第一部インフェルノ #29
静かで。
透明で。
綺麗で。
冷たくて。
そして。
どこまでも。
どこまでも。
フェイタル。
これは一般的に大変勘違いされていることであるが、本当に危険なものは恐ろしいわけではない。なぜなら、それを恐ろしいと思う前に、既にこちらの生命は絶たれているからだ。恐れを感じる暇などないのだ。その態度はある意味では慈悲深くさえある、無論、それが慈悲など有しているはずもないが。それはこちらに対して自らを誇示するような真似はしない。ひどく自然に、当たり前のようにそこに存在していて……そして、当たり前のように、致命的なのである。
つい先ほど、この場所について、敵の姿は一切見当たらないと書いたのだが。その描写には一つの間違いもない。確かに、真昼は、何も見つけることができなかったのだから。この場所に敵がいないとは一言も書いていない。そして、「それではこの場所に敵がいるのか」と問われれば……その答えはこうなる。「この場所には敵がいる」「本当に危険な敵が」。
真昼は。
デニーが指さした方向。
ゆっくりと、振り返る。
たぶん、死とはこういうものなのだろう。あまりにも自然で、あまりにも作為がないため、人ごみの中に紛れていても誰も気が付かない。人はいつの間にか死んでいるものだ、それと同じように、ミセス・フィストもいつの間にかそこにいた。
まるで初恋の人の匂いを感じたかのように。
真昼の心臓が、一度、とくんと、高鳴った。
もちろん、それは、今更の恐怖ゆえに。
ミセス・フィストはコンピューターの前に立っていた。五人の娘は連れておらず、従って、たった一人で立っていた。いや……たった一人という表現は間違っている。少なくとも一部は間違っている。なぜなら、ミセス・フィストは四人いたからだ。
リングの上にあるコンピューターは四つ。その四つ、全てのコンピューターの前に、ミセス・フィストは立っていた。ただし、なぜか真昼には理解出来たのだが……ミセス・フィストは四人いたにも拘わらず、四人いたわけではなかった。たった一人のミセス・フィストの、その姿が四つある。四人のミセス・フィストは、全てが同じミセス・フィストであったということだ。
どのミセス・フィストも、特にインプット・デヴァイスに対して何かの操作をしているとか、そういった様子はなかった。コンピューターの上に浮かんでいるホロスクリーン、幾つかあって、時折消えたり新しく現れたりするホロスクリーンを、ただじっと見つめていただけだった。どのミセス・フィストも同じ表情をしていた。デフォルトの表情、ミセス・フィストに最も相応しい表情。つまり、表情が欠如した表情。そして、その表情で、ホロスクリーンを、ただ、じっと、見つめていたのだ。
爾後。
次の瞬間に。
その視線は。
いつの間にか。
真昼達の方に。
向けられて、いて。
ずっとミセス・フィストのことを見ていたのにも拘わらず、いつこちらを向いたのか全然分からなかった。まるで最初からこちらを見ていたとでもいうように、あるいは水が高いところから低いところへと流れるかのように。死せる惑星、白く凍り付いた惑星の核から、したしたと滴るクーラント。その視線は、なんの温度もなく、真昼のことを見ていた。
ふっと、揺らぐ。影が、揺らぐ。いや、影ではない……ミセス・フィストを覆っている、柔らかいサーティだ。剥製にされた蝶々みたいにして、冷然、嫣然、サーティーをひらめかせるミセス・フィストの体。血と肉とではなく機械と冷血とで構成されたミセス・フィストの体が、こちらに向かって歩き出したのだ。四つの体は、それぞれが全く同じ速度で歩いているにも拘わらず……それに……先ほども書いたように、ミセス・フィストの四つの体は、それぞれがリング上のコンピューターの前にいたのであって。そして、真昼達がいる場所からそれぞれのコンピューターまでの距離は、全く異なっているにも拘わらず。それでも、ミセス・フィストの四つの体は、その全てが、ほとんど同時に、真昼達がいる場所のすぐ近くの一点へとやってくる。
それから。
四つあった姿は。
たった一つへと。
収束する。
有り得ないようなことは何一つ起こらなかったはずだ。なぜなら、真昼の目の前で起こったことは、当然起こりうべきことだったからだ。それなのに、その出来事は、明らかに、真昼の常識に反した出来事だった。ある一点に向かって歩いてきたミセス・フィストの体は。光と光とが、影と影とが、原理と原理とが、重なり合うようにして。四つの体は一つの体になっていたのだ。
その一つの体は……実のところ、宙に浮かんでいた。そこに確固とした足場が有るとでもいうような態度で、虚無の上に立っていたのだ。リングから見て内側。真昼達と、カーマデーヌとの、その間。ミセス・フィストは、立ち塞がっていて。
そして。
それから。
ミセス・フィストは。
透徹で、完成な。
紛い物の仮面を。
smiley。
「スマンガラム、皆さん!」
「スマンガラム、ミセス・フィスト!」
当然といえば当然のことなのだが、極めて友好的なミセス・フィストの挨拶に答えたのはデニーだけであった。パンダーラはといえば、その顔を見ていない真昼でも分かるほどの、絶対に純粋な憎悪の表情、ミセス・フィストに対して向けていて。それから、真昼は……ただ口を閉ざしたままで、ミセス・フィストのことを見ていただけだった。
しかし、そんな風にして大変無作法な二人の態度などまるで気にした様子もなく。驚くほどカスタマー・フレンドリーな口調(まあ真昼もパンダーラもカスタマーではないのだが)のままで、ミセス・フィストはこう続ける。
「ようこそティンガー・ルームへ! 私は皆さんのことをお待ちしていました! ミスター・フーツ、真昼ちゃん、三十一時間十二分五十八秒前にお会いして以来ですね。それに「お前に名乗る名前などない」、あなたとお会いするのは随分と久しぶりです! どうですか、その後お変わりはありませんか? 右腕の傷の具合はいかがですか?」
その言葉を。
向けられた。
パンダーラ。
こういう時になんといえばいいのか分からないのだが……なんにせよ、パンダーラの名前は、ミセス・フィストの中では「お前に名乗る名前などない」で登録されているようだった。何がどうしてそうなったのかということ、読者の皆さんは、恐らく手に取るように予想できるであろうし。その予想で大方のところは間違っていないので省略させて頂きます。
それはそれとして、とにもかくにも。挑発としてしか受け取りようのない労りの言葉を掛けられたパンダーラは、ぎりっと、己の歯を噛み砕こうとでもしているみたいにして、強く強く奥の歯を噛み締めた。三つの目のうちの二つの目、右の目と左の目とに浮かんでいるのは、混じり気のない月紅玉にも似たとてもとても純粋な憎悪の色だ。人間には……人間には、こんな感情を抱くことなど不可能だろう。あまりにも強すぎる敵意の温度は、きっと自分自身の精神さえも焼き尽くしてしまうものだろうから。だが、パンダーラはダイモニカスであって。その憎しみの温度を、そのまま、瞳のうちに閉じ込めておくことができる。
そして、その温度によって、視線の先にいる者を燃え上がらせようとしているかのように、パンダーラはミセス・フィストのことを刺睨していて。けれども、もちろん、その程度の熱量によって、ミセス・フィストを害することなどできないのであって。それどころか、パンダーラの敵意など気が付いてもいないかのような態度によって……ミセス・フィストは、こう言う。
「さて、もちろん皆さんの目的は分かっていますよ。私の所有しているスナイシャク特異点を鹵獲しに来たんですよね。スナイシャク特異点はただでさえ貴重な研究材料であって、誰もがそれを欲しがります。しかもその上、アヴィアダヴ・コンダを拠点としているダコイティにとっては宗教的象徴としての価値もあります。従って、ここにいる皆さんがこれを欲しがるのは、私としても良く理解できることです!」
そう言いながら。
ミセス・フィストは。
計算され尽くされた角度で。
ぱっと両腕を広げてみせた。
ちなみに、ここでミセス・フィストが言っているスナイシャク特異点とはカーマデーヌのことだ。詳しい説明は省かせて貰うが、実のところ、カーマデーヌは神々の一種ではない。ダイモニカスの一種というわけでもなく、デウス種とは全く違う生き物である。デウス種が魔力をベースとして構成されている生き物であるのとは異なり、カーマデーヌが属する種族は、ジュノスとこの世界との接触点をベースとして構成されている。それが、いわゆるスナイシャク特異点と呼ばれる生命体であって……その種族に属する生き物は、自分の生命を一種の導管として、ジュノスから生命力を引き出すことができるのだ。
例えばカーマデーヌでいえば。乳房から牛乳としての形で滴り落ちている、あのライフ・エクエイションこそがそれである。生命の根源から引き出された、ほとんど完全に近く純粋な生命力。それは、この世界に住む者にとっては、非常に有用な物質なのであって……それゆえにスナイシャク特異点とされる生き物はあらゆる集団にとって羨望・渇望・熱望の対象なのだ。
ということで、それはASKにとっても大変魅力的なマテリアルなのであって。だからこそダコイティからそれを強奪した時に、ミセス・フィストまでが出張ってきていたということなのだ。ただ、まあ、とはいっても……ダコイティにとって、パンダーラにとってのカーマデーヌは、スナイシャク特異点などというそんな即物的な何かではなく。アヴィアダヴ・コンダを潤す唯一無二の女神なのであり。
だから……パンダーラは、ミセス・フィストへと向かって。
何か、吐き捨てるような、憎悪の言葉を発しようとするが。
しかし、その口が開かれた瞬間に。
「デニーちゃんとしては。」
その言葉、遮るように。
デニーが、口を挟んだ。
「それには、あーんまり、興味ないんだけどね。」
肩を竦めて。
それから。
右足の爪先で。
リングの上に。
とんっと、音を立てて。
いかにも、退屈そうに。
こう続ける。
「パンダーラちゃんが、どーしても取り戻したいっていうから。」
その言葉を聞いて、パンダーラはデニーの方を振り返った。明らかに機嫌がいいとはいいがたい視線、デニーに向って何か怒りに満ちた言葉を発しかけるが……なんとか、ぎりぎりのところで、自制したようだった。開いた口をまた閉じて、それを押さえ付けるようにして、歯を食いしばる。
一方のデニーは。トウを立てていた右足をぱっと上にあげて、左足だけの片足立ちになる。その後で、可愛らしい兎みたいにしてぽんっと飛び上がると。今度は右足のひら、地面の上にたんっと落として。左足の踵、たったったっと三度ほど打ち付けた。この行為にはさして意味はない、それから、デニーは、右足を軸にして、くるっと一周回転して。
くっと小首を傾げて。
また、その口を開く。
「それでー。」
「はい、なんでしょうか!」
「ASKは、デニーちゃん達が返して欲しいものを、返してくれるのかなあ?」
「もちろん、それは不可能です! もっとも、あなたが私の欲しいものを私にくれるのならば話は別ですが。あなたは、私の欲しいものを私にくれますか?」
「んー、無理だね。」
「それでは、私もあなたの要望を叶えることはできません!」
ミセス・フィストは。
デニーにそう言うと。
右の手のひらを開いて、ゆっくりと、その開いた手のひらを、デニーの方に向けて差し出した。その手のひらを、くるっと裏返して。伸ばした腕の先、見せているのは手の甲になる。その後で、ゆらりと揺らめく陽炎であるかのようにして、静かに静かに体を揺らめかせた。そのまま、差し出した右の手の甲の上に、左の手のひらを載せて。そして、とんっと飛び上がって宙返りをした。その行為自体には大した意味はない。デニーのダンスに対するアンサーのようなものだ。それから、着地したミセス・フィストは……また、真っ直ぐに背を伸ばした姿勢に戻る。
「と、いうことは。」
「と、いうことは。」
「またもや。」
「またもや。」
「The negotiations。」
「Broke down。」
「んー、とーっても残念!」
「私も、とても残念です!」
そして。
そう、言葉、した。
ミセス・フィスト。
その顔は。
その瞬間に。
voidへと。
移行する。
なぜなら、今この時から先、笑顔は必要なくなるからだ。というか、あらゆる表情についてその必要性はなくなる。これから行われる交渉に必要なのは、たった二つのエレメントだけ。それはすなわち、圧倒的な暴力と絶対的な破壊だ。
だからミセス・フィストは。浮かべていた笑顔の代わりとでもいうかのように、静かに右の手を上げた。ぎゅっと手のひらを握りしめたままで、自分の顔のすぐ横のところにまで持ってきて。それから、その手のひらを……ぱっと、開く。
と。
それを。
トリガーとして。
現れる。
ぱっ。
ぱっ。
ぱっ。
ぱっ。
ぱっ。
五つの姿。
五人の少女。
つまり。
それは。
ミセス・フィストの、五人の娘。
テレポートをするために使ったポータルの一種なのだろう、偽物みたいな青色をした、ひどく薄っぺらい印象を受ける、球形の光の塊に。五つの体は、それぞれ一つずつ、まるで大切なプレゼント、とても高価なお人形さんのようにして包み込まれていた。そして……その姿が現れてから数秒の間はじっと目を閉じたままで。静かに静かに、五つの体、等間隔をあけて、ミセス・フィストの目の前に浮かんでいたのだけれど。
やがて。
唐突に。
措定された、一つの災害の如く。
あるいは、冬の夜の到来の如く。
それらの、全ての目が。
一斉に開かれる。
その瞬間に、娘達の体に纏わりついていたポータルは消え去った。それは、例えば、青い繭から羽化をした、甘い毒を含んだ蝶々のようなものだ。体の内側に満たされた致死性の毒。ただし、それでいて……確かに、少女達は、未成熟であった。ネオテニイ、恐らくは永遠に少女のままのそれらの肢体。
肢体、肢体、肢体。右脚と左脚と、右腕と左腕と。今この時に注目すべきなのは、そのうちの右腕、正確にいえばその先の右手だった。ある種の芸術のような態度によって、真昼達の目の前、何もない空間に立っている娘達。その全員が、右手に、ひどく透き通った剣のようなものを持っていたのだ。
正確にいえば、それは完全に透き通っているというわけではなかった。完全に純粋な水で作った完全に純粋な氷のように、残酷ささえ感じるほど透明な物質の内側に……銀色の、刃が、埋め込まれていたのだから。つまるところ、透明な刃と銀色の刃の二重の刃になっていたということだ。それは一体何なのだろうか。何かの武器であることは間違いないだろう、それに、真昼が見る限りでは、その全体のフォルムは……月光刀に似ていなくもなかった。柄の部分があって、刃の部分がある。透明なのは刃の部分だけであって、柄の部分はやはり銀色をした何かで作られている。剣の内側に埋め込まれている刃とまったく同じ材質、というか柄とその刃は一体化して拵えられているらしい。
銀。
銀。
しかも。
それは。
この世界で、最初の銀。
この世界で、最後の銀。
本当の、本当の、銀。
つまり。
真銀。
真昼が月光刀に似ていると思ったのはその銀色の部分だった。銀色の柄、銀色の刃、どこかの博物館で見た(どこの博物館かは忘れてしまった)、ひどく古い月光刀に似ていて。
一方で、銀色の刃に被さっている透明の刃については、柄と比べると、少しばかり大き過ぎるように感じた。どちらかといえば、その刃は、刃というよりも、刃に纏わりついている寄生生物みたいなものであるように思われた。あるいは凍り付いた刃の、その氷の部分みたいなもの。どちらにせよ、その透明の刃は虚ろであった。虚ろ、虚ろ……だが、それでいて、決して空白ではないのだ。むしろそこには虚無があった、そこには虚無が満ちていた。あらゆる生命を否定する、禍々しいまでの虚無が。
五人の娘、は。
その五人とも。
右手の剣。
すうっと、その先にある時空間を、切り裂くかのように。
デニーと、パンダーラと、真昼と、が、立っている方向。
リングの方向に。
差し上げていて。
要するに、戦闘の準備は万全だったということだ。昨日、デニーが戦った時よりも。ようやくのことで、この製錬所から逃げ出した時よりも。少女達は、より一層危険な存在となっていたのであって……しかし、とはいっても。
今日は。
デニーも。
昨日とは。
違うのだ。
「平和的交渉は。」
パンダーラが。
ミセス・フィストと五人の娘の方を向いたままで。
デニーのこと、振り返りもせずに、その口を開く。
「失敗ということか。」
「んー……だねっ!」
「そうか、計画通りだな。」
苦々しげに、そう吐き捨てて。
その後、考え直したみたいに。
冷静な口調で。
こう言葉する。
「それならば、私はまたお前と共に戦わなければいけないというわけだ。」
「ふふふっ、そうだね。何だか、すっごくすっごく懐かしい気持ちだよ!」
「それはよかったな。私は……絶望的な気分だ。お前のような生き物に、私の全てを預けなければいけないとは。」
「んもー、パンダーラちゃんってば! そんなこと言わないでよー。パンダーラちゃんは、知ってるでしょ? デニーちゃんが、とーっても信用できる、とーっても素敵な生き物だっていうこと!」
パンダーラにとってこれは賭けだ。
絶対に負けると分かっている賭け。
パンダーラ、は、何もかも諦めたかのように。
それでいて、全てを諦めていないかのように。
「ああ、そうだな。私は知っている。」
左の腕。
その先のライフル。
まるで、挑みかかるように。
ミセス・フィストに向けて。
しっかりと、照準を定めて。
「お前が必ず約束を破るということを。」
そして。
それから。
最期が。
始まる。
おいおいおい、ちょっと待ってくれよ。「最期が」「始まる」じゃないよ「最期が」「始まる」じゃ。「最後」じゃなくて「最期」なんですよーってか? 必要もないのに二行に分けちゃって、地の文のくせになーに恰好つけてるんだよ。そんなことしてる暇があったら真昼の身にもなってやれって話だ。と、いうことで、真昼の身になってみると……いやー、ひどいですね。びっくりするほど惨憺たる状況だった。
一言で表せば、「こ、こまる……」といったところだろう。確かに真昼は困っていた、尋常ではないくらい困っていた。これから全世界規模の軍需企業が技術の粋を尽くして作り上げた最高の殺戮兵器と戦おうとしているというのに、その戦闘計画の中で自分の果たすべき役割がさっぱり分からないのだ。これがまあ、人間対人間の、ありきたりな戦いであるのならば、すごい頑張って考えればもしかしたらどうすればいいのか分かるかもしれないという希望もあるのだが。残念なことに、これは、超知性を持つ情報処理機械と戦うために、複数のダイモニカス達によって作り上げられた作戦だ。そんなものを人間である真昼が推測できるはずもない。頑張るにも限度があるのだ。ということで、真昼ができることはたった一つ……途方に暮れること、これである。
状況をまとめよう。とにかく五人の娘に対して侲子術をかけなければいけないということだけは分かっている。さはさりながら、真昼は侲子術のやり方を知らないし、そもそも人間はその術を行うことができないはずなのだ。デニーは〈デニーちゃんが何とかするから!〉とかなんとかいっていて、真昼はそれを無条件に信じたのであったが(正確にいえば今でもそれを信じているのであるが)。今のところ、デニーが〈何とか〉してくれる様子は一切ない。デニーは……完全に、目の前の戦闘に集中しているからだ。まあ、それもそうだろう。相手はASKハンドロイドの中でも最高傑作と名高いfive daughtersなのだし、一度戦闘が始まったのならば、それ以外のことにリソースを割く余裕などあるわけがない。
ただ、まあ、自分の身体・生命についてはさほど心配する必要はなかった。なぜなら、戦闘が始まると同時に、ある出来事が起きていたからだ。その出来事とは、デニーが放った弾丸によって……真昼の心臓が、撃ち抜かれたということである。
いつの間にか、デニーの両手にHOL-100Rが握られていて。その左手の拳銃から放たれた弾丸であった。もちろん、デニーの行動は、真昼などには感知しえない速度で行われたのであって。真昼は、胸に衝撃を受けて、初めて気が付いたのだ。
ばきゅーんっ!
ずどんっ!
なんと。
驚きの。
展開。
というか、胸に衝撃を受けた瞬間さえ真昼には何が起こったのか理解出来なかった。その瞬間の真昼は吹っ飛ばされることで忙しかったからだ。今まであまり触れてこなかったのだが、HOL-100Rは手の中の大砲、ハンド・キャノンとでも呼ぶべき代物であって。その威力は、人間という脆弱な生き物であるところの真昼に受け止めきれるものではなかったからだ。真昼の体は折り紙で出来た人形のように跳ね上げられて……リングの反対側、手すりのところにぶつかることで、ようやく停止することが出来た。
背骨に激痛が走って、内臓を吐き出しそうになる。もちろん立っていることなどできず、その場に頽れてしまう。その時点で、やっとのことで、知覚した状況と推測した状況とを繋ぎ合わせて……自分がデニーに撃たれたということを理解することが出来る。地面の上に、俯せに横たわって。全身の激痛に耐えるようにしてのたうち回りながら。それでも、真昼は、自分のこの状態に、一点だけ、とても奇妙なことがあるということに気が付いた。その奇妙な点とは、つまり真昼が生きているということだ。
心臓を撃たれたにも拘わらず。
真昼は、未だに死んでいない。
それどころか、心臓に痛みさえ感じていなかった。心臓以外の部分については、デナム・フーツてめぇぶっ殺してやろうかレベルの痛みを感じていたのではあったが。心臓に関しては……あたかも何かが麻痺してしまったかのように、まるで痛みを感じていない。いや、もしかして弾丸が心臓をバステッドしてしまったせいで、そもそも自分の胸の中に存在しないため、痛みを感じていないのかとも考えて。ひとしきりのたうち回った後で、恐る恐る自分の胸を見てみると。
心臓がなくなっているどころか。
戦闘服さえも破れていなかった。
まるで、何一つ。
傷ついていない。
ただし、撃たれる前と撃たれた後、なんの変更点もないというわけではなかった。胸の部分。心臓の直上の辺り。いつの間にか一つの魔法円が描かれていたのだ。エニアメトロス、九つの罪。九角形。九芒星。それを真昼は知っている。この魔法円が意味するところを真昼は知っている。なぜなら、真昼は、この魔法円を、一度、感じたことがあるのであって。リンガ・ゲバル・ホビッティカ、に、よって、表される、この名前は、ニコライ・サフチェンコ。
つまり、この魔法円は。
賢しらなる者の魔法円。
とんっと、砂糖でできた針で脳を突かれたような感覚。べったりと甘く溶けて、神経細胞と神経細胞との間に染み込んでいく。そうして、その罪は、神経細胞を伝って、真昼の全身に伝わっていって……それは真昼の腹部まで辿り着く。
ああ、分かる。何が起こっているのかが分かる。デニーによって腹部に描かれた、あの魔学式が、春に目覚めた長虫のように蠢き始めたのだ。ぞわぞわと、鱗が這い回るような感触。直線と曲線と円と多角形とが、入れ替わり、組み替えられて……ああ、それは快感ではないのだが、恍惚ではあるのかもしれない……そして、それは、真昼の体の内側に潜り込んで。
心臓へと。
到達する。
真昼には透視能力などないのであって、いうまでもなく自分の肉体の内側など見ることができるわけがない。それでも、真昼には、理解できた。賢しら、賢しら、魔学式は理解されて、書き換えられて。それから、全く別の形となって。どろどろと、自分の心臓に、纏わりつく。
それはどうやら普通の魔学式とは違うらしい。真昼にはよく分からないのだが、もっともっと高等な何か。人間が理解することができるものよりも更に高度な理程式、それは神の御業であって……普通はこう呼ばれる、神学と。
神学。リュケイオンにおける魔学の分類では、妖学でもない呪学でもない全く独立した学問とされていて。そして、西洋魔学だけではなく、東洋魔学、それにアーガミパータ魔学にも存在しているという非常に特異な魔学科目だ。厳密にいうと、それぞれの魔学ごとに、その神学は微妙に異なっていて、西洋魔学のそれはいわゆるトラヴィール神学と呼ばれるものなのではあるが。
とにかく、要するに、神学とは、そもそもが人のくくりの内側にあるものではないということだ。それゆえに、人間が作った東洋・西洋・アーガミパータという学派の別に関わりなく、その科目は世界横断的に存在しているということ。これは、文字通り、神のための学問なのだ。
いうまでもないことであるが、いわゆる魔学的現象について、神々もそれを研究していないわけがないのであって。人間がそういう現象について考え始める前から、それどころか人間という種が生まれる前から、神々は、魔子・観念・神力といった事柄について思索を致していたのだ。その思索の成果、体系化された知の構造を、そのまま人間が剽窃したもの、つまるところ、それこそが神学であるというわけだ。
神学が対象とするものは主に二つ。一つ目がベルカレンレインで二つ目がフェト・アザレマカシアだ。この二つの名前を聞いた時に、なぜ神学の対象にジュノスが含まれていないのかと思われる方もいらっしゃるかもしれないが。そのことに関しては……失われた預言者、この世界から永遠に取り除かれた預言者である赤見崩の物語、あるいは、「ある時点におけるタイムラインの変更は未来だけではなく過去に対しても遡及した効果を及ぼす」という、いわゆるヴァンス・セオリーが関わってくるのであるが。この二つについて説明するにはそれぞれ一冊ずつ、合計して二冊の大部の書物が必要となってくるのであって、ここではその説明は省略せざるを得ないだろう。とにかく、三大原理のうちのジュノスだけは、ニコライ・サフチェンコによって巫学として確立されるまで、ほとんどまともな学級はなされていなかった。
そんな神学の中で、真昼が感じた神学は、西洋魔学における神学、つまりトラヴィール神学だった。まあ当然ながら真昼はそれがトラヴィール神学の方法であるとは理解できなかったが。トラヴィール神学とはその名前の通り、トラヴィール教徒によって完成された神学だ。奇跡者ダニエルをその開祖とし(ただしこれは実は間違いであって実際にこの学問を始めたのはユキヲノムウマとミミト・サンダルバニーとである)、「偉大なる王」エドマンド・カーターによって大成されたトラヴィール神学は、読者の皆さんの予想通りフェト・アザレマカシアに対する知識の集大成だ。
さて、トラヴィール神学において最も重要とされるのは、主の栄光アラリリハ、主の導管カトゥルン、主の王国フェト・アザレマカシアによって表される、全てであるものヨグ=ソトホースだ。ヨグ=ソトホースは、一般的に、真黒の虚無の中に浮かぶ虹色のあぶくとして表現される。
真昼の心臓。その内側に刻まれたのは聖句。魔学式は解体されて、新たに主の御言葉となったのだ。その御言葉は……始めに言葉があった……それは全ての罪であった……主を、完全なる存在を、過てる概念によってくびきして……ああ、真昼の心臓からは、虹色のあぶくが現れる。
「罪びとの力は主の栄光にかたちとすがたとを映し出し、隠れたものから出でて永遠を作り出した。「あるもの」は失われ「あったもの」となった。白く、黒く、虹の六色の全てであり、それに何より赤であった。それがこの場所からあの場所までを通り抜けた時、初めてそこに泉が現れた。その泉に世界の色が映り、そしてそれは虹の六色であった」。つまるところ、真昼の心臓に刻まれた聖句はそのようなものであったのだろう。偉大なる王エドマンド・カーターの表した「銀の鍵」と呼ばれる神学書の一節であり、ヨグ=ソトホースの力をこの世界に適用する時の、最も基本的な聖句だ。心臓を巡るように、くるくると回転しているこの聖句によって。真昼の鼓動、とくんとくんという心臓の音は、その音を立てるごとに、虹色のあぶくを吐き出す。
ぽくん。
ぽくん。
ぽくん。
真昼は……見ていた。自分の胸の辺りから、なんだかよく分からない、虹色の球体が現れているシーンを。一体何が起きているのか全く分からなかったが、それでも真昼は理解していた。これが、自分を、守ってくれるものであるということを。デニーに対する真昼の信頼は、既に、絶対に限りなく近いものになっていた。だから、デニーの弾丸によって現れ始めたこのあぶくを、疑う必要などなかったのだ。真昼はただ待っていればよかった。そのあぶくが、自分を、守ってくれるのを。
そして。
その、虹色のあぶくは。
真昼が、信じた通りに。
優しく。
優しく。
真昼の体を。
包み込み始める。
蟷螂の……蟷螂の卵を見たことがあるだろうか。生まれるまでの柔らかい幼虫の肉体を守るために、その卵は、母親が吐き出したあぶくによって包み込まれている。真昼に起こったことは、大体がそういったことだった。未だ痛みに耐えきれず、横たわっている真昼の体を。虹色のあぶくが、少しずつ、少しずつ、包み込んでいく。一つの泡ではなく無数の泡だ、小さな泡に大きな泡、それぞれの形は整っておらず。それどころか、なんの法則も感じさせないやり方によって……やがて、真昼の体は、完全に、虹色のあぶくによって覆われた。
この辺りで、真昼は、ようやっと。
立ち上がれるくらいまで回復する。
真昼などの思議が及ばないことであったが、体の全身を包み込んでいる分厚い泡の層は、それにも拘わらず、真昼が動くことの邪魔にはならなかった。それどころか、それが何らかの種類の物質であることを感じさせるようないかなる徴も感じさせない。全身がそれに触れているのになんの感触もなく、真昼が何かに触れれば、その何かを突き抜けるようにして、真昼がそれに触れることを邪魔することなく、そのまま真昼の肉体を覆い続ける。
まさに不思議な鎧だ、とはいえ、そのことについて不思議がっている余裕など真昼にはなかった。というか、自分に関することについて何かの考えを巡らせる余裕自体が、真昼にはなかったのだ。自分の肉体は、デニーが放った弾丸、それによって起こされた現象によって守られている。これは(真昼が信頼するところによれば)絶対に安全な鎧なのであって……従って、真昼が心配すべきことは。
自分ではなく。
周囲の、状況。
今、一体。
何が起こっているのか。
だからこそ、真昼は、まだまだ残っている痛みを抱えるように、自分の肉体に右腕を回しつつ。手すりに縋るみたいにしてその場に立ち上がって……その先に広がっている光景、つまり、ミセス・フィストとの戦闘を開始した、デニーとパンダーラとの、その戦闘の光景に目を向ける。
これは余談であるが、第二次神人間大戦が終わった後、デニーは一時期休暇を貰ったことがある。後にも先にもデニーが休暇を貰ったのはこの時だけであったのだが、無邪気にも可愛らしく喜んだデニーは、割と仲がいい知り合いであるレノア・エリザベス・ネヴァーモアと共に、この広い広い宇宙――そら――へとちょっとした小旅行に出かけた。
その旅行は大体三年ほどに及び、デニーとレノアとはたくさんの銀河で破壊と殺戮との限りを尽くしたのであったが。その旅行中に何があったかという詳細については、また別の物語で語られることになるだろう。ここで知っておいて頂きたいのは、その旅行の最中に、デニーが、地球以外の様々な惑星における魔学を学び取ってきたということだ。
いうまでもないことであるが、無限の宇宙の様々な場所で科学が研究されているように、無限の宇宙の様々な場所で魔学が研究されている。特定の条件が揃った場所には必ず観念重力が働くのであり、観念重力があるレベルを超えれば、宇宙のどこであっても、魔学的な方向に向かってリリヒアント階層が発生するものだからである。デニーは人類などよりも遥かに発達した種族による、遥かに高度な魔学を学んできたのであって……その学びの場の一つにシャッガイという場所があった。
シャッガイは、宇宙の中では比較的、借星の知的生命体に似た種族が支配種となっている星である。特に人間によく似ている種族であって、音声記号ではシャンと呼ばれている。大きさは鳩くらい、姿形は借星でいう昆虫に近い。真っ黒な色の触手が大量に生えた多関節の足が十二本生えている。微細な三角形の鱗粉に覆われた、半円形の模様の刻まれた翅。前頭部からは発条に似た形をした触覚が三本生えていて、常にゆらゆらと揺れている。複眼と口と、やはり三つずつ付いていて、それぞれの口には触手が一本ずつ生えている。少なくとも一部は借星があるディメンションを構成する物質(科学・魔学の双方)で出来ているのだが、大部分はディメンションを異にする物質、位相がずれた物質で成り立っている。
まあ、とにもかくにも、一部分は普通の物質でできていて。それに何より、これが収斂進化なのかと思ってしまうくらいに、借星の知的生命体と情報処理の方法が似ているのだ。一匹一匹が個別に内的空間を持ち、その内的空間の中で、多数の情報処理系を無理やりに接合し、一つのパターンとして総合的に理解する。これは大変不合理なやり方であって、宇宙全体でいうとかなりマイナーな情報処理の方法なのであるが、それでも、シャッガイと借星とでは共通したやり方だ。
それゆえに、シャッガイの魔学は借星の生命体にとっても比較的扱いやすいものとなっている。魔学とは、これは正しい表現ではないが、誤解を恐れずに敢えて断言するならば、観念の体系である。もちろん観念イコール情報処理系というわけではないが、情報処理系は間違いなく観念のヴェッセルなのであって。従って、思考回路が似通った種族同士の方が魔学の相互乗り換えをしやすいのだ。あまりにも考え方が違う者同士では、どうしても魔学を「翻訳」する過程が必要になってくるし。「翻訳」された魔学というものは、全く役に立たないものになってしまっていたり、あるいは翻訳先の魔学とあまり変わらない効果しか表さなかったりする場合が多いのである。
シャッガイと借星くらいの隔たりが、スープが冷めない距離とでもいえばいいのか、とにもかくにもちょうどいいのだ。ということで、デニーはシャッガイの魔学を大変気に入ったのだが――ちなみに、デニーはシャンという種族とめちゃくちゃ意気投合したので、そのこともシャッガイの魔学を気に入った理由だと思われる――ただし、デニーがそれを使うには、ちょっとした問題がないわけではなかった。
シャッガイの魔学は基本的に音声記号によって行われる。音声記号とはプラマヌ振動によって引き起こされる精神活動の全般をいうが、もっと簡単にいうならばspellの詠唱ということだ。つまり、口から声を出すということである。シャンは基本的に体外のエネルギーを直接吸収できるタイプの種族であって、その口はspellを詠唱するためだけにある。そして、それから……そのシャンの口は、三つある。
それこそが。
今のデニー。
真昼の視線の先にいるデニーに。
三つの、口がある、理由なのだ。
そう、その通り。デニーの顔から首にかけて、いつの間にか、全く新しい三つの口が開いていた。具体的には……一つ目、左目があったはずの場所がそのまま口になっていて。それから二つ目、右側の顎から首にかけて、ぽっかりと口が開いている。最後の三つめは、額と鼻筋との間の辺り、まるで頭蓋骨を開くかのようにして引き裂かれた口だ。
真昼は、正直な話、それだけですごい気持ち悪いと思ったし、それぞれが別の動きをしているからなお一層気持ち悪いのであるが。恐らく、真昼の身体を強化した例の魔学式を応用して作り出した口なのだろう。あの魔学式は基本的には肉体の改変に使う式であるはずなので、極端な使い方をすれば、ああいうこともできないわけではないのだ。
一つの口、一つの口、一つの口。もともとあったところの、口の場所にある口以外の三つの口、そのそれぞれが、何か別の歌を別の音域で歌っていて、それがひどく微妙なやり方で混ざり合って、ハーモニーというべきか、ノイズというべきか、一つの音楽を作り出している。ひどく退廃的で・ひどく冷笑的で・ひどく不愉快な音楽。その音楽の根底に流れているテーマは悪意であり、空間を振動させるそのやり方は、どう考えてもこの世界に対する希望や愛の表れであるとは思い難いやり方であって……そして、その根源的な悪意が、魔学としての効果を発揮していた。
さて。
それは。
一体。
どんな。
効果であるか?
それを知るためには。
少しだけ、時間を。
遡る必要がある。
真昼が撃ち抜かれたのとほとんど同時刻……正確にいうと、それよりも少しばかり前に。デニーは、自分の肉体に対して影響力を行使して(真昼が推測した通り昨日のうちに骨の上に刻み付けておいた魔学式の一つを使ったのだ)もともとあった一つの口の他に、新しく二つの口を作り出した。そして、その三つの口によって、「隷属の発生No.3」を詠唱した。
シャンは、基本的には耽美的で陶酔的なのであるが、高等知的種族の常として、どこか根底のところで事務的な部分がある。「隷属の発生No.3」という名称などはその典型であり、これはシャンの言語(借星ではキャンベル・フェイジングと呼ばれている位相浸食記号によって構成される)を共通語に直訳したものだが、シャンの言語でこの単語を表現しても、それを聞いたものが受けるどこか面白みのない感じは大して変わらない。
まあまあ、それは。
ともかくと、して。
これだけはいっておかなければいけないだろう。この戦闘の開始と共に、最も素早く動いたのはデニーであった。真昼などは思考することさえかなわないだろう速度で、あるいはパンダーラと五人の娘とが行動を開始するよりも前に。デニーは、その詠唱を、「展開の段階」まで完了させていた。
詠唱された空間振動の結果として、内部に観念を埋め込まれたのは……この研究室、ティンガー・ルームと呼ばれているこの「部屋」の中に満たされた魔力である。その観念を中心として、魔力は、カーマデーヌが発している生命力の力も借りて、急速に結晶化する。観念の上に重なり合って、層をなして、一定の方向に秩序化されながら、エピタキシャルに固体化した魔力は……最終的には、ふわふわと浮かぶ幾つかの結晶となった。
真昼などはあまり見たことがない感じの結晶だ。というか借星ではあまり見られないタイプの結晶だろう。全ての面が正三角形でありながら、その多面体はなぜか正六面体なのだ。それを見ていると、どことなく物理法則に反している気がするのだが。とはいえ、そういった気持ちは全然ポリティカル・コレクトネスではないので、そういうことを考えてしまう偏見を改める必要があるだろう。この世界とは違うディメンションには、この世界とは全く違う物理法則のディメンションが存在しているのであって。それを認めないのは端的にいって差別だ。互いの差異を認め合うこと、それこそがポリティカルにコレクトネスな態度である。
それらの結晶体は三の倍数個発生したのだが、正確な数となると、それは誰にも分からない。その数は数えるごとに変わるし、それどころか数えている最中に変わるからだ。ということで、その数については考えないとして、それがどんな効果を発揮しているのかということを見ることにしよう。
言葉に虚飾を着せることなく、非常に簡単にいってしまえば。デニー及びパンダーラがいる場所と、ミセス・フィスト及び五人の娘がいる場所との境界の空間に、一種のフィールドを展開していたのだ。そう、「展開の段階」というその言葉通りに。ちなみにこの後の段階は「維持の段階」と呼ばれていて、詠唱される観念はこのフィールドの維持に特化したものとなる。
結晶体がそのフィールドの投射機としての役割を果たしているようだ。それぞれの結晶体からは、細長い三角形の光……影? なんだかよくはっきりしないが、少なくとも人間の目によって見ると暗黒色のエネルギー帯のように見えるもの、ベリー・ウィアードな粒子・波動が投げかけられていて。それらが、重なり合って、一つの場を形成していたということである。
そして。
やっと動き出した、パンダーラと五人の娘とは。
その場に向かって、勢い良く突っ込んでいった。
パンダーラは、踏み締めていたリングの表面、凄まじい力によって蹴り飛ばして。五人の娘は、何もないはずの空間、優雅な足取りでステップして。ほとんど同時に(当然ながら五人の娘の方が若干早かったが)、あたかもカタパルティスによって打ち出されたグラディバーンのような速度によって、互いが互いに向かって突進していったということだ。
フィールドは、六つの物体をその内側に捕らえて……どうやら、その内側では、このディメンションとは多少異なった法則が働き始めているらしい。真昼のような生き物には、それがどのように異質であるのかということ、理解することなどできないのだが。ただ、外側から見ていて一つ分かることは。フィールドの内側に入ったものは、全て、その色が反転しているということだ。五人の娘が着ているワンピースの色は、白から黒へと変わってしまったし。パンダーラの着ている戦闘服は、どことなく深い海のような色合いになっている。
とはいえ、それは単に見た目だけの話であって、本質的な異常性ではない。「隷属の展開No.3」の本当の効果は……それを初めて見た時、真昼も、何が起こっているのかがよく分からなかった。なんとなく……霞んでいるというか、ぼやけているというか。フィールドの中にある物体が、こう……ちかちかとしていて。そう、あたかも乱視の人間がものを見る時のように、奇妙な影、幾つかのシルエットが重なり合って揺らいでいるように見えたのだ。だが、次第に、その揺らぎが、フィールドの中にある六つの物体のうち、五つの物体に対して、すなわち五人の娘の身体に対してだけ表れている現象であることを理解し始める。
例えば。五人の娘がA地点からB地点へと移動しようとすると。実際にその行動が開始されるよりも先に、五人の娘の前、予像とでも呼ぶべきものが現れる。ただし、その予像はB地点へ行こうとするのではなく、C地点に行こうとする姿なのであって。五人の娘がなそうとしている行動とは決定的に異なっている。それにも拘わらず、五人の娘の実際の身体は、一時的にその予像に引き摺られてしまうらしいのだ。結果として、行動は、完全に妨害されるとまではいかなくても、一時的に阻害されてしまう。
その阻害が起こるごとに五人の娘の身体は分解されかけてしまう。予像の行動と実際の行動との間で引き裂かれそうになってしまうのである。身体の一部がシャッフル・リプロダクション、つまりあのキューブ状の姿へと崩壊しかけて。そのキューブとキューブとの間に激しい火花を放つ。これこそが「隷属の展開No.3」の効果なのだ。
「隷属の展開No.3」は、そもそもシャンが自分達よりも下等な生命体を奴隷として使役するために作り出したspellだ。このspellによって展開するフィールドの中にいる生き物は、spell bringerがそうあるべきだと理解した行動を強制される。フィールド自体が固定された可能性の溶液のようなものであって、その内側では、全ての可能性が一定方向へと励起されてしまうのだ。もちろん、五人の娘がそうしてるように、それに逆らうことができないというわけではない。だが、そのためには、周囲の可能性から己の可能性を無理やり剥ぎ取らなければいけないのだ。その際にダメージを受けることは避けられない。
要するに、五人の娘は。
なんらかの行動を起こすごとに。
ダメージを、受けるのであって。
デニーが。
まず仕掛けた攻撃とは。
つまりそういうことだった。
ちなみに、このような現象が発生するのはフィールドの中にいるからなのであって、さっさとそこから脱出してしまえばいいと思われるかもしれないが。そう簡単にはいかない。先ほども書いたことであるが、このフィールドは、結晶体から投射されているエネルギー帯なのだ。五人の娘が移動するたびに、それらの結晶体は、そちらの方向に投射を変化させていく。フィールドは、どこまでも、広がっていき、継ぎ接いでいく。また、そのような結晶体を破壊してフィールド自体を消滅させてしまうという方法もやはりできない。これも先ほど書いたことであるが、それらの結晶体は、一体幾つあるのか、現時点での個数さえまともに数えることができないような有様なのである。例え、十個、百個、千個、破壊したとしても。ただ単に、予め「そのようにして破壊された個数よりも多くの結晶体があった」ということになるだけである。
さて、フィールドの説明はこれくらいにして。それでは、そのフィールドの中で繰り広げられている戦闘、パンダーラと五人の娘との戦闘は一体どのようなものだろうか。結論だけを最初にいってしまうならば……それは一切の小細工なし、絶対的な暴力と絶対的な暴力のぶつかり合いであった。
これは下等知的生命体が誤解しがちなことであるが。高等知的生命体と高等知的生命体との戦いのうち、個々の戦闘においては、複雑な戦略と戦略とのぶつかり合いとなることはほとんどない。それはもちろん、ベースラインに関しては別だ。幾つかの戦闘をどのようにして並べるか、そういう大局的な観点においては複雑な計画が組み立てられるのであるが。たった今、この場所で、行われているような、一つの戦闘、一つの肉弾戦においては、あまりこまごましたことを決めていっても意味がない。短期的な行動など相手(高等知的生命体)は簡単に予測してしまうのであって、そんなことに思考のリソースを割いている余裕があるのなら、一直線に、真っ直ぐに、暴力を叩き付けた方が遥かに効果が大きいのだ。
ということで。
それは。
肉食獣と、肉食獣とが。
本能で行う、殺し合い。
そういったものと。
大差のない光景だ。
特にパンダーラは、理性も知性も、あるいは他のあらゆるダイモニカスらしい精神的成熟性も、完全に手放してしまっているように見えた。というか、その輪郭さえも、既に異形のものとなりかけていたのだ。無論、パンダーラの姿は人間から見れば元から異形だが。ここでいいたいのはそういうことではなく……それは、悲痛なまでの、狂獣の輪郭。
まず。
左半身。
であるが。
首筋から腰にかけて、ほぼ全身に、赤い、多関節の、何かが突き刺さっていた。それはパンダーラの肉体の奥深くまで潜り込んで、その内側に根を張って。あたかも寄生虫であるかのように、パンダーラと完全に同化していた。幾何学的な、直線と曲線と、円形と多角形と。それは、よく見れば……パンダーラのライフル、そのグリップ周りの部分だった。
赤イヴェール合金で形作られた三次元的な構造が、異常に繁殖した線虫のようにして盛り上がり、膨れ上がって、パンダーラに接続していたということだ。それは、恐らく、パンダーラとライフルとの相互的な強化に関係しているのだろう。パンダーラが、自分の持つ魔力をライフルへと送り込んで。ライフルは、送られてきた魔力をベースとして、内部理論の整理と外部数列の醸成と、それに伴う内外の観念合成を行う。そして、最大化された「信仰」を再びパンダーラの肉体に注入している。
そう。
既に、その観念は。
信仰となっていて。
信仰とは、本来ならば、神にのみ許される観念であって。一介のダイモニカス如きが受け止められるものではないのだ。それほど強い観念を注入されれば、普通であれば、ダイモニカスの肉体は……火の中に投げ込まれた、蝋でできた魚のように、あっという間に崩壊し、溶け去ってしまうだろう。けれども、パンダーラは。パンダーラは別だ。パンダーラの左半身は、まるで沸騰する影のように、崩壊の寸前にありながらも……まだ、ぎりぎりのところで耐えていた。そして、肉体とほとんど一体化してしまったライフル、アストラによって、信仰という観念を暴走させていたのだ。
次に。
右半身。
であるが。
左半身が影ならば、右半身は光であった。失われた右腕、その切断面からは、パンダーラが身の内で紡ぎだしたセミフォルテアが、またもや右腕の代わりものとして伸びていたのだが。そのセミフォルテアの温度は、パンダーラが制御できるレベルを超えてしまっていたということだ。
炎にも色々な温度の段階があるように、セミフォルテアにも色々な温度の段階がある。普段のパンダーラは、体の中のセミフォルテアを低温に抑え、暴走しないようにしているのだが。どうやら、今、この時に、わざとセミフォルテアの温度を極高温にして、暴走させているらしいのだ。
聖なる。
聖なる。
聖なる、暴走。
その結果として、セミフォルテアは、パンダーラの右腕の役割を果たしているだけではなく、その右半身を燃え上がらせていた。いと高き光がパンダーラという生命そのものを焼き尽くさんばかりに光り輝いていたということだ。パンダーラの右半身はもはや物質とは呼べないものになり果てていた。純粋な魔力の塊が、次の瞬間にも爆発しそうなエネルギーとして、パンダーラの形をしていただけだ。
これこそが。
パンダーラ。
本当の。
全力の。
姿だ。
そんな姿で、もはや殺意以外のなんの意味もなさない咆哮を叫びながら。パンダーラは、五人の娘に向かって突進していった。まずは右腕の先、セミフォルテアでできた手のひらを、まるで獲物を狙う猛禽の如く開いて。そして、視界に入る全てのものを引き裂こうとしているかのように、目の前の空間を勢いよく薙ぎ払った。その攻撃は、既に手のひらではなく、広範囲に広がる光の波動となって炸裂して……五人の娘に襲い掛かる。
そのスピードがあまりにも早く、そのレンジがあまりにも広いため、五人の娘をしてもそれを避け切ることは不可能であるようだった。いや、普通の状況だったら避けることもできたかもしれない。けれども、このフィールドの中ではあらゆる行為は阻害されてしまうのであって……速度にエイルメントが掛かってしまうのだ。とにかく五人の娘は、はなから回避という選択肢を捨て去って。その攻撃を受け止めることに全力を傾ける。
横並びに並んでパンダーラに向かってきていた五つの体は。その突撃の速度を緩めることなどせず、一斉に、一塵の乱れさえもなしに、右の手のひらに握っていた月光刀を構えた。以前述べたように、それらの月光刀には、アウラともバイブレートともエネルギーとも違う、全く透明かつニュートラルな、虚無としての物質が纏わりついていたのだが。五人の娘が月光刀を構えるとともに、その虚無は……あたかも自我を持った液晶、生命を持ったアモイベーの如く、ぐわっと広がった。
五つのアモイベーは、五人の娘、それぞれの体を包み込んで。それらはちょうど五つの砲弾のような形になった。突撃に伴う運動エネルギーはそのままに、五つの砲弾は、パンダーラの放ったセミフォルテアの波動へと突っ込んでいく。
一つの竜波と。
五つの砲弾と。
それらは。
あたかも。
時空そのものの、エクスプロージョンみたいにして。
優雅さや美麗さといった概念の、その欠片さえなく。
ただ。
ただ。
破滅的に、激突する。
音と光は既に音と光ではなく、純粋な振動として周囲のあらゆるものを震わせて。その結果として,勝者は――実に驚くべきことに――パンダーラであった。確かにパンダーラの右腕も少なからぬダメージを受けたようだったが、それは大した問題ではなかった。一方で、五人の娘は。五人全員が弾かれて、それらの体の一つずつが、それぞれ異なった方向へと跳ね飛ばされる。
辛うじてセミフォルテアのエネルギーが勝っていたらしい。ただ、とはいえ、素っ飛んでいく飛んでいく五人の娘には、一切の傷はついていなかった。実質的なダメージは零のようだった。ただ跳ね返されただけで。ただ、五人全員が、別々の方向に、分散して、しまったと、いうだけで。
分散。
そう、それこそが。
二人、の、目的だ。
五人の娘が吹き飛ばされると同時に、「隷属の展開No.3」の外側で、待ってましたとばかりにデニーが動き始めた。二挺の拳銃のうち、右手に持っていた拳銃。「隷属の展開No.3」の内側に向かって、おもちゃのピストルでも乱射しているかのように、連続して射撃し始めたのだ。HOL-100LDFはリボルバーなのに、どうやってこれほどの連射をしているのか不思議になってしまうほどであったが。とはいえ強くて賢いデニーちゃんには不可能などないのだ。
発射された弾丸は、迷いなく「隷属」へと弾道を描いて……その弾丸は、今までデニーが撃ってきた弾丸とは、少しばかり性質が違っているようだった。セミフォルテア弾ではない。なぜなら、セミフォルテア弾にしては、少しばかり「正しすぎた」からだ。一方で、それは詩弾というわけでもなかった。その弾丸は言葉で形作られていたわけではない、むしろ、その弾丸はあらゆる概念ではなかった。月の光が月の光であるよりも、より一層な完全さで、それは、完全な、「存在」だった。
世界の根源。
概念の以前。
そして。
その色は。
きいろ。
きいろい。
きいろい。
おひめさま。
この世界に存在している黄色という存在、そのあらゆる存在よりもなお黄色としての存在。それを弾丸の鋳型に嵌めて成型したような弾丸だった。連射されたそれらの弾丸は、「隷属」の外縁を突き破り、フィールドの内部に侵入して。それから、まるで夏の日の花束みたいに、ぱんっと破裂して花開いた。
黄色い……マントだった。ショットした弾丸は、空間の内部に薄く広がって、何者かが身に纏うマントのような形状に変化したということだ。マント、ああ、もちろんマントだ。それは、一般的に、「おひめさまのまんと」と呼ばれているのだから。
どうやらパンダーラが本気を出しているように、デニーも本気を出しているようだ。百パーセントの本気とまではいわなくても、この状態で出せる本気のうち二十五パーセント程度までの能力を発揮しているのは間違いない。なぜなら、「おひめさまのまんと」などというものは軽々に使える代物ではないからだ。それは超高度虚無爆弾やヌミノーゼ・フィールドといった兵器と共に、世界的に使用が制限されている、いわゆる準対神兵器なのだ。
そもそもこんなものをデニーはどうやって手に入れたのだろうか? アーガミパータで手に入るはずがないので、HOL-100LDFなどとともに外部から持ち込んだのだと思われるが……そう、「おひめさまのまんと」はアーガミパータでは手に入らない。というか、一か所を除いて、世界中のあらゆる場所で手に入らない。その一か所とは月光国のことだ。
「おひめさまのまんと」は、要するに、月光国にしか存在しない「魔法少女」という生命体が使用する結界である。ただし、それは結界であって結界ではない。これは誰でも知っていることであって(なんとサテライトでさえ知っている)、いちいちここで述べるほどのことではないのだが。どんな結界でも三種類の結界のうちのどれかに分類することができる。オレンディスムス結界・律令演繹結界・心身延長結界。しかし「おひめさまのまんと」はこの三つのどれにも当てはまらないのだ。
だから、それは結界というよりも、単純な障壁に近いのかもしれない。「おひめさまのまんと」が一体どういう性質を持つものなのかということは、謎野研究所や月光国正教会やといった特殊な機関を除けば、未だにほとんど解明できていない問題なのであるが。とはいえ、ひとつ分かっていることは、それがフェト・アザレマカシアに限りなく近い性質を持つということだ。つまり、概念・生命に侵食されていない非常に純粋な「存在」。
デニーは。
その「存在」。
弾丸の形にして。
発射、したのだ。
さて、先ほどの説明した通り「おひめさまのまんと」は結界として使用される。結界とは、ある一部分をある一部分から隔離する役目を果たすものであって。弾丸から、花開いた、たくさんの、たくさんの、「まんと」も、つまるところ、それを目的として配置されたものだった。
あれだけめちゃくちゃに、乱射したようにしか見えない射撃であったにも拘わらず、その配置は完壁であった。まさにその語の通り、傷一つない壁の如く、「まんと」は、五人の娘、そのそれぞれが吹き飛ばされた地点、お互いをお互いから完全に隔離したのだ。ちなみに先ほどの完壁は壁と璧とをかけた冗談だったんだけど分かってくれたかな?
左右前後上下に広げられた「まんと」によって、一人一人が阻まれて。それは見た目の上ではただの布のようにしか見えない。薄っぺらい布切れ、けれども、それは、本質的にはフェト・アザレマカシアに非常に近い力、「訂正」なのであって。容易に打ち破れるものではない。
五人の娘は、全員が、それらの体を受け止めるように広げられた「まんと」に激突して。それから、そのまま結界の内側に取り込まれる。全身に巻き付くようにしてくるんとくるまってくる結界、部屋と部屋とを区切るカーテンのようにして空間と空間とを区切っている結界。たくさんのたくさんの結界によって、完全に分かたれてしまったということだ。
もちろん五人の娘はその結界から抜け出そうと藻掻くのだが。真銀によって作られた月光刀によってでも、それは難しいようだ。何度も何度も切り付けることによって、ようやくその体に巻き付いた「まんと」に切れ目を入れることができたようだったが。それは、とても、遅すぎた。
パンダーラが。
追撃を。
開始して。
いたのだ。
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