第二部プルガトリオ #6

 真昼の視界。

 ふっと歪み。

 次の瞬間には。

 その両目。

 全く、別の、光景を、見ている。

 周りにいる生き物は変わらない。デニーと、レーグートと、それにマラー。けれども、それ以外の光景は、その全てが変わってしまっていて。真昼は、一瞬だけ遅れて、自分の体がさっきまでいた場所とはまるで別の場所に立っているということに気が付いた。人間の脳髄には処理しきれないほどの、突然の環境の変化。要するに……デニーは、周りにいる生き物全てを連れて、先ほどの場所からこの場所まで御神渡りをしたということだ。

 そのことについては問題ない。オールエーケーだ。真昼は、もう三度ほど御神渡りを経験していたので、その感覚にはそこそこ慣れていたし。まあ、その三度ともがパンダーラというダイモニカスによって行われたものだったが……それでも、パンダーラに出来る程度のことなら、デニーが出来ないわけがないということ、真昼にもなんとなく分かっていたから。だから、御神渡りそのものについての驚きはほとんど存在していなかった。

 ただし。

 ここが。

 どこかと。

 いうこと。

 それは、話が別だ。

「な……!」

 真昼は、つい声を漏らしていた。その感覚は恐怖というわけではない。どちらかといえば、肉体に刻まれた、反射的な生存への執着というものに近いだろう。いくら真昼が絶望し切っていて、気持ちの上では死を渇望していようとも。肉体というものは、生きることを宿命づけられているのであって、この感覚はその宿命の部分だ。下等な生き物は、特定の刺激に対してその「執着」「宿命」を露わにする。例えば、暗い場所に閉じ込められた時。例えば、炎を目の前にした時。それから、例えば……自分が、いつの間にか、とてもとても高い場所に立っていた時。

 それが。

 今の。

 真昼だ。

 端的にいえば、真昼は空の上に立っていた。いや、まあ、空というものがどこから空であるのかという定義によって、これが比喩的な表現なのか、それともそうではないのかということが決まるのだが。とにかく、大地よりも遥かに上、雲よりも少し下、そんな場所に立っていたということだ。

 おいおいマジかよって話であるが、とはいえ真昼はすぐに冷静さを取り戻す。取り乱したのは一瞬だけだ。確かに自分は空の上に立っている。そして、明らかに、足の下にはそれに依って立つべき足場はない。だが、それがどうしたというのだ? 真昼が今まで経験してきたことに比べれば、マンティコアとデンギジアン・ハムスターとを比べるようなものだ。念のため書いておくが、マンティコアとは人食いの怪物のことであり、デンギジアン・ハムスターとは小さくてふわふわしたハムスターのことである。

 明らかに何が起きたのかということを理解出来ず、その場にへたり込んでしまって。必死に、腿の辺りにしがみ付いてくるマラー(御神渡りを一度も経験していない)。真昼は、その場にしゃがみ込んで、そんなマラーのことを、宥めるように撫でさすりながら。改めて下の世界を見下ろす。

 よくよく見てみると、真昼の足元は、あたかも夢を見るように静かに静かに歪んでいた。麻酔を溶かし込んだ氷を通した向こう側を見ているみたいだ。恐らくは、目には見えない魔学的なフィールドが張られているのだろう。もちろん、それはデニーが作り出したものに違いない。そして、そのフィールドを通して見た、少しばかり下の方に……砂嵐が見えた。

 要するに、現在の真昼は、タンディー・チャッタンにある拠点を防衛している結界、その真上に立っているらしい。これほどの高みから見ると、あの砂嵐が、ある程度の高度までは垂直な柱として渦巻いているのであるが、最上部付近になって、平行方向へと急速に開いていき、一種の漏斗型になっているということが分かる。そう、あの砂嵐は、結界であるにも拘わらず、上の部分が開いているのだ。これがなぜなのかということは、これから重要になってくる問題なので一応説明しておくが。簡単にいえば、上が開いていないと拠点から航空戦力を発進させることが出来ないからである。航空戦力というのはグラディバーンのことであるが、さすがにグラディバーンといえども、舞龍が本気を出して作り出した結界をやすやすとぶち抜けるはずがない。そんなわけで、グラディバーンが出入りするために、上空に「道」を作る必要があったということだ。

 グラディバーンの発着場を結界外に作ればいいという意見もあるかもしれないが、ポータル・ベースの襲撃で見たように、グラディバーンはカリ・ユガ軍にとっての主要戦力である。もしも結界の外にそんなものを作れば暫定政府軍は真っ先にそこを狙って爆撃してくるだろう。つまり、航空戦力を保護するためには、そういった施設を安全な場所に作る必要があるのである。

 ちなみに……今の説明で二つほど納得がいかない部分があるという方もいらっしゃるかもしれない。まず一つ目が、そんなに強力な結界であるというならば、人間だとかウパチャカーナラだとか、要するに地上部隊はどうやって出入りしているのかということである。こちらについては答えは簡単で、実は、この結界は、主に上空からくる脅威、攻撃機とか爆撃機とか、あるいはドローンといった脅威に対するものでしかないということだ。地上からの脅威に対しては、デニー達がここに来るまでさんざん苦労させられたように(まあデニーはさほど苦労していないが)、地雷等々の防衛が用意されているのであって。それゆえに、この砂嵐は、上空に行くにつれて次第に次第に強力なものになっていっているのである。なので、一番下のところ、地上部隊が出入りするところは、さほど凄まじい砂嵐というわけではない。もちろん、デニー達が通る時にさんざん難儀したように(まあデニーはさほど難儀していないが)、そこそこの砂嵐にはなっているが、出入り出来ないというほどではないのだ。

 二つ目の疑問。もしそうであるとするならば、この砂嵐が上空からの脅威を排除するためのものであるとするならば、上空にぽっかりと穴が開いているのは不味いのではないかということである。不味いというか、なんの意味もないというか、そこから入っていけるじゃないかという話になってしまわないのだろうか。確かに、その疑問ももっともである。ただ、砂嵐をよく見て欲しい。その砂嵐の内部に、ばちばちと光り、弾けているエネルギーのようなものが見えないだろうか。そう、それが理由である。実は、この結界は、砂嵐だけで成り立っているわけではないのだ。砂嵐がエネルギーとして発生させる魔力の雷電、この雷電が、上空に開いた穴から結界の内部に入り込もうとするもの、敵意を持って軍事基地を襲撃しようとするものを撃墜するのだ。要するに、この結界は二つの要素から成り立っている。第一の要素が、出入り口を制限するための砂嵐。第二の要素が、その出入り口から外敵が侵入してこないように攻撃を仕掛ける雷電。こうして万全の防衛体制が整っているということだ。

 そんなわけで。

 結界の中。

 真昼の、足の下。

 その施設が。

 見えている。

「それで。」

 デニーの声が聞こえた。

 真昼は、そちらを見る。

 デニーは、腕を背に回して。

 全身を傾げるみたいにして。

 腰の辺りから、くっと体を曲げながら。

 いつものように可愛らしく問い掛ける。

「あと、どれくらいで始まるのかなあ?」

〈そうでございますね……薨々虹蜺を積み込む時間を考えに入れましても、あと数分ほどで爆撃機が離陸するのではないかと。飛龍管理部隊にはもう指示がいっていると思いますから。〉

「じゃー、もうすぐだねっ!」

 そう言いながら。

 デニーは。

 その場に。

 ちょこんと、しゃがみこんで。

 そして、下の方を、見おろす。

 真昼は、そんなデニーに何かを言おうとした。けれども、一体何を言えばいいというのか? 例えば、今から見せられるものを見たくないと、もう一度言ったとしよう。それにどんな意味があるのだろうか。先ほどのやり取りから、デニーが、真昼のそういった意見を聞く気などさらさらないということは、完全に明らかになっている。そして真昼には、自分の意見を無理やりにでもデニーに聞かせるだけの「力」もない。

 あるいは、今から行われること自体がおかしいことだと主張することも出来るかもしれない。何万もの人々がいる場所に、対神兵器を落とすのはおかしいことだと。けれども、真昼にそんなことを言う権利があるのか? そう、その通り、確かにそこには何万もの人々がいる。互いに、殺し合っている、人々が。そして、今から落とされる対神兵器は、その殺し合いを終わらせるためのものなのだ。それに、それだけではなく……これ以上、なんの罪もない少女が瓦礫の下敷きとなって死なせないための、なんの罪もない老人をたった一人の孫娘を失ってしまった悲しみのせいで死なせないための、ものなのだ。

 それは、確かに、破壊と殺戮だ。

 けれども、真昼は。

 そのことについての善悪を。

 判断できるほど、賢いというのか?

 自分についての正しささえ判断できず。

 その結果、一人の少女を、救うために。

 千人もの人々を犠牲にしたというのに。

 結局、真昼は何も言えなかった。その口は、何一つ言葉を発することはせずに。その代わりに、しっかりと、マラーの頭に押し付けられていて。真昼に抱き締められて、少しは安心してきたマラーの髪に、うずめられて。

 そして。

 真昼は。

 デニーが見ている方向と。

 同じ方向に、目を向ける。

 斯うと……まずはグラディバーンの生態について触れておくべきかもしれない。そりゃもちろん全部じゃないですよ、一部です、必要なところだけ。その一部とは、営巣についてだ。

 グラディバーンは基本的に巣というものを持つことがない。グラディバーンのような強靭な肉体を持つ生き物には、巣という外的な保護手段は必要ないし。それに、グラディバーンは結構大きな生き物なので、その全身が収まるような巣を作るというのはかなり労力がかかる行為となってしまうからだ。鳥と違って木の枝とかでささっと作れるわけではないのであり、そんなことにエネルギーを使うよりは、そこら辺で寝た方がいいのである。いや、そもそもグラディバーンは睡眠さえ取らないが。

 グラディバーンがその蜥蜴生(蜥蜴生?)において巣を作るのは一度だけ、繁殖期のことだ。繁殖期になると、グラディバーンはコロニーを作る。数十匹から数百匹のグラディバーンが一か所に集まって、共同で出産・育児を行うのだ。その時に、グラディバーンは、俗にブレイズマインと呼ばれる巣を作る。

 ブレイズマインは「炎の鉱山」というその名が示す通り、全体が炎によって形作られている。炎といっても魔力の炎、グラディバーンが体内で精製したセミフォルテアの炎であるが。営巣地に到着したグラディバーン達は、互いが吐き出した炎を織りなし繋げあうことによって、一つの、巨大な、ドーム状の巣を形成する。そしてその中で子育てをするのだ。

 さて、真昼が眼下に見たのは。

 その、ブレイズマインだった。

 この距離から見ているせいで、ちょっと大きめのお椀を伏せただけですみたいな大きさであるように感じるが、実際には数百ダブルキュビトの直径があるはずだ。上から見た形は完全な真円というわけではなく、捻じ曲がったような楕円で、ところどころが拉げたり歪んだりしている。出入り口に使えそうな穴は一つも開いておらず、ただただ、大きすぎる繭にも似たドームが、目も眩みそうなくらいのエネルギーを放ちながら燃え盛っているだけだ。まさに、一つの、山みたいに。

 その「巣」は、拠点の中でも一番外側に位置していた。というか、もともとタンディー・チャッタンという町だったであろう範囲の外側に作られていた。そういった場所にあるのは……これほど巨大なもの、しかもセミフォルテアでできているものが人間の生存圏内にあると色々不都合であるからという理由がもちろん一番大きいのであろうが。それだけではなく、その近くに、恐らく管制塔と思われる施設、それに滑走路と思われる施設が作られていることも考えると、この全体が一種の飛行場として機能しているのであろうということが理解できた。

 つまり、あの「巣」は。

 一種の、格納庫なのだ。

 管制塔らしき施設は、もちろん普通のものとは少し違ったものだった。まず、真っ直ぐな塔、五階建てくらいの高さの塔が立っていて。その塔の上に一枚の皿みたいな構造物が乗っかっている。随分と巨大な皿で、直径にして十ダブルキュビトくらいはあっただろう。その皿の上には更に二つのものが存在していた。

 まず一つ目が、還俗学生だ。周囲の監視のためにこの拠点の八方に配置されている、ウォッチタワーの代わりに建てられた棒、その上に座っている還俗学生達と全く同じように。禅那の姿勢をとって、静かに宙に浮かんでいる三人の還俗学生。皿の外縁部に、等間隔を開けて、それぞれが別の方向から情報を取得しているらしかった。やはり航空管制には監視施設が収集するものとは別の種類の情報が必要なのだろう。

 それから、その皿の中心部分、まるでピース・ド・レジスタンスであるかのようにして「生えて」いる……グラディバーンの死骸の集合体。それは、なんというか、ひどく醜悪な芸術作品であるかのように見えた。ばらばらになった死骸、羽や・脚や・胴体やを、機械的な直線と角度とを使って接ぎ合わせたものだ。腐りかけて、内側から骨のようなものさえ見えている死骸が、妙に清潔感のある金属によって繋がれている有様は、なんとなく対照的で、悪趣味にさえ見える。

 死骸の数が幾つなのか分からないが、十体前後は使っているに違いない。皿の上にしっかりと繋ぎ止められていて、それから……その物体からはアンテナのようなものが突き出していた。数えてみると七本あるそれらのアンテナは、基本的には鏡にも似た色の金属で出来ているのだが、その金属のところどころに、砕かれたグラディバーンの頭部が埋め込まれていた。

 見方によっては悍ましくさえ見えるそれは、恐らくは、グラディバーンを操作するための、一種の共感装置のようなものなのだろうと真昼は理解した。ポータル・ベースのシーンでも書いたように、グラディバーンの頭蓋骨には、行動抑制に使われているらしき宝石が埋め込まれていたのだが。このアンテナは、その宝石に対して、指令のようなものを送っているのだろう。一体一体が騎乗する人間によって操作されているマンティコアや、内部で人間が操作しているガジャラチャ、あるいは、ある程度自律的に行動させても問題がないウパチャカーナラと違って、グラディバーンは、この管制塔が一律に操作しているのだろう。

 と、まあ。

 管制塔は。

 このような形を。

 しているのだが。

 今、その中から……三人の、人間らしき姿が現れた。真昼がいる場所からでは、いくらデニーによって強化された視力であるとはいえ、ほとんどダニだかノミだかくらいにしか見えなかったのだけれど。その姿が、なんだか、一歩歩くごとに大きくなっているように見える。最初は、真昼も、自分の見間違いかとも思ったのだったが……どうもそうではないらしい。それらは、ヴァジラヤーナによって巨大化している最中の還俗学生達だったのだ。

 十数メートルの大きさまで膨れあがった三人の還俗学生は、そのまま歩いて行って。そして、ブレイズマインのすぐそばまでやってきた。普通の人間であれば、それほど近い距離に立ったら、セミフォルテアの炎によって、魂魄までも焼き尽くされていただろう。だが、学生達は、確かに少しばかり熱そうであったが、その感覚は火事の現場の前に立つ防火服を着用した消防士と同じ程度であるらしく。

 しかも。

 それどころか。

 あろうことか。

 三人のうちの二人。

 そのまま。

 ブレイズマインに。

 突入したのだ。

 当然ながら、悠々と、歩いて入っていったというわけではない。まるでタックルするかのように勢いよく突っ込んでいって。そして、数秒が経過した後で、また勢いよくこちら側に突き出てきた。入った時には何も持っていなかった二人は、出てきた時には、二人で挟み込むように・抱え込むように、何かを持っていて……要するに、グラディバーンを一匹捕獲して出てきたのだ。

 暴れまくり・鳴き喚くグラディバーンのことを、なんとか押さえ付ける二人の還俗学生。その前を先導する、他の一人の還俗学生と共に、今度は滑走路の方に向かって歩き出した。それは、滑走路といっても……例えば各種灯器が設置されていたりとか、ターミナルビルディングが隣接していたりとか、そういったことは一切なくて。ただ単に、地面を均して、その上をコンクリートで覆っただけといったものだ。

 それは、ある意味では俎板のようにさえ見える代物で。そして、その俎板の上に、二人の還俗学生は、グラディバーンを押さえ付けた。腹の面を上にして、羽と両脚とを、しっかりと地面に押し当てて。炎を吐いたり噛みついたりしないように口を閉ざす。それから、尻尾も手で掴んでおく。そんなにたくさんのことを二本の手だけで出来るのかとお思いの節もあろうかと思いますが、その通り、二本の手で出来るわけがなく、押さえ付けている還俗学生達は、一人当たり四本の腕を生やしていた。

 さて、そんな状況で、残る一人の還俗学生であるが……その手に何かを持っていた。とても小さな箱のようなもの。ただ、小さいといっても、身長十数ダブルキュビトの肉体と比べてということなので、実際の大きさは一立方ダブルキュビト程度はあったろうが。完全な立方体で、例えば月の光を飲み込んで育った精霊のような、ひどく重たい青銅の色によって、鈍く光り輝いていた。それはつまり……バルザイウムによって作られた箱だったのだ。

 還俗学生は、万が一にもグラディバーンによって攻撃されないようにするためだろう、自分の体の後ろ側にその箱を置いた。その箱の中に、何か、とても危険なものが入っているらしいということが如実に理解出来るほど、ひどく丁寧な手付きだった。いや、まあ、そもそもバルザイウムなんて使ってるんだから、とても危険なものが入っていないわけがないのだが。それから、グラディバーンが押さえ付けられている方へと振り返って……その腹に向かって屈みこんだ。

 そして。

 還俗学生は。

 その腹、に。

 手を掛けて。

 まるで、着ぐるみについた。

 ファスナーでも開くように。

 一気に。

 引き裂いた。

 どぷっと音を立てて(もちろんその音は真昼には聞こえてないですが)傷口からは体液が噴出して。そして、その中には、卵膜のようなものに包み込まれた胎児が、何匹も何匹も詰め込まれている。これは……引き裂かれた方のグラディバーンが、明らかに嫌がってはいるものの、さしたるダメージを受けているようには見えないことから考えると。どうやら、引き裂いたとはいっても、ポータル・ベースを攻撃していたグラディバーンが、腹部から胎児を排出した時に、ぱっくりと開いた縦に一直線の裂け目。あれを力尽くで開いただけのようだ。

 一方で、裂け目を開いた還俗学生は、おもむろにその裂け目に手を突っ込むと。中に入っていた胎児達を、そのまま、次々と掻き出していく。卵膜に似た組織に包まれたままで、とはいって臍の緒には繋がれていない胎児達は、いともたやすく卵巣から奪い取られて。そして、あたかもタピオカ・ドリンクから取り出されたタピオカのようにして、滑走路のコンクリートの上を、ぐにょぐにょと転がっていく。

 その膜の中にいても、外部の環境が変化したということは理解出来るのだろう。未だ生まれ出るべきではなかった未熟児達は、目をつぶったままながらも、悶えるように身動きをして。べちゃりと体に纏わり付いてくるその膜を、なんとかしてなんとかしようと、うごうごと蠢いている。これは誠に愉快ではない光景で、さすがの真昼も(ううっ……)となってしまった。ちなみに、動物愛護団体とかに文句を言われると色々と面倒なので念のために書いておきますが、この後、胎児達は、飛竜管理部隊によってきちんと育てられて。立派な大人になって、それから派遣された戦場で華々しく散っていきました。

 ところで、そのようにしてグラディバーンの腹の中はすっきりとしたのであって。そこが空っぽになったことを確認してから、還俗学生は、自分の体の後ろに置いておいた箱をもう一度取り上げた。ほとんど恐る恐るといってもいいくらいに慎重な手付きで、その箱を、左の手のひらの上に乗せると。右の手で、そっと、何かの形を作り始めた。

 以前、ニルグランタにおいては瞑想によって魔法の発動を行うと書いたのだが。実は、ごく普通の瞑想以外にも、ムドラーという方法がある。これは肉体を一定の形に変化させることによって、自分の観念の状態を操作し、それによって魔法を発動させるという方法であり、一般的には舞踏魔法と呼ばれている。その名の通り、踊りを踊る魔法だ。

 これは、勘違いされやすいのだが、記号魔法の一種ではなく、あくまで瞑想魔法の一種である。ムドラーにおいて、表情の作り方から足先の動かし方まで、一つ一つに意味があることは確かであるが。ただ、そのような踊りに伴う意味が直接魔法を発動させるということではないのだ。あくまでも、その意味は、観念の「塑形」と「理解」とに使われるものであって。より簡単に瞑想を行うための手段に過ぎない。

 たった今、還俗学生が右手で行ったのは、まさにそのムドラーだった。真昼からは、どのような形に手を動かしたのか、ほとんど見えなかったのだけれど。とにかく、それは、箱に対して、ある特殊な種類の魔学的な力を送るためのムドラーだった。そして、その魔学的な力が「鍵」となって……箱が開く。

 なんとなく拍子抜けしてしまうような、いともあっさりとした開き方だった。もう少し、なんか、こう、劇的な開き方というか。例えば、箱の一面一面が不可解な角度に分解されて、光り輝きながら膨れ上がっていくとか、そういう風な開き方をすると思っていたのだけれど。ごく普通の箱が開くのと同じように、単純に、無骨に、上面の蓋がぱかっと開いただけだった。まあ、この箱は軍事用に作られたものだから劇的な効果とかは仕様に入っていないのだろう。戦場で急いで箱を開きたい時に、そんな風な感動的な開き方をされても、「そういうのいいからさっさと開け!」としか思わないだろうし。

 還俗学生は、その箱を地面の上におろすと。じっくりと、とっくりと、見ている方が焦れてしまいそうなやり方で、右手の中指及び親指、左手の中指及び親指を入れて。それらの指で、静かに静かに何かを取り出した。それは……直径にして一ダブルキュビト程度の、不気味なほどに鮮やかな虹色をした、真球状の物体だった。真球の上側には、時計仕掛けにも似た複雑な機械が取り付けられていて。真昼が見る限りでは……それは、魔学的な爆弾に取り付けられる起爆装置とそっくりであった。いや、実際のところ、それは魔学的な爆弾に取り付けられる起爆装置だったので、そっくりも何もないのだが。

 その真球を、そろりそろりと、家一軒分の値段がする商品を取り扱う時の宝石店の店員みたいな手付きで持ち上げると。今にも暴れ狂いださんばかりの、けれども二人の還俗学生達によってなんとか押さえ付けられているグラディーバーンの腹部に、脳髄に対する外科手術みたいなやり方で、とてもとても注意深く埋め込んだ。埋め込んだというのは言葉の通りであって、ただ入れただけではなく、しっかりと奥まで押し込んだということだ。

 それから、二つに裂けたグラディバーンの腹、その両側の皮をぐいっと引っ張って。真昼のいる場所からではよく見えないのだが、どことなく、開けっ放しになった着ぐるみのファスナーを閉めるような手付きでくっつけると。暫くの間、そのままで固定した後で、ぱっと離した。それで……いとも簡単に、グラディバーンの腹はくっついたらしく。ぐいっぐいっと、還俗学生が、二度ほど引っ張って確かめてみても、それによって裂け目が再び開いてしまうというようなことはなかった。

 これでようやく。

 準備が整ったと。

 いうわけだ。

 真球を取り扱っていた還俗学生が、すっくりと立ち上がって。後ろを振り返ると、管制塔の方に視線を向けた。何かのポーズを取ったわけではないのだが、それでも合図のようなことをしたのだろう。そして、管制塔の方でも、それに何か反応したようには見えなかったのだが、きっと合図に対する行動を取ったのだろう。なぜそれが分かるのかといえば……地面に押さえ付けられているグラディバーンが、次第に、次第に、大人しくなってきたからだ。

 無論、今までも、なんらかの行動抑制はしていたのだろうけれど(そうでもない限りグラディバーンがこんな基地の中に飼われ続けていることについての説明がつかない)。それは最低限の行動抑制に過ぎなかったのだろう。グラディバーンほどの生き物の行動を、強く強く呪縛するには、よほどのエネルギーが必要であろうし。ここは前線基地であって、エネルギーの無駄遣いをしている余裕などないのだ。

 それが、とうとう出発する準備が整ったということで、より強い行動抑制、つまりは管制塔の思い通りの行動を戦場で取らせるための行動抑制に変化させたということだ。押さえ付けていた二人の還俗学生が、それぞれ、羽を、脚を、尾を、口を、離すと……さっきまでは、そんなことをしたら、即座に還俗学生達に対して攻撃を開始しそうだったのに。今では、そんなことをするような素振りさえ見せず、いかにも従順そうな態度でその場に起き上がっただけであった。

 三人の還俗学生達が、それぞれ胎児達と箱とを抱えて、グラディバーンの周囲を空けると。グラディバーンは、まるで機械か何かのように、かなりはっきりとした態度で羽搏きを開始した。二度か三度か、その羽を大きく動かすや否や、すぐさま全身が浮かび上がって……滑「走」路であるにも拘わらず、走ることなしに、グラディバーンは離陸した。

 グラディバーンの羽搏きは、ただの羽搏きというわけではなく、魔力が込められた羽搏きである。その羽が巻き起こした風には魔子が関係するエネルギーが込められており――それゆえ純粋なナシマホウ界においてはグラディバーンは上手く飛べないこともある――その体は、あたかも一つの砲弾のように、熾斬の勢いで上空に向かって飛翔する。

 見る見るうちに真昼が立っている場所へと近付いてくる。二枚の羽を体に纏わり付かせて、全身の周囲に渦を巻き起こすかのように、くるくると回転するグラディバーンの姿は、一秒一秒を数える暇もなくこちらに向かって突っ込んできて。デニーが作り出した魔学的なフィールド、四人が立つのに十分な広さのディスクのすぐ真横を翔け抜けていった。

 魔力を帯びた風が、ごうっという音を立てて、真昼の体を吹き飛ばさんばかりに煽っていって。真昼は思わずマラーのことを抱きかかえていない方の手で顔を覆ってしまったくらいだった。マラー……そのマラーは、ようやくのこと、これほど高いところにいるということに慣れていたのに。可哀そうなことに、目の前を突き抜けていったグラディバーンの姿に、怯えたように悲鳴を上げて、また真昼の体に抱き付いたのだった。

 そういった二人のことは置いておくとして。グラディバーンの肉体は、更なる、更なる、高みへと昇っていって、やがてはデニー達が立っているディスクよりも遥かに上空へと到達して……そのまま、羽化したばかりの蝶々のようにして、ざあっと両羽を広げて。そうして、滑空を開始した。

 砂嵐として構成されていた結界の範囲を超えて、タンディー・チャッタンの町が広がっている範囲さえも超えて。グラディバーンは、そのまま、砂漠の向こう側、ずっとずっと先の方へと飛んでいく。どこに向かっているのか? そんなこと、問い掛けるまでもない。グラディバーンの向かう先に視線を向けてみれば、その先に見えているものは、世界そのものの薄汚れた断片とでもいうべき、蒸発した血色と、肉が焼き尽くされた灰と、それに搔き乱された砂とが混ざり合った煙、見渡す限り広がっている光景であって。

 それは。

 要するに。

 戦場、だ。

 タンディー・チャッタンに辿り着く前にデニー達が通り過ぎてきた戦場。もっとはっきりいってしまえば、ポータルベースがある方向へと飛んで行っているのだった。あれほどの速度を出していた自殺行為号(仮)でさえ、戦闘による損害を避けるためにかなり迂遠なルートを通っていたとはいえ、数十分は掛かっていたその距離を。グラディバーンは、見る見るうちに過ぎ去って……その姿は一つの黒い点のようにしか見えなくなり……そして、どうやら、「その場所」に到達したらしい。

 もちろん。

 「その場所」とは。

 ポータル・ベースの。

 真上のことで、ある。

 もう真昼の目にはほとんど見えなかった。先ほど飛び立ったグラディバーンの姿も、そのグラディバーンの周囲に広がっている戦場の光景も。いくら強化されているといったところで、所詮は人間の目に過ぎない真昼の目には、なんだかもやもやと煙で包まれている空間、それに、その上空を飛んでいる、幾つかの点が見えているだけで。あれらの点は、たぶん、ポータル・ベースのそばを通り抜けた時に始まりかけていたグラディバーン達と還俗学生達との戦いなのだろう。っていうかまだ決着してなかったんですね。そして、その点の中で、どれがあのグラディバーンなのかということも分からなくなってしまっていた。

 ホモ・サピエンスって哀れだね……そして、愚か……というわけで、真昼の目は、その決定的なシーンを見ることが出来なかった。あのグラディバーンが、あたかも死刑台の上に吊るされた九つの心臓が鼓動するような態度で、甘く甘く痙攣して。それから、シャリテ・ド・シャノンによって切り落とされた首が絶叫する声のない断末魔のような態度で、大きく大きくその腹部が開く。

 こんな風に死刑についての比喩を使うのは……このシーンを、陳腐な見世物にまで落としてしまうような愚行なのかもしれない。あまりにも当たり前の比喩、吐き気がするほど使い古された比喩。とはいえ、だからこそ、ある意味ではこれほど相応しい比喩もないのだ。これから起こるであろうことは、アーガミパータにおいては陳腐な愚行に過ぎない。それこそ反吐が出そうなくらいに、何度も何度も繰り返された光景。そう、ここでは、この場所では、マス・ディストラクションはありきたりなショー・タイムに過ぎない。

 とはいえ。

 それは。

 確かに。

 退屈しのぎにはなる。

 グラディバーンの腹部から、死せる星々が流す涙のような真球が吐き出された。いうまでもなく還俗学生が埋め込んだ真球だ、まるで、世界のその部分だけが「畏れて」いるかのように、とてもとても鮮やかな虹色。驚くべきことに、その虹色だけは、真昼にも見ええた。他のものは何も見分けることが出来なかったのだけれど、その虹色だけは、確かに見えたのだ。真昼だけではなかった。ナーガ・ヴィジェタにも、四人の幕僚達にも。砂嵐の中にいる人間達にさえも、その虹色だけは、はっきりと見えていた。あれほどの狂乱の宴の中で働きまくっていた中枢情報処理士さえも、あろうことか、その仕事の口と手足とを休めて……目の前にある、巨大なスクリーンに映し出された、その虹色に見入っていた。

 涙を。

 涙を。

 涙を。

 流す。

 誰が涙を流したのか?

 誰も、涙を流していない。

 それは。

 流されたはずの。

 涙に、すぎない。

 苦形の羊は、魚を屠る。

 一匹の魚を、二匹の魚を。

 三匹の魚を、四匹の魚を。

 屠り、喰らう。

 口元は、真鍮のような、血の色に染まる。

 静かな、渚に似ているのだ。

 呼吸をやめてしまった、凪いだ海。

 金躍の世界、銀躍の世界。

 群癌の世界。

 痩儀の世界。

 懶骸の世界。

 斂性は洗礼となり。

 世界は、寧葬の眠りにつく。

 全てが、全てが。

 そうであったように。

 そうでなかったように。

 些喚いて。

 そして、その真球は。

 取り返しのつかない。

 墜落を、果たす。

 何いってんのか全く分かんねぇな。いい加減やめない? なんとなく描写しにくいシーンに差し掛かった時に意味不明なポエム書いて誤魔化すの。そもそも「斂性」とか「寧葬」とかいう共通語ないよね? 特に考えもなく手近にあった本を開いて、ぱっと目に入った良さげな漢字を繋げただけで何かを成し遂げた気になってるんじゃありません。ご……ごめんなさい……! いいよ、謝ったから許してあげる!

 と、そんなわけで、何が起こったのかというと。要するに、例の真球がポータル・ベースに投下されたということだ。ずるずると引きずるような虹色のコントレイルを描き出しながら、「それ」は落ちて行って。それから、ポータル・ベースを包み込んでいた、ばちばちと火花を放つ魔法円に激突して。

 そして。

 それから。

 意外なほど。

 呆気なく。

 真二つに。

 割れた。

 最初は、何も起こらなかった。何かの不具合があって壊れてしまったのかと思うくらい、割れた姿のままで、そこに落ちていただけだったのだけれど。やがて、その中から……一匹の、蝶々が、羽搏き出てきた。

 嫋やかに。

 嫋やかに。

 優しく。

 優しく。

 柔らかく微笑するような軌跡を描きながら、ふわりと浮かび上がって。けれども、その蝶々は……明らかに、普通の蝶々ではなかった。いや、まあ、そもそも魔学的な力を凝縮して作られた稲妻の上で、こんな風に「全然大丈夫ですが?」みたいな感じでいられること自体が普通ではないのだが。それだけではなく……その色が、異様だったのだ。

 惨たらしく。

 開いた。

 傷口のように。

 鮮烈な。

 赤。

 橙。

 黄。

 萌。

 緑。

 翠。

 青。

 藍。

 紫。

 その全ての色。

 つまり。

 それは。

 虹の色をした。

 蝶々。

 一時に虹の九色の全てであるというわけではない。一時とある色を示すと、その次の瞬間には別の色に移り変わっているのだ。あるいは、一度羽搏くごとに、その色はひらひらと移ろって。まるで、この世界の裏側に、undercurrentのように流れている、信じられないほど巨大な虹の流れを、その羽の表面に映し出しているかのように。

 そして、虹色の真球の中から姿を現した虹色の蝶々は、その一匹では終わらなかった。一匹目が、ゆらりゆらりと、空に向かって揺蕩っていくと。それを追うようにして、二匹目と三匹目が姿を現した。二匹目と三匹目とが誘うように羽を動かせば、四匹目と五匹目と六匹目と七匹目とが姿を現して。それらの全ての蝶々が、柔らかく風を撫でて合図をすれば、八匹目から十五匹目が姿を現して。そのようにして、吐き出される蝶々の数は加速度的に増加していって……ついに、洪水のような勢いになる。

 ごうごうと。

 流れ出る。

 二つの。

 流れ。

 二つ?

 そう、二つ。

 蝶々は。

 やがて。

 地より流れ出る。

 二本の虹となる。

 正確にいえば、この片方は虹という龍に似ているのであり、もう片方は蜺という龍に似ているのであり、この二種類の龍を合わせて虹蜺と呼ぶ。魔学的なエネルギーと観念とが「雨」によって「契約」に似た結びつきを与えられると、ほんの僅かな時間だけ現れるという、特殊な形而上生命体である。これらの龍は、本当に、現れてから一時間もしないうちに消えてしまうのだけれど、それでも、そうして現れる虹蜺の全ての個体は、実は同じ個体なのだという説もある。

 しかし。

 これらの蝶々達は本物の虹蜺ではない。

 あくまでも、その紛い物に、過ぎない。

 だから。

 この。

 芸術的な兵器は。

 一般的に。

 薨々虹蜺と。

 呼ばれている。

 愛国によって開発され、第二次神人間大戦時に最も多く使われたといわれている鵬妓級対神兵器。一説によれば十万発以上の薨々虹蜺が使用されたというが、となると第二次神人間大戦はちょうど百年続いた戦争なので、一年に千発の薨々虹蜺が使用されていたという計算になる……まあ、それはどうでもいいとして。とにかく、カリ・ユガ軍が投下したのは、この薨々虹蜺だった。

 これは一体、どういう兵器なのか? その質問に対する回答は、真球が吐き出したところの蝶々達の姿を見ていれば自ずと得ることができるだろう。二つに分かれた蝶々の奔流は、二重の螺旋を描きながら、一気に天空へと駆け上がって行き。そして、サンダルキアに建てられた罪深き塔の高度にまで到達しそうなほどに、高く、高く、二本の柱を作り出すと。

 そこから。

 一気に。

 ざあっと。

 花開く。

 具体的にいえば、駆け上がるべき頂点まで到達すると。二本の柱は、あたかも獲物に向かって急降下していく龍の姿のように空を駆け下りていったのだ。そして、その途中で、唐突に……花火か何かが弾けるみたいにして、蝶々達はあらゆる方向に向かって飛散していったということである。

 それは――実はその光景は、真昼にさえ見えるような大規模なものだったのだが――何かの神罰にさえ見えるような、極端に忌まわしい光景であった。真昼は、今まで、虹というものを、本当になんとなく見てきた。雨が降った後にたまに見ることが出来るもの、見られたらちょっとラッキーくらいな気持ちで見るようなもの。だが、今、視線の先、ずっとずっと彼方に見えているあの虹は。明白にそういうものとは異なっていた。

 色が……色が、違うのだ。真昼が今まで見てきた虹というものよりも、遥かにクリアで、遥かにヴィヴィッドで、遥かにブリリアントで。一枚一枚の蝶々の羽が、数え切れないほど集まって作り出されただけのはずの、その虹の全体が。真昼が今まで見てきた世界、真昼が今まで信じてきた世界、そういった世界とは異なった、もっと歪な世界を暗示しているかのような。そんな色として、嘲るような軽やかさで踊っているのだ。

 真昼は。

 きっと。

 これから。

 虹を見るたびに。

 この、凶兆の色を。

 思い出すことだろう。

 そのような色が、膨れ上がった牢獄のようにして、戦場の全体を覆い尽くしていく。投下されたポータル・ベースを中心として、硝煙が空を濁らせている限りの範囲、血液が砂を濡らしている限りの範囲、明確な殺意を測定出来る限りの範囲に、広がっていく。二つの重なり合ったドームにも似た態度で、虹色を切り抜いたような蝶々達は、無限に増殖する雨、無限に増殖する雨、無限に増殖する雨、戦場へと舞い降りて行って。

 それを。

 始める。

 一人の兵士を例にとって見てみよう。暫定政府軍の兵士、それも若い兵士がいい。何も知らない方が、それを知った時の絶望感について、非常に分かりやすいコントラストを描き出すことが出来るから。その兵士は、暫定政府軍の歩兵で、年のころは十八歳を少し超えたくらい。つい先ほど、マンティコアの尾が放つ針を避けて、転げるようにして塹壕に逃げ込んだところだった。六発のうち一発が左腿を貫いて、なんとか骨に当たることだけは避けられたみたいだったが、それでも内側の肉が抉れるみたいにしてこそげ取られている。不思議と……痛みはなかった。死と隣り合わせの状況に、脳が興奮し切っているためだろう。だが、左足の全体が、スイッチが切れてしまったみたいに動かなかった。

 こんな状況下で、先ほどのマンティコアが、この塹壕を覗き込んだら。一瞬で食い殺されてしまうだろう。それだけは避けなければいけない。なぜなら、その兵士は、死ぬわけにはいかなかったからだ。その兵士は……ふふっ……すみません、ちょっと面白くなってしまいまして……なんと、有り得ないほどありきたりなことに、故郷に恋人を残してきていたのだ。

 いやー、よくもまあ臆面もなく「故郷に恋人を残して兵役義務を果たすために云々官々」なんていうことが出来るもんだね。そういうテンプレート、百万回くらい見たよ? 百万回っていえばワン・ミリオンですよ、ワン・ミリオン。全く、書いてるこっちが恥ずかしくなってくるような陳腐さですね。しかも、なんと、なんと、あろうことか、結婚の約束まで交わしてるときたもんだ。

 ここまでくると呆れを通り越して尊敬までしてしまいそうになりますね。兵役が終わるまでそういう約束しないでおくこととか出来なかった? 兵役っつったって三年くらいは拘束されるんだろ? その間、生きるか死ぬかも分からないのに恋人を待たせておくつもりなの? っていうか恋人も恋人ですよね、この恋人ってのが今十五歳なんですけど、あと三年すればこいつも兵役にとられるんですよ。となると入れ替わりってことになるでしょ? 合計して六年も離れ離れになるんですよ。次の日にも死ぬかもしれないという状況の中で。何を考えてるのかよく分からんな……こう、抑えがたい青春期の性欲みたいなものが、このような無軌道な行動に若者を駆り立てるのだろうか。

 と、まあ、そんなこんなで、この兵士は絶対に死ぬわけにはいかなかったのだが。ただし、その「絶対に死ぬわけにはいかない」というのは、この兵士の自分勝手な都合に過ぎない。死ぬわけにいこうがいかなかろうが、人間のような下等な生き物は、死ぬ時になれば死ぬのであって。この世界の命運を変えることが出来るほどの力もないくせに「絶対に死ぬわけにはいかない」などと思うこと自体が烏滸がましいのである。

 それはそれとして、その兵士は、しっかりと抱きかかえるみたいにして、腕の中にあるPGO-BGの重さを確かめると。一度、大きく息を吸って。一度、大きく息を吐いて。それから、襲い来るはずのマンティコアを迎撃しようと――尾の針を撃ち尽くしているはずの今こそ迎撃し得る唯一のタイミングなのだ――PGO-BGを構えながら、勢いよく塹壕から上半身を出す。

 しかし。

 その時に、この兵士が見たものは。

 全く予想していなかった、光景だ。

 戦場にいる、カリ・ユガ軍に所属するほとんどの生き物が。呆然とした顔をして、上を見上げていたのだ。それは、人間だけではなく、ウパチャカーナラも、マンティコアも、ガジャラチャさえも。ぽかんと口を開いたまま、完全に思考が停止したような顔をして、空の方向にある何かを見上げている。

 まるで、カリ・ユガ軍の内側に時計が埋め込まれていて。何かの拍子にその時計が壊れてしまったせいで、カリ・ユガ軍に流れていた時間そのものが凍り付いてしまったみたいだった。一方で、暫定政府軍に所属する兵士達の方は。敵対する勢力がいきなりに見せた、空隙のようなタイミングに、むしろ困惑してしまっていた。この機会を逃さず一気に攻勢に転じればいいようなものだが……なんとなく、戦場全体を支配し始めた不気味な雰囲気に、気圧されてしまっていたのだ。

 また、それだけでなく。暫定政府軍の中でもこの兵士のような若造ではなく指揮官クラスになってくると、カリ・ユガ軍の生き物と同じような反応を示すものも多くいたという事実も、暫定政府軍がカリ・ユガ軍に攻め込み切れなかった要因といえるだろう。驚きのあまり、思考停止になったような表情。あるいは……恐怖のあまり、絶望のあまり、思考することを手放してしまったような表情。一体何があったのか? 何が、これほどまでに、戦場の雰囲気を左右しているのか? その答えを得るために、その兵士も、皆が視線を向けている方向を見る。

 空に。

 空に。

 空に。

 虹。

 そこにあったのは、虹だった。二本の虹。虹など、何も珍しくない。まあ、雨もろくに降らない砂漠に虹がかかるのは珍しいかもしれないが。それに、この兵士の記憶の限りでは、虹がかかるような雨が降ったわけでもないし。あれが一体どうしたというのだろう? そう思いながら、じっと見ていると……少しおかしいところに気が付いた。

 その虹は、まさに、今、かかっている途中なのだ。ぐうっと、天頂に向かって伸び切って。それから、放物線を描くようにして、ゆっくりと、ゆっくりと、墜落してくる虹の先端。そう、そうだ、その虹の先端は、二本の虹の先端は、まさにこちらに向かって落ちてきている。

 そのことに気が付いた瞬間に、なぜだか全く分からないのだが、兵士の背中に冷たい感覚が走った。鮫の鱗を砥いだ刃で、真っ直ぐになぞられているような。そんなぞっとする感覚。虹が、こちらに、落ちてくる。いや、それは虹ではない、虹ではなかった。それは、それは。

 数百の。

 数千の。

 数万の。

 蝶々。

 雪崩のように、けれども、優しいほどの静けさで。蝶々が、こちらに向かって豪渡してくる。ふっと、吸った息が吐けなくなった。恐れている、体が恐れている。思考は恐れてはいない、それが何なのか分からない以上、恐れることができるはずがない。けれども、脊髄は、血管は、心肺は、確実に、それを恐れていた。必死に肺を動かして、その息を吐きだす。恐れ、恐れ、恐れ、だが、自分の体は、何を恐れている?

 愚かな。

 兵士が。

 どうしようもなく。

 立ち竦んでいると。

 その視線の先で。

 虹の端が。

 突然に。

 唐突に。

 ぽっと、弾けた。

 二つの群れとして二つの方向へと向かっていた蝶々達が、空を覆い尽くしてしまおうとしているかのようにして、様々な方向に乱舞し始めたのだ。それは……静寂として演奏される、目眩くようなオーケストラに似ていた。もちろん、その兵士はオーケストラなんて知らなかったのだが。何か、とても、煌びやかで、華やかな、ある種の狂気であるということは理解出来た。

 そうして、その静寂のオーケストラに一拍だけ遅れて。この地上で眠れる全ての赤子を起こしてしまいそうなほどの、轟くような大音響が兵士の耳を劈いた。それは、その音は、つまるところ……デスピアの咆哮であった。

 叫び声、戦場にいる、ウパチャカーナラの、マンティコアの、ガジャラチャの、それにもちろん兵士達の叫び声。内側に埋め込まれた時計がまた動き出したかのように、あるいは凍り付いた時が溶け出したかのように。カリ・ユガ軍が、また動き出したのだ。ただし、その様子は、時が止まる前とは全く異なっていた。時が止まる前は、非常によく訓練された軍隊らしく、厳格な秩序の下で、暫定政府軍に攻撃を仕掛けていたはずのカリ・ユガ軍は。無秩序な大混乱の下で、暴れ狂う巨人の肉体を構成する、一つ一つの細胞のように。四方八方に向かって駆け出し始めたのだ。

 喉がちぎれんばかりに、肺が潰れんばかりに、恐慌の叫喚を撒き散らしながら。今にも焼き尽くされようとしている家からなんとかして逃げ出そうとする鼠の群れのように走る、様々な生き物達。ウパチャカーナラに跳ね飛ばされる兵士達、ガジャラチャに踏み潰されるウパチャカーナラ達。飛び跳ねながら走るウパチャカーナラにぶつかられて、マンティコアから転げ落ちた兵士が、砂の上に這いつくばる。そんなカリ・ユガ軍の混乱が、瞬く間に、暫定政府軍にも感染して。最終的には戦場の全体がプシャンの大神の支配下に置かれてしまった。

 彼ら/彼女らは。

 何から。

 逃げよう、と。

 しているのか。

 いうまでもなく。

 天から降り注ぐ、蝶々の群れ。

 蝶々は、その優雅な羽搏きからは考えられないくらいのスピードでこちらに向かって突進してきていた。蝶々の一匹一匹が、サンダルキアを海の底に沈めた炎の天使ででもあるかのように。天空から地上までの距離を、僅か数分で飛び過ぎて……とうとう、この戦場まで、やってきた。

 声は。

 声は。

 いよいよ。

 絶叫まで、高まって。

 泣き喚きながら。

 逃げ惑っている。

 使い、捨て、の、軍隊。

 さりとて、逃げられるはずがない。薨々虹蜺は対神兵器なのであって、この戦場にいる卑小な生命体ごときが、その指先から逃れられるわけがないのだ。彼らは、彼女らは、人差し指で押し潰される蟻のようなものなのだから。

 しかし……これほど恐れるような……何事が起こるというのだろうか? 塹壕の中で立ち竦んだまま動けなくなってしまった、あの兵士は。頭蓋骨の内側、どこかの一部分が、まるで他人事みたいにして、この光景を見ているのを感じていた。その他人事の部分が、ひどく冷静に、何が起こるのかということを知ろうとしているのだ。そして、戦場をじっと見つめる視線の先で……運命の一匹目、破滅の一匹目、蝶々の一匹目が。

 仲間の。

 兵士の。

 一人に。

 触れる。

 その暫定政府軍の兵士は「あの兵士」がいる塹壕の少し先にある塹壕の中にいた。「あの兵士」と同じように、塹壕の中で、ぼうっと立っていて。ただただ空の方を、蝶々が舞い降りてきている方を、ぼうっと眺めていた。そんな風に……破滅の運命を待望しているかのようにさえ見える兵士に向かって。蝶々は、その望みを叶えるかのように速やかに降り注いで。

 たくさんの。

 たくさんの。

 たくさんの。

 蝶々。

 そのうちの一匹が。

 ふっと、兵士の体に触れて。

 そのまま。

 するりと。

 内側、に。

 滑り込む。

 その兵士がホログラム映像か何かで、そのホログラムの光の中に入っていくとでもいうかのように、なんの抵抗もなく飲み込まれていったのだ。飲み込んだ兵士の方も、あまりにもなんの違和感もなかったがゆえに、何が起こったのかということが全く分からず。顔の上に疑問符を張り付けたような顔をして、蝶々が消えていった体の部分を、叩いたり、擦ったり、していたのだけれど。ただ、やがて……何かが、おかしくなってきたようだ。

 自分の手で自分の体に触れる手付きが、不意に、それまでとは全く違うものになったのだ。なんだか、焦っているような、慌てているような。ただ触れているだけの手付きが、掻き毟るようなそれになっていって。なんだか体の中で、悍ましい何かが蠢いている、その「何か」をなんとかして取り出そうとしているみたいに。次第に、次第に、兵士は、狂ったように全身を引っ掻き始めて。

 それと同時に……全体的に膨れ上がり始めた。いや、これは比喩とかそういうのではなく、言葉の意味そのままに、まるで風船みたいにして膨張し始めたということだ。藻掻いて、足掻いて、けれどもなんの意味もなくて。その兵士は信じられないほどの速度で二倍くらいの大きさに膨らんで……そして、一瞬の後に、まん丸になった体は、ぱんっという音を立てて冗談みたいに弾けた。

 さて。

 その中から出てきたのは。

 綺麗な、綺麗な。

 蝶々の、大群だ。

 その兵士の中に入っていったのは一匹であるにも拘わらず、その兵士が弾けた時に、中から出てきたのは、数え切れないほどの数の蝶々の群れであった。その兵士だったものは、破れてしまった皮しか残ることがなく。それ以外の、皮の内側にあったものは、全て蝶々に食い尽くされてしまったとでもいわんばかりだ。

 その兵士の中から出てきた蝶々達は、ひらひらと、それぞれの方向に向かって飛んで行って。そして、よくよく見てみれば……「あの兵士」の周りでは、同じような光景が、そこら中で繰り広げられていた。

 暫定政府軍の兵士達が、次々に弾け飛んで、その内側から蝶々を吐き出していく。いや、暫定政府軍だけに限ることはないだろう。カリ・ユガ軍の兵士達も、それどころか戦場にいるあらゆる生命体が、そのようにして死んでいっているのだ。ウパチャカーナラも、マンティコアも。ガジャラチャが弾け飛んだあとで、その中にいたカリ・ユガ軍の兵士達は、砂の上に転げ出て。少しだけ底を這いつくばった後で、やはり一人ずつ弾け飛んでいく。

 「あの兵士」の周りは……見る見るうちに虹色に染まっていった。というか、戦場の全体が、虹色の蝶々によって溢れかえったといった方がいいだろう。逃げ惑う生き物は、次々に、美しい蝶々の塊へと変わっていって。それから逃れられる者は、一人たりとて、一匹たりとて、いない。そう、誰もこの惨劇から逃れることは出来ないのだ。

 もちろん。

 いうまでもなく。

 「あの兵士」も。

 例外ではない。

 ふと気が付くと。「あの兵士」の目の前に、一匹の蝶々がいた。いや、まあ、蝶々はそこら中にいたのだが、その一匹の蝶々は、明らかに他の蝶々とは違っていて、要するにこちらに向かってきていたのだ。

 ひらひらと羽を動かして、揺らめく影のように踊っている蝶々。その姿を見ながら、「あの兵士」は……恋人のことを思い出していた。兵役に向かう前の日の夜に、家族が開いてくれた壮行会。そこからこっそりと抜け出して、二人で、笑い声を押し殺しながら、近くの山に登って行って。月が綺麗だった、アノヒュプスは九夜月で、ナリメシアは満月で。二人の恋人同士に向かって、軽く目配せをしているみたいに。月の下で、二人で踊った。ひらひらと翻る服の裾が、月の光にはためいて。蝶々の羽の動きを見て、そのはためきのことを思い出したのだ。

 ああ、夢みたいだ、と思った。

 何もかもが、夢みたいだった。

 夢と、現実と。

 一体何が違うのだろう。

 星の数を、一つ一つ数えて。

 そうして、全部を数えきれないうちに。

 終わってしまったような、人生だった。

 そんなことを考えている。

 兵士の額に。

 蝶々の羽が。

 そっと。

 触れて。

 そして……はい、死んだ! たった今死んだよ! お終い! みたいな感じですかね。どうですか? 薨々虹蜺について、これで大体のことはお判り頂けましたか。なるほどなるほど、うんうん、それは良かったですね!

 つまるところ、薨々虹蜺とは「感染する観念」なのである。あらゆる魔学的な「ロゴス」の基礎であるところの観念に寄生して、それを自分自身と完全に同じ観念、夢幻のように曖昧で寝言のように意味をなさない観念に変えてしまう。その結果として、観念の集積・観念の凝縮と呼んでも過言ではない生命体は、「あの兵士」が見たように、そのほとんどの部分が薨々虹蜺に変換され、あとは抜け殻くらいしか残らないというわけだ。

 そして。

 また。

 薨々虹蜺の侵すところが。

 観念である以上は。

 それが破壊するものは。

 生命体だけでは、ない。

 「あの兵士」、あるいは他の様々な生命体達が、先頭の最前線で死にまくっている時と同じころ。その視点をポータル・ベースへと向けてみよう。もっと正確にいえば、その中心にあるポータルそのものへと。

 その周囲では、先ほどまで熾烈な空中戦を繰り広げていた還俗学生&グラディバーンが、ひどく力ない有様で次々と落下してきて、そして地上に激突するとともに弾け飛んで、蝶々をそこら中に撒き散らしていたのだが。それだけではなく、ポータル自体も大変な危機に陥っていた。

 まず……めちゃくちゃ当たり前のことをいうが、これはポータルであって、どこかに繋がっているのだ。しかも、これは軍事用の製品、素早く組み立てられるということを最優先にして設計されたインスタント・ポータルである。使用者ロックのような機能が付いているはずがない。

 というわけで、このポータルが開いている限り、何者であっても、このポータルが接続している場所に移動することが出来るのだ。もちろん、薨々虹蜺を構成しているところの蝶々であっても。まさに、今、この時……どうっと、雪崩れ込むように、その青い円盤の中に入り込んでいく。

 激戦地域と接続している以上、ポータルが繋がっているどこかは、当然ながら、隔離された空間になっているに違いない。とはいえ、流れ込んでいっているのは鵬妓級の対神兵器なのである。そんなものが、あまりにもたくさん流れ込んでしまえば、向こう側の空間だって隔離し切れなくなってしまう可能性があるのであって。一刻も早く、この流れを止める必要がある。

 そのため。

 すぐさま。

 ポータルは。

 シャットダウンされる。

 これでポータルの向こう側はひとまず大丈夫だろう。無論、流れ込んでしまった薨々虹蜺への対処にはかなり手間取るであろうが。とはいえ、恐らく、ポータルが繋がっていたのは暫定政府軍の大規模軍事拠点の一つであって。そういうものへの対処方法がないわけではないのだ。

 だが、ポータル自体はどうだろうか。蝶々の大群の、真っ只中に残されたポータル自体は。確かに、ポータルは(借星で支配的な定義によれば)生命体ではない。とはいえ、何かしらの観念によって一定の形式を与えられてられていることは確かであり、更に、魔学的な力によって駆動する装置なのである。ということは……そこには薨々虹蜺が感染する余地がある。

 ひらりひらひらと、今、一匹の蝶々が、ポータルに近付いて行って。そして、パネルとパネルとの隙間に潜り込むようにして、するりと内側に入り込んだ。一匹が入り込むと、次に二匹目が。二匹目が入り込むと、次に三匹目が入り込んで。しまいにはそこら中から蝶々が滑り込むようになる。

 やがて……装置の内側から、かりかりという不吉な音がし始める。何かが、内側で、膨れ上がっているみたいな音だ。それが次第に次第に大きくなって、最後には、何かが暴れまくっているようながりがりという音になる。がりがりがりがりがりがりがりがり、凄まじい数の「何か」によって、装置の内側は溢れ返らんばかりになってしまって。

 それから。

 次の瞬間。

 装置の全体が。

 ほんの一瞬で。

 崩れ落ちる。

 最初から、金属などではなくこの砂漠の砂を固めて作られたものだったとでもいうみたいに。さらさらと、粉々に砕けてしまった。外側のパネルは、全て砂状になって、風に飛ばされて行って。その中からは……もちろん、虹色の蝶々が姿を現した。装置の中に入っていった数よりも遥かに数を増した蝶々が。

 しかも、そのような事態に追い込まれたのはテレポート装置だけではなかった。ポータル・ベースにあった、魔学的な動力で動く全ての装置が。魔法円の発生装置が、一連の防空システムが、DMF装甲輸送車量が。次々に薨々虹蜺に感染して、数え切れないほどの蝶々を吐き出しながら、崩れ去っていった。

 と、いうわけで。

 ポータル・ベースは。

 蝶々によって覆い尽くされるというよりも。

 むしろ、それ自体が、蝶々の群れとなって。

 美しい。

 美しい。

 美しい。

 虹色の、呪い。

 ひらひらという。

 柔らかい羽搏きのもとに。

 たった。

 数分で。

 完全に、破滅したのだった。

 以上、このような光景を、真昼は、デニーによって見せられた。もちろん、真昼の目が、たかが強化された人間の目に過ぎない以上、今まで描写してきたことの全てを見ていたというわけではない。兵士一人一人が死んでいく様など、殺虫剤で死んでいく蚤だか蝨だかほどにも見えていなかったし。辛うじて、テレポート装置が崩れていくところくらいは見えていたものの……とにかく、戦場が、凄まじい勢いで虹色に染まっていったということくらいしか、はっきりと見えていたわけではなかった。

 それでも、真昼は、理解していた。視線の先で一体何が起こったのかということを。いくら武器屋の娘だからといって薨々虹蜺がどのような兵器なのかということまでは知らなかったが、それでも、対神兵器を投下した空間がどのようになるかということくらいは、十分過ぎるほどに分かっていたからだ。

 あの虹色が(ちなみに真昼にはその虹色が蝶々によって構成されているということも全然見えていなかった)どのような性質をもつものであるということは、全く知らないけれども。あの虹色に触れた瞬間に、生あるものは死に絶え・生なきものは滅び去るということは確実だ。そして、そんな虹が、あれほどの密度で充満したというのならば……あそこにいた全ての生き物は、既に死んでしまっているだろう。

 ついさっきまで死に物狂いで殺し合っていた生命体達。真昼が、その横を、命からがらで通り過ぎてきた戦場。今では死と静寂とだけが広がっているはずだ。全然……現実感がない。真昼は、生命体達が、その生命を喪失していく場面を、はっきりとは見ていないからだ。なんとなく奇妙な感じがする。数万以上の生き物が死んでいく大虐殺の光景を、これほど間近に見たというのに。真昼の心の中には、まるでテレビ画面で花火か何かを見ているような、そんな感覚しか浮かんでこないのだから。

 真昼が、今まで生きてきた、そのもっとも大きなエネルギーの源であったところの感情。義憤が、湧き上がってこないのだ。今までの真昼であれば、いくら直接的な死のシーンが見えないとはいえ、これほど大規模な圧制としての暴力が目に見える場所で行われたならば。これが行われたことに対する責任は全くないが、手近にいるということで八つ当たりしやすいデニーに対して、ぎゃんぎゃんわめく躾のなっていない小型犬か何かのように、物凄い勢いで食って掛かっていただろう。それなのに、今の真昼は……胸元に、マラーのことを抱きしめたままで。透明なディスクの上に座り込んで、深く、深く、考えを巡らせている。

 恐らくは……カリ・ユガ軍は、自分たちの部隊を、あの戦場から撤退させていなかっただろう。対神兵器を積み込まれたグラディバーンが発進するまでは僅か数分しかなかったから、通常の方法で撤退出来たわけがないし。それに、通常以外の方法、例えばテレポートとか、そういった方法がとられた形跡はないからだ。ということは……カリ・ユガ軍は、敵兵どころか、味方の側の兵隊まで皆殺しにしたということになる。

 敵兵を殺すのは、まだ理解出来る。けれども、なぜ味方の兵隊まで殺す必要があったというのだろうか? いや、違う。その考え方自体が間違っている。味方の側の兵隊は、必要だから殺されたわけではない。オペレーションセンターで見た、陸軍の責任者だろう人間の仕草。あれから推測するに……きっと、殺す以外には方法がなかったから殺されたのだ。

 なぜ? なぜそのようなことになったのか? もしも、陸軍が撤退する動きを見せたのならば。きっと、暫定政府軍に対して、何かがおかしいと悟られてしまうだろう。そうなれば、もしかしたら対神兵器が使用されるかもしれないという推測が行われる可能性がある。暫定政府軍は……いくら暫定政府といえば金がない、金がないといえば暫定政府とはいえ、対神兵器に対抗する防御手段の一つや二つは所有しているに違いないのだ。そうでなければ、どうやってアーガミパータで生き残ることが出来る? そして、その防御手段を使われてしまったら。対神兵器の投下が全くの無駄になってしまう。

 この戦闘を一度に終わらせるためには、どうしても暫定政府軍が気が付かないうちに全てを終わらせる必要があった。つまりはそういうことなのだろう。それが……良いことなのか悪いことなのか、真昼には判断のしようがない。けれども、確かに、このことには理由があって。その理由がなければ、このことが起こらなかっただろうということ。真昼は、それを、理解していた。この世界で起こる全てのことに理由があって、その理由の外側にいる何者かが、その理由によって起こったことについて、何かをいうことが出来るのだろうか? もちろん、それだけの賢さがあればいいだろう。その理由をきちんと理解出来て、しかもその理由に反論できるだけの賢さがあれば。だが、それは人間に可能なことなのだろうか? 正当性、正当性の問題。義憤は正当性によって起こる感情だ。だが、そもそも、その義憤に正当性があるのか?

 どんなに考えても。

 何一つ答えが出てこない。

 まるで。

 骨の泉のほとりに座って。

 その骨の数を。

 一つ。

 一つ。

 数えているみたいだ。

 奇しくも……真昼の、その想像は、あの戦場で死んでいった「あの兵士」が最後に思ったことと、非常によく似ていた。ただし、「あの兵士」が数えていたものがきらきらと輝く星であった一方で、真昼の数えているものは、乾き切って干からびた骨であったが。それでも、数える意味のないものを数えているという意味では、その二つは全く同じ行為なのだ。

 まあ。

 だから。

 どうしたって。

 話なんですが。

 とにもかくにも、そんな風にして無意味なことを延々と考え続けている真昼ちゃんの一方で、デニーの方はというと、大変ご機嫌だった。というか、薨々虹蜺を乗せたグラディバーンが発進した時点で既にはしゃぎまくっていて、「ほらほら、真昼ちゃん! あれだよあれ、あれに乗ってるんだよ!」とか「頑張れー! 頑張れー! もっと早くー!」とか叫んでいたのだし。薨々虹蜺が投下された段階に至っては、テンションMAXの状態で「真昼ちゃん! カウトダウンだよ、カウントダウン!」「三、二、一……どかーんっ!」だのなんだの叫んでいたのだが。ひとしきり、生命体が死に終わり、建造物が壊れ終わると。ほへーっという感じで一息ついて、ようやく落ち着き始めたのだった。

「やっぱり対神兵器って素敵だね! ばばーってなって、ぐわーってなって、ぴろーってなって。みんなみんな死んじゃうし、みんなみんな壊れちゃうから、とーってもすっきりするっていうか! 見てるだけでなんだかこっちまで楽しくなってきちゃうよ! ね? 真昼ちゃん!」

 実は、その時までは真昼がいる方に視線を向けることなく、ずっとずっと戦場の方を向いてわやわやしていたのだけれど。そう言いながら、ようやく真昼を振り返ったデニーの目に入ってきたのは……明らかに心に張りがない顔、薄っ暗い顔をして、ずーんという感じで俯いている、真昼の姿だった。

 デニーは、一瞬だけ、一体何が起きてるのか全く分かりませんという顔をしていたけれど。その直後に、ええーっ!?みたいな顔をし始めた。そ、そんな……あんなに素敵なものを見せてあげたのに、なんでこんなにローテンション・マヒルなの……? おなかが痛いとか……? みたいな感じの顔だ。

 それから、暫くの間、どうしていいのかさっぱりです見たいな感じで、はわはわと慌てていたのだけれど。やがて、きょんっという感じで、座り込んでいる真昼の前にしゃがんで。その顔を覗き込むようにして、こう問い掛ける。

「真昼ちゃん、もしかして……楽しくなかった?」

 だから!

 最初に!

 見たくねぇっつっただろ!!

 と、真昼としては、そんな意味のことを全力で叫びながら、デニーのことを張り倒してやりたい気持ちでいっぱいだったが。しかし、何度も何度もいうように、デニーが真昼に対神兵器による破滅と虐殺とを見せたというのは、デニーちゃんこれ好きだし真昼ちゃんも喜んでくれるよね!的な全くの善意からなされた行為なのであって。どんなに正当な怒りによってぶち切れたのだとしても、百パーセント無意味なのである……ということは、真昼も重々承知していた。そのため、真昼は、デニーの問い掛けに対して答えることはなく。覗き込んできたデニーの視線から、ふっと顔を逸らす以外に、なんらかの反応を示すことはなかったのだった。

 それに対して、デニーは、ちょっとわざとらしいくらいにがーんとした表情を見せて。デニーちゃん、なんだか可哀そう……ほへーっとした感じで、どう見てもしょんぼりしていたのだけれど。やがて「んー……まあ、そうだよね。思ってたよりも、ちょーっとだけ地味だったし」とかなんとか、かなりデイ・アフター・トゥモローの方向性で、真昼ちゃんのご機嫌斜めについて自分自身を納得させたのだった。

 さて。

 それは。

 それと。

 しまして。

 なんだかんだいって、結構な時間が経っていた。虹色の蝶々は消えることなく、未だに砂漠の一部分を覆い尽くしていたが。ポータル・ベースは完全に陥落していたし、デニーの目で見てさえ、戦場には、蝶々を除いて、動くものなどほとんど見当たらない有様だった。もうこれ以上は、見続けていても、さして面白くならないだろう。

 そんなわけで、デニーは、しゃがんでいた姿勢から立ち上がると。ちょっと離れたところで侍るように待機していたレーグートに向かって、こう話しかける。

「それでー、あとどれくらーいかかりそお?」

 レーグートは。

 少し考えるような。

 素振りを見せた後。

〈そうでございますね……〉

 いかにも。

 愛想よく。

 こう答える。

〈あと十分程度でご案内出来ますかと。〉

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