第一部インフェルノ #36

 その顔は。

 真昼にとっての。

 罪の表象。

 卑劣と。

 怯懦と。

 不義と。

 背信と。

 その、全ての、branded。

 真昼がその顔を見た瞬間に。真昼の頭蓋骨の中で、全ての記憶が、一瞬にして荒れ狂った。なんの前触れもなく突発的に起こった、凄まじい大災害のように、真昼の思考をめちゃくちゃに叩き潰す。真昼は、気が付いたら、今までそんな声を一度も出したことがないような声で叫んでいた。目を見開き、拳を握り締め、その場で、ずるずると後ずさりをしていた。

 一方で、brandedの方は……そんな真昼の反応に、とてもびっくりしていたようだった。体をびくっと震わせて、目をまんまるくして。真昼に向かって何かを言おうとする。落ち着かせるような何事かを。けれども、その後で、はっと気が付いた顔をして。それから振り返って、その振り返った先に置かれたソファーで寛いでいたデニーに向かって、狼狽したように何事かを叫ぶ。

「あっ! 真昼ちゃん、起きたんだね。」

 さすがのデニーも、あの叫び声で。

 真昼が目覚めたことには。

 気が付いていたらしいが。

 ただ、真昼がなぜ叫んでいるのかは。

 よく分からないようだ。

 だから、怪訝そうな顔をして。

 真昼のそばにいる。

 brandedに対して。

 こう問い掛ける。

「何? どーしたの、マラーちゃん。」

 マラー、マラー、マラー。デニーが発したその名前を聞いて、真昼はようやく正気に戻ったらしかった。そう、マラーだった。真昼が目覚めた後に、最初に見た顔は。その顔を見て、気が狂ったように叫び声をあげてしまった相手は。

 我に返った時のテンプレートといってもいいだろう、はっとした表情をした真昼は。惰性なのかなんなのかまだ叫び声を上げていた口を慌てて噤んだ。それから、またその口を開いてもう一度叫ぶ。ただし今度はきちんとした意味のある言葉、マラーに向かって「大丈夫、大丈夫だから!」と言ったということだ。

 マラーは、真昼の横たわっているベッド(そう、真昼はベッドに横たわっている)から離れて。ソファーに座っているデニーのところ、真昼に何か大変なことが起こってしまったに違いない的なことを、しきりに訴え掛けていたのだけれど。真昼の叫び声の色というか質というか、とにかく、そういうのがちょっと変わったらしいということに気が付いて。ふっと振り返る。

「マラー、ごめん。あたしは大丈夫だよ。」

 真昼は、今度は。

 努めて平静な

 口調で、言う。

 それに対してマラーは……いうまでもなく言葉は通じなかったのだけれど、どうやら真昼が大丈夫そうだということは理解出来たらしかった。その上デニーがカタヴリル語らしい言葉でマラーに何かを言ったため(たぶん「なんか真昼ちゃん、大丈夫って言ってるから、大丈夫っぽいよ」みたいなことを伝えたのだろう)。明らかにほっとした表情をして、また真昼のベッドのすぐ横までやってきた。

 そして。

 マラーだけでなく、デニーも。

 ぴょこんと、可愛らしく。

 ソファーから立ち上がり。

 こちらに向かって、やって来る。

「真昼ちゃーん、どーしたのさー! いきなり叫んだりなんかしちゃってー!」

 そう。

 一体。

 どうしたと。

 いうのか。

 真昼は……マラーの顔を見て叫び声を上げた。デニーの顔でもなく、ミセス・フィストの顔でもなく、マラーの顔を見て。そのマラーの顔は、別に傷ついていたわけでも、苦しんでいたわけでもなかった。どこにも問題がない、健康そのものの顔。というか、ASKに人質として囚われる前よりも、少しばかりつやつやとして元気になっているような気さえする。恐らくは、国内避難民キャンプでの生活よりもASKでの待遇の方が遥かに人道的なものだったのだろう。

 つまりマラーは無事だったということだ。何事もなかったということ、ASKに殺されることはなかったし、拷問されたりすることもなかった。指一本触れられることさえしていないに違いない。デニーとミセス・フィストとの契約の通り、瑕疵一つない状態で解放されたのであって。

 それならば、真昼は叫ぶ必要などなかったはずだ。「良かった……無事だったんだね……」とかなんとか呟いて、マラーのことを抱き締めるなどすれば済む話であって。いかにも感動的な再会のシーンを演じるべきはずのタイミングで……なぜ真昼は叫んだのか? マラーの顔に何を見て、何を感じて、あれほどの反応を示したというのか?

 branded。

 それは。

 真昼に。

 刻印された。

 罪悪感。

「なんか、怖い夢でも見たのかな?」

 フードの奥で、きょんっとした顔。可愛らしく首を傾げたデニーに対して、真昼は何も答えることはなかった。それから、いかにも心配そうに真昼の顔を覗き込んでくるマラーのこと、その純粋な視線を除き返さないようにして。無言のまま、その小さな体をそっと抱き締める。

 罪悪感、罪悪感……それについては、今は考えないことにした。そのことを考えれば、ひどくこんがらがった、難しい問題について考えなければいけなくなってしまうし。そうなれば、きっと、そんな真昼のことを、またマラーが心配してしまう。

 何はともあれ今はマラーのことだけを考えるべきだった。小さくて、か弱い、無垢な命。この世界中で、真昼しか頼ることの出来る相手がいない命。真昼は誓ったではないか、この命を助けると。絶対に、マラーのことを、幸せにしてみせると。それならば、そのことだけを考えるべきなのだ。そして、そのことだけを考えるならば……今は、マラーが助かったということ、そのことを純粋に喜ぶべきだ。真昼は、自分に、そう言い聞かせる。

 ふと。

 真昼の耳元で。

 声がする。

 小さく。

 小さく。

 今にも吹き消されてしまいそうな。

 蝋燭の炎に似ている、マラーの声。

 「あ、り、が、と、う」。

 「あ、り、が、と、う」。

 「あ、り、が、と、う」。

 何度も、何度も。

 まるで、真昼の傷口を。

 そっと、抉るみたいに。

 ぞっとした。全身の内側で、糸のように細い虫がざわざわとざわめいているみたいな感覚だ。マラーに触れている肉体の部分、毛の一本一本が逆立っていって、料理の下拵えのために生きたまま羽を抜かれた鶏みたいな肌になる。

 けれども……マラーは、何も悪くないのだ。マラーは、自分のことを助けてくれた真昼に対して、本当に、心の底から、お礼の言葉を口にしているだけで。しかも、その言葉がより直接的に伝わるようにと、わざわざカタヴリル語ではなく月光語で話してくれているのだ。

 全て。

 全て。

 悪いのは。

 真昼であって。

 だから。

 真昼は。

 こう言って。

「本当に、無事で、良かった。」

 マラーのことを。

 もっと。

 もっと。

 強く。

 決して離さないように。

 ぎゅっと、抱き締める。

「ふふっ! 良かったね、真昼ちゃん。」

 そんな様子を、いかにも満足げな顔をして、デニーは眺めていた。見ようによっては微笑ましいものでも見ているような表情に見えないこともなかったが、ただデニーにはこういった光景を微笑ましいものとして認識する感覚は決定的に欠如しているはずなので、たぶん純粋に「良かった良かった緑一色」くらいの気持ちでいるのだろう。

 それから、デニーは、ふっと真昼の方に上半身を傾けてきた。具体的には、真昼が上半身を起こして寄り掛かっているヘッドボードの近く(つまり枕元辺り)に立っていたデニーが、真昼の顔の近くに口を寄せてきたということだ。そのまま、柔らかくて可愛らしい唇は、真昼の耳元に、近付いてきて。

 真昼は、本能的にも理性的にも嫌悪感を感じて。そんなデニーから少しでも離れようとしたのだけれど、けれども出来なかった。そうしたければ抱き締めているマラーのことをどうにかしなければいけないが、咄嗟にそんな行動をとってしまえば、マラーのことを拒絶した感じになってしまうからだ。

 だから、真昼は、されるがままにデニーの行動を受け入れるしかなくて。近付いてくる、近付いてくる。ゆらゆらと、誘うように揺れているフードの内側の目。どうしようもなく穢れたシュガー、腐りきったキャンディー、朽ち果てたプディング、捻じれて歪んだハニー。嫌悪感を感じるほどに、甘い、甘い、甘ったるい目。真昼は、その両目に、捕らわれて、食らわれて、飲み込まれるみたいな感覚を覚えて……それから。

 デニーの唇が。

 そっと、動く。

「デニーちゃんが、ちゃーんと教えておいてあげたよ。」

 うっとりとするほど。

 優しい、声を、して。

「マラーちゃんを助けるために、真昼ちゃん、すっごくすっごく頑張ってたって。」

 それだけを言うと、その唇はすっと離れていった。真昼に屈み込んでいたデニーは、体を起こして、元の姿勢に戻って。それから、いかにも「お礼はいらないぜ」みたいな感じで、ばちこーんとウィンクをかましてみせる。

 それを見て。

 真昼は。

 ぎりっと。

 奥の歯を。

 噛む。

 炎。

 炎。

 炎のような目で。

 デニーを、睨む。

 どうやら真昼が意識を失っているうちに。デニーはマラーに対してマラーが助けられるまでの経緯を話していたらしい。恐らくは、全てではないだろう。デニーが重要だと考えたこと。真昼がマラーを助けるために、どんな英雄的な働きをしたのか(そう、それはまさにヒーローとしての所業だ)ということを。いつものデニーらしいやり方、自分にとって都合のいい部分だけをピックアップして、それを上手いこと繋ぎ合わせて、伝えたのだろう。もしもそうでなく、全てをありのままに伝えていたのならば……きっと、マラーは、あたしから離れていってしまっていただろうから。あたしのことを軽蔑して、あたしなんかのことを、二度と抱き締めてくれなかっただろうから。真昼は、そんな風に考えた。

 それは完全な善意からなされた行為だったはずだ。まあ、デニーに善意というものがあるのかというのはちょっと難しいところだが、とにかくその行為には一切の悪意は関わっていなかったはずだ。デニーは純粋に、真昼がハッピる(ハッピーの動詞形)、いや、それどころかハッピッピる(ハッピるの強調形)と思ってそうしたのだろう。けれども、真昼は……デニーの、その行為を、許すことは出来なかった。

 殴りたい。

 殺したい。

 殴りたい。

 殺したい。

 殴りたい。

 殺したい。

 この男を。

 自分の手で。

 思いっ切り、殴り殺したい。

 長い長い時間をこの男と過ごしてきて(といってもよく考えるとまだ一日か二日くらいしか一緒にいないのだが)、真昼はこの男がどういう男かを分かり始めていた。だから、デニーが行った全ての行為に対して、疑問を呈するようなことはなかった。

 何もかも、何もかもが、大変デニーらしい行動だ。デニーがそれに沿って行動している理屈からいえば、合理的以外の何ものでもない行動。真昼が気を失う前にデニーがした……あのことも。それに、マラーに対して、色々な話を「吹き込んだ」ことも。

 そして、だからこそ真昼は、それをしたことを責めても無意味だということを理解していた。完膚なきまでに理解してた。何を言っても……きっと、不思議な顔をされるだけだろう。真昼ちゃん、一体何言ってるの?みたいな反応をされるだけだろう。

 真昼の心の中に存在している「何か」が、デニーには存在していないのだ。人間が人間として生きていくために、一番大切な「何か」。その「何か」に訴えかけるような話をしても、一体何になるというのだろう? 真昼が「なぜそんな話をマラーにしたのか」と詰問しても、デニーはそんな風に真昼が怒りの感覚を抱いている理由が分からないだろう。無意味なのだ、意味がないのだ。ということで、真昼は、デニーに対して何かを言うことはなかった。

 けれど。

 許せなかった。

 絶対に。

 許せなかった。

 許す許さないという感覚は理屈ではないのだ。心の底からそう思うというだけのこと。熱すれば火が燃えるというような、ごくごく単純なシステム。真昼は、デニーが不幸になればいいと思った。どこまでもどこまでも不幸になればいいと思った。心の底から、そう思った。だって、あんなことをしたのだから。そして、こんなことをしているのだから。マラーは、あの男に、騙されてしまって……あたしのことをヒーローだと思い込んでいる。あんなことをしたあたしを。こんなことをしているあたしを。

 あたしを。

 あたしを。

 あたしを。

 あたしは、許せない。

 ふっと、思考が変な方に向かっていきそうな気がしたので。真昼は慌ててそれを頭の中から振り払った。いけない、いけない。今はこのことを考えてはいけない。何か、もっと、別のことを考えないと。

 ということで、真昼は……さっきからずっと、ぱちくりぱちくりとウィンクをして、真昼に対してなんだかよく分からないアピールをしてくるデニー(とても可愛い)のことは、完全に無視することにした。睨みつけていた目を、すっと逸らして。なるべく視界に入らないように、視界に入ってもそのことを考えないようにする。それから、抱き締めていたマラーの体のことも手放す。といっても、出来る限り優しく、マラーに不審に思われることがないように。自分の腕とマラーの体とをそっと隔てて、少しずつ、少しずつ、遠のけていく。マラーは、そんな真昼のことを不審に思う素振りもなく、とても素直に真昼から離れていってくれる。

 それから。

 真昼は。

 改めて。

 自分がいる場所。

 この部屋の中を。

 見回してみる。

 賢明な判断といえるだろう。たった今、自分が置かれている環境について考えることは、変なことを考えないためには、気を紛らわせるためには、ちょうどいい。さて、ところで、この部屋は一体どのような性質を持つ部屋であるか? 一言で表すなら、病室だ。しかもただの病室ではない。それは……そう、ラグジュアリーな病室だ。

 床も、壁も、天井も、白い色で統一されている。汚れ一つ見当たらない、その完全な白い色は、清潔感を通り越して恐怖感を抱かせるほどに清らかさを保たれていた。ちなみに材質としては、床はつやつやとしたタイル、壁は落ち着いた感じの織物調の壁紙。そして天井は、目に眩しくない程度の明かりで光りを放つ、奇妙な宝石みたいな物質で形作られていた。

 それから、真昼がその上で横になっているところのベッドは病室の一番奥に置かれていた。突き当りの壁にヘッドボードをくっつけるみたいな形だ。病室と同じように、清潔を通り越して純潔とさえいってもいいような白一色で統一されたそのベッドは、硬過ぎも柔らか過ぎもせず、真昼という人間の肉体にぴったりとフィットするように精密に計算され尽くされた弾性で。その内側に宇宙でも詰まっていて、無重力の上で眠っているのではないかと思うほど負担のない寝心地だった。また、上にかけられているシーツは……真昼もまあ一応はお嬢様なので、家出をしていない時は、百パーセント絹で作られたシーツで眠っているのだが。そういったシーツよりも、より一層さらさらとした、どこか艶めいたところのある布で出来ていた。

 そのベッドの周り、枕もとの右側の辺りには、何かの機械が置かれている。高さの方向に長い箱型で、その高さが一ダブルキュビトくらい。これまた真っ白で、プラスチックみたいにつやつやした表面の箱からは、なんらかの種類の生命体から極細の触手が飛び出しているかのように、たくさんのケーブルが伸びていて。その一つ一つの端部が、真昼の体の様々な部分に繋がっている。まあ、繋がっているといっても、薄い膜のようなもので張り付いているだけではあったが……白い箱の上のところから、何枚も何枚もホログラム・スクリーンが投射されていて、その一枚一枚にグラフだの数値だのが映し出され、リアルタイムで更新されていることから。その箱が、真昼の体の状態をモニターしている検査装置であるらしいということが分かった。

 一方で、枕もとの左側には、点滴スタンドが置かれていた。点滴スタンドにラグジュアリー性を付加するということは不可能だったらしく(柄のところに金とかを使っても重くなるだけだ)、誰がどう見ても点滴スタンドだと分かる、点滴スタンドらしい点滴スタンドだった。実用一点張り、全体的に真鍮の色をしていて、一番下のところは三脚に分かれている。一つ一つにキャスターが付いていて、その車輪は、今のところはストッパーで止められていた。二手に分かれたフックの片方には点滴が留められていて、もう片方にはチューブの余ったところが引っかけられていて。もちろんそのチューブは真昼の左腕に繋がっていた。

 ところで、真昼は……一体何を点滴されていたのだろうか? 真昼が目を向けたバッグには当然ながら何らかの液体が入っていて。特にラベルのようなものは貼ってなかったのだが、ただ、真昼は、その液体を知っていた。確かに、確かに、絶対に、それを知っていた、この世界にあるあらゆる物質の、何よりも純粋な、ミルクみたいな液体。いや、それを液体と呼ぶのはおかしいだろう。そもそも物質ではないのだから。それは存在せず、概念として捉えることもできない。ただの、単純な、生命。あらゆる色をその内側に含んだ、白としての輝きは、あたかも生けとしとし生けるものを産み落とした海のように慈悲深く……つまり、それは、ライフ・エクエイションだった。

 囚われて虐げられて。

 搾取され続けている。

 カーマデーヌから。

 奪い取った、もの。

 それを見た瞬間に、真昼は、ほとんど何も考えず、反射的に、自分の左腕からそれを引き抜いた。千切り取るみたいに乱暴な仕草に、ちょっとびっくりした感じのデニーが「ほえ? 真昼ちゃん?」と声を掛けるが。何かを問い掛けられる前に、コミュニケーションを拒否するような口調で「何でもない」と言って、真昼はその問い掛けを封じた。

 さて、そのデニーであるが……先ほども書いたように、真昼の枕もと、具体的には点滴の前辺りに立っていた。更にその横のところにはマラーがいて、さっきまではデニーと並ぶみたいに立っていたのだが、今ではちょこんと椅子に座っている。ベッドに寝ている人と話しやすいようにシートハイを調整されたイージーチェアで、立方体みたいに真四角のボックスクッションから、ゆったりした背凭れとフレームみたいな形をした腕置きとが突き出ている、ちょっと洒落た感じのデザインをしていた。

 真昼のベッドはどちらかというと右側の方に置かれていて、その更に右側の狭い空間(といっても人一人が立つのに十分な大きさはあったが)にはクローゼットが置かれていた。シンプルな金属製のクローゼットで、上の部分は両開きの扉になっていて、下の部分は幾つか引き出しが取り付けられている。

 一方で、ベッドの左側は少し開いた空間になっていた。その空間には、部屋の左奥、隅の角にくっつけるようにしてL字型のソファーが置いてあって。さっきまでデニーが座っていたのはそのソファーだ。L字の長い部分が三ダブルキュビト程度、短い部分でも一.五ダブルキュビトくらいある広々としたソファーで、この部屋に置かれた何もかもと同じように白い色。ソファーの上に置かれた、抱き締めるのにちょうどいいくらいの大きさのラウンド・クッション(合計四つ)も白い色をしていた。

 そのソファーの前には、どこかで見たことがあるような、背の低いテーブルが置いてある。ガラスの天板で、純銀のように磨き抜かれた一本の棒を曲げた、なめらかな曲線を脚にしたテーブル。ただし、このテーブルの天板は、長方形ではなく楕円形をしていたが……それにしても、なんとなくラグジュアリーな感じがする物体であるということには違いがない。

 これで病室の奥については大体のことを書き終わったが、今度は病室の手前について。つまり、ベッドに起き上った真昼の視線の先にあるものについて書いておこう。とはいっても、大したものがあるわけではなかった。まずは、真昼から見て右側の部分であるが……部屋の壁が、上から見ると頂点のうちの一つを切断した長方形みたいな形に見えるであろう感じに、出っ張っていた。出っ張っていたというか、曇りガラスで仕切りがされていたということであって。要するにそこは患者のためのシャワールームらしかった。中の様子は分からないのだが、上から見た時に切断された頂点にあたる部分が、仕切りと同じ曇りガラスのような物質で出来たドアになっている。

 そして、真昼から見て左側。これは廊下になっていた。廊下というか、シャワールームの出っ張りのせいで空間が細められて、自然と通路みたいな形になっているだけだったが。とにかく一本の通路があって、その奥は、一枚の扉が取り付けられた行き止まりになっていて。真昼は、その扉のことも、やはり、ガラスの天板のテーブルと同じように、どこかで見たことがあった。ひどく重々しいパネルドア。どっしりとした木を彫り抜いて作られたような、戸板。きらきらと金色に光るノブが取り付けられた、鍵のない開き戸。この扉を見たのは……確か、ほんの少し前のことだ。けれども、もうずっとずっと過去のことみたいに思える。これを見たのは、あの、ラグジュアリーな、ホテルのような一室で。

 そう。

 この扉があるということは。

 つまり。

 真昼は。

 まだ、ASKの領土のどこかに。

 閉じ込められたままと、いうこと。

「ここ……」

「ほえ?」

「ここ、どこ。」

 とはいえ、アーガミパータに来てから随分と慎重になっていた真昼は、念のためデニーにも聞いておくのだった。目を合わせず、それどころかデニーがいる方とは反対の方に視線を落としながら、ぼそっと口にされたその言葉に。デニーは、例によって例のごとく、特に気を悪くした様子もなく答える。

「あー、そっか。真昼ちゃん、ずっと寝てたから、ここがどこか分かんないよね。えーっと、ここはねーえ、サフェド湖の製塩所!」

「サフェド湖……?」

「そっ! サフェド湖。」

 予想してなかったというか、そういうのが欲しかったわけではない感じの回答であるが。その答えから察するに、真昼が考えていたよりも、今のこの状況には複雑な経緯が有りそうだ。真昼はアヴマンダラ製錬所内のどこかに自分がいると考えていたのだが……どうやら、そうではないらしい。

 デニーは。

 いつものような饒舌さで。

 ぺらぺらと。

 話を続ける。

「あのね、真昼ちゃん、ずっとずーっと寝てたんだよ。起こそうとしても全然起きなくって! 結局、どれくらい寝てたんだっけ? えーっと、昨日のお昼ぐらいからだから……そうそう、丸一日寝てたってことだよ! あっ、でもね、心配しなくてもだいじょーぶだよ。その間に、デニーちゃんが、ミセス・フィストとお話ししてね。色々なこと、ぜーんぶ決めておいたから。

「これは真昼ちゃんも聞いてたことだと思うんだけど、ASKはASKと関係ない人にテレポート施設を貸すことはできないんだって。もしかして、テレポート施設をハッキングされて、テレポートのために通してあるルートを読み取られちゃったら、大変なことになっちゃうからって。んもー、デニーちゃんはそんなことしないから、貸してくれたっていいのにね! とにかく、施設を使うことはできなくって、でも、ミセス・フィストに付いてるテレポート装置なら、アーガミパータにある支店間の移動にしか使えないから、ミセス・フィストが管理してる限りでーってことで使わせて貰うことが出来るっていうから。それで、デニーちゃん達はそれを使わせて貰うことにしたのね。

「それでーえ、問題になってくるのはどこにテレポートして貰うかってことなんだけど。そのテレポートでアーガミパータから出られない以上は、まず外に出られるような方法を考えて、その方法のためにいっちばーんいい感じの場所にテレポートして貰う必要があるよね。っていうことで、まず最初に考えたのが、オンドリ派教会領のどこかだったんだけど。でも、これは、もしかして、ちょーっとだけ、危ないかもしれないよね。だってー、アーガミパータにある教会領はー、ぜーんぶフランちゃんの支配下にあるんだし。フランちゃんは、デニーちゃんのこと、殺そうとしてるもんね。だから別の方法を考える必要があったってわけ。

「ということで、フランちゃんに気が付かれないようにアーガミパータから脱出するには、教会と関係してるところに行くことは出来ないんだけど。そうなると、それ以外に考えられるいっちばーん簡単な方法は、外にいる誰かさんに迎えに来て貰うことだよね。今までは、その誰かさんに迎えに来てーって連絡する手段がなかったから、その方法を使うことが出来なかったんだけど。ASKに、アーガミパータの外側とも連絡出来る通信機を貸して貰えることになったから……えーっとね、この通信機はまだ用意出来てないらしくて、借りられてないんだけど、ここを出る頃には用意出来るってゆーことで……なんとかなりました!ってことだね。

「それで、どこにテレポートするかっていう問題なんだけど。もしも誰かさんに迎えに来て貰おうとするなら、もーっちろんアーガミパータとお隣の国との国境の近くが良いよね。だってだって、アーガミパータの奥に入って来れば来るほど危険になってくるんだから。その分だけ、移動の最中に、何か問題が起こるかもーっていうドキドキが増えてきちゃうわけでしょ? んー、デニーちゃんもドキドキするのは嫌いじゃないんだけど。でも、やっぱり、お仕事はちゃんとさくせーす!させなきゃいけないから。

「と、いうことで! ヌリトヤ沙漠の近くにある……っていうか、ヌリトヤ砂漠の中にある支店のうちの一つにテレポートして貰ったっていうわけ。ほらほら、ヌリトヤ沙漠って、アーガミパータとスーキスタンとの国境にあるじゃないですか! それに、やっぱり、なんていっても沙漠だから、あんまり人がいないところだし。目立たないで国境を超えるには一番都合が良いんだよね。それで、その支店っていうのが、サフェド湖の製塩所。」

 なるほど。

 そういう。

 ことか。

 と、デニーにしては珍しく、分かりやすいというほどではないが、それなりに分からないわけではない話だった。要するに、まだASKの社領内にいることは確かだが、地図上の位置からすると随分と離れたところに来てしまったということだ。さっきまで……いや、真昼の感覚からするとついさっきだが、デニーの話によれば丸一日寝てたということだから、さっきというのはおかしいのかもしれない。とにかく、ちょっと前までは北アーガミパータにいたはずなのに、今は南アーガミパータにいるというのはなんだかおかしな気がするものだ。真昼は地理の授業を(というか地理の授業「も」)真面目に受けていなかったので、なんとなく距離感が掴めないが。なんと、実に二千エレフキュビト近くの距離を移動してきたということになる。

 それはそれとして。

 デニーの中では、既に。

 新しい、脱出プランが。

 完成しているようだ。

「つまり、この……製塩所から、国境に向かうわけ?」

「そうそう、そーいうこと。」

 デニーは軽々しくそう答えてから。

 ちょっと考え直して、付け加える。

「あっ、でも、ちょっと寄り道してくけどね。」

「寄り道?」

「うん! えーっと、ヌリトヤ沙漠にはね、デニーちゃんのお友達が住んでるの。とってもとーっても古いお友達なんだけど、せっかく近くに寄ったから、挨拶していこうと思って! それに……ちょーっと、借りたいものもあるしね。」

 その最後の言葉を発した時のデニーの顔が、なんというか、ほんの少しだけ……忌まわしいというか、禍々しいというか、不吉なものに見えたため。真昼は思わず聞き返してしまう。

「借りたいもの?」

「あー、真昼ちゃんは気にしなくていいよ!」

「……誤魔化そうとしないで。」

 真昼は、声の底に。

 怒りを、滲ませて。

 そう言った。

 デニーが、今、発した言葉。もしも昨日までの真昼であれば、もしもあんなことが起きる前の真昼であれば。きっと、なんの気なく聞き流してしまっていただろう。けれども、今となっては……はっきりと分かっていた。その言葉は、デニーが、明らかに、何かを、真昼から隠そうとしている時の言葉であるということを。

 もう……もう、二度と、あんなことが起こってはいけない。あんなことが起こったのは、真昼が馬鹿だったせいだ。デニーの言っていることに、大して注意を傾けることもなく、それに唯々諾々と従ってきたせいだ。真昼は忠告されたではないか。デニーの言うことを信じるなと。デニーの言うことは、全て、嘘か悪意のある真実かであると。

 だから、真昼は。

 もう二度と。

 そんなことはしない。

 デニーの言うことを。

 軽く聞き流してはいけない。

「どういうこと。あんたは……何をしようとしてるの。」

「えー? それ、説明しないとダメ?」

「説明して。」

「んー、まあ、いいけどお……」

 デニーは、いかにも面倒そうに。

 嫌々ながらも、説明を、始める。

「そもそもー、真昼ちゃんがアーガミパータに来たのはなんで?」

「なんでって……誘拐されたからだよ。」

「誰に?」

「REV.Mのテロリストに……」

「そうだよねー。それで、REV.Mの子達は今でも真昼ちゃんのことを狙っているはずなんだけど、今まではずっとずーっと手が出せなかったの。製錬所にいた時にはフォース・フィールドが守ってくれてたし、ダコイティの子達が住んでた森にいた時には結界が守ってくれてたからね。でも、これからここを出て、国境の方に向かっていくことなると、もうそういう風に守ってくれるものはなーんにもないってことになるわけです。

「もちろんデニーちゃん達は、あっちからこっちまでびゅーんってテレポートしてきたんだから、普通のさぴえんすだったらここにいるーってことは分からないはずなんだけど。でもでも、REV.Mの子達って普通のさぴえんすじゃなくって、スピーキー……あーっと、スペキエースじゃないですかー。当然だけど、プレコグニション持ちとかクリアスペーサーとかがいるはずで。デニーちゃん達が今どこにいて、これから何をしようとしてるのかーってことは、大体分かるはずだよね。

「だとすれば! デニーちゃん達が国境を越えちゃう前にどわーって襲い掛かってくるのは間違いないってことになるわけ。し、か、も、前回はレベル5が二人で失敗したんだから、よーっぽどお馬鹿さんじゃない限り、今回はそれ以上の戦力を送り込んでくるはずで。一方! デニーちゃん達には、グリーンハウンド・プログラムみたいに頼りになる防衛システムは、もう有りません!

「これって、すっごくすっごく良くないことだよね? 今度は、何人のスペキエースがぺけぺけぽんっ!てしてくるか分かんないし。それにもしかして……ほんっとーに、もしかしてにもしかしてだけど、レベル6とかレベル7の子がぺけぺけぽんっ!てしてくるかもしれないわけじゃないですかー。ただでさえ、デニーちゃんはこの状態で、レベル6の子だって相手に出来るかどうか分かんないのに、レベル7の子なんて来たら、ぜったいぜったいぜーったいに大・大・大ぴんち!ってなっちゃうよね。

「と、ゆーことはっ! 来たるべきそーいった感じのしちゅえーしょんに、何かにかにかの備えをしておかなければならないということになります! いーかんじの大量破壊兵器とか、いーかんじの対神兵器とか、そーいうのがないと、デニーちゃんも真昼ちゃんも死んじゃうかもしれないでしょ? まー、まー、そーいうのをASKから借りられれば良かったんだけど、ASKってけっこー変なところで慎重だったりするから、さすがにこんな感じの状況下では貸してくれないと思うんだよね。もしかしてもしかすると、デニーちゃんがそれを使ってASKを攻撃しないとも限らないし。

「そ、こ、で、デニーちゃんのお友達に会いにいこーって話になるわけでーす。カリ・ユガっていうお名前なんだけど、ずっと昔のデニーちゃんがそうだったみたいに、色んなおもちゃをたくさんたくさんたーっくさん持ってるの! だから、おねがーいっていっしょーけんめーな感じで頼めば、一つくらいは貸してくれると思うんだよね。つまり、デニーちゃんが「借りたいものがある」って言ったのは、そーいうことなの。」

 一応のところ。

 筋が通る話だ。

 確かに……今まで色々なことが有り過ぎたために、すっかり忘れてしまっていたのだが。真昼は現在進行形でテロリストのターゲットなのだ。アーガミパータにいるうちは、今のように安全な(ASKの社領内にいるということが安全といえるのならばの話だが)場所にいるということは例外的な状況であって。これから、その例外的な状況の外側に出る以上は、危険なぺけぺけぽんっ!(?)に対して、何かにかにか(?)の備えをするというのは当然のことといえるだろう。

 ただ、どうも気になることが多過ぎる。

 それに、不吉な予感が、拭い切れない。

 そのカリ・ユガという何者かだが、どういう種類の「お友達」なのかということがほとんど分からない。デニーは、これまで、静一郎のように下卑た人間が相手でも、パンダーラのように気高いダイモニカスが相手でも、等しく「お友達」という言葉を使ってきた。つまりカリ・ユガはそのどちらである可能性もあるということだ。デニーの話からなんとなく察するに、どうやら……パンダーラの側、真昼から見て正義の側にいる生き物ではなさそうであるが。それは、あまりいい情報だとはいえない。

 それに、これは具体的な懸念というわけではないのだが。なんとはなしに、本当に、なんとはなしに……嫌な感じが付き纏っていた。デニーの話には、何か引っ掛かるところがある。真昼はこの数日間で、デニーがデニーらしいことをしているシーンをごく間近で見てきた。そのデニーらしいことというのは要するに信じられないほど冷酷な裏切り行為であるが、とにかく、その裏切りの際に、ダコイティに向かって話していた、人をいいくるめるための嘘偽りと。今の話の……なんというのだろう、メロディ、旋律のようなものが、非常に似通っていたのだ。

 これが何か、「あんたの話したことのこの部分がおかしい」と、はっきりいえるようなものであればいいのだが。残念なことに真昼には、その嫌な予感を言語化出来るだけの賢さはなかった。それに……例え言語化出来たとして、どうすればいいというのだろうか? 真昼に、一体、何が出来るというのだろう。

 真昼には。

 もう。

 選択肢など。

 ない、のに。

 カリ・ユガという何者かが真昼から見てどちらの側にいるかという問題よりも。真昼から見て真昼がどちらの側にいるのかという問題の方が、遥かに深刻で遥かに切実ではないだろうか? 今の真昼は、完全に、墜落してしまっていた。自分が「道徳的高み」であると、ずっとずっと考えていた場所から……デナム・フーツがいる場所へと。そう、その通り。真昼は、既に、デニーの共犯者であった。間違いなくデニーと共同して犯罪を行った人間なのだ。確かに、真昼は何も手を下していないかもしれない。それでも、真昼は、見ていた。デニーがパンダーラを殺すところを見ていたし、ミセス・フィストがダコイティを壊滅させるところを見ていた。そして、そんなことがあった後でさえも……真昼は、この通り、死んでいないのだ。

 真昼は自分の欲するものを手に入れるために正義を手放した人間だ。それは要するに静一郎と何も変わるところのない人間であるということであって。そんな人間は死ぬべきなのだ。けれども、それでも……真昼は死ぬことができなかった。なぜか? その理由は単純で、もしも真昼が死んでしまえば、間違いなく、マラーも死んでしまうだろうから。マラー、マラー、マラー、真昼が、自分の正義を投げ出してまで欲したもの。天秤の上、パンダーラとダコイティとが乗っている方とは、反対の皿に乗っていたもの。真昼に、唯一、残されたもの。

 マラーという信じられないくらい弱い生き物が、このアーガミパータという地獄で(真昼はこの二日でアーガミパータが地獄であるということを実際の経験として知った)生きていられるのは、デニーの庇護下にあるからだ。そして、マラーがデニーの庇護下にいられるのは、それは真昼が生きているからである。真昼とデニーとの「契約」。真昼が自分自身の生存と引き換えに出した条件。それによってマラーは守られている。

 だから、真昼は死ぬことができない。真昼に残された、唯一のものを守るために。これはなんだか……ちょっと変な話に思われるかもしれない。真昼が、絶対になってはいけなかったはずの人間、静一郎のような人間になってまで守ろうとしているもの。自分の信念を曲げてまで守ろうとしているものは……つまるところ、自分の信念なのだ、ということなのだから。正確にいえば、自分の信念の残骸。正義の残響のようなもの。

 しかしながら、他人から一体どう思われようとも、真昼にはそれしか方法がなかった。生きる方法、死ぬ方法、その両方。真昼が、そこに存在し、そういう概念であるところの、一つの魂魄の記録としての方法。その方法として、真昼には、生きるという選択肢しかなかった。生きて、生きて、生きて。そして、何があっても、マラーを生かし続けること。自分の罪の象徴、それどころか、現在進行形で、その肉体から、真昼の罪を発生させ続けているところの、マラーという生き物を、生かし続けること。

 それだけが。

 今の真昼に残された。

 唯一の。

 縋りつける。

 何かなので。

 だから真昼は……ベッドの横、イージーチェアに座って、じっと真昼のことを見ているマラーに、ちらりと視線を向けた。デニーと真昼との会話はもちろん共通語によって行われていたので、その内容については一言も理解出来ていなかったが。それでもマラーは、大変な、とても大変な思いをして自分の命を救ってくれた二人のことを、幼い少女のひたむきさによって完全に信じ切っていた。幼い少女のひたむきさというのは、つまるところ、あまりに経験が少な過ぎるせいで、自分の中で比較検証し、弁証法的に昇華していくべき何ものも持たないがゆえに、目の前にある「それ」以外のことは信じられなくなってしまう信仰のことであって。その信仰というものは……つまり、おとといまで真昼が持っていた清らかさと同じたぐいのものだったということだ。

 それゆえに、今の真昼には、今のマラーのことが、限りなく眩しく見えた。この弱く愚かな生き物は……賢さと強さとの引き換えとして、自分が失ったもの全ての象徴であった。

 いや、象徴というのは少し違うかもしれない。なんというか、この少女は、このマラーという少女は……何よりも大切だったはずのそれらを、奪っていった者なのかもしれない。

 真昼が、その中で、いつまでもいつまでも眠っていられたはずの、無知という泥濘。その泥濘の中では、正しいことだけが正しくて、ヒーローはいつもヴィランに勝利していたはずの、場所。その場所から、真昼が引き摺り出されたのは、この少女のせいなのかもしれない。マラーをその中に包み込んで、外側の世界の醜さ悪さから守るために、わざわざその中から外の世界へと飛び出したのが、真昼自身の選択だったとしても……それは、真昼が何も知らない愚かな生き物であった以上は、判断能力のないものに対する詐欺行為に似た何かなのではないか? 真昼は、騙されたのではないか? 騙されて、何よりも安全な、どこよりも安全な、foolishという場所から引き摺り出されて。

 そして。

 真昼は。

 今。

 どこにいる?

 はっと、真昼は我に返った。今、自分は何を考えていた? 何かとても悪いこと、とても醜いことを考えていた。思い出すことさえ汚らわしいような醜悪なことを考えていた。マラーが真昼のことを怪訝な顔で見ていた。真昼に向ってカタヴリル語で何かを問いかけてくる。恐らく「どうしたんですか?」みたいな意味の言葉だろう。真昼は、共通語で、「大丈夫」と答える。

 ああ、どうしよう。考えれば考えるほど自分が捻じ曲がっていく。精神の関節の一つ一つが、曲がってはいけない方向に曲がっていって。そして、最後には、何か、恐ろしいことが起こってしまいそうな気がする。具体的に何が起こるのかは分からないのだが、とにかく予感がするのだ。今の……そう、今のこの状態よりも、もっと、もっと、悪いことになってしまう気がする。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。もう何も失いたくない。もう何も、自分から、奪われてしまいたくない。だから真昼は、先ほどもそうしたように、それ以上は考えないことにした。そこから何か怪物が出てきそうな穴に蓋をして、それ以上はその穴を見ないことにした。それが一番簡単な解決策だ、本当に解決したのかは別として。それから、別のこと、もっと簡単に答えが出せる、単純な問い掛けを、自分に向って問い掛ける。

 マラーを守るためには。

 一体どうすればいいか。

 もちろん、そのためには。

 すっと一緒にいればいい。

 だから、真昼は。

 デニーに向って。

「あんたがあたしをどこに連れて行くとしても。」

 吐き捨てるみたいに。

 嫌悪を込めて、言う。

「絶対に、マラーは連れていく。」

「はいはーい、分かってるよー。」

 それに対して。

 デニーは。

 いつものように。

 適当に、答えた。


「ねえ。」

「ほえ?」

 あれから暫くの間、気不味い沈黙が流れていたのだけれど(もちろん気不味いというのはデニーにとってではない)、その沈黙が風船でその言葉が針であるかのようにして、ふと真昼が言葉を発した。

「ちょっといい。」

「なあに、真昼ちゃん。」

 そう言ってから……真昼は、ゆっくりと、ベッドから足を下した。デニーが「あっ、目が覚めていきなり立とうとすると危ないよ真昼ちゃん!」と言い、マラーが慌てて何か手を貸そうとするが、真昼はそのどちらについても気に掛けなかった。

 真昼は何度か病院のベッドで目覚めた経験があるのだが(そのどれもが愉快な思い出ではない)、そういう時はいつだって、目覚めたばかりのタイミングではほとんど体を動かせなかった。なんというか、全身に力が入らず、もしも立とうとなんてしようものなら、爪先から崩れ落ちていくような感覚とともにその場に倒れてしまったものだった。

 けれども、今は、全然そんなことはなかった。むしろ体の全体に力が漲っているような気分だ。そもそも、目覚めたその瞬間から頭がはっきりとしていたし。体中の筋肉が活動に最適な状態になっていた。これは、たぶん……あの点滴のおかげなのだろう。カーマデーヌの、ライフ・エクエイションを、ずっとずっと、体の中に投与し続けた結果。そう考えると、全身を掻き毟りたいような不快感に襲われたのだけれど、真昼はそれをなんとか我慢する。

 それから、苦も無くベッドの横、デニーとマラーとがいる側に立ち上がった。マラーが心配そうに見ている、真昼はそっとその手に触れて、自分が大丈夫であることを伝える。それから、「真昼ちゃん! もう少し寝てたほうがいいよ!」みたいなことを言っているデニーに、しっかりと視線を向けて、言う。

「あんたを殴りたいんだけど。」

「真昼ちゃんが、デニーちゃんを殴りたいの?」

「そう。」

「いいよっ! でも、なんでかな?」

「面倒だから、理由は説明しない。」

「ふーん、分かった!」

 デニーちゃんは無意味な破壊や理不尽な暴力といったものには比較的理解がある方なので、真昼の要求に対して、大変素直にそう答えると。可愛らしいおめめをきゅっとつぶって、「はいっ!」と言いながら、真昼に向かって頬を差し出した。それに対して真昼は、差し出されたその頬を、力の限りにぶん殴る。

 真昼もなんとなく予想していたことだが、真昼が全身全霊、持てる力の全てを込めてぶん殴っても、デニーに対するダメージは皆無であった。真昼は、平手でさえなく、握りしめた拳によって、デニーの頬を直撃する形で殴ったのであったが。その行為にデニーが痛みだとかなんだとかを感じた様子は微塵もなかった。

 それどころかデニーは……殴られたその瞬間に、真昼を気遣いすらしたようだ。真昼の力なんてたかが知れてるから、それで殴られたところで、本来はデニーの顔は全く動かなかっただろう。ただ、デニーが顔を動かさなければ。いくらデニーちゃんのプリティなほっぺたがぷにぷにふわふわだといえ……真昼の拳が損傷するのは避けられないだろう。ということで、その衝撃を逃がすために、デニーは、ちょっとだけ顔を横に動かしてあげていたのだ。

 デニーのこと、殴り終わり。

 自分の拳を、見下ろす真昼。

「もう一つ。」

「なあに?」

「たった今、あたしがあんたを殴ったのと同じ強さで、今度はあんたがあたしを殴って欲しい。」

「いいよー。」

 寸分の躊躇いもなくデニーは真昼を殴った。求められた通りに、真昼がデニーを殴ったのと同じ強さで。殴られたデニーを見ただけでは、その強さが全然分からなかったのだけれど……どうやら、真昼は、相当の力でデニーを殴っていたらしい。頬を殴られた真昼は、あまりの衝撃で、体の芯がふらついてしまい。そのまま、後ろざまに、ベッドに倒れこんでしまった。

 当然ながら驚いたのはマラーだ。というか、さっきからずっと驚きっぱなしであるところのマラーなのだ。まず真昼がデニーのことを殴ったのが驚天の霹靂だったし、デニーが真昼のことを殴り返したのも寝耳に動地だった。しかも、お互いに怒鳴りあっていたりとか、罵りあっていたりとか、何かしら喧嘩っぽいことをしていたのならまだしも、ごくごく静かな話し合いというシチュエーションからの唐突なビート・ユー・アップである。これでびっくりしないという方がおかしい。

 何か反応を示したいのだが状況が全く分からない。互いのことを殴りあったにも拘わらず、デニーはなんだかにこにこしてるし、ベッドに倒れたままぼーっとしているらしい真昼だって、怒っている様子は全然見られない。年端もいかない子供には荷が重すぎる状況に、マラーはただあわあわしていることしかできなかったのだけれど……ふと、真昼が、そんなマラーの困惑に気が付いたらしい。「大丈夫」「大丈夫だから」「別に、なんでもない」と、やはり共通語で、声を掛ける。

 この「大丈夫」という単語は、今までに何度か使われていたし、その優しく落ち着いた感じの口調から、どうやら「アトゥ・パラヴァーレイ」と同じ意味らしいということは、マラーもさすがに気が付いていて。だから、真昼的には、今のこの状況もアトゥ・パラヴァーレイなのだろうということは分かったのだが……本当にアトゥ・パラヴァーレイなのだろうか? なんだか、マラーには、真昼の口調がさっきから元気がないように思われた。その元気のなさは、先ほどの殴り合いよりも前、ついさっき真昼が目覚めた時からなのではあったが……なんとなく、元気のなさと、殴り合いとが、関係しているような気がする。

 マラーは、もしも真昼が困っているのなら、その力になりたかった。真昼は、マラーの命を二度も救ってくれた人で。その恩を、なんとかして、返したかった。でも、真昼が今、何かに困っているのだとしても……何に困っているのかさえも、マラーには分からなかったのであって。だから、今は、ただ、ベッドに横たわっている真昼の手をぎゅっと握りしめて。自分がここにいること、ずっとずっと真昼のそばにいるということを、伝えることしかできなかったのだった。

 少しの間、そのままでいてから。

 真昼は。

 自分の手から。

 マラーの手を。

 そっと、ほどいて。

 それからベッドの上、また上半身だけ起き上がった。デニーに殴られた頬の部分に触れてみる。一本一本の神経がぎりぎりと震えているみたいに痛くて、それに熱を持っていて少しだけ熱いけれど、ただそれだけだ。例えば骨が折れていたりとかそういう様子はない。デニーは……力を加減したわけではないにせよ、当たる角度と方向については、細心の注意を払ったのだろう。打撃が当たった個所には、もちろん重大な損傷など欠片もなかったし。それに、殴打の衝撃によって頭蓋骨の中もぐらぐらと痛んではいたが、脳震盪を起こしたりだとか、そういった気配があるわけでもなかった。

「どーお?」

「何が。」

「満足できたあ?」

「全然。」

「んー、それは残念だねー。」

 蓋し、デニーはなぜ真昼が自分のことを殴ったのかということはよく分かっていないのだろう。デニーちゃんも「そこら辺の生き物ぜーんぶ殺してみよっ!」ってなんとなーく思うことあるし、真昼ちゃんもきっとそんな感じなんだろーな、くらいにしか思っていないに違いない。

 とはいえ、それを言うのならば。真昼自身も、なぜ自分がこんなことをしたのかということ、よく分かっていないのだ。デニーを殴ることで、自分の中の何かを取り戻したかった。デニーに殴られることで、犯してしまった何かの罪を償いたかった。けれども、デニーへの殴打も、デニーからの殴打も、真昼の目的を達するためには、あまりにも弱過ぎたので……宙ぶらりんになった気持ちが、ただただ残されただけなのだった。

 さて。

 さて。

 そんな。

 わけで。

 そんなわけでといったところで、どんなわけなのかということは、この場にいる三人の誰一人として理解していないのだが。まあ人生なんてそんなものなのだ、結局のところは何も分からないまま始まって何もわからないまま終わってしまうもので。とにもかくにも、次の一歩を踏み出さなければいけない。

 また、そんなポエティックに思索的な理由だけではなく、もっと実際的な理由によっても、真昼は次の一歩を踏み出したいと思っていた。それは……こんな場所から、つまりASKの社領内から、一刻も早く出ていきたいということだ。ミセス・フィスト……あの女に……もてなされているという感覚。あんな女に、客人として、丁寧に扱われているという感覚。それが喚き散らしたくなるほどに不愉快であって。ここにいるくらいならば、アーガミパータの灼熱の太陽の下で、テロリストに命を狙われている方が、真昼にとっては遥かにましなことなのだ。

 だから。

 真昼は。

 デニーに。

 こう問う。

「それで、いつここを出るの。」

「いつでもいーよ。真昼ちゃんが良さそーな時に。」

「じゃあ、今は。」

「ほえ? 今?」

 少しだけ、意外そうな。

 そんな、デニーの反応。

「今でも……デニーちゃん的には全然だいじょーぶだけど、真昼ちゃんはいいの? まだ目が覚めたばっかりだし、もう少しゆっくりしてからの方がいいんじゃない? ほら、さぴえんすって、色々と……」

「あたしが、今って、言ってるの。」

 またデニーがなんだか訳の分からないことを喋り始める前に、真昼は有無を言わさない口調でそれを遮った。まあ、有無を言わさないといったところで、もしもデニーが本当に有無を言いたいと思ったならば、真昼には止める術などないのだが。ただ、デニーは、そんなに有無を言いたいというわけでもなかったらしく……とても素直に、「じゃ、そーしよっか」と言って、真昼の提案を受け入れたのだった。

「あっ、でも。」

「なに。」

「お着換えしてからの方がいいかもね!」

 そう言われて……真昼は、初めて、自分の肉体とそれが纏っている物とに注意を向けた。今まで全然気にもしていなかったが、なるほど真昼の今の服装は、アーガミパータの屋外に向かうには、最適とはいいがたい格好だった。というかこんな格好でそんなことをするのはサテライトくらいだろう……ここでいう「サテライトくらいだろう」とは、低能であることの比喩表現ではなく、本当にサテライトがこの服を着ていたということであって。要するに真昼が着ている服はホスピタル・ガウンだった。まあテクニカリーにいえば真昼は入院していたのだし、ホスピタル・ガウンを着ていてなんの不思議もないのであるが。とにかくデニーの言った通り、これは着替えた方が良いだろう。

 とはいえ、何に着替えればいいのか……と、真昼が思うよりも前に。先回りするみたいにして「真昼ちゃんのお着換えはあのクローゼットの中に入ってるよ!」とデニーが教えてくれた。そんなデニーに対して、あのクローゼットはさっきから目に入っていたし、服が入っていそうなのはあのクローゼットの中くらいしかないのだから、そんなことは言われなくても分かっているという強い気持ち、めちゃくちゃイラっときた真昼であったが。ただ、そういう内容のことを怒鳴り散らすのは、あまり意味のある行為とは思えなかったので、その苛立ちについてはぐっと飲みこんでしまって。今まで足を下ろしていた側、デニーとマラーとがいる側とは反対側に向かって、ぐるっと下肢を巡らせた。

 そちら側に足を下ろして、さて立ち上がろうかとした時に。体中に絡み付いてきているたくさんのケーブルに気が付いた。ほら、ベッドの右側に置いてある検査装置っぽい物体から生えている、触手みたいなケーブル達のことだ。これらのケーブル達は、思いのほかしっかりとくっついていたらしく。真昼が殴ったり殴られたりしている間にも、一本たりとも剥がれ落ちたり千切れ飛んだりしてはいなかった。

 というか、これらのケーブルは伸び縮みしているらしかった。試しにそのうちの一本を掴んでぐっと引っ張ってみると、まるでぐにぐにとした軟質のゴムみたいにべにょーんと伸長する。どんな物質で出来ているのか皆目見当も付かないけれど、その感触が、なんだか死体の皮膚を摘まんで引っ張った時の感触がこんな感じなのでは、みたいな感触で、真昼はぞわわっとする生理的嫌悪感を覚えたのだった。

 真昼としてはまずはこれらのケーブルを取ってしまいたかったのだが、ただ一気に引っぺがそうとしても伸びてしまうのでは仕方がない。なので一度ガウンを脱いで、一枚一枚の薄膜を剥がしていく必要がある。そんなわけで、真昼はガウンを脱ごうとしたのだけれど……はたと、自分を見ている視線に気が付いた。

 眼球四つ分の視線、デニーとマラーとの視線だ。そのうちの二つ分の眼球、マラーに関しては、着替えを見られても全然気にならないが。デニーに見られながら着替えをするというのはなんだか嫌だった。奇妙なことに恥ずかしいとかそういう気持ちはなかった。これは恐らく、服を着た真昼と裸体の真昼との違いが、デニーの中では、羽の生えた蝶々と羽を捥がれた蝶々との違いくらいにどうでもいいことであろうという、真昼の確信から来ている現象だと思われた(そして確かにデニーは真昼が服を着ていようがいまいがさして違いを感じない)。嫌という意味は、自分の肉体がデニーの視線を浴びることによって、その汚らわしさで汚されてしまうという感覚の問題だ。

 真昼は。

 デニーに。

 こう言う。

「これから着替えるから。」

「それはいい考えだね!」

「あんたは、こっちを見ないで。向こうを向いて。」

「ほえ? 何で?」

「いいから。」

 まー、まー、十中八九どころか一兆中九千九百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九、「ほえ? 何で?」と言ってくるだろうなと思っていたが。やっぱりそう言ったデニーに対して、真昼は冷たくそう答えた。真昼は段々と分かってきていたのだが、デニーという生き物の……良いところというのはなんだかクソむかつくけれど、唯一の良いところは。比較的どうでもいいことに関しては、こっちがその方向にぐっと押し込んだ場合、深く追及することなくさらっと流してくれるところだ。デニーは、真昼が常識だと思っていることを、一つも理解していないが。それでも、真昼が、なぜそうして欲しいのかということを細々と説明しなくても、無理やり「こうしろ」といえば、そうしてくれる。

 今回についても、デニーはあっさりと「はーい、分かりましたー」と言って。「さぴえんすって、よく分かんないっ」とかなんとか言ったりもしていたが、とてとてすすーっみたいな感じの歩き方で(うわ……可愛い……)ベッドから少し離れたソファーへと移動して。L字型の短い部分の方、つまり真昼ちゃんのお着替えを真正面から見ないで済む方に、とてーんっという感じの座り方で(うわ……可愛い……)座ったのだった。

 ただ、ソファーに向かうその時に。一応は真昼に気を使ったのかなんなのか、いや、デニーが気を使うとは思えないので気を使ったわけではないのだろうが、とにかくマラーに対して、何やら一言二言、カタヴリル語らしき言葉で声を掛けて。自分と一緒にソファーのところに連れて行ってしまった。真昼としては、マラーに着替えを見られること自体はさほど気にならないので、別にベッド脇にいても構わなかったのだけれど。それでも、マラーの「視線」、尊敬と敬愛とが込められた「視線」に関しては……少しばかり……苦痛でないわけではなかったので。特にデニーに対して抗議することなく、そのまま着替えを始めることにした。

 ガウンの紐。

 腰のところで蝶々結びしてあるそれを。

 右の手、人差し指と親指とで摘まんで。

 するりと解く。

 もともと脱ぎやすいように作られている病院のお召し物は、例えば不完全変態の昆虫が柔らかい皮を脱ぎ捨てるようにして、いともやすやすと脱ぎ捨てることが出来る。ガウンの前を開き、袖から腕を抜いて、それから滑り落とすだけだ。脱いだ後のガウンはベッドの上に放り投げて……そうして、真昼は、改めて自分の体を見下ろしてみた。

 そういえば、目が覚めてから、自分の体のことについてはほとんど考えていなかった。自分の外側のこと、自分を取り巻いている状況について考えることが多過ぎて、自分の肉体に関することまで考えている余裕がなかったからなのだけれど。素裸になったそれをじっくりと見てみると、あの時、気を失った瞬間のそれとはかなり違っていた。

 まず、顔に手をやってみると、触れるものは自分の肌だけだった。今まで何千回・何万回と触れてきた、鼻先、睫毛、柔らかい瞼にかさついた唇。眉毛から斜め下の方に指を下ろしていくと、複雑な形をした耳に辿り着く。がっしりとしがみ付いて離れなかった、本当に離れて欲しい時に離れなかった、あの金色の仮面は、真昼が眠っているうちに外れてしまっていたようだ。

 また、首から下に関しても。そこに見えるのは随分と見慣れた人間の体だけだった。方相氏、鬼の姿は影も形もない。上半身は暗黒に包まれてはおらず、下半身からは血液は滴っておらず、従って、真昼の魂魄が腐り果てて、そのせいで肉体から滴り落ちていたところの、その宣命と呼ばれる機関も、跡形もなく消え失せてしまっていた。ここにいるのはただの力弱い人間。

 更に、心臓に纏わりついて、デニーの命ずるがままに虹色のあぶくを吐き出していた聖句も。心臓から動脈を通って流れ出て、臍にまで至り、そこからどろどろと流れ出して、滑らかな腹の上を汚して。そして、記号として表していた意味を一度解体され、直線と曲線、角度と円によって構成された、あの魔学式に戻っていた。戻っていた……戻っていた? いや、何かが……少しだけ……違っているかもしれない。デニーが最初にそこに描いた魔学式と、今のこの魔学式では、具体的にどこがどう違っているのかということ、真昼には分からないのだが、とにかく何かが違っているような気がする。ちなみに、真昼のその直感のようなものは正しくて、魔学式は書き換えられていた。何をどう書き換えられていたかというと、新しく、真昼の涙腺を制御する「項」が書き加えられていたのだ。デニーが許可した時しか真昼が涙を流すことがないように。それは、もちろん、奇瑞に対する対処だった。

 さて、それ、は。

 ともかくとして。

 要するに、真昼は、真昼に、戻ってしまっていたということだ。素晴らしい夢が覚めて、ベッドに起き上った時、両方の手の中を見下ろしてみても、夢の欠片さえ見つからないように。今の真昼は、ただの真昼であった。弱く、愚かで、無意味な、真昼。下等知的生命体であるところの人間でしかない、真昼。確かに、左腕には重藤の弓が描かれてはいたが……それだけだ。

 真昼は、その事実を、比較的冷静に受け止めると。自分の体に張り付いているケーブルの先端の薄膜を、一枚一枚剥がし始めた。真昼は全然知らなかったし、気になりもしなかったのだが、これが張り付けてある場所にはそれぞれに意味があった。一言でいうとある一定の目的に沿って組み合わせたチャクラの位置に張り付けられていたのだけれど……チャクラというものはニルグタンタでも専門の研究者がいるくらいに難解な概念で、それを理解するには何年間か大学レベルの講義を行う必要があるため、ここで説明している暇は全然ないのだ。もしも気になる人がいたらニルグランタに入学して頂くとして、物語を先に進めさせて頂きます。

 ケーブルは、真昼の体から剥がされたものから、ゆっくりゆっくりと検査機の中に引き込まれていって。やがては、とぷん、というような感じのミルク・クラウンだけを残して、その全てが検査機の中に飲み込まれてしまった。これで真昼は、足に履いている飾り気のないスリッパ(ベッドの下の床のところに揃えて置いてあったやつ)(デニーと殴り合いをした時から履いていた)以外、身に着けていた物をすっかり脱ぎ終えたということだ。

 それから、ベッドから一歩か二歩もいかないところにあるクローゼットの前に立つ。まずは上にある両開きの扉のところを開いてみると、真昼の想像していた通り、完全に新品の状態で模造された真昼の服のコピーが、ハンガーに引っ掛けられて並んでいた。正確にいうと、ハンガーに引っ掛けられていたのは丁字シャツとジーンズだけで、その下に、何食わぬ顔をしてスニーカーが置いてある。また、下着の類に関しては、下に取り付けられた引き出しの中にきちんと畳んで入れられていた。

 真昼は、なんとなく、本当になんとなく、うんざりしてしまった。これらの服装のセットを見ると、またこれを着て、また悪魔を道連れにして、また地獄の真ん真ん中に突っ込みに行かなければならないのか、みたいなことを考えてしまうのだ。真昼にとって、この一セットは、不運の象徴みたいなものになってしまっていた。それは不合理な迷信に過ぎないのだが、それでもこれを身に着けることを、皮膚細胞の一つ一つが拒否しているような気がする。かといって……真っ裸のまま、スリッパだけを履いた姿で地獄へと堕ちていくわけにもいかない。

 ということで、まずは下着から身に着けて、ジーンズに足を通し、丁字シャツをすっぽりとかぶる。人差し指の先を靴箆代わりにしてスニーカーを履くと、スリッパの方はそこら辺に投げ捨てる。丁字シャツを着た時に、少しばかり乱れた髪の毛に、右の手の指先を突っ込んで、更にぐちゃぐちゃに掻き回して。これで、真昼のお着替えはお終いだった。

 始めてから終わるまでせいぜい一分の行為であったが、その間、真昼の耳には……絶えることなく声が聞こえていた。それはデニーとマラーとの声で、真昼には分からないカタヴリル語で何かを会話しているらしかった。意外なことに、二人は随分と楽しそうな様子だった。いや、デニーが楽しそうというのは別に意外でも何でもないが(なぜならデニーは大体いつも楽しそうだからだ)マラーが楽しそうというのは、真昼にとって驚きだった。

 真昼が眠っている間に、二人はかなり親しくなっていたようだった。マラーと親しくなることに対してデニーが何かのメリットを感じるということは、まあまずあり得ないことと考えられるので。恐らくは、真昼の話を聞かせているうちに、マラーの方が、自然とデニーに懐いてしまったのだろう。これは……真昼にとって、とてもイライラさせられることだった。本当に、心の底から、看過することの出来ない出来事だった。

 マラーが。

 デニーに。

 よって。

 汚されて。

 しまう。

 から。

 だから、真昼は、着替え終わると。すぐさま、くるっと振り返って。そして、靴のままで、一足飛びでもするような勢いでベッドの上を踏み越えて。づかづかと、非常に不愛想な足取りで、ソファーの方に歩いていく。

 そして。

 二人の会話。

 遮るように。

 こう言う。

「終わったけど。」

「あ、真昼ちゃん。」

 ソファーに座っているデニーのこと、見下ろす形で立っている真昼。腕を組んだままで、睨み付けるように。イライラしているということを隠そうともしない態度であったが、隠されていようがいまいが、真昼がイライラしているということを理解出来るほど、人の心の機微に対して敏感なタイプではないところのデニーなのであって。大変暢気な感じでこう答える。

「もういいの? 準備、全部終わった?」

「準備も何もないだろ。」

 そう言ってから。

 一呼吸、置いて。

「準備するものなんて、服くらいしか残ってないんだから。」

「んー、それもそうだったね!」

 いかにも適当に言うと、デニーはぴょこんっとソファーから立ち上がった。そして、ぴこぴこと跳ねるような、薄明の中でスキップする星々の子供みたいに可愛らしい足取りで、するっと真昼の横を通り過ぎると。さっきのさっきまで真昼がそこに横たわっていたベッドに向かう。

 ベッドの上、正面から、どてーんという感じで俯せに倒れ込むと。それからすぐに、ぱっと、右の手を、天井に向かって突き出すように掲げた。その手の中には、何かすっぽりと手のひらサイズのものが握られていて……それは、どこからどう見てもナースコール・ボタンであった。

 真昼は全く気が付かなかったのだけれど、どうやらベッドの上に置かれていたものらしい。手に握りやすい、先端部分が丸くなった円錐形をしていて。その先端部分からコードが伸びている。底面となる部分に親指で押すのにちょうどいい感じの、真っ黒なボタンが突き出ていて。

 デニーは。

 ベッドに倒れこんだまま。

 右手をまっすぐ突き上げたままで。

 そのボタンを、ぐっと押し込んだ。

 特に……真昼に知覚出来るような、なんらの反応もなかった。例えば音が鳴るとか、何かが光るとか。そういったことは起こらず、ただボタンが押されたという事実だけが世界の中に追加されて。とはいえ、そのボタンはナースコール・ボタンなのだ。それが押されたという事実があるということは、必然的に、患者が何かを欲しているであろうという状況も、導き出されるのであって。

 だから、呼び出しには。

 答えなければいけない。

 シャワールームの左側、廊下の奥の奥。この空間の唯一の出入り口であるところの、あの真っ黒なドアが、かちゃん、という音を立てて開いた。こうなるだろうなということは分かっていたため、特に驚いたりすることもなく、真昼は音がした方に目を向ける。戸板がゆっくりと動いて、病室の中に入ってきたのは……案の定、five daughtersのうちの一体、白いワンピースの上に、白いヴェールをかぶった、あの少女だった。

 あの少女といっても、five daughtersの五体はどれも寸分違わぬ姿をしているため、そのうちのどれかということまでは分からないのが。とにかくどれかということだ。今まで、そのことに考えが及んでいなかったが。いつの間にか……five daughtersは、真昼による侲子術の支配から逃れていたらしい。それはまあ、真昼が方相子でなくなった以上は、術が続くこともないであろうが。それにしても、なんの後遺症もなく、ここまで完全に回復してしまっているとは。真昼の攻撃にはなんの意味があったのだろうか。

 そんなことを考えている。

 真昼の、視線の先で。

 少女は、廊下を通り。

 歯車と。

 歯車と。

 が、噛み合って。

 絡繰り仕掛けの、断頭台が。

 一つ一つ首を落としていく。

 そんな風な歩き方をして。

 広くなった空間まで。

 丁寧に、歩いて来る。

 プラスチックで出来た透明な氷、決して融解することのない氷のような態度で、少女は一礼をした。この少女について何も知らないままで、この礼を見た時には、特に何かを感じることがなかったが。この少女が大量破壊兵器であると知った今、改めて見てみると……ただただ不気味に感じる。というか悪趣味であるように感じる。なぜASKは、自社でも最高レベルの兵器を、こんな無害な少女の姿にしたのだろうか? しかも、その兵器に、接客までを任せようとしたのか? 真昼には全然理解出来ないことだ。

 まあ、それ、は。

 ともかくとして。

 少女が一礼を終えた、まさにそのタイミングで。デニーが、がばっとベッドから顔を上げた。ばびゅーん!という感じでベッドから飛び起きて、真昼のすぐ横のところまで、ぴょんぴょんと飛び跳ねるみたいにしてやってくる。それから、完全に欠如した表情、空白を彫刻したような顔のままの少女に、元気よく言う。

「多分聞いてたと思うんだけど、真昼ちゃん、もうだいじょーぶなんだって。だから、デニーちゃん達はそろそろ出発しよーかなって思うの。屋上まで案内してくれる?」

 少女は、口を開かぬまま。

 頷いて、肯定の意を示す。

 非常によく訓練された軍人でもこれほど正確な回れ右はできないだろうと思うほどの回れ右をして、真っ黒な扉の方に歩いていく。あの扉は……一つの地獄から別の地獄へと向かうための通過地点だ。ということは、真昼は、今までとは違う、全く新しい地獄へと向かうのであって。

 いや、そこに向かうのが真昼だけであるのならば問題はない。真昼はもう、自分がどうなろうとどうでもいいのだから。けれども、真昼と共に……マラーも、そこに向かうのだ。弱く、愚かで、まるで数日前の真昼みたいなマラー。誰かが守らなければ、マラーが、これから向かう場所で、生き抜いていけるはずがない。

 だから、真昼は手を伸ばした。ソファーに座っていたマラーに向かって。それを見ると、マラーは嬉しそうに微笑んで。それから、立ち上がって、伸ばされたその手を掴んだ。真昼は……その瞬間、全身にぞっと怖気が走った。マラーが象徴しているもの、罪悪感・後悔・嫉妬・憎悪、入り混じった複雑な感情のせいで。

 しかし、自分で差し出したはずのその手を振り払いたいという感情を、なんとかかんとか押さえ付けて。マラーのことを、ぐっと自分の方に引き寄せた。マラーの細い体、硬い骨でこつこつとした感触の体の中に、ほんの少しだけ、子供らしい柔らかさを感じる。これは、初めてマラーのことを抱き締めた時には全然感じなかった感触だ。薄く、軽い、マラーの体に……柔らかい肉が付き始めている。そのことを、真昼は感じて。そして、なお一層、複雑な感情は強まっていく。

 考えるな。

 考えるな。

 黒くて、ぽっかりとした考えに。

 飲み込まれてはいけない。

 そんなことを考えながら……真昼に手を握られて、すっかり安心した表情のマラーを連れて。前を進んでいく少女とデニーとに、引き摺られるみたいにして。真昼は、黒くてぽっかりとしたドアの奥の空間へと、歩みを進めていく。

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