第二部プルガトリオ #4

 さて、ところで。

 砂嵐内部の風景。

 は……砂嵐外部の風景とはかなり異なったものだった。何が一番違うのかといえば、瓦礫だの金属塊だの、建物の残骸らしきものが全く見当たらなかったのだ。それどころか、もともとタンディー・チャッタンを形作っていたはずの民間建築物も、見渡す限りどこにも存在していなかった。

 ここに拠点を築くにあたって、邪魔になりそうなものは全て排除したということなのだろう。これほど巨大な砂嵐を作るだけの魔力の持ち主ならば、この程度の範囲に広がっていた「市街地」、跡形もなく消し去ることなど容易なことであって。土台だけを残しておいて……その土台の上に、新しく、真昼の目の前に広がっている「拠点」を作ったということだ。

 その拠点であるが、思ったよりもナシマホウ界の他の場所にある軍事基地と変わらないものだった。真昼は、まあ、なんだかんだいっても静一郎の子供であるから、いわゆる軍事基地と呼ばれる場所にも行ったことがある。さすがに海外にある軍事基地には行ったことがなかったが、月光国内にある幾つかのそういった場所に招待された静一郎に、無理やり連れていかされたのだ。そういった場所というのは、どこもかしこも似たり寄ったりであったのだが……この拠点も、そんな感じだった。

 いや、無論、少しくらいは違うところもある。例えば、こういった前線基地、これ以上先に前哨地を置きようがない施設には、普通であればなんらかの監視施設が設置されているはずだ。周囲を見渡せるくらいのウォッチタワー。レーダーやらマーダーやらを備え、いざとなったら多少の迎撃程度は出来る武器を用意した、それなりの高さの塔。そういったものがなければ、周囲からの敵襲に気が付くことが出来ないからだ。

 しかし、この拠点にそういったものは見当たらなかった。いや、正確にいえば、それと同じような役割を果たすであろう何かは存在していた。それは、砂嵐の内側のふちに沿って、点々と建てられた……棒だ。棒としか呼びようがないもの。月光国で見る電柱と同じくらいの太さをしていて、高さはおよそ十五ダブルキュビトの、木製の棒。特になんの特徴もない、本当に、ただ単なる棒の、その上に……人が浮かんでいる。

 胡坐をかいて、というか、あれはもしかして禅那だろうか? とにかく足を組んだ座り方をして、その膝の上に、親指と人差し指とをそっと触れさせた手の、その手の甲を置いて。ひどく寛いでいるかのような姿勢のままに目をつむった誰かが、そのまま浮かんでいる。それは、例えば……何かの不具合を起こしたゲームの画面でも見ているかのようだった。本当ならば棒の上に座っているはずの体が、その不具合のせいで、棒の天辺から五ダブルキュビトほど上のところにふわふわと浮いているとでもいう感じ。

 もちろん、そのようにして拠点の周囲に配置されている人々は、いうまでもなく腐血の衣を纏った還俗学生達であった。東西南北に一人ずつ、それからその間にさらに一人ずつ。合計八人いる彼ら/彼女らは、いわゆる千里眼だの順風耳だのという能力を持つ学生達であって。タンディー・チャッタンに襲い来る危機を知らせるだけではなく、この拠点、特に司令部に対して、詳しい戦況を伝えるという役割も負っているのだった。

 と、このように。

 真昼からすれば、見たことのない施設も。

 あるには。

 あったが。

 ただ基本的には、この場所が設計された目的となる行為が、今まで真昼が見たことのある軍事基地と同じように、現代における戦争行為である以上は。それほどまでに不可思議な施設・奇妙奇天烈な施設があるはずがないのであって。ということで、たった今、レーグート達に連れられて、デニー達が歩いている道路から見えるあの施設も、なんの変哲もない兵舎であるようだった。

 全てが拭い去られたはずの砂嵐の内部で、この兵舎だけは、もともとあった建物を利用して作られたものと思われた。コンクリートで出来た、元はもう少し高かったと思われる建物。けれども上のところは爆撃のせいで使い物にならなかったのだろう、思い切って、一階から三階までの部分だけを残して、あとは全て吹き飛ばしてしまったようだ。ということで、そこに見えているのは、団地のように並んだ三階建てのコンクリート・ビルディングだった。

 そんな建物の中で、少し変わったところがあるとすれば。その屋上に設置されている物だろう。暫定政府軍を防御していた例の魔法円発生装置。その動力源となっていたところの、太陽電池みたいなセミフォルテア集積装置が、一つ一つの建物に据え付けられていたのだ。一応いっておくが……この拠点は、きちんとした発電施設を二か所有している。とはいえ、そうではあっても、リスク分散をしておくに越したことはないのであって。この屋上のセミフォルテア集積装置も、そんな役割を果たしているものと思われた。普段は兵舎で使う分の電気を作っているが、本当に万が一の場合には、微小ではあるにしても、ここで作った電気を他の場所に回すことが出来るということだ。

 一部屋一部屋がかなり広いことから、その一部屋一部屋にたくさんの兵隊が詰め込まれているのだろうという推測が付く……とはいっても、兵舎自体がそれほど大規模ということではなかった。全ての建物を合わせて、せいぜい一万人かそこらを収容出来ればいい方だろう。暫定政府軍とは異なり、カリ・ユガ軍において主力となっている戦力は人間ではないため、この程度の兵舎でも用を足せるということと思われた。

 さて、真昼達は。

 そんな、光景を。

 横目で、見ながら。

 道路、進んでいく。

 そこそこ広めの道路で、真昼はなんだか嬉しくなってしまった。なぜそこそこ広めの道路だと嬉しくなるのかというと、真昼の精神はそろそろ限界に近付いており、端的にいって情緒不安定になっているため、こんなに些細なポジティブ・シチュエーションであっても、心の目盛りが大きく喜びの側に揺れてしまうからだ。読者の皆さんも、些細なことなのに喜びで胸が溢れそうになる等の症状を感じた場合は無理せずにお近くの精神科にかかって下さい。まあ、真昼には精神科にかかってる暇などないのだが。

 それはそれとして、そこそこ広めというのは一般的な三車線の一.五倍程度だ。しかし、その道路には……車道と人道との区別はない。それどころか車線を分けるための中央線さえも引いてなかった。これには、もちろん、どうせ車線なんて書いたところですぐに剥がれてしまうという理由もあっただろうが。どちらかといえば、そこを通る物体の大きさがかなり様々であるという理由の方が大きいだろう。

 ナシマホウ界の一般的な軍用道路であれば、そこを通る物体は、軍用車両か人間かの二種類に限られている。軍用車両の大きさにはそれなりのバリエーションがあるが、所詮はその程度だ。だが、この拠点においては……物体のバリエーションがなかなか豊かだ。例えば今、真昼の横を通り過ぎて行ったのはマンティコアの隊列。それに道路の向こうの方から少しずつ少しずつ近づいてきているのは、物資が詰め込まれたコンテナを運んでいく一角獣である……あー、あー、違います。一角獣といってもその一角獣ではないです。今、読者の皆さんが思い浮かべたのは、フォレストユニコーンの方である。それに対して、アーガミパータの砂漠で物資輸送に従事している一角獣は、デザートユニコーンだ。

 デザートユニコーンは、一般的な一角獣についてのイメージ、要するに優雅で瀟洒な貴族的な生き物というイメージからはかけ離れている。全身は、まるで戦士のように筋肉で盛り上がっていて。そして、一度走り出せば、地上に生きるどんな馬でも追いつけないほどに早い。

 その肉体は普通の馬が驢馬に見えてしまうほど大きく、額の角は小さいものでも七十ハーフディギト近くになる。真っ白な光を粉々に握り潰して、そうして出来た砂を振りかけたかのように真っ白な毛で覆われているが。ただし、その色は首の辺りからだんだん変化していって、頭部へと至ると、世界が終わる前の夜空みたいな赤紫色になっている。そして、その頭部から突き出した角の色は、世界が終わった後の夜空のように完全な暗黒だ。

 デザートユニコーンの角はフォレストユニコーンの角に比べて遥かに巨大だ。それは、背中の瘤に油を溜めておく駱駝と同じように、この角の中に、砂漠で生きるための大量のエネルギーを溜めているからだ。あまりにも強力なエネルギーであるため、普通であれば触れるだけで危険なほどであるが。ただし、これを適切に加工することで、治癒行為に使用とすることも出来る。例えば、ヴェケボサンなどは、この角に膜状にしたバルザイウムを張り付けることで杯を作っていた。その杯から液体を飲む者は、(そこそこ)不老不死(に近め)の力を得ることさえ出来たという。

 そんなわけで、兵役義務に服しているデザートユニコーンのうち、輸送任務に携わる者の角は、大体、本馬の合意の下で切除されている。ちなみにデザートユニコーンにとっては、このように角を切ることは、医師や看護師やといった職業に従事する人間が患者を傷つけないように爪を切る程度の意味合いしかない。

 角は、切っても切ってもまた生えてくるので、定期的に施術が行われているが。とにかく、そうすることによって、デザートユニコーンが誤って他者を傷付けてしまう危険性をなくすとともに、切った角を加工して、医療器具や薬品やにしているのだ。真昼の視線の先にいる、このデザートユニコーンも……角を切除されていて。額には、瘤のような盛り上がりがあるだけになっている。

 えー、と。

 なんの話。

 でしたっけ?

 嘘、嘘、冗談だよ。ちゃんと覚えてるって。皆が歩いてる道路の話だよね? そんなわけで、マンティコアにウパチャカーナラにガジャラチャにデザートユニコーンに、ヴァジラヤーナを使い異形化した還俗学生、人間の姿をした人間。それにもちろん、数は少ないが、戦闘用車両だってこの道路を通るのだ。それにも拘わらず、いちいち車線を決めて区切ってしまうのは不便この上ない。ということで、この道路には車線を引いてないのだ。

 ところどころに。

 何かしらの動物の。

 巨大な糞が。

 落ちていて。

 そういったものを。

 踏まないようにして。

 歩いて行く。

 兵舎の横を通り過ぎると、次に見えてきたのは……サプライセンターと思しき場所だった。手前には巨大なテントが張られていて、ここが倉庫の役割を果たしているのだろうと思われた。倉庫といっても、そのテントはひどく簡素なもので。一応は、横たわるような直方体の本体の上に、切端の屋根(砂が溜まらないようにしているのだろう)が乗っかった形をしてはいるのだが。なんとなく、骨組みに丈夫な布をかけただけといった感じだ。

 そして、その奥には。どこかの(小規模な)船着き場を切り取って持ってきたとでもいわんばかりに、ドライ・コンテナが積み重ねられていた。あたかも八重垣のごとく、ところどころにフラット・ラック・コンテナが混ざりながらも、そのコンテナの壁は、十数列といわないまでも、数列にわたって立ち並んでいて。それから、更にその奥には……ポータルが開いていた。

 暫定政府軍のポータル・ベースにあった物の、半分くらいの大きさしかなかったが。それ以外はほとんど同じような形をしている。完全な二次元、完全な円形、滑らかな青い金属のように光沢のある表面。そして、そこからは、二本の道路が吐き出されていた。片方はポータルからこちらへとやってくる道路であって、もう片方はこちらからポータルへと向かう道路なのだろう。

 どこかしらにある兵站から物資・兵士・軍用生物を運んでくるためのポータルだろう。暫定政府軍が作った例のポータル・ベースとは違って、ここは、間違いなく、ハーフラインのカリ・ユガ側に位置しているのであって。ポータルを作るのになんの問題もない。むしろこの基地にポータルを作らない方が愚かなくらいだ。

 コンテナと。

 コンテナと。

 その間を飛び回っているのは。

 ウパチャカーナラだ。

 どこかしら、身体が欠損した、ウパチャカーナラ。

 きっと、戦闘で傷を負って、使えなくなった猿を。

 運搬機械の代わり物として、使っているのだろう。

 使えなくなったら。

 すぐに処分しないなんて。

 まあ。

 まあ。

 お優しい。

 ことでして。

 ということで、そんなポータルのことを、真昼は、もう少しよく見てみる。いや、別に興味があるわけではないのだが、なんとなく、ただ歩いていると、ぼんやりとした不安みたいなものが胸の内に沸いてきそうで。気を紛らわせたかったのだ。よくよく見てみると、ポータルの近くには、何か小さな小屋のようなものが立っていて。そこからは不思議な声が聞こえてきていた。何か……歌声のような、しかもいわゆる歌声と聞いて思い浮かべるようなものでなく。動物の鳴き声に限りなく近いような、音。

 色々な説明を端折って、結論だけをいうと……それは一種の発電施設だった。第二次神人間大戦中に、カリ・ユガに対して攻撃を仕掛けた、人間至上主義者の軍隊。それに所属していた魔学者の兵士を、捕獲して、処刑して、首を切り取って。そうして簡易的な魔力発生装置にしたものが、あの小屋の中に並んでいる。その首が、各々の呪文を唱えることによって、エネルギーを発生させていて、それによってあのポータルは動いているのだ。たぶん、ポータルというのは比較的重要な施設であるため、施設にある二つの発電施設や、他の予備発電機等とは切り離したエネルギー源を使っているのだろう。ちなみに……こういった魔力の発生装置は非常に便利なもので、第二次神人間大戦期に神々の側に属していた陣営ではよく見られるものであるため。これからの物語に出てくることがあるかもしれないですね。

 しかし、そういったことは。

 真昼が知る由もないことで。

 一体あれはなんなんだろうと思っているうちに。

 デニー達は、サプライセンターも、通り過ぎる。

 これはいうまでもないことだと思うが、この拠点には他にも様々な施設がある。先ほどから何度も書いているように、二つの発電施設がある。ウパチャカーナラの収容施設に、マンティコアの収容施設に、ガジャラチャの収容施設に、デザートユニコーンの宿泊施設。それに、そういった軍用生物それぞれのための病院に、人間の兵士のための病院。兵器・車両の修理施設も必要だ。

 それから、生活のための場所ももちろん必要である。大食堂や洗濯所や礼拝施設やといった兵士達のための施設だけではない。この拠点で働いている民間人、つまり、軍用生物の世話、上下水処理施設の管理、廃棄物処理場で働いている人間。そういったサポーターのための生活の場所ということだ。そういった全ての施設が……この拠点には揃っていたのだが。

 しかし、残念ながら、この物語でそのことに触れることは出来ない。なぜならそれらの施設を真昼は見なかったからだ。デニー達の一団が通ってきたルートの反対側に、それらの施設は位置しているのであって。真昼からすれば、見えていたとしても、遠いところになんかあるなー程度にしか見えていなかったのである。いや、まあ、この物語は真昼の一人称で書かれているわけではないから書こうと思えば書けるけど……別にそんなに興味ないでしょ? カリ・ユガ軍がどんな基地作ってるかなんて。ということで、ばばーっと省略しちゃいます。

 で。

 倉庫群を通り過ぎて。

 更に先に進んだ。

 真昼の視界には。

 一つの。

 禍々しい。

 カリカチュアが。

 映し出される。

 アーガミパータでたーっくさんのものを見て、ちょーっと賢くなったかなーっていう感じの真昼ちゃん!ではあったが。それでも、それがなんなのかということは、一度見ただけでは理解出来なかった。ある意味で……それは、天に向かって突き出されている手のひらのようなものであった。その手のひらの持ち主が誰かは知らないが、地の底で、今まさに、凄惨な拷問にあっているに違いない。引き攣り、捻じくれて、歪み切ったその指先は。悲鳴としての絶叫を手話で表しているかのようだ。

 しかし、それが手のひらであるとするならば、人間に比べて随分と指の多い生き物の手のひらだということになる。それどころか、たくさんある指の一本一本、その先が更に枝分かれしていて……枝分かれ……枝、分かれ? そう、そうだ。指ではない、枝だった。そして、あれは、一本の木だ。

 かなり巨大な木だった。その木に辿り着くまでには、まだまだ距離があったし、それどころか周囲には建物が建っていたにも拘わらず。それでも、そういった建物を睥睨するかのように……この拠点の中心に、君臨していたのだ。恐らくは五十ダブルキュビトを超えるくらいの高さがあるだろう。

 君臨、あるいはreign。その通り、その木は、この拠点に存在する全て、命あるものも命なきものも、その全てを、圧倒的な恐怖によって服従させていた。真昼が、それを、ただの木だと理解出来なかったのはそのせいだ。

 その木には……柔らかく緑色に揺れる、生命を抱き締めるような、優しい優しい葉々などというものは、一枚たりとも生えていなかった。ただ、神獄の炎で焼き尽くされた魔獣の骨のような、黒一色の枝があるだけだ。それ自体が星一つない宇宙のように。悪意に満ち溢れた一つの宇宙であるかのように、真黒な枝々が……凍り付いたかのように、ぴくりとも揺れることなく、ただただそこに厳然している。不気味なほど青々とした青空を背景にして、その青空に走る残酷な亀裂みたいにして、真昼を見下ろしているのだ。

 それは。

 絶対に。

 善なるものではなかった。

 それでは。

 あれ、は、一体。

 なんなのだろう。

〈あちらが。〉

 真昼がそんなことを考えていた時に。

 そんな真昼の疑問に答えるみたいに。

 あの、木を、指差して。

 レーグートが言う。

〈シャーカラヴァッシャのおります、司令部でございます。〉

 それから。

 何か考えるような素振りをしてから。

 ほんの少し肩を竦めて、付け加える。

〈正確には平和維持軍第六部隊司令官宿営でございますがね。〉

 どちらにせよ。

 あの、木、に。

 ここの司令官が。

 いるということ。

 真昼は、その事実について……どう考えればいいのかということがよく分からなかった。あの悪意そのもののように歪んだ木に、真昼達が頼るべき蛇がいる。普通であれば、そのことに対する拒否感が沸き上がってきても不思議ではなかったが……今の真昼は、驚くほど、その事実を、素直に受け止めていた。素直というか、それ以前の問題だ。心臓を満たす血液が完全な凪の状態にあるかのように。なんの感情も感じなかったのだ。なぜ、そんなことになったのか? 一つ一つの思考をゆっくりと整理していってみよう。

 まず、そもそもの話。最も根本的な問題として、カリ・ユガという何者かがデニーの「お友達」だという事実がある。しかも、どちらかといえば、パンダーラの側にいる「お友達」ではなくミセス・フィストの側にいる「お友達」である可能性が高いのであって。真昼は、きっと、自分が……何かしら、邪悪な存在に頼らなければいけないだろうということ、そのことについての覚悟は、既にしてあったのだ。

 ただ、この無感情は、そのことだけに起因しているものではないようだ。心臓の内側、凪いでいる海、深いところまで、真昼は、思考を、沈めていく。すると……この拠点が、なぜ存在しているかについて考えなければいけなくなる。この拠点はなぜ存在しているのか? 決まっている。カリ・ユガが、あるいはカリ・ユガの陣営にいる人々が。自分達の領土を暫定政府軍から守るために存在しているのである。

 要するに。

 この拠点は。

 ある人々が、別の何者かから。

 不正な搾取を受けないように。

 抵抗をする。

 そのための、砦なのだ。

 暫定政府軍が強き者か? カリ・ユガ軍が弱き者か? そういったことは、この際問題ではない。問題なのは、この基地にやってきた時に、真昼がその目で見たものだ。暫定政府軍の爆撃によって、惨たらしく破壊された市街地。片方の足が潰れたまま、救助隊の隊員の腕に、力なく抱かれる少女。倒れたまま動かなくなった高齢の男性。手足がちぎれたぬいぐるみ、雑音だけを流し続けるラジオ、血まみれになった服の切れ端。嘆き悲しむ人々、嘆き悲しむ人々、嘆き悲しむ人々。それこそが、真昼にとって、本当に重要なことなのであって。

 果たして、本当に……悪なのであろうか? そのような人々を守ろうとする行為。それが、実際のところは、どんな動機に基づいていようとも。人々を傷つけようとする何かを、人々を殺そうとする何かを、退けようという行為自体は、少なくとも悪ではないのではないだろうか。いや、それでも……この基地の持ち主、カリ・ユガはデニーのお友達なのであって。ミセス・フィストの同類である可能性が非常に高いのだ。ミセス・フィスト、ミセス・フィスト。真昼から、全てを奪った……真昼から、未来を奪った……真昼から、パンダーラを奪った、怪物。

 真昼の頭蓋骨の中で、様々な光景が、めちゃくちゃに交じり合って、訳が分からなくなる。少女の潰れた足、剥き出しの骨。フェンスに括り付けられていた頭蓋骨。基地の入口のところで、タイヤに座り、煙草を吸っていた、カリ・ユガ軍の兵士達の姿。暫定政府軍兵士の首を引き抜くウパチャカーナラに、ポータル・ベースを焼き尽くそうとするグラディバーンの群れに、それに、必死な顔をして、瓦礫の山を掘り返していた、救助隊の人々。真昼は……もう、何も分からなかった。何が善で、何が悪なのか。いや、そうではない、そうではないのだ。真昼は、きちんと分かっていた。もしかして、自分が、間違っていたのではないかということを。

 結局のところ。

 善と。

 悪と。

 その二つは。

 それほど単純な概念では。

 ないのではないかと。

 いうことを。

 ああ、なんて、陳腐な、常識。善と悪とは曖昧なもの。そんな事実は、今の世の中を生きる者ならば誰だって知っていることだ。真昼だってもちろん知っていた。けれども、どうやら、本当に理解していたわけではないようだ。

 真昼は、無意識のうちに、はっきりとした論理もなく、善と悪とを区別していたようだ。本当に、なんとはなしに。自分が怒りを掻き立てられるものが悪であり、自分が同情を示せるものが善であると、そう考えていたようだ。

 それは、あまりにも愚かな区別であった。感情による区別……いや、それは、自分の内側に刻まれている「常識」による区別だ。けれども、その「常識」を刻んだのは自分ではない。それどころか、はっきりとした論理を持つ何者かでさえない。ただなんとはなしの世論のようなもの。それによって刻まれた「常識」だった。無論、そんな常識でも、月光国のような平和な国で、なんの不自由もなく、のんべんだらりと生きていく分には問題ない。だが、残念なことに、今の真昼は、月光国にいるわけではない。アーガミパータにいるのだ。生きていくということさえも奇跡になりうる場所。そんな場所では、そんな「常識」は通用しないのだ。

 だから。

 真昼は。

 今。

 その常識を。

 疑わざるを得なくなっている。

 そういうことだ。

 しかし、とはいえ。少なくとも今は、そういったことをいつまでもいつまでも考えている暇があるわけでもない。だから、真昼は、ぼんやりと、感情が凍り付いたような心臓を抱えたままで……どうやら、その場所に到着したようだった。

 その場所とは、ただし、あの木ではない。あの木の、目の前に立っている、一つの建物だった。この建物は他の建物とは明らかに異なった種類の建物だ。他の建物は、例えば元からあった建物を作り替えたものだったり、あるいは急拵えのテントだったり。せいぜいが波状亜鉛鉄板で作った掘立小屋といった感じだったが(ただしグラディバーン関係の施設はこの限りではない)。この建物は、この基地が作られた時に新しく作られた、金属筋コンクリートの建物だったのだ。

 奇妙な……奇妙な形をしていた。といっても、大部分はとても普通の建物だ。全体的な形は、真昼がいる道路の方から見ると、コの字を四分の一だけ回転させたような形をしていた。あるいは凹の字といった方が早いか。真昼がいる場所から見て反対の側、つまりあの木を包み込むようにして、凹の凹みの部分が取り巻いている。そして、少なくとも、その建物の「下の部分」はごくごく一般的なモダンブロック式の建築だった。余りが出ないよう割り切られたみたいに、直線的に整除された直方体。それを凹の字の形に、要するに横に一つ、縦に二つ、組み合わせた物。窓の並び方からいって、あるいは高さからいっても、二階建ての建物だろう。まあ、まあ、二つ、あまり一般的ではない点があるといえば……一つ目、建物の全体が、まるで少しずつ空に向かって溶け込んでいるような、薄く青い色をしているということだ。だが、この特徴は、この建物が軍事施設であるということを考え合わせればさほど不思議ではない。要するに青イヴェール合金を溶かした塗料を塗っているということだ。その対世界独立性によって、建物の表面を汚れにくくすることで、メンテナンスを容易にするために。それから、二つ目は……この建物は、一階だけが、妙に大きな空間を取っているような、そんな気がした。

 しかし、本当に奇妙なのは、その上の部分だ。魚の頭を兎の体に継ぎ接いだみたいに、そうして無理やり作り出されたみたいに。モダンブロックとして作られた部分の上から、四つのストゥーパが、唐突に出現しているのだ。

 凹という字の二つの先端。それに、屈曲している、二つの角の部分。それぞれに一つずつ、空に向かって真っ直ぐに塔が立っている。形としては、ASKのティンガールームで見た物とほとんど同じだ。ペレムウェスを縦に伸ばしたような形。幾つも幾つもの層になっていて、その層ごとに、強迫神経症の患者が刻んだのかと思うほどの細かさで彫刻が刻んである。

 ただし、そこに刻んである図案は、ティンガールームのものとは全く違っていた。あちらはカーマデーヌとダイモニカスとがデザインのベースとなっていたが。こちらは、四つ首がある蛇、つまり、カリ・ユガ龍王領の領旗に描かれていたあの生き物が主要なモチーフになっていたのだ。それからところどころに舞龍と思しき生き物も描かれているようだった。

 大きさ的には、ティンガールームのものよりも随分と小さい。十ダブルキュビトもいかない感じだ。せいぜい数ダブルキュビトだろう。ただ、まあ、モダンブロック部分が六ダブルキュビトから七ダブルキュビトくらいの高さだったので、相対的に見ると何となく大きいように見えてはいたが。そして、モダンブロック部分とは全く対照的に、赤い色によって塗られている。その色合いから考えるに……推測ではあるが、このストゥーパは、何か、魔力を高めるような役割を果たしているのだろうと思われた。

 その建物の前に。

 一枚の旗が、立てられている。

 いうまでもなく、あの領旗だ。

〈さて、到着しました。〉

 その領旗の前に立ち止まり。

 レーグートが、こう告げる。

〈オペレーションセンター兼コム・プラントでございます。〉

 どうやら戦闘指揮施設と通信施設とが一体化した建物らしかった。ちなみに、通信のためのルートを開くために多大な労力を必要とするアーガミパータでは、このような役割を果たす軍事施設は一般的なのだが。それは置いておいて、レーグートは、そのままその施設へと向かっていく。

「あれ? シャーカラヴァッシャっていう子に会いにくんじゃなかったっけ?」

〈ええ、ええ、その通りでございます。しかしですね、その前に、人間種族の責任者が、どうしてもミスター・フーツにご挨拶したいと申しておりまして。〉

「ほえー、デニーちゃんに?」

〈左様でございます。〉

「ふーん、分かったー。」

 そう言いながら。

 防弾ガラスでできた。

 ダブルドアを開いて。

 中へと入っていく。

 こう、なんというか、そのドアは、四角い板状の取っ手がついたプッシュドアであって。自動ドアではなかったために(当然だ)(いつ電気の供給が途切れるかも分からない前線基地に自動ドアなど付けるはずがない)、デニー達の前を歩いていた二人の兵士達が、デニー達がそこに辿り着く前に、ぱっとドアに近づいて行って。そして、その両方の扉を大きく開いて、デニー達が入りやすいようにその状態を保ってくれていた。これは……確かに親切ではあったが。真昼としては、静一郎と一緒に行動していた時に、よくドアを押さえていてもらったことを思い出させる行為であったため。ぼんやりと居心地の悪い気持ちになったのだった。

 いや、そんな真昼の個人的メモワールはどうでもいいんですよ。それよりも……OCCP(Operation Center and Communication Plant)、この施設は、入ってすぐに戦場であった。いうまでもなく戦場というのは比喩的な意味で使った表現なのだが……あながち比喩とばかりはいえないかもしれない。

 とにかく、建物に入った真昼のことを迎えたのは、愛想のいい受付や、居心地のいいエントランス・ホールなどではなかった。そんなものはない。そもそもここは前線基地なのであって、そういったなんやかんやに割くだけのリソースなどあるはずがないのだ。ということで、入ったらすぐ、そこはコム・プラントであった。

 正確にいうと、さすがに入り口を入って「即座」という感じでそんな重要な施設があるというのも防衛上問題があるので、コム・プラントと入り口付近の空間は金属の格子によって隔てられていた。これは普通の金属の格子ではなく、格子の一本一本には魔力エネルギーが充満していて。その間を、例えば銃弾のような物が通ろうとした場合には、その魔力が電撃のように放たれることで、その銃弾のような物を破壊してしまうという代物だった。ただし、味方の兵士が触れてもなんの問題もないらしく、その格子に寄り掛かったりしている兵士もいないわけではなかった。

 少し行ったところには内側に入る、格子を切り取ったような形の扉があって、その前には(というのは入り口の側ということであるが)左右に一人ずつ、合計二人の兵士が立っていた。なんというか、ちょっとこの光景は……あたかも動物園のようだったが。格子の内部も、動物園とさして変わらない、てんやわんやのしっちゃかめっちゃかになっていた。

 真昼は……コム・プラントというのは、この前線基地と、どこかにある主要作戦基地との通信に使われる施設だと思っていたのだが。もちろん、その用途にも使われないわけではないのだが、実のところ、最も重要な役割はそれではなかった。ここはオペレーションセンターと交戦地帯とを結ぶ施設なのだ。

 入り口から入って正面の壁には巨大なスクリーンが設置されている。本当に巨大なスクリーンで、縦が五メートル、横が十メートル、それくらいの大きさがあった。なるほど、だから一階の部分だけがあんなに高い位置まで続いていたのかと、真昼は納得したのだが……ところでこのスクリーンは、よくよく見てみると、ナシマホウ界でよく見るような液晶やホログラムやの画面ではなく、壁面に直接描かれているもの、壁画であった。そして……その壁画に使われている塗料に、何かの魔法がかけてあるのだろう、描かれたものが直接動いているのだった。

 スクリーンは幾つかの画面に分割されていて、真ん中にある一番大きな画面に描かれているのがタンディー・チャッタンの周辺地図であった。この前線基地と、それに例のポータル・ベースとが書いてあって。その間に広がっている交戦地帯と思しき場所には、凄まじい数の、こまごまとした、生き物の姿が描かれていた。もちろんこれは兵士を表しているものだ。人間の形や車両の形や、あるいは猿・象・獅子などの動物の形があって、それが黒と白の二色に分けられている。動物の形と車両の形と、それぞれ色分けされている数を比べてみるに、黒の色がカリ・ユガ軍、白の色が暫定政府軍を表しているらしい。

 そのスクリーンの両側に配置された、比較的小さめのスクリーンには、それぞれ戦闘に関する詳細な情勢が表示されているらしい。例えば何かの円グラフ・棒グラフ・線グラフ。あるいは、あそこにあるのはレーダーの映像のようなもので、恐らくこの拠点の周囲に配置された還俗学生の精神と直接繋がっているものだろう。それに、珍しいものでは、十八の小画面に分かれたスクリーンもある。それらの小画面に映されているのは、見ているだけで酔ってしまいそうなぐらんぐらんとした風景の映像で、それでもなんとかそこに映されているものを見定めてみると……それは、上空から、例のポータル・ベースを映し出したものだった。要するに、強襲を行っているグラディバーンの視界を映像化したものらしい。そういったスクリーンの全てが、魔学的な仕掛けを施された壁画だった。

 さて、ところで。いうまでもなく、この空間に存在しているのはスクリーンだけではない。ここがコム・プラントである以上、当然ながら、たくさんの通信士達が仕事に従事しているのであって……先ほど「戦場」という比喩で表現したのは、それらの通信士達の、ちょっとマジでヤバいんじゃないかと思うほどのパニッカオス大騒動ぶりについてなのだ。

 まず、スクリーンの前方にある空間は、かなり開けたホールのようになっていて、そのホールに大量のテーブルが並べられている。見渡す限りに続く荒れ果てた海に、ぎっしりと漂っている小舟のような有様の、それらのテーブルは……例えば、一つ一つ、前から順番に、きちんと整理されて並べられたりとか、そんなことは全くない。それどころか、真昼が見た限りでは、かなりめちゃくちゃに並べられているように感じられた。

 そもそもテーブルが普通の形をしていなかった。いや、まあ、その上に物を載せられるところの、地面と平行な、まっすぐな天板を備えていて。それを幾つかの足で支えているという意味では普通のテーブルなのであるが……その天板の平面が、長方形ではなく、曲線を描く図形なのだ。Sの字だとか、Uの字だとか。くねくねとねじ曲がった形をしていて、それによって隣にあるテーブルと接続することで、幾つかのテーブルが異様な形でクラスターを作り出している。

 そのクラスター同士が、あるものは離れ、あるものはくっついて……どうやら、それのクラスターの関係に、ある種の規則性が働いているらしい。例えば、あそこにある九夜月のような形のクラスター。隣にある車輪みたいな形のクラスターと接続しているが、推測するに、どこかのブリゲードとの連絡を受け持っているのだろう。そして、あの車輪みたいな形のクラスターが、そのブリゲードが所属するディヴィジョンとの連絡を受け持っていて。そのようにして、互いの通信士達が、必要な相手と密に連絡を取り合えるようになっているということだ。

 ここまでの説明を読んできて、既にお分かり頂けたと思うが……アーガミパータにおいて、通信士は、ただの通信を行うだけの存在ではない。というか、通信行為はあくまでもついでのようなもので。その専門的な仕事は刻一刻と変化する戦況の分析だ。現場から直接運ばれてくる情報を、即座に分析して。そういった分析を互いに交換し合うことで、その場で有機的な戦略を組み立てている。つまり、このホール全体が一種の中枢神経のようになっているのだ。ということで……もちろん、それらの通信士は、人間ではあったが、ただの人間ではなかった。

 一人一人の全身に複雑な魔学式の刺青がしてある。ちなみに、これはよく誤解されがちなことであるが、「魔法円」とは異なり、「魔学式」はリュケイオン以外の魔学系統、儒家の系統にもニルグランタの系統にも存在している。それは、もともと、魔学式に使われている「記号」がケレイズィの言語をもとにして作られた言語であるからだ。もちろん、それぞれの系統によって「記号」のシステムに多少の差異はあるが……とにかく、刻まれている魔学式はニルグランタの魔学式であった。

 この魔学式が刻まれた人間に簡易的なヴァジラヤーナを起こすものだ。巨人化したりだとか、千里眼・順風耳を手に入れることは出来ないが、その代わりに二つの能力を手に入れることができる。まず一つ目が、驚異的なまでの情報処理能力(思考能力全般の底上げではなくあくまで情報を処理する力だけであるが)。それに、もう一つが、極度の共感能力(ただしより深く分かり合うためには一定の会話が必要になってくる)。そのようにして、一人一人を、スター型ネットワークにおけるマスター・コンピューターの構成要素としているのだ。

 ということで。

 ここで働いている人々は。

 通信士ではなく。

 中枢情報処理士。

 そう呼ばれている。

 そんな中枢情報処理士達が……長いからやっぱ通信士って呼ぶね。通信士達が、テーブルに着いたり、あるいは走り回ったりして。互いの情報を交換し合ったり、あるいは必要な情報をオペレーション・センターまで上げたりしているのだが。そのテーブルの上に置かれていたり、あるいは走り回っている通信士の小脇に抱えられていたりするもの。それが、真昼にとっては、目を疑ってしまうような異様な物体だった。

 いや、まあ、いってしまうとそれは干からびてムーミヤーになった人間の頭部であって。アーガミパータではさほど珍しいものではないし、現にこの基地の周囲に張り巡らされたフェンスにも幾つか括り付けられていたくらいであったが。ただ、そういったものが、なんらかの道具として使われているらしいということについて、真昼は純粋に驚いてしまったということだ。

 しかも、その頭部は、なんか動いていた。口をぱくぱくと動かして、干からびた顔に相応しい干からびた声を吐き出していたということだ……ここまで書けば、読者の皆さんはもうお分かりですね? そうです、これらの首は、ポータルの発電に使われていた物と同じ「魔学者の首」だということです。

 テーブルの上、普通であれば軍事用コンピューターの端末でも置かれていそうなところに。そういった「魔学者の首」が置かれていたのだ。しかも、その首は、首だけではない。首の下、少し残された背骨に、鞣した腸によって、右手と左手が括り付けられていたのだ。その両手の指先に、一定の法則に従って触れることで……どうやら、この「魔学者の首」への入力が行われているらしい。もちろん手によってだけではなく、「魔学者の首」の両側についている耳からも、声による入力を行っているのだが。それらの二つの入力方法がどうやって使い分けられているかということは、真昼にはよく分からなかった。

 「魔学者の首」、その口から、エクト・スナイシャクみたいなものが吐き出されていて。それが、どうやら、ホロスクリーンのような役割を果たしているようだ。その外にも、ふわふわと浮かぶ紙片(あの巨大なスクリーンと同じように動く絵が描かれたもの)が、空中に幾つも並んでいたり。もしくは、なんの役に立つのか全く分からないが、とにかく床の上のそこら中で、粘土で作った人形みたいなものが踊りまくっていたり。様々なアイテムが使われているようだったが、中心的な役割を果たしているのは、やはり「魔学者の首」のようだった。

 今も真昼の目の前、この格子の向こう側を一人の通信士が駆け抜けていったのだが。両手で挟むように持った「魔学者の首」に向かって何かを怒鳴りつけるみたいに喋っていた。イパータ語で話していたため、何と言っているのかということは真昼にはさっぱり分からなかったが……明らかに死んでいる生首(干首?)と言葉を交わしているように見えるその行動は、真昼にとってはとにかく不気味に見えるものだった。

 と、は、い、え! そんな真昼だって、この拠点に辿り着いて自殺行為号(仮)から降りた時には誰のものとも知れぬ左足を引っ掴んでいたのだ。まあ、もちろん、あれは、やむに已まれぬ事情があって引っ掴んでいたのではあったが。ここにいる人達だって、別に好き好んでこんなことをしているわけではあるまい。あそこで「魔学者の首」の頭、髪の毛をぐっと握って、なんだか分からない奇声をあげながらぶんぶんとぶん回しているあの通信使だって、別にそれをしたくてしているわけではない(はず)なのだ。それにしても周囲の人達はよくあれを無視していられるな……いや、周囲の人達も似たような混乱ぶりなんだけど……なんにせよ、個人には個人の事情があるのであって。真昼がどうこう言えることではないのである!

 と。

 まあ、そんな。

 わけで、して。

 とにもかくにも格子の向こう側は戦場だった。戦場と直接繋がっている、いわば第二の戦場としての意味でも戦場であったし。それに、純粋に、そこにいる通信使のみんなが怒鳴りあったり走り回ったりしている阿鼻叫喚の大車輪だという意味でも、紛れもなく「戦場」であった。

 戦況というものは、まさにこの瞬間にも、怒涛のごとく変化しているのであって。それに一瞬でも遅れてしまえば軍の全体に取り返しがつかないほどの損害を与えかねない。それゆえに、通信使達も自然と殺気立ってきて。今見ているような動物園的な状態になっているのだろう。

 そんな。

 獣の檻。

 レーグートは、その中に入る扉に向かって歩いて行く。ちなみに、デニー達のことを護衛してくれていた四人の兵士達は、この建物の入り口のところまで同行してくれた後、そのままどこかへと行ってしまっていた。まあOCCPの中は安全だろうし、それに何より、四人も余計な人間がいたらさすがに邪魔になるだろうという配慮から、ここから先には同行しないのだろう。

 扉の横で警備をしている兵士達に向かって軽く挨拶をすると、レーグートは自分の体の中に右手を突っ込んだ。レーグートという種族は、全身が菌糸でできているため、体の中に隙間があり、そこに重要なもの(もちろん自分にとって重要なものではなく他人が重要だと思っているもの)を保存する性質があるのだ。そして、取り出した物は、錆びた金属で出来た鍵であった。

 その鍵を、その扉の鍵穴にさして。

 鍵を開けてから、その扉を開いて。

 それから、デニー達に向かって言う。

〈どうぞ、こちらへ。〉

 うーん、気が進まない。真昼はとても気が進まなかった。いやね、なんか、こう……血の気が多すぎるでしょ。その空間には、入ったらその瞬間に八つ裂きにされかねないような、排他的な「強さ」があった。「このクソ忙しい時にそんなところでチンタラチンタラ存在してんじゃねぇ馬鹿ガキが!」とでも言われそうな雰囲気が満ち満ちている。

 ただ、とはいえ、そんな雰囲気を欠片も感じることのないデニーは「はいほー」とかなんとか言いながら、てってこてってこ入って行ってしまうし。それに、そもそも、真昼は、気が進まないとかなんとかいっていられる状況ではないのだ。ということで、覚悟を決めた真昼は、しっかりとマラーの手を握って(ちなみに、ここまではなんとなくそういう気持ちにならなかったので、特に手を握っていなかった)、その「戦場」に入っていったのだった。

 さて。

 「戦場」の。

 内側ですが。

 幸いなことに、真昼は怒鳴られたり小突かれたり、はたまた髪の毛を引っ掴まれてぶんぶんと振り回されることもなかった。当然といえば当然の話で、レーグートに連れられているということは、デニー・真昼・マラーの三人が、この基地にとって重要な客人であるという明白な証明なのであるし。そんな相手に対して無礼を働くような真似が出来るはずもないのだ。また、それだけでなく……あまりにも忙し過ぎて、デニー達のことが、そもそも目に入っていないという理由もあるかもしれない。

 レーグートは、なるべく「戦場」の奥に入っていかないように、格子に沿って左へ左へと進んでいって。突き当りのドア(これといって特徴のない木製のパネルドア)の中へと入った。これは廊下へと出るドアで、その廊下というのは、どうやら凹の字でいうところの、縦の長方形部分へと向かう廊下であるらしい。つまり、デニー達がドアから出た先は、凹の屈曲部分であり……そこに二階へと続く螺旋階段が設置されていた。

 ちなみに、気になる方もいらっしゃるかもしれないので一応触れておくが。凹の横の長方形部分がコム・プラントなら、二つある縦の長方形部分が何に使われているのかということ。これは……縦の長方形部分も、やはりコム・プラントに使われていた。ただし、こちらのコム・プラントは、戦闘の全体を俯瞰的に分析するのではなく、機密情報を扱うためのものだったが。

 縦の長方形部分へと向かう廊下の両側に、幾つも幾つも小部屋が並んでいる。その各々が、一つ一つの機密情報を扱うためのコム・プラントなのだ。これらの情報は、味方に対してでもそれほど大々的に公開するわけにはいかない情報であるがゆえに、閉ざされた部屋の中で扱われているのである。まあ、とはいえ……先ほどの動物園みたいな大部屋から、目の血走った通信士がこっちに向かって走ってきて、その部屋に突っ込んでいって、中にいる通信士と何事かを怒鳴りあった後で、また大部屋に走り帰っていくということもしばしばあったのだが。少なくともこれらの小部屋のドアは全て二重ドアになっているので大丈夫です(何が?)。

 斯うっと、余談は置いておいて螺旋階段の話に戻らないとね。この螺旋階段が、まーたへんてこりんな螺旋階段であって。一言で表現するならば、色も形もまるっきり骨だったのだ。漂白されたみたいに真っ白ではあるのだが、どこか濁っているように見える、苦い砂糖菓子みたいな色。ぐるぐると回転しながら上に向かっていく脊椎、そこから突き出している一つ一つの踏み板は、肋骨に透明な膜を張ったように見える。こんな具合に、骨のような形をしていて……とはいえ、これが人間の骨であるなら、少し脊椎が長過ぎるし、少し肋骨が多過ぎる。

 要するに。

 これは。

 蛇の骨だ。

 一体なんの意味があってこんな悪趣味なデザインにしたのか分からないが、レーグートはその悪趣味さについては特にコメントすることもなく上がっていく。そして、いうまでもなく、デニーがそういうことを気にするわけもないので。真昼は、その階段についての疑問を疑問のまま飲み込んで、二人の後について、肋骨っぽい踏み板を上がっていくことしか出来ないのであった。

 その階段はもっと上の方まで、つまりストゥーパの内側に向かって続いていたのだが。レーグートは、そちらに向かうことはせず二階で降りた。二階は一階とは少し違う作りになっていて、凹の縦の長方形部分だけではなく、横の長方形部分にも廊下が伸びていた。一階にあったような巨大なホールは存在せず一つ一つの部屋に分かれているらしい。

 そんな廊下を、横の長方形部分の方向に進んでいって。やがて……明らかにこの中には重要な部屋がありますといわんばかりの、一枚のドアの前で立ち止まった。すぐ横のところには護衛を務めているらしい兵士が一人立っていて。そして、なんと、そのドアは、赤イヴェール合金で鍍金がされていたのだ。この加工は、防御力的にはそれほど増加するわけではないが、金鍍金と同じような象徴的な意味を持っている。しかも、それだけでなく、螺子で止められたドアプレートの周りを取り囲むようにして、一匹の蛇が身をくねらせている彫刻まで刻まれている。そのプレートになんと書かれているかは分からないが……ここに、デニーに会いたいと言っている「人間種族の責任者」がいるのは間違いないだろう。

 レーグートは。

 柔らかくしなやかな手によって。

 そのドアを、四回、ノックして。

 イパータ語で、何事かを叫ぶ。

 その叫び声に対して。

 ドアの内側から。

 やはりイパータ語の。

 叫び声が帰ってきて。

〈それでは。〉

 レーグートは、振り返り。

 デニー達に、こう告げる。

〈どうぞ、こちらへ。〉


 もちろん、そこはオペレーション・センターであった。というか、読者の皆さんにはシチュエーション・ルームという呼び方の方が馴染みが深いかもしれない。司令官及び幕僚によって組織された、インテリジェンスとカンファレンスとの両方の役割を果たす部屋。軍隊において、作戦ごとに設けられるC2(Command and Control)を遂行するための組織。

 アーガミパータの、しかもヌリトヤ砂漠の、しかも平和的回廊地帯の、しかもタンディー・チャッタンにあるとは思えないくらい、非常に現代的な部屋だ。この一室だけを見れば、ここがサイモン州のどこかにあるエスペラント・ウニートのシチュエーション・ルームであるといわれても納得してしまうだろう……幾つかの、少しばかり特殊な点を除けば。

 そういった特殊な点の中で、最も際立っているのが、入り口から入って突き当りの壁の部分である。その壁は……というか、この部屋そのものが。建物のモダンブロックから、外側に向かって突き出しているのだ。どういうことかといえば、この部屋の一番奥、壁があるべきところが、まるまる刳り抜かれて、すっぽりと開けてしまっていて。そこからぼこっとはみ出るみたいにして、エネルギー・フィールドによって形作られた直方体が突き出しているということである。この部屋は、凹の字の内側に面する部屋であるため、そのエネルギー・フィールドからは、あの木、真昼が禍々しく感じたところの干からびた巨木を間近に見ることが出来た。

 そんなエネルギー・フィールドの部分を除けば、この部屋は中小企業の会議室といった程度の大きさだった。石膏か何かで塗り潰された白い壁。天井には剥き出しの蛍光灯が並んでいて、床には見るも無残にぼろぼろになった絨毯(手入れをしている余裕などないのだろう)が敷き詰められている。それから、その中央には半円形の会議テーブルみたいな物が置かれていた。

 半円形の弧の側に、司令官及び幕僚が座るための椅子が置かれていたのだが。それは、なぜか、着席者が入り口に背を向けるようにして置かれていた。つまり、そのテーブルに着いている者達は、自然とあの木に向かい合う形になるのだ。そして、テーブルと木との間には……エクト・スナイシャクで出来た、立体的なホログラムが浮かんでいた。いうまでもなく、タンディー・チャッタンとポータル・ベースとの間の戦線をリアルタイムで映し出している、三次元の映像である。

 そして。

 その椅子に着席し。

 その映像を注視し。

 オペレーションを決定する。

 この戦場における。

 人間の、責任者達。

 デニーと真昼とマラーとが、この部屋に入ってくると。

 彼らが、彼女らが、一斉にこちらを振り向いた。

 レーグートが、またもやイパータ語を口にした。今度は叫んだわけではなかったが、その言葉の中には、明確に「デナム・フーツ」という単語が含まれていた。デニーとそのお連れ様とが到着したとか、そんな意味合いのことを、人間の責任者達に向かって伝えたのだろう。

 その言葉を聞き、デニーの姿を見ると、人間の責任者達は即座に椅子から立ち上がった。人数は五人いて、入り口から見て一番右側にいるのが陸軍の責任者、その隣が情報関係の責任者、一番左側にいるのが空軍の責任者で、その隣が魔学関係の責任者。それに、真ん中が最高責任者だろうと真昼は推測した。様々な軍隊の様々な責任者に、パーティなどの席で無理やり挨拶させられた真昼は、見ただけでそういった「感じ」が分かるのだ。

 そして……少なくとも、真ん中の人間が最高責任者であろうという真昼の推測は完全に正しかった。というか、真昼でなくともそのことは見ただけで分かっただろう。なぜなら、その人間は、その地位に相応しい格好をしていたからだ。

 といっても、邪魔な勲章をじゃらじゃらと付けていたりとか、動きにくそうな儀礼用の服装をしていたりとか、そういうわけではない。ここは前線基地だ、記念式典の会場ではない。タンディー・チャッタンの他の場所よりは安全であろうが、それでもいつミサイルが撃ち込まれてくるか分からないのであって。それに、最高責任者であっても、全く現場に行かずに済むというわけでもない。

 ということで、その最高責任者も、他の兵士達が着ているのと変わるところのない、アーガミパータ北部迷彩が描かれた動きやすい軍服を着ていた。「その地位に相応しい服装」というのは着ている物ではない。頭に被っている物だ。

 その人間は。

 一枚の。

 巨大な。

 蛇の皮を。

 被っていた。

 その蛇の皮は、まるで、その人間を包み込んで、その人間自体を蛇にしてしまおうとしているみたいだった。頭部を覆い隠しているのは上顎の部分で、ぐわっと開いた口が、丸飲みにするために襲い掛かっているようにも見える。そこから背中の方に向かって、翻される前のケープみたいに、その人間の体に纏わり付いていて。それから、動きやすいように一応は加工されているらしく、引き摺るほどの長さではなく、足首の辺りで、それより先の皮はすっぱりと切断されていた。

 そして、その皮を脱ぎ捨てたであろう蛇は、ただの蛇ではないようだった。いや、これほど巨大な蛇という時点で、間違いなくただの蛇ではないのだが、それよりも変わっている点があるということだ。それは……その皮の、首から先の部分。鱗ではなく羽根によって覆われていたのだ。とても、とても、美しい羽根。薄く輝いていて……恐らくは、その皮の持ち主であった蛇の魔力が、いまだ残っているのだろう。それほどの、魔力を、持っている蛇。そんな蛇のことを、真昼は知っていた。

 つまり。

 この皮。

 脱いだ。

 蛇は。

〈こちらが。〉

 真昼のそんな思考を、ぱっと覚まさせるみたいにして。レーグートが共通語によって言葉を発した。ということはデニー達に向かって話しているということだ。いや、正確には、とーっても賢いデニーちゃんはイパータ語もぜーんぜん分かっちゃう!なのだし、マラーは共通語を理解出来ないので、主に真昼のために使われている共通語なのだが。とにかく、真昼がレーグートの方を見ると、レーグートは最高責任者を指し示していた。

〈人間種族の責任者、ナーガヴィジェタ大佐でございます。〉

 レーグート、が。

 紹介し終わると。

 最高責任者、ナーガヴィジェタと呼ばれた人間が、入り口に向かって一歩前に進んだ。それから、残りの幕僚達も、それに合わせて一歩を踏み出す。もちろん、それは、デニーに向かって進み出たということだ。

 ナーガヴィジェタ達五人は、音を立てることなく、それでいてしっかりと両方の手のひらを合わせて。そう、その様は、あたかもジュットゥがパンダーラにしていたかのように……その場で、デニーに、跪いた。

 デニーは。

 その様を見ると。

 にーっと笑って。

 こう言う。

「んー、とーっても礼儀正しい子達だねっ!」

 言葉の内容とは全く違い、さして嬉しそうというわけではなく、むしろそうされるのが当たり前だと言わんばかりの口調だった。それからデニーは、くーっと、可愛らしく首を傾げて。とんっとんっと、いつものような、ステップでも踏んでいるみたいな、軽やかな足取りで五人に近付いていく。まずはナーガヴィジェタの前に立ち、そして……その額に、中指の指先で、とんっと叩くみたいにして、軽く触れた。

 その指、ぱっという感じで、すぐに離してから。次に、跪いている他の四人の前、その一人一人の前に順番に立っていって。同じように、中指で、とんっと額に触れていく。全員に対してその行為を終えると、また、ナーガヴィジェタが跪いている前、けれども、今度は、少しだけ離れた場所に立った。

 五人に向かって、左腕を、すっと差し出して。その先にある左手、小指の先から、薬指、中指、人差し指、親指、一本ずつ、ゆっくりと、ゆっくりと、手のひらを握り締めていく。すると、まるで、その動作に合わせるみたいにして……五人の上に、きらきらと光る花びらのようなものが降り注ぎ始めた。

 当然ながら、それは本物の花びらではない。デニーの魔力が、周囲の魔子を花びらのような形に結晶させて。それがひらひらと舞い落ちているだけだ。触れても特に害はないようで、五人の体の上に落ちたり、あるいは地面の上に落ちたりすると、春先に間違って降り始めてしまった柔らかい雪の欠片みたいに、ふっと、跡形も残さずに消えてしまうだけだった。

 そして。

 そんな。

 花びらの。

 静かな。

 静かな。

 静寂とともに。

 デニーは。

 五人に。

 こう囁く。

「スマンガラム、子供達。」

 それから、伸ばしていた腕を何事もなかったかのようにおろして。両腕を背中の方に回して。すたっすたっという感じの、ちょっと大袈裟なくらいの後ろ歩きで、こちら側に、入り口の側に戻ってきた。花びらは、デニーが腕をおろすとともに、すうっと消えていく感じで、降り注ぐのをやめてしまっていて。その後も暫くの間、何かの余韻に浸っているような感じで、五人の人間達は跪いたままだったのだが……やがて、その場に立ち上がった。

 今の行為を真昼なりに解釈してみるに、なんらかの種類の祝福行為だったのだろうという結論に至った。力ある者から力なき者に対して行われる、「聖性」の一部を感染させるための行為。もちろん、それは単なる儀式であって、なんらかの力が本当に感染したわけではないだろうが……それは、この際、問題ではない。問題なのは、こういった行為を行うことが出来るのは、よほど力のある者だけだということだ。

 例えば、神々とまではいかなくとも、高位聖職者や魔学教授や、それに王侯といった立場にある者でないと、感染を受ける側もこれほど畏まった儀式を受け入れるはずがない。つまり、この五人にとって、デニーはそういう存在であるということだ。確かに……デニーは凄まじい力を持っている。こういう儀式を行ってもおかしくないくらいの力を有している。そのことを、真昼は知っている。なぜなら、その力を、実際に、見せつけられてきたからだ。しかし、この五人は、それを見てきたというわけではない。

 それでもデニーの前に跪いたということは。デニーの「お友達」であるというカリ・ユガが、それほどの力の持ち主であるということの証明であろう。カリ・ユガ本人ではなく、その知人でしかないデニーにさえも、人々を跪かせるほどの力。一体、その何者とも知れぬ誰かが、どれほどの力の持ち主なのか……真昼は、改めて、曰くいいがたい不安を感じたのだった。

 それは。

 それと。

 して。

「あのさーあ。」

〈はい、なんでございましょうか。〉

「デニーちゃん、いちおーイパータ語も分かるんだけどお。この子達とイパータ語でお話しすると、なんのお話をしてるのかっていうこと、真昼ちゃんが分かんなくなっちゃうんだよね。それで、そういう内容をいちいち説明するのって、とーっても面倒だからあ。ぜーんぶ共通語でお話しすることにしました! そんなわけで、通訳をお願いしまーす!」

〈ええ、ええ、かしこまりました。〉

 レーグートは、デニーの言葉にそう快諾すると。その通りの内容を、ナーガヴィジェタ以下五人に対して、イパータ語によって伝えたのだった。ちなみに、このデニーの提案は、デニーの性格からいって、真昼のためを思っての提案であるはずがなく、本人が言った通り、わざわざ話の内容を繰り返して真昼に話さなければならないのが面倒だったというだけの話であることは間違いないため、真昼もこの提案に対して「ありがとう」だの「サンキュー」だの言うことはなかった。

 さて、この段階に至って……ようやくナーガヴィジェタが口を開いた。ナーガヴィジェタは、顔の中心に大きな傷があって、特に鼻などはほとんど抉れるようになっていたため。それに、せいぜいが六十代の前半であろうが、今までよほどの苦労を重ねてきたのだろう、顔中に、深く深く皺が刻まれていたため。正直な話、男なのか女なのか、真昼には判別がつかなかったのだが。声を聴く限りでは、どうやら女性である可能性が高そうだ。

 デニーのことを、しっかりと見つめて。はっきりとよく通る声、だが、どこか掠れたところのある声で、一言二言話した後。一度区切りをつけてから、また話し始めた。今度は暫く話し続けた後で、レーグートにちらと視線を向けて、一つ大きく頷いた。レーグートはそれに頷き返すと内容を翻訳する。

〈ナーガヴィジェタは、ミスター・フーツがこの基地を訪れて下さったことに対して心からの感謝をする、と申しております。それから、ミスター・フーツのように聡明な方には必要ないだろうが、ここにいる自分及び四人の幕僚について、一応の自己紹介が必要かどうか尋ねて欲しい、と申しました。いかがでしょうか、ミスター・フーツ。自己紹介は必要ございますか?〉

「んーん、いらないよ!」

〈かしこまりました、かしこまりました。そのように伝えます。〉

 レーグートからその答えを受け取ると、ナーガヴィジェタはまた一つ頷いた。それから、今度は少しばかり長く話し始めた。表情自体はあまり変わらなかったのだが、声の調子、それに微かに動かす目元や口元やから、何か申し訳なく思っているらしい、ということが伝わってくる。暫く話した後で、またレーグートが共通語に翻訳する。

〈ナーガヴィジェタはこのように申しております。本来であれば、この基地の司令官であるシャーカラヴァッシャが対応すべきところであるが、シャーカラヴァッシャはナーガであるため他者とコミュニケーションを取ることが出来ない。そのため、人間種族の責任者である私がご用件を伺いたいと思う。それで問題ないだろうか、と。いかがでございますか?〉

「あー、そういうことかー。」

 デニーは、レーグートの言ったことに、特筆すべき感情の籠もっていない、どうでもいい感じの口調でそう呟いた。それから「んーと」という感じ、左側に小さく首を傾げて。右のほっぺたを、右手の人差し指で、つんっと突っついて。独り言みたいに、こう言う。「ナーガの子とお話しする方法も、別にないわけじゃないんだけどねー」「ま、いっか」。

〈何か問題がございましたか?〉

「んーん、なんにもないよ。」

〈それはようございました。〉

「うんうん、良かったね! それでさ、デニーちゃんのごよーけんなんだけど。デニーちゃん達は、これからカリ・ユガのおうちに行きたいって思ってるのね。でもでも、いきなり行くっていうのもなんだし、これからデニーちゃんが行くよーって連絡して欲しいの。それで、分かったーって答えが来たら……ここからがもう一つのお願いなんだけど、デニーちゃん達をカリ・ユガのおうちまで連れてって欲しいの! 護衛して連れてってくれるんでもいいし、ほら、あそこにあるポータル、あれを使わせてくれるんでもいいけど。とにかく、なるべく楽な方法でとーちゃーくって出来る感じでね! ということで、このふたっつが、デニーちゃんのごよーけんというわけです! いかがでしょーか!」

〈ふむ、なるほど。左様でございますね。まずわたくしがお答え出来ることからお答えいたしましょう。この基地から本領に連絡を取ること自体は可能でございます。ただ、カリ・ユガ様に対して連絡を取ることは、大変時間が掛かることと思われます。もちろん、ミスター・フーツはカリ・ユガ様のお友達でございますし、そのことを考慮に入れれば連絡を取れないということはないでしょう。しかしそうはいっても、この基地は、所詮は前線基地の一つに過ぎません。連絡がカリ・ユガ様に奏されるまでには、間に何人もの奏者を通す必要がございますから……その分だけ、裁決やら承認やらに時間が掛かってしまうことになるのです。〉

「ほえー、そうなんだあ。どれくらい時間が掛かりそうなの?」

〈早くとも、一時間程度は掛かるかと……〉

「なーんだ、それくらいなんだね!」

〈もし、お待ち頂きたくないというようでしたら、とりあえず、人間種族の最高責任者であるマハーマントリン・カーラプローヒタ・セナーパティの三人に連絡して、本領での出迎え準備を整えさせるようにいたしますが……〉

「んーん、いいのいいの。別にお出迎えして貰いたい!みたいなわけじゃないから。ただ、いちおーは連絡しとかないとって思っただけなの。カリ・ユガに会うのも久しぶりだしね、デニーちゃんみたいに強くて賢い生き物が、いきなり領域に入ってきたら、カリ・ユガとしても侵略行為かなって思っちゃうでしょ? そうしたら、色々大変なことになっちゃうだろうし、それは良くないなーって思って。だから、一時間くらいなら待つよっ!」

〈なるほど、そういうことでございますね。かしこまりました。それでは、この基地で一時間ほどお待ち頂くことにいたしまして……その後で、本領にどのようにお行き頂くか。ポータルをお使い頂くのか、それとも護衛を付けさせて頂いて、本領までエスコートさせて頂くのか。それに関しましては、今、ナーガヴィジェタに答えさせますので、暫くお待ち下さい。〉

「うん、分かった! あ、それとね、カリ・ユガのおうちでお迎えしてくれるっていう子達なんだけど、デニーちゃん的にはそんなに派手にしないで欲しいなーって思うの。いちおーは、デニーちゃん、お忍びでアーガミパータに来てるから、あんまり目立っちゃうのもちょっとあれだしね。」

〈かしこまりました、かしこまりました。そのように取り計らわせて頂きます。〉

 デニーの言葉に、そう答えると。

 レーグートは、また。

 ナーガヴィジェタに向かって。

 今の会話内容を翻訳し始めた。

 ところで、その会話内容なんだけど、なんかめちゃくちゃ物騒なくだりなかった? 侵略行為だとかなんだとか……「色々大変なことになっちゃう」って、もし連絡しないで行ってたら、一体何が起こってたわけ?

 真昼は、今までずーっと違和感を感じていた。デニーが……あの傍若無人と自分勝手とを一対一で割った、ちょっとアルコール強めのクックテールみたいなデニーが。誰かのところを訪ねようという時に、事前に連絡を取ろうとするなんて。まるで一般常識がある社会人みたいな行動じゃないか! 真昼のイメージするデニーならば、誰かの家に行く時もアポイントメントの電話など一切入れず、そいつの家のドアを蹴り破って、あろうことか土足であがり、冷蔵庫に入っているケーキを食い散らかし、片っ端からゲームのセーブを上書きし、一っ風呂浴びた後で、風のように去っていくだろう。こいつはそういうやつなのだ。

 それにも拘わらず、デニーは、カリ・ユガという何者かとの連絡を執拗に取りたがっていて。一体どういうことなのかと疑問だったのだが……要するに、そういうことだったのだ。デニーとカリ・ユガとは、敵対関係にないとはいえ、非常に微妙な関係性なのだろう。領域内に迎え入れないということはないが、手放しで迎え入れるわけにはいかない。一時的に同盟関係を結んでいる、社会構造の全く違う隣国同士のような関係性。そんな間柄であるにも拘わらずどかどかと土足で突っ込んでいくような真似をすれば、確かに侵略行為だと思われかねないし、最悪の場合は、その結果として戦争だのなんだのが起こりかねない。戦争というのは、デニーとカリ・ユガとではなく、デニーが所属している組織とカリ・ユガが所属している組織との間でということだが……それを避けるために、予め一報を入れようとしていたというわけだ。

 そんなことを。

 真昼が。

 考えて。

 いるうちに。

 レーグートとナーガヴィジェタとの話が終わったらしい。話というか、ただ単純に通訳をしているだけなのだが、とにかくレーグートが再度こちらを向いて話し始める。

〈ご希望の件、委細承知したとのことでございます。本領には、今すぐにでも連絡をさせて頂き、カリ・ユガ様からのご回答を頂き次第、ポータルにて本領までお送りいたしますとのことでございます。なぜポータルを使わせて頂くのかと申しますと、なにぶんこの付近は物騒なものでして、この基地から本領までは比較的安全とは申しましても、やはり暫定政府軍からの攻撃や、あるいは人間至上主義テロリストからの攻撃を受ける可能性もございます。それゆえに、安全を第一といたしますれば、あのポータルをご使用頂くのが一番ではないかと考えました次第でございます。ただ、あのポータルは貴人輸送用ではなく、あくまで兵員・物資輸送用のポータルでして、少しばかり快適さに欠ける部分もございますかもしれませんが……その点は、問題ありますでしょうか。〉

「あははっ、ポータルに快適も何もないよー! だって、一瞬で向こう側についちゃうんだから!」

〈ということは、問題はないと理解いたしましても?〉

「問題ないない! だいじょーぶだよ!」

〈ありがとうございます、それでは、そのように取り計らわせて頂きます。〉

 なんかレーグートってだいぶ敬語はちゃめちゃだな、それともこういう敬語の方がアーガミパータでは受けがいいということなのだろうか、みたいなことをぼんやりと考えている真昼(一応いいとこのお嬢さんなので敬語は一通り叩き込まれている)(ただこういう性格なので自分で使うことはない)であったが、とにもかくにも話はまとまったようだ。

 レーグートがイパータ語で何かを伝えると、ナーガヴィジェタは、首を左右に傾ける例のポジティブ・ジェスチュアをしながら、一言返した。それから、この部屋の中心にある、あの半円形の会議テーブルに向かって歩いて行く。

 今まで一言も触れていなかったのだが、その会議テーブルの上、メンバーの一人一人が一台ずつ使えるように、五台の固定式電話機が置かれていた。切断された首とかではなく、ごくごく普通の電話機である。まあ、少し旧式といえば旧式なのだが……とにかく、その電話機のうちの一つ、一番真ん中にあったやつの受話器を取ると、数字ボタンを押してどこかに電話をかけ始める。

 相手側は二回もコールしないうちに出たようだ。ナーガヴィジェタは何か話していたが、その中に「デナム・フーツ」という言葉が何度か出てきたことから、電話の相手は「カリ・ユガのおうち」にいる誰か、そして、電話の内容は、デナム・フーツがそちらに行くことをカリ・ユガに伝えて欲しいという内容だということが分かった。意思の疎通はかなりスムーズに行われたらしく、ナーガヴィジェタは一分も話さないうちに電話を切った。

〈さて、本領への連絡も終わりましたことですし……これから一時間、いかがいたしましょうか。お休みなりたいのでしたらお部屋をご用意することも出来ますし、あるいは基地を見学なさりたいとか、捕虜を処刑してみたいとか、そのようなご希望がございましたら、手配することも出来ますが……〉

「んー、デニーちゃんとしては、やりたいこととかは特にないかなー。真昼ちゃんは何かある? 遠慮しないで言っていーよ。」

「別に、ない。」

 明確に。

 拒絶する。

 真昼の回答。

 これは……無論、「やりたいことが何もない」という受け身の意味合いを含んではいたが。それにも増して「お前の権力のお恵みにあずかって何かをしようなどという気はさらさらない」という攻撃的な意図を表す答えだった。いつものように、デニーに対する拒否反応丸出しの真昼であったが……少しだけ、注意して欲しいところがある。

 それは、レーグートの「捕虜を処刑してみたいとか」という発言に対して真昼がそれほどの抵抗感を示していないということだ。これが今までの真昼であったら「捕虜を処刑するって……そんな簡単に……」だとかなんだとか、また面倒なことを言い出して、デニーに面倒がられていたことだろう。けれども、真昼は、そういうことを言わなかった。それどころか、その発言に対しては、何一つ、反応さえ示さなかったのだ。

 あるいはもう一つ。真昼が、この基地の外にいる人々に対する救援活動を申し出なかったこと。確かに一時間くらいでは大した手伝いは出来なかったかもしれない。それでも……今の真昼はそこそこ人間離れした力を持っているのだし、それにデニーにも無理矢理手伝いをさせれば、何かの役には立てたはずだろう。折しも爆撃がビルを破壊したところであり、救出作業が最も忙しいタイミングなのだから。だが、真昼はそういう申し出さえすることがなかった。

 真昼の、善と悪とに関する。

 判断の戸惑いみたいな感覚。

 その現われだ。

「そっかー。」

 しかしデニーは、真昼の拒絶にも真昼の困惑にも、気が付くわけがなく。また、気が付いていても、別にどうでもいいことだと思っただろう。こういったサピエンス的な感情に対するデニーの無関心が、やがてデニーに対して驚くべき結果をもたらすであろうが、それはもう少し先のこと、具体的にはブリッツクリーク三兄弟との戦闘における出来事だ。ここでそのことについて一言触れたのは、ちょっとばかし、そろそろ新しいフラグを立ててみようかなと思ったからである。

 とにもかくにも、二人ともやりたいことはなく。それでも、あと一時間かそこらは時間を潰さなくてはいけない。「じゃーあー、RIPするためのお部屋を用意して貰おうかなー」「かしこまりました。それでは、兵舎にある空き部屋……士官用の個室に、すぐに部屋を用意させます」「ありがとー、嬉し……」と、ここまで会話が進んだ時に。レコードの針が止まったみたいにして、急に、デニーが言葉を止めた。

 どうしたんだろう。

 そう思う暇さえなく。

 真昼の頭蓋骨の内側。

 全ての、思考が。

 凶悪なまでに純粋で。

 悍ましいほど冷静な。

 「意味」の爆発に、押し流される。

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