第一部インフェルノ #30
普段の、冷酷といっていいほどに冷静なパンダーラからは想像もつかないほどの獣性だった。牙を剥き出しにした猫科の生き物にも似た壮絶な形相で、何もない空間を蹴って跳ねると。対龍ミサイルもかくやという勢い、五人の娘のうちの一人に向かって空中を疾駆する。
その獣は「オドラデク!」と叫ぶ間もなく対象のいる場所にまでたどり着く。もう少しで羽化しかけている蝶々のように、ぐるぐるにまかれた「まんと」からは月光刀の切っ先が姿を現していた。パンダーラは、ひび割れたかのように血走った目でそれを見下ろしながら。自分の奥歯を噛み砕こうとしているかのように、強く、強く、ぎりりっと歯を食いしばって……左手に持っていた、左手と同化した、アストラを振り上げた。
そのアストラには信仰が纏わりついている。苦痛、惨劇、嘆願、激怒、落涙、狂気、絶叫、そして、もちろん、死。それらの全てが、パンダーラの観念――絶望という希望――を中心に、物質として結晶化していたということだ。つまるところ、それはオレンディスムスの剣であったのだ。その、パンダーラの、アストラは、パンダーラのみの力を剣としたのではない。パンダーラを信じる者達、この絶望的な状況の中で、まだ、なお、パンダーラによって希望を与えられた、ダコイティの力を纏っていたのだ。
そして。
パンダーラは。
そのアストラ。
一人の娘に向かって。
雷槌の如く。
振り下ろす。
「まんと」に包み込まれたままで、娘は、またもや、吹っ飛ばされた。今度は地上へと向かって、可及的速やかに落下していって……機械仕掛けの大地の上に叩き付けられる。もちろんパンダーラの追撃はそこで終わるはずがない。剣として使ったアストラを、今度は、きちんとライフルとして構えて。墜落した娘に向かってフルオートでそれを連射する。
ただ、フルオートとはいっても、対ノリ・メ・タンゲレの時のような、生易しい、制御された「力」を弾丸としているわけではなかった。そんなもので五人の娘にダメージを与えられるはずがないのだ。もっと、もっと、もっと、もっと、強く、強く、強く、強く。要するに、その「力」は、このメインコンプレックスに穴を開けた時と同じレベルの……いや、それどころか、それを遥かに超えるほどの「力」であった。
地上のあらゆるものを滅ぼしてしまう隕石が、しかも一つではなく、流星群のごとく襲い掛かってくる。イメージとしてはそんな感じだった。連続して発射される破滅、破滅、白い破滅。暴力的なほどの観念の強制は、絶対的な密度によって、娘に対して「停止状態」を埋め込もうとする過程なのであり……問題なのは、パンダーラが、その過程に耐えられないということだ。
少し前の説明で書いたように、信仰という「力」は、本来的には最高位にあるマホウ種、神的ゼティウス形而上体にしか受け止めきれないものだ。無論、人間ごときの信仰であれば、それがなんの加工もされていないものであるのならば、さしたるエネルギーを持つものではない。だが、今、パンダーラが使っている「力」は……いわゆるクローズド・ループ的な信仰だ。
まずは、自分の観念を種結晶として、ダコイティの信仰(実はここにはダイモニカスの信仰も含まれているのだが話を分かりやすくするために人間の信仰に限る)を集積する。その次に、その信仰を自分の観念と共振させることによって、ダコイティの信仰を含む自分の信仰として加工するのだ。ここから更に、加工された信仰を種結晶として、更にダコイティの信仰を集積し……というように。この過程を、共同幻想限界点に到達するまで繰り返すことで、オレンダ周波数を限りなく高めていくということだ。
これによって、アストラがまとっている信仰は、一つの観念領域が持ちうる最高の強さにまで高められている。ということで、それほどの力を、魔的ゼティウス形而上体でしかないパンダーラのスナイシャクが耐えられるはずがないのであって……要するに何がいたいのかというと、パンダーラの生命は、急速に分解し始めているということだ。
その肉体を保っている。
魔子間の魂魄相互作用。
急速に、力を失っていって。
そして、パンダーラは。
惨たらしいほどの速度。
影のように。
薄れていく。
このままでは、間違いなくパンダーラは消えてなくなってしまうだろう。思わずそう思ってしまいたくなるような状況であったが、そんなことは決して有り得ないことだ。これが、自分の生命を犠牲にすればミセス・フィストを倒せるとか、そういう状況だったならば。それは、パンダーラだって、喜んで消えてなくなってしまうだろう。だが、今の状況はそんな状況ではない。パンダーラが相手にしているのは五人の娘の、しかもその一人なのだ。この一人を倒せたとして、そんな戦果は、命と引き換えにするにはあまりにも些細な代償だ。
そんなわけで、パンダーラは、ここで消えてなくなるつもりなどさらさらないのであって。ということは、バックアッププランを用意しているということだ。自分の生命の、自分の肉体の、回復のためのプラン。そして今、パンダーラの肉体が限界を迎える前に……そのプランが行動を開始する。
デニーが。
今度は、左手の拳銃。
パンダーラに向けて。
発射したのだ。
一発ではなく、数発の弾丸を。パンダーラとアストラとが一体化した部分を中心にして、断続的に打ち込んでいく。いうまでもなく、それはパンダーラを害するために放たれたものではなく……パンダーラを治癒するための弾丸だ。
内部にジュレ状の物質を閉じ込めた、玉虫色の宝石みたいな弾丸だった。それはパンダーラに着弾するごとに、ぱちんとショットして、内側の物質を飛び散らせる。そのジュレは、赤い色をした、粘着質の、膿漿であって。薄れかけたパンダーラの表面に、べったりと広がってこびりつくと……無定形の集積物となって、胸がむかつくような沸騰を開始する。ぼこぼこと泡立つその泡は、よく見れば、一つ一つが、嘲笑するように歪んだ眼球であって、ねっとりとした指先が現れては消えて、消えては現れる。かすかな輝きを放つその原形質は、しかし、次第に落ち着いてきて、パンダーラになじんでいき……やがて、パンダーラの失われた生命にとっての補助的な物質として、パンダーラと一体化する。
そうやって、パンダーラは。
あくまで応急処置ながらも。
なんとか、その実体を。
保ち続けるのであって。
デニーが発射した弾丸は要するにショゴスの卵であった。ショゴスとは、恐らく読者の皆さんもご存じのことと思われるが、ヴァンス・マテリアル社CEOケヴィン・ヴァンスの息子にして神童と呼ばれるほどの天才少年でもあるジャッコ・ヴァンスが「発見」したとされる物質だ。まあ、実際のところは、ケレイズィと同じ時代に生きた種族であるス・グ・ハが作り出した使役生命体の一種なのだが。それは今はどうでもいい。とにかく、これは非常に原始的な物質で、実のところ科子でも魔子でもなく不定子によって構成されている。そのため、使役者の意思によって、いかようにも変形させることができるのであって。このように一時的な移植組織としても使うことができるのだ。
と、そんなわけで。デニーのフォローによって辛うじて生命を繋ぎ止めることができたパンダーラは、一人目の娘への攻撃に見切りをつけて、次の娘への攻撃へと移る。「まんと」によって区切られた隣の空間では、今にも、その黄色い蛹から、娘の肉体は抜け出そうとしていたのだが……ちょうど、その瞬間に、パンダーラが突っ込んでくる。
本当にぎりぎりではあったが、上半身だけはなんとか抜け出せていたので。すんでのところで、とはいえ下半身は「まんと」に包まれたまま、娘は迎撃態勢に入る。パンダーラが振り下ろしたアストラを月光刀によって受け流して。右手のセミフォルテアは、エネルギーの怒涛が放たれる前に、その腕を撥ね上げることによって、発射の方向を変更する。ハンドロイドらしい大変冷静かつ的確な判断によって、パンダーラ有する二つの驚異的な破壊手段を一時的に逸らすことができた娘だったが。
しかし。
パンダーラには。
まだ、足がある。
残念なことに娘の下半身は封じられていたので、そちらに対して防御の行動を取ることはできなかった。ということで、パンダーラは、なんの遠慮をすることもなく蹴撃の態勢に移ることができた。その足に括りつけられたガンガッラに、全身で膨れ上がり、破裂しそうなほどのエネルギーの全てを注ぎ込む。ガンガッラは、あまりにも大量の魔力に耐え切れず、がりんと噛み砕かれたような音を立ててクラックしたのだが。そんなことはお構いなしに、その足は、娘のこと、全力で蹴り飛ばす。
罅割れた音が罅割れた音を立てる。がりがりがりがり、その音楽は、聴く者の頭蓋骨をそのまま削り落してしまいそうなノイズ。そのノイズが生み出した衝撃波によって……娘の体は、滑稽なほどに思い切りよく、横ざまに吹っ飛んでいく。
ひらひらと柔らかく、優し気に揺らめく「まんと」に激突して。しかしそれを激突と呼んでいいのだろうか、まさに脱ぎ捨てられたマントを剣で突き刺すがごとく、なんの手ごたえもないままに、娘の体は「まんと」を突き抜けていって……隣の空間にいた、三人目の娘に、インパクトする。
三人目の娘は、ようやく「まんと」から完全に抜け出せたところらしかったが。二人目の娘が衝突したことによってほんの一瞬だけその重心が揺らいでしまう。そして、パンダーラは、その一瞬を逃すような生き物ではないのだ。二人目の娘がマントを突き抜けた直後に、やはりそのマントをくぐって空間に飛び込んできたパンダーラは。右の手、セミフォルテアの灼熱によって、その空間ごと、二人の娘の身体を薙ぎ払う。
二人の娘は、やはり、それぞれ別の方向へと、燃え盛りながら飛び散っていって……それぞれの娘の進行方向にあった「まんと」は、あたかも生き物のようにして娘の体に纏わりついていく。そして、またもや、二人の娘は、黄色い蛹に包まれるかのごとくぐるぐる巻きにされてしまうのだ。
ところで、このような。
状況、を、見ていると。
「まんと」がパンダーラの意思に従って動いているように見えるかもしれない。パンダーラがその通行を望む物体についてはそれを通し、一方で、望まない物体についてはそれを包み込んで離さないからだ。だが、その推測は正しくない。「まんと」は、完全に、デニーの意思に従って動いている。
こういった「まんと」の動作も含めて、デニーの行動は、先ほどから、驚くほど完全にパンダーラとシンクロナイズしている。パンダーラが求める場所に「まんと」を配置し、パンダーラが求める時にその体にショゴスを着弾させる。更に、もっと驚くべきことは……デニーがそのようにして完全に自分の求めるものを把握しているということを、パンダーラは、信じ切っているということだ。信じるという言葉さえ足りないだろう、それを所与の条件、当然のこととしてこの戦闘を行っているのだ。
こういう場合、デニーとパンダーラとの間に何らかの通信、例えばデウスパシーによる意思の伝達みたいなものがあると考えるのが普通であるが。実はデニーとパンダーラの間にはそのような通信は一切なされていない。よく考えれば当たり前のことではあるのだが、そんな通信をしてしまえば、五人の娘によって自分達の計画が察知されてしまうからだ。当たり前のように、二人は自分達の思考を完全に閉ざしているのであって……ということで、二人のこのシンクロナイズは、ただ信じ合うことによってのみによって成り立っているということになる。
パンダーラと。
デニーとの間。
悍ましいほど絶対的で。
依存に近いといっても過言ではない。
信頼という名の、紐帯。
ただし、一つ勘違いしてはいけないことがある。例えば真昼などがこの光景を見ていれば(ちなみに真昼はこの段階ではまだ激痛に耐えつつ蹲っている)、恐らくは、二人の対等なパートナーシップに対して感嘆の思いを抱いたことだろう。最前線に立って戦闘を続けるパンダーラと、あくまでもサポート役に徹するデニー。二人は互いに互いを補いながら、各々の役割を過つことなくこなしているのであって……と、こういった考えは、哀れなほどに愚かな間違いを一つ含んでいる。
二人の間には、対等なパートナーシップなど、一切存在していない。冷静になってこの状況をもう一度見てほしいのだが、五人の娘と直接接触しているのはパンダーラだけだ。デニーがいるのは「隷属の展開No.3」の外側、戦闘の影響からは隔絶された場所から、遠距離射撃を行っているだけで。そう、デニーはほとんど自分を危険に晒してはいないのだ。確かにサポートは行っているが、それだけの話であって。
もちろん、ここが安全な場所だというわけではないが。とはいえ、デニーは……実のところ、最低限の危険しか冒したくないタイプなのだ。読者の方々としては、アーガミパータにまで来ておいて何をいっているんだという感じかもしれないが。信じて欲しい、アーガミパータはデニーにとって特別に危険な場所というわけではない。とにかく、この戦いにおいては、デニーは、危険な仕事は、全てパンダーラに任せているということだ。
ということで、繰り返しになってしまうが、二人の間の関係は対等などと呼べるものではない。それは……そう、主人と奴隷みたいなものだ。主人が奴隷について知り尽くしているのは、それが自分の所有物だからであって。奴隷が主人について知り尽くしているのは、刻み込むようにして教え込まされたからであって。それは一つの信頼の形ではあるのだが……とはいえ、パンダーラは、デニーにとっては使い捨ての道具に過ぎない。
そして。
そのこと、は。
パンダーラも。
十分に理解している。
さて、視点をティンガー・ルームの戦闘に戻してみよう。パンダーラが五人の娘のうち、三人の娘を一時的な行動不能に追い込んだところだ。残りの娘の数は二人、ということで、今の状況だけを見てみれば、デニー&パンダーラチームが圧倒的に有利な方向にゲームを進めているように見えるが……オフコース、ナチュラリー、ニードレス・トゥ・セイ、そんなわけがないのであって。
むしろ。
たった今。
この時に。
パンダーラは。
決定的に。
追い詰められている。
少しばかりの空白の時間、今のうちに済ませてしまおうと、シリンダーをスウィング・アウトさせて、素早く装填を行いながら。デニーは、ふと……パンダーラがいる空間から見て、右隣の空間と左隣の空間と、それぞれに目をやった。
それらの空間には残る二人の娘がいて、それぞれが、とうに「まんと」から抜け出していたのだが。それでもパンダーラに向かって襲い掛かる様子はなかった。月光刀を片手で持ち、パンダーラがいる空間へと斜に構えて。何か、祈っているような。あるいは、呪いをかけているような。そのような態度で、全身全霊を傾けて集中しているように見える。
すると……その祈りあるいは呪いに答えるみたいにして。月光刀に纏わりついていたアモイべーが、少しずつ、少しずつ、変化を起こしていたのだ。完全にニュートラルな透明の内側で、天地創造の過程であるかのように、新しい何かがぐらぐらと湧き上がっている。その何かは例えようもなく黒い色をしていた。まるで眠る前に見る夜の世界のようだ。あらゆる思考が途切れる直前に視界の前に広がる光景。虚無ではない、沈黙でもない、それは、そういったものの母親であり、あるいは墓碑銘だ。それは……端的にいえば、概念の断絶。
「わー、たいへーん。」
あるいは。
もう少し。
違う名前で、いうと。
「抑止ラベナイトだあ。」
デニーが、まるで他人事みたいにそう呟いた瞬間に。今までじわじわと変態していたはずのアモイベーが一気に黒い色に染まった。それから……そうなってしまえば、もう待っている必要などないのだ。だから、とても効率的なシステムを埋め込まれているところの二人の娘は、即座に行動を開始する。
パンダーラがいる空間へと至る道のり、塞いでいたのは、右側と左側と、それぞれ一枚ずつの「まんと」。それらは世界がそうあるべきであった一つの存在の形であって。正しさ、純粋さ、訂正、フェト・アザレマカシア、それゆえに、不純物である「現実」からの攻撃は、ほとんど通用しないはずで。
しかし。
二人の少女。
それぞれの一閃。
は。
その「まんと」を。
いとも。
容易く。
裁断する。
先ほどまでとは大違いだった。少女の持つ月光刀、何度も何度も叩き付けることによって、ようやく小さな穴を穿つことができる程度だったのに。その切っ先が軽く撫でただけで「まんと」は真っ二つになってしまった。
デニーは、その光景を、大して慌てた様子もなく見つめながら。けれども、それでも、小さく首を傾げて「んー、あんなにちゃーんと複製できるなんて……さっすがASKだねっ! デニーちゃんも、ちょっとだけ予想外だったよ」とかなんとか呟いた。そう、まさか抑止ラベナイトのレプリカを使ってくるなんて……いや、デニーちゃんは賢いのでそれくらいの想定はしていたのだが、まさかこれほどまでにASKの複製技術が高いものだったなんて。ほんの少しばかり、意外な出来事だったということだ。
抑止ラベナイトとはその名の通り抑止するものだ。何を抑止するのかといえば、存在による浸食である。誰もが知っている通り、この世界は「存在(フェト・アザレマカシア)」「概念(ベルカレンレイン)」「生命(ジュノス)」の三つの原理の平衡によって成り立っている。正確にはこれ以外にも不純物としての前世界原理が混ざってはいるのだが、それは今は置いておこう。とにかく、この三つの原理のうちの存在が、この世界において過剰な状態になった時に。その反作用として抑止ラベナイトが現れる。つまり、この物質には存在という原理を打ち消す力があるということだ。
だから、存在の原理を。
障壁として、応用した。
「まんと」を。
あれほど易々と。
切り払えるのだ。
ちなみに、心底どうでもいいことなのだが、抑止ラベナイトには一つの伝説がある。それはその「抑止ラベナイト」という名称についての伝説だ。人間のうちで初めて抑止ラベナイトを発見した研究者が、彼女は月光人だったのだが、調べても調べてもこの物質について全然理解できない。もっと調べる必要があるのだが、その時には他にもたくさんの仕事を抱えていた。そこで、仕方なく、研究ノートの片隅に「よくしらべないと」と書き殴って放っておいた。さて、後々になってノートを見返した時に……自分で書いたものなのに、そこに書かれた「よくしらべないと」の意味が分からず(研究ノートにわざわざ「良く調べないと」などと書くわけがないという先入観のせいだ)、きっと当時の自分はこの物質を「抑止ラベナイト」と名付けたのだろうと思い込んでしまって。そして、それがそのまま物質名となったという伝説だ。これはどう考えてもそんなわけあるかよって感じの伝説ではあるが、ただし「ラベナイト」という単語にどういう意味があるのか、誰にも分からないというのも事実だ。
閑話。
休題。
とにもかくにも、この展開は、デニーにはなかなか意外性のある展開であって。いうまでもなくパンダーラにとってもシチュエーション・ボラティリティが大きいはずであった。しかし、それにも拘わらず、雪崩れ込んできた二つの体に対して、パンダーラは一切動じることなく。
高々と。
右手を。
上方に。
掲げる。
セミフォルテアによって形作られた右手は、当然ながら肉体ではなく、従って血と肉と骨とによる形状の拘束を受けない。ということは、理論上は、パンダーラの好きな大きさにできるということだ。どうやら……パンダーラはその理論を実践しようとしているらしかった。
がりがりがりと、雷が落ちる時のような音を立てて。パンダーラの右の手のひらがぐわあっと広がる。そう、落雷だ。周囲にあるあらゆる物体を無秩序に壊滅させる、無慈悲なる力の象徴。一、二、三、四、五、合計して五梯の落雷が、一点へとその力を集中して。そして、その力を、パンダーラは、肉を食う獣の本能によって遂行する。
大いなる自然現象が躍っているみたいだ、例えば竜巻だとか渦巻だとか。そういったものみたいに、右の足を支点として、自分の体をぐるんと一回転させる。右の手を、自分の横方向に突き出して。五梯の雷によって、この場所に、絶対の崩壊をもたらそうとしているかのように。
ごうっと、世界を構成している微細な粒子が蒸発する音が聞こえる。そのまま、それらの雷は、月光刀を振りかぶりながら襲い掛かってくる二人の娘を搦め捕って。ぐちゃぐちゃにして弄びながら、それらの二つの体を弾き飛ばした。ただし、二つの体にさほどのダメージはなく……しかも、それほど長い距離を飛ばされていったわけでもなかったのだが。
「んー、良くないね。」
デニーが。
肩を、竦めながら。
あっさりと言った。
二人の娘に、それに……もう二人の娘が加わる。先ほどパンダーラが薙ぎ払って、その後で「まんと」によって包み込まれていたはずの二人だ。その二人の月光刀もやはり抑止ラベナイトを纏っていて、それによって「まんと」から抜け出てきたに違いない。しかも、その二人の前に地面に叩き伏せて、雨のように降り注ぐ信仰によって屈服させていたはずの娘も、たった今、クレーターのように凹んでしまった機械仕掛けの大地から立ち上がったところだった。欠片も感情のないあの仮面のような顔で、静かにパンダーラのことを見上げていて。五人目の娘の、残り一人として、再び戦闘に加わるために……その大地を蹴って勢いよく跳躍する。
パンダーラが獅々だとすれば、五人の娘は狼だった。どちらも肉食動物ではあるが少しばかり性質が違う。圧倒的な力によって覇業を遂げる獅子とは違い、狼には真闇に近い数学がある。情け容赦もなく集団で襲い掛かり、後には骨の欠片さえ残さず、牙と爪とによって食い尽くすということだ。
一人の。
一撃に。
よって。
仕留める。
必要など。
どこにも、ない。
パンダーラは五人の娘を振り払おうとする。反撃しようとする、右手の神力と、左手の信仰と、それに両足に括り付けた魔鈴の力によって。だが無意味なことだ。偉大なる雷によって自分の周囲を打ち払っても、狼は上から襲い掛かってくる。自分の上方に向かってフルオートの掃射を行っても、狼は下から襲い掛かってくる。足を打ち合わせガンガッラの波動を解き放っても、狼は、今度は、横から襲い掛かってくる。追い払っても追い払っても、狼は舞い戻ってきて、パンダーラに対する攻撃の手を緩めることはない。
確かに一撃一撃は大したことはない。せいぜいが月光刀による一太刀だ。パンダーラの肉の上に、すっと一本の切れ目が入るだけ……だが、その真銀は抑止ラベナイトを纏っている。抑止ラベナイトは、先ほど書いたように、存在にとっての猛毒だ。一太刀ごとにパンダーラの肉体にはその毒が浸み込んでいって。存在が、少しずつ、少しずつ、手のひらの中に握りしめた夢の砂のように、さらさらと流れ落ちていって。蓄積されるダメージは確実に致命の域に迫っていくということだ。
「とっても、良くない。」
そんな状況を見ながら。
デニーが、また、呟く。
そういえば、このようにして、さっきからデニーが話している話は。spellを詠唱するためにわざわざ作り出した口ではなく、残りの口、最後の一つ、もともとの口であるところの口で話していたのだけれど……まあ、それはそれとして。デニーは、弾を込め終えたシリンダーをケースに収める。
それから、フロウ・ワークのように優雅なフロウによって、「隷属の展開No.3」に向けての連続的な射撃を再開する。抑止ラベナイトについて、いかにも予想外といった顔をしておきながら……どうやら、そのシリンダーには一発も「まんと」の弾丸を詰めてはいなかったようだ。なんとなく、ぼんやりとであるが、分かってはいたのだろう。自分がこの装弾を終えるころには「まんと」が役立たずになっているだろうということを。
その代わりに、左右両方のHOL-100LDFに込められていたのはショゴス弾であった。今、パンダーラは、あたかも暴れ狂う獅子のごとく、己の肉体が崩壊していくことなどまるでお構いなしに、自らの持つあらゆる「力」を解き放っている。そのせいでパンダーラの全身は蛍光灯の下で揺らめく影よりも曖昧になっており……その生命が、原理と原理とのあわいに、うっとりと吐き出された紫煙のごとく、あわあわと消えて行っても何もおかしくない状況なのだ。ということで、デニーは、一刻も早くその全身を補わなければならなかったのだ。
「まったくもー」くすくすという、あの笑い声。擦笑の合間に、溶けた砂糖のような口調で「パンダーラちゃんは、無茶するんだから!」と口ずさみながら。デニーは、パンダーラの体に、次々にショゴスを着弾させていく。とはいえ、しかしながら、その行為にさしたる意味があるわけではない。全てのショゴス弾はパンダーラの回復に注ぎこんでいるのだし、そのパンダーラはそれほど大きなダメージを五人の娘に与えられていないようであるし。このままでは、作戦における「その時」まで時間を稼ぎ切れるかどうか……難しいところだろう。
事ここに至って、初めて。
デニーは。
ちらりと。
真昼の方に、視線を向ける。
ちょうどこのくらいのタイミングで、手すりに寄りかかりながらも、真昼は立ち上がったところで。ちらりと視線を向けたデニーの左目がspellを唱えるための口となっていたことに対して「うわ、マジかよ」みたいな気持ちになったのだが。それはともかくとして、デニーが見ているのは、真昼自身というよりも、その可能性であるようだった。真昼から引き出せる、最大限の、総合的な、MPについて。デニーが見たところでは……やはり、まだ、真昼に「出させる」ことができるMPの値に比べると、五人の娘のMPを削り足りていないようだった。あと、ほんの、僅か。
「んー……ま、しょーがないか。」
デニーは。
あっさりと。
そう言って。
装填した全ての弾丸を発射し終えた拳銃を、ぴんと立てた人差し指の先、道化たような仕方でくるくると回してから。自分の頭上に向かってぽーんっと放り投げた。全然力が入っているようには見えなかったのだが、思いのほか、その二つの赤イヴェール合金の塊は、高く高く飛んで行って。そのおかげで、デニーの右の手と左の手と、すっぽりと空になる。
「というわけで!」
とても元気よく。
そう独りごちて。
それから……地獄に芽ざす乾いた花は、冬に咲き夏に枯れるという。例えばその花が花開くさまのようにして、デニーの頭上に、ぽんっと穴が開いた。降りしきる雪みたいに、死せる灰を降らせる穴。デナム・フーツのオルタナティヴ・ファクトだ。その穴から、デニーの腕の中へと、何かが落下してくる。
なんというか、明らかに急拵えと分かる物体だった。もう少し遠慮ないいい方をすれば、どうみてもガラクタだ。妙ちきりんというか変てこりんというか、とにかくクィアな形をしていて。長さ一ダブルキュビトの潰れた円筒形、先端にはぐねぐねと曲がった三本のアンテナが突き出している。そのアンテナの周りにはたくさんの鏡が取り付けられてあるのだが、それぞれの鏡がそれぞれのロッドの先に取り付けられていて、なんだか不安になるような角度で向かい合っているのだ。総合的に見るとサイエンス・フィクションのコミックに出てくるビーム砲という感じなのだが、とはいえ、それらの鏡だとか、あるいは左側についている明らかに目覚まし時計らしきものとか、照準器があるべきところにおしゃれなサングラスが括り付けられているところとか、全体として、どう考えても意味が分からないところが多過ぎた。
恐らく、ダコイティの森。
廃材や残骸やの材料から。
デニーが作った秘密兵器。
そのうちの一つなのだろう。
そんなビーム砲(仮)を腕の中にキャッチすると。デニーは、ぴこーんという感じで、シューティング・ゲームでもしているみたいに「隷属の展開No.3」に砲口を向けた。照準器替わりのサングラスに両目を合わせる。可及的速やかに狙うべき対象に狙いを定める。そして、その口が、可愛らしく、「どーんといっちゃうよ!」と宣告を下すと同時に……デニーは、ビーム砲(仮)の引き金らしきレバーをぐいっと引いた。
まあ、レバーと、いっても。
それはバナナだったのだが。
じりりりりりりりりん!と耳障りな音を立てて目覚まし時計が鳴り響く。その音自体には意味がないはずなのだが、なんとなく景気づけに鳴らしただけなのだろう。とにかく、その音が耳をつんざくとともに、三本のアンテナに不思議なパワーが集まってくる。それは本当に不思議なパワーで、どうやら宇宙的ななんたらかんたらがアレらしい。宇宙的な何それが宇宙的にどうしたこうしたして、とにかく宇宙的なのだ。ほら、すごい宇宙的!
と、そんなわけで、説明を読むのがそろそろ面倒になってきた読者の皆さんのために詳しいことはばばーっと省いてしまったわけだが。アンテナとアンテナとアンテナとの間に発生したリベン・ガロンは、トリス・アステロイドの作法によって不可逆的に練力されて。一つの、束ねられた、分解力へと、変化し……びびびーっと、まさにコミック的なビームとして発射される。
なんとなく。
どこがというわけではないのであるが。
見るものを、馬鹿にしているみたいな。
そんなビームだった。
アンテナの前方に取り付けられた鏡、鏡、鏡、発射されたビームは、鏡と鏡の間を次々と反射しまくって。その反射自体には意味がないはずなのだが、なんとなくきらきらして綺麗だから反射させているだけなのだろう。とにかく、ぴかっぴかっぴかっと、ビーム砲(仮)に取り付けられた全ての鏡を光らせた後で。そのビームは「隷属の展開No.3」に向かって素っ飛んでいく。
いうまでもなく。
標的は。
五人の娘だ。
だからビームはたった一本では足りないのであって。そのため、これは素晴らしく論理的な行動だと思うのだが、「隷属の展開No.3」に入射すると同時に、一本のビームは五本のビームへと分裂した。
対する五人の娘は……これだけ馬鹿みたいに騒がしく、これだけ馬鹿みたいにぴかぴかしていたので。ビームの接近に気が付いていないわけがなかった。だからこそビームから逃れるために、一時的にパンダーラから離れて、五人それぞれの方向へと、四散というか五散しようとしたのだが。残念なことに、それこそがデニーの望んでいた行動だった。
思い出して欲しい、「隷属の展開No.3」の効果を。それは阻害だ、五人の娘がある行動をとろうとした時に、その反対へと向かう強制力を働かせるということ。もちろん、今、五人の娘が、別々の方向へと向かおうとした時に。その反対の方向へと引っ張る力が働いたのであって……その阻害のせいで、五人の娘の身体は、一時的に、小さなキューブの塊になりかけてしまう。
ディスラプト。
キューブとキューブとの隙間。
滑り込むみたいにして。
分解の力、そのビーム。
五人の娘の身体に。
渦巻いて、絡み付く。
デニーが使用したビーム砲(仮)は、シャッガイでは端的に「良き監視者」と呼ばれている。いや、シャッガイで使われている「良き監視者」には鏡も目覚まし時計もサングラスもバナナも使われていないし、そもそも発射されるビームもこんな小馬鹿にした感じのビームではなくもう少し真面目なビームなのではあるが。それはそれとして、主に「隷属の展開」シリーズ(当然ながら「No.3」の他にも様々な種類があるのだ)に付随して使われる道具だ。フィールドの内部に閉じ込めた物体がspell bringerによる強制力に従わない時に、その物体の自己親和力に対して攻撃を仕掛けるように星芒形変質させたリベン・ガロンを放出する機能がある。
いうまでもなくリベン・ガロンは統一力から下位系統発生した力であって(系統樹においてはコズミック・パワーに分類)、その一方で「隷属の展開No.3」は一種の魔学フィールドだ。科学的な力と魔学的な力では、全く異なる力であるのだし、そんな共成関係は成り立たないのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが……そんな心配は、一切必要ない。
なぜなら#13で一度説明したように、魔学と科学とは「全く異なる力」などではないからだ。これらは等しく前世界原理の一種であり、この広大なる大宇宙(強調の重言)においては、それこそリュケイオン以前の借星のように、この二つの方法を区別することなく使用している星々も多いのだ。そして、シャッガイも、そんな星々のうちの一つということである。
とにかく、「良き監視者」の効果を簡単に表現するとすると。ちょっと前にも書いたことであるが、それは分解力である。自己親和力が低下した物体は、完全に崩壊することはないとしても、全体としての一体性を損なうことになってしまい。その結果として、当然ながら最小単位としてのパーセルごとに疑似的な遊離状態へと陥る。つまるところ、五人の娘でいうならば、少女としての姿を保てなくなり、蠢き続ける極小のキューブの集合体となってしまうということである。
五人の娘のそれぞれの体に、幾つもの関節に分かれている長い長い指先みたいにして絡まったビームは。ある種のドミトルが生命体の一つ一つの細胞に対して寄生を行うように、キューブ、キューブ、キューブ、少女形状の欠片としてのキューブに対して少しばかり激しすぎる愛撫を行う。キューブが放っていた、うっすらとした紫色の光を、開かれた口の中から唾液を啜りだすようにして啜りだしてしまい……損傷を受けた五人の娘は、そうあるべき形状を保てなくなってしまう。
要するに。
とても。
可塑的。
小さな、小さな。
方形が集まった。
五つの。
スリムニー。
もしかして、それの一体どこが問題なのかと訝しがる方もいるかもしれない。以前デニーと戦闘を行った時に、五人の娘は、自分からこういう不定形の状態へと分裂して。その状態のままでも十分に、それどころかその状態であるからこそ、デニーに対しての極度の脅威となったのだから。
しかし、よく考えてみて欲しい。状況は、その時とは大きく異なっているのだ。たった今、五人の娘が戦闘の場としているのは「隷属の展開No.3」の内部なのである。そのフィールドにおいて五人の娘の全身には常に強制力が働いており、その強制力に抗し続けなければいけないのだ。
これは魔学・科学共通の般理であり、わざわざこんなことを書くのは馬鹿みたいなのだが、その力の主体がより大きいほどその力自体もより大きいものとなる。所詮は般理でしかないので、無論のこと、例外はあるとはいえ……例えば今回のケースにおいて、小さな小さな立方体の状態と一つの大きな少女の形と、どちらが抵抗力が大きいのかといえば、少女の形の方が断然大きいことは間違いのないことなのだ。強制力の影響を受ける表面積の問題とかもあるしね、とにかく、そういうことで、フィールド内でシャッフル・リプロダクションの形状を取るというのは、五人の娘にとってはなるべく避けたいシチュエーションなのである。
だからこそ今回の戦いに際して、五人の娘はわざわざ武器を持参してきたのだ。ASKに蓄積されたデータの中には当然ながらデニーがシャッガイを訪れたという情報も含まれていて。デニーがシャンの魔学や科学やを使うということは、ASKは既に知っていたのだ。恐らくシャッフル・リプロダクションは封じられるだろうという予想の下で、別の攻撃方法が必要であると判断した、ということである。
ちなみに、そもそもの話として、デニーがシャッガイにおける魔学だの科学だのによる攻撃をしてくるということが分かっているのであれば、それに対するなんらかの特別な防御方法を用意しておくべきだったのではないかと思うかもしれないが。そうすることは様々な理由からあまり有益ではないと判断されていた。まず、第一に、Mrs. Fist and her five daughtersは借星での行動に最適化されたハンドロイドなので、シャッガイに特有の統一法則学に対する抵抗力がほとんどない。もしもそういう抵抗力を付与しようとするならば非常に高度な改造が必要になっていただろう。それは費用対効果の観点から望ましいことではなかった。そして、第二に、ASKはシャッガイにも支店を有しているし、シャッガイにはシャッガイに最適化されたハンドロイドがある。そのハンドロイドを利用するという方策であるが、これもまたあまり効果があるとはいえない。シャッガイに最適化されたハンドロイドはシャッガイに最適化されたハンドロイドであり、今度は借星における法則に対する抵抗力に欠ける。デニーが、普通の法則で普通に攻撃してきた場合、その攻撃に対して非常に脆弱だということだ。とてもではないが役に立つとはいいがたい。
とにもかくにも。
そのようにして。
弥縫の対策を講じていたが。
それでも、今。
無理やりその状態に。
避けたかった状態に。
追い込まれてしまったのだ。
五人の娘は。
まるで、ブロック・ノイズがかかった。
立体映像のような、そんな姿のままで。
とはいえ、カードゲームというのは配られたカードで勝負するしかないのであって。この姿で戦わなければいけないというのならばこの姿で戦わなければいけないのだ。ということで、五人の娘は、人間のようにびーだのぴーだの文句を宣うこともなく、すぐさま戦闘方法の変更を実施する。
あまり離れてしまえば相互作用を保てなくなる可能性もあるが、とはいえ再び一つの物体に戻るのは不可能であるために。自然と、五人の娘は、それぞれのキューブの支流を混ぜ合わせて、一つの本流へと収束していく。その本流には、浮き上がっては沈み、沈んでは浮き上がる、罅割れた仮面のような五つの頭部と……それに、ぐねぐねとのたくる無数の腕が生えている。
「良き監視者」のビーム、感染してしまったエネルギーが、その流動の中で時折がりがりと音を立てながら、キューブとキューブとの合体を阻んでいる。それでも「腕」はなんとか「腕」としての形を保ったままで……五本の月光刀、抑止ラベナイトを纏っているそれらの兵器を、ある腕から別の腕へと、流れの上を縦横無尽にリレーしていくのだ。
そして、流動自体はパンダーラの周囲、包み込むみたいにしてぐるぐると渦を巻いて。いや、渦というよりも一つの球体に近いのかもしれない、上下左右前後、あらゆる方向に流れている流動は。その中心にいるパンダーラに向かって月光刀による斬撃を放ち続けている。基本的に、やっていることは、五人の娘が少女の姿をとっていた時と同じことだということだ。
それに対して、パンダーラも。
基本的には、今までと同じ戦闘方法で対応する。
即ち、信仰と神力と、それに舞踏ということだ。
ということは。
無論。
それに伴うダメージの。
修復の必要があるのだ。
そんなわけでデニーの方に視線を戻してみると。ビームが五人の娘のことを捕捉した直後に、その手に持っていた「良き監視者」のことをぶえーんと放り捨ててしまっていた。どうせこんな急拵えの代物では一発しか発射できないのだし、後生大事に抱えていても仕方がないからだ。それよりも、今必要なのは……くるくると、未だに回転を続けながら、こちらに向かって落下してきた二挺のHOL-100LDFの方である。
Put your hands up。
なんだか楽し気にハンズアップした。
デニーの、左右の、ハンズの、中に。
それら二挺の拳銃は。
すっぽりと収まって。
どういう仕組みでそうなったのかはよく分からないのだが、頭上に向かって放り投げられていた間に、ショゴス弾の装填は終わっていたようだ。いつのまにか弾薬で満たされたシリンダーは、銃本体がデニーの手のひらの中に納まるとともに、かしゃんという音を立てながらケースの中に戻って。そして、デニーは、球形の流動、その中に閉じ込められたパンダーラに向かって、その身体を再生するための連射を再開する。
弾丸は液晶にも似た流動を貫通し、内部のパンダーラへと到達する。そのパンダーラは、ぱっと見ただけでは……もしかすると、この状態になる前、五人の娘がキューブの形ではなく少女の形であった時よりも、追い詰められているように見えるかもしれない。少女を相手にしていた時は、少なくとも攻撃に隙間があった(ように見えた)。比較的大きな五つの固塊が断続的に攻撃を仕掛けてきていただけであったからだ。それに比べて、今、周囲を覆い隠している流動には……どう見ても、どこにも隙間がない。猫の口の中に閉じ込められた鼠のように、パンダーラはなすが儘にいたぶられるしかない(ように見える)。
一方で、パンダーラの攻撃はというと。これがまた月の光を切り裂こうとしているかのように手ごたえがないのだ。アストラで打ち抜こうとしても、セミフォルテアで薙ぎ払おうとしても、鈴の音で吹き飛ばそうとしても。流動は毛ほどの反応も示さない。攻撃が当たった瞬間だけ、攻撃が当たった部分だけ、ぱんっという音を立てて、外側に向かって弾けたりはするが。あくまで一時的なことであって、すぐさま元の球形に戻ってしまう。こんな状態では、デニーがしたこと、かえって逆効果だったのかと思えてしまうかもしれないのだが……それは大きな間違いだ。
デニーの作戦は。
功を奏している。
それも、面白いほどに。
まず誤解がないようにいっておくが、少女の形をしている時であってもキューブの形をしている時であっても、五人の娘の攻撃に隙などあるはずがない。確かに見た目の上では、今行われている攻撃の方がより密集したもののように見えなくもないが。少女の形を相手にしていた先ほどとて、パンダーラには逃れることなどできなかったのだ。ASKハンドロイドの最高傑作といってもいい「五人の娘」、自らの形状をどのように変えようが隙などあるはずもない。となれば、月光刀による斬撃という攻撃方法も変わっていない以上、パンダーラが受ける攻撃の危険度はほとんど変わってないといえるだろう。
一方で、五人の娘に対して行われている攻撃であるが……これは、劇的に、強力になっている。ここで注意して欲しいのは、五人の娘を攻撃しているのはパンダーラだけではないということだ。デニーも、攻撃を、行っている。何度も何度も書いているように、「隷属の展開No.3」は五人の娘に対して強制力を働かせている。その強制力は、五人の娘が分解されて微細なキューブとなったことで、強く強く浸透し始めているのだ。体積が小さくなったことで、より深く。表面積が大きくなったことで、より多く。これによって、強制力は、一層、五人の娘を、モーティファイすることとなって……そう、そのMPを減少させている。
そもそもデニーとパンダーラとは何を目的として五人の娘との戦闘を繰り広げているのか? 五人の娘を破壊するという目的ではないことは確かだ。通常状態のデニーならともかく今のデニーにそんなことをする力などない。デニーと、パンダーラと、その目的は。つまりは五人の娘のMPを減少させることだ。パンダーラによる攻撃も、実のところ、それを目的として行われていた。MPというのは通常攻撃で受けるダメージによっても減っていくのだし、それに信仰による攻撃はMPを大幅に減らすことができる。
それでは、一体、どの程度減らす必要があるのか?
それは……そのMPが。
真昼の出力可能MPを下回るまで。
要するに、真昼が。
侲子術に、よって。
五人の娘を。
屈服させることが。
できるようになるまで。
そして、その時は急速に近づいているようだった。見た目だけでは全然分からないのだが、デニーやパンダーラやのようにMPを感じ取れる生き物が感覚する限りにおいて、五人の娘のMPは、凄まじい勢いで低下していっている。
あと少し、あと少しだ。ということは、次の段階に至るための準備をしておかなければいけない。いざその時になって慌てるような愚かな真似をするのは、人間のように下等で愚昧な種族ならともかく、デニーのように強くて賢い知的生命体には全く似合わないのであって。だから、デニーは……計画の第二段階、その準備を開始する。
具体的には。
真昼に、向かって。
再び銃口を向けて。
「先に謝っておくね。」
ばんっ。
ばんっ。
二発の、銃弾を。
放つということ。
「真昼ちゃん、ごめん!」
真昼としては(おいおいまたかよ!)みたいな感じであろうが。その通り、またなのだ。二発の銃弾は微妙に時間をずらして発射されたため、まずは初弾が、せっかく苦労しいしい立ち上がった真昼の心臓を打ち抜く。その着弾時のエネルギーのせいで、真昼の上半身は、まるで柵を乗り越えて落下してしまいそうなくらい仰け反ってしまうのだが。それはそれとして、真昼は……先ほどの弾丸とは全く違う感覚を、その弾丸から感じていた。
なんというか。
普通に、痛い。
いや、痛いというよりも。
もっともっと危険な感覚。
鋭利に凍り付いた炎に貫かれたかのように。
ひどく冷たい衝撃が、自分の内側を犯して。
自分の内側が、弾け飛んでしまったように。
熱い。
熱い。
熱い。
熱い。
激痛が、脊髄を通じて脳に到達し。
思考する内臓を一つ一つ抉り取る。
叫び声を上げようとするのだ。
すると、その声に伴う振動が。
何か大切なものを。
流出させてしまう。
駄目だ。
駄目だ。
これは駄目だ。
死んでしまう。
呼吸さえもままならず、ぱくぱくと、死にかけた金魚のように口を動かしながら、一体何が起こったのかと自分の胸のところを見下ろす。すると、そこに穴が開いていた。信じられないくらい真っ黒く、ぽっかりと開いた穴。なんというか……物理的な穴というよりも、穴という概念そのものみたいに。真昼の体には、大きな大きな穴が開いていて。
そう、それはとても大きい穴だった。いや、大きいというか、真昼が見ているうちにも、どんどんどんどんと大きくなっていって。やがて、があっと開いた口の中に落ちていくみたいにして、真昼はその穴に飲み込まれてしまう。真昼には何が起こっているのか分からなかった、とにかく自分がどこかに落ちていくのを感じているのだが、どこに落ちていくのか、それどころか自分がなぜ落ちて行っているのかも分からない。自分の体の中に落ちて行っている? デニーが発射した弾丸で、こじ開けられた傷口の中に? 意味が分からない、そんなことが有り得るわけない。
しかしながら、真昼は。
実際に、落ちていって。
そして。
それから。
気が付くと。
月光国岸母邦にある、砂流原邸。
真昼が幼いころに住んでいた家。
その家の。
ベランダに。
立っていた。
静一郎の仕事の都合のため、今でこそ夜刀浦邦に住んでいるが。ずっとずっと昔、それこそ幼稚園に通うくらいの年齢だった頃には、真昼は、月光国の最南端に位置していて、華麗なる砂流原一族の本拠地である、岸母邦に住んでいた。たった今「華麗なる」という形容詞を付けたことからも分かるように、砂流原の一族は月光国の中でもかなり有力なクランを形成していたのであって。その本拠地に建てられた砂流原邸、つまり真昼が当時住んでいた家も、それはそれはお高そうな豪邸であった。
第二次神人間大戦以前に建てられた、いわゆるモダンなパンピュリア式建築であるこの建物には、一つとても珍しい特徴がある。それは廊下というものが存在しないということだ。この建物は、食堂に広間、応接室に勉強室、はては温室までが揃っているのだが。その全ての部屋が外側に取り付けられたベランダによって繋がっている。部屋と部屋との接続はまるでブロックを組み立てたようにして複雑に組み立てられていて、それらの部屋、必ずどこかの壁が外側に面しているということだ。それに部屋同士もドアによって行き来できるようになっているため、わざわざ内側に廊下を作る必要がなかったのである。
そのベランダもまた洒落たつくりをしていて、まず下に敷かれている石敷は、なんとその全てが績灰石だ。また、雨が降っても往来できるように全面的に屋根が取り付けられていて、その屋根をアーケード付きの円柱が支えている。格子になったアーケードもシンプルに仕上げられた円柱も岸母産の檜を使用していて、つややかな赤みが出るまで磨き抜かれている。屋根と、それに涼しげなアーケードのおかげで、ベランダの全体は室内の延長のような形になっていて、そのためにこの家の全体が鷹揚とした寛げる空間となっているのだ。
さて。
真昼は。
いつの間にか。
そのベランダ。
星の、ない、夜、に。
立っていた。
全く状況が理解できなかった。先ほどまで、自分は、アーガミパータにいたはずではなかったか? アヴィアダヴ・コンダにあるASKの支店で、デニー及びパンダーラと一緒に、ミセス・フィストと五人の娘との戦闘を繰り広げていたはずではなかったか? それなのに、なぜこんな場所に立っているのだろう。
ゆらゆらと揺らめくように現実感を喪失していって、混乱の中でただ漂うしかない真昼のことを、月だけが照らし出していた。ベランダに差し込むその光は、ちょうど九夜月、まるで嘲笑う蛇であるかのように禍事じみた形をしていて。真昼は……その形に見覚えがあった。
月の形、というか、それだけでなく、この状況全てに覚えがあった。恐ろしい月に怯えてしまって、星々が隠れてしまっているような夜。肺に吸い込むと痛くなってしまいそうなほど冷たい空気。虫の声一つ聞こえないほど静かな中で、耳鳴りだけが聞こえていて。月の光に照らし出されて、青白く燃えているような自分の肌の色。間違いない、これは、一度経験したことがある出来事だ。そして、もう、二度と経験したくない出来事。
これは。
あの日。
真昼が五歳の時。
真昼の人生の、全部を。
変えてしまった出来事。
月光人にしては珍しいことなのだが、この当時、真昼には既に自分の部屋があった。まあ砂流原邸はめっちゃ広かったし、寝室もいっぱいあったのでそのせいなのだろう。もしかして静一郎が子供にたっぷり愛を注ぐタイプではなかった(婉曲的な表現)というのも一因なのかもしれない。とにかく、真昼は自分の部屋にある自分のベッドで一人で寝ていて……その夜は、トイレに行きたくなって目が覚めてしまったのだ。
こういうことは割合によくあることで、なぜかというと母親である正子が大変な心配性で、夜寝る前に必ず真昼にコップ一杯の水を飲ませていたからなのだが(夜寝てるうちに脱水症を起こして死んでしまうことを恐れていたらしい)、そんなわけで真昼は夜に一人でトイレに行くことに慣れていた。子供らしい恐怖感など起こすこともなく、ただ淡々とトイレに行き、するべきことをすませ、自分の部屋に帰ろうとしていた。
と、その時に。何か、突然、良くないことが起こりそうな予感がしたのだ。具体的に何がどうというわけではないのだが、なんとはなしに、自分の体の中で、骨が凍り付いてしまいそうな、血液が透き通っていくような、例えばそんな感覚だった。
とはいえ、その良くないことは、自分の体の中で起きることではない。それならば、どこで起こるのか……それは……まるで、この夜の、月の光に導かれるかのようにして……真昼は、自分が、両親の寝室へと歩いて行っていることに気が付いた。
その方向に歩いて行ってはいけないということは知っていた。けれども、まるで足が勝手に動いていくかのように。その足に、自動的に運ばれていくかのように。真昼は、ほとんど恐れ慄きながらも、歩いていくことしかできなかったのだ。右側に、透明な温室のガラス壁を見て。そのガラスに映し出されている、自分の顔、死んでしまっているように無表情な自分の顔。通り過ぎて、更に奥へ奥へと進んで行き……その場所へと辿り着く。
静まり返っていてドアの外からでは何も聞こえない。今、この中にいるのは、正子だけであるはずだった。静一郎は出張が多く、いつもいつも家を空けていて、そのせいでこの寝室はほとんど正子一人の寝室であるみたいに使われていた。この夜も、静一郎はどこかに出掛けていて。真昼は、音を立てないように、音を立ててしまって、何かとても恐ろしいものに見つからないように、そっとそのドアに触れてみた。
指先に触れる木材の感触。
このドアは閉まっている。
そして、その向こうでは。
何か、取り返しのつかないほど。
良くないことが、起こっている。
開くな、開くな、開くな、この扉を開くな。自分にそういい聞かせる。けれども、無意味だった。なぜならこれは既に起こってしまったことで、変えることのできない運命なのだから。真昼の指先は戸板を滑って、抗いようもなくノブに絡み付いて。それから、そのノブを、ゆっくりと回転させる。
ドアが開く。
きいぃという音。
その軋む音は。
死ぬ前の人が。
最後に息をする。
その音みたいで。
普段であれば、五歳の真昼にとって、その寝室は信じられないくらい広々としていたのだが(実際はまあこれくらいの豪邸であれば標準的かなというレベル)。その日はやけに狭くて、例えば何かの生き物の胃袋みたいに真昼のことを圧迫してくるように感じた。それは、その部屋に明かりがついていなかったからということが主な原因であったのだろう。部屋の中は、ほとんど真っ暗といってもいい状態で。唯一の光といえば、窓から差し込む月の光が、天井のシャンデリアにきらきらと反射して、おままごとみたいに光っているその光だけだった。
だから、目がこの暗さに慣れてくるまでは、視覚的な情報は手に入らなかったのだけれど。ただ……変な匂いがした。十分に甘やかされて育った(甘やかしていたのは大体が使用人さん達だけど)、まだ五歳の真昼には、あまり馴染みのない匂い。強いて似ている匂いをあげれば、なんとなく、トマトに似てる気がする。よく煮込んで、とろとろに溶けたトマトの匂い。でも、全然違うような気もする。一体、この匂いは、なんの匂いだろう。
そんなことを考えているうちに、真昼の目が、少しだけこの暗さに慣れてきた。すると……何か動いているものが目に入ってくる。動いているといっても、それは大きな動きというわけではなく、どちらかというと、僅かに震えているような、呼吸をしている時の体の上下運動を、ほんの少し大袈裟にしたような感じ。その動いているものは、大体大人の体くらいの大きさをしていて……部屋の片側の壁、作り付けの暖炉の近くに蹲っていた。
この時に逃げていれば良かったのだ。そうすれば、まだ無垢な少女でいられたのかもしれない。無垢な少女でいることが良いことなのかどうなのか分からないが、それにしたって高校時代の思い出に地獄で悪魔と踊ることになるよりはよっぽどましであろう。この部屋から逃げ出して、大きな声で助けを呼んで、住み込みの使用人さん達に助けてもらうのだ。けれども、真昼はそうしないで――大変、大変、真昼らしく、大変、大変、愚かなことに――その蹲っている、黒い影に向かって、歩き始めていたのだ。
助けを、助けを求められている気がしたのだ。育ちのいい真昼は悪意など知らなかった。純粋な愛情が呪いと呼ばれることがあることも知らなかった。だから、助けを求められれば、行かないわけにはいかなかったのだ。それでも、できる限り足音は立てないように――夜のお化けに見つからないように――慎重に、慎重に、歩いていく。
と、足が何かを踏んだ。正確にいえば踏んだのはその足が履いているスリッパであったが、べったりとして、広がっていて、足の裏に膠着する、何かの粘液。真昼はちょっと足を上げて、何がくっついたのか見てみる。真っ暗でよく見えない、赤いもののような気がする。それに、たぶん、部屋に充満しているトマトみたいな匂いは、この粘液からしているようだ。なんだか……それ以上考えてはいけないような気がして、真昼はそっと足を下ろして、目の前の蹲っているものに向かって、また歩き出した。
べちゃり。
べちゃり。
べちゃり。
粘液の上を歩いていく。どうやら粘液は蹲っているものから流れ出しているらしく。だから、絨毯の上に溜まっているその液体を踏み越えていかなければ近付くことが出来ないのだ。一度踏むごとに、なんだか、とてもいけないことをしているような。踏み躙ってはいけないものを踏み躙っているような気分になってきて。それでも、真昼は、進んでいって。
子供の歩幅。
小さな歩幅。
それでもすぐに。
暖炉の前に。
辿り着く。
これほど近くで見るとそれが人の形だということが分かる。真昼よりも随分と大きくて、柔らかなフォルムをしていて。恐らくは成人している女性だろうと思われた。寝間着らしい浴衣を着ていて、薄く蒼褪めたような、淡い色合いの白。まるで海を流れていく椿の葬列みたいにして、一筋の赤い模様が描かれている。
いや。
それは。
本当に。
模様なのか?
赤い模様は、着物の上だけではなく、その人の形の首筋から流れ出していた。花びら、花びら、散ることもなく落ちていく花びら。人の形、人形。そう、これが人であるはずがない。これが、真昼の知っている、あの人であるはずがない。あの人が、こんなに、透き通るように、血の気が引いた肌の色をしているはずがない。あの人が、こんなに、力なく、暖炉の横に、倒れているはずがない。あの人が……あの人が……死ぬわけがない。なぜなら子供にとって大人は死ぬわけがない生き物だからだ。特に、自分が、愛している、大人が、死ぬわけがないのだ。
だから、そんなわけない。
この人の形をしたものが。
お母さんで。
あるわけがない。
ゆっくりと、振り返る、真昼が、見下ろしている、顔の形が。首を動かすと、その首筋から、たらたらと花びらが滴り落ちる。醜く黒ずんだ液状の花びらは、浴衣の上に柔らかく滲んで、新しい模様を形成する。
お母さんに良く似た顔がこちらを見ていた。でも、これがお母さんであるはずがない。お母さんはこんなに青い顔をしていないし、お母さんはこんなに歪んだ顔をしていないからだ。吐息を吐き出して、その吐息が凍り付くような温かさで真昼の頬を撫でた。月の光に沈んでいる影、きっと、これは、夜のお化け。夜のお化けがお母さんのふりをして、こちらを見ている。
夜のお化けには二本の腕があった。その二本の腕を、真昼に向かって伸ばしてくる。べちゃっという鈍い音がした、夜のお化けが右の手に持っていた、何かが下に落ちたらしい。赤く濡れた包丁は、そこに落ちたまま、死んだように動かない。真昼に伸びてくる二本の腕。真昼は本能的に逃れようとするが、それなのに体が動かない。あまりにも大き過ぎる恐怖を感じた時に、人間という生き物は、全身に力が入らなくなってしまい、まるで蝋でできた人形の中に脳髄だけが閉じ込められたような状態になるということを、この時真昼は初めて知ったのだった。
伸びてくる腕。
その先の手のひら。
真昼の肩に触れて。
服越しに撫でられてさえ、その指の冷たさが理解出来るようだった。触れられたところから何かに感染してしまったかのように鳥肌が立つ。けれども、夜のお化けの行動は、真昼に触れただけでは終わらなかった。弱々しく、それでも決して逃がさないという強い意志とともに、その肩をぎゅっと掴んで。それから真昼の体を自分の方へと引き寄せたのだ。
抵抗することもできず、なすがままに引っ張られる真昼。その体は、そのまま、夜のお化けの胸の中に、ぽすっという音を立てて収まって。真昼の顔が、着物の模様、濡れた部分にべちゃりとくっつく。強い強い、トマトに似たあの匂い。
夜のお化けは、暫くの間、そんな風にして真昼のことを抱き締めていたのだけれど。やがて、不意に、真昼の体を自分から離した。けれども真昼のことを手放す様子はなく、かえって、しっかりと、両方の手のひらで、その頬を挟んだ。
真昼は吐きそうになっていた。でも、嘔吐しようとして開いた口から出るのは、あっ、あっ、という痙攣のような声だけで。涙すら流すことができず、手と手との間に頬を挟まれているしかなかった。夜のお化けの手は、あのべったりとした液体で汚れていて。その汚れが、真昼の頬に、薄く広く伸ばされていく。真昼も、やはり、汚れていく。
また夜のお化けが近付いてきた。今度はその顔を、真昼の顔に近付けてきたのだ。ほとんど脊髄の反応として、真昼はぎゅっと目をつむる。目をつむってしまえば夜のお化けもいなくなるとでも思っているかのように。もちろんそんなわけもなく、あの吐息、今はもう熱くさえ感じるような吐息が、どんどんと近づいてくる。食べられてしまう、食べられてしまう、食べられてしまう。その口、夜のお化けの口は……でも、真昼のことを食べることなく、静かに、ゆっくりと、真昼の耳に近づいてくる。
そして。
それから。
声が。
聞こえる。
「真昼。」
掠れた声。
死にかけた声。
お母さんのものであるはずがない声。
それでも、それは。
間違いようもなく。
お母さんの声。
「お父さんは、人殺しなの。」
お母さんはお母さんではなく夜のお化けだった。首筋からだらだらと血を流しながら、真昼の耳元で言葉を囁く夜のお化け。言葉、呪い、そしてそれは真実。お母さんは自分で自分の首を掻き切った、包丁を使って自分で自分の首を掻き切った。死にかけた呼吸、死にかけた双眸。血に濡れた息を吐きながら、真昼に呪いをかけた。あの日、あの夜、真昼が五歳だった時。お父さんは、人殺しなの。お父さんは、人殺しなの。お父さんは、人殺しなの。その通り、静一郎は人殺しだ。あの日、あの夜、真昼が五歳だった時、真昼は初めてそのことを知った。お母さんに、夜のお化けに告げられて。お母さんが死んじゃう、お母さんが死んじゃう、お母さんが死んじゃう。そして、お父さんは、人殺し。
全然訳が分からない。
どうしていいのか分からない。
正しくない世界。
間違っている愛。
全てが。
全てが。
この日を境に狂ってしまい。
閉じ込められた記憶の中で。
真昼は。
狂ったように。
絶叫する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。