動した「ヒーロー」から、その「英雄」的な本質から、少しでも変わってしまったということを、なんでいえるんですか?

「占領軍がしたことを見てみましょう。まずは、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティと手を結び、スーカラマッダヴァをこの世界から消滅させました。私の知る限りでは、ということですが……この件については、抗議している方というのを見たことがありませんね。「卓越」した方々は、この行為に対して、ほとんど完全といっていいほどの賛同の意を表しました。あまりにも貪婪に、周囲の全てに対して侵略を仕掛けている、無教徒の権力。その権力、抑圧と搾取とに抗い続ける、自由の闘士達。ヴィランとヒーローと、非常に物語的な構図ですからね、ヒーローに対して味方をしない理由がないというわけです。それに、それだけでなく……あはは、これは些細なことだったので、先ほどは申し上げ忘れていたんですがね。スーカラマッダヴァは、なんと、なんと、左道曼荼羅のテロリストをかくまっていたんです! 少なくとも、そういう情報はありました。そうであるならば、「卓越」した方々にとっては、むしろ、反対する方が罪深くさえあるでしょう。

「さて、ここまではいい。ここまでは、「卓越」した方々も「正しさ」として認めているところです。しかしながら、この次の行動が問題だということですよね。つまり、スーカラマッダヴァをこの世界から排除するために、共に戦った仲間。自分達の手に自由と民主とを取り戻そうと、権力に対して英雄的に立ち向かったヒーロー。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを、ASKに売ったということです。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティはヒーローであって、物語の原理からすれば、絶対に正しい。その絶対に正しいところのヒーローに対して、いわば裏切りといってもいいような行為をした。それは、まさにヴィランがやることである。「卓越」した方々は、このように主張する。

「ふむ、なるほどなるほど。あなた方はそう主張するわけですね。それならば、私としては、一つ指摘させて頂きたいことがあるんですけれどね。それは、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが人間至上主義勢力ではないということです。何を馬鹿なことを、そんなことは先刻承知だとおっしゃりますか? いえいえ、あなた方は何も理解していない。いいですか、はっきりさせましょう。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、人間至上主義勢力ではない。むしろ、神閥の側の価値観の持ち主なんです。

「そうです、あなた方が全体主義として糾弾した神国主義的な価値観のもとに結束している集団なんですよ。確かに、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、人間至上主義勢力である占領軍と手を結んでスーカラマッダヴァと戦いました。それに、もう少し過去の話をするのであれば、第二次神人間大戦時、人間至上主義勢力ではありませんけれど、パンピュリア共和国の軍隊に協力をしていました。けれどね、それは別に、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが「人間」に対して共感を持っていたからというわけではありません。それは、単純に、「人間」が、無教徒と敵対していたからという理由に過ぎないんです。

「いえ、まあ、正確にいうと、理由はそれだけではないんですけれどね。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが、これほどまでに「人間」に対して協力的なのは、他にも理由があって……ただ、この理由はここで話すわけにはいかないことですからね。デニーさんが、深く深く関わっていることなんで。あはは、勝手に話してしまったら、またデニーさんに怒られてしまいますよ。とにかく、一つだけはっきりさせておきたいのは、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが「人間」と同じような価値観を持っているわけではないということです。

「自由という概念に価値を感じているわけではないし、民主という概念に価値を感じているわけでもない。自由も、民主も、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティにとってはどうでもいいことなんです。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティにとって重要なのは、カーマデーヌだけ。カーマデーヌを中心としてデウス・ダイモニカスが統治するところの絶対的な秩序こそが最も重要なことなんです。そう、自由よりも権力を、民主よりも高貴を、それこそが、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの価値観なんです。

「そもそも、歴史から考えればそんなことは明らかなんですよ。デニーさんから聞きませんでしたか? ダコイティという単語がアーガミパータでどんな意味を持つ単語であるかということを。ああ、その様子だと……あはは、デニーさんも、それくらいは教えてくれたみたいですね。ダコイティは、共通語でいえば「盗賊」という意味の単語なんです。盗賊、そう、盗賊なんです。

「「盗賊」という言葉に……とかく、人間至上主義者の方々は、ロマンチシズムを抱きがちですがね。どんな支配も拒む自由の民、仲間達を家族とみなし、その集団の内部では、どんな民主主義権力よりも民主的な統治がなされている。まあ、物事にはたくさんの面がありますので、ある一面だけを見ればそのようないい方を出来ないわけではありませんけどね。しかしながら、その考え方は、あまりにも単純に過ぎる考え方です。

「いいですか、人間時代以降の集団と神話時代以前の集団とは全く異なっているんです。今の集団は、いわゆる人間国家です。まるで偏執狂の患者みたいに、一ハーフディギトのずれも許すことなく領域を確定して。その領域の範囲内は、中央権力の絶対的な支配が流通している。他方で、神話時代の集団は、決してそんなものではなかった。そんな融通の利かないものではなかったんです。神話時代の「集団」はですね、非常に大雑把な区分けをすれば、「中央」と「辺境」とで成り立っていました。「中央」の権力は、「辺境」にまでは到達しなかった。あるいは、到達していたとしても、非常に緩やかな支配にとどまっていた。

「そうであっても、「中央」と「辺境」とはやはり一つの集団だったんです。なぜか? なぜなら、神話時代の集団は、権力によって成り立ってはいなかったからです。砂流原さん、砂流原さん、権力による支配というのはね、集団を統一するための唯一の方法ではないんですよ。むしろそういった方法の中では、最も野蛮で粗雑な方法なんです。だから、神々による支配は、そんな方法では行われなかった。いや、正確にいえば、もちろん権力は統一の一つの方法でした。とはいえ、それだけで統一がなされていたわけではなかったんです。もっと洗練で繊細な方法、様々な支配の形式を組み合わせた方法。つまり、それは、形式による統一です。

「神国を統一していたのは、誰もが共通してその形式に沿って行動するところの、形式なんです。もちろん、現在の人間至上主義集団で猖獗を極めているところの、自己愛だの反権力だのの形式ではありませんよ。秩序のために、集団によって精密に管理された、思考と行動とを統制するものとしての形式です。それを慣習といおうが規範といおうが構いませんがね、とにかく、「中央」の権力が届かない場所、「辺境」においても、その形式は作用していた。そして、その形式によって、「中央」と「辺境」とが、緩やかに集団の全体を形成していたんです。

「確かに「辺境」の人々、つまり「盗賊」は権力には服しませんでした。それどころか、しばしば「中央」と「辺境」との間に引かれている不明瞭な境界線を巡って衝突を繰り返しさえしました。けれども、それでも、集団全体を統一するところの形式には服していたんです。いや、服しているというのとは少し違うかもしれませんね。「盗賊」というのも、やはり、形式の一部だったんです。「盗賊」としての生き方、「辺境」において「中央」と「中央」との接続を担う、運び屋であり、情報屋であり、あるいは傭兵であるという生き方。「中央」では生きることが出来ないアウトローの受け皿としての役割。そういったものも、やはり、神国という一つの巨大な制度の一つだったんです。

「そうであるのならば、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが、人間至上主義者に共感するわけがないんです。そして、人間至上主義者がいうところの自由を、人間至上主義者がいうところの民主を、尊重するはずもない。いいですか、砂流原さん。人間至上主義的な自由と民主とは、決して神国主義的な意味での自由と民主とではないんです。なぜなら、神国主義的な自由と民主とは、中央が支配の方法として使うところの絶対的な権力を巡る自由と民主とだからです。例えば、人間至上主義的な政治制度の下で、一人の人間が、どこかの森の中に籠もって、法律の支配から完全に自由になって生きられると思いますか? そんなこと、絶対に許されないでしょう? しかし、しかしですよ、「盗賊」にとっての自由とは、そういうことなんです。「盗賊」の自由は、「盗賊」の民主は、中央権力を否定し、それゆえに集団の構成員をおびやかすものなんです。

「つまりですね、私がいいたいのはこういうことなんです。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、人間至上主義にとって、脅威以外の何ものでもないんです。それどころか、犯罪者なんですよ。私達に恐怖を与えるという意味ではテロリストですし、暴動を起こす小規模な集団という意味ではゲリラなんです。そう、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、神国主義ゲリラなんですよ。

「人間至上主義者が人間時代以降の集団、つまり中央権力による暴力的統一をたった一つの統一形式とする限り、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの存在を認めるということは出来ないことなんです。なぜなら、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは自由を求めるから。中央権力からの自由を求め、法秩序からの自由を求め……いえ、もっとはっきりといいましょう。犯罪者である自由を求めるからです。そして、また、アヴィアダウ・コンダ・ダコイティも、人間至上主義を認めない。決して認めない。

「もしも、アーガミパータにおいて、人間至上主義と神国主義との戦争が起こったならば……いえいえ、この仮定は、マホウ界からの神々の再来なんていう特殊なケースを考えているわけではありませんよ。それよりももっとありそうなこと、つまり、占領軍と神閥との領域紛争が激化して、アーガミパータ全土を覆い尽くすまでの全面抗争に陥ったら、ということです。そうなれば、間違いなく、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは神閥の側につくでしょう。あはは、デニーさんへの借りは、スーカラマッダヴァとの戦闘で返したことですしね……アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが占領軍の側につく理由は何一つありません。

「ということは、ですよ。占領軍がしたこと、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティをASKに売ったということは、「卓越」した方々の基準から判断するならば、決して悪しき行いではなかったということになるんです。それどころか、それは、自由と民主とを――もちろん、人間至上主義者にとっての自由と民主とを、ということですが――守るための、正しい行いだったんです。

「占領軍の悪しき行い、というほどでもないですが、正しくなかった行い、間違った行いというのは、むしろアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティと手を結んだことだったんですよ。だって、そうでしょう? アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、神国主義ゲリラなんですから。いや、語の正しい用法からいうと違うんですけれど、それと同じ種類の「何か」だったというわけです。「卓越」した方々の基準からいえば、犯罪者で、そして……全体主義者だったんですから。

「そう、全体主義者だったんですよ。先ほどもいったように、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティにとっては、民主的な制度なんかよりも秩序の方が遥かに重要だった。まあ、よく考えればそれも当然の話で、私達のような……あはは、一部地域を除いたこちら側の世界のような。安全で平和な世界に住んでいるわけではないんですからね。民主的な制度なんていう贅沢を享受している場合ではないんですよ。ある一つの形式の下に、強固なまでの一体性を保持しなければいけないんです。そのためならば、一定の差別さえも許容する。それが、「盗賊」なんです。

「いいですか? 「卓越」した方々の基準を一貫して適用するというのならば、「卓越」した方々が示した反応というのは、本来そうするべき反応とは全く反対だったんです。「卓越」した方々は、占領軍がアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティと手を結んだことに対して非難の声を上げなければならなかったし、占領軍がアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティと手を切った時に称賛の声を上げなければならなかった。そう、もしも「卓越」した方々が、全体主義と戦う自由的で民主的な価値観というものを、何よりも需要なイデオロギー……いや、「真実」の思想であると考えるのであるならばね。さて、これが、論理的一貫性のもとに今回のケースを考えた場合の結論です。

「とはいえ、この結論とは全く別の、非常に常識的な……あはは、そうです、常識的な観点から見た時に。占領軍がアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを裏切ったことは、明らかに「正しさ」とはかけ離れた行為だったという意見があるということも、また事実として認めなければならないでしょう。実際に、「卓越」した方々もそのような意見を持っていたからこそ占領軍の行為を否定したわけですからね。

「そして、「卓越」した方々さえ――つまり、本来であればその行為を正しい行為だとみなさなければいけない方々さえ――そう考えるのだとすれば。つまり、その考えは、「正しさ」であるということです。少なくとも、「卓越」した方々が至上のものと考えている「真実」よりは「正しさ」であるということです。つまりですよ、要するに、何が言いたいのかといえば。「卓越」した方々が「真実」だと思っているものは、実際のところは「真実」なんかじゃなかったということです。自由も、民主も、人間至上主義も。あるいは、全体主義への拒否反応でさえ……ただ単なるイデオロギー、ケースバイケースで間違っていることもある、一つの意見に過ぎなかったということです。

「そう、全体主義とは悪なのか? 彼ら/彼女らは、それを、本当に、たった一度でも、真剣に考えたことがあるのか? とある集団の内部において、その構成員が共通して「正しさ」であると認めなければいけない一つの形式が存在している。そして、構成員は、その「正しさ」から逸れることがないように管理されて、もしも逸れてしまった場合には一定の罰を受ける。このようにして、集団内部の秩序は完全に守られることになる、構成員は「正しさ」の範囲内での安全と生存とを保証される。全体主義というもののテンプレートは、基本的にはこんな感じですね。この主義の、この制度の、どこが間違っているのかということ。彼ら/彼女らは、それを一度でも考えたことがあるのか。

「まあまあ、色々と議論を進めていく前に、私の意見だけを申し上げておくとするのならば……あはは、いやー、私も、好きか嫌いかでいうとするならば好きではありませんけどね。嫌いですよ、全体主義なんて。だって、なんか、こう、うるさくいわれそうじゃないですか。こうしろああしろ、こうしちゃいけないああしちゃいけない。そりゃあ、私だって、そんな細かいところまでいちいち指示を出されるのは嫌ですよ。だから、百パーセントの全体主義は、ちょっとばかり勘弁して頂きたいですね。とはいえ、ですよ。そうはいっても……百パーセントの自由民主主義だって、それと同じくらい嫌ですよ。

「あはは、全体主義の対義語としては個人主義の方が正しいのかもしれませんがね。とはいえ、彼ら/彼女らの表面的な言語体系に従うとするのならば、自由民主主義がその反対の言葉ということになるでしょう。そして、百パーセントの全体主義が抑圧であるとするのならば……百パーセントの自由民主主義はね、砂流原さん。放埓なんですよ。百パーセントの自由民主主義、つまりそれは、従うべきだった形式の全て、慣習とされている行為を、規範とされている意味を、破壊し尽くして。その後に、個々人の欲望に拝跪するための、一つの無限の混沌を代わりものとした、abandonmentなんですよ。

「ああーっと、すみません、別に汎用トラヴィール語を使うこともなかったですね。abandonmentというのはですね、abandonという動詞に、動詞を名詞形にするmentをつけた単語でして、つまり……放棄すること、見捨てること、そんなことを意味する単語です。あはは、この単語の別の意味に、自由奔放とかそんな意味があるので、ここで使うのにぴったりな単語だったんですよ。とにかく、私がいいたいのは、百パーセントの自由民主主義というものが、見捨てるという行為に等しいということなんです。

「弱者を見捨てるということ、強者のみが愛され、弱者は存在さえも忘れられ、生きている限り続く苦痛の中で、完全な虚無として消え去っていくということ。それが自由民主主義の本質なんです。あはは、たまに、こういうことをいう人がいます。自由民主主義というのは、本来は、丸い三角形という単語のように矛盾した単語である。なぜなら、自由という価値観を優先するのならば人間の一人一人が尊重されるべきだという民主の価値観が疎かになり、反対に民主という価値観を優先するのならば、誰もが欲望を充足させる権利があるという自由の価値観が規制されるからだ。そうであるならば、自由と民主との間、その矛盾の構成の、均衡点を探ることによって。最適な制度状態が保証されることになるのだ、とね。

「あはは、まあ、誰もが自分の意見を持つということは大切だとは思いますけれどね。私にいわせて頂ければ、そんな意見は欺瞞以外の何ものでもありませんよ。うーん、どこからご説明すればいいですかね。まずは、自由ですが、これは問題ありませんね。このイデオロギーが極限まで到達した場合、単なる弱肉強食でしかなくなってしまうということ。そして、もしもなんらかの種類の対概念が自由を制御しない限りは、そのイデオロギーは、自動的に極限まで到達してしまうということ。それについて反対する方はいらっしゃらないでしょうから。

「一方で、民主ですが。これもまた、なんらかの……抑制機構が存在していない限り。やはり、動物的な混沌状態に陥ってしまうのは確実なんですよ。なぜか? なぜなら、民主とは、人間の一人一人に主権があるというイデオロギーだからです。誰もが正しく、誰もが尊重されるべきである。そうであるならば、とある主権者Aととある主権者Bとが別の意見を抱いてしまった時に、どのように調整をするというんですか? いいですか、砂流原さん。民主というイデオロギーは、ただそれだけでは、このAとBとの間の意見を調整するすべというものを、一切有していないんですよ。民主という価値観の上に、なんらかの超越的な概念、あらゆる主権を調整するところの超主権というものを設定し、その超主権から判断しない限りは、無数の主権は、無数の主権同士で殺し合いをするしかないんです。そうなれば、結局のところ、より力を持つ主権が勝利することになる。

「要するにね、砂流原さん。自由であれ民主であれ、どちらにせよ、それは「人間」の肯定であるに過ぎないんです。いや、ちょっと違うかな? 「人間」の欲望、「人間」の不完全性、そういった肯定すべきではない要素の、絶対的な肯定。それこそが自由であり、それこそが民主なんです。つまり、自由であろうが、民主であろうが、それを全く別の方向から、つまり「人間」の欲望と不完全性とを否定する方向からの制御がない限り、同じように暴走してしまうんです。その意味で、この二つは――完全にとはいわないまでも――ほぼ完全に同一のものなんです。

「そして、その制御こそが、その抑制機構こそが、全体主義なんですよ。人間に対して押し付けられるところの形式、それによって人間の欲望と不完全性とを矯正するところの形式。それこそが全体主義なんです。つまり、全体主義は全体主義だけでは機能しえないのと同じように、自由民主主義もまた自由民主主義だけでは機能しえないんです。

「そもそも、なぜ、全体主義を悪しきものだと思い始めたのか。私達はそれを考えなければいけなかったんです。あはは、自由民主主義が、自由民主主義の本来的帰結として、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを売り飛ばしてしまった時にね。まあ、結論から申し上げるとすれば……私達が本当に嫌悪していたものは、全体主義そのものではなかったんです。それは、今までの全体主義に付随していたところの、暴力と搾取とだったんです。今までの全体主義というのは、いうまでもなく第二次神人間大戦後のエスペラント・ウニートに出現した人間的文脈の神国主義、つまり神国原理主義だとか、あるいは人間至上主義過激派のような全体主義を指しているわけですがね。そういった集団が、人間の欲望や人間の不完全性やといったものの制御のために、暴力を使ったこと。私達が嫌悪していたのは、全体主義そのものではなく、その暴力だったんです。

「それは、まあ、嫌ですよね。暴力を振るわれたり搾取をされたりということは。けれどね、そういった暴力、あるいは搾取という方法は、全体主義だけがとり得る方法ではないわけです。例えば、搾取については……自由民主主義の下で、より巧妙なやり方で行われているわけです。あはは、砂流原さんは、私の記事を読んで下さっているらしいので、同意して下さると思いますがね。自由に競争が行われている中で、より優れた結果を残した方々が、より劣った結果を残した方々に対して、苛烈な搾取を行う。しかも、その搾取は、劣位にある方々の努力が足りないから、劣位にある方々に責任があるんだ、そのようにして正当化される。そうであるならば、全体主義が悪しきものであるのと同じ程度には、やはり自由民主主義も悪しきものであるというわけです。

「あるいは、あるいはですよ。全体主義そのものに対する反感も、一定程度存在しているでしょう。しかしながらね、砂流原さん。それは、決して理性的な反感ではないんです。どちらかというと本能的な反感、というか、それは……生理的現象としての反感に過ぎないんです。つまりですね、それは、いわゆる「反抗期」としての反感に過ぎないんです。あはは、人間ならば誰だって親だとか先生だとかそういう権力的なものに逆らうという傾向を持っているものです。思春期の頃にね。要するに、それなんですよ。それが、大人になっても消え残っている。しかし、大人になってしまったら、親だとか先生だとか、そういった何かに逆らうというわけにもいかないわけです。だから全体主義的な何かに逆らうようになる。

「なぜ権力に逆らうのか? 全ての理由は、後付けに過ぎないんです。それは、その行為は、本質的な意味で、自慰行為なんですよ。本質的な意味で……つまり、生理的な快感を得るための、一種の衝動の処理行為という意味でね。ただし、人類にとって、あまりにも根源的な欲求であるがゆえに。そして、生理的な処理行為を、公の場で行うという羞恥心を覆い隠すための正当化が、人類の黎明期から行われているがゆえに。その、一種の言い訳が、精密なイデオロギーの体系になっているというだけであってね。あはは、反権力というのは一種の自慰行為なんです。

「それからもう一つ理由があるかもしれませんね。二つ目の、全体主義自体に対する反感の理由。それは、つまり先生に褒められたいという理由です。エレメンタリー・スクールでもミドル・スクールでもハイ・スクールでもいいですが、「人間時代」になってから、最も基礎的な教育、義務教育においては、必ず自由民主主義的な価値観が叩き込まれるわけです。それは、授業として、論理的に学習するだけではなく。集団生活の中で、いわば行動原理として、絶対に逆らってはいけない根源的な欲求として刷り込まれるわけです。学校では、自由民主主義的なことをすればするほど先生に褒められるわけですよね。そして、それに反するような行動をすると怒られる。そりゃあ、怒られるよりも褒められる方が嬉しいわけで。すると、生徒達の中では、自由民主主義が絶対的な原理として刷り込まれるわけです。

「あるいは……先生に反抗するという形での自由民主主義の発露もありうるでしょう。そうすると、表面上は、先生に怒られることになりますがね。それでも、やはり、学校という集団社会の中では、そういった行動をする何者かは愛されることになるわけです。例えば、同級生からの尊敬を勝ち得る。その反抗した先生以外の先生から、自由民主主義的な行動をとった生徒として、一目置かれることになる。それに、往々にして……反抗されたところの当の先生でさえ、その生徒のことを目にかけるようになることがあるでしょう。あはは、砂流原さんもなんとなくお分かりになるでしょう、優等生よりもちょっとした不良学生の方が愛されるものなんです。そのようにして……自由民主主義的な行動をとれば、先生が褒めてくれるという刷り込みが行われて。それが大人になっても抜けていないということなんですよ。

「あはは、前者の理由と後者の理由とは一見すると背反しているように思えるかもしれませんがね。幼稚な欲望を引き摺っているということ、そして、その幼稚さを糊塗するために、自由民主主義イデオロギーという形で後から様々な論理構成を行っているということ。そういう根源的な側面から見れば、全く同じといわないまでも、酷似した理由であるということがお分かり頂けると思います。それにですね、人間という不完全な生き物は、往々にして矛盾した二つの論理をなんの疑問もなく受け入れてしまうものなんですよ。

「まあ、そんなわけで、全体主義への拒否感というものは……あはは、いや、いや、正直な話ね、こういったことはどうでもいいことなんです。自由民主主義だの、全体主義だの、そんなことはどうでもいい。大した違いではない、所詮は表面的な問題に過ぎないんです。皆さんが、とても深刻そうな顔をして、こういったことについて議論していらっしゃるから。私としても、一応は取り上げておいただけの話でしてね。ここで重要なのは、そういった些末な枝葉ではありません。そうではなく……「卓越」した方々が間違っていたということなんです。

「つまり、要するに。私がここまで長々と話してきた全てのこと、全ての具体例は、「卓越」した方々が間違っていたことを証明するための一つの方法だったということです。「卓越」した方々は、間違っていた、完全に、絶対に、間違っていた。そして、「卓越」した方々が間違っていたせいで、今日――いや、この今日というのは慣用表現で、つまりは昨日ということですが――何人ものデウス・ダイモニカスが、何千人もの人間が、惨たらしく虐殺されたというわけです。あはは、まあ、私は実際に見ていないので、惨たらしく殺されたのかどうかは分かりませんけどね。どうですか、砂流原さん。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの皆さんは、惨たらしく殺されていましたか? それとも、案外あっさりと殺されたのかもしれませんね。虐殺さえも事務的に行うようなところがありますから、ASKは。

「そう、昨日起こった虐殺、ASKによるアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの虐殺は、「卓越」した方々が間違っていたせいで起こったことなんです。そう言うと、もちろん、いうまでもなく、「卓越」した方々は否定なさるでしょう。それが起こったのは自分達のせいではない。GLUOのせいだ、暫定政府のせいだ、ASKのせいだ。権力のせいだ、金銭のせいだ、腐敗のせいだ。とにかく、自分ではない何者かのせいだ。ああ、もう止めて下さいよ、聞きたくありません。いい加減にお認めになったらいかがですか? この世界が悪くなったのは、あなた以外の誰かが愚かだったからではありません。あなた自身が愚かだったからです。

「左道曼荼羅に対して復讐を行うためにアーガミパータに介入することを求めたのはあなたです。アハム・ジャナスミが掲げる人間至上主義を歓呼の絶叫とともに受け入れたのはあなたです。神国主義勢力を悪しき勢力と決めつけたのはあなただし、暫定政府の成立を手助けしたのはあなたです。占領軍が南アーガミパータへと向かうのを後押ししたのはあなただ、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティをこの全てのことに巻き込んだのはあなただ、そして、何よりも、あなたは、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティがASKに売り渡されたことに対して、責任を持たなければいけない。なぜなら、占領軍は……あなたが出来なかったこと、あなたがしようとしなかったこと。それでも、本来ならば、あなたがするべきだったことを、あなたの代わりにしたに過ぎないからです。

「あはは、確かにあなたの手は汚れていませんよ。しかしですね、その綺麗な綺麗な両手を私の方に見せつけて、私の両手は汚れていない、だから私は間違っていないというのならば、私としては、それはただの偽善だと指摘せざるを得ないわけですよ。なぜなら、あなたの両手が綺麗なのは、あなたが、別の誰かに、手を汚す行為を押し付けたに過ぎないからです。あなたは、占領軍に、全ての責任を押し付けた。そう、もしも占領軍がアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを始末していなかったら。あなたは、決して、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの存在を許せなかったでしょう。

「もしも、仮定的な未来において、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが、その本性に従って、神国主義ゲリラの側についていたら。人間至上主義に反旗を翻していたら。あなたは、それでも、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを肯定出来ますか? あはは、ご冗談を、そんなわけがない。あなたは、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを裏切った暫定政府に失望したように、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティに失望していたでしょう。そして、躊躇いさえ見せずに、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを……全体主義者を皆殺しにしろと叫んだでしょう。あなたは変わってしまったといって、あっさりと別れを切り出す恋人のようにね。つまりはそういうことなんですよ。つまり、あなたが占領軍の暴力性として糾弾したのはあなたの暴力性に他ならないし、あなたが占領軍の狡猾性として指弾したのはあなたの狡猾性に他ならない。だから、だからこそ、私はこう言うのです。あなたの感動が、虐殺を起こしたんです。あなたの憎悪が、虐殺を起こしたんです。

「砂流原さん、砂流原さん。つまりですね、このアーガミパータにおける、全ての悪徳。全ての抑圧、全ての搾取、それから、罪なき者の全ての絶望。そういったものは、全て、全て、「卓越」した人々が産み落としたものだったんです。ああ、もちろん……あはは、これはもう一度申し上げたことですけれどね。今までずっと私が使ってきた、この「卓越」した人々という言葉は。別に、エリートという言葉の代替品として使っているわけではありません。政治的なエスタブリッシュメント、経済的なトップキャピタリスト、あるいは、あらゆる学問において、その学術的方向性を決定するオーソリティー達。私がこの「卓越」した方々という言葉で言い表したいと思っているのは、決してそういった方々のことではありません。

「そうではないんです。そんな外形上の、表面的な話をしているわけではない。もっともっと根源的な、一つの形式について話しているわけです。つまり、私が「卓越」した方々という時の「卓越」した方々とは、自分こそが「卓越」した存在だと信じて疑わない方々のことを指しているわけです。

「例えば、それは実存を信仰する方々です。人間という生き物について、その生き物には、あらゆる外的な影響の前段階として、ある種の「意志の力」としての実存があると考える方々です。真実の自己というものを、自分の手で作り出して、その真実の自己に傅いていることこそが真の生き方だと考える方々。他者から押し付けられた「これこれであるべき」「これこれをすべき」という外的な命題を全て偽りのものであると切り捨てて、そこから自由になることこそ重要であると考える方々。そして、そのようにして、いわば偽造したところの「自分」という概念を。紛い物に過ぎない概念を、この世界と対立させるという、あまりにも低能で、あまりにも傲慢で、そんなことをする意味がどこにあるのかということさえ理解出来ない――なぜなら、そもそも「自分」なんていうものは存在しないんですから――ような行為に及ぶ方々。そういう方々こそ、「卓越」した方々の名に相応しい。

「あるいは、それは構造を懐疑する方々でもあるでしょう。あらゆる構造、政治的構造にせよ、経済的構造にせよ、文化的構造にせよ、社会的構造にせよ。それは絶対的な価値観などではなく、また絶対的な価値観に到達出来るものでもない。なぜなら、各集団に固有のものであると思われる価値観、「善きもの」と「悪しきもの」という価値観には、その二項対立が成立するという科学的な根拠は一切ないからだ。それはある種の迷信でしかない。そう考える方々です。構造というものは、あくまでも主観的な構造物であって、客観的な構造物ではない。それを盲信することは、論理的な立場からは絶対に正当化出来ることではない。あらゆる構造は相対的なものだ、立場によって、それが正しいか間違っているかということは変わってくる。確かに、あらゆる構造の上部構造として、ある種の普遍的な構造、人間的な構造というものは存在しているだろう。ただし、それがどうしたというのだ? その構造は、正しいわけでも間違っているわけでもない。それは価値判断ではなく、ただ単に構造に過ぎないのだ。そう考える方々も「卓越」した方々と呼ぶべき方々でしょう。

「ああ、そうなんです! 後者の方々、構造を懐疑する方々も、やはり、自分が「卓越」した存在だと信じて疑わない方々なんです。だって、よく考えてみて下さいよ。この世界のあらゆる構造が相対的だというのならば、私達は、どうやって何かを選ぶことが出来るっていうんですか? まあ、私も、確かに認めましょう。全ての構造は主観的なものであって、私達の価値観がそういった構造に依存している以上は、私達は客観的な判断を下し得ない。それは、まあいいですよ。でもですよ、だからといって、なんで全ての構造が相対的だという結論に至るんですか? それとこれとは別の話でしょう? いいじゃないですか、主観的な構造を絶対視したって。というかですよ。あらゆる人間が、何かしらの構造の一部である以上、その構造を肯定しなければ、行動という行動は完全に不能となるはずなんです。全てが相対的であるとするならば、AとBとを選ばなければいけない時に、AとBとのどちらかを選ばなければいけない時に、一体どうするんですか? AもBも相対的であり、どちらかを選択するのは馬鹿げている、そんな馬鹿げていることをするくらいなら死を選ぶとでもいうんですか? もしもそうするのだというのならば……あのですね、はっきり言わせて頂きますが、馬鹿なのはその方ですよ。

「例えば、右の人間を見殺しにするか左の人間を見殺しにするかを選ぶ時には、どうしたって絶対的な基準、少なくとも自分が主観的に絶対的だと信じている基準が必要なんです。生きている限り、行動には、絶対に、絶対的な基準が伴っている。それでも、あらゆる構造が相対的であって、それは絶対的な基準たりえないとするならば。それはもう、そういう方は。自分という存在を絶対的な基準としていると考える以外にはないわけです。

「構造を疑う限り、自分を信じるしかない。しかも、構造から遊離したところの、非常に頼りない、どこまでも曖昧な、自分という錯覚を絶対視するしかない。そうなんです。構造を懐疑する方々は、絶対的な審判者であるところの自分自身に確信を抱いている。そして、その審判者の視点から、全ての構造は相対的だと断じているわけです。そういった方々にとって、構造という名の外的な影響から解放されたところの「自分」こそが、信じるに足るただ一つのものなんです。つまりですね、砂流原さん。構造への懐疑とは、形を変えた実存への信仰に過ぎないんですよ。

「そう、こういった方々こそが、つまりは「卓越」した方々なんです。自分というそもそも存在しないものを信仰し、その他のあらゆるものを懐疑する方々。それか……あはは、もっと分かりやすく、砂流原さんがお使いになった言葉を使って申し上げた方がよろしいですかね。それはつまり、自分以外の何かに「絶対的に服従」しない方々であり、「隷属」しない方々です。自分が自分であるという責任から逃げず、どこまでも運命に抗う方々。あらゆる抑圧とあらゆる搾取とを拒否し、それを、自分の力で、自らの自由意思によって変えていこうとする方々。それが、私の定義するところの、「卓越」した方々だということです。

「あまりにも卑小な生物が。

「あまりにも傲慢な態度で。

「自分という個体が、何よりも。

「自分が所属している人間という種よりも。

「絶対的に優れているのだと、考えること。

「人間。

「至上。

「主義。

「それこそが。

「根底的な。

「根源的な。

「愚かさなんです。」

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