第二部プルガトリオ #23

「ただ、まあ、とはいえ……そうはいっても。最初に申し上げたように、そういう考え方が魅力的であるということは私も否定しません。それが「正しさ」であると思いたいという気持ちも分からないわけではないんです。では、なぜ、私達は、そういった考えが「正しさ」に値すると考えてしまうのか。それを考えていかないわけにはいかないですよね。だって、もしもそう考える原因が正当なものであるのならば、自由主義も、出来損ないの「正しさ」であるとはいえなくなってしまうわけですし。その反対に、もしもそれが不当なものであるというのならば……そういった考え方を、私達は、反省しないといけなくなるわけです。

「さて、自由主義が、運命に対して自由を勝ち取ろうとする永遠の闘争という態度が、なぜ「正しさ」であるように見えるのか。それは、その態度がヒロイックだからです。ある目的に対して、どんなに困難・苦難があろうとも、絶対に諦めるということをせずに、ひたすら立ち向かい続けるということ。それが非常に物語的な……単純かつ明快であるがゆえに理解しやすいところの、ヒロイズムであるからです。

「ヒロイズムとは何か? ヒロイズムとは、つまり……何があっても、どんなことが起こっても、自分のことを守ってくれる何者か。そういうものに対して人間は魅力を感じるものです。まあ、それはそうですよね、人間には自己保存の本能がありますから、絶対的な守護者という概念に対して、本能的な渇望を抱くのは自然なことです。その渇望が、人間という生命体の知的な不完全さゆえに、非常に曖昧な形で拡大解釈される。その結果として、何があっても、どんなことが起こっても、ある特定の目的を諦めないという行動に対して、ある種の感動を覚える。これがヒロイズムという現象の根源的な解釈です。

「そう、それは感動についての話なんですよ。人間の心が大きく動かされるという話。だから人間はそれを正しいと思うんです。その主張には、自分の精神状態を大きく動かすだけの力がある。それほど力がある主張であるならば、何か「正しさ」を含んでいる可能性があるに違いない。そう思うんです。けれどね、砂流原さん。よくよく考えてみて下さい。その思考過程は、果たして本当に真実であるのか。感動というものが、本当に、その主張が正当であるかどうかの指標となりうるのか。

「あはは、はっきり言いましょう。砂流原さん、砂流原さん、そんなわけがないじゃないですか。いいですか、あなたの心がどんなに大きく動かされようとですよ、その主張の正当性は欠片たりとも裏付けられないんです。なぜなら、それは、あくまでも、あなた個人の、生理的な反応に過ぎないからです。あのね、砂流原さん。感動なんていうものは、動物的な本能によって起こる一種の脊髄反射なんですよ。そこに何かしらの論理が介在していますか? それに何かしらの思想が含有されていますか? あのですね、論理的な感動・思想的な感動なんていうものは、この世界に一切存在していないんです。皆無、絶無、あり得ない。なぜなら感動というものは、論理的に説明し、思想としての体系化がなされた時に、身も蓋もなく消えてしまうから。

「感情なんです。いいですか? 個人的な、感情なんです。その主張が、どんなに強力な力を持っていようとも。それが、あなたの心を動かす力でしかないのならば、その力は「正しさ」ではないんです。それは力でしかなく、力はすなわち「正しさ」であるとはならない。切先が倫理ではないように、銃口が正義ではないように、感動は「正しさ」では有り得ない。あなたがある物語を面白いと思った。いいでしょう、その物語は面白いと定義して構いません。けれど、それは「正しさ」ではないんです。あなたがある歌曲を美しいと思った。構いませんよ、その歌曲を美しいと定義されればよろしいじゃないですか。しかしですね、なぜそれを「正しさ」であると考えるんですか? それがいかに面白かろうと、それがいかに美しかろうと、それは、ただ単に、面白く、美しい、それだけの話なんです。それは、面白いというだけで、美しいというだけで、「正しさ」ではない。「正しさ」であるためには「正しさ」であるというだけの正当性に関する論理が必要なんです。

「いいですか、砂流原さん。これが、私が、人間の持つ性質の中で、最も愚かであると考えている性質です。人間は理解出来ない。「愛は真実ではない」と理解出来ないんです。愛は真実の論理ではない、愛は愛に過ぎない。いいでしょう、あなたが愛を尊重したいというのならば、それはあなたの選択です。けれども、あなたが愛を選択したからといって、あなたが真実を選択したとは限らないんです。あなたがいくら感動したところで、その感動は、真実とは全く別のものなんです。もちろん愛が真実である場合もありますし、真実が愛である場合もあります。けれど、それは、あくまでも偶然なんです。たまたまその料理が美味しくかつ栄養がある料理だった。その程度の偶然に過ぎない。

「私達が「正しさ」について考える時に、個人個人の心の動きに過ぎないような現象、思考を伴うことがない動物レベルの反応については、徹底的に排除しなければいけないんです。なぜなら、そんなものを取り入れたところで「正しさ」には何一つ寄与しないから。いや、それどころか、害悪でさえあるでしょう。感動というものが大きな力を持っていることは確かですからね、そのせいで、私達が、どれだけの幻惑をされてしまうか。その力によって、どれだけ「正しさ」と異なった方向に引き寄せられてしまうか。分かったものではありません。

「事程左様にして、感動というものは、人間にとっての害悪なんです。そして、それだけでなく、心を動かされるという現象それ自体が、人間が「正しさ」を追い求めるにあたって、最低最悪の現象なんです。プラスの方向に大きく心を動かされるのが感動であるとしたら……マイナスの方向に大きく心を動かされるのは、もちろん憎悪ですね。

「人間は、感動と同じように、憎悪さえも「正しさ」に結び付けようとします。例えば、自分よりも強い者に対する憎悪、自分に強制的に何かを押し付けようとする者に対する憎悪、自分のことを搾取しようとする者に対する憎悪です。もちろん、いうまでもなく、その憎悪が正しい時もあり得ます。けれども、それもやはり、不味い料理がたまたま有毒であったという程度の偶然に過ぎない。それは「正しさ」の論理というよりも、ほとんど物理的な現象に近い何か、単なる力の移動に過ぎない。

「私憤と公憤と、なんていいますけどね、私にいわせて頂けるならば、そんな区別は欺瞞ですよ。あらゆる憎悪は個人的な怒りに過ぎないんです。例えば、ある権力機構が、その支配下にある人々を搾取しているとします。そして、その人々のうちの一人が、その権力機構を憎悪しているとする。そういった憎悪は、果たして、その権力機構が「正しさ」に反していることに対する憎悪ですか? 違うでしょう? それは、その個人が搾取されていることに対する憎悪なんです。その個人は、その搾取が正当な搾取であっても、間違った搾取であっても、同じように権力機構を憎悪するでしょう。そうである以上は、その憎悪のことを「正しさ」であるとしてはいけないし、公に認められた論理であるとしてもいけないんです。その個人が権力機構を憎悪しているからといって、その搾取について直ちに不当であると決定してはいけないんです。

「さて。

「これが。

「感動と。

「憎悪と。

「その二つの現象と。

「「正しさ」との関係についての話です。

「とはいえ、ここまで私が話したことは、少しばかり抽象的に過ぎる話ですね。抽象的な話だからといって間違っているとは限りませんが、砂流原さんは具体的なお話の方がお好みとのことでしたから。もう少し具体的な話にしない限り、私の主張は、砂流原さんに対する説得力を持たないでしょう。私が話している目的は、砂流原さんを、幾分かでも説得させることです。それが出来ないのならば、これだけ長いこと話してきた、その全てが無意味だったということになってしまう。あはは、私としては、それは避けたいところですね。ということで……この話を、具体的な何かに繋げていくことにしましょう。

「えーと、どうすればいいんでしょうかね……人間が抱く、感動と憎悪と。そこから導き出される「正しさ」というものを、ちょっと考えてみることにしましょう。感動と憎悪とを胸に抱く人間は、正義に対して、一体どのような定義を与えるだろうか。そうですね、こんな感じじゃないでしょうか。「この世界に住む一人一人の人間が、自分がした行為に責任を持つこと。あるいは、自分がするだろう行為について、しっかりとした意識を持ち、その行為が決して運命に対する服従の形で行われるわけではないようにすること。この世界に生きる全ての人間が、理想に対して個人として向き合うという、勇気と誠実とに満ちた義務を果たすということ」。ふむ、どうですか? 悪くないんじゃないですかね。それでは、この具体的な定義をベースに考えていきましょう。

「いうまでもなく、この定義は、「正しさ」の定義としてはこの上ないほど間違っています。なぜか? この定義にはそれが実行可能かどうかという観点が決定的に欠けているからです。あはは、あのですね、こんなことは無理なんです。出来るわけがないんですよ。それはもちろん、この世界が、例えば一人の人間の頭の中で考え出された物語の世界だとか、そういったものであれば、この定義通りのことが起こることもあり得るでしょう。しかしですね、残念なことに、この世界は物語の世界ではない。それか、物語の世界だとしても……はははっ! 少なくとも、それほど頭がよくない作者によって作られた世界だということは間違いがないでしょうね。つまり、私がいいたいのは、それくらい、支離滅裂で理不尽でぐちゃぐちゃとした世界だということです。

「端的にいえばですね、この世界に住む全ての人間が「理想に対して個人として向き合う」ことなんてあり得ないんですよ。そんなことあるはずがない。砂流原さん、砂流原さん、全人類が理想的な生き物であるように見えますか? あはは、少なくとも、私にはそうは見えないですね。それどころか、人間という種それ自体が下等知的生命体に過ぎないんです。そうであるならば、どうして、そんな下等な生き物に対して、一人一人が理想を追い求めるということを期待出来ますか?

「例えばですよ、全人類に対して何かしらの洗脳処理を施して「理想に対して個人として向き合う」こと以外へのあらゆる欲望を切除してしまえばそれも可能かもしれません。あるいは、世界中を抑圧する絶対的な全体主義体制を築き上げて、その上で被支配者に対して「理想に対して個人として向き合う」ことを強制すれば、まあ、出来なくはないでしょう。けれどですよ、それが、本当に「正しい」ことですか? 自由であることを強制する全体主義というのが、論理的に正当性を持つものであり得ますか? あはは、ご冗談を! そんなのはね、笑えない冗談ですよ。

「人間は、人間なんです。神でもなければ洪龍でもなく、ノスフェラトゥであるわけでもないし、もちろんデウス・ダイモニカスでもないんです。根本的に下等なんです。もちろん、自分は「理想に対して個人として向き合う」ことをしていると主張している方々もいらっしゃるでしょう。しかしですね、そういう方々は、間違いなく強者なんです。遺伝的な強者なのか環境的な強者なのかは知りませんが、とにかく強者であることには違いない。そして、そういう強者が、弱者に対して、「理想に対して個人として向き合う」ということ、自分は出来るが他人には出来ないことを強制するのだというのならば。それは、間違いなく、不当な抑圧です。

「下等な人間、弱者。そういう人間の一人一人に対して、「生きる」ということの輝かしい責任を負わせるということは、死にかけた蠅に太陽を背負わせることよりも不合理なことなんです。もしも人間を理想へと向かわせたいというのならば。それは、個人としての問題としてはいけないんです。集団が、その全体として、一人一人の構成員に対して、優しく優しく、指導しなければいけない、教育しなくてはいけない、矯正しなくてはいけない。個人が個人の責任で向き合うのではなく、集団が集団の構造として、理想を作り上げなければいけないんです。

「ああ、ちょっと話を先走り過ぎたかもしれませんね。集団と個人との関係について話すにあたっては、「理想に対して個人的に向き合う」ということの、もう一つの問題について話しておかなければいけませんでした。それは実行可能性の問題よりも、もっともっと大きな問題です。それは、つまり、「理想」とは果たしてなんなのかという問題です。あはは、「正しさ」を定義するに際して、その定義の中に「理想」という単語を含むというのは、ちょっとあまりにもすちゃらかぼんちきなことですよね。ただ、残念なことに、感動と憎悪とにとっての正しさを定義するにあたっては、こうするしかなかったんです。

「先ほどから何度か申し上げていますがね、感動と憎悪と、人間の内部で起こる巨大な心の動きというものは、そもそもの話として、はっきりとした論理を持っていないんですよ。人間は、勘違いして、その何かしらのことを「言語のレベルまで落とし込むことが出来ない、言語以前に存在している巨大な真実」であると思っていますがね。あはは、残念ながら、そうではありません。ただ単に、論理化されていない、獣の本能であるに過ぎないんです。

「そうですね、例えば感動についていえば、とてもとても大きなものを見た時に、その大きさに驚いて、感動することがほとんどではないですかね。大きいものというか、力強いものというか。まあ、力強いというのもエネルギーが大きいということなんで、大体は同じことですけどね。偉大な絵画、壮大な音楽、膨大な建築。大画面に映し出された迫力ある映像と、幾つも幾つも束ねられた光の束、数え切れないほどの楽器が躍るオーケストラを背景に行われる、凄まじい闘争、それを映し出したところの映画。あはは、ほらね、人間が感動するものというのは大体が大きいものでしょう? あるいは、何度も何度も経験したがゆえに記憶の中に刻み込まれている事柄についても感動することがありますね。過去に長い間住んでいた場所に、久々に帰ってきた時に。心の中にいい知れぬ感動が湧き上がってくる時があるでしょう? そういう場合です。まあ、これは広義の定常安定化欲求といってもいいでしょうけどね。感動というものは、大体はそんな感じですよ。

「心が動かされるというのはね、所詮は、その程度の生理的な反応に過ぎないんですよ。その裏側に、言語によって表現出来ない、人間には把握し切れないほどの無限の真実なんていうものが有るわけがないんです。というか、人間にとって、言葉に表せないような「正しさ」なんてないんです。だって、そうでしょう? 言葉に表せないならば理解出来ないわけであって、理解出来ないならばなんの役にも立たない。なんの役にも立たないならば、「正しさ」であるわけがないじゃないですか。人間存在の役に立つからこそ「正しさ」なんです。理解出来ない「正しさ」なんていうものは、めくらの羊がワルツを踊るようなものです。曰くいいがたい真実なるものを感じて感動に打ち震えるのは大変結構なことですけれどね、馬鹿を晒したいのならばお一人でどうぞ。

「感動も憎悪も、下等な感情であって、それらは論理を伴わない。論理を伴わないならば、それらが理想とするところの理想についてはっきりといい表せないのは当たり前のことですよね。だから、それらが「正しさ」とするところの何かを定義しようとしても、出来損ないのトートロジーになってしまうというわけです。これが、感動と憎悪とについての、もう一つの、より大きな問題です。つまり、感動と憎悪とは、それらが導き出すところの定義を、はっきりといい表すことが出来ないという問題です。

「とはいえ……感動と憎悪とが、自分自身として、自分達の「正しさ」を理解していなかったとしても。それが出来損ないのトートロジーであるとしてお終いにしてしまっては、議論の態度として誠実ではありませんね。なぜなら、感動と憎悪とも、間違いなく、それらのものが理想とする何かを有しているからです。それは、ぼんやりとした、曖昧な、非常にはっきりとしていない何かではありますが。私達は、議論を進めていく上で、なんとかそれを言語化する必要があるでしょう。

「それは……そう、敢えて一つの単語によって表すのならば、勝利であるといっていいのではないでしょうか? 静止の中に感動があるか? 恐らくありません。平和の中に憎悪があるか? たぶんないでしょう。ということは、感動と憎悪とは、基本的には闘争状態の中に存在しているということになります。そして、その中で勝利した者が感動を享受し、敗北した者が憎悪を刻印されるわけです。先ほどの、巨大なものを見た時の感動。これも、勝利の論理によって説明することが出来ますね。巨大なものを見るとなぜ感動するのか、それは、その巨大さが、即ち勝利であるからです。この世界においては、より強き者が勝者となりますよね? となれば、大きいものというものは、小さいものに対して、ただ大きいというだけで勝者なのです。偉大であること、壮大であること、膨大であること。つまりそれは生存競争における勝者であることを意味しているというわけです。

「また、記憶に刻み込まれたものに対する感動ですが……これは、どちらかというと、危険から安心への移行という説明の方が正しいでしょうね。いや、まあ、危険というほどではありませんが、ストレスがかかる状態からストレスがかからない状態への移行といった程度の意味合いです。未だ適応せざる環境から、住み慣れた環境へと戻った時に、人間は安心感を感じます。記憶に刻み込まれた音楽を聴くこと、あるいは、それに似た音楽を聴くこと。その行為は、住み慣れた環境に身を置くことと同じような効果をもたらすのでしょう。つまり、これもまた、生存競争という本能における反応ということです。より一層、習熟した環境。敗北による死の恐れがない環境。それに対する安心感。

「あはは、勝利なんですよ。自分が勝つこと。勝って、生き延びること。それが感動と憎悪とにとっての理想なんです。自分という生を侵食し、抑圧し、搾取する何者かを憎悪する。そして、その憎むべき何者かに対して宣戦布告をする。打ち勝ちがたい、強大な敵に対して、戦争という決然たる大事業をもってして臨み、艱難辛苦、無限に思えるほどの努力を費やし、遂に、その敵を、打ち破る。その結果として、自分という存在がより一層巨大になったことを感じ、感動に打ち震える。これが一つのパターンなんです。もちろん敵というものを「超克すべき目標」と変えてもいいでしょう。その場合は憎悪の部分は必要なくなりますけれどね。とはいえ、最終的には、勝利のもとに理想が達成されるわけです。

「そうであるとすれば、それが正しいとすれば。感動と憎悪とがその理想を実現するためには、常に何かしらの問題を必要とするわけです。打倒するべき敵、達成するべき目標。まあまあ、そこら辺はなんでもいいですけど、そういったものがなければ人間というものは感動することも憎悪することも出来ないんですから。さて、それが……果たして、何を意味するか? ここから、どんな結論が導き出されるか? 私達はそこに驚くべき結論を発見するわけです。つまり、感動と憎悪とは、問題が存在しない状況、完全な平和の状況を、理想的とは考えないという結論です。

「つまり、感動と憎悪とによって理想的とされる世界には静止状態があり得ないんですよ。一つの状態にとどまろうとすることがあり得ない。ちなみに、この場合の静止、あるいは一つの状態というのは、定常安定化欲求によって嗜好される「定常」という観念とは必ずしも一致しません。なぜなら感動と憎悪とにとっての「定常」は、即ち永遠の闘争を意味するからです。だから、感動と憎悪とに囚われている方々も、やはり定常安定化欲求の支配下にあるわけですが……まあ、これは完全に余談ですね。とにもかくにも、感動と憎悪とは、それが理想的な状態であると考える状態にあっても、何かしらの問題を抱えていなければいけない。

「感動と憎悪とは、情熱的なまでに、征服するべき外敵を、克服するべき難題を、求め続けるんです。そういったものを完膚なきまでに打ち砕くことによって、自分が優秀であると感じる、優越感を感じる。それが、絶対に、必要なんです。そう、つまり優越感なんですよ。ほとんど猿の自淫行為に等しいような、動物的な性欲の発露に等しいような、優越感に対する渇望。それが満たされることが、感動と憎悪にとっての理想なんです。

「つまり、その理想には、他人に対する寛容さ、思いやりの心、そういった要素が、直接的には、一切含まれていない。もちろん、間接的には含まれていますよ。他人に対して寛容であるという自分、他人のことを思いやることが出来るという自分。そういう自分であるということによって、他の何者よりも優越することに対する渇望という形でね。けれどもね、砂流原さん。そんなものは、その本質において有効な寛容ではないんですよ。なぜなら、その寛容さは、敗北が許されないという意味での、闘争における苛烈さというものを含んでいるからです。

「寛容というものは、その本質において弛緩なんです。敗北してもいいか、死んでもいいか、そういう諦念こそが寛容なんです。ある意味では、絶望といってもいいかもしれません。人間というものは、全ての希望を失った先に、ようやく他人のことを許せるようになるものです。本当の意味でね。なぜなら、希望があるうちは、勝利を求めるうちは、その勝利の障害となるものを、どうしても排除したいと望むからです。つまり、感動と憎悪とが持ちうる寛容というものは、あくまでも条件付きの寛容に過ぎないんですよ。その理想が追い求める勝利を邪魔しない者だけに与えられる寛容ということなんです。

「感動と憎悪とは決して振り返ることがない。自分達が、奪い取り、虐げ、利用し、そして、最終的にはゴミのように捨ててきたところの弱者のことを考えることが出来ない。なぜなら、そういった弱者は、弱者だからです。勝利に対する渇望がない存在、ただ日々を幸福に生きることが出来ればいい存在に過ぎないからです。生きるということは、感動と憎悪とにとっては、全く重要ではない。前提条件でしかないんですよ。今生きているのは当たり前であって、その上で、自分という生き物が、どれだけ優越感を得られるか。そのことが重要なんです。ただただ幸福を追い求め、静止を、平和を、闘争の終わりを望む弱者達の存在は、そういう強者達にとっては、ひたすら邪魔なものに過ぎない。だから、無視し、排除し、捨て置くんです。「理想に対して個人として向き合う」ことが出来ない以上、お前達は弱者であって、所詮は奴隷的な生を送ることしか出来ない。そうであるならば、私達が勝利を得ることの、私達がより優越した存在となることの、邪魔をするな。奴隷は奴隷らしく、私たちに対して絶対の服従を捧げればいい。そんな感じですね。

「ということで、感動と憎悪と、心が動かされるということから導き出される「正しさ」は、構造的な問題として、弱者にとっての幸福というものを蔑ろにしてしまうということを説明出来たと思いますが……ただし、その「正しさ」、その「理想」にとっての最大の問題点は、実はこのことではないんです。最大の問題点はね、砂流原さん。それは、感動と憎悪とが、しっかりとした論理を持っていないということ。それどころか、そういった論理に対して、純粋な心の動きに対する不純物として、嫌悪感を抱いてしまうこと。まさにそのことから発生するんですよ。

「もしも感動と憎悪とが理想とするところのものが勝利であったとしても。また、弱者に対する寛容さが欠片もなかったとしても。それでも、その「勝利」というものが実際のところは弱者に対する恩恵となるのならば全く問題はないわけです。あはは、ゼティウス形而上体の方々だって、弱者というものに対する寛容さなんていうものはさらさらに持ち合わせていないわけですからね。「兎の肉と兎のダンス」さえ与えられているのならば、奴隷だって、奴隷らしくしていることに対してやぶさかではないわけです。しかし、人間が求める勝利、人間の心が動かされる勝利というものは、そういうものではあり得ないわけです。それこそが、この「正しさ」、この「理想」にとっての最大の問題なんです。

「先ほども触れたように、感動と憎悪とは生理的な反応でしかありません。ですから、その刺激が大きければ大きいほど、更なる満足感を得られるわけです。そうであるとすれば、当然、その求めるところの勝利というものは、より単純に手に入れることが出来て、より派手な結果をもたらすところの勝利ということになります。つまり、感動と憎悪とが主張するところの「困難な道のり」というのは、「いい感じにテレビ映えするあれやこれやのイベントが盛りだくさんなところの道のり」ということなんです。正しい意味での困難、誰も見ていないところで延々と同じことをし続けるとか、そういうたぐいの困難はお呼びではない。

「そうであるならば、その勝利は、いわゆる静的な勝利とはなり得ないわけです。ここでいう静的な勝利とは、何年も何年も掛けて、場合によっては、何世代も何世代も掛けて、表面的に見えている問題ではなく、その問題の原因となっている根本的な間違いを解決していくという作業のことです。例えば、民主主義社会において、実際の形として目に見えている政治的指導者の排除を試みるのではなく、実際の政治権力の担体であるところの集団構成員全体の教育によって解決を図ろうとする態度。優生学によって集団の方向性を優秀な方向に進化させていくのでも、あるいはもっと手っ取り早く、思考能力をいじって頭がいい人間を作り出す方法を探し出すのでもいいですが、とにもかくにも、遠い遠い未来においてようやく結果を出すような方法によって世界を良くしていく。

「そういった静的な勝利であるならば、私達のような弱者の側、奴隷の立場からいわせて頂いても、まあまあ納得出来ないわけではないわけです。人類全体の進化、確かにそれは永遠の闘争ではあるでしょうが、とはいえ弱者にとっても幸福という利益がありうる闘争なわけですからね。けれども感動と憎悪とが求める勝利はそういった勝利ではない。もっと簡単に、手早く、何よりも重要なことは、自分が優越感を得られるような勝利でなければいけない。つまり、今申し上げたような例でいえば、政治的指導者を打倒することによる勝利こそが、その種類の勝利であるということです。

「砂流原さん、砂流原さん、要するにですね、感動と憎悪とを求める方々、心を動かされたいと思っている方々は、この世界を「正しさ」の方向に進めていこうなんて考えていないんです。彼ら/彼女らにとって「正しさ」が「正しさ」であるわけではない。勝利こそが「正しさ」なんです。問題を解決すること、何かを良くしていくことが目的なのではなく、ただただ勝つことだけが目的なんです。目的のためなら手段を選ばないとか、そういった次元の話ではなく、そもそもの話として手段が目的なんです。勝利によって「正しさ」をなすのではなく勝利が「正しさ」なんです。

「勝利すればいい、勝利の快感があればいい。自分が優越感を得られればそれでいい。だから、その勝利がなんのための勝利なのかということについて、それほど深いことを考えないんです。ちなみに、当然ながら、ここで使っている勝利には「優越感を得ることが出来る敗北の形」も含まれています。とにもかくにも、自分の心を動かすだけの刺激があれば、それでいいというわけです。それ以外の「正しさ」、つまり、どうすれば何かが良くなっていくのかということを、真剣に考えるということをしない。

「だから、感動と憎悪とにとっての戦いの目的というものは非常に稚拙である場合がほとんどなんです。大体の場合は、こんな感じですね。つまり、皆が悪いといっている何者かについて、皆がそういっているからということで、その原因について深く考えずに、悪者であると断定する。そして、その悪者について、後付的に、どんどんと、「悪者」であるという理由をこじつけていく。まあ、どんなに善良な生き物だって、ある角度から見れば悪人であることはあり得ますからね。そういう風に、一定の角度に観点を固定して、その生き物が「悪者」であるという「証拠」を自分の中で積み上げていく。

「その「悪者」がどうして「悪者」となったのか、その「悪者」を「悪者」と呼んでいる皆は、果たしてどういう種類の方々なのか。そういったことを一切考えることなく、この角度から見れば「悪者」は「悪者」であるという理由だけで憎悪を掻き立てていくんです。そして、その憎悪こそが戦いの目的となってしまう。そう、心を動かされたい人々にとっての戦いの目的とは「正しさ」ではなく憎悪なんです。しかも、稚拙な憎悪。

「それから、その憎悪に突き動かされて戦いを挑み、結局のところ勝利する。この勝利というのも、また、実質的な意味を持つものではないんです。なぜならその勝利は、世界というものを進めていくための勝利ではなく、自分が他人を見下すという快感を得るためだけの勝利なんですから。最悪、その「悪者」を倒す必要さえない。その「悪者」に対して自分がなんらかの高みに立つことが出来れば、それが道徳的高みという思い込みであっても理性的高みという思い込みであってもいいですけれど、感動と憎悪とにとっては、即ちそれは勝利なんです。

「あるいは、例えその「悪者」を実際に倒したとしても、世界を変えることなんて出来ない。なぜなら、そういう方々は、ただ単にその「悪者」を憎悪したがゆえに倒したというだけであって、世界を変えていくための論理というものを持っていないからです。こうすれば感動的だという、非常に曖昧な感覚、身体的肉体的なイメージのようなものはあるでしょうけれどね。残念ながらそんなもので世界は良くなっていきません。重要なのは、一つ一つの因果を明晰に組み上げた明晰な言語的認識なんです。そういうわけで、結局のところは、自分の所属している集団のぼんやりとした雰囲気のようなものに引き摺られてしまって、やはりその雰囲気の中から生まれ出てきたところの「悪者」と大して変わらないことしか出来ないという結果に落ち着くことになる。

「こういった勝利を仮に動的な勝利と呼ぶとするのならば、動的な勝利は、弱者にとってなんの益するところもないわけです。なぜなら、それは、あくまでも個人にとっての勝利であるということを超えることが出来ないから。その勝利は、勝利した個人に対して快感をもたらしはしますが、その個人が所属しているところの集団は、結局のところ何も変わらない。感動にせよ憎悪にせよ、論理化することがなく、なんらの具体性を持つことなく、曖昧なままに雰囲気の中を漂うだけの現象なんです。その現象はそもそも輪郭がぼやけているため、視点に対して焦点が合うことがなく、それゆえに、心を動かされることだけを求めている方々は、自分達の反省すべき点を見いだすことさえも出来ずに、結果として、自分が今いる一点から一歩も進展することが出来ない。

「論理化されなければ共有されることもなく、共有されないから個人的な感覚に過ぎないということです。そして、それが個人的な感覚に過ぎないのであれば、いうまでもなく、あらゆる闘争というものは、何者かに対する暴力に結晶化していかざるを得ない。闘争における目的が「正しさ」であるのならば、そして、その「正しさ」というものが明確化しているならば。その「正しさ」のために、協力や妥協やといった方法、暴力以外の方法へと向かっていく道もあるでしょう。しかしながら、目的が曖昧であって、勝利そのものが目的であるというのならば、他人を見下すことだけが本質的な欲望であるというのならば。そもそも平和的解決という選択肢がなく、そこからどこかへと発展していく可能性もないわけです。ただただ相手に対して暴力を振るい――もちろんこの暴力というのは生産性のない軽蔑を含みます――その暴力をもって、自分が正当な行為をしていると満足する。

「そして、いうまでもなく、そこで終わりはしません。あらゆる勝利への過程が暴力であるならば、その結果とするところは、即ち搾取となるんです。当たり前ですよね? 相手のことを理解しようとすることなく、何かを良くしていこうとする論理も持たず、ただただぼんやりとした雰囲気だけを根拠として、他人を見下すためだけに暴力を振るう。「正しさ」という正当性の基準がなければ、相手が悪であるという判断は、自分がその判断から快感を得られるかどうかという、恣意的判断の最悪の形まで墜落していくことになります。そうであるならば、気に食わない何者かはどこまでもどこまでも「悪者」であると判断される。そして、その「悪者」がそこまで悪いというのならば、その「悪者」を打倒するためには、反省させるためには、何をしてもいいということになる。

「だから、その「悪者」から搾取をしてもなんの問題もないというわけです。ちなみに、ここでいうところの搾取とは、必ずしも金銭や物品やといった具体的なものだけではありません。というか、そういった現実的な物に対する搾取というのは、あくまでも二次的なものに過ぎない。最も重要な搾取は、つまり名誉の搾取なんです。その「悪者」は、自分よりも劣っている。だから、いくら貶めても構わない。自分達に対して反省する必要はない、だって、その「悪者」は「悪者」なんだから。むしろ、その「悪者」を罵倒することによって、自分達の正当性が証明されるのだ。これが名誉の搾取です。

「この名誉の搾取の何が問題なのかといえば、最終的に、自分と同じ内的原理を持つ者だけが善であり、それ以外の内的原理を持つ者は悪である。だから、自分達がその内的原理に沿ってすることは全て正当化されるという考え方に陥りやすいからです。しかも、その内的原理は、ただただ憎悪と感動とという非常に曖昧な感覚によって支えられているに過ぎない。そうであるならば、その内的原理を持つ方々の集団は、自分が搾取したいと思った方向に向かって、ほとんど無限定といっていいほどの幼稚さによって、自分の欲望を絶対化してしまうわけです。

「なぜそれをしていいのか、なぜそれをしてはいけないのか、そういったことを全然考えなくなってしまう。まあ、ほとんど無思考のうちに隷属すること自体には問題はないんですけれど、その隷属の先が、自分が気持ちいいか、自分が気に食わないか、その一点だけになってしまう。本当に、最悪の形の全体主義になってしまうということです。雰囲気の全体主義、今日はこういう気分だからこいつらに暴力を振るい、今日はこういう気分だからこいつらから毟り取る。そういうことをしても、自分達にこそ正当性があり――まあ、その正当性なるものの正当性は証明されていないわけですが――相手には正当性がないのだから、許される。こういう構造が、決定的に打ち立てられてしまう。

「そして……そういう方々が、そうして行われた行為に対して、果たして「責任を持つ」のか。ええ、ええ、もちろん持つでしょう。けれども、その「責任」というのは、暴力・搾取の相手方に対する責任ではないわけです。そうではなく、自分の感動、自分の憎悪、心を動かされたかどうかということ、つまるところ自分が従った雰囲気に対する責任でしかない。暴力・搾取の相手方に対してなんらかの同情を示すことは、自分自身の弱さを示すのであり、その弱さというものは、運命に対する服従を意味してしまうからです。これはいい過ぎだと思いますか? けれどね、砂流原さん。もしも、そこに、明晰な論理によって基準が置かれないというのならば。どうして相手に同情することが出来るっていうんですか?

「もちろん、ここでいうところの「相手に同情する」という意味は、自分達の良心を慰めるためだけに行われる、あるいは、自分が道徳的に優れているということを誇示して快感を得るためだけに行われる、非常に表面的な「可哀そう」の表明ではありませんよ。それは、自分の行動に対して胸が打ち震えるような感動を覚えるために行われるという意味で、やはり搾取に過ぎないからです。そうではなく、きちんと相手に何かを与える同情。自分の価値観を曲げてでも相手の主張するところにもやはり意味があると考えるという意味での同情。そういうものは、自分と相手との間に、その二つの主張を裁くところの超越的な基準というものがあって初めて可能になるわけです。自分自身以外の何ものにも従わない方々には、そんなことが出来るはずがない。

「だから、私達が「感動と憎悪と」という言葉で定義付けた方々、自分自身の勝利のみに価値を見いだす方々は、自分自身の「良心」にしか従うことがない。そして、その「良心」というものは、つまり自分自身の「欲望」を体よくいい換えただけの話なんです。しかもその「欲望」というものは、なんとはなしに蔓延している雰囲気に左右されるところの、明晰さの欠片もない生理的な反応に過ぎない。そうであるのならば……「感動と憎悪と」の方々にとっての「正しさ」、その具体的な定義付けは、次のように修正することが出来るでしょうね。

「つまり「自分自身は理想というものに対して明確な論理を持っているわけではない。自分が所属しているところの不定形の集合体、その集合体が持つ流動的かつ相対的な内的原理のことを仮にそう呼んでいるだけである。しかし、そのような曖昧・動揺・錯雑・混迷な観念を、自分の欲望に都合がいいように捻じ曲げて、他人に対して振り翳そう。その観念を敢えて理想と呼び、その理想に対して個人的に向き合うことを強制しよう。そして、その理想に向き合わないあらゆる存在のことを、運命に隷属する弱者と呼び、打ち倒すべき敵と決めつけよう。こうすることによって、そういった敵に対して、欲望のままに暴力を振るい、欲望のままに搾取をすることが正当化される。自分の好き勝手に振る舞うことが、勇気と誠実とに満ちた闘争過程となる。その闘争過程から、ある時は憎悪として、ある時は感動として、思うままに、心が動くという快感を貪り続けよう」。こういう感じです。

「この「正しさ」が明らかに「正しさ」ではないということは、砂流原さんも同意して下さいますよね? そう、「感動と憎悪と」が「正しさ」と考えていることは「正しさ」ではないんです。ではなぜそれが「正しさ」ではなくなるのか? 実はですね、そのことについては、つい先ほど、ちょっとばかり触れているんです。つまり、「感動と憎悪と」が、このように雰囲気の全体主義に陥ってしまうのは。自分自身にのみ価値を置いて、それ以上の絶対的な基準というものを拒否するからなんです。

「というか、正確には「絶対的な基準というものがあると仮定して、その基準を追い求める、という行為を放棄している」といった方が正しいかもしれませんね。人間のような下等知的生命体が絶対的な基準に到達出来るわけがないんですから。「感動と憎悪と」に固執する方々は、自分の外側に、何かの基準、真聖的で絶対的な基準があるということを、仮定しようともしません。なぜならそういった方々にとって、そのような基準は、いわゆる「運命」に当たるからです。自分のことを支配しようとする「運命」、それゆえに、それに抗って、自由になろうとする営為を続けなければいけないところの「運命」。

「しかしですね、砂流原さん。もしも自分と他人との間に共通の基準がないというのならば、どうやってその他人と分かり合えばいいっていうんですか? もちろん、この世界に私しかいない、あなたしかいない、そういう場合であれば、他人と分かり合う必要なんてありませんよ。好き勝手、やりたいように、思うまま生きればいいんです。けれどね、この世界には他人がいるんです。それこそ数え切れないくらいの他人と共存していかなければいけないんです。そうだとするならば、その他人のことについて考えていかなければいけないということは当たり前でしょう。絶対的な秩序が独裁であるように、絶対的な自由もやはり独裁なんです。そりゃあ、私だって、自分以外の何者かに支配されることは嫌ですけどね。とはいえ、この世界で生きようとする限りは、それを受け入れないわけにはいかないんですよ。

「そう、つまり、先ほど話しかけたところの、集団と個人との関係についての問題だということです。個人が個人として個人のための理想を作ることは、どう考えてもよろしくない。なぜなら、下等知的生命体であるところの人間には、たった一人で「正しい」基準を作ることが出来るだけの強さがないからです。そうではなく、集団が、集団の名において、集団のために、理想を作る。個人が感動するための理想ではなく、個人が憎悪するための理想ではなく、もっと、画一的で、無機質で、全体的で、それゆえに弱者を救うことが出来る、幸福のための理想を作るということ。そうしてこそ、初めて、その理想を共通の記号とすることによって他人と分かり合えるようになるんです。

「確かにね、分かります、分かるんですよ、砂流原さんのおっしゃりたいことは。私にせよ砂流原さんにせよ、少なくとも生存は保証された環境にいますからね。食うに困るわけではありませんし、寝る場所がないわけでもありませんし、明日にも戦場に行かなければいけないというわけでもありません。だから、そういった最低限の幸福以上のものを求めてしまうというのは、よく分かるんです。そういった中で、他人を憎悪して、その他人を悪者と決めつけ、その悪を糾弾することで、自分は優越した存在であるという感動を得たいという気持ちは、痛いほどに分かります。しかしですね、そういう風に、自分以外の人々、弱者について考えないというのは、決して正しいことではないんです。

「私達のように恵まれた人間は、自由がなければ生きることに意味がないと考えがちです。誰もが運命から解き放たれて自由になる、色々な人々が、その色々な人々らしく振る舞うことが出来る。そういった社会が理想的だと思いがちです。しかし、そうではないんです。人間が人間という下等知的生命体であって、たった一人だけで絶対的な基準を見つけることが出来ない、低俗かつ凡庸な存在である以上、そういった社会は、暴力と搾取とが蔓延する社会になる。それは当然のことなんです。そして、そういった社会では、私達のような恵まれた人間によって弱者が虐げられることが正当化されてしまう。

「だから、私達は、「感動と憎悪と」の支配を拒否しなければいけないんです。「運命による支配」を受け入れなければいけない、そして、運命を通して、集団的な理想を希求しなければいけない。そのようにして、不幸な弱者が現れないようにしなければいけない。私達はね、砂流原さん。私達のように、既に幸福な人間、食べるものも寝るところもあって、生存と安定とが保証されている人間が、より幸福になる社会というものを目指すべきではないんです。そうではなく、暴力を受けている人々、搾取を受けている人々、そういった人々が安定した生活を享受出来るようにしなければいけない。だから私は、私の中の「正しさ」というものを、幸福であると定義したわけです。まあ……そうですね。私の言いたいことは、大体のところこんな感じです。」

 マコトは。

 そう言うと。

 口を閉じた。

 一つ特筆しておくべきことがあるだろう。それは、これだけ長い間、自分の主張と相容れない内容のことをマコトが話しているのにも拘わらず、真昼が一言も口を挟んでいないということである。読者の皆さんも、もしも真昼の立場に自分が置かれたらということを考えてみて欲しいのだが……こんなことは、驚異的な忍耐力がなければ、ちょっと出来ることではない。

 はっきりいって、マコトの話というのは、まるで他人事として聞いていても反論したくなるような内容なのだ。まあ、どういう風に反論すればいいのかということは、マコトの話し方、そのわざとらしく混乱させた論理体系のせいで、なかなか難しいことであるのだが。それでも、マコトの話すことを黙って聞いているというのはある種の苦行に等しいことである。

 それでも、真昼は、一言も口を挟まなかった。アーガミパータに来る前の真昼、マコトと出会う前の真昼であったら、こんなことはあり得ないことだ。だが、真昼は――これまでも、何度も何度もそう確認してきたように――以前の真昼ではない。「正しさ」を追い求めるという方法でしか、もう、何一つとして、生きることが出来なくなってしまった真昼なのだ。

 だから真昼は、決してマコトの話すことに口を挟まなかった。なぜなら、相手が主張していることを全て聞き終えることなく、自分の主張を展開しようとすることは、明らかに間違った行為、「正しさ」から乖離した行為だからだ。

 はっきりいってしまえば、どんなに相手が支離滅裂な議論を展開していたとしても。無限に感じるほど長い間、聞くに堪えない自説を展開していたとしても。あるいは……今のマコトがそうであったように、その両方を同時に行っていたとしても。これが、ただただ勝敗を決定するだけの無意味な罵声の投げつけ合いではなく、「正しさ」を追求するための議論である限りは、その主張に対して、途中で口を挟んではいけないのだ。どんなに苦痛であっても、その主張に対して、真摯に耳を傾ける。それが出来ない人間には議論をするということについての資格がない。

 なぜか? それには二つの理由がある。まず一つは、その主張がけだものの絶叫ではなく、卑しくも記号を使ったところの、意味のある言葉である以上は。そこには、必ず、幾分かの正しさが含まれているはずだからという理由だ。そして、二つ目の理由は、その議論を行っているのは、所詮は、不完全な生き物であるところの人間でしかないという理由だ。

 もしも、これが、片方が神であって、片方が人間であるのならば。神には人間の主張を聞く必要などない。なぜなら、神が人間よりも賢明であることは明らかであって、人間ごときが操る言葉の中に含まれている正当性などは、神にとってはなんの役にも立たない代物だからである。だが、これが、人間と人間との議論である限りは。そして、ある立場に立っている人間と、それとは異なった立場に立っている人間との議論である限りは。相手の主張するところの反論に含まれている「正しさ」というもの、自分の立場からは見つけることが大変困難であるところの「正しさ」というものは、絶対的な「正しさ」に辿り着こうとする努力のために、何よりも貴重なものなのである。

 その「正しさ」を手に入れるためには、絶対に、相手の言葉に口を挟んではいけない。相手の話す言葉、その全てに耳を傾けて……そして、例えごくごく僅かであっても、そこに含まれている「正しさ」を蒸留する。その上で、その「正しさ」によって、自分の主張における間違った点を修正する。これこそが、ただのけだものの罵り合いではないところの、知性ある議論なのだ。

 だから、真昼は、マコトの話を、一言一句聞き逃すことなく聞き続けていた。あまりにも、真昼がそうであるべきと思うところの理想的な世界からかけ離れた世界観。あらゆる人間の誠意・あらゆる人間の努力・あらゆる人間の信念を冷酷な冗談によって笑いものにしてしまうような、そうでありながら、自分は全人類を愛していると、半笑いの表情で、世界の残骸の上に口付けを落とすような……そんな、マコトの主張を。真昼は、その主張に対して口を挟まないように、上の歯と下の歯とを噛み潰してしまいそうなほどに力を入れて、しっと口を閉じたままで聞いていた。

 そして、真昼は……考えていた。無数の目が見降ろす中で考えていた。それらの目は、夜の目。夕暮れの光であったものは、既に他人事のように冷たく、遠い昔に無くしてしまった指輪の、ガラスで出来た宝石のように、小さく小さく消え残っているだけであって。そして、真昼の世界は、とっくの昔に嘘だということがばれてしまった嘘だけが照らし出しているような、夜、夜、夜の世界に変わってしまっていた。

 夜に、星。星の光、誰も数えたことがない、永遠に数え終わらないであろうほどの、星々。それらは、粉々に砕かれて……美しく、夜の中にばら撒かれた、黒い鏡の破片。その一つ一つに目が映し出されている。それが夜の目だ。鏡に映された眼球は、死んだように沈んでいて、生きたことがなかったように、虚ろに輝いている。夜の目、けれども、それらは……真昼は知っている。それらの目は、実は、真昼自身の目なのだということを。黒い鏡の破片、無数の破片に映し出された無数の目。全て、全て、真昼の目が、真昼を見つめている。希望を失ったあらゆる真昼が、信念を失ったあらゆる真昼が、ここにいる、真昼自身を、見つめているのだ。静かな期待とともに。ここにいる、この真昼も、いつかは自分たちと同じように、黒い鏡の中にやってくるという期待とともに。

 真昼は、考える。

 真昼は、考える。

 どうすれば。

 マコトの嘲笑を。

 殺すことが出来るか。

 言葉によって。

 マコトに。

 勝利することが出来るか。

 その勝利は、厳密な意味では勝利ではない。なぜなら、それは、マコトを打ち倒すことが目的ではないからだ。その勝利の目的とは、真昼が、「正しさ」を求め続けられるかということ。「正しさ」を愛し続けられるか、そして、「正しさ」を信じ続けられるかということ。マコトを否定するためにマコトを否定するわけではない。真昼は、「正しさ」を否定するものを否定しているのだ。

 ああ。

 愚かであることは。

 いかに罪であるか。

 そして。

 また。

 必死であることは、いかに愚鈍であるか?

 真昼の腕の中で、マラーは、既に眠りに落ちてしまっていた。柔らかい子供の体は、その頭を、ぐったりと真昼の胸に預けていて。満ち足りたような寝息、この世の何よりも安心出来る場所で眠っている子供に特有のあの寝息を立てながら、深く、深く、眠りについていた。そんなマラーのことを、絶対に起こさないように、それでいて、一言ではとても表現し切れないほどの感情――怒りだけではなく、悲しみ、焦燥感、嫌悪、それに何かとても美しいものが壊れていく時の、それをただただ見ていることしか出来ない時の、例えようのない感情――で満たされた声によって。

 こう。

 言う。

「確かに、あなたの言っていることは、論理的には正しいのかもしれません。私は……私は、あなたよりも、遥かに頭が悪いから。だから、あなたの話が論理的に間違っているなんていうことは、絶対に主張することが出来ません。でも、それでも……あなたの話が、どんなに論理的に正しくても。それが、机上の空論でしかないと主張することは出来ます。

「あなたは、一人一人がそれぞれの理想を持って、その理想に向かって邁進していくことを否定します。自分が何をしたいのかということをしっかりと見極め、そうして身につけた感覚の中で、自分自身の力で世界を切り開くことを否定します。そして、誰もが生きるということに責任を持つということを否定します。それらの全てが、実際のところは害悪であって、それとは別の「正しさ」があると、そう主張します。

「私の言葉でいえば「運命」の、あなたの言葉で言えば「個人を超越した基準を探すという態度」の、帰依者となること。個性を捨てて、もっと素晴らしい何者か、永遠であり絶対であり、何よりも共通であるもののために生きるということ。それこそが本当の「正しさ」であると、あなたは主張します。

「けれども、もしも……そう、もしも感情がないというのならば。個人個人が、感動もせず憎悪もしないというのならば。善と悪との違いに、なんの意味があるっていうんですか? 私達が善であることの、あるいは私達が悪であることの、何に意味を見出せばいいんですか? 確かに、あなたの言う通り、感動も憎悪も、あるいは他の全ての感情も、動物的で反射的な反応に過ぎないのかもしれません。けれど、例えば、誰かが誰かに不当な扱いを受けた時に。誰かに殴られたり、蹴られたり、唾を吐きかけられたりした時に。もしも、そこに憎悪がないのだとしたら、どうしてそれを悪であるといえるんですか?

「あるいは……この世界が、とうとう、全ての人間が理想した通りの世界になって。世界中に善の意思が溢れたとして、そこに感動がないとしたら、その世界になんの意味があるっていうんですか? 誰もが、なんの感情も抱かないままで、ただ生きているだけの世界。誰もが自由な意思を奪われて、人間を超越した正しさだけが残された世界。そんな世界に生きることに、どんな「正しさ」があるっていうんですか?

「あなたは人間が愚かだと言いました。何度も何度もそう言いました。それから、私も……やっぱり、あなたと同じ意見なんだと思います。あなたがそう言うたびに、あなたが人間は愚かだと言うたびに、私は、なんとかそれに対して反論しようとしてきました。けれど、出来なかった。どうしても出来なかった。だから――どんなに、そんな風に考えたくないと思っていても――結局のところは、私も、人間は愚かなんだと考えているんだと思います。

「けれども、だからこそ、あなたの考える「正しさ」には賛成出来ないんです。あなたの言うような、論理的には正しいのであろう「正しさ」は、私達のような愚かな生き物のための「正しさ」ではない。もっと強く、もっと冷たく、もっと進化した何者かのための「正しさ」でしかない。なぜなら、そんな「正しさ」がもたらされたところで、私達は……あまりにも愚かであるせいで、それが「正しさ」なのかどうかということが分からないから。

「自分に唾を吐きかけた者に対して怒りを感じるということ。自分の目の前にある美しい物に心を動かされるということ。人間の正しさは、そこからしか始まらないと私は思います。あなたが言う「感動と憎悪と」、それこそが、人間にとっての「正しさ」の始まりなんだと、私はそう思うんです。例え……それ自体が「正しさ」ではないにせよです。

「もちろん、あなたの言った通り、お腹いっぱいに食べられること、快適な寝床で眠れること、そういったことは何よりも大切なことです。人間が人間として持つ理想以前にある、生物としての幸福感。それを否定することは出来ませんし、してはいけないことだということは、絶対に間違いないことです。

「そして、私は、確かに、そういった幸福を、有り余るほどに享受してきました。この世界の人間が求める幸福、美食・美酒・豪邸、そういった物の全てを、一つの犠牲も払うことなく与えられていました。私には、空腹な人達の気持ち、家を持たない人達の気持ちは推測することしか出来ません。

「だから、「既に幸福な人間がより幸福になる世界」に反対するあなたの意見には、反対しません。それどころか、私は、あなたがしたその反対に対して、全面的に賛成します。けれど、その上で、「感動と憎悪と」を擁護したい。「感動と憎悪と」がなければ、人間は、あなたの言うところの「正しさ」には到達出来ないと、そう主張したいんです。

「そう、つまり……私が言いたいことは……幸福な世界、人間が幸福になれる世界に向かっていくための基準。世界を良くしていくために、私達がどちらの方向に進んでいけばいいのかという道標。それをあなたは運命なんだと言った。それが間違っていると言いたいんです。

「搾取される者が、搾取されることに対する怒りを持つ。そして、全く関係のない何者かが、その怒りに対して心を動かされる。それが全ての「正しさ」の始まりだと、私はそう思っているんです。そして、それは、あなたの言うところの運命からは、絶対に生まれない。

「そう、だから……私が言いたいのは……そう、この世界が、間違っているということなんです。この世界が間違っていて、私も間違っているし、あなたも間違っている。人間の全部が間違っている。それなら、あなたの言う絶対的な基準を見つけ出すために、もともとあったものに頼ることはおかしいと言いたいんです。あなたが言うところの、自分の外側にある絶対的な基準を追い求める行為、それは……もう、既に、間違っているということが分かっている何か、それに縋り付いて、そのまま、間違っている全てのものの中に沈み込んでいく行為だと言いたいんです。

「私達は、今、溺れているんです。どうしようもない過ちの中で溺れている。そうだとすれば、そのままの状態で、何もせずに沈んでいくわけにはいかない。静止状態でいていいはずがないんです。必死に、過ちに抗って、そこから抜け出ようとしなくてはいけない。それは、もちろん……いつの日か、それをやめなければいけない日が来るでしょう。行動の状態を、静止の状態に変えなければいけない日が来る。でも、それは、少なくとも今じゃない。

「戦い続けなければいけない。闘争を、闘争を続けなければいけない。そう、あなたが言うところの、静的な勝利を手に入れるために。私は……あなたが言った通りだと思います。動的な勝利、つまり、楽に手に入れられたり、自己陶酔にひたることが出来るような、動的な勝利。そうではなく、静的な勝利を目指すべきだと、そう思います。でも、そういう静的な勝利を手に入れるためにも、やはり、闘争することが必要じゃありませんか? 静的な勝利をもたらすのも、やはり、怒りによって動機付けられて、心を動かされることによって行動に移される、闘争ではありませんか?

「確かに、私達の闘争が、動的な勝利に向かいがちだということは否定出来ません。けれども、だからといって、全ての闘争を放棄してしまうことは無責任です。そうではなくて、そういう傾向、自分のための勝利に傾きがちであるという傾向を、なんとかして、自分自身で律すること。そして、自分のためではなく、「正しさ」のための勝利を求めていくということ。それこそが、本当に、するべきことだと思います。

「そういうことを言うと、あなたはたぶん……それは現実的ではないというでしょう。全人類の中で、そんなことが出来る人間がどれだけいるか。弱い人間は、そんなことが出来るはずがない。弱い人間に対して、そういう行動を取るように強制するのか。そう言うでしょう。私が言いたいのは、そういうことではないんです。私が言いたいのは、これは、これは……私達みたいな人間の責任だということです。

「遺伝と環境とによって定められたところの強者の責任。私達は、間違った運命に逆らうことが出来るならば、間違った運命に逆らわなければいけない。それは……運命を、正しい運命にするために。あなたが言うような、弱者を救うための構造を作っていくための絶対的な基準にまで昇華させるために。間違いを正せる人が、正していかなければいけない。そういうことを言いたいんです。

「私がそう言っても、あなたは……そんなことは出来ないというでしょう。第一、どうやって、強者は自分を律することが出来るのか? 自分自身によって、自分自身を変えていくことなんて、どうすれば出来るのか? そう言うに違いありません。私は、私は、つまり……それこそが、「感動と憎悪と」によってなしうることだと思うんです。

「もちろん、自分のために感動したり、自分のために憎悪したり、そういうことをしている限り、自分を律することなんて出来ないと思います。あなたが言ったように、自分勝手な理想しか抱くことが出来ず、他の人に対する思いやりを抱けずに終わってしまうでしょう。けど、でも、それでも……あなたが、私憤と公憤とという区別が、欺瞞に過ぎないと言ったこと。それについては、私は、絶対に反対します。

「その区別は、確かにあるんです。つまり……そう……もしも、怒りの相手が自分自身だったら? 自分勝手な自分、他人に対する思いやりを持てない自分。本当は、間違ったものを正すための闘争であるはずなのに、自分のための闘争となっているということに対して、怒りを抱くのであれば? それは、確かに、自分のための怒りではなく、この世界のための怒りになるんではないですか? それと同じように、自分についてのことに感動するのではなく、他人についてのことに感動する。自分ではない何者か、弱者が強者に抗って立ち上がろうとしている、間違っていることを正そうとしている、その果敢な姿勢について感動するのであれば? 同じように、これは、自分のためではなく、他人のための感動になるんじゃないですか?

「私は……つまり……あなたが使った例を使うならば、ある料理が美味しい上に栄養があるというのは、確かに偶然かもしれません。でも、美味しい上に栄養がある料理を作ろうという姿勢は偶然じゃないということです。それに、それから……その料理が例え美味しくなくても、とにかく栄養がある料理を作ろうとすること。そういったレシピを考えていくことは、絶対に偶然じゃない。そして、料理を作ろうとするのは、自分自身だということ。

「そう、ある意味ではあなたの言う通りなんです。あなたの言う通り、自分自身のために憎悪してはいけないし、自分自身のために感動してはいけない。けれど、もしも、自分自身について考えるということをやめてしまっては。自分自身が、なんのために、何をしようとしているのか。それが果たして「正しさ」であるのか、そうではないのか。そう考えることをやめてしまっては、一体、私達は、どうやって「正しさ」の方向を向き続けられるっていうんですか? 私の言う責任とは、そういうことなんです。

「あなたが何度も何度も口にした絶対的な基準というものは、確かになければいけないものだって、私もそう思います。それがなければ、私達は、自分勝手な暴力と自分勝手な搾取とに飲み込まれてしまうでしょう。そして……その絶対的な基準というものは、確かに、私の言葉でいえば運命なのかもしれません。

「そこまでは、私もあなたに同意します。完全に同意します。けれども、私が言いたいのは……その運命というものは、私達自身が作っていかなければいけないものだっていうことなんです。私達自身が、自覚的に「正しさ」について考え続ける中で作っていかなければいけないんだっていうことなんです。

「なぜなら、もしも、一人一人が、自分自身で「正しさ」について考えるということを、手放してしまったら。誰か、他の何者かが、そのような「正しさ」を決定してしまうことになるからです。そして、そのような何者かが、本当に「正しさ」を「正しさ」として決定するか。私達に「正しさ」としての「正しさ」を与えるのか。そんなことは、分からないからです。仮に、その何者かが搾取者であったならば? 搾取者が、搾取者の都合のいい言い訳として、これこそが「正しさ」であると、偽りの「正しさ」を手渡してきたら? 自由を手放した私達はそれに逆らうことが出来ない。そう……自由だけなんです。一人一人の自由だけが、独裁に対して立ち向かうことが出来るんです。

「私達は、自分達の支配者であるところの運命を、自分達の手で、「正しさ」の方向に持っていかなければいけない。この世界は、そのまま受け入れるには、あまりにも間違っているから。そして、自分自身ももちろん間違っていて……だから、「感動と憎悪と」に頼らなければいけない。あなたの言うところの、ただ単なる生理的な反応の中から、正当な感動と、正当な憎悪と、それらをより分けて、それらに頼って、自分を「正しさ」の方向に進めていかなければいけない。

「正当な感動とは……この間違った世界の中で、本当に、数少ない「正しさ」を持った何か。それに対する感動のことです。そして、正当な憎悪とは、自分の中の間違った部分に対する憎悪です。そういったものを、そういったものだけを、より分けていく。そうして集められた、正当な「感動と憎悪と」から……そして、それをより分けていくという作業自体から、「正しさ」というものの方向性を探し出していく。それこそが、それこそが、私達にとって、本当に必要なことなんじゃないんですか?

「そう、そうなんです。私は、あなたが言っていたことは、全て正しかったと認めます。この世界は間違っていて、私達自身も間違っていて、だからこそ、絶対的な基準がないと、私達は正しいことをすることも出来ない。けれども、私は、そういったことの全てが正しいと認めた上で、それでもあなたは間違っていると言う。あなたの言うことは机上の空論に過ぎないと言う。

「なぜなら、あなたの主張は、あまりにも受け身に過ぎるから。あまりにも、あらゆることを、自分ではない他の誰かに任せ過ぎだから。何もかもが他人事で、何もかもを他人のせいにして。それで、自分が所属している集団に対して「絶対的に服従」することが正しいとしているから。自分の外側にある運命、自分の責任ではないところの運命に唯々諾々と従うことを主張するから。

「私が言いたいことは、私が主張したいことは、そんな受け身な姿勢では駄目だっていうことなんです。本当に、「正しさ」の方向を探したいのであれば、自分が自覚的になって、その「正しさ」の方向を見つけないといけない。そのためには、あなたの言うような「服従」「隷属」、そういった姿勢では駄目だっていうことです。そう、つまり、自由でなければいけないっていうこと。あらゆるものから自由になった上で、そのあらゆるものの中から、「正しさ」であると考えられるものを探し出していく。それこそが、私が考える、唯一の、「正しさ」を見つける方法なんです。

「私は、だから、私は、「逃げない」と言ったんです。この間違った世界から、この間違った自分自身から、逃げない。そして、私達のせいで、弱者が暴力を受けている、弱者が搾取されている、この状況からも逃げない。強者である私達の責任から逃げない。私の言う「逃げない」とは、そういう意味なんです。決して、弱者のための幸福を否定するための言葉ではない。そうではなくて、弱者のための幸福を作り出すという、私達の責任から逃げないということなんです。だから、だから……私は、あなたに対して、こう言います。あなたは正しい。しかし、卑怯だ。だから、私は、あなたの言うこと全てに同意した上で、あなた自身のことを否定する。私の言いたいことはこれで全部です。」

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