第二部プルガトリオ #10

 真昼が、まず気が付いたのは。

 人々の服装についてのことだ。

 現代の月光国で着られているような、あるいはパンピュリア共和国やエスペラント・ウニートやで着られているような。いわゆる普通の服を着ている人間が、ほとんどいないのだ。スーツを着ている人間なんて一人も見当たらない。

 まあ、よく考えればそれも当然のことであって。スーツというのは、そもそもノスフェラトゥが着る戦闘服として生まれた物なのだ。体にぴったりとsuitする漆黒の背広は、しなやかな身の動きを妨げることなく闇に紛れるための迷彩。硬く傷付きにくい革という素材を靴に使っているのは、どんな過酷な環境を走り抜けてもその靴が壊れないようにするためだ。それから、真っ赤に染め抜かれたネクタイは……いうまでもなく、顔を汚す返り血を拭うためのものである。

 そのようにノスフェラトゥのものだった服が、ノスフェラトゥの国家であるパンピュリア共和国において、いつの間にか上流階級の人間にも取り入れられて。そして、第二次神人間大戦を契機として世界的に広まったものなのだ。ということで、スーツというものは、本来的に人間の体に合わせて作られたものではなく。冷静になって考えて貰えば分かると思うのだが、こんな服を正装として採用している人間至上主義諸国の方がおかしいのだ。

 だってそうでしょ? 革靴で全力疾走出来る人いる? 真夏にあんな真っ黒い服着る意味ある? っていうかネクタイってなんなの? どう考えたところで、あの布切れを常に首に巻き付けている論理的な理由を思い付ける人間などいるはずがない。もう、なんか、人間至上主義的ではない客観的な視点で見ると、スーツを着ている人間というのは全体的に馬鹿丸出しの人です。

 そういうわけで、カリ・ユガ龍王領において、そんな頭の悪い行為、サテライティックな行為をする人間などいないのだ。その代わりにどのような服を着ているのかというと、デニーと真昼とマラーとがこのカリ・ユガ龍王領の本領に辿り着いた時に、迎えに来てくれていた三人のカーラナンピア。その中のマハーマントリンが着ていたような服装だ。カーディーで出来た、クルターとチューリダールと。ただし、マハーマントリンが着ていたものは真っ黒に染め抜かれていたが、他の人々が着ている物は、織りなされた布地のそのままの色、要するに浅く色付いたような白い色をしていたのではあったが。

 一方で、女性が着ているのは、ミセス・フィストが着ていたような服装だった。つまり、アーガミパータに古来から伝わる魔除けの魔学式を織り込まれている、色鮮やかなサーティ。ちなみにこういった魔学式のほとんどは、それぞれの家系に代々伝えられている伝統的な魔学式であって、月光国でいう家紋のような役割も果たしている。とはいえどの魔学式も、不測の事態が起こった時に、そのサーティを身に纏っている女性を保護するためのものであるという本質に変わりはないのだが。それから、ほとんどの女性がなんらかの種類の金の装身具を身に着けていて、それも正装の一部であるらしかった。

 そういった服を着た人々に、それに……よく目立つのが軍人の姿である。街なかでもアーガミパータ北部迷彩を着た軍人が普通に歩いている。これは、もちろん、カーラプーラの治安を守るために、一定の数の軍人が配置されているという理由もあるのだが。そもそもカリ・ユガ龍王領の人口に対して軍人が占める割合がかなり大きいということも原因となっている。年によって変わってくるが、なんと、おおよそ全人口の二パーセントが現役兵なのだ。そのため、単純に考えても百人に二人は現役兵だということになり、そこら辺の喫茶店とかで普通にお茶を飲んでいる軍人を見ることが出来るのだ。ちなみに予備役兵の数は現役兵の約二倍である。

 そして。

 そんな。

 人々が。

 なんか、すごく……がやがやしていた。いや、「がやがやしていた」ってなんだよと思うかもしれないが、本当にがやがやしているのだ。これは、実際に見てみないと分かりにくいと思うのだが、カーラプーラは、全体的に、なんだか雑然としている。人が多いというのではなく、そこに存在しているあらゆるものが荒っぽいのだ。人間至上主義諸国の大都市にはあり得ないような、絶対的な計画性のなさを感じさせる。

 そもそも道路に車道と人道との区別がない。人はなんとなく端の方を歩いていて、車はなんとなく真ん中辺りを走っている。そのせいで、車は、常にクラクションを鳴らして自分がそこにいるということを主張しなければいけない始末だ。また、これは、真昼がマジで心底びっくり仰天してしまったことなのだが。恐ろしいことに、信号さえ存在していないのだ。それではどうやって道路の通行の順番を決めているのかといえば、それは人々の「譲り合いの心」によって決めているのである。とはいえ、どうやら、カーラプーラにいる人々は、あまり「譲り合いの心」の持ち合わせがないらしく……結果的に、公道は、万人の万人に対する闘争のような状況を呈しているのだが。

 更に、こういった混乱に拍車をかけるのは。道路における人間以外のアクター、「ビークル」に区分されるものが、自動四輪車・自動二輪車・バイセコーだけではないということだ。そういった車に交じって、たくさんの動物達がごくごく普通に闊歩している。軍事用ではなく民間用に調整されているガジャラチャ。車輪のついた籠を引っ張っているウパチャカーナラ。ちなみにこの乗り物は、真昼がアーガミパータに来て一番最初に乗った乗り物であるルカゴに似ていたが、紛らわしいことに、その名前も、あのルカゴと全く同じくルカゴである。そして、稀にではあるが、デザート・ユニコーンが歩いているところも見られた。

 そんな風に、まさにごった煮といった感じの道路が、ちょっと前に描写したような彫刻バリバリかつ原色ギラギラな巨大建造物の間を縫うようにして走っているということだ。もちろん、見上げれば、空にはグリュプスやらシャンタクやらが飛んでいるし。それだけでなく、よくよく見ると、スティックみたいな小型航空機に乗っている人々も飛んでいたし。このカーラプーラという都市の光景は……なんというか、真昼にとっては、ちょっと情報過多過ぎるものだとしかいいようがなかった。

 そして、今、真昼は。

 その光景を見ているだけではなく。

 まさに、その中を歩いているのだ。

「ちょ……ちょっと待って下さい!」

「え? ああ、すみません。」

 先ほども書いたように、道路は別に混み合っているというわけではない。カーラプーラの人口はそれなりに管理されているため、常にちょうどいいくらいの人の数に収まっており、そのため、例えば月光国の蜜頭などと比べてみれば、まさに雲と泥との違いほどもある質量の差であるはずなのだが。それでも……その無秩序さ、どこをどう歩けば他人にぶつからずに歩けるのかということがさっぱり分からないめちゃくちゃ具合のせいで、真昼は、なかなか前に進むことが出来ない状態だった。しかも、ただでさえ存在する全ての物体が邪魔で歩きづらいというのに、絶対にはぐれないようにマラーの手をしっかりと握っているため、より一層道を切り開きにくい状況に追い込まれていたのだ。

 そんなこんなであるにも拘わらず。結構長いことここで暮らしているからなのか、はたまた持ち前の要領の良さのせいなのか。他方のマコトは、例えるならば、花と花との間をひらひらとすり抜けていく優雅な蝶々か何かのように、軽やかに進んでいってしまうので。真昼とマラーとは自然と置いて行かれるような形になってしまうのだ。

「ついつい、いつもの感じで歩いちゃってましたね。危なく砂流原さんをどこかに置いていくところでした。いけないいけない……そんなことをして、万一何かあったら! 私、間違いなくデニーさんに殺されますからね。しかも、生まれたことを心の底から後悔するような殺され方で。あはは、そりゃあね、私だって、生まれたことを心の底から後悔する死に方では死にたくないですよ。」

 常ににやにやと、猫のように笑いながら話すので。

 マコトの話は、どこまでが本気なのか分からない。

「今、どこに向かってるんですか?」

「ちょっと前にお話しした通り、お二人にかかっている思考ロックを外すためのマジック・アイテムを売ってるところですよ。んー、具体的に言うと、このイヤーリングのことですが。」

 そんなことを言いながら、マコトは。真昼に向かって、ちらりという感じで、自分の右耳を指差してみせた。その耳には一つのイヤーリングが揺れていて、そのイヤーリングには、真昼が見たこともない宝石が嵌め込まれていた。それは、確かに宝石なのであるが……どこか焼け焦げた骨のようでもあった。歪な形をした石の中で、黒い炎が燃えているような宝石。

「これはですね、カリ・ユガ龍王領の外貨獲得手段としては赤イヴェール合金と同じくらい重要な位置を占めている、ナーグマニと呼ばれている魔石です。ナーガのマニ、つまり、共通語では「舞龍の宝石」という意味ですけど、元々はですね、舞龍がこの宝石を飲み込んで、有害な魔法の影響から自分の身を守るために使っていたものなんです。舞龍でさえ頼るほどのマジック・ナリファイアーだってことですよ。だから、ちょっとした加工を施せば、この場所を支配しているような強力な思考ロックでも無力化出来るんです。」

 そんなことを話しながら、マコトは。

 どんどんと先を歩いて行ってしまう。

 真昼は、置いていかれないように。

 ついていくだけで、精いっぱいだ。

「ちょっと待って下さい。」

「はい? なんですか?」

「さっき、「お二人にかかっている思考ロック」って言いましたよね。それって、あたしだけじゃなくて、マラーにもポゼショナイズがかかってるってことですか?」

「そうですよ。」

 まあ、それも当然の話といえば当然の話であって。ポゼショナイズというのは、ある一定の領域に足を踏み入れた生き物の全てに効果を発生させるものなのだ。マラーに、何か、特別な魔学的な力が宿っているとでもいうのなら別であるが。ただ単に人間でしかないのだから、ポゼショナイズがかからないはずがない。とはいえ……真昼にはそんな風に見えなかった。どこからどう見ても、ポゼショナイズがかかっているような兆候が見えなかったのだ。

「そんな風には……全然、見えないんですけど。」

「どういうことですか?」

「ここに来る前と変わらないように見えるっていうか……」

「ああ、そういうことですね。そりゃあそうですよ、マラーさんというそのお嬢さんは、アーガミパータで生まれてアーガミパータで育った方でしょう? アーガミパータにある領域は、ほとんどが、ここみたいに、神国系の集団に支配されてますからね。もちろん暫定政府は別ですけど。そういうわけで、アーガミパータの人間にとっては、ポゼショナイズがかかっている状態の方がむしろ自然だっていうことです。」

 なんとなく。

 その理論は。

 納得出来ないが。

 とはいえ、納得出来ようが出来まいが、実際にそうなのだろう。異常な状態から自然な状態に戻るだけの話なのだから、見た目の上で、何かしらの異常な兆候が出るわけがないという話だ。真昼は……無理やり、そういうことなのだと自分を納得させて。それから、教えてくれたマコトには、返事をしたくなかったので、特に返事を返さなかった。

 さて。

 真昼とマラーとは。

 マコトに連れられ。

 なんとなく、路地裏というか、アレーというか、そういう感じのところに入って来ていた。ビルディングとビルディングとの隙間にある、少しばかり薄暗いところ。日が差さず、人の姿もあまりない、治安的にグッドではなさそうなところだ。

 真昼は、カリ・ユガ龍王領のようにゼティウス形而上体によって治められている集団であっても、このような場所があるということに対して、純粋な驚きを感じていた。なんとなく……思考ロックで縛り付けられて厳密に管理されて。全てが日の当たる場所、無菌室のように清潔な場所であると思っていたのだ。

 マコトは、勝手知ったるスイート・スイート・マイホームのようにして。そのアレー、奥へ奥へとどんどん進んでいってしまう。そこら辺に、明らかにヨガシュ族だと思われる浮浪者が寝転んでいて。そばを通っていく真昼たちのことを視界に入れると、いかにもやる気がなさそうに、ローガラトナを持った手を伸ばしてくる。恐らくは小銭をねだるような仕草なのだろう。

 そして、そのようにして。

 十分ほど、進んでいくと。

 それが。

 見えてくる。

「ここですここです、ここを降りて行きますよ。」

 そういって、マコトが指し示したのは……道の真ん中に、黒々と穿たれた、巨大な穴だった。一辺が二ダブルキュビトほどの八角形が中心にあって、その八角形の外側が、一辺が十ダブルキュビトほどの四角形になっている。四角形の周囲には、ぐるぐると螺旋を描くようにして階段が取り付けられていて、一つの階層ごとに、奥まったところまで広がるフロアが設けられているようだ。八角形というのは、その四角形のフロアの内側に開いている、一直線に続いていく穴であって。どこまでもどこまでも続いていく暗黒のように静かだった。

「これは、なんですか。」

「クンダですよ。」

「クンダ?」

「階段式の貯水池のことです。」

 マコトは、それだけ言うと。

 それ以上説明することなく。

 そのまま、一番近いところにある階段に。

 すたすたと歩いて行ってしまう。

 まあ、確かに階段で降りていくタイプの貯水池だということだけ知っていれば十分といえば十分なのであるが。念のため、ざっと説明しておくと……アーガミパータは雨季と乾季とが分かれている土地であって、特に北部では二つの季節の差がかなりはっきりとしている。そのため、雨季に降り注いだ雨を、乾季まで貯めておくということが、死活的に重要になってくる。

 そんなわけで、各地に巨大な貯水池が作られることになったのであるが、その際に問題になってくるのは、そうした貯水池が深過ぎるということだ。馬鹿げた井戸か何かみたいに、どこまでもどこまでも下に伸びていく。今、真昼の目の前にあるものでも、五階建てのビルディングくらいの深さがあるし。大きいのだと、十階建てのビルディングくらいの深さがあるものさえ存在している。それくらいの深さがないと乾季に必要になってくる量の水を貯められないのだ。当然ながら、そういった貯水池の水、使用したり蒸発したりすることで、段々段々と水位が下がっていくと、水を汲み出しにくくなってくる。

 そこで、貯水池の内側に階段を作ったのだ。階段を作り、階層ごとに分けることによって、水位が下がれば、それだけ下の階層に行くことが出来るようになる。こうして、どんな時でも水を汲み出しやすくしたのだ。また、北部アーガミパータにおいては、水は決定的に重要な資源であるために。そのようにして分けられた階層、そのフロアごとに、様々な宗教設備が整えられて。そこで、水の恵みに関する儀式が行われるようにもなった。結果として、そういった階段式の貯水池は、ちょっとした「宗教施設」へと変化したということだ。

 ただし……ヌリトヤ沙漠におけるこの一帯が、カリ・ユガ龍王領となってから。そのような水についての心配がなくなった。なぜそうなったかについての詳しい事情は後々話すことになるだろうが、とにかく、先ほども少し触れたように、溢れんばかりの水が、マイトリー・サラスとして供給されるようになったのだ。そのため、こういった貯水池、クンダは、元々の用途では使用されることがなくなってしまった。

 そして、その代わりに、現在のような用途で使用されるようになったのだ。つまり、一種の……というか、まさに言葉の意味そのままの、アンダーグラウンドとして。必要がなくなったために、すっかり使われなくなった「宗教施設」を、こう表現するのもなんだか変な気がするのだが、居抜きとして利用して。カーラプーラの表通りでは決して許されないような、様々な商売が行われるようになったということだ。

 そういった商売のうちの一つに。

 今の真昼達にとって。

 役に立つ商売がある。

 と、そんなわけで、マコトはここにやって来たのだった。ちなみに、こちらに向かって、東西南北のそれぞれの方向から、数本のアレーが伸びてきていたので。どうやらこのクンダが、そういった裏通りの中心的な場所であるらしいということは、真昼も理解出来ていた。

 そうはいっても、今更、アンダーグラウンド程度で怖気付くような真昼ではなかった。読者の皆さんもよくご存じの通り、真昼が今まで駆け抜けてきたのは。テロリストによって虐殺された難民キャンプに、世界的な軍需企業に対して起こされた革命の中心地、それに、大量破壊兵器を使用された内戦の現場なのだ。そんな真昼にとって、アンダーグラウンドなどというものは、ちょっとしたダンスパーティの会場と似たような場所に過ぎない。

 もしも、何か危害を加えられそうになったら。

 そいつを殺せばいい、ただ、それだけの話だ。

 そんなわけで、真昼は、マコトについていくことに対して躊躇することはなかった。一方で、その真昼と手を繋いでいたマラーは……まあ、マラーも、幾つかの修羅場を潜り抜けてきてはいたが。真昼とは違って、まだ幼いこともあって、多少はびくびくと怯えてはいたのだけれど。真昼が……強くて優しい真昼という庇護者が、すぐそばについていてくれたので、それほど深刻な恐怖というわけではないようだった。だから、真昼にその手を引かれると、それに対して抵抗を示すようなことはなく、唯々諾々と、その後についていったのだった。

 クンダは……地面を掘り抜いた穴の中に、褐色の石材を組み上げて作られた構造物だった。地上のビルディングとは違って、特に派手な色合いなどは使用されておらず。本当に、その石材の色、素材の色をそのままに使っていた。彫刻等も、あるにはあったのだが。柱の部分だとか、アーチの部分だとか、要所要所に刻み込まれている程度だ。

 ここがカリ・ユガ龍王領になる前に作られたものということで、随分と以前から存在しているはずだ。少なくとも第二次神人間大戦前、ひょっとしたら第一次神人間大戦の頃まで遡れるかもしれない。そんな構造物であるにも拘わらず、ほとんど手入れもされていないようで。結果として、そこら中が、ひどく退廃的な感じになっていた。彫刻は摩耗して、何が刻まれているのかも定かではない。石材は罅割れ、ところどころに苔が生えている。そして、そこら中が、乾いた血液で汚れていた。

 下に。

 下に。

 降りていくほど。

 周囲の光景は。

 薄暗く、沈んでいく。

 そんな空間であるにも拘わらず、マコトは……全く場所柄に似合わない、軽やかな足取りで階段を下りていく。今までと変わらない、まるで雲の上でスキップでも踏んでいるような足取りだ。マコトの、そういうところを見ていると。真昼は、このマコトという人間が、ただの人間であるにも拘わらず。デニーとあれだけ親しげに話せる理由が、なんとなく分かるような気がした。

 フロアを一階降りると、暗闇の中に潜む亡霊のように、人間の姿が浮かび上がってきた。いや、まあ、ここはアーガミパータなので、本当に亡霊が混ざってるかもしれないが。それでも、大半が人間だということは間違いないだろう。宗教施設であったはずの場所に、何か奇怪な機械を並べている商人。どう見ても娼婦と分かる女達の姿に、どう見ても男娼だと分かる男達の姿。それから、恐らく食事に使うのではないであろうスパイスの類を売っている「売人」。誰も彼もが、石材が作り出す陰に隠れて……その陰の中に、他の誰かを引き込もうとしていた。

 そして、そのうちの一人がマコトに声を掛けた。ひどく親し気な話し方で、明らかに知人らしい。イパータ語だったので真昼には分からなかったが「おいおい、マコト! 連れているのは新しい奴隷か! 幾らなら俺に売ってくれるんだ!」みたいな意味の言葉であった。それに対して、マコトも、軽口を叩くように言葉を返す、これは「少なくとも私の奴隷じゃないですよ! さる高貴な方からの預かりものでしてね! 私なら手を出すのはやめておきますよ、まだ死にたくはないですから!」という意味の言葉だった。それに対して、マコトに声を掛けた男は、ひとしきり笑った後で、また影の中に消えていった。

 ちなみに。

 マコトは

 このクンダに住む人間の。

 ほとんどと、顔見知りだ。

「龍王が支配するような国でも、こういう場所があるんですね。」

「はい? こういう場所っていうのは?」

 真昼が、ぽつりと呟いたその言葉に。

 マコトは、ちらと振り向いて訊いた。

「こういう、スラムみたいな場所。」

「ああ、そういうことですか。まあ、正確に言うとここはスラムではないですけどね。でも言いたいことは分かりますよ。」

「神国って、もう少し、治安維持に厳しい場所だと思ってました。すごい締め付けられてるっていうか、少しの汚れも許さないっていうか。神々が決めた法律には絶対服従で、誰一人として、一歩も道を間違うことがない場所。そういうイメージがありました。それは、月光国も、一応は神国ですけど。でも、月光国とアフランシとは、ちょっと特別なところじゃないですか。ポゼショナイズだってされてないし。そういえば、この領域に住んでる人々は、みんなポゼショナイズされてるんですよね。それなのに、こういう……犯罪、みたいな行為をするなんて。」

 その言葉に対してマコトは。

 人差し指を、ぴんと立てて。

 その指を、さも愉快気に。

 振ってみせてから答える。

「あはは、砂流原さん、ちょっと勘違いされてますね。神だとか、龍だとか、それにもちろん魔王もですけど。そういったゼティウス形而上体は、別に人間を愛しているわけではないんです。いや、まあ、愛しているような方々もいらっしゃるかもしれませんが……それは、あくまでも、高等生物が下等生物を愛する時の愛し方で愛しているというだけですね。つまり、人間が家畜を愛するような愛し方ということです。

「いや、違いますね、ああいう方々は人間のことをもっと下に見ていますから。例えば……そう、水槽の中にたくさんいる、養殖の魚みたいなものです。例えばですよ、砂流原さん。砂流原さんが、そうですね、千匹くらいの魚を養殖しているとします。その中の五匹か六匹かが共食いをしあっていて、そのことを気にしますか? さほど気にならないでしょう。ああいう方々にとって、このクンダで行われている犯罪は、その程度のことなんです。

「もしも人間のことを愛しているのならば。ああいう方々が、心の底から、人間の幸福を望んでいるのならば。確かに、砂流原さんが言った通りのことをするでしょう。人間という生き物は、生き物としては完全に出来損ないですからね、内発的に幸福になることは百パーセント不可能です。ポゼショナイズによって、外在的に幸福へと矯正する以外に方法はない。しかしですね、ああいう方々が、別に人間を愛していない以上……それをしても、なんのメリットもありませんよね?

「ゼティウス形而上体が人間に対してポゼショナイズをする理由はたった一つです。愚かな生き物が愚かな真似をしないように。それだけなんですよ。人間という生き物は、俄かには信じがたいくらいに愚かですから。もしかして、もしかすると、そんなことは普通だったらあり得ないだろうが……「自由」を求めて、秩序を破壊するかもしれない。ああ、自由、自由、自由! 馬鹿が自由になってどうなります? どうせ、馬鹿を晒して死ぬだけなのに。まあ、それはともかくとして、私が言いたいのはつまりこういうことです。ポゼショナイズは、秩序というものの維持のために使用されているに過ぎない。

「人間から愚昧さを切除する処置なんです。例えばですよ、ポゼショナイズの下では、誰かに対して憎しみや怒りやを感じることは、大変難しいことです。あらゆる怒り、あらゆる憎しみ、そういった感情は、外部からの浸食に対する反射的かつ盲目的な感情ですから。秩序というものが外部との協調によってなされるものである以上、そういった感情が存在しているということは、秩序維持の上で大変不都合なことになりますよね。

「一方で、例えば……純粋な欲望と純粋な殺意と。こういった衝動は、さして問題があるものではありません。というか、こういった衝動がなければ、生存を維持することさえ難しいですよね? もしも、相手を殺して食べ物を獲得しなければ自分が餓死するという場合、相手を殺して食べ物を獲得するのはとても理に適った行為です。あるいは……砂流原さんがこのクンダに足を踏み入れた時に考えていたであろうことを例にとっても構いませんよ。恐らくは、砂流原さんは、こう考えていたでしょう。「確かにこのクンダは危険な場所かもしれない。しかし、仮に自分に危害を与えようとする人間がいれば、その人間を殺せばいいだけの話だ。そういうわけで、ここに足を踏み入れることには問題がない」。あはは、そんな顔をしないで下さい、砂流原さん。私だってジャーナリストですからね、一応は。ある人間が何を考えているかということくらいは表情から読み取れますよ。とにかく、この考え方は大変論理的な考え方です。しかし犯罪的な考え方でもある。

「このことを勘違いしている人は案外に多いんですけどね。腹が減ったから店先の林檎を奪うのも、刹那的な快楽を求めて麻薬に溺れるのも。あるいは、人が死ぬ顔を見たいからというだけで、ナイフで他人の喉を掻っ切るのも。本質的には秩序を破壊する行動ではないんです。だって、そうでしょう? これらの人々の中に、一人でも、自分が何をしたいのか理解していない人間がいますか? 全ての理由がある行動は、その理由に対する論理的な対処方法によって秩序化することが出来ます。本質的に秩序を破壊する行動というのですね、砂流原さん、この世界にはたった一つしかないんですよ。それは、何が不満なのかは分からないのだが、とにかく漠然とした不満感を持っている人間が、その不満を解消するために起こす、無意味な革命です。

「そして、ゼティウス形而上体の皆さんは、この革命さえ防げればいい。それ以外は、人間が何をしようと構わないのです。まあ、ただ……誰もが林檎を盗むようだったら、林檎屋は、片っ端から潰れてしまいますからね。そういうことがないように、最低限のラインでは犯罪の取り締まりをしていますよ。表通りに関しては警察機構が犯罪を取り締まっています。しかし、例えば、裏通りでまで犯罪を取り締まるとか、そういうことはしません。する必要がないどころか、そういったことは人間にとって有害でさえありますからね。つまるところ人間の中には、犯罪者になること以外に出来ることがない人間というのもいますから。そういう人間から生活の方法を奪ってしまうのは大変良くないことです。

「寛容ですよ、砂流原さん。寛容が最も重要なことです。厳格な法律の下で全ての犯罪を排除する社会では、息苦しくて生きていけない人達もいるということを、人間よりも頭が良い方々はよく理解しています。もちろん、このカリ・ユガ龍王領もそうですが……砂流原さんのよくご存じの場所でいえば、パンピュリア共和国なんかがまさにそうですね。ノスフェラトゥによる共和制。ノスフェラトゥによって支配されている国。人間至上主義的な視点から見れば、あそこほど危険な場所はないということになるでしょう。ブラッドフィールドには世界で最も多くの犯罪者が集まっているといわれてますし。けれども、それは、別のいい方をすれば、世界で最も多くの寛容さが保たれているということです。秩序というものはですね、「治安維持」だけで出来ているわけではないんですよ。「治外法権」も必要なんです。そして、このクンダの下は、そういう「治外法権」の一つだということです。」

 マコトは。

 そこまで、話すと。

 一度、口を止めて。

「さて。」

 あの笑顔をしたまま。

 真昼を、振り返って。

 こう言う。

「ここです。」

 いつの間にか、真昼達は、クンダの最下層に着いていた。地上から遥かに下のところ。その床面には、既に石畳さえ敷かれておらず、剥き出しになった岩盤の上、そこら中に苔が生えている。ごつごつとして非常に歩きにくく、そのせいなのかなんなのか、このフロアには人の姿さえほとんど見えなかった。上の方から、明らかに治安の良くなさそうな、ざわざわという音が反響してきていて。けれども、このフロア自体は荒廃した静寂に包みこまれている。少し陳腐過ぎる比喩表現になってしまうのだが、まるで、とっくの昔にうち捨てられた墓場みたいだ。

「ここって、何もないですけど。」

「あれですよ、あれ。あの穴です。」

 そう言って、マコトは、そのフロアの中心を指差した。そこには……このクンダの中に蹲っている闇よりも、もっと暗い色をした黒。穴の中に開いた穴。死後硬直して開ききった死人の口みたいにして、ぽっかりと開いていた。

「あれは……」

「御覧の通り、井戸ですよ。」

 貯水池の中に井戸があるというのも変な話だと思うかもしれないが。それは、要するに、最後の手段としての井戸であった。貯水池に溜まった水を使い尽くしてしまった時に、そこから水を汲むために掘られていた井戸。どうでもいいですけど「貯水池に溜める」って表現なんか可笑しいですね。そこは「貯める」じゃないのかよ、みたいな。それはそれとして、その井戸は、四角形の中心にあった八角形に、直接繋がっているような八角形をしていた。その八角形に向かって、すたすたと、マコトは歩いて行く。

 そして。

 その、すぐ近くまで行くと。

 ふっと、気が付いたように。

 声を上げる。

「あーと、どうしようかな。」

 真昼のこと。

 振り返って。

「ちょっと、そこで待ってて頂けますか?」

 それから。

 とんっと。

 井戸の縁を、蹴って。

 あまりにも呆気なく。

 井戸の中に。

 身を投げた。

 これは、あまりに唐突すぎる出来事であったため、普通であれば「え?」「は?」「何?」みたいな感じで、混乱してしまうようなシーンであったが。ただ、デニーと二日間を過ごしてきた真昼にとっては「はいはい、またこのパターンね」と感じる程度の意外性でしかなかった。

 何が起こったのか分からずにあわあわしているマラーの手を、落ち着かせるように握り締めてあげながらも。井戸の縁へと向かって歩いていく。井戸は……先ほども書いたように、各フロアを貫通するみたいにして空に向かって開いている八角形の、すぐ真下に開いていたため。辛うじて差し込んでくる光によって、中の様子がほんの僅かに見えていた。

 マコトが身を投げてすぐにばしゃーんという音が聞こえてきたことから、井戸の中には、まだそれなりの水が溜まっているらしいということが分かっていたが。実際に覗き込んでみると、空の光を反射してきらきらと光る水面が、大体、六ダブルキュビトから七ダブルキュビトくらい下のところに見えていた。

 そして、マコトは、その水に肩の辺りまで浸かりながらも。ばしゃばしゃと泳ぐみたいして、八つある井戸の壁面のうちの一つに向かって歩いていくところだった。そして……その壁面に飲み込まれるみたいにして姿を消してしまう。どうやら、その壁面には横向きに穴が開いていて、そちらの方向に隠し通路が伸びているということらしい。

 真昼は、マコトのいなくなった井戸を見下ろしながら、少し考えを巡らせてみた。まず、大前提として、マコトが自分達をここに置いてどこかに行ってしまうということは百パーセントあり得ない。何しろ面倒を見てくれと頼んだのは、他ならぬあのデナム・フーツなのだから。もしも、仮に、真昼の身に何かあれば……マコトは確実に殺される。しかも、この世界で最も惨たらしい殺され方によって。

 だから、置いていかれるという心配はない。とはいえ、全くなんの心配もないというわけでもない。なぜなら、ここ一時間程度、一緒に過ごしてきて、よく理解出来たことなのだが……マコトは限りなく適当な人間なのだ。なんというか、兎の首を見せながら魚の肉を売るとはこのことかというか。恐らく、良心でも人間性でもなんでもいいのだが、そういったものが完全に欠如しているがゆえに、人生において、一度たりとも、自分の行動について反省をしたことがないのだろう。

 そのため、真昼達をここに置いていくことについて、それが安全な行為であるのかということをきちんと考慮したのかというと、はなはだ怪しいところがある、と真昼は思った。というか、こんな治安の悪そうなところに、女子高校生くらいの少女と女子小学生くらいの少女とを、たった二人で置いていくなんて。どう考えても善良な管理者が果たすべき注意義務を果たしていない。

 もちろん、真昼一人だけならどうとでもなる。なんといっても、真昼の左腕は、セミフォルテアにも匹敵しうる矢を放つ力があるのだから。だが、隣にはマラーがいるのだ。限りなく無力で、そして、絶対に守り通さなくてはいけないマラーが。ということで、こんな危険なところに、真昼とマラーと、たった二人きりで取り残されるというのは、あまり望ましいことではない。

 だから。

 真昼は。

 暫く考えた後で。

 ふーっと、一つ。

 溜め息をついて。

 それから。

 マラーのことをぎゅっと抱き締めてから。

 マコトと同じように、井戸に身を投げた。

 マラーは、悲鳴を上げるかと思ったが、そんなことはなかった。真昼に対する信頼感がほとんど信仰のようになってしまっているのだろう。むしろ真昼に抱き締められたことによって安心しているようにさえ見えるくらいだった。そのようにして、真昼とマラーとは、井戸の中に落ちて行って……無事に着水した。

 ばしゃーんという音。

 その音に。

 マコトが。

 振り返る。

「あれ? 砂流原さん、来ちゃったんですか?」

「上が、安全だとは、思えなかったんで。」

「あー、そうですね。あはは、安全ではないですね。」

 それから、「いやー、でも、ここの水はあんまり清潔じゃないんで……」とかなんとか言いながら、こちらに向かって戻ってくる。その言葉の通り、井戸の中の水は、もし可能であるならば触れることさえ遠慮したいタイプのものだった。

 下水とか汚水とかそういう感じではないのだが。とにかく古い水なのだ。濁っていて、澱んでいて。真昼は、水という物質も腐ることがあるということを知識として知っていたのだが。この水は、まさにその腐った水であろうと思われた。

 また、水の深さであるが、真昼の背の高さでぎりぎり足がつくくらいだった。なんとか首一つ分、水から出ていることが出来るが。とはいえ、少しでも移動すると、ちゃぷちゃぷと水面が揺れるため、薄汚い水がもろに顔にかかってしまう。またマラーなどは、まともに立とうとすると完全に水に沈んでしまう。そのため、真昼は、仕方なくマラーのことを背負って。そして、デニーの魔学式によって強化された脚力を限界まで使った爪先立ち歩きをする以外にはなかった。

「それで、この奥に行くんですか。」

「そうですそうです。」

 真昼の視線の先には……そちらの方に先ほどまでマコトが向かっていたところの、井戸の壁面に開いた穴があった。横幅としては、やっとのことで二人の人間がすれ違えるくらい。水面から一メートル程度の高さのところまで開いている穴で、なだらかな坂道になっているらしく、次第に次第に上の方へと上がっていっているようだった。

 マコトを先頭にして、その穴の奥へと入っていく。人の手で彫り抜かれた洞窟とでもいうべきか、そんな洞窟が上に向かっていくごとに、水面の方は下がっていって。やがて、マラーでも水から上に顔を出せるくらいになった。マラーは、真昼の背中から降りて、また二人は手を繋ぐ。

 当然ながら電灯のようなものはついていないので、洞窟の中はほとんど何も見えないほど暗いのだが。けれども、後方には、ひどく掠れてしまった太陽の光が差し込む井戸が見えていたし。前方には……ぼんやりとした、電気の光でも太陽の光でもない、なんらかの光が見えていた。

 大体、百メートルくらいの距離を進んで。すっかり水から全身が抜け出すことが出来た頃に。三人は、そのぼんやりとした光が発されている空間に辿り着いた。そこは、一辺が大体五ダブルキュビトくらいの、完全な立方体の部屋で。そして、そのぼんやりとした光の正体は、立方体のあらゆる場所に生えている、淡い光を放つヒカリゴケであった。

 その空間には、ほとんど何もなかった。

 空間の、中心部分に。

 禅那の姿勢。

 座っている。

 一人の老人を除いて。

 ちなみに、中心部分というのは文字通りの意味で中心部分ということだ。要するに、二次元的だけではなく、三次元的な方向でも中心ということ。高さにして二・五ダブルキュビトくらいのところにふわふわと浮かんでいる。タンディー・チャッタンで周囲の状況を監視していた還俗学生みたいな感じだ。ただし、その老人は、還俗学生ではなかった。

 薄汚れた布を頭に巻いていて、薄汚れた布を腰に巻いていて、それ以外の服は一切身に着けていない。一度も剃刀を当てたことがないような、髭に覆い尽くされた顔をしている。これだけの情報では、どういう由来を持つ人物なのかということは一切分からない。というか、あまりにも年老い過ぎているため、ゼニグ族なのかヨガシュ族なのかということさえ判断をすることが出来ないくらいだ。とはいえ……ニルグランタの関係者ではないということは確かだと思われた。

 推測するに、いわゆるディニクルスと呼ばれるたぐいの人物だと思われた。いや、正確にいえば、ディニクルスという単語はホビット語で「兎の巣穴の外側」を表すdiscuniculusを語源としているため、兎魔学者にしか使えない言葉なのだが。とにかく、ここでいわんとしているのは、この人物がどんな魔大にも属していない在野の魔学者なのだろうということだ。

 こういう魔学者はマホウ界には結構いるもので、というか「集団としての魔大」であっても「集団による魔大」であっても、そこに所属するということがいかに難しいかということを考えれば、魔大に所属している魔学者の方がむしろ少数派であるといった方が正しいだろう。

 そして、こういう魔学者は、ディニクルス自体が弟子をとることによって、魔学……というか、魔法を引き継いでいく。そのため、魔大などでは学べないような特殊な魔法、異形の魔法を使うことも多々ある。普段はちょっと怪しい便利屋のような仕事をして日銭を稼いでいる。

 マコトは、宙に静止しているその魔学者を見上げると。

 横で聞いている真昼の方がびっくりしてしまうほどの。

 大きな声、イパータ語らしい言葉によって声を掛けた。

 さすがに、それほどの声で話し掛けられれば、瞑想しているらしいその魔学者も気が付いたらしい。片方の目だけを開けて、ちらりと見下ろすみたいにして、マコトのことを見る。それから、すうっと、そうなることがとても自然であるとでもいうような感じ、禅那を組んだままの体が下りてくる。

 とはいっても、地上に完全に下り切ることはなく、魔学者の目線がちょうどマコトの目線と会うくらいの位置まで下りてくると、そこでぴたりと停止した。それから、なんだかもったいぶっているんじゃないかと思ってしまうような態度で、またもや両方の目をつぶってしまった。

 マコトは、魔学者のそんな態度には慣れているらしく。特になんらかの反応を示すことなく、ぺらぺらと何かを話し始めた。自分の耳を指差して、それから後ろにいる真昼とマラーとを指差して。例のイヤーリングがもう二つ必要だという意味合いのことを話しているのだろう。

 それに対して、魔学者は、一言だけ返す。マコトは……その一言を聞いて、暫くの間、自分の耳を疑っているかのように、唖然とした表情をしていたが。やがて、そんな大きな声出す必要ある?と思ってしまうほどの声で、驚きの悲鳴を上げた。それから、一気に、畳みかけるように、恐らく何かを否定しているようなことを捲くし立てた。そして更に、大袈裟な身振り手振り、左の腕を振り回しながら、右の手は、魔学者のことを突き刺さんばかりに人差し指を突き立てて。何か数字らしい言葉を伝える。

 魔学者は、一言返して。マコトは、今度は、その一言に、絶望し切ったような叫び声をあげた。両手で顔を覆って、今にも膝から崩れ落ちんばかりだ。そして今度は、哀願するかのような調子で手のひらを突き出す。弱々しい口調で、自分の状況を切々と訴えて、そして、最後に、また数字らしい言葉を伝える。これは、なんというか、どう見ても……マコトと魔学者とは値段の交渉をしているらしい。というか、言葉を飾らずにいうならば、魔学者は高値を吹っ掛けていて、マコトはそれを値切っているのだ。

 いかにも塵世を超越していますみたいな格好をして、こんな意味ありげなところに閉じ籠もっている魔学者が、世俗の極みとしかいいようのない価格のあれこれをしているのを見て。真昼は、なんだかちょっと可笑しくなってしまった。

 とはいえ、それをしている当人達にとっては真剣そのものの行為なのである。今、マコトが、いかにも居丈高に魔学者のことを指差すと。もう片方の手を何度も何度も振りながら、怒鳴りつけるように叫び始めた。お前は血も涙もない人非人だとか、鬼畜生のたぐいにも劣る卑劣漢だとか、そんなことを言っているのだろう。それに対して、魔学者は、あくまでも冷静に、言葉を返している。すると、マコトは、とうとうその場に膝をついて、祈るかのように両手を合わせ始めた。そして、せめてせめてとでもいわんばかりの口調で、これが最後ですとでも愁訴するような口調で、一つの数字らしき単語を口にする。

 そして。

 魔学者は。

 とうとう。

 その数字と。

 同じ数字を、口にした。

 マコトは、その反応に、まるで飛び跳ねるかのようにして立ち上がると。両方の手、握り締めた拳を空に向かって突き上げるようにして「ゴー・フィッシュ!」と叫んだ。そして真昼の方を振り返ると、まるで親の仇でも取ったかのような喜び方で「やりましたよ、砂流原さん! 提示価格から八十三パーセント値下げさせました!」と言った。

 提示された元々の価格がいくらだったのか分からないし、そもそもナーグマニという宝石の適正価格も知らなかったので。真昼にはコメントのしようがない情報だった。まあ、マコトとしても、特に真昼のコメントは求めていなかったらしく。すぐに魔学者の方に向き直って、ローガラトナの嵌まったブレスレットを、そちらに向かって差し出した。

「こんな人にとっても……」

「はい? 何か言いました?」

「こんな世捨て人みたいな人にとっても、金は重要なんですね。」

「どういうことです?」

「今の、その……ローンガンマンさんと魔学者の人とのやりとりって、価格交渉だったんですよね。」

「ええ、そうですよ。」

「価格の交渉をするっていうことは、品物を、より高く売りたいって思ってるってことですよね。それなら、より多くの金を求めているっていうことじゃないですか。ということは、金が重要っていうことでしょう?」

 デニーとの付き合いが長いせいで、真昼は、まるで馬鹿に言い聞かせるみたいな、そんな丁寧に説明しなくてもいいだろうみたいな話し方をするようになってしまったようだ。まあ、それはそれとして。真昼のその言葉を聞いて、マコトは、さも愉快そうに口の端を歪めながら、こう答える。

「ああ、違います違います。この人は、別に高く売ろうとして値段を吹っ掛けてきたわけじゃないですよ。そもそもの話、カリ・ユガ龍王領では、金銭というものはさほど重要じゃないんです。どんな人でも最低限生活出来る程度の金額は与えられますし。それに、あんまり馬鹿みたいに貯めたとしても没収されてしまいますしね。ここでは、物価調整はもちろんですけど、格差是正に関しても完全な「強制経済」が成り立ってるんです。要するに、外の世界と違って、アーガミパータにおいては、エコン族の神々の支配はそれほどいきわたってないってことですね。」

「でも、それじゃ、なんでさっきみたいに……」

 マコトは。

 肩を竦めて。

 こう答える。

「あのですね、砂流原さん。こんな何もないところで、ずっと一人でぷかぷか浮かんでるんですよ。どれだけ退屈か分かりますか? この人にはですね、客に対して馬鹿みたいな高値を言って、それを値引きさせることくらいしか娯楽がないんですよ。」

 ちなみに、マコトの説明に一つだけ付け加えておいた方がいいかもしれない。このクンダへと続くアレーを通ってきた時に、真昼が見掛けたあの浮浪者についてである。もしも、カリ・ユガ龍王領において「強制経済」が成り立っているというのならば。なぜあのような浮浪者がいるのかということだ。実はカリ・ユガ龍王領にも浮浪者は結構いる。どういった人間が浮浪者になるのかというと、それには二種類のパターンがあって、まずは乞食ジャーティに所属している人間がそうだ。そういう人間は先祖代々由緒正しい乞食なのであって、本人も誇り高い乞食なのである。ということで、「強制経済」がどうだとかこうだとかいうことなど、全くもって知ったことではなく、ただ粛々と乞食としての己の役目を全うするだけなのだ。もう一種類、人間として人間の自由を求めて、カリ・ユガ龍王領における政治体制からドロップアウトし、アウトサイダーになった人間がいる。そういう人間は、そもそもローガラトナという制度そのものが龍王による人類に対する家畜的管理の一環であると考えている。まあ、カリ・ユガは人間のことを家畜だなんて考えておらず、部屋の中にいつの間にか沸いているなんか小さい虫程度にしか思っていないのだが、それはそれとして……そのため、カリ・ユガ龍王領の「強制経済」を受け入れることがなく、結果的にカリ・ユガ龍王領がもたらすベーシックインカムも受け取らないということになるわけだ。

 さて、ところで。魔学者は、マコトとは違って、ローガラトナらしき宝石を取り出すような真似はしなかった。それどころか指一本たりとも動かすことなく……それにも拘わらず、マコトの宝石は、グリュプスとの取引を行った時のように、ぼんやりとした光を放ち始めて。そして、マコトの宝石から魔学者の肉体へと、直接「力」が移動し始めた。まあ、相手は魔学者なので、こういうこともあるのだろう。とにかく、マコトの宝石から、当事者間で合意があった分だけの「力」が移動して。

 すると、魔学者は。

 マコトに向かって。

 すっと。

 右の手を。

 差し出す。

 そうして差し出された右手の下に、マコトは、何かを受け止めるための皿みたいな形にした自分の両手を伸ばした。魔学者は、右手を、手のひらで握っている何かを弄んでいるかのように蠢かせていたのだけれど。やがてその手から、マコトが伸ばした手の中に何かが落下した。一粒落ちて、それから、もう一粒。それは、あたかも黒い炎のような輝きを放つ……要するに、ナーグマニで出来たイヤーリングであった。

 真昼が見た限りでは、魔学者の手の中には、確かに何もなかったはずなのだが。まあ、相手はディニクルスなのでそういうこともあるだろう、なんらかの魔法を使って出現させたに違いない。とにかく、マコトは、それを受け取ると。魔学者に向かって、ぱっと手を合わせて、大袈裟なくらい嬉しそうに、二回か三回かお礼を言ってから。真昼とマラーとがいる方を振り返った。

「いやー、お待たせしました。」

 そういって。

 二つのイヤーリング。

 真昼の手に、渡して。

「はい、どうぞ。一つは砂流原さんの分で一つはそちらのお嬢さんの分です。耳につけて下さい。」

「右耳にですか、左耳にですか。」

「どっちでも大丈夫ですよ。というか別に耳でなくても大丈夫なんですけどね。体のどこかにつけさえすれば。まあ、でも、せっかくイヤーリングの形をしてるんで。」

 そう言われた真昼は、なんとなく不信感を抱きながらも。マラーがつける前に、まず自分がつけてみて効果を確かめてみないといけないという思いから、すぐさま、そのイヤーリングを自分の耳につけてみた。

 留め金を外して、耳たぶに固定する。真昼はピアスホールも明けていたので、ピアスでも良かったのだが、それはともかくとして、最初は……特に、なんの変化も起こらなかった。「つけるだけでいいんですか」と念のために聞いてみて、「ええ」という答えを聞いて。それから……唐突に認識が変更した。

 例えるならば、これはちょっと定型的な表現になってしまうが、ラジオのチューニングを合わせている時に、突然、ノイズが晴れて誰かの歌声が聞こえてきたような感じだった。今まで麻痺していた感覚が、すっと澄み渡り、ぱっと晴れ渡り。そうして、自分の頭蓋骨の中に、怒りと憎しみとが帰ってきた。

 もちろん、その感情の大半は、目の前でへらへらと笑っているこの女に対するものだ。ポゼショナイズによって打ち消されてきた、吐き気を催してしまいそうなくらいの嫌悪感が、一気に噴き出してきて。それどころか、こんな女に、今まで唯々諾々と従ってきた自分に対する怒りまでもが込み上げてくる。

 この女が……この女が、ポゼショナイズについて、好き勝手なことを滔々と捲くし立てていた時に。なぜ、自分は、一言も反論しなかったのだろうか。何が養殖場の魚だ、何が無意味な革命だ、何が「寛容」だ。賢しらな言葉を並べて、全てを理解したつもりになって。真剣に生きている人々のことを口先で嘲笑する。あらゆる抑圧を正当化していい気になっているこの女を、なぜ殴りつけなかったのか。自由を求めて戦う人々のことを馬鹿にして悦に入っているこの女の顔に、なぜ唾を吐きかけなかったのか。人間を愚かだと決めつけて、搾取者に対して立ち上がる人々の誇り高い行動を、へらへらと笑いながら、それを頭ごなしに否定するこの女に、なぜ一言たりとも反論しなかったのか。

 自分に対する憎悪、そして恥辱。真昼は、それを感じていたのだが……また、それとともに。絶対に自分では認められないが、この女の言ったことを、心の底から否定し切れないということをも感じ始めていた。なんといっても、この女はMJLなのだ。この女をMJLであると考えるだけで、真昼は心臓さえも嘔吐しそうになるのだが。それでも、それは事実であるらしい。ということは、この二日間、真昼が見てきたものよりも。あの地獄の光景よりも、遥かにたくさんの絶望をその目にしてきた女なのだ。アーガパータはもちろん、ワトンゴラ、エスカリア、それどころか水鬼角まで。人間が悲劇を演じている場所の中で、この女が足を踏み入れたことのない場所は存在しないくらいだ。

 そんな人間が、人間は愚かだと言っている。

 それを、どうして、否定出来るのだろうか。

 それに、それだけではなく、もっと重要なことは。アーガミパータに来る前とは違って、アーガミパータで二日過ごした後の真昼は、自分自身のことを信じられなくなっていたのだ。人間というものは、本質的に、自分という存在を基準にして物事を考えがちなものである。人間の、人間に対する信頼とは、自分に対する信頼なのだ。自己愛の裏返しのようなもの。よくよく考えてみて欲しいのだが、テレパシー能力を持つ者を除けば、人間にとって、何を考えているのかということが本当に分かるのは、自分しかいないのだ。人間という生き物の本心に対するサンプルは、自分の分しかない。だから、自分の本心が美しいものであると考えるか、醜いものであると考えるか、そのことによって、人間そのものに対する認識が変わってくるのは当然のことである。

 真昼は、真昼は、自分の本心は美しいものであると信じ切っていた。いざとなれば自分は善なる行動をとる。そして、自分は、本質的に賢い生き物である。そう驕り高ぶっていた。だが、それは、ぬるま湯のように生易しい日常にどっぷりと浸かっていたから、そのように信じられただけなのだ。実際に、絶望的な状況に立たされた真昼は……何も出来なかった。臆病にも、卑劣にも、そして愚かにも。何も出来ずに、全てのことを、あのデナム・フーツという悪魔の手に委ねてしまっただけだ。いや、まあ、正確にいうと、あの時の真昼はデニーによって行動不能にされていたので、真昼ちゃんはそんなに自分を責めることはないよ、と個人的には思うのだが。それでも、真昼の自己認識は、アーガミパータに来る前とは大きく変わってしまっていたのだ。

 だから。

 真昼は。

 マコトの、言ったことを。

 否定し切ることが出来ず。

 ポゼショナイズが解けた後も。

 マコトのことを、睨み付けて。

 奥の歯をぎりっと噛み締めて。

 それでも。

 何も言えないまま。

 黙っているしかなかった。

 それから、ポゼショナイズが解けたことによって現れた顕著な影響が、もう一つあった。それは、真昼にとってはマコトに対する憎悪よりも遥かに重要な影響であって……要するに、マラーに対する拒否感まで戻ってきてしまったということだ。

 あらゆるマイナスの感情が戻ってきたことによって、パンダーラとダコイティとを裏切ってしまった・見殺しにしてしまったという、あの罪悪感が戻ってきたのだ。今まで、心地よく、麻薬によって包み込まれているかのような安寧の中にいたのに。それが剥ぎ取られてしまったことによって、自分という生き物が何をしたのか、それをまた直視しなければいけなくなってしまった。もちろん、それは、マラーを通じて直視するということだ。

 だから、マラーに対して、ついさっきまで抱いてような……あの、庇護的な感情。そういった感情を、素直に抱くことが出来なくなってしまって。そして、どうしようもない、抑え切れない、拒否感。より正確にいうならば、この世界を超越した何者かによる裁きを恐れるような、そんな恐怖にも似た感情を、また、感じるようになってしまったのだった。

 繋いでいる手から、伝わる温度。

 今すぐに離したくなってしまう。

 だから。

 真昼は。

 ほんの一瞬だけ。

 ポゼショナイズが続いていた方が。

 自分にとって良かったのでは、と。

 そんなこと、を。

 思ってしまった。

「どうですか、砂流原さん?」

 しかし、そういった自分にとって不愉快な考えを抱いてしまったということを、マコトに対して正直に話すわけもなく。というか、そもそも今の真昼はマコトとは口もききたくない状態なのだ。けれども、生来の育ちの良さが災いして、このイヤーリングを買ってくれた本人であるマコトのことを完全に無視することも出来ないで。結局のところ、いかにも不機嫌そうな顔をしたままで「このイヤーリングのおかげで、ポゼショナイズは無効化したみたいです」と、なんだかどっちつかずの答えを答えたのだった(ちなみに全然関係ないことですが、いくら育ちが良かろうとも、デニーを無視することにはなんの痛痒も感じない真昼ちゃんです)。

 それはともかく、どうやら人体に危険性はないだろうということは確かめられたので。マラーにもイヤーリングをつけてあげようとする。先ほどまでとは違って、マラーに対する態度が、なんとなくぎこちなくなってしまうのだが。それでも、自分の中の拒否感を無理やり押さえ付けて、マラーの耳に触れる。

 マラーは、真昼が少しだけ変わってしまったことなど気が付きもしないで、大人しく、真昼に触れられた方の耳を差し出した。ごわごわとしていて伸ばしっぱなしの髪の下に隠れていた小さな耳、その耳たぶに、イヤーリングをつける。けれども……時間が経過してもマラーにはなんの変化も起こらなかった。

 恐らく、先ほどマコトも言っていたように、マラーにとっては、ポゼショナイズがあまりにも当たり前のこと過ぎて、それがあろうとなかろうと、思考の内容にさしたる変化は現れないのだろう。そんなマラーのことを見て、真昼は、一瞬だけ、マラーにこのイヤーリングをつけたことに、何か意味があったのだろうかと思ってしまったが。マラーとしては、なんだかきらきらとした宝石を身に着けることが出来たことを喜んでいるらしく、嬉しそうな顔をして、しきりと耳に触れていたので。まあ、いいか、と、それ以上は考えないことにしたのだった。

 と。

 そんなわけで。

 このクンダで。

 すべきことは。

 終わった。

「さーて、それじゃあ、そろそろ上に戻りますかね。」

「……上に?」

 そういえば。

 なんの考えもなく。

 飛び降りてきたが。

「どうやって上がるんですか。」

「どうやってって?」

「あの井戸には、上にのぼるための階段とか、そういうものは特になかったようでしたけど。」

「ああ、そういうことですね。えーと、どうやってっていうか……普通に、あの壁をのぼっていくんですよ。こうやって。文字通りの岩壁登攀ですね。あはは、そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。積み重ねられている石と石との間には、指を引っ掛けられるところなんていくらでもありますからね。割合いに簡単にのぼれますから。」

 ちなみに、この言葉を聞いて。

 真昼が、どんな顔をしていたのかといえば。

 ええー、マジかよ……みたいな顔であった。

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