第二部プルガトリオ #19

 全てのものは、完全に新しくなるために。

 まずは、完全に壊されなければならない。

 一度は天の真上まで上がっていった太陽が、今日もまた地の裏側へと沈んでいく。時刻は午後をとうに過ぎて、既に日が沈む時間帯だった。その光景を、真昼は、何も言わずに、ただただじっと見つめていた。

 真昼がアーガミパータの夕暮れを見るのは、実のところ、これが二回目だった。一日目の夕暮れ、これはASKの送迎船の中から見た。二日目の夕暮れ、これは、ダコイティの森の中にいたせいでほとんど見えなかった。三日目は……三日目の夕暮れ、その時間帯は、真昼はずっと眠っていた。ASKのアヴマンダラ製錬所、その病室で、ずっとずっと眠っていた。だから、四日目のこの夕暮れが、真昼が見る二回目の夕暮れなのだ。

 そう、よく考えてみれば。真昼は、まだ四日しかアーガミパータにいないのだ。たった四日前にREV.Mによって攫われてこの地獄へとやって来た。四日しかいないにも拘わらず、真昼にとって、ここに来るまでの人生よりも、ここに来てからの人生のほうが、よほど深く重いものであることは確実だった。

 既に、この地獄は。真昼にとっての……故郷のような場所になっていた。こんな場所を故郷と呼ぶのはなんだかおかしい気がするが、それでも事実だ。真昼にとっては、もうアーガミパータの焼き尽くすような太陽こそが太陽だったし。それに、真昼は、血の匂いがしない空気を思い出すことも出来なかった。

 そして、この地獄が第二の故郷だというのならば。もちろん、第二の親もいるだろう。いや、親といっていい過ぎだとすれば、第二の保護者といってもいいかもしれない。それは、いうまでもなくデニーだ。真昼が危険な目に遭いそうになった時、必ず助けてくれて。それに、真昼が望んだことの全てを、真昼が望んだ形ではないにせよ、叶えてくれた。まさに保護者と呼ぶに相応しいではないかと、真昼は自嘲気味にそう思う。

 そうだとすれば、今のこの時間、保護者から別の人間に預けられているこの時間は、学校で何かを学んでいる時間に相当するのかもしれない。いや、どちらかといえば……幼稚園だろう。真昼は、ここに来るまでは、あまりにも何も知らな過ぎた。とてもではないが学校といえるようなレベルには達していなかった。それに、今回、マコトに連れられて色々なところを見てきたこの感じは、まさにお遊戯とでも呼べそうな感じだったから。

 この龍王領に対してデニーが持っている影響力のおかげで、真昼は、お客様として扱って貰って。何不自由ないままに採鉱場を見学させて貰うことが出来た。真昼は、採鉱場の労働者と同じ視点からものを見るのではなく、それよりも一段高いところから、まさに高みの見物をしたのだ。

 というか、それどころか。そもそもマコトが真昼の世話をしてくれたのも、実際のところはデニーのおかげでしかないのだ。いや、まあ、真昼は「砂流原のお嬢様」であるため、デニーがいなくても、多少は親切にして貰うことは出来ただろうけれど。とにもかくにも、真昼自身が持つ「力」によってマコトが色々な世話をしてくれたわけでないことは確かだ。

 所詮は……所詮は、全てが、甘ったれたお嬢様のお遊びでしかなかったということだ。だから、今まで経験してきたことは、幼稚園でのお遊戯と呼ぶのに相応しいのだ。

 そして、今。

 真昼は。

 その幼稚園から。

 保護者の下へと。

 帰ろうとしている。

 #18が終わってから随分と時間が経っていた。真昼とマラーとマコトとは、あの後、レーグートに見送られながらラクトスヴァプン・カーンを離れて。モノレールに乗って、鉱山集落へと戻っていた。鉱山集落の駅では、レーグートを傍らに従えて、あのユニコーンが三人のことを出迎えてくれて。そして、真昼とマコトとは、非常に丁寧に、見学ツアーをセッティングしてくれたことに対する感謝の意を表明した。

 責任者のユニコーンは大変忙しい馬らしく、一通りの別れの挨拶が終わると、またすぐに行ってしまった。それから三人は、ウーパリーパタラの入り口、あの検問所があったところまで戻って。ウーパリーパタラを離れるための手続きを(マコトが)してから、そのすぐそばの駐車場に止めてあったフライスに乗って、ウーパリーパタラを後にしたのだった。

 そして、それから。

 ウパリーパタラから。

 カーラプーラに向かって。

 ずっと。

 龍王領の、空を。

 飛び続けている。

 以前にも触れたことであるが……万が一にも、真昼がフライスから落下して、大怪我を負ってしまったり死んでしまったりしてはいけないので。マコトはかなり低いところを飛んでいた。立ち並んでいる一階建ての建物よりも少し高いくらいのところ、十ダブルキュビトいかないくらいのところだ。

 だから、とてもではないけれど「夕暮れの中心部分を飛んでいる」といったような感じではなかったが。それでも、マコトのフライスの剥き出しになった後部座席に座っていると、まるで夕焼けている空の中を、その空を引き裂くみたいにして突っ切っている、そんな気分になってくるのだった。

 あるいは。

 この土地で。

 死んでいった。

 たくさんの人。

 その鮮血が。

 どろどろと。

 熱を発する中を。

 泳いでいるような。

 頭上を覆っている空は一面の赤色をしていたし、右側も左側も、前側も後側も。下方向を除いた全ての方向が、鮮血のような赤色で染まっている。そして、そんな中で、前方のずっとずっと先のところ、まるで何か巨大な生き物が蹲っているみたいにして、黒い塊が見えている。もちろん、これはカーラプーラの高層ビル群であって、既に目視出来るくらいのところまで近付いてきているということだ。

 そう。

 もう。

 こんなところまで。

 帰って来てしまっていた。

 もう、あと、ほんの少しでカーラプーラに到着してしまうだろう。いや、ほんの少しといっても、数分で着くというわけではないが。とはいえ、十分かそこらで着いてしまうだろうというのは間違いのないことだ。ということは、いつまでもいつまでも「そのこと」を後回しにしてはいられないということだ。つまり、決めなければいけない。マコトに対して、なぜ、あなたは「正しさ」を信じられないでいられるのか。パンダーラという、高潔で清廉な生き物に出会っているにも拘わらず、なぜそのようにして虚無的な態度をとり続けることが出来るのか。それを、聞くのか、聞かないのかということを。

 いや……正確にいえば、真昼の中では、もう選択は終わっていた。真昼の中には、それを聞かないという選択肢はなかった。まっぴらだ、永遠に、答えを知らないで生きていくなんていうのは。だから、ただ単に、その質問を口にすることを、後回しに後回しにしていたというだけのことだ。その後回しにするという状態を、いつまでもいつまでも続けているわけにはいけない。なぜなら、マコトと別れる時間、幼稚園からおうちに帰る時間は、すぐそこまで近付いてきているのだから。要するに、そういうことだ。

 真昼の腕の中で。

 マラー、が。

 身をよじる。

 ふと、真昼の方を向いて。

 あの、屈託のない笑顔で。

 可愛らしく笑う。

 ウーパリーパタラからここまで飛んでくるまでの間、マコトは一言も口をきいてこなかった。マコトは、帰りのルートとして、行きのルートと全く同じ経路を飛んでいたために。説明すべきことは全て行きの時に説明してしまっていて、もう何もいうべきことは残っていなかった。だから、敢えて、見るからに不機嫌そうな真昼に対して話し掛けようとは思わなかったのだ。

 そういうわけで、真昼は、何かの拍子に、真昼が聞きたいことの方向へと話題を進めていくということは出来なかった。そもそも会話自体がないのだから。もしも何かを聞きたいのなら、「そのこと」を実行したいのなら。自分から、それを行わなければいけない。目の前にある崖から身を投げなければいけないのだ、目をつぶって身を投げるか目を開いたまま身を投げるかは別として。

 ただ、それは、真昼にとってあまりにも恐怖に満ちた行動だ。自分の手のひらの中に、たった一つ残されたもの、パンダーラの羽根だけを信じて、黒い鏡に向かって飛び降りる。もしも、パンダーラの羽根が、真昼の重さを支え切ることが出来なかったら。真昼は、黒い鏡の表面に激突して、そのまま、焦点を結ばない影となって、その中に沈んでいくしかない。

 曖昧に揺らぐ影、もしも、自分が、そんなものになってしまったら? どうやってマラーのことを守れるというのだろう。どんなに抱き締めようとしても、そんな体では、マラーの体は抱き締められない。理想を持たない右腕と、信念を持たない左腕と、その隙間から、マラーの体はすり抜けていってしまう。そして、もしもマラーのことさえ失ってしまったら。真昼には、もう、何も、生きる理由が存在しないのだ。

 そのまま。

 真昼の影は。

 次第に。

 次第に。

 空間と時間との中に。

 不分明に、溶けていってしまう。

 だから、真昼は、最初から「そのこと」について話すということが出来なかった。まずは他の話題を出して、その話題から「そのこと」へと、徐々に話を変えていく。そういう方法を取るしかなかった。それでは、その最初の話題、とにかく自分が口を動かすための話題には何を選べばいいだろうか。

 真昼には、「そのこと」以外にもマコトに聞きたいことがないわけではなかった。マコトに出会った時から、ずっとずっと気になっていて、質問したいと思っていたこと……というよりも、問い詰めたいと思っていたこと。マコトがMJLだと知ってから、MJLがマコトだったと知ってから。まるで、あたかも、地の底で蠢動する溶岩のように、真昼の体の中で、ゆっくりとした速度の回転を続けている疑問。

 とはいえ、今までは、そのことについて問い掛けるタイミングがなかった。いや、タイミングがなかったというよりも……自分が、マコトについて積極的に興味を持っているということを、マコトに対して示すというのが、なんとなく嫌だったのである。そう、マコトに問い掛けたかったもう一つのことというのはマコト自身についてのことだったのだ。

 だから、それを問い掛けてしまえば。真昼は、マコトに、ばれてしまうような気がしていたのだ。自分が、マコトに対して、非常に強い、アンビバノンノな感情を持っているということを。マコトに対して、強い嫌悪感を持ちながらも、強い興味を……いや、魅力のようなものさえも感じているということを。

 しかし、今の真昼には、もうそんなことはどうでもいいことだった。あまりにも、この女によって、自分の信じるものを破壊され過ぎてしまって。今更、誇りだのプライドだの、そんなものを気にするような気にもなれなくなっていた。どうせ自分は馬鹿で、何をしたところで馬鹿だということは変わらない。

 だから。

 真昼は。

 もう何も気にすることなく。

 まずは、その疑問を。

 言葉することにする。

「あなたは。」

「はい?」

 真昼の言葉に、マコトがちらと振り返った。首を少しだけ傾けて視線を向ける感じ。運転中に、後部座席からいきなり声を掛けられたにも拘わらず、特に驚いた様子はなかった。真昼は、そんなマコトに向かって、言葉を続ける。

「なんで新聞記者になったんですか?」

 それが。

 真昼の。

 聞きたいことだった。

 MJLがジャーナリストになるというのは理解出来る。いや、理解出来るというよりも、MJLはジャーナリストになるべく運命づけられたような人間であって、むしろジャーナリストではないMJLというものを思い描くことが出来ないくらいだ。だが……マコトは違う。

 マコトは、明らかに、どう考えても、ジャーナリストとして不適格だ。正義への真摯な眼差しもなければ、真実への敬虔な態度もない。全ての事柄をへらへらと嘲笑いながら相対化し、正しさというものを徹底的に馬鹿にする虚無主義者。道化師のように、その口が語ることは出まかせばかりで……そう、マコトは、自覚的に嘘をついているわけでさえないのだ。きちんと自分が嘘をついていると理解して嘘をついているのならば、まだ救いがある。なぜなら、そこには、真実と虚偽と、という二項対立が存在しているから。けれどもマコトはそうではない。ほとんど脊髄の反射のようにして、その場その場で、自分にとって都合がいいことを口にしているだけだ。マコトにとっては、そもそも、嘘だの真実だの、そういった区別さえ馬鹿らしいことなのだろう。自分の好き勝手に世界を組み替えて、そうすることによって自分だけの王国を作る。色のついた飴細工と柔らかい風船とで出来た愚者の王国を。

 Kingdome come、だから、マコトは……詐欺師、道化師、扇動者。そのどれかになるとしても、誠実に真実というものを希求するジャーナリストという職業に就くはずがない。むしろマコトはジャーナリストという種類の人間を徹底的に軽蔑する側の人間であるはずなのだ。マコトには、ジャーナリストが持っているべき、最も大切なものがない。権力に対する反抗、搾取に対する義憤、なんといってもいいのだが、そういった感覚は、マコトには、完全に欠如しているのだ。そんな人間がジャーナリストになれるはずがない。絶対に。

 しかし。

 実際に。

 マコトは。

 新聞記者をしている。

 それは、なぜなのか。

 さて、そんな真昼の質問に対して。マコトは、珍しく、即答しなかった。「私が、なぜ、新聞記者になったか?」と言いながら、驚いたようにして真昼の方を見つめて。それから、ふいっと目を逸らして前の方を向いてしまった。

 真昼は、そんな反応は予想外だった。いつもの通り、へらへらと笑いながら、真昼のことを嘲笑うかのような長広舌を振るうかと思っていたのに。まるで、まるで、これは……何か、マコトが、真剣に物事を考えているみたいだ。

 呟くように「そうですね……」と言った切り、口籠もってでもいるみたいにして、何も答えることなく、そのまま何かを考え続けていたのだが。やがて、独り言のようにして……真昼に答えるのではなく、ただただ、口をついて出た、心臓の鼓動の音のようにして……こう言う。

「ウエイト先生に褒めて欲しかったから。」

「え?」

「ああ、ごめんなさい、なんでもないです。」

 マコトの声は、あまりにも小さ過ぎたせいで、フライスの前後左右で吹き荒んでいる風の流れに簡単に掻き消されてしまった。真昼には、マコトがなんと言ったのか、全く聞こえなかったということだ。あるいは、それは聞き間違いだったのかもしれない。マコトが、あんなに……透明な声で言葉を話すとは思えなかったから。それは、あたかも、砂漠の中でたった一人、二つの月を見上げている、その二つの月の光が交錯する永遠のような声だった。ただただ純粋である言葉。

 とにもかくにも、マコトはまた真昼の方を振り返った。「えーと、私がなんで記者になったか、でしたよね」と言った、そのマコトの視線には。さっきまでの純粋さのようなもの、あるいは真剣さのようなものは、もう完全になくなってしまっていた。いつもの通りのマコトの顔、へらへらと笑っている、歪んだような口元が戻っていた。

 その顔のままで。

 マコトは続ける。

「あはは、他の人たちと同じですよ。」

「同じって、どういうことですか。」

「つまり、目の前で人が死んでいくのを見るのが好きだからです。」

 マコトはそう言うと。

 前方に視線を戻した。

「あはは、なんていうか、普通に日常生活を生きているだけだと退屈で退屈で仕方がないんですよね。だって、エスペラント・ウニートでの日常生活って、基本的に食べて寝て食べて寝ての繰り返しでしょう? そりゃあ、各種の娯楽はありますし、色々な仕事もありますが、そういったものって、別に生と死とに直接関わってくることじゃないでしょう? なんていうか……弱過ぎるんですよね、刺激が。こう、面白くないんですよ。面白味の欠片もない。とにかく感覚の強さが足りないんです。

「簡単に言うとですね、目の前、一ダブルキュビトくらいのところで、誰か、全然知らない人が、頭を吹っ飛ばされて死ぬのが見たいんです。それこそ血液だとか脳髄だとかが飛んできて、骨の破片が見えるような距離でね。それでこそ楽しむに足る娯楽でしょう。違いますか? 人が一生をかけて築き上げてきた理想が、無慈悲な搾取者によって、一瞬で粉々にされるのが見たい。全身を傷つけられて、血溜まりの中でのたうち回りながら、それでもなお生に縋りつく姿が見たい。凄まじい威力を持った兵器によって、都市が一つ吹っ飛ばされて、そこに住む人々の日常生活が、あっというまに消え去るのが見たい。それ以外に、この世界に、誰もが愉快だと思えることなんてないでしょう?

「あるいは……そうですね、自分自身も、一歩間違えると、そうやって死んでいくかもしれない。そういうわくわく感、わくわくするような戦慄。それもまた私が欲しているものですね。遊園地のジェットコースターだとか、映画館のホラー映画だとか、そういったもののどこが面白いっていうんです? それは、まあ、ジェットコースターならば、もしかすると乗っているコースターが吹っ飛んで、そのまま死んでしまうこともあるかもしれませんが。そんなのはごくごく僅かな可能性でしょう? ほとんど無視してもいいくらいだ。そんなものの、どこが面白いっていうんです?

「中途半端な恐怖、絶対安全圏の中の恐怖じゃあ、全然足りないんです。本当に、今、この瞬間に死ぬかもしれないという恐れ。それがなければ、こんな不完全な肉体とこんな不完全な精神とで、どこに生きる喜びがあるっていうんですか? 人間なんて他の知的種族に比べれば生まれながらの障害者みたいなものですよ。だから、あまりにも曖昧なこの私という感覚が、現実の世界で一瞬で吹っ飛ぶかもしれないという予感。それがなければ、とてもではないですけどやってられませんよ。人生なんてね。弾丸が頬を掠めていく、皮膚が裂けて血が噴き出す。炎が手のひらを焼いて、肉の焦げる匂いがする。どこかから飛んできた何かの破片、金属の破片が、私の脚に当たる。膝の骨が粉々に砕けていく、まさにその瞬間の感触。そういう、あらゆる種類の快感が必要なんです。

「そんな風に、誰かが死ぬところを見られたり、あるいは、自分が死ぬ可能性があったり。そんな状況を味わえる職業って、この世に二つしかないじゃないですか。えーと、言わなくてもお分かり頂けると思いますが、兵隊か記者か、そのどちらかっていうことです。まあ、別に兵隊でもよかったんですけどね。ただ、兵隊だとあんまりバリエーションがないじゃないですか。行ける場所の。ほら、一つの戦場にずっとい続けなければいけないでしょう? それに、その戦場だって自分で選べるっていうわけじゃない。私は、結構飽きっぽいタイプでしてね。色々な不幸が見たいんです。エスカリアにもワトンゴラにもパンピュリアにも、もちろんアーガミパータにも。それぞれ別の種類の不幸がある。そういった不幸を、しかも特等席で見られるのって、やっぱり記者しかいないじゃないですか。だからですね、あはは、私は記者になったんです。」

 この、全ての言葉を。

 マコトは。

 本当に、どうってことないかのように。

 当たり前の口調、へらへらと、話した。

 真昼には理解しがたい話だった。というか、「理解しがたい」を通り越して完全に理解不能だった。この女は、一体何を言ってるんだ? ただただ、人の不幸を見たいから、自分が死ぬかもしれないという快感を味わいたいから、ジャーナリストになったと言っている。しかもそれだけではない。そういう理由で「自分」がジャーナリストになったというだけではなく、「他の人間」も、やはり同じような理由でジャーナリストになったと言っているのだ。そんなことがあり得るわけがない、あり得ていいわけがない。ジャーナリストという職業は神聖なものなのだ。反骨の戦士、真実の殉教者。自分の信念に従って、言葉の力によってこの世界を変えていこうとする。それが、ジャーナリストであるはずなのだ。

 この女の。

 言っていることは。

 完全に、間違いだ。

「あなたの言っていることは。」

「はい?」

「間違ってます。」

 真昼の言葉に、マコトは、「間違ってる?」と聞き返した。まるで真昼の言っていることを理解出来ないとでも思っているかのような口調で。だが、そんなことはあり得ない。真昼程度の単純な思考回路について、マコトが、その全てを知悉していないわけがないのだ。マコトは、完全に、理解していた。真昼が言いたいことを。だから、軽く肩を竦めて「まあ、そうかもしれませんね」「誰だって、自分のことを完全に理解しているとはいいがたいものです」と、言った後で。

 更に。

 こう。

 続ける。

「ちなみに、私のどこが間違っているんでしょうか。」

「ジャーナリストは、そんな、そんな……そんなことを考えていてはいけません。そんなことを考えていて、いいわけがない。」

「えーと、それはどういうことですか?」

「あなたのような考えでジャーナリストになっていいわけがないということです。ジャーナリストは、もっと、もっと……つまり、「正しさ」を追求する人々なんです。あなたのように、人が死ぬところを見たいからだとか、自分が死ぬかもしれない快感を味わいたいだとか、そんな理由でなっていい職業じゃないんです。あなたのその考えは、他のジャーナリストの方々に対する、冒涜です。」

 吐き捨てるみたいに。

 真昼は、そう言った。

 それに対してマコトは、困ったようにして「はあ、なるほど」と言った。それから暫くの間、何かを考えるようにして黙っていたのだが。もちろん、実際に考えていたわけではない。考えているふりをしていただけだ。そして、その「暫くの間」が終わると、また口を開く。

「あのですね、砂流原さん。」

「なんですか。」

「あなたは、ちょっと勘違いをしていらっしゃいますね。」

「勘違いって、何をですか。」

「あはは、そんな喧嘩腰にならないで下さい。」

 癇に障る笑い声。

 マコトは続ける。

「ジャーナリストっていう人種はですね、あなたが思っているような種類の生き物ではありませんよ。私のようにまあまあまともな人間を除けば、ジャーナリストには三種類の人間しかいません。気違い、馬鹿、極度の自己陶酔者。ああ、えーっと、まあ……ごくまれに、聖人レベルのお人好しもいますけれどね。それは、本当に例外的なケースです。少なくとも、私は、そんな人間には一人しか出会ったことがないですね。

「砂流原さん、砂流原さん! その可愛らしいお口を一度閉じて! それから、私の話を最後まで聞いて頂けると、大変大変ありがたいですね。いいですか、砂流原さん。あなたは先ほど、ジャーナリストについて、「正しさ」を追求する人々と定義しましたよね。けれどですね、断言してもいいですが、そんなことはあり得ません。この世界には、ごく一部の例外を除いて、「正しさ」を追求しているジャーナリストなんているわけがないんです。そんなことは順を追って考えれば誰だって分かることです。

「そもそもですね、砂流原さん、この世界の原理を変更できる運動は三種類しかないんです。権力・暴力・知識……ああ、ちなみに最後の一つは学術的な「知識」であってメディア的な「情報」ではありませんよ。えーと、例えば、農産物の収穫量を大幅に増大することができる科学的知識だとか、対神兵器を作りうる魔学的知識だとか、そういうことです。とにかく、この三種類以外の方法では、何かを変えることなんて出来るはずがない。

「そして、その三種類の運動に関わることが出来る職業は、それぞれ決まっています。まず権力についてはいうまでもありませんね、これは体制側の政治家です。暴力については革命家が当てはまるでしょう。そして、最後に、知識について。これは学者が発生させる運動です。

「ということで、本当に世界を変えたいのならば、政治家か、革命家か、あるいは学者になるべきなんです。こんなことは考えるまでもない自明の理でしょう? ジャーナリストと政治家と、どちらがより一層世界を変えることが出来ると思いますか? あるいは革命家と、学者と、ジャーナリストとを比べてみて下さい。どちらがより一層、世界を変革出来ると思いますか? 答えは、いうまでもありませんね。それにも拘わらず、ジャーナリストはジャーナリストという道を選んだんです。なぜジャーナリストがジャーナリストになるか分かりますか? 楽だからですよ。政治家や革命家や、それか学者になるよりも、ジャーナリストになる方が、ずっとずっと楽だからです。

「例えば、政治家について考えてみましょう。政治家という職業には、よほどの調整能力がなければなれるものではありません。ある人間の欲望と、別の人間の欲望と、その二つの間で平衡をとって。そして、その上で、そのどちらからも支持される――少なくとも拒否はされない――結論を出さなければいけない。そうして初めて、政治家というものは政治家として認めて貰うことが出来るからです。そう、政治家というものは自分一人でなれるものではない。ただただ「自分は政治家だ」と叫んでいるだけではなれるものではないんです。集団の構成員が、その人間を政治家であると認めて、初めて政治家になれる。しかも、政治家になってからも簡単にはいきません。この世界に存在するあらゆる社会構造について知り抜いていなければ、自分がしたいことを出来ないからです。人間を拘束する制度を、一つ一つ、すり抜けるようにしてクリアしていって。そして、その上で、その制度を変えていかなければいけない。これは、よほどの努力と忍耐力とが必要な行為です。

「次に革命家ですが、これはハイリスク・ハイリターンのギャンブルみたいなものです。しかも、失うものは確実だけれども、リターンを得られる可能性は限りなくゼロに近いタイプの。賭け金としてテーブルの上に置かなければいけないのは自分の人生の全てであり、そこまでしても、この世界を変えることなど出来ることなく、ただただ無意味に死んでいかなければいけない。革命家になるということは、そういう可能性を――かなり高い可能性を――抱え続けながら生きていかなければいけないということなんです。しかも、その上で、あらゆる罪に手を汚していかなければいけない。罪なき人々の命を策略のために見捨てる。ゲームを有利に進めていくというただそれだけのために無数の人々を殺すということを厭うようであっては、革命家としては失格です。つまり、革命家になるためには、自分の命であっても他人の命であっても、革命の祭壇に犠牲として捧げるだけの覚悟が必要だということです。

「さて、最後に、学者ですね。学者になるということは、つまり奴隷になるということです。いや、勘違いしないで下さいね、私が言いたいのは「真実の奴隷」なんていう曖昧で抽象的なことではありません。もっと具体的なこと、つまり、「先行研究にひたすら従い続けなければいけない」ということです。今まで、自分の前に存在した学者達が、連綿と・延々と、研究してきたその結果。その全てを学ばなければ、新しいことなど生み出せるはずがありません。なぜなら、人間というものは、生まれたばかりの状態では、真実の光の、その断片さえも握り締めていないからです。他の人々が人生をかけて生み出してきた知識。その知識を余すところなく取り入れて。そして、そこから新しい知識を生み出していかなければいかない。比較し・検討し、ようやくのことで小さな小さな間違いを見つけて。それを修正して、そうして、新しい知識への入り口としなければいけない。つまり、学者になるためには、恐ろしいまでの従順さと、その従順さの中でも失われることがない、新しい知識への情熱が必要だということです。

「こういった職業に比べてジャーナリストはどうですか? 政治家のように、集団の構成員のほとんどから認められなければなれない職業ではない。革命家のように、他人の人生まで捧げなければいけない職業でもない。そして、学者のように、あらゆる前提条件に対して敬虔であり続けなければいけない職業でもない。ほどほどの人間から認められれば、大した責任を背負うこともなく、自分の好き勝手に出来るんです。そう、「ジャーナリストとしての信念」という名目でね。はははっ、なーにが「ジャーナリストとしての信念」ですか。やりたくないことをやらなくていいようにするための体のいい言い訳に過ぎませんよ。そもそもですね、信念というものはそんなに軽々しく使っていい言葉ではないんです。

「信念のために、自分の「肉体」を犠牲にする。これほど簡単な行為はありません。問題はですね、もっと別のものを犠牲に出来るかということです。「信念」のために自分の「精神」を犠牲にすることが出来るか。これが問題なんです。「信念」のために、他人の前に膝を屈することが出来るか。「信念」のために、目の前にいるいとけない子供を殺すことが出来るか。「信念」のために、なんの価値もない奴隷になることが出来るか。あるいは……「信念」のために、自分が安穏として住み続けることが出来るはずの、観念の世界を捨て去ることが出来るか。その問い掛けに答えを出さない限りは、「信念」なんていう言葉を使ってはいけないんです。世界というものはね、砂流原さん。それほどまでに残酷なんです。決して、「正しさ」なんていうものを簡単に手に入れられる場所じゃない。

「ジャーナリストには世界を変えることなんて出来るはずがありません。そもそも世界を変えうる運動の力を持っていないんですから。というかですね、ジャーナリストは、なんの力も持っちゃいないんです。だって、そうでしょう? 私が記事を書きます。砂流原さんが記事を読みます。それで、一体何が起こりましたか? 何も起こらなかったでしょう? 砂流原さんは、私の記事を読んで、何かしましたか?

「それは、どこかの慈善団体に募金をしたかもしれません。しかし、その程度の募金でどうなるっていうんですか? ある記事を読んだ人が、仮に一千万人いたとしましょう。あはは、これだけ読まれるってことは私の記事ではありませんね。とにかく、その人達が、一人あたり百アランの募金をするとします。いや、まあ、百アランも募金する人はほとんどいないと思いますけどね、それでも、仮定の話として、そうしたとします。それで幾らの金が集まると思いますか? たった、たった十億アランです。エスペラント・ウニートの一年の国家予算の五千分の一ですよ! 内戦があった時期のエスカリアだってね、一か月でこれくらいの国家予算は使ってますよ。そう、一か月の予算に過ぎないんです。こんな端金で、一体何が出来るっていうんですか? どうやって世界を変えることが出来ると? しかも、この金額は、継続しません。大抵の人間は一回募金すれば満足してしまうものだからです。こんな端金が、たった一回だけ。世界は何も変わりません。

「あるいは、記事を読んだことによって触発されて、何かのデモに参加したとしましょう。そのデモが非常に上手くいって、どんどんと、どんどんと、参加人数が膨れ上がっていって。そして、政府も無視出来ないレベルになったとします。まあ、そんなことが起こるのは百年に一回あるかないかですけどね。大体は、なんとなくデモをして、なんとなく満足して、それでお終いですから。とはいえ、政府に対して脅威といえるほどのレベルになったと仮定してみましょう。となると、それから起こることには二種類のパターンがあり得ますね。

「まず一種類目は、政府がデモ隊の主張を聞き入れて、その政策を転換するというパターンです。例えば……そうですね、せっかくアーガミパータにいるのだから、アーガミパータで実際にあった例を考えてみましょう。東アーガミパータでの戦争に反対するデモを受けて、暫定政府が東アーガミパータのほとんどの地域から軍隊を撤退させたケースです。これは、一見するとジャーナリストが書いた記事の力によって平和が実現したように見えます。けれども、よくよく考えてみて下さい。ここでデモ隊が反対していた「戦争」とは、一体なんですか? この「戦争」という語は、何を指していますか? それは戦争そのものではありません。「負け戦」を指しているのです。デモ隊は、戦争における殺戮行為に反対していたわけではなく、暫定政府がいつまでもいつまでも「負け戦」を続けることによって、自分達に被害が及ぶことに対して反対していただけです。

「その証拠として、東アーガミパータから撤兵したたった数か月後に暫定政府軍は西アーガミパータへの派兵を決定しました。なぜ暫定政府が西アーガミパータへの派兵を決定したのか? それは、ジャナ・ロカで起こった大規模な無差別テロの影響です。無教徒が暫定政府軍に対して自爆テロを行った。ジャナ・ロカの一般市民が多数死傷した。そのせいで、人々は怒りを抱き、憎しみを抱き、政府に対して求めたんです。西アーガミパータに派兵を行って、自爆テロを計画した無教徒のテロリスト集団を徹底的に壊滅させるようにと。砂流原さん、大衆というものはですね、戦争に反対だから戦争に反対するんじゃないんです。その戦争によって、自分に被害が及ぶ。そうなって初めて戦争に反対するんです。

「もちろん、大衆はそんなことを自分では言いませんよ。大衆の皆さんは、ほとんど例外なしに、自分のことを誰よりも高邁で誰よりも賢明で誰よりも勇敢で誰よりも寛大だと思っていますからね。「自分達が傷付くのが嫌だから戦争に反対します」なんていかにも卑しいこと、口が裂けても言いません。まあ、自分が他の大衆とは違っているという理由、極めてどうでもいい差異を表現するためだけに、一種の露悪として、言うかもしれませんがね、でも、その程度です。とにかく、大衆は、自分の意識しない深層心理でどう思っていたしても、あるいは口先でどう言っていたとしても、表層的な思考では「自分は戦争によって殺される無実の人々が可哀そうだから戦争に反対している」と思っているんです。

「けれども、それが事実ではないことは暫定政府が西アーガミパータに派兵したことから明らかですね。あの派兵は、「テロリストに対して報復するため」に行われた派兵ですが……もしも「戦争によって殺される無実の人々」について「可哀そう」だと思っているのならば、例え報復のためであっても、派兵なんてするべきではないんです。あらゆる戦争に反対しなければいけない。なぜなら「無実の人々」が死なない戦争なんていうものは存在しないからです。もしも「無実の人々」を「可哀そう」だと思うのならば。例え、自国の領土を完膚なきまでに蹂躙する侵略戦争であっても、反撃をするべきではない。だって、そうでしょう? 反撃しなければ死ぬのは自分だけで済みますが、反撃をすれば無数の「無実の人々」が死ぬんですから。けれども、大衆にはそんな覚悟はありません。自分が惨たらしく殺されるのは絶対に嫌なんです。あはは、まあ、私も嫌ですけどね。

「そして、私達のようなジャーナリストが書く記事は、そういう大衆の、根底的な卑劣・根底的な劣悪を修正することは出来ないんです。出来るわけがない! 人間、誰だって、自分のことを完全に否定するような記事を読みたいと思うわけがないんですから。この「完全に否定する」というのは、その人間の「考えていること」や「行ったこと」を否定するなんていう生易しいものではありません。もっともっと根源的な否定。つまり、その人間が所属する観念の集合体を否定するということです。人間は、自分という個人を攻撃されることは耐えられます。人間の本質はそこにあるわけではないからです。けれども、本質……その人間が所属しているところの思考形式を攻撃されるのは、絶対に耐えられない。なぜならそれが破壊されてしまうと、その人間はもはや思考することさえも出来なくなってしまうからです。

「だから、私達の書く記事は大衆の思考形式を変えることが出来ない。思考形式を変えるようなものを書いても誰も読まないからです。誰も読まなければ何も起こりません。あはは、無力なものですね。でもそれが事実です。そして、思考形式が変わらなければ何度でも何度でも同じことが起こる。暫定政府が東アーガミパータから撤兵しても西アーガミパータに派兵したようにです。従って、ジャーナリストは世界を変えられません。

「ああ、そうですね。砂流原さんなら「それでも東アーガミパータからは撤兵された」とおっしゃるかもしれませんね。「ジャーナリストの書いた記事があったから、これから死ぬかもしれなかった人々が救われた」って。いやー、あはは、ありがたいことです。そういって頂けるのは。私としても苦労した甲斐があるっていうものですよ。記事を書いて、イパータ語に直して、大量に印刷して。それから、ジャナ・ロカにばら撒く。どんなに大変だったか! 最終的に、暫定政府の支配地域への立ち入りが暫く禁止されさえしましたからね。でもね、砂流原さん。私が書いた記事を、そんなに買いかぶってはいけませんよ。

「大切なのはですね、私が大衆への扇動を行った時点で、あの派兵が既に「負け戦」だったということです。兵隊は次々に死んでいくし軍事費はどんどんと消えていく。それでも、出口が全く見えてこない。底が抜けた鍋の中に砂を注いでいくようなものです。あらゆる資源を、費やしても費やしても、なんの意味もない。暫定政府は続けたくもない戦争を続けていかなければいけない状態だったんです。

「つまりですよ、暫定政府も、本当は、あの戦争をやめたかったんです。一刻も早く撤兵したかった。私の記事は、あるいは、私の記事によって扇動された戦争反対のデモは。ただの、ちょっとしたきっかけに過ぎなかったんです。賭けてもいいですがね、あの記事もあのデモもなかったとしても、暫定政府は、次の政権交代の時に、あの戦争を終わらせていたでしょう。前政権が残した負の遺産の総括という形でね。

「私の記事は世界を変えることはなかったんです。あの撤兵は、ジャーナリストが真実の力によって大衆を結集させて、それによって政府に正しい道を取らせたというわけでは、全然ないんです。政府はただただ既定の路線を進んでいた。まあ、それは、ごくごく僅かに、戦争の終結が早まったかもしれませんがね。でもその程度です。あの程度の記事で、政府の方針を大幅に変えることなど、出来るわけがない。

「むしろ、政府は、私が書いたあの記事に感謝していたはずです。あの記事のおかげで世論をまとめるという面倒な作業を行う必要がなくなったんですから。どんなに「負け戦」であっても、その戦争を続けたいと思う層は一定程度いるものです。いや、勘違いしないで下さいね。私が言っているのは政権幹部にいる人々の話ではありません、大衆について話しているのです。大衆は、基本的に、戦争が大好きです。特に自分が死なない戦争はね。退屈な日常を忘れさせてくれますから。もしも戦争が終わってしまったら、また、何も面白いことがない日々に戻ってしまう。それが嫌だから、戦争に反対するという層は、いつでも存在しているものです。

「しかしながら、私が書いた記事によって、そういった層をほとんど駆逐することが出来た。世論は暴走し、極端に先鋭化し、そして一つの方向にまとめられた。戦争の反対という方向に。政府としては兎の皮を剥ごうと思ったらそこにナイフがあったようなものでしょう。普通であれば、「負け戦」を「負け戦」として終わらせたら、集団の構成員から非難を浴びるものです。けれども、今回に限ってはそれはない。むしろ、敗北することが英雄的な行為になりうる。これほどありがたいことはないはずです。これ以上、戦争を続けずに済む、余計な資源を費やさずに済む。暫定政府は大喜びで撤兵を発表したわけです。

「あはは、砂流原さん、あなたは誤解なさっているようですがね。私は反権力のためにあの記事を書いたわけではありませんよ。暫定政府に対して喧嘩を売ろうとして、記事を書き、イパータ語に直し、大量に印刷し、ジャナ・ロカにばら撒いたわけではないんです。むしろ反対に、暫定政府に恩を売ろうとしていた。デモ隊を扇動することで暫定政府に恩を売ろうとしていたんです。

「私だって、頭がいいとまではいいませんけど、そこまで馬鹿っていうわけでもありませんからね。ああいうことをする前にちゃんと暫定政府の高官から話を聞いていました。暫定政府は一刻も早く撤兵したがっているということ。けれども、その機会がなかなかないということ。次の政権交代の時にはきっと撤兵されるだろうが、そうなるとこの政権は「負け戦」を続けた政権として歴史に残ってしまうことになる。それだけはなんとか避けたい。せめて世論が戦争反対で一本化してくれれば、人間至上主義諸国から押し付けられる戦争継続圧力をなんとか出来るのだが……それが、ほとんどの政府高官が共有している気持ちでした。だから、私は、その機会を作って差し上げたんです。

「つまりですね、砂流原さん。私はあの記事を書くことで二つの利益を享受しようとしたんです。まず一つ目の利益が、もちろん、反権力の象徴としての地位を手に入れることですね。戦争に反対した英雄、それによって数え切れないほどの無辜の民を救った反骨のジャーナリスト。何も知らない人間は、間違いなく、あの記事を書いた私のことをそう思うでしょう。そして、もう一つが……暫定政府にコネクションを作ること。現政権は、私のおかげで、東アーガミパータからの撤兵をスムーズに行うことが出来た。もちろん、表面上は、あの記事によって暫定政府の面目が潰されたように見えます。だから、暫定政府は、一時的に、私が支配地域に入ることを禁止したんです。けれども、その禁止措置はすぐに解かれました。目立たない形で、誰も知らないうちに、いつの間にか解かれていたんです。なぜなら、暫定政府は、本当は感謝していたからです。私のおかげで、あの政権は、歴史の上では、いつまでもいつまでも「負け戦」を続けることなく、適切な時期に撤兵した、英明な政権として書き残されることになったからです。

「いや、まあ、英明って言ったら言い過ぎかもしれませんがね。とはいえ、私のおかげで、あの政権は歴史に汚名を残さずに済んだというわけです。少なくとも、「これ以上の」汚名を残さずに済んだ。そして……私は、あの記事によって手に入れようとしていたものを、二つとも手に入れたわけです。

「まず一つ、記者としての名声ですが、これに関しては私が思っていた以上のものを手に入れることが出来ました。何せ、私は、あの一連の記事によって二度目のアイズナー賞を受賞したんですからね。ああ、言うまでもないと思いますが、国際報道部門です。また、それだけではなく、人々は、私の行動、つまり戦争反対のデモを扇動したということを見て、私が反権力の側の人間であると完全に勘違いしました。あの記事を書いて以来、私は、どんな反権力の集団からも取材を断られたことはありません。要するに、私は、あらゆる反権力の集団に対してのフリーパスを手に入れたんです。

「二つ、アーガミパータの暫定政府へのコネクションですが、あの政権、東アーガミパータからの撤兵を行った政権に所属していたほとんどの人間は、私に対して好印象を持っています。一番欲していたタイミングで、撤兵のための機会を提供したんですからね。それに、それだけじゃない。皆さんは、最初の戦争反対の記事のことばかり気を取られて、もう一つの方の記事についてはほとんど話題にしませんけどね。私は暫定政府が撤兵したことを称賛する記事も書いているんです。もちろん、べったりと政府寄りの記事にならないように注意していますが。それでも、ある程度、あの政権のメリットになるような記事です。機会を与えただけでなく、アフターフォローも忘れない。そんな私に対して……暫定政府は惜しみない見返りをくれました。詳しいことはお話し出来ませんがね、一体なぜ、私は、暫定政府軍の攻撃の直前にカリ・ユガ龍王領入り出来たと思いますか? あはは、つまりね、そういうことですよ。今となっては、暫定政府軍は、アーガミパータにおける私の貴重な情報源の一つです。

「と、いうわけで。あの記事は、私に限りない利益をもたらしたのですが……とはいえ、世界に対しては、なんらの影響も与えていません。何度も何度も言っているように、あの東アーガミパータからの撤兵は既定路線として存在していたんですから。そもそもですよ、民主的な政権というものが、大衆の「デモ」によって、根本的な政策転換を行うわけがないんです。

「なぜか分かりますか? それはですね、その民主的な政権が、なぜその政策を採用したのかということを考えれば分かるはずです。なぜ政権は別の政策ではなくその政策を採用するのか? それは、大衆がそれを求めたからです。これは絶対に勘違いしてはいけないことですが、民主的な政権、人間至上主義的な政権というものは、大衆と遊離したところには存在していません。なぜなら、その政権を選ぶのは大衆であるだけでなく、その政権を構成する一人一人もまた大衆だからです。そうでしょう? 民主的な政権というのは、人間よりも高等な何者かによって特別に調整された人間が構成するのではなく、大衆が大衆の中から選んだ人間によって構成されるんですから。政権が非道な政策をとるのは、政権内部に悪意を持った人間がいるからではありません。そうではなく、その政権を選んだ集団全体が非道なほどに愚かだからです。

「だから、基本的に政権と大衆との欲望は一致しているわけです。政権は大衆がしたいことをするだけ。つまりですよ、大衆が大規模なデモを行うほどに政策転換を望んでいる時には、既に、政権も、その政策転換を望んでいるのです。デモにはなんの意味もない、ただ単に、集団内部に存在している欲望がアレルギー症状として表出しただけの話なんです。いや、それは小規模なデモの場合は別ですよ。そういうデモは、以前申し上げたように、馬鹿が馬鹿なことをしているだけですから。集団の根本的な欲望とは別のところにある自分勝手な欲望については、無視してもなんの問題もありませんし、実際に、政権はそういうデモを無視しています。

「さて、これで一種類目のパターンについては、ジャーナリストの行動もデモ行為も、全く世界を変革することがないということを説明出来たと思います。それでは、二種類目のパターンに移りましょう。それは、ジャーナリストによって扇動されたデモが政権を打倒するまでに発達するというパターンです。いや、こんなケースあるのかよって話ですけどね。少なくとも私は寡聞にして存じません。とはいえ、ジャーナリストがデモを扇動することは実際にあり得ることですし、デモが政権を打倒することも実際にあり得ることです。ということは、そういうことも、あり得ないとはいい切れないでしょう。

「このパターンは、先ほどのパターンのように民主的な政権においてではなく、独裁的もしくは寡頭的な政権において起こりうるパターンです。外見上は民主制をとっていても選挙制度に瑕疵があるために一定の政党以外は政権与党となりえないケースも含みます。そういう政権の場合は、その内的な欲望が大衆から遊離していることもあり得ますので、政策の方針とデモ隊の要求とがかけ離れたものとなってしまい、結果として暴力革命に到達する可能性があるということです。

「さて、このようにして行われた暴力革命、つまりボトムアップ式に自然発生した革命によって世界が変革されうるか? 残念ながら、そんなことは百パーセントあり得ません。いいですか、これは以前にも申し上げたことなので繰り返しになってしまうんですけどね、こういった暴力的なデモに参加するような方々は、正当性や真聖性、あるいは砂流原さんがおっしゃるところの「正しさ」なんていうことについて、欠片も考えたことがないような方々なんですよ。それは、新聞記事を読んだりニュース番組を見たりするかもしれませんよ? そして、そこに取り上げられていることに対してなんらかの意見も持つかもしれません。けれどね、その意見は、実際のところは意見なんて高尚なものではないんです。なんとなくみんながそういっているから自分もそう思う、その程度のものなんです。しかも、ここでいう「みんな」とは、その意見を持った誰かさんが所属する観念の世界の中にだけ存在する、非常に抽象的な存在に過ぎない。

「例えばSINGなどを見て下さい。たった百六十文字ですよ? 一回の投稿がたった百六十文字なんです。それでどんな思想を表明出来るっていうんですか? あるいはフーズライフでも構いませんよ、フーズライフに、一度でも、検討に値する思想の煌めきが現れたことがありますか? 要するに、あれこそが大衆なんですよ。あるがままの、最も根源的な大衆の姿。大衆の頭の中にある意見なるものは、ああいったSCSに投稿された、粉々に砕かれて見る影もなくなった人間の思考の断片。それが、一定の形をとることもなく、なんとなく、ぼんやりと、周囲から受ける刺激に従って、永遠に流動し続ける有様なんです。つまりですね、大衆というものが考えているのは、ただ単純な虚無なんですよ。ああいった方々は、一度でも真剣に考えたことがない。なぜなら、真剣に考えるのは、疲れるから。疲れることはしたくないから。

「そして、そういう大衆の最大の問題点は――これもまた繰り返しになってしまうのですが――そのようにして、虚無しか考えたことがないのにも拘わらず、自分が誰よりも頭がいいと思っているところです。ろくに物事も考えたこともない、本だって数千冊くらいしか読んだことがない。いや、もしかしたら数百冊くらいしか読んだことがないかもしれませんね、しかもそのうちの大体が小説です。そして、一度読んだら読み返しもせず、その内容についても一週間かそこらしか考え続けることが出来ない。何冊か本を読んで、その内容を比較検討し、それぞれの本が含有する思想を止揚して、より深い思想に到達しようとしたことなんて一度もない。それにも拘わらず、自分は大学に行ったから、自分は何々の専門家だから、頭がいいと思っている。

「いや、言葉を偽らずに言いましょう。状況は、もっともっと深刻なものです。いいですか? 大衆というものはですね、砂流原さん。何万冊もの本を読み、それらの本を相互に関係させて、しっかりと止揚させたとしても、なお愚かであり続けることが出来る生き物なんです。これは信じられないことなんですけれどね、私はそういう例を幾つも幾つも見てきました。もちろん、そういった方々は、自分のことを大衆とは自称しません。例えば大学教授だとか、例えば法律家だとか、例えば医者だとか。そう名乗っています。要するに知識人であると自称しているわけです。けれどね、砂流原さん。そういった「知識人」こそが、この世界における大衆の基本パターンなんですよ。

「そういった人間は何をしても無駄です、どう足掻いても馬鹿であり続けるしかない。なぜなら、そういった方々は、自分が安住している観念の世界、その内的原理を疑うことが出来ないからです。自分の内側に取り入れたあらゆる思想をその内的原理によって分解し、分析し、消化して。そして、その内的原理に損傷を与えることのないMostly Harmlessなものにしてしまうのです。そんなことをしてしまったら、もうどうしようもないでしょう? だって、自分がもともと所持していた価値観から一歩も外に出られなくなってしまうんですから。いや、価値観というのは間違っていますね。そういう人々は、往々にして価値観を修正します。しかし、その修正は、あくまでも自分という存在の根源をなしている無意識の律法に逆らわない範囲で、です。そんな限定を付けてしまったら、どんなに大量の思想を自分の思考の中に取り入れたとしても、なんの意味もありません。

「そういった方々は、そもそも絶対的な「正しさ」というものに近付こうという意思がないんです。自分の中にある「正しさ」、自分が考える「正しさ」。それを世界に対して適用しようとする。だから、愚かなんです。愚かなまでに傲慢なんです。いや、もう少し分かりやすく言った方がいいかもしれませんね。要するに、そういった方々は……自分が否定しようとしている誰かの身になって、その誰かを否定するということが出来ないんです。誰かの身になって考えることくらいは、そういった方々も出来るでしょう。けれども、自分が今から否定しようとするその誰かの身になって考えることが出来ない。本来は、こう考えないといけないんです。その人はこういう思考をしていて、だからこそこのような結果になった。ということは、その思考のここここが、相手の思想とも、自分の思想とも、相容れないものだ。ということで、その結果は間違っている。けれども、大衆はそうは考えません。自分の観念の世界を支配している内的原理に反している、だから間違っている。

「つまり、大衆は、自分のことしか愛していないんです。真実を愛していない、善良を愛していない、美徳を愛していない。そして、愛さえも愛していない。自分が生まれた時から所属し続けている観念の世界が絶対に正しいと思っている、その観念の世界から曖昧な記憶を取り出しているだけなのに、自分が何かを思考していると考えている。しかも、その観念の世界が何ほどかの「正しさ」を含んだものであればまだ救いがありますけれどね。そうでさえないんです。それは、極限まで単純化されて、咀嚼可能になった、低能の痙攣です。いいですか、私たちが思考と呼ぶものがしっかりと型の定まったダンスだとすれば、そういった大衆が所持している観念の世界は、脊髄の反射で動いているだけの病的な痙攣なんです。「正しさ」に近付こうとするのならば、それなりの作法が必要なんです。敬虔さ、謙譲が必要なんです。なぜなら、自分のことを顧みなければ、自分をより高い場所に持っていくことは出来ないから。しかし、大衆というものは、それを一切持ち合わせていない。

「さて、そのようにして……自分の観念の世界にしか従わない大衆、しかもその上、その観念の世界というものが、完全な虚無であるところの大衆。そういった大衆が暴力革命を起こして、現時点で存在している政権を打倒した。果たして、そこから、「正しさ」というものが生まれうるか? あはは、御冗談を。そんなもの生まれるわけがありませんよ。そもそも大衆には「正しさ」の意識なんていうものはない、自分の中に存在している不快感・嫌悪感、そういったもののせいで、ほとんど本能的に、暴力行為に走っただけなんですから。そこに思想は介在していない。自分の中にある破壊衝動を解消したかったというただそれだけのことです。

「いいですか、砂流原さん。そういったデモのきっかけになった記事、それが仮に「正しさ」を含んだものだとしましょう。そんなことはほとんどあり得ないことですが、そうだと仮定する。大衆はね、その「正しさ」に反応したわけではないんです。そうではなく、その記事の「糾弾」に反応したんです。誰かAが誰かBを非難している。ということは誰かBは悪人だ。悪人であるならば、自分達の不快感・嫌悪感もその誰かBのせいだ。それならば、誰かBに暴力を振るっても問題がないはずだ。どれだけ残酷なことをしても、殺しても許されるはずである。そういう思考過程を通って、大衆は暴力革命を実行する。そんな革命が素晴らしい革命になるわけがありませんよね?

「あのですね、これは多くの人が勘違いしていることなんですが……誰かBが実際に悪人であるか、誰かBが大衆に対して悪を行ったか。そんなことはですね、砂流原さん、革命の正当性とは全く関係がないことなんです。完全に関係ない、絶対に関係ない、さらっさらに関係ない。革命の正当性とは、その革命の担体の正当性にのみ関係してくるんです。革命の担体が「正しさ」を有しているか、それだけが革命の「正しさ」なんです。

「それはなぜか? なぜならですよ、革命の後、全ての社会制度が破壊されたその荒野の上に、新しい社会制度を構成していくのは、革命の担体だからです。誰かBは全く関与しない、だって、誰かBは、もう追放されるか処刑されるかしているんですからね。革命の担体が「正しさ」を有していなければ、革命の後に築かれる社会制度は「正しさ」を有しないことになる、ということは、革命の最終的な結果が「正しさ」を有しないものになるんです。最悪の場合――というか、往々にして――革命前の社会制度よりも、更に悪い社会制度が誕生する。要するに革命というものの究極の問題点はここにあるんです。革命は目的ではない、「正しさ」を達成するための手段に過ぎない。

「さて、それでは、ジャーナリストが起こした暴力革命にもう一度考えを戻してみましょう。それが馬鹿が起こした暴力革命であるということは納得頂けましたよね? 革命の単体は馬鹿であって、その革命は「正しさ」を含んでいない。ということは、その後にどんなことが起こるだろうか? まず第一段階として、デモ隊内部における凄まじい権力闘争が起こります。それはそうですよね、そもそもデモ隊はある絶対的な「正しさ」を持っていないんですから。デモ隊の全員がそれに従うべきだと考える規律を持っていない。デモ隊の方々がなぜまとまっていたかといえば、誰かB、つまり独裁者に対する激怒と憎悪とのゆえです。となれば、その独裁者が排除された今、デモ隊の方々が共通して持つ価値観というものは存在しません。

「いや、正確にいえば一つだけあります。それは「自由」という価値観です。誰々から自由になる、何々から自由になる、それが絶対善であるという価値観。しかし、残念なことに、この価値観は、規律とは相容れないものです。あらゆる価値観の中で、唯一、秩序を作り出せない価値観。それが「自由」です。ということで、デモ隊の中には、秩序を作り出すことが出来る価値観は存在しないということになります。

「まあ、最初はそれでもいいでしょう。追い払うか殺すかした独裁者の所有物を思う存分略奪して、前政権に関わる建物を破壊して。そして、ついでに、前政権の関係者を革命裁判にかけていたぶる。けれど、そのようにして、無秩序を思う存分楽しんだ後に。デモ隊の方々は不意に気が付くんです。このままではいけない。このままでは、全てがめちゃくちゃなままだ。

「だから、なんとか、秩序を取り戻そうとします。集団内部に新しい社会構造を打ち立てようとする。けれども、そのために必要な、集団に共通の価値観を持っていない。となると、どうやって秩序を作っていけばいいのだろうか? あはは、そんなの決まってますよね? 知的生命体のやり方を放棄するんです。もっと古いやり方、下等な、動物的なやり方。つまり「力」によって秩序を形成することにするんです。

「要するに闘争ですよ、砂流原さん。こういった闘争は、知的な駆け引きというよりも、ほとんど物理的な現象のような形で表出するため、大衆が革命を起こした場合、ほとんど例外なく同じ過程を辿ります。あはは、一人一人死んでいく、陰惨で憂鬱なワルツですよ。このワルツで生き残るには、大変複雑なステップを、一つも間違えることなくこなしていく必要があるのですが……とはいえ、単純化すれば、それは二つのベーシック・ステップに分けることが出来るでしょう。

「最初の段階は、まず政治的な「力」による闘争です。デモ隊の中で……いや、もうデモ隊と呼ぶのはおかしいですよね、革命は起こってしまっていて、権力は彼ら/彼女らの手の中にあるんですから。これからは、そうですね、市民権力とでも呼びましょうか。と、いうことで……市民権力の中で、派閥を作って。より影響力のある人間を、より多く、その派閥の中に取り込んだ方が勝ちというゲームです。この段階においては、まだ、辛うじて、混乱は免れています。とはいえ、人が死なないということはありません。相手の派閥の「力」を削ぎ落すために、その派閥に所属している人間について、後ろ暗いところを掘り起こして、あるいは存在しない罪状をでっちあげて。反革命的というレッテルをつけて、片っ端から処刑していく。そういうことが行われるからです。

「さて、この闘争が次第に次第に激化していくと、次の段階に入ります。それは物理的な「力」による闘争です。前段階において、派閥と派閥とは、ごくごく些細な相違点を殊更に言挙げし、それによって自分の派閥の方がより一層革命的であると主張します。しかし、そうはいっても、所詮はどちらも同じ革命を戦った方々ですからね、そうそう大きな違いになるはずがない。ということで、政治的な正当性による闘争は、ある一点で限界を迎えるのです。大体、派閥が二つの派閥にまで絞られてくると、それが起こります。そして、そうなってしまっては、自分の派閥が権力の座により相応しいと主張するために、もっと他のことを持ち出す必要があります。要するに、自分の派閥の方が、より多くの軍事力を保持しているということをいい始めるということです。

「まあ、それはそうですよね、この主張は大変に正しいでしょう。ある集団を別の集団から守るためには、軍事力は不可欠です。それに、国内にある程度の秩序をもたらすためにだって、やはり軍事力に裏付けされた警察制度が必要でしょう。ということで、生き残った二つの派閥は、どちらも、なんとかして、相手よりもより大きな軍事力を保持しようとします。元々の集団、というか、革命によって打倒された権力が保持していた軍隊がまだ残っていれば、その軍隊を自分の派閥に引き込もうとしますし、あるいは、そういうものが残っていなかった場合、もっと単純に、派閥の構成員が武装しあって、派閥と派閥とで殺し合いをします。とにもかくにも、そんな風にして……市民権力は、順調に、確実に、純粋な軍事権力へと変容していくのです。

「こうして誕生した軍事権力は、ほぼ例外なく独裁の形をとります。それはなぜか? そんなこと、問うまでもありませんよね。要するに、権力における慣性の法則のせいです。今まで、この軍事権力は、ごくごく些細なことであっても、自分達の派閥の主張するところと異なっているというそれだけの理由で別の派閥の人間を処刑してきました。その不寛容さ、排他性が、軍事権力となってもそのまま残ってしまうということです。この軍事権力は、自分と異なった意見、ほんの僅かでも異なった意見を、絶対に許しません。巨大な軍事力を背景に、集団内部に警察制度を張り巡らせて。そうした異なった意見を持つ者を、片っ端から逮捕していく。そうしないと安心出来ない、いつどこで新しい派閥が生まれてしまうか分からないから。

「このようにして、闘争のワルツを踊り終えると。市民権力は、既に、自由と民主とを尊重する、「理想的な」集団などではなくなっています。単純な軍事独裁になっているか、あるいは、権力を奪取した「暫定政府」と闘争に敗北した「反政府テロリスト」とに分かれて、永遠に紛争を続けるか。そのどちらかになってしまっているということです。さて、そんなわけで……もう一度考えてみましょう。このケースで、ジャーナリストが書いた記事が、人々にもたらしたものとは何か? それは、絶対に、「正しさ」ではありません。人間の幸福でさえないのです。それは、絶望的なまでの独裁制度か、あるいは永遠の殺し合いか、どちらかです。前政権の権力者達の死体をおまけにしてね。

「ああ、そうそう! 言い忘れるところでした。たった一つだけ、大衆のデモがこのような悲劇的な結末に陥らない場合があります。それは、そういったデモ行為が、その打倒対象の政権の権力闘争のために利用された場合です。政権の内部に、集団の構成員のことを非常に思いやっている、理想主義的な、とはいえ非主流派の「政治家」がいた場合。その「政治家」が、デモ隊をコントロールして、混沌とした権力を正しい秩序の方向に持っていくことが出来た場合。こういったケースにおいては、その「政治家」が、そもそも愚かな大衆とは全く違うレベルで物事を考えることが出来るので、革命後の権力も、無慈悲極まりない闘争の泥沼に嵌らずに済むというわけです。とはいえ……これはジャーナリストの記事によって世界が変わったというわけではありませんよね。世界を変えたのはその「政治家」です。あはは、先ほど私が申しあげた、世界を変えることが出来る三つの職業のうちの一つです。

「そんなわけで、ジャーナリストの記事は……人々を募金に駆り立てたとしても、世界を変えることは出来ない。人々をデモに駆り立てたとしても、世界を変えることは出来ない。いや、正確にいえば、悪い方向に変えることは出来るかもしれないが、「正しさ」の方向に変えることは、絶対に出来ない。私としては、こういう結論に至らざるを得ないということです。」

 マコトは。

 そこまで話し終えると。

 いつものように。

 へらへらと笑いながら。

 一度。

 その口を。

 閉じた。

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