第二部プルガトリオ #13

 マコトのその言葉を聞くと、真昼はベンチから立ち上がった。マラーのそばに行くと、また、その手を握る。マラーは、嬉しそうに微笑みながら、真昼のことを見上げて……もう大分慣れてきたが、それでもやはり生理的な拒否感は残っていた。

 それから、三人はマコトがフライスを止めているところに向かって歩いていく。ちなみに、フライスとは。読者の皆さんはそんなこといわれなくてもとっくの昔に推測がついていると思いますが、カーラプーラについてから真昼がちょくちょく見かけている、あのスティックに似た乗り物のことであった。

 基本的な部分、つまりバイクみたいな形状だとか、その両脇から突き出ている二つの円盤だとか、そういった部分は変わることがない。違っている部分は二点あって、まずは駆動機関である。これは見た目ではよく分からないのだが、スティックに使われているマジック・エンジンは軍用であるのに対して、こちらは民間用である。パワーが全然違うのだ。そのせいで、乗車人数だとか最大速度だとか、そういったものがフライスの方が断然劣っている。

 二点目は、乗車している人間への保護の度合いだ。スカイスティックは戦闘時に使われるように設計されたものである。アヴマンダラ製錬所の戦いで見たように、乗員がアサルト・ライフルだの携行無反動砲だのを持ち込んで、それによって戦う。ということは、乗員の側に、いくらかの行動自由性が担保されていなければいけない。そうしなければ、弾丸・砲弾をそこら中にぶちまけることは出来ないからだ。一方で、フライスの方は。乗員は、別に破壊だとか殺戮だとかをする必要はないのである。

 従って、乗っている人間を機体に固定するための様々な機構が整っている。例えば右肩・左肩・腰右・腰左・股下の五点で止めることができるシートベルト。例えば、ガラスと金属とで乗員を包み込むオキュペント・プロテクト。それだけではなく、ハンドル等の操縦のための機器類も、スカイスティックよりももう少し分かりやすい物、自動車などに取り付けられている機器類に近い物になっていた。

 そう。

 普通の。

 フライスは。

 そうなのだ。

 この駐車場……というか、駐機場に停められていたフライスも、そのほとんどがそういったタイプのものだった。真昼にはよく分からないのだが、きっとどこかのブランドものなのだろう、エンブレムだのロゴマークだのがそれぞれ違ってはいたが(その中でも辛うじてサリートマトのマークだけは識別出来た)(あそこはこんなものも作っていたのか)。ベースとなる形状は大体が同じもの、回転するローターの代わりにマジック・エンジンがついているヘリコプターといった感じのものだった。

 そう、そのほとんどが。もう少し正確にいうのならば、たった一台のフライスを除いて。そのフライスは……他のフライスから完全に浮いていた。あまりにも浮き過ぎているので、浮かれとんちきと呼んでやりたいくらいだった。いや、別に浮かれているというわけではないんですけどね。

 先ほども書いたように、他のフライスは、いかにも高級ブランドらしいマークがついていたし。それに「毎朝使用人にワックスで磨かせておりましてよ」とでもいわんばかりにつやっつやのてかてかりんだったのだが。そのフライスだけは……なんだか、こう、全体的に無念な感じだった。

 無念というか無残というか。まず、砂だらけだった。もしもこれがマジック・エンジンでなく普通の科学的なエンジンだったら、きっとどんな防塵規格でもこれだけの砂は防ぐことが出来なかっただろう。それから、そこら中に傷が付いていた。焼け焦げた跡や銃弾がかすったらしい跡、それにどう見てもそこに穴が開いていたらしいところに、他の金属で継ぎ当てをしたと思しき箇所。死にかけていた。もう殺してやった方が、どんなに慈悲深いか。一目見ただけで「酷使」という言葉が浮かんでくる。

 ただ、それは違いの中でも小さな方だった。最も大きな違いというのは……明らかに、そのフライスがフライスではなかったという点だ。どういう意味かといえば、それは「フライス」ではなく「スカイスティック」だったということだ。フライスの特徴であるはずの乗員に対する手厚い保護の姿勢というものが全く見られない。五点タイプのシートベルトもなければオキュペント・プロテクトもない。剥き出しのままの乗員が、極限まで単純化された操作機器を使うという、まさにスティックのシステム。

 まあ、アヴマンダラ製錬所で真昼が乗せられた物よりはましといえないことはなかったが――何せあれは屑鉄の寄せ集めだったのだから――それでも、積極的に乗りたいとは全く思わせないタイプのフライスであった。

 そして。

 もちろん。

 そのフライスが。

 マコトのだった。

 色々と理由がある。マコトが、こういうフライスを使っているには。その中でも一番大きなものは予算の問題だ。イエロー・タイムズは、ちょっと前にも書いたと思うが、かなり弱小の新聞社である。ということで、当然ながら、取材にかけることが出来る経費はかなり限られている。

 もちろん、イエロー・タイムズの社長兼編集長であるレイフェル・ウィトレットは非常に情に厚い「善人」であるため、マコトが要求すれば、きっときちんとした(中古の)(安物の)フライスを購入するくらいの経費は出してくれるだろう。ただ、とはいえ……マコトが行うような取材においては、フライスは固定資産ではなくむしろ消耗品だ。数回の取材で一機分の経費を使ってしまっていたら、さすがに経営が傾いてしまう。

 ということでマコトは、フライスに関しては自分でなんとかしていたのだ。幸いなことに、マコトが取材するような地帯にはたくさんのスティックが落ちている。落ちているというか撃墜された結果としてそこら辺に転がっているということだが、そういったスティックの中から比較的使えそうなものを探し出して、ささっと拝借しているのだ。そして、もう一つ幸いなことに……マコトには、少しばかりの機械工学の知識もあった。

 そんなわけで、マコトは、このような明らかにスティックでしかないスティックをフライスといい張って使っていた。また、もう一つだけ理由を挙げるとしたら、フライスの乗員保護システムが取材時に邪魔になるということ。マコトは、記者とカメラマンとを兼任していたので、現場では写真撮影も行う。その際にオキュペント・プロテクトがあるとはっきりした写真が撮れない。それに、シートベルトで体を固定されていては、最高の構図を求めて身を乗り出すことも出来ない。そういう意味ではスティックの方が利便性が高いのだ。

 とはいえ。

 そういった理由は。

 真昼には関係ない。

「さあさあ、乗って下さい。」

 そう言いながら、二人に対して後ろの席を指し示した。それから、自分は、さっさと運転席に乗り込んでしまう。これは……大変興味深いことなのだが、このフライスには「シートベルト」がついていた。ちなみに鍵括弧を付けたことで分かって頂けるだろうが、いうまでもなく一般的にシートベルトといわれた時に思い浮かぶであろうそれではない。

 端的にいうと、金属製のワイヤーだった。機体から結構長い感じのワイヤーが伸びていて、その先に腰に巻き付ける用のベルトが取り付けられている。このベルトを乗員の腰に巻き付けることで、少なくとも機体に固定はされるというわけだ。シートベルトというよりも命綱と呼んだ方がいいだろう。それが、後部座席に一本だけ取り付けられている。

 真昼は、それを目の前にして暫く考え込んでしまった。これは……どうすればいいのだろうか。そもそも助手席は一人乗りを想定して作られているので、真昼とマラーとの二人が乗るのは少々厳しいものがある。しかもシートベルト(らしきもの)は一本しかない。いかにしてこの問題を解決すべきであろうか。

「どうしたんですか、砂流原さん?」

 マコトが。

 怪訝な顔をして。

 問い掛けてくる。

 真昼は、アーガミパータで二日ほど過ごしたことで、なんとなく理解してきたのだが。この世界には正解がない問題というものがある。どう頑張ろうと次善の策しか思い付くことが出来ない問題であって、なぜ次善の策しか思い付かないのかといえば、その次善の策が最高の回答だからだ。

 きっと、どうすればいいのかをマコトに質問しても。満足出来る答えは返ってこないだろうと真昼は思った(そしてそれは事実だった)。だから、真昼は、そういった無駄なことに時間を使うことなく……そのシートベルトをマラーの腰に巻いた。そして、まずは自分が後部座席に座って。その膝の上に、ちょこんという感じで、マラーの体を乗せた。

 後ろから抱き締める形で、自分の体によって、マラーの体を、しっかりと後部座席に固定する。こうすれば、少なくともマラーは安全だろう。マラーは、真昼の温かい体に包み込まれたことで、すっかりと安心してしまったようだ。嬉しそうに、真昼の胸の辺りに頭をこすりつけている。

 また、こんなものに乗ることになるとは。

 真昼は、ついつい溜め息をついてしまう。

 すると、その溜め息を聞いたマコトが、大変陽気そうな声で「あらららら。溜め息ですか、砂流原さん」と言いながら振り返ってきた。見なくても何がどこにあるのか分かるのだろう、慣れた手付きでエンジンをかけながら、真昼に向かって、あのへらへらした笑顔でこう続ける「大丈夫ですよ、免許は持ってます」。

 エンジンがかかる。

 三つの円盤が。

 人を不安にさせるテンポで。

 ちかちかと点滅をしながら。

 今にも、壊れそうな態度。

 機体を浮かび上がらせる。

 そして。

 それから。

 少しばかり肩を竦めて。

 マコトは、付け加える。

「まあ、民間用機体限定ですけどね。」


 結論からいうと、さほどひどくはなかった。かといって素晴らしい運転技術というわけでもない。ごくごく普通って感じ。こういうのが一番困るんですよね、何も書くことがなくなってしまうので。デニーみたいにめちゃくちゃな運転をしてくれれば、目を白黒させながらわーきゃー騒ぐ真昼ちゃんのこととか描写出来るんですけど……恐らく他人を乗せているから多少は気を使っているのだろう。普段、自分一人で乗っている時のマコトは、デニーほどではないにせよ、かなり荒っぽい運転をしているので。

 それよりも真昼にとって「苦難」であったのは(なんで鍵括弧つけたの?)、その採掘場が思いのほか遠かったということだ。まあ、ちょっと考えれば分かることなので、思いのほかという表現を使うのもなんか違う気がするが。そりゃあ、騒音だの振動だのといった公害の観点から考えてみれば、そんな採掘場みたいな場所が首都の近くにあるはずがないのだ。ちなみに、どのくらい遠いのかといえば、距離にしてみると八十エレフキュビト程度。これはマコトのフライスで大体一時間くらいのところであった。

 ということで、真昼は一時間ほど後部座席に座っていなければならなかった。ダコイティが使っていたスティックとは違って、背凭れも肘掛けもあったし。それに、マラーが膝の上に載っているのだって、デニーの魔学式によって強化された肉体には、さほどの負担とはならなかったが。それでも、一時間は八十分であり、八十分は六千四百秒なのだ。これは当たり前のことだが、そんな当たり前のことをついつい考えてしまうくらいに長く感じるということをいいたいのである。

 デニーであれば、なんかよく分かんないことをいつまでもいつまでも喋り続けているので、「こいつ何言ってんだろ」とかなんとか思いながらBGM代わりに聞いていることも出来るが。フライスに乗ってから、マコトは全然喋らなくなってしまった。運転している時は喋らないタイプなのか、それとも真昼が出し続けていた話し掛けて欲しくないバイヴレーションを察して話し掛けてこないのか。恐らくは後者なのだろうが、真昼としては、話し掛けてこない場合は話し掛けてこない場合でつらいものがあった。

 カーラプーラを出てから……あまり見るべきものはなかったからだ。どこまで行っても荒野ばかりだとか、沙漠だけが広がっているだとか、そういうことではない。龍王領において都市計画は、民間によってなんの考えもなくなされているわけではなく、権力によってきちんと進められているので、人口が都市部に集中したり、地方で過疎化が進んだり、そういった問題が起こることはないのだ。それはまあ、ヤジ(略)ーダ城塞の辺りは、無教徒が攻め込んで来た時に備えて、いわば緩衝地帯としての役割を果たさせるために、敢えて荒野のままにしてはいるが。その他の場所に関しては、マイトリー・サラスからの水の流れに従って、ちょうどいい感じで住民が分散するようにされている。

 しかし、とはいえ……龍王領は、基本的に観光業で成り立っている集団ではない。マイトリー・サラスの周辺は、外国人が来ないこともないので、比較的観光客向けにタノサイズ(「楽しい」に動詞化を意味する「ize」を付けた単語)されてはいるが。普通の外国人は、視察や取材や等の場合を除いて、カーラプーラから外に出ることなんて滅多にないのだ。

 ということで、実用的な目的に特化して作られた街並みは、自然と見ているだけではなんの面白みもないものとなったわけだ。まあ、それは、そこに並んでいる家々は、いかにもアーガミパータ風の建築であって。そこここに派手な色彩のストゥーパが立っていたり、人間の顔がどばばーんって感じで書かれてる非情に愉快な看板が並んでいたり。かと思えばいかにもスラム街といった感じの、テントが並んだ地区があったり。バラエティ豊かな感じではあったのだが……とはいえ、一時間もの長きにわたり、ずっと見ていて飽きないというタイプのものではない。

 時折。

 見えるものについて、マコトが。

 説明してくれることも、あった。

「そういえば、お腹は空いてらっしゃいますか? ああ、そうですか。いえね、ここから少し行ったところにアヒンサー料理の店がありましてね。衛生上は多少問題があるんですけれど、味に関してはなかなかでしてね。私の個人的な意見ですが、北アーガミパータの中でもベストスリーに入るくらいなんじゃないかな。少なくとも暫定政府の支配領域にある店よりは……ああ、あれですあれです。あの店です。見えないですか? あー、通り過ぎてしまいました。まあ、それほど大きな店でもないですしね。一度に十人くらいしか入れない店なんです。

「砂流原さん、アヒンサー料理はもう食べましたか? 食べてないでしょう、デニーさんは物を食べるということに対して理解がないですからね。アーガミパータの名物料理で……元々はニルグランタの学生が食べていた料理だそうです。ほら、あそこって絶対不殺の戒律があるじゃないですか。でも、魔学的な力を直接吸収して生きていくことが出来るようになるまでにはそこそこ時間が掛かりますから。入学してからそういうことが出来るようになるまでの期間は、生き物を殺すことなく食事が出来るように、特別な料理が必要だったらしいんです。

「大変変わった料理でしてね。動物を殺さない料理とかは人間至上主義諸国でもよくありますけど、植物を殺すことも許されていないんです。例えば……そうですね、穀物や豆類を使うのは絶対に駄目。種を一つ食べることは一つの植物から命を奪うことになりますから。少なくとも、ニルグランタの定義ではね。植物に影響しないように少しずつ葉の部分を切り取っていったり、あるいは果物は元々他の動物に食べられてもいい部分ですから、そこを食べたり。あと乳製品や蜂蜜なんかも食べるみたいですね。ただし、発酵食品は菌類を食べることになるので許されていないらしいですが。それなら、勝手に口の中に入ってしまう雑菌はどうなんだって話ですよね? まあ、彼ら/彼女らなりに何か理屈があるんでしょう、私にはよく分かりませんが。

「それから、少し変わっているのは、自然死したものなら動物の肉も食べていいということです。まあ、理屈は通ってますよね、食べるために殺したわけではないですし。だから、腐敗した食物の調理方法が大変充実しています。これもまた、先ほどの「菌類を食べること」が「許されていない」っていうのと矛盾してるような気がしないでもないんですけどね。徐々に付け足されながら成長していく戒律っていうやつは、大体において不条理なものですし……彼ら/彼女らがそれでいいっていうなら、私達がコメントすべきことではないですからね。どうぞご勝手にといいますか、つまりそういうことです。」

 だとか。

 それに。

「ああ、見て下さい! あの森みたいなところ。あそこが何かお分かりになりますか? 結界が張られているので、中の様子はよく見えないと思いますが……あそこはですね、領立の軍事大学です。軍事大学といっても、科大ではなく魔大ですけどね。

「砂流原さんはタンディー・チャッタンに行かれたんですよね? それなら、暫定政府軍に比べてカリ・ユガ軍の側に還俗学生の姿がかなり多かったことにお気付きになったんじゃないですか? えーと、あんまりぴんと来てらっしゃらないみたいですね。還俗学生っていうのは、赤い衣を着ていて、全身の毛を剃っている、魔学者のことです。

「もしかして、砂流原さんってニルグランタのこともご存じないですか? あー、そうですか。まあ、仕方ないですよね。デニーさんは聞かないと何も教えてくれませんし。えーとですね、ニルグランタっていうのは、「集団としての魔大」です。ここでいう「集団」とは、国とか企業とか、あるいは教会みたいに主権を持つ集団っていうことですね。

「そういう「集団としての魔大」、外部からの干渉なしに内部に権力を行使出来る魔大はこの世界に二つありまして、一つ目が旧パンピュリア神国領土内にヴェッセルを設置しているリュケイオン、もう一つがアーガミパータのどこかにあるとされているニルグランタ。これらの魔大で学ぶ学生達は、皆が皆、とても優秀な魔学者であるため、当然ながら貴重な軍事兵器となりうる存在と考えられています。そのため、魔学的な戦力を増強する必要がある他の集団からは引く手数多だというわけです。

「ただ、一つだけ問題がありまして。ニルグランタには戒律……校則っていった方が分かりやすいですかね? とにかく、大学に入ったら必ず守らなければいけないルールがあるんです。そして、その中に「不殺生」が含まれている。ニルグランタに所属している人間は、何があっても、他の生き物から命を奪ってはいけないということですね。この「命」という単語に関する定義についても色々あって、大学内のグレードが上がっていくごとに「不殺生」のレベルも上がっていくみたいなんですけど、それはまあ置いておきましょう。とにかく、ニルグランタの学生は殺すことが出来ない。戦争に関与するなんてもっての外ってわけです。

「ただ、なんらかの理由でニルグランタを「退学」した人間は別です。「卒業」の場合は戒律を守り続けることがその条件となっているので相変わらず殺生を行うことを禁じられていますが、「退学」の場合はそういった縛りがないので、大学で学んだことを戦争行為に使用してもなんの問題もないというわけです。そんなわけで、ニルグランタを「退学」した人間は、一般に還俗学生と呼ばれて、傭兵として重宝されているわけです。

「とはいっても……そういった還俗学生がそんなにわんさかいるかというと、そういうわけでもないわけです。そりゃあ、そもそもニルグランタに入学すること自体がかなりの困難を伴う行為ですからね。そこから「退学」した人間となればなおさら少ない。だから、数が限られた還俗学生を巡って、アーガミパータでは奪い合いが起こっている。

「そういった状況を解決するために、カリ・ユガ龍王領では、さっき通り過ぎたところのあの軍事大学を作ったってわけです。要するに、あれは「集団としての大学」ではなく「集団による魔大」、何かしら他の主権に従属している魔大なんですね。まず、十数人の還俗学生を獲得して、教師としてあの魔大に配属する。そして、時間は掛かりますが、一から生徒として育てていって、その生徒を戦争に投入するということです。こうすれば、そんなにたくさんの還俗学生を獲得しなくても、コンスタントに魔学的な戦力が手に入るという仕組みです。

「暫定政府は完全に自転車操業状態ですからね。魔大を作って生徒を育てるなんて悠長なことをしている暇はなく、獲得した還俗学生は全て軍事兵器として投入してしまっています。結果として、それほどたくさんの還俗学生――ここで言う還俗学生とは広義の還俗学生、つまり還俗学生によって育てられた生徒達も含むものですが――を使えなくなってしまっているということです。まあ、そんな感じですね。」

 だとか。

 そんな。

 感じだ。

 とはいえ、そういったご説明タイムは、一時間の中の数パーセントに過ぎなかったのであって。九十パーセント以上の時間は、非常に退屈な上に少々気まずくさえある沈黙の中にあったのだった。そして、真昼は、そういった時間のほとんどを、自分ではどうすることも出来ない、溢れ出るような内省の時間として過ごしていたのであった。

 内省? いや、そう呼ぶのは間違っているだろう。なぜなら真昼が今回考えていたのは、自分のことというよりも、マコトのことであったからだ。とはいっても、マコトについて、何か論理立った思考を巡らせていたというわけではない。あたかも、燃え盛る炎がゆらゆらと揺らめいているかのように、一つの感覚を感じ続けていただけだ。

 それはいうまでもなく、裏切られたという感覚だ。怒りと憎しみとその他の混合物。その感覚は、炎であるとすれば、自分では止めることが出来ないほどの温度によって肉を焼き尽くし血を湧き立たせる、緑色をした炎であろう。そう、もしも炎であるとすれば、真昼の内面で燃えるその炎によって、真昼の瞳の色は濡れた蛇の鱗のように緑色に輝いていただろう。

 どうして、どうして、あんたは、私を、裏切ったの? 真昼とて、この問い掛けがなんの意味もなさないものであるということを知っている。だって、そうだろう? マコトは今日の今日まで真昼と面識なんてなかったのだから。まあ、真昼のことを知っていなかったわけではないらしいが。とはいえ、あくまでも、取材対象としての単純な興味を抱いていただけだ。

 それでも、真昼は、その炎に身を任せることをやめることが出来なかった。蛇の鱗のようにして全身に纏わりついてくる炎。つまり、真昼はこう思っていたのだ。あんたは、MJLでなければいけなかった、なのに、どうして、MJLではなかったのか? これは、つまりこういっているのと同じことである。世界は正しくなければいけなかった。なのに、どうして、世界は間違っているの。それに対する答えを、もちろん真昼は知っていた。アーガミパータが教えてくれたのだ。

 世界が間違っていたわけではない。

 お前自身が、間違って、いたのだ。

 何かをどうにかしなくてはいけないのだが、何をどうしていいのか分からない。考えをまとめられない。もっと、もっと、冷静になって考えるべきなのに。建設的に考えを進めなければいけないはずなのに。なぜ、私はマコトに対して怒りを抱いているのか。なぜ、私はマコトのことを憎んでいるのか。その原因をしっかりと把握して、それに対して対処していく。それが、今の自分にとって必要なことだ。そんなことくらいは真昼にも分かっている。だが……考えがまとまらないのだ。何も分からない。ただ渦巻く、炎が渦巻く。なぜ、私は、裏切られてしまったのか。

 御伽噺なんかを信じるなんて。

 どうしようもない馬鹿だといわれた。

 そして、恐らくは、それが。

 正しいんだと分かっている。

 そのことが、一番の問題なんだろう。

「ああ、見えてきましたよ。」

 マコトの声で。

 ふと我に返る。

「あれが、ウーパリーパタラです。」

 これは今まで書いていなかったことであるが、マコトのフライスはそれほど高いところを飛んでいたわけではなかった。当然といえば当然のことで、フライスに乗っているもののうちマラー以外はシートベルトを着けていないのだ。墜落したら死ぬような高さで飛行するなんて愚かな真似をするわけがない。いや、マコト一人であれば、そうしないこともなかったろうが(マコトは真昼と違って自分の命をとても大切にしているが、とはいえ、マコトがいつも論理的な行動をとると期待出来るわけではない)。ただ、今は、デニーからの預かりものを載せているのだ。さすがのマコトとて、慎重にならざるを得ない。

 そのため、「都市」の全体が見えたというわけではなかった。見えたのは、あくまでも入り口の部分だけだ。それでもその光景は……真昼に対して、奇異の念を与えた。

 カーラプーラを離れ、その周辺で栄えている街々をも離れて。今、フライスは、田舎と呼んでいいような場所を飛んでいた。月光国で例えるならばこんな感じだろう。バレット・トレインに乗って、夜刀浦を離れて。窓の外を見ていると、巨大なビル群が立ち並ぶ大都市から、次第次第に家々さえ疎らになっていって、地平線が見えるようになってくる。

 その「都市」につくまでは、だから、人の気配はあまりない地域が続いていた。ところどころにぽつりぽつりと家があるが、いかにも急拵えの掘立小屋といった感じ。マイトリー・サラスから流れ出てくる水のおかげか、なんとなく乾いてはいるが、荒れ果ててはいないという程度。

 ちなみに、先ほども書いたように、龍王領は全てが計画のもとに作られている。この地域も自然と過疎になったわけではなく、計画のうちに作られたものであって、「都市」で発生する騒音だの振動だのが他の町々に影響を与えないようにするための一種の緩衝地帯というわけだ。

 そういった緩衝地帯であるはずの場所に建てられた、ああいった家々は……たぶん、町や村やから逃れてきた人達が、都市計画など関係なく勝手に立てたものだろう。どんな理想的な社会であっても、その社会に適合できない精神構造を有している者は必ず現れるものである。

 さて。

 そんな地平線の果て。

 唐突に。

 その「都市」が。

 見えてきたのだ。

 実際のところは、それほど完全な唐突さというわけでもなかったが。なぜなら、その「都市」……マコトが呼んだ名前でいうならばウーパリーパタラからは、何本かのパイプラインが流れ出していたからだ。えーっと、パイプラインに対して流れ出すっていう表現使っていいんですかね? 流れてるのはパイプラインの内部の物質であってパイプラインではないのに。まあいいか。とにかく、それらのパイプラインは「都市」から流れ出ていて、そして緩衝地帯を突っ切っていた。

 もちろん、ウーパリーパタラで採掘した赤イヴェール合金を輸出用のテレポート・ステーションまで運ぶためのものだ。それらのパイプラインの数は、正確には七本。全てが少しずつ離れた個所に設置されていて、どれか数本がなんらかの理由で損傷を受けても他のラインを使って輸送出来るようになっている。

 その太さは、半径にして一ダブルキュビト程度。どこまでもどこまでも胴体が続いているムカデのように、等間隔に距離を置いた脚によって支えられている。剥き出しの鉄骨みたいな脚だ。そして、恐らくはアーガミパータに降り注ぐ強力な太陽光を少しでも防ぐためだろう、真っ白な色に塗り潰されていた。

 まあ、そういったパイプラインについてはいいだろう。特に奇異なところはない。採掘施設にはありがちなフラグメントである。真昼が奇異に感じたというのは……ウーパリーパタラの、入り口付近に密集していた建造物である。

 それは、人間至上主義的な建築物でもなければ、アーガミパータ式の建築物でもなかった。というか、そもそも人間が作り上げた建築物にさえ見えなかった。例えるならば、蟻の巣であるとか、蜂の巣であるとか、そういった形状をしていたのだ。

 それは、要するに、端的に表現するならば。赤く濡れた泥土を固めて作り上げた王国とでもいうべきものだった。高さとしては、地点によって変わってくるのではあるが、大体が二階建てから三階建てのビルディングくらい。ただ、その形状は、一つのビルディングとはいい難いものだ。精密な設計によって組み立てられたというよりも……ちょうど、真昼が国内避難民キャンプで見た煉瓦造りの小屋、そういった物を幾つも幾つも並べたり積み重ねたりして、そのまま雨で濡らしてどろどろに溶かして、それからまた固めてくっ付けた感じ。

 無秩序な形の泥の塊が、縦の方向にどこまでも続き、横の方向にどこまでも続き、そして、そこここに穴が開いている。一階にあたる部分や、二階にあたる部分、それに三階にあたる部分に。その穴の中から――その穴は、窓であり、ドアであって――人の姿がのぞいているということだ。それはあたかも集合住宅であるかのような姿だった。いや、というか、つまるところ、それはまさに集合住宅だったのだ。

 ただ、集合住宅と呼ぶには抵抗があった。先ほども書いたように、まるで、ただ泥を固めただけの、虫の巣のような姿をしていたからだ。まあ、泥と呼ぶには……ちょっと複雑な物質ではあったが。金属のような光沢をもつセメントといったところか。さほどどぎつい色ではなく、どちらかというと土っぽい赤灰色という感じなのだが、とはいえ、なんとなく血に濡れた肉塊のように、てらてらとした赤い光を放つ何かだった。

「あれはですね。」

 真昼の困惑を、感じ取ったのか。

 マコトが振り向きもせずに言う。

「コンマギーアで作られたスラムです。ああ、そういえば。砂流原さんはご存じですか? スラムという語は、これは俗語にはよくありがちなことなんですけど、未だに語源が分かっていないんです。幾つか説があって、例えば汎用トラヴィール語のスリム、これは「狭い」という意味があります。それから古代グータガルド語のスラムラ、これは「騒々しい」だとか「混沌としている」だとかいう意味ですね。あるいはホビット語のリムスが語源だっていう説もあります。これは「泥土」という意味。そのどれであっても、あの場所を指すには相応しい言葉といえるので――特に「泥土」なんかはぴったりだ――まあ、あそこはスラムと呼んでも構わないでしょう。例え、政府によって計画的に作られた場所だとしてもね。

「要するに、下層労働者だとか、あるいは捕獲された国内避難民だとかを収容する施設だっていうことです。ウーパリーパタラで単純肉体労働に従事している人々のための住宅地ですね。そういう人々は、ヴァルナ的に上の人達だとか清浄なジャーティに所属している人達だとか、そういった人々とは違って自分が住んでいる家をあまり丁寧に扱わないでしょう? 自分の身体以外についての事柄に気を使っている余裕はありませんからね、それに、ハウスキーパーを雇う余裕もありませんし。あはは、冗談ですよ冗談。そういうわけで、見た目の芸術性よりも、即物的な頑丈性を採った構造になっているってわけです。

「コンマギーアというのは、とても簡単に言えば、疑似的に蘇生させた赤イヴェール合金を混ぜて作られたコンクリートのことです。まあ、混ぜているというか、コンクリートの内部、その全体に、赤イヴェール合金が筋繊維のように自然に伸びているということですね。えーと、念のためにお伺いするのですが……砂流原さんは、かの砂流原静一郎氏の娘さんですから、さすがに赤イヴェール合金のことは知っていますよね。ああ、良かった! ほら、生体の赤イヴェール合金には再生作用があるでしょう? 赤イヴェール合金を「繁殖」させることが出来るのはグールだけですけど、とはいえ、物質として増加しない範囲で破壊された箇所を修正する程度の能力は有している。その性質を使ったものなんです。赤イヴェール合金が半分生きた状態で固定されているので、多少の傷であれば自己再生することが出来る。ということで、あらゆるものを何かと乱暴に扱いがちな人々にはうってつけの建築物なんですね。

「それに、コンマギーアという建材も、ウーパリーパタラであればかなり安価かつかなり安易に入手することが出来る。そもそもここは赤イヴェール合金の採掘場ですからね。選鉱の際に不適格とされた粗鉱をそのまま砕いて、一定の処理をすると、それでコンマギーアの出来上がりです。あとは、そのコンマギーアの中に設計図となる遺伝単体を埋め込んで、ある程度まで成型すれば、自然とああいった住宅地が出来るっていうわけですよ。どうです? 実用的であり、効率的でもあると思いませんか?」

 もちろん、その問い掛けに。

 真昼は、何も答えなかった。

 フライスが近付いていくにつれて、そのスラムの細かい点が見えてきた。遠くから見ると、確かに虫の巣のように整然としていたのだが。近付いていくにつれて、その中にも、いかにも人間らしい雑然とした感じがあるということに気が付いてくる。

 例えば、コンマギーアのそこここから突き出している、薄汚れて罅が入ったアンテナ。あるいは、そこら中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた洗濯紐には、様々な洗濯物がぶら下がっている。真昼はそれを見て不思議に思ったのだが、一体どこからどこまでがある家の洗濯物で、どこからどこまでが他の家の洗濯物なのかというのが、傍目から見ても全く分からなかった。洗濯紐はまるで一本の紐がどこまでもどこまでも続いているかのように見えたからだ。家々の軒先には、何かの棒で支えられた青いビニールシートが影を作っていて。それに、壁には、色とりどりの絵が描かれていた。さすがに赤く滲んだ泥の色だけでは気が滅入ってしまうからだろう。そして、一番特徴的なのは、そこら中に捨てられたゴミだ。道には転々とゴミが落ちていて、それだけではなく、そういったゴミを掻き集めたものなのだろう、そこら中にゴミの山が出来ている。もちろんこれは個人的な意見であって、半分ほどは皮肉としていうのだが……なんとも生命力に溢れた場所だ。

 さて、そんなウーパリーパタラには舗装された道路が繋がっていて。とはいっても、ただ地均しをした部分を叩き固めただけといった感じの道路だったのだが、マコトのフライスはそちらの方に向かっていた。フライスはびゅーんという感じで空を飛んでいたので、今の今までは、わざわざ道路の上を通る必要はなかったのだ。だが、もう少しでウーパリーパタラに辿り着く今となっては……その道路の上を通った方がいいということらしかった。なぜなら、その四車線程度の広さの道路の先には、ウーパリーパタラに入るための門があったからだ。

 その門は、四頭のガジャラチャであっても一時に飲み込んでしまいそうな巨大な物だった。スラム自体の姿とは違って、まさにアーガミパータらしい優れた芸術性を持つ門である。もう少し率直ないい方をするなら、なんだかごちゃごちゃしてて地震とかがあったら二秒くらいで崩れてしまいそうな形だということだ。あたかも二本のストゥーパであるかのように精密な彫刻を施された柱の上には、これは本当に笠木と呼んでいいのだろうかと思ってしまうほどの、寺院のミニチュアみたいな笠木が乗せられている。そして、その寺院の四つある入口からは、それぞれ蛇の顔が覗いていて。このウーパリーパタラに来る者のことを、冷酷かつ威容な視線によって睥睨しているのだ。

 そして、その門の横には、その門とは比べ物にならないくらいに小さな、高速道路の料金所をちょっとだけ大きくしたような検問所が設置されていた。龍王領では、どの街に入る時でも、あるいはどの街を出る時でも。一応は検問を通る必要があるのだ。とはいえ、ここの検問所は……カーラプーラのそれと比べれば、明らかにお粗末なものであったが。

 そもそもカーラプーラとは違って、ウーパリーパタラには、街を囲う塀のようなものも設置されていなかった。検問所を通らずとも、出入りしようと思えばいくらでも出来ただろう。まあ、わざわざそんな危険を冒してまでこんな辺鄙な場所に入ろうという物好きはいないだろうし、それにここで働く労働者達が職を手放そうとするとも思えないのだが。

 マコトのフライスは、そのまま道路の上を滑るように進んでいって。そして、検問所の近くまで辿り着いた。検問所では、まさにたった今辿り着いたところと思しき像使いらしい人間が検問を済ませているところだった。なぜその人間が像使いらしいと見えたのかといえば、そのそばには巨大なガジャラチャが……「停車」させられていたからだ。そのガジャラチャは、トラックか何かみたいにして荷台を引いていて。その荷台の上には、幾つかのコンテナが乗せられている。たぶんウーパリーパタラに物資を運んできた運送業者なのだろう。

 検問所は道の片側にたった一つしかなかったので、真昼達はその業者が検問を済ませるまでは待っている必要があった。とはいっても、それほど厳重な検問ではないため、二分か三分か待っただけで済んだのだが。

 自分達の番になると、マコトは真昼に向かって「ちょっと待ってて下さいね」とだけ言い残して検問所に向かった。検問所からは、さっきからずっとラジオの音が聞こえている。そして、検問所にいる兵士は、明らかに検問という行為よりもそのラジオの音に集中しているようだった。

 マコトは、服の襟のところに手を突っ込んで、そこから、首にぶら下げていたらしいプレス・パスポートを取り出した。そして、イパータ語で、検問所の兵士に向かって何かを捲くし立てる。真昼とマラーとを振り返って指差すと、またイパータ語で捲くし立てる。まるでラジオの音を掻き消すかのような大きな声で。真昼は、そんなマコトの姿を見て……どうやらまた何かを誤魔化そうとしているらしいと感じた。

 検問所の兵士は、いかにもうるさそうにちらとマコトに目を向けると、マコトに一言だけ何かを問い返した。それに対してマコトは、例の首を傾げるようなポジティブ・ジェスチュアを何度も繰り返しながら、何かを答える。兵士は、マコトのその答えを信じているわけではないし、信じていないわけでもないような顔をしたままで、テーブルの上に置いてあったデスクトップのコンピューターをいじりだした。ひとしきりキーボードを叩くと、目的の画面を出現させることに成功したらしい。

 それから、兵士は、真昼とマラーとの方に視線を向けた。横柄といえなくもないが、どちらかといえばぶっきらぼうな感じ、ただ粗野なだけであって他意はないような口調。大声で、呼びかける。もちろんそれはイパータ語であって、真昼には分からなかったのだが――ちなみにイパータ語とカタヴリル語との間には少なからぬ共通点があるので、マラーの方は兵士が言わんとしていることがなんとなく分かった――大変親切なことに、マコトが、振り返って、通訳してくれた。

「こっちに来い、だそうです。」

 それから、一応。

 こう付け加える。

「念のために、近くで見て顔を確認したいそうですよ。」

 恐らく、あのコンピューターには真昼とマラーとの情報が表示されているのだろう。例の、領賓だとかなんだとかいう情報だ。そのことに対して……別にそんな風に感じる必要はないはずなのだが、真昼は、なんだか恥ずかしく感じてしまった。領賓、領賓? あたしが領賓? これは、カーラプーラの検問所では感じることのなかった感情だ。

 恐らくはこの状況が関係しているのだろう。今真昼がいるのは、大都会たるカーラプーラではなく、地方も地方、赤イヴェール合金の採掘場たるウーパリーパタラだ。そして、検問所の兵士は、何もかもがどうでもいいという態度で真昼のことを見ている。そのせいで、真昼が纏っていたもの、社会的な薄膜のようなものが剥ぎ取られてしまって……それにも拘わらず、自分は領賓であると威張り腐って名乗っているのがたまらなく恥ずかしいのだ。別に自分では威張り腐っているわけではないのだが、「領賓」という称号からは、そういうバイブレーションのようなものが抑えようもなく滲み出ているという気がする。

 何様のつもりなのだろう。

 自分の持っている全てと。

 釣り合っていない、傲慢。

 とはいえ、いつまでも恥ずかしがっていたところで状況は何も変わらない。真昼は、仕方なく、その言葉の通りに、検問所の方へと向かうことにした。まずは、マラーを地面に下して、それから自分が地面に降りる。シートベルトを外してあげてから(シートベルトのロープは地面に到達するくらいには長かった)、しっかりと手を握って。そうして、兵士の前に進み出る。

 兵士は、特に関心のなさそうな目で二人の顔を見ると。コンピューターに表示されているであろう二人の情報と見比べる。そして、間違いなくこの二人がその二人であるということが確認されたのだろう。まるで二人のことを追い払おうとでもしているかのようなつっけんどんな態度で、ぱっぱっと手を振った。

 次はマコトの番らしかった。兵士は、マコトに向かって、こちらに来るようにと手招きをしながら。大変面倒そうに何かを取り出した。どことなくバーコードリーダーに似た形をしたものだ、握り手のようなものがあって、その先には読み取り装置がついている。ただ、その読み取り装置は、バーコード・リーダーのように横に長いものではなく、完全な円形をしていたのだが。

 それを見ると、マコトは袖をめくって、兵士に向かってローガラトナが嵌っているブレスレットを差し出す。どうやらそれはバーコード・リーダーではなくローガラトナ・リーダーであるらしかった。兵士は、マコトのローガラトナにリーダーを近付ける。すると、ぴぴっという機械音がして、ローガラトナの情報が読み取られた。その情報が、テーブルの上のコンピューターに送られて……これで検問は無事に終了したらしい。

 マコトは。

 真昼の方。

 振り返って。

 こう、言う。

「さて、行きますか。」


 何に使っていたのか見当もつかない六つ脚の機械が壊れ朽ち錆び付いている。ガラスみたいに透明なドームに覆われた球状の胴体、ドームはもちろん割れてしまっていて、内部には灰色の砂が溜まっていた。高さとしては人の背丈の二倍程度、球状の胴体には一人の人間が乗ることが出来たはずだ……あるいは、一人のレーグートか。その上には薄汚れた白い布がかけられているが、その布は半分ほどがずり落ちてしまっていて。そして、ずり落ちた部分を掻き集めた上で、半分ほど尻尾のちぎれた野良犬が丸くなって眠っていた。黒く霞んだ茶色い毛に全身を包まれた犬。

 たぶん、そこら中に散乱しているゴミの、そのうちの一つなのだろう。このスラムでは、時折、思いもかけないようなものがゴミとして捨てられていることがあるようだから。その「粗大ゴミ」の横には、がたがたとうるさく揺れるテーブルが無造作に置かれていて。今、そのテーブルの周りには六人ほどの男性が集まっていた。全員が全員、ヨガシュ族の種族的特徴を有していた。四人は椅子に座っていて、カンカーギ・パライミーをしている。カンカーギ・パライミーは二人から四人までで遊ぶことが出来るゲームだからだ。そして、残りの二人はテーブルの横立って。ゲームの進め方について、かなり頻繁に横から口を出していた。

 テーブルについている男性のうちの二人は、それなりに年輩の男達だった。彼らは上半身が裸であり、腰に腰布だけを巻いている。汗腺がまともに働いていないため服を着ていてもさほど意味がないのだろう。ただ、服を着る代わりに、全身に何やら白い粉をまぶしている。ヨガシュ族は浅黒い肌の色をしているため、太陽の熱からまともに影響を受けやすく……きっと、その影響を少しでも緩和するための処置なのだと思われた。そして、テーブルについている一人と、横から口を出している二人は、三十代から四十代といったところ。真昼がこの龍王領で見た他の男性達と同じように、クルターとチューリダールとを身に着けている。

 残りの一人、つまりカンカーギ・パライミーをしている最後の一人は、二十代後半と思われるかなり若い男性だった。この男はなかなかの洒落者らしく、鼻の下に黒々とした髭を生やしていて、その髭を丁寧に整えている。それだけではなく、肩には何かの動物の毛皮を引っ掛けていた。太陽の光に当たると金色にきらきらと光るその毛は、たぶんウパチャカーナラの毛皮なのだろう。ウパチャカーナラの毛皮は価格の変動が激しく、戦争が起こるごとに急落するため、このような貧困層に生きる人間にも手が届きやすいのだ。ただ、さほど品質の良い物ではなく……ところどころに弾痕が開いていたりはしたのだが。

 それから、真昼は、つい先ほど気が付いたのだが。遠くから見た時に洗濯紐だと思った物は、実際は洗濯紐ではなかった。いや、確かに洗濯物を引っ掛けられてはいるのだが、別に洗濯物を引っ掛けるために敷設されたわけではない。それは、つまるところ、電線なのだ。いや、それが運んでいるのが電気なのか、はたまたなんらかの魔学的な力なのかもしれないが。とにもかくにも、各戸にエネルギーを運ぶためのラインだ。

 月光国で見かけるような、きちんと整理整頓されたラインではない。そこらじゅうで絡まりあって、引っ掛かりあって、もうめちゃくちゃになってしまっていた。それぞれの家が――外から見ただけでは家というよりも泥山に開いた洞窟といった方が正しそうだったが――かなり小さく(たぶんワンルームマンションといった感じの大きさだろう)、そして、それらが密集しているために。ある程度は、ラインの配置が混沌としてしまうのは仕方がないことであろうが。ただ、それにしてもひど過ぎる有様だった。まるで最初からエントロピーの減少を放棄しているみたいなのだ。

 子供達が。

 素焼きの壺を投げ合って。

 楽し気に、笑っている姿。

 他にもっと投げて楽しいものがあるだろうと思わなくもないのだが。とにかく、コンマギーアでできた「集合住宅」が途切れて、ちょっとした広場のような場所に。十人くらいの子供達が集まって、壺を投げ合って遊んでいるのだ。年齢としては五歳から十歳といったところ、小学校に通うのが相応しいくらいの年齢。そして、投げられている壺は、いかにも失敗作といった感じの無様な形をしていて、恐らくは確かに失敗作なのだろう。「恐らくは確かに」ってなんか形容矛盾ですね、まあいいか。

 壺は、別の子供に向けられて投げつけられると、大抵は人間の体に当たることなく地面に落ちて。そして、粉々に割れてしまうのだ。とはいえ、そういった失敗作の壺は、広場の端の方に山と積まれていたので、また新しいのを取ってくればいいだけの話だ。ちなみに、人間に当たった場合もやはり粉々に割れるのだが。その場合は、当たった子供に破片が当たり、血が流れ出ることもあった。だが、子供はそういったことを別に気にしたりすることもなく、さも当たり前であるかのような顔をしていて。壺投げをやめることもなかった。そもそものところ、そういった壺は、そんなに高温で焼かれたものではないらしく。子供の体に当たっても、さほどのダメージを与えることはないらしい。

 そういった光景を見ながら。

 真昼は。

 ああ、と思う。

 ああ。

 たぶん、これが、こういった姿が。

 生きているということなのだろう。

 真昼には、決して接続出来ない。

 本来あるべき。

 人間の、本質。

 美しくも醜くもない。

 ただ、生きている姿。

 マコトが話すところによれば、ここは、採掘場で働く肉体労働者とその家族達とが住む、いわゆる鉱山集落であるらしかった。こんな辺鄙なところまでわざわざ別の町からやってくるのも労働者にとって負担であるため、採掘場の周りに大規模な集落を築いたということだ。採掘場から相当近い場所にあるということで、騒音やら振動やらといった問題がないわけではないのだが。とはいえ、彼ら/彼女らにとっては、そういったことが生活の一部となってしまっているので。あまり気になるということはないらしい。それは例えるならば、線路沿いの家に住んでいるようなものだ。あまりに頻繁に電車が通るので、しまいには慣れてしまう。本当にたまに、窓を大きく開けてテレビを見ている時などに電車が通ると、テレビの音が聞こえにくくなって。それでようやく騒音に気が付く。

 真昼は……なぜこんな場所に来ようとしたのか? 正確な話をすれば、どこに行きたいのかということをマコトに聞かれた時に、真昼は採掘場と答えていた。とはいえ、真昼が見たかったのは、採掘場それ自体ではなく、そこで生活している人々であって。ある意味で、真昼が来たかったのは……まさに、今いる、この場所のような場所だったのだ。

 その証拠に、もしも採掘場だけが目的であるならば。真昼は、このようなスラムを歩いて通過する必要などなかったのだ。フライスで採掘場まで一気に飛んで行ってしまえばよかった。いや、正確にいえば、部外者が採掘場に入るためには現場責任者の許可がいるので、その前にコミュニティセンターに寄っていく必要があるのだが。それはそれとして、真昼は、マコトに、このスラムを歩いて行きたいとわざわざ求めていたのだ。

 ちなみにフライスは検問所の近くの駐車場に停めてきていた。そう、こんな辺鄙な「都市」にも、一つ二つ、エトランゼのための駐車場があったのだ。まあ、マイトリー・サラスにあった駐車場と比べれば、物の数にも入らないような、ちょっとした空き地みたいな場所に過ぎなかったが。ただし、そんな空き地であったとしても……もしも、仮に、駐車場に停めないで、そこら辺に停めてしまえば。恐らくは、そのようなフライスは、すぐさまここの住民達によってばらばらにされてしまうだろう。無数の部品に分解されて、それぞれの部品が各家庭に分配されてしまうだろう。ここはそういう場所なのだ。だから、検問所の兵士が、例え名目上であっても、管理しているような、そんな駐車場が必要だというわけだった。まあ、まあ、マコトのあの粗大ゴミにまで手を出すような住民がいるかどうかというのは別の話になってくるのだが。

 いや、マコトの粗大ゴミの話はどうでもいいんだよな。えーとですね……真昼は、まさにこのスラムを見たいと思っていた。真昼は、まさにこのスラムを知りたいと思っていた。それでは、一体、なぜ、真昼は、こんな場所に来たいと思ったのだろうか?

 真昼にとって、その問いに対する答えは大変言語化しにくいものであった。それでも敢えて言葉とするならば……それは「正しいものが見たかった」ということになるだろう。そう、真昼は正しいものが見たかった。何か確かなもの、揺るぎないもの。絶対的とはいわないまでも、少なくとも、とめどなく崩れていく真昼にとって支えになるようなもの。

 「真実」といってもいいかもしれない。真昼の頭の中にある、間違った世界ではなく。マコトの言葉の中にある、間違った世界でもなく。目の前に厳然とした態度で存在している、否定しようのない「真実」。そう、それは思考でも言語でもないもの。この世界の底を支えているはずの、いわゆる「普通の人々」が送っている、壊れることのない生活だ。

 ただし。

 それは。

 真昼にとっては。

 「真実」であると。

 いうだけ、の。

 ことであるが。

「普段はこんなに人がいるわけじゃないですよ。」

 真昼の前を先導するように歩きながら。

 マコトが、首だけで振り返って、言う。

「今の時間帯は、皆さんが仕事に出られているはずの時間帯ですから。ただ、ここ数日は……戦勝記念とでもいえばいいんですかね、暫定政府軍との戦闘がいったん落ち着いたということで、そのお祝いで休みになってるんです。ああ、休みになってるっていっても、一度に全員が休みになってるってわけじゃないですよ。採掘作業に支障が出ない範囲の人数が、順番に休んでいるんです。こういう風に、休戦になるたびに休みになるんで、皆さん、内戦が始まるたびに、また休みが取れるようになるぞって喜んでますよ……子供が徴兵されている人を除いてね、はははっ。」

 真昼は、マコトのその言葉を聞いて。

 もちろん怒りの感情を覚えたのだが。

 それとともに、ここにいる人々の中からは、ある一定の年齢層の人間だけがほぼ完全に姿を消しているということに気が付いた。いや、ここにいる人々だけではなく、よくよく考えてみれば、それはカーラプーラでも同じだった。その年齢層とは二十歳前後の青年ということで、龍王領に来てからその年齢層の人間をはっきりと認めることが出来たのは二回だけ。まさに戦闘の最前線であったタンディー・チャッタンの兵士達と……それから、あのデモ隊にいた若者達である。

 読者の皆さんは奇妙に思われるかもしれない。なぜ、このような場所で徴兵制が必要なのかと。魔学科学ともにかなり高度に発展していて、その気になれば、人間などよりも遥かに優秀な生命体をアーティフィカルに作り出すことが出来る。それに、それ以前の問題として、ここは龍王の領土だ。龍王がその気になれば、暫定政府軍など一瞬で蹴散らすことが出来るはずである。なぜ、わざわざ人間を兵士にする必要があるのか。

 それには幾つかの理由がある。例えば、そう簡単に龍王が戦闘に加わるわけにはいかないという理由。何度も書いているが、龍王とは神のごとき力を持つ生き物である。人間にとってはその存在だけで脅威となりうるのだ。そんな生き物が、もしも、実際の戦闘に姿を現せば……さすがに人間至上主義諸国としても黙っているわけにはいかない。それが龍王の自衛行為であるかどうかということは問題ではないのだ。とにかく、龍王が人間に牙を剥けば、人間もそれに対抗しなければならなくなる。人間至上主義諸国は、本格的に内戦に介入せざるを得なくなるだろう。となれば、カリ・ユガ軍と暫定政府軍との小競り合いでは済まなくなり……下手をすれば、盤古級や神卵級やといった、龍王を殺し得る対神兵器が戦闘に投入されかねない。

 ただ、そのような理由、あるいはその他の理由よりも重要な理由が一つあって……それは要するに領民統合のためという理由だ。ここまでの物語の中で、読者の皆さんには十分に理解して頂けたと思うが。カリ・ユガ龍王領は、アーガミパータ外では想像出来ないほどの「多民族」集団である。人間だけでもゼニグ族とヨガシュ族とという対立する二つの種族が存在しているのに、それだけでなくナーガにデザート・ユニコーン、それにグリュプスまでが共存しているのだ。ちなみに、グリュプスも徴兵されているにも拘わらず、なぜタンディー・チャッタンの戦場で見掛けなかったかといえば。グリュプスのように飛行出来る知的生命体は主に偵察任務に就いているため、ああいう感じの戦場には必要ないからである。まあ、それはともかくとして、そういった「多民族」を一つにまとめて結合するためには徴兵制度が不可欠だということだ。多種多様な領民を、内戦の遂行という一つの目的を追求することによって統合していく。そのために、国民皆兵はどうしても必要だということである。

 閑話。

 休題。

 とにかく、そういった理由でそれなりの数の住民がいる中を、真昼達は歩いていた。マコトは、まるで勝手知ったる地元であるかのようにして、躊躇うこともなくすたすたと進んでいってしまう。時折、なんとなくといったように、そこら辺にカメラを向けてシャッターを切っているのは、きっと内戦の一時停戦に関する記事に使うためであろう。

 そんなマコトに対して、住民達はかなり親しげに声を掛けてきていた。もちろんそれはイパータ語や、あるいは他のアーガミパータの言語であったため、真昼は内容が理解出来たわけではないのだが……それでも住民達の態度がかなりフレンドリーだということは理解出来た。マコトは、そんな住民達に対して色々な言葉を返していたのだが、その中で真昼が唯一聞き取ることが出来たのは「スマンガラム」という言葉だ。どうやらこの言葉は、デニーが巫山戯て適当に作ったものではなく、アーガミパータで挨拶の言葉として実際に使われているものらしい。

 ビニールシートを張ることで、粗雑な日陰を作った軒先に集まって。何かの果物の皮を指先で剥いている女達が、マコトに向かって、奇妙に思えるほど艶めかしい声で笑いかけた。猥雑というのを通り越して性的とさえ感じるほどの笑い声だ。マコトはその笑い声に対して、性的なものは一切感じさせない、さっぱりとした口調で何かを答える。

 それから、そちらの方へ近付いていった。女達のすぐ近くに座り込んで、断りもなく金属のボウルの中に入った果物を一つ頂戴した。「砂流原さんも食べますか?」「それ、勝手に食べていいの?」「どうなんでしょうね、少なくとも怒られたことはないですよ」。結局のところ真昼はそれを食べず、代わりにマラーがおいしそうに食べた。

 女達(どうやら全員がゼニグ族であるように思われた)はしきりにマコトの方に目配せをして。真昼の方に、ちらりちらりと視線を向けてくる。マコトと会話をしているのだが、どうやらマコトと真昼との関係性についての話をしているようだ(ちなみに、女達とマコトとが使っている言葉は、どこかイパータ語とは違っているように聞こえる言葉だった)。けれども、そうであるならば、なぜこんなに濫りがましい感覚で満ちているのだろう。マコトは、へらへらと笑いながら、女達の話すことを否定も肯定もせずに受け流している。

 そんな風にして暫く話した後で、マコトは辞去の言葉だろうと思われる言葉を発してから立ち上がった。すると、そこに集まっていた女のうちの一人、非常に若い女……十五歳か十六歳かといった年齢の女が、ぱっと手を伸ばして、金属製のボウルの中から果物を一つ取り上げた。そして、巫山戯ているようではありながら、明らかに何かを期待している顔をして、果物を摘まんだ指先を差し出すかのようにして、マコトの方に向かってその腕をぐっと伸ばした。

 その瞬間のマコトの顔を真昼は一生忘れることはないだろう。人間という生き物は下らないことをいつまでもいつまでも覚えているものなのだ。それは、なんというか、例えようのない表情であって……ある意味では、デニーのそれに似ていたかもしれない。デニーが、笑う時の、表情に。そんな顔をして、マコトは、伸ばされた腕、その手首を掴むと……不必要と思われるほど恭しい態度で、その指先を、その果物を、口に含んだ。

 嬌声が上がる。女達が、捕食される小動物の悲鳴にも似た声で囃し立てる。マコトは歯の先で果物を受け取ると、すぐに女の指先を口から離した。女は、自分でもわけが分からないような顔をして、体の全体を柔らかく上気させて。それでも、全てが冗談だったとでもいいたげな声で笑っている。もちろん、全ては冗談だった。何も起こりはしなかったのだから。マコトは果物を咀嚼しながら軽く手を振って、へらへらと女達から離れた。

 女達から。

 少し離れた場所で。

 真昼が、口を開く。

「あの人達となんの話をしてたんですか。」

「あはは、砂流原さんが聞いて面白いようなことではないですよ。」

 そう答えてから。

 少し考え直して。

「まあ、何にせよ。」

 マコト、は。

 付け加える。

「誰かと親しくなりたいのならば、性的なコミュニケーションをとることが一番の早道ですね。」

 さて。

 そんな。

 風にして。

 三人は鉱山集落を歩いていく。マコトは、基本的には真昼達のことを導いてくれているみたいなのだが、それでも、ひらりひらりと気まぐれな蝶々みたいにして色々な人々とコミュニケーションをとっていた。カンカーギ・パライミーをしている男達に近寄って、その男達と一緒にビーディを吸いながらゲームに口を出したり。壺を投げ合っている子供達のところに行って、皆で道端に咲いている花の蜜を舐めたり。そんな時には、マラーも一緒になって蜜を舐めたりしていた。

 真昼は、マラーの手を、ごく自然に、ふっと放して。するとマラーは、真昼にとても素敵な笑顔を向けながら、マコトと子供達とが巫山戯あっている中に向かっていく。文法的には別の言語であるにせよ、単語に似通った部分のある二つの言葉、イパータ語とカタヴリル語とは、なんの疑問も持つことがない子供の純粋な無邪気さの中で綺麗に一つに交わりあって。そして、マラーは、まるで元からこの鉱山集落の住人であったかのように、ごくごくなめらかに共同体に入っていく。

 そういった光景を見ながら……真昼は、この場所では自分が決定的に異邦人であるということを感じていた。自分だけがあの中に入って行けない、入って行ってはいけないという感覚。いや、真昼とて救いようのない馬鹿というわけではないので、理解していないわけではない。本来であれば、真昼は、あの中に入っていかなければいけないのだということを。

 真昼が、知りたいのならば。世界が間違っているのか、それとも正しいのか、そのことを、本当に知りたいのならば。真昼は、真昼が世界の基底にあると考えているところの、あの共同体の中に入っていかなければいけない。そして、人々とコミュニケーションをとることによって、理解しなければいけない。一体、そこにあるのはなんなのかということを。剥き出しの生とは、果たしてどんな構造をしているのかということを。いや、それ以前の問題として……それが、本当に、剥き出しの生なのかということを。

 しかし真昼は越えることが出来なかった。何を? 死への恐怖を。それは、根源的な知性を有する者の欺瞞についての跳躍であるはずだ。これは全くのイメージの話であるのだが、真昼の目の前には一つの絶壁が口を開いている。その絶壁を見下ろしてみれば、その奥底には、色とりどりの花々、惨たらしいほどに鮮やかな原色で塗り潰された花々が、傷口から溢れ出る内臓のように花開いている。それに比べて……真昼は、なんと黒々とした憂鬱な影なのであろうか? 虚ろに揺れる影、この世界を汚す影。真昼は……飛び越さなければいけない。この絶壁を。そして、向こう岸にいるあの少女のことを助けなければいけない。この世界で何よりも無力な少女のことを、つまりマラーのことを。

 けれども。

 マラーは。

 向こう岸にいるのだ。

 なぜ、真昼が。

 助ける必要がある?

 真昼は、死への恐怖を知っている。その死というのは、肉体の死ではない。肉体の死であれば、ある程度の知性を有する生命体であれば誰もが知っているだろう。真昼が知っている死とは、そうではなく……意味の死だ。自分という何かと本質的に同質であるところの、信念、理想、あるいは愛。なんでもいいのだが、そういったものの死への恐怖を知っている。一方で、この鉱山集落にいる誰もが、あるいは絶壁の向こう岸にいる誰もが――ただ一人、マコトだけを除いて――そのことへの恐怖を知らないのだ。もしも、そうであるにも拘わらず、真昼が向こう岸に行こうとするのならば。それは、ある意味で、許されない欺瞞なのではないか? 要するに、資格の問題だ。

 真昼には資格がないと真昼が思っている。これが一番の問題なのだ。真昼は、話し掛けたい。この鉱山集落にいる人々と、話をしたい。そして、知りたいのだ。この世界の底に何があるのかということを。この世界、正確にいえば真昼の世界を支えているはずの、人間という存在。その根底には、一体どのような姿形が堆積しているのかということを。けれども、影の言葉と花の言葉とが通じ合うことなどあり得るだろうか? ゆらゆらと虚ろに漂う言葉と、華やかに一瞬の時を笑うための言葉と。その二つの言葉に、十分な接点などあるはずがない。だから、真昼は、永遠に理解出来ないのだ。無知な者達の言葉を、あるいは、その生態を。

 ところで。

 なぜ。

 マコトは。

 その言葉で。

 笑えるのか。

 マコトは、どちらの言葉も理解出来るようだった。絶壁のこちら岸の言葉も、あるいは向こう岸の言葉も。そしてマコトは、驚くべきことに……どちら岸の言葉も信じていないのだ。そう、マコトは言葉を信じていない。信念も、理想も、あるいは愛も信じていない。だからこそ、「死」について知っていながらも、世界の底に柔らかく着地することが出来るのだ。マコトには羽が生えている。真昼にはない羽が。その羽の名を、人々は「絶望」という。

 マコトは、笑う。

 へらへらと笑う。

 そして、真昼に向かってこう言うのだ。

 あはは、砂流原さん。

 そんな深く考えない方がいいですよ。

 悪くないアドバイスだ。

「どうしたんですか、砂流原さん。」

「なんでもありません。」

 ぴんと指先で弾いて吸いさしのビーディをゴミの山に放り捨てながら、マコトがこちら側に戻ってきた。たった一人でぼんやりと座っている老人と何かを話していたのだ。老人は、空を指差して、マコトに向かってしきりに何かを訴えかけていた。マコトはいかにも誠実そうにその言葉に頷きつつ、これまた誠実な態度で何かをノートに書き付けていた。もちろん、これはただのポーズに過ぎなかった。老人はろくな話をしなかったのだし、メモを取るに値する情報は何一つ手に入れることは出来なかった。けれども、とはいえ、将来的には、どんな生命体からどんな情報を得ることが出来ることになるか分からないのだ。一度でも与えられたものを拒否してしまえば、何かを受け取ることが二度と出来なくなる可能性がある。どんな屑でも受け取ること。そうすれば、いつか、その相手が、本当の宝石を与えてくれるかもしれない。

 真昼は。

 そんなマコトに。

 こう問い掛ける。

「それより、どこに向かってるんですか?」

「ああ、もう少し先です。ここを抜けるとですね、その先に労働者用の地区事務所があるんですよ。そこに行くんです。それで、そこにいる……なんていえばいいんですかね、現場監督? 少し違うな。とにかく、現場の責任者に会おうとしてるっていうわけですね。」

「現場の責任者?」

「そうです。許可もないのに鉱山には入れないですからね。」

 それは。

 至極。

 最もな。

 話だ。

 真昼とマコトとが何かを話しているらしいのを目にとめて、マラーもこちらに戻ってきた。急いで、少し駆け足で。大きく両手を広げて走ってきたマラーは、嬉しそうに、楽しそうに、真昼の腰の辺りに抱き着いてきた。もちろん、自分と同年代の子供達と遊ぶのも楽しいけれども。マラーにとって一番大切なのは、やはり真昼なのだ。マラーにとっての真昼は、母親と父親を合わせたような存在だ。絶対的な信頼感と共にその腕の中で眠ることが出来る、慈悲深い保護者。だから、マラーにとっては、真昼はいなくてはならない人なのであって。

 しかし、真昼はそのことを信じられなかった。マラーは、真昼などいなくても生きていける。そういう確信を有していたのだ。そして、その確信は、ある意味では正しかった。もちろん、マラーは真昼などいなくても生きていける。けれども、これが一番重要なことなのだが……真昼がいなくなれば、マラーは、今よりも少しだけ不幸になるだろう。マラーは、真昼のことが、大好きだから。真昼は、もしもこれから来るべき悲劇を逃れようとするならば、そのことを知らなければいけなかったのだ。だが、真昼は、そのことを知ることが出来なかった。なぜなら、真昼にとっての真昼とは……所詮は、裏切り者に過ぎないからだ。

 マラーが生きる世界。

 裏切った、裏切り者。

 だから。

 真昼は。

 自分の全てを。

 信じることが出来ずに。

 その結果として。

 真昼に抱き着いてきたマラーの体を。

 抱き締め返すことが、出来なかった。

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