第一部インフェルノ #31

 ティンガー・ルームに真昼の絶叫が響き渡った。ここは月光国ではなく、従って岸母邦でもなく、それゆえに砂流原邸であるはずもない。アーガミパータの、アヴィアダヴ・コンダにある、ASK所有のアヴマンダラ製錬所だ。真昼が立っているのは、透明なドームに閉じ込められたカーマデーヌを観察するために作られた、あのリング状の足場の上であって……だが、そのことが、真昼には理解できていないらしい。自分が「どこ」にいるのか、それどころか自分が「いつ」にいるのかさえも曖昧になっていて。焦点の合わない目をしたままで、ただ叫び続けているのだ。

 極度の興奮状態に陥って、ほとんど過呼吸みたいな状態になりながら。時折、「駄目!」「駄目!」「駄目!」「やめて!」「お母さん!」「やめて!」みたいな支離滅裂な言葉を口走っている。両手で掻き毟るように自分の頭を抱えて、力なくその場に崩れ落ちてしまってからは、小刻みに体を震わせることしかできない。どうやら、デニーの放った弾丸の、その初弾には……被弾者に幻覚を見せる効果があったらしい。被弾者の持つ、最悪の記憶。それを呼び覚ましてから、その記憶の内側に閉じ込めることによって、経験を再体験させるのだ。なんとも性格の悪い効果であって、どう考えてもグッピー(グッドピープルの略です)ではなくバッピー(バッドピープルの略です)が使うアイテムとしか思えないが……まあ、よく考えたら、デニーはギャングの幹部の一人なのだから、基本的には善いもんではなく悪いもんなのであって。こういうアイテムを持っていてもなんの不思議もないのだ。

 ただ、一つ問題なのは。

 なぜこのタイミングで。

 しかも、真昼に対して。

 このアイテムを使ったのか?

 ということだ。

 明らかにおかしくない? 百歩譲ってミセス・フィストとかに使うなら分かるよ? いや、そもそもミセス・フィストには善い記憶も悪い記憶もないだろうから、使ったところでなんの意味もないだろうけど。一秒たりとも無駄にすることができないはずの、命懸けの闘争の最中に、なぜ真昼のことをここまで苦しめる必要があるのか? ただの軽い冗談なのか、それとも何か理由でもあるのか? もちろん、いくらデニーちゃんがお茶目でユーモアたっぷり、しかも可愛いからといって、こんなタイミングでこんな冗談をするはずが……する可能性はあるが、今回は違うのであって。これには特別な目的がある。

 真昼は。

 手すりに寄り掛かって。

 そこに、へたり込んで。

 両手で抱えた頭。

 前後に揺らしながら。

 ほとんど放心状態で。

 何かをぶつぶつと。

 呟いている。

 正子が病院に送られた日の記憶だった。血にまみれた両腕で、強く強く抱き締められた真昼の叫び声は、どうやら使用人達が休んでいる部屋にまで届いたらしく。大慌てで駆けつけてきたお手伝いさん達によって、なんとか正子と真昼とは引き離されて、恐怖のあまり気を失ってしまった真昼のことを残して、正子は、近くの大きな病院に秘密裏に搬送された。

 幸いなのかどうなのかは分からないが、「奇跡」的に正子の首の傷はさして深くなかったらしく。これだけの血を流していながらも、大事な血管も傷つけていなかったようで、一命は取り留めることができた。だがその日以来完全におかしくなってしまった正子は、うちに帰ってくることなく、そのまま外科病棟から精神科病棟へと移されて……その病室でまたもや自殺を試み、今度は無事に成功したというわけだ。

 その日から、真昼は変わってしまった。まあこれですくすくとなんの屈託もなく育たれてもそれはそれで怖いものがあるが、とにかく、真昼は、何も知らない愚かで無垢な少女から、何も知らない愚かで無垢な砂流原真昼になったということだ。その日から笑わなくなり、その日から眠りが浅くなり、その日からトマトジュースが飲めなくなった。そして、その日から自分の父親のことを「お父さん」と呼べなくなり、最後には「静一郎」と呼び捨てにするようになった。それほどまでに、この九夜月の記憶は、真昼にとっては心的外傷なのであって……自分の中で、ずっと、ずっと、抑圧していた記憶でもあった。

 そんな記憶を。

 デニーは。

 無遠慮に、不躾に。

 室内履きに履き替えず。

 外履きのまま上がり込むような。

 そんな、やり方で、抉じ開けて。

 真昼は……喉の奥で、ぐうっと音を鳴らした。息が引っ掛かってかすれたような音だ。それから、発作でも起こしたように、ひっと空気を飲み込む。ああ、ああ、と、声にならない声を、何度も何度も繰り返して。その声が、少しずつ、大きくなってくる。これは……間違いない、嗚咽だ。抑えようとして抑えているのではなく、ただあまりにも大きな感情がつっかえて、なかなか外に出せなくしまっているため、あたかも声を抑えているかのような感じになってしまっているだけの咽び泣き。

 最初は声だけで泣いていたのであるが、目の縁の辺りがゆっくりと痺れてくる感覚。何か、苦性の液体が、下瞼の裏側に溜まってきているような。段々と、段々と、その液体は量を増していって。やがては、その場所に、貯めておけなくなってしまう。大雨によって湖から水が溢れ出すように、その場所から液体が溢れ出してしまって……その場所の名前は涙袋だ。

 つまり。

 真昼は。

 涙を。

 流し。

 始めたと。

 いうこと。

 幼く無防備な動物の鳴き声にも似た呻き声をあげながら。真昼の目から、涙が滑り落ちていく。最初に一滴、誰にも見られることなく誰の願いも叶えずに死んでいった流れ星のごとく、その涙は真昼の頬を流れて行って。それから、もう一滴、もう一滴、点はやがて線となって、たらたらと、顔に開いた二つの傷口から流れ落ちる透明な血液。真昼は、抑えきれぬ感情が決壊した、その感情自体であるかのように、涙を流して。

 そして。

 それこそが。

 デニー、の。

 特別な。

 目的だ。

「真昼ちゃんの、荒霊の、発動条件はー……」

 奇跡。

 奇跡。

 奇跡。

 を。

 起こすこと。

「歔欷流渧!」

 デニーが、満足気に、ご機嫌に、そう言った瞬間に。真昼の流している涙が、こうっと光を放ち始めた。それは、よくよく見なければ気が付かないほどの、ひどく仄かな光ではあったのだが。それでいて……例えば、夜空に浮かぶ月の光のように。この世界が夜に覆われているせいで、そんな仄かな光でも、これほど眩しく感じるとでもいうかのように。恐ろしいほどの力を放っていた。

 その力、禍々しくもなく、賑々しくもなく、ただただ無価値で無意味なタブラ・ラサ。その上にクレヨンで悪戯書きをされることを、いつまでもいつまでも待ち続けている白紙みたいな力だった。ただし、それは、強力だった。人間の力を遥かに超えて、デウス・ダイモニカスの力さえも凌駕するほどの力……要するに、それは、神の力だった。

 そう、それは、デニーの言った通り、荒霊の力だった。月光国に棲む生き物のうち、一定の確率で生まれる、奇瑞と呼ばれる特殊な生き物。ナシマホウ族でありながらも、本来ならば神以外持つことのできない「奇跡」の力を――荒霊と呼ばれるその力は、ある一定の条件下でしか発動することができないにせよ――その身に宿した生き物。

 つまるところ。

 真昼は。

 その奇瑞と呼ばれる。

 生き物、だったのだ。

 もちろん真昼は、自分自身ではそのことに気が付いていなかったのだが。たぶん静一郎も気が付いていなかっただろう。真昼が荒霊を発動させるための条件は、専門用語を使えば「歔欷流渧」、簡単な言葉でいい換えれば、非常に強い感情の籠もった涙を流すことだったのだから。

 母親が精神病院に閉じ込められたあの夜以来、真昼は、一度も泣いたことがなかったどころか、感情を表に出すことさえ滅多にしなかったために。実質的に、真昼が荒霊を行使したのは、記憶の奥底に閉じ込めていたあの夜のことと(もちろんこの夜に真昼が起こした奇跡のおかげで正子は一命を取り留めたのだ)、それに昨日、マラーを助け出そうとして、必死にデニーに抗った時のこと。その二回だけだったのだ。

 その二回とも、ろくな結果に終わらなかった。一度目の奇跡がもたらしたものは絶望だけだったし、二度目の奇跡がもたらしたものは何もない。一度目も二度目もなんの役にも立たない奇跡であった。しかし、それによって、荒霊の力が役に立たないもの、あるいは不幸をもたらすものであると決めつけるのは早計である。どちらの奇跡も、役に立たなかったのは、ただ単に、真昼が低能だったからなのだから。

 銃が人を殺すことができるようにするのが、銃それ自体ではなく人であるように。奇跡を有用なものとするのはそれを使う何者かだ。何をすれば何が起こるのか、それをきちんと理解して使わなければ……神の力とて、モニッシュストリート改革・消費者保護法が消費者に対して与えた保護ほどにも役に立たなくなってしまうことだってあるだろう。そう、力には適切な管理が必要なのだ。そして、とてもではないが、真昼にはそんな管理はできない。

 だから。

 今回は。

 真昼ではなく。

 デニーが。

 その管理を。

 行うのだ。

 さて、それではどのような管理を行うのかといえば……まさに今、その「管理」が真昼の目前にまで迫っているところだった。要するに、その「管理」は弾丸の形をしているということだ。デニーが放った弾丸のうちの二発目の弾丸、それは一発目の弾丸とは全く異なった、きらきらと輝く金色の弾丸。

 自分の世界に閉じ込められて、完全な混乱と絶対の絶望との間で嘆き悲しんでいる真昼には、その弾丸のことがよく見えていなかったらしく。虚ろで焦点の合わない目は、鼻の先にまで迫ったそれを見上げたのだったが……狙うべき場所を狙ったその弾丸は、そんな真昼の、ちょうど眉間に着弾した。

 水滴が、水面に、触れるような。

 とんっという、とても静かな音。

 それから。

 金の弾丸は。

 そっと。

 溶けて。

 水の上、波紋が広がっていくように。

 真昼の顔の、全体に、広がっていく。

 それは、非常に自然な出来事だった。有り得べきものが、有り得べきところに収まっていくような、そんなやり方で。真昼に触れた弾丸は、手のひらの上に乗せた氷にみたいに溶けてしまって。眉間から、顔中に、どろりという音でも立てるみたいに拡散していったのだ。

 真昼は、さすがに何かが起こったことに気が付いたらしく。嗚咽だの絶望だのといった別に今でなくてもできる行為を一度脇に置いておいて、まさに眼前に迫ったその状況、「何かが自分の顔を覆い尽くそうとしている」という状況に対処することにした。なんだかよく分からないその金色の液体を、両手で、必死に引き剝がそうとするのだが……とはいえ、その行為は、大した役には立たないようだった。指の先、金色の液体の上をするすると滑ってしまい、まるで手応えがないのだ。

 その金色は、真昼が何をしようとも、素知らぬ顔をしてなすべきと定められたことをする。真昼の顔をすっかりと覆い尽くした後、特に目の周辺に集まってきて、そして、その目が流していた、涙の雫を、えろりと舐め取る。ただの液体がどうやって「舐め取る」という行為を行ったのかは不明であるが、真昼はあたかも眼球を嘗め回されているような感覚を受けたということだ。背筋がぞっとするような経験であったが、とにもかくにも金色は、真昼の涙を飲み干して……それによって、真昼の力、奇跡の力、それが放つある種の周波数に共振し始める。

 ところで。

 顔を覆うもの。

 肉でできた顔を隠して。

 全く異なる何かの顔を。

 その上に、形作るもの。

 それを、一体、何と呼ぶべきか?

 そう。

 それは。

 仮面と。

 呼ぶべきだ。

 あらゆる魔学において等しく、仮面という道具は特有な役目を担わされている。それは一般的には「演劇的行為」と結び付けられた「祝祭空間の発生」だ。境界を破壊すると同時に境界を創造するその行為において、仮面という道具は極めて主観的な意味での隔絶を、あるいは他者性の親密なる憑依を、可能にするのだ。ただし、とはいえ、この仮面の役割を、神の力の生成手段として利用できると考えたのは東洋魔学の功績であるといえよう。

 それまでも、なんらかの修行・苦行によってデウス種に近づこうという試みはあった。西洋魔学における契約術のごとく、神の力を借りることによってマホウ族と同等の力を得ようとする方法も研究されている。あるいは、アーガミパータ魔学においては、無から神を作り出そうという研究があったという伝説さえある。だが、東洋魔学におけるその術の目的はそういった魔法のどれとも違っていて……人間を、人工的かつ学術的な方法によって鬼神の類へと変化させることにある。簡単にいえば、人間をデウス種へと仕立て上げる方法なのだ。

 リュケイオンではデウス・デミウルゴスとデウス・ダイモニカスとの二種に(一般的には)分けられているデウス種は、儒家においては三種類に分けられている。天神・地祇・人鬼、このうちの天神はデウス・デミウルゴスに、地祇はデウス・ダイモニカスに該当するものであり、そして人鬼と呼ばれるものが鬼と化した人間のことを指している(正確にいえば人鬼のうちには純粋な形相・質量から作り出された鬼神の類も含まれているが、これに成功したのは歴史上で三人しかいないのでここでは無視する)。

 人間を鬼にする方法には幾つかあって、死体を使って鬼とする方法から、生きながらにして鬼と化する方法まで、様々な方法が研究され実用化されてきているのだが……そのうちの一つが、方相氏の造成の、簡易的なバージョンである。

 以前書いた通り、方相氏の造成はアーガミパータ魔学において発生したらしき技術であって、本来的には無から神を作り出そうという試みの一つであった。だが、それは、かなりの知識と力とを必要とする技術であって。その上、かなりの知識と力とがあったところで量産することはほとんど不可能に近い所業であった。量産できなければ兵器として安定した供給を行うことができない、ということで、儒家において、より簡単に作り出すことができる方法が研究されて。そうして人から方相氏を生み出すための技術が完成したというわけだ。

 デニーが、今、真昼にしている行為は。

 その技術を。

 さらに自己流にアレンジしたもの。

 その効果は一時的であるが。

 より簡単に、人を鬼とする。

 そういった魔法だ。

 そのために、真昼の「奇跡」の力が必要だったというわけだ。奇瑞が発生させる荒霊の力は、それこそ神に近いほど強いものであって。それをそのまま使うことができれば、非常に容易に、真昼を人鬼へと変化させることができる。他にも色々な方法がないわけではないのだが、今のように一刻一秒を争う時には、一番手っ取り早い方法を使う必要があるのであって。

 そういえば。

 真昼の耳に。

 さっきから。

 声が。

 聞こえて。

 いる。

 デニーの声。

 何か。

 真昼の体を。

 静かに。

 静かに。

 愛撫するような。

 本来ならば、永遠に続くべき。

 決定した、絶対に、対しての。

 反射的な。

 諷誦の。

 覆奏。

 いつの間にか四つの口が五つに増えていて(好きに口を増やせるというのは何とも便利なことだ)、その最後の口は左手の甲にできていたのだが、とにかくその口が月光国の言葉によって祝詞言をなしていたのだ。その祝詞は、もちろん方相氏の造成のための言葉であって、以下のようなものである。「オシテイラ、ソテイ、オシテイラ、ソテイ、トコイレイセヨ。カムナゲヨ、カムヨテヨ、カムイテヨ。モノノオソレヲオモテニアラカリセ。アラアラシキミタマノエリテイヤニアラカリセ。アシタヲホシトリヤ、ニギニギシキヤトウ、ニギニギシキミスリ、ニギニギシキアラテアカ。ヤヒロノトオリ、ヨレイセヲハルカセヨ」。

 ところで、真昼の涙をその内に含むことで、真昼の奇跡の力にアクセスできるようになった金色は「オシテイラ、ソテイ」次第次第に変化していく「オシテイラ、ソテイ」形状自体は、真昼の顔を覆う仮面のままであるが「オシテイラ、ソテイ」その仮面の中で、その色は、四つの場所に集中していって「オシテイラ、ソテイ」そのことによって他の部分は、白く、白く、色彩が失われていく「トコイレイセヨ」。

 つまるところ、それは。

 白い仮面の上に、描かれた。

 四つの、金色の、目となる。

 そして、その仮面が、完成するとともに。真昼の上半身から暗黒が噴出した。まるで火山から吐き出された溶岩のような、どろどろとして、力に満ちた、形ある影のようなもの。また、それだけではなく、真昼の下半身からは悍ましいほど赤い何かが滴り落ち始める。月経の際に滴り落ちる血液に似た、死であるとともに生でもある、異形の力に満ちた腐敗的エネルギー。あるいは、それらは……黒い衣と朱の裳。方相氏の、正装とされる、服装。

 そんな風に。

 変えられていく体、を。

 両腕、抱き締めながら。

「あたし……体が、おかしい……!」

 真昼は、いつものようにそんなことを言ったのだが。実際のところ、いつもよりもずっとずっと混乱していた。自分の体が、何か、とても、熱いのだ。熱いというか、強い。あまりにも強い力が、あまりにも大量に噴き出していて、それを抑えきれなくなってしまっている感じ。自分の体が、何か決定的に変化してしまったという確信。まあ、確かにその体は人から鬼になっているので、決定的に変化してしまっていることは事実だったが。真昼は魔学についてそれほど詳しいわけではなかったし、こういう地の文が読めるタイプのメタ能力者でもなかったので、実際に何が起こっているのかということが全然分からないのだ。

 ということで、今の真昼は明らかに介護者を必要としているのであって。デニーは、そのタイミングを見極めつつ(そのタイミングとはパンダーラに対する回復の供給を少しばかりストップしても良さそうなタイミングのことだが)、横ざまに倒れてしまった挙句に胎児みたいに丸くなって、小さく小さく震えている真昼に駆け寄ったのであった。

「真昼ちゃん! しっかりして!」

「デナム……デナム・フーツ?」

「デニーちゃんでいいよ!」

 どさくさに紛れてデニーちゃんと呼ばせようとするデニー。

 取り敢えずはそれを無視して、真昼は、その言葉を続ける。

「さっきまで、あたし、昔住んでた家にいて……あの夜のこと……あの夜に、あたし、いたはずなのに……あたしの目の前で、お母さんが……それなのに、今、こんな……お母さんはどこにいるの? お母さんは、どうしちゃったの?」

「しっかりして、真昼ちゃん! 真昼ちゃんのお母さんはずーっと前に自殺しちゃったでしょ! とっくの昔にすーさいどだよ! 真昼ちゃんが見たのはもう終わったことだよ、真昼ちゃんの記憶を元にして、デニーちゃんが幻を見せただけ!」

「幻……?」

「そう、幻!」

「なんで、そんなこと、したの……?」

「ええー? それ、今説明しなきゃダメ?」

 そんなことを言って。

 ほの暗いフードの内側で。

 可愛く首を傾げるデニー。

 その顔を見て、真昼は。

 本能的に恐怖の感覚を抱くが。

 しかし、頼ることのできる生き物は。

 残念ながら、この男しかいないのだ。

 だから、真昼は、自分の手で、デニーの手首(本当は手のひらを握りたかったのだが、拳銃が握られているのでそれはできなかった)をぎゅっと握り締めて。デニーが自分から離れていかないように、あるいは自分がデニーから離れていかないように、しっかりと繋ぎ止めた後で。こう問い掛ける。

「今、あたしはいつにいるの? 今、あたしはどこにいるの? 今、何が起こってるの? あたし、どうしちゃったの?」

「うーん、一つ一つ答えていくね。今、真昼ちゃんは十六歳。REV.Mに誘拐されてアーガミパータにやってきてから二日目のお昼。どこにいるのかっていうと、アヴィアダヴ・コンダにASKが作った、アヴマンダラ製錬所のメイン・コンプレックスにいるの。そのいっちばん中心にあるティンガー・ルームっていうお部屋だよ。それで、真昼ちゃんに今起こってるのは、隠れ蓑笠っていう現象で、まあ蓑笠がなかったから仮面で代用してるんだけど、よーするに、人間をデウス・ダイモニカスに近い生き物に変えちゃうーっていう感じの現象ってわけ。つまり! 最後の質問の答えとしては、真昼ちゃんは、今、人鬼になってるってことです!」

「あたしが……鬼に……?」

「そーだよ、ほら、見てみて。」

 そう言って差し出されたデニーの手のひら(真昼が手首を握ってるのとは反対の方)には、いつの間にか、きらっきらにデコレートされた例のスマートバニーが握られていたのだけれど。その画面には、今の真昼の顔が映し出されていた。真っ白い顔面に、四つの眼だけが金色に光っている、あの顔だ。

 真昼はそれを見て……まあ、普通の反応といえば普通の反応なのだが、最初は自分の顔だと認識できなかった。画面に、一体、何が映されているのか分からず。この奇妙な、顔みたいなものを、なぜデニーが自分に見せているのかを理解できなかったのだ。しかし……背後の光景や、自分が動くとそれも動くこと、そういった状況証拠から、徐々に適切な理解へ至る道のりを進んでいって。突然、はっと気が付く。

「これが、あたし、なの?」

「そうそう。」

 なんだか少女漫画で初めてお化粧をした主人公が言いそうなセリフであるが、「いつもとは違う新しいあたし」を発見したという意味では似たようなものだろう。真昼は、そんな自分に対して、今まで発したことがないほどの絶叫を上げそうになるが……すんでのところで思いとどまった。段々と、自分を巡る状況を思い出してきて、その思考が焦点を合わせ始めたからだ。

 悲鳴を上げたいのは山々であるが。

 そんな余裕がある状況では、ない。

 だから、真昼は。

 デニーに、問う。

「あたし、方相氏になったってこと?」

「うん、そういうこと!」

「これで侲子術を使えるの?」

「いっえーす! 話が早いね真昼ちゃん。」

 つまり、そういうことだった。デニーは約束通り、なんとかしたということだ。ちょっと信じられないくらい意外な方法だったし、どうやって真昼のことを鬼にしたのかということは、真昼には推測することさえかなわないことだが――真昼に対してあの夜の出来事を見せたことがそれと関係あるのだろうということくらいは分かった――とはいえ、そういった諸々は、全部終わってから聞けばいいことだ。

 デニーの手首。

 すっと放して。

 ただし、真昼とて年頃の女の子であるのだし、今から起こる戦いに全く関係がない、一つも急を要しない、そんなことであっても、一つだけ聞いておきたいことがあった。それは、鬼になってしまったというこの事実が永遠に続くのかということだ。真昼が推測するに、真昼のことをこんな状態で返してしまっては、静一郎との関係性に必ずしも良いとはいえないのであって。たぶん一時的な現象なのであろうが……念のため、聞いてみる。

「ねえ。」

「なあに。」

「この、あたしが鬼になったのって、ずっと続くわけ? あたしはこれからずっと鬼のままなの?」

「あー……ごめんね、真昼ちゃん。そうしてあげたいなーとは思ってたんだけど、ちょーっとだけ時間も力も足りなかったから……残念だけど、効果は一時的なものだよ。」

「ああ、そう。」

 良かった。

 あたしは。

 人に。

 戻れる。

 デニーの口調が、まるで申し訳なさそうな口調だったので。人間に戻るということが本当に良いことなのであるのか、そんな疑問が頭の隅をよぎらないでもなかったのだけれど。それは、別に、今考えなくてもいいことだ。

 デニーのおかげだとは口が裂けてもいいたくはなかったが、とにかく真昼は、冷静さを取り戻してきて。胎児のような状態から、体を起こして、髪の毛を掻き回すみたいにしてがりがりと掻きながら、ゆっくりと立ち上がる。

「それで。」

 少しも取り乱していない。

 しっかりとした、口調で。

 真昼は。

 最後に。

 こう問いかける。

「あたしは何をすればいいわけ。」


 真昼の体を覆っているこの虹色のあぶくについて。真昼は、ただ単に真昼のことを守ってくれるだけのものだと思っていたのだが。それは大きな勘違いであったらしい。もちろん、防御としての効果もあったのだが……それは、もっと、積極的に、戦闘に際して用いられることを想定したものだった。

「じゃあ……」

 と、口にしたのは良いのだが。こういう時にどういう言葉を発すればいいのかということ、全然思いつかないことに気が付く。今までこんな状況に遭遇したことはなかったし、それに、こんな状況に遭遇した場合について、教えてくれる人もいなかったからだ。暫く考えた後で、真昼はこう続ける。

「行ってくる。」

「行ってらっしゃーい!」

 自分自身でも、今の自分がしていることについて全然信じられなかった。ついさっき……ほんの数十秒前までは……真昼は、今までの人生で最大の心的外傷と無理やり向き合わされていた。そんなことをされたら、アーガミパータに来る前の真昼であったら、数か月の、場合によっては数年の、専門家による精神的カウンセリングを受けない限りは立ち直れなかっただろう。

 それにも拘わらず、今の真昼は――立ち直ったかは別として――とにもかくにも、その心的外傷をどうでもいいものとして一度棚の上に置いて、命懸けの戦いに向かおうとしているのだ。確かに、これから死ぬかもしれないという事実の前には、過去に起こった出来事などは大した重量を持たないものであって。いつまでもうじうじと思い悩んでいる暇などないのであった。

 真昼は……昨日、約束したではないか。パンダーラに対して、今日のこの戦いに加わると、ASKに立ち向かうと。幼稚な甘えを捨てて、自分がなすべきこと、自分がしなければならないことに殉じると。それに、何者とも知れぬものに対して誓ったではないか、いかなる犠牲を払うとしても、必ずマラーのことを助け出すと。生きることは、強大な力に抗いながら生きることは、遊びではないのだ。もしも、自分の、最も暴かれたくなかった過去を暴かれたとしても。それがどうしたというのだ?

 デニーが……デニーがしたことは、確かに腹が立つ。特に、それを「デニーが」したということが腹が立つ。けれども、この全てが終わって、真昼も、デニーも、奇跡的に生き残っていたら。その時にぶん殴ればいいだけの話だ。今、あいつを殴っている暇はない。それに、真昼には、分かっていた。デニーは真昼をこの状態にするために必要なことをしただけだと。手段を問わずに、勝利に必要なことをする。ある意味では、デニーは、美しいほどに合理的な行動をしたまでのことで。そうであるならば……真昼も、それが勝利に必要だというのならば、力を手に入れるために必要だというのならば、デニーのしたそのことを甘んじて受け入れよう。誰かの役に立つこと。それが一番重要なのだ。

 過去は過去にすぎない。

 今を生きろ。

 そして、死ぬのなら。

 今に殉じて死ぬのだ。

 と、現在の真昼の心境を言語化するならばこんな感じになるだろう。全く、なんというか、単純極まりない思考回路であって、こんなんだから上手いこと使われてしまうのだ。

 それはともかくとして、一点だけ補足しておく必要があるかもしれない。真昼は、言語化された心境の中でマラーについて触れている。だが、このティンガー・ルームにはマラーの姿などどこにも見当たらず、更に、この戦いが始まる前に交わされたデニーとミセス・フィストとの会話の中でも一度もその名前は出てこなかった。このことについて真昼はどう思っているのか。

 これまた単純な考えであるが、とにかくミセス・フィストを倒せばなんとかなると思っているのだ。どこにどう隠されているのかは知らないが、ミセス・フィストを倒しさえすればこの製錬所の全体が手に入るのであって。そうすれば好きな場所を探せるのだから、マラーのことを助けるのなど時間の問題だろう。そう思っているのだ。というか……もっとはっきりいってしまえば。デニーがなんとかしてくれると思っているのだ。真昼は、根底的な、無意識の中では、現在の状況について、デニーが全てを把握していると信じ切っている。そして、デニーがあてがった役割だけを、命懸けで遂行すれば、マラーのことを助けられると思っているのだ。その真昼の考えは……完全に、百パーセント、正しかった。デニーは状況を把握している。デニーのあてがった役割を果たせば、真昼はマラーのことを助けることができる。

 しかし。

 それは。

 恐らく。

 今、真昼が考えているのとは。

 少し違った結末になるだろう。

 とはいえ、それは未来の話であって。そろそろ現在に起こっている出来事に集中した方がいいだろう。独り言みたいにして、といってもデニーに向かって言ったことは間違いないのだが、「行ってくる」と言った後に。真昼は、自分が進むべき方向……要するに、まさに五人の娘との戦闘が行われている現場であるところの「隷属の展開」の方向に、ぱっと手を差し出した。

 デニーからは全てを教わった。というか、既に教わっていたのだ。このティンガー・ルームへと至る道のり、ノリ・メ・タンゲレに襲われながらも、デウスパシーによって会話していた時に。秘密裏に、計画のこの部分は、既に真昼の精神に刻み付けられていた。真昼の言動から、万が一にもミセス・フィストに露見しないように、こっそりと封印されていたというだけで。そして、その封印は、既に切り開かれていた。だから真昼は全てを知っていたのだ……「これ」の使い方も、もちろん知っていた。

 「これ」。

 つまり、この。

 あぶくの。

 使い方も。

 真昼の体を覆っていた虹色のあぶく、その一部分が、真昼が手を差し出すとともに、速やかに、その差し出された方向に向かって転移した。転移というのは文字通りの転移であり、すっと消えるとともに、瞬間的に別の場所に移動していたということだ。それはあたかも「隷属の展開」へと至るために宙に浮かんで配置されたドレッドストーンのようであり……その踏み石に向かって、真昼は軽やかに跳躍した。

 体の全部が羽で出来ているみたいだ。軽いとかではなく、存在感というか、肉体を構成する物質自体が全く違っている感じだ。デニーの魔学式によって身体を強化された時も、なんだか自分が自分でなくなったような感じを受けたものだが、それでも、その時は、あくまでも人間のままだった。今の真昼は既に人間でさえない。鬼なのだ。真昼は鬼が生きているのと同じように生きているのであって……それは、端的にいえば、最高の感覚だった。

 喜びに満ちている。人間であった時は、身体の全てが、地上に釘付けにされた泥土みたいだった。重く濁った肉と出来損ないの骨とに閉じ込められた囚人。けれども、もうそんな思いをする必要はないのだ。釘は抜かれた、泥は拭われた。今の真昼は生命力そのものであって……本当の意味で、自分の思う通りに自分の身体を動かすことができた。真昼は、仮面に隠されたその奥で、歓喜の笑顔を浮かべながら。球体でできた階段を、めちゃくちゃなダンスみたいにして駆け上がって行く。

 よほど強力な方相氏であればオプションとしてそういった能力を付けることもあるだろうが。真昼はなんだかんだいっても、まあまあ急拵えの方相氏であったため、飛行能力のような余計な能力を付けている暇はなかった。だから、虹色のあぶくを、移動に際しての補助的な手段として利用しているということだ。この虹色のあぶくは非常に応用がきく「存在」であって、真昼の思う通りに動かすことができ、こういう風に足場として使うこともできれば、あるいは防御用として壁にもできるし、攻撃用として砲弾にもできる。「戦闘に際して用いる」とはそういう意味だ。

 真昼は一直線に「隷属の展開」へと跳んで行き、それから、一欠片の躊躇いさえなく内側に突っ込んでいった。反転する、真昼の色が。四つの目は禍々しくも輝く紫になり、衣の色は白、裳の色は青。ぼさぼさになった白い髪を振り乱しながら……「隷属の展開」の内部では、もう足場は必要ない。なぜならそこは一種の無重力空間となっていて、進もうという意思が主たる推進力になっているからだ。だから、真昼は、ぱちんと指を鳴らして、足場として使っていた虹色(これは虹色のままで変わらなかった)のあぶくを自分の体の周囲に集積する。

 鬼になることによって得た新しい感覚、魔力を感じるための感覚が、真昼の全身に「隷属の展開」を伝えてくる。それはえもいわれぬ不快な感覚で、とはいえなんとか例えてみるならば、自分の周りでたくさんのデニーが笑っているような感じだ。くすくすという笑い声が、真昼の体、全身を愛撫しているみたいで。鳥肌が立ってしまいそうなほど気持ちが悪い。だが、そのことに対して文句を言っている場合などないのであって……そうした気持ち悪さを、なんとか頭から振り払いながら。真昼は「隷属の展開」の中心部分へと突き進んで行く。

 要するに。

 小さな小さなキューブによって形作られた。

 アロニク状の檻。

 その中に閉じ込められている。

 パンダーラの方に、向かって。

 当然ながら、接近してくる真昼のこと、パンダーラが気が付いていないわけがなかった。あらゆることが計画通りに進んでいるのであり、しかも、極めてデニーらしいことに、何もかもが完璧だった。傷一つない時計が時を刻んでいるかのように、一秒の無限分の一さえ狂いのない時計のように。パンダーラはちらと真昼の方に視線を向ける。真昼は、四つの目によってその視線を受け止める。なすべきことがなされる時間であるという合図には、その行為だけで十分だった。

 パンダーラは、少女の欠片でできた檻の中で、存在否定の刃に切り刻まれながらも。自分の根源から力を絞り出そうとでもしているかのように、強く強く右の手を握り締めた。右の手とはいうまでもなくセミフォルテアの炎によって形作られた手のひらのことであり、パンダーラがそれに力を込めることによって、恐ろしいほどの熱量によって、その握り拳は膨れ上がる。

 死に際の恒星が最後の最後の爆発を起こそうとしているかのように。危険なほど急激に、その光度は、見る者の魂さえも焼き尽くしてしまいそうな輝きと成り果ててしまう。当然ながら、そんな光の奔流に耐えられるはずもないパンダーラは、右腕と肉体との接続地点から、じわじわと消滅していたのだが……その消滅が、致命的になる前に。

 破滅そのものとなった、その拳によって。

 自分を閉じ込める、この檻。

 凄まじい力で、殴りつけた。

 凄まじい力、ああ、なんとも陳腐な言葉だ。パンダーラが実際に放った打擲の威力に比べてみれば。拳が破滅そのものだとすれば、その打擲は……絶望だった。世界の終わり、焼き尽くされた地の上で、ただただ見上げることしかできない、全てを飲み込む太陽。パンダーラの一撃は、その太陽から削り出して作られた一発の砲弾のようなものだったのだ。

 そして、その絶望によって。パンダーラを閉じ込めていた檻は、爆竹を飲み込んだ蛙のように弾け飛んだ。アロニク模様を作り上げていた一つ一つのキューブは、いともやすやすと、細かい細かいキューブの断片として吹き飛ばされて。それから……ここから先は、真昼の出番だった。

 さて、侲子術の基本的なシステムについては少し前にデニーによって説明されたことと思う。方相氏に特有の器官である宣命を操作の対象となる生命体の魔学的観念器官に挿入し、それによってその生命体の精神へと直接的に命令を下す、というシステムだ。そして、その宣命を挿入するに際しては、術者のMPが被術者のMPよりも勝っていなくてはいけない。

 ということで、最も大きな問題となるのは、五人の娘のMPを真昼のMPよりも小さくしなければいけないということだ。実のところデニーは、真昼を方相氏とするに際して、真昼が荒霊を発動することによって放出した形而上のエネルギーをMPに極振りしていた。これは後々になって自分が真昼の意思に逆らって行動をすることになった時に(その時が来ることはほぼ確実であることについてデニーは確信を持っていたのだが)、真昼がMPに変換されていない荒霊の力を使って、何か不確定要素となりそうなことをすることを抑えるためという理由もあったのだが……まあ、ほとんどの理由は、真昼のMPが、五人の娘のMPを上回るようにするためであった。

 しかし、なんといっても五人の娘は、ASKにおける最高レベルの兵器なのであって。しかも今戦っているこの五人の娘はアーガミパータ用にローカライズされた機種なのである。当然ながら、マホウ族と戦うにあたって大変重要となってくるMPを低い数値に抑えるはずがないのだ。そのMPは、神に匹敵するとまではいえなくても、相当高いものであることは間違いなかった。指向性を固定されていない純粋な荒霊の力を使ってもそれを超えることはできず、それゆえにパンダーラは、今まで、自分の肉体を犠牲にしてまで、そのMPを下げ続けていたのだ。

 と、ここでまた「しかし」が出てくるのであるが、いくらMPを下げたところで、ここにいる五人の娘は、残念ながらミセス・フィストに接続されているのである。五人の娘は、五人の娘だけでは盤古級対神兵器というわけではない。せいぜいが鵬妓級といったところだろう。Mrs. Fist and her five daughters、この六体一セットで盤古級なのである。むしろ盤古級と呼べるのはミセス・フィストの方であって……いや、詳細の説明はここでは省こう。とにかく、重要なのは、ミセス・フィストに接続している限り、五人の娘は無限にMPを回復し続けることができるということだ。ここでいう無限は比喩的な表現ではなく、文字通りの無限、なんの限りもなくということである。

 とはいえ、いくら五人の娘であっても、そういった回復を瞬間的に行えるというわけではない。ミセス・フィストから、いわゆる無線エネルギー伝送によってMPを送信され、それを受信することによって初めて回復が可能になるのであって。無論、ダメージとリカバリーの間にはタイムラグがあるのだ。また、無線によって送信できるエネルギー量にも限りがあるため、あまりに大きなダメージを連続して負い続けると、若干ではあるがMPが低下していくこともある。

 そういうわけで。五人の娘のもともとのMPを百とすると、先ほどまでパンダーラが行っていた連続攻撃によって、一回の攻撃あたりで一とか二とか、ほんの少しずつではあるがそのMPは減り続けていて。恐らく八十くらいにはなっていたのだ。更に、つい今しがた、満を持して放たれたパンダーラのスーパーヴェタ・エクスプロージョン・パンチ(このクソほどにダサい名前は便宜上仮に付けた名前であってパンダーラが正式にそういう名前を使っているとかではないので注意して欲しい)によって、その数値は、何とか四十九くらいまで低下したのだ。そして……真昼の、今の、MPは。大体のところ、五十を超えるくらいなのであって。

 ミセス・フィストから。

 エネルギーが送られてくる前。

 今、まさに。

 この瞬間が。

 真昼が、侲子術を行える。

 唯一のタイミングなのだ。

 既にその指先は弓を引いていた。右手に絡み付いた、黒く塗り潰された藤の蔓。その蔓に、あるいはその弦に、番えられた矢は……今までの矢とは全く性質の異なった矢であった。それは周波数ではなく、もっと具体的な、もっと内臓的な、何かだった。どろどろと流動的な青い物質(これは反転色なので本来は赤い物質)であって、矢の後端からは矢羽根ではなく一本の触手が伸びている。その触手は、真昼の、下半身と接続していて。つまり、その矢は、真昼の裳から伸びていたということだ。

 赤い色だった裳、青い色をしている裳。腐り果てた血液にも似た力の塊から伸びた、ある意味での支流は……腐敗した、真昼の、魂魄の、一部であって。つまるところ、これこそが宣命と呼ばれる器官なのだ。その器官を、そのまま矢として番えて。

 そして。

 真昼は。

 それを、放つ。

 自分でも驚いてしまったことなのだが、行うべきこと、考える前に体が動いていた。今まで脳の中につかえていた障害物がすうっと溶けて消えてしまったかのように。意識・思考という無駄な釈義を経由しなくても、脳の中で発火したポテンシャルを、そのまま行動に移すことができるのだ。これが……これが、デウス・ダイモニカスとして生きるということなのか。いや、まあ方相氏は純粋なデウス・ダイモニカスではないのだけれど。

 とにかく、真昼は矢を放ったのであって。その矢は、宣命は、キューブの檻……その中でも特にスーパー(略)パンチによって撃ち抜かれたポイントを正確に狙っていた。未だに、スーパー(略)パンチによって放たれたエネルギーの怒涛に、大量のキューブが、めちゃめちゃに、ぐちゃぐちゃに、翻弄されている、まさにそのタイミングをぴったりと狙って。宣命は、エネルギーの中心地点を貫いた。

 例え、ば。

 何かが。

 おかしくなったかのような。

 何かが。

 爛れて、朽ちたかのような。

 ずるりという。

 濁った音。

 要するに、慣用的な表現を使えば、死んだ魚の目を突き刺したということだ。真昼の矢は見事に目標を射抜いた。その目標とは、いうまでもなく、五人の娘の「受信装置」である。

 釣り針が魚の目に刺さったのならば、後は釣り上げるだけなのであって。「受信装置」の内側で、宣命の先端部分が、がぱりと音を立てて開く。だらだらとよだれを垂らしながら人間の肉の中を食い進んでいく一匹の蛭のごとく、宣命は「受信装置」の深奥へと突き進んでいって……そこに到達した。

 それから、真昼は、観念を嘔吐する。もちろん上の口からではなく、下に開いた口、要するに宣命に開いた口からだ。口移しによって注ぎ込むみたいにして、真昼は、自分自身の、精神を、ドミトルに似た、感染性の、物質として、「受信装置」へと注ぎ込んで。その物質が「受信装置」を通じて娘の身体へと蔓延していき、最終的には、娘は、真昼の精神を映し出すある種の鏡のような存在になってしまうのだ。

 もちろん、そのmortifyに対して娘は抵抗を示す。だがその抵抗については……詳述する必要はないだろう。なぜなら、それは、数値の上で見ても、絶対的に、力及ばないことが決定づけられている抵抗なのであって。さして意味のあるものではないからだ。当たり前ように抵抗は失敗に終わって。娘は真昼に対して、全面的に服従することになる。

 ただし単数形の「娘」であって複数形の「娘達」ではない。確かに五人の娘のキューブは混ざり合って、五本の支流は一本の本流となっているが。残念なことに、感覚的可能態としては一つであっても定義としては五つのままであるからだ。もう少しはっきりといえば、五人の娘達のそれぞれがそれぞれの「受信装置」を有したままだということだ。

 それゆえに釣り上げた魚は一匹だった。とはいえ、真昼が解き放った感染物質は真昼が捕らえたその娘から「受信装置」を通じて他の娘へと感染しうる性質のものであって。だからこそその他の娘達は、その支流のことを、キューブの本流から切り離さざるを得なくなる。ということで、磁石の同じ極同士をくっつけた時のような、必然的な反発力によって……真昼が己の侲子とした娘、そのキューブの塊は、五人の娘が形作っていた檻としての集合体から弾き飛ばされたのだった。

 すぽーんっとでもいう感じだった。あたかも出産であるかのように、巨大なアロニク模様の塊から、全体の五分の一程度の大きさのアロニク模様が分離した。それは真昼の下半身から延びる赤い赤いリードによって結び付けられた、飼い慣らされた野良犬のようなもの。と、その五分の一のアロニク模様に、少しばかり奇妙なことが起こり始めた。キューブとキューブとを突き放していた力、分離力、つまりはデニーの放った「良き監視者」の力が、次第に次第に弱まっていったのだ。

 いや……別に奇妙なことではないのかもしれない。なぜならこの「隷属の展開」という空間は、即ちデニーの意思による空間なのであって。デニーが望むというのならば、監視者が監視を終えることは全く理にかなったことなのであって。飼い慣らされた野良犬には、既に、監視に値するようないかなる危険性もないのだ。そんなわけで、真昼が捕獲したその娘に働いていた「良き監視者」の力は、最終的には完全に失われたのだ。そうして、その娘は、もともとの姿、月光刀を握りしめた一人の少女の姿に戻ったのであった。

 さて。

 それでは。

 果たして。

 残りの娘達は。

 どうしたのか。

 いうまでもなく、いつまでもぐずぐずと喪失を嘆いているわけがないのだ。今のところの危険な状況に対してすぐさま適応する必要があり、五人の娘は……いや、四人の娘は。人間のような下等な生命体とは違って、必要なことを行わないというような愚かなことはしないのだ。

 まず重要なのは、エネミーに方相氏が加わったということだ。これが意味するところは、自分達のMPが当該方相氏以下になった時に、当該方相氏によって宣命を挿入された場合、自分達はエネミーに捕獲されてしまうということである。これは当たり前のことであるが、戦略というものは当然の事実を全て列挙して、それに対応することから始まるものなのだ。どんなに当前の事実であっても、それを見逃した瞬間に敗北に繋がる。

 さて、それではどういう対応策が考えられ得るだろうか。まずは、自分達のMPを当該方相氏以下にしないという対応策だ。幸いなことに、現在の時点では、自分達のMPはかなり回復している。完全な状態を百だとしたら、小数点以下切り捨てで七十二になっている。とはいえ、これは安全とは程遠い数値である。なぜなら、先ほどのようにパンダーラの渾身の一撃を受けてしまえば、その時点で間違いなく当該方相氏のMPを下回ってしまうからだ。

 従って、次のようなことが言えるだろう。つまり、パンダーラの攻撃を受けて、その直後に宣命の挿入を受け入れてしまうような状況は、絶対に避けなければいけない。パンダーラの攻撃そのものは脅威ではないし、宣命それ自体もやはり脅威ではない。それらが同時になされるのが問題なのだ。それならば、取るべき方法は一つ。個別対応である。

 と、いうわけで。

 四人の娘。

 一つの大きなキューブの流れは。

 二人の娘。

 二人の娘。

 二つの流れに分かれる。

 片方の流れはパンダーラを足止めするためのものであり、もう片方の流れは真昼を殺害するためのものだ。四人の娘は、真昼について、方相氏であるということ以外はほとんど脅威とはならない存在であるという結論を下していた。

 かなり正しい観察といえるだろう。先ほども書いたように、今の真昼「自体」は、方相氏であるとはいえMP以外のパラメーターは最低値ぎりぎりなのである。四人の娘から見たらモストリー・ハームレスといっても過言ではない。

 ただし、一点だけ不確定要素がある。真昼の周囲に展開されているネクロノミカンシーだ。ちなみにネクロノミカンシーとはトラヴィール神学の一形式のことであって、要するに真昼の周りに浮かんでいるあの虹色のあぶくを指すと思って頂いてよろしい。まあ実際のところはネクロノミカンシーにも色々あって、あの虹色のあぶくはその術式の一つに過ぎないのだが。

 このネクロノミカンシーは……エドマンド系の術式の中でも非常に基本的なディフェンス・フィールドに過ぎないはずであり、そうだとすれば抑止ラベナイトによって一刀のもとに切り捨てることができるのだが。どうも引っ掛かるものがある。あのデナム・フーツが、抑止ラベナイトを持っている相手に対してあんな脆弱な防御方法を選択するだろうか? そんな愚かなことを、デナム・フーツが? 有り得ないことだ。ということは、なんらかのトラップが仕掛けられている可能性が非常に高い。

 とはいえ。

 生憎なことに。

 四人の娘には。

 これ以外に。

 取れる選択肢は。

 ないのであって。

 行将において、どんなに重要な駒を失う可能性があろうとも、自分の手番になれば駒を動かさないわけにはいかないのと同じことである。ゲームは常に進められなければいけないのだ……自分の勝利が確定しているゲームであれば、特に。とにもかくにも少女二つ分のキューブの流れは、真昼に向かって、二重螺旋を描くような形で驀進してきたのだ。これに対して真昼は迎撃を行わなくてはならない。

 考えられる迎撃の方法は二つある。まず一つ目は、先ほど捕獲したばかりの娘を使うという方法だ。だが、これはあまり賢明な方法とはいえないだろう。この娘の体は、未だ真昼の体に馴染んでいるわけではない。もう少し慣らしてからならともかく、このままでは、一度も撃ったことのない拳銃で的を狙おうとするようなものだ。しかも、その的は、四人の娘なのだからして……この選択肢は論外といっていいだろう。

 ということは、自然、真昼は二つ目の選択肢を選ぶしかない。それは虹色のあぶくを使うということだ。螺旋形を解いて二つの方向から挟み込むように襲い掛かってくるキューブの流れのそれぞれに向かって、真昼は、虹色のあぶくを大量に集めて、一種の盾のような形にして展開する。

 ここまでは、間違いなく、四人の娘……というか、二人の娘が予想していた範囲の行動である。慌てることも騒ぐこともなく、まあ二人の娘はオートマタなのでそれは当然なのだが、とにかく、流れの突端に、抑止ラベナイトをまとった月光刀を突きだす。それら二本の月光刀は、二つの流れを阻む二枚の盾に触れると、いとも易々とそれを切り裂いて。

 その瞬間に。

 デニーの。

 仕掛けた。

 トラップが。

 発動する。

 案の定といってしまえばそれまでだし、まあいわずもがなの話であるのだから、いかにも勿体ぶってわざわざ五行に分けた記述をする必要もなかったのだが。ともあれさもあれ、デニーはトラップを仕掛けていたのだ。真昼の内側に、具体的には、真昼の、その、心臓に。

 読者の皆さんもご存じの通り、その心臓には聖句が纏わり付いている。真昼の周囲の虹色のあぶくを作り出している聖句だ。ただ、一つ注意しておかなければいけないことは、その心臓には更に……魔法円が撃ち込まれているということだ。

 そもそも聖句は、この魔法円によって腹部から心臓へと運ばれてきた魔学式が組み替えられて作られたものである。つまり、これは、「賢しら」の魔法円であって……そして、実は、聖句に対する「賢しら」の効果はまだ失われていないのだ。

 抑止ラベナイトの刃、その切っ先が虹色のあぶくに触れた瞬間に。デニーは、再び、「賢しら」を起動する。真昼の心臓が不整脈のように一際強く鼓動を打って――心臓の異常な鼓動という意味では「ように」ではなく実際に不整脈なのだが――それから、「賢しら」が、聖句を組み替えていく。「裁きの天秤は焼き尽くしの炎と同じ色をしている。しかし犠牲の獣たちとは違い、罪びとたちは主によって救われることはない。罪びとよ、罪びとよ、主のもとにひれ伏して慈悲を乞うがいい。主の軍勢、燃え盛る車輪がお前たちのことを引き潰さぬように」。

 書き換えられる前の聖句は、防御の聖句である。

 一方で。

 この聖句が意味するのは。

 スーサイド・ボミングだ。 

 虹色のあぶくは、月光刀が突き刺さった部分から、何かを吹き込まれたかのように膨れ上がって。それから、すぐさま、二人の娘がその膨張に対してなんらかのアクションを起こす前に、あっさりと破裂した。ただあっさりとはいっても……そのあぶくの内側からは、まるでこの世界の始まりの時、アーキブームにおける存在の大暴走のごとき勢いで、存在による「訂正」の力が吐き出されたのではあったが。

 二人の娘が攻撃したまさにそのポイントから放射状に広がりつつ噴出する「訂正」の力。これこそがデニーの仕掛けたトラップであった。例えば、色鮮やかな風船の中に強酸性の液体をこっそりと仕込んでおくかのように。例えば、誕生日のプレゼントの中に毒のある蠍をこっそりと仕込んでおくかのように。デニーは、真昼の中に、予め「賢しら」の魔法円を仕込んでおいて。二人の娘が攻撃したその瞬間に、虹色のあぶくが力の暴走を起こすように聖句を書き換えたのだ。

 二人の娘は、それぞれの抑止ラベナイト、それぞれの月光刀によって、なんとかその暴走を受け流そうとする。けれども、あまりにも力の方が強過ぎた。月光刀によって切り払っても切り払っても力の勢いは収まることを知らず……とうとう、二人の娘は、その暴力的な「訂正」に飲み込まれてしまって。それほどの「訂正」の力、ASKハンドロイドでも耐えられるものではないのだ。娘を構成している、キューブ状の流れは、哀れにもはちゃめちゃに打ち砕かれてしまって。

 そして。

 そんな。

 屈辱の中で。

 その身に、宣命を受ける。

 いつの間にか真昼は弓を引いていたのだ。放たれた二本の矢は、違えることなく、二つの「受信装置」を貫いていて。「訂正」の力によってMPが低下していた二人の娘は、これを受け入れざるを得なかった。これで五人の娘のうち、三人は侲子として真昼の支配下に置かれたということになる。

 残るは。

 二人だ。

 その二人が何をしていたのかといえば、当初決定された通りの行動をしていた。要するにパンダーラに向かって突進していたということだ。けれども、この行動も、やはりパンダーラとデニーとが予想していた通りの行動なのであって。パンダーラは、既に迎撃の体制を整えていた。

 悍ましいほどに歪み・軋み・狂ってしまった肉体。アストラは、更に、その肉体に対する寄生の度合いを高めていた。赤イヴェール合金でできた多関節の脚は、左半身の全体に範囲を広げていて。しかも、その脚が刺さった部分からは、アストラの銃身を構成しているのと全く同じ、緑色の宝石が、無数の結晶体として発芽し始めていた。その宝石のうちの幾つかは、特に左腕に近い部分に生えたものは、長く長く伸びていて……もともとあった銃身に重なり合うようにして……新しい銃身として変化していた。その結果、アストラは、幾つかのライフルを束ねたような姿となっていて。

 それらの銃口から。

 パンダーラ、は。

 煮え滾る信仰を。

 射撃する。

 その信仰が持つエネルギー量のせいで、「隷属の展開」というフィールド自体が引き裂かれてしまいそうだった。というか、実際に引き裂かれてしまっていた。パンダーラが発射した、絶対的かつ無条件の信仰が通って行った後には。あたかも飛行機雲のようにフィールドの切断面が表れて……とはいえ、すぐさま、その傷跡は修復されてしまったのだが。

 もちろん、二人の娘はその信仰に対してなんらの対応を行わなかったというわけではなくて。自分達が形作っている流れに、その信仰が激突する直前に。ぱっと二手に分かれて、呆気なくそれを避けてしまった。二人の娘は、そのまま二本の流れのままで、真昼に対して行なったのと全く同じように、パンダーラを挟み撃ちにせんと向かっていったのだが。

 その時に。

 パンダーラが。

 声を、あげる。

 ただ、本当に、それは、声と呼んでいいものなのか。なんというか……生命体が出すような音ではなくなっていたのだ。無機的なノイズ、アロフォンのような音。既に、まともに生きていることをやめてしまって、ただ目的物を破壊するためだけの機械になってしまったとでもいわんばかりの、耳障りなアラーム。ギギギギィイイイイイイイイッという、喉の奥を小刻みに擦り合わせて鳴らしたその音は……命令であった。

 何に対する命令か? 信仰に対する命令だ。パンダーラが発生させたその周波数に従って、二人の娘に回避されたところの信仰の力は、ぱんっと弾けて。真っ暗な夜空に煌めく無数の星々、流星群のようにその数を増やした。更に、それらの全ての星々が、急激に向かう方向を回転させて。二人の娘・二つの流れに向かってリターンする。

 ということで、今度は、二人の娘も避けることができなかったようだ。どちらの方向にその向きを転換しようとも、二つの流れを完全に囲い込んでしまった信仰の星々は、あらゆる方向を遮ってしまったのだから。まずは一つ目の星が激突して、二つ目の星、三つ目の星……後は、あたかもレピュトスを滅ぼした硫黄と炎とのごとく、一斉に、二人の娘に、襲い掛かる。

 さて、ちなみにではあるが。パンダーラが、二人の娘が分裂した時点で信仰を破裂させなかったのには理由があった。それはまだその時ではなかったという理由であり……もう少しはっきり言えば、真昼が、まだ、自分の方に向かって来ていた二人の娘への対処を終わらせてなかったという理由だ。そして、今、現時点で、その対処は完全に終了しているのであって。

 つまり。

 何が言いたいのかといえば。

 パンダーラに向かって来た。

 二人の娘に向かって。

 既に、真昼の矢は。

 放たれていたということだ。

 そんなこんなで、残された二人も、あえなく真昼によって虜にされてしまったのであって。「隷属の展開」の内側でふわふわと、所在なさげに浮かんでいる真昼には全く実感が湧かなかったのだが……五人の娘と接続しているという感触を宣命によって伝えられても、その他人事のような感覚はやはりなくならなかったのだが……これにて、めでたくも、デニーとパンダーラと真昼とは、五人の娘を倒すことができたということだ。

 そう、そうなのだ。五人の娘を倒したのはデニーとパンダーラとだけではない。デニーと、パンダーラと、それに真昼なのだ。これは別に大げさでもなんでもなく、たった今行われた戦いの中で最も要となっていたのは、真昼であった。真昼は……戦いに一区切りがついたことで、ようやく、ほんの少しばかり冷静になって考えられるようになっていたのだが(今まではほとんどトリガーハッピーといってもいいような状態だった)(真昼の場合はストリングハッピーとでもいうべきであるが)。それでも、自分が何をしたのかということ、その重要性がいまいち実感できなかった。

 たかが人間が。

 たかが少女が。

 たかが、砂流原真昼が。

 それでも、次第に、次第に、何か、無定形の興奮のようなものが、自分の中で、静かに膨れ上がっていくのを感じる。先ほどまでのストリングハッピー、月の光で凍り付いた殺意としての興奮ではなく、もっと人間らしい、人間じみた、喜びとしての興奮だ。あたしが、あたしが、あたしが。他の誰でもないあたしが、虐げられた人々の戦いで、重要な役割を果たした。砂流原静一郎の娘であるはずの自分が、巨大企業の搾取から人々を守る戦いの中で、なくてはならない戦士となったのだ。

 新聞や、雑誌や、伝説や、神話や。

 様々な物語の中でしか読んだことがないような。

 そんな悪に立ち向かう戦士の一人になったのだ。

 と、そんなふうに、ぼうっとなって、恍惚としてしまっていると。まるで、今までどろどろとした薄暗い闇の中に閉じ込められていたのに、急にその闇が、ぱっと消えてしまって、明るい世界に放り出されたかのような感覚を覚える。べったりと自分に纏わりついていた、他者的な感覚が喪失したような……それは、要するに、バトルフィールドとなっていた「隷属の展開」が突然消え去ったということだった。

「真昼ちゃーん!」

 もちろん。

 それを消したのは。

 デニーで、あって。

「やったねっ!」

 声のした方、つまり背後下方にあるリングの方を見てみると。嬉しさいっぱい楽しさいっぱいみたいな、いかにも無邪気な様子を全身で表しながら、両手を大きく広げてばんざーいみたいなポーズをしているデニーが目に入ってきた。しかも万歳だけでは足りないとでもいうように、しきりにぴょんぴょんと飛び跳ねている。何が良かったのかはよく分からないが、とにもかくにも「良かったね、デニーちゃん!」といいたくなってしまうような、そんなとても可愛らしい仕草だった。

 それはともかくとして、デニーが「隷属の展開」を消したのは、もうそれが必要ないからだ。これを必要としている戦いは終わった。五人の娘は、計画通り、こちらのカードとなったのであって。とはいえ……残念ながら、まだまだ、ティアー・トータには程遠い。デニー達がテーブルの上から取り除くことができたのは「人間」のカードだけなのであって、「王国の栄光」のカードが、最高にして最悪の問題が、残っているのだから。

「さあ!」

 つまり、まだ。

 テーブルの上。

「メインディッシュの時間だよ!」

 ミセス・フィストが。

 残っているのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る