第一部インフェルノ #37

 螺旋階段だった。

 至極、単純な形。

 いや、単純というか……本当に、階段として、必要最低限の構成要素だけで出来ている。必要最低限な構成要素とは要するに踏み板のことで、どこまでもどこまでも続いている真っ暗な・虚無の・空漠とした空間の中に、踏み板だけが、上方に向かって螺旋を描いているということだ。蹴上げも桁もなく、当然ながら手摺も付いていないため、なんだか足を滑らせてしまって、そのまま深淵に墜落していってしまうのではないかと思わなくもないが。ただ、不思議と、まるで踏み板の一枚一枚に重力が働いているみたいにして。その階段を上がって行く者は、しっかりと安定したままで、一段一段を上がって行くことが出来るのだった。

 それから、その階段の周りには……奇妙なものが浮かんでいる。真昼は、物質の様態については基本的な四態(固体・液体・気体・動体)と、それに霊体とか夢体とかの魔学的に重要なやつくらいしか知らなかったのだけれど。その何かは、明らかにそういった様態のどれにも当て嵌まらないものだった。

 強いていうのならば、炎と氷との中間的な性質を持つ何かが、静かに静かに眠りながら夢を見ている、そんな感じの物質だ。確かに結晶体であるのだが、その結晶を構成している極子の一つ一つが燃え上がっている。その結果として、綺麗に安定していながらも、激しいエネルギーを持ち続けているのだ。

 そういった結晶が、この虚無の中、見渡す限り、幾つも幾つも浮かんでいる。八面体くらいの比較的大雑把な形をしたものもあれば、数え切れない数のファセットにカッティングされて、息を飲むほどに複雑な光を放つ、美しい宝石のようなものもある。

 そして、そのどれもこれもが、信じられないくらいに巨大だった。一つ一つの結晶が十階建てのビルディングくらいの大きさなのだ。なんだか馬鹿みたいに大きくて、ぱっと見笑ってしまうくらいなのだが、それでも冗談ではなく現実である。もちろん、それよりもだいぶん小さいものや、もっと大きいものもあるのだが、平均すれば、やっぱりそれくらいの大きさということになる。

 さて、これはなんなのだろうかと考えながら真昼が階段を上がっていると。遥かに遥かに下の方、真昼の目では見通せない、虚無の彼方から……世界全体を震わせるのではないかと思うような爆発音がした。それは、本当に大きな音で。めちゃくちゃに遠いところから聞こえてきているはずなのに、それでも真昼は、マジで飛び上がってしまったレベルでびっくりしたくらいだった(階段から足を踏み外さなくて良かったですね)。「どっ!」という耳を聾するような音の後で、「かああああああああああああんっ!」という長く長く尾を引く音が続いて。それから……螺旋階段から少し離れたところ、凄まじい水柱が上がった。

 その水柱については形容のしようがない。海というものが、実は一本の川であって、ずっとずっと辿っていくと、その先に滝があるのならば、この水柱のような滝なのだろう。その水柱の大きさは、あれほど巨大な結晶を数十個は飲み込んでしまって、それでもまだ十分に余裕があるくらいなのだ。

 水柱は、真昼の横を一気に駆け抜けていって。遥かに遥かに上の方、真昼では見通せない、虚無の彼方に……突っ込んでいってから。そこでふっと途切れると、そのまま、今度は一気に落下してきた。それこそまさに怒涛であったのだが、落ちてきて、落ちてきて、落ちてきて。そしてまた、ずっとずっと下の方へと消えていってしまった。

 水柱によって跳ね飛ばされた液体が、小雨みたいにして真昼がのぼっている階段のところまで飛散して。真昼の体を、ほんの少しだけ濡らした。マラーと繋いでいない方の手、その手の甲を、舌の先でえろりと舐めてみると。ほんの少しだけ塩辛い味がする。それから、ちらりと結晶の方に視線を動かしてみる。その中でも、先ほど水柱に飲み込まれた幾つかの結晶は……先ほどよりも、ほんの一回りか二回りだけ、大きくなっている気がする。

 さて、ここから考えるに。

 どうやらこの場所は。

 塩を精製するための。

 場所なのだろう。

 デニーは、先ほど、この場所のことを「サフェド湖の製塩所」と呼んでいた。真昼はそれがどこなのかということは分からなかったが、湖の近くに製塩所があるのならば、その湖は塩水湖であろうということくらいの見当は付けられた。

 ということは、そこからさらに考えを進めていくと、先ほどの水柱は塩水湖から引き上げたものであって、それをあの結晶にぶつけることで、塩水の中から塩を取り出しているのだろうということを推測出来る。どのような仕組みでそういう「製塩」がなされているのかは分からないが、何かのエネルギーで塩分を引き付けているのだろう。とにかく、あの結晶の、少なくとも一部分は塩で出来ているはずだ。

 なんにせよ。

 さすがASKのすることだけあって。

 塩を作るだけでも。

 スケールがやばい。

 と、まあそんなこんなで……#36が終わった後、病室を出た真昼の目の前に広がっていたのは、そんな光景だった。ドアの外側は、すぐにこの螺旋階段に繋がっていて、それから延々とのぼり続けているということだ。

 一体、どれくらい長い間のぼり続けているだろう。水柱の音も、最初のうちは数えたりもしていたのだけれど、三十回を超えた辺りですっかり飽きて止めてしまった。恐らくは魔学式の効果なのだと思うけれど、いくら段を上がっても、真昼は疲れることがなかった。ただ、マラーの方は、段々と疲れが溜まってきているみたいだ。っていうか、これほど大掛かりな製塩システムを作れるのならば、ここに設置するのも階段じゃなくてエレベーターとかエスカレーターにすれば良かったのに……いや、こんな場所に来る人間なんてほとんどいないだろうし、上るのがオートマタやダイモニカスやといった連中であるのならば、わざわざ自動化する必要もないのだろうか……?

 などなどと。

 考えている。

 うちに。

 見上げた先、まだ随分と上の方ではあったが、階段でも・結晶でも・水柱でも・虚無でもないものが見えてきた。と、こんな回りくどい書き方をしなくても、読者の皆さんは、大体のところそれが何か予想出来ているとは思うけれど。その予想と寸分の違いもなく、それは螺旋階段に続いている、一つの、この空間からの、出口であった。

 しかし、その出口には少しばかり意外な点もあった。開かれた口にはなんの扉も付いていなかったのだ。あの、いつもの、黒い材木を削り出して作ったようなパネルドアも付いていなければ。他のいかなる扉も付いていない。無限に続く星空のような虚無の中で、瞬いている星々の一つであるかのように、ただただぽっかりと開いている。

 螺旋階段は先別れなどしておらず、単純な一列に並ぶトレッドであるために、当然ながら少女を先頭とした四人の整列はその出口に向かって進んでいく。真昼は、ちらりと、本当にちらりと、マラーの方に視線を向けてみた。すっかり疲れ切ってしまっているマラーは、はあはあと息を切らしながら、ほとんど上を向くこともなく、俯いたままで階段を上っているので。真昼が見た出口については全然気が付いていないようだった。

 真昼は……ほんの一瞬だけ、自分自身に引き留められるような気がしたけれど。その静止を振り切って、マラーの手を握っている手、くっくっと、二回ほど引っ張った。それが何かの合図だと気が付いたマラーが、真昼の方をふっと見上げる。真昼の目が、マラーの目と、まともに向き合ってしまう。真昼は、もちろん、すぐにその目を逸らす。

 マラーの方を向いたままで、けれどもマラーと目が合わないようにしながら。真昼は、マラーの手を握っていない方の手で、すっと指差した。天に光る星、あるいは長方形に開かれた出口の方向を。それによって、マラーは、ようやく、この螺旋階段がもうすぐ終わるということに気が付いて……それを教えてくれた優しい真昼に向かって、ぱっと、嬉しそうな笑顔を向けた。その笑顔に対して、優しい真昼は、吐き気がするほどの罪悪感を覚えて。また、前方へと視線を戻す。

 とにもかくにも、それから暫くして。

 マラーが体力の限界に達する、その直前に。

 四人はようやく出口に辿り付いたのだった。

 その傷口は青く膿み、熱を持っていた。それに、匂いがする。この世界の黎明から、ずっとずっと染み付いて・こびり付いて離れないような、朽ち果てた骨の匂い。骨はやがて砂となり、その砂は蓄積して、白い砂漠となって……ああ、無意味にポエティックな表現をするのはやめよう。とにかく、いいたいのは、こういうことだ。青いのは空で、熱を持っているのは太陽で、そして、骨の匂いは、骨の匂い。

 要するに、その出口は、四人のこと、を。

 露天のもとに吐き出すための出口だった。

 死の色と。

 死の音と。

 死の味と。

 死の感触と。

 それに、死の匂いで満ちた。

 アーガミパータの、空のもとに。

 少女の後に続いて外に出たデニーの後に続いて、マラーと一緒に外に出た真昼の顔を。その光に照らし出される者のスナイシャクさえ焼き尽くして、その後には魂魄を失った空っぽの抜け殻しか残さないような、アーガミパータの太陽が照らし出した。手のひらをライターの火に近付けた時みたいな、焙られるような感覚を、全身の表皮が感覚して。どうやら今の時刻は……限りなく正午に近い午前か午後のようだ。太陽は中天に近い位置にいる。

 真昼は、恐らく魔学式の効果なのだろう、眩しいと感じはしたけれど、目を覆うほどではなかった。一方で、マラーは、一瞬だけ目をしばしばさせて、それから慌てて目を覆った。暗い場所から明るい場所に急に出た時の基本的な症状、瞳孔が収縮する前の、光を取り入れ過ぎた視神経の痛みだ。その痛みについては真昼にはどうすることも出来ない。

 それから、真昼は……もちろん、匂いを感じた。無様に、無残に。悲劇的に、あるいは喜劇的に。どんな状況かは分からないが、とにもかくにも死んでいった生き物達が、腐っていく匂い、乾いていく匂い、滅びていく匂い。嗅覚でそれを感じるだけではなく、真昼は、全身をその匂いに包まれた。それは、あたかも、誰かに抱き締められるように優しい抱擁であるように感じられて……真昼は、その匂いに対して、懐かしささえ覚えていた。たった数日しか、この場所にいないにも拘わらず。真昼は、この匂いを味わうと、ほんの少しだけ安心するようにさえなっていた。

 さて。

 そんな。

 こんな。

 で。

 少女と、デニーと、真昼と、マラーとは、デニーが言うところの「サフェド湖の製塩所」の内側から外側へとやってきたのだが。この場所、この空間は、一体どんな性質を持っている場所なのだろうか。気になりますよね? いや、気にならなくても話は進めてかなきゃいけないんで、ここがどんなところかという説明はするんですけど。

 これは。

 一本の。

 木です。

 一本の木、とはいえ、本物の木というわけではなく、木の生態を模して進化させられた生物合成機関であったが。さて、この木について、どこから話していけばいいのか……まずは、全体的な構図について触れておこう。

 その木は湖の中心に生えていた。無論、それこそがサフェド湖と呼ばれている湖だ。サフェド湖は、ただし、例えば月光国で湖と呼ばれている水溜まりのような、生易しい湖ではない。見渡す限り、水平線のあの霞んでいるところまで、水面が続いていて。アーガミパータの太陽によって熱せられた水面は、ゆらゆらと揺れる陽炎によって、その水平線を歪めている。神々のプールみたいだ、その大きさは、実に二万平方エレフキュビト。最大長が約六十エレフキュビト、最大幅が約四十エレフキュビトもある。

 しかも、この湖は、過去において、今の大きさよりもなお大きかったらしい。空から俯瞰してみた場合、湖の端が乾いていて、そこからかなり広い範囲が真っ白く塗り潰されていることから分かる。水が蒸発したことによる残留物によって白く見えているのだ。この残留物は、もちろん塩で出来ていて、このことからサフェド湖が塩水湖であるということを証明出来るだろう。ほっらー、デニーちゃんのいったとーり!

 ちなみにこの塩はただの塩ではない。よく見てみれば分かるのだが、この塩結晶が反射する光は、うっすらと夢を見るような黄色を含んでいる。これが意味するのは、健康にいい諸々の栄養鉱物質だけではなく、ある種の夢力が塩の中に含まれているということだ。これはナシマホウ界とマホウ界とが入り混じっている土地ならではの現象であって、こういった塩はアーガミパータでしか採取することができない。

 この塩は……舌の上に乗せて溶かすと、まるで麻薬によって白昼夢を見るような、奇妙な味わいを感じさせるものであって。世界中のセレブリティに愛される嗜好品である。例えばラ・コート・バスクなどの高級店では、この塩がなければ、一部の料理を作れなくなるくらいである。

 まあまあ。

 塩の話はこれくらいにして。

 この木の話に戻っていこう。

 そんなサフェド湖の中心から――夢そのもののような黄色に濁った湖の中心から――この木は、生えていた。湖の大きさに、まさに相応しい巨木であって、その円筒形の直径は約二十エレフキュビト、高さは約六十エレフキュビトもある。自然な木の形というよりも、どこか見ているものに、何かが間違っているのではないかと思わせるような形をしている。あまりにも……あまりにも正し過ぎるがゆえに。自然物であれば、少なからず含んでいるような形状の破綻を、全く含んでいない。完全なフラクタス図形のイメージ。数学的に整理された「木」という幾何学図形。

 中心に一本の幹があり、その下側と上側とが無数に先別れしている。最初に幹から分かれたものが、更に分かれ、更に更に分かれ、更に更に更に……といったような感じで。それらの分岐の仕方は、その全てが二、三、それに五という、自然界におけるもっとも基本的な数字から成り立っていたが。とはいえ、上側と下側とでは、明確に異なる役割を担っていた。

 下側は根だ。サフェド湖から湖水を引き上げる役割を果たしている。末端の部分では、何本も何本もの細い根毛が浸されることによって、維管束に良く似たチューブの中へと水を誘い込んでいる。それから、その水は側根を通って主根へと至り、幹の中へと注がれていき……ある程度の量が溜まった段階で、真昼が見たような巨大な水柱となって吹き上げられる。

 一方で、上側は枝葉である。根の方は、ある程度の曲線を描くような形で湖まで張り詰めていたのだが。枝の方は、明らかに直線的な構図で配置されていた。それ自体が既に大木といえるほどの直径の主枝から、亜主枝が伸びていて。更にそこから側枝として先別れしている。そのそれぞれが、幾つもの多角形を繋げたような、連続する多面体になっているのだ。

 これは見ている者になんとなく奇異な印象を与えた。他の部分は非常に生物的な形をしているのに、その部分だけが、まるで機械を接ぎ木したかのように、大変工学的な形をしているのだから。それは枝というよりも、なんらかの前衛的な建築物で、なんらかの種類の尖塔が、異様に捻じくれかえって、側方から突き出しているといった方が良さそうなくらいだ。

 そして、そんな枝から葉が生えている。どちらかといえば広葉樹らしい形状であるが、真円形の葉をつけた広葉樹なんていうものがあるのだろうか? あたかも葉脈のごとく、葉の一面には何かのケーブルが張り巡らされていて。だが、葉について、本当に注目すべき点は、そういったところではない。それは、その葉の色。あたかも燃え盛る紅葉のような、赤。

 この木を覆っている全部の葉々が、赤い色をしていた。いうまでもなく、それは赤イヴェール合金の赤であった(純粋なものとは少し種類が違っているが)。植物が光合成をするようにして。これらの葉々は、アーガミパータの太陽の光、魔力に満ち満ちた光を浴びることによって……この製塩所の全体を動かすだけの、大量のエネルギーを作り出しているのだ。

 月光国の秋に。

 山々を彩る。

 落葉樹のように。

 美しく、色付いた。

 その、一本の、木。

 と、まあ、ここまで長々と「サフェド湖の製塩所」について説明してきたのであるが。重要なのは、その製塩所の、一体どの辺りに四人(よく考えたら一体と三人ですけど)が出てきたのかということだ。その問いに対して一切飾るところなく答えるとすれば、「木の主枝のうちの一本」ということになる。

 出口から一歩踏み出した真昼の足が踏んだのは、主枝を構成している多角形を、これまた構成している平面だった。その平面は、ちょうど地面と平行の角度になっていて。おかげで上を歩くのは地面を歩くのとほとんど変わらず、「うわああああぁ、滑って落ちて死んだああああぁ!」みたいなことは起こりそうになかったので、滑って落ちて死にたくない人は大変安心ですね。

 踏み心地は固く、何かの鉱物みたいだった。純粋な金属というよりも様々な極子が混ざり合ってできた宝石に近いだろう。表面は透き通っていて、奥にいくにつれて少しずつ濁ってくる。その色は白、どうやら白イヴェール生起金属が関係しているということが理解出来た。非常になめらかであるが、かといってつるつる滑るということはない。奇妙な摩擦が働いているらしい。

 広さとしては千平方ダブルキュビトくらいだろうか。そこそこ複雑な多角形をしているため、はっきりと測定するのが難しい。製塩所がある方向から、その外側に向かって細長くなっていて、その長い方が四十ダブルキュビト強、短い方は二十ダブルキュビト強くらいの長さだった。なんにせよ、かなりの大人数が乗ってもなんの問題もないくらいの広さはあったということだ。

 この枝は……とても高い場所にあって。というか、最高層の部分に配置されている何本かの枝のうちの一本だった。そのため、ここからは、製塩所のかなりの部分、それどころかその先にある地平線まで見通すことが出来るくらいだった。地平線? そう、ここからは地平線が見通せた。なぜなら、赤い葉々の向こう側に広がっている、地上の世界は。見渡す限り、どこまでもどこまでも、何もない沙漠だったからだ。

 そう。

 沙漠。

 サフェド湖を取り囲んでいる。

 永遠に続くような、不毛の地。

 これこそが。

 ヌリトヤ沙漠だ。

 ただ、今のところは、注目すべきなのはこの沙漠ではない。真昼も、現時点では、沙漠にはほとんど注意を払っていなかった。さっき聞いたデニーの話によれば、デニー・真昼・マラーの三人は、この無限に続いているようにさえ見える沙漠を、今から越えていかねばならないのであったが。どう考えても過酷であろうその道程よりも……もっともっと、危険で、有害で、破壊的で、致命的な、災害のようなものが。この平面の上、真昼の視線の先で、待ち受けていたのであって。

 その災害は。

 この世界を燃やすかのような。

 赤い、赤い、紅葉を背にして。

 その災害は。

 どんなに完全な完全性よりも。

 より完全な、イグジスタンス。

 その災害は。

 決して、解かれることのない。

 一つの、極めて合理的な数式。

 紛い物、みたいに、綺麗なサーティを。

 夢を泳ぐクラゲのごとくひらめかせて。

 そして。

 それから。

 その災害は。

 smileyのシニフィアン。

 非常に社交的な。

 一枚の仮面から。

 大切な、大切な、大切なお客様に対する。

 最高に礼儀正しいグリーティングとして。

 こう。

 言う。

「スマンガラム、ミスター・フーツ! スマンガラム、真昼ちゃん!」

 災害は……ミセス・フィストは。螺旋階段の空間からその平面の上へと歩み出たデニーと真昼とのことを、抱き締めようとしてでもいるかのように、わざとらしく両手を広げて立っていた。そのすぐ後ろには、五人の娘のうちの残りの四人が、透き通った氷の内側に幽閉された盲目の死刑執行人にとても良く似た顔をして、指先一つ動かすことなく、ただそこに侍している。

 虚ろな……虚ろな金属の塊を、どこかに落としてしまった時に、鳴り響くであろう音みたいな感情が、また真昼のことを襲った。四人の娘は、デニー達のことを迎えに来た一人目の娘と同じように。まるで、あの戦闘なんて無かったかのようにして、傷付いているところ、不具合なところ、一つも見当たらなかった。あんなに……あんなに、全てを賭けたつもりで、戦っていたのに。なんだか、全てのことが、とても、とても、馬鹿みたいだ。

 一方で。

 そんな、真昼の。

 うじうじした考えを。

 まるっきり、感知することなく。

 デニーは、元気よく、こう言う。

「スマンガラム、ミセス・フィスト!」

 それから、「ほらほら! 真昼ちゃんも、ちゃーんとご挨拶しないとダメだぞ!」みたいなことを言いながら。上半身だけで、くるっと振り返った。少しだけ、真昼の方に乗り出す感じ。ちゅっとした唇の形、先のところに、ぴんと立てた右手の人差し指をくっつけて。そして、ばちこーんという感じでウインクをして。例によって例のごとく可愛らしいデニーちゃんであったが……真昼は、それに対して、心の底からの不快感しか感じなかった。

 ところで……平面の上、それぞれのキャラクターの配置はどうなっているのかということ、簡単に触れておこう。まず螺旋階段に繋がっている出口は、平面を形作っている辺の中でも、製塩所に一番近いところに開いている。その前に、そこから出てきたばかりのデニー達が、一人の娘を先頭にして、その後ろにデニー、その後ろに真昼とマラーとの二人、の順番で立っている。そこから五ダブルキュビトほど先のところにミセスフィストが立っていて、そのすぐ後ろに四人の娘がいる、という感じだ。

 ちなみに、デニー達が出てきた出口であるが……ちょっと変わった姿をしていた。一枚の長方形、厚みのない、完全な二次元の長方形。真っ黒に塗り潰された紙を、縦方向に置いた白銀比に切り抜いたような形。そんな形が、平面のちょうど辺のところに、どこに繋がっているというわけでもなく、ただ単純な図形として、ぽっかりと開いているのだ。これは、きっとASKの建物によくありがちなパターン、時空やら次元やらを無理やり歪めているせいで、何もない空間に開いているこの出口が、製塩所の内部に繋がっているということなのだろう。

 ここまで案内してきた一人の娘が。

 くるっと、デニー達を振り返って。

 優雅と。

 瀟洒と。

 ペルソナじみたシニフィアン。

 ワンピースの裾を掴んで。

 とても正確な角度で。

 一礼、を、して。

 それから、ミセス・フィストのそばへと。

 踊る時計のような足取りで、帰っていく。

 さて、このことのゆえに舞台の上では、どちらのグループに属するかによって、役者達は綺麗に二つに分かたれた。デニーのグループとミセス・フィストのグループとである。もちろん、真昼は「デニーのグループに属している」なんていうことをいわれたら、その瞬間に舌を噛み切って死ぬであろうが。それはともかくとして、デニーグループの代表として、デニーが口を開く。

「今日は、とーってもいい日だね!」

「その通りですね、ミスター・フーツ!」

「こーんなに天気もいいし!」

「あなたの言った通り、今日は晴れています!」

 いやいやいや、世間話するにしても……もう少し自然に出来ないの……?みたいな気持ちになる二人の会話であるが。そもそも二人とも、ホモ・サピエンス的な文脈での世間話など必要ないのであって、そういう会話に慣れていないのだ。本来ならば、用件だけをさっさと話してそれでお終いにするところであるが。今日のデニーは、なんとなく……マジで、別になんの意味もなく、世間話なるものをしてみようという気になったのであろう。

 そして。

 更に。

 続く。

 ぎこちない。

 世間話。

「ミセス・フィストは、晴れた日に何をするの?」

「そうですね、ひなたぼっこをします!」

 いうまでもなく。

 ミセスフィストは。

 ひなたぼっこなど。

 しない。

「あ、デニーちゃんも! デニーちゃんもひなたぼっこするよ!」

 デニーちゃんは。

 たまに。

 しなくも、ない。

 可愛い。

「今日はひなたぼっこには最適の日ですね!」

「うん、そーだね!」

 正直な話として……真昼は、本当に、イライラしていた。この二人は、一体なんの話をしているのだろうか? というか、デニーは一体何がしたいのだろうか? 何がしたいって、世間話をしたいのだが、とにかく真昼としては、本当に、もう、早く、この、完全に、無意味な、会話を、終わらせて欲しかった。

 真昼としては、ミセス・フィストの姿を見ることも苦痛であれば、ミセス・フィストの声を聴くことも苦痛であった。その姿を見て、その声を聴けば、考えたくないこと、考えるべきではないこと、考えてはいけないことを、嫌でも考えてしまうからだ。昨日……あったこと、昨日、自分がしたこと。昨日、真昼が、どのようにして、このミセス・フィストというオートマタと、同じ種類の生き物になってしまったのかということ? あたしは、あたしは……ミセス・フィストと、同じ種類の生き物なのだろうか? もう、どうしようもなく、汚れてしまって、その場所から、抜け出せないのだろうか。ミセス・フィストがいる場所。あるいは、静一郎がいる場所から? ああ、いけない、また考えてしまっている。

 目を逸らせば姿を見ないことは出来るが、声はどうしようもない。マラーの手を握っていなければいけないため、耳を塞げないからだ。マラー、そうだ、マラーを心配させてはいけない。だから、どんなに苦痛であっても、顔を歪めてはいけない。なんとか表情を変えないようにと努力していたら……どうやら、手の方に力が入ってしまっていたらしい。マラーの手を握っている手、ぎゅっと強く握ってしまったらしく。マラーが、不思議そうな顔をして真昼のことを見上げた。真昼は、結局マラーを心配させてしまったことに気が付いて……小声で、また、「大丈夫」と言う。

 そんな真昼の気持ちも知らないで。

 デニーは、なおも世間話を続ける。

「あっ、そういえばさーあ。」

「はい、なんでしょう!」

「あの森のことだけど、どーなったの? 昨日の段階で、あそこに住んでたダコイティの子達は、みーんな殺すか追い出すかしたって言ってたけど。あそこら辺は、今までずーっと採掘出来なかったんでしょー? 色んなこと、ちゃんと出来てる?」

「もちろんです、ミスター・フーツ! ダコイティが不法占拠していた森林におけるダコイティの駆除は、昨日の時点、アヴィアダヴ・コンダ標準時でいえば十六時三十三分七十五秒の時点で完了し、その六秒後から樹木の伐採作業を開始しました! 更に、その伐採作業は十七時十七分八秒の時点で完了し、その六秒後から採掘作業を開始しています! 現時点では、なんの問題もなく採掘作業は続けられており、このまま順調に生産を進めることができれば、アヴィアダヴ・コンダにおける今期の利益は九パーセント程度増大するでしょう!」

「わー、すごいね!」

「それもこれもミスター・フーツと真昼ちゃんのおかげです!」

「えへへ、デニーちゃん達もお役に立てて嬉しいよー。ね、真昼ちゃん!」

 真昼は。

 真昼は。

 真昼は。

 デニーのこの言葉に、どういう反応をすればいいというのだろうか? これほど無慈悲な言葉に、これほど無邪気な言葉に。今、たった今、まさにミセス・フィストの口から、決定的に致命的な事実が、音声記号として提示された。「それもこれも」「真昼ちゃんのおかげです」。それも。これも。一昨日から昨日にかけて起こった、全ての出来事は、真昼をその中心的な原因として起こったことなのだ。真昼がいなければ起こらなかったこと、真昼がいなければ、ダコイティは皆殺しにされることはなく、ダコイティの森も伐採されることはなく、そして、パンダーラも、死ななかった。

 全部。

 全部。

 真昼が。

 真昼が。

 いや、駄目だ。考えるな、今は、まだ、考えるな。今はその時ではない。今、真昼がすべきことは、マラーを守ることであって。その妨げとなりそうなことを考えるのは、とても危険なことだ。危険? 何にとって、どのように危険なことなのか? いや、それもまた考えてはいけないことで。

 真昼の中で、抑えられない思考の奔流が暴走する。頭蓋骨の中で渦を巻いて、真昼の全てをぐちゃぐちゃにしようとする。駄目だ、駄目だ、駄目だ。このままでは……とにかく、何かが駄目だ。この奔流を、この渦を、なんとかして止めなければいけない。

 だから、真昼は。

 自分の思考を。

 あるいは。

 デニーとミセス・フィストとの会話の方向を。

 無理やり捻じ曲げるために。

 デニーに対して、こう言う。

「ねえ。」

「ほえ?」

「いつまで、無駄話してるつもりなの。」

 努めて。

 冷静な。

 口調で。

「あたし、早く、ここから、出たいんだけど。」

 それに対してデニーは「あっ! そーだね」「ごめんね、真昼ちゃん」などなどと、ぜんっぜん、少しも、欠片も、申し訳ないなどと思っていなさそうな口調で言ってから。またミセス・フィストの方に向き直って、今度は、こう言う。

「それでね、デニーちゃんとしては、いつまでもいつまでもここにいたいなーって思ってるんだけど。でもね、真昼ちゃんは、もう、しゅっぱーつ!ってしたいみたいなの。たぶん、早くおうちに帰りたいんだろうね。そんなわけで、残念なんだけど、デニーちゃん達は、そろそろここをおいとまします!」

 呑気そうにそんなことを言っているデニーの後ろで、真昼は必死に「別のこと」を考えようとしていた。「考えてはいけないこと」ではないこと、何か、もっと、安全なこと。例えば、例えば、例えば……そういえば、あたし達はなんでこんなに高いところにいるんだろう。

 真昼はデニーに対して、ASKの社領からはもう離れたいと言ったのだし、デニーもミセス・フィストに対して、この製塩所から出たいと言っている。それなのになぜ地上から離れたこんなところにいるんだろう。

 普通であれば、ある場所に出入りするところというのは、地上階にあるものだ。こんな場所、屋上と呼んでいいのかは分からないが、屋上みたいなところから、どうやって、この建物から離れようというのだろうか。

 確かデニーは、何かの乗り物について要求していた気がする。ヌリトヤ砂漠という場所を超えていくための乗り物。もしかして、その乗り物が、飛行機だとかヘリコプターだとかの空を飛ぶ乗り物なのだろうか? それならば納得がいく。ここは航空機が離着陸する場所ということになるからだ。

 そんな、真昼の推測。

 しかし、現実というものは。

 常に、人間の推測よりも。

 遥かに厳しいものなのだ。

「もちろんあなたの要望は分かっていますよ、ミスター・フーツ! ASKは、あなたが望むことを……」

「あなたが望む前に叶えることが出来る、だよね!」

「その通りです!」

「それじゃあ、デニーちゃんが望んでる物は、もう用意してくれてあるっていうことかな?」

「はい! あなたが望んでいるものは、こちらですね!」

 そう言って。

 それから。

 ミセス・フィストは。

 サーティの袖。

 理路整然、と。

 ひらめかせるみたいにして。

 ばばーんっ!という、感じ。

 右手の手のひらで。

 自分の背後の。

 開けた空間を。

 指し示した。

 いかにも芝居がかった態度というか、オートマタに芝居がかった態度というものをプログラミングしたらこんな風な態度になるだろうという感じの態度であったが。とにかく、そうして指示された先……平面の上に、いつの間にか穴が開いていた。

 ある種の目の錯覚みたいだった。あるいはただの単純な見間違いか。つい一瞬前までは、平面の上は、傷一つ見当たらないまっさらなフラットだったのに。瞬きもしていない、その次の瞬間には、その穴が開いていたのだ。主枝の、宝石を、削り出して、研磨して研磨して研磨して、直線的な落とし穴にしたような。極子一つ分の狂いもなく四つの辺を揃えられた、完全な正方形をしている穴。一辺が十ダブルキュビトくらいの、かなり大きな穴。そして、その穴から、一本の髪の毛と一本の髪の毛がこすれ合うほどの音さえも立てずに、凍り付いた海の上を滑るみたいななめらかさで、何かが迫り上がってきた。

 次第に。

 次第に。

 真昼の前に。

 姿を現してくる。

 それは。

 えーと。

 なんというか。

 思ったよりも。

 阿呆みたいな。

 ものだった。

 真昼的には、先ほど書いたような推測が前提としてあったので、そこから出てくるものはなんらかの飛行物体であると考えていた。しかも、いかにもASKの製品らしいフライング・ビークル。例えばアヴマンダラ製錬所の送迎船みたいに、生物のパロディじみた機械か。あるいはスティックに乗って空中戦をした相手のような、どこまでも無駄なものを削ぎ落とした多面体か。だが、その穴から出てきた物は、どちらとも違っていた。というか、そもそも、飛行物体でさえなかった。それは……一門の大砲だった。

 しかも、ちょっと、その、こう……まず、全体的な形状が巫山戯ていた。年端もいかない幼児が画用紙に落書きしたみたいな。基本的には固定式脚架付きの前装砲なのだが、胴体の部分というか薬室覆いの部分というか、その部分が非常に真ん丸な形をしている。そして、そこから、まるで無理やりくっつけたみたいにして、真ん丸な部分の直径よりも少しばかり細めの、円筒形の砲身が突き出ているのだ。そもそも薬室覆いと砲身とのサイズが違うのおかしくない? 砲身が細かったら薬室から砲弾が出なくない? と思うのだが、まあ、それは考えないことにしよう。

 薬室覆いの直径が十ダブルキュビトくらい、砲身の長さが五ダブルキュビトくらい。なので、穴から出てくる時には、砲身を真っ直ぐ上の方に向けて出てきていた。それから、その形やその大きさやという点よりも、遥かに注目すべき点は……うーん、これを描写しようとすると、あまりにも頭が悪そう過ぎて、ちょっとばかり躊躇してしまうのだが。思い切って描写してしまいましょう。その大砲は、全体的に、きらっきらにデコレートされていたのだ。

 大変安っぽい感じで、大変ぴかぴかしている。なんだかよく分からないが、とにもかくにも自発的に発光する(発がかぶってしまった)、模造宝石的なサムシングが、砲身から薬室にかけての一面に張り付けられていて。大部分はピンク色、ところどころ濃い赤色によって大小様々な大きさのハートマークが描かれているといった具合なのだが。薬室覆いの部分に、白い模造宝石によって、でかでかと「SEE YOU AGAIN MR.FOUTS」と書かれている。

 こう、ここまで間抜け極まるものが、ASKのような外道の極みみたいな企業によって用意されると、すちゃらかぼんちきを通り越してなんだか不気味でさえあるけれど。この大砲を見た瞬間に、デニーが目をきらきらとさせながら(デニーちゃんの目はいつでもきらきらしているのでこれは実際にきらきらしたということではなくあくまでも比喩表現だ)「わー、すっごーいっ!」と言ったことから。これはASK側の趣味というわけではなく、あくまでもお客様満足度のために、デニーの趣味に合わせたのだろうということが理解出来た。

「これ、きらきらーっていうの、すごくいいね!」

「あなたがこのような種類の飾り付けが好きであるというデータを私は保持していたので! せっかくなのでデコレートさせて頂きました! ご満足頂けましたか?」

「もっちろんだよ! すっごく嬉しーい!」

 デニーが嬉しがっているのは大変結構なことなのだが、それはそれとして、真昼は嫌な予感がし始めていた。え? 大砲? 屋上から、外の世界へと出発するという時に用意されるのが大砲? それって、これからどうなるのか……待ち受ける運命は、一つしかなくない?

 そんな、真昼の困惑をよそに。

 二人は、どんどん話を進める。

「それでは、砲身はどちらの方に向けますか?」

「えーっとね、カリ・ユガのおうちの方に向けてー。」

「分かりました!」

 真上を向いていた砲身が、ミセス・フィストのその言葉とともに、ゆっくりと回転を始める。真昼から見てやや右側の方向……斜めに四十度くらいの角度をつけた感じだ。それから、風も何もないのに、紅葉が揺れ始めて。そちらの方向にある枝がさーっと両脇に割れていって、砲弾の通り道を作る。

「今回の取引は、とても素晴らしい取引でした! 私はこの取引から多くのものを手に入れましたし、また、あなたにとっても実りの多い取引であったと確信しています!」

「えへへー、すっごくいい取引だったよ!」

「そして、次回もまた、お互いにとって素晴らしい取引になるでしょう!」

「そーだね、デニーちゃんもそう思う!」

 そう言いながら。

 五ダブルキュビトの距離を、互いに歩み寄って。

 手を差し出しあい、力強くも暖かい握手をする。

「あなたと離れ離れにならなくてはいけないことを、私はとても寂しく思います!」

「ふえーん、デニーちゃんも、とっても寂しいよー!」

 二人とも、その口調は全然寂しそうに聞こえないし、よくもまあこれほど白々しいことをお互いに言い合えるものだと思うが。ただ、真昼には、そんなことよりももっともっと気にしなければいけないことがあった。マラーの手を握ったままで、なんとなく足音を忍ばせるようにしながら、ミセス・フィストと握手をしているデニーのところまで、そっと近づいていくと。それでも、近付き過ぎるのは嫌なのか、一ダブルキュビト弱離れたところから、デニーに声を掛ける。

「ねえ。」

「ん? なーに、真昼ちゃん。」

 フードを、ひらりと揺らしながら。

 くるっと振り返って。

 ちょっとだけ前屈み。

 真昼の方に身を乗り出して。

 デニーは、にーっと笑った。

「この大砲、なに。」

「ほえ?」

「だから、この大砲、なに。」

「なにって、物資輸送特化型のシノンサ前装砲だけど……」

「そういうことじゃなくて。」

 本当に。

 この男は。

 話が。

 全く。

 通じない。

「もしかして……この大砲で、その……目的地まで飛んでいく気なの?」

「えー? まっさかー、そんなことはしないよー!」

 デニーの言葉に。

 ほっとする真昼。

 しかし、その直後に。

 デニーが付け加える。

「カリ・ユガのところの子達と暫定政府の子達との内戦はーあ、いくらおっきな戦闘が一息ついたーっていっても、やっぱり小競り合いみたいなのは続いてると思うから。上からびゅーんって飛んでこうとしたら、ばばばばーって撃ち落されちゃうよ。大砲で運んでもらうのは「平和的回廊地帯」のちょっと手前までで、そこから先はミセス・フィストが用意してくれた乗り物で行くよ。」

 いやいやいやいや。

 ストップストップ。

 ちょっと待って。

 あの、今、かなりさらっとした感じで、めちゃくちゃ重要な新情報が提供されなかった? えーっと、なんだろう、「内戦」っていう単語が聞こえた気がしたんだけど。そのカリ・ユガっていう何者かは、暫定政府とどんぱちぱっぱをなさってる方なの? しかもそのどんぱちぱっぱは現在進行形で行われている感じであるわけですか? そんなところに、今から、突っ込んでいくと? この三人だけで? しかも、「内戦」というワードの衝撃で、少しばかり驚きの感情が薄れてしまったのだけれど。目的の地点まで行かないとしても、その道のりの中途まではこの大砲でぶっ飛んでいく感じなのかよ。おいおいおい、ちょっとばかり……その、なんていうか……ちょっとばかり、その計画、ヤバくない? デニーの言葉を聞いた真昼の気持ちを、大分整理された形で言語化するならば、大体こんな感じだった。

 もちろん、これは何度も何度もいっていることであるが。真昼は、自分が死ぬこと自体に関してはなんの恐怖もない。今は考えてはいけないあの出来事が起きてからは猶更だ。というか、むしろ今すぐに死んでしまいたいくらいの気持ちなのだが……それはともかくとして、そんなわけであるから、大砲でぶっ放されることになろうと、内戦に突っ込むことになろうと、そのことについての恐怖はない。運をカヅラギノヒトコトヌシに任せて、まあ苦しまずに死ねたらラッキーくらいのものだ。ただし、その旅路に……マラーを連れて行かなければならないのなら、話は別ということなのだ。

 たった、一つ。

 残されたもの。

 これを失っては。

 いけないという。

 強迫観念。

 じみた。

 感情。

 だから、真昼は。

 デニーに向かって。

 こう言おうとする。

「ちょっと、今、内戦って……」

「んー、そのお話は後でね、真昼ちゃん。」

 人差し指をぴんと立てて、しーっとでもいうみたいにして真昼の方に突き出してから。デニーはそう言うと、右足の踵を中心にして、またもやくるんと半回転してしまった。真昼に背を向けて、話を聞こうとする気配さえない。

 二日間もデニーと寝食を共に……いや、よく考えたら寝るのも食べるのも別々に行っていたが。とにかく、丸二日デニーと一緒にいたので、真昼も、さすがに理解していたのだが。こんな感じになってしまったら、もう何を言っても無駄だ。デニーが聞くつもりのないことを聞くようなことは、絶対にない。これ以上は何を言っても全くの無駄であって、だから、真昼は、言い掛けた言葉を飲み込んで黙ってしまう。

 ちなみに。

 この大砲に。

 ついてだが。

 シノンサ砲はマホウ界で最も使用されている兵器のうちの一つである。威力こそハルバム大砲に劣るが(ハルバム大砲は対神兵器なので仕方あるまい)、強力で安価で、しかも非常に量産しやすい。実に第一次神人間大戦の頃から使用され続けてきたシノンサ砲の魅力とは、何よりもその単純な構造である。

 耐魔性の物質(主にディヴァイナイズド・メタル)で作った薬室覆いの中に魔子を満たす。その魔子をなんらかの方法でエネルギーに変換して、そのエネルギーによって砲弾を発射する。これだけだ。魔子をエネルギーに変換する時に、どれほどの力として変換するかによって、距離や速度やを操作することが出来る。

 驚くべきことに、シノンサ砲は発明された当初から移動手段としても使用されてきた。当然ながらいい感じのビークルなんてなかった時代で(いい感じではないビークルはあった)、誰もが遠いところに行くことに大変な困難を感じていたのだ。少しくらい危険があったとしても仕方がないと思われていたのだろう。

 とはいえ、人間達がシノンサ砲を移動手段として使うことはほとんどなかった。なぜならば、人間のように脆い肉体しか持たない生き物では、発射体として射出された瞬間に、まあ当然のように粉々に砕けて死ぬからだ。というか、完全に蒸発してしまって灰さえも残らないだろう。使えたのは、魔子のエネルギーに耐えられる強い生き物、例えばデウス・ダイモニカスやヴェケボサン。あるいは、人間であっても……なんらかの魔学的な力によって、自分を守る障壁を作り出せた魔学者だけだ。

 ちなみに、いうまでもなく、デニーちゃんは強い生き物なので、使える側に属している。アーガミパータでは通常の移動手段が制限されているため、シノンサ砲を移動手段として使用できると大変便利であって。実のところ、アーガミパータの外側からアーガミパータの内側にやってくる時にも、シノンサ砲でどかんと一発ぶっ放してきたくらいだったのだ。

 閑話。

 休題。

 デニーは。

 ミセス・フィストとの。

 会話を、続ける。

「じゃあ、そんなわけで、そろそろ行くね!」

「はい、分かりました!」

「あっ、そうそう! ばいばいってする前に……」

「ミスター・フーツ!」

 デニーが全部を言い終わる前に。

 ミセス・フィストが、口を挟む。

「あなたがしようとしているのは、これについての話ですね!」

 そう言って。

 自分の手のひらを差し出して。

 それを、ぱっと開いて見せた。

 腕輪から指輪までを結び付けている金細工の鎖がしゃらしゃらと音を立てて。その手のひらの中にあったのは、大変小さい、それこそ小指くらいの大きさしかない、メモリーカードのようなものだった。いや、これを例えるならば……どちらかといえばPoPカードの方が近いだろう。ほら、ハンドデヴァイスとかに挿入する、通信会社と契約したことの証明になるチップカードがあるじゃないですか。あれのことです。

 それを見ると、デニーはぱーっと顔を明るくして(とても可愛い)「そーそー、これこれ!」と嬉しそうに言った。それがなんなのかということ、真昼には全然分からなかったが、デニーは一目で分かったらしい。指先ほどの大きさのそれを、右手の指先でひょいっと摘まみ上げて。左手は、スーツのポケットに突っ込んで、ごそごそと何かを探し始めた。

 ポケットの中から取り出したのは……こちらは真昼にも半ば予測出来ていたが、スマートバニーだった。何度見ても趣味がいいとは思えない、模造宝石で出来たイミテーションの蛆虫が這い回るようにして張り付けられているスマートバニー。そのカードスロットキャップを外すと、ミセス・フィストから受け取ったカードを、すちゃっと差し込んだ。

「ファニオンズ完全秘密特許技術により、ANCカードを組み込まれたハンドデヴァイスはアーガミパータ領土内からアーガミパータ領土外へと通信が出来ることになります! ヌミノーゼ・ディメンションを利用したステッピングストーン・データコミュニケーションであるため、その通信範囲は借星内に限られてしまいますが、あなたの使用用途には十分だと思います!」

「わー、ありがとう! これでようやくお外の子達とお話が出来るよ!」

 どうやらこのカードは。

 アーガミパータ内外の。

 通信ネットワークを繋げる。

 特殊なカードであるらしい。

 以前、アーガミパータではテレポートを行うことが出来ないと書いたことがあるが、実は無線通信を行うことも容易ではない。これは、通信内容を伝播するなんらかの波動、その媒介物が、リリヒアント階層がめちゃくちゃに入り混じっていることによって、複雑な断層のようになってしまっていて。そのせいで、波動が、あっちこっちに屈折してしまうからだ。思ったところに通信内容を飛ばすのが極めて難しく、そのため、何か特殊な技術を使用しない限りは、長距離の無線通信はほとんど使い物にならない(ただし、例えば国内避難民キャンプでデニーが使っていたような非常に短距離での通信であれば使えないこともない)。

「しかし、ミスター・フーツ!」

「ほえ? なーに?」

「これからカリ・ユガ龍王領に行かれるなら、そこで有線通信機を借りればいいのではないですか? なぜあなたは、わざわざ無線通信機を要求したのでしょう?」

「うーん、念には念をってことかなー? それに、カリ・ユガに聞かれたく内容を話すかもーって感じだし。」

「なるほど、そういうことですね!」

 また、これは余談になってしまうが。アーガミパータは、今までご覧頂いてきたように、まともなインフラストラクチャーを整えられるような状況でもないため、有線による通信もほとんど行われていない。例えばジャナ・ロカ(暫定政府が置いた首都)のような場所であれば、一応は有線通信機もないわけではないが、それは、政府の高官達がアーガミパータ外部と連絡を取るためとか、そういうった用途に使われるものであって、間違っても下層市民が使えるようなものではないし、アーガミパータ領土内には電話線が通じているところなどほとんどない。

 そんなこんなで、デニーがASK社領内で済ませなければいけなかった事柄も全て終了したようだった。「そういえばさーあ」「なんでしょうか!」「ワトンゴラの件なんだけど、これから、ASKはどんな感じで動くつもりなの?」「そうですね、ASKとしては、ワトンゴラ政府との取引から、今後誕生するであろうピープル・イン・ブルーの独立自治区との取引に徐々にスライドしていくつもりです! ワトンゴラ政府はスペキエースへの差別問題から各集団との表立った取引が出来なくなっていく一方で、今後誕生するであろうピープル・イン・ブルーの独立政府にはそういった制約がなく、取引のしやすさという観点で比較した場合、今後誕生するであろうピープル・イン・ブルーの独立政府の方が圧倒的に有利だからです!」「やっぱりそーいう感じかー。あ、そうそう、ちなみになんだけど、ASKはその……ピープル・イン・ブルーの独立自治区、どんなお名前の独立自治区になると思う?」「はい! ASKは、97.6253466%(小数点七桁以下は省略しました)の確率で「ブルーバード独立自治区」という名称になると予測しています!」「えー! ブルーバード独立自治区ー?」「はい!」「あははっ! 面白いお名前っ!」などなどと言い合いながら、大砲へと向かって歩いていく。

 そして、大砲の後ろ側。

 すぐ近くのところまで。

 辿り着いた時に。

 デニーは。

 ふと気が付いて。

 振り返る。

「真昼ちゃーん、何やってんの? 行くよっ!」

 真昼(とマラーと)は、デニー(とミセス・フィストと)についていかずに、今までいたところに突っ立ったままでいたのだ。マラーのことを、あんなに危険そうな乗り物(何せ大砲なのだ)に乗せたくないという真昼の思いが、その二本の足を動かすことを許さなかったのである。

 とはいえ、いつまでもそこにとどまっているわけにはいかない。「そこ」とはつまりASKの社領なのであって、こんなところからは一刻も早く離れなければいけないのだ。それに……真昼の無意識には、事ここに至っても、未だに「デニーという生き物は、真昼の精神を傷つけるようなことは幾らでもするが、真昼の肉体を傷つけるようなことは絶対にしない」という信頼感が根強く残っていて。だから、心の奥底、自分では認めない感覚においては、その大砲が……ほぼ確実に安全な移動手段であるということは分かっていた。

 だから。

 真昼は。

 不思議そうに見上げるマラーのこと。

 無言のままで、その手を引っ張って。

 大砲の方に。

 近付いて行く。

 デッコデコにデコられた大砲、うぃーんという感じのなんだかわざとらしい機械音をあげながら、後面の覆いの一部が、あくびでもするようにして、ぱっかりと上向きに開いた。どうやらここから中に入れということらしい。

「これ……」

「ほえ?」

「これ、安全なの?」

「安全に決まってるじゃーん! だいじょーぶだいじょーぶ!」

 真昼の切実な疑問に対して、知的生命体はここまで適当になれるのかというほど適当にデニーは答えた。それから、さっさかさっさかと大砲の中に入って行ってしまう。

 ということは、このままここに立っていれば……真昼とマラーとは、ミセス・フィストと三人っきりになってしまうということで。それは絶対に避けたいことだ。だから、真昼は「それでは真昼ちゃん! 私はあなたに出会えたことをとても嬉しく思います!」みたいなことを言っているミセス・フィストのことを見ようともしないで、デニーの後について、マラーがついてこられる限りの速足で、大砲の中へと入っていく。

 大砲内。

 比較的。

 広々としていた。

 まあ直径が十ダブルキュビトくらいある球の中なのだから当然といえば当然だろう。それから、ちょっと意外だったのは、外側から見た時には全面がキラキラストーンでデコレートされていたせいで内側が見えなかったのだけれど。内側の壁はなぜか全面が透明になっていて、外側の様子は、金魚鉢の中にいるかのようによく見えた。ASKではこれよりもずっとずっと奇妙なことが起こっているので、驚きはしなかったけれど。なんにせよ、例のごとく、真昼にはどういう仕組みなのかよく分からなかった。

 ところで、その空間の中心には……一台の、ビークルが置いてあった。基本的な形状としては、まさにASKの作ったビークルですねという感じ、無駄な凹凸が一切ない非常にシンプルな形をしている。例えば卵を縦に切って、平らな面を下にして置いたような、平べったい楕円形だ。そして、上側には削り出したようにしてぽっかりと穴が開いていて、そこに二列のシートが取り付けられている。ちょうどいい感じに傾斜した背凭れがついている、プラスチックみたいにつやつやしたシート。前列のシートは一人しか座れないくらいのサイズで、前にハンドルのようなもの(なんの固定もなしに宙に浮かんでいるリング)がついているので運転席だと思われた。後列のシートは三人くらいが座れるようになっていたので、車でいう後部座席みたいなものなのだろう。サイズとしては、縦の長さが二.四ダブルキュビト程度、横の長さが一.五ダブルキュビト程度で、車よりは小さいがバイクよりは大きいといった感じだ。ハンドルと同じように、車体全体も、なんの支えも必要とせずに、地上からふわふわと浮かんでいる。いや、ふわふわとというよりも、確固として、ぴくりとも揺らぐことなしに、そこに浮かんでいる。

 と、そこまではいいのだが……問題なのは……その……あーとですね……このビークルも、やはり、これでもかというほどデコレートされていたということだ。せっかくのASKらしさが完全に破壊されている。大砲と同じように、全体がピンクのキラキラで覆われていて。それから、まるで虹色のように、様々な色のキラキラで、車体の全体に、等間隔を置いて、縦長のラインが刻まれている。そして、卵型の一番前方には……なんと、蛆虫の顔のようなものが模様として描かれていた。つまるところ、全体として把握しようとした場合、ピンク色のでっけぇ蛆虫(しかも丸々と太ったやつ)に見えるということだ。

 これは、もう、なんというか……まあ、蛆虫に見えるということは、最大限に譲歩して、それこそ百歩ほど譲って、AKであるとしましょう。ビークルが蛆虫に見えたとしても、そこに乗っている人間が死ぬことは、そりゃ滅多にないことなんだし。そうはいっても、こんなにめちゃくちゃにキラキラしてるのは、正直な話、めちゃくちゃどうかと思う。だって、そうでしょ? デニーの話によれば、これから内戦地帯に行くんですよ? こんなキラッキラしてたら、阿呆みたいに目立っちゃって、間違いなく狙い撃ちじゃないですか! 模造宝石だし、外部から照射された光を反射してキラキラしているんだと思うけど、これから向かうのはアーガミパータの炎天下なんですよ? 日差しが強ければ強いほどキラキラも強くなるだろうし、そう考えると、凄まじくヤバくないです? それこそ子供とかに着せる反射材付きのレインコートみたいなもんでしょ! 死ぬわ! 死にますわ!

 と、真昼的にはそんな気持ちになってしまったのだが。けれどもデニーは縮緬雑魚の中に入っているとなんだか嬉しい気持ちになる小さな蟹の赤ちゃんほどにも、そういった危険性を気に掛けている様子はなかった。それどころか、素敵にデコられているビークルを見てとーってもハッピーな気持ちになってしまったらしい。「わー、すてきすてき、とーってもすてきだね、真昼ちゃん!」とかなんとか言いながら、しきりにぴょんこぴょんこ跳ねている。いやー、本当にデニーちゃんって無邪気で可愛いなあ。

 それから、ててっと駆け出すと。スーツの裾をひらりとひらめかせて、さっさとビークルに乗り込んでしまった。すとりっという感じで、運転席と思しき前の座席に着席すると。ぶんぶんと手を振りながら「真昼ちゃんも! 早く、乗って乗って!」と、急かすみたいにして言った。

 真昼はもう一度、といっても今度はこのビークルについて、これ大丈夫なの的なことを聞きたかったのだが。とはいえ、そんなに何度もデニーに話し掛けるというのも、デニーに対して心を開いていることの証明であるような気がして、なんだか口に出し損ねてしまった。ちなみに、真昼は、マラーの方にはちらとも目を落とさなかったので、気が付かなかったのだけれど。マラーは……このなんだかキラキラして綺麗な乗り物に、すっかり魅了されてしまっていた。アーガミパータ人と子供、それに烏は、その形相子に「光り物が好きです」と刻み込まれているものなのであって。そしてマラーは、残念なことに烏ではなかったが、それでも子供のアーガミパータ人なのである。

 ということで、マラーは、真昼の様子がおかしいということなど、すっかり忘れてしまって(まだこれほど幼いのだから多少は頭が悪くても仕方がないだろう)、握られていた手で、握っていた手を、きゅっきゅっという感じで引っ張った。そこで、真昼は、この大砲の中に入ってきてから初めてマラーのことを見て……その両目が、目の前のビークルに負けず劣らず、期待に輝いているということに気が付いたのである。

 真昼は、なんとなく、ぼんやりとした、苛立ちのようなものを覚えたのだけれど。それを掻き消すみたいにして、一度、大きく溜め息をついてから、その「自殺行為号」とでも名付けたくなるようなビークルに近付いていった。

 まずはマラーのことを押し上げる。車体の上、後部座席の方に。腹に書かれた魔学式は問題なく機能しているらしく、この年齢のホモ・サピエンス(雌)としては、最大限に強化されている膂力によって、割合に軽々とした感覚でそれを成し遂げることが出来た。それから、今度は自分が車体を攀じ登って。わくわくした顔で、それでもきちんと真昼が座る場所を開けて座席に座ったマラーの、その開けておいてくれた座席のところに座った。

 そして、真昼が座った。

 まさにそのタイミング。

 デニーが。

 後部座席を振り返ることもなく。

 元気いっぱいで、口を開く。

「さーて!」

 左手、で。

 ぎゅっと。

 ハンドルを握って。

 それから、ちらと。

 真昼の方に。

 視線だけを向けて。

 こう続ける。

「忘れ物はないかな、真昼ちゃん!」

「無駄口を叩いてないで、早く出発して。」

「おーらい!」

 そう言うと。

 デニーは。

 ハンドルを握っていない方の手。

 右手を、軽く、上に突き出して。

 その指先。

 ぱちんと。

 音を。

 鳴らす。

 と、くあんっとでもいう感じ、一瞬にして自殺行為号(仮)の全体を透明な泡のようなものが包み込んだ。これは、恐らくはなんらかの魔学的な物質で出来ているのであろうが、ごくごくシンプルな楕円体であって、硝子か何かのようにありきたりな透明度の、これといって特筆すべきことのない覆いだった。

 それから……まるで、完全な無から発生しているかのように。薬室覆いの中、自殺行為号(仮)を包み込んでいる楕円体の外側を、何かの液体が満たし始めた。それは非常にさらさらとした液体で、水のように完全に透明であり、それでいて太陽の光みたいな色でうっすらと光る、どことなく不気味な液体だ。

 とくん、とくん、と一定の間隔で。心臓が脈打つかのように、その液体は揺らめいていた。その脈動のごとに、楕円体も、ゆらゆらと、嬲られるかのごとく揺さぶられて。やがては……薬室覆いの中を、その液体が、完全に満たし切ってしまう。真昼は、嫌な予感がした。大変に嫌な予感がした。そして、その予感は完全に正しかったのだが……ただ、デニーに何か、助けを求めるようなことを言うのは、非常に癪なので。黙ったまま、自分の手と自分の手とをぎゅっと握り合うしかなかった(マラーの手は自殺行為号(仮)に乗った時点でなんとなく放してしまっていた)。

 真昼の中で。

 次第に。

 次第に。

 緊張感が。

 高まっていって。

 しかしながら、そんな緊張感など全く感知することなく、デニーは薬室覆いの外側に向かって、ぶんぶんと、しきりに、右手(ハンドルを握っていない方)を振っていた。何もかもが透明なので、外側は、水槽の内側から外側を見るようによく見えたのだったが。その外側では、まるで、とても高級なホテルの従業員一同が、veryにimportantなpersonを見送るために、ずらっと整列しているみたいな格好で。前列はミセス・フィストが一人、後列は娘が五人、といった並び方で、勢揃いをしていたのだ。

「ばいばい、ミセス・フィスト!」

「さようなら、ミスター・フーツ!」

 そう言葉を交わし合うと(ちなみに二人の声はなんの障壁もないかのように通じ合うことが出来た)、ミセス・フィストは一歩前に進み出た。そこには、今まで全然気が付かなかったのだけれど、大体一メートルくらいの長さ、真鍮みたいな色をした、非常に単純な形をしたレバーが、いかにもわざとらしく、一本だけ地面から突き出ていて。ミセス・フィストは、それを、cheerfullyの紛い事であるかのごとく、両手でがしっと引っ掴んだ。

 すると……薬室覆いの中の液体が、ぽこっ、ぽこっ、と泡立ち始めた。例えば薬缶の中の水が煮立ち始めたような感じ。最初は断続的に泡を吐き出しているだけだったのが、どんどんとその量を増していって、最終的にはぼこぼこぼこぼこっと、完全に沸騰した感じになってしまう。この時点で、マラーも、さすがに怖くなってきたらしい。隣にいた真昼に抱きついて。真昼は、ほんの少しの嫌悪感を抱きながらも、その体を抱き締め返してあげる。

 ミセス・フィストの顔が。

 ほんの、僅かな、間だけ。

 sadlyに移行して。

 しかし。

 すぐに。

 smileyに戻って。

「別れはいつも悲しいですが……」

 そして。

 それから。

 その両手、は。

 そのレバーを。

「それは新しい出会いの始まりです!」

 遠慮仮借なく。

 ぐいっ、と。

 押し倒して。

「また会う日まで、ミスター・フーツ!」

 その瞬間に。

 液体は。

 一瞬にしてエネルギーとなって。

 その凄まじいエネルギーにより。

 自殺行為号(仮)は。

 まさに。

 砲弾として。

 射出される。

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