第二部プルガトリオ #3

 リュケイオンによる魔学の分類、呪系四科の中に、仙者学という科目がある。これは、人間が人間であるという理を断ち切り、全く別の理によって再度の定義を行うことで、人間でありながらも人間を超えた力を出すことを目的とした学問であるが。これとほとんど同じ内容の学問でありながら、リュケイオンよりも遥かに実用的(というのは軍事転用しやすいということだ)な形で発達したのが、ニルグランタにおけるヴァジュラヤーナである。「破壊不可能な軍艦」を意味するこの名前の通り、ヴァジュラヤーナは、人間の肉体を、ある種の戦闘施設あるいは超大型重機のようなものに変えてしまう。

 今。ミサイルの発射装置の周りに数人の人間が集まってきた。髪や眉はもちろん、睫毛までを剃り落として。その体には、どす黒く濁った赤色の衣を身に纏った人々だ。彼ら/彼女らは、還俗したニルグランタの元学生であって――ニルグランタには不殺生の戒律があるため、大学に所属している限りは、通常は紛争行為に協力することはない――その剃り上げた顔は彼ら/彼女らが魔学者であることの証明であり、更に、その赤色の衣は彼ら/彼女らが還俗した者であることの証明である。ちなみに、この衣は、まさに腐敗した血液によって染められた衣であって。彼ら/彼女らが血に汚れることも厭わない傭兵のような存在であるということを示すための標章である。

 それらの還俗学生達は……両手を柔らかく開いて、体の前にそっと差し出して。そして、両方の目をつむって、静かに呼吸し始めた。呪文や魔法円などの言語的なトリガーによって魔法を発動するリュケイオンの手法とは対照的に、ニルグランタでは、魔法の発動は全く言葉を伴わない瞑想によって行う。精神を、魔学的な観念に集中せて。その観念と一体化することによって……自分自身が魔法となるのだ。

 さて。

 還俗学生達の。

 瞑想は。

 一種の。

 熟考に。

 到達して。

 その精神の、変容とともに。

 肉体も、変容を、開始する。

 全身が、何かとても聖なるものの呼気を吹き込まれた風船のごとく膨れ上がって。その肉体、皮膚の下の筋肉が、錆びついた鋼鉄のように鈍い光を放ち始める。巨大な、巨大な、肉体は、その全身が、鋼鉄のように固く引き締まって……それは、まるで、バル・コクバを模して造られたオートマタみたいな姿。背丈は五ダブルキュビトを軽く超えており、しかしながら、それでもなぜか、その身を包む赤い衣は破けてはいなかった。まあ、そのことについては深く考えないようにしておこう。魔法というものはかくも都合がいいものなのである。

 そうして、巨人化した還俗学生達は。二人一組になってミサイルの再装填作業を開始した。一人がミサイルを持ち、もう一人が発射装置の側に回り。その肉体の大きさに全く似つかわしくない繊細さによって、丁寧に、確実に、ミサイルを据え付けていく。いかに異形の姿になろうとも、その頭の中に叩き込んである、ミサイル・ローディングの技術は失われていないのであって。要するに、還俗学生は、たった一人で技術者と重機と、両方の役割を果たすことが出来るということだ。

 ちなみに、こういった魔学者を雇うことが出来るならば、せっかくなのだから戦場に投入すればいいと考える方もいらっしゃるかもしれないが。ちょっと考えてみて欲しい、還俗学生を一人雇うのに幾らかかると思う? また金の話かよ、と思われるかもしれないが、また金の話だ。とかく戦争というものは金がかかる公共事業なのであって、特にその中でも、ニルグランタの還俗学生を雇うというのは一番金がかかる行為なのだ。とにかく絶対数が少な過ぎる、先ほども書いたように、普通の学生は、よほどのことがなければ戦争に関わることがない。第二次神人間大戦の時に、ニルグランタに人間至上主義者が攻め込んできた時でさえ、何一つ抵抗をせずに虐殺されていったくらいなのだ。その時は終戦によってなんとか皆殺しにされずに済んだものであったが……何はともあれ、ニルグランタから退学するか追放されるかした、数少ない還俗学生を雇わなければいけないのであって。それは、とても、とても、マネーを必要とする行為なのだ。とてもではないが、あんなめちゃくちゃに乱戦状態となった戦場に投入することは出来ない。重要な、拠点防衛の作業に従事させるくらいでちょうどいいのである。

 と、そんなことを。

 説明している内に。

 どうやら。

 再装填は。

 終わったようだ。

 ミサイルが設置されると同時に、発射装置は照準を定めるために動き始めて。太陽を求める向日葵にも似た態度によって、太陽の炎を嘔吐する生き物、すなわちグラディバーンを見つけ出して。その設置から、ほとんど数秒も掛からないうちに、ばしゅっという音を立てて、凍えるような死の塊を発射する。

 十八匹の親ディバーンには、もう守るものは何もない。正確には、まだ数匹の子ディバーンが残っていはいたが、その程度の障害物で阻むことが出来るような代物ではないのだ。グラディバーンは、ごうっという音を立てて、自分自身が一発のミサイルであるかのように、凄まじいスピードで空の果てへと上昇していくが。残念ながら、まだ二十エレフキュビトの圏内、ミサイルの射程圏内だ。ミサイルに追いつかれずにその範囲外に出られる保証はない。

 ということで、仕方なく、グラディバーンは応戦するしかなくなってしまう。ばさっばさっと羽搏きながら、軍用ヘリコプターみたいにホバリングして。そして、ミサイルの方を振り返って……セミフォルテアの炎を吐きかける。

 どちらが強いか。ミサイルの装甲か、グラディバーンの炎か? 結論をいってしまえば、引き分けといったところだろう。ミサイルは標的まで到達することは出来なかったが、かといってグラディバーンも逃げ切れなかったのだ。

 セミフォルテアの炎によって、とうとう爆発したミサイルは、グラディバーンのほとんど目前まで迫っていた。弾け飛びながらも全てを引き寄せる極低温の爆発は、自分を焼き尽くそうとしていたセミフォルテアの炎だけではなく、その炎を吐き出していたグラディバーンの一部も引き寄せることに成功し――正確には、その片方の翼と、腰から下の下半身だ――それを凍り付かせて、それから、ぱきんという、生命そのものを軋ませるような残酷な音を立てながら、粉々に砕いたのだ。

 当然ながら。

 片側の翼を失った。

 グラディバーンは。

 墜落していく。

 落ちて、落ちて、落ちていって……ベースの上、展開した魔法円に、ぐしゃりという生々しい音を立てて激突した。ばちばちと音を立てながら通電している惨たらしい稲妻の上で、グラディバーンは、フライパンの上でソテーされる蜥蜴みたいにして焼かれながら。しかし、残念ながら(これは暫定政府軍にとって残念ながらという意味であるが)、死んではいなかった。

 そう、死んではいなかった。翼一枚と下半身とを失いながら、魔法円によって全身を焼かれながら。それでも死んではいなかったのだ。そして、オロチという生き物は……本当に死なない限りは本当に死ぬことはない。どういうことかといえば、要するに蜥蜴の尻尾だ。読者の皆さんも蜥蜴の尻尾を知っているだろう。そっと触れただけで、呆気なく体から切り離されて、それから見る見るうちに新しいのが生えてくる尻尾。オロチにとっては、魂魄以外の全ての肉体が、所詮は蜥蜴の尻尾である。

 見よ、飛龍を! この世界に破壊を産み落とす生き物を! あたかも蜥蜴の尻尾が生えてくるところを早回しにした映像のように……腰が、足が、尾が、それに、いうまでもなく、失った方の翼が。見る見るうちに再生していく。そして、あっという間に元通りの姿となって……ずるり、という不気味な音を立てながら、自らの肉体を焼き尽くそうとする魔法円の上に立ち上がって。

 さて、これから。

 反撃の時である。

 と。

 いうところで。

 ポータル・ベースの描写は。

 終了です。

 ここからがいいところだというか、ミサイルでは埒が明かないと考えた還俗学生達が、自分達の背中に飛行用の魔力式ジェットを形成して。ポータル・ベースの上空で、グラディバーン達と、壮絶な肉弾戦を開始するところであったが。残念ながら(これは読者の皆さんにとって残念ながらという意味であるが)、これ以上の描写を行うことは出来ない。なぜなら、真昼がポータル・ベースに視線を向けていたのが、ここまでだからだ。

 あまりにも。

 あまりにも。

 現実離れした。

 フィンガー映画のような。

 その光景に。

 真昼は。

「なあ、おい。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「あれ……いや、なんでもない。」

 それだけの言葉を、口にすると。

 後は、深く考えないことにした。

 「それで!」「はい、なんでしょうか!」「あと十分で着くんだな!」「うーん、まあ、いっちばん時間が掛かってそれくらいかな!」「分かった!」ということで。あと十分間、この笑ってしまいそうなくらい笑い事ではない状況に耐えればいいというわけだ。あと十分か……長いな……とかなんとか考えながらも。真昼は、なんとなく信じていた。自分が、この状況を、生き抜いてしまうということを。死ぬことも出来ないまま、まだ生きていかなくてはいけないということを。

 そして、その予感は。

 真昼にとって、残念ながら。

 百パーセント、正しかった。


 これは当たり前のことであるが、現在「平和的回廊地帯」と呼ばれている場所も、最初から「平和的回廊地帯」であったわけではない。この辺りは、カリ・ユガ龍王領(デニーのいうところのカリ・ユガのおうち)から見れば外の世界であるようにみえ、外の世界から見ればカリ・ユガ龍王領に属しているようにみえる、いわゆる辺境と呼ばれる場所であって。あらゆる辺境と同じように、秩序的な空間から弾き出されたアウトサイダー、いわゆる辺境の民が住むための場所であった。

 いってしまえば、ダコイティと同じような集団が住んでいたということだ。ただし、ここに住む集団は、ダコイティ達とは、その恵まれ方に大きな差があったが。恵みをもたらすと同時に身を隠すこともできる森、支配し管理してくれるダイモニカス達、それに何よりカーマデーヌという母を有していたダコイティとは違って、ここに住む……仮に、沙漠の民とでも呼んでおこうか。沙漠の民は、砂以外の何物も持たなかった。

 それでもこの場所に、なんとか、弱々しい腫瘍のような、町に似た構造物が自然発生するに至ったのは……ヴェケボサンのおかげである。「ヴェケボサンの大移動」が起こる以前は、当然ながら、アーガミパータ(のこちら側)にもヴェケボサンは居住していたのであって。特にヌリトヤ砂漠では、テングリ・カガンあるいはその下に従属する七つのウルスに所属していない、いわゆる「はぐれ」のヴェケボサンが隊商を組んで。沙漠の中にある幾つかの領土(それぞれを異なった王や公やが支配していた)を結び付けていたのだ。そして、そういった隊商が立ち寄るオアシスが、次第に、次第に、町を形成していったのである。

 さて。

 デニーと真昼とが向かっている。

 カリ・ユガ軍の前線基地の一つ。

 タンディー・チャッタンも。

 そんな町の、一つだった。

「真昼ちゃん、あそこ!」

「は!? どこだよ!!」

「あそこ! 光ってるでしょ!」

「ちょっと待て……がぁっ!!」

 とてもじゃないが乙女的とはいい難い、雑食ではあるが比較的肉食寄りの獣のような吠え声をあげながら、真昼は黒藤の弓から矢を放った。魔力によって形作られた矢は、錆びついたような匂いがする空気の中に、光の軌跡を描きながら飛んでいって……それから、ぱんっと、夢のように弾けて。十数本の矢に分裂しながら、自殺行為号(仮)が驀進する進行方向、数ダブルキュビト先の大地の上に降り注いだ。

 と、その矢が触れるか触れないか……いや、確かに、触れるよりも前に。その大地が地獄の炎を上げて破裂した。この地獄の炎という表現は別に比喩的な表現ではなく、本当に、リリヒアント第八階層で燃え盛っている例のあの炎を原料として作られているのであって。その、どろどろとした絶望のような色をした、冷酷なほどに全てを焼き尽くす灼熱の炎を……自殺行為号(仮)は、デニーの華麗なる運転テクニックによって、辛うじて避けることが出来たのであった。

「クソが……どんだけあるんだよ!」

「何がですか!」

「地雷がだよ! それぐらい分かれ馬鹿!」

「えーと、ざっと数えたところで……」

「別に質問したわけじゃねぇから! 悪態だよ悪態!」

 と、いうわけで。真昼が矢によって爆発させたのは、複数の地雷だった。正確にいえば対魔地雷と呼ばれている種類の地雷。その名の通り、この地雷は、重さではなく魔力を感知して爆発する。基地の防衛のために、自軍の兵士しか知らない一定のルートを除いて、カリ・ユガ軍がタンディー・チャッタンの周囲一帯にかなりの量を埋めまくっておいたのだ。

 ここまで何度も何度も書いてきたように、アーガミパータは魔力に満ちた土地であって。それゆえに、ここら辺に埋められている対魔地雷もそれなりの魔力を感知しなければ爆発しないように設定されている。具体的には、普通の人間が普通に歩いたくらいではぜーんぜん大丈夫なくらいには調整されているのだが……ただ、大変運の悪いことに、自殺行為号(仮)は魔力駆動のビークルであって。そんなものが上を通ったら、というか上を通る前に、がんがん放射されているところの魔力を感知した地雷は、めっちゃ爆発しまくること請け合いなのである。

 そんなこんなで、自殺行為号(仮)が、まだ爆発に巻き込まれることのないセーフティゾーンにいる間に。真昼が、矢によって、予め爆発させておく必要があるということなのだ。あの出来事が……思い出したくもないし思い出すべきでもないあの出来事が起こる前の日に、パンダーラに強化してもらったこの弓を使うことについては……当然ながら、真昼には、言葉では言い表せないほどの葛藤があったのであるが。お生憎様なことに、そういった葛藤を深く掘り下げていくという贅沢は真昼には許されなかったのだ。真昼は、今、戦場にいるのであって。戦場で出来ることは二つしかない。生きること乃至は死ぬことだけだ。

 だから。

 真昼は。

 取り敢えず、今のところは。

 生きることに必死になることにして。

 葛藤だのなんだのするのは。

 また後で、時間があったら。

 ということに、したのだ。

 ちなみに、対魔地雷はきちんと砂の中に埋められているので、普通であれば沙漠のどこにそれがあるのかということは分からないのであるが。強くて賢いデニーちゃん! は! 地雷探知の! 魔法くらい! 知っていて! とーぜんっ! なので! あります! という理由から、その探知の魔法を使って、砂の中の地雷がある地点が、ぼやーっと光って分かるようにしてあるのだ。デニーちゃんは本当になんでもできるね。

「あっ! あれ!」

「わーってるよ!」

 真昼は、ほとんど流れ作業みたいにして(アーガミパータに来てからもう何万発も矢を放っているため矢を番えて放つというその動作もかなりこなれてきている)地雷を爆破させ続けているが。その作業も、あと少し、あと少しで終わらせることが出来るはずだ。なぜなら既にタンディー・チャッタンは、その入り口、検問所が見えるほどの距離にあるからである。その町は……だが、それを町と呼ぶことは、真昼には少しばかり憚られた。それは、どちらかといえば、廃墟とか、瓦礫の山とか、そういう風に呼ぶべきもののように思われたのだ。

 少なくとも見えている範囲にまともな建物はなかった。一応はコンクリートらしきもので建てられていたであろう五階建てのビルディングが、ひどく整然と並んでいたり。あるいは、倉庫らしき直方体、街灯らしき金属の柱、壁らしき壁、そういったものが、それぞれの建てられているべきところに建てられていたりもしているのだが。その全てが完膚なきまでに破壊されていた。

 ちょっと、なんというか……ひどかった。ひどいとしかいいようのないひどさなのだ。例えばあのビルディングであるが、コンクリートの壁が全て剥がれ落ちて、ビルディングに麓という表現を使っていいのか分からないが、麓のところに瓦礫の山を作り上げている。それにあのビルディングであるが、元からあのように建てられていたのではないだろう。あんな風に斜めに傾いて、天井が滑り落ちているようでは、まともに住むことは出来ないからだ。それにあのビルディング。あのビルディングはもっとひどい、真ん中から二つに砕けてしまっているからだ。もちろんコンクリートは剥がれ落ちてしまって、中の鉄筋さえも捻じ曲がっている。

 はっきりいっておくが、タンディー・チャッタンの建物はほとんどが半壊している。まともに壁がある建物の方が少ないのだ。壁がある建物も、壁があるというよりも、壁しかなくなってしまっている。上空からタンディー・チャッタンを見た場合、全体的に灰色であるが、それはコンクリートの破片がそこら中に撒き散らされた結果、町中を覆ってしまっているからである。周囲に瓦礫が落ちていない建物はなく、道の大部分は瓦礫で埋まってしまっている。普通に通れる道は、軍が使用するために瓦礫搔き(雪搔きの瓦礫版)をした道だけであって。しかも、その道さえも、なんだか凸凹としていて決して平らではない。

 これはカリ・ユガ軍に基地として使用されているからというよりも……どちらかといえば、それ以前の話。暫定政府軍がカリ・ユガ龍王領に攻め込み始めた時期に原因の大部分があった。まあ、よく考えてみればそれもそうであって。基地にしてからこれほどまでに悲惨なダメージをこうむったのだとすれば、そんな基地はとっくに陥落しているだろう。

 今もなお継続している紛争の最初期。まだ暫定政府軍が行け行けゴーゴー状態だった時に。カリ・ユガ龍王領を外界から完全に遮断しようとして、周囲にある隊商の街に対して片っ端から空襲を仕掛けたことがあった。「ヴェケボサンの大移動」によって、アーガミパータ(のこちら側)からもヴェケボサンはいなくなってはいたが……それでも、人間や他の種族やの隊商はいたのであって。そのルートを破壊しようとしたということだ。

 まあ、そのころには、カリ・ユガ龍王領にもとっくに貿易用テレポート・ラインが引かれていたのであったし。隊商ルートによる貿易なんて輸出入の総額から見れば微々たるものであったため、その作戦がカリ・ユガ龍王領に与えたダメージはほぼ皆無といってもいいほどだったのだが(中小零細のいわゆる「怪しげな個人商店」が少しばかり打撃を受けた程度)、タンディー・チャッタンは壊滅的な被害を被り、この通りの死の街と化したということだ。

 と。

 まあ。

 そんなわけで。

 あり、まして。

 自殺行為号(仮)は、とうとう……タンディー・チャッタンの検問所へと続いている道路まで辿り着いた。この道路というのは、沙漠の真っただ中、タンディー・チャッタンまで百ダブルキュビトくらいのところから唐突に始まっている、四車線くらいの広さのアスファルトの道路であって。もともとは、もう少し先のところまで続いていたのだし、それに周囲もコンクリートで補強されたりもしていたのだが。度重なる暫定政府軍の爆撃によって、こんな感じ、ほとんど意味のない中途半端な部分だけを残して、全て吹っ飛んでしまったというわけだった。

「ようやく……」

「真昼ちゃん、お疲れ様です!」

 とはいえ、道路としての役割は果たしていなくても、なんにせよ、アスファルトの下にまでは、さすがに地雷は埋めていないらしく。ようやく一息つくことが出来たところの真昼なのである。いや、まあ、一息つくといっても、検問所まではあと……五十ダブルキュビト、四十ダブルキュビト、三十ダブルキュビト、二十ダブルキュビト、十ダブルキュビト……しかないのだが。

 はい。

 今。

 到着しました。

 真昼ちゃんの。

 休憩は。

 お終いです!

 これがバイクか何かであれば、ききーっという音でも立てていそうな。けれどもこのビークルにはタイヤがないので、結局はすわおーっ!という感じ音になった、ほとんど真横になりそうなくらいに勢いのいい、横ざまの急ブレーキをかけて。デニーは検問所の直前に自殺行為号(仮)を止めた。

 タンディー・チャッタンは周囲を金属製の柵で囲まれている。高さは五ダブルキュビトくらいで、一番上のところには、外側に向かって少しだけ傾いて、ちょうど返しのような形になっている、有刺条網が取り付けられている。全体が赤イヴェール合金で作られているが、特に魔力などが流されている気配はない。ということで、アーガミパータにおいて、軍事基地や刑務所やなどで採用されている、ごくごく普通の赤柵なのであるが……ただ一点、ちょっと珍しいところがあった。

 それは、その柵のところどころ、例えば金属線で結び付けるように、例えば突き出した棒に括り付けるように、胴体から切り落とした人間の首が飾られているということだ。当然ながら死んだ人間の首であって、首からは滴った血液が濁ったような黒い色で凝固していたし。それにあるものなど、ほとんど乾き切ってムーミヤーみたいな感じになっていたのであるが。とにかく、まるで「はい、そうです、私達はこういう感じの飾りなんです」みたいな顔をして、かなり無秩序な感じでくっ付けられていたのだ。

 それは、いうまでもないことであるが、なんらかの事情で殺された暫定政府軍の人間の首である。首を引きちぎったウパチャカーナラが持って帰ってきたものであったり、あるいは捕虜となった後で処刑された死体から切り離したものであったり、その由来は色々とあるのだが、なんにせよ、そういった首を飾っているのだ。その行為は別に、暫定政府軍に見せびらかそうとしているとか、そういった理由から行われているわけではない。こんなところに飾っても見に来る暫定政府軍の人間はいないですしね。それは、本当に、マジで、ただなんとなく飾っているだけだった。

 せっかくこんなに完全な形の首があるのだから、何かに利用しないと、なんとなくもったいない気がするが。かといって魔学者でもなんでもない「ただの人間」の首にはそれほど活用する方法はない。町の中に飾っておくのもなんだか不気味だし……まあ、赤柵のところに、町の外側に向かって飾り付けるのならば、さほどの気持ちの悪さもないだろう、みたいな感じで飾り付けられ始めたものだった。いってしまうのならば、カトゥルンの日の飾り付けとか、そういったものと大して変わることがないノリで始められたのである。アーガミパータの人間は、連綿と続く、そのダンス・マカブルの歴史のせいで、死体に関するpurityとinpurityとの感覚が他の国よりもまあまあ薄い感じなのである。

 そして。

 最終的に。

 こんな感じの赤柵に。

 なったということだ。

 そういう赤柵から、例のアスファルトを通って、こちら側に十数ダブルキュビトほど離れたところに検問所が設けられているわけなのだが……これがまた、真昼が「軍事基地の検問所」と聞いて思い浮かべるものとは、かなり異なったものだった。

 というか、この場所にもともとあったものは、検問所などではなく。恐らくは、この街にやって来た旅人達を温かく迎えるための歓迎のゲートだったのだろうと思われた。十メートル近くある金属製の柱、それがアスファルトの道路の両側に一本ずつ立っていて、それらの柱を結び付けるみたいにして冠木(金属製なので木ではないが)が差し渡されている。そして、その冠木の左側のところ――たぶんこの道路が左側通行だったということに由来しているのだろうが――に、巨大な看板が据え付けられていた。

 その看板には、同じ内容の言葉が、様々な言語によって書かれていて。そのうちの一つが汎用トラヴィール語だったので真昼にも読めたのだが、「WELLCOME TO THANDEE CHATTAAN」、要するに「ようこそタンディー・チャッタンへ」と書かれていたらしかった。ただし……その看板は、掠れまくり、汚れまくり、ほとんど読めなくなっていた上に。スプレーガンか何かによって落書きがされていて、「WELLCOME」が「UNWELLCOME」に書き換えられてしまっていたのだが。

 更に、それだけではなく、その冠木の真ん真ん中には……一枚の旗が括り付けられていた。形や大きさからして国旗のような役割を果たしているのだということは理解出来たのだが、それでも、そんな意匠の国旗は、真昼は一度も見たことがなかった。

 全体的に真っ青なほどの青に塗り潰された旗で、その中心には十二の光芒が突き出した星形が描かれている。星形の色はサフラン色で、これはアーガミパータでは信仰と戦争とを表すとされる、非常に重要な色である。そして、その星の中には……かなりデフォルメされた、一匹の蛇が描かれていた。頭が四つある蛇だ。尾を上にして、頭を下にして。その蛇は、全体が黒い色で塗り潰されているため、目も鼻も耳も描かれてはいなかったが、それでも大きく開かれた口だけは見分けることが出来る。真昼がこれから嫌というほど目にすることになるこの旗は……いうまでもないことであろうが、カリ・ユガ龍王領の領旗であった。

 さて、そんな感じのゲートが検問所の基本的な枠組みとなっていたのだが。それは、明らかに、どう見ても、その場凌ぎの急拵えとしかいいようのない有様であった。何せ、国内避難民キャンプの入り口にさえ置いてあった、例のチェックポイント・キャビンのようなものすら置かれていないのだ。

 古くなったタイヤを三つほど積み重ねた、たぶん障害物なんだろうなと思われるものが、アスファルトの道路の上に五ケ所、横一列になるようにして置かれている。ここを通ろうとするものを阻むことを意図して置かれているのだろうが、ここは戦場なのであるし、例えば戦車であれば、こんなものは蹴散らそうと思えば幾らでも蹴散らせるだろう。しかも、そういったタイヤの周囲には、数人の兵士がたむろしていたのだが。タイヤの上に座っていたり、もしくはその横に立っていたりして……なんと、ぼんやりと煙草をくゆらせているのだ。確かに戦闘は行われていないが、仮にもここは戦闘の最前線なのであって……これは……なんというか……真昼には全く理解出来ない感覚だった。

 そういった呑気な光景の少し手前のところに、二台のビークルが置かれていた。看板を支えている二本の柱の根元の辺り、アスファルトの道路側に、エンジンを止めた状態で置かれているそれらのビークルは……カリ・ユガ軍が戦場で使用していた生物的なビークルではなかった。一般的な意味でのビークル、つまり車両であって、真昼は、カリ・ユガ軍にもこういう機械的なビークルがあったのかと少し驚きの気持ちを抱いてしまった。

 いわゆるATT(Armoured Tactical Truck)というやつだ。通常のタクティカル・トラックとは違い、架装車両と荷台とがほとんど一体化した構造になっていて、その全体が装甲によって包み込まれている。また、ミサイル等の直撃を受けても容易にひっくり返らないように、全体的な重心を下方に集中させているため、なんとなく、鈍重な亀のような姿をしている。また、フロントウィンドウにさえも金網が付いているなど、徹底して乗員を守る要塞のような作りになっていたり。あるいは、人員輸送にも使用されることを想定されているため、荷台に防弾仕様の小窓が付いていたり。そういった細かい特徴は幾らでもあるのだが……それは今は置いておこう。とにかく、その四輪駆動の小型トラックが、チェックポイント・キャビンの役割を果たしているらしかった。

 その小型トラックの屋根のところに、いかにも後から付け足したというような感じで、連射式シノンサ砲が取り付けられていて。そして、屋根の上に胡坐をかいて座っている兵士達(右のトラック一名と左のトラック一名で計二名)が、今、取り付けられている連射式シノンサ砲によって、自殺行為号(仮)に狙いを定めていた。それらの兵士達は、タイヤのところで寛いでいる他の兵士達とは対照的に、かなり警戒している様子であって。いや、というよりも……かなり困惑している様子だった。

 まあ、当然といえば当然のことだろう。もしもこれが味方だったら分かりやすい、適当な挨拶をして通せばいいだけなのだから。あるいは、もしもこれが敵だったら分かりやすい、適当に乱射をして殺せばいいだけなのだから。だが、今、目の前にいるこのなんだかよく分からないものは……一体なんなのだろうか? 普通の感性があれば、こんな派手派手で目立ちまくる、蛍光ピンクのきらきらを素敵に散りばめた、子供のおもちゃみたいな乗り物で、戦場の、しかも軍事的な重要拠点に乗り付けるだろうか? しかも、この乗り物の持ち主は……ただの馬鹿というわけでもない。ここに至るまでの対魔地雷地帯を、ある地雷は回避して、ある地雷は爆破して、いとも易々とくぐり抜けてきたのだから。これは……どう対処すればいいのだろうか? そういった困惑が、傍目から見ている真昼にも、手に取るように伝わってきたのであった。

 しかし。

 デニーは。

 いつものように。

 他人の困惑など。

 全く意に介することなく。

「じゃーあー、ちょっと行ってくるから。」

 ぴょこん!という感じ。

 自殺行為号(仮)から。

 飛び降りると。

「真昼ちゃんは、ここで待っててね。」

 真昼に、そう言い残して。

 検問所に向かっていった。

 真昼は……はっと気が付いて。自分の横のところ、ぐったりと疲れ切ったように横たわっているマラーの口から、丸めて突っ込んだハンカチを引き抜きながら(もう舌を噛む可能性はないわけだ)。デニーに言われた通り、大人しくそこで待っていることにしたわけだが。一方のデニーは、軽くスキップするような感じ、てってこてってこと、いかにも可愛らしい歩き方で、アスファルトの道路を真直ぐに進んでいく。

 こうやって、改めて、客観的に見てみると……やはりデニーは少しおかしいと、真昼はそう思った。こういった戦場の中で明らかにあの男は異物である。可愛らしい少年のような姿、華奢に仕立てられたスーツ、いかにも子供っぽい頭巾。うきうきと浮かぶようで、それでいてどこかしらぴんと張り詰めている、夢見心地の歩き方。その全てが、戦場などよりも、どこかの学校の校庭で遊んでいる方が似合うはずの姿形であるのに……それにも拘わらず、あの男は、完璧なまでに、この場所にいるのが相応しいように見えるのだ。腐りかけた死体を踏みつけながら、骨を砕いた灰で濁った血溜まりの中で、楽しげにダンスしている様が。あの男には、何よりも似合っているように見えるのだ。

 さて、そんなデニーが向かっていったのは……右のATTの方でも左のATTの方でもなかった。実は、先ほどまでの状況説明では一切触れていなかったのだが、この場所には、ATTに乗っている兵士ではなく、タイヤのところにたむろしている兵士でもなく、もちろん真昼でもマラーでもない、もう一人の人間がいた。それは、左右のATTの大体真ん中辺り、アスファルトの道路の真ん真ん中に、あたかも星壁のごとく立ち塞がっている……一人の還俗学生だ。恐らく、この還俗学生が、この検問所の防御を任されている責任者なのだろう。そして、デニーは、その還俗学生の方へと歩いて行ったのだった。

 ポータル・ベースで見た還俗学生と全く同じ姿、つまり、腐血の衣(この腐血の衣というのは別に正式名称ではないです)を身に纏い、顔中の毛を全て剃り上げた姿で。ATTの上にいる兵士達とは違い、デニーのビークルにも、デニー自身にも、全く動じることなく。ただただ前方を睨み付けて、何者が来ようともここを一歩でも通すことは有り得ないという感じ、些かの情けも毛ほどの容赦も感じない、いかにも厳酷な表情をしたその還俗学生に、雀躍するような足取りで近づいて行ったデニーは……とんっと、その前に、飛び跳ねるようにして立ち止まると。

 衣の端のところを。

 きゅんっという感じで摘まんで。

 それから。

 くいくいっと。

 スイートな手付きで引っ張った。

 うーん、とっても可愛い! そんな可愛いデニーちゃんの仕草に、今まで前だけを向いていて、デニーのことなど見向きもしていなかった還俗学生は、初めてその顔をデニーの方に向けた。還俗学生の方が大分と背が高かったので、自然と見下ろす感じになったのだが。そんな還俗学生のこと、キュートな上目遣いで見上げながら、デニーは口を開いた。

 当然ながら、その言葉は、真昼に分かる共通語ではなく……かといって、カタヴリル語でもダクシナ語でもない言葉だった。その二つのどちらとも、似ているとも似ていないともいい切れない感じの言葉。なんとなく、全体的に、巻き舌が多く、まくしたてるような感じで。それから、ところどころに特徴的に歯擦音が混ざっている。それは実のところイパータ語であって、アーガミパータでは最も標準的に使われている言葉だった。

 デニーが、「デナム・フーツ」「デニー」という自分の名前を混ぜながら、そのイパータ語で四言か五言かくらい話すと。それに対して、還俗学生が一言、何かを確認するような感じで返答した。それに対してデニーは、繰り返し首を左右に倒すような、あのアーガミパータ独特のポジティブ・ジェスチュアをしながら、恐らく「YES」を意味する言葉を返すと……還俗学生も、今までの厳酷具合はなんだったのかと思ってしまうくらいの、なんだか拍子抜けするほど軽い感じで、そのポジティブ・ジェスチュアをして返した。そして、腐血の衣の胸元に手を突っ込んで。その中から、なんと、ASKホンを取り出した。

 なんだか、こう……真昼は、還俗学生について、ほとんど何も知らないのではあるが。なんとなく、こういう格好をした人達はスマートデヴァイスを持っていないんじゃないかという、偏見とはいわないまでも、思い込みがあったために。その還俗学生が手慣れた感じでASKホンをタップして、どこかに電話をかけているのを見るのは、なんだかとても新鮮な感じがした。

 二コールか三コールかもしないうちに相手方は出たらしい。還俗学生は、至極真面目そうではあるが、特に重々しくはない感じの、普通の人みたいな話し方で話し始める。やはりイパータ語で話していたので真昼にはなんと言っているのか分からなかったが、途中で「デナム・フーツ」「デナム・フーツ」と何度も繰り返し言っていたことから考えるに(おそらく電波が悪かったか何かして一回では伝わらなかったのだろう)、デナム・フーツと名乗る何者かがやってきたがどう対処すればいいのかということを質問していたのだろう。その後も、暫くの間言葉のやり取りをしていたのだけれど……やがて、首を左右に傾けるポジティブ・ジェスチュアをしながら何か一言言って、通話を切った。

 デニーに対して、何かを告げる。

 すると、デニーは。

 にぱーっという笑顔を見せながら。

 真昼のいる方。

 自殺行為号(仮)の方を振り返って。

 両腕で、大きく、丸を作って見せた。

 一体どんな交渉が行われたのかは分からないが、なんにせよ結果は悪くなかったらしい。還俗学生は、まず左右両側、ATTの屋根に座っている兵士達に向かって何事かを怒鳴った。すると、それらの兵士達は、目に見えて安堵した様子で連射式シノンサ砲から手を放して。そして、デニーの方に向かって軽く手を合わせて挨拶さえして見せたのだった。その挨拶に対してデニーは、右手をぶんぶんと振りしきって、元気よく挨拶を返す。

 それから、還俗学生は後ろを振り返って、タイヤのところにたむろしていた兵士達にも何事かを怒鳴った。これは先ほど怒鳴ったのとは全く違う内容の何事かで、その何事かを聞いた兵士達は、何やらひどく面倒そうな顔をしながら、吸っていた煙草を次々に地面の上に落として、ブーツで踏み躙って火を消すと。いかにもおっくうそうな挙措でありながらも、道路を塞いでいたタイヤタワーを、一つづつ転がして、道路の脇へと運び始めた。なるほど、あそこにいる兵士達は一体なんのためにあそこにいるのだろうかと真昼は思っていたのだが、このようにタイヤをどかす時のために待機していたようだ。

 何はともあれ、タイヤはどかされた、自殺行為号(仮)の通行のためにどかされたのだ。もちろん、タイヤなんてどかして貰わなくても、自殺行為号(仮)は易々とそれらを飛び越えることが出来ただろう。とはいえタイヤがどかされたというのは物理的障害が排除されたということよりも遥かに大きな意味を持つ。それは、デニー達が、タンディー・チャッタンに入ることを許されたということだ。デニー達が、カリ・ユガ軍にとって、少なくとも敵ではないと認められたということ。

 交渉を終えたデニーが。

 自殺行為号(仮)へと。

 帰ってくる。

「お待たせ、だよっ!」

「それで。」

「それで?」

「どうなったんだよ。」

「えーとねーえ、とにかく基地の中には入れて貰えることになりました! それから、ここで司令官してる子にも会えることになったから、その蛇に頼んで、カリ・ユガに「今から行くよー」っていう連絡をして貰う感じかなあ。」

「……蛇?」

「ほえ?」

「あんた、今、蛇って言った?」

「うん、言ったよ。」

「ここの司令官って……蛇なの?」

「そーだよ。カリ・ユガの軍隊では、司令官クラスはみーんなナーガだからね。えーと、舞龍って言った方が真昼ちゃんには分かりやすいかな?」

 デニーは、こともなげにそう言うと。

 再び、自殺行為号(仮)のハンドルを握って。

 そして、タンディー・チャッタンに向かって。

 ビークルを、進め始めたのだった。


 さて、タイヤが置かれていた場所を超えて。更に、その先にあった、いかにも厳重そうに閉ざされていた赤柵のゲートも、そこにいた兵士達に開けて貰うことによって無事に抜けることが出来て。デニーと真昼とマラーとは、ようやくタンディー・チャッタンの内側へと入ることが出来たわけなのですが……これがまた、外から見た時とさして変わらない有様だった。いや、外から見た時よりもひどいかもしれない。

 タンディー・チャッタンといってもそこそこ広い町であるので、当然ながらその全体が基地になっているというわけではない。そして、基地になっていないところまで整備する必要など、全くないわけなのだ。まあもちろん、自殺行為号(仮)が走っている道路は、外部と結び付けられている数少ない道路の一つなのであって。たぶんウパチャカーナラとかマンティコアとかも通っていくルートなのだろう、道路自体はかなり良く整備されていて、すいすい通っていけるのだが。その左右の状況は、悲惨以外の言葉では表しようがないほどだった。

 なぜなら、外から見た時には瓦礫しか見えなかったのだが……この距離から見ると、瓦礫に押し潰された生活が見えるようになってくるからだ。そこら中に、ごくありふれた日常だったものが、虐殺され蹂躙された状態で転がっている。例えば、凹んだ鍋。例えば、車輪が一つ外れた自転車。例えば、散乱して泥だらけになった服。それに、例えば……腕がちぎれて、そこから綿がはみ出したぬいぐるみ。そういったものが、打ち捨てられたみたいにして、そこら中の瓦礫の隙間から見え隠れしているのだ。

 そして、更に。

 そういった光景よりも。

 ずっとずっと悲惨なのは。

 そういった、瓦礫の山が。

 現在進行形で。

 作られ続けているということだ。

 もちろん、ちょっと前にも書いたことだが、瓦礫の大半は、内戦の最初期に暫定政府軍が行った空襲によって出来たものであるが。タンディー・チャッタンが前線基地として使われている以上は、暫定政府軍がその基地を陥落させようと攻撃を仕掛けないわけがないのであって。今行われている、まさにこの戦闘においても、そういった攻撃がなされているのである。

 具体的には……デニー達が到着する少し前に、暫定政府軍が放った無人爆撃機によって、ちょっとした空爆が行われていた。その無人爆撃機は、軍事的に重要な施設に到達する前に撃墜されはしたのだが。それまでに、いわゆる市街地とでも呼ぶべき場所に対して、それなりにダメージを与えていた。

 そして。

 今。

 真昼の目の前に。

 そのダメージが。

 広がっている。

 それでも……もしも、この市街地が無人であったなら。さほど悲惨とはいえないだろう。なんにせよ、ただの廃墟がただの瓦礫になるだけなのだから。だが、この市街地は、無人ではなかった。タンディー・チャッタンには、カリ・ユガ軍の兵士ではない、ごくごく普通の民間人が居住しているのである。

 これは真昼には全く信じられないことであったが、世の中というものは真昼が信じるか信じないかで回っているわけではない。ずっとずっと昔、それこそ第二次神人間大戦よりも前からこのタンディー・チャッタンに住んでいた人々にとって、ここは故郷なのである。確かに、完全に荒廃しているし、それに時々、空から爆弾が降ってきたりもするが。それでも、ここでの生活しか知らない人にとっては、それが生活なのだ。

 ということで。

 真昼が目にしているのは。

 その「生活」が。

 無残にも。

 悲愴にも。

 打ち砕かれた、光景だ。

 まず一番目に付くのは、北部アーガミパータ迷彩のヘルメットを被っていながらも、戦闘服は身に着けておらず、その代わりに、よく目立つ蛍光オレンジのベストを着ている人々だ。この人々が中心となって、ついさっき爆撃を受けたばかりらしい、新しく出来た瓦礫の周りで、何かが行われている。

 蛍光オレンジのベストには、イパータ語で「民間救助隊」と書いてあるのだが。その言葉の通り、「平和的回廊地帯」各地にある、基地を受け入れた町の人間達が、カリ・ユガ軍の支援によって結成したところのボランティア組織に所属する人々である。ヘルメットだのベストだのはもちろん、ほとんどの装備はカリ・ユガ軍から支給されており、その主な任務は、基地への攻撃の巻き添えとなって攻撃された市街地における、諸々の救助活動だ。

 まあ、見ての通りヘルメットは兵士達が使ってるやつのうちの余ったやつなのだが。それはともかくとして、そういった「民間救助隊」の人々と、それにもちろんそうではない人々、この近くに住んでいる一般人と思われる人々が集まって、必死に瓦礫をどかしたり、あるいはその周りで何か泣き叫んだりしている。瓦礫をどかす人々は手慣れたもので、抱え上げないといけないくらいの大きさのコンクリート片も易々と持ち上げて、リレー方式で邪魔にならない場所へと運んでいくのだが。やがて、その下から……随分と幼い子供が掘り出された。

 女の子で、月光国でいえば小学校低学年くらいの年齢。つまりマラーくらいの年齢だ。真昼がマラーを見つけた時と、まるで同じような、明らかに栄養が足りていない手足をしていて……そして、左足が潰れていた。どのように潰れていたかといえば、膝から下がぐちゃぐちゃになって、肉なのか皮膚なのかよく分からない物体の中から、ところどころ白いもの、折れた骨らしきものがのぞいている感じだ。全体的に赤い色をしているのだが、コンクリートの欠片がこびりついていて、その部分だけ薄汚れた灰色になっている。どう見ても、その足は、もう使えないだろう。

 そんな足をしていれば、普通ならば泣き叫んでいてもおかしくないはずなのに。その少女は、泣き叫ぶどころか、ゴムで出来た人形みたいにぐったりとしていた。白目をむいた眼を薄く開いて、ポカンと開いた口からは、ほんの少しだけ舌先がのぞいている。これは、そもそも、足が使えないとか以前の問題として……生きているのかどうかも怪しいくらいだった。

 「民間救助隊」のベストを着けた一人が、その少女を抱え上げて立ち上がると、市街地の奥の方、道路とは反対の方向に向かって駆け出した。恐らくは、もう駄目っぽい少女のことを病院まで運びに行ったのだろう。すぐそばに救急車らしき車が止まっていたので、それで運べばいいのではと思わないこともないのだが……きっと、人間の足でしか通れないような、ほとんど瓦礫で埋まったようなルートの、病院までの近道があるのだろう。

 そうやって、とりあえず瓦礫の中から助け出された(?)少女の姿を見て。瓦礫の周りで泣き叫んでいた人々の一人、六十歳くらいの初老の男性が、ふっと気を失って倒れてしまった。少女の祖父だったに違いない。見たところ、少女の姿を見て、これほどの衝撃を受けた人は他にいないようなので……この老人と、あの少女、二人だけの家族だったのだろう。まあ、悲劇といえば悲劇ではあるが、内戦の真ん真ん中ではよくある話だ。

 それよりも問題なのは、泣き叫んでいる人々が、まだまだいるということである。大体が老人か、あるいは子供であり、救出作業に加わることができないような力弱い人々であったが……つまるところ、この人々の一人一人が、瓦礫の下に埋まっている誰かのために泣いているということであって。よほど大々的な空爆のせいで、よほどの人数が瓦礫の下に埋まってしまったのだということが理解出来る光景だった。

 そういえば、捜索されている範囲もそこそこ広い。団地一棟が丸ごと瓦礫の山と化したみたいな場所に、点々と人の群がりがあり、その群がりごとに泣いている人が何人かいる、といった感じなのだ。瓦礫がどかされ、下から出てくる人のほとんどは死んでしまっていて、けれども、それでも、「民間救助隊」の人々は、あるいはごく普通の人々であっても、諦めることなく、ひたすら、必死に、瓦礫の山を掘り起こしているのであって……あー、駄目だ。全く面白くない。全然面白くない。

 「内戦に巻き込まれた無力な人々・善良な人々が、それでもそんな風にして押し付けられた暴力に対して、必死に抗っている姿」って見てて面白いですか? 面白くないでしょう。ここまで延々と読まされてきてうんざりだって思ったんじゃないですか? こんな話に興味はない、さっさと本題に戻れって思いましたよね? ちなみに書いている私の方もうんざりしてます。世界中のほとんどの人って、そういう「市井の人々」になんの興味もないんですよね。まあ、よく考えたらそれもそうで、そういう「市井の人々」に対して、少しでも、本気で、興味を持っている人がいるのならば。もう少し、アーガミパータだってまともな状況になってるはずですから。人は誰だって、派手な戦いや、強い英雄の話を求めてるんです。ということで、死のうが生きようがどうでもいい連中のことは置いておいて、話を本題に戻していきたいと思います。

 あ、ちなみに気になっている人もいるかもしれないので一応書いておきますが、先ほどの少女と老人、少女の方は、当たり前ですがとっくに死んでいます。具体的には、空爆で屋根が落ちてきて、それで頭部を強打したタイミングで死にました。一方で老人の方ですが、少女の悲惨な姿を見て昏倒した時に、頭の打ちどころが悪くて死にました。これで、少なくとも……タンディー・チャッタンという場所で、孫娘を失ってしまったという孤独と絶望とだけを同居人として生きていくという、この世の地獄を味わわなくても済んだというわけです。良かったね! はい、では本題に戻ります。

 本題とは。

 要するに。

 デニーと。

 それに。

 真昼の。

 話で。

 真昼は……真昼は、そんな光景を見ていた。きらきらと、派手なピンク色で輝く、自殺行為号(仮)の中から。血に濡れた世界を、朽ち果てた世界を、灰色と赤色の世界を、見ていた。あたかも……そこに生きている、一人一人の人間の姿を、眼球に、脳髄に、心臓に、刻み付けようとしているかのように、しっかりと見つめていた。そう、真昼は……世界中の、ほとんどの人とは、違う存在なのだ。アーガミパータと、それにデナム・フーツとによって、変容させられてしまっていたのだ。

 無論、この地獄に来る前も、あの悪魔に会う前も、こういった光景に、それなりの関心は抱いていた。何度も何度も書いてきたように、自分が静一郎の子供であるという罪悪感から。自分の血肉は、こういった人々の血液で濡れたパンによって育まれたものであるという罪悪感から。真昼は、常に、搾取される者について理解しようと努めてきた。

 しかし、だからどうしたというのだろうか? 真昼が、こういう人々のために何かをしたことがあったか? それは、募金とか署名とか、そういったことはしてきたかもしれない。だが、それに一体なんの意味があるというのだろうか。募金したからとて真昼の見識の何が変わる? 署名したからとて真昼の経験の何が変わる? 結局のところ、真昼は、今まで、一度も、本当に、実際に、搾取される者の立場に立ったことはなかった。

 しかし……今の真昼は違う。真昼は、たった一日であったとはいえ、搾取される者の立場に立って戦ったのだ。実際はデニーに守られていたにしろ、それでも真昼の主観では、命を懸けて。ダコイティのために戦ったのだ。そうして、更に――これが真昼の変容にとって最も重要なことだったが――そのダコイティ達のことを、裏切った。

 興味。興味という言葉では表現し切れない。罪悪感。罪悪感という言葉では表現し切れない。理解。理解という言葉では表現し切れない。目の前の光景、善良な人々、無力な人々、戦争に巻き込まれ、理不尽な暴力に晒され、それでも立ち上がろうとしている人々。そういった人々を見た真昼の感情は……感情は……感情は、真昼の手のひらからさらさらと零れていった。要するに、真昼の内側で、全ての感情が、完全に抑圧されてしまっていたのだ。真昼は、あの人々の側に立った。そして、それから、あの人々を裏切った。

 パンダーラ。

 パンダーラ。

 パンダーラ。

 ただ、その名前だけが。

 偽りの葬儀を告げる鐘のように。

 頭蓋骨の中で、鳴り響いていて。

 ふと……自分の横に座っているマラーの方に目を落とした。マラーは、まるで、自殺行為号(仮)から身を乗り出すかのようにして。食い入るみたいな目で市街地を見つめていた。その顔に浮かんでいる表情は……純粋な、悲しみだ。あたかもマラーは、あの人々と同じように、自分も瓦礫の山で蠢いているとでもいわんばかりに。あの人々と同じ権利で、あの子供を失った母親と、あの左足を失った少年と、同じように悲しむことに、なんの躊躇いも抱いていなかった。

 なぜなら、マラーは、真昼と異なり……本質的には、あの人々と同じ場所にいる生き物だからだ。マラーは、家族を失った。それどころか、自分が住む場所さえ失った。そして、今は、デニーと真昼とに守られることによって、辛うじて生きているに過ぎない。マラーには悲しむ権利があるのだ。なぜなら、マラーは、搾取される側の人間だから。真昼は……そんなマラーに対して、燃え上がるような感情を覚えた。

 これは。

 嫉妬だ。

 マラーが。

 穢れ無い。

 被害者で。

 あることへの。

 真昼は、暫くの間、そんな風にしてマラーのことを凝視していたのだが。やがて、はっと気が付いた。自分の中でふつふつと音を立てて腐っていく、そのような感情に。それからぶんぶんと頭を振って、慌ててそんな感情を自分の中から追い出そうとする。駄目だ、駄目だ、どうしてしまったのだろう。あのことが……思い出してはいけないあのことがあってから。真昼は、自分が、少しずつ、少しずつ、おかしくなっていくのを感じていた。

 怖い、とても怖い。何がどうなっているのかが分からない。自分が考えようとしていることがコントロール出来ず、それどころか自分が考えていることさえも、何を考えているのかということが、時折分からなくなってしまう。例えば……自分の中に、もう一人、全く違う自分がいるみたいだ。真昼の中の全ての悲しみを、真昼の中の全ての怒りを、真昼の中の全ての憎しみを、一心に受け止めているところの自分が。その自分が、刻一刻と大きくなっていく。なぜなら……真昼の中の悲しみが、怒りが、憎しみが、刻一刻と大きくなっているからだ。

 そのことが。

 真昼には。

 たまらなく。

 怖かった。

「あっ! ほらほら、見えてきたよ!」

 と、そんな風に、毎度毎度のことながら、うじうじうじうじとどうでもいいことを考えていた真昼の耳に、デニーの声が入ってきた。顔を上げて、声がした方、つまり運転席の方を見ると、デニーが何かを指差している。ということで、更に顔を上げて、デニーの指差している方、つまり道路の向こう側を見ると……そこには、砂嵐が、吹いていた。

 ただの砂嵐ではない。猛烈な・激烈な・熾烈な砂嵐だ。大地を突き破って地獄の底から噴き出してきた、一本の巨大な炎の柱とさえ見紛うほどの。真昼の視線の先、街を丸々飲み込んでしまうような大きさをしていて、竜巻みたいにぐるぐると回転している、柱状の砂嵐。ただ、普通の砂嵐は、上空にいくにつれて、段々と外側に向かって広がっていくものだが。この砂嵐はそういうことはなく、ほとんど一直線に空へと伸びていっている。砂をそこら中に撒き散らすこともなく……ただその砂嵐だけで完成した暴虐を繰り返し続けているということのようだった。

 この砂嵐は……もちろん、タンディー・チャッタンに入る前から、真昼の目には映っていた。ただ、今の今までほとんど注目していなかったのだ。真昼の中では、砂嵐は、どんなに激しいものであっても、所詮は自然現象であって。人々がお互いに殺し合うという戦争(まあこの内戦では殺しあっているのは「人々」だけではなかったが)に比べれば、注目度は低下する。だから、目に映ってはいたものの、ほとんど意識の外に置かれていたのだ。砂嵐なんて、沙漠ならば、いつ起こっていてもどこで起こっていてもおかしくないもので……とはいえ、こんな市街地の真ん真ん中で起こっているとは思いもしていなかったのだが。

 それに、この砂嵐は。

 どうやら、自然現象ではないようだ。

 もしも自然現象であるならば、これほど凄まじい砂嵐が。

 完全な静寂として渦巻いていることの、説明がつかない。

「見えてきたって……どういうこと?」

「あの中に司令部があるってこと!」

 そういうことらしい。必要最低限の情報しか与えてくれなかったデニーの言葉を、真昼の推測によって補うとするならば。あの砂嵐は、カリ・ユガ軍の重要施設を守るための人工的(蛇工的?)な結界だということなのだろう。まあ、考えてみれば当たり前のことであって、今まで真昼が見てきた範囲内には、上空からの攻撃を防御出来るような設備は何一つなかった。いわば野ざらしに等しい状態ということであって、もしもそのまま、結界一つ作らないままでいたら、ちょっとした無人機による自爆攻撃一回で壊滅的なダメージを受けないとも限らないのだ。

 そんなわけで、あの砂嵐が結界だということも、その結界の中に司令部があるということも、真昼には大変納得の出来ることだったのだが。ただし……今から自分がその中に突入していかなければならないとなると、少しばかり話が変わってくる。念のためデニーに対して「このまま、あそこに突っ込むわけ?」と聞いてみたのだが、「うん、そーだよ」「その……どこかに砂嵐の切れ目みたいなのが出来て、そこから入るとか?」「あははっ、真昼ちゃん何言ってるのー? そんなの出来るわけないじゃーん」という答えだったので、まさに語の意味そのままに、嵐の中に飛び込んでいかなければいけないということは間違いないだろう。

 うーん。

 出来るなら。

 避けたい。

 ところだ。

 とはいえ……何がなんでも突入を阻止しようとか、あるいは突入への恐怖感でパニックになるとか、そういうことはなかった。真昼としては、こういったことに、すっかり慣れっこになってしまっていて。吹き荒れる砂嵐の中に、しかもコンバーティブルなビークルに乗って、突っ込まなければいけないとしても。「嫌といえば嫌だけど、仕方ないなら仕方ない」くらいのテンションで、その状況を受け入れることが出来るようになっていたのだ。

 ということで。

 真昼は。

 再びハンカチを取り出して。

 それを、マラーに持たせて。

 口元に強く押し当てさせる。

 そうして、ハンカチによって、マラーが。

 砂塵を、吸い込まないように、してから。

 デニーに向かって、こう言う。

「あのさ。」

「なーに?」

「砂嵐を通り過ぎるのに、どのくらいかかりそう?」

「そんなかかんないよ。十秒くらいかなー。」

「そう、分かった。」

 それから。

 息を止めて。

 目をつむり。

 耳を塞いで。

 目の前に迫った。

 ごうごうと鳴り響く。

 砂の結界に、備える。


 テン。

 セカンズ。

 レイター。

〈これはこれは。〉

 息を止めていても無理やり鼻の中に入ってくる砂。目をつむっていても吹き荒ぶ風が瞼を圧迫する感覚を常に感じるし、耳を塞いでいても、暴れ狂う嵐の絶叫が聞こえる。そんな十秒間を突き抜けて、ようやく砂嵐の向こう側に着いた真昼のことを、そんな言葉が歓迎したのだった。

 耳を塞いだままだったのでよく聞こえなかったが、それは……なんとなく、ぽふぽふとした声だった。いや、訳が分からない表現かもしれないが、本当に、ぽふっ、ぽふっ、という感じ。体の中に溜めておいた空気を、少しずつ吐き出しながら、それを声にしているような声。というか、声というのも憚られるような声だった。囁き声をそのまま大きくしたというだけのような、ひどく掠れた音。それからなんとなく粉っぽさも感じた。どこかしら、人間の声にしては、奇妙過ぎる音なのだ。

〈お会い出来て光栄です、ミスター・フーツ。〉

 そして、そんな声が、なんと共通語で喋っていたのだ。今まで出てきた主要人物は、ほとんど共通語を話すことが出来たため、読者の皆さんにとってはさほど驚くべきことではないのかもしれないが。真昼にとっては……割と、びっくりするようなことだった。真昼がアーガミパータで出会った人(まあ大半はダコイティだったが)の中では、共通語を喋る人は圧倒的に少数派であって。そして、大抵が、何か特別な背景を持っている人だったからだ。この声の主は、一体、何者なのだろうか。

 そんなことを考えながら。

 真昼が、両目を、開くと。

 目の前にいたのは……人間に似ているとも似ていないともいえない、なんともウィアードな姿をした生命体だった。その生命体について、今から説明していこうと思うのだが、一体どこから説明すればいいのか非常に判断に困るところだ。とにもかくにも、何もかもが、人間と比べて異質すぎて……まず最初に真昼が感じたのは、随分と大きな生き物だという印象だった。

 大きいというよりも長いというべきか。全体的な高さが二ダブルキュビトを軽く超えている。それでいて、胴回りの長さは一ダブルキュビトもないだろうという感じ。随分とスレンダーで、なんとなくゆらゆらとしていて、頼りないような感じだ。

 それから……これが一番大きな特徴だと思うが、その生命体には足がなかった。足がないという意味は、狭義の「足」、踝から先の部分がないというだけではなく、大腿も下腿も存在していないということだ。それどころか、人間でいえば鼠径部と呼べそうなところ、肉体が二本の下肢に分かれる部分さえなかった。ただずーっと、真っすぐに胴体が続いていて……その先に、移動用と思われる機械が続いている。

 その機械は、移動用といっても、例えば車椅子のようなものではない。大きさとしてはかなり小さく、高さにして四十ハーフディギト程度、設置面積としても六十平方ハーフディギト程度しかない。いわゆるパーソナル・トランスポーターといった感じの物だ。ただし、一般的なパーソナル・トランスポーターとは違い、その機械の移動方法は、車輪ではなく多脚によるものだったが。合計して六本ある多関節の脚が、三脚歩行を行うことによって、これほど小型の機械に、非常にバランスが悪い荷物が積載されても、安定したままで移動することが出来る仕組みになっていた。

 その生命体は、その機械に……根を張っていた。これは比喩などではなく、本当に根っこのようなものが伸びていて。そして、その機械には、壺みたいにして真ん中に何かを入れるための穴が開いていたのだが、その壺の中に入っている何かに、しっかりと根を張っていたのだ。

 ということは、その生命体は植物なのか? いや、どうだろう。よく分からない。植物っぽいところもあるのだが、人間っぽいところも目に付く。例えば、その生命体には腕があった。ただし二本ではなく四本だったけれど。胴体の一番上のところ、左右に一つずつ、二つの肩が付いていて。一つの肩につき二本の腕が生えているのだ。それらの腕のどれもがひどく長い腕で、それぞれの長さが一.五ダブルキュビトくらい、まるで地面に引きずらんばかりの有様だ。それから、その先端には、手のひらのような部分と、それに三本の細長い指が付いている。

 そして、肩と肩との間にはもちろん首らしき構造(これもまた随分と長い)があり、その上には頭らしき構造が乗っかっているのだが。その頭が、またひどく風変わりな頭なのだ。耳と鼻とがない、あるのは目と口とだけ、その目と口とも奇妙な形をしている。まず目であるが、結膜も角膜も瞳孔も虹彩もない、全体的に赤黒い色をした球体が、たった一個だけ顔の中心部分に埋まっている。これの大きさが、直径にして二十ハーフディギト程度。そうして、そんな目の下に、ぱっくりと開いた切れ目のようにして、唇のない口が開いているのだ。

 そんな頭には髪の毛が生えているのだが、ただそれを髪の毛と呼んでいいものだろうか。それは、生えているというよりも……頭が、上にいくにつれて、だんだんとほどけていって。そのまま髪の毛と化している感じなのだ。その髪の毛は、頭部から伸び始めた部分では、まだ少しばかり太さがあるのだが。ところどころで枝分かれして、先端にいくにつれて細くなっていくようだった。そのようにして、背中の随分下の方まで流れるようにして伸びている。

 その生命体は。

 衣服を着用していなかった。

 鮮血のような、赤色をした。

 全身を剥き出しにしていて。

 真昼は。

 そんな姿を見て。

 こう、呟く。

「レーグート?」

 そう、その生命体はレーグートだった。通常はナシマホウ界ではなくマホウ界に生息しており、メルフィスやダガッゼや、あるいは偽龍と同じくらいポピュラーな知的生命体だ。

 知的生命体? いや……レーグートを知的生命体と呼んでいいのかどうかは難しいところがあるかもしれない。レーグートには、一般的に知的生命体と呼ばれているような生き物にあるべきとされる中枢神経がないからだ。それどころか、そもそも神経細胞がない。なぜならレーグートは、動物界ではなく、菌界に属する生き物だからだ。

 正確には子嚢菌、そのなかでも地衣類が進化した生き物であるといわれている。だから、どことなく茸に似た姿をしているのだ。全身が、肉ではなく菌糸で出来ていて。そして、髪の毛のように見えているあれも、実際は菌糸である。

 ちなみに全身が真っ赤な色をしているのは、マホウ界に特有の魔力合成細菌という種類の細菌である、セミフォバクテリウムと共生関係にあるからである。セミフォバクテリウムは、なんらかの魔法を使用しなくても、周囲の魔力を吸収して自分のエネルギーにすることが出来る珍しい生き物であって。レーグートは、その魔力のエネルギーをセミフォバクテリウムから貰う代わりに、主に死体から吸収した生命力を提供しているのだ。

 まあ、そういった話は置いておくとして……レーグートは、あたかも思考能力があって、その思考能力によって、様々な返答を行っているように見えるのだが。実際のところはそうではなく、レーグートの全ての行動は、はっきりいってしまえばただの反射に過ぎない。レーグートが話すところの言葉に似た音の羅列は、相手から発される精神力を受け取って、それに対して最も適切な答え(ここでいう適切な答えというのは周囲に存在している全ての関係者が想定している回答の均衡値を指す)を、思考能力の介在なしに、あたかも谺か何かのように発音しているに過ぎないのだ。

 これは、ちょっと聞いただけだとなんとなく気味が悪いようにも思えるが。実際のところは恐ろしく役に立つ仕組みである。少し考えて貰えば分かると思うのだが……例えば、ナシマホウ界でさえも、ノスフェラトゥと人間との精神疎通にはかなりの困難が伴う。一口に知的生命体といっても、その精神構造は、それぞれにかなり異なっているのが普通であって。レーグートは、そういった精神構造が異なった知的生命体同士の通訳として使用可能なのだ。また、それだけではなく、レーグートのこの仕組みは、多数の関係者の意見をまとめ、その全員が許容可能な回答を発見するためにあるような仕組みであって。要するに、利害の調整を行うのが大変上手なのだ。

 そういった、諸々の事情から。

 レーグートは、マホウ界の様々な場所において。

 いわゆる官僚のような役割を果たすことが多い。

 恐らくは、このレーグートもそのような個体なのだろう。いや、前線基地に官僚がいるというのもおかしな話なので、純粋に通訳的な役割を果たしているのかもしれない。ここの司令官だという舞龍という生き物は、人間とはかなり異なった精神構造をしているから。なんにせよ、真昼はまたもや、図鑑でしか見たことがなかった生き物を実際に見ることになったというわけだ。

 さて。

 デニーと真昼とは。

 そんなレーグート。

 それに。

 その左側に二人。

 その右側に二人。

 合計四人の、人間の、兵士に。

 出迎えられて。

「はろはろー。」

 まずはデニーが、そんなことを言いながら自殺行為号(仮)から飛び降りた。それから、体中に付いた砂を払い落とし始める。デニーは……かなり悲惨な状態にあった。そりゃあ、砂嵐の中を通り抜ければ当然のことだが、全身が砂まみれになっていたのだ。フードをばさばさしても砂が出るし、髪の毛を叩いても砂が出て、スーツを叩いても砂が出て、靴を脱いでそれをひっくり返せば、やはり砂が出てくる。もう散々だった。まあ、当人は大して気にしていないようだったが。

「お出迎え、ありがとー!」

〈いえいえ、とんでもございません。〉

 それから今度は……真昼が、マラーのことを、抱きかかえるみたいにして自殺行為号(仮)から降ろした。真昼の肉体及び真昼のハンカチによって、マラーはしっかりと守られていたため、さほど砂嵐の影響は受けていないようだったけれど。それでも自分で押さえていたハンカチを外した瞬間に、けほっけほっという感じで小さな咳をしていたし。それに真昼の肉体が覆いかぶさっていなかった下半身辺りは、かなり砂がくっ付いていたりもした。

 そして、最後に。

 ひらっという感じ。

 かなり身軽なやり方で。

 真昼、が、飛び降りた。

 飛び降りてから、さして急ぐでもなく歩いていって。デニーの後ろ、斜め左側、つかず離れずといった距離感の位置に、静かに立った真昼であったが。そんな真昼に対して、レーグートの左右に侍っている兵士達が、好奇に満ち満ちた目(いや、どちらかといえば……畏怖?)を向けていた。

 そもそもデニー自体が兵士達にとってはあまりに異質な存在だった。寄宿学校の生徒みたいな、こんな子供みたいな姿をしているにも拘わらず、このような前線基地に客人として迎え入れられる男。かてて加えて、真昼は、そんな男が連れている、全く素性が分からない、海果系の少女なのだ。マラーの方はまだ分かる、どう見てもアーガミパータの生まれだし、何に使うのかは別として、どこかで「現地調達」してきたのだろうと推測がつくからだ。だが、真昼については……と、そんな兵士達の好奇心(畏怖心?)を、まるで代弁するかのように。

 レーグートが。

 また口を開く。

〈そちらにいらっしゃる方は……〉

 もちろん、真昼のことだ。

 一つしかない目を。

 ちらと向けてから。

 レーグートは、こう続ける。

〈新しい護衛の方ですか?〉

 真昼は。

 少しばかり。

 その言葉に。

 衝撃を受ける。

 護衛……護衛? あたしが、この男の? いや、まあ、デニーが真昼の護衛であるというもの、デニーのことを全く知らない人間からすると、大概おかしな事実であろうが。それにしても、真昼がデニーの護衛であるという誤解は、一体どこから湧いて出てきたものなのだろうか。

 未だ意味のある言葉を真昼は口にしていないので、十中八九、真昼の外見がその推測に多大なる影響を及ぼしているに違いない。ということで真昼は、自分の姿を、見下ろしたり手のひらで触れたりして、改めて確認してみる……すると、これがまた、驚くほどひどい有様だった。

 まず頭部であるが、ただでさえ乱雑に切られた髪が、兎のダンスかよと思ってしまいそうなぐらいめちゃくちゃに乱れている。髪の毛と髪の毛との間には砂が入り込んで、叩けば叩いただけ砂埃が舞い散るというレベルだ。もちろん砂嵐の影響でそうなったのであるが、問題なのは、真昼が特にそのことを気にしていなかったということだ。デニーでさえも……そう、デニーでさえも、一応は、自分の砂を払ったというのに。真昼は、今の今まで気が付いてさえいなかったのだ。

 そして更に、その服であるが、血まみれであった。アーガミパータに来て以来、結構な時間を血まみれの状態で過ごしていたため、もう気にならなくなってしまっていたのだが。そういえば、よく考えてみると、普通の人間は、何か特別な事情でもない限り、血まみれの服など着ないものなのだ。

 砂だらけでも気にせず、血だらけの服を纏った、何者とも知れぬ少女。重要人物と思われるデニーの左側に立ち、更にその左腕には……どうやら、魔学的な武器と思しき、刺青が彫ってある。これだけでも、確かに真昼がデニーの護衛かもしれないと思うには十分だったろう。だが、更に致命的な間違い(?)を、真昼は犯してしまっていた。それは真昼が持っている物だ。

 真昼は。

 その右手に。

 あの左足を。

 掴んでいたのだ。

 何かしらの理由で吹っ飛んだと思しき暫定政府軍兵士の左足。真昼としては、自分がそれを持っているということについての自覚は全く存在していなかった。本当に、マジで、無意識のうちに、自殺行為号(仮)の後部座席に転がっていたそれをひっ掴んできたのだろう。恐らく……また、燃え盛る肉塊みたいなものが飛んできた時に使える、手頃なバットとして使うために。

 なるほど、だから兵士達の視線が、ただ好奇の感情によってのみ構成されているのではなく、その中に畏怖の感覚が混じっていたのかと合点がいった。そりゃあ……普通の人間だけでなく、普通の兵士であったとしても、敵兵(カリ・ユガ軍から見れば暫定政府軍は敵である)の左足をひっ掴んで歩いたりはしないものだ。そんなことをするのは、戦い事に慣れ親しみ過ぎた結果、常軌を逸した者だけなのであって。

 そして。

 デニーの護衛には。

 そんな者こそが。

 相応しいだろう。

「あははっ! 真昼ちゃんがデニーちゃんの護衛さんだって!」

 デニーが、あからさまなまでに他人事の口調でそう言った。まあ、確かにデニーからしたらどうでもいいことだし、他人事みたいなもんだろうが。ただ、真昼からすればやめて欲しいことこの上ない勘違いである。まあ、かといって、デニーとの関係をどう定義して欲しいのかということは、真昼の中ではっきりと定まってはいないのだが……とにかく、この男の護衛だと思われることだけは勘弁願いたいというのははっきりしている。

「ふふっ、逆だよ、逆!」

〈逆とは?〉

「デニーちゃんが、真昼ちゃんの護衛さんなの。」

〈なるほど、なるほど。そういうことでしたか。〉

 と、このような会話で、なんとかこの場は収まったのだけれど。それでも、共通語を解することのない左右の兵士達は、真昼のことを畏怖&好奇の視線で眺めることをやめないし。それに、真昼がこのままの状態でいれば、きっとこれから会う兵士会う兵士、みんな同じような勘違いをするに違いない。

 ということで、真昼は。

 とりあえず、髪形を直して。

 体中の砂を、払い落として。

 それから、こっそりと。

 自殺行為号(仮)のところまで戻ると。

 その陰。

 兵士達には見えないようにして。

 その左足を。

 放り投げるみたいに。

 放り捨てたのだった。

 さて、真昼がそんなことをしているうちに、デニーとレーグートとはかなり話を進めていた。「それでーえ、ゲートキーパーをしてる子から、ここに来れば案内してくれるーって言われて、ここまで来たんだけど?」〈ええ、話は聞いております。なんでも、カリ・ユガ様のお友達だとか……〉「そーそー! 暫く会ってないけど、元気にしてるかな?」〈もちろん、もちろんでございますよ。皆様のおかげで、カリ・ユガ様も、なんのさわりもなく日々を過ごしておいでです〉「んー、だろうねっ!」〈それでは、とにもかくにも、この前線基地を指揮しておりますカドゥルー・シャーカラヴァッシャにお会い頂きまして、今後のことを話し合って戴きたいと思います〉「分かったよー。それで、その子はどこにいるの?」〈シャーカラヴァッシャのおりますところまでは、わたくし共でご案内させて頂きたいと思います〉と、まあこんな感じだ。

「あれ? 真昼ちゃん、あれはどうしたの?」

「あれってなんだよ。」

「ほら、持ってたやつ。暫定政府軍の子の……」

「あれは、もう、いい。」

「ほえー、そうですかー。」

「それで、これからどうするわけ。」

「あーとねーえ、この子達が、今から案内してくれるって。」

「そう、分かった。」

 そんな風にして、二人の間でこれからのことが了解されて。〈それでは……すぐにお会いになられますか? それともどこかで一度、お休みに……〉「どーする、真昼ちゃん?」「早く、全部、終わらせたいんだけど」「はーい、分かりましたー」〈それでは……〉「もう案内して貰う感じでお願いしまーすっ!」〈かしこまりました、かしこまりました〉みたいなやり取りがあって。それから、デニー達三人は、前方を二人の兵士達に、後方をもう二人の兵士達に取り巻かれながら。レーグートに先導されて、歩き出したのであった。

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