第一部インフェルノ #32

 デニーにそう言われて、真昼ははっとしてしまう。さすがに真昼とてミセス・フィストのことを忘れていたわけではないのだが……自分が少しばかり浮かれ過ぎてしまっていたことに気が付いたのだ。確かに五人の娘については、なんとか対処することができたのだが。まだ何も終わっていない。デニーの言う通りだ、五人の娘なんてミセス・フィストに比べれば前菜に過ぎない。いや、それどころか、食前酒でさえないかもしれないのだ。そして、そのミセス・フィストは、未だ、傷一つない、完全な状態で、保たれているのであって。

 真昼は、さっと振り返った。デニーがいる方向から振り返ったということは、リングがある方からカーマデーヌを閉じ込めてある透明なドームの方へと顔を向けたということであって。いうまでもなく、そちらにいるミセス・フィストを見ることが目的であった。そして、その目的は容易く達せられる。

 ミセス・フィストはドームの頂点、三重になった傘の上に立っていた(この傘はチャトラと呼ばれている物でそろそろ重要になってくるアイテムなので名前だけは覚えておいて下さい)。ほとんど片足を置けるかどうかといったところに、バランスを崩す気配さえなく、その姿は血と肉と骨とで形作られた一つの塑像だとでもいうようにして。そして、あの顔のままで……感情というものが、生命というものが、完全に欠如した無表情のままで、こちらを見下ろしていた。

「真昼。」

 声を掛けられて、はっと気が付く。

 すぐ横、パンダーラが立っていた。

 体の右半分はほとんど虚ろな影になってしまっていた。真昼がふっと吹いただけで、ぱっと飛んでいってしまいそうだ。そんな影のそこら中に、アストラから生えている赤い金属が突き刺さっていて。更に、悪性の腫瘍のごとく、あちらからこちらから緑の宝石が発芽していた。体の左半分は燃え盛る炎に包まれていた。炎に包まれていない部分、例えば、顔の、右目の周りなどは、惨たらしく焼け爛れてしまっていて。明らかに人間の火傷とは違っているのだが、ダイモニカスに特有の観念火傷とでもいうべき状態になっていた。全体的に見ると、これがあのパンダーラであるとは、ほとんど見分けがつかないような状態になってしまっていた。

 真昼は、そんなパンダーラのことを改めて見て、なんと言っていいのか分からず、ただただ(仮面の裏で)ぽかんと口を開けて、立ち竦んでいることしか出来なかったのだけれど。幸いなことにパンダーラが代わりに口を開いてくれた。

「一度、退くぞ。」

「あ……はい。」

 そう答えてから、真昼は……やっとのことで気が付いた。本来であれば、方相氏となったとはいえ、真昼には飛行能力は備わっていないのであって。無重力空間としての「隷属の展開」が消え去ってしまえばそのまま落下していくはずだったのだ。それでも、相も変わらずここに立っていられるのは、パンダーラが、真昼の足元に、魔力のディスクを作ってくれていたからだった。今、真昼は、そのディスクの上に立っているのだ。

「あっ、すみません!」

「何がだ。」

「この、えーと……円盤……」

 どうすればそんなことができるのかは真昼にはさっぱり分からなかったが、その上を歩くべき何物もないまま、空中を一歩一歩歩いてリングに向かっていくパンダーラ。それについていくように、ディスクもやはりリングの方へと向かっていた。

「構わない。」

「あたし、ほっとして、油断しちゃってて……」

 まあ、そんなことを言っている今も十分に油断しているというか。ミセス・フィストがなんの行動も起こさず、ただただじっとこちらを見下ろしているだけだからいいようなものの、こんな暢気な会話をしていて問題ないのだろうかと思わないわけでもないのだが。ただ、パンダーラはそういうことを特に気にしていないらしく、真昼の言葉に淡々と答えてくれる。

「お前は、良くやった。」

「え?」

「素晴らしい戦いだった。」

「そんな……」

「お前がいなければ、私は死んでいただろう。」

「あの……ありがとうございます。」

「事実を言ったまでだ。」

 それから。

 真昼が。

 仮面の裏で、顔を真っ赤にして。

 何も、答えられないで、いると。

 パンダーラは。

 ちらと振り返って。

 こう、続けて言う。

「次が、最後の戦いになる。」

「はい。」

「頼りにしている。」

「……分かりました。」

 そんな会話をしているうちに。無事に、何事もなく、パンダーラと真昼とはリングの縁まで辿り着いていた。全く何もない空間から、まるでそこに道が続いているかのように、自然にリングの上に降り立ったパンダーラに続いて。真昼は、ディスクの上から、柵を超えて、とんっと飛び降りる。

「ふふふー、パンダーラちゃん、真昼ちゃん、お帰りっ!」

 未だに拳銃を持っている方の手は、トリガーガードに中指を掛けたままで。それでもその拳銃を手のひらの底のところに乗せるみたいにして、ひらひらと二人に向かって振りながら。デニーは、天使なんかよりももっともっと可愛らしい笑顔で二人のことを迎えた。そんなデニーに対して、真昼は、あからさまに嫌そうな顔をして、少しばかり体を避けてみせさえしたのだったが(よくもまあこいつ……人の一番思い出したくない心的外傷を掘り起こしておいて……いくら必要だったとはいえ少しは悪びれたりして見せろよ……ってな感じだ)。一方で、パンダーラは、何を嫌がることもなく、何を躊躇うこともなく、むしろ自分から進んで、そんなデニーの方へと向かっていく。

 そのまま従順な飼い犬のような無抵抗さでデニーのもとに辿り着くと……とても自然なやり方で、その足元に跪いた。そんなパンダーラの行動を、デニーもごくごく当たり前のものとして受け取っているらしく。なんら特別な感情を示すこともなく、ほんの少しだけ屈んで(パンダーラの方が背が高いのでそれほど深く屈む必要はなかった)、パンダーラの顔を覗き込んだ。

 その右側は燃え盛り、その左側は薄れている、パンダーラの顔。デニーは、まるで、そんな炎を感じることがないように、そんな虚ろを気にすることがないように。その頬を、自分の両方の手のひらで、というか両方の手のひらに持っている拳銃の側面で、そっと挟むと……んあー、という感じで大きく開いた、可愛らしい口を、パンダーラの頭部へと近付け始めた。

 真昼はそれを見て「なっ……!」と声をあげてしまう。目の前の二人がしていることは、当然のように、未だに真昼の脳裏に焼き付いているあの光景を、デニーがパロットシングのことを惨たらしく噛み殺した光景を、真昼に思い出させたのであって。フラッシュバックしたその光景が目の前の光景と重なり合ったからだ。真昼は、デニーが、パンダーラに、パロットシングと同じように噛みかかろうとしているのだと思ったのであり……しかし、それは、ある意味では間違いであった。

 「ある意味では」というのは、真昼の思ったことの一部、具体的にはデニーがパンダーラの肉体を噛もうとしているということは事実であったのだが。別に、その目的は、パンダーラのことをいたぶり殺すということではなかったということだ。

 デニーの口が、デニーの歯が、パンダーラの右の顔に触れる。血走って罅割れて、それに乾ききっている眼球と。セミフォルテアの炎に焼き尽くされて、ほとんど灰のようになってしまっている下瞼に触れる。パンダーラの炎はデニーを傷つける様子はなかった。それどころか、その炎に顎を包まれたデニーの顔は、光によって愛撫されているように輝いて美しかった。そして、デニーは、パンダーラに触れた口に、ほんの少しだけ力を入れて……優しく、優しく、尖った犬歯を、パンダーラの肉の下に埋める。

 パンダーラが、抗いがたい快感に悲鳴を上げるようにして「くっ……!」という恍惚の声を上げた。為す術もなく肩の力は抜けて、上の歯と下の歯とは、喘ぎ声を耐えているかのように嚙み締められたままで。

 それから。

 そんなパンダーラの顔は。

 驚くべきことに。

 デニーが歯を立てたところから。

 見る見るうちに治癒していった。

 例えるならば、透明な純水でできたゼリーに、肉と血とを注射しているかのように。パンダーラの顔、灰になりかけていた顔は、すうっと肉体であることを取り戻していく。まあ相も変わらず炎に包まれているので、元通りとはいわないまでも……それでも、見違えるように治っていく。

 一体これはどういうことだろうか。恐らくは、デニーが言うところの「治癒学の理程式の応用」なのだろう。セミフォルテアの炎のせいでほとんど見えないのだが、よくよく目を凝らして見てみれば、パンダーラの顔を噛んだデニーの四本の犬歯からは、あの、曲線と直線と、円と角度と、つまりは魔学式が発生していたからだ。デニーは、犬歯を通じて、パンダーラの顔の上に魔学式を刻むことによって、パンダーラを治癒していたということなのだ。

 真昼にとって。

 それは、禍々しくも。

 強く、強く、淫らな。

 そんなsceneであって。

 何か……とても、いけないものを見ているような気がした。見てはいけないもの、それでも、どうしても惹きつけられてしまうもの。実際のところは、デニーはパンダーラの治療をしているだけであり、パンダーラはデニーの治療を受けているだけなので、何もいけないことはないのだが。それでも、真昼は、なんとなく目を逸らしてしまう。

 ただ、真昼が目を逸らしたところで、デニーとパンダーラとにはなんの関係もないことであって。その治療は淡々と続けられていく。右の顔、上部分を治療し終えたデニーは、己の歯を、その部分から、静かに離して。それから、今度は右の頬に突き立てる。そこが肉と血とに満たされれば、今度は、滴るみたいな態度によって、右の首筋に。右の肩に、右の腕に、右の肘に、右の手首に、右の手のひらに、右の指先に。親指、人差し指、中指、薬指、小指。胸、脇腹、上腹部、中腹部、下腹部、腰、太腿、膝、足首、くるぶし、足の裏、爪先。それから、右半身が終われば、今度は左半身に。まあ、左半身は、全体に這い回っている赤イヴェール合金のせいで、少しばかりやりにくそうであったのだが……それでも、淡く、淡く、キャンディでも噛んでいるみたいにして。デニーは、パンダーラの全身に歯を立てていって。

 そして、暫くして。

 その治療の過程は。

 全て。

 終了する。

「はい、おしまい!」

 柔らかく愛撫でもするみたいに歯を立てていた、左足から口を離すと。デニーは元気よくそう言った。今まで行われていたことの、ある種の淫靡な感覚とは、かなりかけ離れている口調だ。言われたパンダーラの方は、暫くの間、あまりにも大き過ぎる悦楽に切羽詰まっているかのようにして、荒い息をついていたのだが。やがて、落ち着いてきたらしく、はーっと一つ大きく息を吐きだすと、ゆっくりとその場に立ち上がった。

 真昼は、その時点で。

 やっと視線を戻した。

 完璧ではなかったが、それでも先ほどまでの状態と比べれば随分とまともなコンディションになっていた。右半身はちょっと火傷しているかな?くらいになっていたし、左半身はだいぶんと実在性を取り戻していたし。そのせいで、緑の宝石が、皮膚を突き破って直接生えている感じになってしまい、若干グロテスクな見た目であるといえなくもなかったが……まあまあそれはご愛敬だろう。

「手間を取らせた。」

「んーん、ぜーんぜん。パンダーラちゃんのためだもん!」

「少しはましになったな。」

「そーだね、いけそう?」

「ああ、大丈夫だ。」

「じゃあ、そろそろ……」

 と、そこまで話した時に。デニーは、ようやく真昼のことを思い出したらしい。はわっ!みたいな顔をして、ちょっと離れたところに立っている真昼に、こう声を掛ける。

「あ、そうそう、真昼ちゃん!」

「……何?」

「真昼ちゃんは大丈夫? いけそう?」

「いけそうって、何が?」

「ばーさす、ミセス・フィスト!」

 真昼とて白痴ではないので、別に問い返さずともデニーの「いけそう?」が言わんとしていることくらいは理解できていた。とはいえ……それが、本当に、それなのか。これから、本当に、ミセス・フィストと闘わなければいけないのか。念のために確かめておきたかったのだ。

 真昼はちらりと背後に視線を向ける。今までの、真昼には隙だらけであるように見えた「治療行為」の最中に、なぜ襲い掛かってこなかったのかということは全くの謎であったが、とにもかくにもミセス・フィストは、チャトラの上、微動だにせずに立っていた。あたかも、その身体が、本質的に動くものではないのだとでもいわんばかりの態度によって。

 既に五人の娘はこちら側に取り込んでいるというのに、真昼の、ミセス・フィストに対する、絶望にも似た恐怖感は収まる気配がない。それどころか、より一層強まっていくばかりだった。今までは、五人の娘がいたから、ミセス・フィスト本人と闘わなくてもよかった。だが、今は、もう……あの女と真昼との間には、なんの緩衝物も存在しない。檻を開いて、猛獣の巣の中に入っていかなくてはいけない時間なのだ。

 だから。

 真昼は。

「私は。」

 デニー、に。

 こう答える。

「いつでも大丈夫。」

「はいはーい! じゃ、始めよっか。」


 もちろん真昼の「いつでも大丈夫」という言葉は「いつでも大丈夫ではない」という真実の裏返しであったのだが、そんな真昼の悲痛など知ったことではないし、知ったところで考慮にも値しないとでもいうように。デニーは、非常に、軽く流して……ミセス・フィストがいる方のリングの縁へと向かって歩き始めた。それから、そこに辿り着くと、ぴょんっと柵の上に飛び乗って、きゅんっと可愛らしいポーズ。両手の指先を背の後ろの腰の辺りで噛み合わせて、ぐっと前に乗り出すみたいにして。ほんのちょっとだけ、フードを揺らすみたいに、首を傾げて。

 ミセス・フィストに向かって。

 甘えるみたいに、話しかける。

「それでーえ。」

「はい、ミスター・フーツ。なんでしょうか?」

 ひどく遠いところから。

 それでも、よく通る声。

 非常にニュートラルな口調で。

 ミセス・フィストが、答える。

「ASKの考えは、変わったかな?」

 前のめりになっていた体を戻して。

 背に回していた手のひら。

 つっと、人差し指を、立てて。

 上の方、指差すみたいにして。

 顔の横で、ふりふりと揺らしながら。

「daughtersは、デニーちゃん達の、お友達になっちゃいました! ということは、さっきまでとは、ほんのちょーっとだけ状況が変わったっていうことだよね。どーお? 前向きな、お答えを、出せそうな感じは、なーい?」

「いいえ、ミスター・フーツ。」

 まるで、完全に凍り付いた物体。

 完全に結合した充実体のように。

 ミセス・フィストは、言葉する。

「私の答えは変わりません。なぜなら、先ほどと比べて状況は全く変わっていないからです。現時点で、あらゆる物事が、完全に私の予想通りに進んでいます。」

「えー、ほんとーお?」

「はい、本当です。あなたも理解している通り、私が言ったことは全て本当です。それに、これもやはりあなたが理解していることだと思いますが、現時点でのあなたの状態では私を破壊することは不可能です。私を破壊するためには最低でも「王」レベルの力が必要ですが、現時点でのあなたの状態は「公」レベルにも達していません。ということは、あなたは私を破壊できないが私はあなたを破壊できるということになります。また、先ほどまでは真昼ちゃんの荒霊が不確定要素でしたが、それも現在では確定要素に変更されました。どうやら真昼ちゃんは、まだ全ての力を出し切れているわけではないようですね。もしも全ての力を出し切れるのならば、あなたの補助は必要ないはずですから。となれば、真昼ちゃんも私を破壊することはできません。

「以上二つの事実から、必然的に私の勝利とあなたの敗北とはほぼ決定した事実であるという結論が導き出されます。さて、それならば、考えを変える可能性があるのはむしろあなたの方であるということになりますね、ミスター・フーツ? あなたの敗北が決定している以上、あなたがこれから戦うのは完全に無意味です。ということで、今度は私があなたに質問する番です。ミスター・フーツ、あなたは考えを変えましたか?」

 どうやらミセス・フィストが襲い掛かってこなかったのは……そういうことらしい。ミセス・フィストとて、いや、ミセス・フィストだからこそ、無意味な戦いは避けたいということだ。ミセス・フィストは極めて合理的なので、人間のように感情に任せて行動するということがない。冷酷といっていいほど冷静に損益計算を行うことができるのであって。無意味な戦いが無意味な損失を発生させるということを百パーセント理解しているのだ。

 一方で、現在の戦況を鑑みるに。ミセス・フィストの勝利はほとんど決まったようなものだ。ミセス・フィストの能力は限定されているとはいえ、それは能動的に行われる攻撃に限られている。受動的な防御機能は、その機能によって世界を破壊してしまうことがない以上、限定する意味がないからだ。ということは、その防御機能は盤古級を保っているのであって……そして、デニーの側には、盤古級を破壊できるほどの力の持ち主はいない。奇瑞の持ち主であれば、その力を極限まで高めた者ならば、あるいは破壊することも可能かもしれなかったが。先ほど、五人の娘を噛ませてみた結果として、それもあり得ないことが判明した(五人の娘は真昼に対する噛ませ犬として機能していたのだ)。

 それならば、これ以上、戦いを続ける意味はない。

 デニーが勝つことは、絶対に有り得ないのであって。

 デニーは、有り得ないことをするはずないのだから。

 ただ、もしも、デニーに。

 何か切り札があるのなら。

 話は別であるが。

「んんー、どーしよっかなー。」

 デニーは。

 右手の拳銃、銃口を。

 ちゅっと唇に当てて。

 いかにもわざとらしげな、やり方で。

 考えるような素振りをして見せたが。

 やがて。

 にっと笑って。

 こう、答える。

「なーんてねっ!」

 うわー、デニーちゃん可愛い! そんな可愛いデニーちゃんであるが、そう答えるとともに、左の手の拳銃を、トリガーガードに突っ込んだ人差し指を中心にしてくるんと回転させた。と、拳銃がいつの間にか消えていて……その代わりに、人差し指と親指と、二つの指先が何かを摘まんでいた。

「これ、なーんだ?」

 とても無邪気な言い方で。

 デニーはそう問いかける。

 とても小さなもので、大きさとしては銃弾くらい……いや、それは間違いなく銃弾であった。ただし、ただの銃弾というわけではない。それは、なんとなく、どことなく、視覚的な物質ではないのだ。その銃弾のことを、真昼の脳は、目から入ってくる情報として処理していない。むしろそれは聴覚によって捉えられるべき物質であった。

 空間を、時間を、それよりももっと根源的なものを震わせている振動。といっても、それはセミフォルテアやオルフォルテアやの振動というわけでもない。そういったものよりも、もう少しだけ……たちが悪いもの。というか、外在的なもの。セミフォルテアやオルフィルテアやといった周波数は、内側から世界を揺さぶるものであるが。この銃弾は、この世界とは全く別のもの、何か……異なった、異界の振動だった。

 端的にいえば、それは歌だった。この世界とは別の世界の歌。けれども、その歌は真昼には聞こえなかった。その聞こえないということは……真昼にとっては、はなはだ幸いなことであったが。もしも聞こえていたのならば、真昼は、その根源から破壊されていただろうから。それは囁き声であった。とはいえ、囁き声が力を持たないということはないのだ。

「それは。」

 その歌を。

 歌う者が。

 言霊使いなら。

 特に。

「スペル・バレットですね。」

「せいかーい!」

 言霊使い……#20で名称だけは一度出てきていたのだが、読者の皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。あの時は説明パートが長くなってしまうということで全然触れずに済ませたのだが、ただ、今となっては、この種族が物語の本筋に絡んできてしまったのであって、残念ながらなんらかの説明を加えないわけにはいかないだろう。でもそこまで深く関わってくるわけではないので必要なことだけをぱぱーっと済ませちゃいますね。

 さて。

 どこから。

 話そうか。

 この世界には「神殺し」と呼ばれる一群の人間達がいる。歴史上最も有名な「神を殺した人間」は奇跡者ダニエルであるが、これは「神殺し」には当たらない。「神殺し」とは、人間でありながら神を殺すことができるほどの力を代々受け継ぐ「一族」を指す名称であるからだ。代表的な「神殺し」といえばグーダガルドのマルクス家であるが、月光国でもそういう「神殺し」が飼われている。それが、言霊使いと呼ばれる一族である。

 彼ら/彼女らの力が一体どういうものなのかははっきりと分かっていない。どうやら魔学的な力でも科学的な力でも、それどころか神学的・巫学的な力でさえないらしい。非常に特殊な力であるが、とにかくはっきりといえることは、その口から発される音声記号になんらかの力が宿っているらしいということだ。彼ら/彼女らが声によって歌う言葉は、その全てが現実を変えてしまう力を持っているのだ。その力は神さえも逃れることができない力であって、それゆえに彼ら/彼女らは神殺しと呼ばれる。

 ただし……第二次神人間大戦以前、大抵の「神殺し」は、その「神殺し」が属する神国の神々によって、敵対する神国の神々を殺害するための暗殺者として飼われていたのだが。その「神々に支配されている力ある人間」という立場が災いして、神々の陣営からも人間の陣営からも非常に扱いにくい存在となってしまったのであって。そのため、ほとんどの「神殺し」の一族は、戦況に悪影響を与えないようにということで、ある一族は神々によって、ある一族は人間によって、皆殺しにされてしまったのだ(マルクス家はその殺戮の数少ない生き残りである)。

 当然のように、言霊使いもほとんどが殺されてしまったのであって。けれども、幸運なことに、あるいは不幸なことに、たった二人だけは生き残ることができた。これは例によって例のごとく、何もかもがその神のせいにされることで有名な「必然の神」であるカヅラギノヒトコトヌシのはかりごととされているが、それが本当なのかどうかは誰にも分からない。とにかく、たった二人残された言霊使いの姉妹は、なぜ生き残されたかというと、スペル・バレットという兵器を作り出すためである。

 スペル・バレット。伝説によれば、あの猿神を殺すためにアンジェリカ・ベインが放ったとされる弾丸、第二次神人間大戦を終わらせた弾丸。それは、言霊使いの歌を閉じ込めた弾丸だ。それほどの力を弾丸という閉鎖空間に閉じ込めるのはかなり高度な技術であり、どのようにしてそんなことを可能にしたのかということは全く不明であるが、一説によれば、言霊使いの姉妹のうちのどちらかが言霊使いである上に魔法少女でもあり(そんなことが有り得るのだろうか?)、その魔法少女の力を利用して作り出したものなのだそうだ。その噂の真偽はともかくとして、スペル・バレットは言霊の力、神をも殺す力を秘めた弾丸であって。

 つまり、端的にいえば。

 これは対神兵器である。

「ねーえ、ミセス・フィスト。」

「はい、ミスター・フーツ。」

「一つ質問があるんだけどお。」

「なんでも質問して下さい。ASKに質問することは、答えを知るための最高の方法です。」

「この弾丸を使えば、デニーちゃんは、ミセス・フィストのことを、壊せるかな?」

 ミセス・フィストは。

 躊躇うこともなく。

 戸惑うこともなく。

「そうですね、もちろんです。」

 ただ。

 正しい答えだけを。

 淡々と、提示する。

「その弾丸を使えば、あなたは私を壊すことが出来ます。」

 そう、それが正しい答えだ。いかに盤古級対神兵器といえども、スペル・バレットの力を逃れることはできない。この弾丸は、魔法少女だの謎野研究所だの神祇官だの月光国正教会だのといった様々な物騒なものが集まっている月光国の中でも、特に危険なアーティファクトなのであって。本来であれば月光国政府によって厳重に管理されているはずの大量破壊兵器なのである。そんな物を一体どうやってデニーが手に入れたのか不思議に思われる方もいらっしゃるだろうが、読者の皆さんだけに特別に教えてあげましょう。デニーは言霊使いの一人(妹の方)と個人的な友達なので、こっそりと一つだけ分けてもらったのです。どこが厳重な管理だよ……笊過ぎるにもほどがある……!

 とにもかくにも。

 重要な、ことは。

「ふふふっ! だよねっ!」

 デニーがミセス・フィストを。

 破壊できる、と、いうことだ。

「と、いうことで! デニーちゃんの答えも変わりません!」

「なるほど、分かりました。」

「それでは。」

「それでは。」

「後半戦。」

「開始しましょう。」


 今度は。

 真昼が。

 一番、早かった。

 下半身からだらだらと滴っている、大量の赤い触手のうちの一本を。なめらかな指先の愛撫のようにして、それでいて人間には認識不可能なほどの素早さによって、ぐるりとデニーに巻き付けた。別に絞め殺そうとしているわけではなく、まあ絞め殺したいか絞め殺したくないかでいえばもちろん絞め殺したいのであり、TPOが許せばそうしていたのは確かであるが、残念ながら今はそのtimeでもplaceでもoccationでもないのだ。そんなわけで、真昼は出来る限り優しく……デニーの体を、自分の体のすぐ近くにまで引き寄せた。

 その姿を確認してから、今度はパンダーラが動いた。具体的には、リングからミセス・フィストがいる方向へと、一直線に跳んで行ったということだ。これはいわゆる露払いのような役割を果たすためだ、今、一番重要な、真昼とデニーとを、無事に目的の場所へと連れていくための役割。先陣を切って、あらゆる危険を一手に受けるための行動ということ。そして、その後ろに続くようにして真昼が跳んだ。触手で絡めとったデニーのことを、そのまま、自分の傍らにぶら下げたままで。

 さて、ところで……重要なことを忘れていないだろうか? 真昼は、飛べないのだ。真昼に与えられた能力は侲子術に必要な能力だけに限定されていて、飛行能力も浮遊能力も備わっていない。それなのに、どうやってミセス・フィストのところまで到達するつもりか? いくらジャンプ力が凄かろうと、途中で攻撃を受けたらどうするつもりなのだろうか?

 簡単なことだ、真昼が飛べないのならば、飛べるものに任せればいいということ。真昼は、強く、強く、祈りのごとき強さによって、己の精神の中にある一つの命令を観想して。その観想された一個の命令を、宣命を通じて、娘のうちの二人の「受信装置」に向かって送信する。そして、その命令を受け取った二人の娘は、いかにも機械の従順さによって行動を開始する。

 そう。

 いうまでもなく。

 娘は飛べるのだ。

 少女としての形状であった娘と娘との姿が、再びキューブの大群へと溶解し、それが更に一つの波濤へと融合する。その波は海に撓む波ではなく空を泳ぐ波だ。ぐるぐると混然自在に渦巻きながら、やがてその波濤は一つの道筋して表れて……そして、真昼の右足は、その上に着地する。右足の次は左足、左足の次はまた右足。慣性の勢いそのままに、それを何度も何度も繰り返して、要するに真昼は波の上を走っているということだ。ふわん、ふわん、とまるで雲の上を歩いているような感じ。雲の上を歩いたことなどないし、実際に雲の上を歩こうとしたら地上に落下して無残な死を遂げることは真昼も知っているが、イメージの上ではそんな感じだということだ。

 ところで。

 くるくると、何か落ちてくるものがある。

 一つ。

 二つ。

 二人の娘が持っていた。

 二本の月光刀だ。

 それは、やがて、真昼の鼻先まで落ちてきて。

 真昼は、躊躇うこともなく、両手で受け取る。

 もちろん真昼には重藤の弓があるのだが、相手がミセス・フィストとなると、パンダーラの強化があったとしても、ほんの少しばかり相手にとって過分ありといえなくもないのであって。ASKの技術の粋を集めたであろうこちらの月光刀を使う方が、まあまあ賢いやり方であろうと思われたからだ。ただし、とはいえ、月光刀というものはいうまでもなく近接武器なのであり、対遠隔の攻撃はどうするのかと思われる方もいらっしゃるだろう。いやいや、大丈夫、そんな心配をする必要はないのだ。なぜなら、今、真昼の横にはデニーがいるのだから。

 今、そのデニーが何をしているのかというと……拳銃に弾を込めていた。デニーちゃんさーあ、なんかいつも拳銃に弾を込めてるよねー、と思わなくもないのだが、弾を込めなければ拳銃は使えないのだから仕方がない。しかも今回込めている弾は、先ほどのミセス・フィストとの話に出てきたあのスペル・バレットであった。おのおのしき幽世の歌を歌うその弾丸を、右手に持っていたHOL-100LDF、シリンダーに装填して。それから、そのシリンダーを、指先で弾くようにして回転させた。しゃらららら、という音をさせながら勢いよくロールしたせいで、最終的には、スペル・バレットが何発目に発射されるのか、さっぱり分からなくなってしまって……そして、そのタイミングで、かしゃんと音を鳴らすことによって、デニーはシリンダーをケースに収めた。

 装填を終えた左手には。

 いつの間にか、二挺目の拳銃が戻っていて。

 これでデニーの準備も完了したということ。

「それで!」

 全てが整ったそのタイミングで。

 真昼は、デニーに、声を掛けた。

「これからどうすればいいの!」

「とにかくミセス・フィストの方に向かって! 後半戦の目的はデニーちゃんがミセス・フィストにスペル・バレットを撃ち込むこと! 真昼ちゃんがミセス・フィストにいい感じに近づいてくれれば、デニーちゃんがばきゅーんってしちゃうから!」

「了解!」

 ここで「分かった」ではなく「了解」を使う辺りに、デニーに対する真昼の拒否感がまたもや薄れてきて、ちょっとばかし親密な関係性になってきていることが理解できるのだが。まあ、真昼本人はそんなことを認めやしないだろう。とにもかくにも、やるべきことは至極単純だ、これ以上ないくらい分かりやすい。それが……容易にできることかどうかは別として。

 無論。

 容易に。

 できる。

 わけがない。

 恐らくは、デニー達が準備を終えるのを待っていたのだろう。そう考えなければ、ミセス・フィストが行動を起こすこと、これほど遅くなった理由が思い付かないから。ミセス・フィストは、すっと右手を差し上げて。自分の顔の横の辺り、完全に精密な態度、完全に精巧な行為、完全に正確な措定によって……ぱちんと、一度、指を鳴らした。

 些細な音のはずだった。それでも、その音は、まるで、真昼の全ての細胞の、その不定子の一つ一つさえも揺らがせるみたいで。そして、そのぱちんが揺るがせたのは、真昼を構成している不定子だけではなかったようだ。この時空間に存在しているすべての充実体、いや、それどころか空虚体までもが、その振動に共振して……震え、震え、震え……やがて、その震えによって、時空間のあちらこちらに食い違いが生じ始める。

 ある種のずれだ、強力な力を加えられた物体の、そこかしこに罅が入るみたいに。この白い宇宙の、この白い時空間の、この白いポケット・バースの、特にミセス・フィストに近い場所に。要するに、デニー達がミセス・フィストへと向かうその道筋に……ずるり、と音を立てるみたいにして、空虚体と空虚体に亀裂が生じ、「穴」が開き始めたということだ。

「わっ!」

 真昼は慌てて。

 進路を変える。

 危なく、その「穴」の一つに突っ込んでしまうところだったからだ。かなり大きな「穴」で、一つ一つの直径が十ダブルキュビト近くある。傷一つない璧のような真円形をしていて、しかも、それは、真昼が普通に穴と聞いて思い浮かべるようなものではなかった。なんとなく薄っぺらい、青い色をした、ノイズのような……要するに、それは、ミセス・フィストと五人の娘がテレポートを行うためのポータルだったのだ。

 真昼は考える。

 これは、一体、なんなんだろう。

 落とし穴みたいなものだろうか。

 あまりに数が多いので、一瞬でぱっと数えることは出来ないのだが、恐らく数十個はあるだろう。ミセス・フィストの周囲に近づくにつれてその数は多くなり、とはいえ隙間がないというほどではない。十数ダブルキュビトに一つといった距離感であるため、真昼が突っ切るだけの余裕は十分にある。

 結論として。

 こんなものは。

 全然怖くない。

 ということ。

 これが現れた瞬間こそ落っこちてしまいそうになったが。それは突然現れたからであって、もしも既にそこにあるのならば、さすがの真昼でもこんな「穴」に落ちてしまうわけがない。これが動き出したりすれば話は別であるが、そんな気配もないのだ。脅威ではない、全く、恐れる、必要は、ない。確かに、これがどこに繋がっているのか、もし落ちてしまったらどこに行ってしまうのか、少し不安感を呼び覚ましたりはしなくもないが……それでも、落ちなければ大丈夫なのだから。

 その通り。

 落ちなければ大丈夫だ。

 もしも、この「穴」が。

 落とし穴である場合は。

 真昼が「これは怖くない」という結論を出して。こんな虚仮威しを気にしていないでできる限り早くできる限り近くミセス・フィストに向かって進撃しようという決意を新たにした、まさにその時に。真昼の耳に、何かの、音が、聞こえた。

 その音は……最初は、絹の衣を引き摺るような、長く尾を垂れ、すすり泣く、フルートのような音だった。だが、その音に、別の音が混じってくる。高く高く鳴り響く、錆付いて軋むラッパのような音。川に住む妖精の鳴き声みたいに、滑らかに腐っていく葦笛の音。そんな、様々な管楽器の音が、幾つも幾つも合奏して。ただし、それらの音は決してハーモニーを作りはしなかった。それらは、真昼の神経の一本一本を、ざりざりと引っ掻くみたいな、悍ましいほどの雑音を構成していて。しかも、その音は、どんどんと大きくなってくるのだ。

 最初は耳をくすぐる程度だったのに、耐えきれないほどに耳を刺し貫く音へと高まっていく。こんな……こんな音を、普通の楽器が出せるわけがない。一つ一つの楽器が数ダブルキュビト近くあって、それを、人間の何倍ものサイズであるところの巨人が、力いっぱい演奏しているみたいなのだ。泥酔して正気を失っている巨人、あるいは完全に常軌を逸している巨人。その音は、信じられないくらい遠くの方から、どんどんと、近付いているみたいで……そして、その音は。

 間違いなく。

 「穴」の。

 内側から。

 聞こえている。

 何かが、「穴」の中から、やって来ていた。しかも、一つの穴だけではない。この場所に開いている、全ての「穴」の中から。要するに、そういうことだった。この「穴」は落とし穴ではなく……誰かをここに入れるための穴ではなく……何者かを、どこかから、呼び出すための穴。

 真昼は思わずその場でストップしてしまう。まあ、意識して行ったものではないとしても賢明な行動だったといってもいいだろう。ここから先は「穴」がかなり密集している空域なのであって、一度突っ込んでしまったら取り返しがつなくなる可能性がある。そうなる前に、まずは、穴から何が出てくるかを確認しておくに越したことはないのだ。

 「穴」を登ってくるその音は……今となっては、何かの鳴き声であるということが明白であった。しかも、それは、植物を食べる生き物の声では有り得ない。草食動物が、これほどまでに聞く者を怯えさせる声を発することが有り得るだろうか? 獰猛で、凶暴で、相手を脅迫して竦ませることによって、その場に釘付けにし、容易に食い殺すことが出来るようにするための鳴き声。要するに、それは、肉を食う生き物の声だ。

 それにも拘わらず、その音は、その声は、しなやかな雌鹿が草原を駆けて行くほどの、信じられないくらい素早い速度によって近付いて来ていて。そして、やがて……とうとう、こちらの世界へと至る入口に、辿り着いたようだった。

 「穴」の。

 縁に。

 その生き物の。

 前脚が掛かる。

 ぎりぎりと音を立てて、その前脚に掴まれた空間自体が歪んでいるのではないかと思うほどの力だった。それは……猫科の動物の前脚によく似ていた。けれども、どう見ても違っているところもあった。例えば、一本一本の指は、人間よりは短かったものの、不気味なまでに長く、真ん中あたりに一つの関節がついている。第一関節から上の部分には肉球がついていて、夜でできた純粋な宝石のように真っ黒い色をしている。その先端からは、無慈悲な掘削機械のごとく鋭い爪が剥き出しになっていて、根元の部分は肉の色をした薄い膜で覆われていた。それから、何よりも違っている点は……その大きさだ。これほど巨大な前脚を持つ猫科の動物を、真昼は知らなかった。何しろ、その足の先だけで、真昼の全身と同じくらいの大きさがあったからだ。

 その前脚が、があっと力を入れて。それから、その生き物の、それ以外の部分が、穴の中から姿を現す。ぱちぱちと静電気のような音を立てて、青い色をしたポータルの中から、その上半身が抜け出てきたということだ。それは……断言してもいいのだが、間違いなく、モンストロルムであった。モネオ・トラム、絶望の先触れ、あるいはオーメン。破壊と、殺戮と、絶望と、不幸とをもたらす、神々にとっての生物兵器。それは、こちら側の世界の生き物ではなく……神の力によって形作られた、マホウ界の生き物であった。そうでなければ、これほど禍々しい生き物が生まれることなど有り得ようか(反語)?

 基本的にはこちらの世界でライオンと呼ばれる生き物に似た形をしていた。だが、よく見てみれば全然違う生き物だった。まずその顔であるが、ライオンよりも、鼻先が短く、額が広く、どこか邪知深さを感じさせるものだった。全体的な構成、蛇のように怜悧で猿のように狡猾な顔をしていたのだ。

 また、眼は、災害の前の静かに凪いだ青空みたいに真っ青な色をしていたのだが。黒い裂け目のようなその虹彩は比較的小さめであり、なんとはなしに、見る者に対してなんらかの感情を印象として伝えてくるものだった。もちろんその印象は、概して悪意のあるもの、害意のあるものであったのだが。

 それから、その全身が、ライオンの鬣のように長い毛によって覆われていた。ほとんどの部分が毛深く、毛に覆われていないのは顔面と足先くらいだ。その毛の色もだいぶん赤みがかっていて、易国で採掘されるという燧丹という鉱物の色によく似ていた。燧丹は血液を固めたようなきらきらとした鉱物であって、要するに、見る角度によっては全身が鈍く輝いて、燃え上がっているように見えるということだ。

 しかし、最も重要なこと、特筆すべき重要なことは、そんなことではなかった。その生き物の上半身と共に姿を現したものこそが、真昼にとって、一番、恐怖するべきものだった。

 それは、恐らくは、その生き物の、尾だった。恐らくはと書いたのは、その生き物の下半身が見えないためにはっきりしたことが言えないということと、それにその尾のようなものは、一本だけではなく、何本も、何本も、その生き物のことを囲うみたいにして現れたからだ。

 その尾は、哺乳類のものというよりも、どちらかといえば、節足動物のそれに似ていた。皮膚が硬化したものらしい固い殻に覆われていて、無数の関節でぐねぐねと分化されていたからだ。更に、その先端には、一本の、針が付いていた。巨大な針、こんなもので突き刺されたら、真昼なんて即死してしまいそうな針。くにゃっと曲がっていて、先端からは、したしたと、毒液が滴る……それは、蠍の針。

 一つの穴から、その生き物が姿を現し。

 もう一つの穴から、同じ生き物が姿を現す。

 もう一つ、もう一つ、もう一つ、もう一つ。

 遂には。

 この空間に開いた。

 何十という全ての穴から。

 その生き物が、姿を現す。

 そのうちの一匹が、ぐうっとのけぞって。真昼など二口くらいでいけちゃいそうな口を、大きく大きく開いて。あの不快な雑音、鼓膜を破ってしまいそうな、その先の頭蓋骨さえ砕いてしまいそうな凄まじいノイズによって、一声大きく吠えた。

 その口には。

 一列。

 二列。

 三列。

 全てが、犬歯のように。

 あるいは、鋸のように。

 生き物を殺すことに最適な。

 鋭い歯が、並んでいて。

「ちょっと……」

 真昼は、この生き物のことを知っていた。

 図鑑で読んで、まるで他人事のように。

 他人事の災害のように知っていたのだ。

 この生き物の、名前は。

「マンティコア……?」

「ここではマヌッシャーティって呼ばれてるけどねっ!」

 マンティコア、マヌッシャーティ、あるいはアントロポパゴン。どの呼び方が好きかといわれれば、アントロポパゴンという名前がなんとなく間が抜けていて好きなのだが、とにかくそれらの名前が意味するところは全部が同じであり、要するに「人間を食う生き物」ということだ。

 この名前が付けられたのにはもちろん理由があって、それはマンティコアが人間を食うからである。うんうん、納得の理由ですね。ただ、まあ、人間という生き物がマホウ界では比較的食い物にするのに最適な動物であって、そのため自然と食べる量が他の生き物よりも多くなっているというだけなのであり。人間だけでなく、メルフィスにダガッゼにレーグートに、それにヴェケボサンまで餌食にすることがある。

 要するに、非常に乱暴かつ狼藉であり、サークル・オブ・ライフでもかなり頂点に近い方にいる生き物だということだ。その力強さゆえに第二次神人間大戦時には神々陣営側の兵器としてグラディバーンやヒクイジシなどと共に大量に投入され、数多くの人間の生命を割合に惨たらしく奪ってきたという実績がある。ということで、兵器についてのエリート教育を受けていた真昼は、マンティコアについてよく知っていたのであり。

 ただ、とはいえ。

 目の前にいる、このマンティコアは。

 真昼の知っているそれとは。

 少しばかり、違って、いた。

「マンティコアって……こんなに大きかったの?」

 そう、あまりにも大きすぎたのだ。少なく見積もっても、その体長は十数ダブルキュビトはあるだろう。真昼が家庭教師の人に教えて貰ったマンティコアは(生物学は嫌いではなかったので授業内容も割と覚えている)、確か、大きくなっても数ダブルキュビト程度だったはずだ。

「それに、尻尾の数も……」

「うーん、ちょーっとだけASKに形相子をいじられちゃってるんだろうねー。体がおっきな方が色んな生き物を殺せるし、尻尾が多い方がたくさんの生き物を殺せるから!」

 そんな「殺せるから!」っていわれても……今までの人生で、より効率的な殺戮という観点から生物の肉体を考察したことないし……と思わなくもない真昼だったが。何はともあれ、そういうことらしかった。つまるところ、真昼の進行方向には、より強力により残酷に改造されたマンティコアが、何十匹も待ち構えているということだ。ちなみに、いわなくても分かると思うが、普通のマンティコアの尻尾の数は一本である。

 これは大変困った&困ったな状況であるが、絶望的というほどではなかった。一般的なマンティコアには、グラディバーンのような羽があるわけではなく、従って飛行能力がない。そして、ASKによる形相子組み換えを受けたマンティコアも、どうやら飛ぶことはできないようなのだ。そのため、そこここに開いたポータルから全身を出して、そこら辺を自由に飛び回るというようなことはできないのであって。真昼は、ポータルから乗り出している上半身だけと戦えばいいということだ。

 とはいえ、当のポータルはそこら中に開いているのだし。それに何より、真昼の目的地であるミセス・フィスト付近に至っては、全ての空間がマンティコアの猫パンチ(仮)圏内といっても過言ではない体たらくであった。これは当然のように計算し尽くされた配置なのであって、その隙間を縫って進んでいけるようなウィークポイントなど、ノットトゥービー・レフトオープンなのであって。真昼には、マンティコアと戦わずに済ませるという選択肢は、百パーセント存在しないのである。

「真昼!」

 しかも、その上。

 より一層。

 致命的な。

 ことがある。

「立ち止まるな!」

 パンダーラの叫び声を聞いて、真昼は、はっと我に返る。「めっちゃヤバい怪物がすげーいっぱいいる」というこの状況にすっかり飲まれてしまっていたようだ。今まで真昼が相手にしてきた脅威というものは、全て人間的な文脈の生物や兵器やであって。これほど巨大な、語の意味そのものの化け物に、取り囲まれたことなどなかったから。ほとんど本能の反応としてちょっとばかり竦んでしまっていたのだ。でも、もう大丈夫。真昼は、その恐怖の感覚から覚めたのであって……いや、大丈夫ではない。

 真昼は気が付く。

 マンティコアによる「より一層致命的な攻撃」が。

 自分の、すぐ間近に迫ってきているということを。

 言うまでもないことであるが、パンダーラの「立ち止まるな!」という警告は、その攻撃に対しての注意喚起だったのだ。そして、その攻撃とは……蠍の針だった。

 そもそも一点はっきりさせておかなければならないのだが、真昼とて完全にサテライトである(馬鹿であるさま・低能であるさま・白痴であるさまを指す形容詞)というわけではなく、真昼の立ち止まっている場所は、ミセス・フィストからはそこそこ離れた場所、それほどポータルが密集していないところであって。マンティコアの猫パンチ(仮)はおろか、しっぽアタック(仮)も届くはずがない場所であった。

 そのため、安心して恐怖に竦んでいたわけなのだが。ただし、真昼は、肝心なことを忘れてしまっていた。それは、確かに、真昼が中学生だったころ、家庭教師の人に教えて貰っていたことであったが。当時の真昼は、比較的真面目に聞いていたとはいえ、「自分には関係ないことかな」と思ってすぐに頭蓋骨の中のメモリーから消去してしまっていたのだ。まあ普通の女子中学生は、まさか運命が巡り巡って自分がマンティコアと壮絶なバトルを繰り広げる羽目になるなんて普通は考え付かないのであって。仕方のないことといえば仕方のないことなのであるが、とにかく、要するに、肝心なこととは、マンティコアが尻尾の針を吹き矢のようにして発射できるという事実だ。

 そして。

 ここにいる。

 形相子組み換えであるマンティコアも。

 不幸なことに、それは同様らしかった。

「あっ……!」

 その針が着弾する直前に、真昼はそれに気が付くことができた。直前、そう、あくまでも直前だ。真昼と針との距離は、それこそ「手を伸ばせば届きそうな」というロマンチックな表現が似合いそうな距離であって、いや、真昼と針との間にそんな切なげな関係性が存在しているというわけではなく、むしろ殺す者と殺される者という殺伐とした関係性なのだが。とにかく今の状況とラブコメディとの状況との唯一の類似点は、ドキドキするほどデンジャラスということだ。その針によってハートが撃ち抜かれてしまえば、真昼は死ぬどころか、たぶんその衝撃で粉々に吹っ飛んでしまうのであって。まさに絶体絶命のaffairということだ。

 だが。

 しかし。

 一つ。

 忘れては。

 いけない。

 こと。

 真昼には、守護悪魔が。

 ついているということ。

「真昼ちゃん、真昼ちゃん、真昼ちゃーん。」

 見る者の観念さえも吹き飛ばしてしまいそうな光。それから、すぐ耳の横で、どうっという真聖な音が響く。神の力の爆発、魔学的エネルギーの暴走。管理された破壊の力は、赤イヴェール合金で出来た銃口から、セミフォルテアの弾丸を射出させて……要するに、デニーが、セミフォルテア弾を放ったのだ。

 放ったというか放っていたというか、何はともあれ結論として、当たり前のことではあるが、その射撃は間に合った。今にも真昼に触れそうだったマンティコアの針は、あっさりと撃ち抜かれて……そして、中心で炸裂したセミフォルテアの弾丸は、完膚なきまでにその針を打ち砕いてしまったということだ。

 毒液は蒸発し。

 ぱしぱしと。

 無害な破片だけが。

 真昼の顔に当たる。

「油断大敵だぞっ!」

「……うるさい。」

 ばちこーんとウィンクをかましてきたデニーに対して、ちょっとだけ悔し気にそう言うと。真昼は再び走り出した。もちろん、前に前に向かって、ミセス・フィストに向かって。もう、真昼は、後ろに走る気はなかった。逃げる気はなかった。なぜなら、それだけの目的と、それだけの力とを手に入れたからだ。

 周りにいるマンティコア達からは、ちょっとした歓迎のスローイング・ライスのようにして数多の毒針が降り注ぐ。マンティコアの尻尾はロケット鉛筆のような仕組みになっていて、っていうか最近の子ってロケット鉛筆知ってる? 知らなかったらアフォーゴモンとかで調べてみてね。とにかくロケット鉛筆みたいに尻尾の関節の一つ一つに毒針が入っているので、何本もの毒針を連続して発射することができるのだ。大変便利!

 ただ、いくら大量の毒針を連発しようとも。既に、真昼は、我に返っているのであって。その全ての毒針について、どの方向から、どのような速度で迫ってきているのかということ、意識下の精神機構によって認識しているのだ。だからそれに対する対応策も、人間の意識が働くよりも遥かに速く理解することが出来る。

 もちろん。

 デニーの。

 援護射撃に。

 頼ることなく。

 再び、宣命を通じて。真昼は、自らの精神によって形成した一つの命令を、娘に向かって送信して。ただし今回の対象は、足元で道程となっていない、残り三人の娘の「受信装置」だ。三人の娘は、淑女の礼節によって、観想された戦略を晴れやかに拝命して……その身体を変形する。

 極小のキューブに分裂した三人の娘は、そのまま、無限に続くパズルを組み立てるみたいにして、自分と自分とのキューブを組み立てていって。それらはやがて形を成していく。とてもシンプルな形、真円であるところの、三枚の円盤。つまり、その形が意味しているのは……三枚の盾だ。

 そして。

 真昼は。

 その足を止めることさえなく。

 攻撃への、対応を、開始する。

 単純な話だ。矢を盾で防ぐということ、それだけの話。その矢は少年ほどの大きさをしていて、しかも音よりも速い速度で飛んでくる矢であったが。まあ、とはいえ、今の真昼にとってはそれは大した問題ではなかった。

 三人の娘は、自分達の身体が形成する盾の前に、あの月光刀を配置していた。何物も支えることなく浮かんでいるその月光刀は、どのような方法でそうなっているのかよく分からないが。まずは、その月光刀によって、針は真っ二つに切断される。こうして速度・重量ともに激減した毒針は、無論、盾を貫けるはずがないのだ。その円盤に当たると同時に、まるで朽ち果てて崩壊するがごとく砕けてしまうというわけだ。

 そして、三人の娘は。方相氏と化した真昼の反応速度によって、パーフェクトに制御されているのであって。あたかもなんの秩序もないかのごとく、しかも一度も停止することなく、真昼の周りをぐるぐると経巡って……それでいて一本の針さえも真昼に到達することは出来ないのだ。その防御は、人の身には不可能な業、鬼の身でなくてはかなわぬような、欠けるところの一つもないなめらかな水晶のような防御だ。

 そんな風にして、真昼は。

 一定の距離を駆け抜けて。

 一定の距離とはつまり、ミセス・フィストの「パーソナルスペース」までということであって、もう少し手っ取り早いいい方をするのならば、マンティコアが密集している地帯までということだ。そこからミセス・フィストまでの距離は百ダブルキュビト程度であるため、今の真昼であれば、一瞬で走り終えることができるはずであるが……とはいえ、あまりにもマンティコアの数が多すぎた。十数ダブルキュビト四方の空間に一匹いて、ところどころではそのテリトリーがかぶってしまっているのか、マンティコア同士で猫パンチ(仮)の応酬がなされているくらいだ。

 真昼は、ここを。

 通り抜けなければいけないのだが。

 とはいえ。

 一人で、それを。

 しなければならない。

 というわけではない。

 真昼の前にはパンダーラが走っていたのだが、まさに今こそ、その役割を果たす時だった。走りながら左の腕を差し上げて、左手と同化したアストラを構える。ぎりっと、自分の歯を砕こうとでもしているかのように、強く強く奥の歯を噛み締めると……その、パンダーラの、燃え盛り煮え滾る殺意に反応するかのごとく。左半身のほとんどを侵食している緑色の宝石が、あの恐るべき冷たさ、聞く者の観念を凍り付かせるような冷たさによって、軋み音を軋ませ始める。

 ぞっと、真昼は、またあの感覚を覚えた。草食の獣が肉食の獣に襲われる直前にも似た、生命が脅かされているような感覚。人間の天敵の感覚、ただし、それは、一点だけ、以前に感じた時と異なっている点があった。以前に感じた時、真昼の目の前にいた肉食の獣は一匹であった。それに対して、今は……明らかに、多数の獣、無数の獣に囲まれているという感覚。

 つまりパンダーラのライフルは。

 フルオート状態だということだ。

 どんなに力強い生き物であっても、その声の主に恐れを抱くであろう声で。パンダーラは凄まじい咆哮をあげた。向かう先にいたマンティコア達は、相争いあっていたマンティコアでさえも、パンダーラの存在に気が付かされて。そうして……どうやら、全てのマンティコア達は悟ったようだ。このパンダーラという生き物が、自分達よりも遥かに獰猛で残酷な生き物であるということを。

 パンダーラは。

 無慈悲に。

 引き金を。

 引く。

 それから後に起こったことは、端的にいえば一方的な虐殺であった。マンティコア達にはなんの成す術もなかった。何が起こっているのかに気が付くことさえもできないままに、その上半身は惨たらしく弾け飛んでいた。あまりにも純粋であまりにも強力な「信仰」の力は、音としても光としても認識することが出来ない。それはただ信じるということであり、犠牲者にとっては、自分が死んでしまったということを信じるということである。

 あまりに大量に放出されたエネルギーは、パンダーラの後ろで守られていた真昼さえも、方相氏と化していなければ、吹っ飛ばされていただろうほどであった。だが、今の真昼は方相氏なのであって。なんとかその場に踏みとどまることができた。そして、見ていた。真昼の目の前で、一匹のデウス・ダイモニカス……一匹の悪魔が、一方的な狩りを行っている様を。

 そう、忘れてはいけない。デウス・デミウルゴスの別名が神であるように、デウス・ダイモニカスの別名は悪魔なのだということを。パンダーラも例外ではない、本質的には、他のあらゆる生命体にとっての脅威なのだ。パンダーラの放つ弾丸は、既に弾丸でさえなく、それは「死」であった。フルオートで連射される死、死、死、真昼の道程を塞いでいたマンティコアの大群は、瞬く間に血と肉と骨との塊となっていって。真昼の頭には、生臭い、獣臭い、マンティコアの断片が降り注ぐ。

「真昼!」

 悪魔の声が。

 猛獣の声が。

 天敵の声が。

「今だ!」

 真昼に。

 告げる。

 と、ここまでの描写を見ると、パンダーラに対して、真昼が何か怖気や戦慄やといった感情を抱いていると思われる方もいらっしゃるかもしれない。だが、それは完全な間違いだ。真昼は、一瞬たりとも、パンダーラのことを、怯えたり、竦んだり、してはいなかった。なぜならパンダーラが悪魔であるとするならば……今の、真昼は、鬼だからだ。

 鬼にせよ悪魔にせよ、要するに立場の問題だ。例えば、今の人間至上主義の時代においては、正当性から排除されたもの、中央ではなく周縁に住む者達こそが鬼・悪魔と呼ばれるのであって。それは要するに、今まで生きてきた中で、ずっと、ずっと、真昼がその立場に立ちたいと思ってきた側なのである。鬼と呼ばれる生き物であっても、悪魔と呼ばれる生き物であっても、そちらの側に立つものからすれば、それは英雄なのであって。

 だから。

 真昼は。

 英雄になるために。

 駆け出す。

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