第二部プルガトリオ #15

 確かに足音が聞こえてきていた。だが、その足音は、明らかに人間のものではなかった。普通、人間の足音というのは、もう少し、この、なんというか……足音の数が少ないものだ。えーとですね、はっきりといってしまうとすれば、この足音は、二足歩行の足音ではなく、四足歩行の足音だったのだ。もちろん四つ足で歩く人間の方々を差別するわけではない。けれども、この足音は、四つ足で歩いているだけではなく、更に、普通の人間の二倍以上の重量を感じさせる音だった。いうまでもなく、四つ足で歩くデブの方々を差別しようなどという気は毛頭ない。けれども、とはいえ……普通の人間が、歩く時に、蹄の音をさせるだろうか?

 そう。

 それは。

 蹄の音。

 エレベーターの方から聞こえてきていた。どうやら、エレベーターでこの階まで上がってきたらしい。真昼は、その方向に振り返る。すると、そこにいたのは……一馬の、デザート・ユニコーンの姿だった。

 普通の馬よりも一回りも二回りも巨大なその肉体は、よくもまあエレベーターの箱の中に入れたと思えるくらいだ(その箱はデザート・ユニコーンが入れるくらいの大きさで設計してあった物だが)。頭頂部には一本の角が生えていて、その角は、徴兵されているユニコーンとは違って切断されていない状態にある。ここは戦地ではないので、こういった角が万が一にも他者を傷付けることはないからだ。そして、その角、優美でありながらも魁偉なる角は、本来的には黒い色をしているのだが……あまりにも強力な魔力を孕んでいるがゆえに、その魔力が溢れ出ているかのようにして、見るものを魅了するような赤紫の色で光り輝いている。

 マコトは、すたすたと歩いて。

 ユニコーンに近付いていって。

 その目の前で立ち止まると。

 礼儀正しく両方の手を合わせて。

 軽く一礼をする。

 それから、口を開いて……その口から、馬の嘶きとしか思えない声が発せられた。マコトは声帯が大変器用な方なので、ユニコーンの言語も話すことが出来るのだ。

 ユニコーンの言語というものは、人間の言語とはかなり異なっていて、より一層繊細であり、より一層困難なものである。人間の言語は一種の記号であって、はっきりとした音節ごとに、はっきりとした意味が付与されているが。ユニコーンの言語は、嘶きの「調子」に感情を込めて、その感情を読み取る言語である。そのため、音の一つ一つに決まった意味があるわけではなく、人間の言語というよりもむしろノスフェラトゥの言語に近い。そのため、人間の中では、マコトのように他者の感情に対して異様に敏感な者しかユニコーンの言語を習得することが出来ない。

 ちなみに、今マコトが発した嘶きは、尊敬をこめた軽い挨拶のような意味を持っている。それに対して、目の前のユニコーンは、強く息を吐きだして口を震わせるような音を出して答える。ぶるるるるっという感じのこの音は、マコトの礼儀正しさに対する賛辞と返答のような意味合いを持つものだ。

 そんな風にして一人と一馬との会話が始まる。ちなみにユニコーに対して「一頭二頭」という数え方をするのは、ユニコーン自身は気にしないとしても、社会的には大変失礼なこととされているのでやめましょうね。

 いや、正確にいうのならば、「一馬二馬」というカウント方法だって失礼といえばかなり失礼である。ユニコーンと馬とはまるで違う生き物であって、それは、例えるならば、人間のことを「一猿二猿」と数えるようなことだからだ。ただ、ここで重要なのは……このように数えているところのこのような言語は、結局は人間の言語だということだ。このような言語が作られた当時、人間の黎明期、人間は高等知的生命体と下等知的生命体との区別もつかないほどの低能であった。人間が出来た区別はたった一つであり、それは人間という種族とそれ以外の種族と、という区別である。そのため、人に似たものは全て「一人二人」という単位で計り、それ以外の種族は全て「一匹二匹」「一頭二頭」という単位で計っていたのだ。そうして、このような言語が出来てから暫くして。ようやっとのこと高等知的生命体と下等知的生命体との区別がついてきたのだが、そこで、高等知的生命体であるところのユニコーンを「一頭二頭」と呼ぶのは若干ヤバいんではないかという話が立ち上がってきた。とはいっても、「一ユニコーン二ユニコーン」という呼び方をするのも、なんだかそれはそれで馬鹿にしている気がする。そんなわけで、まあまあ特別な呼び方として、「一馬二馬」というカウント方法が採用されたということである。まあ、まあ、失礼な呼び方といえば失礼な呼び方といえるが……ただ、とはいえ、ユニコーンは、人間のような猿ごときが何をいおうとまったく気にしないので、猿が猿で満足しているのならそれでいいのだろう。

 まあ、それはそれとして……その会話の内容は、真昼には一切分からないものだったが――ついでにマラーも全然分からなかったが――どうやら、このユニコーンが、マコトの言っていた責任者らしいということは理解出来た。

 真昼は、責任者というのもレーグートなのだとすっかり思い込んでいたのだが。よくよく考えてみれば、レーグートは調整的な役割を果たす官僚には向いていても責任者には不向きである。その一方で、ユニコーンは。ヴェケボサニア(ナシマホウ界のヴェケボサニアではなくマホウ界のヴェケボサニアです)において、未だにその支配権をノモス・ユニコーンとヴェケボサンとが争いあっていることからも分かるように、支配者としての適性がある種族である。人間よりも高等なユニコーンに責任者を任せるのは、むしろ当然といえるかもしれないことだった。いや、まあヴェケボサニアにおける覇権争いのことなど真昼ちゃんは全然ご存じなかったのだが、とはいえユニコーンがそれなりに高等な種族であるということくらいは知っていた。

 とにもかくにも、マコトは、鉱山に入る許可を貰うために、真昼に代わってユニコーンと話をしてくれているらしい。暫く話をしてから、一度、後ろを振り返って、そして真昼とマラーとの方を指差した。すると、それを受けて、ユニコーンがこちらに視線を向けてくる。

 というか、視線を向けてくるどころか、こちらに歩いてきた。堂々たる足取りながら、その中に、少しばかりの謙譲の響きが混じる。そして、真昼とマラーとの前にやって来る。真昼とマラーとは慌てて立ち上がって。どうしていいのか分からずに、取り敢えず、マコトと同じように両手を合わせてお辞儀をした。

 それに対して、ユニコーンは。両方の前脚を軽く折って、その上半身を地面に近付けるように下ろして。ひどく恭しい感じで目をつむりながら、真昼とマラーとに向かって頭を下ろした。自分は無防備であるといわんばかりに、角の先を下向きに下げるポーズ。これは、略式ではあるが、ユニコーンの中では「服従」や「忠誠」やといった意味を表すポーズだ。

 ユニコーンという生き物は……基本的にはマホウ界の大草原地帯で発生した種族である。それゆえに、同じように大草原地帯(ただしナシマホウ界)を発生源とするヴェケボサンとは犬猿の仲にあるのだが。それはともかくとして、いわゆる「遊牧民」タイプの知的生命体の常として、上下関係についてかなり強固な感覚を有しているところがある。様々な理由が複合的に絡み合うことによってそうなるのだが、主な理由は二つだ。

 一つ目は、草原という環境の厳しさ。森林と比べて資源は乏しく、それを巡って行われる競争は残酷だ。また、そこに住む生物を環境の変化から守ってくれるようなものもほとんどない。夏と冬との変化は激しく、別の場所に夏営地と冬営地とを作らなければいけないくらいだ。そういった環境下では一瞬の判断が生死の差を分ける。それゆえに、上意下達のシステムでなければ生き延びることが出来ないのだ。集団の構成員にはそれぞれの意見を聞いて貰うなどという贅沢は許されないのである。

 二つ目は、その集団的流動性だ。先ほども書いたことであるが、草原には身を隠してくれるような木々は存在しない。そのせいで頻繁に集団間の争いが行われる。色々な集団が、生まれては滅び、くっ付いては離れ、「遊牧民」の作る集団は「定住民」の作る集団とは違い一定化しない。テングリ・カガンのような例は稀なのである。それゆえに、そうして生まれた集団の内部では、逆説的に強固な関係性が必要になる。なぜなら、そうしなければ集団が空中分解してしまう恐れがあるからである。

 そして、龍王領に住んでいるユニコーンも、龍王に対しての絶対服従の感覚を有している。そうでなければ、あれほどプライドの高いユニコーンが、軍事基地における輸送任務などという地位に甘んじるだろうか? これは、ユニコーンが人間よりも高等な知性を有しているため、無駄死にすることを潔しとせず、そのため死者が出る可能性のある戦闘の最前線に送るわけにはいかないという理由があるのだが。そうであっても、そもそも徴兵に応じるということ自体がユニコーンの服従性を表しているのだ。ちなみに、タンディー・チャッタンにおいてナーガヴィジェタ大佐が占める地位はあくまでも人間種族の責任者であり、ユニコーンに対する指揮権は有していない。

 さて、そのようなわけで。

 ユニコーンは、真昼とマラーとに。

 非常に礼儀正しく一礼をしたのだ。

 龍王の賓客であれば、下等な生命体である人間に対して頭を下げることも厭わないのである。一方で、そうして頭を下げられた真昼とマラーとは、ますますどうしていいか分からなくなってしまった。ユニコーンから頭を下げられる経験なんて初めてだからだ。どぎまぎとしながら、ただただ手を合わせ続けること、頭を下げ続けることしか出来ない。

 そんな二人をよそにして、ユニコーンは優雅な一礼をし終わった。そして、頭を上げて、上半身を擡げて。二人に向かって軽く嘶いた。もちろん、いうまでもなく、二人はその言葉を理解出来なかったが。幸いなことに、マコトが通訳をしてくれる。

「えーとですね、その方は「ようこそラクトスヴァプン・カーンへ」と言ってます。ラクトスヴァプン・カーンはウーパリーパタラにある鉱山を指す名前で、「血に濡れた夢の鉱山」とかそんな感じの意味ですね。ちなみに、「血に濡れた夢」はアーガミパータで使われている赤イヴェール合金の一般的な名称です。」

 その言葉に対して、真昼は、つっかえつっかえ「えっと……ありがとうございます」ということしか出来なかったが。どうやらマコトは、そのなんとなく間が抜けた言葉を、きちんと卒がない形で訳したらしい。マコトの嘶き、ユニコーンが発した嘶きよりも少しばかり小さい音の嘶きを聞くと、ユニコーンは満足したように、強く息を吐き出すあの音を漏らしたからだ。

 それから、ユニコーンは、真昼とマラーと、それにマコトにも背を向けて、エレベーターの方に行ってしまった。マコトの交渉は終わったらしい。エレベーターの箱に乗ると、その体に巻き付いていたアカデ(今まで一言も触れていませんでしたね)(ごめんなさい)で、エレベーターのスイッチを押して。そして、下の階へと降りて行ったのだった。

「さて、許可も貰ったことですし。」

 暫くして。

 マコトが。

 そう口を開く。

「そろそろ鉱山に行きましょうか。」


 モノレールは信じられないくらいなめらかに進んでいく。あまりにも振動がないために、窓の外を見ていても、この車体自体が前に向かって動いているのではなく世界の方が後ろ向きに飛び退って行っているみたいだった。

 それもまあ当然のことで、今真昼が乗っているのはマジックモーターカーなのだ。レールに封じ込まれた魔学的な力によって動くこのモーターカーは、レールからほんの少し浮かんで移動するために、空気との間で起こる摩擦以外のあらゆる摩擦の悪影響を受けることがない。だから揺れるはずがないのだ。

 真昼達が出発したところの鉱山集落は戦勝記念の休日であったため、鉱山に行く労働者はおらず。本来であれば一本のモノレールも出るはずではなかったが、真昼とマラーとが龍王の賓客だということでわざわざ専用の車両を出してくれた。それゆえに、この車両は、真昼とマラーとマコトとの貸し切り状態だった。さっきからマラーは、元気よくはしゃぎ回って車両の中を行ったり来たりしている。

 広々とした車内には右側と左側と、それぞれに椅子が並んでいる。二人が座れるタイプのもので、列車の進行方向に向かう形で取り付けられていた。そして、その両側の椅子の間に、人が行ったり来たり出来る通路が通っている。ちょうど、月光国でいえば超高速鉄道の車内みたいな感じだ。そして、嵌め殺し窓は……とても広々としていた。車体の右側面と左側面との両方が全面的に窓になっているのだ。

 レールは地上から五ダブルキュビトのところを走っているため、高所恐怖症の人はどうするんだろうと心配にならなくもないのだが。そういう人に対してはそういう人用の精神安定剤が配られるので大丈夫である。龍王領では、国内避難民に対してもしっかりとした福祉が行き届いている。

 まあ、それはともかくとして。窓の外に見るべきものがあるのかといえば、別に何もない。どこまでもどこまでも土砂漠が続いているだけだ。そもそも、モノレールが通っているこの場所は、鉱山労働者達が住む場所まで届く騒音と振動とが、人間に対して健康被害を及ぼさない程度に緩和されるよう、鉱山との間に設けられているいわば緩衝地帯なのだ。何か見て楽しいようなものがあるはずがない。

 そのため、電車内には、天井に吊り下げられるみたいな形で、幾つかのテレビが設置されている。だが、このテレビも見るべきものを流しているというわけではない。コミュニティセンターに置いてあったテレビと同じように、延々と、凱旋パレードを流しているだけだからだ。

 そんなわけで、真昼は、気を紛らわせることも出来ずにただただ座っていることしか出来なかった。ちなみに、マコトはといえば、真昼から少し離れたところに座って(というか真昼がマコトから少し離れたところに座ったのだが)(貸し切りなので席はいくらでもある)、コミュニティセンターでしていたのと同じようにメモを整理していた。ちなみに「どのくらいで鉱山に着くんですか」「そうですねえ……十分くらいですかね」ということだ。

 ということは。

 その十分の間は。

 思考が漂うのを。

 止められないということだ。

 真昼はもう何も考えたくなかった。けれども、哀れ、人間の脳髄は不良品なのだ。考えたくないからといって考えることをやめることは出来ないし、それどころか忘れたいことを忘れることも出来ない。考えまいと思っていることを、かえって考えてしまうように出来ている。

 つまるところ、真昼が今考えているのは。このマコトという女についてだ。なぜ、この女に出会ってしまったのだろう。出会わなければ、きっと、ずっと、自分の理想の人だと思い込んだままでいられたのに。

 弱者の味方、反骨の記者。たった一本のペンで世界を変えようとあがく革命家。権力に向かって勇ましく立ち向かう、勝ち目のない戦いでも敢えて挑む。自分自身を信じ、運命を切り開いていこうとする戦士。

 一体、何がどうなってしまったのだろう。真昼には理解出来ない。なぜ、あんなに信念に満ちた記事を書く人が、こんな女なのか? いや、違う、そうじゃない。なぜこんな女が、あんなに信念に満ちた記事を書けるのか? 全部、全部、嘘じゃないか。この女は、真昼が読んできた記事に書かれているようなことなど、何一つ信じていない。それにも拘わらず、あたかもそれを信じているかのように、命を懸けてその理想を体現しようとしているかのように。真昼には、全然、全く、完全に、理解出来ない。

 私のことを……つまり、理想と信念とを信じる人間のことを。嘲笑うためにそんなことをしているのか? どうやらそうではないらしい。そもそも、この女は、そういう人間に対して興味がない。この女にとっては、そういった人間は、夏の蝉のようなものに過ぎない。少しうるさいが、気にするほどのものでもないといった程度の存在。そのうるさい鳴き声は、既に環境音のようなものになっているし……それに、いずれは、皆死ぬ。マコトは、そんな風に考えている。

 ならば。

 なぜ。

 そんなことを。

 するのだろう。

 マコトが、あんな記事を書かなければ。少なくとも勘違いしないでいられたのに。この世界が善と悪とに分かれた単純な世界で、そして、自由意志によって運命を切り開くことによって、善の側に立てるなんていうことを、信じないでいられたのに。

 今では、真昼は、何も信じられなくなっていた。マコトは鮮やかに証明してみせた。この世界は善と悪とに分かれているわけではなく、秩序と混沌とに分かれている。そして、自由意志とは、つまり自己愛によって混沌を作り出そうとする意志のことである。いうまでもなく、これは極端すぎる意見であって、真実ではないどころかマコト自身さえも信じていないことだ。しかし、真昼は……もう、それを疑うだけの気力さえなかった。

 真昼は――こんなことを自分が考えるなんて思いもしなかったが――デニーのことが懐かしくなっていた。デニーは、確かに悪人だ。この世界で最悪の悪魔だ。けれども、マコトとは違って、少なくとも、この世界に悪があるということを信じさせてくれた。そう、デニーは悪だった。悪そのものだった。真昼は心置きなくデニーのことを憎むことが出来た。そして、デニーのことを憎んでいる間は、自分が善の側に立っていると感じることが出来た。あるいは、少なくとも、この世界に善があるということを、信じることが出来たのだ。

 真昼は、もう。

 何も信じられない。

 真昼の頭蓋骨の中には。

 ただただ、荒れ狂った。

 混沌があるだけだ。

「ああ、見えてきましたよ。」

 マコトの声がする。

 真昼は、気怠げに。

 視線を、外に向ける。

 マコトが見えてきたと言った物体は……空中に浮かんでいる巨大な円盤だった。二千平方エレフキュビト近い範囲にわたって広がっている。一枚の巨大な円盤の上に、もう一枚の、少し小さめの円盤が乗っていて。その上には、それよりもさらに小さい円盤が、幾つも幾つも乗っている。そして、それらの円盤の全てが、それぞれなんらかの関係があるのであろう速度で回転しているのだ。

 よくよく見てみると、一番上の層、つまり小さな円盤が乗っている層であるが。外側には、確かに円盤が乗っているのだが。その内側の方に行くと……円盤ではない、何かの構造物が見えた。それは大量の煙突が突き出ている、非常に機械的な構造物であった。機械的というのは、どちらかといえば、最先端技術というよりは絡繰り仕掛けといった方がよさそうな感じだ。不必要と思えるほどの歯車が複雑に接続し合っていて、更にそのところどころに不可思議な光を放つランプのようなものが埋め込まれている。そして、そんな機械から、小さな円盤のそれぞれの基底部分に、ガラス仕掛けの回廊のような物が伸びていた。

「見れば分かると思いますが。」

 メモをしまいながら。

 マコトは続けて言う。

「あれが赤イヴェール合金の製錬所です。」

 もちろん、真昼は見ても分からなかった。真昼は確かに赤イヴェール合金の製錬所を見たことがあった。月光国は、数少ない赤イヴェール合金の産出国であったし。それに、真昼は、砂流原家のご令嬢なのだ。静一郎に連れられて行きたくもない製錬所見学に行かされたことくらいはあった。

 しかし、それは、あんな姿をしていなかった。ごくごく普通のバイオ・ラボラトリーといった感じ、白く塗り潰された内装に、大量のタンクが並んでいて、緑色の白衣(緑色の白衣って表現なんか馬鹿みたいですね)を着た人々が歩き回っている。よく覚えてないがそんな感じの場所だった。

 そもそも、空中には。

 浮かんでいなかった。

「あの下に採掘場があります。」

「なんで空に浮かんでるんですか。」

 自分で言ってて馬鹿みたいなセリフだと思ったが。

 それでも、真昼の口は、自然と、そう動いていた。

「え? ああ、なんででしょうね。よく分かんないですけど、たぶん土地の節約と――カリ・ユガ龍王領もそこまで広いってわけじゃないですから――まあ、その割には無駄に遊ばせてる土地が多過ぎると思いますけど――それから選鉱の都合じゃないですかね。ほら、赤イヴェール合金の選鉱って浮遊選鉱じゃないですか。ある程度まで手選で絞り込んで。そこから、ある一定のレベルの魔学的な力をかけてみて。浮かび上がった物だけを製錬に適しているとする。製錬所がああいった高いところにあれば、あそこまで浮かび上がった物だけを製錬すればいいですからね、要するにそういうことだと思います。」

 そう言われて、真昼は。

 改めて、視線を向ける。

 すると、地上の幾つかの箇所から、その円盤に向かって、転々とした赤い影のようなものが浮かび上がっていくのが見えた。ここからは遠過ぎてほとんど見えないが、きっと魔学的な力をかけられたことで、光りながら浮かび上がっていく、赤いヴェール合金の原石なのだろう。

 というか、それと同時に、妙なことに気が付いた。あれほど巨大な円盤がかぶさっているにも拘わらず、その下の空間には一筋の影も射していないのだ。全く陰っていない。一体どういうことなのだろう、連続した次元の中での位相がずれてでもいるのだろうか? あるいは、なんらかの方法で光の屈折率を変えてでもいるのか? まあ、とはいえ……それは、真昼にとって、さほど気になることではなかったが。

 とにかく、その「製錬所」からは。正確にいえば、その最下層の円盤からは。地上に向かって、何本も何本ものパイプラインが伸びていた。これが、あの鉱山集落にまで伸びて、さらにその先へと続いていたパイプラインなのだろう。製錬した赤イヴェール合金を運ぶためのパイプラインということだ。

「ああ、というか、もしかして……月光国にある製錬所とはちょっとタイプが違うかもしれませんね。実際のところですね、あの製錬所はかなり旧式なやつなんですよ。たぶん第二次神人間大戦の時から使ってるんじゃないかな。製錬方法は昔ながらの蘇生式製錬法ですし、だから未だに選鉱をしないといけない。その一方で、月光国の製錬所は最新式のドミトル・リーチングを使用している。ここでは捨石になるような粗鉱も精鉱として扱われる。というか、ドミトル・リーチングなら、少しでも赤イヴェール合金が混ざってれば、それを滲出させることが出来ますからね。」

 聞いていても全くぴんとこない(ドミトル・リーチングという単語だけは遠い記憶の彼方で聞いたことがあるような気がした)マコトの話を聞き流しながら、真昼は窓の外に視線を向け続ける。すると、次第に、次第に、製錬所に覆われた大地に……巨大な穴が開いているのが見えてきた。

 今まで様々なものを見てきた真昼、特にアヴマンダラ製錬所で行われている凄まじい採掘の現場を見たことがある真昼にとって、「信じられないほど巨大」だとか「恐ろしいほど巨大」だとか、そういう形容を使うほどの大きさではなかったが。それでも巨大であることは確かであった。

 上空から睥睨している製錬所と同じくらいの面積があるだろう。ただ、面積よりも驚くべきは深度であった。恐らくは数エレフキュビトの深さがあるに違いない。それほど深くまで落ち込んだ穴が、下に向かって階段状に掘り進められている。もちろん、その階段は人間が下りるための物ではなく、一段一段の高さが大規模な重機の高さを遥かに超えるほどだった。そして、その階段の蹴上にあたる部分、そのところどころに穴が開いていた。なんの穴か、真昼にはよく分からなかったが、時折、その穴の中に重機が入っていったりするのが見える。そして、穴の底の部分には、岩石で出来た丘のような物が幾つか出来ていて。それから、それ以外のところは……まるで空の青を映し出す鏡であるかのような、青く淀んだ湖になっていた。

「ああ、見えてきた見えてきた。あれが採掘現場ですよ。一見すると露天掘りに見えるかもしれませんが、基本的には坑内採鉱法を適用しています。要するに、あの「穴」が縦穴だっていうことですよ。縦穴にしては大き過ぎるように見えるかもしれませんがね。ただ、まあ、あの「穴」自体は人間が掘った物ではないので、人間のスケールで考えない方がいいでしょう。

「地下浅部の赤イヴェール合金は第二次神人間大戦時に採掘し尽くしてしまったので、もう地下深部にしか残っていないんですよ。従って、露天採掘法では掘り出すことが出来ないんです。まあ、この星の表面によほど大きな傷をつけられるなら別ですけどね。例えばASKみたいに。確か、ダクシナ語圏のASKは露天採掘法を採用していましたよね。本来であれば、あの辺りには、地表近くに鉱床はないはずなんですが……まあ、ASKは、その気になればこの星どころかこの銀河系を不定子の雲に崩壊させることだって出来ますから。赤イヴェール合金を「出血」するぐらいの傷を地表につけるなんて、兎を踊らせるみたいに簡単なことなんじゃないですかね。」

 そんな話をしているうちに。

 駅の姿が、見えてきていた。

 鉱山集落にあった物よりもずっとずっと大きい。それもそのはずで、この駅は、ウーパリーパタラの各地にある人間用の集落のそれぞれから伸びているモノレールが、実際の鉱山に到達した時に集結するポイント、いわばハブステーションだからだ。

 それは……鉱山と土砂漠との間を遮断する一枚の壁のようにも見える建築物だった。あるいは、もっと分かりやすいいい方をするならば、弧の形に切り取られたバウムクーヘンに苺のジャムをかけた物。いや、嘘ではない、本当にそう見えるのだ。

 底面が円弧の形になるようにして、いわば円弧柱の形に岩石を積み上げて。そして、岩石と岩石との間を赤イヴェール合金で接着した、そんな形をしていたということだ。先ほど、マコトが、製錬所について第二次神人間大戦前に作られた物だといっていたが。どうやら、この建物も同じくらい古い物のようだ。といっても、もちろん、この建物が作られた当時はモノレールの駅として使われていたわけではないだろう。恐らく鉱山全体を覆う要塞のような意味合いを持っていたに違いない。その一部だけを残して、駅として再利用しているということらしい。

 なぜそうだということが推測出来るのかといえば、その建物のところどころに彫刻のような物が彫られていたからだ。すごくすごく古い物で、色彩は完全に剥げ落ちてしまっているし、それどころか風化してしまっていて、もともとどんな彫刻だったのかもよく分からない。ただ、それでも、その彫刻が、友好な物ではないということは理解出来た。この壁を見る者、あるいはこの壁を壊そうとする者にとって有害な彫刻……つまり、防御の意味を持つ魔学式だということだ。

 さて、そんな建物には。

 五つの穴が開いていて。

 その穴に、レールが飲み込まれている。

 ということは、どうやら、ウーパリーパタラには五つの鉱山集落があるということらしい。建物の高さは、鉱山集落にあった物と同じくらい、大体四階建てくらいの高さであるが。その面積は十数倍はあるに違いない。

 真昼とマラーと、それにマコトが乗った車両が走っているレールは。右から二番目の穴に飲み込まれていた。それは、あたかも岩山に穿たれた人工的な洞窟のような姿をしていた。あるいはでたらめに重ねられた煉瓦塀から煉瓦を一つだけ引き抜いたみたいな形だったといってもいいかもしれない。

 とにもかくにも、レールだけではなく……三人が乗った車両も、そんな穴の中に突っ込んでいく。リニアタイプのマジックモーターカーの一番優れた点は、停止状態から最高速度、最高速度から停止状態という移行がほとんど一瞬で行われる点だ。とはいえ、慣性の問題があるので。中に乗っている人達が「うわー!」ってならないように、ある程度は減速に時間を掛けるが。

 車体がある地点を通過するたびに、ぱっ、ぱっ、ぱっ、と、洞窟内のライトが点灯していく。今まで真っ暗だった洞窟が明るくなっていく。そして、やがて、車体は……水の上を滑る雪の欠片のようななめらかさで駅のホームに停車した。

 その駅のホームというのも、恐ろしく素っ気ないというか、ちょっと寂しささえ覚えるくらい実用的なものだった。基本的には掘り抜かれたそのままといった感じで、壁も床も天井も全てが岩石で出来ている。そんな洞窟の中に、金属筋が張り巡らされていて、その金属筋の一本一本に何やら魔学式が刻まれている。天井からは何本も何本もの蛍光灯がぶら下がっていて、この空間全体を照らし出している。

 唯一、飾りというか、装飾品のような役割を果たしているのは……同じく天井からぶら下がっている、横に長い看板だ。それにはイパータ語らしい言葉で何かの言葉が書かれている。真昼には読めなかったが、恐らくWelcome的な意味合いの言葉ではないだろう。ここは職場なのであり、労働者に対してWelcomeしても仕方ないからだ。恐らくは、「無事故無違反」だとか「災害ゼロ」だとかそんな感じの標語が書かれているに違いない。確かにここはアーガミパータ、地獄の底ではあるが、職場が安全であって欲しいという思いは地獄の底でも同じなのである。

「さあさあ、着きましたよ。」

 そんなマコトの言葉とともに。

 車体の扉が、開かれて。

 三人はホームに降りる。

 ホームには、レーグートが一人立っていた。どうやら三人のことを待っていたらしい。なぜそれが分かるのかといえば、そのレーグートが〈お待ちしておりました、お待ちしておりました〉と言ったからだ。うーん、そのまんまですね。〈わたしくしが皆様をご案内させて戴きます〉ということなので、責任者のユニコーンが三人のために用意してくれたのだろう。

「ああ、ありがとうございます。」

〈安全には十分に配慮しておりますつもりではございますが、それでも、なんの装備もなくお入り頂くには、鉱山というのは危険過ぎる場所でございます。それゆえに、まずは、皆様に規定の装備を装着して頂く必要があります。〉

「はいはい、分かってますよ。」

 と、そんなわけで。

 三人はレーグートに連れられて。

 更衣室へと向かうことになった。

 更衣室への道のりについては……特段、書くべきことはない。敢えて真昼の感想を一つだけ抽出してみるならば、それは、もう既に鉱山の中にいるみたいだと思ったということだ。どうやら、この駅、というか元要塞は、鉱山集落の居住区画と同じように捨石を利用することによって作られたらしい。

 しかし、まだコンマギーアの技術が発達する前に作られたのか、あるいはわざとその技術を使わないなんらかの理由があったのか。この建物は、あの金属質なセメントとでもいうべき物質で出来ているわけではなかった。この建物を外側から見た時と同じように、岩石のブロックと岩石のブロックとを赤いヴェール合金で接着しただけの構造だったのだ。そして、そんな構造を、内側に嵌め込んだ、魔学式を刻まれた金属筋で補完している。

 そんな通路には点々と窓が開いていた。いや、これらの穴を窓と呼ぶのは少しおかしいかもしれない。一般的に窓といわれて想像するような穴と比べるとあまりにも細長過ぎるのだ。ほとんど数ハーフディギトくらいしかない横幅、けれども縦には一ダブルキュビト近くの長さまで伸びている。そして、そんな穴の周りの壁は削られていて、まるで小規模な壁龕のようになっている。推測するに、これは銃眼として作られたものなのだろう。

 銃眼には当然ながら何も嵌め込まれておらず、遮るものなど何もなく太陽の光が差し込んでいる。そして、その光は、薄暗い洞窟を切り刻んでいくスリットのように、真昼の行く手を照らし出している。とはいえ、それは通路を照らし出す光としては二次的なものだ。天井からぶら下がっている、いかにも後から付け足されたといった具合の蛍光灯が、真昼の足元を明るくしている。

 そんな通路を五分ほど歩いて。

 その「更衣室」に辿り着いた。

 そういえば、ここに来るまでに誰ともすれ違わなかったと真昼は思った。通路自体は狭いものではない、四人くらいが並んで歩けるくらいだ。それにも拘わらず、人影を全く見かけなかったのは、きっと、今の時間帯は、ほとんどの労働者が現場に出ているからだろう。とにかく、目の前にあった扉、重々しく嵌め込まれた金属製の扉を、レーグートが開く。

〈さあ、さあ、お入り下さい。〉

 その部屋。

 今までの空間とは。

 少しばかり。

 違っていた。

 基本的な構造が違うわけではない。岩石を掘り抜いた洞窟のような全体像、空間を支えるようにして張り巡らされた金属筋。違っていたのは……今までの空間と違って、この空間は、実用目的一辺倒といった感じではなかったということだ。

 例えば床に目を向けてみよう。それは剥き出しの岩石ではなくタイルで覆われていた。しかもただのタイルではない、アロニク模様を描き出すために細かく刻まれて、色彩を施されたテッセラだ。幾つものテッセラを組み合わせて、床面には一つの絵画が描かれている。お馴染みのあれ、カーラプーラのシンボルである四つの首を持つ蛇と、その蛇を取り囲むようにして飛び跳ねている数匹のユニコーンの姿。

 それに、部屋の四隅にはかなり巨大なユニコーンの像が置かれていた。どれくらい巨大なのかといえば、デニーちゃん二人分くらいの大きさだ。とっても大きいね。まるで二足歩行する動物のように、誇り高い有様で、大きく大きく前足を掲げて。今にも嘶きの声を上げそうなポーズをとっている。そのユニコーンの像は、信じられないほど色鮮やかな衣を纏っていて、この空間に鮮やかな色彩を添えている。

「へーえ、すごいですね。ラクトスヴァプン・カーンの駅にこんな部屋があったなんて。全然知らなかったですよ。ほら、いつもいつも労働者用のロッカールームをお借りしていたんで。」

〈こちらはですね、特別なお客様向けのロッカールームでございまして。〉

「はーあ、なるほどね。鉱山を視察する、人間至上主義諸国のお偉様方向けってことですか?」

(左様でございます、左様でございます。)

 レーグートの言葉の通り、その更衣室はかなりきちんと整えられたロッカールームであった。ASKの施設ほどではないが、ある種のラグジュアリーさえ感じるくらいだ。

 部屋の右側に十二個、部屋の左側に十二個、合計して二十四個のロッカーが並んでいるのだが、モダンな感じの、落ち着いた木目調のロッカーだ。一つ一つのサイズが大きく、真昼くらいならすっぽりと入ってしまいそうなほどで、しかも安心なことにナンバー式の錠が取り付けられている。

 ロッカーとロッカーとの間にはベンチが幾つか置いてある。ここに座ってズボンを履いたり靴を履いたり出来るようにするための物だろう。視察に来るお偉様方の全員が、立ったままそういう動作を行えるほど若いとは限らないのである。ベンチは木製で、ロッカーと雰囲気が揃っている。

 そして、なんと、部屋の一番奥にはシャワールームまで取り付けられていたほどだった。確かに、あちらこちらを歩き回って鉱山を見学した後にはシャワーを浴びたい気持ちになるかもしれない。六つ並んでいるシャワールームは小さな個室で、結構奥行きがある。二つの部分に分かれていて、奥の部分がシャワールームで、手前の部分には洗面台が取り付けられていた。きっと、そちらは化粧などを直すための空間なのだろう。

 さて、そんな更衣室。

 入ってすぐのところ。

 その、ベンチの上に。

 装備品一式が。

 三セット、置いてあった。

 装備品一式とは次のような物である。まずは、目が痛くなりそうなほど派手な蛍光色、オレンジ色の作業着。これは鉱内で万が一のことが起こった時に目立つような色を選んでいるのだろう、ただ、まあ、赤イヴェール合金の鉱山でオレンジ色が目立つかどうかというのはよく分からないが。それから、おでこのところにライトが付けられたヘルメット。それから、布で出来た簡易式の防塵マスク。それから、目を覆うための透明なプラスチック製の作業用ゴーグル。そして、最後に、頑丈でありながらも履き心地がよさそうなブーツである。

〈あちらの装備でございますが、右側から、マコト・ジュリアス・ローンガンマン様用、砂流原真昼様用、マラー様用に、それぞれサイズを合わせてございます。〉

「わあ、すごいですね、私なんて、いつもフリーサイズの作業着でしたよ。」

〈ロッカーはどれでもお好きな物をお使い下さいね。それでは、わたくしは外でお待ちしておりますので、お着替えが終わりましたらお呼び頂けましたらと。〉

「分かりました、ありがとうございます。」

 そのようにマコトと言葉を交わしてから。

 レーグートは、更衣室から、出て行った。

 それから、マコトは、すたすたと前に進み出て行って、一番右にあった装備のセットを取り上げると。そのまま、さして選んだ様子もなく、右側のロッカーのうちの一つに向かった。ちなみにそれは手前から三番目のロッカーで、その近くに置いてあったベンチの上に装備のセットを置いてから、いかにも無造作に、防弾ベストから脱ぎ始めた。

 そんなマコトの着替えをぼんやりと眺めながら、真昼はなんとなく嫌悪感を感じていた。今度はマコトに対する嫌悪感ではない、自分に対する嫌悪感だ。鉱山に来て、責任者に挨拶されて。「特別なお客様」用の更衣室に通されて、サイズを合わせて貰った作業着を着る。これではまるで……静一郎に連れられて色々な場所を見学した時と同じではないか。

 自分は今、一体何をしているのだろうか。そもそもここに来たのはなんでだったっけ。それは……そう、「普通の人々」に出会いたかったから。抽象的な権力闘争、誰をどれだけ搾取出来るかということだけを考えているような、ごくごく限られた上位一パーセントの世界ではなくて。具体的な生活の場所、本当に生きるべき人生、この世界を本当に支えている九十九パーセントの世界。そんな「真実」の世界に住む「普通の人々」と出会いたかったから、真昼はここに来たいと望んだのだ。

 しかし、よくよく考えてみれば。それを「見る」だけではなんの意味もないのである。というか、そういった世界を「見る」ことは、今まで、真昼も、さんざんやってきたことだ。テレビを通して、新聞を通して、時折は、実際にデモに参加したことさえあった。それは月光国で行われたデモではあったが、それでも、その経験は、確かに真昼にとっては「普通の人々」を「見る」経験だったはずだ。そういう経験をして、真昼は何か変わったか? 何も変わってない、相変わらず真昼のままだ。

 真昼が本当に望んでいたことは「見る」ことではなかった。そうではない、違うのだ。真昼は、真昼は、真昼が望んでいたのは。それは洗礼であった。ダニエル雨天洗礼派が、雨に打たれることによって全身の罪を洗い流すように。真昼は、「普通の人々」の中に入り、その人々と交わることによって、真昼の体の中に満ち溢れた罪の全てを洗い流したかったのだ。

 もっといえば、真昼は、その世界に入るための資格を得たかった。洗礼、まさに洗礼である。真昼は、断崖を渡りたかった、絶壁を超えたかった。そして、こちら側の岸からあちら側の岸に辿り着きたかった。そう、マラーがいる側の岸に辿り着きたかったのだ。感化、影響、あるいは浄化。なんでもいい、真昼は、反吐が出るように汚らわしい罪の土地から抜け出したかった。

 しかし、これでは。

 こんなやり方では。

 そんなことは。

 無理だ。

 マコトでさえ、労働者と同じ作業着を、労働者に交じって着たのだというのに。真昼はそんなことさえしていない。要するに、傘をさしたままで雨の中にいるのだ。真昼は遮断されている。「普通の人々」から、「真実」の世界から。これではテレビで見ているのと同じだ、新聞を読んでいるのと何も変わらない。どこまでも客観的に、どこまでも他人事として、「見る」ことしか出来ない。このままでは、此岸と彼岸との間の断絶を、ただただ感じ続けることしか出来ない。

 そんな行為、には。

 なんの意味もない。

 とはいえ……仮に、マコトのように労働者と同じ視点で物事を見たとしても。果たして真昼はそちら側の世界に立つことが出来るのであろうか。そう、真昼は、既に、そういった視点で物事を見たことがあったはずだった。つまり、真昼は、アヴィアダヴ・コンダで、ダコイティと共に生活したことがあるのだ。

 確かにそれは一日にも満たない時間だった。けれども、ダコイティと同じものを食べ、ダコイティと同じ場所で眠り、そして、ダコイティと同じ戦いに命を懸けたのだ。だが、それにも拘わらず。そんな経験をしたにも拘わらず。真昼は、未だに、真昼のままだ。断絶のこちら側に立っているままなのである。

 つまり、もう、真昼は、変わることなど出来ないのではないだろうか? 砂流原の家に生まれて、砂流原として育てられた真昼は。もう。こちら側でしか生きることが出来ないのではないだろうか。いくら視点を変えたとしても、その視点から取り入れた光景を処理する脳髄が変わらないのならばなんの意味もないのだ。そして、真昼の脳髄には……消えようもなく、砂流原の刻印が、搾取者の刻印が、なされているのではないか?

「どうしました、砂流原さん。」

「なんでもないです。」

 防弾ベストを脱ぎ終わって、その下に着ていた白いシャツに手をかけながら。きょとんとした顔をして問い掛けてきたマコトに対して、真昼はそう答えた。それから、ぼうっとした顔をしたままで突っ立っていることをやめて、目の前にあった作業着、自分の分とマラーの分との作業着を手に取って、左側に設置してあるロッカーへと向かう。

 例え、この行為になんの意味もなかったとしても。今更それをやめるわけにはいかないのだ。自分のわがままでここまでして貰っておきながら、ここでいきなり帰りたいなんて言い出したら、それこそお金持ちの気紛れになってしまう。せめて、ここで働いている人々を。労働者を、「普通の人々」を、その視界に焼き付けていこう。そうすれば、何かが変わるかもしれない。また、この世界のことを、正しいと思えるようになるかもしれない。

 そんなことを考えながら、真昼は、まずはマラーから着替えさせることにした。今まで真昼が見学してきた月光国の兵器工場などのような場所では、作業着という物は、その時に着ている服の上から着られるようにぶかぶかとした物だった。けれども、この鉱山で使われている作業着は、どうやらそれとは違うタイプであるようだ。どちらかといえば囚人服のイメージに近い。一度全ての服を脱いで、下着だけになって、それから身につけなければいけないタイプの制服だ。

 これはきっと、月光国などとは違って、アーガミパータの服が上から作業着を着るのに適していないという理由からそうなっているのだろう。ここまで触れていなかったが、この作業着というやつは、ジャケットに下に着るシャツに、それからズボンという、いかにも人間至上主義的な感じの服であって。体にしっかりとフィットするタイプの服だ。クルターとチューリダールとのセットや、あるいはサーティといった服の上から着るのは、なかなか難しいに違いない。

 あるいはウーパリーパタラにおける国内避難民の居住区では、月光国などの基準よりも服が貴重品であるということも関係しているかもしれない。激しい労働は服を傷めることになるため、自分の金で買った服を、そういった環境で身に着けたくないのだろう。こういった制服ならば、仮に駄目にしてしまってもまた支給して貰えるという安心感がある。

 とにもかくにも。

 着ている、服を。

 脱がねばならない。

 ということで、当然ながらマコトも服を脱いでいた。真昼がマラーに装備の一式を手渡した時に、ちょうどシャツのボタンを外し終わったところで、ブラジャー以外には上半身に何も身に着けない状態になっていた。マコトみたいな人間でもブラジャーとかつけるのか、想像つかないな、ランジェリー・ショップに行くところ、みたいなことを考えながら、視界の端でちらちらと揺れているマコトの裸体を見ていたのだが。どうも、その裸体というのが、少しおかしいのだ。

 ちなみに、そのマコトのブラジャーというのは、いかにも中学生だとか高校生だとかがつけていそうな代物で、要するにスポーツブラジャーだ。しかも襤褸雑巾のようにぼろぼろである。もしかすると本当に中学生だとか高校生だとかだった頃から使っているものかもしれず……いや、マコトのブラジャーの話はどうでもいいんだよな。そうではなく、マコトの裸体の話だ。

 普通の体とは少し違うような気がする。そう思って、マコトには気が付かれないように、ちらと視線を向けると……何がおかしいのかが分かった。その体は傷だらけだったのだ。一面のあらゆるところに傷があって、ほとんど傷で埋め尽くされているといってもいいくらいだ。

 体の左側、胸から下の辺りは、何かに炙られたようにして全体的に火傷の跡がついている。右の脇腹には二つの丸い傷跡がついていて、これは銃弾が通過した跡だろう。右の方には凄まじい切り傷が残っていて、なんらかの刃物がマコトの体を切断しかけた跡のように見える。

 それ以外にも様々な傷が付いている。マコトの顔の傷、引き攣った笑顔のような左頬の裂傷は、マコトの肉体に刻まれた数多くの傷の一つに過ぎなかったらしい。それも……よく考えたら、当然のことだった。もしも、マコトがMJLだというのならば。数え切れないほどの修羅場を駆け抜けてきたはずなのである。逆に五体が揃っていることの方が不思議なくらいだ。つまり、この傷は、真昼がどうしても否定したいこと、つまりマコトがMJLであるということの、間違いのない証明なのである。

 ちなみに、なぜ防弾ベストをつけているにも拘わらず脇腹に銃弾の跡が付くのかと疑問に思った方もいるだろう。その疑問に対する答えは簡単であって、マコトはちょいちょい防弾ベストを脱いでしまうのである。着たことがない方は分からないかもしれないが、防弾ベストというのはかなり重い。身に着けていると、ひどく動きにくくなる。

 マコトは、最初はカメラマンが別にいたのだが。マコトがあまりにも命知らずな取材を繰り返した結果として、ある日、ある時、かなりヤバめの潜入取材をしている最中に殺されてしまった。そのために、自分で写真を撮影するしかなくなったのだが、となると、決定的瞬間を撮影するためにはどうしても瞬発力が必要になってくる。

 そのため、防弾ベストを着ているとめちゃくちゃ邪魔なのだ。だからマコトは、今日のようにさして危険ではない取材の時(デニー達に出会う前に戦闘が終結した前線基地の取材に行っていた)(この防弾ベストはその取材のために身に着けたものだった)にはきちんと防弾ベストを身に着けているのだが。防弾ベストが一番必要な時、戦場の真ん中にいる時には、大体防弾ベストを脱いでいるのである。苦痛に対して他人よりも鈍感であるため、自分の肉体の安全よりもベストショットを選んでしまうのだ。

 そんなわけで、マコトの体に付いている傷のうち、その大半については、まあ三対一くらいの割合でマコトの自業自得なのだが。とはいえ、真昼にとっては、それはMJLの傷であった。その傷だけは、マコトはMJLなのだ。つまり、権力に対する自由の闘争、弱き者の声を届けるための戦いによって付けられた傷。聖痕にも近い傷痕のように見えるものだったということだ。

 こんな。

 こんな。

 女に。

 これほど。

 聖なる。

 傷がある。

 吐き気がしてきて、真昼は目を逸らしてしまった。もちろん、その聖なる傷という考えは、完全に真昼の思い込みであって。マコトは虐げられた人々のために取材をしているのではなく、自分が好きだから取材をしているに過ぎない。それでも、真昼には……その傷は、なるべく目に入れたいものではなかった。マコトの体と自分の体とを比べてしまうからだ。

 自分の体には傷一つない。このアーガミパータに二日もいて、テロリストによる襲撃を経験し、革命に参加して、一つの戦場を通過してきたのにも拘わらず、だ。確かにアヴマンダラ製錬所では敵に撃たれたりもした。けれども、真昼は、無傷なままである。なぜなら……真昼は、守られてきたからだ。ずっと、ずっと、守られてきた。

 自分の経験は、所詮はその程度のものなのだ。全ての物事を絶対安全圏から見ていたに過ぎない。それならば……自分には、この女を軽蔑する権利さえないのではないのだろうか? この女は少なくとも自分で経験してきた。全ての物事を、誰にも守られることなく生き抜いてきたのだ。それだけで、真昼よりもずっと上等な人間だ。

 それでは。

 そんな上等な人間が。

 この世界は間違っているというのならば。

 それは、もしかして、正しいことなのか。

 マラーが困ったような顔をして真昼のことを見てきた。服は既に脱ぎ終わっており、シャツもすっぽりと頭からかぶった状態で。ここまではなんとか分かるのだが、これ以上の装備をどうやって身につければいいのか分からないらしい。確かにこの作業服はアーガミパータで着られている服とは少し異なっている。

 真昼は、頭に纏わり付いていて離れない思考からなんとか逃れるために、マラーに服を着せてやることにした。まずは上着を羽織らせて、前のスライドファスナーを閉める。ズボンを履かせてから、ベルトで留める。マラーの両方の足をブーツに突っ込んで、しっかりと締め付けてから、紐を結ぶ。それから、最後に、ヘルメットをかぶせてあげる。

 これでマラーの装備は完成だ。まだ、この後すぐに鉱山に入るというわけでもないだろうし、ゴーグルとマスクとはつけさせなくていいだろう。とにもかくにも、今まで着たこともないような服を着たマラーは、なんだか居心地が悪そうだ。アーガミパータの服と違って、全身にぴったりとくっ付くところがしっくりとこないのだろう。それでも、着せてくれた真昼に対して嬉しそうな笑顔を見せながら「あ、り、が、と、う」と告げる。

 こんなに小さい子供が。

 こんな装備を身に着けていると。

 なんだか、ごっこ遊びみたいだ。

 それから、真昼自身も装備を身に着ける。まだ一日着ていないのにも拘わらず、薄汚れている上に、そこら中がすり切れてぼろぼろになっている丁字シャツを脱いで。ダメージジーンズだとしてもダメージを受け過ぎなジーンズを脱ぐ。下に着るべき白いシャツを着て、ズボンを履く。ベルトを止めてから、上着を羽織って、そしてスライドファスナーを締める。よれよれになったスニーカーを脱いでから、ブーツを履いて、ちょうどいい具合で紐を結ぶ。そして、最後に、ヘルメットをかぶる。

「ああ、着替え終わりましたね。」

 とっくに着替え終わって。

 ベンチに座って寛いでいたマコトが。

 立ち上がって伸びをしながら言った。

「お待たせしました。」

「いえいえ。じゃ、行きましょうか。」

 そう答えながら、すたすたと歩いて、マコトは更衣室の出口まで向かった。ドアを開けると、その外で待っていたレーグートに声を掛ける。「お待たせしました、着替え終わりましたよ」〈ああ、よくお似合いです、よくお似合いです。忘れ物はございませんね? それでは参りましょう〉。

 それからまた、どこまで行っても同じような光景が続く通路を歩き始める。一つ角を曲がると、銃眼として使われていたらしき窓さえなくなってしまって。ぐねぐねと曲がる通路を進んでいると、自分がどこにいるのかも分からなくなってくる。

 そんな風に歩いているうちに、またドアがある場所までやってきた。ただ、このドアは、更衣室に付いてたドアとは少しだけ違っていた。同じような金属で出来た扉だったが、こちらはあまり手入れがされているようには見えない、ところどころが錆びているようだ。しかも更衣室のドアは一人か二人通れればいいといった感じのシングルドアだったが、こちらのドアは、数ダブルキュビトの横幅がある。

 一体なんの扉なんだろうと訝っている真昼の目の前で、レーグートがドアに軽く手をかざした。すると、その行為をきっかけにして、扉が自動で開き始めた。きっとなんらかの魔力のようなものを使ったのだろう。共生しているセミフォバクテリウムの影響で、レーグートの魔力は人間のそれよりも遥かに強い。とにかく、開いた扉の先にあったのは……巨大な階段だった。

 これ以上、上の階はないので、下に向かう階段しかなかったが。とにかく、このいかにも大仰な扉は階段に通じる扉だったらしい。そもそもこの建物が要塞として使われていたらしいことを考えに入れれれば、きっと、この扉は、いざという時に上の階と下の階とを遮断するためのものだったのだろう。

 階段を下りていく。

 一階下。

 二階下。

 三階下。

 どうやらここが。

 グランドフロアらしい。

 ということは、やはりこの建物は四階建てだったのだろう。またもや巨大な扉を開くと、その先に続いていたのは四階にあった物と全く同じ種類の洞窟みたいな通路だ。その通路を、進んで、進んで、進んで。ようやくこの建物の出口に辿り着く。

 その角を一つ曲がると、急に、目を焼き尽くしてしまうようなアーガミパータの太陽の光が飛び込んできたのだ。そこは幾つかの通路が接続している、巨大なホールのような場所で。そして、そこから外の世界へと繋がっている出入り口には……戸板のような物は一切取り付けられていなかった。

 これは、確かにアーガミパータの習慣、家の出入り口に戸板を付けないという習慣からすると妥当であるように思えるが。その一方で、階段に取り付けられていた仰々しい戸板から考えると、何かおかしいようにも感じられた。

 あの階段の戸板が外敵を阻むためのものなら、出入り口にもやはりそういう戸板が付いていて然るべきではないか? 確かにこちら側が鉱山に向かう出入り口だというのならば、そもそも要塞の内側にあった出入り口であるため、戸板を付けなくてもよかったという理論も成り立つだろうが……それでも真昼はなんだか釈然としなかった。

 とにもかくにも、岩石で出来た空洞のように巨大なホールの天井は円蓋になっていて、そこには、いかにもアーガミパータ的な、ごちゃごちゃとした絵画が描かれていた。ちょっとした神経症の患者が書いたのではないかと思ってしまうくらいに細かく細かく細かく細かく書き込まれた絵画は、ちょっとした神経症の患者が書いたのではないかと思ってしまうくらいにけばけばしい色彩の爆発である。

 基本的な構図としては、四つの首を持つ真っ黒な蛇のモチーフ(いつものやつ)を中心として、周囲に数え切れないほどのユニコーンが駆け回っているものだ。それらのユニコーンは、信じられないくらい色とりどりな布を纏っていて。その布が、まるで本当に動いているのではないかというくらいの躍動感を持って描かれている。そして、そういったユニコーン一馬ごとに、それぞれ数人の人間がダンスを踊りながら取り囲んでいた。

 絵の具の具合からして、ずっと昔に書かれたというわけではないようだ。古くても数十年前といったところだろう、ということは、この要塞が要塞として使われていた時期に書かれた物ではないということだ。ここが駅として使われ始めてから、労働者のために描かれたものだろう。

 そんな天井のことを、ホールの円周上、等間隔で置かれているスポットライトのような装置が照らし出している。まるで何かの美術館みたいな構成であるが、そのようにして日常にちょっとした彩を与えてくれそうな劇的な空間を通って、レーグートと三人とはこの建物の外へと出た。

 駅から出ると。

 まず目に入ってくるのは。

 天空を塞ぐ製錬所だった。

 まあ、これについてはいうまでもないことだろう。見渡す限りの天を覆い隠すかのようにして、製錬所の底が広がっているのだ。ただ、これは全く予想外だったことなのだが……その底のところは、一面が、湖の水面にも似た液体面になっていた。ふるふると揺れて、今にもこちらに向かって滴ってきそうな、水銀のような液体だ。そして、その液体面には、製錬所の上に広がっているであろう青空の光景が映し出されていた。

 なるほど、こういうことだったのかと真昼は思った。それは、実際には何かの魔学的なスクリーンなのだろうけれど、あたかもこの巨大な製錬所を透過して青空が見えているかのように。あまり自然な光景とはいいがたかったが、それでも、少なくともヒラニヤ・アンダの光を浴びることは出来るということだ。

 そして、そんな急拵えの青空の下は、いかにも砂漠地帯にある鉱山といった感じの、荒れた土砂漠が続いていて。その土砂漠に向かって、真っ直ぐに、一本の道が伸びている。マハーヴィジャナ・マールガと同じような石畳で舗装された道で、何十年もの間、数え切れないほどの人々がその上を行ったり来たりしたのだろうなと思わせるように、ひどく摩耗していた。

 そして、その道の上。

 二匹のユニコーンが。

 立っていた。

 しかも、ただ立っていたわけではない。なんと、しっかりとタックアップされた状態で立っていたのだ。背中には鞍を乗せられて、鐙と手綱とがつけられていて。ただ、普通のタックアップとは少し違っているところがあった。例えば口のところに馬銜はつけられていなかったし、そのため手綱は鞍から直接伸びていた。どうやら、この手綱は、ユニコーンに対して方向を指示するというよりも、乗っている誰かが、万が一のことがあっても落下しないようにするためのものらしかった。

 ユニコーンがこんな状態になるなんて、真昼には信じられないことだった。ここまで何度か書いてきているように、ユニコーンは知的生命体だ。しかも人間よりも高等な部類に属している。そんなユニコーンが、こんな、普通の馬みたいに、誰かを乗せる準備をしてるなんて。そして、ユニコーンが載せようとしているのは、どうやら……自分達三人のことらしい。

 三人のことを待っていたらしく、二匹のユニコーンは駅の出入り口の方を向いていたのだが。レーグートに連れられて三人が出てくると、責任者のユニコーンがしたような、あのユニコーン流のお辞儀をした。それから、三人の傍まで近寄ってきて、礼儀正しく一声嘶くと。いかにもどうぞ乗って下さいといわんばかりに、四つ足を折って、その場に座り込んだ。

〈どうぞお乗りくださいと申しております。〉

「お乗り下さいって……私達がですか。」

〈ええ、ええ。左様でございます。〉

 あまりに意外なことにぽかんとしている真昼をよそに、マコトは「いやー、嬉しい驚きですね。まさかユニコーンの方々が直々に案内して下さるなんて」とかなんとか言いながら、ユニコーンの方に向かって歩いていく。そして、いかにも嬉しそうな馬の唸り声をあげて、ユニコーンに対して謝意を示すと。ひらりと、驚くほど身軽なやり方で、その上に飛び乗った。

「あれ、乗らないんですか?」

「でも、ユニコーンに乗るなんて……」

「あはは、奥ゆかしい方ですねえ、砂流原さんは。さすが良家のお嬢さんだ、躾がよく行き届いていらっしゃる。まあ、とはいえ、向こう様が乗っていいって言ってるんだから乗っていいんじゃないんですか。大丈夫ですよ、そんなに気にしなくても。」

 マコトに。

 言われて。

 その一言一言が癇に障ったが、とはいえ、言っていることは正しかった。膝を折って、真昼がその上に乗ることを待ってくれているのだ。これで乗らなかったらかえって失礼になるだろう。真昼は、思い切って……まずは、マラーのことを乗せてから。それから、そのマラーの後ろ側、マラーのことを包み込むようにして、自分もユニコーンの上に乗った。

 一応、念のために書いておくと。ユニコーンは、人間を乗せることについてさほど気にしているわけではない。それは馬銜とかつけられたら嫌だろうが、背中の上に乗せるくらいなら、人間でいうと肩の上に猫を乗せるとかそれくらいの感覚なのだ。人間も乗せるし、メルフィスも乗せるし、デウス・ダイモニカスも乗せる。ダガッゼと偽龍とは重さ的にあまり乗せたくないと思っていて、ヴェケボサンは死んでも乗せない、大体そんな感じだ。

 ただ、こういった感覚がユニコーン以外の種に適用出来るかというと微妙なところだ。例えば、なぜだか知らないが、グリュプスは背中の上に誰かを乗せることを毛嫌いしている。本羽達の言い分では翼を触られるのが嫌なのだそうだが、どうやらそういった表面上の理由だけでなく、なんらかの根深い種族的な記憶が関わっているらしい。それがどういうものなのか、グリュプスの誰一羽として話そうとしないので、よく分からないが。とにもかくにも、それゆえにグリュプスのタクシーは籠に乗せるタイプなのである。

 さて。

 三人が乗ると。

 ユニコーンは。

 また立ち上がる。

〈鉱山は大変危険ですので、特別なお客様に対しては、万全を期するためにデザート・ユニコーンにエスコートさせて頂くようにしているのでございます。〉

「へー、そうなんですね。いや、ユニコーンに乗せて貰うなんて滅多にないことですから。私なんて、今まで一回しか乗ったことがありませんよ。」

 なんだか白々しいほど。

 喜んでいる、マコトだ。

 さて。

 そんなわけで、三人はユニコーンに乗って。

 鉱山に向かう道のりを、出発したのだった。

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