第二部プルガトリオ #18

 さて、一方の真昼はというと……マラーの髪を、丁寧に丁寧に、櫛で漉いてあげていた。マコトと違って、真昼もマラーもシャワーを浴びてはいない。真昼は、いつもの通りの「特別なお客様」コンプレックスというか、自分が特別扱いされていることへのなんとなくの拒否反応から、あまりそういった設備を使いたくないと思っていたし。それからマラーはというと……マコトに通訳して貰って、入るかどうかを一応聞いてはみたのだが。実のところ、あまりシャワーというものが好きではないらしい。

 ASKの、あのラグジュアリーなシャワーブースで、生まれて初めてマラーがシャワーを浴びた時のことを思い出して頂ければ分かると思うが。あの、いきなり水が降ってきた時のびっくり感、それになんだかよく分からない泡、目に入ると痛いし口に入ると苦い泡で、全身がもこもこになってしまった時のわたわた感。どうやらああいったことを思い出してしまうようなのだ。そして、もともとが国内避難民であるところのマラーであるので、ちょっとくらい体が鉱石の粉塵にまみれていても気にならない。そんなわけでシャワーには入らなかったというわけだ。

 とはいえ、髪の毛の中までが粉塵だらけの状態で、そのまま歩かせるというのは、なんとなく駄目な気がする。ということで、真昼は、マラーの着替えをさせた後で。一応は、肌についている粉塵を拭き取って、それから、髪の毛に櫛を入れて、その中の粉塵を払い落とそうとしているというわけだ。

 貯(略)場を見学している時に、レーグートの、完全に興味がないし心底どうでもいいけれど、それでもそこそこ楽しめないわけではないし、次から次へと続いていく話を聞いているうちに。真昼の中の不安な気持ち、不快な気持ちは、なんとなく紛れた感じになっていた。

 アーガミパータに来る前に、いつもいつも、暇があると、スマートバニーでアプリを開いてSINGを見ていたところの真昼なのだけれど。なぜそんなことをしていたのかといえば、次から次へと流れていく大して意味のない言葉の流れを見ていると、なんとなく気が紛れて安心してくるからだった。SINGを見ている時だけ、真昼は、様々な焦燥感みたいなものから解放されることが出来ていた。きっと、レーグートの解説は……それと同じような効果を果たしたのだろう。

 だから、マラーの髪の毛を触っていても、見学ツアーが始まる前のような生理的な拒否反応は起こらなかった。ずっとずっと冷静に、自分の中の感情に対応出来ている気がする。自分の中のマラーに対する考え、あるいは……それに付随する色々な考えが、少しずつ、少しずつ、まとまってきている気がする。

 しかし。

 それは。

 なんとなく。

 怖いことだ。

 結局のところ、自分が一体何を考えているのかということ。今までの真昼は、それを理解出来ていなかった。まとまっていない、割れたガラスの破片みたいなフラグメントが、頭蓋骨の中できらきらと漂っていただけ。黒い光を放ちながら、脳髄を切り裂いていくように漂っていただけ。けれども、それが、次第に一つの形を作り始めている。

 その結果として、真昼の肉体の中に、一枚の黒い鏡が現れることになるはずだ。真昼の全身を映し出す暗黒。ちょうど日の光を受けて地の上に描き出される真昼の影と同じ形をした姿見。その鏡には……真昼の全てが映し出されることになるだろう。真昼が、今まで目を逸らしていたところ。柔らかい内臓の裏側、虚ろな骨の中身、血管と血管との間の、とてもとても暗い部分。耳を澄ませば、どくんどくんと心臓が脈打つ音がする。真昼の全身に、その暗い部分に、血液を流しだす音が。

 黒い。

 黒い。

 黒い色をした鏡。

 しかし。

 鏡自体は問題ではない。

 本当に、問題なのは。

 鏡を見た、真昼自身が。

 それを見て。

 一体、何を。

 思うのかということ。

「砂流原さん、それ、飲まれないんですか?」

 気が付くと、目の前にマコトがいた。といっても、さっきまでの、真っ裸の姿でいたわけではなく、一応は、防弾ベスト以外の服を身に着けていた。ひどく無造作な感じで指差しているのは、ベンチの上に置いてある、瓶入りのヨーガスである。

 ちなみに、念のために位置関係を書いておくが、まずベンチにはマラーが座っている。大人しく、ちょこんという感じで座っていて、気持ちよさそうな顔をして、じっと目をつむったままで、真昼に髪を触れられるままにしている。その後ろに真昼が立っている。さっきからずっと書いていることだが、マラーの髪に櫛を通して、その中の粉塵を落としている。それから、その真昼とは、ベンチを挟んで反対のところにマコトが立っているということだ。ということで、真昼とマコトとはちょうど向き合う形になっている。

 真昼は、別に喉が渇いていないというわけではない。というか、むしろ乾いている。いくらデニーちゃん特製の身体強化の魔学式があるとはいえ、まともに水分を摂取したのはいつだったろう。たぶん、ASKの製塩所で点滴を受けたのが最後だったはずだ。だから、ヨーガスを飲みたくないわけではないのだが……それでも、なんとなく、手を付ける気にならなかった。この女から施しを受けるという事実が気に食わなかったのだ。

 とはいえ、よくよく考えてみれば。もう、真昼は、十分に施しを受けている。そもそもこの採掘場に連れてきてくれたのがマコトであったし、それ以前の話として、耳につけているこのイヤリングだって、その対価はマコトが払ったのだ。所詮は、真昼は、マコトに、子守りをされている身分に過ぎないのだということだ。それにも拘わらずこのヨーガスだけ飲まないというのは。なんだか、馬鹿馬鹿しい、子供じみた、行為である。

 ちなみに。

 マラーは。

 貰って、すぐに。

 飲んでしまった。

 今、マコトが、ヨーガスを飲むのか飲まないのか問い掛けてきたのは。別段悪意があったというわけではないだろう、ただ単純に、飲まないのならば、もったいないから自分が飲むといいたいだけだ。マコトは、幾つもの戦場をくぐり抜けて生きてきた女であるため、食料・飲料の問題については非常に敏感であって、ほとんど本能的に、一片一滴たりとも無駄にしないタイプなのだ。

 とはいえ……この問い掛けに対して、飲まないと答えてしまったら。それは、あらゆる意味で、真昼が、何か、とても低劣な人間であることを証明することであるような気がする。そもそも、これは、あの選鉱場で働く労働者が飲むべき物であって。ただただマコトのことが気に入らないというだけで、真昼がそれを飲まないということは、それを無駄にするということは、あってはいけないことなのだ。

 だから、真昼は。

 こう答えるしか。

 ない。

「いえ、頂きます。」

「あ、そうですか。」

 マコトは。

 あっさりと。

 そう答えた。

 いやー、っていうかさ。たかがヨーガス一瓶で、ちょっと考えすぎじゃない? 真昼ちゃんがそれ飲もうが飲むまいが世界の大勢に影響はないですよ。いや、真昼ちゃんにとっては重要なことかもしれないけどさ、それでもこんなクソ長いモノローグするほどのことではないですよ、明らかに。

 まあ、それはそれとして。真昼とマラーとも、もう着替え終わっていた。というか、マコトがシャワーを浴びていた間に、大体のことは終わっていたのだ。真昼がマラーの髪をいじり始めたのは、もちろんマラーのことを考えてのことだが、マコトのことを待っている間、手持無沙汰だったからだという理由もあった。

 だから、今すぐにでも、更衣室の外にいるレーグートに声を掛けて、お着替えタイムを終わらせてもいいのだが。なんとなく、真昼には、その決心がつかなかった。真昼ちゃん「なんとなく」が多いですね。けれども、今の真昼にとっては、自分自身の気持ちさえも、よく分からないもの、測りがたいものになっていた。

 たぶん何かが終わってしまうことが嫌なのだろう。何かが終わって、そして、その何かではない何か、本当に重要な何かに向き合わなければいけない時が来るのが嫌なのだろう。だから、終わってしまう時を先延ばし先延ばしにしたいと思っている。今という時が好きだというわけではないが、とはいえ、これから来る時、全ての清算を終えて、支払いをしなければならない時が訪れるのが怖い。だから、今が永遠に続けばいいと思っている。今の真昼は、そんな心境なのだ。

 そろそろ……帰らなければいけない時間だった。外は暗くなりかけている。あれほど凄烈にアーガミパータを照らし出していた太陽が、これ以上赤い赤はないと思うほどの赤い血を滴らせながら、西の方向へと落ちていく姿。

 夕方が終わり夜になる。時間の問題だ。そして、夜になれば、帰らなければいけない。カーラプーラへ、デニーのいる場所へ。そして、デニーと向き合わなければいけない。真昼は、それが、その時が、来て欲しくないのだ。

 もちろんマコトとは一刻も早く別れたい。陳腐ないい方となってしまうが、こんな女と一緒の空気を吸っていることさえ嫌なくらいだ。けれども、少なくとも、「それ」と向き合わなければいけなくなるよりはましだった。「それ」がなんなのかということは、真昼にはよく分かっていなかったにせよ(「それ」がなんなのか知るということがすなわち「それ」と向き合うことだからだ)、「それ」が、今の自分を、今の真昼を、取り返しがつかないくらい破壊してしまうことになるということだけは分かっていた。

 だから。

 真昼は。

 マラーの髪に。

 櫛を通しながら。

 口を開く。

「ここには、よく来るんですか。」

「はい?」

「あなたは……言っていましたよね、いつもは労働者用のロッカールームを使っているって。そんなに、何回も、ここに来たことがあるんですか。」

「あー、そういうことですね。いや、何回も来たことがあるってわけじゃないですけど。一週間かそこら、ここに……っていうのはウーパリーパタラにってことですけど、とにかく、ここに住み込みで取材してたんです。」

「住み込み?」

「ええ。」

「なんで……なんでですか?」

「なんでというのは?」

「何か、ここで、特別な事件でもあったんですか?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけどね。ほら、私の今回の取材って、別に何々を取材するって決めてここに来てるわけじゃないじゃないですか。アーガミパータに関する全体的なルポタージュっていうか、そういうのを書く時って、まずは、とにかく、そこに住んでいる生命体がどういう生命体なのかっていうことを知らなければいけないでしょう?

「特に、アーガミパータに住んでいる生命体は、私達みたいな人間至上主義の集団に住んでいる「人間」とは、全く異なった思考様式をしていますからね。そういう思考様式について、百パーセントとはいわないまでも、少しくらいは知っておかないと、とんでもない間違いを犯すこともあり得ますから。とにかく、住み込んでみて、実際にどういう生活をしているのかっていうことを確かめてみなければいけないんですよ。

「だから、まあ取材のためといえば取材のためなんですけど……「質問」とか「調査」とかって感じではないですね。一緒に生活をしてみて、雑談をしてみて。生態系を確認するっていうか、そういうことです。別にここだけじゃないですよ。暫定政府の支配地域、例えばジャナ・ロカにも何日か住んでみましたし。それに、ほら、砂流原さんもご存じの。アヴィアダヴ・コンダのダコイティの方々と生活していたこともあります。いやー、あの時はASKの襲撃があったりして色々と大変でしたけどね。そうそう、ASKにも泊まらせて頂いたことがありますよ。ただ、あそこは「雑談」って感じのところじゃなかったですけどね、あはは。」

 マコトはそう言うと。

 へらへらと、笑った。

 マコトの、こういうところは……本当に、MJLなんだなと、素直に思わされるところだ。取材の方法というか、取材に対する態度というか。もちろん、真昼が思うところのMJLとは違って、その動機は、この世界をより良くしていこうという力強い意志などではなく、ただ単純な、剥き出しの好奇心なのだろうが。それでも、軽々と真似することなど出来ない、ちょっとした偏執狂のような、完璧を求める態度。

 そのようにして、全てのことを、知りうる限り知り尽くして。そして、その結果として、マコトはマコトになったというわけだ。真昼にとって一番理解出来ないのはそこなのである。マコトは知っている。ニコライ・サフチェンコが、人類のために、どれほどまでの高邁さで自己を犠牲にしたのかということを。ツ=シニ・ベインガが、スペキエースのために、どれほどまでの気高さで権力に抵抗をしたのかということを。そして、マコトは、知っている。ダコイティが……いや、パンダーラが。どれほどまでに、どれほどまでに、そう、その命を懸けてまで、正義を守ろうとしたのか、「正しさ」を守ろうとしたのかということを。

 それにも拘わらず、マコトはマコトなのだ。真昼は……確かに、この世界について、今までとは全く異なった考え方をするようになっていた。マコトによって、この世界がどういうものなのかということを、改めて見せつけられて。真昼の中の世界は粉々に崩れ去っていた。

 そう、確かに。この世界に住むいわゆる普通の人々は、真昼が思っていたようなものではないのかもしれない。自由意志を持ち、運命を切り開こうとする、「真実の生活」をしている人々なんていうものは、存在しないのかもしれない。真昼はそう考えるようになっていた。

 しかし、それでも、真昼の中には、まだ一つの「何か」があった。砂流原真昼は、醜い裏切り者なのかもしれない。この世界は、権力者によって形作られる一つの巨大なシステムに過ぎないのかもしれない。そして、そういった、真昼にとって正しくない事実が、真昼にとって最悪の事実が、マラーを傷付けないように守っていて、大衆を幸福なまま生活させているのかもしれない。それでも、例えそうだとしても、真昼には、まだ、縋り付くものがあった。この底知れない黒い鏡の中に落ち込んでいく真昼の手が掴んでいる、たった一枚の羽根があった。

 それは。

 もちろん。

 ただただ正しくあろうとする。

 そんな力に満ちた、光を放つ。

 孔雀の羽根。

 つまり。

 パンダーラの羽根だ。

 パンダーラが、パンダーラこそが、パンダーラだけが。未だに真昼が「正しさ」というものを信じられている、その唯一の理由なのだ。真昼にとって、パンダーラの「正しさ」は絶対であった。その「正しさ」を持つ人を殺したのは、確かに自分であったけれど。それでも、いや、それだからこそ、その「正しさ」は、真昼にとって、何よりも堅固で何よりも光輝なものであったのだ。パンダーラの肉体が死んだとしても、その精神は、決して死ぬことがない。その「正しさ」は、何ものにも打ち砕けない。

 そして……極言してしまえば、その「正しさ」があるからこそ、真昼はまだ真昼であることが出来ているのだ。真昼の中の何もかも、全てのものを飲み込んでしまった黒い鏡の中で。真昼は、辛うじて、黒々と開いた自らの影の中に落ちていかずにいられている。その足元を支えているのは、一枚の羽根、パンダーラの羽根。だから、真昼は、マラーのことを、守らなければいけないと思い続けることが出来ている。パンダーラなら……パンダーラなら、絶対に、マラーのことを見捨てないだろう。なぜなら、それが「正しさ」だからだ。そう思っているからこそ、真昼は、マラーに対して、愛を注ぎ続けることが出来ているのだ。その愛が、どれほど脆く、どれほど危ういものであるにせよ。

 パンダーラは。

 それほどまでに。

 「正しい」のに。

 そんなパンダーラと。

 過ごしたことがあるはずのマコトが。

 なぜ、未だに、マコトのままなのか。

 それが、真昼には、どうしても理解出来なかった。自分自身が正しいからではなく、この世界が正しいからでもなく、パンダーラが正しいから。「正しさ」を信じるには、それだけで十分ではないか? なぜ、マコトは、「正しさ」を信じないままでいられているのだろうか。

 その考えは、真昼にとって、疑念を通り越して恐怖にまで至っていた。なぜなら……もしも、もしも、マコトが、真昼の中のパンダーラまで壊してしまったら。その美しい緑と青と赤との羽根に、戯れに火をつけて。どろどろと、悪い夢を見ている夜みたいに、真黒な色の炎。あのへらへらとした笑い顔を浮かべたまま、世界の光を焼き尽くしてしまったら。その黒い炎は、全ての温度を失って、結晶化して……ああ、そう、それこそが、真昼の中で、本当の黒い鏡となってしまう。

 一つ一つの欠片。

 一つ一つの欠片。

 一つ一つの欠片。

 黒い、色の、鏡。

 真昼は、真昼は……一度、口を開いた。だが、何も言わないままで、その口を閉じる。マコトに向かって、パンダーラのことを聞きたかった。なぜ、パンダーラに出会ったにも拘わらず、あなたは、未だに、「正しさ」を信じられないでいるのか。真昼は、そのことを、聞きたかった。けれども、それは、あまりにも危険な願望だった。永遠に目をつぶっていれば、目の前に何があるのか、永遠に知らなくて済むのだ。けれども、しかし、とはいえ……それでは、永遠に、疑って生きていかなければいけないというのか? 自分の前に、もしかしたら、黒い鏡があって。その向こう側から、自分の影が覗き返しているかもしれないと、永遠に怯えて生きていかなければいけないのか?

 もしも、それが、破滅という結果に繋がるのだとしても。真昼は、目を開けてしまいたかった。分からないということは息苦しい。まるで、固まり切っていない琥珀の中に、透き通るみたいにして閉じ込められているみたいだ。こんな思いをし続けるのならば、目を開いてしまいたかった。けれども、それでも……今の真昼には、それは出来なかった。いつかしなければいけない、しかも、そのいつかは、間近に迫っている。本当に、間近に。けれども、それを、今にしたくはなかった。

 だから。

 真昼は。

 もう一度、口を開いて。

 今度は。

 当たり障りのないこと。

 マコトに、問い掛ける。

「あなたは。」

「はい?」

「ここに、一週間くらい、住んでたんですよね。」

「そうですね、そのくらいは。」

「じゃあ、選鉱場で働いている人達のことも見たんですか?」

「ええ、もちろんです。」

「その人達は、どういう人達でしたか?」

「どういう人達って、どういうことですか?」

「どんな風に働いていたとか……どんなことを考えて生きているのかとか。それか、あなたが、その人達を見て、どう思ったのかとか。そういったことを、教えて欲しいんです。」

 ここで念のために書いておくが、真昼達が見学した選鉱場には労働者はいなかった。真昼達が見学したのは、坑道も、竪穴も、貯鉱場も、選鉱場も、その全てが操業を停止したところだったからだ。というか、いくらユニコーンがついているといえ、未だに操業中の現場に「特別なお客様」を連れて行くのは、あまりにも危険なのであって。そんなことをするわけがない。

 だから、真昼が見た選鉱場というのは、労働者がいない、空っぽの選鉱場であった。もちろん、その選鉱場でどのように労働者が働いていたのか、レーグートの解説はあったのだが。それでも、実際に働いているところを見たわけではない。ちなみに、マコトが取ってきたヨーガズは、先ほど書いた通り「採掘場」の労働者用の物であって、選鉱場の中ではなく、この駅まで帰ってくる途中の道のりに設置されていたものである。

 とにもかくにも、真昼は、選鉱場の労働者達を見ていなかった。だから、そこで、どのように労働者達が働いているのかということが分からなかった。採掘場で働いている労働者達については、遠くからではあったが、実際に何人か見ていた。皆が皆、労働の喜びに溢れ、幸せそうに働いていた。もちろん、選鉱場の労働者達も、同じように幸福の中で働いているのだろうが――権力の作り上げたシステムに組み込まれて――それでも、なんとなく、マコトに対して、実際のところはどうなのかということを聞いてみたくなったのだ。

 その問いに対して。

 一口、ヨーガスを含んで。

 それを、飲み込んでから。

 マコトは答える。

「そうですね……別に、あの人達について深いこと考えたことはありませんが……なんでしたっけ、まず、どんなふうに働いているのかっていうことですよね。

「選鉱場での作業、っていうのは、つまり手選の作業っていうことですけど、第二次神人間大戦直後から大して変わっていないらしいんですよね。それは、センサーとか、そういうのはちょっと新しくはなってるみたいですけど。それ以外の部分は何も変わっていない、ベルトタイプのコンベアーの上を流れていく鉱石を、人間の目で、一つ一つ確認していく。

「ほら、この採鉱場の目的って、一人でも多くの人間を雇用することですからね。あんまり効率化しても仕方がないんですよ。だから、作業内容を新しくしていくメリットがない。たぶん、その気になれば全自動の工程にも出来ると思うんですけど、そんなことをしてしまったら、選鉱場で働いている人達の全員を、どこか別のところで雇用しなければいけなくなりますからね。

「選鉱の作業というものは、人間を、特に国内避難民を雇用するのには、これ以上ないというくらい都合がいいものですからね。まず、いうまでもなく、人をたくさん必要とします。砂流原さんもご覧になりましたでしょう? あのコンベアーの長さ。捨石を一個でも見逃さないようにという名目で、たくさんの人間を配置することが出来ます。ちなみに、コンベアーのどこに配置されるかというのは、その日、勤務を開始してからどれくらいの時間が経っているかによります。勤務を始めたばかりで疲労が溜まっていない人はコンベアーの始まりの方に、そして、時間が経つにつれて、疲労が溜まっていくにつれて、終りの方に移動していくわけです。始まりの方が、取り除かなければいけない鉱石が多い分、体力が必要になってきますから。

「それから、上達していくことに対する達成感もある。ああいう作業は、人間の感覚、視覚という感覚を使うものですから。経験によって上達していくんです。ほら、砂流原さんも、今日、ご覧になりましたよね。選鉱場の中でコンベアーのレーンが四つに分かれているのを。あれ、ただ単に分かれているわけじゃないんですよ。レーンごとに鉱石が流れていく速度が違ってるんです。上達していくと、速度が速くなっても、捨石を見逃さずにいられるようになるでしょう? そういう方が速度の早いコンベアーの担当になるというわけです。人間という生き物は……そういうちょっとした違い、どうでもいい違い、大したことがない違いに、信じられないくらい傲慢な誇りを持つものですからね。

「まあ、そういった話は置いておくとして。とにもかくにも、選鉱場は、たくさんの人間を消費するために、わざと旧式に保ってるわけです。そんなわけで、どんな風に働いているのかっていうのは、今日の見学ツアーで説明してもらった内容とほとんど変わらない感じですね。

「えーと、それから、どんなことを考えているのか、でしたっけ。いやー、そればっかりは私には分かんないですよね。実際に働いている人達の気持ちは、実際に働いている人達にしか分からないんじゃないんですか? いや、まあ、アルファクラス知性所有者の方々なら分かるかもしれませんけどね、あの人達には分からないことがないですから。とはいえ、私はアルファクラス知性所有者じゃないので、やっぱり分かんないですね。ただ、まあ、とはいえ……少なくとも不幸ではないと思いますよ。そりゃあ、幸せで幸せでしょうがないっていう感じじゃありませんけど、それでも、そこそこは幸福だと思います。

「私はですね、レイフェルさんの……えーと、うちの編集長なんですけど、そのレイフェルさんっていう人の命令で、仕方なく、嫌々ながら、エスペラント・ウニートにある工場を取材したことがあるんですよ。そこは国が定めた労働条件に違反している、いわゆる違法な工場だったんですね。だから、私は、記者っていう身分を隠して、普通の労働者っていう形で取材させて頂いたんです。ほら、私って、こう、海果系でしょう? ポンティフェックス・ユニットの白人と、愛国の海果系と、といえば、不法移民の典型例、いかにもそういうところで働きそうな二大人種ですからね。潜入取材にはうってつけの人材だったんです。いや、まあ、正確には、私は月光国の海果系ですけど。そういう工場のオーナーには、そんな違いは分からないですからね。

「本当に、あそこと比べれば、ここの選鉱場は天国ですよ。なんていうか、あそこは……えーとですね、私、ちょっと色々とあって愛国の刑務所に入ってたことがあるんですけどね。ちょうど、あんな感じなんです。いやー、思い出すたびに笑っちゃうんですけどね。あの工場の入り口には、こう、すごい笑顔の労働者のイラストが描いてあって、そのイラストから吹き出しが出てるんですね。「私達はここで働くのが何よりの喜びです」って。それで、愛国の刑務所の入り口にも同じようなことが描かれてるわけですよ。「労働は歓喜」だったかな、そんな感じのことが愛国語で書かれてる。本当に、入り口からして相似形なわけです。

「休憩は一日一回だけ、三十分間の食事休憩だけです。いや、正確には、別に何度休憩をとってもいいんですけど、その度に給料が引かれるんです。休憩した回数、あるいは時間ごとに給料が引かれてしまうので、その三十分間の休憩以外で休憩してしまうと、まともに生活出来るような金額の給料が貰えなくなってしまう。ということで、普通の労働者は休憩出来ないというわけです。

「それではトイレはどうするのかっていうと、作業台の下に小さな箱が置いてあるんですね。その中にしろっていうんです。その中にして、その日一日の作業が終わってから、トイレで処分しろと。いやー、本当に、マジかよって感じでしょう? これがね、マジなんですよ。あのですね、自分がするのはいいんですよ。まあ、よくはないけど、いいとしましょう。問題なのはですね、作業場の中が、完全に、糞尿の悪臭で満たされてしまうということです。ああ、ちなみにトイレットペーパー代は自腹です。

「それから、もっとひどいのが病気になった時ですね。私は割合に健康なほうなので、一か月の潜入取材の期間中、なんとか病気にならないで済みました。けれど、あんな労働環境で働いていれば、普通は病気になるでしょう。病気になれば、もちろん仕事を休みますよね? で、そうやって仕事を休むとどうなるかというと、罰金を払わなければいけなくなるんです。

「いや、これは全然冗談とかじゃなくて、本当に罰金を払わされるんですよ。あの時の契約書の写真、こっそりと撮った写真、まだ持ってますけどね。そこにちゃんと書かれてるんです。もしも労働者の側が、雇用者の予想出来ない理由で休みを取った時には、商品の製造スケジュールを混乱させて、雇用者に損害を与えることになるのだから、その分の損害を賠償することって。もちろんそれは給料から差っ引かれることになるんですけど、休んだ日数によっては、給料を貰うどころかこっちが借金を背負わされることさえあり得るんです。

「だから、当然、労働者は休めないんです。そんなわけで、どんなひどい病気になっても休まずに工場に来る。その病気がですね、これがまた、感染性が非常に強い病気だっていう場合もあるわけですよ。そうなると、工場中の労働者にその病気が広がっていくわけです。それでも皆働きに来るので、ぱっと見ただけではリビングデッドの群れのように見えましたね。はははっ! そうそう、そんな感じでした。まさに死霊学者の方がリビングデッドの群れを工場で働かせてるって感じですよ。

「私が働いていた時に知り合いになった方が一人いましてね。愛国で政治犯として投獄された後で、模範囚としてなんとか仮釈放を獲得して。その後で、すぐにエスペラント・ウニートに亡命してきた方らしいんですけど……あはは、刑務所の話で色々と盛り上がりましてね。どんな拷問をされたのかとかそんなことです。とにかく、その人も病気になってしまったんですよ。

「ちょっとした肺炎みたいな病気が大流行りしましてね。工場にいた人のほとんどがその肺炎にかかってしまって。まあ、私は大丈夫だったんですけど、その人は見事に感染して。でも仕事を休むわけにはいかない。ただでさえ少ない給料がこれ以上安くなってしまったらもう生活できない。ということで、その方は肺炎にかかったままで何日も何日も働き続けたんです。

「それで……確か一週間くらい経った頃でしたかね。私のすぐ横ですごい勢いで咳込み始めて、その咳が全然止まらなくて。それで、そのまま血溜まりができるほどの血を吐き出しながら倒れ込んでしまったんです。

「私、びっくりしてしまいましてね。とにもかくにも救急車を呼ばなければいけないじゃないですか。自分の携帯電話は工場に入る時に一時的に没収されてしまうので――セキュリティ上の理由だか、工場内の電気機器に悪影響を与えるという理由だか、説明する人によって違ったんで、結局なんで没収されたのかよく分からなかったんですけど――工場の責任者の方に頼んで救急車を呼んで貰おうとしたんです。

「そうしたら、その人、なんて言ったと思います? 工場に直接救急車を呼んでしまうと行政の指導が入ってしまう可能性がある。それは大変都合が悪い。今からその人を早退扱いにするので、工場の外まで連れて行って後は自分でなんとかさせなさい。いやー、さすがに私、それ聞いた時、噴き出してしまいましたよ。あまりに面白過ぎて。

「でも、まあ、そこでなんだかんだ言ってても仕方ありませんからね。とにかく、言われた通りに外に連れて行って。近くの公園に行ってから、その公園にいる人に携帯電話を借りて。そうして、その人が救急車に乗ったのを見計らってから工場に戻りました。これ、後で給与明細を見て気が付いたんですけどね、その人を公園に連れて行った時の時間は、きちんと休憩時間として扱われて給料から引かれていました。

「ここまでの話だけでもなかなか笑えるでしょう? でもね……はははっ! 本当に面白いのはここからなんですよ。その後で、その人について追跡取材しましてね。一体どうなったのかっていうことを。いや、結論としてはもちろん死んでたんですけどね。その死に方がまた傑作なんですよ。

「私が救急車まで運んだ後で、救急車の中で、その人についての色々な身元調査が行われたらしいんです。いや、こういうことってエスペラント・ウニートでは結構あることでしてね。なぜ身元調査をするのかっていうと、その人が保険に入っているかどうかっていうことを調べるんです。ああ、砂流原さんはご存じないかな? エスペラント・ウニートには国民皆保険という制度が存在しないんですよ。民間の保険と、それから貧困層向けに国が売り出してる安い保険があるにはあるんですけど……ただそっちの保険は対象になる病気がかなり限定されていてほとんど役に立ちませんからね。なにせ虫歯の治療さえ対象外なんです。

「それで、その人が保険に入ってるかどうかっていうことが調べられたんですけど。どうやら、どの保険にも入っていない、貧困層向けの保険にさえ入っていないということが分かったんです。で、これは不味いぞってなった。なぜ不味いのか? 実はですね、エスペラント・ウニートでは保険に入っていない人というのは病院から受け入れ拒否をされてしまうことが大変多いんです。無保険の方は大抵が貧困層ですからね。お金もなければ保険も入っていない、そんな方に医療費が払えるはずがありません。となると、そういう人を受け入れると、病院側としても、ほとんど確実にタダ働きになってしまいますからね。そういう人はなるべく受け入れたくないということです。

「いや、もちろん保険に入っていないからっていう理由で受け入れ拒否をされるわけではありませんよ。そこまで非人道的なことをするわけがありません。というか、そういう理由で受け入れ拒否をすることは「救急医療活動に関する連邦法」で禁止されています。ただ、そうはいっても救急処置室が満杯だという理由でなら拒否することが出来ます。そりゃあそうですよね、救急処置室が満杯なら、救急の処置をすることが出来ないんですから。とはいえ……エスペラント・ウニートにはですね、救急処置室が満杯ではない病院なんてないんですよ。

「なぜって、普通に病院に行って普通に受付をしていたらいつまでもいつまでも治療を受けられないからです。いつまでもいつまでも待合室で待たされることになる。よほどお金を持っている方向けの病院なら別ですけどね。そういう病院以外は、人件費を極限まで切り詰めるために医療事務従事者をほとんど雇わないんです。それにも拘わらず、医療事務というのは、この世のあらゆる事務の中で、最も手間がかかる事務作業のうちの一つです。主に保険の確認手続きのせいでね。そんなわけで、事務作業は遅々として進むことがなく、結果的に待合室はいつも人で溢れている。

「けれども、救急処置室ならそういう事務作業をスキップすることが出来るんです。一応は、その病院が対象施設になっている保険に入っているかどうかだけは聞かれますけどね。それ以上は聞かれない。なんせ緊急事態が起こった時のための場所ですから。いちいち事務作業なんてしていられないでしょう。

「そんなわけで、エスペラント・ウニートでそこそこ人生経験を積んだ方々は、病院に行くとなった時に、救急処置室に行くんです。それは、よっぽど救急とはかけ離れた理由で病院に行く時は別ですよ。眼鏡を作るために目の検査をするだとか美容整形手術のためだとか。そういった処置は、そもそも救急処置室ではやってませんからね。けれど、それ以外の人は、まあ、大体の場合、救急処置室に行く。ということで、救急処置室はいつも満杯になってしまっているんです。

「さて、その方も、行く先行く先の病院で受け入れを断られ続けました。確か六つか七つの病院に断られたんじゃなかったかな? こうなると救急救命士の方々も困ってしまいますよね。そもそも地方自治体の予算削減のために救急車の数も著しく減らされている。この人だけに救急車というリソースを割いているわけにはいかない。なんとか、この人のことを、処理しなければいけない。

「もちろん救急救命士の方々だってこういうケースは山ほど経験しています。だから、こういう場合にどうすればいいのかという手順も決まっている。なるべく人目につかない病院を選んで、その病院に救急車を止めて。それから、その病院の入口の所に勝手に患者を置いていくんです。いや、勝手にといってもちゃんと病院の職員に声は掛けますよ。でも、職員に受け入れを断られる前に、救急車に戻ってそこから走り去ってしまうんです。

「こうすれば、少なくとも厄介払いは出来ますよね。きちんと……いや、きちんとといっていいのかどうかは分かりませんけど、一応は、形の上では、病院に連れて行ったわけですから。そういうわけで、その方についての責任は病院に移りました。そうはいっても、病院側としてもそういう患者はなるべく治療したくない。金にならないし、忙しいし、他の患者、ちゃんと保険に入っている患者を治療したい。

「ということで、一体どうするかというと、そのようにしてご来院頂いた方には、きちんと順番を守って頂くことにするわけです。砂流原さんもご存じだと思うのですが、緊急処置室というのは、患者を治療する順番を決定するに際して、基本的にはトリアージの原則に従います。患者の重症度を評価して、それによって優先度のタグ付けを行う。そして、そのタグの順番に治療していくということですね。

「エスペラント・ウニートで採用されているトリアージの場合は、四つのタグが存在しています。一つ目がブラック・タグ、これは既に死んでしまっている人か、あるいは治療しても無意味である場合につけられます。このタグをつけられた人は治療がほとんど無意味ですので、後回しにされる。二つ目がレッド・タグ、これは即時治療の必要性を表すタグです。普通は、このタグをつけられた人から治療していきますね。三つめがイエロー・タグで、一定程度の猶予ありを意味します。このタグをつけられた人は、レッド・タグをつけられた人達の治療が終わるか、あるいは猶予がなくなってレッド・タグに付け替えられた時に行われる。そして、最後のタグがグリーン・タグ。これは軽症者につけられるタグで、最後の最後に治療されるか、あるいは緊急処置室以外の一般の診療科に回されることになります。

「さて、救急車によって遺棄された患者には、通常、そういった人間がどのような症状を呈していたとしてもイエロー・タグがつけられます。つまり、レッド・タグをつけられた患者の治療が終わった後に治療しますということですね。あの方も、えーと、つまり私が働いていた工場で倒れた方もその例外ではなく、やはりイエロー・タグがつけられました。

「これは、その方の実際の症状から考えると、ちょっとおかしいことです。だって、その方は、血反吐を吐きながら倒れて、そのまま立ち上がれなかったくらいにひどい症状だったんですよ? 私が肩を貸してようやく公園まで行けたし、公園にいた時は、ずっとベンチに横たわっていました。今にも死にそうな状態だったんです。それにも拘わらず、「一定程度の猶予あり」とされるのは、どう考えても理に合わないし筋が通らない。

「つまり、病院としては、症状が軽いから後回しにしたいわけではなかったんです。そうではなく、その方のことを治療すると病院に損害が出てしまうから後回しにしたかった。緊急処置室にはレッド・タグの人間なんていくらでもいますからね。それに、そういった人間は、時間が経過するごとに増えていく。

「もちろんイエロー・タグが付いている人間も治療しますが――そうでなければ事務作業をスキップするために緊急処置室に来る人が現れるわけがないですからね――とはいえ、イエロー・タグが付いている人も、大勢いるわけであって。実際には、そういった救急車によって遺棄された患者には、治療の順番が回ってこないというわけです。

「そんなわけで、イエロー・タグをつけられたその方は、きちんと順番を守り続けなければいけなくなってしまったというわけです。しかも、しかもですよ、砂流原さん。その方はですね、病院の中で待っていたわけでさえないんです。病院の外、裏手にある救急車専用搬送口、そのコンクリートの階段の上で待っていたんです。いや、待っていたっていうのもちょっとかしいかな、なす術もなくそこに横たわっていたといった方が正しいでしょう。

「その方はですね、病院の中に足を踏み入れることさえ出来なかったんです。いやいや、違いますよ、勘違いしないで下さい。病院側が、入れることを拒否したわけではないんですよ。そんな非人道的なことをするわけがありません。私は……実際にその光景を見たわけではなく、監視カメラの映像を見ただけなんですけどね。まず、その方が、救急救命士の方々によって、そのコンクリートの上に遺棄される。それから暫くして、病院から、医師らしき方と看護師らしき方が姿を現す。コンクリートの上に横たわったその方に対して、一定の形式的な診察をした後で、速やかにイエロー・タグをつける。そして、医師と看護師とは病院に戻っていく。その方をその場所に放置したままで。

「その方にはイエロー・タグがつけられた。一定程度の猶予がある症状だ。それならば、暫くの間は放っておいても問題はない。つまりはそういうことなんです。イエロー・タグがつけられる程度の症状であるにも拘わらず、担架を出してまでその方を病院に運び入れるのはおかしい。というか、担架を出してその方を運んでしまったら、その方にレッド・タグをつけなければいけないことになる。だから、その方にイエロー・タグをつけた以上は、その場所に放置しておく意外に選択肢はないんです。

「ということで、その方はその場に放置されました。私は、その後に起こったことも監視カメラの映像で見せて貰ったんですけどね。二時間か三時間か、ずっとその場所に放置されたままで。そして、その時間が過ぎた後で、凄まじい勢いで咳き込み始めました。その咳は全く止まらず、またもや血を吐き出し始めたんです。それはそれはすごい量の血でしてね、その方の顔の周りが見る見るうちに血溜まりになっていきました。その方は、転げ回りながら血反吐を吐いていたんですけど、やがて俯せになってそのまま動かなくなってしまいました。動かなくなったというより、動けなくなったといった方が正しいかもしれませんね。そして、そのまま血溜まりの中に突っ伏したままでお亡くなりになったというわけです。それで……はははっ! これがまた傑作なんですがね。その方の死因は病気それ自体ではなかったんですよ。死亡診断書を見せて貰ったんですけどね、血溜まりの中に顔を沈めたままでいたせいで、その血液の中で溺れてしまった。そのせいで死んでしまった。つまり死因は溺死だったそうです。いやー、本当に、ちょっと笑ってしまうくらいひどい話ですよね。

「しかしですね、砂流原さん。こういう扱いはその人に対してだけ行われたことではないんです。それどころか、この病院だけで行われていることでもない。エスペラント・ウニートの貧困地区にある病院、そのほとんどで行われていることなんです。その証拠にですね、もしもエスペラント・ウニートにいらっしゃるような機会があったら、そういった貧困層向けの病院の裏手にある、救急車専用搬入口を見に行ってみて下さい。その入口の前には、必ず、血の染みが残っているはずです。それも、一つではなく、たくさんの血の染みが。そういった血の染みの一つ一つがですね、あの方と同じように死んでいった方がつけた血の染みなんです。

「あの方に起こったことはエスペラント・ウニートではありふれた悲劇に過ぎない。いや、悲劇でさえないでしょう。ありふれた日常の一部。そして、あの方は、幾つも幾つも、数え切れないほどにこびりついた、コンクリートの染みの一つとなってしまった。ただそれだけの話なんです。」

 そこまで話し終わると。

 マコトは、瓶のヨーガスを。

 また、一口だけ、口にした。

 ちなみに真昼はその話を知っていた。その話というのは、違法な工場から先、その全てのことだ。つまり、真昼は、MJLの記事を読んでその話を知っていた。MJLの記事では……まさに今の話にあった愛国からの亡命者を中心として、全ての出来事が語られていた。

 まるで工場自体が一つの機械、冷たく非人間的な機械であって。そして、一人一人の人間が、その機械の中で、ただの歯車みたいに扱われるということ。日に日に自分が人間であるという感覚が失われていって、やがて、自分がなんのために動いているのか、それどころか本当に動いているのかさえ分からなくなっていく。全てが曖昧になっていく。

 そんな工場に、ある日、突然、病気が蔓延し始める。症状自体は大したことがない、ちょっとしたドミトル性の感染症だろう。数日の間、ゆっくり休めば、すぐに治るはずの病気だ。けれども工場で働いている人達は休めない。休んでしまったら工場を首になってしまい、工場を首になってしまったら野良犬のように野垂れ死ぬしかなくなるからだ。

 体中をドミトルに侵されながら、それでも体を引き摺るみたいにして働き続ける。工場の中は最悪の環境だ、そもそも、そこら中で糞尿が垂れ流されているのだから。一人、また一人と感染者が増えていって、やがては、愛国からの亡命者も、その病気に感染してしまう。

 やっとのことで、愛国からエスペラント・ウニートに逃れてきたのに。非人間的な全体主義の国家から、この自由と民主との国にまで逃れてきたのに。待っていたのは奴隷のような暮らしだった。大企業に搾取されるだけの毎日だった。

 しかも、大企業に巣食う搾取者達は、このような工場で働いている人間達、奴隷のような暮らしをしている人間達のことを、そこから這い上がる努力をしない負け犬であると嘲笑いさえするのだ。亡命者がそういう場所で働いているのは、亡命者の責任ではない。愛国で悲惨な拷問にあったせいで、身体に障害を抱えており、ここ以外の仕事先を見つけられなかったのである。

 それにも拘わらず、嘲笑われ、虐待され、そして、今、死にかけながらも、甘い匂いがするローションを瓶に詰め続けている。そのローションは、ある人間がある人間と性行為に及ぶ際に、性器や手やに塗って、その潤滑を助けるためのものだ。要するにセックス・ローションである。

 そう、ここはセックス・ローションの工場だったのだ。性の戯れに使う玩具を作るために、何十人もの人間が奴隷にされている。ローションの甘い匂いと、糞尿の匂いとが混ざり合って、亡命者は吐き気がしてくる。

 ふと、熱に浮かされた思考の中で、自分の糞尿の匂いが、この瓶の中に封入されていくのではないかということを考え始める。やがて、そのイメージは、次々と瓶の中に詰められていく、労働者の糞尿のイメージへと変化していく。労働者の糞尿は、瓶に詰められて、セックス・トイズの店に並べられて。そして、富裕層のカップルがそれを手に取る。

 富裕層のカップルの寝室。カップルの片方が、労働者の糞尿を、瓶から手のひらに滴らせる。それをカップルのもう片方に塗り付ける。カップルのもう片方は、その体を、カップルの片方とこすり付けあって。やがて、富裕層のカップルは、労働者の糞尿にまみれていく。寝室の中に漂う匂い。吐き気がするように甘い甘い匂い。亡命者の頭蓋骨の中に、その匂いが蔓延していって……そして、やがて、亡命者は、自分が倒れていることに気が付く。

 そこから先は。

 マコトが。

 話した。

 通りだ。

 これは随分と昔の記事で、リアルタイムで読んだというわけではない。MJLの過去の記事をまとめてあるサイト、一種のファンサイトで読んだのだ。記事を読んだその時の感想は……まずは、大企業に対する怒りだった。貧しい人達にこんな悲惨な思いをさせる大企業への抑え切れないような怒り。それから、後は、愛国という搾取者から逃れてきたのにも拘わらず、エスペラント・ウニートでまた別の搾取者に捕まってしまったという、亡命者に対する憐みの気持ち。

 そう、ただ単純に、大企業が悪いと思っていた。というか、もっといってしまえば、権力が悪いと思っていた。人々の自由な意志を圧殺し、搾取するための奴隷に変えてしまう権力が。だが、今の真昼が、マコトの口からその話を聞くと。全く別の視点からそれを見ざるを得なくなってしまう。

 今までは考えもしなかったことだ。それは、つまり、もしかして……悪いのは、権力そのものではないのではないかということ。というか、むしろ、搾取者というものは、正当な権力の不在から生まれてくるのではないかということ。権力が秩序を設定せず、世界に、人間の自由な意志が蔓延してしまって。その自由な意志を、大義として、名分として、より強い何者かが、より弱い何者かを、搾取の対象にしている。要するに、そういうことなのではないか? 亡命者が、惨めに死んでいったのは。まさにエスペラント・ウニートにおける自由と民主との過剰のせいなのではないか?

 そんなことを考えている。

 真昼に向かって。

 マコトは続ける。

「それと比べれば、ここの選鉱場での仕事はまさに天国ですよ。数分であれば好きな時に休憩を取ることが出来ますし、そうしても別にペナルティはありませんし。第二食のために一時間、第三食のために一時間、それぞれまとまった休憩がありますし。ああ、えーとですね、砂流原さんはご存じないかな? カーラプーラでは基本的に一日四回の食事の時間がありまして、朝の第一食、昼の第二食、軽食の第三食に夜の第四食です。まあ、第二食はいいとして、第三食は……そうですね、人間至上主義諸国でいうところの四時のスナックタイムってところですかね。

「それから、一番いいのは、好きな時にいくらでも休めるというところですかね。元々の話として、ここには少し過剰なくらいの労働者がいますから。数人の人間がいなくても、なんの問題もなく運営出来るってわけです。エスペラント・ウニートでは、別に違法な工場でなくても、そんな風邪くらいで何日も休むなよ、みたいなところがありますけどね。こっちだと、風邪で一週間休むのは当たり前のことっていう感じさえするくらいです。

「トイレに行きたくなったら自由に休憩に行けて、病気になったら十分に回復するまで休める。食事休憩も定期的な休日もあって、その上、それなりに充実した生活を送れるくらいの給料を貰える。砂流原さんのような方からすれば、それって当たり前のことだと思えるかもしれませんけどね。こういう職場は、例えばエスペラント・ウニートでは、かなり贅沢な職場です。エスペラント・ウニート、あるいはそのような人間至上主義国家においては、仕事というのは、生きることそのものの一部として行われるのではなく、より多くの金銭を稼ぐための方法となってしまっていますから。それはカーラプーラにおける「仕事」の概念とは全く違ったものだということです。要するにね。

「自由な経済活動というのは、つまり自由な搾取ということなんです。なんといっても、自由というのは欲望の開放なんですからね、もちろん、私は、人間の欲望には限りがないなんていうことを言いたいわけではありませんよ。人間の欲望なんて、例えばノスフェラトゥや、あるいは偽龍に比べれば、ほんのちっぽけな、とてもせせこましい、安っぽい欲望です。それでも、いや、それだからこそ。他の人間に対する搾取として、どうしようもないほど下らない効果を発揮するんです。

「一方で、カーラプーラにおいて、仕事というのは生活の一部として行われています。金を儲けるためのものではないんです。というか、そもそも金だとか富だとか、そういう物質的豊かさのようなものは、カーラプーラではあまり重要視されていない。思考ロックによって、秩序に悪影響を及ぼしかねない無意味な強欲は抑えられていますし、それに、以前も申し上げたことですが、あまりにも大量に金を集め過ぎると、政府によって没収されてしまいますからね。強制経済の下では、物質的な豊かさというものは、それほど意味があるものではない。

「そういった違いが、こういう場所で働く底辺の人々にとって、大きな救いになっているということですね。それは……富裕層にとっては、カーラプーラのような経済システムよりも、人間至上主義諸国のような経済システムの方が、遥かに望ましいものでしょう。好きなだけ貧困層から搾取することが出来ますからね。けれど、貧困層にとって。つまり、弱い立場の人間にとって。権力というものは絶対的な救済者なのです。

「要するに、追及すべきものの違いということですね。個人の幸福か、それとも社会全体の幸福か。ああ、こういうことを言うと、必ず「社会全体の幸福を追求した結果、カキストクラシー的全体主義に陥った集団はいくらでもあるじゃないか」ということをいい始める方がいらっしゃいますけどね。それは間違っています。カキストクラシー的全体主義というのは、社会全体の幸福を追求した結果として発生するわけではありません。その社会の上の方にいた「人間達」が、ただひたすらに馬鹿だったからカキストクラシー的全体主義が発生したんです。

「馬鹿だから、どうしていいか分からず間違ったことをしてしまう。馬鹿だから、それが間違っていると指摘されると怒る。馬鹿だから、少しくらいいだろうと思って、自分の利益……つまり個人の幸福を追求し始める。結果として、全てが愚劣になっていく。そういうことなんです。これはですね、砂流原さん、権力の問題ではないんですよ。人間そのもののの問題なんです。だから権力を抑制して個々人が自由を追求出来るようにしてもどうにもならない。なぜなら人間という根本的問題が解決していないから。

「自由主義民主主義の国々をよくご覧になって下さい。ああいった国々の底辺にいる方々の扱いが、一体、カキストクラシー的全体主義国家における国民の扱いとどう異なっていますか? そして、自由民主主義体制の頂点にいる人々が、カキストクラシー的全体主義体制の頂点にいる人々と、どこが違っているっていうんです? 同じなんですよ、全部、同じ。

「こう言うと、また反論してくる方が出てくるでしょう。神国の時代から考えれば、人間至上主義国家の時代は、人間の生活がずっとずっと良くなった。これは自由と民主とが普及した結果である。そういう反論です。あはは、全く、困ったものですね。そんなわけがないでしょう。いいですか、神国の時代と比べて、人間至上主義国家の時代に生きる人間が、豊かになっているように見えるのは。ただ単純に、人間の頭がよくなってきているからです。少しずつ少しずつではありますし、最終的にさほど頭がよくなるとは思いませんが、それでもよくなってきているのは事実です。そのおかげで、色々なことを考えられるようになって、生活する時に便利なものを作り出せるようになった。それだけの話なんです。

「あとは……確かに第二次神人間大戦も影響しているでしょうね。ただし、それは、「神々を地上から追放した」という意味においてではなく、「戦争によって人間の技術が進歩した」という意味においてです。「軍事的行動による人間発展」ですね。ある集団と別の集団との間に戦争が起こると、その集団内部で総動員体制が実現する。普段であれば交わることのない知識と知識とが混じり合い、しかも一つの目的に向かってそういった知識間の止揚が行われるので、一気に技術の進歩が実現するんです。あるいは、戦争を遂行するためには兵力が欠かせませんから、その兵力の維持のために、インフラストラクチャーや福祉体制やといった社会資本が整備される。これによって、科学的にも社会的にも、人間という存在が発展していくということです。

「そして、もっと重要なのは、そういった発展の制度自体が、戦争が終わった後も、暫くの間ではありますが続いていくということです。制度的慣性とでもいいますが、一度、巨大なシステムが作り上げられるとそういったものは容易に破壊されることはありません。システム自体が自動症化して、技術は進歩し続け、社会資本は整備され続ける。このようにして人間至上主義国家は発展していったんです。

「決して自由のおかげでも民主のおかげでもないんです。むしろ自由と民主とがそのシステムを破壊したといってもいいでしょう。知識の進歩である総動員体制は、「人間の自由な発想を妨げる」として破壊される。社会的資本の整備は「民主的なプロセス」によって、無駄なものとして破棄されていく。そして、より強い人間が、より弱い人間に対する搾取を開始する。それでも人々はその新しい体制に反旗を翻すことはない。なぜなら、いくら強い人間であっても、それは人間に過ぎないと考えるからです。

「人々は権力が悪だと勘違いしているんですよ。集団に権力を渡せば、権力はより強まり、より強い悪となる。だが、人間が搾取をしているうちは、権力はより弱いものに過ぎない。だから悪をより弱いままで抑えることが出来る。要するにね。こう考えるんです。しかしながら、これは完全に間違った考え方です。そもそも集団における権力というのは悪を抑えるためにあるものなんですからね。けれども、それを理解していない人々によって、より強いものによる搾取は民主的に支持される。

「えーと、なんの話をしていたんでしたっけ? そうそう、選鉱場の人達を見て私がどういうことを考えたかっていうことですよね。まあ……とにもかくにも、選鉱場で働いている方々は、エスペラント・ウニートの違法工場で働いている方々よりも、遥かに幸福そうだなあと、私はそう思いましたね。」

 そう言うと、マコトは。

 瓶に残っていたヨーガスを。

 呷るようにして飲み干した。

 次第に次第に透き通っていく、透明な、子供の羊。鈍く錆付いた金属の刃が、まるで草原のように大地を覆っている。重力は逆さになって、水滴が空の方向に滴っている。白く濁った水滴、液晶のようにどろどろとした水滴。指先で刃を撫でる、そっと撫でる。皮膚が切れ、肉が切れ、血管が切れて、その中から血液が膨らんでくる。この星よりも大きい眼球。血液は、滴っていく。白く濁った水滴と混ざり合う。この星よりも大きい眼球。子供の羊は遠のいていく。そして、やがて、真っ青な空の色を、静かに静かに破いて、新しい夜が生まれる。

 真昼は、マラーの髪の毛から櫛を離した。そして、自分の手のひらで、そっと、一度、その髪を撫でる。それほど整っているようには感じない。そもそもマラーの髪は、最初から少し縮れているのだ。いくら櫛で解き梳かそうとも、その元々の縮れは真っ直ぐになるものではない。

 真昼は。

 櫛をベンチの上に置いた。

 それから。

 マラーの髪に、視線を落としたままで。

 マコトに向かって、はっきりと、言う。

「そろそろ帰りましょう。」

「ええ、そうですね。」

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