第二部プルガトリオ #22

 一つの詩では人を殺せない。

 一つの愛では人を殺せない。

 人を、本当の意味で殺せるのは。

 否定しようがないほどに。

 完全に構成された。

 虚構の論理、だけだ。

「あはは、前提についての話が随分と長くなってしまいましたね。さあさあ、お待たせいたしました。最後の最後に、私が理想的だと思うジャーナリズムの形、本質的に「正しさ」の方向へと進んでいく力を持つのではないかと思えるジャーナリズムについて話していこうと思います。

「とはいえ……いやー、なんというか……そんな風に「正しさ」「理想的」といった形容詞が付くような、非常に立派なジャーナリズムについて、私なんかが考え付けるわけがないんですよね。だって、私、人間ですからね? 今まで散々っぱら馬鹿にしておいて、なんとも恐縮なことですけれども、私自身もそういった低能、下等知的生命体であるところの人間なんです。そのようなわけで、あるべきジャーナリズムの形を示すことなんて、私には無理です。ということで……全く新しいものをゼロから作り出すのではなく、既存の制度をモデルとして、可能な限り「正しさ」「理想的」であることに近いジャーナリズムを考えていこうと思います。

「いうまでもないことですが、その既存の制度とは、神国における社会権力、その大部分を担っているところのメディア的権力です。えーとですね――これはまあ、義務教育レベルの知識なので、わざわざ説明するまでもなく、砂流原さんもご存じだと思いますが――神国における人間権力の分立形には、様々なものがあります。そのどれもが、神々のようなゼティウス形而上体と比べて不完全な人間の労力を軽くするために、権力の形を分野ごとに分けて、より専門的にすることを目的としています。例えば、ここカリ・ユガ龍王領おいては、最も基本的な世俗・宗教・軍事の三つの形に権力を分けている。

「ただ、これは権力分立の中でもかなり初期のものです。いわゆる神話時代的な権力分立ですね。第二次神人間大戦前後の、もう少し後の世代の神国においては、伝説時代的な権力分立というものが存在していました。それが、政治的権力・経済的権力・文化的権力・社会的権力の四権分立です。これは、リリヒアント第五階層からリリヒアント第二階層に神々が移動してから、人間の生活がより世俗的になるにつれて発達してきた権力の形であるため、権力の捉え方も非常に世俗的な理解に片寄っています。

「さて、そんな四つの権力のうちの社会権力ですが、これは主に社会における関係性を支配しようとする権力です。人と人とが、それぞれどのような役割を担って、どのような関係を持っているのか。それを整理して、変化させるべきところは変化させ、固定するべきところは固定して、より一層の進展を秩序に与えるための権力ですね。そんなわけで、この権力においては、そういった人と人との関係性において重要になってくるもの、つまり、人と人との間の「情報の媒介」を司っていくことになります。

「それは、いうまでもなくマス・コミュニケーションが生み出すところの、巨大な情報のstreamの管理も含んでいます。そもそもの話として、マス・コミュニケーションの別名であるメディアという単語は、ホビット語で「中間」「媒介」という意味ですからね。まさに社会権力が支配するに相応しい権力の構造であるということです。つまり、そういうことなんです。人間至上主義社会においては、自由放任の態度でもって、より強き者のために弱者に対する搾取の正当化を行うか、あるいはより愚かな者のために自己愛の思想の正当化を行うか、そのどちらかのための機関となってしまっているジャーナリズムというものは。神国においては、より良き関係性・より良き秩序を構築するための、一つの手段にまで高められているんです。

「要するにジャーナリズムは一つの権力として取り扱うべきなんですよ。集団を、より良い方向、より「正しい」方向へと向かわせるための、支配者による強制力としてね。砂流原さん、あなたは警察が行うような業務を営利目的の企業に任せようとしますか? しないでしょう? あるいは、なんの資格も持たない人々に裁判を任せるべきですか? 被告人をアフォーゴモンに引き摺り出して、そこで有罪か無罪かを判断するべきですか? そんなわけがない、そんなことを考えるだけで気が狂ってると思うでしょう。そう、そうなんですよ。商業的なジャーナリズムだとか市民によるジャーナリズムだとか、そういうことをいう方々は、一人残らず気違いなんです。それも大変有害な気違いなんです。

「そういうわけで、神国で行われているジャーナリズムをモデルとするのであれば、ジャーナリズムは統治機構の一部でなければいけないということが、この上なく明白に分かりました。まあ、ここまではいいですよね、ここまではどんな低能にだって辿り着ける結論です。さて、問題はここからなんですよ、砂流原さん。ジャーナリズムを統治機構に含めるとして、どのようにしてそれを含めればいいのか。

「神国における人間権力であれば話は簡単です。神々によって選ばれた人間か、もしくは神々によって作られた人間、要するにアリストクラートに任せればいいだけの話ですからね。人間と違って神々は間違うことがありません。神々によって権力の高みにまで引き上げられた人間であれば、少なくとも、白痴じみた大衆よりはまともなジャーナリズムを行うことが出来るわけです。集団を、より秩序立った方向へと導くジャーナリズム。けれども、人間至上主義社会において、そういったアリストクラートによるジャーナリズムは望むべくもない。

「人間至上主義社会の権力について、最大の問題はなんだと思いますか? より優れた人間を選び出すという過程ですよ。人間至上主義社会には人間しかいません、人間が、より優れた人間を選ぶしかないんです。けれど、より優れた人間を選ぶことが出来るのは、より優れた人間だけなんです。それでは、より優れた人間を選ぶところのより優れた人間をどう見つければいいのか。あはは、この問い掛けは永遠に続いてしまいますね。

「現在行われているのは二つの方法です。一つ目が政治家的方法、これは選挙で選ぶという方法ですね。誰も彼もが「この人はいい人だ」といっているならば、まあいい人なんだろうということにしておくという、信じられないほど馬鹿げた方法です。もう一つが官僚的方法。これは選挙に対応する表現を使うのならば学挙ということになりますが、早い話が、幾つかの試験をくぐり抜けた人について、その試験に合格出来た分だけ、他の人よりも優秀であろうと考えるやり方です。これも、まあ、選挙と似たり寄ったりですよね。だって、その試験を作るのは人間なんですから。馬鹿が作った試験で、どうやって利口な人間と馬鹿な人間とを区別出来るっていうんですか? 馬鹿から見て馬鹿ではない馬鹿と馬鹿から見ても馬鹿な馬鹿は区別出来るでしょうが、それを区別して何か意味があるとは、とてもではないが思えませんね。

「とはいえ、人間が人間について判断するということについて、これ以外には方法を思い付くことが出来ないわけです。少なくとも私にはね。いや、まあ、他にも世襲制にするとか色々あるにはありますがね、とにかく……一応は、このどちらかにするとしましょう。それでは、ジャーナリズムに携わる人間、その中でも記者について、どちらの方法で決定するべきか。私としては後者の方がいいんじゃないかと思いますね。つまり官僚的方法です。なぜかといえば、記者というものは、毎年毎年それなりの人数を採用する必要があるからです。そして、そのように、頻繁に採用を行う場合には。選挙的方法はとにかく金と時間とが掛かってしまうからです。集団の中で選挙権を持つ構成員の全員にこの人間を記者にするべきかそうではないかと聞かなければいけないんですからね、それよりは試験によって決定した方が、まあ、まあ、安上がりだろうなということです。

「さて、それでは、その試験はどのような試験がいいでしょうか。易国で行われていたところの、いわゆる本場の学挙には、科挙と魔挙とがあったという話ですが……まあ、それは置いておいて。この問題もまた、私のような人間、下等生命体には、答えるだけの資格も権利もない問題ですね。私が何かを提案したところで、それもまた、しょせんは馬鹿から見た利口と馬鹿とを区別するための試験に過ぎません。

「とはいえ、あくまでも私の意見として何かを言うのであれば……そうですね、あまり複雑なものではない方がいいと思いますね。機械が精密になれば精密になるほど壊れやすいように、あまりにも複雑な試験には、その複雑である分だけ試験を採点する人間の私情が挟まりやすくなるものです。あくまでも、一般常識を答えさせる程度の内容に収めておくべきでしょう。

「それから、もちろん、身体測定を行うべきでしょうね。五体のどこかに欠損がある人間は即座に不合格にするべきでしょう。えーと、まあ……あはは、こんな顔をしている私がこんなことを言うのもどうかと思いますがね。ただ、普通に考えれば、こんな顔をしている人間はジャーナリズムに携わるべきではないですよ。顔の片側が引き裂かれていない人間と、顔の片側が引き裂かれている人間と、どちらにインタビューをされた方が集中出来ますか? 私だったら、私みたいな顔をしているやつにインタビューされたら、この傷が気になって仕方ないと思いますね。

「それに、他の片端の方々にだって、それぞれに不利な点があるでしょう。片足がなければ内戦の現場を駆け抜けることが出来ないでしょうし、片手がなければアサルト・ライフルで応戦しながらシャッターを切り続けることが出来ない。目が見えなければ戦場の正確な描写をすることが出来ないし、耳が聞こえなければ後ろから撃たれても気付かずに死んでしまう可能性がある。五体満足でなければジャーナリストとしても不具者なんですよ。劣った人間なんです。そうであるのならば、権力を担う者として採用すべきではない。権力というものがより完全であるということは、個々人の権利に先立って優先されなければいけませんからね。

「ああ、そうそう! こういうことを申し上げた場合、このような反論が予想されますね。記者はあらゆる社会的立場にいるあらゆる種類の人間の代弁者でなければいけない。そうである以上、障害者の立場に立って考えることが出来る障害者の代弁者も必要である。あはは、えーと、そうですね、はっきり申し上げましょうか? そんなものはいらない。障害者の代弁者としての役割なんて、ジャーナリストには必要ない。いいですか、第一段階、そもそも障害者の視点が必要な記事ってどれくらいありますか? そんな記事は、せいぜい多くて一か月に一回。普通に考えれば年に数回がいいところでしょう。そのために、その他の全ての記事に対して不適格な不具者を雇えっていうんですか? そんなことするくらいなら、そういう視点が必要な時に、第三者機関、障害者のためのNPOかどこかから意見を聞いた方がよっぽど有用でしょう! 第二段階。先ほども申し上げたように、ジャーナリストというものの役割は、社会における関係性の適切化です。それは要するに媒介者としての役割です。媒介者というものはね、限りなく中立でなければいけないんですよ。もちろん、先ほども申し上げたように、それが言語で行われる行為である限りは、中立であることにも限界がありますがね。全ての記事に対して「障害者」という偏った価値観を与えてしまいかねない障害者の記者というのは、それだけで、本質的に、ジャーナリストとしては成り立たないんです。そして、もしも障害者が中立な立場から記事を書くのだとすれば。その方が障害者である意味はないわけです。まあ、こんな感じですかね。この他にも、そうですね、障害者の代弁者としての役割が必要だというのならば、めくら、つんぼ、おし、どもりにちんばにせむしに気違い、そういうあらゆる障害者を記者にするのかという反論もあり得ますが――あはは、まるで見世物小屋ですね――上品な話ではないので止めておきましょう。記者として、あまり差別用語を口に出すのも憚られますしね。とにかく、私みたいに身体にご不自由なところがある人間は記者にしてはいけないということです。

「まあ、試験についてはこれくらいですかね。あとは、あくまでも私の好みの話をさせて貰えるならば……一般常識に関する試験だけでは振るい落としに不十分であるというのならば、古典に関する知識を答えさせるのもいいかもしれません。もちろん、古典といっても神話時代の古典ですよ。その頃に書かれた物は、例え人間が書いた物であっても、今の人間が書いた物よりは遥かにましな物ですからね。それを丸暗記したのならば、少なくとも、今の人間よりはまともなところがあるという証明になるでしょう。古典を丸暗記させて……それを、より綺麗な文字で書いた人間を合格にする、そんな感じです。あはは、ジャーナリストは字が綺麗な方がいいですからね。あまりにも字が汚いと、後々になってメモを書いたノートを見返した時に、読めなくなって困ってしまいますから……私みたいにね。

「結局のところですね、、試験なんていうものは、希望した人間の数を減らす、数を絞る、そんな意味しかないんですよ。よほど頭がおかしい人間か……あるいは、あはは、顔の片側が裂けてる人間でもない限り、誰がなっても同じなんです。なぜって、ジャーナリストになってから経験すること、そして、それを自分の中でどう咀嚼していくかということ。そういったことの方が、ジャーナリストになる前の知識よりも重要なことですからね。人間は、とてもとても馬鹿だから、何事であっても実際に一回やってみないと分からないものなんですよ。

「さて、ここまでは、あくまでも記者を採用するという話です。新聞を作る際には、記者以外にも、もう一つ絶対に必要な仕事がありますね。そう、編集者の仕事です。えーと、簡単にいえば、記者が持ってきた記事を掲載するか没にするかを決定する、あるいはそのままでは掲載出来ない記事に手を入れて掲載出来るようにする、そういう人々のことですね。もちろん、それ以外にも山ほど仕事はありますけど、一番重要なのはそういった仕事です。そして、編集者については……私は、学挙ではなく選挙によって選び出すべきだと思っています。なぜといって、先ほどから何度も何度も申し上げているように、人間というものはあまりにも不完全な知性しか有していないからです。官僚機構だって、そういった不完全な知性によって生み出されたものですからね。そうである以上は、大変大変愚かしいものであると考えておかなければいけないんじゃないですかね。

「そういった愚かしい機構、大集団の中の小集団というものは、先ほども申し上げたように定常安定化欲求に陥りやすいものです。つまり、小集団の中に独自の原理が発生してしまい、その独自の原理がいかに白痴じみたものであっても、どこまでもどこまでもそれに従ってしまう、そういうことが起こりやすいということです。そうであるならば、その小集団が大集団に対して大きな影響を与えかねないものである以上、その小集団の中でも特に重要な地位にある者は、大集団全員の判断を仰いだ方がいいでしょう。私が言いたいことはそういうことです。

「ただ、まあ、とはいえ。実のところ「民主的な選挙」ほど愚昧かつ愚劣な結果をもたらすものもありませんけれどね。それがなぜか分かりますか、砂流原さん。それはね、当たり前の話ですが、人間の大多数がどうしようもないくらい愚かであるからです。優れた人間というのはね、どんな集団の中だって、常に少数派なんですよ。ほとんどの人間は、怠惰で、傲慢で、低能なんです。そういった愚かな人間が優れた人間の意見を圧殺していく過程のことを、私達は「民主的な選挙」と呼んでいるんですよ。

「それでは、なぜ選挙がいいと主張するのか? それはですね、この集団がどんどんどんどん悪くなっていくのは、間違いなく自分達のせいであると、全ての人間に対して自覚する機会を作るためです。もしも全てが官僚的機構の中で決定してしまうのならば、愚かな方々は、自分達が愚かであるからではなく、官僚が愚かだからこうなるのだと、そう思い込んで満足してしまうでしょう。けれども、その集団における重大なことが、選挙という過程を通して決定するのならば。少なくとも、その選挙に参加した自分達も愚かなんじゃないかと、そう考えるチャンスが生まれることになる。

「まあ、それでも人間という生き物は自分達が愚かであるということには気が付かないでしょうがね。なんといっても人間という生き物の愚かさはいつだって私達の想像の遥か先を行くんですから。下等知的生命体界のフーリッシュ・トップランナーといっても過言ではないですよ。色々な言い訳を考えて、自分は愚かではないと必死に自己正当化を図るでしょう。今回当選した人間に自分は投票していないだとか、そもそも選挙に出た人間に悪い人間しかいなかっただとか……とはいえ、少なくとも、自分が愚かだと自覚する機会は与えられるわけです。それを有効に利用するか無駄にしてしまうかは、もう個々人で頑張って貰うしかないことですね。

「編集者を選挙で選ぶ際に、最も重要なことは、その被選挙者をどう決定するかということです。もちろん、集団を構成する全員に被選挙権を与えるわけにはいけませんよね。「民主的な選挙」に付きものの、愚昧・愚劣という弊害を、少しは我慢するとしても。それを無限に巨大なものにしてしまうわけにはいかないからです。誰でも編集者になれるとしたら、ちょっと想像もしていなかったような人間が編集者になってしまうことだってあり得るわけです。そういうわけで、私としては……まあ、そうですね、第一の条件として、記者としての業務に二十年以上従事してきた人がいいと思います。そういった人々であれば、それなりの経験は積んでいるでしょうから。そして、第二の条件として、そういった記者の中でも、五年以上の下放を経験した人間がいいでしょう。

「ああーっと、砂流原さんは下放という制度をご存じですか? どう説明すればいいのかな……簡単に言うとですね、官僚機構に所属している人間に対して、その官僚機構以外の経験をさせるために、一般的に下層といわれる人間と同じ生活をさせるという制度です。例えば、小作農の生活をさせたり、単純労働者の生活をさせたり。今であれば……そうですね、非正規雇用者の生活を経験するというのがいいんじゃないでしょうか。もちろん、その間の生活費は、全て非正規雇用としての給料から出すことにする。その生活があまりにも過酷で、このままでは死んでしまうとなっても、何一つ援助は与えない。とにかく、最低最悪の生活をさせる。そして、五年経ったら記者としての生活に戻して、その最低最悪の生活についての記事を書かせる。

「こういう経験をすれば、それはまあ、たった五年ではありますけど、それでも官僚機構に所属していた時に固着してしまった定常安定化欲求は、それなりに洗い落とされるでしょう。ただ、下放した直後の記者では使い物にならないと思うので……そうですね、まずは五年記者をして、その後で五年の下放生活を送り、そしてまた十五年の記者生活、こんな感じがいいんじゃないでしょうか。そして、その後で、ようやく編集者になるための被選挙権を得ることが出来るようにする。

「これだけの経験を積めば、まあまあまともな人間になっているでしょうからね。選挙権者の頭がどれほどすちゃらかぼんちきであってもそこそこ安心していられるということです。被選挙権を持つ人々に対して、強制的に選挙を行って……ああ、そうそう、もちろん拒否権は与えませんよ。いや、だってそうでしょう? もしも拒否権なんて与えてしまったらですね、誰も編集者になんてなりたがりませんよ。皆が皆、記者がやりたくて記者になってるんですから、退屈で退屈で仕方がない内勤なんて……あはは、私だってごめんですね。とはいえ、誰かが兎を殺さなくてはいけないですからね。二十五年経ったら、一握りの例外を除いて、強制的に選挙にかけて。そして、編集者にする。

「ちなみに、その一握りの例外というのは、よほど優秀な記者ということです。それをどう決定するのかは難しいところですが、まあ、無難に、ジャーナリズムにおける賞を設定しておいて、その賞を受賞した記者ということにでもしておきますかね。こういう風にしておけば、少なくとも、誰もが優秀だと思っている記者……実際に優秀かどうかは置いておいて、優秀だという評判のある記者は、編集者にならずに済みますから。

「と、いうわけで。ジャーナリズムにおける記者と編集者とをどのように選べばいいのか、私はこのように考えているわけです。このような採用方法は、新聞というメディアだけではなくて、他の視覚的聴覚的メディアでも同様に行われるべきであると考えます。つまり、「作る」者は学挙によって、「選ぶ」者は選挙によって、それぞれ採用するべきだということですね。さてさて、それでは。このようにして採用された記者と編集者によって、果たしてどのように新聞が作られていくべきであるか。もっと正確にいうのならば……記者が書いた記事を、どのように選択し、どのように掲載すべきであるか。

「いうまでもなく、原則として、あらゆる記事は掲載されるべきです。ああ、いえいえ、違いますよ。私は言論の自由なんて馬鹿げたことを言いたいわけではありません。あはは、言論の自由、なんて無意味な言葉でしょうね。虚無の信仰の一形式です。言論というものが、言語の形でなされるところの、無秩序の秩序化である以上、それは絶対に自由なものではあり得ません。関係知性外部の混沌をどのように理解可能なものにしていくのか、あるいは、言い換えれば、関係知性によって記号化不可能なものをどう記号化していくのか。それが言論です。もしも、その言論を、絶対的な意味で自由にしてしまったら。それは混沌を混沌のままとして、その混沌の中でふわふわと浮遊するだけの無意味な行動でしかない。つまり、それは既に言論ではないんです。だから、言論の自由なんて、何も考えていない低能の戯言に過ぎません。

「私が言いたいのは、そうではなく、編集者もまた人間でしかないということです。もしも記事の取捨選択をするのが、ヴェケボサンだとかユニコーンだとかの高等知的生命体、あるいは神々のように完全な知性を持つ存在であるならば。私は、その検閲を通らなかった記事などこの世界に生まれない方が良かったのであると、自信をもって断言出来ます。しかしですね、たかだか人間ごときが、どうしてその記事が「正しさ」を含んでいるのか含んでいないのかということが分かりますか? 分かるわけがないんです、なんらかの奇跡でも起こらない限りはね。

「だから、よほどのことがない限りは、あらゆる記事は掲載されるべきなんです。ちなみに、このよほどのことというのは、事実関係に問題がある場合ということです。しかも、ちょっとした価値観の相違とか、読みようによっては勘違いしてしまうだとか、そんな生易しい問題ではなく、厳然とした現実における問題のみに限ります。ということで、まずはここで第一段階の選択が行われるわけです。それは、つまり、その記事が事実に基づいた記事であるか、そうでないのか。事実に基づいたものだと認められれば、その段階で公開は決定する。一方で、もしもそれが虚偽の記事であるならば、あるいは、もしも不確かな情報に基づく記事であるならば、その記事は没になる。

「さて、次は第二段階です。全ての記事が掲載されるべきだといっても、それらの記事の全てが同等に扱われるべきだというわけではありません。私の言っている意味はお分かりになりますね、砂流原さん? つまり、集団にとって好ましいと考えられる記事と集団にとって好ましくないと考えられる記事とは分けられるべきだということです。

「編集者として選ばれた人間……選ばれるであろう人間は、まあ、人間です。だから「正しさ」に関してはそれを望むべくもありません。とはいえ二十年の記者生活をしていますし、それだけでなく最下層の人間が経験するであろう生活を五年間送っています。ということは、そのジャーナリズムが所属しているところの大集団がどのような集団であるのか。あるいは、その大集団が、どのような関係知性の下で束ねられているのか。そのくらいは、なんとなく、ある程度、理解出来ているはずです。そうであるならば、その大集団において「正統」であるとされている論理がいかなるものなのか、「異端」であるとされている論理がいかなるものなのか、それを見分けることくらいは出来るということです。

「つまりですね……私が理想的だと考えるジャーナリズムにおいて、編集者は、選択者は、記者の持ち込んできた記事が「正統」であるか「異端」であるかを区別するということです。そして「正統」と認めた記事のみを無条件の公開とする。一方で、「異端」とみなされた記事に関しては、その取扱いを二つのパターンに分ける。まず一つ目が、編集者が手を入れることで、「正統」であるといえるところまで修正する。こうすれば「正統」として記事を公開出来ますからね。もう一つが……「異端」の記事として、「異端」のままで公開する。

「先ほどからずっと、私は、小集団において定常安定化欲求が働くということを申し上げてきました。けれどもですね、実をいいますと、定常安定化欲求というのは大集団においても働くんです。まあ、そりゃそうですよね、小集団だの大集団だのいっていますが、要するに大きさの違いなんですから。とはいえ、大集団においては、その内部に様々な小集団を含んでいて、それらの小集団が互いの価値観を争わせることによって、ある程度は定常安定化欲求が削り落とされるようなシステムになっています。しかし、だからといって……全く働かないというわけでもない。

「そのようなわけで、大集団の内部に「正しさ」を担保するというのは、どうしても「正統」だけでは不可能なんです。ほんの少しばかり「異端」を取り入れない限り、集団全体の信仰が間違った方向に固定されてしまいかねない。だから、私は、「異端」と定められた記事も公開されるべきだと考えるわけです。ただ、そうはいっても、その記事が、完全に無条件で公開されてしまえば。それは大集団における秩序に危険を与えてしまいかねないことになりますよね。従って、そういった記事は「異端」の烙印を押した上で、なるべく人目につかないところに公開されるべきなんです。

「そうですね、例えば……「正統」の記事に関しては、きちんと印刷した上で、集団の全構成員に平等に配布する。それを読むにはなんの苦労もいらないわけです。一方で、「異端」の記事に関しては……どうしましょうかね、生活空間や金銭やで区別するわけにもいかないので、そうですね、「正統」の記事について、その内容を正しく理解しているかということを試験して、その試験に合格した者のみに読ませることにしましょうか。その記事がなぜ「正統」とされているのか、その記事が大集団にとってどういう利点をもたらす記事であるのか。それを理解している人々ならば「異端」の記事を読んでも変に影響されることはないでしょうからね。

「そのようなわけで、記事の取り扱いについては三段階の区別を行うということです。一段階目が「正統」の記事として無条件公開。二段階目が「異端」の記事として条件付きでの公開。三段階目が事実誤認として破棄。どうでしょうね。これくらい注意深く扱えば、ジャーナリズムという権力は、集団の構成員の間を流れていく膨大な情報の流れを適切に管理していくことが出来るのではないでしょうか……まあ、あくまでも、人間に可能な限りにおいて、ということですけれどね。

「そして最後に、最も重要な問題について話しておかなければならないでしょうね。それは、もちろん財源の問題です。私が想定しているジャーナリズムは巨大な権力機構であり、しかも集団の構成員全員に対して平等に報道を提供しなければいけません。金がないからといって「正統」な情報にアクセス出来ないようであってはいけないということです。そうであるならば、そのジャーナリズムを維持するには、凄まじいほどの金が必要になってくる。その金を、一体どうやって集めればいいのか。

「まあ……一般的にいって、主権を持つ集団というものには信用の創造力というか、公に認定された債権債務関係を大規模に発生させる力がありますから、財源なんていらないといえばいらないとしてしまってもいいんですけどね。とはいえ、これだけ膨大な債権を集団全体に巻き散らすということを想定するならば、一応はそれと対になるところの債務に関しても考えておいた方がいいでしょう。インフレーションが起こった時に、そのインフレーションを制御するための機構は備えておいた方がいいですからね。

「まずは他権力が徴収する税金を財源とする方法ですが、これは論外ですね。他権力の税金は、あくまでも他権力の財源です。社会権力としてのジャーナリズムに使うべきではない、なぜなら、そんなことをしてしまえば、他権力と社会権力との境界が曖昧になり、管轄の奪い合いが始まってしまうからです。権力間の抗争は集団にとってあまり望ましくないことですからね、そういった展開は極力避けた方がいい。

「一方で、望む者だけに報道を販売するという方法、これもよろしくありませんね。先ほども申し上げた通り、私の理想とするジャーナリズムでは、集団の構成員全てに対して、経済力とは関係なく、平等に報道が提供されなければいけない。なぜなら、その日の生活にも困っているような人々は絶対に新聞なんて買うわけがないからです。そうなれば、富んでいる者と貧しい者との間に情報の格差が生まれてしまう。いや、それどころか……こういう形にしてしまえば、商業的なジャーナリズムと何一つ変わらないじゃないですか! つまり、富裕層のためのジャーナリズムになってしまうということです。私の理想とするジャーナリズムは、富んでいるか貧しいか、それによって差別されるようなことは、絶対にあってはいけない。

「そういうわけで、唯一の方法は、集団の構成員の全員から平等に金銭を徴収するという方法です。その平等の方法に関しては、まあ色々あるでしょう。一律同じ金額として、どうしても払えない人間に関しては免除するか。あるいは累進的な負担制度にするか。それは、そのジャーナリズムの所属する集団がどのような公正の感覚を持っているかによって決定すればいいことです。とにかく、重要なのは、その報道を求めているのか求めていないのかに全く関係なく、全構成員に対して、強制的に新聞を売りつけなければいけないということです。あはは、押し売り結構。そうしなければ、ジャーナリズムにおける公平性は、絶対に、何があろうと、保たれることはないんですからね。

「と、まあ。

「とりあえずは。

「このようなジャーナリズムが。

「私が理想的と考えることが出来る。

「ジャーナリズムだというわけです。

「あはは、理想的といっても、人間至上主義という最低の社会制度のもとで可能な限りの理想ということに過ぎませんけれどね。本当の意味で理想的なジャーナリズムとは、もちろん、いうまでもなく、神々によって与えられる情報を無条件に受け入れるという形でのジャーナリズムに決まっていますが……人間至上主義諸国においては、そんなジャーナリズムは夢のまた夢ですからね、こんな感じで我慢するのが、まあまあ妥協出来る範囲ではないかなということです。

「ああ、そうそう。大切なことを言い忘れていましたね。この理想的なジャーナリズムが……少なくとも私にとって理想的なジャーナリズムが存在している集団においては、その他のジャーナリズム、つまり公権力としてのジャーナリズム以外のあらゆるジャーナリズムについて、違法とすべきだということです。しかもそれは軽微な罪ではありません。反逆罪だとか国家転覆罪だとか、そういうものに類する重大な犯罪だとするべきでしょう。

「警察権力が存在している集団で、私刑行為が許されますか? 公的に裁判が行われている集団で、プライベートの領域での裁判が許されますか? こういう場合と同じように、私設のジャーナリズムというのは、集団権力に対する許されざる侵犯行為だということです。そもそもですよ、私設のジャーナリズムが行う報道の内容について、誰がそれを事実だと認定出来るっていうんですか? また、例え事実だと認定出来るとして、それがどの程度本当のことであるのかということを、どうやって判断するっていうんです? ここまで幾度か触れたことですが、事実というのは事実というだけで本当のことというわけではありません。何度も何度も出している例ですが、デモ隊の主張を肯定する人間がいるということは事実でも、それが集団内でどの程度支配的な意見なのか。

「あるいは親権を争う裁判について考えてもいいでしょう。親権を争われている子供が、自分は母親の方が好きだと言うとします。この発言自体は間違いなく事実です。しかし、それが本当のことだとどうして分かりますか? その子供が、本当に母親が好きだと、どうすれば分かるっていうんです? 嘘発見器にかけますか? しかし、その子供が心の底からそう思っているとしても、実際にそれが本当なのかどうかということは、やはり分からないでしょう? 何か心理的な作用によってそう思い込んでいるだけなのかもしれない。つまり、それが本当に本当のことなのかどうかということは、人間というあまりにも不完全な知性にとって、絶対に分からないことなんです。

「そうであるのならば、集団の公式の見解によって「正統」だとされるくらいには本当のことであるのか。あるいは、「異端」とされる程度にしか本当のことでないのか。そういうことを公の判断によって決定されてでもいない限り、その情報がどのくらい、どの程度、本当のことなのか。それは誰にも分からないんです。一人一人の人間が手に入れられる情報はあまりにも限られているため、集団全体であるところの権力によってその情報を判断する。情報というものは、そういう風に、いわばフィルターを通した後でなければ。真実性という観点から見れば、本当のこととして報道するにはあまりにも危険なんです。

「私設のジャーナリズムというのはね、砂流原さん。そういう危険な情報、本当のことなのかどうかについて曖昧な情報を、さも絶対の真実であるかのような顔をして流すんです。そんなものが存在している集団で、果たして情報の健全性が保たれますか? あはは、保たれるわけがないでしょう。それはね、生水を混ぜた水を上水道に流すようなものですよ。そんなことはしてはいけない、私設のジャーナリズムなんていう、危険で、無責任で、傲慢な制度は、何があろうと許されてはいけないんです。理想的なジャーナリズムが制度として成立している集団ではね。

「さて、これで……ジャーナリズムについて私が話すべき全てのことを、私は話し終えました。まあ、もしかすると、一つか二つかくらいは話し残していることがあるかもしれませんが……んー、例えば、ジャーナリストが担っている役割のうちの一つに、世界に多様性を与えるという役割があるという言説について。ジャーナリストが、ある特定の価値観を持つ集団に対して、世界各地の価値観を情報として流通させることによって、その集団が持つ価値観を多様化することが出来るという言説ですね。私はこのお話については一切触れませんでした。なぜというに、これほど馬鹿馬鹿しいお話もないからです。あのですね、ちょっと考えてみて下さい。ジャーナリストが、世界中のあちこちで、様々な価値観を流通させるようになってから。果たして世界は多様化しましたか? しなかったでしょう! 全く逆じゃないですか! 逆に、世界からは、搾取者にとって都合がいいように搾取者が作り上げたストーリー以外のストーリーは駆逐されてしまいました。なぜならば、ジャーナリストが世界中の集団を、人間至上主義という焦点を中心として一つに結び付けてしまったことで、結局は、そのような一つの「社会」しかなくなってしまったからですよ。ジャーナリストはね、世界に多様性を与えるものではない。逆に世界から多様性を奪うもの、世界を均質化させるものなんです。本来は、情報の流通を切断する障壁によって、あちらこちらに生まれるはずだった多様性。そのような多様性を殲滅し、強大な力を持つ者のための一つの価値観、搾取者のための価値観、それ以外は失われたところの熱的死をもたらすんですよ。結果的に、残るのは、全体主義だけというわけです。はい、そんな感じですね。

「まあ、まあ、他にも何か、実際は私が間違っていることを証明するところの絶対的に重要な論点について私が触れていないという可能性もないわけではないですが……あはは、私だって、所詮は人間ですからね、神々のように完璧であろうとすることは、あまりにも愚かなことです。ということで、それくらいの間違いはご容赦頂きたいところです。

「砂流原さんは、おっしゃいましたね。ジャーナリストは世界を変えていけるって。何度も何度も報道を行うことによって、人々の観念の世界を変えていける。それによって、観念の世界が作り上げていくところの社会を変えていける。遠い遠い将来において、そのジャーナリストが所属する集団を、より良いものに変えていける。しかしですね、それは、あまりにも楽観的というものですよ。商業的なジャーナリズムは、富裕層の奴隷です。強者による弱者への搾取を強化していくことしか出来ない。市民ジャーナリズムは自分の観念の世界を反省することが出来ない。砂塵のような大衆を、砂嵐のような全体主義にまとめていくことしか出来ない。

「確かにジャーナリストは世界を変えていくことが出来るかもしれない。けれど、それは、常に「正しさ」の破壊という形をとるんです。集団というものが今まで積み上げてきた「正しさ」、その全てを、少し気に食わないからといって破壊する。そして、その「正しさ」の代わりに、荘厳で華麗な自己愛の神殿を建築するんです。自分だけを崇拝し、自分だけを信仰する。ジャーナリストは、そういう「形式」を作り上げるんです。何度も何度も、産まず弛まず記事を書き続けることによってね。つまり、私が言いたかったことを一言でまとめるなら、こういうことになりますね。ジャーナリストは世界を変えることが出来る、ただし、救いようがないくらい愚かな方向に。あはは、まあ、こんな感じですかね。」

 マコトは。

 そう言い終わると。

 軽く、肩を竦めた。

 真昼の膝の上で……マラーは、うたりうたりと、いかにも眠そうに首を傾げていた。今日は色々なところに行ったし、色々な経験をしたし。そのせいで、とてもとても疲れてしまっていたのだろう。比較的安定してはいるが、それでもゆらゆらと揺らめくマコトの運転を、まるで揺らし椅子のように感じて。そして、いつまでもいつまでも続くマコトの話し声、マラーにはほとんど理解出来ない共通語による話し声が、子守歌のように聞こえて。もう耐えられそうにないくらいに眠くなってしまったに違いない。

 真昼は、そんなマラーの体を、そっと抱き寄せて。自分の体に、しっかりと寄り掛からせる形にする。いや、もしかして、寄り掛かっているのは真昼なのかもしれなかった。自分の腕の中に、何かしっかりとした重さを感じたかったのだ。眠くなってしまったマラー、そのせいで、ほうっと暖かくなった体温。その温度を、感じたかったのかもしれなかった。

 なぜなら、日が落ちて、全てが夜に包まれる時。

 この世界は、あまりにも寒くなってしまうから。

 真昼は……目をつぶっていた。だが、マラーとは違って、真昼は、眠ってなどいなかった。眠いとさえ思っていなかった。まるで全身の、この肉の下に這い回っている神経の一本一本までもが凍り付いてしまいそうな寒気を感じながら、ただただ、ひたすらに、マコトの言葉だけを聞いていたのだ。

 真昼はマコトの言葉を聞いていた。マコトの発したどの一言さえも、聞き逃すことはなかった。そして、どの一言に対しても、同意することが出来なかった。マコトの一言一言は完全な偽りであって、その言葉の中からは、腐り果てた体液のようなものが、したしたと滴っていることを感じていた。

 それは、例えば、凍り付いた湖の中、その氷の中に埋まっている黒い鏡の破片を、一枚一枚、掘り出していくような作業だ。そして、真昼は……実のところ、それらを掘り出すための道具を何一つ持っていなかった。ただ、己の手、その指とその爪とだけで作業を行っていたのだ。

 爪が剥がれ、指の先は、凍り付いた手によって、次第次第に罅割れていく。それでも、真昼は黒い鏡の断片を掘り出すことをやめはしなかった。その作業は、決して自傷行為というわけではない。そうではなく、あまりにも真昼が……あまりにも、あまりにも、高潔であるということに由来していた。

 自分が、絶対の感覚として信じていたものが。どの道を進めばいいのかという選択に迷った時に、常にその基準として頼りにしていたところの、世界における真実の「正しさ」が。本当は、道化師の嘲笑に過ぎないということを知った時に、果たして人間はどうすればいいのだろうか。この世界の裏側は、出来損ないの張りぼてに過ぎないと知った時に。誰よりも愛していた人が、発条仕掛けの安っぽい人形に過ぎないと知った時に。人間は、どうやって、その苦しみと痛みとから逃れることが出来るだろうか。

 マコトは、非常に精密な邪悪であり、恐ろしいほどに情け容赦ない嘲笑であった。マコトは、真昼が信じていたもの、絶対の愛を捧げていたもの……つまり、マコト自身について。そんなものは紛い物の「正しさ」に過ぎないと、あらゆる言葉を尽くして証明してみせたのだ。

 その証明は、真昼にとって、絶対に解き明かしえない謎であった。それを間違いだと分析し、確認することの出来ない間違いだった。そう、それは確かに間違いなのだ、それが真実ではないこと、真実であり得てはいけないことは、真昼にはよく分かっていた。だが……それを間違いだということの出来ない間違いは、真実とどこが違うのだろうか?

 実をいえば、その間違いを完膚なきまでに打ち砕き、そして無効化する方法は、この上なく簡単なことである。それは、ただそれを間違いだと断言すればいいのである。それが間違いであると決めつけ(実際にそれは間違いなのだ)、その根底から、つまり論理の最初から間違っていると切り捨てて。そして、後は、どんなことを言われようとも、全く耳を貸すことなく無視し続ければいいだけの話なのである。

 「それは真実ではない」「お前のいうことは欺瞞であり、愚か者のつく嘘に過ぎない」、そう言えば、マコトの言ったことが間違いであることは、完全に証明されるのだ。なぜなら、マコトの言ったことが間違いであるということは、この世界のどのような立場から考えても、絶対的に正しい真実だからである。

 しかし、真昼は、

 その方法を、取らなかった。

 いや、取り得なかったのだ。

 なぜなら……そのようにしてマコトの間違いを証明するということは、マコトがマコト自身を間違いだと証明したそのやり方と、ほとんど変わらないやり方だからである。というか、全く同一のことといってもいいだろう。なぜなら、そのやり方には、「正しさ」というものが決定的に欠如しているからだ。

 自分の考えが正しいと頭から信じ込んで、相手の話す話に耳を傾けることなく、ただただ耳を塞いだままで「お前は間違っている」といい続ける。この態度のどこが「正しさ」だというのか? 相手に対して、「お前がなんと思おうとも関係がない」「なぜなら私はこう思っていて、その思いを変える必要など感じないからだ」ということの、どこが真実だというのか?

 それは独善でしかなく、最低最悪の種類の欺瞞なのだ。結果として、マコトが間違っているのか。そして、自分が間違っていないのか。それは全く関係がない。正しい目的地に着くためには、正しい道を進まなければいけない。正しい愛に辿り着くためには、正しい門を通らなければいけない。

 なぜなら、仮に、今、正しいことをいっていたとしても。マコトとは異なった、真実を口にしていたとしても。間違った道を歩き続け、間違った門を選び続けていれば、結局のところ、最後には間違った場所に辿り着いてしまうからである。

 真昼は、絶対に、何があろうと、「お前は間違っている」とだけいって終わらせるわけにはいかなかった。己の中にある「正しさ」を……ほんの僅かばかり自分の心臓の中に残っている「正しさ」を、失わないためには。どうしても、「正しい」方法でマコトの間違いを指摘しなければいけなかった。

 つまり、「正しさ」によって、マコトの間違いを、マコトさえも認めるくらいに証明しなければいけないということだ。そうして初めて、真昼は「正しさ」を保つことが出来るのだ。そう、初めて、この戦いに勝利することが出来るのだ。

 邪悪に勝利するためには。

 己の「正しさ」によって。

 勝利しなければいけない。

 だから、だからこそ……考えろ、考えるんだ。どうすれば、真実を証明することが出来るのか。どうすれば、「正しさ」によって間違いを訂正することが出来るのか。この世界が正しい世界であると、生きるに足る世界であると、どうすれば証明することが出来るのか。確かに、真昼の世界は粉々に打ち砕かれていた。マコトの手のひらの中で、まるで夜の砂のごとく磨り潰されて、この空にさらさらと撒き散らされた星の一つ一つであった。でも、まだ、その星は輝いている。昼の光と比べれば、遥かに微かな光ではあるが。まだ真昼の道を照らしている。その光を、なんとしても、失うわけにはいかないのだ。

 孔雀の羽。

 孔雀の羽。

 星座の名前。

 だから。

 真昼は。

 マコトの言葉が終わってから。

 暫くして。

 こう、口を開く。

「今の話の中で、あなたは、何度も、「正しさ」という言葉を使いました。そして、その「正しさ」という言葉が使われていた時には、世界がそうなるべきである方向性という意味で使われていたと思います。つまり、たった今、あなたが言ったことがなんであったにしても。あなたは、やはり、この世界に「正しさ」というものがあり、その「正しさ」の方向に世界が進んでいくべきであると考えているということです。

「それにも拘わらず、あなたは、今の話の中で、「正しさ」という言葉が何を表すのか、どのような方向に進んでいけば世界がより良くなるのか、そのことについてほとんど触れていなかったと思います。あなたが「正しさ」について言ったことは、たった二つのことだけです。

「一つ目は、人間という不完全な生き物がそれについて理解することは、とてもとても難しいということです。そのことには私も同意します。「正しさ」というものが到達しにくいものであるということに関しては、私も、やはり、その通りだと思います。けれど、あなたが言ったもう一つのことについては賛成出来ません。それは、神々や、あるいは他の高等知的生命体は、その「正しさ」について理解しているという意見です。

「私は……人間には、人間しか辿り着くことの出来ない、人間のための「正しさ」があると信じているからです。他の知的生命体から押し付けられるのではなく、自分の力でそれを見つけなければいけない「正しさ」。自分の意志によって作り出す「正しさ」。そういうものがあると信じているからです。誰かに唯々諾々と従っているだけで、自分の意見なんて何も持たない。そんな人間には、辿り着くことが出来ない何かです。

「つまり、それは、それは……人間の、血と肉との話です。心臓の鼓動の音です。人間が、どう生きてどう死ぬのか、それを自分で決定し、その決定した方向へ進んでいくという、一つの生の総体の話です。私は、何かに隷属しているだけの生には、なんの意味もないと思います。生きるということの全てを、自分自身の全てを、自分の意志によって作り上げていくからこそ、自分という生き物の「正しさ」が見えてくるんだと、そう思うんです。

「私は、私は……私の人生の全てに、責任を持ちたいんです。私は、私の運命がどんなものであれ、その運命に身を委ねる気はありません。その運命が決して変えられないものだとしても、それは私には関係のないことです。結果なんて、結果なんて、どうなろうと、私は構わないんです。

「私にとって重要なのは、私の生きてきた全てが無意味であったとしても、私自身が、その無意味を誇ることが出来るかということです。その無意味に満足が出来るかということです。正義という価値を、勇気という価値を、それがなんであるかということを、私が生きる生の中で、私の思考によって考え抜いて。そして、それを、私の行動によって実現しようとする。誰かに教えて貰うのではなく、自分自身の力によって、その価値を理解しようとする。

「転向が重要だと、あなたは言いました。思想というものの中で最も重要なのは、その思想が保たれることではなく、変わっていくことであると。確かにそうかもしれません、正しい方向に変わっていけない思想、間違った場所にとどまり続ける思想は、いつか朽ち果てていく運命にあるのかもしれません。けれど、もしも、その転向が間違っていたら? 正しい場所にいたのに、間違った方向に変わっていってしまったのなら?

「あなたは、わざと重要なことを言いませんでした。あなたが本当に思っていることの中で、一番重要な部分を隠していました。思想に重要なのは、実は、ただの転向ではないということ。「正しい転向」であるということ。

「なぜ、あなたは、その「正しい」という部分を隠したのか? あなたはその「正しい」という語を定義出来ないからです。誰かに任せ切りで、自分では何も考えないから。だから、何が正しいのか分からなくなってしまった。

「けれども、それでも、結局のところ、何が正しいのかということを決めるのは自分なんです。自分以外には、何が正しいのかということを決めることは出来ない。自分自身の中にある基準に頼るしか方法はない。そして、その選択をしたのならば、正しいことがなんなのかということを選択したのならば。私達はその結果に責任を取らなければいけないんです。

「それが、どんな結果だったとしても、その結果を背負わなくてはいけない。その選択とその結果とにどんな意味があったのかを考え続けなくてはいけない。私は、私は、考えなければいけないんです。自分が何をしたのか、どうしてそんなことをしてしまったのか、それを避けることが出来たのか、どうすれば避けることが出来たのか。そして……間違っていたことを認めて、もう二度と、自分が、この世界が、間違わないようにする。運命を、私達は、変えなければいけないんです。変えようとしなくてはいけない、例え変えられないのだとしても、変える方法を探し続けなければいけない。

「私は、あなたとは違います。私は、「正しさ」から逃げません。それがなんであるのかということを考える行為から逃げません。そして、その結果として自分が起こしてしまったこと、あるいは、その結果として見えてきた、世界がどういうものであるのかという輪郭。そういったものからも逃げません。もう、逃げません。なぜなら、逃げることは卑怯なことだから。起きてしまったことは変えられないけれど、その起きてしまったことにどう立ち向かうのかという態度は変えることが出来る。だから、私は、立ち向かう。負けるということが決まっていても、それに立ち向かって……そして、せめて「正しさ」の方を向いて死んでいきます。」

 ああそうだ。

 そうだった。

 真昼は……マラーを抱き締める腕に、少しずつ、少しずつ、温かく柔らかい力が満ちていくのを感じていた。そして、何度も何度も心の中で叫んでいた。そうだ、そうだ、そうだ。自分が教わったこと、教えられたことは、そういうことだった。

 自分が間違っていたとして、世界が間違っていたとして。そして、その間違いを、絶対に正せないのだとして。それが一体どうしたというんだろう。そんなことはどうでもいいのだ。なぜなら……もしも、自分が、その間違っていることに気が付くことが出来るならば。それは、確かに、その間違いを間違いだと思うことが出来るだけの「正しさ」が、そこにあるということだからだ。

 そうであるのだとすれば、その「正しさ」を、ただ信じ続ければいい。それがなんであるのかを考え続け、そして、その結果として見えてきた「正しさ」の形を、全力を尽くして、自分自身に、あるいは、この世界そのものに、適用しようとすればいい。それは全く無駄な努力かもしれない……けれども、もしも真昼が、それを続けるのならば。その過程の中にこそ「正しさ」は宿るのだ。そして、それは、消えることなく続いていく。

 マコトに何を見せられようと、マコトに何を言われようと。そして、そして……自分が、一体どれほどまでに間違ったことをしてしまったのだとしても。そこから目を逸らして逃げ出して、何も考えないままで、状況に流されていくことなんて、絶対にしてはいけないのだ。そうではなく、真昼がしなければいけないのは、それを、直視すること。

 目の前にある邪悪に立ち向かっていくこと。そして、自分の命と引き換えにしてでも、その邪悪に、かすり傷を負わせること。そうして、初めて……真昼は、全ての罪を贖うことが出来る。この世界は、間違った場所ではなくなる。真昼の中にある、あの孔雀の羽を、この胸の中に抱き締めることが出来る。

 真昼は。

 真昼は。

 そう考えたのだ。

 いやー、真昼ちゃん! 頑張ったね! っていうかさ、ちょーっとずつ論理的な思考が出来るようになってきてるところの真昼ちゃんだけど、今回の反論は特に良かったんじゃない? 相手の言うことを聞いて、その話の中にある矛盾を取り上げて、それから、その矛盾に対する自分なりの答えを出す。今までの真昼ちゃんだったらさ、一応は論理的に構成されてはいたけどさ、これほどまでに相手の議論の弱点を的確に突くことは出来なかったのではないだろうか?

 この方法、論理的な反論の方法には、間違いなくマコトの影響があった。真昼がした反論を注意深く見てみれば、まるでマコトが乗り移ったかのような口調で話しているところを幾つか発見出来るだろう。それもまあ当たり前といえば当たり前の話で、今まで、真昼は、さんざんっぱらマコトの話を聞かされてきたのだ。その方法、つまり、表面的には論理的に聞こえるマコトの反論の、その論理的な部分。それを、ある程度はコピー出来るようになっても、何もおかしくはないのだ。

 そして、その論理的な方法によって、自分の考えをまとめられるようになって。結果として、今の話のようなことを、ようやく、自分なりの言葉でまとめられるようになったということだ。人間は……言葉によって思考する生き物である。ある一定の存在・概念を、その完全な実体から、不完全な記号に移さなければいけない生き物なのだ。だから、人間の中で言葉にされていない、ぼんやりとした何かは。そのもやもやとした部分は見えていても、それが、その人間の思考に対して、決定的な影響を及ぼすことはない。

 言葉にして初めてそれを知るのであって……そして、言葉にすることで、より一層、過激に、偏執に、それにのめり込んでいくことになる。人間にとって言葉は実体であり、それゆえに、言葉を疑うことは、人間にとって非常に難しいことであるからだ。今、真昼は、言葉にした。自分の中で言葉になっていなかったことを、自分の言葉で、言葉にした。

 だから。

 真昼は。

 ようやく。

 それを。

 信じることが。

 出来たのだ。

 真昼は、自分の身の内に、再び力が湧いてくるのを感じていた。真昼は、自分の目の前に、再び光が輝いているのを見ていた。見失っていたものを、また見いだすことが出来たのだ。失っていた「正しさ」を、ようやく取り戻すことが出来たのだ。そう、「正しさ」は、確かにこの世界にあった。真昼は……世界が間違っていることを言い訳にして、自分の責任から逃れようとして。その卑劣さのせいで、「正しさ」が見えなくなっていたのだ。もう、これを見失うわけにはいかない……真昼は、そう思った。

 ああ。

 なんて。

 哀れな。

 真昼。

 没する前の太陽が。

 一際、輝くことを。

 そして。

 その後で。

 完全に消え去ることを。

 すっかり忘れているらしい。

 さて、そんな真昼の一方で。反論を受けたマコトは一体どうしていたのかというと、真昼の話に一言も口を挟むことなく、ただただ、ひたすらに、耳を傾けているだけだった。だが……真昼が、その話を話し終わって。それから、暫くの間、沈黙が流れると。今までと全く変わらない口調、あのへらへらと半分笑ったような口調で、こう言う。

「えーと、お話は終わりましたか?」

「はい、私の話は終わりました。」

「ふむ、なるほど。」

 マコトは。

 軽く首を傾げてから。

 あっさりと、続ける。

「要するに、憎悪と感動との話ですね。」

 それから、いつもとまるで同じ、あのあまりにも空虚な笑い方で「はははっ」と笑った。真昼は……マコトが、一体なんの話をしているのかということ。あるいは、一体なんの話をしようとしているのかということ。そういうことについては、全く分からなかった。けれども、そのマコトの笑い声を聞いた時に。ざあっと寒気が走った。まるで神経の一本一本に至るまで、死にかけた星の輝き、ひどく冷たい星の輝きの中にひたされたかのような感覚。

 夜。

 夜。

 夜が。

 呑み込もうとしている。

 太陽の光を。

 そうすれば。

 残るのは。

 星の光だけ。

 黒い鏡が。

 不完全な世界を。

 反射する光だけ。

「いやー、まあ、まあ、砂流原さんがおっしゃりたいこと、砂流原さんにとっての「正しさ」とはなんなのか、私も分からないわけではありませんよ。それに、それが非常に魅力的な話だということにも完全に同意します。というかですね、一部の人々にとってはそれが「正しさ」と認識されるということさえ、私は同意しても構わないでしょう。とはいえ……残念なことに、その「一部の人々」に私は含まれませんけれどね。

「人間にとっての感情の極致、憎悪と感動と。ああ、なんて美しい響きなんでしょうね。そう、それは確かに美しく、そして確かに引き寄せられる一つの輝きです。しかしながら……いや、いや、この話をする前に、まずは砂流原さんの質問について答えなければいけないでしょうね。それは、私が考えるところの「正しさ」とは一体なんなのかという質問です。

「あはは、実際のところ、砂流原さんには大変失礼なことをしてしまいました。そうですね、その通りです。ある単語の意味をはっきりさせることなく、その単語を自分が主張する論理の構造の中心とする。そういうことは、決してしてはいけないことです。そういうことをするのは、会話の相手方にとても失礼なことだ。けれどですね、ちょっと割り引いて考えて頂きたいところもあるんですよ。私にとって、その「正しさ」が「正しさ」であるというのは、あまりにも単純なことであって。それについてわざわざ触れるということを忘れてしまうほどに当たり前の前提であったんですから。

「私にとっての「正しさ」というのはですね、要するに「お腹がいっぱい」ということです。あるいは「ゆっくり眠れる」「おいしい物を食べられる」「とても暖かい場所にいる」「とても涼しい場所にいる」「誰も殺さなくていい」「誰にも殺されなくていい」、そういったことです。もっと簡単に、たった一言でそれを表すのならば……つまり、「幸福」です。

「あはは、砂流原さん。これはとてもとても勘違いされやすいことなんですけどね。私は人間に対してなんの悪感情もないんですよ。むしろ私は人間を愛しているんです。まあ、私なりのやり方で、ということですがね。だって、なんといっても、私だって人間なんですから。この世界のどこに自分自身のことを本気で憎んだり本気で嫌ったりする人間がいますか? 私は、人間の全てを、この上なく愛しているんです。

「そして……だから、人間がどうすれば幸福になるのかということをいつもいつも考えているんです。全人類が幸福になる方法について考えている。砂流原さんは……どんな時に幸せだと感じますか? おいしい物をお腹いっぱい食べた時、自分の体に合った寝床で心ゆくまで眠った時。あるいは、暑過ぎもせず、寒過ぎもせず、自分を害する恐れがない場所で、のんびりと出来る時。そういう時じゃないですか?

「そりゃあ、よほど特殊な被虐趣味がある方は別ですけれどね。一般的な、精神になんの異常もない人間というものは、激痛や深苦やといった阻害要因がある時に、幸福を感じることが出来ないように出来ているんです。つまり、幸福の根底には肉体的充足がある。生活において満たされていない何者かは幸福の面で満たされることはないんです。

「さて、それでは、砂流原さんが「正しさ」だと考えているところの「正しさ」に関して考えていきましょうか。砂流原さんがおっしゃった「正しさ」というのは、つまりこういうことですよね。人間には自由になる義務があり、そして、その自由について責任を持つ必要がある。例え本当に自由になれないとしても、絶えざる努力によって、その義務と責任とを追及していくべきだ。

「あはは、大変素晴らしいと思いますよ。大変、大変、模範的な、自由主義についての理解だと思います。ただね、ここで、一つだけはっきりさせておかなければいけないことがあります。それはですね、自由主義というものは、一部の上流階級にだけ許された嗜好品、贅沢品だということです。

「あのですね、普通の人は逃げたいんですよ。戦争から、貧困から、疫病から、苦痛から、理不尽から、死から、悪夢から、絶望から、原罪から。この世界の本当の姿から、逃げたいんです。確かに、私は否定しませんよ。その「逃げる」という行為が卑怯だということは。ただ、それを、どうして非難出来ますか? 終わらない内戦、命さえ奪いかねない空腹、明日殺されるかもしれないという不安。そういったものから逃れようとする人々に対して、どうして、私達は、その現実と向き合えということが出来るんです? また、そこまでいかないとしても。毎日毎日、同じ職場で、大して変わらない仕事をして。今日も明日も明後日も意味が分からないことで上司に怒られて、それでも、ちょっと遊んだら、ちょっとお酒を飲んだら、ぱっと消えてしまう程度の給料しか貰えない人々。生きることが完全な虚無と完全な空白とである人々。そういった人々に、義務を果たせ、責任を取れ、自由であるという不断の努力を続けろと、どうしていえますか?

「そもそもですね、自由になろうとする努力を出来る人の方が少ないんですよ。これはもう一度申し上げたことですけどね、人間を構成しているものは、その全てが所与の条件なんです。遺伝を自由に変えることは出来ないし、環境もまたそれは同様なんです。もしも、生まれながらに、脳の一部、例えば努力をするために必要な機構が欠如していたら? もしも、努力をすることが出来ないような環境に生まれたら? あるいは、他人よりも努力をしにくい脳の構造を持ったまま、他人よりも努力をしにくい環境に生まれたら? あのですね、砂流原さん。これは大変重要な問題なんです。この世界で、運命に抗うことが出来ている、あらゆる方々は、自分の力によって運命に抗うことが出来ていると勘違いしていますがね。それは実に愚かな勘違いなんです。実際は、運命に抗うことが出来るほど恵まれた運命のもとに生まれたから、運命に抗えている。ただそれだけの話なんです。

「誰も、誰一人として、求めてはいないんです。そんな「正しさ」は。弱者は自由主義を求めていない。自由であることの義務なんて果たしたくないし、それに付随する責任を背負うなんてまっぴらなんです。弱者が求めているものは、そんなものではない。弱者が求めているものは、冷蔵庫の中にいっぱい詰まった食糧、体が沈み込むくらいふかふかのベッド、美味いだけでなく気持ちよく酔っぱらえる酒、動きやすくて着心地のいい服、それに、ウォッシュレット付きのトイレがある快適な家なんです。そういうものを手に入れて、なんの義務もなく、なんの責任もなく、面白おかしく暮らしていきたい。それが、弱者にとっての最高の希望、弱者にとっての「正しさ」なんです。

「つまり自由とは強者にとっての「正しさ」に過ぎないんですよ。そして幸福とは弱者にとっての「正しさ」なんです。運命から自由になるための永遠の闘争、打破され、打倒され、打ちのめされて。敗北し、嘲笑され、鎖に繋がれて。それでも諦めずに、立ち上がろうとする。大変結構な話ですね。そうなさりたいというならば、そうなさればよろしいでしょう、それこそご自由に。しかしながら、それを全ての人々にとっての「正しさ」とするというのは、ちょっとよろしくないんではないかと思います。もしもそれが「正しさ」だというのならば、それに耐えられないような弱者は悪人だということですか? ただ弱いというだけで、しかも自分のせいではない弱さのせいで、そういう人々は「悪」とされなければならないんですか? それはですね、あまりにも非情な話ですよ。

「自分というものの真実の形をしっかりと見定めて、世界というものの形をしっかりと見定めて、そしてその両者を対決させて自由を勝ち取る。いいですよ、別に。あなたがやりたいというのならば私は止めません。けれどね、それで腹が膨れますか? 毎日毎日、安心して眠れますか? 自由意思を持つことによって、誰かが家を一軒丸ごとプレゼントしてくれますか? いいですか、端的に申し上げます。自由というのは、幸福とは全く別のものです。むしろ、幸福にとってこの上なく邪魔なものなんです。

「もっと現実を見て下さい、この世のあらゆる幸福は、愚鈍であることから生まれてくるんです。明晰からは幸福なんて生まれ得ない、絶対に生まれない。なぜか分かりますか? 人間が愚かだからですよ。人間は、あまりにも愚か過ぎて、本質的に、この世界に存在するあらゆる問題を解決出来ない生き物なんです。もしも自分は明晰だと主張していて、それにも拘わらず自分は幸福であるという人間がいるとしたら、それはきっと低能過ぎて自分が低能であるということにすら気が付いていない方ですよ。

「神話の時代にはですよ、自由意志なんていうものは「正しさ」ではなかった。「正しさ」ではあり得なかった。なぜなら、卑しくも支配者となりうる高等知的生命体にとって、被支配者に対する行いは、全てがその被支配者が幸福であるかどうかを基準としてなされていたからです。神話の時代、「正しさ」とは幸福だった。しかも、自分にとっての幸福ではなく、生けとし生けるもの全てにとっての幸福だった。

「自由意志なんていう抽象的な概念が、幸福という現実的な状態と取って代わって、「正しさ」の顔をし始めたのは。愚かな愚かな人間至上主義のせいなんです。まあ、それ以前にも、高等知的生命体から人間という下等な種族へと支配者の地位が移行していくにつれて、徐々に徐々に、そういった馬鹿げた観念が広がり始めていたことは事実ですけどね。とにもかくにも、自由意志というものは、人間によって聖別された「正しさ」でしかないということです。それでは、なぜ、人間は、自由意志なんていうものを「正しさ」として持ち出し始めたのか?

「簡単な理由ですよ、人間には人間を幸福にするだけの能力がなかったからです。人間による支配のもとで、人間は、どんどんどんどん不幸になっていった。幸福を「正しさ」と、至上の価値とするならば、この結果が指し示すのは……人間よりも、神々の方が、遥かに正しいということです。まあ、その通りなんですけどね。けれども、それは、人間至上主義者にとっては大変都合の悪い話です。だから幸福というものを「正しさ」とすることが出来なくなってしまった。

「それでは何を「正しさ」とすればいいのか? ここから先は多少複雑な話になってきますけれどね、人間は、不幸になるにつれて、徐々に徐々に他の人間のことを思いやる気持ちを失ってきました。自分だけが良ければいい、自分だけが幸福ならばそれでいいという、恐ろしいほどに自分勝手な生き物になっていった。さて、そうなると、自分を幸福に出来ない人間は負け犬ということになります。そして、自分で自分を幸福に出来る人間が勝者ということになります。負け犬にはなんの価値もなく、勝者にこそ価値がある。となれば……自分で自分を幸福にすることにこそ価値がある。

「こうして、自分こそ最上の価値であるという、誠に自己愛的な思想が発生したわけですよ。ここまでくれば、どうして自由意志が至上の価値となるのかというのは自明の理ですよね? 自分という生き物が何よりも尊いのならば、その自分という生き物を他のあらゆるものに対して優越させることこそ至上の価値となる。つまり、自分が何者にも縛られないということこそ、他のどんな行動よりも価値があるということになる。自分自身の意志で――まあ、そんなものがあるとしての話ですが――自分自身の行動を支配する。これこそが、「正しさ」となる。要するにですね、自分だけが良ければ他人がどうなってもいいという、そういう考えなんですよ。自由意志というのは。どんなにいい繕ったとしても、その事実は絶対に変わりません。

「そもそもの話ですよ、全ての原理は状況によって変わりうるんです。運動していた方が良かったあらゆるものは停止した方が良くなるし、停止していた方が良かった全てのものは運動の状態に移行すべき何かになる。何事も永遠ではない、それを理解しないといけないんです。過去のとある状況下では正しかった原理が、現在のこの状況下では正しくないというのは、当たり前のことなんですよ。例えば、あらゆる多細胞生物は、過去のある時点において単細胞生物でしたよね。それでは、過去に単細胞生物だったからといって、今の私達が、たった一つの細胞から構成されていると誰が定義しますか? あるいは、確かに過去のある時点では、貨幣というものの発行主体は国家でなかったかもしれません。それでも、まともな思考能力がある人であれば、現在の月光国における貨幣制度について「貨幣の価値の裏付けとなっているのは国家権力である」ということを否定しはしないでしょう。

「そうであるならば、多細胞生物である人間に対して単細胞生物が必要とする栄養だけを与えていても駄目なことは自明だし、月光国の貨幣制度下では国内の経済活動及び国際的な関係以外の要素を基準として貨幣発行の操作を行ってはいけないということは当たり前なんです。それと同じように……そりゃあ、私だって、運命の一つや二つ、変えたいと思うことはありますよ。ですから、そういったあまり望ましくない運命を変えようとするのは構いません。それに、実際に変えてしまっても、まあ一つや二つなら問題ないでしょう。けれどですよ、その変えるという行為自体を至上の価値として、あらゆる基準を永遠に壊し続ける一つの運動となる。そんなことをしていいわけがないでしょう。あらゆる運動は、ちょうどいいところで停止しないといけないんです。理想的な状態を見つけたのならば、その状態で満足しないといけないんです。その状態で満足出来ずに、またどこかに走り出すというのならば。それは、何も考えていない、甘やかされた子供のやり方です。

「そういうわけで。

「自由主義というのは。

「甘やかされて、自分勝手になった。

「子供のための「正しさ」であると。

「私は、そう主張するわけです。」

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