第一部インフェルノ #34
その言葉に。
反応する。
みたいに。
して。
合計して八つ。
ティンガー・ルームのあちこちに配置された。
ペレムウェス式に建築された、宙に浮かぶ塔。
静かに。
静かに。
解体し始める。
読者の皆さんはご記憶のことでいらっしゃるだろうか。確固として空中に聳え立つ、高さ十数ダブルキュビトの塔のことを。デニー達がこの時空間に到達した際に、真昼の目から見た情景描写として一度触れられたきり、その後はまっっったく触れられる気配さえなかったその八つの塔が。ようようやっとのとどのつまりに物語に関係してくることとなったのだ。さっきまでの戦闘はほとんど全てが(ミセス・フィストを拘束したライフ・エクエイションの一部を除いて)リング内で完結していたため、また、ついさっきまではそれらの全ての塔が不定子一つ分たりとも動く気配がなかったため、実際にティンガー・ルームにいるとめちゃくちゃ目立つし嫌でも目に入ってくるにも拘わらず。文章内では一文字たりとて描かれることがなかったそれらの塔は……今、ミセス・フィストの言葉の通り、「展開」しようとしていた。
といっても、その全体が開こうとしていたわけではなく、上から三分の二程度、大体十ダブルキュビトくらいの部分が分解を開始していたということだ。その分解というのは、具体的に描写してみるとすれば、一つ一つのシェイプ・サイズが不均一で、しかも各々のシェイプ・サイズも一定することがない、五十ハーフフィンガーから二百ハーフフィンガーくらいのブロックとして、部分部分が乖離していくということであって。それらのブロックは、幾つかの直方体を積み重ねた、いってしまえば子供が積み木で遊んでいるような、そんな姿形をしていた。
それから、それらのブロックが、まるで仕掛け箱を崩すかのようにそれぞれの方向にスライドしていって、結果として塔の内側が露わにされると。その中からは……生命体が抱く不安そのものを融解させた液体のような、ぶくぶくと泡立ち、どろどろと渦巻く、禍々しいほどに黒い色をした何かが現れたのだ。それは、その黒は、この世界のあらゆる物理法則を超越しているかのような、真底からの黒であって……また、その物質としての性質は、確かに液体であるように見えながらも、ある意味では何らかの波動であり、別の意味では性質が完全に反転した光であり。そして、あるいは揺らめき、蠢き、膨れ上がり、のたくり、這い回る、大量の触手でもあった。つまり、それは、明らかに、このディメンションで発生した物質ではなかったということだ。
ただし、実は……その物質は、大して重要なものではなかった。塔に閉じ込められていたもの、八つある塔の一つ一つの中に閉じ込められていたものの中で、より重要なものは。その物質の先端。液状の部分からどろりと鎌首を挙げて、幾つも幾つもに分裂した触手の先端が、絡まって、縛り付けて、あたかも祭儀における犠牲のように、上に向かって掲げていたもの。一人の人間の姿をした、その肉体の方であった。
その肉体は。
黒い色をしていた。
アーガミパータの太陽の。
神をも焼き払うような光。
その光に焦がされた。
そんな肌の色。
髪の毛は、少しだけ縮れていて。
ひどくぼさぼさにばらけていて。
けれども、一度だけ櫛を入れたことがあるような。
肌の色よりも濃い色をした、髪。
とても。
とても。
小さい体は。
随分と幼い、少女の形をしていて。
十歳に満たないだろうと思われた。
恐らくは。
眠っているに違いない。
少なくとも意識はなく。
そのせいで、両方の目は閉じられていたが。
目鼻立ちがはっきりしていることは分かる。
そして。
真昼は。
その色を。
その髪を。
その体を。
その顔を。
知っていた。
間違いなく。
知っていた。
絶対に忘れないように。
その心に刻み付けて。
絶対に。
絶対に。
見捨てない。
絶対に。
絶対に。
救い出す。
そう。
自分自身に。
誓った。
その少女の。
名前は。
「マラー……?」
うーん、あのさぁ……なんか……ここまで溜める必要なかったよね。塔が出てきて中から人間が出てきたって時点でさ、よっぽどのおサテライトさん(お馬鹿さん的なあれです)でない限りはそれがマラーだって気が付くだろうし。こう、文章に、もうちょっとなんというか、鋭さというか、軽やかさというか……そういうのが欲しいんだよなぁ……まー、まー、それは今後の課題にするとして、とにかく塔の中に閉じ込められていたのはマラーだとしか思えない何かだった。
お待たせしました、久しぶりの登場です!
こんなところに閉じ込められていたのか!
ただ、どう見てもマラーにしか見えないのであったが。そうだとすると、またもやまたもや「一つだけ奇妙な点がある」パターンが発生することになる。いやー、意外に早かったですね。その奇妙な点とは、時間がないので勿体ぶったりせずぱっぱと明かしてしまおうと思うが、塔が八つあるという点だ。少し前に書いたように、その姿は、八つある塔の「一つ一つ」に閉じ込められていたもので。つまり、そのマラーらしき姿は、それぞれの塔の中から、合計して八つ出現したということなのだ。
これでは、マラーが。
八人いることになる。
しかし。
真昼の知っているマラーは。
たった一人だ。
「何これ、どういうこと!?」
真昼はパニックを起こしたように大声を上げた。どうしようもない不安と恐怖と焦燥との感情が持つ、負の方向に振り切れたエネルギーをなんとか体外へ排出しようとして、叫び声をあげたのだ。そんな真昼に比べて、デニーは、全く動じている様子はなかった。あの八つの塔が開く前から、その中にマラー(あるいはマラーのように見える何か)がいるということを知っていたという態度。そして、こんな状況ではむかつくくらいに平静な口調で、しかもとっても可愛らしく、真昼に向かって、こう言う。
「ね、撃てないでしょ?」
「撃てないでしょって……」
真昼は。
デニーを。
睨み付ける。
その言葉は、質問に。
全く、答えていない。
「マラーが……あの子が、なんで八人もいるの! っていうか、あの子を捕まえてるあの黒いのはなんなの! 一体どうなってるの! 今、何が起こってるの!」
「真昼ちゃーん、そんなにいっぺんに質問されたら、デニーちゃん困っちゃうよお。」
自分が理解できる範囲を超えた出来事が久々に起こってしまったせいで、すっかりクラッシックな真昼ちゃんに戻ってしまった真昼に対して、デニーの方もクラッシックなデニーとしての応対、つまりクソの役にも立たない上に馬鹿にされているみたいで腹が立つコメントで返したのであったが。ただ、それでも少し考えた後で、真昼の質問に一つずつ答えていくことにする。
「えーっとお、まずあのまっくろくろでねばーってしてるやつだけどお……真昼ちゃん、ほんとーに見たことないの? 月光人なのに? んー、でも名前くらいは知ってるんじゃないかなー。あ、れ、は、ヌミノーゼ・ディメンションだよ! ね、聞いたことあるでしょ? ヌミノーゼ・ディメンションのセグメントがこっちの次元にばばーって顕現したやつ。真昼ちゃんも知ってると思うけど、ヌミノーゼ・ディメンションって、こっちの次元とはぜーんぜん違う法則が適用されるから、その法則の違いをなんだのかんだのすることで、武器として使われてるってわけ。
「と、いうことで! あのヌミノーゼ・ディメンションも武器として使われてるんだけど、その武器っていうのが、マラーちゃんを拘束して、それからミセス・フィストがやれー!ってしたら、マラーちゃんのことを殺すための武器だっていうわけなの。つまり、今のマラーちゃんは人質ってこと。デニーちゃんがミセス・フィストのことを撃てないようにするための人質ね。デニーちゃんがミセス・フィストを殺したら、ミセス・フィストもマラーちゃんを殺しちゃうぞっていう意味の人質だね。
「たーだーしー、もしも人質が一人だったら、あーんまり意味がないよね。だってさーあ、確かにデニーちゃんはこーやってミセス・フィストのことを撃っちゃうぞっ!てしてるけど、真昼ちゃんとパンダーラちゃんは別になんにもしてないわけでしょ? だから、デニーちゃんがばきゅーんってして、そのせいでミセス・フィストがマラーちゃんのことを殺せーってしても、ヌミノーゼ・ディメンションがマラーちゃんのことを殺す前に、真昼ちゃんかパンダーラちゃんのどっちかが助け出しちゃえばいいんだから。そんなわけで、人質はもっといっぱい必要ということになります!
「具体的に何人必要になるのかっていえば、まずは真昼ちゃんとパンダーラちゃんが二人助けられるでしょ? それに、真昼ちゃんは侲子術を使ってfive daughtersを操作できるんだから、あと五人助けられるよね。となると、デニーちゃん達が助けられるのは最大で七人っていうことになって、それよりも一人は多くなきゃいけないんだから、八人の人質が必要だよーってこと! だから、ミセス・フィストは、こーゆーふーに八人の人質を用意したっていうわけ。うーん、とっても論理的!
「でもでも、ここにいる八人全員が本物のマラーちゃんっていうわけじゃないんだよ真昼ちゃん。この中の一人だけが本物のマラーちゃんで、後の七人はぜーんぶ偽物なの。ただ、偽物っていってもすっごくすっごく精巧な偽物で、たぶんグリーンアバターとかなんじゃないかな? と、に、か、く、デニーちゃんでもどれが本物のマラーちゃんか分からないーって感じなの。どのマラーちゃんが本物か分からないなら、誰か一人だけを残して他の子達を助けても、その残した子が本物のマラーちゃんかもしれないぞってなるよね? そうなると、やっぱりデニーちゃん達は手を出せなくなるから、偽物の人質でもじゅーぶんに役に立つってわけ。
「はい、こんな感じです! 分かってくれたかな、真昼ちゃん? こういうわけで、デニーちゃんはミセス・フィストのことを撃てないーっていうわけです。以上、おしまい!」
デニーにしては。
まあまあ。
分かりやすい。
説明だったと。
思います。
だから、真昼も……途中でヌミノーゼ・ディメンションだのグリーンアバターだのというそこそこ専門的な単語が出てきて、そのどちらの単語についても「なんか聞いたことあるかも」程度の薄ぼんやりとした認識しかなかったものの(お前ーっ! 家庭教師の人に習っただろーっ! 聞いてなかったのかーっ!)、デニーが言ったことの大半、少なくとも今の時点で必要な部分は、なんとか理解することが出来た。
ただ、まあ、理解出来たからといって、だからどうしたという話なのであるが。デニーの話を聞いた限りでは、今のこの状況は、真昼にはどうしようもない状況なのであって。というかデニーにも、それどころかミセス・フィストにも、どうにかしようがあるとは思えなかった。
まずデニーの立場からすれば、引き金を引かない限りミセス・フィストを破壊することが出来ないが、引き金を引けばマラーが殺されてしまう。マラーを助けたいという希望が真昼にあって、デニーはその希望を叶えなければならない以上、ここで引き金を引くことは不可能だ。
一方でミセス・フィストの身になって考えてみれば、確かにマラーを人質にすることで当面の安全は保障されているが、かといってこの状況から抜け出すことはできない。なぜならライフ・エクエイションによる拘束を抜け出そうとすれば、前述したことであるが、一瞬の隙が発生してしまうのは避けられず。その隙を狙われれば、マラーを殺す前にスペル・バレットを撃ち込まれるのは間違いないからだ。
これは。
完全に。
手詰まり。
エステルのゲームで例えるならば。
まさに。
デニーが言った通り。
フォルス・オーダー。
「あんた……何言ってるの……」
しかし、真昼は。
この状況を。
受け入れることが。
できない、らしい。
「おしまいって、なんだよ! なんで、なんであんたはいつもいつもそんな適当なんだよ! あとちょっと、あとちょっとでそいつを倒せるのに、それなのに、「撃てない」で済ませていいと思ってるのかよ! パンダーラさんが、あたしが、それに、あんたが! ここまでどれだけ頑張って……でも、でも……マラーが……マラーが捕まってて……死んじゃう……殺されちゃう……助けないと! あの子を、今すぐ助けないと! でも、助けるには……そいつを……そんなこと、そんなこと、絶対に出来ない……でも、あの子を見殺しにすることだって、絶対にしちゃいけないんだ……どうすれば……どうすればいいんだよ……デナム……デナム・フーツ! あたしは、あたしは、どうすればいいんだよ!」
最初の方と最後の方で内容が噛み合っておらず、全体的に見てもほとんどしっちゃかめっちゃかなセリフであったが。だからこそ、真昼がどれだけ混乱しているのかということをよく表しているといえるだろう。
まあ、その混乱も仕方がないことだ。幼少期のトラウマを穿り返されるわ、いつの間にか鬼になっているわ、挙句の果てに対神兵器に突撃させられるわ、昨日・一昨日くらいまではごく普通の女子高生だったはずの人間が背負わされるべき分量を遥かに超えたスーパー辛苦の末に、ようやく手に入れたと思った勝利が。こうもあっさりと覆されてしまえば、混乱の一つや二つくらいしない方がおかしいというものだ。
とはいえ、それがいかに仕方がないことであっても、現在の状況下では、混乱している人間などなんの役にも立たないのであって。混乱していない人間であっても役に立たないであろうが、とにもかくにもデニーは、ほんのちょっとだけ考えるような素振り、んーっていう感じの可愛い素振りを見せてから、真昼の質問に対してこう答える。
「真昼ちゃんに出来ることは、特にないかな!」
「え……?」
「大丈夫、デニーちゃんに任せて!」
真昼に向かって。
いつものように。
ばちこーんと。
ウィンクをキメて。
「ぜーんぶ、真昼ちゃんの思い通りにしてあげるから。」
それから。
デニーは。
また。
ミセス・フィストに。
その視線を、戻して。
ミセス・フィストは……ミセス・フィストも、デニーと同じように、やはりいつも通りであった。まるで最初から動くものではなかったかのように、一つの美しい彫刻のように、超然的な態度でそこに立っていて。少しでも気を抜けば根底から破滅してしまうという現在の状況など、微塵も感じさせるところはなかった。ただ、そこに、表情が欠落した顔のまま、立っていて。
けれども。
しかし。
今。
この瞬間。
その顔の、その印象が。
一瞬で、ひっくり返り。
「それでは、ミスター・フーツ!」
完全で。
透徹な。
smileyによって。
デニーに。
向かって。
こう提案する。
「再交渉を開始しましょう!」
「みっせーす、ふぃすと!」
「はい、ミスター・フーツ。」
「ミセス・フィストがデニーちゃんに要求するサービスは、このスペル・バレットをミセス・フィストに向かってばきゅーん!しないっていうことですかあ?」
「はい、その通りです。」
「それではっ! ミセス・フィストが提供できる材またはサービスを提示してくださいっ!」
デニーは。
そう言って。
くすくすと。
笑った。
互いのナイフが互いの心臓に照準を合わせていて。それでも自分の心臓を失いたくないというのならば、これはもう話し合うしかないのだ。話し合って、なんとか妥協出来る点を探し出す。ナイフを持った手、自分の腕が届く距離と、相手の腕が届く距離と、そのぎりぎりのポイントを、言葉によって探り出す以外にないのだ。なぜなら、自分が絶対的な暴力を持っていたところで。相手もそれと同等の暴力を所有しているのならば、暴力というものにはなんの意味もないからである。
デニーとミセス・フィストとの間の交渉は、一度は決裂してしまったが。とはいえ、今では、状況は完全に変化している。特に、デニーはミセス・フィストに拳銃を突き付けていて、ミセス・フィストはいつでもマラーを殺すことが出来るという、この変化が重要だ。二人とも、今回は、底の抜けた崖を背にした状態での交渉なのであって……こうなってしまえば、もう前に進むことしか出来ないのだから。
ラヴ&ピース。
幸いなことに。
平和的交渉は。
全てを解決する。
「そうですね。私はこのような条件を提示します、ミスター・フーツ。もしあなたがその銃を下ろし、スペル・バレットによって、私の代わりに「お前に名乗る名前などない」を射殺するならば、私は少女:仮登録名マラーをヌミノーゼ・ディメンションから解放しましょう。」
フレンドリーという単語そのもののようなsmileyのままで、ミセス・フィストはそのようにドラフト・オブ・コントラクトを提示した。これはあくまでも試案に過ぎず、この条件そのままで契約として達成するなどとは、無論、ミセス・フィストも考えてはいなかったが。それはそれとして、その条件にデニーがなんらかの反応を示す前に……真昼が、声を上げる。
「え?」
口を挟んだというよりも。
突然起こった、予想外の出来事に。
つい、声が口をついたという感じ。
「何を……何を、言ってるの?」
確か、真昼の記憶の限りでは。「お前に名乗る名前などない」とは、ミセス・フィスト内におけるパンダーラの登録名だったはずだ。ということは……ミセス・フィストは、デニーに対して、マラーを開放する条件としてパンダーラの殺害を提示してきたということだ。これは真昼にとって、ずうずうしいとかそういうのを通り越して意味不明といっていいような条件である。ミセス・フィストは自分の状況を理解しているのだろうか? 自分が、今、破滅を突き付けられているということ。圧倒的に不利な状況にいるということを理解していないのだろうか?
しかし。
真昼は。
すぐに分かるだろう。
そう思うのは間違いであって。
何一つ理解出来ていないのは。
自分の方なのだと。
「んー、その条件は、ちょーっとダメーって感じかなあ。」
デニーのその言葉に、真昼は、思わずほっと息を吐きだした。そんなことあるわけないと思いながらも、心の隅っこの方では、「もしかしてデニーはこの条件を飲んでしまうのでは?」という疑いが無きにしも非ずだったからだ。デニーは、確かに、真昼から見て真昼に似ている精神構造をしているように見えないことはないのだが。それでも真昼とは全く異なっている部分があって、真昼にとって完全に理解不能といってもいいような行動を取らないとも限らないからだ。だが、どうやら、今回は、真昼の思う常識的な行動を取ってくれたらしい。
と。
思った。
その。
矢先。
デニーが。
こう言葉を続ける。
「パンダーラちゃんを殺すのはいいけどさーあ、そっちも、デニーちゃんに、なんかちょーだいよ。マラーちゃんを解放して貰うだけじゃーさー、やっぱり割に合わないよー。」
「は!?」
またもや真昼は声を上げたが、今度はついつい声が出てしまったというよりも、もっと能動的な感じだった。それは、つまり、驚愕と激怒との方向に近かったということだ。こいつは、こいつは、一体、何を言っているというのだ?
「ちょっと……デナム・フーツ!」
「なあに、真昼ちゃん?」
「あんた、どういうこと!」
「どういうことって?」
「今、あんた……パンダーラさんを殺すって……」
「んあー、そうだね。ミセス・フィストがそうしてーっていうから。」
「そんな……そんなことしていいわけないじゃない!」
「ほえ? なんで?」
本当に。
完全に。
理解出来ていない、声。
「なんでって、決まってるだろ! っていうか、なんで殺す必要があるんだよ! あんた、状況が分かってんのかよ! 今は、明らかに、こっちの方が圧倒的に有利な状況なんだよ! こっちはそいつに銃を突き付けてて、そいつをいつでも倒せる状況なの! それなのに、なんでそんな条件飲まなきゃいけないんだよ! あんた、なんで、そいつの言いなりになってるんだよ!」
底のない永遠の奈落に落ち込んでいく者の絶叫みたいにして、真昼はそう叫んだ。口ではなんと言っていようとも、思考よりも深いところ、無意識の根底では、完全に悟っていたからだ。ここには希望など、存在しないということを。案の定というかなんというか、真昼のその言葉に対して、デニーはちらと横目を向けただけだった。本当に呆れ返っているような表情。
それから。
こう言う。
「真昼ちゃん、真昼ちゃん、真昼ちゃーん。ほんっとーに、なーんにも分かってないんだね。今、追い詰められてるのは、デニーちゃん達の方なんだよ?」
「あんた、何を……」
「だって、そうでしょーお? それとも、真昼ちゃんは、マラーちゃんのこと助けたくないの?」
「助けたいに決まってるだろ!」
「それなら、デニーちゃん達は、絶対にマラーちゃんのことを助けたいーってことになるよね。それはー、つまりー、マラーちゃんを助けられなかったら、こっちはゲームオーバーってこと。その一方でっ! ASKからすれば、ミセス・フィストなんてただの耐久財でしょ? そりゃー、ミセス・フィストがいなくなれば、アヴマンダラ製錬所も落とされちゃうし、アヴマンダラ製錬所が落とされたらけっこーな損失にはなると思うけど。でも、それでも所詮は固定資産じゃないですかー。ASKにとっては、なくしてゲームオーバーになるーみたいな、とーっても大切なものっていうわけじゃないわけで。どーお、分かった? 今、より一層不利な状態にあるのは、デニーちゃん達の方なの。」
デニー、の。
その言葉に。
対して。
真昼は、何か反論しようとしたのだが。何をどう反論していいのか、さっぱり分からなかった。口を開いては閉じて、閉じてはまた開く。壊れた胡桃割り人形みたいに、ぱくぱくと口を動かすことしか出来ない。デニーの言っていることは、どこかが必ず間違っているはずなのだが。その間違っているところが見つからないのだ。そんな風に、必死に考えているうちに、段々と恐ろしい考えが浮かんでくる。もしかして……もしかして、デニーの言っていることは、正しいんじゃないのか?
そんな考えを、振り払うように。
真昼は、また、金切り声で叫ぶ。
「そんなわけない!」
「えー、そんなこと言われてもお。」
「あたしは……あたしは……!」
何かを、なんとか、しなければならない。けれども何をなんとかしなければいけないのか分からないし、そもそもどうすればいいのかも分からないのだ。それでも、とにかく、真昼は……今、この瞬間に、どうにかしなければならないということだけは分かっていた。数秒後でさえ遅すぎる。デニーとミセス・フィストとの間で、これ以上交渉が進んでしまえば。真昼には、もう、止めることなんて出来ないのだから。
だから。
真昼は。
益体もない言葉に頼ることをやめて。
行為として、何かを、行おうとする。
それが、つまるところ、トリガーだったのだ。デニーが真昼に仕掛けておいた、こういう時のための「仕掛け」が作動するための。どういうことかといえば、真昼の思考回路の中で、「行動を起こそう」という考えがフラッシュ・ポイントした瞬間に。真昼が被っていた仮面、方相氏のものであるところの金色の仮面から、ずるっと、爪が生えてきたのだ。
「な……!」
仮面の縁のところ、右側から五本、左側から五本、合わせて十本の爪。突然生えてきた、長い長い指先のようなそれらの爪は……真昼の顔をがっしりと掴む。それによって、真昼の顔は、完全に、仮面によってホールドされてしまう結果となって。あまりに突然のことに、何が起こったのかさえ分からない真昼は、とにかくその仮面を引き剥がそうとするのだが。どんなに強く引っ張っても、それらの爪が真昼の顔を離そうとする気配はない。
「くっ……はぁ……あっ!」
そんなこんなしているうちに、真昼は、徐々に、徐々に、自分の体から力が失われていくのを感じていた。といっても、例えば、筋肉が弛緩していくとか、全身が麻痺してしまうとか、そういうことではない。人としての力が失われていっているのではなく、鬼としての力が失われていっているのだ。体中に満ちていた、人間であることを超えた素晴らしい力。その力が、真昼の顔面を導管として、少しずつ、少しずつ、漏出していって。
「ま、ひ、る、ちゃーん。」
この金の仮面へと。
吸い取られていく。
「デニーちゃんに任せてーって、言ったよね?」
それは例えば、指先が痺れてしまって、持っていた拳銃を取り落としてしまうみたいなことだった。真昼は、宣命に対して、きちんとした制御が出来なくなってきて。そのせいで、まずは……三人の娘が持っていた月光刀と、真昼自身が右手と左手とに持っていた月光刀。その五本の月光刀から非存在の力が失われてしまう。抑止ラベナイトの性質を模倣していた、真銀の刃に纏わりついている二重の刃の部分が。その性質から虚脱して、なんの性質も見出すことのできないあの透明な物体へと回帰してしまったのだ。
その次の段階の症状として、今度は五人の娘に対する制御も覚束なくなってくる。この時には既に盾の形から少女の形に戻っていた三人の娘は、空気人形から空気が抜けていくみたいに、あるいは新入社員からやる気が失われていくみたいに、全身が、だらんと、力なく、萎えて。そして、宣命にだらんとぶらさがるだけの、ただの抜け殻となってしまう。
更に。より致命的なことに。真昼は、自分の足元で支えとなっている、少女二人分のキューブ・クラウドさえも制御出来なくなってきてしまう。全神経を集中させて、自分の精神で紡ぎ出した命令を、二人の娘の「受信装置」に対して送信し続けようとするが。遂に、その努力も限界を迎えてしまったようだ。キューブ・クラウドは、さらさらと、一つの型に流し込まれる砂のように、その形を変えていく。そうして二人の少女の姿へと戻ってしまう。
アズ・ア・リザルト。
支えを失った真昼は。
下に向かって、落ちていく。
じたばたと足掻く真昼は大変無様であるが、とはいっても真昼の人生に無様ではなかったタイミングなどなかったのであって、まあまあオールウェイズといえないことはないだろう。大して高いところにいたわけでもない真昼なので、その程度の高さから落ちても死にはしないだろうけれども……ただし、その肉体は、地面に激突することはなかった。
その前に。
デニーの。
仕掛けの。
第二段階が。
作動したのだ。
真昼の心臓が、どこか遠いところから聞こえてくる、ガラスで出来た生き物の声みたいにして、とくんと、一度、優しく鼓動した。いや、正確にいえば、鼓動したのは心臓自体ではなく……その周りをくるくるとゆすらいでいた、主の御言葉だ。
神学のための聖句。その聖句は、いつの間にかスーサイド・ボミングの聖句から、防御の聖句へと、再び書き直されていて。そして、その書き直された性質の通りに神学的な効果を発揮する。つまるところ、真昼の心臓は、またもや虹色のあぶくを吐き出し始めたということだ。
ただし、それらのあぶくの形態は前回とは少しばかり異なっていた。具体的に違っていたのはその大きさ、それにその個数だ。前回は、小さなあぶくが幾つも幾つも生まれたのだったが。今回は、大きなあぶくが六つだけ発生したのだ。
そして。
それらのあぶくが。
娘と。
娘と。
娘と。
娘と。
娘と。
それに、真昼と。
一つの。
なめらかな。
牢獄のように。
包み込む。
それは冷酷なる慈悲であって、善良なる拘束であった。薄く透明なガラス玉に油を一滴だけ垂らしたような、虹色の休憩。五人の娘と真昼とは、するりと、その中に囚われてしまって。斯くして、真昼は、すぐさま、次のような事実に気が付く。その球体、内側から外側を見ることができるし、外側から内側を見ることもできる。それに外側の音を内側で聞くこともできるのだが……ただし、内側の音を、外側に伝えることだけが出来ないのだ。
真昼は、持っていた月光刀で、何度も何度も牢獄の壁に切り付けてみる。壊れる気配がないどころか、物と物とがぶつかる音さえもしなかった。なんの手ごたえもない。ただ単に、真昼が外部へと脱出することを、拒否されているだけという感覚。何度切り付けてもなんの意味もなかった。もしもその刃が抑止ラベナイトを纏っていれば、あるいは切り裂くこともできたかもしれないが、残念ながら、既に、月光刀からその力は失われている。今の真昼では再びその力を月光刀に付与することも出来ない。
真昼は……何回かその刃を叩き付けた後で、月光刀を取り落とす。持っていても無意味なそれを手に握っているだけの余裕がなくなってしまったということだ。今度は、握り締めた自分の拳、右と左との拳で、がんがんと(いう音は出ていないが)牢獄の壁を叩きながら。「デナム・フーツ! デナム・フーツ! あたしを、ここから、出せ!」と、何度も何度も叫び続ける。
もちろん。
その行為に。
なんの意味もない。
音も。
声も。
外側には。
聞こえて、いないからだ。
「あははっ!」
デニーは、そんな真昼を見て。
檻の中で騒いでいる猿を笑う。
無邪気な子供みたいに。
けらけらと笑っている。
「真昼ちゃん、お馬鹿さんみたいだぞーっ!」
真昼は、ぎりっと奥の歯を噛む。なんとか、なんとか……ここから出られないだろうか? 結論からいうと、無理でーす出られませーんぴっぴろぴー、である。
真昼がそこから出るために取りうる方法は、想定しうる限りでは二つあった。その一つ目の方法、抑止ラベナイトを使う方法が封じられていることは既に書いた。そして、二つ目の方法、荒霊を使うという方法もやはり封じられている。真昼の顔に固定されているあの金色の仮面は、ある一定量であれば奇跡のエネルギーを吸収することが出来るからだ。もちろん、真昼が本当に覚醒した状態の奇瑞であって、自分の発生させる奇跡を一定程度支配出来るならば、あるいはこの金色の仮面の吸収出来る量を上回る奇跡を起こすことが出来るかもしれない。だが、今の真昼にはそんなことは不可能である。従って、今、この時に、真昼がいくら涙を流そうとも……奇瑞としての力は、全て、金色の仮面によって、デニーの都合のいいように操作されてしまうということだ。
真昼に。
出来ることは。
何一つ、ない。
そこで。
全てが。
終わるのを。
見ていることを。
除いて。
「さーて、これで交渉にしゅーちゅーできるね!」
「そうですね、ミスター・フーツ。」
虹色のあぶくの中で暴れまくっている真昼のことを完全に無視して(そのうち疲れて静かになりますので安心して下さい)、デニーとミセス・フィストとは、まるで共犯者のように笑い交わした。それからデニーは、んーと、という感じで、左手に持っていた拳銃の銃身を下唇に当てて。交渉がどこまで進んだのかを思い出しているみたいな素振りをしたのだけれど。やがて、ぴこーん!という感じで、思い出した!のポーズをしてから、言葉を続ける。
「それで、ミセス・フィストは、何か、他に、デニーちゃんにくれるものはあーる?」
「ミスター・フーツ、あなたはテレポート装置を使用したいと思っていましたね?」
「うんうん、そーだね。」
「それでは、私は、あなたに対して、テレポート装置の使用を提案します。」
「ほえー、テレポート装置を!」
「はい、その通りです。」
「でもでも、ここのテレポート装置ってさ、もう壊されちゃったんじゃなーい? さっき、ずーっと向こうの方で、どっかーん!っていうおっきなおっきな爆発の音が聞こえたけど。あれってたぶん、ダコイティの子達のぶりげーどが、テレポート装置の施設を壊しちゃった音だよね?」
「はい、その通りです。この製錬所のテレポート施設は二十三人のダコイティ及び五百十一体のリビングデッドによって制圧された後、今から五分七十二秒前に部隊を率いるリーダーであるブーカンパム・プーダによって破壊されました。」
「だよねー!」
読者の皆さんは、果たして覚えていらっしゃっただろうか。デニー達がミセス・フィストとの闘争行為を遂行している、その裏では。それ以外の大勢のダコイティが、アヴマンダラ製錬所の各地で、それぞれのターゲットである施設を陥落させるために命を懸けた壮絶な戦いを繰り広げているのだということを。
そんなスーサイド・ブリゲードとも呼べる十一の部隊(それぞれの部隊は十人のダイモニカス及びジュットゥがリーダを務めている)のうち、ブーカンパム・プーダ……つまりオカティが率いる部隊が。つい先ほど、この製錬所のテレポート施設を壊滅させることに成功していたのだ。以前書いたように、ASKはテレポート施設を使って外部からほとんど無限といっていいほどの(実際は費用対効果で割に合う限りで)軍勢を呼び寄せることができる。それゆえに、今回の作戦において、このテレポート施設を破壊することは、絶対に成功させなければいけないことだった。
そのようなわけで、パンダーラを除けば最も強力なダイモニカスであるところのオカティが部隊を率いるリーダーとして選ばれた。そして、そのオカティに率いられたところの、五十三人のダコイティ及び五千八十九体のリビングデッドにより編成されたブリゲードは、三十人のダコイティ及び四千五百七十八体のリビングデッドを犠牲として出しながらも、なんとかテレポート装置を制圧していたのである。
この制圧の過程は非常に凄まじいもので、特に、テレポート施設の防衛のために配置されていたSON-508(ASKの汎用対神兵器ソネミカシリーズの一種類)によってほとんど殲滅させられた部隊を見て、もうこれ以外に方法はないと悟ったオカティが、最後の最後の手段としてSON-508に単身で突撃し、自らの身を犠牲としてようやくそれを破壊することが出来た時などは。生き残った二十三人のダコイティは、ばらばらに砕けたオカティの肉体の破片から生まれた美しい花畑の中で、ただただ慟哭することしか出来なかったものなのだが……ただ、その戦闘については、さして重要というわけでもないし、内容的にもまあまあありきたりであって、いちいち触れていると物語がちょっと冗漫になってしまうので、詳細は省かせて頂きます。
ということで。
結論としては。
テレポート施設。
疑う余地もなく。
破壊されていた。
ていうか。
デニーちゃん。
あんな。
遠い。
ところの。
音。
よく。
聞こえて。
たね。
「じゃあさ、デニーちゃんテレポート装置使えなくなーい? それとも、テレポート装置の修理が終わるまで、ここで待っててーってこと? それ、たぶん、けっこー時間掛かるよね。装置の壊れ具合にもよると思うけどお、もしも部品を外から持ってこなきゃいけなくなったら、それだけで一週間とか二週間とか、平気で経っちゃうし。デニーちゃんも真昼ちゃんも、そんなに待ってられませーんって感じなんだけど。」
そう言いながら、右手の拳銃はミセス・フィストに突き付けたままで。ちょんっという感じで左手を背中に回して、少しだけ前に身を乗り出す感じの、かわい子ぶったポーズをするデニー。その一方で、ミセス・フィストは顔以外の、口以外の、あらゆる部分、さざ波ほどにも動かすことなく……こう答える。
「その点は心配ありませんよ、ミスター・フーツ。なぜなら、この製錬所に付属しているテレポート装置が使用不可能でも、この素体に内蔵されたテレポート装置を使うことが出来るからです。あなたもご存じの通り、ミセス・フィストシリーズのドーロイドには標準仕様としてテレポート装置が搭載されています。そして、この素体に内蔵されたテレポート装置は、アーガミパータにあるASKの各支店に対して予めルートを通してあります。ということで、あなたと真昼ちゃんとは、アーガミパータにあるASKの支店のどこかであれば、どこへでもテレポートすることが出来るのです。」
ミセス・フィストは。
そう言いながら。
自分の胸部に。
静かに触れた。
すると、その胸を覆っていたサーティが、繊維の一本一本からするするとほどけていって。やがて、ミセス・フィストの裸の胸が露わになった。ぴっと、目に見えない、非常に鋭い刃物で切れ目を入れたかのようにして。唐突に、その胸に、白銀比の長方形を二つ合わせた、窓みたいな切れ目が入って。そう、それは窓。だから、その窓は開いて、ミセス・フィストの胸の中を見せる。
胸の中は……青で満ちていた。青、い、光、では、なく、何か、薄っぺらい、金属のように、光沢がある、甘い、甘い、味が、する、エネルギー。ガラスみたいに透明な材質でできた、奇妙な角度に歪んだ球体に閉じ込められて、そのエネルギーは、耳障りな音を発していた。たくさんの数字を数式の中に入れて、その数式をがしゃがしゃと揺すっている、その時に聞こえる音みたいな。きんきんと甲高くて、とにかく神経を逆撫でする音だ。そして、その音の一つ一つが、誰も聞いたことがない音楽のように……一つの方向と、一つの距離と、一つの過程とを指し示していた。
要するに。
これこそが。
予め。
ルートを通された。
テレポート装置だ。
「なーるほどっ! そういうことなんだね。」
「はい、そういうことです。」
「それ、アーガミパータのお外には行けないの?」
「すみませんが、それはできません。」
「じゃあ、ここから他の支店にびゅーんって飛んで、その支店のテレポート施設を使うのは? 確かにテレポート施設がない支店もあるかもしれないけど、ジャナ・ロカにあるアーガミパータ本社とかなら、さすがにテレポート施設くらいあるよねーえ?」
「それも出来ません。そもそもアーガミパータにあるASKのテレポート施設には全て使用者ロックがかかっています。それは、アーガミパータという土地の性質上、いつASKに悪意を持つ何者かによって襲撃を受けるか分からず、その襲撃を行ったASKに悪意を持つ何者かが、当該拠点のテレポート施設を使ってASKの重要拠点へとテレポートしてしまう可能性があるため、そういったリスクを排除することを目的として、ASKの関係者以外がテレポートを行うことを禁止しているということです。その使用者ロックを解除するためにはASK本社による承認が必要であり、特に今回のような襲撃事件が起こった後では、その承認を得るのには長い長い時間が掛かることとなるでしょう。そういうわけで、この製錬所以外の支店にあるテレポート施設であっても、あなたと真昼ちゃんとが使用することは不可能です。一方で、この素体に内蔵されたテレポート装置には使用者ロックがかかっていません。この素体に内蔵されたテレポート装置は、もちろんこの素体自体の移動にも使用されますが、それ以前にアーガミパータにおける「ユーザー・エクスペリエンス」に使用するためのものだからです。例えば、アーガミパータの南部で新しくASKと取引関係を結ぶことになったゲストを、正式な契約を結ぶために北部にあるアーガミパータ本社へとインヴァイトする際にこの素体に内蔵されたテレポート装置を使用します。あるいは、アーガミパータ東部でアウトライアーがASKの統計学的全体性を棄損した場合、そのアウトライアーの生態標本をアーガミパータの西部にある隔離収容施設に移送する際にこの素体に内蔵されたテレポート装置を使用します。そのような「ユーザー・エクスペリエンス」に対して、都度、使用者ロックの承認を必要とするのは不合理です。そのようなわけで、この素体に内蔵されたテレポート装置は、この素体による使用許可の判断さえあれば誰であれ使用可能となっているのです。ただし、そのために、この素体に内蔵されたテレポート装置は、予めアーガミパータにある各支店以外との接点を完全に切断されてはいるのですが。とにかく、そのようなわけで、私が提示出来る交換条件はアーガミパータにある各支店へのテレポートに限定されます。」
「んー、残念!」
そう言ったデニーは。
ほんのちょっとだけ。
何かを考えていたが。
やがて。
キュートな。
お口を開く。
「ヌリトヤ砂漠の近くってさーあ、支店、あったっけ?」
「はい、ありますよ。」
「そこにも行けるの?」
「もちろん、行けます!」
「へぇー、そー。」
デニーは、そう言うと。またその口を閉じて、何かを考え始めたみたいだった。あるいは、考えているふりをしているだけなのかもしれない。どちらにせよ、暫くの間、じっと黙っていて。辺りには、嫌な感じに張り詰めた、不安な緊張感で満ちていたのだけれど……やがて、また、デニーが、口を開く。
「この条件だけどお。」
しかし。
今度は。
ミセス・フィストにではなく。
「パンダーラちゃんは。」
そう。
すぐ背後に立っている。
パンダーラに向かって。
「どう思う?」
というわけで、今まで一言も触れていなかったのだが。実は、パンダーラはそこにいた。デニーから二ダブルキュビト程度しか離れていないところ、デニーと同じように、ミルクの海の上に立っていた。
ちなみに、その服装であるが……いや、服装であるがも何も……はっきりいって、素裸であった、生まれたままの姿であった。それもまあ当然といえば当然の話であって、パンダーラはミセス・フィストとの戦闘でほとんど限界を超えたといってもいいような力を引き出していた。そのような力に、ごくごく普通の戦闘服が、耐えられるはずがないのだ。着ていたはずの戦闘服はとっくに燃え尽きていて跡形も欠片も残存していなかった。一方で……その肉体は、カーマデーヌによって再生がなされていたので。ただただ美しい白、人間などには到達しようがないほどに完全に均整が取れた肉体、その右腕だけが唯一の惨劇として欠損している肉体、あたかも表皮を剥ぎ取られた神秘の果実のようにして、惜しげもなく剝き出しに晒されていたということだ。
ただ、そのような状態であっても、そのことについて触れる者など誰一人としていなかった。この状況下で。物事の絶対的最終局面で。生きることと死ぬこととの全ての数値が完全に決定してしまうこのシーンで、服を着ていることと服を着ていないことと、その違いに一体なんの重みがあるというのか? そもそも、デウス・ダイモニカスや、ドーロイドや、そういった高等な知性の持ち主が、服を着ているだとか着ていないだとか、そんなことを気にするはずもないのだ。そういうわけで、パンダーラの服装、というかナル服装については、これ以上は触れないでおこう。
さて、パンダーラは……ずっとずっとそこにいた。デニーとミセス・フィストとの「交渉」に、一言も口を挟むこともなく、じっと立っていた。
果たして、なぜそんなことが出来たのか? 自分になんの断りもなく、勝手に自分の命を条件として持ち出された「交渉」について、なぜ何も言わずに、ただただそれを聞いていることが出来たのか? なぜなら、知っていたからだ。真昼とは違い、パンダーラは、よく知っていた。本当に、痛みを伴った記憶として、よくよく知っていた。デニーがこちらの話を聞こうとしていない時に、こちらが何を言おうとも、なんの意味もないということを。
要するに。
デニーは。
絶対的強者なのであり。
デニーにとっては。
パンダーラの命など。
そこら辺に落ちている。
石ころほどの価値もない。
「一応さーあ、今回の件に関しては、パンダーラちゃんも当事者なんだし。んー、まあ、当事者っていう意味にもよるけどね。優しい優しいデニーちゃんとしては、やっぱり、パンダーラちゃんの提案も聞いておかないとなーって。」
しかし、とはいえ、このように、デニー自身が話を聞こうとしている場合は別である。その話を真面目に聞くかどうかは別として、とにかく聞くつもりはあるということなのだから。確かに、確かにデニーは優しい。その行為は、例えるならば、そこら辺に落ちている石ころを拾って、水切りに使う前に、その石ころに対して、お前のことを遊び半分に川に沈めてもいいかと聞くようなものであって。そして……パンダーラが待っていたのは、まさに、この瞬間であったのだ。
「その条件について。」
この瞬間のため。
パンダーラ、は。
積み重ねてきた。
一つ、二つ、三つ。
この、最悪の、悪魔の。
裏をかくためのステップを。
「私は反対する。」
「ふーん。」
さして興味がない感じに。
デニーは、そう反応した。
パンダーラは分かっていた。分かり切っていた。というか、むしろ、こういう展開になるということ、つまり、最後の最後でデニーが裏切るということ、少しでもデニーと付き合いがあった生き物であれば、予測していて当たり前のことなのだ。だから、パンダーラは当然のこととしてこの展開を予測していたのであるし、これまた当然のこととして、この展開に対する準備をしていた。
「じゃーあー、パンダーラちゃんは、デニーちゃんに、何をご提案してくれるんですかー。」
どう聞いても。
気持ちが籠もっていない言い方で。
デニーは、パンダーラに質問する。
それに対して、パンダーラは。
一度、大きく息を吸い込んで。
それを、静かに、吐き出して。
今、この瞬間こそが。
パンダーラの生において。
最も、重要なタイミング。
この、チャンス、を。
ふいにしてしまえば。
自分だけでなく、ダコイティの皆が。
それに、何よりも、カーマデーヌが。
犠牲になってしまう。
絶対に、絶対に失敗出来ない。
その瞬間を、掴み取るために。
全ての精神を。
集中、させて。
そして。
それから。
パンダーラは。
こう答える。
「全てのリビングデッドに爆弾を仕掛けてある。」
「んー?」
「お前があの森に来たという知らせを受けた瞬間にこうなることは理解していた。だから、二名の信頼できる者に命じて、あの森で眠っている全ての同志達、戦い抜いて死んでいった同志達の死体に、魔力暴走の魔法を定義させておいた。私がその魔法を作動させれば、この製錬所にいる全てのリビングデッドは魔力暴走を起こす。お前も知っているだろうが、さざ波とさざ波とがぶつかり合って巨大な一つの波になるように、魔力と魔力とは重なり合って、一つの巨大な相乗効果を発生させる。もしもここにいる全てのリビングデッドの魔力が重なり合えば、この製錬所に対して致命的なダメージを与える力を発生させることが出来る。」
読者の皆さんは覚えていらっしゃるだろうか? デニーと真昼とが、初めてパンダーラと出会った時に。具体的には#17でのことであったが、パンダーラが、ダコイティのうちの二人に対して何かの指示を与えていたということを。それこそがこの任務だったのだ。パンダーラはその二人に魔力暴走の魔法円を持たせて、森の中にある全ての死体に、その魔法円で魔法をかけさせておいたということだ。よーやっと伏線が回収されましたね。
パンダーラは。
更に。
話を。
続ける。
「そして、そうなれば、もちろんお前も無事では済むまい。少なくとも、「今のお前」であれば。」
「まー、確かにそーだね。」
「お前が、もしも、その女に向かってスペル・バレットを放たないのならば、私は爆弾を起動させる。」
「なるほどー、そうですかー。」
デニーは、ちょっとだけ首を傾げて。
くるんと、可愛らしく眼を動かして。
何かを考えるような、ふりをしていたが。
やがて……とうとう耐え切れなくなったというように。
大きな声をあげて、笑い始めた。
「あははははっ、パンダーラちゃんってば! もー、誰かさんを脅かしたいんなら、もっとじょーずにやんないとだめだよー? パンダーラちゃんが、ダコイティの子達を殺しちゃうようなことをするわけがないし、それに、それに、ここにはカーマデーヌがいるんだよ? ぜったいぜったいぜーったいに、パンダーラちゃんが、そんなことするわけないじゃーん。爆弾をどかーんとさせるなんて、そーんな危ないこと、パンダーラちゃんには出来ないよー。」
デニーの言ったことは、なるほど正しいことであった。パンダーラがそんなことをするはずがない。パンダーラにとって大切なことは、ダコイティを、カーマデーヌを、守ることだ。もしも爆弾を起動させることでその全てを失ってしまうならば。それはただの自暴自棄な行為に過ぎないのであって、そんなことをする理由も意味も、パンダーラにはない。それどころか、そんなことは絶対にするべきことではない。そう、もしも、守るべきものを失ってしまうのならば。
デニーが、言い終わった後。
パンダーラは。
まるで、時間を図っているかのようにして。
じっと、何かに、耳を澄ませていたのだが。
やがて。
ふと。
口を開く。
「これだ……聞こえたか。」
「うん、まあね。」
「なんの音かは分かるだろうな。」
「デウスステップ・ジャマーが破壊された音。」
人間の耳では何も聞こえなかったのだが。というか、そもそもここは通常の世界とは異なったポケット・バースなのであって、世界と世界とを越えた音、よくもまあ聞こえるなと思うのだが。ともかく、パンダーラとデニーとの耳には、その音が聞こえていた。十一あるスーサイド・ブリゲードのうち、ジュットゥの部隊が、製錬所内の御神渡りを妨害していたジャミング装置を破壊したその音を。そう、パンダーラの最側近であったジュットゥが任されていたのは、この隠された任務だったのだ。ちなみに、その破壊の過程、詳細については省かせて頂きますが。一つだけ言っておくとジュットゥ「は」生き残りました。良かったね!
「これで製錬所内でのデウスステップが容易になった。」
「んー、だろーね。」
「それだけではなく、製錬所内の全ての重要施設が破壊された。」
「みたいだね。」
「それが何を意味するか分かるか?」
「なんとなーく?」
「十人の長老達には、予め行動を起こすように求めている。その行動とは、デウスステップ・ジャマーが破壊された瞬間に、生き残った人間達を連れてあの森へと帰還することだ。確かに長老達の中には戦いの末に命を落としたものもいる。だが、全てのダコイティを森に帰還させるには十分な人数が生き残っている。今……今、全員の避難が終わったところだ。それは、お前にも、分かるだろうな。」
「分かるよー。」
ちなみに、読者の皆さんも非常に気になるところだと思うので念のために書いておきますが、レンドゥとチェヴィ・プーダは生き残りました。まあチェヴィの方はちょっと無事とはいいがたい感じだったけど……とにかく、生き残って、ダコイティの森に帰還することは出来たわけだ。
また、これも一応補足しておくが。リビングデッド爆弾というものがあるのならば、なぜ最初からリビングデッドだけを送り込んで製錬所を爆破するという方法を取らなかったのかということだ。それには三つ理由があって、一つ目は誰にでも分かる通り、カーマデーヌである。カーマデーヌを救い出さずに製錬所を爆破するなんて真似ができるはずがない。二つ目は、製錬所内の重要施設は厳重に防御されているため、一つ一つ確実に落としておかなければ、爆破で破壊されるとは限らないからだ。例えばテレポート施設などは、もしもここが破壊されずに残ってしまえば、すぐさま増援部隊が送られて来かねない。そして、三つ目であるが……ミセス・フィストである。魔力暴走ごときでミセス・フィストを倒せるはずがない。そのためには、どうしても、デニーの力が必要で。
だから。
パンダーラは。
デニーの、ことを。
説得しているのだ。
「また、これも言わなくても理解していると思うが、もしも私が爆弾を起動させた場合、お前とその女以外のここにいる生き物は、私がデウスステップによって救出する。真昼も、あの少女も、もちろん「彼女」も。「彼女」の力によって、私は完全に回復しているから、それくらいは造作のないことだ。」
「分かる分かるー。」
「ということは、もしもお前がその女を撃たなかった場合、お前はただただ不必要な傷を負うだけで終わることになるだろう。お前がその銃口を私に向けて、その弾丸を放つ前に、一連の行動を終えていることくらい……「あの頃のお前」に対してであれば、そんなことをするのは不可能だろうが。「今のお前」であれば、それくらいのことは、私にも出来ないことではない。違うか?」
「違わないよー。」
「だから、私は、お前に要求する。その女の提示した条件を、受け入れないことを。私達が計画した通りに、その女を、スペル・バレットで、完全に破壊することを。」
そこまでを言い終わると。
パンダーラは口を噤んだ。
これ以上は、何を言っても無意味だからだ。この段階で自分が言うべきことは、全て言い終えた。デニーに対して、手持ちのカードを全て開示して。後は、出来ることは、ミセス・フィストの手札とパンダーラの手札と、どちらが勝利すべきかということ、それをデニーが決めるのを、ただじっと待つだけ。
さて。
当の。
デニーは
パンダーラが話し終わると……きょんっという感じ、あざといほど愛くるしい顔で、パンダーラの方を振り向いた。そう、パンダーラが話している最中、デニーは、一瞥たりともパンダーラのことを見ていなかったのだ。適当な相槌を打ちながらも、ずっとずっとミセス・フィストの方を向いていたのであって。そして、ようやくパンダーラに目を向けたデニーは……なんだか怪訝そうな感じ。くっと首を傾げて、言う。
「それでおしまい?」
「ああ。」
「それで、パンダーラちゃんのいいたいことの、全部?」
「そうだ。」
「なーんだ。」
ちゅっという感じ。
唇を、尖らせて。
デニーは。
どことなく。
拍子抜けした。
そんな。
声で。
「もーちょっと、なんかあると思ってたのに。」
それから。
デニーは。
ミセス・フィストへと。
また、視線を、戻して。
「あのさーあ、パンダーラちゃん。」
「なんだ。」
「パンダーラちゃんが仕掛けたーっていうその爆弾なんだけど、ほんとーに、デニーちゃんが、それくらいのことに気が付かないって思ってたの? もしそうだとしたらー、デニーちゃん、なんだかがっかりだよ。」
そう言うと、ミセス・フィストに拳銃を向けていない方の手、左の手を軽く上げた。もちろんその手にも拳銃を持っていたのであるが……デニーが、一度、コッと、舌を弾いて鳴らすと。そちらの拳銃の先、少し上のところ、何もないはずの空間に、すうっと線が表れ始めた。その線はするすると一つの図形を描き出して……どう見ても、それは魔法円だった。
真昼のいる場所からは、それがどのような性質を持つものなのか、よく見えなかったのだけれど。結論だけをいってしまうと、それはパンダーラが爆弾を仕掛ける時に使ったもの。要するに魔力暴走の魔法円だった。ただし、何もないところに現れた線は……その魔法円を書き終わっても、まだ止まることがなかった。その魔法円の周囲に、何か、不可思議な角度で出来た、余計な付属物を書き足していく。
角度、角度。ティンダロスとしての汚穢によって理解するのならば、curveによって表されるものは王、closureによって表されるものは罪人、そして、angleによって表されるものは猟犬。ということで、その付属物が意味するものは、猟犬としての魔学式の一種であって。魔法円と魔学式とは……あーっと、説明が長くなりそうなので、全部端折って簡単にいうとすれば。それは「ヴィスカム」と呼ばれる魔学式であった。
「ヴィスカム」は共通語では「ヤドリギの魔学式」と呼ばれているもので、ある一定の魔学的な効果を発生させる言語に寄生することによって、その性質を「ヴィスカム」の術者に都合の良いように変えてしまうという魔学式だ。ということは……パンダーラの魔法円に「ヴィスカム」が寄生しているという、デニーの見せた光景が意味することは。
「パンダーラちゃんの魔法円は、デニーちゃんが、ぜーんぶ、書き直しちゃいました。」
という。
ことだ。
「隠してたみたいだけどー、なんかー、ばればれーって感じだったよ? っていうかさ、昔、教えてあげたよね。魔法円って、効果を発生させてない時でも、ほんのちょーっとだけ魔力をぽわぽわさせ続けるんだよって。そのぽわぽわっていうのが分かる人からは、そーいう魔法円を隠すことはできないって。そのことを、忘れちゃってたのかなあ? そ、れ、と、も、デニーちゃんが、こんなに分かりやすいぽわぽわ、分からないと思ってたのかなあ?
「幾つかロックがかかってたから、それを外すのには時間が掛かっちゃったけど。それでも、魔法円を書き直すのはすぐに終わったよー。パンダーラちゃんに見つからないように、昨日の夜、パンダーラちゃんが他のみんなとお芝居してる時に、ぱぱーって書き直しちゃった。と、いうことで! もう、あの魔法円はパンダーラちゃんが起動させることはできませーん! デニーちゃんが爆発させたいと思った時に爆発させられるし、デニーちゃんが爆発しちゃダメーって思ったら爆発しないってこと。これで、パンダーラちゃんの秘密の作戦は、じゃんじゃかじゃららんじゃらりんぽいっ!です!」
「じゃんじゃかじゃららんじゃらりんぽいっ!」という単語は、まあ「物事が完成の途上で台無しになってしまうこと」くらいの意味にとっておいて頂けると助かるのだが。それはそれとして……また一つ伏線が回収されましたね。
昨日の夜の祭り、パンダーラが「九百五十七年の悲劇」の再演をしていた時に、デニーがどこにいて何をしていたのかということ。あの時は、デニーは、セミフォルテア弾を作っていた(あとそれから他の秘密兵器も作っていた)と言っていたが。確かに、そういった諸々のグッズも作ってはいたのだが、最も重要な目的だったのは、そういった作業ではなく、リビングデッドに仕掛けられた爆弾の、その回路を組み替えるということだった。
そう、よく考えてみれば……それくらいのことは、分かってしかるべきことだったのだ。セミフォルテア弾くらいならば自分が作っても良かったと言ったパンダーラに対して、あの時のデニーは「パンダーラちゃん、なんだか忙しそうだったから」と言った。よく考えてみれば、デニーが、こんなことを言うはずがないのだ。デニーが、他人のことを気遣うようなことを言うはずがない。もしも、そんな言葉が、デニーの口から発せられたのならば。その時は、疑うべきなのだ。デニーが、何かを、誤魔化そうとしているのではないかと。
しかし。
今更、そんなことを言っても。
もう遅い、遅すぎるのだった。
パンダーラは、ぎりっと奥の歯を噛んだ。勘違いしないで欲しいのだが、パンダーラとて馬鹿ではない。本当の本当に、デニーに裏をかけると信じられるほどに、能天気な生き物というわけではない。なので、なんとなくは覚悟していた。もしかして、たぶん、恐らく、それなりの確率で。自分の「秘密の作戦」はなんの役にも立たないということがありうると。
それでも……それでも、何かをしなければいけなかった。何かをしないわけにはいかなかったのだ。パンダーラには義務がある。神聖なる義務が。アヴィアダヴ・コンダの生けとし生けるものを守ること、そして、カーマデーヌを守ること。もちろん、それが運命ではなく義務でしかない以上、失敗する可能性は常にある。だが、これほど……これほど、不甲斐なく、失敗してしまうとは。
ただ。
とはいえ。
まだ。
全てが。
終わったわけではない。
まだ。
パンダーラは。
死んでいない。
死ぬまでは。
死ぬまでは。
なんとしても。
抗い続けなければいけないのだ。
デニーに。
あるいは。
変えられることができない運命に。
「でっ、もー。」
ふと、デニーが。
左手の拳銃、銃身を、唇に当てて。
そういえば、という感じで言った。
「さっきのパンダーラちゃんの話、一つだけ気になったことがあるんだよねー。」
パンダーラを振り返りはしなかった。けれどもデニーの関心は、確かにパンダーラの方を向いているような、そんな口調。んーという感じで首を傾げて、また言葉を続ける。
「パンダーラちゃんさーあ、こう言ったよね。「お前とその女以外のここにいる生き物は、私がデウスステップによって救出する」って。「真昼も、あの少女も、もちろん「彼女」も」って。ってゆーことは、そのパンダーラちゃんの秘密の作戦では、マラーちゃんのことも助け出すぞーってなってたってこと?」
「そうだ。」
「それって無理じゃない? さっきも言ったけど、八つあるマラーちゃんっぽい肉体のうち、どれがマラーちゃんのか分からないんだよ? いくらパンダーラちゃんが全力だーっていっても、ミセス・フィストがヌミノーゼ・ディメンションを起動させる前に八つ全部を解放することなんて出来ないでしょ?」
「もちろん、八体全てを解放することは出来ない。」
「じゃーあー、助けることなんて無理でしょー。」
「いや、出来る。」
パンダーラの。
確信に満ちた。
声。
「それ、どーゆーこと?」
「八体全てを開放する必要などない。本物のマラーだけを開放すればいい。」
「……パンダーラちゃん、なーに言ってるのお?」
デニーは。
いかにも呆れたというように。
ふへーっと、溜め息を、つく。
「あの中のどれが本物のマラーちゃんなのか、デニーちゃんにも分からないんだよー? それなのに、パンダーラちゃんに分かるわけないじゃないですかー。」
「分かる。」
「分かんない。」
「分かる。」
「分かんない。」
「分かる。」
「分、か、ん、な、い。」
「いや、分かる。」
デニーの声が、少しだけ調子を変える。
なんとなく、パンダーラの言うことに。
本当に、興味を、持ち始めたような声。
「なんで、そんなこと言い切れるの?」
「私は、人間を知っている。」
「どーいう意味?」
「私は百年以上の間、人間と共に生き続けた。人間と共に歩き、人間と共に食い、人間と共に眠り、人間と共に戦ってきた。確かにお前の方が、遥かに長い時間「人間と関係を持ってきた」かもしれない。しかし、お前はただ人間と同じ場所にいただけだ。お前は、一欠片も、人間に興味を持たなかった。せいぜいが都合のいい道具として使ってきただけだ。それは「人間とともに生きる」とはいわない。私は、お前とは違う。人間を愛そうと、理解しようと努め続けた。だから、私には分かる。例え眠っていようとも分かる。あの八体のうち、どれが本物の人間なのか。どれがマラーという少女なのか。」
「へぇー。あっ、そー。」
とってもキュートな、くるんという感じ、明後日の方に視線を傾けながら、デニーはそう言った。明らかに、パンダーラの言ったことについて、何かを考慮しているようだ。何かと何かを天秤にかけて、そのどちらが重く、どちらが軽いのかを量ろうとしている表情。唇に当てた銃身を、少し離したり、また当てたり、少し離したり、また当てたり。
「あのね、もしもミセス・フィストを壊せるなら、デニーちゃんとしてもそっちの方がぜーんぜん良いんだよね。だって、ミセス・フィストを壊せれば、ミセス・フィストの残骸を回収できるでしょ? それって、コーシャー・カフェからすれば、すっごいすっごい収穫なわけだし。それだけじゃなくって、ミセス・フィストの体の中にあるテレポート装置をちょっといじくれば、いろんなところに行けるようになるだろうしね。本当に、いっろーんなところに。だから、デニーちゃんとしても、このスペル・バレットは、なるべくミセス・フィストの方にばきゅーんしたいわけ。」
独り言のように、そう言ってから。
また、パンダーラに、話しかける。
「ねえ、パンダーラちゃん。」
「なんだ。」
「本当に、出来る?」
「出来る。」
出来なければいけない。
なぜなら、それこそが。
パンダーラにとっての。
なすべきこと、だから。
だから。
パンダーラは。
もう一度。
デニーに向かって。
こう答える。
「私は、全てを、救ってみせる。」
一方のデニーは、パンダーラの言葉に答えることなく、ふっと黙り込んでしまった。自分の注意を、また天秤の方に向けたのだ。比較と考量と。判断しなければならず、判断の時間は十分にある。さて、パンダーラは……こう言った。八つの選択肢の中から、正解の回答を選び出してみせる。本当のマラーを見つけ出してみせる。果たして、それは可能なのか?
デニーはパンダーラのことを知っている。恐らくは、パンダーラがパンダーラ自身について知っているよりも多くのことを、完全に知り尽くしている。誰一人頼ることが出来る何者かがいなかった子供の頃のパンダーラを、あそこまで育てたのは、そもそもデニーなのだから。さて、その経験からいうと。
パンダーラ、ならば。
それが出来るだろう。
そのことは、誰よりも、デニーが知っていた。これは信じる信じないの問題ではなく、実際にそうであるかそうでないかの問題として、パンダーラはそういうダイモニカスなのだ。パンダーラは誰一人見捨てるようなことをしない。自分の手が届く範囲の、全てを助けようとする。そんなパンダーラが、このタイミングで、助けられもしない生き物を助けられるなどと、そんなことを言うはずがないのだ。だから、パンダーラが出来るというのならば、実際に出来るのだろう。パンダーラは、マラーの命が懸かったこのクイズに、ほぼ確実に正答することができる。
ほぼ確実に。
恐らくは。
九十九パーセントの可能性で。
ただ。
しかし。
それは。
百パーセントではない。
「ミセス・フィスト。」
「はい、なんでしょうか。」
「二つ、追加で条件を付けたいんだけど。」
「どのような条件ですか?」
「一つ目は、アーガミパータの外側に連絡できる通信機。二つ目は、ヌリトヤ砂漠を移動するための移動手段。」
「分かりました。その条件を承諾します。」
その回答を聞くと。
デニーは。
にっと笑った。
そして。
それから。
ふっと。
その右腕を。
動かし、て。
ミセス・フィストに。
向けていた。
銃口を。
全く。
別の。
何かに。
向ける。
別の何か?
それは何か?
そんなこと決まっている。
デニーが交渉している相手。
たった二人しかいないので。
あって。
ミセス・フィストから。
銃口を移す相手も。
一人しかいないのだ。
デニーが。
その相手に。
銃口を向けて。
いとも。
容易く。
引き金を引くと。
それは。
まるで。
運命のように。
軽やかに。
軽やかに。
BANG。
という。
音を。
立てる。
「DEAL。」
スペル・バレットはまるで静かなる幸いのごとく顕世を切り裂く暗黒。その美しい幽世の指先は、優しく、優しく、パンダーラの額に触れて。それから、そこにある三つ目の眼球を撃ち抜いた。その瞬間に、まさに瞬く間に、死と崩壊と破滅とがパンダーラの肉体に広がった。まるで燎原を焼き尽くす疫病のように、あるいはこの世界に永遠の闇をもたらす夜の亀裂のように。パンダーラの肉体は、その存在の、原理から罅割れて……ぽろぽろと、ぽろぽろと、滅びた町の彫刻みたいにして崩れていく。
パンダーラは、自分が死のうとしていることは理解していたが、それでも自分に何が起こっているのかは分かっていないらしい。それは痛みも苦しみもない、あらゆる不快感とは隔絶した、ある意味では慈悲深くさえある死の本質であった。崩れていく、崩れていく、崩れていく。パンダーラという存在そのものが、パンダーラという概念そのものが。やがては、その器は、パンダーラの魂魄を支えきれなくなるだろう。その時にパンダーラは死ぬのであって、そして、その時は、もうすぐに来る。
「民のいない王。」
「だ、か、らー、デニーちゃんだってば!」
「ああ、そうだったな……デニー。」
「なあに、パンダーラちゃん。」
「一つ聞きたいことがある。」
「なーんでも聞いてよ! デニーちゃんとパンダーラちゃんの仲じゃない!」
「私は……」
音が聞こえる。
声が聞こえる。
まるで。
一匹の鳥が。
一匹の死が。
囀っているような。
ああ、終わる。全てが終わる。パンダーラは、一秒ごとに自分が終わっていく感覚を感じていた。運命に抗い続けて、その挙句の果てには、運命に飲み込まれて終わっていく生だった。それに意味があったのか? もちろん、意味はあった。パンダーラは、最後の最後まで抗い続けたのだから。運命に対して、あるいは、「民のいない王」に対して。それでも、やはり……絶望感はある。パンダーラは、救えなかったのだから。救うべき者達を。いや、救いたかった者達を。
「私は死ぬのか。」
「うん、死ぬね。」
「そうか、だろうな。」
パンダーラは、今。
やっと、分かった。
自分は。
救うべきだから命を懸けたのではなく。
救いたかったから、命を懸けたのだと。
そして、結局のところは。
それが間違いだったのだ。
そう、それが。
たった一つの。
間違い。
「お前は、いつも、正しい。」
最後の最後の瞬間に……パンダーラは、ふっと見上げた。真昼が囚われている、あの虹色の檻がある方向を。檻の中で、真昼は泣き叫んでいた。狂ったように、静寂を泣き叫んでいた。真昼がどんなに声を上げようとも、あるいはどんなに檻を殴りつけようとも、外側には何の音も聞こえない。それでも真昼は、握り拳を叩き付け、頭蓋骨を叩き付け、大きな口を上げて叫び、外側の世界に向かって、何かの影響を与えようとし続けていた。
それは全く無駄な行為だ、あたかもパンダーラが今まで生きてきた、全ての生のように。けれど……けれど、あの真昼という少女は。きっと、パンダーラのそれとは全く違った生を送ることになるだろう。そのことを、パンダーラはきちんと理解していた。ダイモニカスとは違い、人間は弱すぎる。運命に抗い続けられるほど強く出来ていないのだ。だから、きっと、真昼は運命を愛するようになるだろう。そして、その時は意外に早く来るだろう。
真昼の被っている仮面が、その内側で、真昼の流す涙を全て飲み込んでしまう。それでもパンダーラは、真昼が泣いていると分かっている。だから、パンダーラは、真昼に何か言い残してあげたかった。けれど、この瞬間に、真昼に言うべきことが何も思いつかなかった。真昼には、運命に抗い続けて欲しい。己の意思によって、生きて欲しい。それだけが、生命体に出来ることなのだから。しかし、そのことはもう伝えた。ここでそれ以上何かを言うことは……パンダーラの、すべきことではなかった。
パンダーラのすべきことは。
もう全て終わってしまった。
パンダーラは、全てをやり終えた。
その全てが、無意味だっただけだ。
完璧な生。
完璧に無意味な生。
そして。
それから。
パンダーラは。
何も言わずに。
ただただ真昼のことを。
優しく見つめたままで。
焼き尽くされた灰のように。
粉々に崩れて、消え去った。
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