第二部プルガトリオ #5

「あははっ!」

 デニーの。

 声が。

 する。

「これで、お暇が潰せそーだねっ!」

 人間のように泥土とさして変わらない下等生物にとっては、物事の本質とは分離である。何もかもが、「全て」から分離されることによって、初めて認識可能な「固有」へと変化する。例えば「意味」という言葉の意味について考えてみよう。人間にとっての「意味」とは、記号によって指し示すことのできる、一区画だけ他の部分から分離された、観念的な時空間のことである。要するに、記号によって切断されることで、初めて、人間にとってそれは「意味」となるのだ。

 もちろん、いうまでもなく、人間によって記号化される以前にも観念の宇宙は存在している。だが、人間は、記号という宇宙服なしではその宇宙を遊泳することが出来ない。ごくまれに、記号を介在させることなく、観念に沈み込んだことがあるという人間もいる。しかし、賭けてもいいが、それは馬鹿が馬鹿なことをいっているだけだ。頭が悪いから、物事を中途半端に記号化して、その記号化の過程さえ意識することが出来ずに、自分は観念に直接的に触れたと勘違いしているだけの話だ。目を通さなければ光を見られないように、耳を通さなければ音が聞こえないように、人間は、記号の介在なしには、それを認識することが出来ない。そういう下等な生命体として設計されているからだ。

 しかし。

 だとすれば。

 真昼が、感じた。

 この「意味」は。

 意味では。

 ない。

 真昼の外部からやってきて、真昼を飲み込んで、真昼のことを、内側から完全に弾き飛ばすみたいにして、ぐちゃぐちゃに翻弄したそれは。はっきりといえば精神の波動であった。ただし、その波動を放った精神は、真昼には全く理解することの出来ない構造をしていたのだが。

 敢えて表現するならばそれはEGOだった。しかも人間ごときでは到達出来ないようなEGO。完全に独立していて、絶対的に隔絶された、百パーセントのEGOなのだ。そのEGOはコミュニケーションなど望んでいない。そんなことをしなくても問題ないのだ、なぜなら、己のみの力でこの世界を生きていくことが出来るから。いや、その表現も少し違うかもしれない……そのEGOにとって、世界さえも、自分自身として認識するべき対象。

 最初から他者という感覚が完全に欠如している。目に見えるもの全てが自分の延長であると感じているから。人間には理解出来ないほど、膨れ上がり、満ちわたった、自分という感覚。だから、そこにある何かをわざわざ「意味」として分かつ必要などない。全ての物事を、記号によって歪めることなく、ありのままに認識することが出来るのだ。なぜならそれは自分なのだから。そういった、人間とは全く異なった精神構造を持つ何者か。

 そんな何者かが放った波動である以上は、もちろん、それはコミュニケーションを意図したものではなかった。もっと、それは……咆哮のようなものだ。肉食の獣が、本能からか経験からか、恐怖によって被食者を足止め出来ると理解して。そして、そのための道具として使用しているだけの叫び声、のようなもの。

 そんな。

 咆哮が。

 暫くの間。

 続いて。

 はっと気が付いた時には、真昼は薄汚れた絨毯の上に横たわっていた。口をぽかんと開いて、そこからたらたらと涎が滴っている。体を動かそうとしたのだが、思うように動かすことが出来ない。全身の神経が、なんだかぼんやりとした、停滞そのもののような感覚によって麻痺してしまっていて。どうやったら体を動かせるのかさえ思い出せないのだ。

 それでもなんとか眼球だけは動かせるようになって。見えている範囲のものを見渡してみたのだけれど……どうやら、こういう状態になっているのは真昼だけではないようだった。真昼のいる場所からは、例の半円形の机の方向が見えていたのだけれど。真昼が見える限りの範囲でも三人の人間が倒れていて、そのうちの一人は、その全身を覆っている蛇の皮から考えて、間違いなくナーガヴィジェタだった。

 一体どうしたのだろう、みたいなことを考えながら。真昼は、案外に早く体の動かし方を取り戻していく。手の指先から、足の指先から、少しずつ体の中心へと向かっていって。なんとか立ち上がることが出来るくらいまで回復した。その時に至っても、まだナーガヴィジェタ達三人……いや、見えるようになってみると、基地のお偉いさん達は五人全員が倒れていたことが分かったのだが、その五人は、立ち上がることが出来ていなかった。

 隣にいるマラー、とても怖がっているような顔・縋り付きたいと思っているような顔を真昼に向けながらも、それでも真昼と同じように、立ち上がれるくらいには回復していることから考えるに……デニーによって書かれた魔学式が、幾分か、あの精神波動の効果を和らげたに違いない。それはそれとして、とにかく真昼は立ち上がって。助けを求めるようなその顔に、少しだけ嫌悪感を抱きながらも、マラーの体を支えるために、這うみたいな歩き方で近付いて行ったのだった。

 床の上に転がることなく、平気な顔をして立っていたのはデニーとレーグートとだけであった。デニーにとっては先ほどの咆哮などちょっとした挨拶のようなものであったし、レーグートはあらゆる種類の精神に完全にアダプトすることが出来る。だから二人ともなんの影響も受けることがなかったのだ。そして、今、二人は……ゆっくりと、この部屋の一番奥の方へと歩いていく。つまり、エネルギー・フィールドで出来た直方体の箱の中へと。

 真昼は……取り敢えず、マラーの体を支えて、近くの壁に寄り掛からせると。共通語、「大丈夫」「大丈夫だから」「少しここで待ってて」と言い聞かせるみたいにして囁きながら、一度、ぎゅっと抱き締めた。それから、マラーの体を離して、デニー達が向かった方へと速足で歩いていく。マラーは、とても不安そうな顔をして真昼の後姿を見つめていたのだが……真昼はそれを振り返ることさえしなかった。

 大した距離があるわけでもない、ここからあそこまでの距離は。そうして、すぐに、真昼は、透明な箱の中に辿り着く。エネルギー・フィールドは白々しいほどに透明をしていた。それは、まるで、綺麗に綺麗に磨かれた、動物園のガラスの檻みたいだった。向こう側からこちら側を守るためのもの。危険な生き物が向こう側にいて、その危険な生き物から、こちらにいる、あまりにも脆弱で、あまりにも愚昧な、人間を守るもの。

 そう。

 向こう側には。

 とても。

 とても。

 危険な。

 生き物が。

 いる。

 先ほども書いたように、建物から少しだけ出っ張って・飛び出しているその箱は、あの木に向かい合う形で成立していた。それだから、その空間を構成している透明な五つの平面、前・右・左・上・下の平面からは、あの木と、その周囲に広がっている空間を見渡すことが出来た。その箱の中にやってきた真昼の目には、否応もなしに、そういった光景が飛び込んできて……真昼は、思わず、「え?」という声を発していた。

 真っ赤な。

 木の実が。

 たくさん。

 たくさん。

 落ちている。

 あの木の根元を、完全に覆い尽くしてしまうくらい、幾つも幾つもの木の実が落ちていた。それらの木の実の一つ一つは、全体的に赤い色をしていたというわけではない。なんとなくベージュっぽいようなピンクっぽいような色がベースになっていて、そのところどころに、飛沫のような赤い色がまだらになっているのだ。そして、木の実の形であるが……真昼が、今まで、見たことも、ないような、非常に、奇妙な、形を、していた。

 基本的には、歪んだ円筒形の形をしていて。その円筒形から、四本の触手のようなものが伸びている。木の実の上側から二本、下側から二本、それぞれ伸びていて、下側のものの方が上側のものよりも若干太くなっている。また、その四本の触手の先は、それぞれが五本ずつに先別れしている。真昼は、これはとてもおかしなことだと思った。普通、木の実のようなもの、触手が生えたり先別れしたりする時は。それぞれの木の実ごとに、だいぶん異なった形になるものだ。あるものは一本の触手しか生えていなかったり、あるものは十本に先別れしていたり。それにも拘わらず――一部の例外はあったにせよ――これらの木の実は、ほとんどが、その四本の触手と五本の先別れで統一されていた。

 なんで、こんな、枯れた木の下に、死んだ木の下に、これほどたくさんの木の実が落ちているのだろうと、真昼は不思議な気持ちになったのだけれど。よくよく見てみると、それらの木の実は全てが腐っていて、ああ、そういうことか、と真昼は納得した。ぶよぶよとしていて、弾けたりもしている。触手がちぎれてしまって、その触手だけで転がっていたりもしている。そういった場合に、内側に見えている果肉の部分が、濁ったような赤色をしていて。外側の表皮の部分がベージュっぽいようなピンクっぽいような色をしているということが分かる。つまり、この果実の赤く見える部分は、果汁が飛び散った結果としてそう見えているらしいのだ。それから、内側には、何か白いものがのぞいている。硬くて乾いているそれは、恐らくは種のようなものだろうと、真昼は、一度は、思ったのだけれど……その直後に、唐突に気が付く。

 ああ。

 違う。

 これは。

 骨だ。

 人間の骨。

 そして、これらの果実は。

 実は、果実では、なくて。

 全てが。

 人間の。

 死体。

 一目で気が付くことが出来なかったのは、それらの死体が、人間としての完全な形をしていなかったからだ。人間の最も重要な部分、要するに首が切り落されていたということ。まあ、この広い世界には首がない人間もいないわけではないのだし、首がないことを「人間として完全ではない」と表現するのはポリティカルにコレクトな表現ではないが、そういう政治的な話題は今は脇に置いておいてもらいたい。とにもかくにも、それらの死体は……全て、首がないままに放り捨てられていた。

 それに服も着ていなかった。素裸の、首のない死体が、山のように積み重なっていたのだ。そして、そういった死体の周りを……つい先ほどまで十数匹のウパチャカーナラが飛び交っていた。ところどころが腐った血液で汚れた、それでも太陽の光を浴びてきらきらと輝く金色の塊、あちらこちらで、ぴょんぴょんと跳ね回っていたのだ。何をしていたのかといえば、死体を食っていたのだ。ウパチャカーナラは雑食性の生き物であるため、人間の死体ももちろん食べる。そこら辺の死体から腕を引っこ抜いたり足を引っこ抜いたりして、骨の周りについている腐りかけの肉を食いちぎっていたということだ。

 しかし。

 今では。

 そうした、ウパチャカーナラも。

 倒れ伏して動けなくなっていた。

 死体の周りに落ちている、金色の毛玉。真昼は、最初は、そういったウパチャカーナラも、やはりここに集められた死体の一部なのかと思っていた。けれども、首は切り落とされていなかったし、ぴくぴくと小刻みに痙攣しているところから考えて……どうやら、これらのウパチャカーナラは、先ほどまでは元気に動いていたのだが、真昼達を打ちのめした精神波動の影響で動けなくなっているものだということが理解出来た。

 ちなみに完全に肉食であるところのマンティコアの姿はどこにもなかった。これはきっと、ウパチャカーナラが比較的安全な生き物であり、割と行動の自由が許されている一方で、マンティコアは厳重に管理されているからなのだろう。本来はウパチャカーナラの餌として置かれているわけではないのだが、自由に動き回れるウパチャカーナラ達は、そんなことを気にせずに、摘まみ食い感覚で漁り回っていたということだ。

 ということは。

 これらの死体。

 ウパチャカーナラのためのものでないのならば。

 一体、なんのために集められているのだろうか。

 というか、これらの死体は。

 何者の死体、なのだろうか。

 それを理解するためには、木から少し離れたところ、真昼達がいる建物のすぐ近くに視線を移す必要があるだろう。そこには……数人の人間が倒れていた。彼ら/彼女らは死体ではなく、やはり精神波動によって影響を受けた人々らしいのだが。どうやら兵士ではないようだった。

 戦闘服を着ておらず、見るからにみすぼらしい衣服を身に着けている。べっとりと血にまみれ、塵と埃とに薄汚れて。そして、ろくなものを食べていないのだろう、げっそりと痩せ細っている。こういった、不幸な人々のことを、真昼は、つい先ほども、目撃したのであって……要するに、彼ら/彼女らはタンディー・チャッタンの一般市民だ。

 タンディー・チャッタンは、こういった町であるため、まともな地域産業が根付くはずもなく。ほとんど唯一といってもいい働き口は軍事拠点での仕事である。料理だとか洗濯だとかポータルでの荷下ろしだとか、それに軍用生物の世話だとか。働ける年齢の町人は、ほとんどがそういった仕事に就いているのであって。この人々もそうであった。

 ただし、この人々は少し変わった業務に従事している。それは死体の服を脱がせるという作業だ。彼ら/彼女らは二つの班に分かれている。輸送を担う班と脱衣を担う班と。輸送を担う班は、かなり大きめの手押し車みたいなものに、山のように死体を積んで、どこかから運んできていて。脱衣を担う班が、その死体の服を脱がしては、あの木の根元に放り投げているのだ。まあ、今はストップしてるんだけどね。

 そんなわけで、この人々が倒れている場所には、死体が着ていたところの衣類が山と積まれていたのだが……それらは皆、暫定政府軍の戦闘服だった。つまり、死体は、暫定政府軍の人間のものだったのだ。捕虜となって処刑された人々、処刑されなくても怪我や病気やで死んだ人々。それだけだと、これほどの量の死体がある説明がつかないから、戦場で死んだ人々の死体も幾らか混ざっているのだろう。

 なんで、そんなことをするのか? なんで、様々なところから死体を調達してくる必要があるのか? なんで、わざわざ死体の服を脱がしているのか? なんで、そういう死体を、あの木の根元に積み上げているのか? それを知るために、真昼は……その視線を、あの木の根元から、もっと上の方、捻じ曲がりながら空へと伸びている枝々へと移す必要があった。

 一匹、の。

 蛇がいた。

 枝と。

 枝と。

 その間に。

 艶めかしくも、冷酷な音楽。

 まるで、あたかも。

 死せる神々の指先で。

 色鮮やかなリボンが。

 涜聖のダンスを踊っているみたいに。

 冷血。

 冷血。

 冷血。

 ああ。

 それは。

 あるいは。

 自分自身という。

 絶対的な、原理。

 蛇だった。だが、様々な点で普通の蛇ではなかった。まず、その長さであるが、十ダブルキュビトを遥かに超えていた。太さも人間の胴体ほどもあり、肉体の内側には、しなやかに束ねられた金属製のワイヤーみたいな筋肉が存在しているということを感じさせる力強さがあった。のたくるようにしてあの木に絡みついているその姿からして、もともとは樹上棲の種類だったと思われる。それはまた、その蛇の体形、胴体の断面が、樹木に絡みつくのに適した、側面と底部とが凹んだ角丸四角形をしているということからも推測出来ることだった。

 それから、その尾部の末端には、一部の蛇と同じようにラトルが付いていた。ただし、無論、ただのラトルというわけではなかったが。普通の蛇のラトルは角質層に由来するものであって、当然ながら、「角質」という名前の通り、主にケラジン(パンピュリア語で角を表すケラスを語源とする)によって出来ている。だが、この蛇のラトルは……どうやら魔学的な結晶体によって形作られているらしい。

 歪んで見えるくらいに透き通ってて、けれども見る角度によっては、内側に虹が閉じ込められているかのようにして様々に色を変える。その色のどれもこれもが、恍惚として沈み込んでいく夢の世界のような光であって……その結晶体が、信じられないほど強力な魔力によって、蛇の肉体を構成していた蛋白質から、全く別の性質をもつ物質に変えられたものであるということを端的に証明していたのだ。

 圧倒するような巨大さに、魔力を秘めたラトル。だが、その蛇の最も際立った特徴は、そのどちらでもなかった。それは……羽根だ。その蛇は、頭の部分とラトルの部分と、それに地面に接する部分を除き、全身がフェザーによって覆われていたのだ。

 要するに、体鱗(頭鱗でも腹板でも尾下板でもない部分)をなしていた鱗が、なんらかの進化によって羽根になった物らしかった。それらの羽根は、例えば鳥のようにウィング状になっていたりすることなく、体を覆っているだけであって。それによって飛行したりとか、そういうことは出来なそうだ。その代わり……その羽根の一枚一枚が、魔力を帯びて、うっすらと光り輝いていて。つまりは、ナーガヴィジェタが羽織っていた、あの蛇の皮は、この蛇が脱ぎ捨てた物であるようだった。

 そして、真昼は知っている。

 これほどの魔力を持つ蛇を。

 目の前にいる蛇。

 ゆったりと、優雅に。

 枝々に、絡み付いて。

 のたくるように、這い回っている。

 ただそれだけであるにも拘わらず。

 まるで。

 色彩が。

 舞い踊っているかのように。

 鮮やかに、羽根が、動いて。

 舞い。

 踊る。

 蛇。

 つまり、この蛇は。

 舞龍。

 五つの種類に分かれる「オロチ(大蛇)」のうちの一種で、ヘビ(蛇)目の生き物から進化した種族。「洪龍」「偽龍」と同じ知的生命体であって……しかも、マホウ界において、高等知的生命体に分類されている。ただし、その知性は、人間が持つそれとは大きく異なっている。そもそも知性というものは大雑把に四つの種類に分けることが出来る。

 まず一つ目が集合知性。これは、種族の全体が一つの知性を共有しており、個別の知性が存在しないケースである。これに関しては、勘違いされやすいのであるが、ただ単純に「多数の生命体が知性を共有している」ということだけでは成立しえない。それだけであれば、いくらたくさんの知性が集まろうとも、所詮は「一つの知性」に過ぎないからである。この知性であると認定するために最も重要な点は、(極端に単純化していえば)各々の生命体が世界と自己同一化しているという点である。多くの高等知的生命体が集合知性の持ち主であり、借星では、絶滅する寸前のホビットがこの種類の知性を有していた。

 二つ目が流動知性。これは少し特殊な例なのだが、知性を特別な能力と考えず、爪や歯やと同じような、生き延びるためのただの道具として考えている種族にごく稀に見られる。それぞれが個別の知性を持っているのだが、そこに個性などというものはなく、ただ単純に、情報を蓄積するメモリーと、その情報を処理するプロセッサー、それに世界と接続するためのインターフェースが融合したものに過ぎない。インターフェースによって、色々な別個体と離れては交わり、交わっては離れてを繰り返すため、「自分」という感覚はほとんどない。借星においてはノスフェラトゥがこの種類の知性に分類される。

 三つ目が関係知性である。これは不完全で間違った進化を遂げた下等知的生命体によく見られるタイプの知性だ。一応は個別の知性を有しているのであるが、その知性は周囲の個体との関係性によってのみ変容しうる。それゆえに、それらの知性は、全てが一様に「社会」であって、自分に固有の力によって変更を加えられるものではないはずのものだ。だが、それにも拘わらず、当の知性の持ち主達は、それらの知性を自分の力によって形作ってきたのであり、自分の力によって如何様にも変更しうるものだと勘違いしている。これは関係知性に特有の「意識」という現象が原因となって起こる錯覚である。「意識」とは不完全な「社会」であり、いわば社会断片とでも呼ぶべきものである。一人一人の内側に、関係性の総体として蓄積した、出来損ないの内部世界に過ぎないのだが……ただし、その社会断片が個体の総体的感覚を追認することによって、あたかも独立した個体であるかのように振る舞うのだ。この「意識」のせいで関係知性は自分達が関係の絶対性に囚われているということに気が付けない。いうまでもなく、この種類の知性の代表例はホモ・サピエンスである。

 そして、四つ目が、個別知性だ。これは関係知性とは異なり、完全に個別的な知性である。あらゆるコミュニケーションを行うことがなく、何者によっても侵食されることがない。最初から完成しているところの、一つの完全な情報処理機構。この種類の知性の持ち主は、絶対的な強者として生態系に君臨していた生き物から進化した高等知的生命体であることが多い。絶対的な強者、つまり捕食動物の頂点にいる生き物は、自分だけで生きていくことが出来るので、他者とコミュニケーションを取る必要がないのだ。そのまま思考能力が発達し続けた結果として個別知性の持ち主となる。これが……舞龍の持つ知性だ。

 しかも舞龍は、個別知性の持ち主の中でも特に徹底した個別知性の持ち主であり、全蛇生のあらゆる段階でコミュニケーションを行わない。卵から生まれて死ぬまでずっと一匹だけで過ごす。生殖行為も行う必要がない、なぜなら単為生殖を行う動物だからだ。雌のみで産卵を行い、生まれてきた子供たちは皆が母親のクローンである。ちなみに、母親をずっと辿っていくと、ごく少数の始祖的な舞龍に辿り着くのだが、舞龍のファーストネームはこの始祖的な舞龍ごとに付けられている。いうまでもなく舞龍に付けられた名前は人間が識別のために付けたものであるが、「カドゥルー・シャーカラヴァッシャ」という名前を例にとると、このファーストネームによって「カドゥルー」という始祖から発生した舞龍であるということが分かる。

 さて。

 それは。

 絶対に。

 独立した。

 一つの。

 知性で。

 あって。

 つまり……先ほどの咆哮、暴走する殃禍、猛威を振るう豪風のような精神波動は、この舞龍が発したものだったのだ(いや、そんなこと別にいちいちいわれなくても分かると思うが、念のために書いておきました)。

 しかし、とはいえ、一体この舞龍はなんのためにそんなことをしたのだろうか。つい今しがた説明したように、舞龍の精神は、何者かとコミュニケーションを取るといった目的に使用されるものではない。それは、端的に、生存のための道具として使用されるものであって。

 ふと。

 デニーが。

 口を開く。

「この子とお話してもいい?」

〈もちろんでございます、ミスター・フーツ。〉

「ありがとー。」

 「話す」というのは比喩的な表現だ。舞龍とは会話が成立しないのだから。例えば、相手が何かを食べているのならば、腹が減っているのだと分かる。例えば、相手が眠っているのならば、眠いのだと分かる。あるいは、相手が自分の喉を引き裂けば、相手が自分を殺そうとしているということが分かる。そういった事実の確定をもっと高いレベルで行うということである。

 デニーは、先ほどの言葉の後。レーグートに対して、ぱーっという感じ、いかにも嬉しそうに笑い掛けてから。舞龍の方に向かって、いつものように、ステップでも踏んでいるみたいな軽やかな足取りで歩き始めた。ただし、その行為には問題が一つだけあって……デニーから目と鼻の先の距離のところには、エネルギー・フィールドの壁が立ちはだかっているということだ。

 デニーは、その壁に向かって歩き続けて。すぐに壁にぶつかってしまって……けれども、その壁を、何事でもないかのようにして、すっとすり抜けた。しかもその上、その先には床も何もないにも拘わらず、まるで確固とした足場が続いているかのようにして、虚無の空間の上を歩き続けたのである。

 ちなみに、このエネルギー・フィールドは、人間ではとても耐えられないような精神波動から人間の思考を守るための、テレパシー遮断フィールドだ。こういったフィールドにはノスフェラトゥ等が発するノソスパシーを遮断する科学タイプと、デウス・ダイモニカス等が発するデウスパシーを遮断する魔学タイプとの二種類があるのだが、これはもちろん後者である。

 要するに舞龍のデウスパシーを遮断するためのものだ。とはいえ、これは、あくまでも……比喩的な表現を使うならば、「日常会話」を遮断するためのものに過ぎない。普段から舞龍が発しているデウスパシー、「これこれがこうであるならばそれはそうなる」という情報処理の結果を表現するものや、ただ単に空腹を表現するもの、あるいは人間には全く意味不明のものまで、常に発し続けているというわけではないが、比較的頻繁に発される。さほど強くないデウスパシーを遮断しておくもの(このエネルギー・フィールドの外で死体の運搬・脱衣をしている人々は、これとは異なるデウスパシー中和装置をつけている)(この種類の装置についてはまたいずれ説明します)。

 一方で、先ほどの精神波動は、こういった「日常会話」とは明らかに異なったものだった。なんというか……明らかに、それには、攻撃の表現があった。威嚇、脅迫、なんでもいいのだが、外敵・獲物に対して衝撃を与えるタイプのものだったということだ。そういうわけで、このエネルギー・フィールドでは、中にいる人間達のことを守り切れなかったのである。

 デニーは。

 そんなエネルギー・フィールドから出て。

 あの木に向かって、歩いて行って。

 それから、そのすぐ近くで。

 とっ、と足を止める。

 デニーがエネルギー・フィールドから出たのは、そういった邪魔な障害(これって重言になるんですかね?)を挟むことなくシャーカラヴァッシャと「お話し」したかったからだが……それはともかくとして、一方のシャーカラヴァッシャが、今、何をしているのかということについても話しておこう。

 先ほどから、少し表現を変えつつも何度もいっているように。シャーカラヴァッシャはコミュニケーションをしたくて精神波動を放ったわけではない。ということで、精神波動を放った時には、あの木の上にいて、枝に絡み付くような感じでいたのではあったが。シャーカラヴァッシャにとってみれば、その場にいつまでも留まっている必要性は皆無であるわけだ。何せただ咆哮しただけであるので(これがどんな意味を持つ咆哮なのかということはもう少し後で明らかになります)、やるべきことを済ませた後は別のことをしてもなんら問題はないわけで。

 そういうことなので、シャーカラヴァッシャは。すべらかに波打つ色彩の痙攣みたいに枝を伝って、鮮やかに歪む一種の波動のようにして幹を滑って。あの木から死体の山の上に降りていた。ちらり、ちらり、という感じ、時折、口の中から舌先をのぞかせて、死体の上の何かを感じ取るようにしながら――ちなみにこの何かとは魔子である、舞龍の口蓋の上には魔子を感じ取ることが出来る特別な器官がある――死体の上を這い回っていたのだが。やがて、ざらり、とその場にとどまった。

 どうやら、死体のうちの一つに注意を向けたらしい。えらえらと舌先をフリックさせながら、その死体のことを、じっと見つめていたのだが……やがて、その口を、大きく、大きく、開いた。それはがああああっという感じで、蛇以外の生き物では有り得ないような、下顎と上顎とのラインがほとんど直線を描くような開き方だった。蛇の口、骨同士の分化がいかに進んで、どのような可動性を獲得しているのかということは、学術的な専門書は幾らでもあるのだし、別にここで説明する必要は全くないので、省略させて頂くが。舞龍もまた、そういった可動的な口を有しているのであり、その可動性を最大限に活かしたということだ。

 死体自身は死んでいるし(当たり前だ)、それにそもそも首を切断されているので、見ることは出来なかったが。もしも見ることが出来たならば、シャーカラヴァッシャの姿は、まるで生々しく燃え盛る炎を吐き出す口だけになって襲い掛かってきたように見えただろう。そのようにして、シャーカラヴァッシャは、その死体を咥え込んで……そのまま、があがあと、飲み込み始めた。

 ここまで読んできて分からないようなどうしようもない馬鹿はサテライトくらいだと思うが、つまるところ、これらの積み上げられた死体はシャーカラヴァッシャのために用意された食事だったということだ。衣服を剥ぎ取っていたのはシャーカラヴァッシャが食べやすいようにという配慮だったのである。まあ、衣服を着ていたところで気にかけるようなシャーカラヴァッシャではないと思うが、人間という生き物はとかくそういった意味があるのかないのか分からないような配慮をしがちだ。

 腐りかけた体は見る見るうちに飲み込まれていく。死んだままで、ゆらゆらと、無力なクラゲみたいにして揺れ動く指先。ぐったりとして、諦めきったように折れ曲がった膝。その体は頭があった方向から飲み込まれ始めたのだが、シャーカラヴァッシャがぐうっと首を動かす度に、肩から腕、腕から腰、腰から膝、と飲み込まれて行って。それから、とうとう、その爪先さえもシャーカラヴァッシャの口の中に消えて見えなくなった。

 と。

 そんな。

 わけで。

 今、シャーカラヴァッシャが何をしていたのかというと。敢えて書くとすれば、お腹が一杯で満足していたということになるが……ただし、それにもかかわらず、デニーがあの木の前に立った瞬間に、その雰囲気というか、気配みたいなものが、かちんという硬質な音でも立てるみたいにして、一瞬にして変化した。それは、あたかも、コップ一杯に注がれた水の中に、その水を完全な氷にしまう冷酷なポリモルフを、一つの種結晶として落としたかのように、一瞬にして凍り付いたのだ。

 シャーカラヴァッシャは。

 そっと、首を擡げる。

 まるで、人間の時間。

 こっそりと刈り取る。

 収穫の鎌のような。

 形をして。

 樹上棲の蛇に特有の、あの目。他の種類の蛇よりも、少し頭の上方に付いているために、一定の範囲を両眼視することが出来るあの目によって、デニーの姿を見定めた。すっと、垂直に走った切れ目のようにして、瞳孔が見えている。夜行性であることを意味する目、本来であれば、暗い、暗い、世界に生きている生き物の目。まるで……氷でできた棺桶を粉々にして、その欠片の一つを埋め込んだみたいな目だ、と真昼は思った。

 ついでまでに、確かにシャーカラヴァッシャは樹上棲であるが、舞龍の全てが樹上棲であるというわけではない。地中棲のものもいれば地上棲のものもいるし、ごく一部ではあるが水棲のものさえいる。こういった違いは人間でいうとちょうど人種の違いのようなものである。黒人とか白人とか黄色人種とかそういった感じだ。ただ先ほども書いたように、舞龍は有性生殖を行わないため、混血が発生することはないのだが。

 さて、そんな目をしてデニーのことを見上げると……自分から、その物体までの、距離を測る。蛇が、目によって焦点を測る時。つまり、焦点を合わせる時には、他の脊椎動物とは異なった特殊な方法を使う。虹彩を形作る筋肉を用いて、眼球の中にある水晶体を直接動かすのだ。その遠近調節と呼ばれる方法によって、蛇の目は、異様な動きをする。目の内側にある暗黒が、こちらに向かって静かに静かにせり上がってくるような……そして、その動きを見ることで、他の種類の脊椎動物は恐れるのだ。本能に刻まれた、獲物であるという感覚。蛇、生まれながらの狩人によって見定められようとしているという、死の感覚を覚えるがゆえに。

 ただし。

 もちろん。

 デニーは。

 恐れないが。

 デニーは恐れない、ノスフェラトゥの鳴き声を聞こうとも、舞龍の目に定められようとも、あるいはヴェケボサンの諸刃の剣が、その首にかけられようとも。なぜ恐れないか? いうまでもなく、恐れる必要などないからだ、何者であろうとて、デニーを獲物とすることなど出来ない。神々でさえも、デニーを殺すことなど出来ないだろう。

 だから、デニーは、いつものような顔、くすくすと笑う子供みたいな顔をして、シャーカラヴァッシャのことを見下ろしていた。そして、見下ろされている方のシャーカラヴァッシャは……するっと、死体の上を這い始めた。遠回りをしたりすることなく、真っ直ぐにあの木に向かうと。螺旋を描くみたいにして、その周囲をぐるぐると回りながら、登っていく。

 やがて一本の枝に辿り着いた。建物でいうと二階くらいの高さのところから突き出ている枝。要するに、デニーが立っている高さにあって、しかもデニーがいる方に向かっている枝だ。その枝を伝って、シャーカラヴァッシャは、デニーの方へと進んでいくと……枝の先端で止まった。

 もう一度、ぐうっと首を擡げて。

 その鎌首を、デニーに向かって。

 静かに。

 静かに。

 突き出すと。

 シャーカラヴァッシャの全身の羽根が……るうっと逆立った。まるで威嚇でもしているみたいにして。無論、それは威嚇などという無粋な行為ではない。舞龍が何かを威嚇する必要などどこにある? 舞龍は、人間のような下等な生物とは違うのだ。デウス・ダイモニカスのような、霊長と呼ぶに相応しい生命体のうちの一種。それは、単純に、防御行動に過ぎないのだ。だが、いかなる種類の防御行動か? それを知るためには……羽根の上に目を走らせる必要がある。

 異様なまでに鮮やかな色彩、奇妙なまでに複雑な模様。人間の目ではその全ての色彩を見ることが出来ず、人間の脳ではその全ての模様を理解することが出来ない。しかも、その上、その色彩と模様とは……さらさらと、水の上を流れるようにして、動いているのだ。次第次第に荒らかになっていく光を放ちながら、見ているものに恐怖感さえ抱かせるほど、複雑かつ正確なダンス。それは、要するに、魔学的なアウトサイド・インフルエンサーだ。

 魔学者ではない人間には分かりにくいかもしれないのだが、いわゆる魔法と呼ばれているものと、アウトサイド・インフルエンサー(外世界影響性行動)とは、少しばかり異なっている。完全に異なっているというわけではなく……それは、いわば、収斂進化の果てにいる二種類の生命体のようなものだ。簡単にいえば、魔法は「関係性」をベースとしているのだが、アウトサイド・インフルエンサーは「当然性」をベースとしている。これ以上の説明はですね、えーと、ちょっと手に余るので省略させて頂きます。だって、こういうのの説明ってリュケイオンとかでも相当ハイレベルな学生にしか行われないものなんですよ? こんなところで、さっと説明出来るものじゃないんです。もしも気になる方がいたら、どこかの魔大に入学して専門に勉強して下さい。

 とにかく、シャーカラヴァッシャが何をしたのかといえば。魔法で例えれば基底詩行を展開し終えたところである。シャーカラヴァッシャの羽根に描かれたアウトサイド・インフルエンサーが、魔学的な影響力の発動の準備を終えたということ。それは、もちろん、影響力の対象となる何者かに損害を与えるべく行使される影響力であって。今回の場合、その対象は……いうまでもなく、目の前にいるデニーだ。

 要するに。

 デニーが。

 少しでも。

 妙な動きをすれば。

 それに対抗する行動を。

 取れるようにした、と。

 舞龍から、このような行動をとられたら。普通であれば命の危険を感じるものだ。舞龍の魔力、あるいは精神力は、人間のそれとは比べ物にならないくらい強力であって、純種のノスフェラトゥに匹敵するレベルなのだから。とはいえ、強くて賢いデニーちゃんにとっては、その程度の魔力・精神力は、恐れるに足りるものであるはずがなく。

 デニーは。

 そっと、下唇に、人差し指を当てて。

 軽く、自分の首を、傾げてみせると。

 シャーカラヴァッシャの行動に対して。

 非常に冷静に、対応する。

 まずデニーは、舌の先を、上顎の裏側に、柔らかくくっ付けた。それから、その舌先に向かって勢いよく息を吐き出して。すーっというか、しゅーっというか、ずーっというか、そんな感じの摩擦音を立てた。

 この音は、真昼には、蛇が立てる噴気音に似ているように聞こえた。気管や口頭や、声帯、それに肺といった複数の相互作用によって成り立っているあの音。それよりも、どこか複雑に聞こえるものだったが。

 蛇についてよく知らない人間には勘違いされやすことなのだが……蛇という生き物(一部の種類を除く)は、こういった噴気音を自分で聞くことが出来ない。蛇は、外耳孔から耳管まで、外耳から中耳までの組織を、退化によって失ってしまっているからだ。辛うじて内耳は残っているので、全く聞こえないというわけではないのだが。ただしその可聴域は著しく限られている。振動を刺激として感じられる程度といった感じであり、その可聴域には、噴気音が占めている周波数帯は含まれていないのだ。

 これは、舞龍もやはりそんな感じであって。というか、そもそも舞龍は聴覚などに頼る必要がないのだ。「他の感覚」が遥かに発達しているのだから。そういうわけで、デニーの発したこの音はシャーカラヴァッシャに届くことはない。また、デニーも、この音がシャーカラヴァッシャに届かないことなど百も承知だった。強くて賢いデニーちゃんが、この程度のことを知らないはずもなく……デニーがこの音を発したのには、別の理由があった。

 それは。

 ある種の。

 魔力的な。

 フィールドを。

 発生させると。

 いうこと。

 科子と魔子とは同じく極子(プラマヌ)を構成する基本子(アヌ)であるが、その根本的な性質はかなり異なっている。分かりやすいけれど正しくはない例を敢えて使うとするならば、科子の性質は「固体的」であり、魔子の性質は「液体的」なのだ。もちろん、科子で出来た液体もあれば魔子で出来た固体もある。ここで「固体」「液体」というのはあくまでも比喩としての表現だ。

 科子のことを考える時に、一番分かりやすいのは、それを埃のようなものだと考えることである。ふわふわと浮かんでいる埃、これが気体だ。たくさん集まり始めたが、まだ一つ一つの結び付きがそれほど強くなく、さらさらとした状態、これが液体である。そして塊になったものが固体。このようにして、科子はその性質を変え、物質を構成している。その一方で、魔子は……魔子という、分裂した、一つ一つの物質があるというわけではない。

 魔子は空間に満ちているエネルギーのようなもので、というかエネルギーの性質を持った物質なのだ。それは「力」として存在しているが、それにも拘わらず物質として時空間を占有している。これは専門的な用語では「奇跡的世界占有性」と呼ばれるものだが、この言葉が示す通り、魔子は「奇跡」という側面を有する。ここでいう「奇跡」とは、トラヴィール教において使われる奇跡とは全く異なった概念であって、正確には「絶えざる生産の奇跡」と呼ばれるタイプのものであるが、細かいことはここでは置いておこう。とにかく、魔子は奇跡によって性質を変える。水が、その温度によって、その性質を変えるかのように。

 ということで魔子は、その濃淡はあれど世界中を満たしている。水が海を満たしているように、ひたひたと充満している。それを……フィールドとして使うとは、一体どういうことなのか? そもそも、最初からそこに存在しているというのに。これ以上、どうやって場とするのか?

 簡単なことだ、その場の性質を変えるのである。精神力によって魔力を発動し、それを「温度」として利用することで、魔子が持つ基本的な性質から全く異なる別の性質へと変換するということ。デニーがしたのも、つまりはそういうことである。一定の範囲の場を変質させたのだ。

 どの程度の範囲を、どのように変質させたのか? まず範囲としては自分とシャーカラヴァッシャとを含む最低限の空間。そして性質であるが……それは、人間には非常に分かりにくい性質のものだ。なぜなら、その魔力的なフィールドは、舞龍が使用するタイプのものだったからだ。

 ここまで何度も何度も書いてきた通り、舞龍はコミュニケーションという概念を持たない。だが、それでも、自分の縄張りというものを自明の理として定義してはいるのだ。舞龍は、確かに強力な存在であって、敵らしい敵はほとんどいない。それでも、舞龍同士が争い合うことになれば、当然ながらそれは脅威となりうる。ということで、そういうことにならないように、縄張りを定義しておかなければいけないのである。

 そして、その縄張りを縄張りとして成立させるために、舞龍は、その縄張り全体を自分の魔力によってフィールド化する。このフィールドは、舞龍同士にしか通じないものではあるが、恐ろしいほど大量の情報を相手に提示することが出来るものだ。自分がどの始祖から生まれ、何年ほど生きているのか。どれほどの力を持ち、どれほどの傷を負っているのか。そういった情報が、全て、余すところなく盛り込まれているのだ。

 デニーが作り出したのは。

 この、フィールドである。

 そんなわけで、人間の言語によってぱぱっと表すことが出来ないほどの情報が含まれていたのだが。重要なところだけを端的に書くとするならば、「デナム・フーツはカリ・ユガの友人である」ということをステータスとして提示したということだ。シャーカラヴァッシャはカリ・ユガの支配下にある舞龍であり、デニーがそのカリ・ユガの友人であるのならば、敵対する必要性はない。そういった意味のことを主張したということだ。

 それに。

 対して。

 シャーカラヴァッシャは。

 まるで抜き身の刃を鞘に納めるかのようにして、先ほどまでの明らかに敵対した雰囲気を、ふっと消した。いや、まあ抜き身の刃でなければ鞘に納められないのだから、この表現はちょっと変なのだが、慣用表現ということでお許し願おう、それはそれとして、シャーカラヴァッシャは、殺意のようなものを緩めて。くっと、ほんの少し首を持ち上げた。

 そして、くうっと目を開いた。いや、読者の皆さんが今想像したその目ではない。正確には目でさえないが、シャーカラヴァッシャが開いたというのは、ずっと開かれていた「右目」「左目」のことではないのだ。それらの目から、吻とは反対の方向に隣り合ったところ。頭頂部と呼んでもよさそうな場所にもう一対ある「第三の目」「第四の目」のこと。

 「右目」と「左目」とよりも僅かに大きい。全体が、異様なまでに赤く濁っていて。夜空に浮かぶ星々の内側に、腐り果てた血液を満たしたような色をしている。これは、実のところ、先ほども書いたように目ではなく……ピット器官と呼ばれるものだ。光を感じるために存在している器官ではなく、その代わりに、魔学的な力を感じ取ることが出来る。

 先ほども一度触れた、非常に発達した「他の感覚」とは、このピット器官による感覚だということだ。舞龍が周囲の環境を感じ取る時には、このピット器官による入力は大変重要なものであって、人間にとっての視覚に相当するような感覚なのである。そのため、このピット器官は、普通の蛇には存在しない目蓋のような構造によって守られている。もっとも、これは、目蓋ではなく特殊な構造に進化したスペクタクルなのであるが。

 舞龍は。

 そんなピット器官を露魔させて。

 周囲の、魔学的な力を感じ取る。

 暫くすると……すっと、全身、逆立てていた羽根を伏せた。今まで構成されていた色彩・模様は、見る見るうちに変化していって。どうやら攻撃用のアウトサイド・インフルエンサーから、無害化されたそれに変化したようだ。舞龍には表情などというものはなく、そもそも「気持ち」などというものもなかったため、真昼には、舞龍が、どんな情報をどのように処理したのか分からなかったが。ただ、どう見ても、デニーに対しての敵対的な感情は無くなったようだった。

 するりするりと、真昼には比較的友好的に見える態度で、舌先によるフリックをして。それから、デニーが発した音と同じような音、つまり、しゅーっという感じの噴気音を鳴らした。真昼は魔学的な力を感じ取ることが出来なかったが……もしも感じ取ることが出来ていたら、そして、デニーのそばに立っていたのならば。そこを覆っていた魔学的な力が、明らかに変質したということを感じただろう。要するに、デニーがしたのと同じように、舞龍も魔力的なフィールドを展開したということである。

 それには、やはり、情報が含まれていて……けれども、ここで注意して欲しいのは、これは人間がいうところのコミュニケーションという行為とは全く違うということだ。確かに、見かけ上は、デニーとシャーカラヴァッシャとは、情報を交換しているように見える。とはいえ、これは交換という相互的な行為ではなく、断絶した当然性が個別的に展開されているに過ぎない。はっきりいって、シャーカラヴァッシャは、環境に対して非環境的に行動しているに過ぎないのだ。例えば火に触れれば火傷するだろう。それと同じことだ。こういう情報が入力されれば、こういう情報を出力する。それ以外のなんでもない。

 とはいえ。

 それでも。

 デニーは。

 シャーカラヴァッシャから。

 情報を受け取ったのであって。

 そういった、環境の歪曲としての一方的な情報の提示・享受が何度か行われた。デニーがしゅーという噴気音を出して、シャーカラヴァッシャがしゅーという噴気音を出して。客観的に見ていれば、まるで会話をしているようにさえ見える、その行動は……やがて、唐突に、打ち切られた。

 シャーカラヴァッシャが、持ち上げていた鎌首を下ろして。デニーに背を向けて(そもそも蛇の背中というのがどこら辺を指すのかというのはよく分からないが)、枝を伝って行ってしまったのだ。それから、また、木の幹を、滑り降りて行って。死体の山の上に戻って行ってしまった。

 それは、なんだか拍子抜けしてしまいそうなくらい突然のことだったのだ。死体の山に戻ったシャーカラヴァッシャは、また、しゅるしゅると舌先でフリックしながらその上を這いまわって、次に食べる死体を探し出し始めたのだった。ちなみに、死体の山の近くでは、十数匹のウパチャカーナラ達が、癲癇の発作のような例の状態から、ようやくのこと回復していたのだけれど。シャーカラヴァッシャが、その近くに滑り降りてくると、明らかに恐怖あるいは畏怖と思われる態度をとって。びくっと怯えた様子を見せた後で、こそこそと、なるべくシャーカラヴァッシャの視界に入らない場所へと逃げて行った。

 一方で。

 デニー。

 は。

 とーっても満足そうに、にーっという感じの顔で笑って。それから、とんっと立てた爪先、ぱっと広げた両手、天使の子供が戯れにピルエットでも踊るみたいな態度で、くるるんっと回れ右をした。それから、いつもの足取りよりもほんの少しだけ浮かれている感じの、より一層スキップに近いステップで、こちら側に……オペレーション・センターに戻ってきた。

 するんとエネルギー・フィールドをすり抜けて。一方で、オペレーション・センターの内部では……ウパチャカーナラが回復していたのと同じように、ここにいる人間達も、もう随分と回復してきていた。もうふらふらしている人間など一人もおらず。多少は、椅子の背だとかテーブルの上だとかに掴まりはしていたが、それでも思考力はそこそこしっかりと働いているみたいだ。マラーに至っては、完全に回復していて。既に、真昼の隣、定位置みたいになったあの場所にちょこんと収まっていた。

 デニーの帰還を。

 表現しがたい、異様な。

 沈黙で迎える、人間達。

 そんな雰囲気を、敏感に感じ取って。

 機械的に、レーグートが、口を開く。

〈いかがでございましたか、ミスター・フーツ?〉

「ほえ? あー、うん。挨拶しただけだしねー。」

 そう答えるとデニーは、恐ろしく上機嫌な感じで肩を竦めた。それを見た真昼は……全身の血管の一本一本に、とても甘ったるいアイスクリームを、無理やり流されたみたいに。ほとんど本能的な、ぞっとするような恐怖を感じた。

 デナム・フーツが上機嫌だということ。これは、どんな予言よりも確実な、破滅の運命の提示なのだ。何かが起こる、何か、とても、悪いことが起こる。絶対に避けることが出来ない死傷と破壊とが、この世界のどこかを襲うだろう。

 それは、一体、どんな破滅なのか? その質問の答えを知ろうと真昼が口を開きかけた瞬間に……別の人間が口を開いた。オペレーション・ルームにいる真昼とマラーと以外の人間の中で、唯一どこにも掴まることなく立っている、ナーガヴィジェタだ。イパータ語で、一言二言レーグートに問い掛ける。それに対してレーグートが答えたのだけれど……どうやらその答えは、ナーガヴィジェタが望んでいた答えではなかったようだ。更にレーグートに対して問いを重ねた。

 レーグートは。

 少しだけ首を傾げると。

 くるっと、デニーの方。

 振り返る。

〈ミスター・フーツ。〉

「なあに?」

 念のために、オペレーション・ルームの位置関係についてはっきりさせておこう。まず、デニーがエネルギー・フィールドのすぐ前に立っている。そこから少し離れたところ、それでもまだエネルギー・フィールドによって形作られた箱の中に、真昼とマラーとがいる。レーグートがいるのは、その箱と部屋との中間地点であって。そして、ナーガヴィジェタ及び四人の幕僚は、部屋の中、半円形のテーブルの周りに立っている。

〈一つ、質問してもよろしいですか?〉

「いいよー。」

〈先ほど提示されたシャーカラヴァッシャの「命令」は、一体なんだったのですか? つまり、どのような内容の命令だったのでしょうか?〉

「えー? 分かってるでしょー?」

〈もちろん、もちろんです。わたくしはそれを存じておりますとも。しかし、念のために……ミスター・フーツ、あなたがお聞きになった内容とも照合させて頂こうと、そう思ったのでございますよ。何せ、内容が内容でございますからね。〉

「んー。まあ、そーいうものなのかな?」

 そのような位置関係から、デニーが、一歩一歩、部屋の方に向かって戻り始めた。真昼は、その足取りにさえ、不吉なものを感じてしまうくらいだった。なぜだか分からない、なぜだか分からないのだが、とにかく、デニーは、明らかに楽しげだった。浮かれていた、これから……まさにこれから、蟻の巣穴に水を流し込むところを見ようとしている無邪気な子供みたいに。

 デニーは、とんっと、レーグートの横のところ。

 つまり、箱と部屋との、境界まで、辿り着いて。

 それから、レーグートの方に。

 ちらっと、視線だけを向けて。

「もう飽きちゃったから。」

 先ほどの質問。

 こう、答える。

「全部、終わらせるって。」

〈ふむ、それでは私の理解しているところの内容は正しいようでございますね。〉

 レーグートはそう言うと、またナーガヴィジェタを振り返った。イパータ語で何かを口にしたのだったが……その全てを言い追わないうちに、明らかに動揺した様子で、ナーガヴィジェタが口を挟んだ。かなり早口で何かを言ったのだが、それに対して、レーグートは、落ち着き払った様子で言葉を返す。

 よく見てみれば、冷静さを失っているのはナーガヴィジェタだけではないようだった。その周りにいる四人の幕僚達も、目に見えて慌てふためいている。ナーガヴィジェタは何度も何度もレーグートに対して確認していたが、それでもレーグートの答えは変わることがなかった。ナーガヴィジェタは、仕方なくその答えを受け入れて、幕僚達の方に向き直る。

 椅子に座ることも忘れたままで、立ったままで言葉を交わし合う。ただし、どんな言葉をどう交わしたところで結論は変わらないようだった。議論はほとんどヒステリックなほどに高まって。最後の方は、既に、育ち盛りの子犬みたいに叫びあうという状態であったが。暫くすると、突然に、そんな議論も打ち切りになった。それから、五人は……動き始めた。

 まずは、空軍の責任者らしき人間が、魔学関係の責任者らしき人間とともに、足早にオペレーションルームを後にした。情報関係の責任者と思しき人間は、テーブルの上の電話を手にして、どこかに連絡を取り始める。陸軍の責任者と思しき人間は……なんだかよく分からないのだが、倒れ込むようにして椅子に座ると。両方の肘をテーブルについて、この世界にある全てのものを目にしたくないとでもいうように、手のひらで顔を覆った。

 四人の幕僚は、デニー達のことなど完全に忘れてしまったようだった。ナーガヴィジェタだけは、辛うじて、覚えていてくれているようだったが。ただ、どう見ても、デニー達のことを相手にしている暇などなくなってしまったようだった。大変申し訳なさそうな顔をして、イパータ語で何かを言うと。それをレーグートが翻訳してくれる。

〈実に、実に残念なことなのでございますが……〉

「あっ、いいよいいよ、気にしないで! きっと、みんな、これから忙しくなっちゃうんだよね? さぴえんすって頭が悪いし、とーっても無能だから、鵬妓級対神兵器をたった一個使うだけでも一大事になっちゃうーっていうこと、デニーちゃん、ちゃんと知ってるから。デニーちゃん達はデニーちゃん達で、勝手にそこら辺をうろうろしてるね。」

〈ご理解頂けまして、恐悦至極でございます。〉

 レーグートは。

 そう答えると。

 デニーの言葉を。

 通訳し出したが。

 しかし。

 真昼には、そんなことよりも。

 遥かに気になることがあった。

「ねえ、あんた……」

「ん? なあに、真昼ちゃん。」

「今、対神兵器って言った?」

「え? あー、うん。」

 デニーは、まるで「今日の天気は晴れ?」とでも聞かれたような感じで、あっさりと答えたのだったが。対神兵器という言葉は、真昼にとって……というか、普通の人間にとって、そんなに軽い言葉ではない。

 これまでもその概念は何度か出てきていたし、ミセス・フィストとの戦闘の時には、それがどういったものなのかということ、デニーがざっと説明したりはしたのだが。それはあくまで人間という生き物を超越した化け物から見た時の説明でしかない。人間レベルまで引き下げて考えた時に、その対神兵器という何物かは……明らかに、最悪の、大量破壊兵器である。

 対神兵器は、その名の通り神を殺すために作られた兵器である。正確にいえば、洪龍級以下のレベルではデウス・デミウルゴス種を一撃で仕留めることは難しいのだが……それはともかくとして、それほどの威力があるものを人間に対して使ってしまえば、どのような結果になってしまうのか。

 簡単な例を挙げてみよう、消極的無神論者、つまり休戦協定によってマホウ界の記憶を失っている人間達にとって、この世界で最も危険な兵器といえば不定子爆弾だろう。人間が知っているタイプの不定子爆弾は、正確には科子型不定子爆弾と呼ばれるものだが、不定子を科子として確定させているエネルギーをなんらかの方法で取り出して、そのエネルギーを破壊力として使うという爆弾である。さて、これを対神兵器の序列に当てはめた場合……その順位は、下から二番目の鵬妓級でしかない。そして、対神兵器の序列は、全部で九つあるのだ。

 真昼も、ミセス・フィストとの戦いにおいては、対神兵器という言葉に過剰反応することはなかった。ただそれは、その戦いが、デナム・フーツとミセス・フィストとの間で行われた戦いだったからだ。化け物と化け物との戦い、神のごとき存在と神のごとき存在との戦い。そういった戦いであるならば、対神兵器が使われるのは普通のことだ。人間が使う武器、鉛玉や火薬やなどという武器では、クソの役にも立たないのだから。

 しかしこの内戦はそうではない。この内戦は、人と人との間で行われている。真昼は、戦場を見てきた。鉛玉ごときで脳髄をぶちまける、火薬ごときで手足が吹き飛ばされる、ひどく脆い生き物同士が戦っている戦場を。そんな戦場で対神兵器を使ったら? しかも、鵬妓級対神兵器……不定子爆弾レベルの兵器が、使用されたら? 一体どうなるというのだろうか。

 どうなるも何も。

 結果は一つしかない。

 それは。

 まさに。

 マス・デストラクションだ。

「何が起こってるの。」

「ほえ?」

「一体、何が起こってるの。」

「何がって……えーと、よーするに……さっきの、ばーんって感じのあったよね、真昼ちゃんとか、さぴえんすの子達が倒れちゃった精神波動。あれが、シャーカラヴァッシャちゃんの「命令」だったわけ。もちろん、シャーカラヴァッシャちゃんは舞龍だから、人間みたいな「命令」っていうよりは、どっちかーっていうと、そこにあるスイッチを押すみたいな感覚なんだけど。それはともかくとして、その命令で何を命令したのかっていうと、タンディー・チャッタンと暫定政府軍のポータル・ベースとの間で起こってる戦闘を、今すぐに終わらせなさい!っていうことだったのね。

「ほら、この辺りって、ここ最近は、ずーっとどんぱちぱっぱってしてたわけじゃないですか。この間、暫定政府軍の子達が対龍ミサイルを何発か打ち込んで。それ以来、ずーっと小競り合いが続いてて。それで、それがよーやく終わったと思ったのに、暫定政府軍の子達がお馬鹿さんだから、ポータル・ベースなんて作っちゃって。それでこの有様でしょ? もう、いい加減にしよーね!ってなったわけ。

「もちろん、舞龍は肉食の動物だし、他の動物を殺したりするのは、いつまでもいつまでも楽しーねって感じだと思うし。そもそも感情とかがあるわけじゃないから、シャーカラヴァッシャちゃん自体は、戦争を終わらせようっていう気持ちも戦争を続けようっていう気持ちもないと思うんだけど。それでも、この基地にいるさぴえんすの子達は、もううんざりしてると思うんだよね。みんな、早くおうちに帰りたいって思ってるっていうか。そんなこんなで、みんなの意見に合わせたって感じだと思うよ?

「それで、そのために対神兵器を使っちゃおうってなったわけ! だって、それが一番手っ取り早いでしょ? あのポータル・ベースには、ニルグランタの学生さんもいたから、普通の爆弾とかだと、いくら落としてもあんまり意味ないし。でも対神兵器なら、そういった子達も、ぱぱーって殺しちゃえるじゃないですか! みんな、みんな、みーんな殺して、とーってもすっきり! でしょ? つ、ま、り、手っ取り早く皆殺しにして、早くおうちに帰りましょうっていうことだよ。」

 そんなこんなを。

 話している間に。

 レーグートからデニーの話を通訳されたナーガヴィジェタに、ちょっと大げさなくらい丁重に見送られながら。デニーと真昼とマラーとは、スーパーてんてこダンシング・タイムになってしまっているオペレーション・センターから外に出ていた。外に出ていたといっても、あの木の方向に出ていったわけではなく、きちんと出入り口のドアから廊下に出たということだが。

 ちなみに、一人のお供もつけずに三人だけで行動させるというのはさすがに失礼すぎるということで、レーグートだけはついてきていた。まあ、レーグートは戦争が得意というわけではないし、オペレーション・センターに残ったところでさして役に立つとも思えないので、この対応は適切といえるだろう。

 レーグートを先頭に。

 廊下を抜けて。

 蛇の骨みたいな例の螺旋階段を。

 一段、一段、下りて行きながら。

 マラーの手を、しっかりと握り締めて。この手を手放さないようにと、自分に対して、何度も何度もいい聞かせて。そして、真昼は……デニーの言葉について、暫く考えを巡らせようとしていた。けれども、一体、何をどう考えればいいのだろうか? 真昼は既に、自分が何かを考える時に足場とする、基盤のようなものを失ってしまっていた。まあ、失っていたとまでいわなくても、その基盤は、穴だらけになって、ぐらぐらと揺れていて。とてもじゃないが役に立ちそうにない。

 大量破壊兵器を使うことは、どう考えても悪いことのように思える。人が、いや、人だけではなく、戦場にいる他の生き物も、たくさん、たくさん、死んでしまうからだ。でも、生き物が死ぬということが悪いことであるならば。このまま戦闘が続くことも良くないことなのではないか? 戦闘を終わらせるために何もしないということ、それはそれで悪いことなのではないか? どちらがより一層悪いことなのか?

 大量破壊兵器を使うという、その終わらせ方が問題なのだと考えることも出来る。だが、他に、どういう方法があるというのだろうか。少なくとも、真昼は思い付くことが出来ない。いつまでも続いていく内戦は、次々に人間を飲み込んでは咀嚼していく怪物のようなものだ。その怪物の口の中で、手を、足を、目を、鼻を、耳を、すり潰されながら。生き物達は、痛めつけられ、苦しめられて、惨たらしく死んでいく。

 対神兵器を使えば……確かに、生き物は、死ぬ。ただし、それはほんの一瞬の出来事だ。対神兵器の威力、あの場所にいた生き物程度の「生」であれば、紙屑を燃やすかのように、呆気なく滅びてしまうだろう。痛みを感じることなく、苦しむことなく。ある意味では慈悲深く死ぬことができる。

 何が、一体、良くないことなのか?

 何を、一体、どうするべきなのか?

 真昼には。

 どんなに考えても。

 決して分からない。

 ただ、それでも、一つだけ分かることがあって。

 だから、真昼は、そのことを言葉にするために。

 デニーに向かって、口を開く。

「あんた、分かってたんでしょう?」

「ほえ? 分かってたって、何が?」

「こうなるっていうこと。ここで行われている戦争に、そろそろ対神兵器が使われるだろうっていうこと。あの戦場で……こっちの軍と暫定政府軍とが戦ってる最前線を突っ切ってた時に、あんた、言ってたじゃない。「何も起こらなければいいけど」って。あの時は、色々あって、その言葉にどういう意味があるのかっていうこと、聞き損ねたけど。つまり、そういうことだったんでしょう? あんたは、最初から、分かってた。こうなるっていうこと。」

「あー、そーいうことかー。」

 デニーは、あっけらかんとそう言って。

 それから、にぱっと笑いながら答える。

「うん、まーね。」

「だろうと思った。」

 死の商人のご息女であるとはいっても、戦争に関しては全くの素人である真昼。その真昼の目から見てさえあの戦場は行き詰っていた。完全に消耗戦の状況を呈していて、お互いの陣営から、熱したフライパンの上に注がれる水のようにして、凄まじい勢いで兵員・物資が消えていく有様が、あの一瞬で見て取れた。

 もしも、デナム・フーツであれば。あるいは、それに類する生き物ならば。これ以上、悪戯に戦闘を続けるのは、馬鹿みたいなことだと考えるだろう。そんなことをするくらいならば……一度に最大限の暴力を投入して、そうして全てを終わらせる方が理に適っていると考えるだろう。

 真昼は、この二日間の付き合いで、デニーがどういうことを考えて、どういう風に行動するのかということ、なんとなく理解し始めていた。もちろん、デニーは(認めたくはないが)真昼よりも賢さが遥かに上であったし、有している情報の量も多かったので、そういったことを事前に予測するのは不可能に近いのだが。それでも、後になってから「ああ、あれはこういうことだったのか」ということが分かるようになってきたのだ。まあ、だからといって……どうというわけでもないのだが。

 さて。

 そこまで話し終わった辺りで。

 四人は、建物の外に出ていた。

 ただでさえ猿山で開かれた誕生日パーティかよみたいな大混乱であったコム・プラントは、対神兵器投入の決定によって、更なる「ステージ」に達しようとしており。これに似てんのっつーと沸騰した鍋くらいしか思いつかねぇな的な状態になってしまっていたのだが、それはまあ置いておくとして。怒鳴り散らし駆け回る人々、なんとか誰からもタックルされることなく、無事に晴天の下に脱出することができたデニー・真昼・マラーに対して、レーグートがこう問い掛ける。

〈それでは、これからどうなさいますか?〉

「あっ! えーとねーえ、うーんとねーえ、実はデニーちゃん、お願いがあるんだけどお……」

 デニーは、片方の足を持ち上げて、ぴこんっという音でも立てるみたいに爪先で地面を叩いて。きゅんっという風に首を傾げて、右手の人差し指と左手の人差し指とをつんつんっとくっ付けながら。唇を尖らせるような、とてもとても可愛らしい話し方で、そう言った。それは、天空を震撼させ、大地を真っ二つに叩き割り、更にその後で、この宇宙の度肝を引っこ抜いてソテーにするほどキュートな仕草であったが。ただまあ真昼からすれば「気色悪ぃな、甘え子ぶった声出してんじゃねぇよ」という感じだったろう。とにもかくにもレーグートは、そんなシュガー・シュガー・ハニー・プディングなデニーに対して、こう答える。

〈どうぞ、なんなりとお申し付け下さい。〉

「あのね、これから暫定政府軍の子達のポータル・ベースに薨々虹蜺を落とすわけでしょ? せっかくだから、デニーちゃん達も、それを見ていきたいんだけど……ほら、最近って、いろーんな決まりごとが出来ちゃったせいで、鵬妓級以上の対神兵器って滅多に使われなくなっちゃったじゃないですかー! まあ、マホウ界ではそうでもないみたいだけど。それにね、薨々虹蜺って、対神兵器の中でも特に綺麗な殺し方をするからさーあ、真昼ちゃんにも見せたげたいの! だから……ね? おねがーい、みんなのお邪魔はしないから!」

 いや。

 いや。

 いや。

 真昼からすれば「こいつ……何言ってんの……?」という感じだったろう。なぜ、好き好んで大量虐殺の現場を見に行かなければいけないのか。今気が付いたんですけど、この好き好んでって言葉、易字にするとめちゃくちゃしつこさを感じますね。まあそれはそれとして、真昼としては、そんなものは全然見たくなかった。本当に、全く、見たくも痒くもなかった。これほど見たくないものが他にあるとすれば、親同士がラブラブなキッスをしてるシーンくらいだろう。まあ真昼の母親はとっくの昔に死んでいるので、今後の人生でそういったシーンを見る危険性はもうないのだが。

 真昼は、もう、誰かが死ぬのを見るのはうんざりだった。それが薄汚く惨たらしい死に様だろうが、すっきりとしていて小綺麗な死に様だろうが、お腹がいっぱいですという気持ちなのだ。アーガミパータには死が溢れていた。溢れ過ぎていた。最初のうちは、それを見て、ショックを受けたりフィアーを感じたりもしていたが。今となっては、そういった新鮮な感覚はほとんど失われてしまって。「もう誰も死なないで欲しい」「殺し合うことをやめてみんな幸せに暮らして欲しい」という、頭の悪い子供みたいな感情しかなくなってしまっているくらいだった。正義だとか、悪だとか、そういった「価値観」を喪失してしまった真昼にとって……「幸せに生きる」ということだけが、何よりも尊いものとなっていたのだ。

 けれども。

 今から。

 たくさんの人間が。

 不幸に死んでいく。

 そして、デニーは、それを。

 真昼に見せたがっている。

「あたし。」

「ほえ?」

「そんなもの、見たくないんだけど。」

「あははっ! 真昼ちゃんってば、何言ってんのー? こんな機会、滅多にないんだよ! 薨々虹蜺ってね、ほんとにほんとにほんとーに綺麗なんだから! ぱーってなって、ひらひらーってして、ほわわんって感じで! だ、か、ら、見ていこうよ! ね?」

 むろんのことデニーは、真昼に対する嫌がらせでこういう提案をしているわけではない。完全に、善意から、真昼のことを楽しませようとしているのだ。デニーのことを表現するのに「善」という文字を含んだ言葉を使うのはかなり違和感があるが、それはそれとして……この世界で、自分が悪いことをしていると分かっていないやつくらいたちの悪いやつはいないのであって。その例に漏れず、デニーは、真昼の拒否反応をまるで真に受けることなく、軽くいなしただけだった。

 それに対して、真昼は。

 弱々しくはあるが。

 なおのこと、デニーの誘い。

 抵抗しようと、したのだが。

 そんな真昼の言葉を。

 レーグートが、遮る。

〈なるほど、左様でございますね。〉

「左様でございますよ!」

〈もちろんです、もちろんです、ミスター・フーツ。是非、是非、ご覧になっていって下さい。一番見やすい、最高の席を用意させましょう……ちなみに、どちらでご覧になりたいですか? 結界の内側ですと、砂嵐の影響で少々見にくくなってしまいますので、タンディー・チャッタンの住民に指図をいたしまして、結界の外側、どこかの建物の屋上に場所を確保することも可能ですが……〉

「あー、いいのいいの。大丈夫!」

 レーグートの。

 慇懃なプロポーザル。

 一言で、受け流して。

「場所は、デニーちゃんが用意するから。」

 そう言うと。

 デニー、は。

 華奢な。

 指先を。

 ぱちんと、鳴らす。

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