第二部プルガトリオ #21

 神の卵は。

 少しずつ。

 少しずつ。

 地の底へと。

 沈んでいく。

 世界の半分が夜に飲み込まれていた。鮮血の中に腐りかけた血液をたらたらと垂らしていくように、赤が次第に黒になる。真昼から見て左側が黒い色、真昼から見て右側が赤い色。だから、真昼の真上は、赤い光とも黒い闇ともつかない、曖昧に揺れ動く天秤のような色をしていた。

 黒い闇の中で、既に、明るい星は輝き始めていた。腐った血液の中に産み落とされた何かの虫の卵みたいだ。この世界が完全に夜になれば、この空一面に、こういった虫の卵が産みつけられることになる。禍々しい光を放つ……いや、どこか真昼に向かって手を差し伸べているような光を放つ、虫の卵。もしも、その時が来て、これらの卵が、一斉に幼虫を吐き出すことがあれば。空一面に蠢く禍虫は、一体どのような姿をしているのだろうか? それは、今の真昼には、まだ分からない。

 一方で、赤い光の中には。その消え去ろうとしている赤い光の中には、もう太陽は見えなかった。太陽は、とっくに沈み終えてしまって。そこにあるのは、その残光だけだ。真昼は、いつか、ここに来る前に……アーガミパータに来る前に、考えたことがある。太陽に朝は来るのだろうかということを。太陽は、己が光り輝くだけだ。己以外には、何一つ光を見いだすことはないだろう。周りにあるものは、全て、自分の光の残りのものだけで。そして、永遠の闇、永遠の夜を過ごしている。

 世界とはそういうものなのだ。

 全ての中で、最も光り輝いている誰かにとって。

 この世界は、常に、暗く沈んだ暗黒でしかない。

 マコトは喋り続けながらもフライスを飛ばし続けていた。非常に安定した速度、万が一にも乗っている者に危害が及ばない程度の速度。それでもカーラプーラは、こちらの方に着々と近付いてきていた。カーラプーラの色彩、カーラプーラの形状。人間至上主義諸国にはありえないような、その派手な原色は、この夕暮れの光に照らし出されて、沈みかけた赤色一色になっていた。それは……まるで、何かの祝祭の時に、踊り続けていた何者かが。呪われた血液をかぶって、そのまま彫刻と化してしまったような、そんな呪いであるように真昼には思えた。

 呪い。

 呪い。

 そう。

 マコトの言葉は。

 呪いだ。

 そして、災いと呪いとは。

 何かを破滅させない限り。

 終わることはない。

「ということは、次は購読料・視聴料を貰うことによって成立しているジャーナリズムについて話していかなければいけないことになりますね。あはは、このジャーナリズムについては、私も他人事ではいられません。だって、うちの会社は、まさにこういった種類のジャーナリズムなんですから。

「ああ、そういえば、砂流原さんもうちの新聞を読んで下さっているんですよね。ありがとうございます、ありがとうございます! イエロー・タイムズは皆さんの購読料のおかげで成り立っております! ただ、とはいえ……購読料・視聴料系のジャーナリズムの典型例として、うちの会社を持ち出してしまうと、ちょっとおかしいことになってしまいますね。

「なぜかというと、厳密には、うちの会社って、購読料だけで成り立っているわけではないからです。いや、資金繰り関係のことについては全く興味がないんで、私はよく知らないんですけどね。とにかく、購読料だけでは、とてもじゃないけどやっていけないっていうことくらいは分かりますよ。うちの新聞って紙のやつでも電子版でもほとんど売れてないですからね。

「とはいえ、レイフェルさん……ああ、うちの社長っていうか編集長っていうか、そういう人なんですけど。あの人が、スポンサー制度のことを毛嫌いしているので、広告料だとかそういうもので成り立っているわけでもないんです。あはは、なんだか分かんないんですけどね、金がなくなってやっていけなくなりそうになると、レイフェルさんがどこからともなく金を引っ張ってくるんですよ。なんらかの形でどこかしらから融資を受けていると思うんですけど……いやー、よく分かんないんですよね。あの人、色んなところに人脈があるし、きっとそういうところから支援を受けてるんでしょう。それか、もしくは……内臓でも売ってきてるのかもしれませんね。こっそりと。

「とにかく、そんなわけで、うちはちょっと特殊なんです。まあ、記事を読んで頂ければ分かると思いますが、かなり好き勝手やらせて貰ってる方だと思いますよ。何せ売れなくてもそれほど困らないんですから。少なくとも、レイフェルさん以外はね。ただ、とはいえ、うち以外のところが、どこもかしこも、レイフェルさんみたいな有能な社長を経営者にしているわけではないのでありまして。これから私が話すのは、一般的な、購読料・視聴料で成り立っているジャーナリズムについての話です。

「さて、どこから話せばいいのか……まず、そういったジャーナリズムがなんと主張しているのか、そこから確認していきましょうか。その主張するところは大体こんな感じですね。自分達は、広告料を貰っているジャーナリズムとは違って、一般市民からの金銭的な支持によって、世界に向かって情報を発信している。となれば、当然、その情報の内容も、より一般市民の需要に寄り添ったものになる。広告料を貰っているジャーナリズムは、所詮は大企業の意に沿わない事柄を報道することが出来ない。しかし、自分達は、ほとんどのタブーがなく、あらゆる情報を提供することが出来る。唯一タブーがあるとすれば、読者・視聴者たる一般市民を裏切ることだけだ。そんなことをしてしまえば、購読料・視聴料を失うことになり、一気に自分達のジャーナリズムは破滅してしまう。ということで、自分達は、常に一般市民の善意を裏切ることのない、誠実なジャーナリズムであり続けることが出来る。

「あはは、これもまた、どうコメントしていいものやら! まあ、偽善もここまでくれば一つの思想ということが出来るかもしれませんね。まず最も重要なことですが、購読料・視聴料で成り立っているジャーナリズムが寄り添っているのは一般市民ではありません。「金と時間とに余裕がある一般市民」です。少しでも考える力があって、自分にとって都合が悪いことから目を逸らさないだけの良識も失っていないなら、すぐに分かることだと思いますがね。金がない人間が新聞を買いますか? 時間がない人間が動画を見ますか? いや、それどころか、余裕がない人間は、そういったジャーナリズムについて知ろうともしないでしょう。新聞を探そうとしないし動画を探そうとしない。なぜなら生活するだけで精いっぱいだからです。

「他人のことなんて気にしている余裕はない。そういうわけで、当該ジャーナリズムを読んだり見たりするのは……もう少し正確にいうと、当該ジャーナリズムに金を払うのは。「金と時間とに余裕がある一般市民」だけということになるんです。ということは、少なくとも、当該ジャーナリズムはプロレタリアートに支えられているわけではないということになりますね。プロレタリアートの語源はホビット語のproletariusであって、これは「子供を産むことでしか集団に対して貢献出来ない人々」という意味であって。プロレタリアートという階級に属する人々は、それほどまでに余裕がない人々なんですから。

「当該ジャーナリズムが対象としている人々を階級で言い表すとすれば、ブルジョワジーということになります。金も時間も有り余っていて、ちょっとした娯楽として、他人の不幸を味わいたいと思っている人々。しかも、その中でも……他人が不幸であるという情報を世界中に提供しているジャーナリズムに対して購読料・視聴料を支払うことで、自分達はそういう不幸な人々に対して金銭的な援助をしているような気分になって。それによって、少しでも、他のブルジョワジーよりも道徳的な高みに立っているという優越感を得たいという人々です。

「まあ、うちの新聞をお買い求め頂いている方々も、まさにそこら辺の層だと思うんですけどね。私も、一応は、そこら辺の方々向けの記事を書いているわけですし。それはともかくとして、私が何を言いたいのかといえば。当該ジャーナリズムは、この世界に生息している全ての人間に向けて発信されているというわけではないということです。ごくごく限定された層に向かって発信されている。しかも、その層は、ブルジョワジーなんです。搾取されている側の人間ではなく、搾取している側の人間なんです。

「世界を変えたいと思っている側の人間ではない。世界がこのままの形であって欲しいと思っている側の人間なんです。だって、ブルジョワジーは、今のままの生活で十分に満足しているんですからね。それなのに、革命なんて起こってしまったら、自分達の生活がどうなるか分からない。今のままが一番だと思っている人々なんです。当該ジャーナリズムはそういう人々に寄り添って情報の発信を行っている。

「ということは、当然のごとく、そのジャーナリズムに課せられるタブーというものも先ほどの主張とは少しばかり異なったものになるでしょう。つまり、そのタブーは「一般市民を裏切ること」ではなく「ブルジョワジーを裏切ること」となってしまうわけなんです。そうであるならば、先ほどの広告料を貰っているジャーナリズムと、この購読料・視聴料を貰っているジャーナリズムと、ほとんど違いがないということになってしまいますよね。「大企業」が「ブルジョワジー」に変わっただけ、既存の世界から利益を得ている層から金を貰って生きながらえているということには、なんの変りもないんです。

「つまり、そういうことなんですよ。この種類のジャーナリズムも、金持ちに逆らえないという点では、広告料を貰っているメディアとなんの変りもないんです。いや、それはですよ、ブルジョワジーの方々が、「真の善意」を持っていて、自分達が奴隷の立場に落ちようとも貧困層を救おうとしているならば、話は違ってきます。けれどもね……はははっ、そんなわけがないじゃないですか! というかですね、もしも、そんな「真の善意」なるものを持っている人々がブルジョワジーの大半を占めているならばですよ、ジャーナリズムなんていうものは必要ないんです。なぜなら、そういった人々は、絶望的な状況の底の底まで、自分達の目で見るために・自分達の耳で聞くために、足を運ぶに違いないからです。

「ブルジョワジーの方々は、あるいはその大半は、「真の善意」なんて持っていないんです。不幸な人々についての記事を読むのは、不幸な人々についての動画を見るのは。ただただ、安心感と優越感とを得たいからなんです。さて、そうであるというならば。もしも当該ジャーナリズムが、ブルジョワジーの方々のそのような態度を、欺瞞として糾弾する内容の報道をしたのならば。そして、奴隷として落ちるところまで落ちたとしても貧困層を救いに行くべきだというキャンペーンを行ったら。一体、どんなことが起こるでしょうか。

「最初のうちは問題ないでしょう。ブルジョワジーの方々は、自分達の度量の深さを見せるために、そういった報道することを、当該ジャーナリズムに対して許すでしょうから。けれども、執拗に、そういった内容を報道し続けていれば。やがてはブルジョワジーの方々も嫌になってきてしまいます。それはそうでしょう、砂流原さんは、自分達の悪口しか書いていない紙切れに金を払いたいと思いますか? 私なら嫌ですね。ということで、購読者や視聴者やは、当該ジャーナリズムから少しずつ少しずつ離れて行ってしまう。そして、最終的には経営が立ち行かなくなる。

「そうであるならば、購読料・視聴料で成り立っているジャーナリズムは、決してブルジョワジー批判を行えないということになります。まあ、それでも大して困りはしないでしょうね。ブルジョワジー以外にも、批判出来るものはいくらでもありますから。例えば政治権力です。アーガミパータであれば、暫定政府の政治家の一人一人、あるいは官僚の一人一人の汚職についてあげつらっていく感じですね。他に批判出来るものは……そのジャーナリズムの主たる購読層・視聴層が所属していないところの集団の構成員でも構わないかもしれません。そのジャーナリズムがアーガミパータの暫定政府支配地域のものであるならば、アーガミパータにおける金銭的な搾取の批判を行う際に、暫定政府支配地域に住むブルジョワジーを批判するのではなく、「集団としての企業体」であるASKを批判するといったような感じです。

「しかしですね、それで一体何が変わるというんですか? 個別の政治家や、個別の官僚や、そういった人々を批判したところで何も変わらないでしょう? 誰か一人殺すことでこの世界が劇的によくなるっていうならね、その人の名前を教えて下さい。あはは、私がその人を殺しに行きますよ。けれども、現実にはそうはならないでしょう? あるいは、そういった政治家だの官僚だのが構成しているところの権力構造を批判したところで何になるっていうんですか? そういう権力構造を根刮ぎにすれば世界がよくなるっていうんなら、いいでしょう、私が革命を起こして差し上げます。私だってジャーナリストの端くれ、扇動者の端くれです。それくらいのことは出来ます。けれども、権力構造を粉々に打ち砕いたところでなんにもならない。なぜか? それは、権力構造を支えているところの、一般市民が愚かだからです。というか、その集団が愚かなのは、その集団の大半の人間が愚かだからなんです。

「外部の集団が経済的な侵略をしていることについて、どんなに嘆いてもなんの意味もないんです。だって、その侵略を招き入れたのは集団の構成員自身なんですから。あのですね、アーガミパータの暫定政府は民主主義なんです、選挙によって政治家が選ばれているんです。しかも、しかもですよ、砂流原さん。暫定政府に住んでいる選挙権を持つ人間の大部分は、一欠片さえ悪意を有していない、一般市民なんです。そうであるにも拘わらず、政治家に汚職がはびこっているのならば。それは政治家のせいでも権力構造のせいでもありません、そういう政治体制を選択した、一欠片さえ悪意を有していない、一般市民のせいなんです。

「官僚だって採用時には人種による差別は一切ありません。ある程度の教育さえ受けていれば、そしてその教育を採用試験の際に提示出来れば、誰だってなれるものなんです。なればいいじゃないですか、官僚に。出世すればいいんですよ、死に物狂いで。そして、官僚の頂点に立って汚職を取り締まればいい。クソの役にも立たない新聞なんて書き散らしていないで。

「それをしないというのならば。あくまでも報道の立場から何かを変えたいと思うならば。その報道の中で批判するのは、政治家だの官僚だの外部集団だのではなく、ブルジョワジーを批判するべきなんです。搾取者の階級であり、しかもその新聞の主たる購買層である、ブルジョワジーをね。それさえも、購読料・視聴料の問題で出来ないというのならば……いいでしょう、それならば、せめて一般市民を批判するべきです。だって、その集団で起こっている大半の悪いことは一般市民が悪いから起こっているんですからね。そして、ブルジョワジーだって立派な一般市民です、一般市民批判にも何ほどかの意味があるでしょう。新聞で、動画で、人々の意識を変革する。大いに結構です。けれど、その変革の方法が問題なんです。ある馬鹿に向かって違う馬鹿のことを馬鹿だといって喜ばせてもなんの意味もない。自分には責任がないと思った馬鹿がより一層馬鹿になるだけの話です。そうではなく、その馬鹿こそが全ての原因であり、本当に救いようもない馬鹿なのだということを、はっきりと教えなければいけないんです。

「その際、一番重要なのは、はっきりと狙いを定めて糾弾を行うことです。「民主主義が悪いのは民主主義を担う選挙民が悪いからだ」なんていうことをいってもなんの意味もありませんよ、だって、馬鹿は、自分がその「悪い選挙民」だとは思いませんからね。馬鹿というのはそれくらい馬鹿なんです。また、「この新聞を読んでいる読者に呼びかけている」といっても無駄です。その新聞を読んでいる馬鹿は、自分だけは例外だと思うに違いないんですから。

「それでは、どうすれば馬鹿に対してお前は馬鹿なんだと分からせることが出来るか? 簡単なことです。その馬鹿に向かって、お前は政治家にも官僚にもなろうとせずに、権力構造に対して文句をいってばかりいる。権力構造に本当に文句があるのならば、全財産をなげうって政治家に立候補するか、死に物狂いで勉強して官僚になろうとするか、たった今、どちらかに決めろといえばいいんです。そのどちらもしないなら、せめてこれ以上馬鹿を晒す前に自殺しろと。自殺する前に、全財産を貧困層のために寄付した上でね。それ以外、どんなことを書いても無意味です。馬鹿というのは信じられないくらい都合のいい思考回路を持っていますからね。それぐらいのことを書かないと……いや、それぐらいのことを書いても、自分が当該馬鹿であるとは気が付かないでしょう。

「さて、そうであるとして。購読料・視聴料を貰うことで成立しているジャーナリズムが、果たしてそんなことを書くことが出来るか。まあ、やろうと思えば出来るでしょうけどね。もしも実際にそんなことをやったら、そのジャーナリズムは破綻しますよ。だって、砂流原さん、そんなことを書いてある新聞があったとして、それを書いた人間が正気だと思いますか? 私なら思いませんね、頭がおかしい人間が書いていると思います。そして、普通の人は、頭がおかしい人間が書いている新聞に金を払おうとは思いません。その新聞には購読料が入らなくなり、新聞社には返品された新聞の山が押し寄せ、その紙屑だけを残して、当該ジャーナリズムは跡形もなく消え失せるでしょう。あはは、まあ、社員が浮浪者になった時、古新聞だけには困らないでしょうね。

「ここまでが。

「購読料・視聴料を貰っている。

「ジャーナリズムについてです。

「本当に世界を変えたいというのならば、誰かを殺して金を奪うでもいいですし、内臓を売って金を稼ぐでもいいですが、どんな方法を使ってでも無償でやらなければいけないという私の主張が、まあまあそれなりに正当なものであると、ある程度は論理化することが出来たと思います。

「それでは、実際に無償で行われているジャーナリズムに世界を変えるほどの力があるのか、今度はその点について考えていきましょう。無償のジャーナリズムについては、三つの種類があると私は考えています。まず一つ目が、仕事の片手間に報道を行っている場合です。今の世の中、アフォーゴモンに自分のサイトを作れば誰でも報道を行うことが出来ますからね。あるいは、それよりも簡単に、SINGやフーズライフなどのSCSを利用することでも様々な発信をすることが可能です。二つ目、生活の中心に報道を据えて、生活費や取材費やがなくなった時に、短期の仕事を集中的に行ってそれを稼ぐというやり方です。こちらでも、やはり主要な発信の場はアフォーゴモンになってくるでしょう。安価かつ簡易に発信が出来ますから。最後に、三つ目、これは、いわゆるアウトサイダー・ジャーナリストです。金銭を必要とする社会、つまり市民社会から完全に離脱して、自分という生き物の全てをジャーナリズムに注ぎ込んでいる人々を指します。

「さて、一つ目の種類の人々、これを仮にパートタイム・ジャーナリストと呼びましょう。また、二つ目の種類の人々、これを仮にフルタイム・ジャーナリストと呼ぶことにします。それでは、こういった種類の人々に、世界を変えることが出来るのか。結論からいえば……まあ、出来なくはないでしょうね。とはいえ、それは表面上の変化に過ぎないでしょうが。

「こういった種類のジャーナリズムには、商業的なジャーナリズムにはないある特殊な優位性があります。それは「親密さ」です。砂流原さんも、ご経験ありませんか? テレビで見るニュースと、SCSで流れてくるニュースと、どちらも同じニュースであるはずなのに、なぜか後者の方が安心感がある。確かに信頼性についてはテレビで見るニュースの方が高いかもしれません。けれども、SCSで流れてくるニュースには、なんとなく特別なものを感じる。まるでごく親しい人から聞いたように感じる。

「そんなのはもちろん錯覚に過ぎません。だって、そういう……いわゆる市民ジャーナリズムの実行者と、その読者とは、別に知り合いではないんですから。いや、中には知り合いだっていう人もいるかもしれませんがね、その実行者は、ほとんどの読者について、知り合いではないどころかどういう存在であるかも知らないというのが普通です。それにも拘わらず、なんとはなしの親しさを感じるのは、きっと色々な理由があるのでしょうけれど……その中でも最も大きな理由だと私が考えるのは、市民ジャーナリズムが小規模であることによって、内的原理のより密接な癒着が、一般的なジャーナリズムよりも起こりやすいということです。

「砂流原さんもご存じだと思いますけれど、ほとんど全ての人類は関係知性によって結び付いています。とはいえ、その関係知性から導かれるところの観念の世界、その内的原理がどれだけの密度で混ざり合っているのかということについては、所属する集団によって多少の違いがあります。断片的社会に働く相互執念間重力についての問題ですね。そして、そういった内的原理がどれほど近いものであるのか、それを基準として、人間というものは親しさを感じるものです。さて、それでは……「親密さ」の原因を探っていくならば、どういった場合に内的原理が結び付きやすくなり、どういった場合に内的原理が結び付きにくくなるのか。それを考えることが、比較的重要であるということになってきますよね。

「ただ、その前に市民ジャーナリズムが一体どういうものであるのかということを考えていく必要があるでしょう。その市民ジャーナリズムの持つ相互執念間重力こそが、内的原理の癒着、つまり「親密さ」の原因になってくるわけですからね。市民ジャーナリズムを一言で表すとするならば。その一言は、間違いなく無学無知となるでしょう。市民ジャーナリズムは、学ぼうとする謙遜が無く、知ろうとする勇気がない。

「市民ジャーナリズムを考える上で最も重要なのは、それが「市民」によるジャーナリズムであるということです。しかも、それは、グリュプスの市民でもなく、コクリの市民でもなく、ダガッゼの市民でもなく、メルフィスの市民でもなく、人間の市民なんです。いや、まあ、コクリとかは独自の市民ジャーナリズムを持ってるかもしれませんがね、あの方々は噂好きですから。けれども、それは取り上げないことにします。コクリの方々の市民ジャーナリズムがあったとして、それと人間の市民ジャーナリズムでは全く性質が異なりますから。とにかく、人間の市民、つまるところ大衆のジャーナリズムであるということです。

「要するに、大衆的……少し前に一度申し上げたように、内的原理に対する脅威となるようなことを学ぼうとせず、内的原理を危険に晒すようなことを知ろうとしないということです。自分が所属している集団の価値観に絶対的に隷属する。そして、その価値観に少しでも逆らうような現象に出会うと、その現象の意味を分析することもなく、自分が隷属する価値観と、その現象と、どちらが正しいのかということを考えもしない。

「例えば……一番分かりやすいのは禁煙に関することですね。いや、まあ、私としては、別に好きで煙草を吸っているわけではないので、全世界的に禁煙になっても構わないのですが。とはいえ、禁煙という価値観が絶対に正しいのかということは、もう少し考える必要があるでしょう。というか、肺癌になって死ぬということの何がいけないのか。そりゃあ、肺癌になれば、非常に惨たらしく死ぬでしょうね。まともに呼吸することも出来ず、思考は常に混濁し続ける。肉体が腐っていき、そして、病院のベッドから一歩も動けないまま、糞尿を垂れ流しにして死ぬことになるでしょう。けれど、それの何がいけないっていうんです? 別に構わないでしょう、そうやって死ねばいいんです。というか、もしも私がそうやって死ぬとして、この世界の大勢に影響がありますか? それは、私の糞尿を片付ける看護師の方は、ちょっと不愉快かもしれませんけどね。でも、その程度でしょう?

「というか、そもそも、そうなる前に死ねばいいじゃないですか。運が悪かったと全てを諦めればいいだけの話です。なぜそうしないんですか? そうやって死なないことの方が、煙草を吸うことよりも、もっと悪質ではないですか? それに、煙草から流れ出る煙で他の方々が肺癌になるとして。それの何がいけないんです? いいじゃないですか、大量虐殺大いに結構。煙草を吸わない人間が損をするとして、損をする方が馬鹿なんです。馬鹿なんてね、殺した方が人類にとってはいいんですよ。煙草を吸わない方々は、自分達が馬鹿で、しかも運が悪かった、死んで当然の人間だったということで、大人しく死んでいって欲しいものです。

「そういう考え方の何がいけないのか。内的原理の中に生命信仰が組み込まれているような方々には、まるで理解出来ないのです。煙草を吸うということ、それによって生まれる社会的な連帯感。あるいは、煙草というものが生み出す文化的な豊饒さ。それに、もちろん、煙草を吸うことによって個人個人が得ることの出来る快楽、心の余裕。そういったものについて全く考えることなく、ただ自分が死にたくないということ、それだけのために、煙草が生み出す全ての価値観を否定し、無視し、そして、それを無関心に破壊しようとする。それも、全ては、生命信仰という、生きることだけが全てだという、自分の隷属する価値観に逆らうから。

「そういった大衆が、市民ジャーナリストになったらどうなるか。砂流原さんにはお分かりになりますか? まあ、大体お分かりになるでしょうね。価値観の奴隷が福音の伝道者になるということですよ。そう、それは信仰なのです。報道というよりも、単純な信仰告白といった方が正しいでしょう。自分が所属する集団の価値観に一切逆らうことなく、むしろ、その価値観を、より一層先鋭化させる。それだけのために記事を書いたり、動画を作ったり、し続けることになる。

「実のところですね、そういう方々は自分が何をしたいのかということもよく分かっていないんですよ。往々にして、市民ジャーナリストは、あらゆる権力に対して反抗する、自分の良心あるいは欲望にのみ忠実に行動するとおっしゃるんですけれどね。自分の良心というものがなんなのか、自分の欲望というものがなんなのか、それを論理的に説明することは、絶対に出来ないんです。なぜか分かりますか? それはですね、そういう方々がいう「自分の良心」「自分の欲望」というのは、自分が所属する集団の価値観に過ぎないからです。いや、それどころかその劣化版でしょうね。

「そもそもの話、人間というものはですね、「自分の良心」「自分の欲望」なんていうものは持っていないんです。そう、例えば……はははっ、砂流原さんは何一つ欲望を持っていらっしゃらないし、私には良心というものが欠片も存在していない。まあ、これは冗談ですけれどね。とにかく、私達が自分のものだと思っているそれらのものは、全て、関係知性の断片に過ぎないんです。だって、そうでしょう? もしも、もしもですよ。私という存在が、私という概念が、その一部でも、他のあらゆるものから独立してあるというならば。それは確かに「自分の」何かしらを持っているということになるでしょう。けれど、違いますよね? 私の内側にあるものは全て遺伝と環境とで決定しますし、私の外側を形作っているこれは全て地の塵です。私のものは一つもない、私と呼べるようなものは何もない。私の考える全ての思考は、所与のものなんです。

「そして、その所与のものを解決する過程こそが、私達が私達と呼んでいる何かなんです。市民ジャーナリズムの方々が「自分の良心」「自分の欲望」と考えているそれを、一つ一つ分析して、論理化していく。そして、より深化したその思考によって、「良心」でも「欲望」でもいいですが、そういったものをあるべき方向に進めていく……あるいは、砂流原さんの言葉を使えば「正しさ」の方向に向けていく。自分が本当にしたいことは、そういう過程を通らない限りは、見つけることが出来ないんです。

「そのようにしてですよ、自分が何をしたいのかも理解出来ない市民ジャーナリストの方々が、どうしてまともな記事を書けるというんですか? 自分のことも理解出来ないのに社会のことが理解出来ると? そんなわけがないでしょう。全ての人間の思考の起点は自分自身なんです。自分自身の内側にある関係知性、社会の断片から類推して、外部に存在する広大な社会現象を一つ一つ組み立てていくんです。つまり、市民ジャーナリズムは、社会というものを全く理解しないままに社会について報道している。

「いや、もっとはっきり言いましょう。市民ジャーナリズムが報道しているのは社会ではないんです。少なくとも「正しさ」としての社会ではない。社会が実際にそうあるという姿を報道しているのではなく、また、社会がそうあるべきあるという深い思考のもとに報道しているのでもない。それでは、何を報道しているのか? いいですか、砂流原さん。あの方々が報道しているのはね、定常安定化欲求なんです。

「集団が一つの価値観を持ちます。それは大抵の場合、最低最悪な形の自己愛です。卑劣で卑小で卑賤な、自分だけが大切だという感情の、正当化としての価値観に過ぎません。えーと、ほら、先ほどの禁煙思想みたいなものですね。ああいう形の生命信仰に、それから、喫煙者を見下すことで快感を得るという優越感渇望を付け加えたような形。自分だけが生き残ればいい、自分だけが愛されればいい、他人はどうだっていい。他人は、自分が生き残り愛されるための道具に過ぎない。大変典型的ですね。

「こういった価値観は、通常の場合、それほど有害なものにはなり得ません。なぜなら、フィルターをかけられていない現実の社会というものには、思想の多様性があるからです。普通ならば、何かしらのコミュニティー、家庭でも会社でも学校でもいいですけど、そういった場所で生活していくに従って、様々な集団――えーと、これは国などの大集団という意味ではなく、価値観のクラスターとしての小集団のことですが――と交わることになる。そして、自分の価値観というものが、絶対かつ唯一の思想ではないということを知ることになるのです。

「ところが、ところがですよ、現代社会にはアフォーゴモンというものが存在しているんです。この広い世界には……アフォーゴモンの中にこそ多様性があるとおっしゃる方もいらっしゃいます。現実の社会において、人間が関わることが出来る小集団は、あまりにも少ない。せいぜいが自分の周囲の幾つかの小集団であって、そういう小集団は、もともと所属していたところの小集団と、大して変わる価値観を持っていないものだ。一方でアフォーゴモンは世界中に繋がっている。世界中の多様な思想に接続することが出来る。そういう理論ですね。

「あはは、まあ、そういう考えを、別に否定するわけではありませんけどね。私の個人的な意見を言わせて頂くとすれば、それは非常に巧妙な詐術に過ぎないと思います。砂流原さん、あなたは、アフォーゴモンの中から、わざわざ自分の内的原理を否定するような思想を探し出して、それを真摯に受け止めようとしますか? しないでしょう。いや、もしかしたら、砂流原さんはそういうことをなさるかもしれませんがね、私は絶対にしませんよ。だって、そうでしょう? 世界中の、自分と同じ意見、自分の内的原理を肯定してくれる意見を探し出せるっていうのに、なんでそんなことしなきゃいけないんですか? 自分と似通った意見を探し出して、やっぱりそうだと思う。自分を肯定してくれるような意見を探し出して、幸せな気持ちになる。そういった快感を手放してまで、なんで不快な気持ちにならなきゃいけないっていうんですか?

「もしもそういったものを探すとすれば、それは、そういった否定的な意見を読んで、それは間違っていると主張するためです。どんな思想にも一つか二つかは正しいところがあるように、どんな論理にも一つか二つかの間違いがありますからね。その間違いをあげつらうために探すんです。幸いなことに、そういった論理の中のそういった間違いを指摘してくれる人は、世界中のどこにでもいます。正しいところを見ずに間違ったところだけを見れば、その意見のことを完全に間違ったものとして認識することは、とてもとても簡単なことです。こうして、自分の意見だけが正しく他の意見には正しいところなど一つもないと考えることが出来るわけです。

「多様な意見というものはね、砂流原さん、そこに存在しているだけではなんの価値もないんです。私達が飛んでいる、この大地の下には、大量の赤イヴェール合金が埋まっていますけれどね。そういった赤イヴェール合金が、私達にとって財産的価値がある物ですか? そんなわけがないでしょう? 赤イヴェール合金は、掘り出さなければ売ることが出来ない。多様な意見も、それと同じように、それについて肯定的に受け取るように強制する圧力がなければ、どんな意味も持たないんです。

「現実の社会においては、そういった圧力はいくらでもあります。それこそ嫌になってしまうほどにね。煙草を吸う親、煙草を吸う上司、煙草を吸う教師。そういった上からの圧力だけではなく、煙草を吸う友人という同調圧力もあります。そういった圧力からは、滅多なことがない限り逃げることが出来ない。だから、例えどんなに嫌だったとしても、例えどんなに強固な禁煙思想を持っていたとしても、まず、一旦は、喫煙という行為を肯定的に受け取らざるを得なくなる。

「それこそが真の多様性なんですよ。アフォーゴモンに存在している多様性なんていうものはね、地下深く人間の手の届かない場所に埋まっている宝石の輝きに過ぎないものです。そんなわけで、アフォーゴモンにおいては……そういった価値観、つまり自己愛の価値観は、どんどんと原理主義的になっていきます。そりゃあそうですよね、世界には数千の人間、数万の人間、数億の人間がいます。そして、そういった人間の全てが自己愛を持っているんです。いや、まあ、中には奇妙な精神病を患っていて、自己愛というものを欠片も持っていない方もいらっしゃるかもしれませんがね、そういう特殊な例外を除けば、大体の人間は、自分のことが世界で一番好きなんです。

「だから、誰だって禁煙思想を持つ可能性があるということなんです。禁煙思想に代表されるような、知性の欠片もない自己愛の思想をね。そして、そういった内的世界を共有する小集団が。アフォーゴモンによって世界規模に広がっていくんです。そうすると、どうなるか分かりますか? その自己愛は世界レベルで肯定されることになるんですよ。世界中のあらゆる知性が自己愛を正当化する論理を考え付きます。その論理の、非常に優秀なところだけを取り入れていって、自己愛の思想は限りなく純粋化していくのです。ほら、ここにも自分と同じ考えの人がいる。ここにも、ここにも、皆、自分が大切だといっている。だから、私は、世界で一番大切なんだ。そう思うわけです。

「いやー、あはは、ちょっと……もう、どうしようもないですね。あのですね、自己愛の思想が大切だといっているのは、あなたのことではないんです。その自己愛の思想の主張者たった一人が大切だっていっているんです。あなたはですね、その自己愛の主張者がどうでもいいといって切り捨てたところの他人に過ぎない。自己愛の思想において、あなたは、屑以下の価値しかないんです。けれども、自己愛の思想を持つ方々は、そういった考えを持つことがない。自分こそが、この思想の中で、唯一価値があるとされているところの自己であると考える。

「とある人間Aととある人間Bと、その両方ともが世界で最も重要だなんて、そんなことがあるわけがないじゃないですか。自分が世界で最も重要だと考える思想、自己愛の思想がある限り、必ずどちらかがどちらかを奴隷にすることになるんですよ、人間Aが人間Bを搾取することになるんです。だって、そうでしょう? 自己愛の思想、集団がもともと持っていたところのあらゆる「形式」を打ち砕くその思想の下で、人間Aの欲望と人間Bの欲望とを、どうやって調整するっていうんですか?

「他人に迷惑をかけなければいい? いいですか、人間というものは息をしても他人に迷惑をかけるんです。私だってね、記事を書いている時は、他人の心臓の音さえうるさいと思っているんですよ? 呼吸をせずに心臓を止めて生きていくっていうんですか? あはは、御冗談でしょう! 他人に迷惑をかけずに生きていくことなんて不可能です。

「こういうことをいうと、それは程度の問題だという人がいますけどね、それじゃあ、その程度というものは誰が決めるっていうんですか? ここにある一人の人間がいるとしますよ、誰かがアイスクリームを食べたら絶対に自殺すると決めている人間です。その人間にとって、誰かがアイスクリームを食べるというのは、迷惑以外のなんでもありません。だって、誰かがアイスクリームを食べたら自分は死ななければいけないんですからね。それでは、アイスクリームを食べることを世界中で禁止しますか? それをしないというのならば、その人間の命には価値がないというんですか? そういった問題に、自己愛の思想は、答えられるんですか? ちなみに、例に挙げた、誰かがアイスクリームを食べたら自殺する人間ですがね、私の空想の産物ではありませんよ。過去に実際に存在した人です。あーと、今はこの世界のどこにもいませんがね、精神病院で私に対してそういう決意を語った翌日に、その精神病院の屋上から身を投げて自殺しましたから。あはは、どこかで誰かがアイスクリームを食べているのを見たんでしょう。

「そして、そのように、恐ろしい勢いで原理主義化していく自己愛の思想は……そうであるにも拘わらず、内省の手段を何一つ持たないのです。なぜなら、その思想が苗床としているのはアフォーゴモンだから。あはは、ヴェケボサンやユニコーンやといった高等知的生命対の方々からすれば、アフォーゴモンの中に存在している情報なんて、ちょっとばかり蛇口をひねって出てくる水道水みたいなものでしょうけどね、人間にとっては、あの情報の流れは、無限の銀河にも等しいものです。生ゴミのような情報から粗大ゴミのような情報、あるいは資源ゴミのような情報まで種類は様々ですが、とにかく、アフォーゴモンから情報を得ようとする人々は、そのゴミの山の中から何かを見つけてこなければいけない。

「先ほど、私は、アフォーゴモンには多様な意見を強制的に押し付けるというシステムが決定的に欠けていると申し上げました。けれどもそれは少しばかり甘恕に過ぎる意見でしたね。実際には、それどころか、そういった多様な意見は視界にさえ入らないんです。なぜなら、アフォーゴモンを開いた人間の目の前には、銀河ほどの大きさのゴミの山が聳え立っているから。

「例えばSCSのことを考えてみましょう。ああいったサービスにおいては、流れてくる情報は都合のいい情報ばかりです。それは自分の気に入った人間とだけフレンドになっている場合でも、その反対に自分の気に食わないやつとだけフレンドになっている場合でも同じです。まず、前者については……多言を弄する必要はありませんよね、SCSの自分のページに流れてくる情報が、そもそも自分と同意見の人間のものばかりになるわけですから。そして、後者について。これはですね、どういうことかといいますと、つまり、受け取る側の問題なんです。

「SCSに流れてくる情報のほとんど、大半、いや……もう言い切ってしまいましょう。その全てが、断片化した情報の残骸に過ぎないんです。咀嚼しやすいように噛み砕いたといえば聞こえがいいですけどね、以前も申し上げたように、一つの思想が一つの思想として成立するためには、その思想を正当な論理として結晶化させるための、苛烈なほどの、熾烈なほどの、言語的努力が必要なんです。ああ、えーと、あはは、先ほど私が申し上げた「禁煙思想」だの「自己愛の思想」だのには必要ありませんけどね、というか、あれは皮肉で「思想」という単語を使っているだけです。

「とにかく、そんなわけで、SCSに流れてくる情報は、人間を「正しさ」の方向に向かわせる思想ではありません。良くて、ちょっと気の利いたコメント。悪くなると、自分の間違った考えを原理主義的に強化するための格好の材料になってしまう。つまり、どうとでも取れるんですよ。SCSに流れている情報は。明確な論理の裏付けもなければ、正確な数字による裏付けもない。そう、「正確な」数字による裏付けです。見方によってはどうとでもいい繕える便利な「統計」による裏付けではなくてね。

「だから、例え、気に食わないやつの意見が常に流れてくるような状況にあっても。その意見の全て、いや、全てとはいわなくても、自分の内的原理を傷付けかねない根本的な部分は、絶対的に反駁することが可能なんです。あまりに全てが曖昧で、あまりに言葉が少な過ぎるから、いくらでも反論することが出来る、間違っているということが出来る。

「それだけではありません、他にも、SCSの情報には様々な問題があります。例えば、自分の意見と、気に食わないやつの意見と、どっちが多数派であるかということさえもはっきりとは分からないという問題です。あまりにも情報の量が多過ぎて数えることが出来ませんからね、それに、もし数えられたとして、何を基準としてこれは自分の意見と同じであるとかあれは気に食わないやつの意見と同じであるとかを決定出来るっていうんですか? もともとがどうとでも取れる曖昧な意見に過ぎないんです。しっかりとした分別に耐えられるだけの思想的強度なんてない。

「だから、SCSを見ている方々は、好きな時に自分を多数派に出来るし、好きな時に自分を少数派に出来る。自分が迫害されているスタンスを取りたい時は、気に食わないやつらを多数派にすればいい。自分が正当であるということを主張したい時は、自分達を多数派にすればいい。もちろん、しっかりとした数字の裏付けなどはありませんが……そんなもの必要ありますか? こちらの意見もあちらの意見もいくらでもあるんです、適宜必要に応じてそれらを使い分ければいいだけのことです。

「要するにですね、SCSは根本的に間違っているんです。たまに、そのシステムが問題なんだとかいう方もいらっしゃいますよね。SCSには、ユーザーに都合のいい情報、ユーザーが欲している情報だけが流れてくるようにフィルタリングするシステムがある。それが問題なんだって。あのですね、そんなものは兎の耳の先に過ぎないんですよ、問題点はそんなところにはないんです。別にいいんです、ユーザーが求めている情報しか流れてこなくてもなんの問題もない。それが真実の思想であるならば。本当に問題なのはですね、そこに流れている情報の全てがクソの役にも立たないゴミでしかないということなんです。

「さて、パートタイム・ジャーナリズムであれフルタイム・ジャーナリズムであれ……そういった場所を報道の場にしているんです。アフォーゴモンをね。つまり、そういったジャーナリズムには、自分の意見のどの部分が正しくてどの部分が間違っているのか、そういった内省を通じて、ただの意見を思想にまで高めていく機会が完全に欠如しているということです。もっと簡単にいえば、そういったジャーナリズムは、絶対に本気で反省することがないということです。

「思想が「正しさ」を維持し続けるために、最も重要な要素はですね。砂流原さん、それは護持ではないんですよ。それは、転向なんです。思想の、本質は、転向なんです。間違っていた時に間違っていたと認め、「正しさ」へと方向を変えること、それこそが思想なんです。しかし市民ジャーナリズムにはそういった転向の要素が決定的に欠けている。

「わたくしどものような商業的なジャーナリズムにはですよ、転向の要素なんていくらでもあるわけです。私達は、アフォーゴモンの中ではなく、現実の中でジャーナリズムを行っていますからね。それが良い圧力か悪い圧力かは別として、現実世界に付きものの圧力に周りを囲まれているといっても過言ではない。あはは、私の記事が幾つレイフェルさんに没にされたか! しかし、市民ジャーナリズムには、その記事が間違っていると没にするような編集長はいないわけです。周りにあるのは都合のいいfollowerのYES、YES、の大合唱だけです。

「そういうわけで、いいたいことだけいってられる市民ジャーナリズムは、思う存分自己陶酔に浸ることが出来るわけです。馬鹿みたいに自己愛の思想の福音を叫び続けることが出来る。とはいえ、先ほども書いたように、実はそれは自分のやりたいことではない。それは、もちろん、誰でも自分が大好きだから、市民ジャーナリズムとして報道を行っている方々も自分が大好きだとか、そういったレベルではやりたいことであると思いますよ? けれどですね、そんな本能的欲求程度の欲望を、自分がやりたいことだと、胸を張っていうことが出来ますか? いくら下等知的生命体でしかないとはいえ、それでも人間は知的生命体なんですよ? あはは、さすがにそれは恥ずかしいでしょう。

「そして、その自分が大好きだという本能的欲求は、単なるきっかけでしかない。これも先ほど言ったことですが、市民ジャーナリズムは皆がそういっているから自分もそういっているに過ぎないんです。というか、どういえばいいんでしょうね……皆が同意してくれる、皆が賛成してくれる。自分と、それに、自分と内的世界を同じくする小集団とが、一体になっているという感覚。ほら、例えば、学校で、先生がした質問に正しく答えられた時とか、自分がした発言にクラスの皆が同意してくれた時とか、そういった時に感じる快感。それが脳に対する刺激となって、その刺激の示す通りに自分の思考を突っ走らせていくんです。

「もう、こうなってくると、こういうことを考えているからこういうことを書くということさえしなくなってきます。自分は、こういうことを書いている。だからこういうことを考えているんだ、こういった過程になってくるんです。あのですね、砂流原さん。人間の思考っていうのは、そんなに精密に出来ているものじゃないんです。「自分の考えていること」が、自分の頭蓋骨の中でしっかりと思考したことである場合の方が少ないくらいなんです。「自分の考えていること」というのは、もっと、原始的で根源的に決定されることの方が多い。つまり、自分がどう口を動かすか、自分がどう手を動かすかで決定されてしまうことの方が多いんです。

「思考の経路というものが、ある一人の人間の中だけではなく、小集団全体の中で固定化されてしまう。ある小集団の構成員が、ある一定の方向の考え方しかしなくなる。そして、その方向に突っ走っていく。現実世界ならば、色々なところで別の小集団と交わってブレーキがかかるようなところでも、アフォーゴモンの中ではブレーキがかからない。他の小集団を完全に排斥するから。そして、小集団の中で、小集団の価値観だけが絶対の価値観になっていくから。結果的に、その経路はどんどんと狭まっていって、価値観は先鋭化していく、純粋化していく、原理主義化していく。

「そして……一度、このようにして思考パターンが固定されてしまうと、よほどのことがなければ、その固定から抜け出すことは不可能です。なぜなら、その思考パターンに従うことが、圧倒的に楽だから。その価値観に隷属していれば何も心配することがない、皆が受け入れてくれる、皆が褒めてくれる。その一方で、もしもその経路から一歩でも逸れた道を歩き始めてしまったら。徹底的に糾弾され、排斥される。どんなに反省しても、もう二度と許しては貰えない。小集団に戻ることは許されず、その外側で永遠に無視され続けることになる。

「人間という生き物はそんなことに耐えられません。なぜなら、その知性の性質が関係知性だから。個々人が持っているとされる意識というものは、実は社会の断片に過ぎず、結果として、社会から疎外されることは、自分自身の意識の正当性を失うこと、自分自身の意識の本質との接続を失うことになってしまうから。結局、自分が所属する小集団の価値観からは逃れることが出来なくなる。

「また、それだけではなく……ただ単純に、固定化された思考の運動、その慣性から逃れられないという、ほとんど物理的といってもいいような原因もあるかもしれませんね。例えば、砂流原さんはこんなことがありませんか? 休日に、もう眠くないにも拘わらず、ベッドから出られなくなる。大して面白い情報が流れているわけでもないのにSINGを眺め続けていてしまう。あるいは、その反対に、一度部屋の掃除を始めるととことんまでやってしまう、手を付けた仕事は最後まで終わらせたいと思ってしまう。こういった全てが、思考の慣性なんです。一度ある思考を開始すると、その思考から別の思考に移るには、そこそこの労力が必要になってくる。日常生活の、こんな下らない、思考ともいえないような動作に関しても、この慣性は働くものなんです。これが、例えば自己愛の思想のような形まで高められれば、一体どれだけの慣性が働くか。砂流原さん、お分かりになりますか?

「いつまでもいつまでも、その自己愛の思想にしがみ付きたくなってしまう。どんなに、その思想が間違っていると指摘されても。その思想の中で間違いを正当化して、その思想にしがみ付き続けていた方が、思考の労力としては遥かに安楽なんです。つまり、こういうことなんですよ。人間が、ある思想を護持し続けるのは。その思想が正しいと信じているからではないんです。そうではなく、その思想を訂正するのが疲れるから。面倒だから転向をしない。それだけの話なんです。そう、つまり、結局のところは……定常化安定欲求に過ぎないということです。

「そして、その定常安定化欲求を記事にしたり動画にしたりして形にしているのが市民ジャーナリズムだということです。ここまでくれば、市民ジャーナリズムが持つ相互執念間重力がどのようなものであるのかということが、十分に理解出来るでしょう。つまり、市民ジャーナリズムというものは、所属している観念の世界において絶対的にまで高まった内的原理、その内的原理を、そのまま書き写しているだけだということです。そこに少しの反省も加えることがなく、そこに少しの転向を加えることもない。ただただ純粋な、福音の伝道。それが市民ジャーナリズムだということです。そうであるならば、市民ジャーナリズムが持つ相互執念間重力というものは、ほぼ百パーセントの密度を持ちうるということになる。

「いうまでもなく、その市民ジャーナリズムが人間という下等な生命体によって担われている限り、内的原理に対して完全に同化するのは不可能でしょう。人間という生き物はちょっと哀れなくらい理解力が欠如してますからね。自分が所属している内的原理さえも完全に理解することは不可能でしょう。とはいえ、理念的には。市民ジャーナリズムは、自分自身が、百パーセント、内的原理に適合するようにしているということです。もっと正確にいうと、百パーセント皆から受け入れて貰えるように、百パーセント皆から褒めて貰えるように、自分の思考の方向性を出来る限り完全に固定しているということです。

「だから、その内的原理、価値観の小集団に所属している方々は、市民ジャーナリズムに対して「親密さ」というものを覚えるというわけです。それはそうですよね、商業的ジャーナリズムのことを自分が働いている会社の経営者に例えるならば、市民ジャーナリズムは自分が所属している教区の司祭のようなものです。何か困ったことがあった時に、経営者よりも司祭の方が親身になってくれそうな気がするでしょう? そんな感じです。より一層、自分の所属するコミュニティに対して誠実であるような気がする。その分だけ、本当のことを言っているような気がする。まあ、どちらかといえば、本当のことというよりも、小集団の持つ価値観と照らし合わせた時に正しいことといった方がいいでしょうけどね。それでも、人間というものは、それを本当のことと勘違いしてしまうくらいには愚かな生き物だということです。

「さてさて、そのようなわけで、パートタイム・ジャーナリストにせよ、フルタイム・ジャーナリストにせよ、その購読者・視聴者と「親密さ」によって結び付いているわけです。つまりですね、その関係性というのは、宗教において信仰を同じくする共同体みたいなものなんです。自己愛という信仰によって結び付いている共同体。あはは、なんだか奇妙な感じがするでしょう、砂流原さん。「自己愛」と「共同体」なんて、全く逆様のものじゃないかって、そう思うんじゃないですか? でもね、何度も何度も申し上げていますが、人間は下等知的生命体なんです。この程度の矛盾なんて、どうってことないんですよ。

「そのようにして……信仰に似た「親密さ」によって結び付いた共同体は、しばしば驚くべき暴力性を見せることがあります。しっかりと論理化されていない、曖昧な、ぼんやりとした、気分は。それだけ誰にでも共有されやすい。そして、そうやって共有された気分が、「親密さ」によって結び付けられる。すると、一人一人の個人は砂のようにばらばらであるにも拘わらず、一種の砂嵐に似た暴動が起こることがあるんです。

「これはですね、なんの不思議もないことなんですよ、砂流原さん。だって、よくよく考えてみて下さい。誰もが心の底では暴れ回りたいと思っているんです。誰かを傷付けたいと思っている、何かを壊したいと思っている、秩序というものをめちゃくちゃにしたいと思っている。そういうことをするとなんだかすっきりしますからね。実際のところ、暴動を起こす方が秩序を守るよりも何倍も簡単なんです。だから、それを正当化してくれる「親密な気分」さえあれば、人はやすやすと暴力性に屈するというわけです。

「また、それだけではなく、市民ジャーナリズムが発信する報道自体の問題もあります。いつだって、始まった時にはそれほどでもないんです。それほど過激でもなければ、それほど暴力的でもない。少しずつ少しずつ、物事をいい方向に変えていこうという内容なんです。けれど、その発信する内容、コレクトネスな価値観について褒められていくうちに、だんだんと調子に乗ってきてしまう。もっともっとコレクトネスに、もっともっと価値観に対して忠実に。そして、価値観に従わない者に対しては、情け容赦のない内容になってくる。

「なぜそうなるのかといえば、それは、市民ジャーナリズムが刺激に反応してしまうからです。より強い刺激、より強い快感が得られる方に向かって進んでいくという、ほとんど物理的といっていいような人間の性質のせいなんです。より一層過激なことを発信すれば、より一層強い反応が返ってくる。より一層強い反応が、より一層強い快感を生み出す。やがて、その快感さえも十分ではなくなり、もっともっと強い快感を得ようとして、もっともっと過激になっていく。そうして、市民ジャーナリズムというものは、最終的に、暴動を肯定するようなものになっていくんです。もちろん、暴動それ自体を肯定しているのではなく、人々がその暴動を起こすに至った思想的背景を肯定しているのだという、言い訳にもならない言い訳を添えてね。

「このようにして、市民ジャーナリズムの報道によって煽り立てられたところの、「親密さ」によって結び付いた小集団は、その小集団を秩序によって縛り付けていたところの大集団に対して、暴動を起こすことになるわけです。最初は、その小集団だけだった暴動は、大抵の場合、小集団とは関係ない人々も巻き込むことになります。さっきもいったように、人間はいつだって暴れたいものですから。誰かが暴れていて、お前も暴れていい、いや、暴れることこそが正しいのだと言われたら、よほど強く自分を律することが出来る人間、理性によって自分を統御出来ている人間でなければ、それには抗えないでしょう。

「暴動は次第次第に大きくなっていって、最終的にはその大集団を転覆させることになる。市民ジャーナリズムの報道によって、独裁政権でも軍事政権でもなんでもいいですけど、そういうものが打倒されることになるというわけですね。今まで秩序を保ってきたところの政権がなくなってしまえば、少なくとも、見た目の上では、世界というものは変化しているわけですから。そういう意味で、私は、市民ジャーナリズムには世界を変化させる力があると言ったわけです。

「けれどですねー、まあまあ、ちょっと考えてみて下さいよ、砂流原さん。この変化は本当に内実がある変化なのかっていうことを。市民ジャーナリズムは本当の意味で世界を変化させたのかということを。あるいは……このようにして起こされた暴動が、ただの暴動ではなく、「正しさ」を内包した革命なのかということを。どうですか? どうもそうではないように思われやしませんか? いやー、あはは、少なくとも私にはね、そうではないように思われるんですよ。

「いや、だってね、そもそもの話として、市民ジャーナリズムの報道の中に何かしらの「正しさ」が含まれていましたか? あるいは、一つでも新しい思想が含まれていましたか? いないでしょう? 市民ジャーナリズムの報道は、イコール、その市民ジャーナリズムが所属しているところの小集団の価値観に過ぎないんです。そして、その小集団の価値観というものは、その小集団が所属しているところの大集団の価値観と、根本的な部分では、なんの変わるところもないんです。

「まあ、確かに、その小集団の価値観というのは、見た目の上では、その小集団が暴動によって打倒したところの大集団の価値観とは正反対のように見えなくもないでしょう。けれどね、そんなものは所詮は白い魚か黒い魚かの違いしかないんですよ。論理的に考えてみて下さい、まともに物事を考えもしない人間が、自分の内的世界を疑うことも出来ない人間が、自分がその中で育てられてきたところの集団における根底的な価値観について、何かしらの修正を加えることが出来ると思いますか? あはは、そんなわけがないでしょう。

「あのですね、実のところ、たった今私が定義したような小集団は、何一つ珍しいものではないんです。構成員と構成員とが自己愛でしか結び付き合うことが出来ない小集団、己が所属している大集団の全てが間違っていると叫び続ける小集団。そういった小集団は、恐らく、人類というものが生まれた時から存在しているんです。つまりですね、そういった小集団が持っている価値観というのは、絶望的なほど原始的な欲求に過ぎない。それは、一言でいえば「親殺し」の価値観なんですよ。

「もう少し分かりやすくいうのならば、自分よりも上の世代の何もかもが気に食わないという、ぼんやりとした不快感。自分のやりたいことを否定して、自分の考えていることを否定して、自分という存在を絶え間なく圧迫してくる、自分よりも上の世代に対する、身に染み付いた反抗心。要するに、反抗期から抜け出せていないという剥き出しの幼稚さ。その程度のものなんです。そんな幼稚な価値観が、新しいものを生み出せるはずがない。新しいものというか、より「正しさ」に近い思想といった方がいいかもしれませんがね。とにかく、そういったものに近付けるはずがない。所詮は、大集団の持つ根本感情のようなものを、自己愛の方向に捻じ曲げた何かしか生み出すことが出来ない。

「そうだとするのならば、この世界に対して、本当の意味での革命を起こせるわけがないでしょう。ある穴の中に住んでいた年老いた兎を追い出して、その代わりに若い兎がふんぞり返っているだけなんです。賭けてもいいですがね、その若い兎だって、最終的には年老いて、また若い兎に穴を追い出されるだけですよ。つまり、最終的には、打倒された政権と何一つ変わらない根本感情によって支配された、独裁政権もしくは軍事政権に逆戻りするということです……まあ、運が良ければね。運が悪ければ、永遠に近いとさえ思えるほどの長い間、その集団は内戦によって引き裂かれることになるでしょう。

「ああ、すみません、すみません! そういった、独裁か内戦かという話は、デモ隊の話をした時に、もうさせて頂きましたよね? それでは繰り返しを避けるためにそこら辺は省略しましょう。とにもかくにも、市民ジャーナリズムはそのようにして無意味な死と無意味な破壊とを巻き散らすだけで終わるだろうということです。これはですね、砂流原さん、パートタイム・ジャーナリズムであれフルタイム・ジャーナリズムであれ、どちらにせよ変わりがないことなんです。

「ちょっとだけ考えると、フルタイム・ジャーナリストの方は、パートタイム・ジャーナリストと比べて、ジャーナリズムというものに自分の人生の全てを懸けているように見えますよね。あはは、まあ、私の個人的な意見としては、ジャーナリズムなんてものが人生を賭けるに値するものだとは思いませんけれど……まあ、それはそれとして、そのように見える。けれどね、砂流原さん、そんなことはないんです。パートタイム・ジャーナリストにせよフルタイム・ジャーナリストにせよ、自分の人生というものを一ディギトたりとも危険に晒していないんです。

「人生という言葉はですよ、砂流原さん。命を指し示す言葉ではないんです。私達が生きているこの時間を指している言葉でもない。私という全体を統御しているところの、総合的な「事実」を指す言葉なんです。つまり、ジャーナリズムのために命を投げ捨てようと、あるいは、いかに長い時間を浪費しようとも。それはジャーナリズムのために人生を捨てたということにはならないんです。ジャーナリズムのために、自分が絶対にやりたくないことが出来るか。あるいは、ジャーナリズムのために、自らの欲望を否定することが出来るか。それこそが、ジャーナリズムのために人生を捨てられるかどうかということなんです。

「自分という「事実」そのものを否定出来るか。それこそが、この世界を変革するために唯一絶対に必要なことなんです。「正しさ」のために自分の命・自分の時間さえも犠牲にしようとしないパートタイム・ジャーナリズムには、もちろんそんなことは出来ないでしょう。とはいえ、果たして、フルタイム・ジャーナリズムがそのようなことをしているのかといえば……そんなことはありませんよ、よほど特殊な例外でもなければね。

「というかですね、しているかしていないかというレベルの問題じゃなくて、そもそも論理的に考えればそんなことが出来るわけがないんですよ。フルタイム・ジャーナリズムはね、この世界についてまともに学ぼうとさえしていないんです。「まともに」という意味は、ただなんとなく本を読んだり、ただなんとなく死線に身を置いたり、そういう意味で学んでいるのではなく、もっと、何か、絶対の感覚に近付こうとする努力をしているということです。一つ一つ、世界について学んで、自分の中に「絶対的な他者」というものを構築しようとする。そのような努力さえも怠っている人間に、どうして自分を否定出来ますか? 自分を、「事実」を、否定出来るのは。自分よりも上位にある「絶対的な他者」だけなんです。それを「正しさ」と呼ぼうがなんと呼ぼうが構いませんがね、市民ジャーナリズムにはそれがないんです。全てが曖昧で、全てが適当で……全てが相対的。絶対というものを恐れている。

「いや、正確にいうと一つだけ絶対だと思っているものがある。それは自分です。ただ、それについても、絶対だと「思っている」に過ぎない。先ほども言った通り、市民ジャーナリズムが持っている自分なんていうものは、白痴が見ている夢のように移ろいやすいものですからね。それに、自分を絶対だと思っている人間が、その自分自身について、より良くしていこうという努力をしようと思うわけがない。

「だから、結局のところ、大集団の根本感情に囚われたままで。戦争、革命、内戦、独裁、自由、民主、博愛、合理、あらゆる混乱とあらゆる平和とを乗り越えたとしても、何一つ変わることなく、相も変わらず強者が弱者を搾取し続けることになるんです。自己愛の構造、親殺しの構造、欲望の全面的な開放、そういった最低最悪の気分だけが、社会という建築物の下に、あまりにも強固な土台として形成され続けることになる。そして、市民ジャーナリズムというものは、それがフルタイムのものであっても、パートタイムのものであっても、その土台を形作っている、どうってことのない石ころのうちの一つでしかないというわけです。

「さて、これで私はパートタイム・ジャーナリズムとフルタイム・ジャーナリズムとの二つについて話し終えたことになります。ということで……これでようやく、ジャーナリズムの最後の形態についての話まで辿り着くことが出来ましたね。すなわちアウトサイダー・ジャーナリズムです。しかしですね……実をいうと、このジャーナリズムの形態については、もう、私には話すべきことがないんですよ。なぜなら、これは、ジャーナリズムではないから。少なくとも私の定義するところのジャーナリズムではない。こういった人々はですね、報道を行うためには、自分の人生の全てを失う覚悟がある。本当の意味で、全てです。自分のジャーナリズムのために、自分のジャーナリズムさえも、なんの価値もない屑のように捨て去る覚悟がある。自分の見つけた「絶対」のためならば、自分のまるで信じていないようなことでも平気で書き連ねることが出来る。そして、それだけではなく……その絶対のために。報道の祭壇のために、なんの罪もない人々の命さえも捧げる覚悟がある。

「既にジャーナリズムではありません。それは、革命です。アウトサイダー・ジャーナリズムの担体は、革命家なんです。そして、革命家であるならば、世界を変えるための運動、それを引き起こすことの出来る力があるというのは当然のことです。このことについては、ついさっき話しましたよね? だから、もう、これ以上、話すことはないということです。

「まあ、アウトサイダー・ジャーナリズムなんていうものに……私は、お目にかかったことがないですけどね。そういうものは、現代的なものではありませんから。現代の社会、つまり人間至上主義社会においては、情報を入手するためのインフラストラクチャーがかなりしっかりと構築されてしまっています。アウトサイダー・ジャーナリズムが情報を発信するための「アウトサイド」が既に存在していないんですよ。だから、本来であればこういったジャーナリズムを目指すであろう人々は……ジャーナリズムではない、他の形の革命家になってしまう。ということで、こういったジャーナリズムの形は消滅してしまったと考えていいでしょう。

「さて。

「さて。

「それでは。

「それでは。

「人間至上主義諸国において。

「今のところ、存在している。

「ジャーナリズムについての話を。

「終わりたいと思います。」

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