第二部プルガトリオ #20

 世界は愛で動く。

 それは、絶対に、否定しがたいことだが。

 とはいえ。

 ごくごくまれに。

 その真実、を。

 抹殺しようと。

 試みる、生き物がいる。

 これは、本当に大切なことなので、何度でも何度でもいわなければいけないのだが。この世界のあらゆる物事に適用可能な絶対的な「正しさ」、そんなものは存在しない。

 いや、正確にいえば、もしかしたら存在しているかもしれないが。少なくとも、人間のように愚かな生命体が到達することなど出来るわけがない。そういうわけで、その思考者が人間である限り、物事というものは、全てケースバイケースで考えなければいけないのである。

 つまるところマコトの言葉のように考えてはいけないのだ。あらゆることを一つの理論で説明しようとする。それは、確かに、表面上は合理的に見えはするが。実際は、完全に間違っている。事実を捻じ曲げて、自分の思考に強制的に当て嵌めようとする行為でしかない。

 マコトの考えは、いや、というか、マコトの口から発せられる言葉は(マコトは何かを自分の考えによって考えたりはしない)。あまりにも極端過ぎるということだ。そして、これも、以前触れたことであるが……マコトは、そのことを、分かっている。分かっていて、間違ったことを話している。

 マコトの口から発せられる全ての言葉はマコトの意見ではない。いかにも自分の意見らしく飾り立てて話してはいるが、マコトにはそもそも意見などない。マコトは、真昼とは違うのだ。「正しさ」というものにはさらさら興味がない。マコトは、ただただ、快楽のみを求めているのだ。マコトが今話したこと、全てが虚飾でしかない。マコトが書く記事と同じように、何もかもが、砂糖で出来た、崩れやすい、紛い物のお城に過ぎないのだ。

 あはは、だって、愛なんていうものを追い求めて一体何になるっていうんですか? 所詮は、マコトは、人間なのである。低能で愚昧で、救いようがない不具者であるところの、人間。この世界に存在する真実、究極の愛を追い求めたところで、到達出来るはずがないのだ。だとすれば真実の追求という行為にはなんの意味もない。マコトは、そのことを、知り過ぎているほどに、知り抜いている。そう、マコトがどう足掻いたところで……アンナ・ウエイトは、レイフェル・ウィトレットの妻になってしまった。この世界、どうしようもなく出来損ないのこの世界において、アンナは、絶対に、マコトのことを、一番に愛してはくれないのだ。

 だから。

 マコトは。

 刹那的な。

 快楽にしか。

 興味がない。

 そういうわけで、マコトは間違っている。愛と真実との名にかけて間違っている。だからこそ真昼は……マコトの、その間違いを、否定しなければいけない。否定出来なければいけないのだ。だが、真昼には、それが出来なかった。

 マコトの言うことは間違っている、絶対に、マコトの言っていることが、正しいことであるはずがない。正しいことであってはいけない。それは真昼にも分かっていた。真昼の中に、まだ辛うじて残っている「正しさ」、一枚の孔雀の羽がそう叫んでいたからだ。けれども、具体的に、どこがどう間違っているのかということ、それがどうしても分からない。

 マコトという生き物は、それほどまでに邪悪なのだ。勘違いしてはいけない。デニーなど、マコトと比べれば、邪悪さの欠片もない。何万人の命を、あるいは何億人の命を奪おうとも。地震や大風といった現象が邪悪であるはずがあろうか? それはただ単に脅威であるだけだ、邪悪とは違う。邪悪というものの本質は、そういった暴力にあるわけではない。

 邪悪というのは、精神的な非服従性なのである。何事か、絶対的に神聖なもの。あるいは、自分の中に存在している、合理的な基準。どちらでも構わないが、そういったものに服従しない、無視するにせよ反逆するにせよ、そういった重要なルールを、奇妙に捻じ曲がった方法で背理する。それが邪悪なのだ。

 そのような意味で、マコトは、何よりも邪悪だった。以前も触れた通り、フライシューツ・マルクスやグッドマンやといった奇形の精神の持ち主たちと同じように邪悪だ。しかも、マコトの場合、その背理の仕方が、恐ろしいほどに巧妙なのである。凡庸百般の邪悪は、ルールを捻じ曲げているうちに、ある一定の矛盾の中に落ち込むものである。そうなると、邪悪ではない人々、善良な人々は、その誰かが邪悪であると分かる。邪悪であると分かれば対処の仕方も理解出来る。

 しかし、マコトは。決して、そういった矛盾について、気が付かせない。マコトだって矛盾しないというわけではない、むしろ矛盾の塊のような人間だ。だが、そもそも、マコトは、何一つ基準を持っていないのである。何一つ基準を持っていなければその基準から乖離することもない。そうであるのならば、どうして矛盾に気が付けようか? そう、マコトの中では、むしろ矛盾こそがあらゆる精神的な運動の基本なのである。

 だから、もしもマコトの矛盾を指摘しようとすると。マコトの全て、その前提から否定しなければいけなくなる。マコトの話すことが、それほどの量ではなかったら……それは簡単なことであろう。だが、マコトは、恐ろしいほどに大量の言葉を発する。自分が空虚であることを物量で誤魔化すのだ。それを一つ一つ指摘していくのは、ほとんど拷問に近いほどの難行であるし……それに、そもそも、どこを糸口とすればいいのかも分からない。マコトの話すことは、ぐちゃぐちゃに絡まり合っていて、否定するどころか、理解することも困難であるからだ。

 マコトの言葉を聞くものは。

 頭蓋骨の中に、手を突っ込まれて。

 脳髄を掻き混ぜられているような。

 そんな感覚を感じる。

 真昼は、真昼は……ぐちゃぐちゃになってしまっていた。混乱してしまい、まともな思考さえ出来なくなっていた。まるで、アルコール濃度の高い酒を、頭の中に直接注ぎ込まれて。細胞の一つ一つが酩酊してしまったみたいだ。

 それでも、真昼は、マコトを否定しなければいけなかった。そうしなければ、あらゆるものが意味を失ってしまうからだ。孔雀の羽さえも光を失って。真昼は、無重力の、ふわふわとした、真っ暗な、虚無の中に、落ち込んでいくこととなるだろう。

 だから。

 真昼は。

 必死の思いで。

 言葉を紡ぐ。

「私は……」

「はい?」

「私は、あなたの何が間違っているのか分かりません。けれども、あなたは、何かが間違っている。絶対に、何かが、間違っています。間違っていなければいけない、あなたが正しいなんていうことが、あってはいけない。」

 真昼のその言葉に対して。マコトは、困ったように肩を竦めると「はあ、そうですか」とだけ言葉を返した。確かに、具体的にどう間違っているかを指摘されることなく間違っていると言われても、言われた方はどうしていいか分からないだろう。その後で、気を取り直したように、へらへらと笑いながら。「まあ、たまには間違えるのも悪くないでしょう、常に正しいというもの窮屈なものですからね」と付け加えた。

 真昼は。

 マコトの。

 そんな反応に。

 苛立ちながら。

 更に、続ける。

「あなたは……ジャーナリストは世界を変えられないと言いました。確かに、あなたの言うようなやり方では、世界を変えられないかもしれません。直接的に、たった一度の記事で変えることは出来ないかもしれません。でも、それでも……私は思います。直接的にではなく、間接的になら、変えることが出来るんじゃないかと。何度も何度も記事を書いて、人々の価値観を、いや、あなたの言うところの観念の世界を変えることで。世界を、徐々に、良い方向に変えていくことは出来ると思います。そうです、革命なんて起こす必要はないんです。人々の認識を変えていく、それによって、次の世代、あるいは次の次の世代が、より良くなっていく。ジャーナリストは、そうやって世界を変えていけるんです。」

 戦うことをやめた時。

 邪悪に膝を屈した時。

 人は、目覚めることのない。

 虚ろな夢に沈んでいくことになる。

 だから、真昼は、マコトに向けた言葉の刃を鞘に納めるつもりなどなかった。真昼には分かっていた、もしもここでマコトに敗北してしまったら、自分の一番大切なものが、取り返しがつかないくらい、粉々に砕けてしまうだろうということを。

 間違いなく、この言葉と言葉との戦いが。真昼にとっての、少なくともたった今真昼として存在している真昼にとっての、最後の戦いになるであろう。もしもこの戦いに勝利すれば、真昼は、今の真昼よりも、より強くより美しい何かになれるはずだった。けれども、一方で、敗北してしまえば。真昼は、もう、真昼としての「何か」を保つことが出来なくなるだろう。真昼は……何か別のもの、もっと悍ましく、信じられないほど歪んだもの。あの黒い鏡に映し出された虚像そのものになるだろう。

 どちらにせよ。

 真昼にとって。

 この戦いが。

 今の全てだ。

 一方で、マコトにとっては、この言葉と言葉とのやり取りは、ただのゲームに過ぎなかった。マコトにとって、この世界に真剣になるべきものなど一つもないのだ。あらゆることは相対的な現象に過ぎない。勝っても負けても別に構わない、どんなことだって――そう、例え自分の生死だって――大したことではないのだ。なぜなら、マコトは、既に、絶対に勝利しなければいけない戦いで敗北していたからだ。

 人間にとって最も大切な瞬間は、人生で一度しか訪れない。そして、その瞬間を逃してしまったら、その瞬間に敗北してしまったら。もう、その人生には、なんの意味もないのだ。あとは死ぬまでの時間潰しに過ぎない。全てのものは重力を失って、自分も、他人も、なんの重さも持たない。現実感を失った現実の中でへらへらと笑いながら生きることしか出来ない。

 マコトにとって。

 この世界は。

 もう。

 既に。

 生きるべき、だった、人生の。

 出来損ないの虚像に過ぎない。

 だから。

 マコトは。

 こう答える。

「んー、まあ、そういうこともないわけじゃないでしょうね。ジャーナリストの書いた記事によって、世界の持つ思想というものが、少しずつ少しずつ変えられていくということはないわけではないでしょう。でもね、砂流原さん。そうやって変えられていく、その変化の方向が、どうして「正しさ」の方向であると信じることが出来るんですか?

「これは先ほども申し上げたことなんですけど、ジャーナリストは、本気で世界を変えようなんて思っていないんです。自分がやりたくないことをやってまで世界を変えたいとは思っていない、自分の頭蓋骨の中でからんからんと音を立てて転がっている内的原理を危険に晒してまで世界を変えたいとは思っていない。いや、ちょっと違うかもしれませんね。なんて言えばいいのかな……そう、ジャーナリストは、世界を「正しさ」の方向に変えていくことになど、全く興味がないんです。ジャーナリストがしたいのは、世界を、なんとなく自分がこうなればいいと思っている方向に変えていくということ。それだけなんです。しかも、それさえも、本気で思っているわけではない。

「そもそもですね、ちょっと考えてみて下さい。ジャーナリストと呼ばれている種類の生き物が、どの程度の知的レベルの持ち主なのかということを。まあ、私もそういう種類の生き物、「ジャーナリスト」と呼ばれる生き物のうちの一匹なので、あまり偉そうな口を叩くのもどうかと思うんですけれどね。そうはいっても、ジャーナリストがろくな知性を有していないということは間違いのないことです。

「そもそもですよ、経済学や社会学や、政治学だの文化学だのといった、社会的言語に関するあらゆる学問を総合的に研究して。幾つもの大学院に通って、様々な先生に教えを請い、そうして最終的に総合的な知性を……つまり、一つの思想を手に入れてから、それじゃあジャーナリストになろうかなんていうことを思う人間がいると思いますか? いや、えーと、実はそういう人を一人だけ知ってるんですけどね。ただ、その人は非常に稀有な例外です。普通のジャーナリストは、ごくごく一般的な高等教育を終えて、そして、そこからジャーナリストになります。

「というか、極端な場合、高等教育さえ終えていないことだってありますよ。そういったジャーナリストは、自分がまともに勉強していない人間だということを、こういう風にいい繕います。この世界には、本に書かれていないこと、学校では学べないことなんて幾らでもある。むしろそういうことの方が多いくらいだ。だから、自分は、教室のような狭い場所にいつまでも閉じ籠もっているのではなく、取材を通じて実際の世界を学ぶんだ。

「あはは、いやー、困りましたね。ここまで間違ったことを、ここまで堂々といわれると、一体全体どこをどう訂正すればいいやら分からなくなってしまいます。いいですか? こういう方々がいう「本に書かれた知識」と「実際の世界の知識」と、というのは、全然、全く、別のものなんです。なぜなら「実際の世界の知識」というものは「本に書かれている知識」と違って思想によって咀嚼も消化もされていないからです。生のままの「知識」、いや、それは「情報」といった方が正しいような代物なんです。

「つまり、それには、なんらの価値判断も含まれていない。思考の方法が含まれていないということなんです。料理で例えれば食材なんです。あのですね、食材だけが幾らあっても、素晴らしい料理なんて作れないでしょう? それはですよ、これとこれとを組み合わせればこんな感じの料理が作れるかもしれないとか、取り敢えずこれを焼いてみたらおいしかったとか、そういうレベルのものは作れるかもしれませんがね。それは、とてもではないが料理とはいえない、思想とはいえないんです。

「まずは、そういった「情報」を咀嚼・消化するための思想というものが自分の中になければいけないんです。そして、それを身に着けるには「本に書かれた知識」から吸収するのが一番の早道なんです。もちろん、本を読まなくてもある程度の思想を形作ることは可能ですよ? 一定の状況下で誰々がどのように動くのかというのも、立派な思想の断片であると、そういえないこともありませんからね。けれども、そのやり方はあまりにも非効率的です。一つ一つの状況を間違いなく理解していく。しかも、その上で、それをきちんと組み合わせていく。そうしてようやく正しい思想が作り出される。一体、この過程にどれくらいの年月が掛かると思いますか? それこそ一生物の作業です。というか、たかだか人間の一生で正しい思想に辿り着けるかどうかも怪しいところですね。

「ジャーナリストは、その一生の最後に一本だけの記事を書いて、そして死んでいくんですか? 違うでしょう? ジャーナリストになった瞬間から記事を書き続けるんです。報道をし続けるんです。ということは、「実際の世界の知識」を学んでいる最中、まだまだ正しい思想というものに全く辿り着けてもいない段階で、大勢の人に影響を与える記事を書くということです。ああ、よくもまあ……恐ろしくないんですかね? 自分の未熟な思想が、一体、この世界にどんな影響を与えてしまうのか。そういったことについて、ちらとも考えたことがないんだろうか。

「「本に書かれた知識」は、そのまま思想の形式です。なぜなら、それは言葉によって紡がれているからです。言葉というものは、この世界という混沌を秩序によって把握していくために作り出されたところの知性の構造なんです。つまり、「本に書かれた知識」とは、人間が事実というものをどう捉えるのかという集積、料理のためのレシピオーなんです。

「いうまでもなく、そのレシピオーが絶対に正しいとはいいませんよ。というか、むしろ、間違っているところの方が多いでしょう。そのレシピオーよりも、ずっとずっと素晴らしい料理を作ることも十分に可能です。けれど、けれどですよ。そういった料理を無から作るよりも、幾つかのレシピオーを相互に参照して、それぞれの良いところを合成して作る方が、よほど簡単なんです。砂流原さんはなんのレシピオーもなくカリーを作れますか? なんの事前知識もなく正しいマサラの調合法に到達出来ますか? そんなこと、ほとんど不可能でしょう。創作料理というものはね、ベースとなる知識がなければ作ることなんて出来ないんです。

「そういうわけで、不勉強なジャーナリスト達が使う、取材を通じて実際の世界を学ぶなんていう主張は、ただの詭弁に過ぎないということです。本来ならば、ほんの僅かでも「正しさ」を含む思想を手に入れたいと思ったら、血の滲むような努力が必要なんです。ありとあらゆる本を読み尽くし、その上で、この世界に起こる様々な出来事に実際に参加する。レシピオーを頭の中に叩き込んだ上で様々な食材を集める。その両方が揃って初めてそこそこの料理を作ることが出来るようになる。

「それにも拘わらず、私の見る限りでは、ジャーナリストと名乗る方々は――あはは、まあ、私も含めてということですが――ろくに学ぼうとしていません。「本に書かれている知識」を手に入れようとしないだけではなく、「実際の世界の知識」からも学ぼうとしているようには思えない。そういう、いわゆるジャーナリストと名乗る方々が、深い思索に沈んでいるところなど見たことがありますか? 少なくとも私はありませんね。それは、記事を書く時に、少しばかり考えをまとめたりはするでしょうが、その程度です。ジャーナリストを名乗る方々はこう考えているんですよ。いちいち思想としてまとめる努力などしなくても、幾つも幾つも現場をこなしていくうちに、その経験は、自然と思想の形に収束していく。けれどね、そんなのは甘えに過ぎません。幾つも幾つも修羅場をくぐり抜けてきた独裁者が、自動的に、「正しさ」としての思想を持った善良な為政者になりますか? ならないでしょう? そういうことです。

「ああ、そうそう、もう一つ、ジャーナリストが使う詭弁がありましたね。それは「価値中立性」という詭弁です。自分達が書く記事は、あらゆる偏見を排して事実だけを報道するものだ。なるほど、もしもこれが事実だとするのならば、自分達の頭の中に予め思想というものを作り上げておく必要はないでしょう。むしろ、そういった思想が、純粋な事実だけを抽出するための妨げになるかもしれない。

「しかしですね、ちょっと考えてみて頂ければ分かると思うんですが、「価値中立性」を保つなんていうことはそのジャーナリストが全知全能でもない限り出来るわけがないんです。いいですか? その記事の中にこの世界の全ての真実が余すところなく書き尽くされているというのならば、それは価値的に中立な記事だということが出来るでしょう。けれど、もしもそうではないのならば。ありとあらゆる真実の中から、幾つかの事実を抜き出して記事としているのならば。その記事が、どんなに無機質で、現実をそのまま書き写しているようであっても、それは価値的に中立ではないんです。なぜか? それは事実の取捨選択において記事を書く者の価値観が反映されてしまうから。

「以前にも一度申し上げましたよね? デモ隊に対する市民の反応を取材するにあたって記者が使っている手法のことを。デモ隊の周辺にいる人々にだけインタビューをすることで、まるでその集団に所属しているほとんどの市民がデモに賛成していると見せかける。これだって、ある意味では、現実をそのまま書き写しているといえなくもありません。だって、こういう記事の中では、市民に対して行われたインタビューがそのまま載せられているんですからね。別に記者が手を入れているというわけではありません、しかも、ほとんどの場合、そのインタビューに対する記者の個人的な意見さえも書かれていません。けれども、こういった記事が、果たして「価値中立性」を保っているといえるか? いいえ、いえません。全くいえません。むしろ偏向報道といってもいいくらいです……あはは、自分もそういう手法を使っておいてなんですがね。

「つまり、私達が人間という愚劣で愚昧な生き物である限り、「価値中立性」を担保したジャーナリズムなどというものは幻想でしかないんですよ。しかも、それはあまりにも有害な幻想です。なぜなら、自分は中立的な立場に立っていると思い込んだまま、無意識のうちに、当事者のうちの片方の同調者・共鳴者になってしまいかねないからです。そして、無意識のうちに、もう片方の当事者の意見を圧殺してしまいかねない。ですから、そんな風な兎の戯言魚の寝言をいっているくらいならば。自分の中に、「正しさ」の思想をきちんと構築すべきなんです。そして、その「正しさ」の思想という観点からしっかりとした価値観の記事を書くべきなんです。えーと、まあ、その人が「正しさ」を持つ報道をしたいならばっていう話ですけれどね。

「いいですか、砂流原さん。ジャーナリストは、ジャーナリストになった時も馬鹿であったし、ジャーナリストである時も馬鹿であり続けるし、そして、ジャーナリストとしての生を終える時も、やっぱり馬鹿なままなんです。なぜなら、彼ら/彼女には、他人から学ぼうという謙虚さがないから。まともに勉強しようとする気力がないから。とにかく、自分自身が目立てればいい、自分自身の意見を世界中が聞けばそれでいい。あまりにも傲慢で、あまりにも怠惰で。報道をただの自己陶酔の方法としてしか考えていない。それがジャーナリストという生き物なんです。

「さて、それを前提にして考えていきましょう。ジャーナリストが果たして「正しさ」の方向に世界を変えていけるだろうかということを。あはは、そんなこと出来るわけないですよね。馬鹿は「正しさ」というものを理解出来ないからこそ馬鹿なんです。というか、そもそも、ジャーナリストには「正しさ」を模索するための思想がない。「正しさ」に対して真摯に向き合おうとする謙虚さもなければ「正しさ」を追い求めていこうという気力もない。いや、まあ、一人だけ……たった一人だけ、そういう人を知っていなくもないですがね。取材と取材との合間に、睡眠・食事に使う時間をほとんどゼロに近付けてまで、本を読んだり、思索をしたりして。この世界に存在するあらゆる思想を取り込んで、それを自分の中で、新しい思想として結晶させる。そして、その思想を内燃機関として、「正しさ」に向かってひた走る。そういう人がいないわけではないです。ただですね、その人は本当に例外中の例外です。大抵のジャーナリストは自己陶酔にまみれた馬鹿です。

「そんな人々に「正しさ」に満ち溢れた報道が出来ると思いますか? 世界中の生命体が「正しさ」へと向かっていくことを助けられるような、そんな論理を思い付くことが出来ると? 絶対に、そんなことは、不可能です。いいですか、砂流原さん。そういう人々の頭蓋骨の中には、つまり、思想を持たない人々の頭蓋骨の中には、知性というものが存在していないんです。「正しさ」へと向かおうとするエネルギー、絶対的な真聖さへと辿り着こうとする姿勢。そういったものが完全に欠けている。

「というか、むしろそういったものを軽蔑しさえしているんです。それはなぜか? それは、自分が誰よりも頭がいいと思っているから。自分自身が、「正しさ」、絶対的な真聖さ、そういうものだと考えているから。だから、神話から伝説へと、伝説から歴史へと、そういった中で生きてきた、無数の人々が築いてきたもの。良識、常識、規範、呼び方はなんでもいいですが、そういったものなど必要ないと思っているんです。そして、その結果として、自動的に、そういったものを持つ人々が歩んできた道のり、つまり知性というものについても必要ないと考えている。

「しかしですね、よく考えてみて下さい。私達は、所詮は人間なんですよ。デウス種のようなゼティウス形而上体ではないし、ヴェケボサンだとかユニコーンだとかいった高等知的生命体でさえないんです。そんな下等な生き物が「正しさ」であると思いますか? 絶対的な真聖さであると? そんなことがあり得ないということくらい、四つ足で飛び跳ねる兎にさえ分かることです。

「自分が正しいなんていうことは夢の中ででも思ってはいけない。なぜなら、もしも、そう思ってしまえば。それ以上、一ディギトも「正しさ」の方向へと進むことは出来なくなってしまうからです。もう何も新しいことを学ぶことは出来なくなる。いえいえ、違います。勘違いしないで下さいね。そういった人にも「学ぶこと」自体は出来ます。でも、そういった人が「学ぶこと」は、自分自身の内的原理に背理しない範囲のことです。自分の傲慢さが、自分の怠惰さが、傷付かない範囲でのことしか学ぶことが出来ない。もっと簡単にいうと、自分のことを正しいといってくれることしか学ぶことが出来ないわけです。

「と、なればですよ。そういった人々が考える「正しさ」というものが、一体どういうものか。なんとなく想像がつきますよね。何一つ真剣に物事を考えたことのない生き物が、それでも自分は頭がいいと思うために、その口から吐き出す言葉の体系。一言で、はっきりと、それを表すならば、要するに「世論」です。低俗で平板な俗流主義、誰もが常識だといっているから常識として通用している、極限まで薄っぺらいイデオロギー。そういった常識は、もちろん常識ではありません。常なるものでもなければ識なるものでもないんです。都合のいい時に都合のいい方向に流動する、ぼんやりとして曖昧な気分の表出。そう、それは流動する気分でしかない。

「流動する気分というものは自分自身を批判的に顧みることが出来ません。なぜなら、そのためのしっかりとした視点というものを持っていないからです。だから、その時々で、どこまでもどこまでも自分に都合のいいように変貌していく。例えばそういった人々は、自分が有利な時は、自分は何ものにも頼ることのない自立した人間であると豪語します。けれど、少しでも自分に不利な状況になってくると、すぐに権威に頼るんです。権力を笠に着たり、法律を持ち出したり。自分のことを強く気高く美しいと思っているにも拘わらず、自分自身が傷付けられるということさえも耐えられない。弱々しく権威に縋り付いて助けて貰う。

「よくもまあそこまで浅はかで、恥ずかしくはないのだろうかと思われますか? 砂流原さん、砂流原さん、それはあまりにも世間知らずな考えですよ。そういう方々はね、恥ずかしくないんです。というか、そもそも恥ずかしいという感情を持っていない。恥ずかしいという感情はですね、基本的に、自分の行動が、外の世界を支配する原理と比べて、より劣ったものである時に感じるものです。けれども、そういった方々は自分が劣っているとは考えない。あまりにも自分勝手なんです、自分勝手という性質をほとんど信仰の領域にまで高めている。だから、もしも、自分の行動と外の世界を支配する原理とが異なっていた場合、自分の行動が絶対的に正しいと思い込むことが出来る。

「自分のことを全知全能だと思っている生命体がいたとして、その生命体が恥ずかしがると思いますか? つまりそういうことなんですよ。自分の都合がいいようにあらゆることを捻じ曲げてしまう。あるいは……そうですね、こういう考え方も出来るかもしれません。反省をするためには、まずは自分の内的原理が間違っていたと認める必要がありますね。それを認めるためには誰かから指摘されなければいけない。ということは、自分の内側に、他人の思想が入ってくることを許容しなければいけないんです。けれども、そういった人々、自分を全知全能だと思っている方々は、それに耐えることが出来ない。

「あらゆる憎悪の感情・あらゆる嫌悪の感情は浸食に起因します。自分のfriendであると認識していない何者か、つまり他者が、自分の内側に入ってくることへの拒否反応から始まります。そして、自分を全知全能だと思っている方々は、自分の内的原理を否定しかねない何者かを全て他者だと認識するわけです。これはもう、ほとんど、動物が縄張りを守ろうとする本能的な反応に近いですね。全ての論理をかなぐり捨てた下等生物の反応です。本来ならば、そういった、こちら側を否定する外的原理に関して、一度は受け入れてみて、それを自分の内的原理と比較考量し、そして正しい部分だけを残し、他の部分は排除する。それが知性あるものの反応であるはずです。けれども、自分を全知全能であると思っている方々はそれをしない。

「なぜか? いや、まあ、当たり前といったら当たり前のことですよね。そういった方々は、自分自身の主観的な現実においては、全知全能なのですから。自分に間違っている部分があるわけがなく、他者に正しい部分があるはずがない。ということで、その内的原理に対する全ての否定は、そのまま、正当性を全く持たない浸食となるわけです。だから、そういった否定のことを、憎悪して、嫌悪する。結果として、そういった方々は、自分自身について、批判的に顧みる視点を持たないということになる。

「と、まあ。

「こういった理由で。

「ジャーナリストは。

「「正しさ」には。

「辿り着けないというわけです。

「あらゆる出来事に対して、自分の意見、しかもほとんど虚無でしかなく、自分が所属する内的原理を共有しているみんながこういっているからたぶん正しいんだろうといった程度の憶測を押し付ける。それが正しいかどうかということをしっかりと確かめもせず、確かめたとしても、その内的原理の範囲内でしか確かめない。外部にある他の原理から、もしかしたら正しいかもしれない意見が現れたとしても、それを生理的な反応として過剰なまでに排除するか、あるいは完全に黙殺する。ジャーナリストはそういう生き物なんです。だから、私は断言するんです。そういう生き物が世界を「正しさ」の方向へと導いていけるわけがないと。

「さて、ここまでで、ジャーナリストという生き物に関する総論的な部分を説明し終えましたね。恐らくは、ジャーナリストが自己陶酔に浸り切ったどうしようもない馬鹿だということについて、十分に納得頂けたとは思いますが……念のために、各論についても考えておくべきかもしれませんね。

「各論というのは、ジャーナリストの種類についてということです。というか、人間至上主義諸国に存在しているジャーナリストについて考えていくことで、理想的なジャーナリズムの方法、本質的に「正しさ」を内包することが出来るジャーナリズムとはどういうものかを考えていこうということです。

「これだけジャーナリストについて好き勝手言っておいて、それならどういうジャーナリズムであれば「正しさ」の方向に世界を導いていけるのかと聞かれたら、何も答えることが出来ないというのでは、ちょっとお粗末に過ぎますからね。さて、それでは……現在、人間至上主義諸国に存在しているジャーナリズムには二つの種類があると思います。まあ、私の個人的な意見でしかありませんがね。まず一つめが商業的なジャーナリズムで、もう一つが無償のジャーナリズムです。

「これに関しては、もしかして反論があるかもしれません。書いた記事・作った番組の対価として金銭を受け取っていながらも、それは本人の生活のためでしかなく、目的自体は金銭ではなくジャーナリズムによる啓蒙であるというパターンも、ないわけではないではないかという反論ですね。あはは、馬鹿いっちゃいけませんよ。よくもまあそこまで甘えたことを! 「正しさ」というものは、そんなに安っぽいものではありません。命も懸けられずに何が「正しさ」ですか。もしも、本当に、自分が正しいことをしていると思っているのならば。罪のない誰かを殺して財布を奪って、その金で生活してでも無償の記事を出すべきです。いや、出さなければいけません。商業的なジャーナリズムについて考えていく時に、また詳しく論理を組み立てていこうと思いますがね、それほどまでに、金というものは、危険なものなんです。片方の手に「正しさ」を、片方の手に金を、そんなことは出来ません。金に手を触れた瞬間、その肉体の全てが汚れる。それくらいの考えがなければ「正しさ」なんていうものを得られるわけがない。

「ということで、それでは……商業的なジャーナリズムについて考えていきましょう。金、金、金! そう、あらゆる「正しさ」を汚染するこの金銭という記号について考えていきましょう。全く、エコン族の神々はうまくやったものですよ。あの方々をナシマホウ界から追放出来なかったのは、第二次神人間大戦後の交渉における人間至上主義陣営の最大の敗北ですね。そもそも、あの方々は「信仰」の神々ですからね。そんな厄介な神々を残してしまえば、一体どんな厄介なことが起こるか。人間至上主義者達は想像出来なかったのでしょうか。まあ、それはともかくとして……ジャーナリズムが金銭を獲得するには二つの方法があります。まず一つ目が、広告料として金を貰う方法。もう一つが、購読料・視聴料として金を貰う方法。

「このうちの広告料を貰う方法については、もはや何かを考える必要さえ感じませんね。要するに、これは、金を出してくれるパトロンの御用ジャーナリズムになるということですから。何をどう言い訳しても、それが事実であるということは変わりません。広告料を出してくれている誰かが広告料を出してくれなくなったら、そのジャーナリズムは消滅してしまうんですよ? そうであるにも拘わらず、どうやってその支配から逃れるっていうんですか? いいでしょう、広告料を出す際に、必ず長期の契約にすることにします。途中解約は許されず、何があっても、数十年単位で金を出し続けて貰うことにする。そして、幾ら多額の広告料を出して貰っていても、ジャーナリズムの内容には一切口出しをさせないようにする。そこまでしても、やっぱりパトロンの支配から逃れることは出来ないでしょう。

「だってそうでしょう? どんなに金を出し続けることを誓わせたって、そのパトロンが無一文になってしまったら、もう金を出して貰うことは出来ないんですから。ということは、そのパトロンが破滅してしまいかねない報道は絶対に出来ないことになる。簡単で単純な例を挙げてみましょう。あるジャーナリズムが、ある会社と、広告料を出して貰う代わりに広告を出すという契約を結びます。そして、その契約を結んだ当時、その会社はとてもとても善良な経営を行っていたとします。

「けれども、次第に次第に経営が悪化していった。これは何もその会社のせいである必要はありません。別に、一つも悪いことをしなくても。新商品の開発に失敗しなくても、販売した商品に欠陥がなくても、経営方針を間違わなくても。企業成績というものは常に悪化する可能性を孕んでいるものです。例えば大規模な金融工学の実験が失敗し世界中を巻き込む大不況が起こってしまったら? その結果として、全面的なデフレーションが起こり、金銭価値が上がって商品価値が下がってしまったら? その会社が作っていた物は、その会社の責任であるところの原因など何一つなく、全く売れなくなってしまうでしょう。

「そのような状況になれば、もう会社としては綺麗事などいってられませんからね。善良な経営なんていう贅沢なことをしていれば倒産してしまいかねない。ということで、その会社は、善良ではない経営に手を染めることになるでしょう。具体的には一体どういったことをしていくと考えられるでしょうか。ふむ、入ってくる金がないというならば……出ていく金を抑えなければいけませんね。ということで、出来る限りの経費削減を行うはずです。

「まず投資は完全にカットする。投資というものは生産性向上のために行うものです。デフレーションの時に生産性を向上しようとする白痴はいませんからね、ということで、投資に使う金を節約する。こんなことをすれば、大不況が悪化して、ますます大大大不況になってしまいますが、一企業としては他人のことなど構っていられません。また、商品の生産量も、普段よりもかなり低い水準に保つでしょう。売れないものを作っても仕方ありません。在庫が溜まれば保管費用が掛かるし、何よりも不良在庫化しかねない。ということで、物を作らなくなります。

「と、まあ、ここまでは良いでしょう。確かに善良な経営ではありませんが、悪質な経営とまではいえません。問題は、ここからです。投資のための費用、生産のための費用、これ以外に削減することが出来る費用とは一体何でしょうか? 株主に払う配当金は絶対に削れませんよね、ただでさえ金融が不安定な時期にそんなことをすれば、一気に株価が暴落し、経営破綻をしてしまいかねません。となると……そう、人件費です。これほど削りやすい経費もありませんよね、そもそも生産率を落としているんですから、そんなにたくさんの従業員がいても意味がありません。ということで、従業員数の削減をしていくことにします。

「とはいえ、この段階では、それほど派手な動きをするわけではありません。せいぜいが早期退職者を募集したりだとか、あるいはベースアップの凍結を行ったりだとか、それくらいのことでしょう。最近は、どんな国家にも労働法がありますし、どんな業界にも労働組合があります。まあ、会社ごとの労働組合ならどうにか出来るかもしれませんが……会社の外部からの圧力には、会社としてもさすがに逆らうことは出来ませんからね。そんなに簡単に従業員の切り捨てを行うことは出来ません。そう、それが、正規の従業員であるならば。

「問題になってくるのはここからです。この大不況の経験から、その会社は学びます。正規の従業員というのは、会社が危機的状況に陥った時に、とてもとても厄介な存在であると。すると、どうなるか? 正規社員として採用する人数を出来る限り減らしていくことになるんです。そして、その代わりに――その会社が所属している国家の法体系がどうなっているかによって変わってくるのですが――あるいは非正規雇用を増やしたり、あるいは業務をまるまる外部に委託したりする。

「こうすれば、何かがあって人件費を削りたくなった時に、無理なくそれを実行することが出来ます。なぜなら、労働法では非正規雇用者を守ることが出来ないし、それに、業務委託の場合は、そもそも企業と企業との契約であるため、労働組合には手の出しようのない話だからです。会社は、外的な影響を一切被ることなく、自由に人件費を削減することが出来る。

「結果として雇用は限りなく流動化していきます。雇用が流動化してしまえば労働者は安定した生活を送れなくなり、人生に関する設計が出来なくなる。そうなれば、長期的な視点が必要となる高額な消費、住宅や車両やといった一括購入が不可能な物品の購入を控えるようになる。また、それだけではありません。結婚や出産やといった、今後、大量の出費が予測されるような行為も控えるようになるでしょう。消費はどんどんと落ち込んでいく、こうして世界は不況から抜け出せなくなるというわけです。

「さて、こういった状況からなんとか抜け出すために、本来、ジャーナリズムが報道すべき事柄とは何か? もちろん、いうまでもありませんよね? 不安定化する社会の傾向を訂正する、つまり、企業が行う非正規雇用だとか外部委託だとかという行為を糾弾し、それをやめさせることです。政治権力に規制を呼びかけるでもいいですし、一般市民に、そういった企業の製品に対する不買運動を呼びかけるのでもいいでしょう。

「けれども、もしも、それをしてしまえばどうなるか? ジャーナリズムが広告費を出して貰っている会社、その会社がなくなってしまえば収益源がなくなってしまい、結果としてジャーナリズムまで立ち行かなくなってしまいかねない、その会社はどうなるか? その会社は、今、完全に、非正規雇用と業務委託とに頼っています。もしも非正規雇用を全て正規雇用にすれば、人件費に関するリスクは信じられないほど跳ね上がるでしょう。また、業務委託を禁止してしまえば、そもそも業務を行う技術自体がその会社に存在していないということさえあり得ます。

「となれば、その会社は大々的な損失を被ることになりかねません。とてもではありませんが、広告費など出している余裕はなくなるでしょう。それどころか……もしかして倒産してしまうかもしれない。ああ、いえ、勘違いしないで下さいね。私は、その会社が倒産してしまうこと自体に問題があるというわけではありませんよ。そういった会社が一つや二つ倒産したところで、すぐに、そこに空いた穴は、他の会社が埋めることでしょう。しかも、そうして穴を埋めることで、その他の会社はより多くの利益を得ることが出来るようになる。そして、潰れずに済むこととなる。経済環境が大きく変化する時には、少しくらいの倒産はあって当たり前なんです。そんなことは、なんの問題でもない。数千社潰れたところで世界にはなんの悪影響もありません。

「ただ、とはいっても。その潰れた会社が、広告費を出している会社だったら。広告費を出して貰っているジャーナリズムはどうなるか。端的にいえば、跡形もなく消滅します。あはは、別に、私は大袈裟なことをいっているわけではありませんよ。本当に、何も残さずに消え去ってしまうんです。だって、そうでしょう? ジャーナリズムはジャーナリズムそれ自体に意味があるわけではありません。世界で何が起こっているか、それを報道することに意味があるんです。金がなくなれば報道が出来なくなる、報道が出来なくなれば、ジャーナリズムにそれ以上の何が残るっていうんですか? まあ、図書館に新聞記事のアーカイヴくらいは残るかもしれませんがね。今の時代、そんな物を読む人間はいませんよ。そして、読まれない新聞には意味がありません。

「もちろん、そんな可能性はさして高いものではありません。けれども、ゼロではない。ジャーナリズムにとって、そういった種類の報道をして、会社が潰れるか潰れないかは、ほとんど賭けみたいなものです。リボルバー式の拳銃を片方の手に持って、回転弾倉に一つの弾丸を込める。その回転弾倉を無造作に回転させて、どこに弾丸が入ってるか分からなくなったタイミングで、シリンダー・ケースに戻す。そして、こめかみに当てて、引き金を引く。それと似たような行為だということです。

「ジャーナリズムが、というかそれに関わる「人間」が、そんなことをすると思いますか? あはは、ご冗談を! しませんよ、絶対にしません。それはですね、何も、そうしたら自分達がジャーナリズムとしてやっていけなくなるからという、ただそれだけの理由でそうしないというわけではないんです。理由、理由、理由……ああ、そうそう。砂流原さんは、理由というものが、一体どのような性質を持つものなのかということをご存じですか?

「理由というものはね、人間が考えているようなものではありませんよ。誰々がそれをする理由、誰々がそれをしない理由、そんなものは、全て言い訳なんですよ。それ以外の何ものでもありません。いや、そりゃあ、誰々が死んでしまったから、誰々はもうその行為をすることが出来ないとか、そういうレベルの話になると別ですけどね。でも、それ以外のこと、例えば風邪を引いたから仕事を休まなければいけないとか、法律で禁止されているから人を殺してはいけないとか、そんなのはね、全て、後付けの言い訳に過ぎないんです。

「行けばいいじゃないですか、仕事に。風邪を引いていたところでなんの問題がありますか? 殺せばいいんです、殺したいのならば。あなたが人を殺さないことと人を殺すと死刑になってしまうこととの間にはなんの因果関係もありません。そういった理由付けはですね、全て、既に決まっている行動に対する、いかにも合理的に見えるところの、欺瞞に過ぎないんです。結局のところ、人間の中では、全ての行為は、アナンカイオンとして決まっているのです。えーと、この単語は運命とか必然とかそういう意味を表すパンピュリア語なんですけど、とにかく、人間にとって避けることの出来ないことという意味です。

「人間の行動はですね、人間自身が理性的に合理的に決定することが出来ないんです。その全ては……いや、全てというのは間違ってますね、妖理的物理的にどうしても出来ないことというのはありますから。しかし、そういうのを除けば、その全ては。無意識に存在している基底本能に起因しているんです。この基底本能というのは、知的生命体の中でも関係知性を有している種に特有の精神構造なんですがね。まあ、簡単にいうと、それぞれの個体が固有に有しているはずの本能が、社会的な意識によって不自然な形に、溶解し、歪曲し、そして混ざり合って。結果的に、個体ごとの本能ではなく、社会の基底に存在している、一つの巨大な本能になってしまったものです。要するに人間は「関係の絶対性」によって支配されているんですよ。

「とにかく、人間の行動は何一つとして理性によっては決定されません。理性的な理由付けが開始されるのは決定の後のことです。けれども、人間という生き物は、そうして行われた理性的な理由付けを本当の原因であると勘違いする。自分が会社に行かないのは風邪を引いたからだと勘違いするし、自分が人を殺さないのは法律で禁止されているからだと勘違いする。

「これが一体どういう弊害をもたらすのか。砂流原さん、お分かりになりますか? 世界に、これ以上ないというほどの偽善が横行するということですよ。本当は、もっと卑近な理由・もっと卑小な理由・もっと卑劣な理由によって決定された行動なのに。その決定が行われてから後付けされた言い訳、いかにももっともらしい「理由」によって、人間は、勘違いしてしまうんです。自分が、非常にご立派な「理由」によって、その行動をするということを選択したのだと。

「今回の例でいえば、ジャーナリズムの例でいえば。ジャーナリズムに関わる「人間」は、こういう「理由」を考え付くでしょう。例えば、雇用が流動化すれば、労働者にとってもメリットがある。なぜなら、それだけ自由な働き方が出来るからだ。雇用が安定していると、ある職業から別の職業に転職するのは限りなく困難なことになるが、雇用が流動化していれば、簡単に色々な職業を試すことが出来て、より一層自分らしい働き方が出来る。それに仕事というものを生活の中心においていない人々にとっても望ましい働き方となりうるだろう。なぜなら、働いて働いて、一定の金額が貯まったら、一時的に仕事を辞めて、趣味に打ち込む。そして、金がなくなったらまた働き始める。自分の働きたい時だけ働くということが出来るからだ。そうであるならば、労働者にもメリットがあるならば、これを一概に否定するのは良くないことである。

「あはは、確かにもっともらしい理由ではありますね。ただ、残念なことに、労働者は働きたい時には働けませんが。なぜなら、雇用が流動化している場合、不安定な経済システムは好況に向かうことはなく、不況が続く経済においては労働者は搾取されるだけ搾取された後でゴミのように捨てられる存在でしかないからです。雇用のタイミングを決定するのは企業側ですし……しかも、その上、その雇用の内容も、奴隷とさして変わるところがないものだということです。

「さて、他にはこういった「理由」もあるかもしれません。確かに労働者は不当な扱いを受けているかもしれない。けれども、不当な扱いを受けている人々は、他にも幾らでもいるではないか。例えば、スペキエース。最近は、スペキエースのための権利運動も勢いを増してきているし、随分と差別がなくなってきているが。けれども、まだまだスペキエースは差別されている。SLM……えーと、砂流原さんはご存じですよね、そうそう、Species Lives Matterです。そういった運動を報道する方が、労働者の権利擁護よりもずっとずっと大切だ。なぜなら、労働者は、不当な扱いを受けてはいるが、人間以下の存在としての差別は受けていないからである。あるいは、男女平等に関する運動。女性は男性よりも差別的な扱いを受けている。労働者よりも社会的に弱い立場にある。だから、この関係性の矯正の方が先決だ。

「なるほどなるほど、確かにそういう考え方があってもいいでしょう。けれどね、ちょっと考えて頂きたいんですけどね。労働者に対する不当な扱いと、そういった差別とは、根本的に性質が異なっているんですよ。スペキエースであろうと女性であろうと構いませんがね、それは社会制度的に構成された不当な扱いなんですか? いや、まあ、ポンティフェックス・ユニットとか月光国とか、そういう神国的な価値観が残っているところではそうかもしれませんがね。いわゆる人間至上主義諸国に、そういった差別が、社会における制度として残っていますか?

「残っていないでしょう? それどころか、社会制度的には、むしろ、そういった被差別者は優遇されているんです。いわゆるアファーマティブ・アクションですね。エスペラント・ウニートについて考えていきましょう。まずスペキエースですが、例えば……大学の入学試験で非スペキエースとスペキエースとが同じ点数を取った場合、スペキエースを優先して合格させるということが、連邦法で定められています。あるいは女性ですが、そうですね、色々ありすぎてどれを例として取ればいいのか分からないくらいなんですけど……例えば、連邦政府・州政府・準州政府の請負業者となることを望む場合、管理職の中に一定の割合の女性を含まなければいけません。その割合に関しては政府ごとに変わってきますけれどね。でも、昇進の際に、女性のことを優遇しなければいけないという事実自体は変わることではありません。

「まーまー、うちの会社は政府の下請けって感じじゃないんで、別に女性に対する優遇措置とかはないんですけどね。あはは、もしもそういうのがあったら、どうですかね、私は今頃、副編集長にでもなってるんじゃないかな……いや、別に副編集長になりたくはないですけどね。管理職になったら色々と面倒な仕事を押し付けられることになりそうですし。まあ、それはそれとして。要するに、何が言いたいのかというと、そういう被差別者は、労働者と違って、法律や規制やといった制度が差別的だから不利益をこうむっているわけではないんです。そうではなく、一般市民の社会的意識が差別的であるから不利益をこうむっている。

「これはですね、制度的な差別と違っていかんともしがたいものなんです。だって、これを是正するためには、人間の社会的な関係知性を是正していかなければいけないんですからね。例えば、政府が、絶対的な強制として、一般市民の思考を方向付け出来るなら、比較的簡単に行うことが出来るでしょう。しかし、人間至上主義諸国でそんなことが出来るはずがありません。あはは、自由と民主とが至上の価値となってるんですからね。それが人を差別する自由であっても、それが差別を行うという民主的判断でも。それほど軽々に、侵犯することが出来るものではないんです。

「そうであるならば、人間至上主義を思想的背景としている集団において、差別の構造というものは、権力による強制では修正のしようがないと考えるべきなんです。あーっと、こう言うとですね、必ず反論する人がいるんですよ。こんな風にね。スペキエース差別や女性差別など、マイノリティに対する差別は人間至上主義という思想の下で劇的に解消されてきた。自由という価値観、民主という価値観の下で、適切に権力を誘導していけば、現在行われている差別は完全に解消することが出来る。あはは、全く……信じられないほどの能天気さだと思いませんか、砂流原さん。魚の寝言でさえもう少し論理的なことを言ってますよ。

「あのですね、神国の時代、神話の時代と比べて、現在の社会制度がいくばくか差別的でなくなっているのは、自由のおかげでも民主のおかげでもないんです。もちろん人間至上主義のおかげでもない。それは、第二次神人間大戦のおかげなんです。第二次神人間大戦は文字通りの総力戦でした。神々の総力対人間の総力という構図だったんです。ということは、その人間というくくりの中で差別を行っているような余裕がなくなったということなんですよ。非スペキエースもスペキエースも、男も女も、皆が皆、「兵力」として平準化されたということなんです。そういう総動員体制の中で、スペキエースも、女性も、社会的に、集団の構成員として平等に扱うという暗黙の合意が形成された。そのおかげで、差別というものが、解消の方向に向かった。それだけの話なんです。

「ということは、これ以上の差別の解消が行われるには、二つしか方法はないということです。まず一つ目が、第二次神人間大戦レベルの出来事、人間の総動員を行わなければいけないような危機的状況を発生させるということ。まあ、私の個人的な意見ではありますが……この方法は、あまりとらない方がいい方法でしょう。すると、残るは、もう一つの方法しかないということになります。それは、それぞれの集団ごとに、漸進的に、集団構成員としての共通意識・同胞意識を形成していくということです。いやー、自分で言ってて馬鹿みたいだとは思っていますよ、そんなことは当たり前じゃないか、砂流原さんもそういいたいでしょう。けれどね、そんな当たり前のことが、実際には行われていないんです。

「勘違いして頂きたくないのですが、私が言っている共通意識・同胞意識は、「人間」としてのそれではありません。いや、そりゃあ、遠い遠い将来において、いつか来るべきその時に、そういった意識が生まれるかもしれないということまでは否定しませんけどね。でも、今は無理です。なぜなら、現在の世界において、全人類に共通の「形式」というものが存在していないからです。砂流原さん、あのですね、これはひどく勘違いされていることですが、ある人間が別の人間に対して共通意識・同胞意識を持つためには、そういった人間と人間との間に、共通する関係知性の「形式」がなければいけないんですよ。

「思いやりの心だとか尊敬の気持ちだとか、あるいは相手のことを理解しようとする姿勢だとか、そんなものがあっても、なんの意味もないんです。だって、そうでしょう? そもそも、その「思いやり」が示す意味、「尊敬」が示す意味、あるいは社会的に期待される「理解」の程度さえも、それぞれの社会が有する「形式」……要するに、慣習だとか観念だとか宗教だとか、そういったシステムが規定する集団構成員に特有の思考によって変わってきてしまうからです。そうであるならば、「人間」としての共通意識・同胞意識を形成するために、そういった「形式」の統合を図らなければいけないということになる。互いにとって理解するとはどういうことなのか、そこから理解しなければいけないということですね。

「そういったことをするためには、恐ろしいほどの時間が掛かるでしょう。例えば、エスカリアの「形式」と月光国の「形式」と、どうやって統合しますか? 片方はスペキエースが支配する国家で、片方は神国なんですよ? あるいは、そこまでいかなくても、エスペラント・ウニートとパンピュリア共和国と、この二つの集団の間でどうやって「形式」を統合すればいいのか、砂流原さん、分かりますか? あはは、少なくとも私には想像がつかないですね。道路の右側を歩くか左側を歩くか、そんな基本的なことでさえ、決定するのにどれだけ時間が掛かるか。

「そんなに時間を掛けて、ようやく「形式」を統合して。そこからようやく差別の解消に取り掛かるということですか? あのですね、私も一応は女性の末席を汚しております身なもので、ちょっと言わせて頂きたいんですけどね。差別されている側からすれば、もう少しスピード感を持ってことに当たって欲しいわけですよ。そうなると、もう、既に存在している「形式」の中で、その「形式」を共有している集団構成員同士が、その「形式」の下で平準化される。この方法しかないということになるわけです。

「もちろん、その「形式」自体が差別を内包しているという場合もありますよ。でもね、そうであるならば、その「形式」から差別を取り除く方向に動けばいいだけの話じゃないですか。その「形式」自体を完全に破壊する必要なんてどこにもないでしょう? 長い長い時間を掛けて新しい「形式」を一から作って、しかもその上で、それよりももっと長い長い時間を掛けてその「形式」を人々に浸透させる。そんなことをする必要がどこにありますか?

「ということで、差別を解消するには、それぞれの集団ごとに構成員を平準化するという方法が最も効率的であるということはお分かり頂けたと思います。そうなると……現代の人間至上主義諸国において、構成員同士が共通した意識を持とうとする時に、一つの大きな問題があるということに気が付くはずです。それが、それこそが労働者に対する不当な扱いなんです。

「なぜだか分かりますか、砂流原さん。それはですね、不当な扱いを受けた労働者が空腹だからです。空腹で、寝不足で、疲れ切っているからです。不当な扱いを受けている労働者は、裕福な方々とは違い、必要最低限の食料を摂取することしか出来ないし、必要最低限の睡眠をとることしか出来ない。そのため、肉体的にもかなり限界に近付いていて、脳髄もまともに働かない状態なんです。まともに働かないというか……こういった方がいいでしょうね、労働者の思考は、物理的に、絶望の方向に固定されていると。まともな栄養もまともな休息もないのに、脳髄がまともに働くと思いますか? つまり、そういうことですよ。

「そのようにして、絶望し切っている頭脳は、なんとかして幸福感を得ようとします。しかし、自分の位置を上昇させることは出来ない。労働者としての過酷な運命から抜け出すことは出来ない。そうだとすると、幸福感を得るには、他にどんな方法がありますか? そう、その通りです。自分よりも下の人間、見下すことの出来る人間を見つけるということです。

「そうすれば、少なくとも自分は最低の存在ではないと安心することが出来ますからね。とはいっても……人間至上主義社会において、不当に搾取されている労働者以下の存在を見つけ出すというのは、限りなく不可能に近い難行です。だって、人間至上主義社会における労働者の地位は、要するに奴隷ですからね。奴隷以下の存在というものを、砂流原さんは、何か思い付かれますか? ああ、そうでうすね、一つだけありました、そういう階層が。それが、つまり、アフエラ・カスタだということです。

「社会が決めた階級の外側にいる存在、社会的に差別していいという暗黙の合意が形成されている存在。スペキエースはもちろんとして、あるいは女性、あるいは、人間至上主義諸国でいえば、黒人を代表とした、もともと神国圏に所属していた人間達。絶望し切って、他にどうしようもない労働者は、そういった人々を見下すことによって、ようやく心の安寧を得ることが出来るんです。

「そう、そういうことなんですよ、砂流原さん。犬に対して知的に振る舞えといっても無駄だし、猿に対して寛容に振る舞えといっても無駄だし、豚に対して気高く振る舞えといっても、完全に無意味なんです。奴隷に対して、奴隷の立場にいながらにして貴族のように振る舞えということの、どこに合理性があるというんですか? 人間の思考を変えたいのならば、まずはその人間の生活を変えなければいけないんです。この世界で最も基礎的な教育とは、生活の向上なんです。それがなければ、人間という生き物は、そもそも教育を受け入れることさえしないでしょう。

「その人間に対して差別をするなというのならば、差別以外の娯楽を与えるべきなんです。それはね、美味しいものを食べて、ベッドでゆっくりと寝て、それでも有り余るほどの金がある人々は、差別なんてしなくても、他にいくらでも幸福になる手段はあるでしょう。けれどね、奴隷には、アフエラ・カスタを差別する以外に、幸福になる方法がないんです。そんな人々から、差別さえも取り上げるというんですか? そんな人々がそんな人々になったのは、自分達が搾取したからだというのに?

「いいですか、労働者の生活の向上は差別の解消のための最低条件なんです。なぜなら、集団を構成する構成員の大半は、労働者だからです。彼ら/彼女らが、まともにものを考えられるようになって、知的に・寛容に・気高く、振舞えるようにならない限りは。共通意識・同胞意識なんていうものが形成されるわけがありません。構成員の大半が知性の欠片もない動物であるにも拘わらず、そこに文明的な社会が生まれるわけがないんです。誰もが誰かに対して怒りと憎しみとを抱いている社会。もともと「形式」が内包していた亀裂が、分断にまで広がっていって、最終的には、その集団は、差別の温床になってしまう。

「さて、そうであるならば……こちらの「理由」も、「理由」としては出来損ないであるということは明白ですね。確かに、労働者以外にも不当な扱いを受けている人々はいます。けれど、その不当な扱いをなくしたいのならば、まずは労働者の生活を向上させなければいけない。そもそも、今の人間至上主義社会において、裕福なスペキエースと、貧困層の人間と、どちらが悲惨な生活を強いられていますか? 確かに、貧困層の人間よりも不当な扱いを受けているスペキエースもいます。しかし、それは、裕福なスペキエースではありません。貧困層のスペキエースなんです。そうであるならば、金の問題を放っておいてスペキエースの差別をどうにかしようとすること自体が低能の考えなんです。

「もちろん、いうまでもなく、ジャーナリズムは低能ではありません。いや、まあ、低能といえば低能なんですけど、そこまで救いようのない低能ではないということです。当然ながら、私が今言ったような事情は、百パーセント知り抜いています。そして、百パーセント知り抜いた上で、完全に無視している。

「「理由」ですよ、砂流原さん。これが「理由」なんです。人間が、より安全な方向に・より安易な方向に・より安楽な方向に、進んでいくための「理由」なんです。ジャーナリズムは、この「理由」が、理性的に考えた時に完膚なきまでに誤りであるということを知っている。けれども、正しいか誤っているかなんていうことは関係ないんです。その「理由」が「理由」として機能してくれればいい、その「理由」が言い訳として自分の良心を慰めてくれればそれでいい。既に決定している卑怯で卑劣で卑小な行動を、なんとかしていい繕ってくれるものなら、それでいいんです。

「要するにですね、広告料を貰っているジャーナリズムが、裕福な人々に対して争いごとを……はははっ! そう、「正義の闘争」を仕掛けないのは。そうすれば自分達も面倒なことになるからなんです。そして、スペキエース差別だとか、女性差別だとか、どうでもいい上にどうにもいいことにかまけているのは。そういうことをするのが、とてもとても楽だからです。だって、差別している人を糾弾しても、ジャーナリズムにはなんのダメージもないじゃないですか。それどころか、自分は良いことをしている、社会の間違いを正していると悦に入ることも出来る。実際には無意味なことをしているとしても、自分は立派な行為をしていると勘違い出来る。だから、そういうことをしているんです。

「さて、これで。

「広告料を貰っている、ジャーナリズムについて。

「私が話すべきことは話し終えたことになります。」

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