第一部インフェルノ #35

 呼吸が出来ない。

 心臓がうるさい。

 世界が回る。

 体が痺れる。

 けれども、真昼のそういった身体異常は。

 この世界に、何らの影響も、及ぼさない。

 真昼は、そんなこと、あってはいけないと思った。

 この世界は、完全に、間違っているんだと思った。

 牢獄の壁に寄り掛かったままの体、その壁の上をずるずると引き摺るみたいにして、全身の力が抜けていく。まるで全身で訴えているみたいだ、これは現実ではないと、こんなものが現実であるはずがないと。ちかちかと瞬く視界の中で、目の前の光景は段々とぼやけてくる。はっ、はっ、と、過呼吸になったみたいに、必死の思いで息を吸い込んでは吐きだして、吐き出しては吸い込んで。叫びたくてもそれだけの空気が体の中にない。自分の顔を覆っている仮面の異物感、これが邪魔だ、これが、とにかく、邪魔だ。これさえなければ……しかし、これがなかったところで、一体、真昼に何ができたというのだろう。

 仮面が、涙を飲み干している。

 私には、結局、何もできない。

 と、そんな感じの真昼のことは。デニーとミセス・フィストとの、眼中にさえ入っていないようだった。デニーは、ぱっと開いた両手から、その両手の下にぽっかりと開いたオルタナティヴ・ファクトの中に、二挺のHOL-100LDFを滑り落としながら。さも面白そうにけらけらと笑っていて。ミセス・フィストはというと、ライフ・エクエイションから両方の足を引き抜いているところだった。これでミセス・フィストを足止めするものは何もなくなったということだが……今となっては、もうどうでもいいことだった。

「あははっ! 良かった、ちゃーんと取引がまとまって!」

「そうですね、私も、無事に取引がまとまって嬉しいです!」

 デニーは、自分の胸の前で。

 拳銃を手放したことで。

 自由になった、両手を。

 ちょんっという感じで。

 合わせたポーズをとる。

「またまたー、そーんなこと言っちゃって! ミセス・フィストはさーあ、ぜんぶぜーんぶ分かってたんでしょ? こうなるってこと!」

「さて、それは一体どういうことでしょうか、ミスター・フーツ? 私には、あなたが何を言っているのか分かりません!」

 そう言うと、ミセス・フィストの表情はsmileyのそれからぱっと変わった。それは、オートマタがそんな顔をするのかというような……とてもおどけた表情、空とぼけた表情。いってみればplay the foolの表情だった。わざとらしく目を逸らして、少し斜め上を見た目。それに、なんとなく意味ありげに閉じられた、への字の口。とはいえ、どうやらその表情はちょっとしたサービスのようなものだったらしく……次の瞬間には、また、ぱっとsmileyに戻っていた。

「んもー、ミセス・フィストってば!」

 その表情を見て。

 デニーは。

 悪戯っぽく。

 ウインクする。

「最初からこうなるようにアレンジしてたんでしょ?」

「さすがですね、全てお見通しでしたか!」

「んー……実はデニーちゃんも、気が付いたのはちょっと経ってからだったんだけどね。でも、なーんとなくおかしいとは思ってたんだよ? だってさーあ、デニーちゃんがスペル・バレットを持ってるってゆーこと、ASKが知らないわけがないんだし。となれば、デニーちゃんはミセス・フィストを破壊できる可能性があるーっていうことでしょ? そんな相手に対して、こんなに簡単に敵対行為を仕掛けてくるなんて、ASKらしくないもん。

「気が付き始めたのはー、ダコイティの子達が住んでる森に着いてからだねー。思ったよりもたくさんの子達が生き残ってたし、それにお話を聞く限りだと、掃討作戦もまだまだ時間が掛かりそうってことで。ASKにとっては、あの子達って、邪魔で邪魔で仕方ないーって感じでしょ? あの森の下にある天然資源の採掘が出来ないし。それに、あの子達があそこにしがみついてる限り、ファニオンズから人権問題だのなんだので突っつかれ続けるだろうし。とにかく皆殺しにしてすっきりしたいわけじゃないですかー。

「そこら辺から、だーんだんと繋がってきて。もしもデニーちゃんが、アヴマンダラ製錬所でASKから敵対行為を受けたら、まず頼るだろーなって相手は、パンダーラちゃんだよね。まーまー実際にそうしたんだけど、デニーちゃんとパンダーラちゃんとはとーっても仲良しなお友達だし、パンダーラちゃんとASKとは、お友達ってわけじゃないしね。で、ASKに人質を取られている以上、デニーちゃんとしてはなんとかアヴマンダラ製錬所に突っ込むしかないわけでーす。そうなると、デニーちゃんとしては、なるべくたーっくさん使える道具を持っていきたいわけで。それじゃあ、ダコイティの子達を煽動して、ASKとダコイティとの全面戦争を起こすだろうなーってことは誰でも分かるよね。

「ASKだってお馬鹿さんじゃないわけだから、それは分かってて当然で。じゃあ、なんでそんなことが起こるようなことをしたのかってことになるよね。そこまで分かれば……ASKが全面戦争を望む理由なんて、ひとつしかないじゃないですかー! つ、ま、り、森に隠れてなかなか出てこないダコイティの子達をおびき寄せて、大々的に害虫駆除をするーってゆーこと! よーするに、ASKは、テレポート装置を貸してくれる代わりに、デニーちゃんに大掃除のお手伝いをさせたかったーってことでしょ?」

「まさにその通りです、ミスター・フーツ!」

「まーったく、こんな回りくどいやり方しちゃって! 初めからそう言ってくれれば良かったのにー?」

「そうですね! でも、ただダコイティを駆除するだけの作業はあなたにとって退屈なものであるように思われたので! 今回のように色々と趣向を凝らした方があなたの満足に繋がる、私はそう確信していたのです! いかがですか? 楽しんで頂けましたか?」

「ふふっ、まあねっ!」

「それは良かった! ASKは、いつでもお客様の最高の満足を求めます!」

 要するに、そういうことだった。

 デニーとミセス・フィスト以外の、全員は。

 都合よく踊らされた、道化に過ぎなかった。

 ダコイティの森で、デニーは、なんだかかんだかをずーっと考えていたが。要するに、このことを考えていたのだ。ASKの行動が何を意味しているのかということ。デニーがはいはいと真昼を渡すなんていうことを、ASKが思っているはずがなく。それにも拘わらず、デニーに対して、そんな無理な条件を突き付けてきたのはなぜか? いざとなればミセス・フィストさえ破壊できる方法を保有しているデニーに対して? そして、その答えが、今のデニーの言ったことだったのだ。

 デニーは。

 ミセス・フィストの考えを。

 全て理解していた。

 理解していながら。

 ダコイティを。

 パンダーラを。

 破滅へと導いたのだ。

「あっ、でもさーあ。」

「なんですか、ミスター・フーツ!」

「ダイモニカスの子が四人と、それに、人間の子が……二百人くらい? かな? ダコイティの森にびゅーんって逃げちゃったよね。それに、新し過ぎたり古過ぎたりして兵隊さんとして使えないから、今回のどんぱちぱっぱに一緒に来ないで、ダコイティの森に残った子達も何人かいたみたいだし。せーっかくみんな殺せると思ったのに、けっこー生き残っちゃったみたいだけど……ミセス・フィスト的には良かったの?」

「安心して下さい! その件に関しては、既に対策が開始されています! 「お前に名乗る名前などない」がデウスステップによってこの製錬所と外部との境界線に到達した時点で、SON-508を中心とした別動隊をダコイティが不法占拠している森林に派遣してあります! 残存結界の無力化及び森林に待機していた百二十七人の駆除は完了していますし、先ほど帰還したダイモニカス四人・人間二百二十一人に関しても、あと十八分七十一秒で駆除もしくは強制排除をし終わる予定です!」

「なーるほど! それならばっちりだねっ!」

 ということで、何もかもが素晴らしくお膳立てされていて。デニーとミセス・フィストとは、そのお膳の上のお料理をおいしく召し上がるだけでよかったということだ。なお、今の話題に関連して……デニーとミセス・フィストとの間で、これから特に触れられることではないため、一応ここで解説しておくが。今回の戦闘で、アヴマンダラ製錬所の重要施設はほとんど壊滅的といっていいほどのダメージを受けたのであるが、それはASK的には問題ないのかということについて。

 結論として、それはさしたる問題ではない。なぜかといえば、その「壊滅」は、想定された範囲に収まるレベルの「壊滅」に過ぎなかったからだ。ダコイティが全面戦争を仕掛けてくると予想していたASKは、それだけでなく、製錬所内のどの施設が狙われるかということも想定していた。そのため、破壊されていると分かっているテレポート装置で、予め重要な部品は取り寄せていたのだ。しかも、装置単位での組み立ても完了しているため、後は現場での建設作業が残っているだけである。これならば一週間もしないうちに通常稼働に戻ることが出来るだろう。

 ちなみに、ミセス・フィストとの交渉の中でデニーは「暫くの間テレポート装置を使えないのではないか」みたいなことを言っていたが。あれは契約の内容に一つでも瑕疵があるといけないので、念のために聞いておいただけであって、デニーとしてもASKが「壊滅」に対する準備をしているだろうなということくらいは、なんとなく分かっていたのだ。だから、交渉が終わった今、このタイミングとなっては、その件に関して一言も触れなかったし、触れないし、触れないだろうというわけだ。

 ということで。

 後顧の憂いも。

 晴れたところで。

「じゃ、契約の細かいところ詰めよっか。」

「そうですね! ただ、その前に一つよろしいでしょうか?」

「んー、なあに?」

「真昼ちゃんですが、大丈夫ですか?」

 Smileyから、worryとでもいったような表情。心配そうに眉を顰めた表情に、その仮面をくるりと転変させてから、ミセス・フィストはそう言った。まるで凍り付いた白毒のアイスキャンディーみたいな人差し指の先で、すうっと指差した先、デニーが振り返って見てみると……そこには、虹色の牢獄の中で、自分を抱き締める胎児みたいな恰好で蹲っている真昼の姿があった。

「あっ、いっけなーい!」

 いけなさそうな感じを。

 欠片も感じさせることなく。

 デニーは。

 そう言う。

 おいおい……オートマタでさえ真昼のあの感じに気が付いたっていうのに、デニーはまるで気が付いてなかったのかよ……みたいなことを思われる方もいらっしゃるかもしれないが。それは全くの濡れ衣というか、状況を見ていない者に特有のちょっとした勘違いである。そもそも真昼ちゃんが閉じ込められている牢獄はデニーの背後にあったのであって、真昼ちゃんの姿は、デニーの視界には全く入っていなかったのだ。ということで、可愛いデニーちゃんには、何一つ悪いところなどないのであって……そう、デニーちゃんは悪くない! とにもかくにも、真昼の状態に気が付いたデニーは、すぐさま、ぱちんっと指を鳴らした。

 その瞬間に、うつらうつらと見ていた夢が、ぱちんっと弾けるみたいにして。けれども音を立てることなく、真昼(と五人の娘)を閉ざしていた六つのあぶくが破裂した。ふわりと、あまりにも唐突に空中へと放り出された真昼は――それでなくとも全身の力、指一本を動かすことも出来ないくらいの絶望に満たされていたのであって――もちろん、重力に対してどんな抵抗を行うことも出来ないままに、落ちて行くことしかできなかった。

 惨めに、無様に。あたかもジャムを塗ったトーストが、そのジャムの面を下にして墜落するみたいにして……真昼は、べしゃりと墜落した。その落下地点は、デニーのすぐ近く、つまりライフ・エクエイションの海の上であって。もしかすると、そのまま沈んでしまうのではないかとも思われたのだが……幸いなことに、そうはならなかったようだ。海自体が意外と浅かったのか、それとも真昼の下に何か支えになるようなものが発生したのか。とにかく、真昼の体は、僅かに数ハーフフィンガーがミルクに浸されただけで済んだのだった。

 それから、真昼は……当然のように、どうしていいのか分からなかった。というか、もう何も分からなかった。何も考えられなかった。とにかく、自分の中で、怒りでもなく、悲しみでもなく、憎しみでさえない、もっともっと激しくて、もっともっと空っぽな、何かの感情が。例えるなら、夜空の中で狂い咲いて、幾つも幾つも幾つも花開いている、信じられないくらいたくさんの花火みたいにして、荒れ狂っているのだ。目の前は真っ白で、耳の中では何かが爆発している。そんな状態の人間が出来ることなんて、たった一つしかない。

 それはつまり。

 気が狂ったように。

 叫びまくること。

 真昼は、叫んだ。「がああああああああああああああああっ!」と、息が続く限りに叫んで。それから肺一杯に空気を吸ってから、もう一度「がああああああああああああああああっ!」と叫んだ。腹の皮が破れそうなくらい、頭蓋骨から脳幹に響き渡るくらい、喉の奥の奥が、摩擦で燃え上がりそうなくらい。叫んで、叫んで、叫んで、叫んだ。片方の手で、ミルクの海を掴もうとして。もう片方の手で、ばしゃばしゃと水面を叩いて。両方の足は、痙攣しているみたいにぴんと突っ張って。頭のおかしい馬鹿みたいに、どうしようもない気違いみたいに、あるいはとてもサテライティ(サテライトの形容詞形)に、叫んだ。

「えっ、何? どうしたの、真昼ちゃん!?」

 そして。

 そんな真昼を見て。

 訳が、分からずに。

 かなり焦るデニー。

「だ、大丈夫……頭でも打っちゃったの……?」

 この反応は……まあ、当然といえば当然だろう。いきなり目の前で誰かに発狂されたら、誰だってこんな感じの反応になる。何が起こったのか全然分からないデニーは、真昼とは全く別の意味でどうしていいのか分からなくなってしまったのだが。とにもかくにも、慌てて真昼が落ちたところに駆け寄った。

 その頃にはちょっと静かになっていた真昼であったが。デニーが、かなり恐る恐る、「ま、真昼ちゃん……?」と言いながら、二回か三回ほど、つんつんとその体を突っつくと。あたかもそういう種類のおもちゃ、突っつくと電源が入るタイプのおもちゃであるかのように、またもやじたばたと暴れ始めた。かなり長い間生きてきて、二つの大戦さえ経験したデニーであるが、さすがにこんな経験は初めてみたいで。「ふえぇ……どうしたらいいの……?」とかなんとか呟きながら、すっかり困ってしまった。

 そのまま、ひとしきりおろおろとしていたのだが、真昼の発作的なそれはいつまでもいつまでも収まる気配を見せず。その一方で、デニーは、そんなに長い間、真昼の脾疳虫に付き合っているわけにはいかないのであって。仕方なくデニーは……真昼のすぐ横に膝を突くと、横たわったままで暴れまくるその体を自分の方に引き寄せて、両腕で、ぎゅっと、抱き締めた。

「ほらほら、真昼ちゃん。もう大丈夫だよ。デニーちゃんが、みんなみーんななんとかしたからね。だから、もう、安心しても、大丈夫なんだよー。」

 てろてろと。

 銀のスプーンから滴る。

 甘ったるい蜂蜜みたい。

 そんな声で。

 真昼をあやす。

 デニーの言葉。

 真昼はぞっとしてしまう。全身に生えた毛の一本一本が、一刻も早くどこかに逃げ出したがっているかのように、ぞわわっと震えながら一斉によだつ。悪魔、悪魔、悪魔。美しい少年の姿をした、あどけない悪魔。けれども……真昼は、その悪魔自体に総毛立っているわけではなかった。それならまだ救いがあるだろう。真昼が、怖気をふるった理由は……デニーではなく、自分自身だった。この悪魔に、体の中に血液の一滴も通っていないであろう無垢な少年に、優しく優しく抱かれて。そのことによって、「安心」しかけてしまっている、自分自身対する嫌悪感だった。

 そう、真昼は……デニーの腕の中に包み込まれたことによって。自分の体の中から、どんどんと、力が抜けていっているのを感じていた。理性ではどうしようもない、肉体の底の底。脊髄の中心の、じっとりと湿った部分が。真昼の頭蓋骨に向かって、伝えてくるのだ。なんの心配もいらない、そんなに敵意を剥き出しにしなくても、もう大丈夫。なぜなら、真昼は、今……絶対的な強者の庇護下にいるのだから。

 デニーの胸を突き飛ばそうとする腕。

 デニーの手を引き剥がそうとする指。

 真昼は。

 次第に。

 次第に。

 武装を、解除されて。

 しまいには、まるで。

 子猫のように、大人しく。

 ただ泣きじゃくるだけの。

 幼い、少女になる。

「真昼ちゃん……えーと、どうしたの?」

 決して落ち着いてきたというわけではないが、なんとか話が通じそうなくらいには静かになった真昼に対して、デニーは困惑し切った表情で問い掛ける。……どうしたの? 今、あんた、どうしたのって言った? 真昼は、実際にぎりりっという音がしたくらい、歯を噛み締めて。それに、両方の手、爪が皮膚を破るくらいに握り締めて。何もかも信じられないような思いとともに、デニーの顔を見上げた。あれだけ、の、ことを、しておいて、どうしたのって、言ったわけ?

 しかし、そこにあった顔は……その顔が浮かべていた表情は……デニーが、本当に、マジで、困り切っているということを示していた。デニーは、別に、皮肉を言っているわけでも、それどころか、悪意の一つがあるわけでもない。真実一路の誠意をもって、真昼に問い掛けているのだ。真昼ちゃんは、なんでそんなに、辛くて悲しい気持ちになっているの? 一体、何があってそんなに怒ってるの? そう、デニーは……こういうやつなのだ。一体、何を期待していたというのか? デニーには、何を言っても、無駄なのだ。真昼は、本当に、どうしようもない気持ちになる。

 けれども。

 それでも。

 真昼は。

 そのどうしようもない気持ちを。

 なんとかして吐き出そうとして。

 ひっくひっくとしゃくりあげながら。

 褥の上の、処女のように、弱々しく。

 うっすらと開いた唇から。

 デニーに、こう問い掛ける。

「なんで。」

「ほえ?」

「なんで、殺したんだよ。」

「殺したって、誰を?」

「パンダーラ……」

「ああ、パンダーラちゃんのこと?」

 なんだか拍子抜けしたような顔をするデニー。

 それから。

 ちょっと上を向くみたいに首を傾げて。

 くるんと両目を明後日の方向に向けて。

 あっさりと、答える。

「だって、そーするしかなかったから。」

「そうするしかないって……他にも、方法は、あっただろ?」

「え? 他の方法って?」

「パンダーラさんが言ってた方法……あんたが、あの女を倒して。パンダーラさんが、マラーを助けて。それで、全部、全部、上手くいくはずだったのに……なんで、あんたは、そうしなかったんだよ。なんで、あんたは、パンダーラさんのこと、信じなかったんだよ。」

「んー、信じなかったわけじゃないんだけど。」

 デニーは。

 真昼に対して、どう説明していいのか。

 聞き分けのない、子供を。

 どう説得すればいいのか。

 大変、大変困っている顔をして。

 それでも、一応、答える。

「でも、ぜーったい大丈夫!ってわけじゃなかったから。」

「どういうこと。」

「どういうことって……んーと、じゃーねー、まずは、デニーちゃんが実際にしたことを考えてみて? ミセス・フィストと、マラーちゃんを開放するっていう契約を結んで、その代わりにパンダーラちゃんを殺したよね。この場合には、マラーちゃんは絶対絶対助かるわけだよね。だって、ミセス・フィストはそう約束したんだし。約束したことを守らなきゃ、企業としての信用がずどーんって下がっちゃうんだから、その約束を守らないわけがないーっていうわけで。

「一方で! パンダーラちゃんが提案した方法だけど。パンダーラちゃんが、あの八つあるマラーちゃんっぽい肉体のうち、どれがマラーちゃんかをちゃーんと見抜いて、その上で、ミセス・フィストがマラーちゃんのことを殺す前に、パンダーラちゃんが助けるってい方法。それってさーあ、百パーセント助けられます!っていう方法じゃないよね。だってだって、あの八つのうちのどれが本物のマラーちゃんなのか、デニーちゃんにも分かんないんだよ? そりゃーさーあ、デニーちゃんも、パンダーラちゃんがどういうダイモにカスなのかっていうことはそれなりに知ってるし。たぶん、まあ、助けられるだろうなーとは思ったけど。それでも百パーセントじゃないわけです。

「ASKはとーぜんパンダーラちゃんについてのデータを持ってるから、こういう偽物ならパンダーラちゃんが選ぶだろうなーっていう偽物を作ることも出来るわけだし。それ以前に、あの八体のうちのどれかがマラーちゃんだっていう保証もないんだよ? あの八体の全部が偽物で、本物のマラーちゃんはどっか別の場所にいるかもしれないじゃないですかー。それにそれに、よ、し、ん、ば、パンダーラちゃんが選んだのが本物のマラーちゃんでも。それを本当に助けることができるかっていうのは、これも百パーセントじゃないよね。パンダーラちゃんが助ける前に、ヌミノーゼ・ディメンションがマラーちゃんのことを殺しちゃうかもしれない。そうでなくっても、マラーちゃんに転送装置だのなんだのが埋め込まれてたら、助ける前に別の場所に転送させられちゃうかもしれない。そうしたらさーあ、デニーちゃん達には、もうどうしようもなくなっちゃうよね?

「と、いうことで! もしもパンダーラちゃんの方法を選んだ場合、もしかするともしかして、マラーちゃんが死んじゃったり、無事じゃなくなっちゃったりする可能性もあったってわけ。そりゃー、パンダーラちゃんのことだから。成功の見込みもなく、誰かを危険に晒すようなことはしないだろうし。んー、まー、九十九パーセントくらいは大丈夫だったと思うよ。でも、それは百パーセントじゃないよね。残りの一パーセントの確率でマラーちゃんが死んじゃうかもしれないんなら、デニーちゃんはそっちは選べないよ。

「だってさ、真昼ちゃん、言ってたじゃない。マラーちゃんを助けられなかったら、真昼ちゃんは自殺しちゃうって。それくらい、真昼ちゃんは、マラーちゃんのこと、助けたかったんでしょ? デニーちゃんにとって一番大切なのは真昼ちゃんで、真昼ちゃんにとって一番大切なのはマラーちゃんで、ということは、今回のぜんぶぜーんぶの目的は、マラーちゃんを助けることだったっていうことで。だから、絶対絶対、ぜーったいに、マラーちゃんを助けられる方法を採用しましたってわけ。」

 デニーは、そこまで言うと。

 ふっと。

 ほんの、ちょっとだけ。

 心配そうな顔になって。

 真昼に、こう質問する。

「それとも、マラーちゃんのこと、助けたくなかった?」

「そんなわけないだろ! あたしは、あたしは……」

「そっかー、良かった! じゃあ、他の子達のことはどーでもいいよね!」

 デニーは。

 そう言うと。

 とっても安心した顔。

 にぱーっと、笑った。

 あたしは、あたしは……マラーのことを助けたかった。本当に、助けたかった、はずだった。どんな犠牲を払っても絶対に助けるとさえ、誓った、はずだった。でも、それでも……その「犠牲」が、こんなにも、こんなにも、残酷なものになるなんて、そんなこと、思ってもいなかったのだ。

 間違っている。何もかも間違っている。真昼の目の前で繰り広げられた光景の、その全てが正しいものであるわけがなかった。こんな出来事が起こっていいわけがない、起こるわけがない。例えばここに一つの天秤があるとして、本当に、それが正しい天秤ならば、片方の皿の上には善いものが、もう片方の皿の上には悪いものが乗るはずだ。つまり、片方の皿の上にはマラーとパンダーラとが載せられて、もう片方の皿の上にはミセス・フィストが載せられて、そうすれば、真昼は、安心して善いものが載った皿の方を選ぶことができる。選ばれなかった皿はがたんと音を立ててひっくり返り……そして、ミセス・フィストは倒されて、マラーとパンダーラとは救われる。それが「正しさ」だ。なのに、なんで、なんで……ミセス・フィストが、マラーと、同じ皿の上に載っているの? 一体、何が善いことで、何が悪いことなの?

 あたしは……善いことをしたかった。ヒーローになりたかった。そして、ヒーローになれたと思った。強欲な大企業、搾取者、抑圧者、その象徴とさえ思えるミセス・フィストに敢然と立ち向かって。ダコイティと、もちろんマラーとを、その無慈悲な苛斂から解放する、解放者になれたと思った。新聞や雑誌、絵本でしか読んだことがない王子様。弱き者であっても、決して軽んじられるべきではないと知らしめるために、絶対的な強者に対して、命を懸けて反旗を翻す、正義の反逆者になれたと、そう思ったのだ。でも、それは違った。それは間違いだった。

 あたしは。

 あたしは。

 もう。

 分からない。

 体の中の、何もかもが。

 空っぽになってしまったみたいに。

 すごくすごく、なんだか軽いんだ。

 全てが子供じみた自己満足に過ぎなかったことを理解した。世界はあまりにも複雑すぎて、自分にはどうしようもなく複雑すぎて、なんだかよく分からない。耳鳴りがする。ぶんぶんと、あたしの周りで、何か、小さな虫が飛んでいるみたいに。小さな虫は、一匹一匹が、あたしには答えられない質問を、あたしに向かってぶつけてくる。なんでダコイティは皆殺しにされなきゃいけなかったのかな? なんでデナム・フーツはここまであたしのことを助けてくれるのかな? なんでミセス・フィストはまだ生きているのかな? なんであたしはまだ生きているのかな? なんであたしはデナム・フーツの腕の中にいるのかな? なんであたしはデナム・フーツの腕の中で安心しているのかな? パンダーラさんは、パンダーラさんは、死ぬ前に、なんで笑ったのかな?

 パンダーラさんの代わりに。

 あたしが死ねれば良かった。

 でも、どうやら。

 あたしの命には。

 そんな価値は。

 ないらしい。

 そう、真昼の考えていた犠牲とは、自分自身の肉体のことだったのだ。真昼は、自分自身の肉体ならば、幾らでも捧げることができた。喜んで、それを、投げ出すことができた。しかしながら、デニーがその対価として要求したのは……真昼の正義だったのだ。真昼にとって、最も大切なもの。真昼にとって、最も失いたくないもの。それは小さい頃に拾った、きらきらと輝くガラス玉のようなものだ。丁寧に汚れを洗って、鍵のかかる宝箱にしまって、ずっとずっととっておいたもの。それを、デニーは、要求した。だってさーあ、真昼ちゃん、言ったじゃない! どんな犠牲でも払いますーって。じゃあ、それ、ちょーだいよ。そしてデニーはそれを奪っていった。真昼には、もう、何も残されていない。

 いや、正確には。

 たった一つだけ、残されている。

 そのガラス玉の、代わりに。

 デニーから与えられたもの。

 デニーとミセス・フィストとの。

 薄汚れた契約によって。

 助けられた、マラーが。

 助けたかった。そのマラーを、真昼は助けたかった。結果として、真昼は、きちんと、マラーのことを、助けられた、らしい。でも、これで良かったのかな? マラーのことを助けたかったのはあたしで、パンダーラさんが殺されたのはマラーのことを助けるだけで。じゃあ、パンダーラさんが死んだのは、あたしのせいなの? あたしがいなければ、パンダーラさんは、まだ生きていられたの? デナム・フーツはマラーのことなんてどうでもよかったんだし、どうでもいいのならばマラーのためにパンダーラさんのことを殺すなんてことはしなかったはずだし。

 デニー、デニー、デニー。結局のところ、実際にパンダーラを殺したのはデニーであって。けれども、もしも……あの時、あの場所で、スペル・バレットを込めた弾丸を握っていたのが、自分だったらどうなんだろう。あたしは、一体どうしたんだろう。あたしはパンダーラさんを信じることができただろうか? あたしは、パンダーラさんではなく、ミセス・フィストを撃つことが出来ただろうか? いや、もしもミセス・フィストを撃つことが出来たとして……それで、その後で、もしもパンダーラさんがマラーのことを助けることができなかったら? デナム・フーツが言った通り、相手があの女、ミセス・フィストである以上は。百パーセントなんていうことは、存在しないわけで。もしも、パンダーラさんが、間違えてしまったら? 選択肢を間違えて、そのせいで、マラーが、死んでしまったら? あたしは……一体、どうしたらいいのだろうか? どうしようもない、全部、全部、どうしようもない。あたしには、何も、分からない。

 と、そこまで考えた時。

 ふと、真昼の頭の中に。

 思いもよらない。

 悍ましい考えが。

 入り込んでくる。

 もしかして。

 もしかして。

 デニーは。

 何も出来ないあたしが。

 出来なかった、ことを。

 あたしの代わりにやってくれた。

 ただ。

 それだけ。

 の。

 話。

 なの。

 では?

 真昼は……とうとう、自分の考えの汚らわしさに耐えられなくなってしまった。汚い、汚い、汚い。デニーが汚い、ミセス・フィストが汚い。それに、何より、自分自身が汚い。胃袋がひっくり返るような感覚。何かが勢いよく込み上げてくる。食道が、なんとかそれを食い止めようと、必死に蠕動運動をするのだけれど。それでもその激しい吐き気をストップさせることはできなかった。真昼は、込み上げてきたそれを吐き出そうとして、大きく口を開いて……その口から、つーっと胃液が垂れる。

 真昼は、嘔吐さえ出来なかった。

 ここに着いた時、粗方のものは吐いてしまって。

 後は、胃液くらいしか、残っていなかったのだ。

 ところで……えーと、いや、本当に、マジで、ここまでつらつらと書いてきて思うんですけど……真昼って、こう、いつまでもうじうじと……なんでこういう性格なんですかね? やっぱり家庭環境が悪かったっていうのが理由なのかな? そりゃ大変なことがあったっていうのは分かるよ? でもさ、普通さ、一キャラクターがさ、地の文でさ、こんな長く独白のスペース取る? もっとこう、「マラーが助かった! あー良かった! おしまい!」(スパーン!)くらいの晴れ晴れしさはないの? スパーン!が何の音なのかはよく分かんないけど。せっかくデニーがあんだけ頑張って助けてくれたのに、冷蔵庫の中で腐った魚じゃねぇんだからさ、もっと軽やかに生きようぜ、軽やかによ。

 さて、一方で、そのデニーであるが。胃液だけとはいえ、真昼が苦しそうな顔をして、何かを吐いたということは事実だったので。「わわっ! 真昼ちゃん!?」とかなんとか言いながら、めちゃめちゃびびってしまった。

 そりゃ腕の中でいきなり反吐されたら誰だってびっくりしますわ。幸いなことにデニーはスーツの汚れとかを気にするタイプではなかったので、そこら辺は問題なかったのだが。さっきから、なんだか情緒不安定だし、おえーってするし、真昼ちゃんは一体どうしてしまったのかと心配になったということだ。

 とはいえ、風邪を引いたとかお腹を壊したとか、体調が悪いというような感じでもないし。考えられる原因は、心因性の何かだが……しかし、こんなタイミングで心因性の何それなんて有り得るのだろうか? 真昼ちゃんがずーっと助けたがってたマラーちゃんが、ようやく助かったタイミングだよ? そんなスーパー・ミラクル・ハッピー・タイムに?

 あ、でも。

 ちょっと待って。

 まだ、マラーちゃんは。

 助かったわけじゃない。

 ヌミノーゼ・ディメンションに。

 捕まえられちゃってるまんまで。

「はわわわわ……ミセス・フィスト!」

「はい、なんでしょうか!」

「マラーちゃんを解放してあげて!」

「分かりました! その要求に対して、今すぐに対応します!」

 いつの間にかworryの表情からsmileyの表情に戻っていたミセス・フィストが、デニーの要求に対してそう答えた。その要求……デニーちゃんはとーっても可愛い(とーっても可愛い)のでまたもや勘違いしてしまったらしいのだが。じたばたしたり泣き叫んだり吐き戻したりと、さっきから真昼の様子がへんてこりんなのは、マラーがいつまでもヌミノーゼ・ディメンションに捕まっているのが不安で不安で仕方がないからだと思ってしまったのだ。だから、一刻も早くマラーが自由になれば、真昼もきっと安心できるだろうと考えたのであって。

 「ほら、真昼ちゃん! 見て見て、マラーちゃんがぱぱーって! ぱぱーって解放されるよ!」とかなんとか言って。デニーは、ぐったりと力の抜けている真昼の体、背中の辺りをしきりにぺしぺしと叩きながら、ゆっくりと上半身を起こさせた。

 合計して八つあるペレムウェス式の塔のうち……どれが本物のマラーか分からないとあれだけ何度も言っておきながら、実はどれが本物なのかということ、確信はなくともなんとなく見当が付いていたのだろう。そのうちの一つ、デニーと真昼とがいる場所から一番近くにある塔に、真昼の視線を向けさせる。

 さて。

 その過程。

 開始する。

 結果的にいえば、そこには美しい光景と悍ましい光景とがあった。そのうち、真昼により大きな影響を及ぼしたのは悍ましい光景だったので、まずは美しい光景の話からしよう。もちろん、それは解放の過程だ。

 八つの塔のうちの、間違いなく、デニーが真昼の視線を向けさせた一つ。その塔の内側からどす黒く湧き出してた、蜘蛛の脚みたいに細長く、幾つも幾つも枝分かれして、ばらばらと煮え立っている、大量の触手が。例えば……蒼褪めたフィコトラの花が、朝日を浴びて、そっと花開いていくかのように。次第に次第に、空の色へと透き通っていきながら、絡まりあった己自身を解きほぐし始めたのだ。それは奇妙にも奇妙な光景で、諦めたように散乱する黒、緩やかに沈んでいく脚。質量から形相が抜け落ちて、抜け殻になった生命体が死んでいくみたいな光景だった。そうして別のディメンションで発生した黒は、枯れ落ちた花びらにも似た態度で、ずるずると塔の底へと消えていき……その後に残された、死骸のように透き通った光の中……最後には、一つの、人間だけが残る。

 いうまでもなく。

 マラーの肉体だ。

 それは。

 本物の。

 マラーの。

 肉体。

 といっても真昼には他の七つの肉体とその一つの肉体との見分けがつかなかったので、いまいち実感が湧かなかったのだが。とにもかくにも、危険なるヌミノーゼ・ディメンションから、マラーは解放されたということだった。纏わり付いていたヌミノーゼ・ディメンションが離れていってしまったせいで、何物にも支えられることなく、そこに浮かんでいるだけのマラー。後は、ふわふわと浮かんでいる粗雑なつくりの操り人形みたいなその体を、なんたらかんたらしてこの地上にまで降ろして。そして、真昼が、マラーのことを抱き締めることが出来れば、パーフェクトなハッピー・エンドだ。

 ただし。

 その前に。

 悍ましい光景について。

 触れておくべきだろう。

 簡単にいうとそれは処理の過程であって、普通の感覚を有している生命体からすれば、特に悍ましい点などない、ごくごく普通の光景に過ぎなかったのだが。ただ真昼にとっては、ひどく悍ましいことのように感じられたのだ。

 誰にも理解出来ない法則のもとで歪んだ一つの円を描いているかのように、そのように配置されている、七つの塔で。本物のマラーが解放されるとともにその過程は開始した。とぷん、という音。この世界に存在しているあらゆる法則が、事実と虚偽との境界線の内側に落ちていくような、とぷん、という音。そんな音を立てて、七人の、偽物のマラーは……ヌミノーゼ・ディメンションに飲み込まれた。蜘蛛の足、蜘蛛の肢、蜘蛛の脚に搦め捕られて。視覚そのものさえ塗り潰してしまう暗黒の中に引き摺り込まれたということだ。

 その瞬間に、眠っていたはずのマラー達が一斉に目を覚ました。そして、同じように一斉に絶叫を上げ始めた。マラーの声、どう聴いてもマラーのものとしか思えない声によって、喉を掻き毟るような凄まじい悲鳴を上げ始めたのだ。

 本物の、生きている、人間みたいなやり方で。暴れ回り、のたうち回り、なんとかその液体から逃れようとするマラー達。けれども、液体は、決してそれらの肉体を逃がそうとはしない。まるで意思のある海の中で溺れているみたいだ。

 そして、その海は、どうやら、この世界の生き物にとっては、たいへん強い毒性を持つものらしい。どろどろとしたその液体に触れるたびに、マラー達の肉体は、じゅうじゅうという音を立てながら焼け焦げていく。例えば強酸性の何かに浸されているみたいにして、髪は焼け、皮膚は剥がれ、肉は腐り、全身がずたずたになっていく。絶叫を上げているせいで、液体は喉の奥にもするりと入り込んでいって。爛れた喉から吐き出される悲鳴は、どんどんと人間のそれからはかけ離れていく。

 七人のマラーが。

 惨たらしく。

 惨たらしく。

 痛め付けられ。

 責め苛まれていく。

 その光景を見て。

 真昼は。

 まるで。

 アラームか何かのように。

 人間離れした。

 咆哮を上げる。

「ま、真昼ちゃん!?」

「マラーが、マラーが、マラーが!」

「落ち着いて、真昼ちゃん!」

 はっきりいってしまえば、いらなくなったダミー人形を廃棄処分しているだけの話なのだ。マラーの姿をしたグリーンアバター(デニーの予想通りグリーンアバターだった)なんて、ASKからすれば、もうなんの使い道もない。取っておいても不良在庫になるだけなので、処分するのは理に適った行動であって。

 それでも、精神的に完全に衰弱し切った状態にある真昼にとっては……例えそれがマラーに似た何かであろうとも、そんな風にして処理される過程を見るということは、大変負担が大きいことだったということだ。今の真昼の目には、それらの偽物さえも、本物のマラーに見えてしまったらしく。デニーがいくら「あれはマラーちゃんじゃないよ! 偽物! 偽物のマラーちゃんなの!」といっても、全然聞く耳を持つ気配はなかった。

「だって、だって! あんな声で、助けを求めてる!」

「あれは刺激に対して反応してるだけだよ!」

 全くもってデニーの言う通りだった。偽物のマラー達は、人間的な定義の下では、決して生きているわけではない。いわゆる知性というものは、動物的な知性さえ有しているわけではなく。特定の刺激に対して予めプログラミングされた極物理的な反応を、ただただ実行しているだけだ。まあ、この広い宇宙には色々な基準があるため、このような何かを生命体と呼ぶ人々もいるにはいるのだが……ただ、真昼の基準からしてみれば、とてもではないが生命体と呼べるものではないはずだった。

 だが、中身がどうあろうとも外側がリアル過ぎた。それらのグリーン・アバターの反応は、百パーセント、どこからどう見てもマラー本人の反応としか思えなかった。それもまあ、よく考えれば当然のことであって。これらの偽物はデナム・フーツを騙すために作られたものなのだから。ただの人形でデナム・フーツを騙せるわけがないし、あるいは、眠っているだけの姿を完璧に模倣したものであっても、やはり役者としては不足だ。デナム・フーツがどんな行動をとったとしても、絶対に本物を見破られてはならない。ということで、それらのグリーン・アバターには、完璧な反応がプログラミングされていたということだ。

 人間という生き物には非常に奇妙な特徴があって、それは、何事かを判断する時に、自分自身が「物事の本質」であると考えているものによって判断するのではなく、それとは反対のもの、つまり「物事の皮相」だと考えているものによって判断するということだ。その「本質」と「皮相」と、という判断も、やはり恣意的なものであって、視点を変えればいくらでも入れ替わることであるので、まあ問題ないといえば問題ないことではあるのだが。とはいえ、傍目から見ているとなかなか理解しがたい矛盾的な反応である。例えば今の真昼でいえば、真昼が人間の本質であると考えている「内面的な同一性」ではなく、「外面的な類似性」によって、マラーであるかマラーではないかを判断している。

 本当に。

 ホモ・サピエンスは。

 理解しがたい、生物。

「離して、離して! 早く、早く、助けに行かないと!」

「だ、か、ら! あれは偽物なんだってば! 本物のマラーちゃんはあれ! もう助かってるの! それに、あのどれかが本物のマラーちゃんだたとしても、もう手遅れだよ! ほら、もうすっかり骨! 骨だよ、真昼ちゃん!」

 まさに、デニーの、言う通りだ。

 つまり、すっかり骨ということ。

 変なことをしでかさないように、ぎゅーっと抱き締めて離さないデニーの腕から、なんとか逃れようとして。真昼がじたばたと足掻いているうちに、七体の偽物は、ほとんど溶かされ尽くしてしまっていた。化学反応によって発生した煙のような、冷たく凍り付いたような匂いがする煙を放ちながら。肉はぼろぼろと骨から剥がれ落ちて、薄桃色の液体となり、そしてやがては消えて行ってしまっていた。眼球はぼこりと凹んで、欠けた眼窩から流れ込んだヌミノーゼ・ディメンションは、恐らくプログラマブル・ロジック・コントローラーも破壊してしまったのだろう。悲鳴さえ上げなくなった七体の偽物は……もう、大方は、骨の塊になってしまっていた。

 その骨の塊さえも。

 ゆっくりと、溶けていって。

 やがては、肉体の、全てが。

 飲み込まれてしまうだろう。

 真昼は、そんな光景を見て……遂に、何かが切れてしまったらしい。このひどく短い間に起ったこと、せいぜいが数十分の間に起ったこと。パンダーラが死に、ミセス・フィストが勝利し、マラーに似た七つの体が、惨たらしく溶解されてしまったこと。一つでさえ支え切れないような、そういった残酷な出来事の集積体が、一気に真昼の体にのしかかってきて。そうして真昼の精神を押し潰してしまったのだ。

 耳元で「やめて! 目に指を突っ込まないで!」とうるさく叫んでいるデニーの声。その声が、なんだか、次第に、次第に、遠ざかって行っている気がする。霧の向こう側から叫んでいるみたいだ。それだけでなく、目の前に見えているものも、ふわりと、風に吹き消された砂絵みたいにして、現実感の輪郭を喪失していく。何かと何かの境目が曖昧になっていって、その後で、すーっと全てのものが、真っ白な光に飲み込まれていく。どうしようもなく出血してしまったみたいに、全身から力が抜けて行って。何も、何も、考えられなくなる……考えなくて良くなる。

 そして。

 真昼は。

 慈悲深くも。

 気を失ったのだ。

「ま、真昼ちゃん?」

 弱点を的確に狙っているとしか思えなかった真昼の攻撃が、急に停止したので。デニーは、なんだかよく分からないけれど、とにかく声を掛けてみた。真昼は、デニーの腕の中で……口の端からよだれ(もしかしたら胃液の残りかもしれない)を垂らしながら、ほけーっとした顔で目をつむっていた。「真昼ちゃん……?」と言いながら、デニーは、おっかなびっくり、真昼のほっぺたをつんつんしてみる。なんの反応もない、さっきみたいに急に動き出したりもしない。どうやら、本当に、眠ってしまったらしい。

「ふあー……良かったよお……」

 デニーは、ほっと。

 胸を、撫でおろす。

 フードの先からは、したりしたりとライフ・エクエイションが滴り落ちている。なんだか間の抜けたシチュエーションだ。真昼があまりにも暴れまくったせいで、デニーの全身は既にライフ・エクエイションでびしょびしょだったのだ。

 一体何がどうしたのか分からないうちに何かが始まって、何がどうなったのか全然分からないうちにその何かが終わったらしい。とにかく真昼ちゃんが、なんらかの理由で爆発的な感情の発作を起こしたということだけは、辛うじて分かるのだが。それがなぜ起こったのか分からなかったし、そもそもどういう感情だったのかということも分からなかった。こんな分からないことだらけなのは、レノアと行ったあの宇宙旅行以来のことだったが……まあなんにせよ終わってくれて良かった。

 また、起きて、暴れださないように。

 慎重に慎重に、真昼の体を。

 自分の膝の上から降ろして。

 それから、デニーは。

 立ち上がり。

「まーったく!」

 可愛い子猫みたいに。

 ぐーっと体を伸ばす。

「一体、真昼ちゃん、どうしちゃんたんだろうね?」

「さあ、私には分かりかねますね!」

 ミセス・フィストは、そう答えてから。

 少しだけ首を傾げて、こう付け加える。

「きっと何か辛いことがあったのでしょう!」

「んー、だろうねっ!」

 デニーは。

 ミセス・フィストに、そう答えると。

 それ以上、深く考えないことにした。

「それで、えーっと、なんの話してたんだっけ?」

「これから契約の詳細についての話をするところでした!」

「あー、そーそー! そーだったよね!」

 はえーそうだったそうだったみたいな感じで、しきりにうんうんと頷きながらデニーは答えた。ただし、その後ですぐにミセス・フィストと話し合おうとはしないで……ちらりと横目、このティンガー・ルームの中心の方に視線を向ける。

「でも、ちょーっと場所を変えた方が良いかもね。」

「そうですね、ミスター・フーツ!」

 デニーが見ているものと、同じものに。

 凍り付いたレンズのような視線を向けながら。

 ミセス・フィストは、その意見に、同意した。

 二人が見たものは……いうまでもないことであろうが、カーマデーヌだった。そう、カーマデーヌは、パンダーラとは違ってASKにとって非常に有用な存在だ。それゆえに、パンダーラのことは殺しても、カーマデーヌのことは殺していなかったのだ。その四本角の牛の姿は、相変わらずティンガー・ルームの中心であるところの、あのリング状の足場の中心に見えていたのであって……とはいえ、ただそこにいただけではなかった。

 モオオオオオオオオッ!という咆哮を叫びながら。カーマデーヌは、何度も何度も、自分の周囲に浮かんでいる、巨大なリングに向かって体当たりを繰り返していた。どうやらあのリングは、ただ単純にカーマデーヌのことを観測するための場所として作られただけではなく、カーマデーヌのことをその内側に閉じ込めておくためのディフェンス・ラインのような役割も果たしていたらしい。それはまあ当たり前といえば当たり前の話で、ASKが、カーマデーヌのような重要な資産を保管するために、たった一つの牢獄だけで事足れりとするはずがないのだ。

 ということで、リングの内側に閉じ込められているカーマデーヌは……そのリングを破壊しようと足掻いているらしかった。恐らくは、動物的な本能によるものながらも、パンダーラが殺されてしまったということを理解して。それに対する怒り憎しみという感情によって突き動かされているものと思われた。

 その怒りが、その憎しみが、あまりにも大きなものであるためか。それとも、そもそもリング自体が、カーマデーヌを一時的に足止め出来れば十分といった程度の代物であるためか。恐らくはその両方が理由であろうが、とにかく、カーマデーヌの猛攻によって、リングは破壊されていた。突進され続けている部分から、軋み、歪み、罅が入って。もう少しで……その防衛ラインは、突破されてしまうだろう。

 そうなると。

 また、なかなかに。

 面倒なことになる。

 ミセス・フィストがターゲットとなっているのはもちろんのこととして、パンダーラを直接殺したのがデニーである以上は、間違いなくカーマデーヌの攻撃はデニーにも向かうことだろう。となれば、これ以上ここにいれば、カーマデーヌとの戦いは避けられることではなくなってしまい……そうなれば、ゆっくりと話し合いをしていられるわけがない。

 だから。

 場所を。

 変える。

 必要がある。

「それでは、会議室などいかがでしょうか?」

「会議室って、この間、通してくれたとこ?」

「そうです!」

「うん、そーしよっか。」

 ちなみに、カーマデーヌのことをこのまま放っておいていいのかといえば、その点に関していえばなんの問題もない。例えあのリングを破壊できたとしてもここから出ることはできないのだから。ここはティンガー・ルーム、世界と世界との狭間を満たしているガナソティコンと呼ばれる無能空間にASKが作ったポケットバースなのだから。例えばパンダーラに教えて貰うなどして、ちゃんと方向性を理解しているのならば、まだその可能性もあろうが……カーマデーヌだけで、ここからどう脱出すればいいかなどということ、分かるはずもないのだ。

 そして、何度もいうが。

 パンダーラは、死んだ。

 白い牛飼いは。

 もう此岸にはいない。

 それならば。

 カーマデーヌは。

 リングを壊しても。

 この空間自体から。

 出ることが出来ないのであって。

 今は放っておいて。

 後でまた、檻に戻せばいいだけの話。

 そもそも、つい先ほど、戦闘中に、ミセス・フィストが、カーマデーヌを、「力」の内側に、ドームの内側に、閉じ込めようとしたのは。それはただ単に戦闘中だったからである。戦闘中だったから敵対する勢力にとっての戦力になりうるカーマデーヌを封印しようとしただけである。今は、別に戦闘中というわけではなく、知性の欠片もないけだものがいくら暴れ回ろうと、それは脅威というにはほど遠い。どうぞご勝手に。どうぞ気の済むまで暴れて下さい。導く者のない暴力を躱すのは簡単なことだ。

 と。

 そのような。

 わけでして。

 先ほども少し触れたことだが……めちゃくちゃに暴れまくった真昼のせいで、ばしゃばしゃと跳ね上げられたライフ・エクエイション。生命そのものののような色をした、真っ白なミルクで、頭から爪先までずぶ濡れになってしまっているデニー。

 そのデニーが、ぺろりと、舌先によって、自分の頬を撫でた。ライフ・エクエイションを舌先で掬い取って口の中に運んだのだ。その様子は、見ている人間の背筋を真っ直ぐに切り開いて、脊髄に生温い酸を流し込むみたいに、鮮やかなほど蠱惑的で……誘うような唇を揺らめくように開いて、ミセス・フィストに言う。

「じゃーあー、ミセス・フィスト。」

「なんですか、ミスター・フーツ!」

「デニーちゃんのこと……ふふっ、エスコートしてくれる?」

「もちろんです!」

 そっと、差し出された、デニーの右の手を。

 砂糖細工を扱うように、恭しく受け取って。

 それからミセス・フィストを力点として四つの作用点が現れる。一つはミセス・フィスト、一つはデニー、一つは真昼、最後の一つは、本物のマラー。例によって例のごとく、あの薄っぺらい青色をした光、テレポートのためのポータルが現れて。そして、アイスクリンでアイスクリームを刳り抜くようなあの態度、まあるくまあるく、四人の体を、その周囲の空間ごと切り取って……するんと滑り落ちるようにして、そのポータルは、転送対象者を内に含んだまま消失する。

 つまり。

 四人の姿は。

 会議室へと。

 転送されたということで。

 その後の。

 ティンガー・ルームには。

 ただただ。

 怒りと。

 憎しみと。

 絶望と。

 それと。

 死だけが。

 取り残される。


 夢。

 夢。

 夢。

 これは。

 きっと。

 美しい、夢。

 何かに対して何かを求めている。けれど何に対して求めているのか分からないし、何を求めているのかも分からない。そういう行為が、きっと、真昼にとっての信仰なのだろう。空白を明け渡して虚無を手に入れる。絶望を抱き締めて、救われることのない辺獄を孕む。真昼にとっての人生はそういった事象の連続体としての一つの放物線であって。それはそれとして……真昼は、また、あの場所に横たわっていた。

 静かで。

 冷たい。

 緑色の。

 霊廟。

 その中心にある。

 祭壇の、上。

 真昼は、自分がその場所にいると知った時に……なぜだかはよく分からないのだけど、とても、とても、安心した気持ちになった。まるで、地球の中心の、透明な宝石の中で生まれた生き物が。暗くて、暗くて、何も見えないくらいに真っ暗な深海の底へと、ゆっくりゆっくり落ちていくような、そんな感覚。ここには真昼を傷つけるものはない。真昼を傷つける、あの、目が眩むほどに眩しい光は、完全に遮断されているのだから。真昼は安心して……真昼がそうなるべき何かになることができる。

 ああ。

 血液と共に。

 静かに。

 静かに。

 体の中を巡る。

 この。

 最後の。

 最後の。

 夜。

 「それ」が、薬指に、口付けを触れた時に。性的な絶頂にも似た快感とともに、真昼は「それ」がなんであるかを理解した。それは……蛆虫だった。まるで磁器で出来ているかのように、透き通って白く、なめらかな誘惑のように光る、蛆虫。

 もちろん真昼に口付けた「それ」だけが蛆虫であるわけではなかった。棺の中から溢れ出て、真昼に向かって這い寄ってくる、たくさんの「それ」。石畳の上、石段の上、祭壇の上、覆い尽くすように蠢いている全ての「それ」が蛆虫だった。

 くにゅりくにゅりと体をくねらせて。真昼に対して甘えているかのように、蛆虫達は踊っていた。そう、踊っていたのだ、真昼には……少なくとも、今の真昼には聞こえない音楽に合わせて。聞こえない、けれども、なぜか、真昼は、それがどういう音楽なのかということを知っている。それは、二つの種類の楽器によって奏でられる音楽だ。まず一つ目は、人間の骨を削り出して作られた笛だ。もう一つは、死んだ動物の皮を張りつめて作られた太鼓。笛には指孔がなく、太鼓は手で叩く。どちらも粗雑な音、最も原始的な音しか出せない楽器であって。それを調整することも、それに秩序を与えることも、誰にも出来ない。

 地獄の音楽。

 悪魔の音楽。

 それに合わせて。

 蛆虫は。

 踊っていて。

 ダンス、ダンス、ダンス、誰だって地の底に落ちていく時には踊っていたいと思うものであって。そして、それから、あの蛆虫、薬指に口付けをした蛆虫は……甘く、甘く、淫らな喜びであるかのように、真昼の体に攀じ登って来た。

 その柔らかく愛らしい腹脚の、一つ一つが触れる度に。真昼は、とても大切な何かを、許されている気がした。涙のように、とても、とても、大切だった何かが、体の中から失われていって。その分だけ、許されていく、そんな感じだ。

 一匹目の蛆虫が真昼の体に登り終わると、次の一匹が、また真昼の体に登り始める。いや、一匹だけじゃない。二匹、三匹、四匹……全ての、全ての、蛆虫が。数え切れないほどの数の蛆虫が、真昼を目指して、やって来ているのだ。

 手のひらから、足の裏から。首から、胸から、腰から、腕から、脚から、頭から。あらゆる肉体の部位を、あたかも犯していくみたいにして、蛆虫達は、真昼の体に攀じ登る。もしも、目覚めた状態、普通の世界で、こんな状態になっていたら。真昼は叫び声を上げていただろう。今すぐに起き上がって、全身を手で振り払い、一刻も早く蛆虫達を追い払いたかったに違いない。けれども、今の真昼にって……この状態は、決して不快なものではなかった。

 むしろ快いものだった。なぜなら、蛆虫達は、真昼のことを許してくれているからだ。今まで生きてきて……一体、誰が真昼のことを許してくれた? 誰一人、誰一人許してはくれなかった。真昼の何が悪くて、何を謝ればいいのかということさえ、誰も教えてくれなかった。それなのに、ここにいる蛆虫達は……そういう、真昼の分からないことの全部を、分かっていてくれて。そうして、その上、許してくれてさえいるのだ。

 なぜ。

 それを。

 不快に思う。

 必要がある。

 それは。

 例えば。

 献身的な。

 愛の、ような、もの。

 次第に、次第に。何百匹の、何千匹の、何万匹の蛆虫達は。真昼の全身を覆い尽くしていってしまう。ざわざわと体の上で蠢く蛆虫達の運動は、優しく砂浜を洗っていく波の動きのようだった。真昼の体の上で、ゆっくりと、ゆっくりと、その海は満ちていって。海は母、海水は羊水。やがて蛆虫達の群れの中に完全に埋まってしまった真昼は……子宮の中で、なんの不安もなく浮かんでいる、胎児のようなものなのかもしれない。

 さて、ところで。蛆虫達の目的とはなんなのか? これは自明の理であるが、全てのものに目的がある。全てのものに、それらにとっての正しさがある。重力とは物質が正しい場所に向かおうとする力であり、燃焼とは間違った場所に起こった現象を訂正しようとするエネルギーの発露であり。そうである以上は、これらの蛆虫達にも、当然ながら目的があるはずだ。その向かうべき、正しい場所があるはずだ。では、それはどこなのか。

 もちろん。

 真昼は。

 それを。

 知っている。

 蛆虫達が、向かっている場所。

 蛆虫達が本当にいるべき場所。

 それは。

 要するに。

 あたしの。

 心臓。

 例えるならば蜂蜜を満たしたプールから、柔らかく柔らかく引き上げられていくみたいにして、真昼は目覚めた。べったりと体中にまみれた恍惚の残り香が、目覚めた瞬間から、少しずつ少しずつ現実によって拭い落とされていく感じ。スプーンに残っている、ほんの僅かな蜂蜜を、いつまでもいつまでも、名残惜し気にねぶっているみたいに。真昼は、なかなか目を開ける気になれなかった。目を開けてしまえば、また、あの世界に戻らなければいけないからだ。あの世界? でも、あの世界って、どういう世界だったっけ。確か、何か、とても、嫌なことがあって……そんなことを考えながら、真昼はぼんやりと目を開く。

 そして。

 それから。

 目覚めた、すぐ先に。

 その、顔が、あった。

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