第一部インフェルノ #33

 ミセス・フィストまでの道筋は完全に掃討されていた。マンティコア達は無残にもばらばらになった死体であり、真昼のことをそこに留めておくことなど、もう出来るはずもない。真昼は駆ける、鬼の速度で駆けていく。

 どうやら最後の力までも使い果たしてしまったらしく、虚ろに些喚く光と影との塊となって、パンダーラは落下していく。ほんの一瞬だけ、真昼の目は、パンダーラの目、特にその三番目の目と視線を交わして……しかし、真昼は、立ち止まるようなことはなかった。今はパンダーラのことを心配している時ではない。絶対にやり遂げなければいけないことがあるのだから。

 走れ。

 走れ。

 走れ。

 そして。

 それから。

 この世界を支配している連中。

 金と、愛と、権力と、名声と。

 その全てを奪っていく連中に。

 目にものを見せてやるのだ。

 さて、そんなこんなの真昼ちゃんの一方で、ミセス・フィストは一体何をしているのか? 真昼……というか、デニーを遮るものはもう何もなく。きちんと整備された一本道のごとき有様で、ミセス・フィストに至るまでの、真っ直ぐなルートが続いているのであって。当然ながら慌てることも騒ぐこともなかったが、かといって、ぼんやりとその接近を見ているだけのはずがない。

 フォー、ザットリーズン。

 ミセス・フィストは。

 こちらに迫ってくる脅威に向かって。

 右の手の、人差し指。

 すっと、差し出した。

 金細工でできた手飾りが、波に弄ばれた砂浜のようにしゃらしゃらと音を立てる。それは、それは、差し出したというよりも……その人差し指は、とんっと音を立てて何もない空間を叩いたということだった。叩かれた空間の方は、そこに何もないにも拘わらず、くらくらとした眩暈のように、ゆらゆらと透明に波立って。そして、その揺らぎはすぐに鈍いノイズとなって……その空虚な残響の中から、一つのポータルが発生する。

 新しくできたそのポータルは、他のポータルと何も変わるところがなかった。十ダブルキュビト程度の直径、薄っぺらい青色、瑕疵一つない完全な真円。そして、もちろん……それは、マンティコアが、こちらの世界に来るための、入り口であった。

 明確な殺意の音楽。

 金管楽器と木管楽器と。

 それに、骨でできた笛。

 全ての吹奏の音楽を。

 災害のように叫びながら。

 一匹のマンティコアが。

 一つのポータルにより。

 こちらへと疾駆する真昼に向かって。

 致命的な砲弾のごとく、射出される。

 このままいけば、真昼は真正面からマンティコアにぶつかることになるのであって。客観的には随分と危機的な状況に見えなくもないのだが……ただ、真昼にとっては、さほどの窮地というわけでもないようだった。最初にマンティコアを見たあの時とは違って、今の真昼は、怯えても恐れてもいなかった。むしろ、仮面に隠されたその顔は……笑っていた。抑えきれない興奮によって、あたかも歪み捻じ曲がったかのように、歓喜の笑みを浮かべていた。

「デナム・フーツ!」

「やっちゃって!」

 真昼は、言われた通り。

 デニーを、放り投げる。

 マンティコアに向かって、勢いよく……しかし、真正面に投げたのではなかった。少しばかり斜め上の方向、ちょうどマンティコアの頭上に、デニーの体が到達するようにして。一方でぶん投げられたデニーの方は、くるくると横ざまに回転しながらも、両手に握り締めた二挺の拳銃によって、しっかりと狙いを定めて。そして、「Night night, darling!」という楽し気ハッピーな喚声と共に、右のHOL-100Rで一発、左のHOL-100Rで一発、合わせて二発の弾丸を放った。

 それらは二発とも信じられないくらい真っ黒な弾丸だった。まるで、夜の暗黒のごとく。まるで? いや、それは確かに夜の暗黒だった。これらの弾丸は、デニーが昨日の夜に作った「秘密兵器」のうちの一つ。弾丸の形をした結界の中に閉じ込められた、夜そのものだ。夜の闇、夜の静寂、それに、夜の、透き通ったような、冷たい匂い。

 それらの弾丸は、マンティコアに向かって二直線の弾道を描いていき……当然のように着弾する。顔面の右側と、それに左側とだ。マンティコアの肉体に触れた二発の弾丸は、その接触の瞬間に炸裂して。内側に閉じ込められていた夜は、あたかもマンティコアに向かって襲い掛かるかのようにして、ぐぱあっと拡散した。マンティコアの顔中に、夜が、夜が、夜が、べったりと付着して。そのせいで、マンティコアのほとんどの感覚は使い物にならなくなってしまう。

 これらは感覚遮断弾だったということだ。この単語は「断」と「弾」が被ってしまい「だんだん」という間の抜けた音になるので、あまり好きではないのだが、今はそんなことをいっている場合ではないだろう。とにかく、視覚は闇によって・聴覚は静寂によって。嗅覚は冷たい匂いによって。マンティコアの主要な感覚は塗り潰されてしまったということだ。

 ということは。

 接近してくる真昼が。

 どこにいるのか。

 全く分からない。

 唐突に感覚を奪われてしまい、恐慌状態に陥ってしまったらしく、のたうち回るみたいにして暴れ狂うマンティコア。当たったら即死しそうな勢いで両方の前足を振り回し、十数本ある全ての尻尾から、可能な限りの速さで毒針を乱発するのだが……めくらつんぼの悪足掻きだ。ところで鼻が利かない人のことってなんて呼べばいいんですかね? まあいいや、なんにせよ、こんなめちゃくちゃにでたらめな攻撃が今の真昼に当たるはずがない。

 だから真昼は安心して突進できる。毒針の豪雨を掻いくぐり、猫パンチ(仮)の猛攻をすり抜けて。それから、真昼は、マンティコアの鼻面から、それこそ目と鼻の先に辿り着くと。いかにも軽やかな態度によって、とんっと跳ね上がった。

 その跳躍と共に、一つの道程を構成していた二人の娘、それに三つの盾を構成していた三人の娘が、再びさらさらと極小のキューブに解けていって。それから、五人分のキューブの大群は、真昼の体を包み込むように新しい形を取り始める。

 その形は。

 一つの。

 巨大な。

 ドリルだ。

 凶暴さを感じさせるほどに鋭く尖った三角錐。その周囲を巡るようにして、三本の月光刀、抑止ラベナイトの刃が螺旋状に配置されていて。蠱惑的なまでに危険なドリルピットは、内側に守られた真昼の宣命に従って、凄まじいスピードで回転しながら……マンティコアの右目と左目との間、体長十数ダブルキュビトの猫の額へと突っ込んだ。

 眉間から突入して。

 頭蓋骨を貫いて。

 脳を引き裂いて。

 そして。

 それから。

 一気に。

 後頭部から。

 飛び出す。

 見事だった。見事なまでの一撃によって、真昼はその人生における最初の「殺害」を完了した。真昼自身は、これがフォルト・ゼロであるということなど意識さえしていなかっただろうが。砂流原真昼という生き物が、デナム・フーツの最悪の暗殺者と呼ばれ、その魂魄が尽き果てるまで数え切れないほどの殺戮を繰り返すことになるであろうその生き物が、初めて、何者かの、生命を、奪った、瞬間であった。

 確かにこのマンティコアはASKによって色々といじくられていて、自分の意思などほとんどなく、生き物というよりも管理された兵器に近い存在であった。だが、それでも、生きていたということには変わりない。真昼は……躊躇いもなく、大量のマンティコアを虐殺した、パンダーラの姿のせいで。このマンティコアを殺すことに一片の罪悪感を抱くこともなかったのだが。例えそうであっても……いや、それだからこそ……なんの罪の意識も抱かずに、何かを殺すことができるようになってしまったからこそ……これは、間違いなく、真昼の最初の罪であった。

 なんと象徴的なことか。

 その最初の罪が。

 やはり。

 デナム・フーツ、の。

 命令であったことが。

 ただし、それは、ここでは、どうでも、いいことだ。今この時に重要なことは、真昼がミセス・フィストへと至るための最後の障害をクリアしたということだ。脳漿と髄液とを滴らせながら、五人の少女の身体によって構成された一つのドリルは、早回しにされた開花の映像のような態度によって、ぱんっと解け開いて。その中から飛び出してきた真昼は、頭の中を貫通されて息絶えたマンティコアの、ぴくぴくと痙攣する背中の上、とんっと踏み付けた。そのまま、その体は、大きく大きく跳ね飛んで……ちょうど落下してきたデニーに向かって、しゅるるるっと下半身の触手を伸ばす。

 触手は。

 また。

 デニーのこと。

 絡め、とって。

「ないすきゃーっち!」

「投げるぞ!」

「おーらいっ!」

 そのまま。

 その体。

 またもや。

 ぶん投げる。

 寸分たりとも隙を与えることのないように、一連の行動は可及的速やかに行われたということだ。誰に隙を与えないようにしたのかといえば、それはもちろんミセス・フィストにであって。あたかも当たり前のように、デニーはミセス・フィストの方向にぶん投げられたということだ。しかも、今度は、パーフェクトに真っ直ぐに、絶対的な最短距離で。

 デニーは銃を構える。

 右の手に握られた銃。

 つまり。

 それは。

 スペル・バレットを。

 込められた方の、銃。

「行っくよー!」

 そう言った。

 デニーは。

 軽やかな指先で。

 引き金を、引く。

 BANG!と、なんとなく巫山戯ているみたいな音を立てて、銃口から一発の弾丸が発射された。見えるものではなく聞こえるもの。固体ではなく振動。遠い遠い囁き声で破滅を歌う弾丸は……明らかにスペル・バレットと思わしき弾丸だ。

 そもそもデニーが有していた運動エネルギーに、発砲の際の爆発的なパワーが加わって。その弾丸は、超スピードどころか、超・超・超スピードくらいの勢いでぶっ飛んでいく。更に、弾道は、確実にミセス・フィストの姿を捕捉していて。

 それは、ほぼ確実にミセス・フィストを打ち抜くと思われた。何かよほどのことが起こらない限りは、その弾丸から逃れられるはずがなかった。デニーとミセス・フィストとの距離は、数ダブルキュビト、目の前といってもいいほどの距離になっていたし。これほどの速さで接近してくる物体を避ける余裕など、どう考えても存在していない。例えば……瞬間移動でもしない限りは、ミセス・フィストは撃ち抜かれるだろう。

 瞬間移動。

 瞬間移動。

 そういえば。

 ミセス・フィストは。

 テレポートが。

 出来たはずでは?

 さっきまでとまるで変わらない、生物的な感情が欠如した表情のままで、ミセス・フィストは自分に対して弾丸が接近してくる動態を見つめていたのだけれど。その弾丸からの囁き声が、その意味内容まで聞き取れるようになる直前に。弾丸の先端が自分の額に触れるか触れないかのその瞬間に。ミセス・フィストは、自分の体内に埋め込まれた転送装置を起動した。

 そう、ミセス・フィストはテレポートが出来る。もちろんそれは短距離テレポート(根源情報式の歪みを計算し切れる範囲内でのテレポート)か、もしくは長距離であれば「ルートを通して」ある地点限定のテレポートではあったが。今回のようなケースではそういったテレポートしか出来なくてもなんの問題もない。

 あの薄っぺらい光が、あの青い色をした光が、またもやミセス・フィストのことを包み込む。アイスクリンのように空間を、捕食して、咀嚼して、それから繰りぬかれた世界はその場所から消え去ってしまって……後には残り香さえ残らなかった。何がいいたいのかといえば、要するに、弾丸は、外れたということだ。

 少なくとも。

 ミセス・フィストを。

 狙っていたのならば。

 しかし……そんなことが有り得るのだろうか? デニーが、あのデナム・フーツが、こんなミスを犯すことが有り得るのだろうか? 分かり切ったことではないか、ミセス・フィストがテレポートを行えることなど。それはミセス・フィストについての基本的な情報であるし、何より実際目にしてさえいる。たった一発しかないスペル・バレットを、ミセス・フィストを倒すことができる唯一の切り札を、そんな不用意に消費することがあるだろうか? 考えるまでもなく、そんなことは有り得ないのだ。

 スペル・バレットの「ように見える」その弾丸は、ミセス・フィストが失われた空間を、空しくも切り裂きながら疾駆して。ミセス・フィストがその上に立っていたところのチャトラの上に着弾した。そこにはもう誰もおらず……平らかに均された茸の菌傘のようなその場所で……弾丸は、ぽんっと、あたかもちょっとした冗談であったかのように、破裂した。

 その様は明らかにスペル・バレット着弾時のアクションではなく、結論からいうと、それはスペル・バレットではなかったということだ。そう見えるように、そう聞こえるように、偽造された弾丸。それはただの安っぽい手品のようなものであって……破裂した中からは、デニーの声によって、こんな言葉が聞こえてくる「じゃじゃーん! 残念、偽物でした!」。

 それから。

 同じく。

 デニーの。

 声によって。

「真昼ちゃん!」

 デニーの口が。

 こう言葉する。

「ぶった切っちゃって!」

 これは今更の話になってしまうのだが、侲子術によって五人の娘を従えた後の行動について、実は、真昼は、何も教わっていなかった。ペリ・サイケースに直接刻み込まれていた計画の中にも、そのことについては書き記されていなかったのだ。けれども、とはいえ……それを予め知っておく必要などなかった。何一つ、事前に情報を提示されていなくても。その状況その状況に投げ込まれるごとに、真昼は、全てを理解出来たからだ。

 全てのなすべきことを。

 全てのやるべきことを。

 まるで当たり前のように。

 真昼は、知っていた。

 歓喜と・恍惚と・情熱との爆発。心の内で何か、とても重要なものが発火点を超えたかのように。真昼は間違いなく、この瞬間の絶対的な完全性を、全身全霊で生きていた。何を、何を、何を躊躇することがある? 何を、何を、何を不安がることがある? 真昼は、今、耐え切れないほどの生きる喜びを感じていた。耐え切れないほどの、充実した生命を理解していた。

 全部のことを変えてしまえる。

 力が欲しいと思ったことはないか?

 今の真昼は、その力を手に入れたのだ。

 大切な何かを救うヒーローに。

 なりたいと、思ったことはないか?

 今の真昼は、ヒーローに、なったのだ。

 ASKによって虐げられているダコイティ。国際的な大企業によって搾取されている力なき人々。強者によって抑圧される弱者。そういう人々のために戦いたいと真昼は願ってきた。ずっとずっと、いつか自分のことを救ってくれるはずの王子様を待つ少女のように、真昼は待ち続けていたのだ。

 来るとは思っていなかった。本当に王子様が来るなんて思っていなかった。けれども、それなのに、真昼のもとには、本当にその時が来たのだ。白馬に乗って、剣を腰に下げて。鉛の冠ではなく、金の冠を冠した、王子様。真昼は興奮しているのだ、真昼は熱狂しているのだ。遂に、遂にその時が来た。遂に、真昼は……己の罪を洗い流せる時が来たのだ。

 だから。

 真昼が。

 間違えるはずがなかった。

 たった今。

 この時に。

 自分が、するべきことを。

 両手に持った月光刀にちらと目をやる。その刃には抑止ラベナイトが纏わり付いているが、この大きさでは少し小さ過ぎるかもしれない。だから、真昼は宣命を通じて、この刀の持ち主であるところの二人の娘に命令を投げ与える。

 その命令に従って、二人の娘が、更に月光刀へと指示を出して……結果として、月光刀に纏わり付いていた抑止ラベナイト、そのオーラのような存在否定が、どろりとでも音を立てるかのごとく肥大化した。刃の長さは、恐らく真昼二人分ほどもありそうなくらいまで、一気に膨れ上がって。

 その姿は。

 まるで。

 二本の。

 屠獅子刀。

 これだけの長さがあれば大丈夫だろう。真昼は駆ける、駆ける、駆ける、最後の目的地に向かって、陳腐な表現になってしまうが、翔ぶように走っていく。そうして、キューブの道程が向かっている先は……ミセス・フィストがいたところ。けれども、今は、ミセス・フィストがいないところ。

 つまり。

 チャトラの。

 方向に。

 この行動に何の意味があるのか? それも真昼には分かっていた。分からないはずがなかった。つまるところ、さっきデニーが放った弾丸は、ミセス・フィストを「壊す」ためのものではなかった。そうではなく、ミセス・フィストを「どかす」ためのものだったのだ。そもそも、なぜミセス・フィストはあの場所に立っていたのか? それは、あの場所が、決定的に重要なポイントだったからだ。守らなければいけない場所だから守っていたのだ。ドームの上のチャトラ。金属製のアンテナ。これを破壊されないために、その上に立っていたのだ。

 しかし、デニーの弾丸によって動かざるを得なくなった。それが偽物であるという可能性も理解していたのだが、それが本物だった時の可能性を考えれば、そこに留まることはあまりにもリスクが大き過ぎたということだ。そうして、ミセス・フィストはいなくなった。もう、邪魔するものは、誰もいない。

 真昼は。

 この場所から。

 あの場所まで。

 全速力で。

 駆け抜けて。

 ある地点まで。

 辿り着くと。

 とんっと。

 一発の。

 破滅の。

 砲弾のように。

 跳んだ。

 手に持っていた。

 二本の月光刀を。

 思いっきり。

 振りかぶる。

 そして。

 それから。

 真昼は。

 それらの。

 月光刀を。

 チャトラに向かって。

 叩き付ける、ように。

 全力で。

 振り下ろす。

 「がああああああああああああああああっ!」という、真昼の力の限りの絶叫が、この白い宇宙に似た時空間に響き渡る。巨大な二本の刃は、ドゥームズデイみたいな、がりがりっという音を立てながら。よく手入れをされたナイフが茸を切り裂くかのようにあっさりと、チャトラの軸を、その根元から、真っ二つに断ち切った。ドームから切り離された三重のチャトラは、巨人が回す独楽のようにきりきりと回転しながら吹っ飛んで行って。ああ、真昼は、するべきことを成し遂げたのだ!

 とはいえ、最初は……何も起こらなかった。斬撃を繰り出した時の勢いが余りに余りまくってしまい、そのままめちゃくちゃな方向にすっ飛んでいく真昼の視界に映し出された光景。チャトラが失われた以外は、ドームにはなんの変化も起こっておらず……そのせいで、真昼は、ほんの一瞬だけ、自分がやるべきことを間違ってしまったのではと思ったくらいだった。けれども当然ながらそんな心配は杞憂だった。

 唐突に、それは起こった。「それ」というのは二つの出来事であって、まずはこの真っ白な宇宙、ティンガー・ルームと呼ばれる空間の全体に、聞くものの脳髄さえ吹っ飛ばしてしまいそうな、凄まじいアラームが鳴り響き始めた。るるーい、るるーい、という感じ、比較的ありきたりな、誰でも聞いたことがあるような、なんだかひどく神経に触る、聞いているともれなく不安になってくる、そういうアラームが鳴り響いて。

 その後、二つ目の出来事が起こる。デニー達三人にとって、あるいはダコイティにとって、最も重要な出来事が。チャトラの下にあった、あの透明なドーム、なんらかのエネルギーフィールドで形作られていたところの巨大なドームが、一瞬にして消滅したのだ。それは、例えるならば、テレヴィジョンに映し出されていた画面が、スイッチをオフにしたことで、ぱっと消えてしまったみたいに、唐突かつ完全な消失であった。恐らくは、チャトラがドームを構成しているエネルギーを「維持」していたのであって、それを失ったせいでフィールドを保てなくなったのだろう。ドームは、あっさりと消えてなくなってしまい……後には、チャトラがその上に立っていたところの四角い金属製の土台だけが、不可思議にもなんの支えに依ることもなく、その場に留まり続けただけであった。

 さて。

 それでは一体、その出来事の。

 何が、そんなに、重要なのか。

 それは、あまりに分かりきったことだ。

 ドームが、牢獄が、消えた結果として。

 聖なる牛。

 白き慈母。

 カーマデーヌが。

 解放されたのだ。

 つまるところ、あの透明なドームは、カーマデーヌを閉じ込めるためのものであったのだから。まあ、未だに乳房には搾乳機が接続されていたりはしたのだが、とはいえカーマデーヌを閉じ込めるものは、もう何もなくなったということだ。

 ということで、このアラームは、間違いなくカーマデーヌが何者かに奪われそうだということを警告するアラームだろう。となれば、普通であれば、アラームと共に、なんらかの防犯システムが作動してもおかしくないのだが……そんな気配は、微塵も感じられなかった。それはなぜか? 考えるまでもない。

 なぜならば。

 今、ここに。

 ミセス・フィストが。

 存在しているからだ。

 ミセス・フィストが一人いれば防犯システムなど必要ないのだ。ミセス・フィストはASKが作り上げた最高の兵器であるのだし、その兵器が防げないような行為を他の何者かが防げるわけがないのだから。ということで、今度はミセス・フィストが何をしているのかを見てみよう。

 テレポートによってデニーの銃弾から逃れた後、そこから少しだけ離れた場所、具体的には数ダブルキュビトほど上方の空間に、ミセス・フィストは再出現を果たした。その間に、真昼によってチャトラは切断されてしまって。結果として、アラームが鳴り響く事態となってしまって。

 その状況を見下ろしていたミセス・フィストは。

 無表情のままで、ほんの僅かに、首を、傾げる。

 それは、何かを不思議に思っているというよりも。

 一つの数式の中、変数に代入すべき数字を探し出して。

 あらゆる項を、決定的な定数項に変えようとしている。

 むしろ、そんな仕草に見えたのであって。

 それから、ミセス・フィストはそっと口を開いた。その口は……カーマデーヌを捕らえていた檻を破壊されてしまったというのに、そのことに対する危機感も・焦燥感も・切迫感も全然感じさせない、ごく自然でごく当たり前の口調でもって、次のような言葉を発する。「リミテッド・プロトコル:対象=スナイシャク特異点、発動」「感覚範囲内にスナイシャク特異点を確認。自動承認により、限定を解除します」。

 定骸の葬企。

 固者の弄形。

 静羅。

 黄羅。

 通唆。

 嗣糖。

 信と、信と、信と、否絶。

 疑対という現象は。

 その症状を腐犯し。

 定義は。

 やがて。

 業論、の、歌になる。

 要するに……この時点までのミセス・フィストは、実際に有している「力」の一パーセントさえも出していなかったということだ。もしもミセス・フィストが全力を発揮してしまえば、この星そのものが、それどころかこの星が所属している銀河さえも、跡形もなく吹き飛んでしまうから。この事実は、書いていて「なんだかちょっと馬鹿みたいだな」と思わなくもないのであるが、事実なのだから仕方がない。また、銀河程度であれば、簡単に吹き飛ばしてしまえるような存在は、この世界にはわんさかexistしている。実際のところこの銀河がまだ存在しているのは、住んでいる銀河がなくなるというのは色々と不便だという理由、お互いに同じくらいの強さの生き物がひどく微妙なバランスで牽制しあっているという理由、その二つの理由によって、銀河を吹き飛ばせる力を持つ存在が、この銀河を吹き飛ばしていないからに過ぎない。

 とにかくミセス・フィストの能力は限定されているのだ。その限定は特定の場合にしか解除されることはなく、特定の場合とは、要するに通常モードでは倒せないような何者かを相手にしなければならない場合である。そういった何者かというのは、例えば神々であったり、例えば選神枢機卿であったり、例えばレベル7のスペキエースであったり、例えば始祖家のノスフェラトゥであったり、例えばイス・ディバイターズであったり……例えば、スナイシャク特異点。

 ザ・ポイント・イズ。

 ミセス・フィストは。

 カーマデーヌを相手にしなければならない場合。

 普段は使えない「力」。

 その一部を。

 使うことが。

 出来る。

 全力ではないにせよ、その「力」にかけられていた限定が解除された時に。真昼は、この世界の何かが、決定的に変えられてしまったということを感じた。それは何かの振動ではなく、それは何かの粒子ではなく、それは何かの感覚でさえなかったのだが、それでも真昼は、世界が……何かの「力」によって、吐き気がするくらいに、惨たらしく歪められたその瞬間を理解したのだ。

 カーマデーヌの真上にいるミセス・フィストを中心として、ティンガー・ルームは破損した。ここがティンガー・ルーム、ASKが実験のために作り出した、非常に頑丈な世界で良かった。仮に通常の世界でこれが起こっていたのならば、少なくともミセス・フィストの周囲の時空間では、既存の法則に修復不可能なダメージが発生していただろう。それほどの「力」が一気に解き放たれて……それから、一点に収束する。

 その一点とはミセス・フィストの手のひらの上だった。ばちばちと音を立てて、この世界を侵食する、絶対的なまでに実在している、エネルギーの波動みたいなもの。それがミセス・フィストの手のひらの上で、例えばミセス・フィストに甘えている、なんらかの長虫の子供であるかのように。驚くほどパーフェクトに制御されているのだ。

 それからミセス・フィストは、その手のひらを、静かに、静かに、下に向けて開いた。手のひらに纏わり付いていたエネルギーは、ミセス・フィストが「そうあるように」結論した通りに、その手のひらを中心として、拡大を始める。それほど素早いものではない、時空間にダメージを与えないように「力」を使うのはひどく難しい行為だからだ。それでも確実に「力」は広がっていく……それは、まるで、カーマデーヌを包み込む巨大な繭を建造しようとしているかのように。

 いや。

 ように、ではない。

 実際にミセス・フィストは。

 建造しようとしているのだ。

 カーマデーヌを閉じ込める。

 新たな牢獄を。

 ミセス・フィストが発生させた「力」は……例の土台、ドームが失われた後もなぜか浮かび続けていた、チャトラの基となっていたところの、あの土台を経由して。次第に、次第に、その周囲に向かって、垂滴し、浸潤し、半球形に拡散していく。いい換えれば、再びドームを形成し始める。

 また、その「力」を受けた土台に関しても、ちょっとした変化が起こり始めていた。真昼が切断したはずのチャトラの軸の部分。そこに向かって、土台の金属がぐねぐねと盛り上がってきて。奇怪で醜悪な細胞分裂を続けるある種の担子菌であるかのように、一つの、二つの、三つの、子実体を形成して……新しいチャトラが形成されたのだ。

 簡単にいえば何もかもが元通りになってしまおうとしていたということだ。よく考えれば、それも当然のことだろう。人間のように種として愚かな生き物であればともかくとして、高等な知性を有するASKが、カーマデーヌという非常に危険な生命体を管理するにあたって、二重三重の防衛策・予防措置を用意していないわけがない。もしもASKが、本当にカーマデーヌを失うようなことがあるのならば……それは、ASKが、そうなることを望んだ時だけなのである。

 ということで、状況はかなり絶望的といえた。「力」の限定を解除したミセス・フィストを真昼やパンダーラやが止められるわけがない。存在としての、概念としての、格が違うのだ。また、残念なことに、デニーにも止めることはできないだろう。完全な状態のデニーであればなんとかできる可能性もあるのだが、今の状態ではさすがにどうしようもない。スペル・バレットについても……いたずらにそれを使用したところで、先ほどのように回避されてしまうのが落ちだ。

 ここにはミセス・フィストに。

 対抗できる者は、いない。

 たった、一つの生命体を除いて。

 つまり、カーマデーヌを除いて。

 そう、その通り。カーマデーヌはミセス・フィストに対抗しうるのだ。というか、カーマデーヌが対抗しうるからこそ、ミセス・フィストは「力」の限定を解除出来たのだ。

 ASKが馬鹿ではないようにデニーも馬鹿ではない。どう考えても再封印を施されるだけのカーマデーヌを、なんの目的もなく開放したりするはずがないのだ。カーマデーヌを、一つの戦力として、一つの兵器として、ミセス・フィストへの攻撃に使うためにその封印を解いたのである。

 カーマデーヌ、つまりはスナイシャク特異点の封印がそれなりに時間が掛かる作業であるということをデニーは知っていた。再封印が施される前にカーマデーヌによる攻撃を行うことが出来れば、ミセス・フィストに対してなんらかのダメージを与えることが出来る。そういう計画なのだ。

 ただ、この計画には一つだけ問題がある。カーマデーヌには、一般的に人間が使う意味におけるところの知性というものが存在していないということだ。はっきりいってしまえば、そこら辺にいる家畜と同レベルの認識形成能力しかない。そもそも知性というものは、猛獣における牙や猛禽における爪と同じようなものなのであって、ある個体が生存し続けるための一つの手段に過ぎない。それは大変便利な手段ではあるが、例えばカーマデーヌに知性がないということは、パンデモン・スフィアに知性がないというのと同じようなことだ。本質的には、これほど力強い生き物、破壊的な力を持つ個体には、知性などというものは必要ないはずなのである。現在のような、非常に特異な状況……ASKという、カーマデーヌを凌ぐほどの力強さと、無限に近い超知性を併せ持つ、絶対的な何者かと相対する状況を別とすれば。

 とにもかくにも、カーマデーヌには知性がなく。それゆえに、現在の危機的状況に対してどのように対処すればいいのかが認識できない。いや、通常の状態であれば、もしかしたらなんかの対処を行うこともできたかもしれない。だが、今は……憔悴し切っている。このティンガー・ルームに辿り着いた最初の時に、真昼が観察した通り。カーマデーヌは、ASKから受けた度重なる搾取・実験によって、生命力のほとんどを失ってしまっていたのだ。それはあたかも、養牛場に閉じ込められ続けてすっかり疲れ切ってしまった牛が、たまたま飼育員が閉め忘れた扉から逃げ出せるにも拘わらず、その事実を認識できていないようなものだ。自分のことを今にも再び閉じ込めようとしているミセス・フィストに向かってすぐさま攻撃を行わなければいけないということさえも理解できないほど弱っていたのだ。

 結論として。

 カーマデーヌ、は。

 何もできないまま。

 悲劇としての苦痛を。

 哀切な鳴き声として。

 あげ続けることしかできない。

 もしも。

 もしも。

 忠実なる牛飼い、が。

 逃走のための道筋を。

 示すことがないなら。

 パンダーラ・ゴーヴィンダ、白き牛飼い。「ゴーヴィンダ」のように「牛飼い」を意味する語は、アヴィアダヴ・コンダにおいては一つの尊称として使われる。ゴーヴィンダの一族。ゴーヴィンダ家の者。それが意味するところの表象は、カーマデーヌを愛する者、カーマデーヌを導く者、それに何より、カーマデーヌと意思を交わすことができる者。

 カーマデーヌはスナイシャク特異点であり、その思考は、あらゆるスナイシャク特異点でないものとは絶対的に異なっている。それゆえに、カーマデーヌとの「特別な繋がりがある者」しかカーマデーヌと意思疎通を行うことができない。そして、パンダーラは、まさに「特別な繋がりがある者」なのだ。だからこそ「ゴーヴィンダ」を真実の名前として名乗ることが許されているのだ。

 ということは。

 パンダーラは。

 カーマデーヌに対して。

 ミセス・フィストを攻撃して欲しいと。

 そう冀うことが、出来るということだ。

 それこそが、計画の後半部分、その最重要部分であった。つまり、ミセス・フィストが再封印を完成させる前に、パンダーラがカーマデーヌに「接続」し、こちら側の「祈願」を伝えることによって、ミセス・フィストに対して攻撃をするように、ある程度の操作を行うということ。もちろんパンダーラは、この行為について、操作を行うなどという不敬極まりない表現を使うはずもなかったが。はっきりいってしまえばそういうことだ。

 そんなわけで、今、注目すべきことは……パンダーラが何をしているかということになる。真昼のために道を開いて、半死半生といっても過言ではない状態で、地上に墜落して。それから、パンダーラは……金属のパネルを継ぎ接いだ、その地上を……カーマデーヌに向かって、必死に這いずっていた。

 これほど必死という表現が似合うシーンもそうそうないだろうと思ってしまうような、壮絶な光景だった。そもそもパンダーラは、既にパンダーラとしての形状をしていなかった。それは虚ろに輝く光の塊だ。寄生木のようにのたくっている赤い金属と、悪性の腫瘍のように泡立っている緑の宝石と。その二つによって、ようやく形を保っているところの、うっすら消えかけている蝋燭の光のようなものだった。そして、その光の塊が、ずるずると、地面の上を這いずっているのだ。

 先ほどのアストラの連射によって、デニーによる回復の効果は完全に消費されてしまったらしい。それどころか、その身体の崩壊は、どう考えても取り返しがつかないだろうと思えるレベルまで悪化していた。まだ生きていること、まだ動けていること、それ自体が奇跡といってもいいだろう。そんな状態になっても、なおパンダーラは……まるで、光に吸い寄せられる死にかけの虫のように、カーマデーヌの方向へと進んでいた。

 計画の。

 遂行の。

 ために。

 アストラの銃床、白く濁った骨の彫刻を関節点として、緑色の銃身の部分を、鉤爪みたいに金属のプレートに突き刺して。それを引っ掛かりとすることで、体の他の部分を引き摺っている。そんなやり方ではほとんど前に進めないのだが、かといって全く進んでいないわけではない。着実に、着実に、カーマデーヌへと近付いている。もともとかなりカーマデーヌに近いところに落ちていたので(そうなるように落下の際の角度と方向を調整していた)、その距離は、十数ダブルキュビト程度のところにまで近づいていたのだが……その先が、無限に長く感じるようだ。

 いっちゃ悪いがちんたらちんたらと、そんな風に進んでいるパンダーラのこと、ミセス・フィストが見逃してくれるはずなどあるわけがないのであって。無論、その行動は妨害を受けていた。とはいってもミセス・フィスト自体は封印を行うので手一杯であるため、妨害を行っているのは生き残っているマンティコア達だ。上空のポータルから、夏の通り雨もかくやという勢いで毒針を飛ばし続けていて……だが、それらの毒針は全て、真昼が展開している娘シールド(仮)によって跳ね返されていた。

 チャトラを切り落とした後の真昼は、即座に気が付いていたのだ。カーマデーヌの封印は、一度それを解いたところで、再封印がなされる可能性が非常に高く、それ自体としてはさして意味のある行為ではないということを。となれば、その後に何かしら、他のアクションが続くはずだ。そう思ってちらとデニーに目を向けてみると。デニーはそんな真昼に対して、持っている二挺の拳銃、びししーっ!とパンダーラの方を指し示して見せた。

 ということで、今度はパンダーラを見てみると。命の抜け殻のような状態になりながらも、なぜかカーマデーヌの方に向かって移動しているということが確認できた。それ自体になんの意味があるのかということは分からないのだが、恐らく自分に期待されていることは、この移動が成功するようにパンダーラを援護することであろうと、たちまちのうちに悟った真昼は。すぐさまパンダーラの頭上に移動して、その行動を開始したのだった。

 こうなってしまえば。

 マンティコアの毒針。

 決して、パンダーラに届くことはない。

 だから。

 これは。

 純粋に。

 ミセス・フィストが再封印を完成させるのが早いか。

 パンダーラがカーマデーヌまで辿り着くのが早いか。

 その二つの。

 速度のレース、だ。

 いつも正義が勝つ世界ではいつも正義が勝つのだから、結果は決まっているようなものなのだけれど。ただ一つだけ分からないことは、本当に真昼は正義のヒーローなのかということだ。まあそれはもう少し後になれば分かることなのであるし(具体的には十一分三十六秒後)、別に急いで答えを出さなければいけないという話でもあるまい。エニーウェイズ、恐らくパンダーラが勝つであろうところの、そのレースの結果を見てみよう。

 どんどんと激しくなっていくところの毒針の驟雨を捌きながら、真昼は時折、さっとパンダーラに目を向ける。時計の……時計の長身をじっと眺めているみたいな気持ちだ、確かに進んでいるのは理解出来るのだが、秒針と比べてみればあまりにも遅すぎるように感じる。一方で、ミセス・フィストの封印も、やはり順調にドームを形成し続けていて。既に真昼のいるところ、その高さまで、透明な壁は迫ってきているくらいだった。このままドームに閉じ込められてしまったらどうなるのだろう、蛍光灯カバーの中に閉じ込められてしまった羽虫のように干からびて死んでしまうことしか出来ないのだろうか、なんていうことを考えながら。それでも真昼は信じていた。パンダーラのことを、パンダーラは、絶対に、するべきことを、成功させるということを。

 地上から伸びてカーマデーヌに繋がっている、巨大な樹木のようなチューブをくぐり抜けて、先へ先へと進んでいくパンダーラ。その残骸とあの神聖との距離は、convictionというものに裏付けされた絶対的な確実さで消化されていって。あと……あと、九ダブルキュビトだ。ミセス・フィストの力、再封印のドーム、下端がどんどんと近づいてくる。あと八ダブルキュビト、あと七ダブルキュビト。けれども、パンダーラはそのことを恐れることはない。恐れる必要などどこにある? あと六ダブルキュビト、あと五ダブルキュビト。パンダーラには信仰がある。そして、信仰するものは何も恐れない。あと四ダブルキュビト、あと三ダブルキュビト。なぜなら、パンダーラは、いつだって信じる者に従うだけであって。あと二ダブルキュビト、あと一ダブルキュビト。

 全ては。

 カーマデーヌが。

 お与え下さる。

 慈悲のままに。

 パンダーラ、は。

 「その行為」に。

 成功する。

 やったぜ! うんうん、良かった良かった。ミセス・フィストが再封印を終わらせる前に、パンダーラは見事カーマデーヌまで到達することができたのだ。おめでとう! カーマデーヌの右の前足、二つに割れた蹄のもとにまで辿り着いたパンダーラは……最後の力を振り絞って、ずるりと立ち上がる。その様は、立ち上がるというよりも、まるで砂鉄の塊が、磁力によって引き上げられたような有様であって……そして、その磁力が不意に途切れてしまったとでもいわんばかりに。パンダーラの体は、また、べちゃりと倒れてしまった。

 ただし、ただ倒れただけではない。前方に向かって、カーマデーヌの蹄に凭れかかる形で倒れたのだ。それは、つまり、全身を使って、カーマデーヌの体の一部に、自分の身体を投げ出す行為だったのだ。

 その瞬間に。

 窮極の愛。

 母の光が。

 パンダーラの体に。

 暖かく満ちていく。

 ティンガー・ルームにやってきた時に真昼が感じたあの光だ。この世界を生み落とした子宮から、したしたと滴ってきているかのような、満ち足りた生命力そのものであるところの光。それが、カーマデーヌに触れている部分から、感染しているかのように、パンダーラを伝っていって。

 そうして、驚くべきことに……その光が光り輝いたところから、パンダーラはリザレクションを果たしていった。今にも消えそうな、仄かな光となってしまっていた身体は。何よりも深く愛することを知っている母親の手が触れるかのようにして、その光が、優しく、優しく、満ちていくとともに。もともとの肉体、血と、肉と、張り詰めた、完全な肉体の形を取り戻していったということだ。

 ショゴスによって急拵えされた応急処置としての肉体ではない。本当に、百パーセント、パンダーラであるところの肉体だ。しかもそれだけではなく、他にパンダーラを蝕んでいた異常も修正されていく。全身に寄生していた赤イヴェール合金はアストラのグリップ周りに収束・終息していって、それによって、透明な緑色の腫瘍も跡形もなく消えていく。パンダーラを焼き尽くさんばかりであったセミフォルテアの光は、カーマデーヌの愛としての光によって、そっと眠らされるかのようにして鎮められていき。やがては右腕の形だけを残して消えてしまった。

 右腕と。

 左腕と。

 それらの、二本の腕で。

 魂魄の光により。

 復活を果たした。

 パンダーラは。

 カーマデーヌの蹄。

 縋るようにして、抱き締めている。

 ようやく……ようやく、触れることができた。一体、何年の間、あなたを失ったままでいたのだろう。それはあまりにも不確かな絶望であったために、あなたを目の前にした今となっては、まるで思い出したくない夢のように曖昧だ。あなたは私の全てだ。いや、それは少し違う。私というものは存在せず、ただあなただけが存在している。私が私として錯覚しているこの何者かは……あなたという光が照らしだした、この素晴らしい世界の、虚ろな影みたいなものに過ぎない。あなたがいなければ私は意味もなく消えてしまい、最初から存在しなかったところの、遠い遠い残響として忘れ去られるのだ。あなたは私の歓喜であり、あなたは私の信仰であり、そして、あなたは私の愛である。

 カーマデーヌ。

 カーマデーヌ。

 カーマデーヌ。

 ああ。

 母よ。

 娘は。

 ここにいます。

 うーん、感傷的な気分になっていらっしゃるところ恐縮なのですが……それ、今じゃなきゃ駄目なやつですか? なんと申し上げたらよろしいのか、ほら、ミセス・フィストの再封印があと少しで完成してしまいそうですし……あっ、そうそう、このドームが完成したらカーマデーヌはもう一度封印されるんですよ? もしかしてご存じありませんでした? と、まあこちら側としてはそういった心持ちになってしまうシーンであったが。さすがにパンダーラとしても、いつまでもこうしていたいのは山々ではあるが、そうはいかないということを理解していないわけではないらしい。

 際限なく心の中に湧き上がってくる愛の感情を、なんとか押さえ付けてそこに蓋をして。それから、パンダーラは、カーマデーヌに「接続」する。この「接続」という過程、スナイシャク特異点の精神に対してなんらかのコミュニケーションを試みるということが、一体どういう行為であるのかということは……残念ながら説明することができない。なぜならそれは「概念」ではなく「魂魄」に属する現象なのであって、なんらかの記号によって表現できるものではないからだ。それは、例えば、目も見えず耳も聞こえず、あらゆる感覚を生まれた時から所有していなかったものが、どこまでもどこまでも続くミルクの海を泳ぐようなものだ。

 ミルクの海。

 あるいは。

 全ての。

 全ての。

 生き物の。

 形而上学的な意味での、本質が。

 溶けて、溶けて、混じりあった。

 妣が国へと至る海。

 泳いでいく、沈んでいく、浮かんでいく。そして、やがて、その場所に辿り着く。その場所とはカーマデーヌの中心であり、あるいは特異点だ。名前の通り、あらゆる理程式において一般解を導き出すことができないシンギュラリス。要するに、ジュノスとの接点を有するスナイシャクであって……この世界の物理学的法則・この世界の妖理学的法則は、非秩序的な方法によってしか通用させることが出来ない。

 だから、それを感覚によって感覚することは不可能だ。それに触れても、それに触れたということを知ることはできず。それを抱き締めたとしても、それを抱き締めたということを知ることはできない。パンダーラに出来ることは、ただ願うことだけである。それがそこにあることを。自分が、カーマデーヌによって、抱き締められているということを。

 その願いによって、初めて「たましい」が――存在と概念との「かひこ」によって包み込まれ、規定された「たましい」となってしまったところの、ジュノスの此岸的側面が――ラギトネン・ハゼン・メラテポラ、温かいミルクの中に落とされた一つの角砂糖のように、そこに溶けていくことができるのだ。パンダーラは、カーマデーヌの中に溶けていき。

 己のスナイシャクを。

 限りなく、無限であるところの。

 カーマデーヌへと一体化させる。

 さあ!

 今だ!

 「祈願」せよ!

 誰よりも忠実な牛飼いよ、示すべきものを示せ。導くべき方向に、母としての牛を導くのだ。パンダーラは、カーマデーヌの内的な世界に、切なる切なる願いを注ぎ入れる。あるいはそれは、デニーによってディレクティオされた、華やかな冷酷であるところの、計画のフィナーレ。

 と……ここまでがカーマデーヌとパンダーラとの「接続」、その内側の世界で何が起こっていたのかということだが。今度は、外側から見ていた時に何が起こっていたのかということを、比較的近い場所でマンティコアの毒針を防ぎ続けていた真昼の視点から見ていってみよう。

 カーマデーヌが、その内側に、その祈願を受け入れていた時に。真昼は、地上から百ダブルキュビト弱のところ、カーマデーヌの体高よりも少しばかり高いところにいた。そのくらい高い場所にいた方が、マンティコアの群れの全体を見渡せて、毒針乱れ撃ちに対する対処を行い易かったからなのだが。その対処に百パーセントの集中力を振り向けていたために……下の方で何が起こっていたのかということは、全く見ていなかった。そのため、カーマデーヌが、その内側に、その「祈願」を受け取った時に起こったこと。真昼にとってはなんの前触れもなく起こったことであったのであって、完全に虚を突かれる形になってしまった。

 さて、それでは。

 何が起こったのか?

 カーマデーヌが。

 ぐうっと。

 上に向かって。

 顔を、上げて。

 大きく。

 大きく。

 鳴き声を。

 歌ったのだ。

 カーマデーヌは……これまでも、ずっと、沈黙していたわけではなかった。以前書いたように、自分の乳房に取り付けられた搾乳機、そのポンプが、どくんどくんと脈動するたびに。苦痛と哀切とに満たされて、この世界にゆっくりと染み込んでいく絶望、それそのもののように暗く沈んだ鳴き声を上げていたからだ。だが、今度のこの鳴き声は、それとは全く性質が違っていた。

 それはどちらかといえば音楽に近かった。例えるならば星々の歌声だ。天界に数多ある惑星が、恒星によって定められた軌道を、グラスの縁を滑る水滴のように滑っていく時に。一つの惑星ともう一つの惑星との重力圏が触れ合って、その時に立てるであろう、恍惚としてしまいそうなほどにマグフニフィセントな……一つの、完全な、芸術。

 それは肯定だった。それは了解だった。かくあるべきであるという認識に対する、寛大とさえいっていいほどの許容だ。カーマデーヌは、その歌声によって、この世界における自分のシチュアシオを理解したことを表現したのであって。そのシチュアシオとは、要するに、自分が、今、自由であるということだ。

 真昼は、その鳴き声にすごくびっくりしてしまって。何事ぞ起こりけり!と、パンダーラがいるはずの方向、百ダブルキュビトほど下方に視線を向けた。カーマデーヌの右の足元では、たった今、その蹄からパンダーラが離れたところであって。真昼は、パンダーラの体がいつの間にか回復していて、すっかり元通りになっていたことに驚いたのだったが。実際のところは、そんなことに驚いている暇などないのだ。

 パンダーラがなぜカーマデーヌから身を離したのか? しかもただ離れただけではなかった。それはほとんど飛び退いたといわんばかりであって、カーマデーヌの足元から、一瞬にして、かなりの距離をとったのだ。それは、あたかも……これから起こること、何か凄まじく強力な影響力を持つであろう出来事に、巻き込まれないようにしたとでもいうみたいに。

 そして。

 それから。

 一体。

 何が。

 起こったのか。

 巨大な生き物が行う何かしらの行為は全て巨大である。真昼は、自分が、この馬鹿みたいに当たり前なことを、全然理解していなかったということに気が付いた。あまりにも大きな物体が、自らの意思で動くという光景は、真昼がなんとなく想像していた光景、ただ小さいものが大きくなっただけという光景とは、あまりにもかけ離れていた。「それ」を見た真昼の感想をたった一言で表すならば、「グレート……!」だ。確かに、それはグレートとしか表現できないものであった。というか、たぶん「それ」のような何かを見た時に、人間はグレートという言葉を思い付いたのだろう。

 カーマデーヌの、真聖であるほどに純白な皮膚の下で、全ての海みたいに壮麗な筋肉が、災害であるかのような態度で波打った。前足、肩の辺り、大地と大地とがぶつかり合って一つの山脈を作るがごとく、ぐうっと力が込められて。それから、カーマデーヌの前足は、その下にある金属のパネルを蹴った。神々が鋳造した鐘が雷鎚によって鳴り響く時、きっとこんな音がするのだろう。がおおおおぉんというような、爆発にも似た振動が、真昼の全身に衝撃波となって襲い掛かって。それが、カーマデーヌに蹴られた、金属のパネルが出した音だった。カーマデーヌは、そのまま、高く高く前足を掲げて……後ろ足だけで立ち上がり……アフランシ語でいうところのレヴァードのポーズを取る。

 ただし、ここは乗馬の競技会場ではないのであって、もちろんポーズを取ることが目的ではなかった。そのようにして自らの上半身を上に持ち上げることで、カーマデーヌは……何匹も何匹も、自分の乳房に食らいついている寄生虫、つまりは搾乳機を振り払おうとしたのだ。その試みは、無論、成功する。がっちりと食い付いていた爪が乳房の表面を多少引き裂きはしたものの。カーマデーヌからライフ・エクエイション、液化した第一の原理を収奪していた搾乳機のカップは、前足に近いものから順番にずるん・ずるん・ずるんと抜け落ちていって。やがては、全てのカップがカーマデーヌから引き剥がされた。

 絞りかけのライフ・エクエイションがカップからこぼれて、洪水みたいにしてそこら中にぶちまけられる。また、その乳房からも、したしたと同じ液体が滴って落ちている。生命力に満ち溢れた海の断片的な顕現が、カーマデーヌの足元で、ひたひたと打ち寄せる満ち潮のように水溜まりを作って。それから、その水溜まりの中に、カーマデーヌは掲げていた前足を下した。さして力の籠もった仕草ではなく、まして叩き付けたという表現とはかけ離れたやり方であったが。それでもカーマデーヌのその行為によって、小さな湖ほどもあるミルクのオアシスは、巨大な波となって辺り一帯をミルクで浸したのだった。

 真昼は、事ここに至ってようやく、カーマデーヌから近過ぎる場所にいるのはちょっとばかりヤバいのではないかということに思い当たった。カーマデーヌとミセス・フィストとの間に「何か」が起こるであろうという気配は完全に明白なものとなっていた。それが何かということまでは真昼には分からなかったが、とにかくこの距離感でいたらどう考えてもその「何か」に巻き込まれてしまう。幸いなことにパンダーラは自分で動けるようになっていたし、マンティコアの毒針も、なぜか、ほとんど飛んでこなくなっていた。ちなみにそれがなぜなのかというと(真昼も次の瞬間には気が付いたのであったが)、デニーがマンティコアからマンティコアへと飛び移りながら、獣達を次々に始末していたからだ。恐らくダコイティの森で作ったという秘密兵器の一つなのだろう、濁った洪珀のような色をした炎を纏った、大鎌みたいなものを、両方の足に取り付けて。その鎌によって、踊るみたいにマンティコアの首を掻き切っていたのだ。次々に吹き上がる血飛沫を緋色の帳のように、その舞踏はなかなかの見ものではあったが、ただそれに見とれている時間はなかった。

 真昼は。

 急いで。

 その場から。

 離れる。

 粉々に砕けた少女のキューブ・リキッドの上を走って、カーマデーヌからだいぶん離れた場所にまでやってきた時に。真昼は、ふと、ある事に気が付く。それは……一見しただけでは大したことではないように思えることだった。このティンガー・ルームのそこら中で湧き出し・噴き出し・流れ出しているカーマデーヌの乳が、なんだか少しだけ騒がしくなっていたのだ。具体的にどうとはいえないのだが、ふるふると震えているような、小さく小さく些喚いているような、なんとなく、その内側に、何か、抑えがたい力が注ぎ込まれているみたいなのだ。

 全ての、全ての、乳が。まるで見えない何かで繋がっているかのように、同じ周波数で揺れている。何かが起ころうとしていて……そして、それを起こそうとしているのは間違いなくカーマデーヌだった。だから、何が起こるのかを知ろうとして、真昼はカーマデーヌへと視線を移す。

 そのカーマデーヌはというと、今度はぐうっと体を伸ばして、仰け反るようにして頭を上に向けていた。それは、自分の頭上にあるもの、つまるところミセス・フィストに目を向けるためであって。この世界の始まりさえも見てきたような目が、上空のミセス・フィストの姿を捉える。

 すると、カーマデーヌの四本の角が不意に光り始めた。そもそもカーマデーヌ自体が光であったのだけれど、そのカーマデーヌであるところの光とは、少しばかり違う種類の光。なんとなくきらきらとしていて、見ている方が、なんの根拠もないけれど、それでも浮き立つような希望に満たされてくるような、そんな心地のいい光であって。その光に……まるで共鳴するみたいにして、その光と全く同じ光によって、そこら中で振動しているミルク溜まりも光を放ち始める。角が発する光は、加速度的にその光度を増していって。それに合わせるようにして、乳が発している光も、どんどんと明るくなっていって。やがてはティンガー・ルーム全体が眩いばかりの希望の光によって満たされることになる。

 それから。

 その光が。

 一定の光度まで、達した時。

 カーマデーヌは、もう一度。

 鳴き声。

 上げる。

 今度の、鳴き声は。

 まるで、決定された運命を。

 ただ宣告するだけのような。

 つまり、その鳴き声は。

 ミセス・フィストへの。

 攻撃、を。

 開始する。

 ための。

 鳴き声。

 宇宙そのものが何かの圧力を受けて、ゆっくりと歪んでいく時にに立てるような、深く深く、魂魄の底から轟いてくるような音だった。モオオオオオオオオオオオオォ……という感じの、どこまでもどこまでも遠のいていくようなその音は、確かにミセス・フィストに向けられたものであって。やがて、真昼の目の前で、何かが起こり始める。

 目の前で? いや、少し違う。真昼の周囲、ティンガー・ルームの全体で、それが起こり始めていた。ASKによって作られたこの特殊な時空間の、その大地の上に、ぼこぼこと湧き出ているカーマデーヌの乳。独特の周波数で振動し始めていた、それらの液体が……唐突に、どっと爆発したのだ。それは一斉に、まさにひと時で起こったことであって。あまりの衝撃に、方相氏となった真昼でさえも愕然として動けなくなってしまう。

 右から、左から、前から、後ろから。あるいは、カーマデーヌの足元に溜まっていた、ほんの少しのミルク溜まりさえも。まるで空に落ちていく滝のように、凄まじい勢いで、上へ上へと駆け上っていって。その怒涛が目指す先はたった一点……いうまでもなくミセス・フィストであった。

 あまりにも大量のミルク・あまりにも大量のライフ・エクエイションに取り囲まれてしまって。しかも再封印に力のほとんどを割いていたこともあって。どうやらミセス・フィストでさえも、その攻撃には成す術がなかったらしい。まるで海に飲み込まれてしまう人間のように無力に、暴れ狂う狂瀾に巻き込まれて……そのまま、光の渦の中へと消えていく。いうまでもなく、そのせいで、形作られかけていたあの透明なドームも消滅してしまう。

 生命そのものの力、美しく力強い方程式。その中で、ミセス・フィストは搦め捕られていく。人間のような生き物は、とかく自分中心に考えがちであるため、非常に勘違いしやすいのであるが……魂魄というのは生起生命体にだけ宿るものではない(生起生命体っていう単語ちょっと馬鹿っぽいですね)。魂魄とはあらゆるものに宿るものであり、例えば宇宙を秩序立てている無限の星々の運行にさえ生命という原理は存在しているのだ。それゆえに、当然のようにオートマタにも魂魄はあるのであって、ミセス・フィストにも魂魄はある。そして、今、その魂魄に、ライフ・エクエイションが侵食し始めていたのだ。

 ミセス・フィストのあらゆる部分を、その液体は犯して。染み込んでくる生命が、べったりと魂魄にくっつき、その内側へと接触してくる。一つの数式ともう一つの数式とが等号によって結ばれるかのように、ライフ・エクエイションは、ミセス・フィストと結びついて……それによって、ミセス・フィストは、そのミルクの内側に拘束されてしまったということだ。

 ミセス・フィストを取り込んだ勢いそのままに、白い宇宙に黒い星々が輝いている方向に向かって、ライフ・エクエイションはざあっと駆け上がっていき。やがては到達しうる最頂点に到達したのか、今度ははしたないほどの従順さによって重力に引き寄せられ、あたかも野牛の群れのスタンピードのごとく、機械仕掛けの大地へと落下を開始する。

 螺旋状に渦を巻いて、ごうごうと空気を押し潰しながら流れ落ちるミルクの奔流は……カーマデーヌを取り囲むリングの外側、そこから少しばかり離れた何もない荒野に、まるで隕石みたいなどうっという衝突音を立てて墜落して。それから、これもやはり隕石のように、その墜落地点を巨大なクレーターとして凹ませて、その内側に降り注いだ。

 真っ白な。

 ミルクは。

 クレーターの。

 中に。

 ざらざらと。

 ゆらゆらと。

 原初の海。

 みたいに。

 その。

 全てが。

 満たされて。

 それは……驚くほど唐突に、凍り付いたかのようにして静止した。金属のパネルがどこまでもどこまでも続いていく荒野に、ぽっかりと出現したところのライフ・エイクエイションの湖は。一枚の鏡にも似た水面を、その下にミセス・フィストを閉ざしたままで、しんと静まり返らせたということだ。湖、確かにそれは湖だった。水面は直径にして数百ダブルキュビトの円。その深さは何十ダブルキュビトあるのか分からない。そんな湖の中に閉じ込められたミセス・フィストは……一体、どうしているというのだろうか?

 そのような疑問に対する簡潔な回答であるかのように、湖の中心、真ん真ん中の一点で、何かが弾けた。それはある種の雷のようであって……しかし、決して光ではなかった。もう少し惨たらしいもの、もう少し虚ろなもの。ライフ・エクエイションが放つ、生命の光の対立物としての……そう、それは、間違いなく「死」だった。恐ろしいほど透明で、恐ろしいほど純粋な、「死」そのものとしての決定的な欠損が、地の底から空へと向かって放たれた雷みたいにして、そのエネルギーを爆発させたのだ。

 一回。

 二回。

 三回。

 何度も何度も。

 その雷は。

 現実を、引き裂いて。

 真昼は、それを見て……すうっと、全身から、温度のようなものが失われていくのを感じていた。それは恐怖に限りなく似た現象であったが、それでも恐怖とは決定的に異なったものだった。恐怖は、いってしまえば、感情に過ぎない。感情によって引き起こされる何かしらによって傷付けられることは有り得ても、恐怖そのものは、生命体に対して、なんらの脅威でもないのだ。だが、真昼が感じた、その喪失は……それ自体として、真昼の根幹を傷付けうるものだった。真昼は、視覚として、聴覚として、そのほかあらゆる感覚で受け取った「死」の情報によって、直接的に生命を傷付けられていたということだ。

 それほどまでに、その雷は危険なものであった。それを感覚しただけで……真昼が、もしも方相氏と化していなかったら。真昼が、もしも、人間のままそれを感覚していたら。もしかしたら致命的になりえていたかもしれないほどの危険性。ただそれを「見た」だけで死に得るほどに強力な雷を放っていたのは、いうまでもなく、ミセス・フィストだった。

 確かにカーマデーヌはスナイシャク特異点であり、その分泌物であるところのミルクは、非常に純粋な生命力だ。だから、それに捕らえられてしまった場合、普通の生命体であれば抜け出ることはできない。あたかも母の愛によって、羊水の中で、優しく優しく溶かされていく、絶対に生まれることのない胎児のように。やがては、その生き物は、溶解して、その生き物自身も純粋な生命力に変換されてしまっていただろう。

 しかし、ミセスフィストには、しかも、限定を解除された状態のミセスフィストには、その程度の攻撃が通用するはずもないのだ。盤古級対神兵器であるミセス・フィストにオールニー効果に対する防衛機構が備わっていないわけがなく。一種の免疫システムとしてその全身を多層的にループしているヴァリアブル・ソネットが、この攻撃に対する最適な対応策として、「死」を歌うという選択肢を選択したのだった。

 そりゃあ……まあ……そうだよな。そりゃ、「生」に対抗するには「死」しかないですわ。みたいなテンションになってしまうが、それはそれとして、ミセス・フィストは全身から「死」を放っていた。その「死」によって、ミセス・フィストに特有のものとしてヘカストン化したスナイシャクに対するライフ・エクエイションの浸食を、一つ一つ断ち切っていき。そうしながら、この湖の底から、急速に浮上していた。

 がりがりと。

 音を立てて。

 生命を引き裂く。

 「死」の雷。

 その闇と、その静寂とを。

 ヴェイルのように身に纏い。

 ミセス・フィストは。

 原初の海。

 牢獄のような海底から。

 疾く。

 疾く。

 浮かび上がっていって。

 そうして。

 とうとう。

 その体が。

 水面に。

 触れる。

 重要なことは、そもそもカーマデーヌとパンダーラとは、一度ミセス・フィストに敗れているということだ。それも完膚なきまでに。それ以来、カーマデーヌはアヴマンダラ製錬所に閉じ込められ、パンダーラは肉体としての右腕を完全に失ってしまったほどに。ということは、カーマデーヌの攻撃は、ミセス・フィストに対してさほど役に立つものではないということだ。もしも役に立つものであったならば、九百五十七年の悲劇においてあれほどの犠牲を出すことはなかっただろう。

 何がいいたいのかといえば、このライフ・エクエイションによる攻撃がミセス・フィストに通じないということは、デニー&パンダーラは百も承知であったということだ。ミセス・フィストにとって、この程度の攻撃は、ちょっとした時間があれば簡単に振り払える程度のものなのであって。しかし、とはいえ……ちょっとした時間は、必要とする。

 ということで。

 要するに。

 この攻撃、の。

 本当の目的は。

 ミセス・フィストを倒すことではなく。

 その。

 ちょっとした時間を。

 稼ぐ、ということだ。

「ティアー・トータって言いたいところだけどー。」

 ミルク・クラウン。冠に埋め込まれた宝石が、ふっとその冠から落ちていくみたいにして、ざあっという飛沫をあげながら、ライフ・エクエイションから抜け出したミセス・フィストの左目と右目との間には。まるで当たり前のことみたいにして、銃口が突き付けられていた。それは赤イヴェール合金の銃口であり、それはHOL-100LDFの銃口であり、いうまでもなくその銃の引き金に指をかけているのはデニーであった。

「どっちかっていうとフォルス・オーダーみたいだね!」

「そのようですね、ミスター・フーツ。」

 デニーとパンダーラとが組み立てた、長い長い計画。何枚ものカードを費やして、相手のカードを一枚一枚削ぎ落としていく、その永遠とも思えるような過程。この瞬間、今、この瞬間こそが、その結末であった。今までの全て、真昼が五人の娘を侲子としたのも、パンダーラがカーマデーヌと「接続」したのも、全てこの瞬間に辿り着くための行為であった。

 一応、状況を説明しておこう。まずはデニーであるが、ライフ・エクエイションの海の、その上に立っている。液体であるはずの平面にどうやって立っているのかは分からないのだが、その足元は少しも沈む様子がなく、波紋の一つも立てる気配さえない(ちなみにマンティコアを虐殺していたあの大鎌は既に消えてしまっていた)。それから、先ほども書いたことであるが、ミセス・フィストに拳銃を突き付けている。しかもそれは右の拳銃だ。右の拳銃、つまり、スペル・バレットを込めた方の拳銃。スペル・バレットが何発目に込められたのかということはよく分かっていないが、デニーちゃんがとーっても賢いということを考えると……恐らくは、次に引き金を引いた時に発射される弾丸は、今度こそは偽物ではない、本物のスペル・バレットであろう。

 翻って、ミセス・フィストであるが。大体一ダブルキュビト程度の距離を置いてデニーと向かい合っているその体は、ぱっと見たところではデニーと同じく海の上に立っているように見えるのだが、よくよく見てみるとそうではないということが分かる。身体の本当に僅かな部分、具体的には足首から下が、ライフ・エクエイションに捕らわれたままの状態なのだ。それだけでなく、海からは、その足元に向かって、何か……糸のようなものが伸びている。すうっとした色をして光る、羽化したばかりの透き通った虫を、粉々に砕いた後で、紡ぎ合わせて作られた糸のような。そんな細長い何かが、足首に絡み付いて・結び付いている。

 それはミセス・フィストが拘束から抜け出せ切っていないということの証明であった。そのスナイシャクは未だに全ての浸食点を切断できておらず、この場所に・この時間に、縛り付けられ続けている。ということで、この状態ではミセス・フィストはテレポートを行うことが出来ない(正確にいえば出来ないことはないのだが、浸食に関係する全てのものを一緒にテレポートさせなければならないので、必然的にデニーも一緒にテレポートすることになり、拳銃を突き付けられた格好を解消することはできない)。他方、浸食点を切断してからテレポートを行おうとすれば……切断の一瞬に、どうしても隙ができてしまうのであって。とっても賢いデニーちゃんがその隙を逃すような真似をするはずがない。

 ということで。

 ミセス・フィストは。

 デッドロック。

 乗り上げたと。

 いうわけだった。

 さて、このように状況を確認してみると、一つだけ奇妙なことがあるということに気が付くだろう。「一つだけ奇妙なことがある」パターン何度目だよって感じだが、これからも何度も何度も出てくることになるのはほぼ確実なので、寛大な気持ちで見守っていてください。とにもかくにも、今回のおかしなこととは……そう、その通り。デニーは、なぜ、ミセス・フィストを破壊しないのかということだ。

 簡単なことである。引き金を引くだけでいいのだから。ミセス・フィストは拘束されていて、その拘束を解こうとすればどうしても時間が掛かる。それは恐らくほんの一瞬であるが、この銃口からあの身体までの距離を弾丸が移動するには、一瞬でも十分な時間だ。となれば、現在の状況では、デニーの勝利はほとんど完全に決定したようなものであって……それなのに、デニーは、その勝利の条件であるところの、引き金を引くという行為を行おうとする気配さえなかった。

 一体。

 何が。

 どうしたと。

 いうのだろうか。

 ティンガー・ルームでは。

 軋むような緊張感の中に。

 るるーい、るるーい、という。

 アラームの音だけが。

 鳴り響いていて。

「とりあえずさーあ。」

 ミセス・フィストに。

 デニーが口を開いた。

「このアラーム、止めて欲しいな。」

 しかし、開かれた口から発せられた言葉は、このタイミングでそれ言うの?みたいな、割とどうでもいいことだった。いや、確かにさっきからずっとうるさかったのは事実だし、アラームが止まるに越したことはないのであるが。それにしたって今はそんなことよりも遥かに重要なことがあるだろ……と、まあ、真昼がそんな風に考えてしまっても無理のないことなのであって。

 だから、デニーのリクエストに応えて、ずっと続いていたアラームの音がストップして(ちなみにミセス・フィストは「かしこまりました、アラームを停止します」と答えただけであり、何かをした気配は全くなかったのだが、それでもミセス・フィストが停止させたということは間違いないだろう)。デニーが「ふーっ! これでやっとふつーにお話しできるねっ!」と言った時に。真昼は思わず大声をあげてしまう。

「デナム・フーツ!」

「ほえ? なーに、真昼ちゃん?」

 そう言いながら、デニーは真昼の方を振り返る。もちろん銃口はミセス・フィストに向けたままであって、デニーちゃんはさぴえんすなんかと違ってとってもすっごーい感覚機能ととってもすっごーいマルチタスキング能力を有しているため、ちょっとくらい視覚を別の方に向けたところで、隙などというものが発生するはずがないのだ。

 振り返られた方の真昼は、デニーとミセス・フィストがいる場所のすぐ近く。とはいえ、自分がデニーのようにミルクの上に立てるのかが微妙なところだったので、相変わらず地上よりも少し上のところに浮かんでいたのだし。それに、あまり近づいてしまって何か下手なことをして、ミセス・フィストを逃がしてしまっては大変なので、それほど近くにいたわけではないのだが。デニーの左斜め後ろのところ、直線距離にして十ダブルキュビト程度のところから、デニーに向かってこんな風に怒鳴る。

「「なーに、真昼ちゃん?」じゃないだろ! お話しするってなんだよ、なんで撃たないんだよ!」

「なんでって、見てのとーりだよ。」

 物凄い剣幕の真昼。

 その権幕を。

 受け流すかのように。

 デニーは肩を竦めて。

「これじゃー撃てないでしょー?」

「撃てないわけないだろ! そいつはあんたの目の前にいて、あんたは銃を突き付けてて、あとは引き金を引くだけじゃないか! なんで撃てないの! 早く終わらせないと、また何が起こるかわからないだろ! それとも、あんた、もしかして、ミセス・フィストと、なんか企んでんのかよ!」

 機能性神経症状に苦しむ患者の人かよ……と思ってしまいそうなくらいエキサイティングに喚き散らした真昼であったが。真昼がこんな風に感情的になってしまうのも、分からないことではなかった。真昼が、それにパンダーラが、色々なものを犠牲にしてようやく辿り着いたこの状況。それさえも、いつひっくり返されるか分からないのであって。それにも拘わらず、デニーがさっさと勝利を確定させないというのは、耐え難いほど苛立たしいことであるに違いない。

 それに、それだけではなく――真昼のセリフの最後の部分にあったように――デニーは、全く信用できない生き物なのであって。その上、真昼などよりも遥かに頭が切れるため、真昼などが想像できないような理由によって、簡単に裏切ってしまいかねないのだ。どう考えても裏切るはずがない、最後の最後のこの段階になって、もしもデニーが裏切ったらと考えると……真昼がこのように感情的になるのは、そのことに対する恐怖の裏返しでもあるということである。

 とはいえ。

 真昼には、安心して欲しいのだが。

 現時点で、デニーが。

 真昼を裏切ることは。

 絶対に、有り得ない。

「あー、そっかあ。」

 この状況には明らかに不似合いであるほど気の抜けた感じで、デニーはそう呟いた。くっと首を傾げながら、これも独り言みたいな言い方で「真昼ちゃん、見えないのかあ」と続けて。それから、ミセス・フィストに顔を向ける。

「ねーえ?」

「はい、なんでしょうか。」

「真昼ちゃんにも、見せてあげて。」

「かしこまりました。」

 真昼としては「これ以上まだ何かあんのかよ……今日はもう疲れたよ……早く終わりにしてくれよ……」みたいなテンションであったのだが。あとちょっとだよ、頑張れ真昼ちゃん! はてさて及びそんなこんな、なんだか意味ありげな感じで一度言葉を切ったミセス・フィストは、次のように言葉を続ける。

「ストゥーパを展開します。」

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