第二部プルガトリオ #12

 これほど悪質な生き物が。

 他に、存在するだろうか。

 マコトと比べれば、デニーの方が、まだ遥かにましな生き物だろう。デニーは、確かに残酷であったし、一挙手一投足が悪そのもののである。けれども、それでも、デニーは純粋無垢な生き物だ。デニーのことを悪魔であると感じるのは、ただただ自分の求めることに素直であるがゆえである。簡単にいえば、デニーは、絶対的な強者であるために、自分のしたい放題にしているだけだ。それは、決して捻じ曲がっているわけではない。むしろ遮ることなく進む黒い光のように真っ直ぐだ。

 しかし、マコトは。例えるならば歪み切った虚無だ。あらゆる方向から働く重力の、その全てに逆らうことなく、ひたすら従順に従って。そのせいで、もはや元の形さえ分からなくなってしまったところの、けらけらと笑う道化師である。卑劣で、陋悪で、奸佞で。その口は一言たりとも真実を語ることはなく、それどころか、自分自身の本心を語ることさえない。ある意味で、マコトは、鏡のようなものに過ぎないだろう。会話における鏡のようなものだ。鏡を見ている時に、人間は鏡それ自体を見ているわけではない。鏡に映る自分の姿を見ている。それと同じように、マコトの話を聞いている時、あるいはマコトの記事を読んでいる時。人間は、自分と会話をしているようなものである。

 ただし。

 そこに映し出される虚像は。

 常に歪んだものではあるが。

「あなたは、あまりにも、露悪的です。」

「私が、じゃありませんよ。人間が露悪的な生き物なんです。」

 その、へらへらと笑う顔を。

 光り輝く矢で打ち抜けたら。

 しかし、それではなんの意味もないということを真昼は理解していた。それどころか、暴力によって全てを解決しようとする態度こそ、まさに、マコトが主張するところの人間像を肯定する行為なのだ。なんとかして、なんとかして、マコトの主張に対して、正当な論理によって反駁を行わなければいけない。そうすれば……それは、間違いなく、自分の魂魄のようなものを救い出すことなのである。マコトに、こんな女に、打ち砕かせてはいけない。自分の世界を支えている大地を。例え、その大地の上に載っているものが、既に残骸に過ぎないにせよ。あるいは、例え……その大地を築いた者が、この女自身であったにせよ。

「あなたは、あのデモ隊が、悪だと言います。」

「いや、まあ、そこまではっきりとは言いませんけどね。」

「私は、それに反対します。」

 真昼は、そのことについて。

 しっかりと考える。

 正しさを守るために。

 一番、重要な、こと。

「あなたは、あのデモが、性的な欲求だとか反抗期の衝動だとかに支配されたものだと言います。私は、それを全面的に否定するつもりはありません。確かに、そういう側面もあると思います。けれども、けれども……もしも、あのデモを自動車に例えた場合、そういった側面は、エンジンの部分に過ぎないと思います。自動車で、最も大切な部分、つまり運転手の部分は、もっと違うものによって占められているはずです。

「それは、たぶん、間違っているものに対して間違っているといわなければいけないという、どうしようもない使命感のようなものだと思います。人間同士が争いあって死んでいくこと、いや、別に人間に限ることはありません。何者かと何者かとが、暴力によって争うこと。これは間違っていることではありませんか? あの人達は、それを間違っているといいたかったんです。

「確かに、あの人達には、そのことを解決する具体的な解決策はないかもしれません。けれど、それはそんなにいけないことなんですか? 私はこう思います。そもそも、それが提起されることがなければ。どんな問題も、決して解かれることはないと。あの人達がしているのは、問題の提起です。それは問題の解決への第一歩です。だから、私は、正しい行為だと思います。」

 真昼ちゃん。

 成長したね。

 全く、思わず目頭が熱くなっちまったじゃねぇかよ! 確かに、真昼の主張したことは稚拙であるかもしれない。けれども……あくまでも、これは個人的な意見ですが、間違いなく正しい方向に向かって進み始めているのではないだろうか?

 そう、何もかも頭から否定して虚無的に冷笑する行為にはなんの意味もない。また、暴力的に全ての対抗意見を破壊して、それでAKとする態度には将来性がない。人間が採らなければいけないのは、より良い何かになろうとする態度だ。問題を解決しようとする態度なのである。それが論理的に整合性があろうとも、問題を解決しない「整合性」などというものは、良くて無意味、悪い場合には有害でさえある。進歩、進歩なのだ。一段一段と階段を上がっていく。必要な行為は、それである。

 しかし。

 マコトには。

 そんなことを。

 するつもりは。

 ない。

 人間の進歩になんて。

 全く興味がないのだ。

「暴力的な行為は間違った行為である。」

 マコトは。

 嘲笑うように。

 こう、続ける。

「なるほどなるほど、確かに私もそう思いますよ。」

 そして、また。

 背後を指差し。

 真昼に、言う。

「ということは、あれも間違っているということになりますね。」

 もちろん、マコトが何かを「思う」なんてことはない。マコトは見世物小屋の鏡、歪曲した虚像を映すだけの鏡なのだから。まあ、それはともかくとして。デモ隊の光景は、もう、辛うじて見えるといった程度になってしまっていた。けれども、見えないことはない。真昼は、ちらりと、そちらの方を一瞥してから。また、しっと、マコトのことを睨み付ける。

「あはは、そんな目で見ないで下さいよ。まあまあ、落ち着いて落ち着いて。とにもかくにも私の話を聞いて下さいって、ね? えーと、何を言おうとしたんだっけな。ああ、そうそう。あの人達が掲げている看板を見てみて下さい。まあ、大体の看板に書かれている言葉はイパータ語ですけど。ただ、それでも、一緒に書かれている絵の意味はお分かりになるでしょう?

「例えば、そうですね。あの絵を例にとって考えてみましょうか。あれです。人間の体にナーガが巻き付いていて、頭から飲み込もうとしてるやつですよ。あの絵が、どういう意味を持つ絵なのか、砂流原さんには分かりますか?

「砂流原さんも、タンディー・チャッタンに立ち寄られたということは、カリ・ユガ龍王領において軍隊を率いているのはナーガだということをご存じですよね。あのデモ隊はですね、こう主張しているんです。カーラプーラの人間が見ていないところでは、というのは地方の前線基地ではということですが、とにかく、そういった場所では、ナーガが、カリ・ユガ軍の兵士達を、生きたまま食らっていると。

「あのですね、そんなわけないでしょう。前線基地は、その名前の通り前線にあるんですよ? 毎日毎日、山のような死体が供給されるんです。砂流原さんも、きっとご覧になったでしょう? ナーガの皆さんがお食事するために、服を脱がされて、頭部を切断されて、山と積まれた死体を。わざわざ生きた兵士を食べる必要なんてありますか? わざわざ自軍の貴重な戦力を減らす必要なんてありますか?

「そもそも、あの人達の大半はですよ、兵役拒否者なんです。前線基地になんて一度も行ったことがない。それなのに、なんで、まるで見てきたかのようにそんなことを言うのか。これにはですね、ひどく愚かなシステムが働いているんです。まず、あそこにいる全員が全員、兵役拒否者というわけではない。一度前線に行って、それから帰ってきた人々も、多少ながらいます。嫌々ながら戦争に行って、それから帰って来て。自分は戦争に行ったんだから、それに反対する正当な理由があるということで、思う存分暴れ狂っている人達ですね。

「確かに、そういう人達は立派な人達ですよ。少なくとも、戦争に行ったこともないのにわーわー騒いでいる人達よりは。ただ、これは決して誤解をしてはいけないことなんですけどね、立派な人達の言うことが全て真実であるとは限らないんです。いいですか、そういう人達はですね、本当に、心の底から、戦争を嫌悪している。だから、戦争を防ぐためなら、どんなことをしても許されると思っている。

「嘘だとはいいませんよ。というか、それは嘘ではないんです。少なくとも主観的には。それは……なんていえばいいんでしょうかね、誇張された真実なんです。インプレッショニズムの絵画だとかディメンショニズムの絵画だとか、そういった前衛的な絵画のようなもの。ああいうものを見ても、実際の光景だとは思わないでしょう? けれども、書いている人間は、実際の光景よりも深いところにある真実を描き出していると信じている。つまりは、そういうことなんですよ。

「現実の中からある側面だけを切り取ってくる。例えば、普通であったら戦争犯罪になってしまうようなこと。けれども、目撃者が自分しかいなかったせいで有耶無耶になってしまったようなこと。それをもってして戦争それ自体が悪だと主張するのは明らかにおかしいとは思いませんか? だって、普通だったら、それは戦争犯罪なんですから。何かの超越的な存在に人間という生き物の全体が裁かれるとなった時に、明らかに何人か殺してそうなギャングの構成員が連れてこられて、「なるほどこれが人間という生き物か」ってなったら、砂流原さんだって「ちょっと待ってくれよ」ってなるでしょう?

「あるいは、実際に見たことを誇張して話す。いや、誇張しているわけでもないかもしれませんね。多分見たんでしょう。自分は見たと思った。ナーガが生きた人間を食べているシーンを。けれども、それは、本当は生きた人間ではなかった。普通であれば、ナーガが食事するシーンをコンスタントに見ることが出来るのは、そういう仕事に従事している職員を除けば、よほど階級が上の方の人達だけですから。たまたま、何かのきっかけで、たった一度だけ、本当にちらっと、ナーガの食事を見ることが出来た。その時、ナーガに丸呑みされる死体の手足が動いていて、まるで生きているかのように見えた。本当はナーガが首を動かした拍子に動いただけでしょうけどね。だから、前線基地では、ナーガの餌として、生きた人間が提供されていると思った。

「それか、そうですね、こういうパターンもあり得ます。その人は、ナーガが食べているのが死体であるときちんと理解していた。そして、ナーガが食べているのは死体であると主張しようとした。けれど、こう言ってしまったんです。「前線基地でナーガが人間を食っているところを見た」。どうですか? この言葉の中には、一つだって嘘はないですよね。それにも拘わらず、これを聞いた人間は――特に、デモ隊に参加している若者のように、予め戦争に対して悪い印象を持っている人間は――こう思うでしょう。前線基地では、ナーガが、生きた人間を食っていると。要するに、言葉足らずだったということです。

「どうですか、全部有り得ることでしょう? そのようにして、あの看板は描かれた。けれども、私はこれらの三つのパターンについては愚かなシステムであるとは主張しません。不幸な悲劇で真実が捻じ曲げられたというのは事実ですけど、そういうことはしょっちゅう起こることですし、わざわざそんなことまで愚かだと指摘していたら、世界が終わるまでの時間があっても足りないでしょうからね。私が愚かなシステムといったのは、もっともっと馬鹿らしいところの、最後のパターンのことです。

「最後のパターンとは、こういうパターンです。戦争に行った当の本人は「ナーガが死んだ人間を食っていた」と言った。けれども、それを聞いた他のデモ参加者が、それでは少し刺激が足りないと思った。だから、その話の「死んだ人間」の部分を「生きた人間」に変えた。そんなことはあり得ないと思われるかもしれませんね、砂流原さん。けれどね、こういったことは、どこでも、いつでも、起こっていることなんです。

「ベースとなる話は事実でしょう? だから、こういう風に話を変えた本人には、嘘をついているという感覚はほとんどないんです。あくまで、自分は本当の話をしていると思っている。とても重要な、本当の話を。この話は、あまりにも重要なので、より多くの人に聞いて貰わなければいけない。だから、より一層広がりやすいように、少しだけ「加工」した。心理的な正当化のロジックとしてはそんな感じです。本人としては、生の米と炊いた米との違いくらいしかないと思っていますよ。消化しやすいように噛み砕いた、それの何がいけないんだと。

「しかもですよ、このパターンの一番悪質なところはですね、砂流原さん。たった一人でも、こういう風に話を変える人間がいれば、その替えられた話の方が大々的に広がってしまうということです。話を変えた人間は、確かに話を変えました。けれども、話を聞いた人間が、また別の人間にその話をする時には。既に、それは、一言一句変わることなく「誰かから聞いた本当の話」になってしまっているんですから。ああいうデモに参加するような、ある一人の人間が、「ナーガが生きた人間を食べていた」という本当の話と「ナーガが死んだ人間を食べていた」という本当の話を聞いた時に、どちらの話を選んで次の人間に伝言すると思いますか? 「ナーガが生きた人間を食べていた」という本当の話に決まっているでしょう。こうして、面白くない真実ではなく、面白い嘘の方が広がっていくということです。

「ただし、ですよ。このシステムの中で一番重要な部分は……あるいは、一番愚かな部分は。こういう部分にはないんです。だってそうでしょう? ここまでの話の中で、嘘をついている人間はたった一人だけなんですから。それくらいなら、まあまあしょうがないなってなるじゃないですか。一番愚かな部分はですね。こういう風に「ナーガが生きた人間を食べていた」という話を撒き散らしている当の本人達が、ほとんど全員、それは嘘だということに薄々気が付いているってことなんです。

「いいですか、砂流原さん。ああいったデモが行われるのは今回の紛争に限ったことではないんです。カリ・ユガ龍王領と暫定政府軍との間に小競り合いが起こる度に、ああいうデモが行われている。そして、毎回毎回、あの看板が掲げられるんです。ということはですよ、当然ながら、それが真実ではないと主張する人間も出てくる。というか、カリ・ユガ龍王領にだってメディアの一つや二つはありますからね、そういったメディアできちんとした情報が流されているんです。ナーガは生きた人間を食べているのではない、戦闘で死んだ人間を食べているんだって。様々な証拠も交えてね。

「あのデモに参加している人間だって、それを聞いていないわけじゃない。証拠として提示された事実も見ている。それでも、あの看板を掲げ続けているんです。カリ・ユガ龍王領においてメディアというものは政府権力のうちの一つなのだから、そういったメディアで流されている情報は政府によって作り出された偽の情報である。一方で自分達の話は実際に戦場に行った人間から聞いた話なのだ。だから、自分達の話の方が正しいのである、ってね。

「デモの参加者だって、この主張がいかにも苦しい主張だっていうのは分かっています。向こうには話の裏付けとなる証拠が色々ある一方で、こちら側の話には証拠なんて一つもないんですから。自分達の話の方が嘘なんじゃないかなと思ってはいるんです。けれども、その嘘を訂正しない、訂正することができない。だって、もしもそれを訂正してしまったら、戦争が悪だっていう証拠が一つなくなってしまいますからね。結局のところですね、彼ら、あるいは彼女らは嘘をついてもいいと思っているんです。自分達の目的のためなら。さて、このことを第一の定義としましょう。

「次は第二の定義です。それは、あの若者達が憎悪に基づいて暴力を振るっているという定義です。そうですね、今日は……まだ始まったばかりですから何もしていないようですけど。それでも、彼ら、あるいは彼女らが手に持っているものを見てみれば、なんとなくお分かり頂けるんじゃないですか。もしも、あれが、本当に、なんの暴力も伴わない平和的なデモだというのならば。なぜ、彼ら、あるいは彼女らは、手に手に武器なんて持っているんですか? ほら、見て下さいよ。あの人はスリングショットを持っている。あの人は空気銃を持っている。あの人なんて、片方の手にはハンマーを、片方の手にはシールドを持っていますよ。平和的なデモの最中に、一体、あの人達は、火炎瓶なんて何に使うつもりなんですか?

「あの人達はこう言うでしょう。これらの武器は、政府による弾圧から自分達の身を守るための武器だ。しかしですね、それは、まあ嘘とまで言いませんけど、物事の最も重要な側面について話していないといわなければいけないでしょうね。もしも、もしもですよ。あの人達が、そういった暴力を、政府に所属する生命体に対してしか使わないというのならば。それならば、なぜ一般市民はああいったデモから焦って逃げ出したんですか? なぜあそこにある商店は、あそこにある商店は、それにこの商店もこの商店も、慌てて店じまいして、シャッターまで閉めたっていうんですか?

「砂流原さん、いいですか。ああいったデモの参加者が襲うのはですね、政府に所属している生命体だけじゃないんです。政府とはなんの関係性もない人々、ただし、政府に対して同情的な意見を持っていたりデモに対して反対する発言をしたりする人々。そういった人々に対して、暴力を行使するんです。例えばですね、砂流原さん。あの喫茶店を見てみて下さい。あれですよ、あれ、今通り過ぎた……あの喫茶店です。そうですよ、あそこは先週まで喫茶店だったんです。今となっては、焼かれて荒らされて、見る影もなく蹂躙された残骸しか残っていませんが。この通りには他にもああいった店がたくさんあります。ルカゴで通り過ぎた道筋にも幾つかあったでしょう。今も……ほら、あの店とか、あの店とか。全部、デモ隊の襲撃に遭った店です。

「ああいった個人商店の被害は、まだましな方です。政府関係企業の被害は常識では考えられないくらいひどい。それは、まあ、確かに、「政府関係」企業ですからね。政府と関係していることは間違いないでしょう。けれどですよ、ポストマンがあの若者達を取り締まったことがありますか? あるいは、上下水道を管理するエンジニアが、一度でもあの若者達に暴力を振るいましたか? 最近になって、デモ参加者の特別なお気に入りになったのは、地下鉄の施設です。駅員は重傷を負い、改札機は破壊され、券売機からは大量のトークンが奪われました。デモ参加者は、電車自体にも群がって、窓という窓を割り、座席を切り裂いて、そして、最終的に、まだ人が乗っている電車に火をつけました。

「さあ、考えてみましょう、砂流原さん。第一の定義「デモ隊は嘘をついて憎悪を煽っている」、第二の定義「デモ隊は憎悪によって暴力を行使する」。この二つの定義から、どんな定理が導き出されると思いますか? 簡単なクイズですよね、それはこういう定義です。「デモ隊は嘘をついて憎悪を煽り、その憎悪によって暴力を行使する」です。まあ、定理というか、繋げただけの話ですけれど。私が言いたいのはそういうことです。

「つまり憎悪と暴力との構造化が起こっているんですよ、あの集団の中では。あの人達はですね、既に意識的に暴れ回っているわけでさえない。理由なんてほとんどなく、機械の中で歯車が回るみたいにして暴力を振るっている。何かが気に食わないというそのことだけをエネルギーにして、そのエネルギーを、集団の中で定理にまで高められた正当化の論理に従って発散している。信じられないでしょうが、これが事実なんです。

「砂流原さん。自分の気に食わない意見は、あるいは、そういった意見を言う人間は、絶対に許さない。その意見に対して反論するのではなく、暴力によって圧殺する。言論の自由を徹底的に弾圧する。こういうシステムをなんと呼ぶかご存じですか? 衆愚制ですよ。ただ己のみが正しいと思うという意味では、広義の独裁と呼んでも構わないかもしれません。つまりですよ、砂流原さん。あの人達はね、独裁者なんです。

「しかも、独裁の中でも最悪の独裁です。だって、あの独裁からは思考能力が欠如しているんですから。集団の論理に逆らう意見は、何一つとして許容されることがなく、暴力によって排除される。考えることが出来るのならば、まだ希望はあります。けれどね、あそこには、もう希望なんてない。砂流原さん、いいですか、大半の人間は勘違いしているんですけれどね、本当の問題は政治のシステムにはないんです。独裁制だろうが民主制だろうが、システム自体に問題があるわけではない。問題なのは、そのシステムの担体から思考能力が失われることなんです。問題なのは、制度ではなく、観念なんですよ。」

 真昼とて……なんとなく、違和感を感じていないわけではなかった。マコトの主張していることには、何かおかしな点がある。なんとなく、間違っているように感じる。だが、何がおかしいのか、何が間違っているのか。それをはっきりと指摘することが出来なかった。

 それは、きっと、マコトの話し方に原因があったのだろう。マコトはいかにも自信あり気に話す。話の内容こそ、ところどころでへりくだったり、別の意見を取り入れているように聞こえるが。それらは全てまやかしに過ぎない。結局のところ、最後の最後には、あまりにも傲慢なやり方で自分の意見だけを押し通しているのだ。

 もしもこれが印刷された文章であって、何度も何度も読み返しながら検討することが出来るならば。冷静な気持ちで、話のそこここにある矛盾に気が付くことが出来るだろう。けれども、話し言葉によって、しかも有無をいわせることのない勢いで、叩きつけられてしまうと。そういった欺瞞を指摘するのは大変難しい。

 しかし、けれども……そういった些細な矛盾は、実のところ問題ではないのかもしれない。真昼の感じた間違いは、マコトの言葉の誤謬は、もっともっと根源的なところにある。それは、「正しさ」というものが、一体どういうものなのかということだ。「正しさ」というものは、決して、論理の上に宿ることはない。いや、正確には論理の上に宿ることもありうる。しかし、思考能力の限られた人間には、そういった論理に到達することは不可能だろう。そういった論理は、あまりにも複雑過ぎるのだ。

 あらゆる論理は、一定程度の単純化・類型化を行うものである。だが、そのようにして加工された何かには、絶対的な真実が宿ることはあり得ない。せいぜいが、「この角度から見た時に真実でありうる」というような相対的な真実だ。つまり、要するに、「正しさ」とは論理ではなく現実なのである。現実に起こされた行動にのみ「正しさ」は宿りうる。

 そして。

 マコトは、そのことを。

 完全に、理解している。

「以上の点から鑑みるに。」

 マコトは、へらへらと笑いながら。

 巫山戯たような口調、こう続ける。

「あの人達は、間違っているのではないでしょうか。」

 真昼は、間違っていないと言いたかった。あの人達は、何も間違っていないと。けれども、マコトの提示した論理、それは、穴だらけで、論理ともいえない論理なのだが、それに対してどう反論すればいいのかが分からなかった。それは、まるでぬるぬると生ぬるく捉えどころのないランプレイのようにして、どこまでもどこまでも真昼に絡み付いてくる「何か」だった。マコトは、マコトは、間違っている。この論理だけではなく、「何か」が決定的に間違っている。しかも、その上、そのようにして間違っているということを、自分自身でも百パーセント分かっている。

 そして。

 真昼は。

 そんな人間が書いたものを。

 生きる指針としていたのだ。

 マコトは……普通の人間よりも、遥かに心の機微というものに敏感である。そうでなければ、ワトンゴラでも月光国でもパンピュリア共和国でも、もちろんアーガミパータでも、生き残ることは出来なかっただろう。そんなマコトであるから、真昼が、とても複雑な気持ちになっているということには、即座に気が付いていた。「いかがですか」「うーん、まだ何か、私に対して反論したそうな顔をしていらっしゃいますね」「けれどね、砂流原さん……」と、ここでまた言葉を切って。

 それから、ぴんと人差し指を立てると、いかにも考え事をしていますとでもいいたげな態度で、わざとらしく目を動かし始めた。右に、左に、何かを探しているみたいにして……やがて、その目が、ある方向を向いて止まった。マコトは、体自体は真昼の方に向けていたのだが。横眼を向けるようにして、ルカゴの進行方向に、ちらりと視線を向ける。そして人差し指も、その指で指し示すような形で、そちらの方に向けた。そちらにいたのは……いうまでもなく、このルカゴの御者だ。

 そのルカゴの御者は、今の今まで、ほとんど全速力といってもいいようなスピードでウパチャカーナラを走らせていた。もちろんこれは比喩的な表現であり、本当に全速力で走らせるためには、辺りにいる人々を蹴散らさなければならず、そんなことは出来るわけがないのだが。そのくらいにウパチャカーナラを急がせていたということだ。けれども、マコトが視線を向けた、ちょうどそのタイミングで。その速度を、次第に、次第に、落とし始めた。

 なぜ速度を落とし始めたのか? その御者は、今までも、少し進むと後ろを振り返り、少し進むと後ろを振り返り、といった感じで、そのたびごとに確認していたのだ。デモ隊との距離を。そして、今、まさにこのタイミングで。あまりにも後ろの方に遠のいていったデモ隊の姿が、視界から消えたのだ。

 そう、この御者は、デモ隊が見えなくなったからルカゴの速度を緩めたのである。あからさまにほっとしたような顔をして、手綱を緩めて。それから、御者台の上で、ちょっとだけ寛いだ姿勢になる。ルカゴの御者は……カーラプーラで日常を生きている庶民は。明らかに、デモ隊のことを、何か災害のようなものであると受け止めていることが、このことからよく理解出来た。

 そう、その通り。

 よく理解出来た。

「あはは。ご覧になりましたか、砂流原さん。」

 マコトは。

 笑いながら。

 真昼に言う。

「つまるところ、これが現実なんです。」


「どうです、まさに絶景でしょう!」

 マコトが、大声を張り上げてそう言った。

 そして、暫くの間、何かを考えてから。

 さして大きくない声で、付け加える。

「まあ。期待ほどではないにせよね。」

 確かに、それは……なかなか迫力のある光景といえなくもなかった。真昼は、ここに来るまでに、アーガミパータに存在している色々なものを見てきたので。そういったものと比べると、少々感動が薄れてしまうというのは事実であったが。それでも、もしもアーガミパータに来て、真っ直ぐにここに来ていたら、これほど壮大な光景は他にはないと思っていただろう。

 世界がもしも平面であるのならば、その最果てにおいて世界の終わりを示しているのではないだろうかと思ってしまいそうなくらいの、凄まじい岩壁が聳え立っていた。岩壁? そう、それは確かに岩壁であるはずだった。けれども、真昼には、あたかもその場所に夜が蹲っているかのように見えていた。ごつごつと、世界の内臓の中から、粗削りに採掘された夜の塊。それほどに岩壁は完全な黒色をしていた。自分を照らし出そうとする光を飲み込んで、決して外に出さないような、そんな黒い色だ。

 その岩壁から、その黒と比べてさえもなお暗い色をした何かが突き出ていた。夜よりも暗いもの、果たしてそれは何か? それは……マハーカーラ、偉大なる黒。つまり、それは龍だった。いうまでもなく、本物の龍というわけではない。特別な石材、一塊りの石材を彫り抜いて作り上げられた彫刻だ。コルブラ・エラピデア、首の周りにある種の羽のようなフードを広げた、残酷かつ強力な蛇。それによく似た姿をした首が、辺りを睥睨するかのようにして、その岸壁から突き出しているということ。

 それにしても、それを作るのは、気が遠くなるような作業であったに違いない。あの彫刻は……少なくとも、二百ダブルキュビト以上の長さがある。二百ダブルキュビトの石材に、あれほど繊細な彫刻を施して、そうして、その上で、あの岩壁に設置する。人間業とは思えない一大事業であったに違いない。

 その蛇の口は目の前にいる獲物に噛みかからんばかりに大きく開かれていて。そこから、茫々と、鯨々と、豪滝が流れ落ちている。幅五十ダブルキュビト程度の激流が一エレフキュビト程度の高さから一気に流れ落ちる過程。ここまで膨大なエネルギーを持つ滝、真昼は自然のものでさえ見たことがない。

 そのように流れ落ちた滝が、その岩壁の周りに湖を作り出している。一つの海とも見紛う湖、カーラプーラの中心にある最も巨大な建造物……そう、この湖こそが、マイトリー・サラスだった。そして、真昼が立っているのは、マイトリー・サラスの東西南北に一つずつ作られたレイクサイド・パークのうちの一つ。その南側に作られたところの、ダクシナ・ジールパスバーガだ。ちなみに、この名前は、共通語では「南にある湖畔の公園」という意味を表している。そのままで大変分かりやすいですね。

 とても。

 美しい。

 公園だ。

 この公園の最大の特徴はといえば、カーラプーラらしくないという点だろう。今まで真昼が見てきたカーラプーラの光景は、真昼の美的センスとはかけ離れた「美」の感覚を有していた。良いか悪いかの問題ではなく、文化が根源的に異なっているのだ。緻密であるにも拘わらず浩大。極彩色で染め上げられた真聖の感覚。そういった感覚は、人間至上主義に肩まで浸かり切った真昼のような人間には、決して理解出来ないものだった。その文化の「大きさ」を測り切ることが出来ずに……正直な話、悪趣味なほどに派手に見えるということだ。けれども、この公園は、そういった「カーラプーラ」らしさ、あるいは「アーガミパータ」らしさといったものが、極力排除されているようだった。

 要するに、この公園は、龍王領の領民のために作られたものではないということだ。いや、もちろん、領民達も来ることが出来ないわけではないのだが。そもそものところとしては、龍王領の外側から来る人間達に対するもてなしの場所として作られた公園だということである。

 龍王領にもアーガミパータの外側の人間が来ることがないわけではない。外交官はいうまでもなく、赤イヴェール合金などの希少鉱物を買い付ける商社の人間、あるいは観光客が来ることさえある。読者の皆さんは、こんなところの何を観光するのかとお思いになるだろうが。この世界には信じられないような変わり者が結構な数いるものなのである。

 龍王領に入領するためには、政治的にも道程的にも難易度の高いルートを通ってこなくてはいけない。しかも、その上、例の「休戦協定」に抵触しないように、かなり特殊な審査を受ける必要がある。それでも、公式の数字でさえ、年間に十万人弱の人間が訪れているとしているくらいなのだ。そして、この公園は、そういった人間達のために作られた。

 当たり前だが、公園といっても、月光国とかでよく見かけるような子供が遊ぶための公園ではない。都市計画に従って開発された一種の観光地区であり、真昼とマラーとマコトとがいる場所から少し離れたところには、巨大なホテルも建っている。このホテルがまた変わったホテルで、目を見張るような素晴らしい建物だった。素晴らしいといっても、真昼が理解出来る素晴らしさ、現代建築の素晴らしさではあったが。

 それは、限りなく研ぎ澄まされたところの、一つの曲線によって作り出された形状であった。地上から始まっている湾曲した弧が、上へ上へと向かうにつれて、次第に細くなっていって。その最後には、半分が地上に埋まった九夜月であるかのようにして、天を突きさすように鋭利な先端となっている。ビルディングの全体が青イヴェール合金とフォースフィールド、それに犀角石のみによって構成されている外観は、どこまでもどこまでも単純でありながら、それでいて目を見張るように力強く。まさに現代建築の傑作と呼ぶに相応しい出来栄えであった。

 また、このビルディング単体でも、もちろん十分に素晴らしいのだが。実は、このビルディングは、この一つだけで完結した建物というわけではない。これと完全に同じ、寸分たりとも違わない建物が、プールヴァ、パスキム、ウタラのそれぞれの公園にも配置されている。そして、一つ一つの建物は、それらの全てが弧の凹面をマイトリー・サラスの側に向けていて。あたかも大地から突き出した四本の指が、マイトリー・サラスに掴みかかっているかのように配置されているというわけだ。それゆえに、これらのビルディングはカーラナクハと呼ばれている。

 その他にも、ウォーターパークや巨大な植物園などの、このような砂漠の真ん中にあるなんて信じられないような娯楽施設や。そこに行けば揃わないものはないのではないかと思うようなショッピングモール、ラグジュアリーという概念がそのまま建築物になったかのようなスパ。あるいはアーガミパータでも最大規模のカージナス(アーガミパータではギャンブルが合法なのである)まである。まさに、リゾート・ワールド・カーラプーラと呼ぶに相応しい場所なのだ。

 そして。

 そんな。

 リゾート・ワールドの中で。

 真昼達がいるのは。

 カージナスの。

 駐車場だ。

 正確にいうと、駐車場ではないのだが。カーラプーラにおいては、自働車という方法は、交通手段のほんの僅かな部分を占めるに過ぎない。グリュプス・タクシーだとかルカゴだとかといった生物学的な手段、それに、マコトが愛用しているフライスのような飛行する機械。数え切れないほどの選択肢があるからだ。

 その中でも……グリュプスのような、割合に知的な生命体に関しては。乗客をここまで乗せてきた後で、自分も、ちょっとばかしカージナスで遊んでいくこともあるのだが(龍王領に領籍を持つものはカージナスの利用を制限されているが、制限というものには常に抜け道が付きものである)。例えばウパチャカーナラのようなあまり知的ではない生き物は、こういった「駐車場」に停めていかれることになる。

 なので、この「駐車場」は、そういった「車」の種類ごとにかなり細分化されていて。その中でも、真昼達がいる場所は、小型の航空機を停めるための「駐車場」だった。余談ではあるが……なぜマコトはこんな場所に自分のフライスを停めているのか? それは、マコトの言葉をそのまま借りるとするならば「あーっとですね、ここ、外国人向けの施設なんで、入領ヴィザを見せるとタダで停められるんですよ」ということだった。まあ、いくらタダで停められるとはいえ、一か月も二か月も入れたり出したりを繰り返している図々しいやつはマコトぐらいのものだったが。

 ここは……普通、駐車場と聞いた時に思い浮かべるような、即物的なタワー型駐車場や、薄暗い地下駐車場や、そういった場所ではない。広々とした平面を整地した、まるで美しい自然公園のような場所だ。まあ、自然公園といっても、基本的には駐車場なので、遊具だのなんだのが置かれているわけではないのだが。けれども、ちょうどマイトリー・サラス自体に面していて、そちらのほうに向かって段々と下がっていくテラスド・フィールドみたいな空間が作りつけられている。そのテラスド・フィールドは、いかにも雰囲気がある煉瓦によって舗装されていて。寛げるベンチさえ、幾つか置かれているくらいだった。

 マコトと真昼とは。

 そのベンチに座り。

 湖の方を見ている。

 ちなみに、マラーは。湖のすぐ近くまで行って、繊細な細工が施された白い色の柵に寄り掛かって、いつまでもいつまでも飽きもしないで、水が流れ落ちる龍王の口を眺めている。これほど膨大な量の水、これほど激しい勢いの奔流、もともと荒れ地に生まれ荒れ地に育ったであろうマラーにとっては、こんなものを見るのは初めてなのだろう。まあ、これと似たような物は、アヴマンダラ製錬所付近の採掘現場で見ていただろうが。あれは金属だ。それに対して、こちらは、全てが水なのである。

 龍王領ではほとんど化石燃料が使われていないため(そういうものを輸入に頼ってしまうと領域の脆弱性に関わってくるからだ)排気ガスの心配もない。本当に、ただの、美しい、公園みたいだった。ただし、その公園は、アーガミパータという地獄の中に存在している公園ではあるのだが。

 先ほどから、マコトが、何かと話しかけてきてはいるが。真昼は、その全てに対して、聞こえていないふりをするか、いかにも気のない返事で答えていた。別に無視していたのではなく……ずっと、ずっと、考えていたのだ。マコトについて、そして、マコトに言われた色々なことについて。

 真昼が、人生で最も憧れていた人。本当に、心の底から、尊敬していた人。MJLは、つまるところ、その人格の全てが嘘で塗り固められていた。MJLなどという人間は存在しておらず、それはマコトが作り出した偽物の、皮肉に顔を歪めて嘲笑う声の残響のような、虚像に過ぎなかった。真昼は……まだ、心の底では、その事実を、全く受け入れられずにいた。もしかして、もしかして、マコトは嘘をついているのではないか? 本当は、マコトはMJLではなく、MJLは別にいて、MJLは、本当は、真昼の思った通りの、立派な人間なのではないか? だが、残念なことに、それは真昼の妄想に過ぎないのだ。マコトこそMJLであり、MJLとはマコトのことなのである。

 この世界は……この世界は、一体どういうところなのだろう。真昼が信じたものが、次々と失われていく。これほど気高い生き物は他にいないだろうというほどの、真昼にとっての正義そのものを体現していたパンダーラは、死んだ。真昼の裏切りによって無残にも殺されたのだ。パンダーラが守ろうとしたものさえ、あえなく滅び去って。あの人が生きた証はもうどこにもない。私が、私が、それをした。

 それでも、実は……まだ、信じていたのだ。真昼がどんなに卑劣で姑息な生き物であっても。それでも、世界には、正義というものがあると。だって、真昼は、知っているではないか。MJLの記事によって、知ったではないか。この世界には、何人もの、何人もの、反骨の義賊がいると。幾つもの、幾つもの、正義のための戦いが繰り広げられていると。そのうちの幾つかは、確かに敗れてしまう戦いなのかもしれない。けれども、結局のところ、最後には、正義が勝つのだ。真昼は正義の側にいないかもしれない。きっと、死ねば、地獄に落ちるのだろう。けれども、真昼がいなくなった世界は、正義に満たされた素晴らしい場所になる。真昼は、そう信じていたのだ。

 しかし。

 それも。

 やはり。

 嘘だった。

 マコトの話によれば、四つあるジールパスバーガの全ては、カリ・ユガ龍王領の領民の使用について厳重に制限しているのだそうだ。例えば、下層なヴァルナや不浄なジャーティやに属する人間は、入ることさえ禁止されている。外国人は、そういうものを目にすると、不快な気分になるからという理由で。とはいえ……その制限が、絶対的に守られているというわけではない。龍王領では、全てが寛容さのもとに成り立っている。何事であれ、絶対ということはあり得ないのだ。

 網の目のように張り巡らされた監視の目の、その網の目の隙間から、本来ならば入ってきてはいけないはずの生き物が次々と入ってきて。そして、そこら中にとはいわないまでも、ぽつりぽつりとその姿を見かける。

 真昼達がルカゴでこの場所に到着した時だって……本来は、ルカゴで、この公園の中に入ってきてはいけないはずだったのだ。ウパチャカーナラは、人間だとかグリュプスだとか、そういった知的生命体とは違って、基本的には、いつ暴れるかも分からない危険な生き物である。しかも、国家権力が利用する場合のように、しっかりとコントロールされているならまだしも。ルカゴを生業にしているような人々が、自分の飼っているウパチャカーナラをどれだけ訓練出来ているのか、非常に怪しいものがある。そのため、外国人が利用するこういった施設には乗り入れが禁止されているのだ。しかし、そういった禁止事項も……マコトが、なあなあに言いくるめて、丸め込んで。結局は、この駐車場まで、ルカゴに乗ってくることが出来たくらいだ。

 そうやって辿り着いて、さてルカゴから降りてみると。今度は、真昼達のことを、浮浪者らしき風体をした老若男女が取り囲んだ。まあ、取り囲んだといっても片手で数えられる程度の人数ではあったが、どうやら乞食ジャーティに所属する人々らしい。これは……真昼が知らなかったことで、後でマコトが一方的に話しているのを聞いて、ようやく知ったことであったが。アーガミパータにおけるいわゆる乞食ジャーティは、別に貧困ゆえに浮浪者のような恰好をしているわけではない。いわば、それが仕事着であって、サラリーマンでいうスーツ姿のようなものなのだ。乞食ジャーティに所属する人々のほとんどは「浮浪者」ではない。違法建築の賃貸とか、そういう感じではあるが、きちんとした家を持っている。それに収入だって、他の下層ジャーティに所属する人々とさして変わることがない。

 それでは、なぜ彼ら/彼女らは物乞いをしているのか? それが、彼ら/彼女らにとって、予め定められた生き方だからである。彼ら/彼女らは、物乞いとして生まれたから物乞いとして生きているのだ。物乞いとしての職業倫理を持ち、その倫理を守ることに誇りを見いだす。そして、より多くの稼ぎを得た物乞いは、それゆえに尊敬に値する物乞いとされるのだ。とはいえ……物乞いに纏わりつかれている側の生き物にとっては、邪魔以外の何ものでもない。ルカゴを降りた途端に、物乞いに囲まれてしまって。真昼は……これは、自分では認めたくないことであったが。それでも、確かに、生理的な不快感を覚えた。そして、本当に、無意識のうちに……龍王領は、もっと徹底的に、こういった物乞いを取り締まるべきではないだろうかとさえ考えてしまった。

 そして。

 そう考えた瞬間に。

 はっと気が付いた。

 ああ。

 自分は。

 一体。

 何を考えたというんだ?

 もっと、しっかりと、取り締まれ? この物乞い達を? この弱き人々を? そう考えたのだ。もちろん、それを態度に表しはしなかった。それどころか、理性の上では、この物乞い達に対して、非常に優しい同情の論理を抱いて。そして、こういった人々が、こういった仕事をしなくても済むように。龍王領は、もっと対策を行うべきだという考えさえまとめたくらいだ。けれども、それは、所詮は理性の上での話である。本能では、生理的な部分では。真昼は、確かに、これらの人々に対して拒否を感じた。

 人は内心の自由という。だが、真昼は、それが限りなく偽善的であるということを知っている。その心臓に刻まれた知識として知っているのだ、なぜなら、自分自身が、内心の自由のせいで、裏切り者となったから。人は、本当に、ぎりぎりの選択を迫られた時に。命懸けで何かを選ばなければならない時に。結局は、その「内心の自由」を露出させる。あの時に……真昼が……「何も出来ない」ということを選択したように。ということは、真昼が、こういった物乞い達に対して不快を感じたということは。真昼は、肝心な時に、裏切るということだ。こういった弱い人々のことを、不愉快な人々として切り捨てるということだ。

 ああ。

 どうしようもない。

 馬鹿みたいな欺瞞。

 そんな真昼に対して、マコトは……物乞い達に囲まれても、何も感じていないようだった。いつものことなのだ、こんなことは、わざわざ感情を動かされるほどのことでもない。マコトは真昼とは違う。完全に、こういった物乞い達と同じ世界に生きている。同じ論理が働く世界、同じ認識が働く世界に。だから、手に手にローガラトナを持って、それを突き出してくる物乞い達を。イパータ語で何事かを怒鳴りながら、いかにも鬱陶しそうに手を振って、一気に追い払ってしまった。

 物乞い達は、マコトと真昼とが明らかに海果系の外見をしていて、どう見てもアーガミパータ外から来た人間であると考えたから、寄ってきたのである。彼ら/彼女らにとって、外国人というのは、蹴り飛ばせばいくらでも林檎が落ちてくる木のようなものなのだ。だが、どうやら、マコトは……このカリ・ユガ龍王領に随分と通じている人間らしい。ということは、物乞いのシステムもよく分かっているということで、さほど寛大な寄付を望むことは出来ない。そう判断した物乞い達は、速やかに真昼達から離れていって……他の林檎の木に向かっていった。

 つまるところ。

 そういうことなのだ。

 嘘。

 嘘。

 嘘。

 馬鹿な真昼が。

 全然、知らないような。

 嘘にまみれている世界。

 どうやら、この世界は。

 例え、真昼がいなくても。

 そういう世界であるらしい。

 ずっと、軽い吐き気が止まらない。嘔吐するほどではないが、何かが正しくないということを、しつこいくらいに訴えかけてくる吐き気だ。正しくない、そう、正しくないのだ。何が? 例えば、こういうことが。

 アーガミパータでは、特定の人々の生き方が物乞いとして生まれながらに決められている。これは明らかな差別であって……けれども、その一方で、結果的に権力が物乞いの存在を許しているということにもなる。

 他方、例えばエスペラント・ウニートについて考えてみよう。以前も一度触れたことであるが、真昼はイエロー・タイムズを購読している。その中で、一週間にわたって、「浮浪者」の問題についての特集記事が組まれたことがある。その内容はこういうものだ。現在、エスペラント・ウニートでは「浮浪者」の犯罪化が行われている。物乞いをすることは当然として、食べたり、寝たり、あるいは地面に座ったりすることさえ法律で禁止されているスペースが、公共の場に増えているのだ。

 こういった法律の違反者の多くは、罰金を払うことも出来ずに収監されて。そして、民間が運営する収監施設の中で、「社会復帰」の名のもとに低賃金での労働を強制させられる。これは明らかに問題であって、しかも、それが問題であると指摘する声も後を絶たない。それにも拘わらず、こういったケースは加速度的に増加している。それは一体なぜなのか。

 無論、最大の問題は権力にある。けれども、私達の側にも問題がある。それは公共の場にホームレスがいるということに対する不快感である。その不快感ゆえに、私達は、公共の場から「浮浪者」がいなくなること自体に対して反対しにくい状態にある。「ホームレスの社会復帰には賛成だ、とはいえ、やり方が問題だ」、そういった結論に至ってしまうのだ。

 しかし、それは明らかに欺瞞であろう。「社会復帰」の制度からはみ出てしまった人々が「浮浪者」になるのだ。つまり、この社会は、彼ら/彼女らが復帰出来ない社会なのである。そのような社会を作り出しておきながら、そこに無理やり復帰させようとする私達の態度、自分達が正しいと思い込んで疑わない欺瞞。これこそが「浮浪者」の排除に繋がるのだ。

 私達は、まず「浮浪者」の存在を認めなければいけない。普段は見て見ぬふりをして、自分達が寛大な気持ちに浸りたい時にだけ小銭を投げ与える、そういったやり方ではいけないのだ。彼ら/彼女らをしっかりと見つめて、その声を聴いて。そして、彼ら/彼女らを彼ら/彼女らのままに受け入れる、そんな社会を築いていかなければいけない。もしも、それが出来ないならば……せめて、私達の家の近くで彼ら/彼女らが眠ることくらいは許さなければいけない。そう思うことが、この社会を作った人間の最低限の義務である。そういった内容の記事だ。

 もちろん。

 その記事を。

 書いたのは。

 MJLだ。

 と、思うじゃん? 違うんですね、この記事を書いたのはマコトの後輩であるリンディ・ファーガソンという記者だ。マコトのことをめちゃくちゃに尊敬してイエロー・タイムズに入ったものの、そこでマコトの本当の姿を見たことによって、愛憎入り混じった感情を抱くことになった若手ジャーナリストである。そういった非常に複雑な心性の持ち主であるせいで、基本的にはMJLのような記事を書くのだが、そういった記事のところどころで「マコト」っぽさ、つまり人間至上主義という社会制度に対する懐疑の感覚が出てしまって。結果的に、人間存在全般に対する皮肉交じりの情熱的な啓蒙という奇妙な内容になってしまっているのだ。

 マコトは、そんな隙がある記事の書き方はしない。ここでいう「隙がある」というのは嫌われる余地があるということだが、マコトが記事を書く時には、もっともっと耳障りのいい言葉を使う。人間に対する懐疑なんて欠片も感じさせない、まさに人間に対する讃美歌にも等しいような記事を書くということだ。全ての責任は権力に押し付けて、読者層、要するにヒューマン派の信奉者が一片の拒否感も持たず読むことが出来て、読み終わった後には感動的な爽快感を感じるような記事を書く。それに……第一、マコトは、よほどのことがなければ国内のホームレス問題なんて扱わない。取材の過程で少なくとも二人以上の人間が死んだり、あるいは戦争に関する名状しがたい恐怖を感じることが出来たりしない限り、仕事に対してなんの興味も持てない体質なのである。

 まあ、それはそれとして。リンディは、その記事の中で「ホームレス」という言葉を使うことさえ拒否していた。一貫して「浮浪者」という差別的な意味合いを含んだ言葉を使っていたのだ。なんとなくニュートラルな感じの「ホームレス」という言葉を使うことが、そもそも浮浪者から目を逸らす第一歩になるというのだ。その記事を読み終わった時、真昼は……リンディが何を主張したいのか、よく分からなかった。けれども、この記事は、何か重要なことを言っているという感覚だけは残った。そして、今、その重要さについて、なんとなく分かりかけてきている。

 要するに、正しい行動が正しい結果に繋がるとは限らないのだ。世界は、人間がたった一人の頭で考えだした小説とは違って、それほど単純なものではないのである。そういう意味で、小説、御伽噺、寓話、そういったものは有害とさえいえるだろう。人間に、世界が単純なものであると勘違いさせてしまうからだ。小説の中には、物語に不必要なものは一切出てこない。全てが物語に結び付くものであって、しかも、その結び付き方も、本一冊を読めば理解出来るレベルでしか結び付くことがない。世界は、決して、そんなものではないのだ。小説などというものは……いや、もっとはっきり言ってしまおう。まるで小説であるかのごとく世界を単純化したMJLの記事は、娯楽には役に立つかもしれないが、世界を良くする役に立つことはない。絶対にない。馬鹿を作り出す装置が、どうして世界を良くするというのか?

 そう。

 世界は良きものではない。

 差別されることが。

 救いに繋がることが。

 あるという程度には。

 無論、そんな風に考えることを、今の真昼は拒否している。けれども、その拒否は、あたかも虚ろ木で作られた堤防のように危ういものだ。あと一度、真昼の精神を、何か想像出来ないほどの大波が襲うことがあれば。きっと、そんな堤防は、粉々に砕けてしまって。暗く淀んだ虚無の底へと沈んでいってしまうだろう。ただ、そうはいっても……真昼は、まだ信じている。この世界が善きものではないのだとしても、善きものに出来るということを、藁の紐に縋りつくかのようにして信じている。

 そうでなければ。

 パンダーラの死。

 受け入れることが。

 出来ないから。

 さて、それはそれとして。真昼は、色々な想念が浮かんでは消えて浮かんでは消えてを繰り返しているのを感じた。これは既に答えが出ているにも拘わらず、その答えを受け入れることを拒否している人間にありがちなことなのだが。なんとなく考えがまとまらず、しっかりと焦点を合わせることも出来ず、形もなくふわふわとした感覚に支配されてしまっているということだ。そんな想念の中に……ふと、ある疑問が現れた。

 大した疑問ではない。それに、マコトのような人間に対して何か質問をすることは、いや、それどころか話し掛けることさえ、真昼にとっては業腹なことである。けれども、今の真昼は、ベンチに座って、二つの膝の上に両肘をついて。湖の方を見るともなく見ないともなくしている、今の真昼は。ひどくぼんやりとしてしまっていたのであって……特に深いことを考える暇もなく、ごくごく自然に、その口が動いてしまっていた。

「なんで。」

「はい?」

「あの人達は、デモをすることが出来たんですか。」

 そう言い終わった瞬間に、しまった、と思った。けれどももう遅い。既に考えていたことを口に出してしまった後なのだから。真昼は、前屈みになっていた体を起こすと。ベンチの背凭れに体を預けて、ちらとマコトの方を見た。マコトは……またデモの話かよ、みたいな顔を、やっぱりしていた。こいつデモの話好きだな、みたいな顔を、明らかにしていた。いや、もしかしたらそれは真昼の被害妄想なのかもしれないが。とにかく、マコトは、真昼のその問い掛けに、こう言う。

「え? どういう意味ですか?」

「それは……」

 真昼は。

 自分のしたことを。

 心底後悔しながら。

 こう続ける。

「つまり、ここに住んでいる人々は、ポゼショナイズを受けているはずですよね。そうだとすれば、デモ行進なんてしようとも思わないはずじゃないですか。それに、もしもなんらかの方法でポゼショナイズを回避出来たとしても、なんらかの治安組織があるはずですよね。私達が見ていた間は、そういう治安組織が介入していた様子はなかったですけど。」

「あー、そういうことですか。そうですね、二つの質問を頂いたようですから、一つずつ答えていきましょうか。まず一つ目、ポゼショナイズについてですが……デモをしていた人々の大半は、私達と同じように、このイヤーリングをつけているんです。このイヤーリングだって安いものではないんですけどね、ただ、まあ、先ほども言いましたけど、あの人達は別に貧乏ってわけではないですから。お金持ちの子供、大して苦労をしているわけでもない学生なので、こういった物を買うことが出来るんです。それで、一人が買うと、他の人にも教えたくなるもんだから、どんどんと広がっていって。今では、このイヤーリングが反権力の象徴みたいに思われてる節もあるくらいですよ。まあ、そのおかげで、これをつけてるとインタビューがスムーズにいく時もありますけどね。ああ、ちなみに、一応付け加えておきますとね、こういったイヤーリングを売ってるのはあの店だけではありません。私が知ってるだけでも……そうですね、五店舗くらいはあるんじゃないかな? あの人も、おかげで競争が激しくって仕方がないってぼやいてましたよ。私が買うのはいつもあそこですけどね。

「それから、二つ目の質問についてですが……あはは、砂流原さんは、ちょっとテレビの見過ぎですよ。政府だって、何も悪いことをしてない、愚かなことしかしてないデモ隊を取り締まるわけないじゃないですか。テレビを見てると、デモ隊を取り締まっているシーンしか流さないから、そう思ってしまうのかもしれませんがね。実際に取り締まりを行うのはデモ隊が暴力行為をし始めてからです。何かを壊したり、誰かを傷付けたり、そういったことをしてからですね。ただ、まあ、一応は……砂流原さんも見ていたと思いますけど、グラディバーンに乗った治安維持隊が上空で控えてはいましたけどね。いつ暴れ始めてもいいように。

「確かに、誰もデモなんてしないのが一番いいんですけれどね。とはいっても、あのデモは、さほど危険なものというわけでもないですし。ほら、先ほども言ったことですけど、あのデモをしている若者達だって、龍王を追放しようという意志はないわけでしょう? そんなことをしたら、自分達がどういうことになるのかということは分かってるわけですから。地下資源はそのほとんどが搾取されるでしょうし……そうですね、それに、先ほどは言いませんでしたけど。もしも暫定政府がここを支配したら、ここはまた砂漠に戻ってしまうでしょうから。人間至上主義なんて、所詮は理想に過ぎませんからね。しかも、馬鹿が馬鹿なことをしたいっていう理想です。つまるところ「自由」も「民主」も、龍王とは違ってこの場所に水をもたらしてくれるわけではありません。ただ最も迫害された者達から搾取するだけです。

「ということで、あのデモが革命に繋がるということは、ほとんどあり得ないというわけです。まあ、なんであれ絶対ということはありませんからね、あの若者達の中に、たった一人でも、自分の破滅と引き換えにしてでも龍王を追放したいというような人間が現れれば……それは変わるかもしれませんが。ただ、それでも、デモを完全に禁止してしまうよりは危険ではないでしょう。鍋というものは蓋をした方が蓋をしないよりも吹きこぼれる危険性が高いってわけですよ。これも先ほど言ったことですけれど、あれは本質的には性欲ですからね。自慰行為は、そりゃやり過ぎたら良くないですけど、全くやらないというのも体に悪いものですよ。何事にせよ……寛容です、寛容。人間より賢い方々はですね、慈悲深い寛容さゆえに、ああいった愚かな行為であっても、よほど有害なことでなければ許してくれるものなんです。」

 この女は。

 人間による、人間のための闘争を。

 自慰行為と切り捨てて、嘲笑った。

 それは、やはり、真昼にとっては耐えられない誹謗だった。なぜなら……自分自身が抱いていたところの理想の全てを、嘲笑われているようなものだったからだ。真昼も、今、ちょうど思春期であって。マコトの言葉は、真昼にとっては、まるで「お前が抱いていた幼稚で浅薄な価値観なんて性欲解消の手段に過ぎない」と言われているに等しかったのだ。

 とはいえ……実は、それは抱いて「いた」価値観であって。現在進行形で抱いて「いる」価値観というわけではない。もちろん、そういわれたら真昼は否定するに決まっているのだが。そうはいっても、真昼は――今までしつこいくらいに地の文で描写されてきた通りに――その価値観を疑い始めていた。だから、マコトに殴りかかることは辛うじてなく。

 その代わりに、マコトの言葉の中。

 一つだけ、気になることがあった。

「砂漠に、戻る。」

「はい?」

「今、あなたは、砂漠に戻るって言いましたよね。」

「ええ、まあ、言いましたね。」

「あの水は……龍王が作り出してるっていうことですか。」

「そりゃあそうですよ。」

 そんなこと当たり前だといわんばかりに。

 怪訝な顔をしさえして、マコトは言った。

 もしも真昼がアーガミパータの言葉、特にジャーンバヴァ語に近い言葉を理解出来たならば。その事実について、この湖に付けられた名前から推測出来たはずだ。マイトリー・サラスとは、共通語で「慈悲の貯水池」とでも訳すべき言葉であって。この湖が、慈悲深い龍王から下賜されたものであるということを表していたからである。

「デニーさんから聞いてないんですか? 何も? はあ、そうですか。本当に、あの人は……なんといえばいいのか、自分が知ってることはみんなが知ってると思っていますからね。分かりますよ、砂流原さん。私もそれで随分と苦労しましたから。全く、高等生物というものは、いつだって下等生物であることの苦労を理解してくれないものです。

「えーっとですね、どう説明すればいいのかな……そうだ、パンピュリア共和国のことを思い出してみて下さいませんか? あの国では、電力の供給は全てアップルからなされているでしょう? つまり、電気を作ってるのはノスフェラトゥだということです。そのおかげであの国では、まあインフラの維持費だとかそういうのは払わなければいけないですけど、ほとんどタダみたいな値段でエネルギーを享受することが出来ています。

「神々にせよノスフェラトゥにせよ、それにもちろん洪龍にせよ。他の種族を支配するにあたっては、その種族が絶対に必要としている何かしらを提供するんです。例えばパンピュリア共和国ならば電力ですし、ここならば水が提供されている。ここは、本来ならば砂漠の真ん真ん中ですからね。もしもカリ・ユガから提供されている水がなければ、未だに、たまに隊商が立ち寄るくらいの、ひどく寂れた村に過ぎなかったでしょう。

「私は、歴史にはあまり明るくないんですけどね。こういったことは、どうやら第一次神人間大戦の後くらいからの慣行らしいです。ほら、第一次神人間大戦では、神々ではない種族が神々を打倒したじゃないですか。そのせいで、誰かが誰かを支配するのには、ちょっとした見返りがあった方が安全だっていうことになったんでしょうね。まあ、思考ロックによって「秩序」は提供されていたわけですけど……下等知的生命体は、秩序の重要性を何かと軽んじがちなものですから。

「そんなわけで、あの湖は、カリ・ユガの力によって与えられている湖だということです。そもそも……ああいう方々を指す共通語の「洪龍」という言葉は、易語で「水を支配する龍」という意味ですからね。きっとそういった言葉が生まれたくらいの昔から、ああいう方々は被支配者に対して水利に関するあれこれを与えていたのでしょう。まあ、ジャーンバヴァ語でいうところの「カーラ」は時間という意味ですけど。アーガミパータの人々の考えることはよく分かりませんからね。」

 マコトは、そう言うと。

 軽く肩を竦めてみせた。

 これを認めるのは大変気に食わないが、マコトは、さすがに記者というだけあって、デニーよりも遥かに分かりやすい説明をする。いや、デニーの説明が分かりにくいだけなのかもしれないが。とにかく、あの水の由来については十分理解出来た。恐らくは、あの水は、カリ・ユガの魔力によって、地下深くの水を汲み出しているか。それとも物質の組成を組み替えて砂か何かから作り出しているかのどちらかだろう。洪龍レベルの魔力があるならば、その程度は容易いことだ。

 慈悲深い独裁者。

 真昼にとっては。

 なんとなく。

 しっくりこない概念だ。

「どうです?」

 せっかくマコトがしてくれた説明に、なんのレスポンスも示さずに、黙ったままで湖の方を見つめているだけだった真昼に対して。マコトは、そう言うと、いきなりベンチから立ち上がった。一体何をするのかと思って、思わず真昼がそちらを向くと。マコトは、湖の方を向いてから……いかにも大仰な感じで両手を広げて見せた。まるで湖の広大さを表しているみたいだ。それから、こう言葉を続ける。

「そう考えてくると、ありがたさも増してくるでしょう!」

 いや。

 別に。

 と、口に出しはしなかったが、かなり読み取りやすくそういった雰囲気を纏ったところの真昼であった。もちろん、他人の気持ちにひどく敏感なマコトは、そんな真昼の気持ちを易々と読み取って。ふっと、真昼の方を振り返った。

「どうやら、ここはあまりお気に召さなかったようですね。」

「いえ、そういうわけではないですけど。」

 明らかに「そういうわけです」という顔をしたままで真昼はそう言った。さすがに上流階級の人間というだけあって、社交辞令を使うだけの礼儀は残っていたようだ。とはいえ、それは最低限の社交辞令であって。よほどの低能でない限りは、真昼が何を考えているのかという本当のところを読み間違えることはないだろう。そして、マコトは、よほどの低能というわけではない。

「ま、確かに派手っていえば派手ですけど、結局のところは上から下に水が落ちてるだけの光景ですもんね。いつまでも見ていて面白いものじゃないか。」

 そう言うとマコトは、ベンチからすたすたと歩いて、湖との境、柵のところまで行ってしまった。「上から下に水が落ちるだけの光景」を、いつまでもいつまでも、まるで魅入られでもしたみたいに見つめているマラーの近くに辿り着くと、そのマラーに向かって、特に屈み込んだりすることもせずに話し掛ける。真昼がいる方を指差しているので、そろそろこっちに戻って来いとか、そんなことを言っているのだろう。

 真昼は……本当は、マコトみたいな人間をマラーと接触させたくなかった。マラーが、取り返しがつかないくらい汚れてしまうような感じがしたからだ。けれども、それでも、真昼はアーガミパータの言葉を話すことが出来ず、マコトはそれを話すことが出来る。それは真昼にとって決定的な違い……いや、象徴的とさえいえる違いであった。なんの象徴かといえば理想と現実との象徴だ。真昼は、マラーのことを助けたいという理想を持っている。だが、実際に、現実の中でマラーを助けることが出来るのは。きっと、マコトのように、マラーの言葉を話すことが出来る人間なのだろうという感覚。理想、理想、理想。真昼はいつも理想ばかりだ、現実が伴うことなんて、きっと、ずっと、ないのだろう。

 そんな風に思うのであれば……本当ならば、カタヴリル語を勉強すればいいだけの話なのだ。実際、もしもアーガミパータに来る前の真昼であれば、必死になってカタヴリル語を勉強していただろう。その頃の真昼はまだ理想の力を信じていたから。だが、今の真昼は……ベンチから立ち上がることも出来ないくらい疲れていた。肉体の話ではない、精神の話だ。立ち上がり、マコトとマラーとが話しているところまで行って。カタヴリル語を教えて貰い、マラーと話す。それだけのことをするだけの力が、もう残っていないのだ。真昼は、ただただ疲れてしまっていた。体の全体が、少しずつ少しずつ細胞を溶かしていく憂鬱な酸のような倦怠感で満たされている。何かが崩れていくような感覚を感じる。

 真昼が。

 ぼんやりと。

 見ていると。

 やがて、二人は。

 戻って来た。

 マラーは目をきらきらさせていた。真昼は、純粋に、それを羨ましく思う。そして、不思議にも思う。タンディー・チャッタンの虐殺を見た後で、なぜこんな目をすることが出来るのだろう。あの光景、次々と蝶々を吐き出しながら死んでいった人間のことを、もう忘れてしまったのだろうか? いや、違う。そうではない。マラーは、それを忘れてしまったわけではない。それにも拘わらず、今、こういう目をしているのだ。なぜなら、マラーは……アーガミパータの、現実の中で、生きているから。

「さて、どこか別のところに行きますか。」

 うっすらと靄がかかったような真昼の思考の向こう側で。

 マコトの声がする、いつものように嘲りを含んでいる声。

「砂流原さんは、どこか行きたいところとかありますか?」

「採掘場。」

「はい?」

「採掘場に行きたいです。」

 真昼は、ほとんど脊髄の反射のように答えていた。

 訳が分からないといった顔で困惑しているマコト。

「赤イヴェエール合金がここの主な輸出品なんですよね。」

「ええ、はい、そうですね。」

「ということは、それを掘り出すための採掘場があるはずです。」

「そりゃ、まあ。」

「私は、そこに行きたいです。」

 一体、この人は。

 何を言ってるのか。

 そんな表情をして。

 マコトは。

 こう言う。

「けれどね、砂流原さん。採掘場なんて、見ても面白いものは何もないですよ。ああ、もしかして龍王の支配領域にある鉱山だから、何か特殊な採掘方法が使われているとか思っているんですか? そんなことはないですよ。世界中のそこら中にある他の採掘場と大して違いはありません。所有しているのは龍王でも採掘しているのは人間ですからね、種々様々な採掘機械を使って地道に掘っていくしかないんです。ASKの採掘、アヴィアダヴ・コンダのあれみたいに見ていて面白いものじゃないです。

「それよりも……そうですね、魚の養殖場とかの方がまだ面白いですよ。砂漠の真ん中で養殖が行われているっていう事実だけでもなかなか味わい深いんですけどね、まあ、ここは戦争が絶えないっていうだけあって食料自給率にうるさいんですよ。こう、球体になった水の塊が浮かんでるんです。大きさでいうと、そうですね、半径百メートルぐらいですかね。そんな球体が、ばばーっと並んでいるんです。数えたことはないですけど、五十個か六十個はあるんじゃないかな。フォースフィールドを使って浮かべてるんですよ、それで、その中に、淡水魚と海水魚とが……」

 話し続けるマコト。

 真昼が、口を挟む。

「私は。」

 断固とした口調で。

 このように続ける。

「採掘場に行きたいんです。」

 マコトは、はーっと溜め息をついた。実際のところとして、マコトは、この龍王領に着いてから採掘場には何十回と行っていたからだ。ああいうところには、イエロー・タイムズの読者が舌舐めずりして喜びそうな話がごろごろしているという理由で。マコトは、もう、あの場所には飽き飽きしているくらいだった。とはいえクライアントのご要望なのだから仕方ない。

 マコトは。

 やれやれといった感じ。

 真昼、に、こう答える。

「As your wish。」

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