第二部プルガトリオ #1
あー!
砂!
砂!
砂!
どこまで行っても!
砂ばーっかり!
そりゃ沙漠なのだから当然じゃないかと思われる向きもあるかもしれないが、沙漠にも砂沙漠・土沙漠・岩沙漠などの色々な種類があるのであって、例えばサフェド湖の周囲を覆っていた白い部分は塩沙漠と呼ばれる種類の沙漠なのであるが、とにかくこれほど砂ばかりの大地が延々と続いていく中、ただただひたすらにビークルをぶっ飛ばしていくだけというのは、退屈・無聊この上ないし、特に物語として書くべきような出来事も何も起こらない。ほんとにごくまれーに、ごくたまーに、なんか塩砂漠から塩砂漠へと飛んでいくフラミンゴの群れみたいな一群が空を飛んでいくのを見掛けたりもするのだが、よくもまああんなに太陽に近いところを飛んでいて暑くないものだ。
暑いといえばマラーである。自殺行為号(仮)を包み込んでいた魔学的な泡は、着地(というか墜落)とともに消えてしまっていて。既に自殺行為号(仮)乗員を周囲の環境から守るものは何もなく、デニー・真昼・マラーの三人は直射日光天日干しとなってしまっている。従って、普通であれば、こんな灼熱の砂漠でじりじりと焼かれているような状況の中で、普通の人間であれば熱射病にかかってしまっているはずであるが。マラーは割合にぴんぴんしているのだ。これは一体どういうことだろうか? 真昼であれば、デニーに勝手に書かれた魔学式によってなんとか耐えられているといった具合であるのだが……と思って、真昼は、マラーの体を一度確認してみたのだが。案の定、真昼と同じように、腹のところに魔学式が書かれていた。恐らくは、真昼が意識を失っているうちに、これから向かう場所の環境に耐えられるようにとデニーが書いておいたものに違いない。
ただ、とはいえ……真昼も、確認したとはいっても、マラーの服装を引っぺがしてじろじろと眺めたわけではなく、薄地の布地の上から透かして見ただけの話であって。それゆえに、これほど重要なこと、真昼自身の生命の全体性を、後々に至って完全に破壊してしまうほど大事なことに気が付くことができなかったのだが。実は、その魔学式は、どこか異質な感覚、というか、どこか異様な感覚を覚えさせるものであった。
何かが、具体的にはいえない何かが、奇妙に禍々しいのだ。それは、明らかに真昼の腹に書かれたものとは性質が違っていて、それは、端的にいえば、魚に塩を振っておく下拵えに似ていた。要するに、それは……まあ、とはいえ、そのことについてはここでは説明しないでおこう。それはいずれ明らかになる破滅なのだから。取り返しがつかなくなったその時点で、墜落し始めたその時点で明かされる断崖絶壁なのだから。
とにもかくにも、そんなマラーであるが、どうしているのかというと、真昼の腕の中にすっぽりと納まっていた。マラーのことを膝に乗せる形で、後ろから抱きかかえているところの真昼であるのだ。これは、なんというか次善の策みたいなものであって。本当は、真昼は、マラーのことに触れたくもなかった。けれども、もしもシートの上、自分が座っている横に座らせた場合……マラーは何気なしに真昼の方に顔を向けてくるだろう。それは、ずっと真昼の顔を見ているというわけではないだろうが、頻繁に、何度も何度も、真昼に向かって、無邪気な笑顔を向けてくるはずだ。そんな顔を見せつけられるのは、真昼にとって、とてもではないが耐えられることではないのであって。そのため、それを見なくて済むように、この格好になったというわけだ。こうやって抱いていれば、マラーは常に安心していられるのだし、何よりその顔は自然に前方へと向けられるので。真昼の方に顔を向けるのも、例えばフラミンゴみたいな鳥が見えた時とか、そういった例外的な場合に限られてくるから。
さて。
ところで。
真昼は。
何故に。
そこまで。
マラーとの接触を。
忌避しているのか。
ああ、駄目だ。思考はまたここに回帰してきてしまった。このことだけは考えないようにと、何度も何度も何度も何度も、思考を逸らそうとして、別のことを考えようとして、そういう努力を続けてきたのだけれど。まるでどこに逃げても追いかけてくる、太陽の下での黒々とした影のように、この考えは真昼の頭蓋骨の内部で緩やかにダンスを踊っている。
ここが砂漠なのがいけないのだろう。さっきも触れたように、見るものが砂の色しかなく、聞くものは砂の音しかない。匂いといえば太陽に焼かれた砂の匂いだけだし、さっきからずっと口の中でしている味は、口の中に飛び込んできて、じゃりじゃりと音を立てる、苦い苦い砂の味だけだ。こんな状況の中で……どうしろというのだろうか? どうすれば、このことを、真昼にとって、今、一番、「大きな」ことを、考えないでいられるというのか?
そんなことは。
不可能なのだ。
人間は。
常に。
考えたくないことだけを。
考えて、生きている。
そもそも、自分は……なぜ、このことを「考えてはいけないこと」だとしているのだろうか。というか、この「考えてはいけないこと」とはなんなのだろうか。ずっと、ずっと、目を逸らし続けてきたせいで。輪郭さえ掴めていないこの思考は、どのような形をしているのだろうか。
ぱっとフラッシュバックする。
パンダーラが、死ぬ、直前に。
崩れ落ちながらも。
真昼に見せた。
あの表情。
優しく、優しく、真昼のことを見つめるパンダーラ。何も言わないままで、さらさらと灰になっていく、一つの相貌……真昼には、信じられなかった。あれほど冷酷で、あれほど苛烈で、あれほど峻厳であった顔が。こんなにも柔らかく、誰かを思いやる表情に変わることが出来るなんて。
いや、本当にあれは思いやりの表情だったのだろうか? 少し違う気がする。もう少し、もっと、なんというか……突き放した優しさ。そう、あれは許しと諦めとだった気がする。何もかもが無意味だったという事実を、静かに受け入れる者の表情。
そして。
パンダーラに。
そんな顔を。
させたのは。
少なくとも、そんな顔をさせる。
原因を作った、一人は。
他ならない。
自分なのだ。
ずきっと、左腕が痛んだ気がした。パンダーラに強化してもらった重藤の弓が、真昼のことを告発するかのように、強く強く痛んだのだ。それはもちろん、真昼の錯覚に過ぎなかったのだけれど。それでも、真昼にとっての世界というものは、真昼の主観によって構成されている。
痛みは叫び声になり、叫び声はエコーになり、そして、エコーは、次第に次第にはっきりとした声になりながら、真昼の頭蓋骨の中で、何度も何度も反響する。重藤の弓を強化してもらったあの夜に、パンダーラが教えてくれたこと。真昼の選択肢について、真昼の運命について。真昼のやるべきことについて、真昼のすべきことについて。真昼が、どうやって、生きていけばいいのかということについて。
追従者に……追従者になってはいけないと、パンダーラは言ってくれた。例え、それが、どんなに無意味なことであっても。自分が認めることの出来ない運命に従ってはいけない。結果として勝利することが出来なくても、運命に抗い続けて生きることが出来れば、それはそれで一つの勝利の形である。そうパンダーラは教えてくれた。そして、まさに、パンダーラはそうやって生きた。
そうやって生きて、そうやって死んだ。その最後を真昼は見届けた。そして、その生は完全に無意味であった。パンダーラが守ろうとしたもの、救おうとしたもの、つまりダコイティは、苦痛と絶望との中で死んでいった。カーマデーヌは未だに囚われ続けているだろう。それに、アヴィアダヴ・コンダは、ASKの手に落ちてしまった。パンダーラは運命に飲み込まれたということだ。
真昼の。
せいで。
これは罪悪感なのだろうか? もちろん罪悪感だ。とくんとくんと心臓が鼓動の物音を立てるごとに、真昼の全身に対して、ひどく冷たい水銀にも似た態度で吐き出されるところの、錆びた雷鳴のように赤い罪悪感。
一呼吸一呼吸の空気を汚している罪の苦さ。真昼は……そう、真昼はヒーローになりたかったのだ。ヒーローになりたかった。弱い者を救い、悪い者を倒す、ヒーローになりたかった。強いヒーローになりたかった。
どうすれば良かったのだろう。どうすればヒーローになれたのだろう。どんなに考えても正しい選択肢を思い付くことが出来なかった。どんなに、どんなに、考えても。真昼はこうなるしかなかったという結論に至ってしまう。最低の、最悪の、裏切り者に。破滅を運んできた災いの先触れ。そして、ただの……卑怯な、一人の、人間でしかない生き物に。
もしも、真昼が、選択肢を間違えただけだったならば。もう少し事は簡単だったのかもしれない。そうであったならば、もう少し建設的な後悔が出来ただろう。確かに、それは、死んでしまいそうなほどの激痛を伴う後悔だったしたかもしれないが……とはいえ、それは、解決しうるたぐいの絶望に過ぎない。間違った点を反省して、今後に活かすことができるのならば、やがてはPLAN・DO・CHECK・ACTのサイクルを動かすという前向きな行為を、立ち直るための原動力とすることも出来ただろう。
しかし、そうではなかった。真昼は、どの選択肢を選んだとしても、結局のところは弱く愚かな人間でしかなかったのだ。例えば、真昼が選ばなかった選択肢について考えてみよう。あの瞬間、あの決定的な瞬間を、パンダーラに任せていたら、という仮定の話だ。一人のマラーの本物と七体のマラーの偽物。その八つの体の中から本物のマラーを見分けることが出来ると言ったパンダーラに、全てを任せていたら、一体どうなっていたか?
もしかして……もしかして、全てが上手くいっていたかもしれない。パンダーラが、本物のマラーを見分ける。マラーのことを救うことが出来て。ダコイティはASKを打ち倒して。何もかもめでたしめでたしで終わったかもしれない。だが、一体、それがどうしたというのだ? 真昼は、その瞬間、全てをパンダーラに任せた瞬間において、間違いなく、紛うことなく、疑いようもなく、マラーを「見捨てた」ことになるのだから。
なぜなら、真昼は、どう足掻いても、パンダーラの主張を信じることは出来なかっただろうから。それは、二割か三割は信じることが出来たかもしれない。いや、あの状況なら九割程度を信じていたかもしれない。だが、これは断言できることなのだが、どんなに信じようとしても、あのパンダーラの主張を、百パーセントの割合で信じることは出来なかっただろう。
なぜなら、あのクイズは。ミセス・フィストが作った、デニーさえ答えを出せなかったほどの、クイズなのだ。それほどのクイズを……なぜ、パンダーラが正答できるなんて信じられる? 無理だ、不可能だ。そんなこと、ありえないことだ。
そして、例え一パーセントでも疑いを抱いたままで。一パーセントでも、マラーが……ヌミノーゼ・ディメンションによって焼き尽くされて、激痛とともに、悲鳴とともに、死んでいく可能性を留保したままで。もしも、真昼が、自分の「責任」を放棄して、パンダーラにそれを押し付けようというのならば。それがマラーを「見捨てた」ことになるというのは、当たり前の結論だろう。一パーセントの卑劣。一パーセントの裏切り。
それは、無論、完全に、絶対に、パンダーラのことを信じた上で任せるというのならば。それは「見捨てた」ことにはならない。むしろ、それは崇高な行為だろう。誰かが誰かを信じて、誰かを助けるという、尊い行為。けれども、真昼は、真昼は……ヒーローとして、救おうとした、少女に対して。一パーセントでも裏切るのならば。その卑劣な裏切り者を、どうして、どうして、ヒーローと呼べるだろうか?
そんなことは不可能だという者もいるかもしれない。八分の一の確率を、百パーセント信じるなんて、不可能だと。けれども真昼は知っていた。それを、完全に、絶対に、信じることが出来た何者かを。それはパンダーラだ。パンダーラは信じていた、自分が、そのクイズに、正解するということを。自分が、誰かを、救うことが出来るということを。百パーセントの精度で。なぜなら、なぜなら……パンダーラは、ヒーローだったからだ。ヒーローが、誰かを救うことが出来るなんていうことは、必然的なことで。
ということで。
真昼はヒーローではなかった。
そして。
デニー、は。
そのことを。
十分に。
知っていた。
だから、だから、デニーは、真昼から選択肢を奪ったのだ。嘲笑ではなく慈悲から。嘲りではなく優しさから。いや、デニーに「慈悲」や「優しさ」なんていう感情はないだろうから……恐らくは、真昼の保護という自分の仕事に対する「実行」の感覚から。デニーは、全て見抜いていた。真昼が選べないだろうということを。あるいは、真昼が選んでしまえば、真昼は、その選択を、永遠に後悔するだろうということを。
選択肢が奪われていれば、真昼は自分以外の誰かを憎むことができる。選択肢を奪った者のことを。つまり、デニーのことを。けれども、もしも、自ら選択していたら……それは、もう、自分のことを憎むしかなくなる。そうすれば、真昼のことだし、いつまでもいつまでもうじうじと悩んで。もしかして、デニーが月光国に連れ戻す前に自殺してしまうかもしれない。そのような心配……いや、デニーは心配などしないだろう……そのような、予測から。デニーは、真昼から、選択肢を奪ったのだ。
さて、これで安心。
悪いことをしたのは。
デニー、なのだから。
そして。
全てが。
Came downして。
結果として、虐殺があった。パンダーラは死に、ダコイティは滅びて、アヴィアダヴ・コンダは完全にASKの手の中に落ちた。強欲な者、邪悪な者、無慈悲な者が勝利したのだ。笑ってしまいそうなくらいのハッピーエンド。もちろんミセス・フィストにとってという話だが。
いや、真昼にとっても……これは、ハッピーエンドなのだ。そうでなければいけないはずだ。なぜなら、願いは叶えられたのだから。真昼は、何を犠牲にしてもマラーを助けたいと願った。そして、デニーは、それを叶えた。契約は果たされたのだ。それは悪魔との契約だったが。
笑え。
笑え。
幸せそうに笑え。
これは。
お前が。
望んだことだろう?
結局のところ、真昼はどうすれば良かったというのか? 簡単なことだ。賢くあれば良かった、強くあれば良かった、ヒーローであれば良かった。勇気をもって、信念をもって、信じれば良かったのだ。パンダーラが、マラーのことを、救うことが出来ると。そうすれば……デニーも、きっと、真昼に選択肢を与えていただろう。なぜなら、デニーが守るべきものは真昼であってマラーではないのだから。マラーなんて、死のうがどうしようが、デニーにはどうでもいいことなのだ。だから、真昼が、その選択を、強く、強く、信じていて。結果的にどうなろうとも、絶対に後悔しないというのならば。それならば、真昼には何も危害が及ばないのであって……その選択肢を、真昼から奪う必要など、どこにもない。真昼が愚かだったから。真昼が弱かったから。真昼がヒーローではなかったから。希望は消え失せて、絶望だけが残された。
いや。
正確にいえば。
絶望と。
マラー。
その二つ、だけが。
真昼は……全てを失う前には、全てを失ってもいいと思っていた。こう書くとなんかめちゃくちゃ馬鹿みたいですね、まあ、実際に馬鹿なんですが。とはいえ、人間という種は下等知的生命体なのであって、下等知的生命体とは、つまり馬鹿を学術的にいい換えた言葉である。とにかく、真昼は、マラーと引き換えならば、何を投げ出しても構わないと思っていた。
けれども、本当に全てを失った今……真昼は、こんなはずじゃなかったと思っている。自分勝手な話だ、とはいえ仕方がない、真昼は馬鹿なのだから。真昼は、まさか、正義を失うとは思っていなかった。夢を、希望を、美しかった世界を、自分に対する信頼を。それに、何より、自分がヒーローになれるという感覚……つまり、それは、自分と静一郎とを隔てていたはずの、唯一の仕切りを。失うとは思っていなかった。
静一郎。
そうだ。
真昼は。
静一郎に。
なってしまった。
ミセス・フィストは笑いながらこう言った。「それもこれも」「真昼ちゃんのおかげです」。要するに、真昼は手を貸したということだ。弱きもの・正しきものを搾取して、その肉と血と骨とを売り捌き、どこまでもどこまでも肥え太る、汚らわしく邪まな、大企業に。売り渡したのだ。真昼は、真昼の全てをASKに売り渡した。そして、その引き換えとして、マラーを手に入れた。
そういうわけで、マラーは、真昼にとって、一つの証明となってしまったのだ。真昼がASKと取引をしたという証明、真昼が人間の屑であることの証明。悪魔との契約の、領収書みたいなもの。いうまでもなく、マラーは何も悪くない。むしろ、マラーは、純粋で、無垢で、愛すべき存在だ。けれども、その愛すべきはずの存在が――愛すべき存在だからこそ――真昼にとって、耐えられないほどの嫌悪感を催させるのだ。
マラーの顔を見るのが嫌だ。マラーの声を聴くのが嫌だ。マラーの肌に触れるのが嫌だ。マラーが歩いているのが嫌だ、マラーが座っているのが嫌だ、マラーが眠っているのが嫌だ、マラーが振り返るのが嫌だ、マラーが遠くを見るのが嫌だ、マラーが欠伸をするのが嫌だ、マラーが笑っているのが嫌だ。マラーが、真昼のことを、その愛らしい目で、じっと見つめるのが嫌だ。
そして。
ふと。
思う。
マラーを殺して。
自分も死ねたら。
楽なのに。
絶対に、絶対に、絶対に、そんなことを思っては駄目なはずなのに。どうしても、そんな風な、ぼんやりとした印象が、まるで荒野を襲う一陣の風のように、真昼の頭蓋骨の中で掠れた音を立てるのだ。そして、その度ごとに、胃袋から食道を伝って、込み上げてきた胃液を嘔吐しそうになる。どれほどまでに……どれほどまでに、あたしは醜い生き物なのか? 全身の骨の髄が朽ちていく幻聴が聞こえる。血液の一滴一滴までもが腐っていく錯覚、死に絶えた肉が崩れて落ちていくような錯覚まで覚える。
だから……だからこそ、これは「考えてはいけないこと」なのだ。結局のところ、真昼の考えは、最後の最後には、ここに帰着してしまうから。憎むべきものが見当たらず、そのせいでなんの罪もないマラーに対して、絶望に濡れた白絹のローブを着せてしまう真昼。癩病を患った者の肌のように、白い、白い、色をしたローブ。そんなことは、絶対にしてはいけないからこそ、「考えてはいけないこと」を考えてはいけないのだ。
それに、このことを考えたところで、一体何になるというのだろうか? もう、全てが、終わってしまったことだというのに。「考えてはいけないこと」を考えたところで、パンダーラが生き返ることはない。無残に虐殺されたダコイティは死体のままで腐っていき、カーマデーヌは囚われた檻の中で永遠に悲鳴を上げ続ける。アヴィアダヴ・コンダは、絶望の王国であるままで。それなのに、何を目的にして、何を考えようというのか? いつまでもいつまでも、取り返しのつかないことについて考えること。自分の救済の方法について考え続けることは、無意味を通り越して醜悪だ。自分は悪くないと叫び続け、それによって死者を悼むかのような紛い物の身振りをし続けることは、端的にいって偽善でしかない。
考えても。
考えても。
自分が。
悪しき者に。
なっていく。
だけならば。
もう。
何も。
考えるな。
何も考えずに。
ただ。
ただ。
この腕の中にいる。
少女を、守れ。
真昼がヒーローではないということ、真昼は決してヒーローにはなれないということが、分かってしまった後だというのに。なぜ、それでも、誰かを守ろうとするのか? その理由は真昼には分からなかった。けれども、なんとなく、本当になんとなく、思うのだ。もしもマラーさえも失ってしまったら、その時に、真昼は、本当に、虚無になってしまうと。肉体の形をしている、何もない、空っぽな、nothingの入れ物になってしまうと。喉を掻き毟りたくなるような焦燥感、それだけは絶対にあってはいけないこと、恐怖、恐怖、恐怖の感覚そのもの。
だからこそ。
そうならないために。
真昼は。
マラーを。
守らなくては。
いけないのだ。
「ねーえ、真昼ちゃん。」
と、真昼が、他人の血液と腐った泥とで出来た。
底のない沼のような思考に、沈み込んでいると。
不意に、目の前の運転席から。
デニーが、声を、掛けてきた。
「まだ怒ってるのー?」
真昼の機嫌を伺うような。
甘ったるい、口調である。
口先を動かしていないと死んでしまう病気なのかと思うほどにぺらぺらぺらぺらと喋りまくり、いつまでもいつまでもうるさいデニーにしては珍しく。サフェド湖からここまで、ほとんど口を開こうとはしなかったのだが……もちろん真昼から声を掛ける気など毛頭なかったので、車内には実に気まずいsilenceが流れていたのだが……ここに来て、ようやく真昼に話し掛ける気になったようだった。
この第一声から考えてみるに、どうやらデニーは、真昼がデニーに対して怒りの感情を抱いていると考えていたようだ。それゆえに、真昼に対して、ちょーっと話しかけない方がいいかなー?なんて思っていたのだろう。
いうまでもなくデニーは絶対的強者であるからして、普通であれば他人の気持ちを慮ることなどせず、遠慮のえの字もない無慈悲さで話し掛けているところであるが。今回に関しては……少しばかり事情が違っている。
まず、真昼が奇瑞であるという点である。少し前、具体的には「第一部インフェルノ #36」で書いた通り、荒霊のトリガーであるはず歔欷流渧に関しては、真昼の腹に書いた魔学式によって封じておいた。とはいえ、とにもかくにも奇瑞というものは神々の領域に属する現象であって。しかも、神々の中でも、特に胡散臭い月光国の神々に関する現象である。常に万が一を想定しておかなければいけないのであって……そのため、真昼の感情を下手に刺激するのは避けておきたかったということなのだろう。
次に、真昼が自殺しかねないということも問題である。当然ながら、デニーの監視が行き届いているうちは、その腹に魔学式が書かれているうちは、そんなことが出来るはずもない。真昼の肉体は完全にデニーの制御下に置かれているからである。けれども、それでも……デニーの元を離れてから、例えば、真昼が家に帰ってから(真昼が本当に家に帰れるのかどうかというのはひとまず置いておくとして)、どうなるかということは、非常に難しい問題になってくる。もしも家に帰ってから自殺なんかされて、せっかく纏まった契約が瑕疵担保責任だのなんだのでじゃんじゃかじゃららんじゃらりんぽいっ!になってしまったら、デニーちゃんはまたまた怒られてしまうことになりかねない。
ということで。
以上、二つの理由から。
デニーは。
真昼の感情の問題に、ついて。
自然と慎重になっているのだ。
「怒ってるって、何に。」
「えーと……パンダーラちゃんを、殺しちゃったこと。」
ああ。
それか。
真昼は。
目をつむる。
自分でも、とてもびっくりしていることなのであるが。今の真昼には、デニーに対する怒り・憎しみ・嫌悪のような感情は、もうほとんどなくなってしまっていた。それはもちろん、あの製塩所で目覚めた時には、本当に、殺したいほどの憎悪を抱いていた。あの時に、真昼に、デニーを殺せる不思議な力でも宿っていたのならば。間違いなくその場で殺してしまっていただろう。だが、そんな憎悪は、次第に次第に薄れていってしまって。今では、それこそ、心臓の鼓動の音とか、瞬きをする時に上瞼と下瞼がこすれ合う音とか、それくらい微かなものになってしまっている。
結局のところ、今回の件でデニーが果たした役割は、拳銃のようなものに過ぎない。たった一挺の拳銃にしては、随分とたくさんの生き物を殺したものだが。それでも、拳銃が自らの意思で何かを殺すのではないように。今回の全て、卑劣で残酷な裏切りを……望んだのは。決してデニーではないのだ。それをしてくれと望んだのは……マラーを助けてくれと望んだのは……つまり、その拳銃の引き金を引いたのは。他ならぬ真昼だった。デニーは、ただ、その望みを、叶えただけであって。
良心のない。
鉄の塊に。
誰が、怒りを。
ぶつけるのか。
それにしても、デニーはなんで、今更になってこんな殊勝な態度をとり始めたのだろうか。サフェド湖にいた時には、真昼の気持ちなど、欠片も気にしている様子はなかったのに。
恐らくは……最初は、本当に、ぜーんぜん気が付いていなかったのだろう。真昼の様子がなんだかおかしいのではないかということに。けれども、あの場所からこの場所に至るまでに、なんとはなしにへんてこりんだぞ?ということに気が付き始めて。ふむむー、なんでだろうと可愛らしく考えた末に、真昼がおかしくなったのが、昨日、パンダーラのことを射殺してからのことだということに思い当たったに違いない。デニーちゃんは、さぴえんすの考えていることはよく分かんなーいって感じでも、とーっても賢いので、それくらいの推測は出来たということだ。
それで、デニーは。
自分がパンダーラを殺したことを。
真昼が怒っているのではないかと。
考えたということだ。
まあ。
実際は。
真昼は。
ただ。
ただ。
「考えてはいけないこと」を。
考えていた、だけなのだが。
デニーに対して別に怒っていないというのは、デニーのような生き物、この世界に存在しているべきではない悪魔に対して、気を使っているようで嫌だったので。真昼はその問い掛けに何も答えなかった。すると、やっぱり真昼ちゃんは怒ってるんだ!と勘違いしたデニーが、はわはわとした感じの懇願、真昼に対する機嫌取りを続ける。
「そんなに怒んないでよー! ほらー、えーと、なんていうか……確かにね、ミセス・フィストとのお話の仕方次第では、パンダーラちゃんのこと殺さなくてもいいよーってなってたかもしれないけど。でも、どっちにしたって、後で死んじゃってたよ? だってさ、よく考えてみて? ミセス・フィストは盤古級対神兵器なんだよ? よーっぽどのことがないと壊せないっていうか、パンダーラちゃんもダコイティの子達も、ぜったいぜったいぜーったい壊せないんだから。どーせ、後で……っていうのはデニーちゃん達があそこからばいばいってした後でってことだけど……後で、みんな殺されちゃってたって。おんなじだよ、おんなじ! デニーちゃんが殺さなくても、おーんなじ!
「それにさーあ、もしも、だよ。もしも、あそこでパンダーラちゃんのことを「信じ」て、スペルバレットでミセス・フィストのことを壊してても、やっぱり結果はおんなじだったよ。それはさーあ、ほんの一瞬だけ、ミセス・フィストを倒すことが出来て、カーマデーヌを取り返すことが出来て、アヴィアダヴ・コンダは平和になりました、めでたしめでたし! ってなってたかもしれないけどね。その後、やっぱり、みんなみんな、みーんな殺されちゃってたよ。だってだって、よく考えてみて? ミセス・フィストがどうして壊れちゃったのかっていう情報は、必ずフィードバックされるでしょ? ミセス・フィストがデニーちゃんのスペルバレットで壊された場合、そのことはASKも分かるわけだよね。と、ゆーことは、ダコイティの子達の誰かが、思いもよらぬ方法で、ミセス・フィストを壊したわけではないっていうことは、ASKはお見通しってわけ。ダコイティの子達は、相変わらず、ASKにとってはなーんの脅威でもないまんまっていうこと。
「となれば、だよ。ミセス・フィストのことを倒すことができたデニーちゃん達が、アヴィアダヴ・コンダを後にした時点で……ううん、それどころか、スペルバレットが、もうあの一発でおしまいで、後はデニーちゃんにもダコイティの子達にも盤古級対神兵器を破壊する方法がないってわかった時点で。間違いなく、ASKは、もう一人のミセス・フィストを送り込んできてたよ。だって、そうでしょ? もう、誰も、ミセス・フィストを壊すことが出来ない状態で。しかも、あそこにいるみんなが戦闘で疲れたーってなってたんだから。そこにミセス・フィストを送り込んで、後は一気に皆殺しにすれば、簡単にお片付けができるじゃないですかー! デニーちゃんなら、きっとそうするよー。それで、結局は、誰一人残らず殺されちゃいましたってなっちゃうわけ。そりゃー、一昨日のあの集会の時にはさーあ、ダコイティの子達が集まった集会の時には、色々と言ったよ。ミセス・フィストを壊すことが出来れば、暫くの間は、ASKはアヴィアダヴ・コンダに戻ってこないとか。そうすれば、ダコイティの子達の命は守られることになるとか。でもでも、そんなの、ぜーんぶ口から出まかせだって! ダコイティの子達をその気にするためにてきとーに言ったことなの! そんなわけで! デニーちゃんが、パンダーラちゃんのことを殺さなくてても、ミセス・フィストのことを壊してても、最後の最後にどうなるのかってことは、みんなみんな、みーんな一緒だったんだよ。少なくとも、パンダーラちゃんとダコイティの子達とにとってはね。だからさーあ、真昼ちゃーん、お機嫌を直してよー!」
大変。
興味深い。
話だった。
どうやら、デニーは……真昼が考えていたよりも、ずっとずっとたちが悪かったのかもしれない。ずっとずっと多くのことを理解した上で、ずっとずっと惨歌酷舞かつ邪智嘲弄な裏切りを働いたのかもしれない。あの、ダコイティの集会で、デニーが話していたこと。いかにも本当のことらしく虚飾された、甘い言葉、甘い言葉、甘い言葉。砂糖と蜂蜜とでコーティングされた、スポンジケーキみたいにふわふわとした話は。デニーの可愛らしい口から話されたその時点で、既に、全てが、嘘だったのだ。
真昼は、軽蔑を通り越して尊敬しさえした。よくもここまで邪悪であることが出来るものだ。一体、何を食べれば、こんなにも良心と誠実さとを喪失することが出来るのだろう。つまるところ……つまるところ、ミセス・フィストがあの「計画」を立てていなくても。どちらにせよ、デニーは、ダコイティを捨て石として使うつもりだったのだ。
さすがに。
虫唾が。
走る。
一瞬だけ、本当に本当に本気で……こちらに背中を向けて運転しているうちに、重藤の弓を引いて、その背中に矢を放って。この男のことを殺しておこうかとも思ったのだが。残念なことに、右の腕も左の腕もマラーのことを抱いているため、出来なかった。だから、真昼は、その代わりに、脊髄の反応みたいにして、ぎりっと奥歯を噛み締めて。それから、その後で口を開く。
「あんたって。」
「ほえ?」
「最低の、屑だよね。」
「あははっ、そんなことはないよっ!」
いや。
何が。
おかしいんだよ。
二度と、この男とは口をききたくなかったのだけれど。けれども、一点だけ気になることがあった。いや、大したことじゃない。なんというか……この男が、どれほど、「分かっていた」のかということ。さっきまでの話では、この男は、何一つ知らないことがないように思えるくらいだった。それは、真昼には、大変気に食わないことで。だってそうでしょう? こんなに悪いやつが、こんなに全部のことを知ってるなんて。そんなことはあってはならない。だから、一つでも、たった一つでも、この男に知らないことはないのかと。それを知りたくなってしまったのだ。
そんなわけで、真昼は。
また口を開いてしまう。
「ねえ。」
「なあに、真昼ちゃん。」
「一つ、教えて。」
「なんでも聞いて!」
なんだか嬉しそうなデニー。
そんなデニーの声を聴いて。
なんだか腹が立ってくる真昼。
それでも、こう、問い掛ける。
「マラーは、あのストゥーパっていう塔に閉じ込められてたよね。」
「うん、そーだね。」
「そのことも、やっぱり、最初から分かってたの?」
「んーん、それは分かんなかったよ。」
デニーのその答えを聞いて。真昼は、自分で質問しておきながら……ちょっとびっくりしてしまった。デニーのことだから、あの空間、ティンガー・ルームと呼ばれていたあの空間に入った瞬間には、もう分かっていたと思ったのに。まさかデニーにも分かっていなかったことがあったなんて。
「あの中からヌミノーゼ・ディメンションの感じがしてたから、何かはあるだろーなーっていうことは思ってたんだけどね。まさか、あんなところにマラーちゃんを入れておくなんて思わないよ。だってさーあ、人質って、もっともっと、誰にも見つからないところに隠しておくものじゃないですか! あの製錬所には、たくさんたくさんたーっくさんお部屋があったし。せっかく捕まえた人質をわざわざデニーちゃん達の目の前にまで持ってくるみたいな、とーっても危ないことするなんて、そんなこと分かるわけないーって感じかなっ!」
デニーの話を聞いているうちに。
真昼の胸の中で。
何かが。
すっと。
溶けていくような。
決してすっきりしたというわけではないのだが。それでも、胸がすくような気分というか、溜飲が下がるような気分というか。デニーのことを、お前だって全知ではないんだと、思いっきり笑ってやりたくなるような気持ち。もちろん、そんなことをしたら馬鹿みたいなので、しないのだが。
そして、どうやら、そんな真昼の気分の変化を敏感に感じ取ったらしく。デニーちゃんも、ほっとしたというか、胸を撫でおろしたというか、良かったーって感じ、安心したような感じだった。もちろん、そんな風にして、自分の感情の変化をいとも簡単に読み取られてしまって。真昼は穏やかではない心持ちになったのだが、それでもまあ、先ほども書いたように、デニーに対して怒りの気持ちを抱いても、なんの意味もないのだ。もちろん、吐き気がするような嫌悪感はあるにしても。
ということで。
なんとなく、全部が。
丸く、収まりまして。
ところで……今、この自殺行為号(仮)は、どこにいるのだろうか。いや、ヌリトヤ砂漠のどこか、しかもASKの製塩所と、カリ・ユガという何者かがいる場所と、その二点を結びつける線上のどこかにいるということは確かなのだが。その線の、どこら辺にいるのかということだ。
「第一部インフェルノ #37」の最後で、どっかーん!と発射された自殺行為号(仮)は。その後で音の速さを軽々と越えて、ヌリトヤ砂漠の上空を、きらきらと輝く愛らしいピンク色の隕石みたいにして、めちゃくちゃなスピードですっ飛んでいった。真昼は、飛翔体の内部からソニックブームを見たのは初めてだったが――ちなみに静一郎に連れられてディープネットの新型戦闘機のお披露目に行った時に、外側からのソニックブームは見たことがあったのだが――なんというか、案外にも、自殺行為号(仮)を包んでいる泡の中は、そこそこ快適といえなくもなかった。
まず慣性力の影響を受けることが一切なかった。超音速で加速運動をする物体の内部にいる場合、それに伴って働く、重力加速度の何倍もの見かけの力によって、普通であれば凄まじい圧力を感じるものであるが。泡の中にいる真昼は、まるで外側とは別のラインで慣性の法則が働いているかのように、そういった圧力を感じることが全然なかったのだ。
また、音速を超えている以上、自殺行為号(仮)にソニックブームが追いつくことは出来ず、そのブーム音が聞こえないのは当然としても。音速を超えた物体の周囲を流れている音速を超えた気流、いわゆる「サウンド・ストリーム」が発するはずの、あの頭が痛くなるようなきーんという音も、泡の内部までは聞こえてこなかった。泡の中は、あらゆる騒音から守られているかのように、完璧な静寂を保っていたということだ。
くらりとも揺れることなく、完全に安定した姿勢を保ったままの自殺行為号(仮)は。発射地点である製塩所から、着地地点であるヌリトヤ砂漠の真ん真ん中まで、信じられないほどの長距離を、ゆったりとした放物線を描きながら飛んでいったのだが。恐らくは、数百エレフキュビトの距離を、五分もかからずに通過していったはずだった。
とはいっても、製塩所の建物(あるいは大樹)が、見る見るうちに水平線の向こう側に消えて行ってからは。このイシューの冒頭でも書いた通り、見るべきものなどほとんど何もない空間、時折空を飛んでいく姿を見かけては一瞬で背景へと消えていくフラミンゴの群れらしきものや、あるいは砂漠を歩いているか走っているかしているらしい小さな点のようなもの(単数の時もあれば複数の時もあった)や、そういったものしか見るもののない空間では。真昼には、どれほどの距離が過ぎたのかということは、いまいちぴんとこなかったのだが。とにかく、二分くらいが過ぎた頃、自殺行為号(仮)の弾道は緩やかに下降線に入っていった。
今、緩やかに、と書いたのだが。実のところ緩やかだったのは最初のうちだけで、三分半くらいが経過した頃から地上との距離を縮めていく速さはそれこそ加速度的に増していって。四分にもなると、もうこれは、自殺行為号(仮)が大地に向かって叩きつけられようとしているのが明白な速度になっていた。墜落という言葉さえも生易しいくらいのスピードに……明らかにマラーが怯え始めて。真昼の体にぎゅっと抱き着いたくらいだったのだが。とはいえ真昼としては、デニーが近くにいる限り自分にはなんの危険も及ぶことはないと、信仰にも似た強度で信じ切っていたため、なんの恐怖もなかったのだが。
そうこうしているうちに、唐突に、目の前に砂の壁が立ちはだかって。そして、次の瞬間には、自殺行為号(仮)は、その砂の壁に激突していた。書くまでもないことであるが、その砂の壁というのは、実は砂漠の大地のことで。あまりのスピードで接近したためにそれがなんなのかということが一瞬分からなかったのだ。壮絶で凄絶な激突、それこそ砲弾を撃ち込んだかのような勢いで突っ込んだ自殺行為号(仮)は。どんな物理法則でそうなったのかよく分からないが、おそらくは突っ込んだ時の角度が関係しているのだろう。あたかも水切りの石のように、ずどん、ずどん、ずどん、と砂の上を何度も何度もバウンドして。かなりの距離を進んだ後で……いきなり、完全変態の甲虫が蛹から抜け出すみたいな態度でもって、ぱしゅんっと、泡の中から抜け出た。それから、そのまま、慣性の力を勢いとして、砂漠の上を走り始めた。
なんというか……とにもかくにも、これほど乱雑に行われたランディング&デパーチャーであるにも拘わらず、乗員には一切ダメージがなかった。着地というか墜落というかは見方次第であるが、そのランディングの瞬間も、泡の中は、春の夜に凪いだ海よりも静かであるくらいだったのだから。あまりにも静かだったので、真昼には、泡の外側で起きている全ての出来事が、ずいぶんと精巧に作り上げられたバーチャルリアリティの映像であるかのように思われたくらいだった。そして、自殺行為号(仮)が泡から抜け出た瞬間に、ざあっと真昼のことを襲った、焼けてしまいそうなくらいに熱せられた砂漠の風を感じて……初めて、現実の世界に帰ってきた気がしたものだった。
自殺行為号(仮)は。
車輪一つないにも拘わらず。
ホヴァークラフトのように、ふわりと浮かんで。
キィイイイイという軋むような音を立てながら。
砂漠の海を進んでいくのだ。
恐らくは。
何か、加工された魔力の力を。
エンジンにしているのだろう。
そうして……三十分ほどが過ぎて、現在に至るというわけだ。シノンサ砲から打ち出されることによって到達し得た超音速とは違って、自殺行為号(仮)自体の速度は、せいぜいがルカゴくらいであったので。まあ、それでも十分早いのだが、そこまでの距離を進んだというわけではない。
とにかく。
真昼は。
ここが。
どこなのかが。
気になってきた。
正確にいえば、あとどれくらいで目的地に着くのかということだ。砂、砂、砂……どこを見ても、褐色に焼けた、砂色の砂しか見えないということは、とかく気が滅入ってくるもので。だんだんと頭がおかしくなっていきそうな気分になるし、それに、さっきみたいに、余計なことを考えてしまいそうになる。早く、早く、どこかについて欲しい。そして、何か、気を紛らわせることの出来る何かに出会いたい。
自分と世界とを。
これ以上、直視して。
いたくは、ないのだ。
また、そっと目をつむる。まるで、突然、頭痛がした人みたいにして目をつむる。パンダーラさん、と、頭の中で、名前を呼んでしまう。パンダーラさん、パンダーラさん、パンダーラさん。何かのおまじないみたいにして、三度、その名前を、声に出さないままで呟いてから。それから、また目を開く。
デニー、に。
問い掛ける。
「ねえ。」
「なあに?」
「ここ、どこ。あとどれくらいで着くの。」
さっき交わした会話、その時の真昼の声の感じで、どうやらさほど怒っていないな?みたいなことを察していたデニーは。いつものデニーの感じ、お気楽極楽てんてこハッピーな感じに戻っていたのだけれど。その感じのままで、答える。
「うーんとねーえ……一直線に行くなら、あと二十分くらいで着くんだけどねー。そろそろ「平和的回廊地帯」の端っこのところだし、カリ・ユガのおうちまでは、そこから二十エレフキュビトくらいだから。だ、け、ど、そこに行く前に、まずはどっかの基地に寄ってカリ・ユガに行くよーって連絡しなきゃいけないし。それに、カリ・ユガのところの子達と暫定政府の子達の戦闘が、どれくらい落ち着きました!ってなってるかにもよるかなあ。」
ああそうだ。
そういえば。
そのカリ・ユガという何者かは、暫定政府と、少なくとも紛争を、もしかしたら内戦を、繰り広げているらしいのだ。そしてこの自殺行為号(仮)は、まさにその名の通りの自殺行為として、その紛争もしくは内戦の現場へと、これから突っ込みに行くというわけで。まあ、デニーがいる以上は、さしたる危険もないのだろうが……それでも、真昼は、言う。
「あのさ。」
「ほえ?」
「ずっと気になってたんだけど、そのカリ・ユガって……いや、ちょっと待って。ちゃんと質問、纏めるから。そうしないと、あんたってまともに答えられないもんね。どうしようもない馬鹿だから。つまり……そのカリ・ユガっていう誰かは、暫定政府と争ってるわけ?」
「うん、そーだよ。」
「それで、私たちは、今から、その争いごとの真ん真ん中に突っ込んでくの?」
「はわー……うーんと、それはちょっと違うかなあ。」
デニーは、そう言うと。
ちょっと考えるように。
口を止めた。
ティンガー・ルームにいた時、ミセス・フィストを撃てない理由について真昼に説明した時もそうだったのだが……真昼がデニーについて学習しているのと同じように、デニーも段々と真昼との付き合いに慣れてきているらしかった。デニーが、デニーらしく(というのはつまり可愛らしくという意味だが)何かを答えても、ほとんどの場合において真昼はそれを理解出来ない。だから、もう少し、なんというか、さぴえんすでも分かりやすいように話さないといけないのであって。
デニーは。
自分の中で咀嚼して。
飲み込みやすくしてから。
真昼に向かって口を開く。
「確かにカリ・ユガは暫定政府とばばばばーって感じで内戦してるんだけど、その内戦はカリ・ユガのおうちまでぐわーって巻き込んじゃってるわけじゃないの。あのね、カリ・ユガはとーっても強くて賢くて、デニーちゃんとおんなじくらい強くて賢いんだけど、そんなに強くて賢い誰かを相手にしたら、暫定政府だってそこまで簡単にやっちゃえーっ!て出来ないじゃないですかあ。ほら、洪龍級の対神兵器とかも持ってないわけじゃないけど、でもそんなのを使っちゃったらアーガミパータがたいへーんってなっちゃうし。だから、暫定政府の攻撃は、とーっても探り探りな感じなの。たまーに、どどーって、一気に仕掛けたりもするんだけど。それが失敗したら、またすきるみっしゅに戻ったり。それに対して! カリ・ユガは、もともと、別にすっごくすっごく内戦したいってわけじゃないんだよね。まあ、すっごくすっごく内戦したくないわけでもないんだけど。自分のおうちが安全ならそれでいいかーって感じだから、暫定政府が攻撃してきた時に反撃するだけなの。
「そんなわけで、内戦がぐわーってなってる範囲は、ごくごく一部地域に限られてるの。具体的にいうと、カリ・ユガのおうちをぐるーって囲んでる、大体二十エレフキュビトから三十エレフキュビトくらいの、帯みたいなとこ。それで、その帯みたいなとこが「平和的回廊地帯」って呼ばれてるってわけ! えーとね、もちろん、その「平和的回廊地帯」がカリ・ユガのおうちを取り巻いちゃってる以上は、そこを突っ切らないといけないわけだけど。でも、カリ・ユガのおうちについちゃいさえすれば、内戦とはぜーんぜん関係ないって感じなの!
「それにそれに、デニーちゃんが知ってる限りだと、「平和的回廊地帯」の内戦も、今は結構落ち着いてる感じらしいの。ほんとーについついこないだ、暫定政府の子達が、一気に、いけーってしたんだけど。それがいつもどーり大失敗して、今は事後処理っていうか、撤兵退却っていうか、そんな感じのふぇーずに入ってるみたいっていうか。だから、それほど激しーくどんぱちぱっぱってわけでもないってわけ。ということで! 真昼ちゃんが言った、「争いごとの真ん真ん中に突っ込んでく」っていうのはちょーっとだけ違うかな。正確には「ちょっとしたごたごたの横を、ぱぱーって通り過ぎてく」って感じ。」
なんか。
やけに。
擬音語が。
多かった。
気がするが。
とはいえ、話の内容は真昼にも十分に理解出来るものだった。二十エレフキュビトから三十エレフキュビトというとそれなりの長さだし、夜刀浦邦でいうと、凹んでるところからその反対側の凹んでるところまでの距離くらいはあるが。その距離さえ走破してしまえば、後は内戦に巻き込まれる心配はないということだ。もちろん、その「カリ・ユガのおうち」から出る時には、またそこを通り過ぎなければいけないのだろうが。
そういえば、そのカリ・ユガとは何者なのだろうか? さっきデニーがさらっと口にした言葉を信じるならば、その何者かは、デニーと同程度の暴力とデニーと同程度の知性とを有しているらしい。こんな……こんな化け物が、もう一匹いるということなのか? デニーと、それにミセス・フィストと。真昼としてはこの二人だけでも十分だというのに。本当に、アーガミパータは地獄のような場所だと、改めて思う。
いや。
カリ・ユガについて考えるのは。
別に、後でもいい。
今は、目の前の。
危険性について。
考える、べきで。
「それで。」
だから。
真昼は。
もう一度。
デニーに。
声を掛ける。
「なあに、真昼ちゃん。」
「その「平和的回廊地帯」ってのには、あとどれくらいで着くわけ。」
それを知ったところで、真昼に何か出来るというわけでもないし。恐らくは、そこを通り過ぎる間、この自殺行為号(仮)の中で、人が死んでいくのをただただ眺めるだけで終わるのだろうが。とはいえ、心の準備くらいはしておきたかった。内戦……通り過ぎるだけとはいえ、内戦の地に踏み込むわけなのだから。
まあ、そんな真昼も、一応は、つい昨日、革命の真っただ中にいたのであるし。周りでがんがん人が死んでいく中で、その死んでいく人達がこれ以上死ななくてもいいように、なんとかして一つでも多くのドローンを打ち落として、そうしてこの革命を成功させようと(結局は失敗したところのこの革命)、懸命になって戦い抜いたりはしたのだが。修羅場というものは、何度くぐり抜けても、そう簡単に慣れるものではないということだ。
デニーは。
そんな真昼に対して。
こともなげに答える。
「え? もう入ってるよ。」
「は?」
「地面に線とか引いてないし、壁とかがあるわけでもないから、ちょーっとだけ分かりにくかったかな? 二分くらい前から、既に「平和的回廊地帯」です!」
「ここが?」
真昼は、なんとはなしに、その「平和的回廊地帯」というところに入ったら即座にどんぱちぱっぱが始まると思っていた。けれども、よく考えれば……そんなことがあるわけがないのだ。「カリ・ユガのおうち」という場所がどれくらいの広さがあるのか分からないが、たぶん、少なくとも、アヴマンダラ製錬所とかそれくらいの大きさはあるに違いない。それをぐるっと一周するような、二十エレフキュビトから三十エレフキュビトの帯。その全体でどんぱちぱっぱをするような凄まじい戦闘を、暫定政府軍が行うとは……さっきのデニーの話からいえば考えられることではない。恐らくは「平和的回廊地帯」の要所要所で、散発的に戦闘が起こっているのだろう。
願わくは。
それらの戦闘の。
全てに出会わずに。
済めばいいのだが。
「これからね、まずはー、一番近くにある基地に向かいます! あ、基地っていっても暫定政府の子達の基地じゃなくてカリ・ユガの子達の基地ね。ここからだとタンディー・チャッタンが近いかなあ。まだ陥落してなければの話だけど! それで、そこで一応カリ・ユガにこれから行くよーって連絡して。それからおうちに向かう感じでーす! 分かりましたかあ?」
別に一言も聞いてないのに、わざわざ説明してくれた。といっても、真昼にとっては大して興味がある話というわけでもなかったし、ありがたくもなんともないのだが……これは要するに、次第に、次第に、あのおしゃべりなデニーちゃんの本調子が戻ってきているということなのだろう。
とにもかくにも、自分は、弱くて愚かな人間なのであって、もう既に、一度、取り返しのつかない間違いを犯してしまったのだから。これ以上は絶対に間違いを犯さないようにしよう。一つ一つの挙動が一体何をもたらしてしまうのかということを、本当に、真剣に、考えて。そして、何よりも……マラーを抱き締めるこの手だけは放さないようにしよう。そんなことを思いながら、マラーを抱き締める腕に、ぎゅっと力を入れた真昼なのだった。
そして。
それから。
数分の時が。
経ちまして。
「ちょっと待って、じゃあこの砂漠には純種のノスフェラトゥがいるっていうわけ?」
「そうそう、そーいうこと。っていうか、アーガミパータの色んなとこに野良の子達が散らばってる感じかなあ。」
「でも、ノスフェラトゥって……雑種ならともかく、純種って、パンピュリアにしかいないんじゃなかったの?」
「んー、まあね。ふつーのさぴえんすはそう思ってるみたいだけど。でもそれって、ノスフェラトゥのいーっちばん大きな「母胎」があるのがパンピュリア大陸だから、自然とその近くに純種の子達が集まってるだけーってことなんだよ。ほら、第一次神人間大戦の時に、パンピュリア大陸以外の場所にあった小さな「母胎」はほとんど壊されちゃったでしょ? そのせいってこと! でも、アーガミパータだけは、色々あって……まー、まー、アーガミパータだからね……小さな「母胎」が幾つか壊されずに残ってるの。だから、定期的に純種が発生してるってわけ!」
まだ。
砂と。
砂と。
砂ばかり、の、沙漠で。
それがどんなに酷薄な内容の理解であったにせよ、とにかく相互理解の深まってきた真昼とデニーとの間には、なんとはなしにであるが、世間話のようなものが成り立つようになってきていた。以前はデニーの側が喋くり倒しているだけであった言葉の羅列に、真昼も参加するようになってきたということだ。まあ、この参加には、当然ながら、口を動かしていれば脳を動かさずに済み、「考えるべきではないこと」を考えなくても済むという事情も働いていたのだが……なんにせよ、デニーと真昼とは会話をしていた。
ちなみに、ノスフェラトゥについて。今までも何度か出てきた単語だ。この単語の意味、恐らくは、この星に生きているまともな知的生物であれば知らないわけがないと思うが。なんせサテライトでさえ知っているのだから! ただ、そうはいっても、世界にはどんな美しい奇跡が起こらないとも限らず、またどんな愚かしい奇跡が起こらないとも限らないのであって、念のために説明を加えておくに越したことはないだろう。
また。
説明。
パートかよ。
と、思われるかもしれないが……この説明は、この物語の最後の最後、デニーと真昼とがとうとうアーガミパータから脱出するという直前。REV.Mによって雇われた、パンピュリア共和国ハウス・オブ・トゥルースの私生児であるリチャード・グロスター・サードの襲撃を受けることになる(驚きの展開!)その際に、大変に重要になってくるのであって。いわば伏線なのであるから、読者の皆さんには、少しばかり我慢して付き合って頂きたく思う今日この頃なのであります。
さて、ノスフェラトゥとは。パンピュリア語で「疫病」を指すノソフォロスという単語が、無知な人間の口から口へと膾炙されていくにつれ、兎錬術学者の手のひらの中で踊る金属片にも似た態度で変容していった結果として生まれた名前であって。その名の通り、第一次神人間大戦が起こる前までは、彼ら/彼女らは「疫病」のごとく取り扱われていた。何者によって? いうまでもなく、神々によって。
姿形は人間に似ていなくもないのだが(夜に紛れて踊る剣のように漆黒に塗り潰された翼を例外とすればの話だ)、とはいえノスフェラトゥは人間とは明確に異なった生き物である。ナシマホウ界における四大高等知的生命体、ノスフェラトゥ・ホビット・イタクァ・ソクラノスの中で、もっとも高等とされている生命体。そして、ナシマホウ族の中で……唯一、その身のうちに聖なる炎である、セミフォルテアを宿した生命体。
ナシマホウ族どころか、中級のマホウ族でさえ容易く屠ることが出来るほどの力を持ったその生き物は。デニーの言った通り、本来であればパンピュリア大陸……というか、その大陸の上にノスフェラトゥが築いたところの、パンピュリア共和国(ちなみにパンピュリア共和国の「共和制」とは人間による共和制ではなくノスフェラトゥによる共和制を指している)という国家の外には存在しないはずだ。なぜなら、第一次神人間大戦時にノスフェラトゥが起こしたとされる「アナンケ王妃の悲劇」によって、パンピュリア共和国以外の場所に存在していたノスフェラトゥの「母胎」はほとんど破壊されてしまったため、それ以外の場所では種を存続させ続けることが不可能になってしまったからだ。
これは大変多くの人間によって勘違いされていることなのだけれど、ノスフェラトゥは決して不老不死の存在ではない。人間のようにして、醜悪に・無様に・見苦しく老いて死んでいくということはないのだが。数十年から数百年生きた後、ほとんど誰も予測できない唐突さで、原因不明の死を迎えるのだ。このアポトーシスと呼ばれている現象は、未だにそれがなぜ起こるのか判明していないが。いかなる疾病によるものでもなく、またいかなる外傷によるものでもなく、肉体的な衰えさえないにも拘わらず、寿命が尽きたとしかいえない死に方によって死んでいく。これは、絶対に逃れることが出来ない死であって――といっても、パンピュリア共和国ハウス・オブ・ラブであるヤラベアムはその唯一の例外なのだが――それゆえにノスフェラトゥは、次世代を発生させることが出来る「母胎」のない場所では絶滅してしまうのだ。
しかし。
逆にいえば。
「母胎」のある場所であれば。
種を存続させること。
できるので、あって。
これもまたデニーの言った通り、アーガミパータには幾つかの「母胎」が残っているのだ。それはもちろんパンピュリア共和国にあるもの(俗に「本妻」と呼ばれているもの)のような大規模なものではないが。各地に、点々と、隠されているようにして、小規模な「母胎」が残存している。そして、その「母胎」から発生したノスフェラトゥが、パンピュリア共和国の「市民」ではない、いわゆる野良ノスフェラトゥとして、アーガミパータの全土に、それこそノソフォロスのごとく広まっているというわけだ。
ノスフェラトゥという生命体は……本来的には、二つのことにしか関心がない。いや、ノスフェラトゥは人間のような生き物とは完全に精神構造が異なっているため、それを関心と呼んでいいのかどうかは曖昧なところであるが。とにかく、ノスフェラトゥが存在している意味は、本来であれば、たった二つ、「自己の生存」と「他者の殺戮」だけだ。パンピュリア共和国のように、国家という形態をとって、一つの集団を作り出すという態度は、ノスフェラトゥという生命体にとってあくまで例外的状況であって。アーガミパータにおいては、そんなことをしようとするノスフェラトゥは存在しない。アーガミパータにおいては、ノスフェラトゥは、完全に捕食者としてふるまう。何よりも強く、それゆえに何者の支配下にも置かれることのない、完全な捕食者として。
だから。
アーガミパータの各地で
ノスフェラトゥは。
孤立した狩人。
なによりも致命的な。
人間の、天敵として。
恐れられている。
「アーガミパータではヴェターラって呼ばれてるんだけどね。」
そういえばという感じ。
デニーが、付け加えた。
「でも、どこにでもいるっていう割には、あたし、まだ一鬼も見てないんだけど。まあ、まだ二日くらいしかいないし、夜はずっと……壁の内側にいたから。それが理由なのかな。」
「えー? こっちに来てから、少なくとも一鬼は見てるじゃないですかー。」
「は?」
「ほら、ダコイティの子達が住んでた森で。」
その「住んでた」という言葉に。
ほんの少しだけ、傷口が開くが。
それはともかくとして、デニーの話に、真昼は全く思い当たる節がなかった。一応は、ノスフェラトゥという生き物について習ったことがあったし(小学校の授業、しかも理科でも社会でも教わるのだ)、どのような姿をした生き物かということは知っていた。シャリテ・ド・シャノンのように巨大な二枚の羽を生やした、人間のような姿の生き物。黒い髪と赤い目と、それに、ぞっとするように蒼褪めた肌の色をしていて、そして、まるで、美しい弦楽器のような声で歌う……と、ここまで考えた時に。
真昼は。
やっと。
思い出した。
そうだ……デニーとパンダーラと共に、森の中の死体を蘇らせに行った時。最初の虐殺の現場、ASKによって村一つ分のダコイティが皆殺しにされた、あの場所へと向かっている時に。それは具体的には「第一部インフェルノ #22」で起こった話であるが、真昼は、確かに、その音を聞いていた。
張り詰めた弦の上に弓を落として、静かに、静かに、引いていったような音。その音自体が、目に見えないほど透き通った、非常に純粋な氷であるかのように冷たかった音。もしかして、あれが、ノスフェラトゥの声だったのか?
「まさか、あの時の……」
「思い出したー?」
結論からいうとその通りであって、ようやく気が付いたのかよ真昼ちゃんって感じだが。あれこそアーガミパータの野良ノスフェラトゥのうちの一匹だったのだ。あの時は、デニーとパンダーラとの二人が即座に気が付いて。自分達の隙を狙って真昼のことを浚っていかないようにと(あのノスフェラトゥも、さすがにデニーやパンダーラやといった力強い存在を狙っていたわけではなく、明らかに弱者であるところの真昼のことを狙っていた)警戒したため、事なきを得たのだが。もしもあの時に真昼しかいなかったのならば……即座に、自分が獲物であるということを自覚することさえ出来ないままに、食い殺されていただろう。
「そんなわけで、太陽が隠れちゃう前にはカリ・ユガのおうちにとーちゃくしておきたいんだよねー。ほら、「平和的回廊地帯」って、たーっくさん人が死んでるとこでしょ? そういうところって、ノスフェラトゥも集まりやすいし。ノスフェラトゥがいっぱいいっぱい集まって、ばばーって襲い掛かってきたら、さすがのデニーちゃんもちょっと危ないから。まあ、まだお昼を過ぎたくらいだし、大丈夫だとは思うんだけどー……」
と。
ここまで。
口にした。
その時に。
「あっ。」
デニーは、唐突に言葉を止めた。あたかも人間には聞き取れないなんらかの音を聞き取った子猫のようにして。ふっと、その顔を、ある方向に向ける。自殺行為号(仮)が向かっている、その先の方向に……そして、ぽつりと、独り言を呟くみたいにして、こう言う「んー」「これは、ちょっと良くないねー」。
真昼は、その方向に。何かが見えたのかと思い、目を凝らしてみた。何かが聞こえたのかと思い、耳を澄ませてみる。けれども、真昼には、何も見えなかったし、何も聞こえなかった。どうやら、普通の人間には備わっていない、特殊な感覚のようなもので……デニーは何かを感じ取ったらしい。
一体、何を感じたのか。
真昼は聞こうとするが。
その前に、デニーは。
独り言を続ける。
「暫定政府軍の子達、今回は、こんなところまで進めたんだあ。けっこー頑張ったんだね、デニーちゃん、びっくりだよ。でも、このままだと……たぶん、デニーちゃん達は、カリ・ユガのところの子達の、ポータル・ベース攻略作戦に突っ込むことになっちゃうよね。うーん、たぶん、このくらいの大きさのポータル・ベースなら、対神兵器を持ち出してくることはないと思うけど……」
と。
そこまで。
呟い、た。
ところで。
ふっと、後ろに真昼がいるということを思い出したようだった。ハンドルからは手を離さないままで、ちらりと、視線だけを、後部座席に向けると。ごくごく軽く肩を竦めて「まー、たぶん大丈夫だと思うけどねー」と言った。決して、真昼のことを元気付けようとしているとか、そういう感じではなく……いかにも適当な、どうでもいいという感じの口調で。
そして、それから。
その言葉の、後で。
「ただ……」
一言、だけ。
付け加える。
「どこかにしっかり掴まってた方が良いかもしれないけど!」
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