第二部プルガトリオ #11

 結局のところ、真昼はマラーを背負って井戸の壁をのぼることになったのだった。正直な話、デニーの魔学式によって、どうやらマラーも身体強化をされているみたいだったし。マラー自身も、自分でのぼると(カタヴリル語で)言っていた(のをマコトが通訳して真昼に聞かせていた)のだが。ただ、マラーに、自分でのぼらせてしまうと……まるで、自分が、マラーに対する拒否感から、マラーに触れることを嫌がっているみたいだと、真昼はそう思ってしまったのであって。そんなことはない、自分はマラーに対してそんな気持ちを抱いていないといい聞かせるために、わざわざ、自分からそうしたのだ。ちなみに、先に井戸をのぼり終えていたマコトは。そんな真昼がのぼってくるところを、何を考えているのかよく分からない、あのへらへらとした表情で見下ろしていたのだった。

 そして、現在、三人は。

 太陽の下に立っている。

「それで。」

「なんですか、砂流原さん。」

「今度はどこに行くんですか。」

「そうですね、マイトリー・サラスの近くの駐機場にフライスを停めてあるんで、それを取りに行きましょう。フライスがないと観光しようにもどこにも行けませんから。グリュプスにばっかり頼ってると金がかかって仕方ありませんしね。ああ、そうそう、ついでにマイトリー・サラスも見物していきましょうか。あそこは、一応、ここの一番の観光名所ってことになってるらしいですからね。まあ、とはいっても、あらゆる観光名所と同じく実際に見たら大したことはないんですけど。」

 これはどうでもいいことなのだが、真昼は、ポゼショナイズが外れてから、マコトに「砂流原さん」と呼ばれるたびに、なんだか抑え切れないような不快感が込み上げてくるのだった。

 そもそも砂流原という苗字は、真昼にとっては桎梏のようなものであって。そう呼ばれること自体あまり好きではない。しかもその上、マコトがその名で呼ぶ時には……なんとなく、その裏側に別の意味合いが含まれているように感じるのだ。「ディープネット幹部である砂流原静一郎の娘」という意味合いが。

 ちなみに、真昼が感じているこの感覚は、間違いなく本当のことであって。マコトは、そういう意味で真昼のことを「砂流原さん」と呼んでいたのだし、しかもその上、その呼び方には、全く悪意が籠もっていないのだ。共感能力が決定的に欠如しているというかなんというか、マコトはそういうやつなのである。

 それは。

 それと。

 して。

 三人が歩いているのは、カーラプーラの大通りだ。マイトリー・サラスに向かって続いている通りのうちの一つであって、といっても真っ直ぐに伸びているわけではなく、ぐるっと半円を描くようにして次第に次第に近付いていく形になっている。都市の中心部に向かっていくということで、かなり大きな通り(四車線プラス歩道くらいの広さがある)であるが。それでも、かなりの人でごった返している感じだった。

「ここから、どれくらいの距離があるんですか。」

「あーと、それほどでもないんですけどね。でも、歩いて行くってなると少し遠いんで、どこかでルカゴでも拾えればいいんですけど……」

 そんなことを、言いながら。

 辺りを見回しているマコト。

 実際のところ、ルカゴはそこら中に走っていた。しかも、既に人を乗せているルカゴだけではなく、乗せていないルカゴも走っていたのである。それでも、マコトがこういう風にして辺りを見回していたのは……ここで走っているルカゴというのは、デニーが乗っていたようなあれではなく、車輪がついた籠をウパチャカーナラが引っ張っている方のルカゴだったのだが。そのルカゴは、御者がウパチャカーナラを御して運転するタイプのものだ。そして、マコトは、その御者が、剣呑ではないというか、お人好しそうというか、そういう系のやつを選んでいたということだ。

「ああ、あれがいい、あれにしましょう。」

 やがて、そういう感じの御者を見つけたらしく。マコトは、一台のルカゴに向かって「ガーフー、ガーフー!」と叫びながら近付いて行った。この「ガーフー」という言葉は、アーガミパータにおいてはウパチャカーナラの鳴き声の擬音語となっている言葉であって、ルカゴを止める時にも使われている。

 その「ガーフー」を聞き付けて、マコト達がルカゴに乗ろうとしていると知ったために、たくさんのルカゴが群がってきたが。マコトはそれらのルカゴには視線を向けることさえなく、目にとめたルカゴに向かっていく。

 真昼とマラーとも、置いていかれないようになんとかついていったが。そうして辿り着いた先にいたルカゴの御者は……確かに、いい感じの御者だった。気弱そうで、間違ってもぼったくりなんてしそうにないタイプだ。

 マコトは既に値段の交渉に入っていた。井戸の下では、カリ・ユガ龍王領ではさほど金は問題ではないというような話をしていたが。とはいえ、こういう一般庶民、さほど金持ちではない人々からすれば、金は多いに越したことはないのであって。このような、金銭を巡るあれこれが生じてくるのである。

 さて。

 そんなこんなしていると。

 不意に、大通りの様子が。

 少しばかり変わってきた。

 ついさっきまでは、通りを歩いている人々にはなんらの規則性もなく、ただ単純な混沌のみが支配する空間であったはずなのに。そこに、一つの流れのようなものが現れてきたのだ。具体的には、マイトリー・サラスからより遠い方向から、マイトリー・サラスにより近い方向へと、人々のうちの大半が進み始めたということ。それは、どちらかというと、プラスの行動というよりもマイナスの行動であって……何か不愉快な災害に追い立てられて逃げていく獣の群れのようで。どうやら、「何か」が、こちらに向かってやって来ているらしかった。

 それを見ると、マコトは。

 自分の額に、手を触れて。

 いかにも面倒そうに言う。

「あらららら、不味いですね。」

「不味いって、何がですか。」

「ちょっと待ってて下さいね、砂流原さん。一刻も早くここから離れないと。」

 それから、マコトはまた値段の交渉に戻った。とはいっても、今度は、そんなに腰を据えての交渉というわけではなさそうだった。マコトも……それに、ルカゴの御者も。既に、金額はどうでもいいことになっているらしかった。値段は早々に折り合って、御者は、三人に対して、さっさと乗れと身振りで示す。

 マコトは。

 その指示の通りに。

 さっさと籠の中に乗り込み。

 そして、残りの二人に言う。

「さあ、砂流原さんも、それにそちらのお嬢さんも。早く乗って下さい。」

 真昼は、一体何が起ころうとしているのかということ、もう一度問い掛けようかとも思ったのだが。そんなことをしていると、既にルカゴに乗っているマコトは、「一刻も早く」ここを離れるために、薄情にも真昼のことを置いて行ってしまう可能性もあるので(マコトはそういうやつだ)。仕方なく、言われた通りに、まずはマラーをルカゴの上に押し上げてから、次は自分がその籠の中に乗り込んだ。

 このルカゴは……デニーが乗っていた、ヴァゼルタ反作用で動くルカゴとは、かなり違ったものだった。まず、その籠であるが。小さめの馬車みたいな姿をしていた。二人から三人が座ることが出来る小さめのベンチに、幌で屋根をかぶせたような部分がベースとなっていて。そのベンチの前に、御者が座るための一人掛けの座席がついている。御者の方の座席には屋根がついておらず、そのせいで御者は、日差しを避けるために、お盆を逆様にしたような形の、かなり大きめの帽子をかぶっていた。

 そして、そんな籠を引っ張っているのがウパチャカーナラというわけだ。御者が座っている座席の左右から二本の担ぎ棒が伸びていて、それらの担ぎ棒を腰の辺りに緩めに固定することで、バランスよく籠を引っ張ることが出来るようになっている。ウパチャカーナラ自体は、タンディー・チャッタンで見たような、水晶みたいな物質が頭蓋骨を突き破って伸びているというわけではなく。ごく普通のウパチャカーナラを、人に慣れるように訓練したものであるらしかった。

 それから、車輪だが……客が座るベンチの横の辺りに、巨大なものが二つだけついている。これがまた、凄まじく適当な感じの車輪で、ろくに空気で膨らんでいないタイヤというか、全く効いていないサスペンションというか、とにかく揺れがひどいのだ。そもそもこの道路もきちんと舗装されている感じではないので、車輪と道路との相乗効果によって、新人バーテンダーがシェイカーを振るのを練習しているのかな?と思ってしまいそうなくらいにがたがたと揺れる。

 魔学式で強化されてなければ。

 確実に、嘔吐していただろう。

 まあ。

 それは。

 ともかくとして。

 真昼とマラーとは車上の人となって、ルカゴも順調に走り出した。これでもう置いて行かれることはないわけだ。安心して、色々なことを、マコトに質問することが出来る。ちなみに、座っている順番は、右側からマコト・真昼・マラーの順番であったが。すぐ右に座っているマコトに、真昼は、再度、問い掛ける。

「それで、何が不味いんですか。」

「聞こえませんか、この声。」

「声?」

「ええ、声です。」

 真昼ちゃんは根が素直な子なので、マコトにそう言われると、なんの声が聞こえるのだろうかと耳を澄ませてみた。すると、背後の方向、つまり人々がそちらから逃げてきた方向から、確かに声が聞こえてきた。一人の声ではない。たくさんの人々が声を合わせて歌っているような声。しかも、怒りに任せて、怒鳴りつけるみたいに、歌っているような声。

 とはいえ、その声が叫んでいた言葉はイパータ語であったため。どんな内容を叫んでいるのかということは真昼には分からなかった。そこで、一体何が起こっているのだろうかと、真昼は後ろを振り返ってみる。幌の屋根と座席の背凭れとの間から見えたものは……ゆっくりと歩いて、こちらに迫ってきている、数え切れないほどの人々の群れだった。

「あれは……なんですか。」

「なんですかって、見ての通りデモですよ。」

「デモ?」

「ええ、人間至上主義者の戦争反対デモです。」

 そう言われて、改めて見てみると……それは、まさにデモそのものだった。権力に対して抗議の声を上げるデモンストレーションの行為。先頭にいる人々は、三ダブルキュビトから四ダブルキュビトはありそうな、長い長い横断幕を持っていて、そこにはよく目立つような赤い文字で、そのデモ隊が主張していることが書かれている。その横断幕を持っている人々は、恐らくはデモ隊のリーダー格なのだろうが、大きな拡声器を持って何かを叫んでいる。もちろん、それは、デモ隊が主張するべきことを極限まで単純化したワンフレーズに違いない。そのワンフレーズに、デモ隊の全体が反応して、唱和している。

 不思議なことに……というのは、真昼にとって不思議なことにという意味であるが。その横断幕に書かれている文章の一部は、共通語で書かれていた。「人間至上主義」だとか「アーガミパータに自由を」「アーガミパータに民主を」といったように。ちなみにこれは、アーガミパータの外から来た人間、マコトのようなジャーナリストや、人権団体に所属している人々、あるいは各国の外交官に対して見せるためのものだ。

 デモの隊列のそこここに看板が掲げられていて、そこには絵が描かれている。どれもこれも攻撃的なもので、例えば四つ首がある蛇の、その四つの首をばらばらに切断したものであったり。あるいは、舞龍らしき蛇に巻き付かれて身動きが取れなくなっている人間の姿や、そこら中に胞子を撒き散らして人間を苦しめているレーグートの姿もある。とにかくそこには、人間以外の生き物に対する拒絶の感覚が満ち満ちていた。

 他にも、プロパガンダ・ビルをそこら中にばら撒いていたり、カリ・ユガ龍王領の領旗に火をつけて掲げていたり(危ないね)、そこら中で怒りの声とともに拳が突き出されていたり。まさにデモ、非常にデモデモしい光景が広がっていたのだが。ただし、一点だけ……真昼にとって奇妙と思われる点があった。

 それは、なんとなく、全体的に、物騒だということだ。デモに参加している人々は、皆が皆、白い布で顔の全体を覆っていて、まるで素性が明らかになると困るテロリストのようにさえ見える。中にはヘルメットを被っている人や、防塵マスクをつけている人さえいるくらいだ。そして、そういった人々の多くが……手に、武器を持っていた。武器といっても大した物ではない。棍棒の出来損ないや、玩具じみた弓矢、あるいは火炎瓶らしき物。けれども、それは、平和的な雰囲気からは明らかにかけ離れていた。

 真昼は。

 そこまで確認すると。

 マコトに向き直って。

 こう言う。

「デモの、何が不味いんですか。」

「何がって、危ないじゃないですか。」

「危ない? 何がですか。」

 ポゼショナイズが解けた今、真昼にとって、マコトの言葉の一言一言が癇に障るものとなっていた。それは、言葉自体が意味している純粋な意味合いというよりも、むしろ、その言葉を発するマコトの態度、その一挙手一投足が、たまらなく苛立たしいものなのだ。真昼のことを、何も知らない小娘だと馬鹿にしていそうな、口の端で笑う笑い方。虚無主義者というよりも、虚無そのものが喋っているかのような声の調子。もちろん、その大半が、真昼の被害妄想でしかなかったのだが……それでも、真昼が抱いた「怒り」そのものは現実だった。

 だから。

 真昼は。

 挑むような調子で。

 更に、こう続ける。

「あの人達は、声を上げているだけじゃないですか。権力を持っている何者かが聞こうとしないことを、無理やりにでも聞かせるために。それの、何がいけないっていうんですか。」

「いや、別にいけないってわけじゃないですけどね。でも、危ないものは危ないですから。ほら、古今東西あの世にこの世、ストリート・プロテストを行う大衆っていうのは、常に暴徒化するものでしょう?」

 マコトは、そんな真昼に対して。

 なんだか、困ったように答えた。

「必ずしも全てのデモが暴徒化するわけじゃないと思います。」

「えーとですね……デモンストレーション、デモの語源となる汎用トラヴィール語ですが、この言葉を共通語でなんていうか知ってますか? 「示威運動」です。つまり、人を恐れさせ従わせるための運動のことをデモというんです。そういうことですよ。」

「それはあくまでも語源の話に過ぎないでしょう、実際には、平和的なデモだって、いくらでもあります。」

「はははっ、平和的デモね。平和的デモ、そりゃあありますよ。私もよく記事に書きます、こう書くんです。「いついつ、どこどこでデモが行われた。一部が暴徒化したが、全体としては平和的なデモだった」。あのですね、一部でも暴徒化したら、それはもう暴徒なんです。というか、暴徒化する危険性があるだけで、それはもう危険な存在なんですよ。なぜ殺人「未遂」という行為が犯罪とされているか分かりますか? 殺人が「未遂」で十分に危険だからです。暴徒というのは、人を殺す可能性がある存在です。それならば、暴徒の未遂であるデモが、なぜ嫌悪の対象であってはいけないんですか?」

「あなたの言ってることはめちゃくちゃです。」

「そうですね、めちゃくちゃです。殺人未遂という罪だって人間が恣意的に罪と定めたものですし、それ以前に、この例えは例えとして正確とはいいがたい。殺人未遂にある、人を害そうという明確な動機が、デモ行為には欠けている。そもそもデモ行為には「明確な動機」なんて一つもないんですからね。私も分かってますよ、それくらいは。けれどね、砂流原さん……この傷が、なんで出来たかご存じですか?」

「え?」

 自分の左頬の傷を指差してマコトが言った、突然の言葉に。真昼は少し戸惑ってしまった。今まで、その傷について……触れていいものかさえ分からないで。ただただ、そこにないもののようにして振舞ってきたのだが。マコトは、へらへらと笑ったままで、言葉を続ける。

「あれは、私がこういう仕事を初めてすぐのことでしたから……確か、十八歳かそこらの時ですね。まだ独立前の、それどころか反革命さえ始まっていなかった頃のエスカリアに、独立運動の取材に行ったんです。「独立運動」としては、あの頃が最高潮だったんじゃないですかね。エスカリアのそこら中で、スペキエースによる「平和的なデモ行進」が行われていて、その一つを取材に行きました。ええ、ええ、そうです。その通りです。全くもって「平和的なデモ行進」でしたよ。「一部が暴徒化」するまではね。

「最初は、デモ隊のうちの何人かが、ちょっと騒ぎ始めたなって程度でした。それに対して、サヴィエトの治安維持部隊が反応して。そこから先はあっという間でしたね。またたくまに大暴動ですよ。デモ隊が火炎瓶を投げる、治安維持部隊が催涙弾を投げる。それでも、私は、取材を続けました。

「そうこうしているうちに、デモ隊に参加していたスペキエースの一人が、私のことを指差したんです。それから、ルーシ語で何かを怒鳴り始めました。後から裁判記録を読んで知ったことなんですけどね、そのスペキエースは、私のことを治安維持部隊のスパイだと思ったんだそうです。あっという間に、その怒鳴り声が周りのスペキエースにも感染し始めました。そして、そのうちの一人が、そこら辺に落ちていた石を投げ始めたんです。石、煉瓦、それに枯枝。スペキエースの集団が、落ちているものを片っ端から投げてきました。そして、そのうちの一つ、これくらいの大きさのガラス片が、見事に私の……ここに当たりましてね。それで、それ以来、私は素敵な笑顔を絶やしたことがないということです。

「いえ、私のことはどうでもいいんですよ。というか、私にそのガラス片を投げたスペキエースも、私のことを治安維持部隊のスパイだと叫んだスペキエースも、この際どうでもいいんです。この話の一番の問題がなんだか分かりますか、砂流原さん。一番の問題はですね、その後のエスカリアがどうなったかということです。

「あの当時、というのは私が取材していた当時ということですが、エスカリアは、ある意味でヒーローみたいな扱いを受けていました。抑圧的な権力者、人間至上主義過激派国家であるサヴィエト・ルイドミに対して果敢に立ち向かう、自由と民主との戦士、エスカリア。それが、世界中に――といってもサヴィエトと愛国とを除きますが――流布されていた印象でした。そして、私も、独立運動について、まさにそういう記事を書きました。

「それで、実際に、その「自由」と「民主」とのための闘争に勝利したエスカリアが、何をしましたか? 独立したエスカリアが、まず最初にしたことはなんですか? スペキエースではない人間の追放です。追放だけならまだ良かった。それは次第に奴隷化になって、そして、最後には、虐殺になった。いいですか、砂流原さん。これがこの話の……いいえ、違いますね……人間の一番の問題なんです。人間は基本的に愚かで、「自由」と「民主」とを手にすると、いつだって多数者の独裁が始まる。そういうことなんですよ。だから、えーとですね、私が言いたいのは……なんの話をしてたんでしたっけ? ああ、そうそう。私がデモから急いで逃げるのにも、少しくらいの正当性があるっていうことです。」

 その話を聞いて、真昼は。

 何も言葉を返せなかった。

 暫くの間、無言で、マコトの顔を見つめることしか出来なかった。この話について、真昼が、何を言えるというのか? いや、まあ、言おうと思えばいくらでも言えることはあったのだが。けれども、そのことに気付くためには、真昼はあまりにも世間知らず過ぎた。真昼にとって、マコトの、その、頬の傷は。あまりにも、あまりにも、大き過ぎて。なんとかして……このように言葉を吐き出すだけで、精いっぱいだった。

「その傷については、私に、何かを言う権利はありません。」

「はあ、それはどうも。」

「でも、あなたが今言ったことは、少し極端過ぎると思います。」

「極端?」

「人間が作った全ての国家が、つまり、あなたがいう「自由」と「民主」との国家が、エスカリアみたいな国じゃないじゃないですか。あなたの国であるエスペラント・ウニートとか、それに、それに……他にも色んな国が、穏健派人間至上主義国家として、平和な国を作っています。

「つまり、あたしが言いたいのは、全てを一緒くたにして、類型化・単純化するんじゃなくて、一つ一つの行為について考えていくべきだっていうことです。例えば、このデモについてならこのデモについて考えていくべきです。

「あたしは、このカリ・ユガ龍王領という場所についてよく知りません。でも、たった今、このデモを見た限りでは。この人達は弱い人達、虐げられた人達だと思います。このカリ・ユガ龍王領という場所では、人々は、みんな、ポゼショナイズで、内心の自由さえも許されていません。それに、あそこにいるような人々ではなく、大多数を占めているはずのごく普通の人々ではなく、カリ・ユガという龍王が全ての権力を握っている。それに対して、こういうデモを起こすことは、正しいことだと思います。」

 真昼ちゃんにしては、まあまあ。

 まともなことを、言いましたね。

 特に、様々な物事を様式化(modernize)して捉えるのではなくて、具体的なケースに応じて、そのケースごとに思想を組み立てていくべきだという点に関しては。アーガミパータに来るまでの真昼には全くなかった考え方であろう。アーガミパータに来るまでの真昼こそ、まさに、物事を善と悪との二つの側面、極限まで様式化した考え方によって捉えていたのだから。

 とはいえ、マコトにとっては……真昼がまともなことを言おうが言うまいが、なんの関係もないことだ。互いの意見の相違点を比較し、その中から「正しさ」を抽出していくことによって、思考を止揚していこうとする、そういう正当な意味での議論を行おうというつもりなど、マコトにはさらさらないのだから。マコトにとっては、正しさなどというものはクソの役にも立たないものなのである。マコトにとって真に重要なことは快楽、しかも己の快楽であり、この場合の己の快楽とは、真昼に対して「間違っているのは真昼である」と思わせることである。

 だから。

 マコトは。

 こう言う。

「ふむ、弱い人達。」

 わざとらしく、唇に。

 人差し指を、当てて。

 まるで、何かを。

 考えているような顔。

「あの人達が弱い人達ですか。」

 それから、唇に当てていた人差し指を、戯れに銃口でも向けるみたいにして真昼の方に向けて。軽くウィンクをしながら「少なくとも、私はそうは思いませんね」と言った。

「どういうことですか。」

「分かりませんか?」

「分かりません。」

「であれば。」

 今度は。

 その、人差し指を。

 後ろの方に向けて。

「もう一度、あの人達に視線を向けてみることをお勧めします。」

 真昼は、ぎりぎりと奥の歯を噛み締めて。もう少しで、マコトの顔、その調子に乗った兎のように腹立たしい顔を殴りつけるところだったが。なんとかそれを我慢して、マコトの言う通りに、もう一度、デモ隊の方に視線を向けた。

「どうですか、分かりましたか?」

「何がですか、はっきり言って下さい。」

「うーん、顔を隠しているから分かりにくいかもしれませんけどね。デモ隊を構成している人々の、一人一人のことをよく見てみて下さい。その大多数に共通する一つの特徴に気が付くと思います。それは、年齢です。その中に老いた人はいますか? 一人もいないでしょう。いや、それは、十人かそこらはいるかもしれませんがね。でも、九十パーセント近くは若者のはずです。十代の後半から二十代の前半辺り、ちょうど高等教育を受けているくらいの年齢の若者、違いますか?

「しかもそういった若者は、皆が皆、健康そうな顔付きをしているはずです。生まれてから今まで、まあ、食うに困った経験くらいはあるかもしれませんがね。とはいえ、今のところは生活出来ないほどではない。それどころかそれなりの教育を受けることさえ出来ている。「他人は馬鹿だ」と理解出来はするが、「自分は馬鹿だ」と理解出来ないくらいの、ほどほどの教育をね。

「分かりますか、砂流原さん。それがデモ隊というものなんですよ。この世界が始まってから、今の今まで、というか未来永劫変わることがない事実でしょう。ごくごく少数の例外を除けば、デモというものは、ブルジョワジーに属する若者が行う行為なんです。本当に賢い人間と……それに、砂流原さんがおっしゃるような、本当に貧しい人間が参加することはありません。

「なぜか分かりますか? なぜ、デモに、弱者が参加しないのか分かりますか? それはですね、砂流原さん。弱者というのは体制に寄生することによって辛うじて生きながらえているからですよ。彼ら、あるいは彼女らは、本能的に理解しているんです。もしも、デモ隊が主張する通りになったら。体制が崩壊して、自由と民主と、人間至上主義社会が訪れたら。自分達は、まさにデモを行っているブルジョワジーによって、自由に搾取され、民主的に迫害されるだろうということを。

「デモの参加者がなぜデモに参加するか分かりますか? ああ、類型化・単純化しないで話すべきでしたね。それなら、あのデモ隊を例にとって、具体的に話を進めましょう。あのデモ隊が、なぜデモをしているか分かりますか? ちなみに、私が今まで取材してきた結果、カリ・ユガ龍王領においてデモを行う人間の大半が、ヨガシュ族の中産階級に属していることが分かっています。ゼニグ族もある程度は参加していますが、これはどちらかというとヨガシュ族への同情から参加している可能性が高いので、今は例外とさせて頂きます。さて、どうですか、分かりますか? あのですね、砂流原さん。彼らは、あるいは、彼女らは、味を占めたんです。だからデモをしている。

「ちょっと分かりにくいかもしれませんから、最初から説明しましょう。大前提として、ヨガシュ族はアーガミパータにおいては被差別階級に該当します。ゼニグ族よりも種族的に劣っているとされているわけですね。まあ、本当のところはそんなことはないでしょう。私は生物学についてはよく知りませんが、どちらも同じ人類ですから。低能であるということに変わりはないはずです。それでは、なぜ、そうであるにも拘わらずヨガシュ族は差別されているのか? それは、ゼニグ族の神々がヨガシュ族の神々に対して侵略戦争を仕掛けて、結果としてゼニグ族の神々が勝利したからです。全戦全勝というわけではないですけどね。とにかく、そのせいで、ヨガシュ族はゼニグ族の被支配者となった。

「さて、ところで、この地域の支配者は誰か? そう、カリ・ユガです。カリ・ユガはゼニグ族の神か? それともヨガシュ族の神か? どちらでもない。そもそも神ではなく龍王なんですから。ということで、カリ・ユガにとってはヨガシュ族もゼニグ族も関係ないんです。ただ、とはいっても、今までずっとずっと区別されてきた二つの種族を、ある日いきなり平等に扱うとなると、かなりの軋轢が予想されますからね。ここでは、カリ・ユガ龍王領では……こう、ほどほどに差別することにしているわけです。上流階級の大半がゼニグ族に、下流階級の大半がヨガシュ族になるように調整して。それに、居住空間もある程度は離れ離れにして。いわゆる「差別すれども平等」っていうところです。

「結果として、ヨガシュ族は、今までにないほどの……「権利」を手に入れました。ここで「権利」というのは、外の世界で使われている「権利」とは全く違うものですが、それはいいでしょう。とにかく、ヨガシュ族は、遥かに平等な地位を手に入れたわけです。死ぬ気で頑張れば軍隊の幹部になることも出来るんですから。えーと、砂流原さんは、タンディー・チャッタンに寄ってこられたんですよね? あそこの、人間側の責任者にお会いになりましたか? そうです、ナーガヴィジェタ大佐です。あの人は、ヨガシュ族だったでしょう? まあまあ、それなりの苦労をしてきた方なんですが、それに見合った地位を手に入れたというわけです。

「このままいけば、いつかは、ゼニグ族とヨガシュ族とは、完全に平等とはいかないまでも、二つの種族が共存していく上で合理的に期待出来るレベルでの平等に到達することが出来るでしょう。だいぶん時間が掛かると思いますが、それでもいつかは到達出来るはずです。しかし……あそこにいるデモ隊は、その時まで我慢することが出来なかった。

「先ほども言いましたが、デモ隊の参加者は、それなりの教育を受けている若者達です。そういった若者達は、それなりに恵まれた環境的要因があったおかげで、「努力をする」ことが出来た人々です。砂流原さん、実はですね、ここが一番勘違いしてはいけないところなんです。「努力をする」ということは、本人の努力の結果として「努力をする」ことが出来たわけではない。「努力をする」ことが出来る環境が整っていたおかげで「努力をする」ことが出来たというだけなんです。けれども、あの若者達は、その一番重要なところを理解出来ていない。

「つまり、あの人達はですね、「努力をする」ことさえ出来ない人々のことなんて、欠片も考えていないということなんですよ。本当の本当に最底辺にいる人々のことなんてね。そういう人々がどういう生活をしているか分かりますか? 政府が提供する最低限の生活保障に縋って、なんとか生きているんです。

「もちろん、こういう都市圏に住むことは出来ない。押し付けられる義務的労働だって楽じゃありませんよ。地方の、赤イヴェール合金の鉱山で、ひたすら採掘を続ける毎日です。けれども、少なくとも、一日の労働時間は厳密に決定されています。昼には食事休憩をとることも出来るし、定期的な休日だってある。そして、人間として生活できる最低限の金銭、まともな食事が出来て、まともな医療を受けられて、それなりの娯楽を楽しめるだけの金額を受け取ることが出来る。はっきり言いますがね、エスペラント・ウニート、砂流原さんがおっしゃるところでは平和な穏健派人間至上主義国でしたっけ? あそこで、いわゆる「人間の屑」と呼ばれて、奴隷のような労働をさせられている人々よりも、遥かに人間的な生活を送っていますよ。

「デモを行っている人達の主張の一つを、多少様式化して抽出してみましょう。あはは、多少ですよ、多少。それくらいは許して下さい。それは、こういうことです。「全ての人間が、その生まれた種族ではなく、個々人の努力の結果によって報われるべきだ」。しかし、社会の最底辺にいる人々がどうやって努力出来るっていうんですか? いいでしょう、仮に、仮にですよ、全ての人々に同じだけの教育を与えられるとします。けれども、頭脳の働きは、当然ながらその頭脳の持ち主が摂取する栄養の過多に比例します。それでは、全ての人間に同じだけの栄養を与えるとでもいうんですか? それに、生まれつきの形相子の違いはどうなるっていうんですか? 集中しやすい形相子と集中しにくい形相子の違いはどうやって修正するっていうんですか?

「ああ、砂流原さん、砂流原さん、そんな目で見ないで下さいよ。あなたはこう言いたいんでしょう? それはあまりに物事を極端化し過ぎだって。今、ゼニグ族とヨガシュ族との間で行われている差別と比べれば、そういう事柄から発生する差別なんて、大したことではないって。けれどね、その反論に対しては、私はもうお答えしているはずです。エスペラント・ウニート、あなたが言うところの成功している人間至上主義国家における、金持ちと貧乏人との差別の方が、現在ここで行われている差別よりも遥かに非人道的なものだって、ね。

「あのですね、砂流原さん。先ほども言いましたが、私は、人間が生物学的にどのような生き物であるのかということはほとんど知りません。まあ、取材に必要な最低限の知識はありますが、その程度です。しかし、たった一つだけ言えることがあります。それはですね、なぜだかは知りませんが、人間が作る集団には、初めから、合理的正当性が全く感じられない差別が組み込まれているということです。

「例えば……そうですね、自由で民主的な人間至上主義国の皆さんは、必ずといっていいほど、独裁的な旧神国圏に所属する国々の政権を差別します。けれどもですよ、果たして、それに合理的な正当性があると思いますか? いや、これは、人間至上主義イデオロギーが精神の根底に刻まれている砂流原さんのような方には分かりにくいかもしれませんね。もっと具体的で分かりやすい例にしましょう。エスペラント・ウニートにおいて、ヒューマン派のエリートは、ポンティフェックス・ユニットからの移民に対して嫌悪感を示す「人間の屑」を差別します。けれども、この差別のどこに合理的正当性があるというんですか?

「ヒューマン派のエリートは、当然ながら移民によって大きな利益を獲得します。移民によって、かなり安価な労働力を単純労働分野に流し込むことが出来て、これは彼ら、あるいは彼女らが消費する製品が製造される上での大きなコストカットになりますからね。あるいは、単純に、自分が寛大な人間であるという思いに浸ることができます。内戦地帯からの可哀そうな移民を受け入れるだけの度量がある素晴らしい人間だとね。

「けれども「人間の屑」にとっては、移民の流入は破滅的なデメリットです。なぜなら、彼ら、あるいは彼女らの収入源である単純労働分野に、突然、強力な競合相手が現れるわけですからね。ヒューマン派のエリートは……こう言うでしょう。エスペラント・ウニートは自由市場を採用しているのであって、誰にでも平等なチャンスがある。「人間の屑」と移民とが競争して、移民が勝つのならば、それは「人間の屑」の努力が足りないからだ。けれどね、それは上から見ている人間が言うことですよ。いいですか? ポンティフェックス・ユニットから来た人達はですね、内戦地帯から来た人達なんです。そりゃあ、アーガミパータよりは幾分かましですけどね、それでも、あそこはあそこで相当のところです。そんなところから来れば、エスペラント・ウニートの最低賃金で働くことなんて天堂で楽隊を率いるみたいなもんです。それどころか、最低賃金以下の違法労働をすることだって厭わないでしょう。

「つまり、「人間の屑」からすれば、ポンティフェックス・ユニットからの移民というのは侵略者みたいなもんなんです。自分達の生活を内戦国レベルまで落としてしまう侵略者。一方で、ヒューマン派のエリートからすれば、なんのダメージを負うこともなく安価な労働力を手に入れるための都合のいい道具です。これだけの認識の違いがあるというのにですよ、どうしてヒューマン派のエリートが「人間の屑」を差別することに合理的正当性があるっていうんですか?

「ヒューマン派のエリートがすべきことは、本来ならば、差別などではありません。最低賃金の引き上げと、違法な労働条件で働かせる経営者達の徹底的な取り締まりです。いや、まあそれだけでなんとかなるとは言いませんけどね。とはいえ、まずはそこから始めなければいけないはずです。けれども、それはしたくない。なぜなら、それをすれば、インフレーションが起こって物価が上がってしまうから。だから、「人間の屑」の努力が足りないのが諸悪の根源として、全ての議論を封殺してしまう。

「事程左様に、人間というものは差別的な生き物だということです。そして、その差別の結果として、ある集団に属する人間達が別の集団に属する人間達に奴隷的な扱いをすることが正当化される。旧神国圏で――このカリ・ユガ龍王領でもそうですが――そういった差別が、非人間的なレベルまで高まることがないのは、神的な権力機構によってしっかりと差別の枠組みが定められているから、そして、ポゼショナイズによって差別に対する欲求が一定のラインで抑えられているからです。つまり、ある程度の平等性を独裁者によって押し付けられているから。それなのに、あのデモ隊の主張する通り、自由で民主的な人間至上主義の制度を採り入れたらどうなると思いますか?

「まあ、ゼニグ族とヨガシュ族との差別はなくなるかもしれませんね。私の個人的な意見では、カリ・ユガ龍王領の人工的な比率だとか、今まで溜まりに溜まったヨガシュ族のゼニグ族への怨恨だとか、そういうことを考えに入れると、ヨガシュ族のゼニグ族に対する大々的な迫害が行われる可能性がかなり高いと思われますが、それはまあいいでしょう。ここで考えるべきは、そういう一時的な差別ではなく、もっと構造的な差別についてですから。

「砂流原さん、一つお聞きしたいのですがね。あの若者達は、自分達が「努力する」ことによって得た金銭を、最底辺にいる人々のために使おうとすると思いますか? 今でさえ、彼らは、あるいは彼女らは、自分達が稼いだ金銭を強制経済によって「理不尽に奪い去っていく」政府に対しての怒りを表明しているというのに。念のために言っておきますがね、そうやって「理不尽に奪い去っていく」のは、最底辺にいる人々のために経済をマクロ的に調整しているからなんですよ。

「断言してもいいですが、あの若者達は、最底辺にいる人々への構造的な支援体制を構築しようとはしないでしょう。それは、もちろん、民間支援団体だとか、そういった組織は作るかもしれないですよ。十や二十、貧困層への寄付を集めるノン・プロフィットができるでしょう。でもね、それは現在行われている領域レベルでの支援に比べれば、信じられないくらいお粗末なものであるはずです。なぜなら、そういった支援団体は、神と同じほどの力を持つ独裁者に比べれば、あまりにも無力だから。

「あるいは、そういったノン・プロフェットが支援する対象は、そのほとんどが「今まで差別されてきたかわいそうなヨガシュ族」に集中するでしょう。そもそも、ヨガシュ族への根強い差別が行われてきたのだから、ヨガシュ族に対して圧倒的に不利となりうる暗黙の蔑視がこの社会には埋め込まれている。だから、それを是正するためにも、あらゆる事柄に対してヨガシュ族が優先されるべきである。そういうロジックでね。

「けれどもですよ、よく考えてみて下さい。今、最底辺でやっとのことで生活しているゼニグ族と、あそこで好き勝手騒いでいるヨガシュ族と、どちらが「圧倒的に不利」な状況にいると思いますか? それは、もちろん、ヨガシュ族に対する差別は残るでしょう。いつまでもいつまでも、私の個人的な意見としては、ゼニグ族とヨガシュ族とという区別が残る限りは残り続けると思います。けれども、その差別と、貧困の問題と、どちらがより「是正」すべき差別ですか? あるいは、絶対に是正することの出来ない、人間自体に生まれ付き備わっている「優良さ」「劣等さ」の差別と、どちらがより一層の問題となると思いますか?

「結局のところはですね、あの若者達の中での、最底辺の人々への認識は、次のようになるでしょう。努力が足りなかったために、自分達のようになれなかった敗者。どうしようもない怠け者であるところの「人間の屑」。そう、エスペラント・ウニートにおけるヒューマン派のエリートが、自国の最底辺の人々に対して持っている認識と同じものになるということです。そして、これもまた、エスペラント・ウニートにおけるヒューマン派のエリートと同じように、そんな人々のために使う資源があるのならば、もっと別のことに資源を使うべきだと主張し始めるはずです。

「環境問題への対策だとか、高等教育の無償化だとか、あるいは世界に数人しか症例のない病気の治療の研究だとか。いうまでもなく、そういったことだって重要です。けれどね、エスペラント・ウニートでは、まともな生活が出来なかった「人間の屑」が何人自殺していると思いますか? たった今、目の前で、数え切れないほどの人間が死んでいるというのに、それを無視してまでそんなことをしている場合なんですか? そう、している場合なんです。ヒューマン派のエリートにとってみればね。なぜなら、「人間の屑」は、差別に値する本物の屑だから。

「だから、いつだって、本当の弱者は反権力のデモには参加しないんですよ。権力は、少なくとも、自分達の生存くらいは保護してくれると理解しているから。あそこにいる若者達のような人間達からね。あーっと、そりゃあ、もちろん例外はありますよ。けれども、そういう例外は、そのほとんどが独裁者がよほどの低能である場合です。そして、大体の場合、そういった独裁者は、人間によって、自由かつ民主的に選ばれた独裁者ですよ。あるいは、独裁者が低能ではないとすれば……はははっ、「磁器で出来た白い蛆虫」とかね。」

 マコトは。

 そこまでを、話すと。

 一度、言葉を止めて。

「まあ、私の意見としてはそんな感じです。」

 と。

 そんな風に。

 話を終えた。

 念のために、一点だけ注意しておくと。たった今、マコトが喋った全てのことは、完全に口から出まかせである。マコトは、いかにもそれがマコトの意見であるかのように喋ったが。けれども、その中には、一つとしてマコトが心の底から信じている言葉はなかった。ただ単に、真昼が話した事柄に対する反論として、機械的に論理を構成しただけであって。マコトとしては、そもそも、何一つとして心の底から信じているものはないのだ。マコトという人間はそういう人間なのである。

 しかし、そんなことを知る由もない真昼は、自分の意見に対して提示されたマコトの回答に対して……とても深刻に受け止めてしまった。当然ながら、マコトの態度、あらゆるものに対して嘲笑を浴びせる、虚無の中を泳ぐ魚のような態度には、奥の歯を噛み潰してしまいそうなほどの怒りを覚えたものだったが。それでも……マコトの、その意見に対して、どう反論していいものなのかと考える段になると。真昼には何も思い付かなかったのだ。

 というか、マコトの言葉を聞くと。真昼は、自分が、何をどう考えているのかということさえも曖昧になってしまうのだ。それはいうまでもなく、マコトの話し方、論点をすり替えることによって自分の有利なフィールドに相手を誘導するという話し方のせいで、論点自体がめちゃくちゃになっているからであったのだが。人間の中には「正しさ」などというものはどうでもいいと考える者もいるのだということさえ知らない真昼は、そのことに思い当たることも出来なくて。

 一度口を開けて、何かを、言おうとする。

 けれども、何も言うことが出来ないまま。

 いかにも腹立たし気に。

 悔し気に、口を閉じる。

 そんな仕草を何度か繰り返してから。

 ようやく真昼は、こう言う。

「あなたが、書いた、記事には。デモについて、肯定的な意見が書かれていました。デモは、搾取者に対する民衆の叫びだって。自由と誇りとを取り戻すための戦いだって。それから、こうも書いてありました。デモに参加していない人々も、デモに肯定的な意見を持っているって。そうです、あなたは書いていたはずです。デモをしていない人々も、デモに賛成しているって。それなら、そこにある程度の意見の一致があるのなら、その一致から始めていくことはできないんですか? つまり、その一致を最初にして話し合うことで、民主的な何かを作っていくことは出来ないんですか?」

 随分と難しいことを言うんだね、真昼ちゃん。

 んまー、元々そういう話するの好きだもんね。

 しかし。

 マコトは。

 真昼の、その意見。

 口の先で、嘲笑う。

「はははっ、砂流原さん! まず前提が間違ってますよ。確かにね、書きました。私は書きましたよ、デモに参加していない人々も、デモに対して好意的な意見を持っているって。でも、まあ、驚きましたね。まさかそれを本気で信じる人がいるなんて。

「ああ、勘違いしないで下さいよ。私は、一言も嘘は書いていません。ただ、ちょっとしたトリックを使っただけなんです。いいですか、これは大抵のジャーナリストが使う手法なんですがね、デモに対する一般人の意見を取材する際に、そのデモの周囲にいる人々に対してだけインタビューをするんです。

「するとですよ、当たり前のことですが、デモの周囲にいる人々というものは、そのデモを応援しに来ている人々がほとんどなんですね。だから、何人にインタビューしようと、デモに好意的な意見を聞くことが出来るというわけです。それで、私達ジャーナリストは、ほとんどの一般人がデモに対して好意的な意見を持っていたと、堂々と書くことが出来るわけです。

「まあ、反対者もいないこともないのですがね。そういった人々はそういった人々でまた別に集まって、デモに反対するデモみたいなことをしているので、それについては別途「当該デモに反対するデモも行われていたが、当該デモに参加している人数と比べると微々たるものだった」と書けばいいわけです。

「あのですね、砂流原さん。よく考えてください。デモというものはどこで行われますか? 大都市に決まってるでしょう。デモ隊が主張を聞かせるべき権力者は大都市にいるんですから。となれば、そこに住んでいる人々は、少なくとも大都市に住めるような人々です。一方で、私達が議題にしている、いわゆる「本当の弱者」というものは、地方に・郊外に、住んでいます。わざとやっているにせよ、無意識のうちの怠惰にせよ、デモを取材する際に、ジャーナリストが、わざわざデモとは全く関係のない一般人に対してインタビューするために、地方に・郊外に、足を延ばすと思いますか? しかも、自分がポジティブな記事を書こうと思っているデモについての反対意見を聞くために? はははっ、ご冗談を! そんなこと、するわけがないじゃないですか。

「つまるところ、記事には反映されないんですよ。いわゆる「本当の弱者」の意見は。というか、ただ黙って日々を生きている多数者の声は。ジャーナリストが取り上げるのはね、砂流原さん、声が大きい少数者の声だけなんです。そして、都会の真ん中で馬鹿みたいに叫んでるやつは、大抵の場合は本当に馬鹿なんですよ。」

 マコトは。

 そう言うと。

 いかにも愉快そうに。

 けらけらと、笑った。

 真昼の心象風景として、それは、マコトと出会う前から既に瓦礫の山であった。例えるならばタンディー・チャッタンみたいなものだ。真昼が信じていたものは、パンダーラの死を象徴的な契機として、その全てが完膚なきまでに打ち砕かれていて。

 しかし、それでもまだ、その世界は底が抜けていたわけではなかった。ちゃんとした大地の上に、崩れ果てた世界の残骸が横たわっているというだけで。真昼は……自分には、「正しさ」というものがなんなのか、分からなくなってしまったと思っていた。けれども、それは正確には間違いだった。真昼の心の底には、未だに、厳然として、「正しさ」というものが存在していたのだ。

 それは、例えばニコライ・サフチェンコであったり、ツ・シニ=ベインガであったり。つまるところ、真昼が憧れていた全ての人間達、正義のために戦う義賊の生き様のことだ。どんなに、どんなに、真昼が、自分自身について疑おうとも。そういった正義のヒーローのことは疑うことが出来なかった。なぜなら、それらのヒーロー達は、真昼の世界の根底を支える大地だったからだ。

 しかし。

 真昼は。

 そういった義賊達の活躍について。

 どうやって、知ったのだったか?

 そう、それは、そのほとんどは……MJLの記事で読んだことだった。虐げられた弱き人々の声を届ける、反骨の記者。権力者に対して絶望的な戦いを挑む、正義のジャーナリスト。その、MJLが。今、真昼の目の前で、嘲笑っている。全てを馬鹿にしたような皮肉気な笑い顔を浮かべて、あれは全て嘘だったと、あの記事に書いたことは、あらゆることが作り事だと、笑っている。

 真昼は。

 その笑い声を聞いていると。

 自分が立っている、この大地が。

 がらがらと崩れていくみたいに。

 そんな風に、感じた。

「なんで。」

「はい?」

「なんで、そんなことをするんですか」

「そんなこと?」

「そんな……そんな記事を書くんですか。」

「そりゃあ、読者が求めているからですよ。」

 その答えを、聞いて。

 真昼は、強く思った。

 絶対に認めてはいけない。

 この人間が、言うことを。

 マコトが、へらへらと、笑いながら。

 この世界を見下すように話すことを。

「例え、あなたがそう思っていても。あなたが、今話したことを信じていても。あたしはそれを信じません。あのデモをしている人々が正しいことをしていると信じます。なぜなら、なぜなら……あなたは、さっき、自分で認めたじゃないですか。この場所には差別があるって。ゼニグ族という種族とヨガシュ族という種族との間に。しかも、それは、この領域を支配する権力が制度的に定めた差別だっていうことも認めましたよね。権力者が押し付ける差別に対して声を上げることが、正しくないことだなんて、あたしは、そんなこと、絶対に認めません。

「いくらあなたが否定したがっても、あのデモは正しいものです。だって、そうじゃないですか。あなたは、確か、言いましたよね……そう、こう言ったはずです。この世界には、本質的に秩序を破壊する行動は一つしかないって。それは、なんの目的もなく、ただただ自身の不満を誰かに押し付けるために暴れ回る人々の行動だって。あのデモは、そういう行動、あなたが言うところの無意味な革命とは全く違います。ちゃんとした理由があって、それを是正するために行われているデモです。そういう意味で、あのデモは、正当なデモだと思います。」

 真昼は……アーガミパータで、よほど多くのことを学んだようだ。こんなにしっかりと相手の意見を聞いて、そして、正当だと認められることは正当だと認めて。その上で、自分の意見を主張する。自分の意見の押し付けに過ぎないマコトの論の立て方に比べて、遥かに冷静で、遥かに建設的で、何か気に食わないことがあるたびにデニーに対してぎゃーすかぎゃーすかと噛み付いていた真昼ちゃんと同一人物だとは思えないくらいだ。

 しかし。

 冷静で建設的な議論が。

 勝利するとは限らない。

「砂流原さん、一つお聞きしますけれどね。」

「なんですか。」

「つい先ほど、私が言ったことを覚えていますか。」

「……なんの話ですか。」

「このデモが、なんの目的で行われているデモか。」

 マコトは、くるっと目を回転させると。

 もう随分と遠ざかってしまったデモ隊のこと。

 両手の人差し指で指差しながら、そう言った。

「なんの目的で……」

「あのデモはですね、戦争反対のデモなんです。」

 マコトは、そう言うと。

 かぶっていたヘルメットをまた取って。

 髪の毛を、がりがりと、無造作に掻く。

「というか、元々は戦争反対のデモでした。念のために申し添えておきますが、その反対の対象となっている戦争というのは、つい先日終わったばかりのあの紛争のことです。このカリ・ユガ龍王領と暫定政府との間に起こった小競り合いのことですね。

「砂流原さんはご存じかどうか分かりませんけど、カリ・ユガ龍王領は国民皆兵制度をとっています。ゼニグ族であろうがヨガシュ族であろうが、それどころかグリュプスであろうがユニコーンであろうがナーガであろうが、誰でも徴兵されるんです。そして、主に暫定政府軍との戦いに兵士として投入される。

「これは、人間至上主義者からすると、絶対に納得出来ないことです。なぜなら、人間至上主義者の理解としては、こういうことになるからです。旧神国的な独裁者であるカリ・ユガの強制によって、同じ人間の同胞であるところの、人間至上主義的な暫定政府との戦いに投げ込まれる。

「つまり、無理やり人間同士で殺し合いをすることを強いられるということです。そんなことが許されるはずがない。そういうわけで、デモが開始された。要するにですね、あれは、戦争反対のデモ、徴兵拒否のデモだったっていうことです。

「けれどね、その戦争はもう終わった戦争なんです。まあ、まだ一部地域で戦闘は続いていますけど、取り敢えずのところはカリ・ユガ龍王領の勝利で終わりました。それならば、もうデモを行うことになった原因はなくなったはずじゃないですか。それなのに、なぜあの人達はデモをしているっていうんですか?

「表向きの理由は、こういうことになっています。そもそも、人間がその領民の大半を占めるカリ・ユガ龍王領は、人間至上主義集団であるところの暫定政府とは、戦争を行うのではなく外交を通じて話し合うべきなのだ。それにも拘わらず、カリ・ユガ龍王領が国際社会の意見を聞き入れないで、頑なに旧神国的な支配体制を敷き続けているから、暫定政府軍としても攻撃を仕掛けざるを得ない状況に陥っている。そういうわけで、これから行われる可能性がある戦争を事前に防ぐためには、カリ・ユガ龍王領も人間至上主義体制に次第に移行しなくてはいけない。

「いやー、あはは。どうコメントしていいのやら。いいですか、砂流原さん。あの人達だって、一応は、暫定政府という集団がどういう集団なのかっていうことを知らないわけではないんです。だから、もしもカリ・ユガ龍王領が本当に人間至上主義社会になったら。暫定政府軍から、自分達の領土を守ってくれている、カリ・ユガがいなくなったら。どうなるかっていうことを理解していないわけではないんです。

「カリ・ユガがこの領域からいなくなったら。暫定政府軍は、即座に軍事力によってこの領域を支配するでしょう。そして、もしも、ここに住む人々がよほどの幸運の持ち主ならば、「自治領」としての扱いを受けることが出来るかもしれない。ちなみにアーガミパータにおいて「自治領」という言葉がどういう意味を表すかということはご存じですよね? この領域内にある赤イヴェール合金採掘可能地域には、瞬く間に、国際社会からの投資によって鉱山が整備されるでしょう。ヴァンス・マテリアルなんかは一番乗りするでしょうね。そして、その鉱山では、この領域に元々住んでいた領民が、信じられないような端金で雇われることになる。

「暫定政府はカリ・ユガとは違いますからね。「国際社会の意見」ってやつを無視することは決してありませんよ。唯々諾々と「国際社会の意見」に従って、この領域だけに適用される自治領特別法を整備するでしょう。同胞である人間によって「民主的」に定められた法律には、そういった鉱山の労働条件については、それらの鉱山の持ち主が「自由」に決定出来ることとする旨が盛り込まれるに違いありません。そして、ここの領民は、生きていくのにぎりぎりの金額で働かされるか、それとも働くことも出来ずに死んでいくか、そのどちらかを選択する「自由」を獲得することが出来るでしょう。しかも、それはまだましな方の予想に過ぎない。

「十中八九、この領域は、どこかの「集団としての企業体」に売り飛ばされることになるでしょうね。ああ、そうそう、砂流原さんはここにいらっしゃる前にアヴィアダヴ・コンダに寄って来たんですよね。あそこみたいに、ASKに売り飛ばされることになるっていうことですよ。そうすれば、アーガミパータから中央ヴェケボサニアに脱出することを目指してこの場所にやってくる難民達に頭を悩ませる必要もなくなりますしね。

「デモをしている若者達も、それなりの教育を受けているから、それくらいは理解している。だから、決して、暫定政府に味方しようとかカリ・ユガを追放しようとか、そういうことは言わないんですよ。カリ・ユガによる保護を享受しながらも、より一層、好き勝手出来るようにしたい。あれはですね、砂流原さん、表層構造としては、そういうデモなんです。」

 マコトは。

 そこまで話すと。

 言葉を、切った。

 頭を掻くことに満足したらしく、ヘルメットをかぶり直す。もう安全地帯にいるのだから、別に外したままでいても問題ないのではあるが。とはいえ、それによってヘルメットが消えてなくなるわけではないので、常に腕に抱えていなければならなくなってしまう。なので、ずっとかぶったままでいるのだ。それはともかくとして、ヘルメットをかぶり終わって、ふへーっ、みたいな感じで一息つくと。マコトは、また話し始めた。

「けれどね、砂流原さん。ここで話は終わらないんですよ。もしも本当に、それだけ筋の通った主張があの若者達を突き動かしているのならば。少なくとも、先ほど砂流原さんがしていた主張は正当性を持つものとなるでしょう。ある一定の理由があって、その理由を是正しようとしているんですから。それは何かしらの方法で秩序化可能な行動ということになる。

「違うんです、違うんですよ。今、私が話した内容は、あくまでも表層的な理由に過ぎません。その証拠として、あのデモは「指導者を持たないデモ」であると自称しています。そして、それを誇りにしている節さえある。自分達は、龍王領政府とは違って、決して上からの押し付けをすることがない。絶対的に民主的であるがゆえに、誰一人としてリーダーを持たないのだ。あのですね、もしも一人もリーダーがいないにも拘わらずその集団が一定の形状を保つことが出来るというのならば、それは集団に同調圧力が働いているからに決まってるじゃないですか。要するに、多数者が少数者に対して意見を押し付けてるっていうことですよ。

「いや、まあ、それは別にいいんですけど。とにかく、私が何を言いたいのかというと、もしもリーダーがいないならば、仮に龍王領政府がデモ隊と交渉を開始するといい始めた場合――まあ、そんなことは魚が空を泳ぐよりもあり得ないことですけど――どうするのかっていうことです。一体、誰が、デモを代表して交渉を行うんですか? それに、第一、交渉の内容はどうやって決定するんですか? デモ隊は、「暫定政府との外交関係の樹立」だとか「人間議会の設立と立法権の移譲」だとか、スローガンにぴったりのワンフレーズは共通認識として持っています。けれど、具体的にはどうするのか。外交関係というのは、どこまで踏み込んだものにするのか。貿易関係に限定した外交にするのか、軍事的な同盟関係にまで踏み込むのか。あるいは、人間議会とは具体的にどういったものにするのか。議員定数はどうするのか、一院制にするのか二院制にするのか。そういったことは、まるで決めていないんです。

「つまるところ、あの若者達は、そういったことを本気で叫んでるわけじゃないんです。自分達が作り出したヴィジョンなんて何一つ持ってない。あくまでも、どこかで聞いたような話を継ぎ接ぎにして、自分達の主張であるかのように叫んでいるだけなんです。それでは、一体、なぜそんなことをしているのか。

「幾つかの要因が複合していると思います。しかもそれは、自由だとか民主だとかそういった抽象的な理由ではなく、もっと本能的な・肉体的な・生物学的な理由です。まずは思春期に特有の性欲でしょうね。満たされない性欲が行きどころのないエネルギーとなって蓄積して、それを爆発させられる場所だったらどこでもよかった。とにかく暴れ回りたかったっていうことです。そんなところに戦争が始まった。本当ならば、そういったエネルギーは、戦争で発散させてくれればいいところなんですけどね。けれども、残念なことに、あの若者達はちょうど反抗期だった。権力と名の付くものにはとにかく反抗したい気持ちで一杯だった。だから、お前達のために死ぬなってまっぴらだねとばかりに反戦デモを開始した。ここまでがフェーズ・ワンです。

「フェーズ・ツー、戦争が終わってしまった。本当ならば、理由をなくしてしまったんですから、デモはお終いにしなくてはいけない。けれども、ここで、あらゆる人間に働くところの心理的慣性が働いてしまった。専門用語でいうところの定常安定化欲求です。人間という生き物は、ある行動をとり続けると、その行動が一定の回路として脳に刻み込まれてしまう。そして、一度、その回路が出来ると――あたかも、一つの水路が出来ると、その水路以外のところに水を流すのが難しくなるように――その行動を停止することが大変難しくなってしまう。これは、人間社会の様々なところで問題を引き起こしている慣性ですが、特に、暴力的な集団がマクロ的にこの慣性に捕まってしまった場合、最も重大な問題を引き起こすことになります。

「あはは、歴史を見ていけば幾らでも例が見つかりますよね。サヴィエトの人間解放軍に愛国の猿軍に……シークレット・フィッシャーズは上手いことやりましたが、あれは少数の例外です。フーシェ閣下がいたからこそ可能になった離れ業といっていいでしょう。とにかく、古今東西あの世にこの世、暴力的な集団というのは、一度結成されると解散するのは非常に難しくなるものだということです。

「あのデモ隊も、もちろん暴力的な集団です。そして、他のあらゆる暴力的な集団と同じように、暴力そのものが定常安定化欲求の対象になってしまった。暴力行為を行うことが回路として脳に刻み込まれてしまっているので、それをやめることが出来ない。しかも、一人の欲求だったものが、集団の欲求になることによって、より一層抜け出しにくくなる。なんとか暴力を続けるために、色々な理由を組み合わせて、正当性の根拠をでっちあげる。ああ、良かった、これで心置きなく暴れ続けることが出来るぞ。まあ、大体がこんなところでしょうね。」

 マコトは、そう言い終わると。

 やれやれとでも、いうように。

 両方の手、軽く開いて見せた。

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