第二部プルガトリオ #33

「さて、それでは! そろそろ本題に戻りましょうか! 私達が真の幸福であるとする「快楽」とは一体なんであるかということに関して、えーと、どこまで議論を進めたところでしたっけ? ああ、そうそう、「安全」についてお話ししたところでしたね。「安全」とは、苦痛と嫌悪とから免れているということである。そして、その苦痛と嫌悪とは、遺伝的に引き継がれている生物学的な反応によって感覚され、関係知性という環境によって反応が引き起こされるところの、一つの全体的な防衛反応、集団の内的原理の発露であると定義したわけです。

「となると、ですよ。ここでいう苦痛と嫌悪とは、一般的にいわれるところの苦しいだとか痛いだとか嫌だとか、そういうものと同一のものではないということになるんです。そういうものは、私達の定義に使われる苦痛と嫌悪とよりも、一層単純なものである。というか、非常に限定的な意味しか持たない。えーと、抽象的な説明だとちょっと分かりにくいかもしれませんね。若干、具体的な次元に落とし込んでいきましょう。

「以前にも少し触れましたが、私達は、生活というものを発生させるための労働という行為を――生きがいのような言葉で定義される活働とは全く異なった行為を――前提としなければ、生きていくことが出来ません。そして、労働というものは、明らかに、私達にとってはひどく面倒なものであるわけです。毎日毎日、部屋の掃除に衣服の洗濯に。わざわざどこかの店に行って、自分の食べる物を買ってこなければいけない。水回りの掃除をして、阿呆みたいに溜まっていくゴミを捨てて、そこら中に散らばっている本を片付けなくてはいけない。こういうことは、一般的な意味でいえば、明らかに「嫌なもの」だとしかいえない。

「とはいえ……実際に、それがなくなってしまったら、どうなるか。つまり、労働がなく、ただただ生活を消費するだけになってしまったら、果たしてどうなるか。本来は、というのは生物学的にはという意味ですが、労働と消費とというのは、一つの円環的な行為であるはずなんです。つまり、それは規則的な行動の二つの側面であって、例えるならば誕生と死亡との連続性と似たようなものなんです。簡単にいうと、人間という動物にとっては、労働と消費との二つの間での均衡が保たれていて初めて、自分が通常の状態であると認識出来るということです。

「それゆえに、労働という側面をなくして消費という側面だけを残すと。均衡が崩れてしまった結果として、人間という動物は、その生活からは、もはや百パーセントの「安全」を感じられなくなってしまう。あまりにも異常であるがゆえに、純粋な生物学的反応として、そういう生活に対してある種の嫌悪を感じてしまうんです。具体的には……クールバース朝の時代を生きていた貴族の例を出すのが一番分かりやすいかもしれませんね。彼ら/彼女らは、全ての労働をハウスキーパーに任せていたのですが、その労働の欠如に耐えることが出来ず、常に倦怠に飽いていました。そして、その倦怠をなんとかするために、労働の中の最たるもの、要するに生き物を殺して食料とするという行為の代替えとして、遊技という形の狩猟を生み出さざるを得なかった。もちろん、彼ら/彼女らは、生きがいとしての活働に従事していました。彼ら/彼女らは、政治家であり経営者であり医者であり教授であったわけですからね。しかしながら、それでは駄目だった。活働では労働の代替えとはならなかったんです。

「つまりですね、人間は、自分にとって何が苦痛であって何が嫌悪であるのかということを、自分自身で決定することが出来ないだけではないんです。それどころか、そういったことの具体的な内容を、はっきりと知ることさえも出来ない。苦痛と嫌悪との因果関係を理解することが出来ないんです。もちろん、なんとなくは分かるんですよ、ただし、それは間違った形でしかない。労働を面倒だと思うように、あるいは……そうですね、本当は愛している何者かに対して、ただただその先入観のゆえに、強迫観念的な嫌悪感を抱くというようにね。あはは、砂流原さんも、そういったことがあるんじゃないですか?

「人間の苦痛と嫌悪と、それから、それに伴う歓喜とは、決して自分自身だけのもの、プライベートなものではないんです。それは、あるいは生物学的なものであって、あるいは関係知性を原因とするものである。だからこそ、私達は、それについて理解出来ない。それは……最も、最も、根源的であると思える感情。動物的であるほどに原初のものであって、それゆえに、一般的には、あらゆる観念の拘束を破壊しうると考えられているもの。性愛の歓喜についてさえもいうことが出来るんです。性愛の歓喜も、ただただ人間存在そのものから発生するものではない。それどころか、それは純粋に生物学的なものでさえない。それは、共同体の内的原理によって、初めて具体化されるところの歓喜なんです。

「なぜなら、ある人間が、別の人間にせよ、異なる種の動物にせよ、あるいは美しい音楽の旋律にせよ、何かしらを性の愛欲によって愛するのは、決して動物的な感覚だけに起因するものではないからです。性欲そのものは、確かに動物的なものでしょう。そして、他の人よりも男性を愛しやすいのか、女性を愛しやすいのか、あるいは人間ではない何かを愛しやすいのか。そういった傾向も、やはり動物的なものでしょう。しかし、その動物的な感覚であったはずのものを、構造的に破綻させることで、何に対する愛として結実させるか。それは、ひとえに共同体の関係知性によるものです。ある男性がある女性を愛さなければいけないのも、ある女性がある女性を愛さなければいけないのも。あるいは、ある男性が一人の女性と一人の男性との両方を愛することが出来ると考えるのも。犬や猫やといった動物に愛を感じるのも、ゲコルティエのあらゆる葬送曲の美しさを愛するのも。それは、私達が、そうするべきであるという共同体的な論理によって、その方向に愛の力を向けさせられたからなんです。

「愛さえもあなたのものではないんですよ。人間という種のものであり、また、共同体から押し付けられたものなんです。そうであるならば、なぜ、私達は、私達だけで、苦痛と嫌悪とを定義付けられるというんですか? あはは、そういうことなんです。私達は、「正しさ」を定義出来ないように、「安全」も定義することが出来ない。下等な生物としての人間を超えたところにある「正しさ」についても、知的生物としての人間の根底にある「安全」についても、私達は、それを定義することが出来ないんです。

「ようやくここまで来ましたね。ここまでくれば「快楽」とは何かという核心部分にあと一歩で踏み込めるでしょう。そして、その一歩を踏み込むために、私達は、遺伝と環境との論理に続くもう一つの論理を使わなければいけない。そうです、そうです、「清めの欲望」と「穢れの欲望」とからなる論理です。

「人間は、いついかなる時に「快楽」を感じるのか? ここでいう「快楽」とは、もちろん一般的な意味における快楽ではなく、私達が真の幸福と呼ぶところのものを「卓越」した方々がそう呼ぶ場合においての「快楽」であるわけですが……ここまで来たら、もう勿体振る必要はないでしょう。はっきりといってしまえば、それは、あらゆる意味における私的領域の構成です。そう、本当にあらゆる意味におけるね。

「普通、構成という場合、それを作り出すとか組み立てるとか、そういう意味しかありません。しかしながら、私的領域の構成という場合は、もう少し異なった意味を持ちます。それは、ただ単に、それをこの世界に現出させるという行為ではない。もっともっと、不条理なやり方によってしかそれは成し得ないんです。それは……比喩的ないい方をするのならば、私という肉体の皮膚を剥がし取ることによって初めて可能になる。分かりやすいが完全に正しいとはいえないいい方をするならば、自分自身が自分自身ではないということを知ることによって初めて可能になるんです。

「これを理解するには、私が今まで提示してきたところの幾つかの議論を、総合的に融解させる必要があります。そうですね、まずは取っ掛かりとして……以前、私達は、この世界を二つの状態によって区別しましたね。一つが記号的状態でもう一つが人間的状態です。この区別された構図の中に、知的生命体とは一体何かという定義を投射してみて下さい。知的生物は、生物を脅かすところの条件、生物の外側にある条件から「安全」であるということによって、他の生物とは異なっているというあれです。そして、そこに、人間という生き物が、知的生命体の中でも、関係知性という種類の知性を所有しているという前提を、前提として加えてみましょう。すると、一体どうなるか。

「まず第一に理解出来るのは、人間的状態における混沌の原因は関係知性というものの不確かさに起因しているということです。当然ながら、ノスフェラトゥには人間が感じているような混沌はないでしょうし、舞龍にはそもそも混沌さえ存在していないでしょうからね。あの方々には、というのはつまり舞龍の方々にはということですが、ただ一つの自分自身というシステムがあるだけです。そして、その次の段階において理解出来るのは、私達の「安全」は、確かに外的な条件、環境だとか遺伝だとか、そういった条件からは保証されているが、内側にある混沌、つまり関係知性の不確かさからは保証されていないということです。

「もう少し簡単にいうと、私達は「私達が私達自身のことを理解出来ない」という危険に常に晒されているということなんです。そうであるならば、私達が「安全」であるためには、どうしても「私達」が何者であるのかを理解しなければいけない。しかしながら、実質的にそれは不可能です。なぜなら……「器の中にはその器の大きさよりも多くの黄金を注ぐことは出来ない」からですよ。私達が私達のことを理解するためには、まずは私達の関係知性がどのような構造であるのかということを理解しなければいけません。しかしながら、そのためには、関係知性を外側から眺める必要がありますよね。ということは、それは、関係知性よりも大きな視点によってしかなしえない仕事であるわけです。ということは、その観察する対象の関係知性と同じだけの知性しか持っていない私達には、絶対に不可能な行為だということです。

「あはは、砂流原さん、砂流原さん! どうも納得がいっていらっしゃらないようですね。お気持ちは分かりますよ。この比喩は、どうも比喩として適格ではないような気がする。しかしながら、これは直感的な意味において真実です。人間は人間を理解出来ない。その証拠に……もしも人間が人間を理解出来たとするのならば、人間によって構築された完全な集団というものが既に出来ていておかしくないはずですよね。けれども、私達は、私達の歴史の中で、一度たりともそのような集団に出会ったことはないんです。私達が完全な集団というものに出会うのはただ神話時代だけ。そして、神々は、私達の持つ関係知性よりも遥かに大きい知性を有しているんですよ。

「まあ、それはそれとして。私達は「安全」であるために、人間的状態を記号的状態に落とし込まなければいけない。しかも完全にね。けれどもそれは不可能です。そうであれば、どうするべきなのか。まず一番重要なことは、それが不可能であるということを明確に認識することです。もしもそれが可能であると考えてしまえば、もしかして、私達自身のことを理解し切れていないにも拘わらず、それを理解したと勘違いしてしまう恐れが出てくるわけです。そうなれば、まるで間違った混沌の中で、あらゆることが引き潰されていく恐れがある。それだけは絶対に避けなければいけません。更に、それだけではなく……それが不可能であっても、それを追求していかなければいけない。

「あはは、だって仕様がないじゃないですか! 不可能だとはいっても、危険の中で生きていくのなんてまっぴらごめんですよ! そうであるならば、まあ無理だろうなとは思っていても、なんとかそれに近付いていこうとしなければいけないわけです。そして、このようにして、なんとかして「安全」な状態に近付けていこうとする行為を……私達の「超越」の議論と重ね合わせてみましょう。

「私達は「超越」をいかなるものとして定義したのか。それは、実際に超越するということではありません。そうではなく……人間であるということを、いや、違いますね、自分自身であるということを、常に否定し続けるということです。自分自身というものは、どうしようもないほどに出来損ないであるということを自覚して。そして、その不完全な状態から抜け出そうという努力をすることである。そして、その抜け出そうという行為は……絶対に自分自身の力によって行われてはいけないんです。それは、絶対に、絶え間ない努力や、弛みない営為や、そういう自発的な行動によって行われてはいけない。その「超越」という行為は、ただただ、自分よりも遥かに完全な何かを信じるということ、あるいは、その完全な何かが計画したところのインテリジェント・デザイン、「運命」というものを受け入れることによってしかなしえない。

「そして私達は、その行為の原動力となる欲望のことを「清めの欲望」という言葉でいい表したわけですね。さて、それでは、なぜ私達は「清めの欲望」を欲望しなくてはいけないのか? なぜ、私達は、より「正しさ」の方向に近しい何者かにならなければいけないのか? あはは、砂流原さん! いいですか、はっきりといってしまえば、私達は「清めの欲望」を欲望する必要なんてないんです。だって、私以上の何者かになる必要なんてどこにあるっていうんですか? もしも、この世界に、意味も目的もないというのならば。私は十分に私として私なんです。そして、もしもインテリジェント・デザインを前提としないならば。この世界には「運命」なんていうものはないという明々白々たる事実を受け入れるならば。意味も目的も、私たちにとっては、その欠片さえも存在し得ないものなんですよ。

「だって、そうでしょう? 意味だとか、目的だとか、そういったものは、何かが完成する過程でしか生まれ得ないものです。ト・フー・ヘネカ、私達が「それ」であるために私達であるところの「それ」こそが目的なのであって、そして、意味というのは、「それ」を構成する一つ一つの欠片に過ぎないわけです。そうだとするならば、より「正しさ」の方向へと近付くということ、「運命」というインテリジェント・デザインが存在しないのならば、意味だとか目的だとかいう概念も、やはり存在し得ないんです。

「まあ、私としては別に構わないんですけどね。「運命」なんて存在しない、だから、私達が生きるのには意味も目的もない。以上、お終い! これでも全然問題ないのですが、とはいえ、全世界の人間にとってこれでもいいのかというと、そういうわけにもいかないわけです。例えば、私だったら、人と人とがむやみやたらに殺し合っているのを見るのが楽しいというような、この世界には生きるに足るほどの美しい虐殺が存在しているというような、そういう無意味な欲望がありますが。全ての人間にそういう欲望があるのかというと、そういうわけではないじゃないですか。いや、大体の方は虐殺が好きだとは思いますけれど、そのために生きるというほどめちゃくちゃ好きではないわけですよ。

「大体の人間には、生きる意味というものが必要であって、生きる目的というものが必要なんです。生きる喜びに紐付けられるような動機というものが必要なんですよ。もちろん、普通の人々は、それを意識しません。例えば……私にこう反論する方もいるでしょう。この世界には、目的も意味も必要ない。日々の食事を口にする時、それだけで喜びがある。朝目覚める時に、夜眠る時に、生きることそれ自体に喜びを感じる。仕事をする時に誰かの役に立つ喜びを感じ、本を読む時に知識を得る喜びを感じる。そして、愛する人。大切なパートナーと共にいるだけで、大切な子供達を慈しむだけで、喜びを感じる。それだけで、生きるのには十分ではないか。こんな感じですね。

「いや、まあ、そりゃそうですけどね。そりゃそうですけど、しかしながら、僭越でございますが、その反論に対して、再反論をさせて頂くとするならば。あなた方がそういったこまごまとした日常の所作に対して喜びを感じるのは、それらの所作に分かちがたく付着しているところの、共同体的な意味というものを、無意識のうちに受け入れているからなんですよ。

「例えば、なぜ、あなたは人を愛するのですか? パートナーであれ子供達であれ、なぜあなたは人を愛するのか。あはは、これは、先ほども議論した通り、あなたが共同体的な先入観を無条件で受け入れているからですね。パートナーを愛すること、子供達を愛することが「常識」だと思っているからそうするわけです。あるいは、知識を得ることが喜ばしいことだと思うのも、誰かの役に立つことが喜ばしいことだと思うのも、やはりそうすることが正しいという「常識」によってそう思い込まされているからでしょう。まあ、日々の食事だとか、夜に眠ることだとか、そういったことは、生物学的な本能が、喜びの原因の一部となっているかもしれませんけどね。とはいえ、あなたは、日々の食事のためだけに生きることが出来ますか? あるいは、夜眠るというそれだけのために、この生命という絶え間ない苦しみ・痛みを耐えられますか? そりゃあ、そういった方面の本能が異常に発達している、一種の精神病の方々は、それだけで生きることが出来るかもしれませんがね。とはいえ、そんな方々はごくごく一部であるわけです。

「ああ、念のため断っておきますが「食べることそれ自体」と「美食の喜び」とは全く別のことですよ。「美食の喜び」は、そこに「美しい」という言葉が入っている通り、ある一つの目的、「美しい」という目的が存在するという前提によってのみ成り立つものです。もしも、意味も目的もないのならば、それはただの神経系の刺激に過ぎません。そして、そこに残るのは「食べることそれ自体」という、極めて生物学的な本能だけです。まあ、塩分だとか糖分だとか脂質だとか、多少は他の食べ物よりも神経系への刺激が強い物はあるでしょうがね。

「とにもかくにも、そこに向かうべき目的とその道程に付随する意味とがなければ私達は耐えることが出来ないんです。生きるということに伴う絶え間ない苦痛にはね。そう、苦痛です。そして嫌悪です。あはは、砂流原さんは、もしかして、こういう疑問を抱かれるかもしれませんね。先ほど私達は、共同体的な論理がなければあらゆる歓喜が存在しないのと同様に、やはり苦痛と嫌悪とも存在し得ないということを議論したではないか。そうであるならば、意味と目的とを持たない人間は、歓喜を持たないのと同じように苦痛と嫌悪とを持たないのではないか?

「あはは、勘違いされてますよ砂流原さん! そうじゃない、そうじゃないんです。意味と目的とを持たない人間は、意味と目的とだけを持たないんです。そういう人間であっても、やはり関係知性の断片であって、そして共同体の一部なんです。意味と目的とを持たない共同体、虚無の共同体の、ね。その虚無の共同体は、歓喜に至るための論理は何一つ持たないが、人間に対して苦痛と嫌悪とをもたらす論理は持っているんです。それは、あなたという存在は完全に無意味であるという論理です。

「虚無の共同体に属している方々は、その論理によって全生活を構築しています。それゆえに、生活の所作の一つ一つが、ただただ苦しみであり、ただただ痛みである。あはは、だって、あなたが払う全ての犠牲には意味がなく、あなたが味わう全ての悲惨には意味がないんですよ。そして、あなたは、あなたが美しくあって欲しいと思う全てのものが、実は美しくもなんともないということを知っているんです。だって、美しいというのは、所詮は幻想に過ぎないんだから。んー、まあ、確かに……そういう生命が、一つの慰めであって、安心して生きることが出来る生命であるということは否定しませんけどね。とはいえ、それはごく少数の人間にとってそうであるというだけなんです。大半の人間にとってはそんな生活は耐えられないんですよ。

「ということで、普通であれば、虚無の共同体に所属している方々は自殺をするわけです。意味も目的もなく、「運命」をも信じないというのならば。共同体的な押し付けによって生活の所作に付着した意味を無意識のうちに受け入れるということをも、絶対的に拒否するというのならば。それはもう、苦痛と嫌悪とから逃れる方法は死以外にはないということですよ。あはは、まあ……これもまたやはり、私としては、別にそれで構わないんですけどね。というか、かえってこういう結末の方が好ましいかもしれません。この世界から、醜くて愚かしい、どこまでもどこまでも不完全な生き物、人間という生き物が消えてなくなるわけですからね。それはそれですっきりしていいかもしれません。とはいえ……このように、人間がいない方が清々しいという価値観も、やはり何かしらの意味と目的とによって生み出された「完全性」というインテリジェント・デザインを前提としている以上は、私達は、どこまでも「運命」から逃れられないと言わざるを得ないでしょうね。

「さて、これが、私達が定義したところの「超越」であるわけです。それでは、この「超越」と「安全」とをどのように関係付けることが出来るのか? そして、その関係性が、私達が真の幸福であると考えるところの「快楽」にとってどんな意味を持ってくるのか? あはは、砂流原さん、注意して下さい! ここからが「快楽」という概念を理解していく上で一番難しいところですよ。

「まず、重要なことは……「超越」も「安全」も、基本的には私的領域の内部で行われるべき行為であるということです。「超越」は「清めの欲望」を実現するために行われ、「安全」は「穢れの欲望」を充足するために行われる。ということは、そのどちらの行為も、私という何者かをも含めた、あらゆる目と耳とから隠されていなければいけない。たった一人で、どんな他者も介在させることなく、それをしているということさえ意識しないで、それをしなければいけない行為であるということになります。

「しかしながら、その一方で。その二つの行為は、決して自分自身という何者かに属する行為ではないという点でも共通しています。例えば「安全」とは、苦痛と嫌悪とから免れているということですが、とはいえ、私達は、その苦痛と嫌悪とがなんであるかということを理解出来ない。また、「超越」についていえば。私達は、私達を「超越」に導くところの「運命」がいかなるものであるのかということを知らない。それどころか、実際に「超越」という行為が可能であるのかということについても不可知である。

「と、いうことはですよ。ここで大きな矛盾が生じてしまうわけです。「超越」にせよ「安全」にせよ、それらの行為は、私以外の何者からも隠されていなければいけない。そうであるにも拘わらず、私は、それを決して理解することが出来ない。それどころか、その行為は、私以外の何者かによって規定されているがゆえに、自分自身という何者かからは無関係に生じているのです。そんなことが可能なのか、というか、そんな行為がありうるのか。もしかして、私達が組み立ててきたところの論理は、全て破綻した論理だったのではないか。

「あはは、いえいえ! そんなことはあり得ませんよ! この論理には矛盾なんてありません。むしろこうあるからこそ、全くもって完全な理論であるということが証明されうるんです。つまりですね、ここで重要なのはですよ、砂流原さん。「私」という何者かが「自分自身」であるという、はなはだ非論理的な偏見を放棄するということです。あなたはあなたではなく、私は私ではない、この当たり前の事実を受け入れることによって、「快楽」というのは初めて理解しうるんです。

「ここまで、何度も何度も何度も何度も申し上げてきたことを、もう一度申し上げましょう。私達は、関係知性の一部なんです。私達は、決して個人などという、あらゆる関係性から分断された存在ではあり得ない。私達は、私達が持つ意識というものは、集団の中の一側面、断片に過ぎないんです。私達が思ってていること、考えていることは、実際のところは私達がそれをしているわけではない。集団がそれをしているんです。集団において正当であると律法されている行為が、私達として実現されているに過ぎないんです。砂流原さん、騙されないで下さい。あなたが思考している思考、感覚している感覚は、あなたではない。そもそも、あなたはあなたではないんですからね。

「そうであるならば、私だけが行為することの出来る、私的領域においての行為とは、一体何か。というか、そもそも、私が私ではないというのならば、私的領域とはなんなのか。あはは、砂流原さん、お分かりになりますか? えーとですね、ここは一つの論理の飛躍が必要になってくるところなんですが……いつまでも勿体振っていても仕方ありませんね。もう、答えを出してしまいましょう。それは、まさに、記号的状態のことです。というか、人間的状態を記号的状態にする全ての行動が行われるべきフィールドです。あはは、だって、よく考えてみて下さい。「超越」も「安全」も、やはり記号的状態を目指す行為……人間という混沌に秩序を与えるべく行われる行為であるわけでしょう? そうであるならば、これ以外に適切な定義は思い付けないわけです。

「ここで……はっきりとさせておかなければいけないかもしれませんね。この論理を理解するために躓きの石となる部分。私的領域と公的領域との違いという部分です。砂流原さんもこう思われたんじゃないですか? 私が自分自身ではなく、集団の一側面としての性格しか持たないというのならば、私的領域も公的領域もないのではないか。あはは、そう、そうなんですよ! これは非常にこんがらがってくる部分でしてね。そもそも「私的領域」という用語と「公的領域」という用語が分かりにくいというところがあるのですが……ただ、これ以外の用語を思い付くことも出来ないので、仕方なくこれを使うしかないんですよね。

「とにかく、一つずつはっきりとさせていきましょう。まず、私達は公的領域をどのようなものと考えているか? それは、勝者と敗者とが決定する場所です。他者を犠牲にして私の欲望を充足させようとする場所です。つまり、関係性による抑圧と搾取とが起こる場所だということです。と、いうことはですよ。公的空間においては、既にゲームは始まっているということなんです。集団における関係知性は、ゲームのルールとして決定されていて。そして、そのルールに従って、政治を・経済を・文化を・社会を、私達は実行しているということです。つまり、公的領域とは、私と他者との関係性が発露する場所だということです。

「その一方で、私的領域には完成した関係性は存在していません。むしろ、そういった関係性の根本となるものが発生する場所。つまり記号化された関係知性が生育するところなんです。そこでは、ゲームのルールが形作られる。つまり、あらゆるものが秩序化していくところである。そう、つまりですよ、公的領域というのは、関係性が発露するところという意味で「公的」なんです。そして、私的領域とは、その領域が関係性によって形作られていないという意味で「私的」なんです。とはいえ、その領域は関係性と関係ないというわけではない。それどころか、関係性の律法が行われる場所であるわけです。

「さて、こう考えていくと、だいぶんとすっきりしてくるんじゃないですか。そして、ここまで考えてきた全ての論理を一つの定義に収束させることによって、ようやく、「快楽」という概念について、つまり私的領域の構成について理解出来るようになるわけです。私が……私が自分自身でない以上、私は集団であるわけです。正確に言えば、私の中に渦巻いている人間的混乱は、私が所属しているところの集団における人間的混乱であるということです。さて、私達は、この人間的混乱に秩序を与えることによって、全ての関係性にとってのクライテリオン、つまり集団におけるルールを決定しようとするわけです。しかしながら……ここで、一つ、重大な問題が出てきます。その人間的混乱を秩序化するべき方向性が、二つの方向に引き裂かれているということです。

「一つは「超越」へと向かう清めの方向。もう一つは「安全」へと向かう穢れの方向。言い換えるならば……一つは下等生物であることを抜け出して、より良き何かになろうとする欲望。もう一つは、知的生命体として、苦痛と嫌悪とを免れようとする方向です。この二つは、上へ向かうものと下へ向かうものと。全く逆の世界を指し示す方向性ではありますが……しかしながら、その一方で、同じ直線状にある二つの方向性でもあります。そう、全く反対のものでありながら、その目的は根本的な部分で一致しているのです。例えば、私達が「超越」を追い求めるのはなぜか? それは、私達が、虚無の共同体から逃れるためです。苦痛と嫌悪とから逃れて、生きるということの意味を、純粋な歓喜として感じるためです。一方で、私達はいかにして「安全」を獲得しうるか? それは、私達がより高度な知的生命体、より良き知的生命体となることによってのみ可能であるわけです。

「ということは、その共通性を視点として、「超越」と「安全」と、「清め」と「穢れ」と、バランスをとることが出来る。そして……ああ、ようやく、ようやくですよ、砂流原さん……そのバランスこそが、私的領域の構成、つまり、私達にとっての真の幸福であるところの「快楽」なんです。ああ、ここまで来るのにどれだけの議論を重ねなければならなかったことか! とはいえ、そのおかげで、これ以上ないというくらいに明確な定義を形作ることが出来ましたね。私達にとっての「快楽」とは以下のようなものです。集団における人間的状態を記号的状態に昇華することによって関係知性に秩序を与えるという過程における、「清めの欲望」と「穢れの欲望」との均衡。つまり、そういうことです。

「さて、さて、さて! これでようやく、私達は、栄光の羊の喉を引き裂くための剣を手に入れたというわけです。つまり、私達にとっての真の幸福とはなんであるのかということを定義し終わり、あとは「卓越」した方々にとっての真の幸福と私達にとっての真の幸福と、そのどちらが人間にとっての「正しさ」であるのかということを考えていくこと、その仕事だけが、なされるべき仕事として残されているということです。

「ただ、それを考えていく前に……もう一つだけ、砂流原さんの中にある、ちょっとしたprejudiceを排除しておく必要があるでしょう。あはは、そのprejudiceは、人間至上主義を信じている方々の中では、あまりにも強力になってしまっていて、もはやprejusticeといっても過言ではないほどの概念と化しているのですが……それは、つまり、「正しさ」を持つ思想は人間に対して害を与えないという前提です。もう少しはっきりと言ってしまえば、「正しさ」を持つ思想は、人間を虐殺することがないし、人間を搾取することがないし、人間を抑圧することがないという思い込みです。「卓越」した方々を否定するには、あるいは、私達の剣によってデミウルゴス殺しを果たすには。まず、この思い込みを捨て去らなければいけません。

「えーと、勘違いのないように念のために言っておきますがね。私は、人間のことを虐殺しないような「正しさ」の思想がこの世界に存在しないということを言いたいわけではありません。それは、まあ、恐らくあるのでしょう。とはいえ、そういった思想は、あまりにも複雑過ぎて私達には決して辿り着くことが出来ないはずです。それは、つまり、神々やその他のゼティウス形而上体の方々の思想なんです。

「というかですね、それ以前の問題として、そのような「正しさ」の思想があったとして、そんな複雑な思想を、人間は、絶対に実現出来ないんです。なぜなら、馬鹿だから。どうしようもなく低能だから。定められたステップを踊ることさえ出来ない白痴の兎だからです。人間は、必ず、どこかで間違えるんです。あはは、これはですね、砂流原さん。私が勝手に予測したことであるとか、そうなんじゃないかなと思ったことだとか、そういうことじゃないんです。厳然たる、事実なんです。

「ああ、砂流原さん! そんな顔をなさらずに! 決めつけはよくありませんよ、prejusticeを捨てて、よくよく考えてみて下さい! 今まで、人間が抱いた思想の中で、一つでも、たった一つでも、あらゆる虐殺から免れていたという思想はありますか? どうです、いかがですか? そんな思想を、一つでも見つけることが出来ますか? 神国主義や共産主義や、スペキエース解放運動に、それからもちろん人間至上主義。あらゆる思想の名のもとに、人間は、人間を、虐殺してきたんです。

「さて、この事実から私達はどんな結論を出さなければいけないのでしょうか。今まで人間が抱いてきたあらゆる「正しさ」は結局のところ無意味だった? いかなる思想であってもそれに固執した瞬間に虐殺という間違いへと至る穢れた道程となってしまう? はははっ! 違いますよ! どちらも全然違います! 砂流原さん、私達は、この事実から、以下のような結論を出さなければいけないんです。つまり、虐殺は大した問題ではない。

「そう、そうなんです! 虐殺なんて、どうでもいいんですよ! 仕方がない、私達が「正しさ」の思想へと至るための、仕方のない犠牲なんです。いいですか、砂流原さん。たかが、たかが虐殺なんです。数万人だとか数億人だとか、その程度の数の、しかも下等生物としての人間が、地獄のような苦しみと痛みとの底に叩き落されて。そして、無意味に死んでいっただけなんです。そんなことは、この世界の「正しさ」にとってはなんの意味も持たないことなんです。いえ、なんの意味も持たないというのはちょっと言い過ぎですね。もちろん、虐殺はない方がいいわけですから。特に、自分に対する虐殺はない方がいい。あはは、私だって虐殺されたくはないですよ。そして、あらゆる思想は、恐らくではありますが、虐殺を防ぐということに対しても「正しさ」を見出している。

「しかしながら、人間が人間である限り、なんらかの思想を実現していく過程で虐殺を起こしてしまうということは、完全に不可避なんです。それは、先ほども申し上げたように、各々の思想の問題ではない。思想の一つ一つは正しい、全ての思想は、完全に正しい。ただ人間が間違っているだけなんです。そして、人間が間違っているというのならば。どんな思想であっても、結果として、虐殺を起こしてしまうんです。

「だから、私達は、ある一つの思想が虐殺を起こしたか起こさなかったかという基準で、思想としての「正しさ」を測定してはいけないんです。虐殺は起こる、それは、思想としての欠陥のせいではない。ある思想と別の思想とを比べて、こちらにはこれこれの欠陥があり、それゆえに虐殺を引き起こしたという指摘は、完全に、絶対に、的外れなんです。以前も一度申し上げましたがね、たかだか人間が思い付く程度の思想なんですよ? どの思想だって、それが有している欠陥はさして変わりませんよ。いいですか、人間が虐殺を起こすのは、思想のせいではありません。人間のせいなんです。人間が愚かだからです。

「思想のせいにしようとするのは、その事実から目を逸らそうとしているからなんです。いいですか、私達はですよ、いい加減、人のせいにするのはやめなければいけない。自分達が悪かったと認めなくてはいけない。そして、そこからでなければ、「正しさ」への道のりは始まらないんです。なぜなら、自分の中にある正しくないところを認識し、それを直そうとすることによって、私達は初めて「正しさ」へと向かうことが出来るからです。

「もう「これまでの思想は間違っていた」「だから新しい思想を作らなくてはいけない」なんていう戯言をいうのはやめなければいけない。だって、そうでしょう? その新しい思想とやらを作るのは、やはり同じ人間であるあなたなんですよ? その思想が、全く新しい思想が、これまでの思想よりもましである証拠なんてありますか? あはは、この問い掛けに対して、あなたはこう反論するでしょう。私がこれから作る思想は、今までの思想の悪いところを踏まえている。二度と同じ間違いは犯さない。

「無理ですよ! 無理です! だって、あなたの作る思想は、今までのものとは全く違う新しい思想なんでしょう? じゃあ、これまでの思想とは全く違う方法で、完全に同じ間違いを犯す可能性があるってことじゃないですか! なんでそんな簡単なことにも気が付かないんですか! あのですね、あなたが新しい思想を考え付こうとしているのは、決して「正しさ」のためではない。「正しさ」という方向に進んでいくためではない。それは私的領域における「清めの欲望」からなされる行為ではないんです。そうではなく、あなたは、ただ「名誉」が欲しいだけなんです。自分が新しい思想を作り出したという「名誉」が欲しいから、ただそれだけの理由で新しい思想を作ろうとしているんです。そして、そうである以上は……そのようにしてある思想から別の思想へと変化するその変化は、少なくとも、決して垂直方向のスライドにはなり得ない。それは、ただ単に、平面方向におけるスライド、公的領域におけるスライド、要するに「快楽」とは全く関係のないスライドにしかなりえないんです。

「いや、まあ、それはそれでいいとして……とにかく、あなたは「正しさ」なんて求めていないんです! そうでもなければ説明がつかない! だって、だってですよ、これまでの思想、古い思想は、もう、間違いを犯したんです! ということは、その思想がどうやってその間違いを犯してしまったのかということはもう分かっているわけですよね。それならば、その古い思想が間違ってしまった、その原因となった欠陥を直せばいいだけの話じゃないですか! なぜそれをしないんですか? 本当に、私には、理解出来ない。新しい思想なんかを作るよりも、そちらの方がよほど簡単で、そして確実ですよ!

「もう少し、この虐殺の問題を体系的に考えても構いませんよ。例えば、あらゆる思想は、その目的が差別性を有しているのかどうかという違いに関わらず、その思想を信じる内部者とその思想を信じない外部者とを作り出します。そして、その内部にいる者はその外部にいる者を絶対に排除するんです。例えば「どんな思想でも同じ価値を持つ」「それゆえにどんな思想でも平等に扱われなければいけない」という思想を持つ方々は、思想には優劣があり、その優劣に従って差別されなければいけないという思想を排除しようとします。なぜなら、そうしなければ思想が有効性を持たないからです。思想を現実世界に適用するには、どうしたって外部者をこの世から消し去らなければいけない。そのために思想の内部者は、最初は外部者を説得しようとします。自分達の思想の方が正しいと外部者に分からせようとする。そうして外部者が内部者になれば、外部者はいなくなりますからね。けれども、大抵の場合、外部者は納得せず……そして、虐殺が始まるというわけです。

「というか、こんな回りくどい言い方をしなくてもいいんですよ。人間はね、それをするための力とそれをすることに対する許しとがあれば、大抵は、誰か気に食わないやつを殺すものなんです、そして、思想は、その力と許しとを提供してしまう。ただそれだけの話なんです。それを避けるためには二つの方法しかない。まずは思想という方法を捨てるということ。思想ではない、全く異なった方法で「正しさ」に到達するということ。けれども、これは人間には不可能です。そうであるならば、もう一つの方法しかない。思想は虐殺を生起させるものだということを理解した上で、ある一つの思想を、捨てることなく、ずっとずっと堅持し続ける。そして、虐殺が起こるたびに、それを経験として思想に蓄積していき、思想とは異なった外的な要素とすることで、思想を飼い慣らしていく。この方法しかないんです。

「あはは、そうなんです、そうなんですよ。砂流原さん。思想とは「正しさ」ではないんです。こんなことはいうまでもなく当たり前のことなんですがね。けれども、とてもとても勘違いしやすいところでもある。思想とは真実ではない、この世界こそが真実なんです。もちろんこの世界というのは私達が認識するこの世界ではなくこの世界それ自体のことですよ。そして、思想とは……この世界が海であるとすれば、その中で溺れてしまわないように、私達がそれを頼るところの浮舟のようなものに過ぎない。私達は、その浮舟に乗って「正しさ」へと向かう。絶対に到達出来ない「正しさ」に向かって、その浮舟を進ませ続ける。

「さて、このようにして私達は何度も何度も主張してきたわけです。人間は、絶対的な「正しさ」には到達出来ないと。それどころか、それがいかなる概念なのかということさえ知ることが出来ないと。しかしですよ、その一方で、私達はこういうことも主張してきました。もしも、私達が全体的劣悪制度に陥りたくないのならば、たった一つの権威だけに依存してはいけない。正当性を分割し、それによって他者性というものを獲得しなければいけない。つまり、一つの集団の中に、それぞれが異なる絶対的な「正しさ」を信じているところの幾つもの小集団を並立させて、いわば「正しさ」と「正しさ」との殺し合いの過程によって、真実へと到達する道筋を見つけていかなければいけない。

「あはは、この二つの主張は一見すると矛盾しているように思えてしまいますね。ですから、ここで、ちょっとばかり整理をしておく必要があるでしょう。まず第一に、この二つの主張のそれぞれにおいて絶対的な「正しさ」といわれているところの概念は、どちらももう片方とは少しばかり異なった概念なんです。まず前者、私達が決して辿り着けない方の絶対的な「正しさ」というのは、文字通りの意味で「正しさ」であるところの「正しさ」ということです。それ以外には存在し得ないところの、唯一の「正しさ」。完全かつ最高な形での「正しさ」、「正しさ」の究極の形ということです。一方で、後者の絶対的な「正しさ」は、絶対的であると私達によって信じられている「正しさ」ということです。

「もう少し簡単にいえばですね……絶対的な「正しさ」があるという期待、絶対的な「正しさ」はこのような形をしているのだろうという予測、そして、絶対的な「正しさ」が私達を愛してくれているという信仰なんです。私達は、百パーセント理解している。絶対的な「正しさ」というものに、自分達のような不完全な生き物が、到達出来るはずがないと。けれども、それが存在しているということを推測することは出来るんです。そして、その推測されたところの概念は、それぞれの集団が持つ内的原理によって異なっている。つまりは、そういうことなんですよ。そして、私達はそういう形でしか絶対的な「正しさ」というものに関わってはいけないんです。私達は、それについて、推測することしか許されていない。

「しかしながら。

「それにも拘わらず。

「物語は。

「それを。

「我慢出来ない。

「物語がなぜ問題か? デミウルゴスはなぜ殺されなければいけないのか? あはは、これがその理由ですよ、砂流原さん。物語は我慢出来ないんです。自分自身という実存が、絶対的な「正しさ」に到達出来ないということを。というか、信じ込んでしまっているんです。自分自身が、絶対的な「正しさ」に辿り着けるほど高等な生命体であると。

「もちろん、こういうことをいえば「卓越」した方々は否定なさるでしょう。大体、まあ、まあ、こんな感じですかね。私達は、絶対的な「正しさ」に辿り着けるなんて思っていない。それほど傲慢な考えを持ったことなどこれまでに一度もない。私達は、人間が不完全であるということを理解している。だからこそ、そういう不完全な状態を抜け出すために、絶対的な「正しさ」などというものがあるということを、信じさえしないのだ。そういうものがあると信じるということは、そして、それが人間以上の何かであると考えることは、つまり、人間の営為を否定するということに繋がってしまうだろう。そうなれば、絶対的な「正しさ」であると信じる何かに到達するための道筋であると、予め自分自身以外の何者かによって定められたところの道筋を、盲目的に進んでいくという結果は避けられない。それは、つまるところtyrannyへの屈伏ということである。自分自身を、ただただ無能力と空虚とで満たすことであり、そのようにして実存を失った人間は、必ずや、人間と人間とが共に語り合う、特に現実性について語り合うために必要な、現れの時空間を失うことになるだろう。

「現れの時空間とは、つまり、自分自身が実存として現れる時空間のことである。それはまさに世界的状態が人間的状態へと変貌していく場所であり……それ以上に、自分自身という何者かがいかなる本質を有するのかということを、他者との関係性の中で発見出来る場所なのである。そう、私達はこのこともまた理解している。自分自身の実存というものが、自分自身だけで完成するものではなく、他者との関係性との間で作り上げられていくものであるということも。つまり、現われの時空間がなければ、実存以前の問題として、そういう関係性までもが失われるのである。

「その結果として、人間は、存在することのあらゆる理由を喪失する。なぜなら、他者との関係性がなくなってしまえば、人間という生き物は人間的状態であることを失い、ただただ孤立した「物質」にまで貶められてしまうからである。そうなれば、人間のあらゆる行動は、他者との関係性において発生する理由というものを喪失し、無関係な「物質」の集積物・堆積物と化してしまうだろう。無限へと繋がる縦の関係性が失われ、永遠へと繋がる横の関係性が失われれば、そこに残るのは単純な無へと繋がる何かしかない。そして、人間は絶望の中で生きていくことになる。それを避けるためにこそ、私達は現われの時空間を維持しなければいけない。そして、現われの時空間の根底にあるものこそ、生きた経験によって人間が感じるところの現実性なのだ。

「現われの時空間が維持されるためには、自分自身が実存であるためには、このような過程が必要である。まず、私という生き物が、あらゆる世界的状態を理性によって理解して、人間との関わりの中で意味がある事象、つまり人間的状態に変換しなければいけない。なぜなら、人間は人間であって、その理解というのは、世界的状態のもとにある自然という絶対的な混沌には及ばないからである。人間は、あくまでも、人間との関わりの中でしか世界を理解出来ない。それゆえに、私達は、世界を、私達との信頼関係のもとに置かないといけないのである。そうして、初めて、世界は「理由」を持つ。あらゆるものを紡ぎ合わせる現われの時空間の一部となりうるのである。

「そうして出現した「理由」を、今度は、実存的であろうとする意思を持つ自分自身と、同じく実存的であろうとする他者との間で、現われの時空間として固定しなければいけない。もしも、「理由」が、私達の中だけで閉ざされたものであれば。それは関係性を喪失した「理由」、つまり、それが存在する意味を公的領域の中で失ったところの、全くもって無意味な「理由」でしかないからである。「理由」は他者との関係性の中で初めてその意味を獲得しうる。自分自身と他者とが、その「理由」を一つの織物として織り成していくために、共に会話をし合い共に行為をし合う、そのことによってのみ、初めてそれは現実的な時空間として結実する。

「そして、そのようにして織り成された織物こそが、私達が物語と呼ぶものなのである。人は、物語の中で生きることで、生きた経験を生きることで、初めて、自分の生きている生命に「理由」を適用することが可能になるのだ。「理由」なき生命のもとで生きるということは、最終的に、人間という生き物を絶対的な絶望のもとでの生存に誘い込む。例えば、自分自身の内側にある実存ではなく自分の外側にあるところの絶対的な「正しさ」などというものを信仰し、そして、ただただ苦痛と嫌悪とを避けるための「安全」だけを追い求めて生きていくのならば。それは、tyrannyのもとで思考能力を失った動物が、ただただ生き延びるということだけを――その生き延びるところの主体は私という個体である場合も人類という種族である場合もあるだろうが――追及するという生の形式。最も無気力で、最も無批判な、原初的な生き物だけが持つであろう生の形式へと堕落するということである。

「素晴らしい! 実に、実に素晴らしい! 物語というものの内部に根源的な形で胚胎している瑕疵を、これほどまでに的確に要約することは、私達ではきっと不可能だったでしょう。「卓越」した方々は、その本質からして完全に間違っているがゆえに、このように一つの欺瞞もなく自分達の主張を主張することによって、その本質としての間違いを、非常に分かりやすい形で、私達に対して提示してしまうことになるんです。

「さて。

「それでは。

「基本的な、ところから。

「議論していきましょう。」

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