第二部プルガトリオ #7

 ナシマホウ界においてもマホウ界においても、一定程度の人間が集まった集団において選択される政体は、大体が優秀者支配制である。つまり、バシレイア(神王制)・アリストクラティア(貴族制)・ポリテイア(共和制)のどれかということであり、例えば月光国においてはバシレイアが採られているし、パンピュリア共和国においてはポリテイアが採られている。

 カリ・ユガ龍王領でも、この例に違わず優秀者支配制が採用されており、その中でもアリストクラティアの政体となっている。さて、ここまではなんの問題もないだろう。今時の集団で、独裁制や寡頭制や、あるいは衆愚制を採っている集団など、僅かな人間至上主義国家を例外として存在していないし。そういった国家でも、どうしようもないサテライトが支配者の座につかないように、最低限の制度的バリアーが組み込まれている。問題なのは――というよりも、むしろ優秀者支配制の最大の問題は――どのように「優秀者」を確保するのかということだ。

 パンピュリア共和国であれば、共和制の主体をノスフェラトゥにすることによってこの難問に一つの回答を出した。あるいは月光国であれば、神によって「天壌無窮」として定められ「修理固成」を任されたデミイモータルの人間が、人間による政体の成立から今まで、ずっとバシレイアにおけるバシレウスの役割を担っている。事程左様に、人間という愚かで不完全な存在が、政治という崇高な行為を行うというのは難しいことなのだ。

 さて、それでは、カリ・ユガ龍王領ではいかにして「優秀者」を確保しているのか? 簡単なことだ、元からいる人間達の中から「選ぶ」のではなく、優秀な人間を「作る」のである。アーガミパータ魔学だけではなく、東洋魔学における「格物窮理」や、あるいは西洋魔学における兎錬術の方法。科学における生物学や生起学やまで取り入れて、人間が作りうる限りにおいて最高の人間を作り出し、その人間に政治を任せるということだ。

 ただ、まあ、そういった人間を作るのは、当然ながらコストがかかるものであるし。集団におけるトップグループ、その一握りにしか使うことが出来ないのであるが。しかも、例えば軍事においての実質的なトップが舞龍であったり、宗教においての実質的なトップがレーグートであったり、あるいは人間による人間の支配組織の上にデザート・ユニコーンの官僚機構が位置していたりするのではあるが。それでも、普通の人間に人間の支配をやらせるよりはずーっとずーっとましなのである。

 そういった、カリ・ユガ龍王領においてはカーラナンピア(龍に愛された者という意味)と呼ばれている人造人間は、魔学及び科学の発達に応じて各世代に分かれている。その一つ一つの世代の全てのカーラナンピアは……軍事・宗教・(狭義の)政治といった用途に応じて、多少のカスタマイズがされているとはいえ。素体の部分では、全く同じ、一つのアーキタイプを共有しているのであって。それらの外見はほとんど同じように見える。

 さて。

 ここまでの説明で。

 何が言いたかった。

 のかと。

 いうと。

「んもーっ!」

 ポータルを抜けた先で。

 デニーと、真昼と、マラーとが見たものは。

 ほとんど同じ顔をした、三人の人間だった。

「そんなにちゃーんとしたお出迎えは、しなくていいって言ったのに!」

 #6が終わって、それからレーグートの言っていた十分程度が経過して。ちなみに、その十分程度は何をしていたのかというと、軍用生物の収容施設を見学させて貰っていたのだが(二種類しか動物がいなかったが、それでも動物園みたいだったので、真昼もちょっとは楽しめた)、とにかく、その後で、ようやくのことデニーの連絡がカリ・ユガまで届いたらしく。やっとこさっとこ、本領に入っても、少なくとも戦争のような事態が起こることはないという確約が取れたのであった。

 そんなわけで、さあ本領に参りましょうかということになったのだが、そこからがまた大変だった。これはよく考えれば想定しておいてしかるべきことだったが、この基地には、ポータルは一つしか存在していないのだ。それは、この基地と本領とのあらゆる輸送を担っているポータルなのであって。先ほどの薨々虹蜺の投下によって、この基地における喫緊の戦闘は、実質的には完全に終了していたとはいえ……それでも、様々な兵士・物資・軍用生物の行き来は、未だ続いていたのだ。

 その一方で、デニーは、カリ・ユガの友人ということもあり、基本的には「領賓」レベルの扱いをしなくてはいけないのであって。そんな兵器だの負傷兵だのと一緒にポータルで送るというわけにはいかない。いや、デニーは別に気にしないと思うし、真昼とマラーとはもちろん気にしないのであるが、こういうのはなんというか外交儀礼的なものであって、相手が気にするかどうかという問題ではないのだ。

 つまり、どういうことかというと……ポータルで流通しているあらゆる生物・非生物の往来を停止して。しかも、その上で、ポータルの近く、ぐっちゃぐちゃにとっ散らかってるあれこれを片付けなければいけないということだ。そう、そうなのだ。ここは軍事施設であって、デパートメント・ストアやスーパーマーケットやといった千客万来施設ではない。そのため、ポータルによって運ばれてきた物品を、わざわざ見栄えよく片付ける必要はなくて。いや、一応は、どこにどういうものを置かなければいけないということは、きちんと規則で決まってはいるのだが……とにかく、ポータル周辺は、散らかり放題に散らかっていた。

 そんなこんなで、ポータルを通行止めにして。それに、コンテナだのなんだのの整理整頓をして。そういった、煩雑な作業が、デニーがポータル通行を希望してから経過した一時間程度の時間で終わるはずもなく。レーグートに引き連れられたデニー・真昼・マラーがポータルに着いた時には、町から雇われた人々やウパチャカーナラや、それに兵士達まで総出で、その作業の真っ最中といった感じだったのだ。

 ただ、まあ、ここまではいい。特に問題はない。別に、作業が終わってなくてもただ待っていればいいだけの話なのだから。本領に到着するのが遅れるだけで、人の生き死にに関わることではない。問題なのは……この状況を見て、事情を聴いたデニーが、「ほえー、大変だね! じゃあ、デニーちゃんもお手伝いするよ!」と言い出したことである。

 いやいやいやいや、待って待って待って待って。デニーが「お片付け」を手伝うって、十中八九、ここにあるもの全部吹っ飛ばすよね? なんかの魔法的な力で。真昼は、ここ数日の実体験から、デニーのことをまあまあ理解し始めているというのは前にも書いたことであるが。その理解したことからいわせてもらえば、こまごまとコンテナを片付けるようなデニーではない。ばーんとして、どかーんってなって、ほーら綺麗になったよー、これがデニーなのだ。ほらほらほら! もう何か魔法円書き始めてるし! 駄目! やめて! 人が死ぬから!

 と、そんな風に。真昼と、それに空気を読んだレーグートとの二人掛かりで、「お片付け」をしようとするデニーのことを必死で止め続けた一時間の後に、ようやっとのことで、ポータル周辺の整理整頓が終わって。デニーと、疲れ切った真昼と、そんな真昼のことを気遣うマラーとは。左右に整列してお見送りをする、タンディー・チャッタン・フォワード・オペレーティング・ベースのお偉いさん達(シャーカラヴァッシャを除く)の間を通って、ポータルを潜り抜けたのだった。

 そして。

 今に。

 至る。

 と。

 いうわけ。

 だが。

 ポータルを抜けた先は……病院併設型倉庫だった。こういった施設は、通常ではあまり見られないものであるが、前線基地とポータルとで接続しているタイプのサプライ・デポにおいて標準的に見られる形態である。前線基地のような危険な場所に幾つもポータルを作るわけにはいかないし、そうなると、物資と傷病兵とを同じポータルで輸送しなければいけなくなる。大量の物資を即座に輸送するためにはポータルに倉庫を接続していた方がいい。傷病兵は緊急で治療が必要な場合が多いからポータルに病院を接続していた方がいい。ということで、このような施設が一番効率的という結論になるのだ。

 とはいえ、ポータルから出たすぐ先の空間は、倉庫でも病院でもなく一時隔離施設である。暫定政府軍のポータルに薨々虹蜺が流れ込んだシーンでも少し触れたが、激戦地域と接続しているようなポータルからは、何が流れ込んできてもおかしくないのであって。対神兵器の余波が入り込んできたりだとか、敵の大群が押し寄せてきたりだとか、まあそこまでいかないとしても、空気感染するドミトルやら目に見えないスパイ・ドローンやらがこっそりと侵入する可能性だってあるのである。そんなわけで、そういったものを排除するためには、こういった空間は不可欠というわけだ。

 そんなわけで、ポータルを抜けた真昼の目の前に広がっていた空間は、そこそこ広大な印象を与えるところの、あまりにも無機質な教会の回廊みたいな空間だった。その天井のヴォールトは、何本もの鉄筋が複雑に織り合わされて作られた半円形で。鉄筋の向こう側では、等間隔を置いてぼんやりと光るライトが下の空間を照らし出している。全体的に金属色をしているが、床面は驚くほど素っ気ない打ちっぱなしのコンクリートだ。

 横幅が二十五ダブルキュビトくらいで、高さもやはり二十五ダブルキュビトくらい。そして、奥行きは、百ダブルキュビトもあるだろうか。そんな風に広々としていて、細長い空間の、一番奥まったところに真昼が出てきたポータルが組み込まれている。ポータルから排出されている二本の道路が、それぞれ、倉庫の床に繋がっていて、それが大雑把に分けられた二つの車線になっているらしい。そんな車線が、ずっとずっと続いていて……その先には、巨大なシャッターが一つ、一番向こう側の壁の全体がシャッターになるみたいにして作り付けられていた。

 また、シャッターはその一つだけではなく、右側と左側との壁にも、幾つも幾つもシャッターが並んでいる。恐らくは、この一つ一つが倉庫だの病院だのに繋がっているのだろう。シャッター自体は、夢に沈み込む月の光みたいにして鈍く輝く聖堂の色をしていて……つまり、バルザイウムで出来ているらしかった。今のところは、それらの全てのシャッターが、完全に閉ざされていて。そして、この広々とした空間にはポータルで輸送されるべきものは何一つとして見当たらなかった。

 その代わりに。

 ここにあったものは。

 デニー達を出迎える。

 花びら。

 花びら。

 花びら

 の。

 雨。

 デニー達が向かう先、その両側に侍るようにして、数十人の儀仗兵が並んでいて。彼ら/彼女らが、デニー達が姿を見せるとともに、一斉に花びらを撒き散らし始めたのだ。アーガミパータにおいて「神」あるいは「神に類する者」を意味するピンク色の蓮の花びらが、デニー達の向かう先に、瞬く間に絨毯を作り出す。確かに華やかといえば華やかなのだが(花だけに)、倉庫内の他の部分は大変無味乾燥なままであったので、全体として見ると大変シュールな光景であった。

 さて。

 そんな儀仗兵達が作り出す。

 ピンク色の、ルートの先に。

 一人のレーグートと、共に。

 例の、ほとんど同じ姿形をした。

 三人の人間がいたということだ。

 レーグートについては触れるべきことはない。レーグートというのはどれも大体似たような姿をしているものなのであり、そのレーグートも、タンディー・チャッタンにいた個体と比べて、特に変わったところはなかったからだ。

 一方で、三人の人間については少しばかり触れておく必要があるだろう。先ほどから何度も何度も、その三人は似通っていると書いているが、これは当然の話であり、彼らはカーラナンピアなのだ。ちなみに今、「彼ら」という語を使ったが、肉体のほとんどの部分は男性であるにせよ、一部分は女性の個所もあり、しかもそもそも生殖を目的として作られていないため性別という概念がなく、従って正確には「彼ら」というのは正しくない。

 彼らを見て、一番最初に気が付くのは、彼らの表面が皮膚ではなく鱗によって覆われているということだ。服を着ているので全身が見えるわけではないのだが、もしも全身が見えたとすれば、まるで爬虫類のように、頭の上から爪先まで全身に鱗が生えていることに気が付くだろう(ちなみに髪は生えていない)。そして、その鱗であるが、赤イヴェール合金で出来ているみたいに、つやつやとした金属的な光沢を帯びた赤色をしているのだ。

 また、通常の人間とは異なった部分がもう一つあって、それは、額の部分に三つ目の目が存在しているということだ。三つ目の目ってなんかへんてこりんですね。とにかく、全身を覆う鱗よりも濃い赤色をした、腐敗した血液を固めて作った宝石のようなその目は……実のところ、舞龍などのナシマホウ界の蛇に特有の、例の、魔学的な力を感じることができるピット器官だった。

 年齢であるが、真昼にはよく分からなかった。三十代だといわれればそう見えなくもないし、六十代だといわれてもなるほどねと思うだろう。それは、鱗のせいで人間からかけ離れた顔のせいであり、また、ちょっと不気味なくらい生気が感じられない無表情のせいでもあったろう。なんとなく痩せた感じの体形で、手と足とが妙に長細く見える。身長は非常に高いが、人間離れした高さというわけではない。百八十から百九十ハーフディギトくらい。

 と。

 まあ。

 ベースとなるボディは。

 こんな感じであったが。

 その三人は、このような、全く同じといっていいほど似通った肉体の上に、全く違うといっていいほどに懸け離れた服装をしていた。それぞれがそれぞれの役割に応じて、それに相応しい象徴的な姿をしていたのだ。

 まず一人目、真ん中にいるカーラナンピアであるが、上半身が完全に裸になっていた。なぜなら身に着けているものが二つだけ、腰布とネックレスとだったからだ。縫製も裁断もされていないらしい腰布は、下半身をすっぽりと包み込んで、更にそれよりも長く、ずるずると引き摺るみたいな格好になっている。その部分だけ空白になってしまったみたいに真っ白で、しかも引き摺っている部分が、なぜかは分からないが、少しも汚れていない。そして、ネックレスは……特殊な方法でムーミヤー化させて、握り拳ぐらいの大きさに縮めた人間の頭部を、幾つも幾つも連ねて出来ていた。これらの頭部の一つ一つが、あの「魔学者の首」であって。要するにこのネックレスは、非常に強い魔力を持つマジックツールなのだ。

 それから、二人目。右側にいるカーラナンピア。このカーラナンピアは、上半身も下半身も服で覆われていたが、その服は大変シンプルなものだった。カーディーと呼ばれる、人の手で紡いだ糸を人の手で織った布で作られているらしい。これは、なんだかごわごわとした独特の手触りの綿布であり、通気性がよく、身に着けていると夏は涼しく感じるし冬は暖かく感じる。上半身に着ている服はひどく襟が緩いシャツであるクルター、下半身に着ている服は足首が足輪のように細くなったズボンであるチューリーダール。どちらも、月のない夜の闇で染め抜いたような真っ黒い色をしていた。そして、その頭には、恐らくは舞龍が脱皮した後の抜け殻で作られたと思しき帽子をかぶっていた。

 最後に三人目であるが、このカーラナンピアは明らかに軍人がするところの服装をしていた。ただし、アーガミパータに来て以来、真昼がずっと見続けてきた戦闘服ではなく、最高レベルの領賓を迎えるのに相応しい正装だ。輝かしいほど明るいサフラン色の軍服に、目にも鮮やかな金色のボタン。所属及び階級を表す記章や、専門的な能力を有していることを表すバッジ類が、ごてごてと取り付けられていて。まるで戦争で死んでいった全ての兵士たちを悼んでいるかのように、真黒なネクタイをつけていた。身に着けているアイテムについて、いちいち一つづつ挙げていってはきりがないし、こういった服装はどの軍隊であっても同じなので、描写についてはこれくらいにしておくが……ただし、一つだけ、真昼が見たことがない物があった。それは、その頭の全体を覆うようにぐるぐると巻かれていた布である。真昼は知らなかったのだが、これはパグリと呼ばれているアーガミパータに独特のファッションだ。その巻き方によって、巻いている人間がどのような地位にいる人間なのかということが、分かる人間にはすぐに分かるようになっている。ちなみに、このカーラナンピアが巻いている布は、きらきらと輝くような金糸によって織られていた。

 以上。

 このような三人が。

 デニー達のことを。

 手を合わせ。

 膝をつき。

 最大限の礼を尽くした姿で。

 待ち受けていて。

 その少し前の方に、その三人のことを代表しているかのようにして、レーグートが立っていたということだ。レーグートは、跪いてこそいなかったものの、四本の手のひらを体の前で合わせていて。そして、タンディー・チャッタンにいたレーグートと全く同じ声音・全く同じ口調によって、こう言う。

〈大変お待たせいたしました、ミスター・フーツ。〉

「んーん、いいのいいの、気にしないで!」

 デニーがこう言ったのは、別にデニーが寛大だからではなく……デニーが生きてきた年月に比べれば二時間程度の時間などハッピー・サテライトの全人生における実際にハッピーだった時間くらいの短さでしかないのであって。本当に、欠片も、気にしていなかったからこう言ったのだ。まあ、それはそれとして、デニーと真昼とマラーとは、麗しき花の絨毯の上を歩いて、レーグート&三人の方へと進んでいく。

「えーとお、右側から、マハーマントリンの子と、カーラプローヒタの子と、それから、この子がセナーパティの子かな?」

〈その通りでございます。〉

 歩きながら、跪いている三人のことを一人ずつ指さして、別に興味があるわけではないが一応聞いておきますという感じで聞いたデニーに。レーグートは、大変律義にそう答えた。デニーが口にした、その三つの称号は、真昼はどれも聞いたことがあるもので。確か、タンディー・チャッタンのレーグートが「最高責任者」であると言っていた三人の称号だ。

 ちなみに、真昼はデニーに問い掛けないし、デニーは真昼に説明しないので、念のため、地の文でざっと書いておくが。マハーマントリンというのが「最高位の大臣」みたいな意味であり、世俗権力を代表している。カーラプローヒタというのが「龍に使える神官」みたいな意味であり、宗教権力を代表している。セナーパティというのが「軍隊の主」みたいな意味であり、軍事権力を代表している。ちなみに全てジャーンバヴァ語の言葉であるが、とにかく、人間権力における大変基本的な三権分立がカリ・ユガ龍王領でも採用されているということだ。ただし、この場合に三権を分立させているのは、一人に権力を集中させることを避けるためというよりも、カーラナンピアの能力を専門化させることにより、一層の効率化を図るためという意味合いの方が大きいのだが。

 とにかく。

 デニーは。

 レーグートの。

 すぐ目の前まで。

 辿り着くと。

「ほらほら、立って立って! デニーちゃんだって、今日は別にせーしきのごほーもんって感じじゃないんだからさ! もっと軽ーくいこ! ね、軽ーく!」

 とかなんとか、レーグートの背後にいる三人に向かって言ったのだった。その言葉を受けて、三人は、両手を合わせたままで、一度深く頭を下げて。それから、まるで、そういう種類の発条仕掛けの玩具か何かみたいにして、三人がほとんど同じタイミングで一斉に立ち上がった。それを見てデニーは、いかにも満足そうにうんうんと頷く。

 それから。

 レーグートの方に。

 顔を戻して、言う。

「めんどーだから、挨拶は飛ばしちゃうよ。」

〈ええ、ええ、承知いたしました。〉

「それでねー、デニーちゃんがなんでここに来たのかっていうと、カリ・ユガとお話ししたくてここに来たの! まあ、カリ・ユガもカリ・ユガで色んなごつごーがあるだろうし。それにデニーちゃん達も、ここに来られた以上は、ずーっとずーっと安全だろうから。そーんなに急いでお話ししたいー!ってわけじゃないんだけど。えーっと、今、デニーちゃんがカリ・ユガに会いたいなって言ったら、いつぐらいに会えそうかなーあ?」

〈なるほどなるほど、左様でございますね。実はですね、タンディー・チャッタンにおりますわたくしとお話し頂きました際に、ミスター・フーツはカリ・ユガ様との会見を望まれるだろうと、既にそのように予想をさせて頂いておりましてですね。カリ・ユガ様に連絡を取らせて頂きました時、会見の件も併せてお伺いを立てておりました次第でございます。

〈聡明にして賢明にして英明、全てをお見通しになられるミスター・フーツのことです、既にご存じと思われますが……実のところ、現在のカリ・ユガ様はですね。他のご兄弟様とご一緒に、例のドリームランドの異常の件で、セラエノに行幸なさっておいででして。さすがに今すぐにお会い頂くというのは難しゅうございます。ただ……他ならぬミスター・フーツのためということで、明日、一時的にお戻りになられるそうでございます。そのようなわけで、明日ならば、お会い頂くことが可能でございます。〉

 レーグートのこのセリフには少しばかり解説を加えておく必要があるかもしれない。「タンディー・チャッタンにおりますわたくし」という部分についてであるが、これはどういうことかというと、レーグートという生き物は、基本的に個体ごとに独立してはおらず、全てのレーグートが接続しており、全体で一つの統一体となっている、という意味である。それゆえ、ある一人のレーグートと途中まで話した内容を、別のレーグートと話すことも可能であるし。また、それぞれのレーグートに、人間でいえば「真昼」だとか「マラー」だとかいう個体名があるわけでもない。

 さて。

 それはともかくとして。

 レーグートの回答。

 いたく、満足した。

 デニーは。

「え、聞いといてくれたの? ありがとー! デニーちゃん、とーっても嬉しい! セラエノってことは、セレファイス……だったっけ? あの件の会議に出てるってことだよね。そっかー、アナンタのところは、家族でお呼ばれしてるんだ。デニーちゃんもね、いちおーは、レノアとかと一緒にお呼ばれしてたんだけどお……めんどーだったからすっぽかしちゃったんだあ。まー、まー、それはいいとして! カリ・ユガは、明日には帰って来てくれるんだね!」

〈はい、その通りでございます!〉

「ひゅー、やったね真昼ちゃん!」

 と。

 そんな風に。

 話し掛けられた。

 真昼であったが。

 「え? ああ……」と、なんだか歯切れの悪い答えを返したきり、言葉が続かなかった。これは一見(一聞?)しただけでは、いつものように機嫌が悪いだけなのかとも思える反応だったし、実際にデニーもそう思ったので、特に追求しなかったのだが……実は、少し違っていた。

 タンディー・チャッタンからポータルをくぐってこの場所に着いて以来、真昼は、自分の思考を正常に働かせることが出来なくなっていた。いや、物事を普通に考える分には問題ないし、「靄がかかったようだ」とか「ぼんやりしている」とか、そういった感じでもないのだが。なんとなく……例えば、掛けている眼鏡の一部分が真っ黒く塗り潰されていて、そのせいで視界が欠けているかのように。自分が持っている思考能力の、ある一定の範囲が、完全に使用できなくなってしまっているのだ。

 先ほども書いたように、考えごとをする上で、何か差し支えあるわけではない。けれども、それでも、眼鏡の一部分が塗り潰されていれば、気になって気になって仕方がないように。今の真昼は、自分の思考の不完全さがめちゃくちゃ引っ掛かっているのだ。何を考えられなくなっているのか、それさえも分からない。というか、なぜこんなことになっているのかが、まず分からない。

 もしかしてデニーが何かしたとか? いや、そんな素振りは見せなかったし、それに、このタイミングでそんなことをする理由だってない。それならば、この倉庫の環境が何か関係しているのだろうか? そう思って、マラーの方に視線を向けてみるのだが。マラーは、真昼が感じているおかしさのようなものを感じてはいないようだった。真昼に影響を与えるような何かが、マラーには影響を与えないというのも妙な話なので。どうやらこの場所の環境は関係ないらしい、と真昼は思った。

 それならば。

 一体。

 何が。

 原因なのか。

 そんな風にして、煩悶というまではいかないが、悶々としている真昼をよそに。また、出迎えには来たものの、特に会話に口をはさむことなくそこに立ったままであるカーラナンピア達をよそに。それにもちろん、マラーのこともよそにして。デニーとレーグートとは、これからのことについての会話を続ける。

〈それでは、明日までお待ち頂けるということでよろしいでございましょうか?〉

「うん、だいじょーぶだいじょーぶ!」

〈寛大なるお言葉、誠にありがとうございます。それで……そうなりますと、ミスター・フーツと、それにお連れのお二方のご予定が、明日まですっぽりと開いてしまうことになりますね。いかがいたしましょうか。普通でしたら、昼には一通りの観光コースを組ませて頂き、夜には晩餐会、翌朝には首脳との会談、そして最後にカリ・ユガ様との会見、というスケジュールをご提案するところなのですが……残念ながら、今回は、お忍びでアーガミパータに来られているということで……〉

「あ、そーそー、そーなんだよねー。だから、あんまり目立ちたくないっていうかー。ほら、そういう公式の歓迎行事だと、色んな人にデニーちゃんがここにいるって知られちゃうでしょ? それは、ちょーっと、避けたいなーって感じなの。」

〈それでは、こちらで宿泊施設をご用意させて頂いておりますので、カリ・ユガ様がお戻りになるまでは……〉

「んー、そうしてもいいんだけどー。それだと、なーんか面白くないよね。ぽえぽえーっと、退屈っていうか。」

 デニーは、くっという感じで全身を傾げさせながら、下の唇に人差し指を当てて。いかにもわざとらしく、くるんっという感じで視線を上に向けて、ちょっと何かを考えていますというアピールをして見せた。それに対して、レーグートは、義理堅くも篤実であるかのような振る舞いとして、こう言葉を掛ける。

〈何か、ご希望でも……〉

「えーとね。」

 そう言われるのを待ち構えていたかのように。

 デニーは、きゃるーんとした笑みを浮かべた。

 それから、両手を背中の後ろに回して。

 ぐっと、前のめりになるような姿勢で。

 こう答える。

「ちょっとね、カリ・ユガが帰ってくる前に、見せて欲しい場所があるの。レーグートなら分かるでしょ?」

〈ああ……あの場所ですね。〉

「そうそう、あの場所。」

 ここで二人が「あの場所」と呼んでいる場所のことであるが、これは別にわざわざぼやかしているわけではなく、その場所というのが「第二次神人間大戦中に人間至上主義勢力側についたガルーダの軍勢とカリ・ユガの親であるアナンタの軍勢とが最終決戦を行った戦場の跡地」のことであり、この内容を全て口に出して言うのが面倒であるため「あの場所」で済ませているに過ぎない。こういう時に、こちらが言いたいことの全てを察してくれるレーグートというのは誠に便利な存在であるが、それはそれとして、二人の会話の続きを聞いてみよう。

〈お取引をなさる前に実際の品物をご確認なさりたいと。〉

「そーそー、そーいうこと。」

〈もちろんです、もちろんです、問題ございません。ただ……あの場所は、一応は、カリ・ユガ様御自ら封印を施された場所でございまして。わたくしどもでは、どうにもこうにも、開くことが出来ないと申しますか……〉

「それはだいじょーぶだよ、外側からちらっと見られればいいからね! あ、それとね、ほら、レーグートとかカーラナンピアとかを連れて歩いてると、とーっても目立っちゃうでしょ? だからね、えーと、うーんと、「あの場所」の見学はぁ、デニーちゃん達だけで行きたいんだけどぉ……ダメ?」

 おおっと、久しぶりに出ましたよ! 可愛らし過ぎるデニーちゃんの小悪魔上目遣い攻撃だ! まあ、実際の話をすると、デニーちゃんは小悪魔などではなく大悪魔なのだが。それはそれとして、きゅるんとしてソー・キューティーなデニーちゃんのお願いに心を動かされないやつがいるとしたら、それはきっと心がないやつくらいだろう。そのちょうどいい実例として、ここにいるレーグートには心がなく、ということでレーグートは心が動かされることはなかったが……それはそれとして、こう答える。

〈そうですね、本来であればお断りしているところでございますが。ただですね、ミスター・フーツ、わたくしどもは、あなたさまに対して行動を強制出来るような強制力を何一つ所持しておりません。ということで、ここでわたくしどもが、あなたさまに対して、NOと言うことはできないのでございます。そのようなわけでして……つまるところですね、ミスター・フーツ。わたくしどもは、あなたさまのご要望に、「問題ございません」とお答え申し上げる以外ないわけですね。まあ、結界がある以上、あの場所にあるものを勝手に持ち出すことは出来ないでしょうし……カリ・ユガ様も大して気にはなさらないでしょう。どうぞ、ご自由に。わたくしどもを皆殺しにしない範囲で、お好きに行動なさって下さい。〉

「さーっすがレーグートだね! 話が早い!」

 デニーちゃんは。

 そう言うと。

 とても嬉しそうに。

 にぱーっと笑った。

 一方の真昼であるが。まだ、違和感について、その正体がなんであるのかということに意識を集中させていた。そのせいで、今後起こるであろうことのヒント、例えば「あの場所」というのはどこのことなのか、そこにあるものを「勝手に持ち出す」とはどういうことなのか、そういったことについての問いをデニーに発することが出来なかったのだが……それは、まあ、後々になって分かることとして。

 なんとなく、違和感の正体が見えてきていた。それは……不気味なほどの多幸感だった。例えるならば、真冬の一番寒い時期、暖房がよく効いた部屋の中で、ふわふわの布団にくるまって、いつまでもいつまでもうとうとしているような。なんだか、全身が暖かくて柔らかいものに包まれているような、そんな感覚なのだ。つまるところ、何が欠如しているのかといえば。それは、要するに……不安だ。

 不安だけでなく、その他の、あらゆるマイナスの感情。嫌悪だとか、憎悪だとか、恐怖だとか、悲痛だとか、絶望だとか。そういった感情が、奇妙な具合に欠けている。完全に失われているというわけではない。例えば、デニーのことは、相変わらずぶっ殺したいと思っているし。けれども、その形は、どこか完全ではない。言葉で上手くいうことは出来ないが……一番大切な部分、コアとなる部分が失われている。いってみれば去勢されているのだ。

 これは、本来ならば、真昼にとって大変重要なことである。何者かによって自分という感覚が侵害されているのだ、しかもそれだけでなく、その侵害が、誰によって、なんの目的で、なされているのかということも分からない。普通であれば、今すぐにでも、これをなんとかするために、何かしらの行動をとるようデニーに対して迫っているところだ。

 しかし……今の真昼は、そういうことはしなかった。それについての表向きの理由はこういうことだ、なんでもかんでもデニーに頼るというのはデニーに対する依存である。デニーのような悪辣非道邪知暴虐な悪魔オブ悪魔に依存するというのは、その前人未到の悪行及び大罪を肯定するのと、変わらないことなのであって。これ以上はそんなことをしてはいけない。自分でなんとか出来ることは自分でなんとかしなければいけないのだ。だから、この件も、自分でなんとか出来ないかどうかもう少し探ってみよう。

 これは確かにもっともらしい理由であるが……実は、本当の理由は別のところにあった。真昼は、心の奥の奥、自分では気が付いていない、気が付こうとはしていない、本心の部分では……この状態を手放したくなかったのだ。真昼の中で、先ほどまで渦巻いていた感情。自分自身が許せないという憎悪の感覚、全てを失ってしまったという絶望の感覚、そういった苦しみに酷似した感情が、綺麗さっぱり消えたとまではいわなくても、あたかも麻酔をかけられたかのように、無視出来る程度の痛みに代わっていて。

 それに、それだけではない。もっと、もっと、大切なのは……マラーに対する嫌悪の感覚が、ほとんど失われていたということだ。マラーの手を、ぎゅっと握っていても。今までのように払いのけたくなるような生理的な拒否反応が起こることがない。「あのこと」が起こる前のように、優しい気持ち、保護者のような気持ちで接することが出来る。これは、真昼にとって、何よりも重要なことであって。実のところ、真昼は、この優しさを失いたくなかったということなのだ。

 確かに、それは。

 自分自身の本心から出た。

 本当の優しさでは、ない。

 けれども、それがどうしたというのだ?

 さっきまで真昼が見せていた優しさも。

 所詮は、偽りの、優しさ、だったのだ。

 今更。

 何を。

 拒む。

 必要が。

 あるのか?

 ということで……もちろん真昼は、この欺瞞を意識的に受け入れていたわけではないのだが。とはいえ深層心理では、確実にこのような思考が働いていたのだった。全くもー、真昼ちゃんってば! ほんとーに、とってもさぴえんす!

 さて、そんな真昼であったが。デニーとレーグートとの話をろくに聞いていなかったとはいえ、話がまとまりそうだという気配に関してはなんとなく気が付いたらしい。頭の中で堂々巡りをする無意味な思考のカルーシルを、ここで一度止めて。二人の会話に注意を向けた。

〈それでは、明日のカリ・ユガ様とのご会見の時間までは、わたくしどものご案内等は特にご必要ではないということでよろしいでしょうか?〉

「それでいいよっ!」

〈かしこまりました……とはいえ、ご宿泊なさる施設に関しましては、既にこちらでご用意させて頂いておりますので、そちらをお使い下さると大変光栄でございますが。〉

「ほえ? あー、うん、そうだね! お泊りするところは、自分で探すのはちょっとだけ面倒だし……それに、お金も持ってないし! 用意して貰ったところにしよっかな。」

〈ありがとうございます、ありがとうございます。エーカパーダ宮殿を貸し切りにて確保させて頂いておりますので、「あの場所」のご見学が終わりましたらそちらまで足をお運び下さるようお願い申し上げます。ところで……場所の方は、ご存じでしたでしょうか?〉

「えーっと、あそこだよね? マイトリー・サラスの橋のところ!」

〈そうです、そうです、その通りでございます。〉

「分かる分かる、だいじょーぶだよ!」

〈それはようございました、わたくしどもとしましても、ミスター・フーツがエーカパーダ宮殿の場所をご存じとのことで、大変安心いたしました次第でございます。それでは……本日は、ミスター・フーツとお連れのお二方とで「あの場所」をご見学なさって、それが終わられましたらエーカパーダ宮殿で一夜をお過ごしになる。そして、明日になったらカリ・ユガ様とのご会見。このような形で、ご予定はよろしかったでしょうか?〉

「はいほー、それでだいじょーぶ!」

〈かしこまりました、かしこまりました。ちなみに……〉

 そこまで話すと。

 レーグートは。

 言葉を切って。

 ちらりと、デニーの背後。

 真昼とマラーとに視線を向けた。

「ほえ?」

〈本日のご夕食と、明日のご朝食は……?〉

「あー、そういうことね! いちおー、よーいしといて!」

〈かしこまりました、かしこまりました。〉

 どうやら。

 話は。

 そんな。

 内容で。

 決定したらしい。

 デニーとレーグートとの会話を、改めてきちんと聞いた真昼としては、その中に出てきた「あの場所」というのがどこなのかということ、もっと正確にいえば、自分がどこに連れていかれるのかということ。もちろん気になりはしたのだが……ただ、今の、非常に冷静な気持ちであるところの真昼には。レーグート及び三人のカーラナンピア達によって歓迎されている最中に、デニーを問い詰めたり、あるいはデニーとひそひそ話をしたり、そういうことをするのは、ちょっと礼節を欠いていると理解出来るだけの思考能力があったので。そのことについて問い掛けるのは、もう少し後にすることにした。

 なので。

 特に真昼によって遮られることなく。

 その歓迎も、終わりに近付いてくる。

「そ、れ、じゃーあ。」

〈はい、はい。〉

「デニーちゃん達は、そろそろ行こうかな。」

〈左様でございますか。お見送りは……〉

「だいじょーぶ、いらないよー。」

〈かしこまりました、かしこまりました。ただ、ここは一応のところ軍事施設でございますので、出口までお送りするための兵士を二人ほどお付けさせて頂きますね。〉

「はいほー、分かりましたー。」

〈ああ、そうそう。最後に一つ言い忘れておりましたが。〉

「ほえ? なあに。」

〈正面の出口をお使いにならず、裏口からお出になることをお勧めいたします。実はでございますね、本日は、暫定政府軍に対する一時的な勝利を祝うための凱旋パレードが行われておりまして。この城塞の正面、マハーヴィジャナ・マールガは、それはもう大変な賑わいでございます。ミスター・フーツはお目立ちになりたくないとのことでしたので、避けたほうが無難でございますかと。〉

「へー、そうなんだ。じゃあ、そーするよ。」

〈ご賢明なご判断でございます。〉

 レーグート、この短時間に七回も「かしこまりました」って言ったな……無慈悲なかしこまりましたマシーンかよ……と思わなくもないが。レーグートはそういう生き物だから仕方がないだろう。それはともかくとして、デニーとレーグートとの会話がそこまで来ると、三人のカーラナンピア達は、その三人共が、さっと右側に寄って道を開いた。カーラナンピア達は、タンディー・チャッタンにいたナーガヴィジェタ達とは違って、共通語を理解することが出来るので、そろそろデニー達が出発するということが分かったからである。

 一方で、レーグートは。そちらの方にはちらとも目を向けることなく、二本ある右の手の、上の方の手を、ぱっと上げると。イパータ語で、一言か二言か、何かを口にした。すると、隊列を組み花を撒いてデニーのことを出迎えた兵士達のうちの二人が、その隊列からすっと離れて。無言のまま付き従う影のような態度で、デニー達の傍にやってきた。どうやらこの二人が出口まで護送する兵士達らしい。

〈それでは、大変名残り惜しゅうございますが……〉

「はいはーい。わざわざお出迎え、ありがとーね。」

〈いえ、いえ。とんでもございません。〉

 それからデニーは、真昼に向かって「そろそろ行くよっ!」と声を掛けた。真昼は、ひどく素直な気持ちでその言葉を受け取って。特に何かを言うことはなかったが、一度、軽く頷いて見せた。そして、マラーの手のひらを、しっかりと握り締める。

 マラーは……本当になんとはなくであるが、真昼の態度が、少し変わったということに気が付いたらしい。今まで、少しだけ、とげとげしかった雰囲気が。また、優しい優しい真昼に戻っているということを、敏感に感じ取ったのだ。だから、マラーは、ちょっとだけ嬉しくなってしまって。真昼の手を、きゅっという感じで握り返したのだった。

 そうして。

 デニー達は。

 歩き出して。

 レーグートは。

 その後ろ姿に。

 こう、声を掛ける。

〈また後ほどお会いいたしましょう。〉


 人。

 人。

 人。

 もう。

 なんか。

 ほんと。

 人。

 真昼も、一応、人込みというのは見たことがある。以前も書いたように、ワトンゴラ・パーセキューションに対する抗議のデモに参加したことがあったし。あの時はあの時でこれまで見たことがないくらいの熱気だと思ったものだが……とはいえ、今、目にしているものと比べてみれば。あんなのは、地方にあるスーパーのセールタイムみたいなものだ。いや、違う、比べ物にさえならない。完全に、本質が違うのだ。今までに見てきた人込みは、人込みだ。だが、今、目の前にあるこれは……legionだった。

 数百人。

 数千人。

 いや、数万人。

 数え切れないほどの人間が群れを成して、まるで一体化しているかのように、一つの熱狂を熱狂している。一人一人の人間を見分けることが出来ず、ただただ流動するエネルギーとさえ見えるその様は、何もかもを焼き尽くす溶岩流だ。そんな溶岩流の中で……人々は、自らを焼き尽くそうとする熱量に突き動かされて、癲癇性の痙攣にしか見えないようなやり方で踊っていた。何か、きちんと決まった型がある舞踏ではなく。今にも弾け飛びそうなくらいに満ち満ちた肉体が、生命力を溢れさせるがままに踊っているのだ。ある者は、カリ・ユガ龍王領の領旗を持って。ある者は、色とりどりの煙を吹き出す煙筒を持って。ある者は、何も持たずに、ただただ天空に向かって拳を突き上げて。

 つまり、これが……レーグートが言っていた、カリ・ユガ軍の凱旋パレードということらしかった。タンディー・チャッタンのポータルを抜けてデニー達が辿り着いた場所は、ヤジュニョーパヴィーダ城塞という軍事基地の、地下にあるポータル・センターだった。ヤジ(略)ーダ城塞とは、第二次神人間大戦後に頻発した無教徒との戦闘に備えて作られた、カリ・ユガ軍が持つ最大の軍事基地であって。そのため、龍王領の中でもスカーヴァティー山脈(月光国においては極楽浄土という名の方が有名だろう)がある西端、ほとんど人が来ることのない、荒野みたいな場所に作られていたのであったが。それでも、そんなヤジ(略)ーダ城塞と龍王領の都市部とを結びつける唯一のアベニューであるマハーヴィジャナ・マールガには、たくさんの一般市民が駆けつけていた。

 ちなみに、この凱旋パレードというのは、タンディー・チャッタン以外の地域での戦闘がいったん落ち着いたことを祝うためのものであって。そのパレードに参加している兵士達も、タンディー・チャッタン以外の、既に戦闘が終結している地域から集まってきた兵士達だった。マハーヴィジャナ・マールガの両側には、数十メートルはありそうな分厚い一般市民の層が出来ていたので。真昼には、そういった兵士達の姿はほとんど見えなかったのだが……それでも、いかにも誇らしげに上空を旋回しつつ、時折は花火のように炎を吐き出している、グラディバーン達の姿は見えていた(まあグラディバーンが誇らしげに思っているわけがないのでそれは真昼の思い込みであったが)。

 兵士達は、それぞれが所属する前線基地ごとに分かれて。十数ダブルキュビトはあるマハーヴィジャナ・マールガいっぱいに広がるみたいにして、晴れ晴れとパレードを行っていた。十六列に並んで足並みを揃えるウパチャカーナラ、五列に並んで足音を響かせるガジャラチャ。同じく五列に並んだマンティコアの上には、一人ずつ騎兵が乗って、一般市民に向かって手を振っている。人間の歩兵達は、ウパチャカーナラの後ろに、やはり十六列に並んで。一挙手とて、一投足とて、乱れることのない行進を見せている。先頭にいる、各前線基地の人間種族の最高責任者達は、コンバーティブルの軍用車両に乗って、一番先頭で堂々とはためいている龍王領の領旗によって率いられていた。

 また……こんなことはいちいち書かなくても、読者の皆さんはお分かりのことと思われますが。もちろん、舞龍は、そのパレードには参加していなかった。それぞれの前線基地に、それぞれの司令官たる舞龍がいるのではあるが。そういった舞龍達は、お留守番を任されて基地に残っているのだ。ここはアーガミパータであって、いくら戦闘が終わったといってもいつ何時何者が襲ってくるか分からない場所なのであって、防衛ラインには舞龍のような強力な生き物が常駐していないと不味いからである。まあ、お留守番という任務がなくても、舞龍のような危険な生命体をパレードに参加させるわけにはいかなかっただろうし……それに、舞龍側としても、別段参加したいとは思わなかっただろうが。

 参加したいと思わないといえばデザートユニコーンである。デザートユニコーンは、確かに戦闘要員ではなかったが、それでもロジスティック関係の最高責任者として紛争に参加していたのであって。このパレードに参加していてもおかしくないはずであったが……けれども、やはり、このパレードではその姿を見ることが出来なかった。それには二つの理由がある。まず一つ目が、このパレードはデザートユニコーンのためのものではなく人間のためのものであるということだ。このパレードは、人間に対する支配をやりやすくするためのもの、関係知性の持ち主であるところの人間が、祝祭の空間で、共通言語場である社会への接続を歓喜とともに確信するためのものである。ということは、このパレードで一番目立つのは人間であることが好ましい。その一方で、もしもデザートユニコーンがこのパレードに参加していた場合、いうまでもなく、下等知的生命体であるところの人間よりも、高等知的生命体であるところのデザートユニコーンの方が、祝祭における栄光権力に一層近い位置に位置してしまうことになる。そのような状況はこのパレードの目的を毀損するものであるため好ましくないということだ。そして、二つ目の理由は……端的に、デザートユニコーンが、このようなパレードに、別に参加したいとは思っていないということである。いや、積極的に嫌だということはないのだが。デザートユニコーンは人間よりも遥かに力強い生き物であって、人間のようにごくごく簡単に疲労してしまうというようなことはない。このようなパレードの一つや二つや、あるいは千や二千や、参加したところで痛くも痒くもない。ただ、とはいえ、参加することに何かメリットがあるかといえば何もない。文字通りの皆無、完全な虚無である。まあ、人間の観念がなんかわちゃわちゃしているのを見るのはそこそこ面白いかもしれないが、そういうのも五秒くらいで飽きるだろう。ハムスターが回し車を回しているところを見るのはそこそこ面白いが、まあ五秒くらいで飽きるというのと同じことだ。ということで、デザートユニコーンはこのパレードへの参加を免除されていたということである。

 さて。

 そんな。

 壮観な。

 行列が。

 アベニューを。

 誇示するように。

 行進している。

 アベニューといっても、それは普通の道路ではなく。非常にすべらかな石畳で舗装された、荒野の真ん中にたった一本だけ続いている道であって。なんとなく、街道というか参道というか、そんな雰囲気であるように真昼には思われた。

 荒野は……少なくとも、真昼の目にはずっとずっと続いているように見える荒野だったのだが。ただし、それは、ヌリトヤ沙漠の他の場所で見られるような砂沙漠ではなかった。確かに沙漠は沙漠であるのだが、どちらかといえば土沙漠に近いだろう。荒れ果てた大地のところどころに、干からびかけて黄色くなった草が生えているような場所ということだ。

 そして、そんな荒野に、兵士達を出迎えに集まった人々が群れなしているというわけなのである。先ほども書いたのだが、一般市民の方々は、お祭り騒ぎであった。もう、なんというか、兵士達が行っているパレードとは別個のパレードとして成立してしまいそうなほどの勢いなのである。

 さっき書いたような人々の他にも、パレードと並んで歩きながら太鼓を叩いている集団がいたり、その太鼓の音に合わせて踊っている老若男女がいたり。恐らく舞龍を表しているのであろう、羽をくっつけた襤褸布を身にまとった人がいると思えば、壊れかけた弦楽器を奏でながら大声を張り上げて歌っている人もいる。それに、あれは……領旗に描かれている蛇を、大きな模型として立体化したものらしい。四本ある首の一つ一つを、一人一人の人間が掲げるようにして持って。胴体の部分は、数人の人間で支えている。そして、まるで生きているかのように、その模型を動かして、波打たせているのだ。

 誰彼ともなく、火の粉のように真っ赤な花びらを撒き散らしている。整列し、基地へと帰還する兵士達に向かって。真昼はそれを見ると、アーガミパータというのはことあるごとに花びらを撒き散らす場所だなと思ってしまったのだけれど……まあ、まあ、間違ってはいない偏見であろう。花びらは、デニー達に対して撒き散らされた時と同じように、いや、それ以上に分厚い絨毯を、マハーヴィジャナ・マールガに作っていて。それに、深紅の欠片がlegionの上で舞い踊る様は、あたかも、溶岩の上に火の粉が飛び散っているように見えて。

 ああ。

 そう。

 そこにあるのは。

 暴れ狂う、熱量。

 これが。

 これこそが。

 勝利の温度。

 そして、そんな温度から少し離れた場所を、デニーと真昼とマラーとは歩いていた。ざらざらと硬く乾燥している、舗装されていない大地は、真昼の履いているスニーカーの底を突き刺してくるかのように、歩きにくい。

 ああいったお祭り騒ぎがいかにも好きそうなデニーは……けれども、さしてパレードに興味を抱いている様子はなかった。まあ、この様子には別に大した理由はなく、なんとなく気分が乗らないというだけなのだろう。

 とにもかくにも、あの熱狂がまるで他人事であるかのような、というか実際に他人事なのだが、そんな風な冷静さが、この三人を包み込んでいる感じだった。正確にいうと、アーガミパータ・ネイティブであるところのマラーは、聞こえてくる太鼓の音とか見えている花びらとかに、少しばかりウキウキハートを刺激されているらしく。なんとなく浮かれやかにそわそわしていたのだが、まあ、その程度だ。

 ちなみに、真昼はというと。特に、何かしらの感情を抱いてているようには見えなかった。本当にニュートラルな、中立的な表情で、パレードと市民集団とを見ていて。これは、よくよく考えてみれば、奇妙なことだった。なぜなら、真昼は、見てきたからだ。タンディー・チャッタンで行われた、あの非道、あの残虐……戦闘を終わらせるために落とされた薨々虹蜺を。

 普段の真昼であれば、何か怒りだとか悲しみだとかのような感情を抱いていてしかるべきだし。ASK、ダコイティ、「あのこと」が起こった後の真昼であっても、それでもなんらかの葛藤くらいはあってしかるべきだろう。この勝利の裏で、どんな犠牲が払われたのかということ。それを知っている真昼が……そのような犠牲についてさえ全面的に正当化してしまいそうなほどの勢いで大騒ぎしている様を見て。何かしらを思わないはずがないのだ。

 それでも、真昼は。

 何も感じなかった。

 というか、そういった犠牲のことと、目の前で行われているパレードとを結び付けることさえしなかった。楽しそうだな、とか、派手にやってるな、とか、そういったことしか考えに浮かばなかったのだ。ポータルを抜けた後で、真昼が感じた違和感。なんらかの欠如の感覚が、真昼のこの不感・この鈍麻に関係していることは……どう考えても明らかである。

 ただし。

 そうはいっても。

 真昼は。

 その不感のおかげで。

 その鈍麻のおかげで。

 とても。

 穏やかな。

 心で。

 いられたのだが。

「ねえ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「これから、どこに行くの。」

 がりがりと髪の毛を掻き乱すみたいにして引っ掻きながら、真昼は問い掛けた。これは頭が痒いからそうしている行為ではなく、容赦なく照り付ける太陽に熱された髪の毛から、熱を吐き出させるためにそうしている行為だ。

 レーグートとの会話で言っていた「あの場所」について、そろそろ聞いてもいい頃だろうと思い始めたということだった。一方で、問い掛けられた方のデニーは。真昼の方、ちらっと横目で振り返って、それからこう答える。

「デニーちゃんがここに来たのは、カリ・ユガから「借りたいものがある」からだっていうことは言ったよね?」

「それは聞いた。」

「今から行くのは、その借りたいものが置いてあるところ。」

「……アーセナルってこと?」

「ううん、そーじゃなくって。ちょっと前に……えーと、第二次神人間大戦の初めの頃かな。ここら辺の全部全部を巻き込んだ、おーっきなどんぱちぱっぱがあったんだけど。そのどんぱちぱっぱの、最後の戦場になったところ。」

「戦場の、跡地ってこと?」

「そうそう、そーいうこと。」

 兵器というか武器というか、REV.Mに対抗するための「外付けの力」を探しに行くには、少し奇妙な場所であるように思えたのだけれど。今の真昼は、つまり思考の一部が欠如している真昼は、そのことについて深く考えることはなかった。まあ、第二次神人間大戦の激戦地だったというのならば、強力なマジック・ツールか何かが残されていてもおかしくない。デニーは、そういったものを借りようとしているのだろう。そんなことを考えて、自分の中で満足してしまった。

「そこまでは。」

「ほえ?」

「歩いていくわけ?」

 それよりも、今気になるのはそのことだった。時刻は正午などをとっくに過ぎてしまって。もう優雅で感傷的なアーガミパータのティータイムに入っていてもおかしくないくらいの時間であるのだが。それでも、照り付ける太陽は、まだまだ責め苛むかのような熱量を放っている。それにこの地面も良くない。真昼の足でさえこれだけ歩きにくいのだから……マラーの足では、とてもではないが耐えられるものではないだろう。

 そう、そういうことだ。真昼自身は、別に、こういった環境でも構わないのだが。マラーにそれを我慢させるのはどう考えても良くないことだということ。いくらアーガミパータで生まれアーガミパータで生活してきたとはいえ。まだまだ子供なのだ。それにそもそもマラーは南部の生まれであって北部の生まれではない。南部と北部とは環境が全く違うのだ。

 問い掛けに対して。

 デニーは、答える。

「ううん、歩いてはいかないよ。」

「じゃあ……」

「そこらへんでタクシーを拾うの。」

「タクシー?」

「そうだよ、タクシー。」

 なんか、こう、当たり前すぎて逆に意外な答えだった。タクシー? あのデナム・フーツが、アーガミパータにおける移動手段として選ぶのが、タクシーだというのか? なんという、なんという一般的な方法なのだ! みたいな感じだ。というか、カリ・ユガという何者かが支配しているというこの場所に、タクシーなどというものがあるのだろうか。なんとなく、アーガミパータは、そういう「真昼にとっての日常」に関係する何かとは縁遠いように思われてしまうのだが。

「あ、でもね、タクシーっていっても……」

 と。

 そこまで。

 口にした。

 その時。

 デニーが言葉を切った。その時のデニーは、真昼から目を離して、特に何を見るともなしといった具合に、一般市民の群れを眺めていたのだけれど。ふっと、その中の何かに目を止めたのだ。人込みの中に、こんなところで出会うとは思っていなかった知り合いの顔を、見かけたようなそうでもないような、そんな感じの顔。そちらの方にじっと目を凝らしながら……デニーにしては珍しく、自信なさげな声で、こう言う。

「マコトちゃん?」

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