第二部プルガトリオ #16

 さて……この辺りで赤イヴェール合金について少し復習しておいてもいいかもしれない。何せ、今から向かおうとしているのは赤イヴェール合金の鉱山なのだから。我々が住んでいるこの借星について、知的生命体なのかどうなのかということについては様々な議論があるだろうが、生命体であるということについては、魔学者も科学者もその見解が一致している。そして、赤イヴェール合金は、そんな借星にとっての血液のような物なのだ。

 正確にいうと、「血液」であるというよりも「体液の一つ」といった方がいいかもしれないが。とにかく、赤イヴェール合金は、借星の全体に様々な種類の魔学的なエネルギーを送るシステムなのである。借星内部の成層構造の中で赤イヴェール合金が形成している赤色流動層は、マホウ界からナシマホウ界までを貫通して滞留することで、本来であれば観念重力によってマホウ界に停滞するはずの魔学的エネルギーを、ナシマホウ界まで運搬するためのシステムを形成しているということだ。

 ただ、ここで一つ疑問が湧いてくるかもしれない。赤色流動層は、基本的には地殻と核との間に存在する粘性流動層の一部をなしているとされている。そして、粘性流動層は、借星内部、地下二百エレフキュビトから五千エレフキュビトまでの部分なのである。とてもではないが一般的な鉱山で採掘するような距離で到達出来るものではない。それにも拘わらず、アーガミパータにおいては、ごくごく一般的な鉱山として赤イヴェール合金の鉱山が存在している。これは一体どういうことなのだろうか。

 これにはアーガミパータの地理的特殊性が影響している。リリヒアント諸階層がめちゃくちゃに接続しているというあれだ。以前も少し触れたかもしれないが、この特殊性は、外的な力の影響によって時空間がひどく傷付けられて、断絶を生じてしまったということに由来する。一つ一つの階層が食い違って断層となっているのだ。そして、この断層を作った「外的な力」というのは実は魔学的な力(神学的な力)なのだ。

 そのため、この断層化が起こった時に赤色流動層は大きな影響を受けることになった。リリヒアント諸階層の断絶に応じて赤色流動層も大きく断絶したのだ。その結果として、リリヒアント諸階層の断絶面において赤色流動層が地殻まで漏出するという現象が起こった。要するに、血管が傷付けられることによって内出血が起こったのだ。

 そんなわけで、南アーガミパータでいえばその南端にあるアヴィアダヴ・コンダ、北アーガミパータでいえばその北端にあるヌリトヤ砂漠、そういった境界となる地点において、赤イヴェール合金が採掘出来るようになったというわけだ。ちなみに、マホウ界においてはこれとは全く異なった形の赤イヴェール合金の鉱床が存在している。

 このようにして、ここラクトスヴァプン・カーンでも赤イヴェール合金が採掘出来るようになったというわけである。ところで……ここで赤イヴェール合金そのものについて触れておいてもいいだろう。というか、「イヴェール」という単語が表す意味そのものについてだ。

 「イヴェール」とは、いわゆる生起金属類と呼ばれるタイプの金属につけられる名前である。この「イヴェール」という名前自体は、通称機関によって行われた極秘実験計画「オーヴァーロード・プロジェクト」の被験者であるChildren-4につけられた通称をそのまま使ってるのであるが、なぜ極秘実験計画の被験者の通称がこんな一般的な名前として使われるようになったのかは全く不明だ。一説によると、生起金属類についての多くの研究成果を残した何者かが、この「オーヴァーロード・プロジェクト」に関わっていたからだという話もあるのだが、何せ「オーヴァーロード・プロジェクト」は極秘実験計画なものだから、これが正しいことなのか間違っていることなのかは誰にも分からないだろう。

 「イヴェール」には様々な種類がある。白イヴェール生起金属を筆頭として、赤イヴェール合金、青イヴェール合金、黒イヴェール合金。ちなみに銀イヴェール合金という物もあるのだが、これについてはあまり触れることは出来ない。なぜなら、これこそ「イヴェール再現実験」において通称機関が再現しようとしている物であり、「オーヴァーロード・プロジェクト」におけるChildren-4と密接に関係してくることだからだ。

 とにもかくにも、このように、たくさんの「イヴェール」があって。そして、これは誤解されがちなことなのだが……これらの「イヴェール」の間には、ほとんど関係性がない。いや、もちろん黒イヴェール合金は白イヴェール生起金属から作られる合金ではあるが、例えば赤イヴェール合金を白イヴェール生起金属から作ることは出来ないし、青イヴェール合金もそれは同様である。なぜなら、生起金属としての種類が全く変わってくるからだ。

 「イヴェール」というのはあくまでも生起金属であるということ、つまりなんらかの遺伝担体によってその極子構造の複製を作ることが出来るたぐいの金属であるということを表すに過ぎない。白、赤、青、これらの「イヴェール」は、それぞれの極子構造はおろか、そのベースとなる基本子さえも異なっている。しかも、赤イヴェール合金に関しては、その極子構造は魔子プラマヌなのである、科子プラマヌである白イヴェール生起金属とは全く違うのだ。

 ちなみに、この中で白イヴェール生起金属には「合金」という単語がついていないが、それはこの白イヴェール生起金属だけが単一の基本子によって構成された極子構造をしているからである。イヴェーリウムと呼ばれる基本子であるが、それゆえに、白イヴェール生起金属は、その極子構造を複製するためには、まずはその材料となる基本子を不定子まで分解しなければいけない。そこからイヴェーリウムとして再構成するのだ。ということで、この過程はかなり複雑なものとなり、自然環境ではほとんど行われることがない。だから白イヴェール生起金属は、採掘されることがなく、工場で量産されるのである。

 と。

 まあ。

 そんな。

 こんな。

 駅から鉱山までの道すがら、レーグートは、このような内容のことを説明してくれたのだった。もちろん、いうまでもなく、「オーヴァーロード・プロジェクト」の下りや「銀イヴェール合金」の下りまで説明してくれたわけではない、これらのことは何せ極秘事項なのだから。けれども、そういったこと以外については、しっかりと分かりやすく話してくれた。

 恐らく「特別なお客様」の全員に対して行われるサービスみたいなものだったのだろう。ここに来る「特別なお客様」は、赤イヴェール合金の輸入に携わる人間、そういった企業の経営者だろうから、アーガミパータにおける赤イヴェール合金の生産についての解説をするのは理に適っている。

 説明の内容は……真昼にとっては知っていることもあったが、知らないこともあった。特に、なぜアーガミパータで赤イヴェール合金が取れるようになったのかということは全く知らなかったので、割合に興味深く聞くことが出来た。何も気を紛らわせるものがなく、ただただユニコーンに揺られていた道のりであったならば。とかく内省しやすい真昼のことだ、またもや考えたくもない考えに捕らわれていただろう。正直な話、レーグートのこの話はとてもありがたかった。

 ちなみに、マコトの方はどうしていたのかというと。たぶん説明されることの全てをとっくにご存じだったのだろう。ろくに話を聞きもせずに、ユニコーンと何かを話していた。しかも、自分の乗せて貰っているユニコーンだけではなく、真昼とマラーとが乗せて貰っているユニコーンも混ぜての会話だったので、真面目に話を聞いている真昼からすればうるさくてしょうがなかった。もちろん、ユニコーンの言葉で話していたので、何を話しているのか真昼には分からなかったが。主に最近の鉱山の景気やら何やらについて話しているのだった。

 また、レーグートの話は共通語で行われていたため、マラーは何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。まあ、内容が内容なので、ダクシナ語で話されてもやっぱり理解出来なかっただろうが。なので、仕方なく、真昼の胸に自分の頭を預けて、特に見るべきものもない土沙漠の光景をぼんやりと眺めていた。

 そのようにして。

 数分ほど。

 石畳の道を進むと。

 モノレールから見えた大穴の。

 縁の、ところに、辿り着いた。

〈こちらが採掘場でござます。〉

 それは、なんというか……真昼の感想を簡単にまとめるとすれば、遠くから見た光景と、これほど近くから見た光景とでは、やっぱり随分と印象が違うな、という感じになるだろうか。そういえば、アヴィアダヴ・コンダの時も、これほど近くから採掘場を見たわけではなかった。上空から見渡しただけだ。

 光景と、いっても。

 印象を与えるのは。

 視覚だけではない。

 そもそも、ここに辿り着く前からその音が聞こえ始めていた。まるで、あらゆるものが崩れ去っていく時にこの世界に響き渡る音であるかのような、凄まじい騒音。そんな騒音の……残響のような音が。もちろん、それは採掘場の坑道から聞こえてくる音であって。重機が、土を掘り返したり、岩盤を砕いていたり、鉱石を運搬している音なのだろう。

 その音は、地上で聞くとさほど大きいというわけではなかったが。けれども、とはいえ、振動を伴っていた。常に震度一くらいの地震が起こっているかのような、そんな振動。ユニコーンに乗っている分にはほとんど気が付かないのだが、それでもやはり、空気が振動しているような感覚がある。

 そして、そんな空気はなんとなく汚れているようだった。目には見えないくらいの、とてもとても細かい砂の粒子みたいなもので。埃っぽいというか塵っぽいというか、喉の奥がなんとなくちくちくしてきてしまいそうだ。真昼は、ここに来る途中でマラーにマスクをつけさせて、自分でもマスクをつけたくらいだった。

 ただゴーグルをつけるかどうかは微妙なところだった。確かに、さっき、一回だけ、目の中に粒子が入り込んでしまったらしく、すごい異物感、ずきずきとした痛みがあった。それに、なんとなく、視界が全体的に煙ったいというかなんというか、そういう感じもあった。それでも真昼は、ゴーグルをつけるかどうか迷った挙句に、まだつけなくてもいいかなという判断に至ったのだった。

 もちろん。

 目に見える景色も。

 遠くから見た時よりも。

 遥かに、現実味がある。

 たくさんの重機が走っている。それらの重機のほとんどは、ASKのような多脚型ではなく、ごくごく一般的な車両タイプの物だった。大きさとしてもASKが使っていた物ほど巨大というわけではない。とはいえ、月光国で見たことがある車両と比べれば何倍もの大きさがある物も散見された。

 赤イヴェール合金を含んだ鉱石だと思われる、赤みがかった岩石を大量に積んだトラックは、長さにして十ダブルキュビト弱、高さも五ダブルキュビト以上ある。あるいはエクスカベーターを見てみよう、こちらもかなりの大きさがあり、ショベルの部分に三人くらいの人間を軽々と乗せられるくらいだった。

 ただ、とはいっても……全ての重機がそれほど巨大だというわけではなかった。よくよく考えてみて欲しいのだが、ここは、基本的には、坑内掘りの採掘現場なのである。露天掘りとは異なっていて、採掘は掘り抜いた穴の中で行われるのだ。そんなに巨大な重機が穴の中に入るわけがない。

 ということで、かなり小回りが利きそうな感じの、小さめの重機(小さめの重機ってなんかおかしいですね)の方が多いくらいだった。例えば、先端にドリルのようなカッターヘッドを付けた掘削機。これはせいぜいが数ダブルキュビト程度の長さしかない。ちなみに掘削機にはドラム式のカッター、ぐるぐると回転する円盤のようなカッターが付いたタイプのものもあった。

 何に使うのかさっぱり分からない、タブルフロントタイプの作業機もある。二本の長い腕のような物がついていて、片方が物体を固定する万力のようになっており、もう片方はより細かい作業が出来るようなマジック・ハンドになっているやつだ。真昼は、本当に、これに関してはどういう用途があるのか分からなかった。ここは鉱山であって災害現場ではない。それほど繊細な作業を重機で行う必要性などなさそうに感じるのだが。そんな真昼の疑問も、ある意味では正当なものなのだろう。そういった重機は他の重機よりも数が少ないように見えた。

 数、数でいうと、一番たくさんあるように見えたのは小型の作業用運搬車だった。縦の長さが一.五メートルくらい横の長さが一メートルくらいの荷台が付いた一人乗り用のトラックみたいなやつで、これはそこここを縦横無尽に走っているというよりは、どちらかといえば採掘用の穴の辺りをうろちょろと走り回っている。恐らくは、坑内から鉱石を運び出す時に、補助的に使われているのだろう。

 また……実は多脚型の機械も全く無いというわけではなかった。六本の脚が付いた球形の物体。一人の人間が乗ることが出来て、そしてその乗員を透明なドームのような物が保護している。人の二倍ほどの大きさがある、奇妙な形の機械……そう、真昼が、壊れたままの状態で放置されていた物を鉱山集落で見かけたあの機械だ。それが、この鉱山のあちこちで様々な作業をしていた。あるものは掘削機のような腕を取り付けて、あるものはトラックのような荷台を取り付けて、そこらじゅうを動き回っているのだ。かなり自由度が高そうなこの機械は、普通の重機では入ることの出来ないような場所に入って作業を行うための物なのだろう。

 そして。

 もちろん。

 生身のままで作業をしている人間達と。

 それに、数は少ないながらも。

 ユニコーンもそこここにいた。

「いやー、いつ見ても壮観ですね!」

 マコトが、よくもまあこれだけ白々しい話し方が出来るものだと思ってしまいそうなくらい気持ちの籠もっていない口調でそう言った。ただ、まあ、とはいえ。真昼も、壮観であるのは事実だなとは思ったのだが。

〈さて、見学のルートでございますが、二つの場所を回らせて頂こうと思います。まずは坑道見学、実際に採掘中の坑道は危険ですので、採掘が既に終了しております坑道――ご覧頂けますでしょうか、あちらにある、あの坑道なのですが――比較的安全と思われる坑道をツアーさせて頂きます。

〈そして、次に貯鉱場兼選鉱場をツアーさせて頂きます。この縦穴の縁のところに幾つか建てられている、あれらの煙突のような建物は、全てが貯鉱場兼選鉱場なのですが、そのうちの一つを見学いたします。それが終わりましたら、モノレール・ステーションまで戻って頂き、ツアー終了とさせて頂く。全体としましてはこのような予定でございます。

〈本来でございましたら、重機の修理施設や、あるいは上空の製錬所などもご見学頂くところなのですが、ここに滞在なさるのは夜までのご予定とのことですので、そちらの二施設に関しては省略させて頂きたいと存じます。さて、このような内容でご満足頂けますでしょうか?〉

「はいはい、問題ないですよ。」

 いかにも不機嫌そうな顔をしている真昼はたぶん答えないだろうと考えたのだろう。レーグートの言葉に対して、いつもみたいなへらへらとした調子でマコトが答えた。


〈そもそもラクトスヴァプン・カーンの歴史は第二次神人間大戦まで遡るものでございます。かの大戦において、偉大なる龍にして王の中の王、慈悲深き護り手であるカリ・ユガ様を含めましたアナンタ様のご一族は、当然ながら神々の陣営に所属しておいででした。第二次神人間大戦とは、その名の通り神と人とがこの世界の支配権を争った争いごとでございましたが……とはいえ、実際のところ、戦場で戦っていたのは、やはり人と人とである場合がほとんどでございました。いくら神々が、あるいは洪龍が、力強いといいましても、その数は限られておりましたからね。つまるところ、第二次神人間大戦とは神を支配者とする人と人を支配者とする人との闘いだったのでございます。

〈ところで、人というのはとても弱い生き物でございます。その身一つではほとんど何も出来ません。そのため、戦場に向かう際には、どうしても兵器が必要となって参ります。そのようなわけでして、偉大なる龍にして王の中の王、慈悲深き護り手であるカリ・ユガ様は、神々の陣営に属する者として兵力を提供する時に、人だけではなく、その人が持つべき兵器をも用意しなければならなかったということでございます。

〈当時は、科学的な発想で作られた兵器というものは未だ多くなかった時代でございました。特に神々の陣営においては、魔学的な兵器の方が、神々や洪龍やといった強力な魔力を持つ方々の「力」をそのまま転用することが出来ましたから。それゆえに、偉大なる龍にして王の中の王、慈悲深き護り手であるカリ・ユガ様が兵器を用意するといった時に、その兵器というのは魔学的な兵器を意味したのでございます。

〈さて、魔学的な兵器というのは、様々な材料から作られます。例えば、一番ポピュラーな材料でいえばディバイナイズド・シルバーを挙げることが出来るでしょう。これは通常の銀をなんらかの方法で聖化した物を指します。あるいは、ムナーライトのような特殊な宝石や、バルザイウムのような特殊な金属や、こういった物からも作ることが出来ます。いやはや、このようなことを砂流原家のご令嬢である砂流原様に申し上げるのは、まさに兎にステップを教えるような傲慢の所業でございますね。

〈ただ、こういった材料は、どれもこれも高価な物でございます。ムナーライトやバルザイウムやはいうに及ばず、ディバイナイズド・シルバーでさえ銀という高価な金属を必要とする。大量生産をすることが必要な、戦時中の汎用兵器の材料としては、非常に不適格だということでございます。そこで、偉大なる龍にして王の中の王、慈悲深き護り手であるカリ・ユガ様は、赤イヴェール合金に注目されたというわけでございます。

〈赤イヴェール合金もそれほど安価な材料というわけではございません。確かに、先ほどもご説明申し上げましたことでございますが、借星の内部、赤色流動層には大量の赤イヴェール合金が含まれております。ただ、それは地下何百エレフキュビトといった地点でのことでございます。それに、赤色流動層は借星における魔学的な力の循環を担っておりますため、そこから、あまりに大量の赤イヴェール合金を抜き出してしまうことは、借星の全体的な環境に悪影響を及ぼしかねないのでございます。

〈しかし、この場所、偉大なる龍にして王の中の王、慈悲深い護り手であるカリ・ユガ様に治めて頂いておりますこの場所では、事情が変わってきます。これも先ほど申し上げたことでございますが、この場所はアーガミパータと他の地域との境界線近くに位置しておりますため、赤色流動層とは関係のない赤イヴェール合金が、鉱脈として存在しているのです。偉大なる龍にして王の中の王、慈悲深い護り手であるカリ・ユガ様は、この鉱脈をお使いになることになさいました。

〈つまるところでございますね、このラクトスヴァプン・カーンは、第二次神人間大戦における神々側の兵器生産の要として開山された鉱山なのでございます。そして、現在におきましても、ラクトスヴァプン・カーンの重要性は変わっておりません。ラクトスヴァプン・カーンで採掘された赤イヴェール合金は、パンピュリア共和国と月光国とを除くナシマホウ界のあらゆる集団の方々から、兵器生産の用途でお買い求め頂いておりますのです。〉

 見学する坑道へと向かう道のりで。

 レーグート、は、話し続けている。

 話を聞いている真昼が一番気になっているのは、その「偉大なる龍にして王の中の王、慈悲深い護り手」っていうの、毎回毎回つける必要ある?ということだったが。こういうクソ長ったらしい敬称はアーガミパータではごくごく一般的なことであるし、むしろこれくらいなら短い方なのである。これが、例えば正式な公文書ともなってくると、文章の五分の一以上がこのような敬称で埋まってしまうということもあるくらいなのだ。

 とはいえ、そうなると、なぜ今までこういうのつけてなかったのに、ここに至っていきなりこんなことになったのか?という疑問が湧いてくるかもしれない。それに対してはっきりと答えるのは難しいが、今までの会話のほとんどは……少なくとも、公式のものではなかった。その一方で、今話されているこの内容は。恐らく、この鉱山を見学しに来た人に対して行われる、一般化された内容なのであって。極めて公式文書に近い性質を持っているものと思われる。きっと、だから、このように、カリ・ユガに対する敬称が織り込まれているのだろう。

 さて。

 今。

 ユニコーンは。

 段々になった縦穴の。

 なだらかな斜面部分。

 少しずつ降りている。

 レーグートはなおも話し続ける。今度はラクトスヴァプン・カーンで採掘されている赤イヴェール合金がどれだけ質の高い物であるかという話をし始めた。まずは、その赤イヴェール合金にどれだけの実績があるのかということ。いうまでもなく、どこどこの集団でどのような兵器として使われたといったようなことは、当の集団の機密保持に関わってくるため、具体例としては示されなかったが。そこら辺のことを器用にぼやかして、これほどまでにたくさんの顧客に使われているにも拘わらず品質への不満がほとんどないということは、安全性と信頼性とは完全に保証されているのであるという内容の話をしたということだ。

 そして、その次には、具体的な成分の話に移り始めた。南アーガミパータでASKが採掘している物、あるいはパンピュリア共和国でグールによって製造されている物、要するにラクトスヴァプン・カーン以外の場所で生産されている物と比べて、どれだけ優れているか。赤イヴェール合金の純度からその極子レベルでの構造までを俎上に載せて話し始めたということだ。ちなみに、月光国製の赤イヴェール合金については触れなかったのだが、これは真昼が月光国人であるということを配慮したのだろう。とはいえ、とにもかくにも、話はどんどんと専門的な方向に行ってしまって……真昼は、既に、ほとんど聞いていなかった。

 そして。

 その代わりに。

 この鉱山にいる。

 人々を見ていた。

 鉱山の状況は、真昼の目から見るとなんとなく奇妙なものに感じられた。先ほども描写したように、色々な種類の重機が投入されているにも拘わらず。そういった重機に乗ることなく、人間のままの姿で働いている労働者も相当の数がいたからだ。

 例えば、恐ろしいほど整然と並んでいるあの人間達の列は、どうやら岩石を運んでいるらしい。頭の上に籠を乗せていて、その籠の中に大量の岩石が詰め込まれている。その岩石が果たして赤イヴェール合金が混ざっている粗鉱なのか、あるいは坑道を作るに際して掘り出された余分な岩石なのかは分からなかったが、とにもかくにも、トラックがあるにも拘わらず人間の手でそういった岩石を運んでいるのには変わらない。

 また、あるいは、この縦穴の底の辺りを見てみよう。以前少し触れたが、その場所には水が溜まっていて、ちょっとした湖のようになっている。これほど近い距離から見ると、その湖には、どうやら幾つかのポンプが据え付けられているらしい。湖の岸辺、等間隔というわけではない適当な距離を置いて、巨大な円筒形の物体が顔をのぞかせていて。そこからパイプが伸びて、鉱山の各地に水を運んでいるらしいのだ。そして、そのポンプのうちの幾つかに何人もの人間達が群がって作業をしていた。ポンプに何かが詰まっていて、それを修理しているのだろう。

 それから、二人一組になって行動しているタイプの労働者。そのほとんどが男性だったのだが、片方がまるでサーカスのピエロが持っているかのような巨大なハンマーを持っていて、もう一人が子供の背丈ほどの長さがある鉄の棒を持っている。実はこの鉄の棒は、先端のところが尖っていて、地面に突き立てることが出来るようになっているのだ。つまり、この鉄の棒を突き立てて、その上からハンマーで打ち付けることで、普通では破壊することの出来ない岩石を破壊することが出来るということである。一人が鉄の棒を固定し、一人がハンマーを使う。ただ、使い方は理解出来るとはいえ……きちんとした採掘機があるにも拘わらず、こんな物が必要なのだろうか。

 もちろん、真昼の目には見えない場所にもたくさんの労働者達がいた。例えば坑道の中にいたのは、普通の大きさの金槌と鏨とを持っている労働者達だ。これは繊細な採掘作業を担当する人々だったが、とにかく、重機に頼ることなく作業をしている人間達がかなりの数いたということだ。

 この事実は……真昼にとっては、なんだか奇妙に思えることだった。というか、非人道的であるようにさえ思えた。作業に使うことの出来る重機があるにも拘わらず、わざわざ人間の手によって、そんな重労働を行わせるなんて。

 もちろんポンプの修理などは重機では出来ない。けれども、岩石を運ぶ作業や岩石を壊す作業や、人間がやる必要が全くないものだ。むしろ人間にやらせた方が効率が悪いくらいだろう。一体、なぜ、そんなことをさせているのか。

 最初は重機類が足りていないからそんなことをさせているのだろうと思っていた。採掘の費用を削減するために、人間の力を大量投入して、数で補っているのだろうと思ったのだ。だが、実際に働いている人々、つまり人間の手によって重労働をさせられている労働者達の顔を見ていると……どうも、その考えは違っているように思われてきた。

 彼らは、あるいは彼女らは。とても生き生きと働いていた。きらきらと、まるで、偽物の太陽の下で輝いているかのような笑顔。歌さえ歌っていたのだ、アーガミパータの歌だから、真昼にはその内容は分からないが。恐らくは労働の賛歌だと思われる歌。岩石を運ぶ人々は、その歌に合わせてステップでも踏んでいるように歩いていて。それに、金属の棒を岩壁に打ち付けている人々は、その金属の棒をハンマーで叩く音、それが打楽器であるかのように軽やかだ。とてもではないが、嫌々働かされているようには見えない。つまり、彼らは、あるいは彼女らは、働くことが出来ることを喜んでいるのである。

 ここまで考えると……真昼は、はっと気が付いた。自分が、あまりにも資本主義的な考え方をしていたということに。自分の常識を、自分の視点を、アーガミパータで生きる人々に対して押し付けていたということに。

 アーガミパータにおいては、というか、神々やそれに近い存在によって支配されている集団においては。効率などどうでもいいのだ。なんとなれば、もしも効率だけを考えるならば、カリ・ユガが指先一つ動かせばいいだけの話なのだから。カリ・ユガに指先があるかどうかは分からないが(今まで見てきた絵を鑑みる限りないだろう)、とにかく、神のごとき力によって、いともたやすく、この鉱山に埋まっている全ての赤イヴェール合金を掘り起こすことが出来るだろう。その気になれば一瞬で全てを終わらせることが出来るのに、効率なんて考えることになんの意味がある?

 問題なのは、経済的利益ではなく、人間の幸福なのである。つまり、仕事を効率的に終わらせることが出来るかなんてどうでもいいことなのだ。もっと、もっと、重要なことがある。それは、全ての領民に、そして全ての国内避難民に、仕事を与えることなのである。そう考えてみれば……全てのことが理解出来た。

 つまり、重機を使用していない労働者達、その中でも専門的ではない労働、肉体的な労働を任されている人々は、ここにやってきたばかりの国内避難民なのだ。よくよく考えれば、それは当たり前のことだった。まともな教育を受ける権利どころか明日の命さえも危ないような場所から逃げてきた人々が、どうして重機を動かせるだろうか?

 もちろん国内避難民に教育を受けさせることは可能だ。けれども、ああいった複雑な機械を動かすことが出来るようになるまでに、一体何年の教育を受けさせなければいけないだろうか? その間、ずっとずっと、教育だけを受けさせると? 子供ならばそうしてもいいだろう。だが、それが大人であれば? アーガミパータの常識では、既に働いていなければいけないとされている大人であれば? もしも真昼がそんな立場に立たされたら、とてもではないが耐えられないだろう。他の人々は働いているにも拘わらず、自分は教育を受けている。まるで自分が無駄に資源を浪費しているように思ってしまうに違いない。実際にはそうでなくても――何せ将来において働くための準備なのだから、それは必要な教育なのである――それでも、主観的には耐えられない。

 それだけではない。もしも、国内避難民の全員が重機を扱えるようになったら? それは何を意味するだろうか。少なくとも、真昼が思い付くだけでも、二つの問題が出てくるはずだ。

 まずは重機の数の問題。いくら、龍王領が資源大国であるといっても、赤イヴェール合金の輸出によって大量の外貨を獲得しているといっても。真昼が見ているような重機を全ての国内避難民にいきわたらせるほどの外貨はないのではないだろうか。重機は足りなくなり、せっかく教育を受けたにも拘わらず、国内避難民の仕事がなくなってしまう。それどころか領民に対する仕事さえなくなってしまうかもしれない。

 また、二つ目の問題。仮に、龍王が、獲得した外貨で大量の重機を購入もしくは製造出来るとしよう。そして、そういった重機を全ての領民・全ての国内避難民に与えることが出来たとしよう。そういった人々は、一体どうやって働けばいいというのか? 真昼が見渡す限り、現在でさえ、重機の数はちょうどいいくらいだ。人間がしている労働を置き換えるとしても限度というものがある。ということは、自然と仕事にあぶれる人々が出てくるはずだ。無意味な、役立たずの人間が。

 つまり。

 龍王領では。

 そういった問題を。

 回避したい。

 わけなのだ。

 だから、きっと、龍王領では。国内避難民のうちの希望する者だけに、仕事と並行して教育を行っているのだろう。そう、希望する者だけに。そもそも、人間がなんらかの教育を受けたいと思うのは、よりよい生活のために現在の快楽を犠牲にする覚悟がある場合だけだ。もしも、今後もずっと安定した生活が保障されているならば? 理想的とはいわないまでも、まずまずの仕事に就けて、まずまずの生活が出来るのならば? きっと、それ以上の教育を望むのは、限られた人間だけだろう。

 そして、教育を受けていない人々は。教育を受けることなく日々の生を謳歌したいと思っている人々は。真昼が見たような、肉体労働に従事することになるというわけだ。

 そう考えると……別の事実に対する別の視点も開けてくる。例えば、重機に乗っている労働者にゼニグ族が多く、肉体労働者にヨガシュ族が多く見えるという事実。これは、真昼は、単純に差別の問題だと思っていた。アーガミパータに根強く残っている差別的な感情から、ゼニグ族にいい仕事が回されているのだと。

 もちろんそういった面もあるのだろう。ただ……あの鉱山集落において、ゼニグ族とヨガシュ族とが一緒くたにされていたこと、少なくとも国内避難民については居住区画が分けられていなかったことを考えれば、もう少し別の考え方をすることも出来るだろう。つまり、国内避難民については、ゼニグ族とヨガシュ族とはほとんど平等に扱われている。だが、ゼニグ族は、ヨガシュ族よりも高い地位に就きたいと考えているということだ。ゼニグ族にとっては……ヨガシュ族と同じ仕事をさせられるということは、ある種の屈辱なのだ。だから、そういった仕事をさせられないように、必死に教育を受けて、重機を使えるようにする。ヨガシュ族より少しでもいい立場になろうとする。そういうことなのだろう。

 とはいえ……重機作業員の全てがゼニグ族であるというわけではない。ヨガシュ族もいた、それどころか女性もいた。そういった人々は……もちろん、国内避難民も混ざっているのだろうが。きっと、そのほとんどが領民なのだろう。もともと鉱山で働くための教育を受けていて、そしてこの鉱山に派遣されてきた人々なのだろう。真昼はそう思った。

 そう思ってから。

 ふと気が付く。

 ああ。

 これは。

 今まで考えてきた全ては。

 ある意味で。

 とても。

 とても。

 差別的な。

 考え方だ。

 どんどんと、頭蓋骨の中が浸食されていっている気がする。差別的な考え方に、というか、虚無的な考え方に。真昼の中に元々あった、希望のようなもの。もっといえば、人間性に対する信頼感のようなものが失われていって。そして、人間存在そのものに対する根本的な懐疑が、満ちていく潮のように真昼の全身を浸し始めているのだ。

 もちろん、そういった考え方は、マコトと出会う前から、徐々にではあるものの、真昼の中に芽生え始めていた。というか、はっきりいってしまえば……真昼が自分を信じられなくなってから。それに伴って、人間のことも信じられなくなっていったのだ。自分の体に開いた傷口の中に溜まっている膿を見て、肉体の汚らわしさに気が付いたかのように。世界はこうあるはずだという思い込み、世界は本当ならば美しいはずだという思い込みを信じられなくなってしまったということだ。

 ただ、それでも。マコトと出会う前は、その考えは、どろどろとしたその膿の塊は、真昼の表面に現れてはいなかった。真昼はまだ自分自身の認識だけを疑っていたのだ。だが、マコトと出会ったことによって……マコトは、医師免許を持っていない外科医のようにして。真昼の膿を、錆び付いたメスによって、抉り出した。

 マコトの言葉を聞くたびに、真昼はその全てを否定した。けれども、実は、真昼は、知っていたのだ。もしかして……マコトの言葉は、自分が心理の深層で考えていることを、言語化しただけのものであるかもしれないということを。要するに、正しい世界を信じていた自分を否定することは、正しい世界を否定することと同じことだ。

 そんなこと。

 そんなこと。

 絶対に、してはいけないのに。

 真昼は、自分に言い聞かせる。醜いのは自分だけだ。自分だけが醜いのだ。お前が、お前が、砂流原の娘だからいけないのだ。ほら、聞いてみろ、マコトがお前のことをなんて呼ぶのか。レーグートがお前のことをなんて呼ぶのか。砂流原さん、砂流原様、お前は、そう呼ばれているだろう。そう、そういうことなのだ。この世界が醜く見えるのは、どんなに取り繕っても、お前が搾取する側の人間だからだ。清廉な人々、正しい人々。あくまでも人間性のために立ち上がろうとする反骨の抵抗者。そういった人々にとって、この世界はどれほど美しいものなのか? お前には分かるまい、お前は砂流原の娘、砂流原静一郎の娘なのだから。

 そう。

 だから、お前は裏切ったのだ。

 パンダーラ・ゴーヴィンダを。

 ああ。

 許して、下さい。

 パンダーラさん。

 私は、あなたを裏切りました。

 でも。

 でも。

 それは、それは。

 この少女を。

 マラーを。

 助けたかった。

 から。

 そこまで考えて、真昼は、はっと我に返った。いけない、また考え込んでしまっていた。考えて、考えて、また、踏み込んではいけない場所に踏み込もうとしてしまっていた。段々になった岩壁の下の方では、労働者が歌いながら岩石を運んでいる。男性の労働者も女性の労働者もいるのだが……面白いことに、女性の労働者は、作業着の上からサーティを身に着けていた。色とりどりのサーティが、ダンスのステップのように揺れる女性達の体の動きに従って、虹の欠片みたいにして揺れている。

 労働者達は。

 楽し気に。

 楽し気に。

 あたかも祝祭のようにして。

 人殺しの道具の、材料を運んでいる。

「あの。」

 真昼は、自分でも驚いてしまった。言葉を発するつもりなんて全然なかったのに、いつの間にか、自分の口が動いていたからだ。なんの意識もせずに、自分が何を言おうとしているのかということさえ把捉出来ないうちに。

「一つ質問があるんですけど。」

〈はい、はい、なんでございましょうか。〉

「ここで働いている人達は、自分達が何を採掘しているかということを知っているんですか? つまり、自分達が採掘しているものが兵器の材料で、赤イヴェール合金で、その赤イヴェール合金で作られた兵器のせいで、アーガミパータが内戦の土地になってて。それで、それで、そういった戦いのせいで、この人達は、国内避難民になってしまったということを知っているんですか?」

 自分が。

 何を。

 言っているのか。

 理解、出来ない。

 それでもレーグートは。

 愛想よく、こう答える。

〈ええ、ええ、もちろんでございます。ラクトスヴァプン・カーンの労働者達は、ここで採掘されている物が赤イヴェール合金であるということ、そして、その赤イヴェール合金が魔学的な兵器に使用されるということを完全に理解しております。

〈そうでなければ、どうして仕事にやりがいなど生まれましょうか? 自分達が世界と関わりあっているということ、そして、それによって世界が動いているということ。自分達が世界の役に立っているという感覚。このような感覚がなければ、人間の方々にとって、仕事は耐えられないほど味気ないものになってしまいます。きっと拷問のように感じることでございましょう。

〈ですから、ラクトスヴァプン・カーンでは、労働者達の満足のために、ここで採掘されている物質が世界にとってどのような意味を持つのかということ。それをしっかりと伝えることを心がけております。具体的には、コミュニティセンターに赤イヴェール合金に関する資料室を作っております。赤イヴェール合金がどのような兵器に使われているのか、そして、そういった兵器が、アーガミパータにおける、どのような戦闘で使用されたのか。そういった詳細に関する展示をしております。

〈砂流原様には少し退屈な展示となってしまうかと思いまして、敢えて見学のコースからは外させて頂きましたが……もしよろしければ、こちら側の見学、鉱山の見学が終わった後、向こう側にお帰りになった際に、資料室の見学が出来るようコミュニティー・センターに伝えておきましょうか?〉

「いえ、いいです。」

 真昼は。

 たった一言。

 そう答えた。

 次第に次第に、自分が何を知りたかったのかということを理解し始めてくる。その全員ではないにせよ、ここで働いているのは国内避難民達だ。つまりアーガミパータの全土で起こっている内戦を逃れてここに来た人々である。それにも拘わらず、ここでしていることは……そういった戦争で使われている兵器の、その材料となる物質を掘り出す仕事だ。

 彼ら/彼女らは、そういった仕事に疑問を抱いている様子がない。それどころか、心からの喜びとともに働いているようにしか見えないのだ。真昼からすれば、異様なことである。自分達の同胞を殺すかもしれない兵器を、自分達の手で掘らなければいけない。まともな精神の持ち主であれば、そんなことをさせられて、これほど陽気でいられるだろうか。

 抵抗しろといっているわけではない。仕事をするなといっているわけではない。というか、そんなことをいう権利など真昼にはないのだ。真昼が、こうやって、「特別なお客様」として、労働者達のことを(文字通り)見下ろしていられるのは。もちろん砂流原の家に生まれたというそれだけの理由のためである。自分で努力をしてこの地位を勝ち取ったわけではないのだ。そんな人間が……あの人々を非難出来るはずがあろうか? 地獄のような内戦から逃げ出して、ようやく安住の地に辿り着いた人々のことを非難出来るはずがあろうか?

 出来るはずがない。彼ら/彼女らは、生きるために仕事をしなければならないのだ。そのことに対して、真昼にはなんの異論もない。けれども……それでも、異様であるという考えは拭うことが出来ない。これが、もしも、強制させられて、無理やり仕事をしているというのなら理解出来る。あるいは、ポゼショナイズが働いているということも考えると、不快感や絶望感やといった感情を切除されて、ただただ無感情に働いているというのでも理解出来る。だが、そのどちらでもない。彼ら/彼女らは、レーグートの言葉を借りるなら、働くことに生きがいさえ見出しているように見える。

 もちろん、レーグートのいうこと全てを信用出来るというわけではない。というか、信用出来ない部分の方が多いだろう。レーグートには自分の意思というものがなく、それゆえに、他の生き物よりも遥かに上手に嘘をつくことが出来る(事実だけしか言わなくても、その事実がある限定された視点から見た事実に過ぎなければ、嘘をつくことは出来るのだから)。相手の聞きたい言葉だけを、いかにも本当らしい口調で言う。これ以上に正しい他人の騙し方があるだろうか?

 だから、ここで働いている労働者達が自分達の採掘している物質について「完全に理解している」というのは間違いなく偽りだろう。龍王領内から派遣されてきた領民達の中には理解している者もいるかもしれない。あるいはユニコーンであれば、全員が全員、何もかも知っているだろう。けれども、国内避難民の大半は、そういったことを理解していないに違いない。

 その証拠として、レーグートは、労働者に対して赤イヴェール合金に関する事実を周知させるプログラムとして、コミュニティセンター内の資料室の存在にしか触れていない。レーグートの性質からいって、あるいは今まで行われていた解説の感じからいって、もしも他にもプログラムがあるのだとすれば、その全てについて一つ一つ解説していったはずである。

 資料室はある。それがどの程度の規模の物であるかは分からないが、間違いなくあるはずだ。もしもないのならば、真昼に対してそこに行くことを提案するはずがない。だが、それは、その資料室は、あくまでも……「自分達は労働者に対して情報開示をしている」という言い訳を作るためのポーズだろう。要するに、人間至上主義諸国に向かって、この鉱山で採掘された赤イヴェール合金が無知な人間を騙して作った物ではないということをアピールするためのお飾りに過ぎないということだ。

 資料室を作っただけで、その資料室に展示されているであろう赤イヴェール合金についての真実を労働者達に対して積極的に教育しているわけではない。そして、積極的に教育しなければ、積極的に資料室に向かうように仕向けなければ。国内避難民が、わざわざ、クソ面白くもない資料室に、自分達が掘っている物について勉強しに行くだろうか?

 そんなわけがない。

 行くわけが、ない。

 そして。

 これが。

 問題なのだ。

 ここに全ての問題がある。この世界をより悪いものにしていくと真昼が思っている問題の、その本質が露呈している。それは、いうまでもなく無関心の問題だ。ああ、えーっとですね、ごめんなさい、一つだけいいですか? 一つだけ申し上げておきたいんですけれど、これはですね、真昼ちゃんのご意見に過ぎません。真昼ちゃんはですね、人間の一人一人が、この世界の全ての事柄に関心を持つこと。自分の行動に責任を持ち、この世界をより良い方向に変えていくにはどうすればいいのかということを真剣に考えることで、世界をより良い方向に変えていくことが出来るって考えてるんです。んまー、そんなわけがない、実際のところは、そんなに簡単に世界が良くなるはずがない、人間という生き物が不完全で愚かな存在である以上は、どうすればより良く出来るのかなんていうことが分かるはずがない。世界をより「幸福」にするのは、善悪を判断しようとする「人間の思考」ではなく、物質的な充足を満たそうとする「集団の行動」である。世界をより良い方向にしていこうという考えは、むしろ、その「集団の行動」に対して悪影響を与えることさえあるのだ……例えばダコイティに対して破滅を運んだ真昼の善意のように。

 とはいえ、真昼としては、まだ信じていた。人間性、善性、可能性。なんと呼んでもいいが、この世界を良くしていこうという気高い精神こそがこの世界を良くしていくのだという、一種の信仰のことだ。そして、その信仰と照らし合わせてみれば。目の前にある、この現実は、問題なのである。

 国内避難民は、世界に対して、徹底的に無関心なのだ。彼ら/彼女らは、どう考えても、自分達が採掘している物がこの世界に与える影響に対してなんの関心も抱いていない。恐らくは、この物質がなんであるかということくらいはなんとなく理解しているはずだ。赤イヴェール合金という名前の物質であること、それが兵器の材料として輸出されているということ。そして、そういった兵器が、アーガミパータの内戦で使われていること。それくらいは理解しているだろう。

 ただ、それを現在のアーガミパータの状況と結び付けることが出来ない。自分達が今掘り出している物質が、自分達が国内避難民になった原因の一つであるということを、論理的整合性をつけて考えることが出来ない。なぜなら、なぜなら……ああ、そんな……そんなはずはないのに……だが、事実だ。なぜなら、彼ら/彼女らは、愚かだから。

 そう、愚かだから理解出来ない。しかも、その愚かさは彼ら/彼女らに起因する愚かさでさえない。努力でなんとかなる愚かさではないのだ。主による祝福のような愚かさ、運命の恵雨のような愚かさ。自分の中にある矛盾を見ないようにして、そして、世界が良いものであり、自分が良い人間であると、そう思い続けることが出来る愚かさ。

 彼ら/彼女らは、純粋な心で憤る。自分達をこれほどの不遇に追いやった内戦を。そして、彼ら/彼女らは、純粋な心で誇りに思う。自分達がしている仕事を、世界を変えうる兵器の材料になる赤イヴェール合金を掘り出すという仕事を。だから、彼ら/彼女らは歌うのだ。これほど屈託なく、祝祭のごとく仕事を続けることが出来るのだ。

 これこそが大衆なのである。真昼が「真実の生活」であると信じた大衆。搾取者の持つ権力とは全く異なる原理で運動していると信じた大衆。したたかな大衆の生き様。ああ、確かにそれはしたたかである。あたかも空気や水やを享受するかのように支配を享受して。そうして、何一つ思い悩むことなく、自分の中での論理を破綻させる。

 はっきりといおう、真昼が信じた大衆などというものは存在しない、存在し得ないのだ。確固とした正しさに根差す、普通の人々などというものは存在し得ない。なぜなら、人間というものは、社会だからだ。社会こそが人間なのである。「社会が人間を形作る」でさえない。人間は、イコール、社会なのだ。周囲の環境から完全に切断されて、時間的にも空間的にも全くの空白の中に浮かんでいる人間というものを想像して欲しい。それは確かに生物学上は人間だろう。だが、それを、本当に、心の底から人間と呼べるか? 人間というものは社会があって初めて人間となりうる。そして、それゆえに、社会制度から遊離した生活などあり得ない。

 真昼が、絶対に壊れない根源的な人間というものを想定出来たのは。それは、ただ、月光国の社会制度が極めて優秀なものであったからに過ぎないのだ。社会制度が優秀であるから、そこで生活する人間の「生活」も、壊れないでいられる。しっかりとした権力の下で、しっかりとした秩序に縛られながら、日々の日常を営む。これこそが、真昼の想定したしたたかな大衆の正体なのだ。

 つまり、結論として。

 ここには。

 真昼が「正しい」と思っていたものは。

 存在していなかったということになる。

 存在していたのは。

 積極的に偽りを受け入れる。

 権力の賛同者だ。

 もちろん、当然、いうまでもなく。彼ら/彼女らも、権力に対する不満はあるだろう。それどころか、龍王領と暫定政府との戦闘に対して反対の意見を表明するような人間だっているかもしれない。だが、それがどうしたというのだ? 彼ら/彼女らは、決して行動に移すような真似はしない。というか、深く考えるということさえしないだろう。脊髄の反射のように、その事実に対して怒りを表明するだけで終わる。そして、また日常に帰っていくのだ。ただ単純に、自分が倫理的に他人よりも優位にあるという快楽を得るためにその怒りを表明している。

 更に。

 また。

 実のところ。

 大衆の愚かさというのは、真昼にとって最も重要な問題点でさえなかった。真昼にとってより一層大きな問題、より一層重要な問題は……この大衆の愚かさこそが、龍王領における人間の幸福を担保しているということである。

 もしも大衆が愚かではなかったら。一体、この場所はどういうことになっていただろうか。大衆が愚かではなく、自分が掘り出している物質がどんな物であるのかということを、しっかりと理解して。赤イヴェール合金という兵器の材料であること、自分の親・兄弟・姉妹、あるいは友人・恋人を殺した物と同じ兵器の材料であることを、しっかりと理解して。そして、もう、そんな物を掘り出すことは出来ないと、権力に対して果敢に立ち向かい始めたら。一体、何が起こるだろうか。

 人間は龍王には勝てない。まあ、一部には勝てる人間もいるかもしれない。例えばトラヴィール教会の枢機卿クラスや、リュケイオンの教授クラスや、それに神殺し。そういった人間達が束になってかかれば、もしかしたら殺すことが出来るかもしれない。だが、ここに集まった国内避難民程度の人間が龍王に勝つということは、絶対にあり得ないことだ。けれども、とはいえ……もしも、仮に、なんらかの奇跡が起こって。権力に立ち向かった人間達が、龍王に対して勝利を掴んでしまったら?

 この場所に形成されていた秩序は、完膚なきまでに叩き潰されるだろう。そのことに一片の疑いを挟む余地もない。もともとが龍王のポゼショナイズによって辛うじて保たれていた秩序に過ぎないのだから。まずは、ゼニグ族とヨガシュ族との対立が再燃し始めるだろう。ゼニグ族はヨガシュ族を支配し続けようとするだろうし、一方のヨガシュ族は、龍王のもとで味わった良い扱いを忘れることは出来ないだろう。互いに互いを支配しようとして、この場所は内戦状態になるに違ない。

 あるいは……また、ここでも。二度目の奇跡が起こって、ゼニグ族とヨガシュ族とが、なんらかの和解に達したとしよう。互いの権利を認め合って、自由で平等で民主的な政府を作る方向に持って行けたとしよう。それでは……一体、その政府を、どうやって運営していけばいいのか?

 ヌリトヤ砂漠は、文字通り砂漠である。赤イヴェール合金を除けばなんの資源もない。水でさえ、竜王の慈悲によって賜っているに過ぎないのだ。そんな場所で、これほど多くの難民を、どうやって養っていくというのか? しかも、その難民は、日に日に増えていっているのだ。

 もちろん赤イヴェール合金を売るのは論外だ。人間の人間による人間のための政府の正当性は「赤イヴェール合金の輸出を許さない」という一点にかかっているのだから。それを輸出し始めた時点で、この政府の正当性は完全に瓦解する。あるいは人間至上主義諸国の善意に頼るというのもまず無理だろう。マコトの話によれば、人間至上主義諸国が大量の国内避難民を受け入れ切れないというのは、人間至上主義諸国がこの龍王領を黙認している理由の一つとなっているらしい。そうであるにも拘わらず、その同じ人間至上主義諸国が、これほどたくさんの国内避難民が生活出来るほどの支援を与えるだろうか? そんなことは、とてもではないが期待出来ない。

 それでは、どうすればいいのだろうか。たった一つだけ解決策がある。それは、他の集団に対して侵略を仕掛けるということだ。これは不可能なことではない。龍王を権力の座から排除しうるほどの戦力を持っているのだから、アーガミパータのような地獄でも十分に通用しうるだろう。

 それに、侵略行為は十分に正当化出来る。例えば、アーガミパータには、いわゆる神国と呼べそうな集団が幾つもある。デウス種が支配している場所や、その他のマホウ族が支配しているような集団だ。そういった集団は、自由で平等で人間至上主義的な政府からすれば、抑圧的な独裁者によって支配されている集団ということになる。となれば、その抑圧的な独裁者から人間を解放するための戦いという大義が成り立ちうるのだ。そういった大義のためならば、自領の赤イヴェール合金を兵器として使うことも許されるだろう。なぜなら、これは、戦争を終わらせるための戦争だからである。戦争を始めるために赤イヴェール合金を輸出するのとは、全く違うのだ。

 このようにして。

 龍王から解放された人間達は。

 自ら、地獄に突っ込んでいく。

 そう、人間は賢くあってはいけないのだ。善良であっても倫理的であってもいけない。なぜなら、人間が到達しうる程度の賢明さ・崇高さでは、この世界をより幸福なものにするのには、全然足りないからだ。人間は無から水を発生させることが出来ない。あるいは、龍王を打倒した後に、これ以上世界に迷惑をかけないようにと、ここにいる人間の全てが自ら命を絶つことも出来ない。それは、百人か二百人か程度なら自殺出来るかもしれない。だが、数万人の人間が一度に自殺するなどということは、とてもではないが期待出来ないのだ。

 人間は従順でなければいけない。秩序に従わなければいけない。そうしなければ、幸福にはなれない。いや……少し違うかもしれない。自分が従順であることにさえ気が付かないほどに愚かでなければいけない、こういった方が正しいだろう。まさに、この鉱山で実際に働いている人々がそうであるように。さほど深い思想を持つことなく、いわゆる「健全な常識」を信仰し、その「健全な常識」以外には何ものにも従わない人々。もちろん、これは「健全な常識」に対する絶対的な盲信を意味しているのであるが、とはいえ「健全な常識」に従っている人間からすれば、それはあらゆるものからの解放を意味しているのである。それゆえに、自分は自由であると思い込んで生き続けることが出来る……そう、これほどまでに、人間は愚かでなければいけないのだ。

 今、真昼は。

 はっきりと。

 悟った。

 大衆は、民衆は、庶民は。

 正しい生き物では、ない。

 少なくとも、真昼が信じていたところの。

 「正しさ」など、欠片も、有していない。

 彼らは、彼女らは、間違いなく、搾取者の側に立っている。無意識のうちに、権力の賛同者となっている。そして、そうしなければ、絶対に幸福になることが出来ない。これは恐ろしいことだ、けれども、それと同じくらい恐ろしいことがもう一つある。

 もしも、彼らが、彼女らが、搾取者の側に立っているというのならば。真昼は、一体、どこに立っているというのだろうか。真昼は……もちろん「正しさ」の側に立っているわけではない。ダコイティが立っていた場所、パンダーラが立っていた場所。そこには、真昼は、絶対に立っていない。

 一方で、真昼は、労働者と共に立っているわけでもない。真昼には彼ら/彼女らの言葉が分からず、彼ら/彼女らがなぜ笑えるのかも理解出来ない。なぜあれほどまでに屈託なくいられるのか? なぜあれほどまでに幸福でいられるのか? それは、真昼には、永遠に解き明かせないように思える謎だ。

 しかし、そういう彼ら/彼女らは、実は搾取者の側に立つ人間だった。ああ、これでようやく納得出来た、なぜマコトが彼ら/彼女らと共にあることが出来たのかということを。要するに、彼ら/彼女らは、基本的にはマコトと同じ海に棲む魚なのだ。ただ、マコトの方は、太陽の光が届くことがない深海に棲んでいるというだけの話で。まあ、それはそれとして……真昼は、彼ら/彼女らと同じ場所には立っていない。

 ということは、真昼は、「正しさ」の側に立っているわけでも、搾取者の側に立っているわけでもないということになる。これは、一体、どういうことなのだろうか? 川にはこちら岸とあちら岸とがある。真昼は、その両方の岸を知っている。真昼は、自分が、その両方の岸に立っていないということを知っている。真昼は、今……どこに立っているのか?

 足元が揺れるのを感じる。真昼は艀の上に立っている。ごうごうと渦を巻き、怒涛として全てを押し流す、現実という名の川。その川に頼りなく浮かんでいる、柔らかい羽根で出来た艀の上に立っている。絶望した顔をして両方の岸に目をやるが、そのどちらの岸にも自分が立つべき場所はない。真昼は、ただただ流されることしか出来ない。いつの日か、目の前に滝が表れて。絶対的な虚無に落ち込んでいく滝が……真昼のことを飲み込むまで。

 ああ。

 そう。

 真昼は。

 今。

 どこにいる?

 真昼は。

 今。

 ユニコーンの上に乗って。

 坑道の入り口の前にいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る