第一部インフェルノ #28

「やっぱり、静かだね。」

「まだセキュリティ・ラインを超えてないんでしょー。」

「セキュリティ・ライン?」

「うん。」

「それって……あとどのくらいで超えることになるの。」

「分かんないよー。」

「分かんないって、あんた……」

「ASKの考えてることなんて分かるわけないじゃないですかー。」

 そんなことを言いながら。

 下へ下へと、降りていく。

 パンダーラの穿った穴は、入り口こそ不気味で異常な見た目をしていたものの、中に入ってしまうと、意外にも普通のトンネル状の空間になっていた。大きさとしては城壁に開いていたあの円形と同じくらいで、それがどこまでもどこまでも下に向かって続いていたのだ。

 ただし、これだけは外から見た時と同じなのだが、トンネルの中には明かり一つなく、その壁も光を全て吸い込んでしまうような完全に塗り込められた黒であった。この事実は、真昼には、メイン・コンプレックスを形作っているフォース・フィールドの基本色が光り輝く白である以上、大変不可思議なことのように思われたのであったが……不可思議ならば考えるだけ無駄なのだ。だから、自分の鼻先さえ見えなくなりそうなその暗黒が、まるでASKからの完全な拒否反応であるかのようで、ただただ不安な気持ちになる以外には、真昼にできることはなかった。

 そんな暗闇の中で三人がどうやって歩いていたのかというと。二つのものが光を発して辺りを照らしていたのだ。一つ目は、パンダーラが左手に持っているライフルのグリップ回り。二つ目は、いつの間にかデニーが右手のうちに持っていた拳銃の全体。その拳銃は、いうまでもなく対ミセス・フィスト戦の時に使用していた、HOL-100を改造したというあのリボルバーであって……要するに、その場を照らしていたのは、全て赤イヴェール合金の光だったということだ。

 二人は意図的に魔力を流すことで赤イヴェール合金を周囲に対するランプとしているらしい。赤イヴェール合金が光っているのだから、当然ながらその光は赤一色であって。真昼はなんだか目がちかちかしてしまいそうな、明らかに視力に対してなんらかのダメージがありそうな、そんな気持ちになったものだが。二人がそういったことを気にしている様子はない。

 恐らく二人が頼りにしているのは、視覚的な情報というよりも、通常の人間が感じ取ることのできない魔力による感覚なのだろう。赤イヴェール合金から特殊な魔力を発することで、その振動から周囲の状況を理解しているのだ。これは人間であっても特に訓練した魔学者や、あるいは何らかの「器官」の移植を受けたものであれば感じ取ることができるものであったが、生憎と真昼はそのどちらでもなく、よって視覚的な情報しか得ることができなかったというわけだ。ちなみに先ほどわざわざ「ランプ」と書いたのは、この汎用トラヴィール語の語源はパンピュリア語の「ランパス」であり、このランパスという単語は目に見える光だけではなく「魔学的な輝き」をも意味していたからなのであって、ただなんとなく汎用トラヴィール語を使ってみたかったというわけではない。

 と、まあ。

 三人が置かれている状況は。

 そんな感じであったのだが。

「ところで。」

 唐突に、先頭を歩いていたパンダーラが言った。ちなみに、今歩いている順番はパンダーラ・真昼・デニーの順番であって、しかもその言葉を発した時に、パンダーラは特に振り返りもしなかったため、真昼は自然と自分が声を掛けられたものだと思い、慌てて返事をしてしまう。

「はい!」

「……その男に話しかけた。」

「あっ、すみません。」

 うわっ、これ恥ずかしいやつじゃん。

 それはそれとして、デニーが答える。

「なーに?」

「作戦の説明はしたのか?」

「あ……ごっめーん、まだだったよお。」

 デニーは自分の右手を拳にして、その手でわざとらしく自分の頭をこつんと叩きながら。ぱちっとウィンクをして、ぺろっと舌を出した。いかにも「てへっ」という感じの仕草であって、うわ……マジかよ……さすがデナム・フーツ……まさに魔王レベルの可愛さだな……って感じであったのだが。それはそれとして真昼的には(作戦??なにそれ??)みたいなテンションであった。当然だ、朝起きてから、顔を洗う暇さえなくここに連れてこられた上に、今までずっと戦い通しだったのだから。

 ということで、真昼は大変不服そうな顔をしながらデニーのことを振り返ったのだが。デニーはたいして反省した風もなく、というか反省という感覚が完全に欠如した様子で、いけしゃあしゃあと説明を始める。

「えーっとねえ、真昼ちゃんはあ、セキュリティ・システムが攻撃を開始しても何もしなくていいよ! 真昼ちゃんは魔力を感じ取れないみたいだし、それだとたぶん何かしても意味ないと思うし。それよりも、魔力とか精神力とか体力とか、そういうのはミセス・フィストとどんぱちぱっぱってする時までとっておいて。真昼ちゃんに頑張って貰うのは、その時だから。」

 へー、なるほどね。取り敢えず温存出来るものは温存しておいて、あたしはミセス・フィストと戦う時に……って、ミセス・フィスト!? デニーの説明を聞いた真昼の気持ちを言葉にして表すと、大体こんな感じの乗り突っ込みになる。あたしが、対ミセス・フィスト戦で頑張れる要素ある?

 いや、確かに「明日の戦いに、加わります」といかにも覚悟を決めた感じの口調で言ったし。それに、ミセス・フィストとの戦いでもできる限りの力を振り絞ろうと決意しているのも確かなのだが。とはいえ、自分でそう思うのと、他人に頼りにされるのでは、全く次元の違う話だった。そう、頼りにしているのだ。デニーも、それにこの感じだとパンダーラも。ミセス・フィストとの戦いにおいて、真昼のことを、相当頼りにしているようだった。あたかも真昼が今回の戦いにおける秘密兵器であるかの如く。この二人がいるのに、あたし、何かできることある? 真昼がそんなことを考えるのも無理のないことで。

 だから、真昼は。

 こう問い掛ける。

「あたしが……ミセス・フィストとの戦いで?」

「そーだよ、真昼ちゃん。」

「あたしに何をさせるつもりなの。」

「えーっと、それはねえ……」

 と。

 ここまで。

 口にした。

 時に。

 ふと、なんの前触れもなくデニーが右腕を動かした。動かしたというのは、つまり勢いよく自分の真上に振り上げたということで。そして、その手には、先ほども書いた通り改造したHOL-100(ちなみにこれはHOL-100LDFと呼ばれているモデルだ)が握られていた。死の幕舎に入るときに撃鉄を上げていないものは愚か者なのであって、いうまでもなくデニーは愚か者ではない。ということで、その撃鉄は既に上げられていて……デニーは、即座に、その引き金を引いたのだ。

「え?」

 何を……何をしたのか、デニーが何をしたのか、真昼には全く分からなかった。今まで何回か触れてきたように、真昼も少しは賢くなってきていて。デニーが引き金を引くということは何か理由があるはずなのであって、その理由というのは敵襲ということしか考えられず、従ってデニーが打ち抜いた先にはASKの兵器があるのだろうというくらいの見当はついた。しかし、慌ててそちらの方を見上げても……そこには何もなかった。本当に、何も、微かな閃影さえも見当たらなかったし、幽けき残響さえも聞こえなかった。真昼の感覚で捉えられる、何ものも、そこにはなくて。

 すっかり混乱してしまう真昼。

 そんな真昼を完全に無視して。

 デニーは、トンネルの、前方。

 奥の奥、じっと見つめながら。

「どうやら……」

 くすくすと。

 いつもの擦笑。

 パンダーラに。

 声を掛ける。

「超えちゃったみたいだね、セキュリティ・ライン。」

 その瞬間に、真昼の前後にあった二つの肉体は、発条仕掛けの玩具か何かのようにして跳んだ。そのうちの一つ、デニーの体に、攫われるみたいにして真昼は捕らえられた。拳銃を持っていない方の手、左手によって腰の辺りを抱きかかえられて。デニーと真昼との体は重なり合い縺れ合って、そのまま凄い勢いでトンネルの奥へ奥へと駆け進んでいく。

「デナム……デナム・フーツ!」

「なーに!」

「一体、何なんだよ!」

「具体的なっ! 質問でっ! お願いしますっ!」

 そんなことを言い合っている二人の周りに、あたかも恒星の重力圏に捕らえられた一つの彗星みたいにして、瞬くような速度によってパンダーラが付き従っている。パンダーラのライフルは……凄まじい勢いで光を噴き出していた。それこそフルオートの状態のアサルトライフルのごとき態度で、その光は暗黒を舐める炎の舌のように、辺りの闇を薙ぎ払っている。

 パンダーラのアストラは、それから発する観念についてかなりの自由が利くらしかった。先刻の、離れたところにいた真昼さえ気絶してしまうくらいに強力な観念ではなく。小さな銃弾ほどにまとめられた観念を連続して発射していたということだ。ただし、小さくまとめられてはいても、その観念は、間違いなくダイモニカスの観念であって。その弾丸によって、空間自体が引き裂かれているかのように、あたりの闇は勢いよく切り刻まれていって……だが、それでも真昼には何も見えなかった。

「具体的にって、この状況!」

「この状況が、どうしたの!」

「何を攻撃してるんだよ!」

「何をって、見て分かるでしょ!」

「分かんないから聞いてるの!」

「ノリ・メ・タンゲレ!」

「は!?」

 Noli me tangere、ホビット語で「我に触れるな」という意味だ。これはカトゥルン聖書に出てくる言葉で、フェト・アザレマカシアからヴールへと帰還したカトゥルンが、駆け寄ってその体を抱きしめようとしたトラヴィールに対して発したとされている。そもそもカトゥルン聖書もトラヴィール聖書もパンピュリア語によってまとめられたのではあるが、その当時の世界的中継言語とでもいえる言語が蛮族(今でいう勇者)の使うホビット語であったため、ホビット語で人口に膾炙されたのだ。

 と、そういうことくらいは(色々とあって母親が自殺した後の一時期教会に通っていたので)真昼も知っていたのだが。その言葉が、なぜこのタイミングでデニーの口から発されたのかということは、マジで全く全然皆目見当もつかなかった。ちなみに「マジで全く」と「全然皆目」は韻を踏んでいるのだが、それはそれとして、応戦と逃亡とで精一杯になっているデニーは当てにすることができないようなので、何が起こっているのかということはどうやら自分で把握しなければならないらしかった。

 そんなわけで、真昼は暗く穿たれたトンネルの壁、パンダーラが掃射し続ける方向に、なんとか何かを見つけられないかと、じっと目を凝らしてみたのだが……やはり何も見つけることができない。黒く塗り潰された壁は、どこまでもどこまでも黒一色であって、その前には何者も見当たらず、また壁自体にも傷一つなく……と、ここで、真昼はおかしなことに気が付いた。

 そう、壁には傷一つないのだ。パンダーラが、あれだけの量の観念弾をばらまいているにも拘わらず。それは、もちろんそれらの観念弾は、このトンネルを穿った観念弾と比べればお話にならないほど弱く調整されたものだ。ただそれにしたって、人間、それどころか一般的なダイモニカスが放つことのできる観念を遥かに超える力がそこに詰め込まれているのであって。これだけ完全に無傷のままというのはあまりにも妙だ。

 真昼は更に目を凝らす。今度はパンダーラの放つ観念弾の一つ一つが向かう先に注意を向けてみると……なんとそれらはトンネルの壁に当たる前に、蒸発でもしてしまったかのようにぱっと消えてしまっていることが分かった。一粒の(弾丸の数え方って一粒二粒三粒で良かったんでしたっけ)例外さえなく、それらの弾丸は、何かに吸い込まれるようにして消えていく。

 ここで、ようやく。

 真昼はぴんとくる。

 デニーのセリフを思い出してみよう。「真昼ちゃんは魔力を感じ取れないみたいだし」「それだとたぶん何かしても意味ないと思うし」。このセリフと、それからたった今確認した現象を合わせて考えてみると。恐らく、この場には……視覚でも聴覚でも嗅覚でも触覚でも確認できず、ついでに味覚でも確認できないであろうなんらかの兵器(単数もしくは複数)が存在しているのだ。その兵器(単数もしくは複数)は魔力によってしか感覚することができず、また魔力によってしか傷つけることができない。その兵器(単数もしくは複数)が三人に襲い掛かって来ているに違いない。

 パンダーラが放った弾丸が次々に虚空へと飲み込まれていくように見えるのはそのせいなのだ。実際のところ、弾丸は消えているのではなく、その兵器(単数もしくは複数)に着弾しているということ。パンダーラの観念は、兵器に接触すると、兵器の内側へと漏出し、兵器がもともと持っている兵器自身の観念を汚染する。それによって何らかの種類のダメージを与え、場合によっては破壊さえしているということだろう。

 ついでながら。

 いっておくと。

 その兵器の名前こそが。

 ノリ・メ・タンゲレだ。

 普通ならば感じることも触れることもできない、あらゆる接触を拒否する物体。存在意義は相手を傷付けることだけ。まさにこの言葉に相応しい兵器ではないだろうか?

 ただし、ノリ・メ・タンゲレはある種の魔学的な感覚によって感覚することができる。その感覚が感じるのは、ノリ・メ・タンゲレが自分自身をこの世界から消し去る際に利用する、神卵光子のごくごく僅かな痕跡である。

 ASKではノスフェラトゥをアーティフィカルに作り出し、それを生物兵器として活用することを目的とした研究が行われており、その過程で生まれたのがノリ・メ・タンゲレである。そのため、ノスフェラトゥに特有の様々な生態的特徴が応用されているのだが……そういった専門的なことについてはここでは説明しないでおこう。とにかく、ここで理解して欲しいのは、ノリ・メ・タンゲレの消滅はノスフェラトゥの身体に特徴的な神卵光子刺激性相対的独立化現象を利用したものだということだ。

 これは説明するまでもないことであると思われるが、ノスフェラトゥは、太陽の光、神卵光子に接触すると、神卵光子刺激性相対的独立化現象という特殊な現象を引き起こす。その身体が世界に対して相対的独立化を起こし、それによって感じることも触れることもできなくなるのである。そして、ノリ・メ・タンゲレの感知不可能性・接触不可能性は。つまりは、自分自身の内部で神卵光子を発生させることによって、自分自身に対して神卵光子刺激性相対的独立化現象を起こすことで獲得されているのだ。

 ノリ・メ・タンゲレを感じる方法は、この時に発生する神卵光子を感じる方法しかない。しかも、例えそれを感じることができたとして、ノリ・メ・タンゲレは、攻撃に移る瞬間以外は完全な相対的独立化の状態にある。完全なのに相対というのもおかしい話であるが、要するに、ノリ・メ・タンゲレを破壊するためにはノリ・メ・タンゲレがこちらを攻撃するその一瞬を狙うしかないということだ。今、まさに、パンダーラとデニーとがしているのはそのような攻撃なのである。

 また、更に。ノリ・メ・タンゲレはそのような能力の他にも攻撃方法としての吸痕牙を所持している。ノリ・メ・タンゲレは、そのもの本体に対して干渉ができない状態で、排除するべき対象に近づく。そうして、その対象に吸痕牙を突き刺し、スナイシャクを吸い取る。ノリ・メ・タンゲレとコミュニケーションすることができる、そのコミュニケーションの方法は、基本的にはたった一つだけなのだ。それは、ノリ・メ・タンゲレによってスナイシャクを食い尽くされるという方法である。

 要するに、何が言いたいのかといえば。ノリ・メ・タンゲレは、(純種ほどではないにせよ)ノスフェラトゥと同じくらい危険な存在であり、しかも魔力を感じ取れない者には感覚することさえできないということである。

 これこそが。

 ASKが、支社に設置する。

 最高レベルの。

 セキュリティ。

 システム、だ。

 いや、そういった詳細については、もちろん真昼は知る由もなかったのだが。ともかく、何か目に見えないものに襲われているという、一番重要なことは理解できたようだ。目に見えない以上は真昼には攻撃できないし、それに相手の性質についてほとんど分かってない以上、下手に攻撃するべきでもない。そんなわけで、真昼は……デニーに言われた通り、何も手出しをしないで。デニーとパンダーラとを信頼して全てを任せることにした。

 ただ、任せるといっても……うーん、何というか……ちょっとばかし……取り扱いが雑過ぎない? と、思わないこともない真昼なのだ。今の真昼はデニーの小脇に抱えられている状況なのだが、そもそも最初にその腕に引っ掴まれた時点でかなり無理がある態勢を強いられている。基本的に仰向けの状態なのだが、腰に手を回されているので、こう、体の真ん中からフォースダウンされているみたいな感じなのだ。これはまあまあ仕方のないことで、三人はいきなり襲われたのであったし、ノリ・メ・タンゲレに襲われる前に真昼を捕獲しなければならなかったデニーとしては、引っ掴み方を選択している余地などなかったのだろうということは理解できる。とはいってもこの姿勢は、真昼にとっては、大変辛い、息をするのも辛い状態であった。

 それにも拘わらず、その上、デニーは、相当荒っぽい走り方で疾走している。真っ直ぐ走っているだけではなく、時折大きく飛び上がって何かを飛び越えたり、あるいはトンネルの円形をぐるんと回るみたいにして壁や天井を走ったり。恐らくは前方からも後方からも襲い掛かってくるノリ・メ・タンゲレを避けるためにそのような逃走ルートとなっているのだろうが(ちなみに真昼は知らなかったが、ノリ・メ・タンゲレはフォース・フィールドの壁をすり抜けることができるように調整されているため、右方・左方・下方・上方からも現れている)。そうやってデニーが無茶な走り方をする度に、真昼の体は、跳ねたり、横ざまになったり、逆様になったり、また跳ねたりするのだ。骨が折れそうな衝撃、内臓が潰れそうな負担、そういった全てのダメージに耐えなければいけない真昼は、今にも限界を迎えそうになっていて。

 そんな真昼の頭蓋骨の中で。

 ふと、誰かの声が聞こえる。

 最初は、あまりにも辛すぎて幻聴でも聞こえてきたのかと思ったくらいだったが。よくよくその声に集中してみると……それは、間違いなく、意味の通ることをいっていて。そして、それは、間違いなく……デニーの声であった。

〈真昼ちゃん、聞こえてる?〉

「あんた……」

〈しーっ、声を出さないでっ!〉

 ミセス・フィストとの戦闘の際に自分がどのような役割を果たすことになるのか、そのことを今から話すのだろう。だから、その内容に対して真昼に反応されると、ASKに色々なことを勘付かれて不都合なのだ。デニーの発した、たったこれだけの言葉で、真昼はそのことを悟った。だから、デニーに言われた通りに口を噤み、外部へと反応を表さないようにする。

〈デウスパシーを使ってペリ・サイケースを直接繋いでるから、真昼ちゃんの言いたいことはぜーんぶ心の中に思い浮かべるだけでデニーちゃんに伝わるからね。それで……わー! 真昼ちゃん、あったまいーい! デニーちゃんが何も言わなくても、デニーちゃんがこれから何をお話しようとしてるか分かっちゃったんだ! そうだよ、その通り。ミセス・フィストとどんぱちぱっぱってする時に、真昼ちゃんに何をして貰うのかっていうことをお話ししまーす。〉

 なんというか……集会等々において、不特定多数に対してダイモニカス達が発していたデウスパシーよりも。今、デニーが発しているデウスパシーの方が、分かりやすく、かつ非常に濃密であった。真昼一人のためだけに発されているからだろう。真昼が理解することが最も容易であるように周波数を調整されているということだ。そういうわけで、ここで共通語によって表記した情報以外にも、かなりの量の情報が真昼に対して流れ込んできていた。

 例えばペリ・サイケースが精神的に構成された魔学的観念器官の一つであって、神話時代においては、羊飼いである神々と畜群である人間達との精神を接続し、人間達の行動を効率的に管理するために用いられていたこと。要するにデウスパシーにおけるゼノン小球のような役割を果たしているのだが、構造的にも性質的にも全く異なっているということ。しかし、それでいて、二つの器官には、何らかの結び付きがあるということ。そういったことも、あたかも最初から知っていたことであるかのように、あっさりと了解できたのだった。

〈ほら、口に出してお話しするとASKに聞かれちゃうでしょ? かといってふつーにデウスパシーでお話ししても、やっぱりASKに周波数を読み取られちゃうだろうし。でも、ゼロ距離で、デニーちゃんのペリ・サイケースと真昼ちゃんのペリ・サイケースをくっつけてお話すれば、さすがに大丈夫だと思うから。うーん、でもASKのことだから、何か気が付かないとも限らないし、手短に済ませちゃうね。〉

 いや、あんたがダコイティの森であたしに作戦を伝え忘れたのが悪いんだろ、と思わないでもない真昼だったが。とはいえ、なんとなく……引っかかる部分がないでもなかった。デニーが、本当に、そんな大切なことを忘れるだろうか? なんといってもデニーはデニーなのであって、確かに適当なやつだと思わない時もないのだが、それはあくまで性格的なことであり、重要なこと、特に「自分の」、つまり「デニー自身の」利益不利益に関することを、忘れてしまうようなやつだとは思えない。真昼に作戦を伝えるということは、どう考えても、その重要なことに含まれるはずだ。それでも。そのことを、していないということは……何か、特別な理由でもあるのか?

 そんなことを考え始めた真昼の。

 その考えを、弾き飛ばすように。

 デニーが。

 デウスパシーを。

 挟んでくる。

〈あっ! 真昼ちゃーん。〉

〈……何。〉

〈勝手に心の中を覗かれるなんて不愉快だーとか思ったでしょお。〉

〈そんなの当たり前じゃない。〉

〈ひどーい! デニーちゃんと真昼ちゃんは、こーんなに仲良しになったのに……〉

〈それより、早く作戦について話してよ。〉

 とかなんとか、思考を交わしながら……内心、真昼は感心していないでもなかった。真昼は、非常に辛い体勢にあるとはいえ、ただ小脇に抱えられているだけであり、何か他の行為を行っているわけではない。

 その一方で、デニーは、次々と襲い来(てい)る(であろうと思われる)ノリ・メ・タンゲレの攻撃を避けながら。しかもパンダーラの援護が間に合わない時などは、まあそんな時は滅多にないのではあるが、自分でも、真昼を抱えていない方の手、右手に持った拳銃によって、ノリ・メ・タンゲレを打ち抜いたりもしながら。それでもそのデウスパシーはそよとも乱れることなく、どこかのホテルのロビーで洒落た飲み物でも飲みながら話しているかのごとき、全き平静さを保っているのだ。

 マルチタスキング能力というべきかなんというべきか。とにかく、デニーがこういう修羅場を何度も何度もくぐり抜けて来たのだろうなぁ、なんだかんだいってこういう時は頼りになるなぁ、なんていうことを、ぼんやりと思った真昼なのだが……その時に、ふと、ペリ・サイケースが繋がっている現在、こういう「感心」さえもデニーに読み取られてしまうのでは?と不安になってしまった。デニーは、真昼がそう考えていることを知っているというような、いかなる態度もとっていなかったのであるが。念のため真昼は、今のは全部嘘であって、というか心の迷いであって、私はあんたなんかのことを頼りにしているわけがないし、頼りにするくらいなら舌を噛み切って死んだ方がましだという強い気持ちを、急いでデニーに向かって発信したのであった。

 さて、それは。

 それと、して。

〈真昼ちゃん、侲子術って知ってる?〉

〈なんとなくだけど。〉

〈うーん、まあこれくらい知ってれば大丈夫かな。真昼ちゃんが思い浮かべた通り、易系魔学の「傩」っていう魔法が月光国に入ってきて、そこから特殊な変化をしたやつだよ。んー、そうだね。基本的には神々が人間を操作していたのと同じようにして、術者が被術者を操作するーって感じの術なんだけど……これは知らないんだね。えーと、ちょっとだけ違うところがあって、侲子術は宣命っていう器官を使うの。その器官を被術者のペリ・サイケースに直接差し込んで、命令を注ぎ込むことによっていろーんなことをしてもらうってことだね。〉

〈それで、その侲子術がどうしたってわけ。〉

〈真昼ちゃんには、それをやってもらいまーす。〉

 真昼は、あともう少しで。

 声を漏らすところだった。

〈そんなに驚かないでっ! きっと真昼ちゃんならできるよっ!〉

〈あんた……真昼ちゃんならできるって……〉

 この男は何を言っているのだろうか。魔学のことを知っているといっても、真昼はちょっと齧った程度なのだ。しかもちょっと齧った後においしくなかったから吐き出したみたいなもので、とにかくまともに勉強したというわけではない。その一方で侲子術は、月光系魔学の中でもかなり高等な術であって、そんな簡単に、「できるできるっ!」みたいな感じでできてしまうようなものではないのだ。それに……もっと根本的な問題もある。

 しかし、真昼が。

 その根本的な問題を指摘する前に。

 デニーが作戦の話を続けてしまう。

〈five daugetersの子達はね、とーっても完璧な子たちなんだけど、唯一のうぃーくぽいんと!っていってもいい重大な瑕疵があるの。それは外部からの入力についての脆弱性。んー、でも、まー、これも仕方がないところがあって、そもそもfive daughtersの子達はミセス・フィストの入力に完全に依存していて、それがなければ動くこともできないように作られてるから。自分で判断する機構が一つもついてなくて、そのせいで、とある入力を正当なものと認めちゃうと、完全にその入力に従属するようにできてるーってわけ。兵器が自分の判断で動き始めちゃったら色々と面倒でしょ? でも、そこはやっぱりASKの兵器っていうか、five daughers自体は盤古級じゃないんだけど、それでも盤古級の兵器の一部だしね。普通のクラッキングじゃぜーんぜん効果がないってわけ。で! も! 侲子術みたいにちょー強い術式なら、そのセキュリティを突破できちゃう可能性があるってことなの。〉

〈でも。〉

 一旦、デニーの言葉が切れたので。

 ようやく、口を挟むことができる。

〈侲子術って、方相氏しかできないんだよね。〉

 そう、その通り。根本的な問題とは、要するにそれである。よく知ってたね、真昼ちゃん……といいたいところだが。実のところそのことについて、真昼は全然知らなかったのであって(まともに家庭教師の授業を受けていなかったためだ)、デニーから流れ込んできた情報によってたった今知ったのだ。

〈うん! そーだね。〉

〈いや、〈そーだね〉じゃなくて。あんたも知ってるよね? あたし、普通の人間なんだけど。それに、そもそも侲子術のやり方なんて知らないし。〉

 ちなみに方相氏という種族について、蜥易圏以外ではあまりよく知られていないので、念のために書いておくと、主に人間によってアーティフィカルに作り出された、デウス種に酷似した特徴を持つ造成生命体のことである。

 その起源は古く、詳しいヒストリーについては分かっていないのだが。恐らくアーガミパータにおいて初めて発生したと思われる方相氏の造成技術が、最終的に確立したのは、パクス・ヴェケボサーナ時代にリュケイオン・ニルグタンタとともに三大魔大の一つとされていた儒家(ただしこの大学は第二次神人間大戦末期に起こった「焚書坑儒」という虐殺事件によって完全に破壊されてしまい現在でも再建されていない)においてであるとされている。デウス種に対抗するために人間が作り出した一種の生物兵器であり、作られる地域によってかなりバリエーションがあるのだが、デウス・ダイモニカス種に勝るとも劣らない魔力・精神力を持つということ、そして金色の目が顔面に四つあるということ、この二つについては全ての地域で共通している。そして……月光国で作られた方相氏に特別に備わっている能力こそが侲子術なのである。

 ということで。

 侲子術とは。

 人間の術ではなく。

 方相氏の術なのだ。

〈あー、そこら辺はだいじょーぶ。〉

〈大丈夫って、あんた……〉

〈心配しないで、デニーちゃんがなんとかするから!〉

 このセリフはあまりにも適当に発せられたものであって、普通であれば欠片とて信頼するに値しないのだが……それにも拘わらず、ただその言葉の主がデニーであるというだけで、真昼にとっては、無条件に受け入れられるものとなってしまったのだった。勘違いしないで欲しいのだが、デニーが嘘をつかないというわけではない。むしろデニーの口から出てくるのは、それこそパンダーラの言葉を借りれば「嘘か、悪意のある真実」だけなのであって。真昼の物差しで測るのならば「正しい」ものなど一つもない。それでも……こと真昼の生存に関しては、デニーの保証は絶対なのだ。要するに、このアーガミパータで、真昼のような人間が、こんなに長い間生きていることができた、そのことだけで、デニーを信じるに値するということだ。

 しかし真昼としては、もちろん・無論・いうまでもなく、そんなことを考えているなんてデニーに知られたいわけがないのであって。というか、自分がデニーを信頼しているということ自体、真昼にとって認めがたいことなのだ。まあ、デニーは、真昼のそういう考えに対して毛ほども反応を示していないのだが……それはきっと、デニーが、ホモ・サピエンスのような下等生物の感情、「感心」だとか「信頼」だとかいう感情に対して、なんらの興味も持っていないからだろう。それはそれとして、とにもかくにも、自分の感じた「信頼感」という感覚を振り払うかのようにして、真昼はデニーにこう問い掛ける。

〈例え……例え、あたしが侲子術を使えるようになったとして、それでもまだ問題は残ってるでしょ? あたしが、その五人の娘っていうオートマタに侲子術をかけるには、モーティフィカル・ポイントっていうのが必要なんだよね? その五人の娘っていうオートマタのモーティフィカル・ポイントを上回るくらいの。あたしにそんな力があるの?〉

 これもまた真昼にとってはデニーが流し込んできた情報によって初めて知ったことなのであるが、魔学にはモーティフィカル・ポイントという概念がある。汎用トラヴィール語の頭文字をとってMPという省略表記をされることが多いのだが、精神力と非常に近しい関係にある、一種の能力値だ。

 mortificalという言葉が示す通り、相手の一部に「苦痛」「腐敗」を与えることによって、その部分を「停止状態」に追い込むための力。そうすることによって相手の抵抗を奪い、こちら側の術をかけやすくするというのが主な使用方法だ。当然ながら、この値が高ければ高いほど相手を停止させやすく、また相手から停止させられにくくなる。

 そして、普通に考えれば。真昼のMPが五人の娘のそれよりも上回っているはずがないのだ。というか、真昼の能力値に関して、その全てが五人の娘より劣っていることは間違いない。いや、人間らしさとかそういうのは優れているかもしれないが、そんなものが優れていてもこの場所で生きていく上では無限に役に立たない。人間らしさなんてせいぜいご近所付き合いでしか使えないし、アーガミパータでは大抵のご近所さんは無残に殺されており、生き残ったご近所さんはお前のことを殺そうとしているからだ。ということで……えーと、なんの話をしてたんだっけ? そうそう、真昼は自分のMPが五人の娘よりも下回っていることを確信していたし、その確信は実際に正しかった。

 ちなみに、本来であれば、今の真昼は弱音を吐きたいような気分ではなかった。もしも、これがパンダーラ相手であれば、自分の弱さを見せるような、自分の力を疑っているところを見せるような、そんな話はしなかっただろう。なぜなら、真昼には迷う必要などなかったからだ。今日の真昼は、自分にできることをやる、自分の力の限り戦って戦って戦って、力尽きる時が来たら死ねばいい、そう考えていたからだ。

 だから、MPが上回っていようが下回ってようがそんなことは関係なく、それが必要であって、自分のやるべきことならば、それをやってみて、失敗したらそれまでの命だったと考えればいいだけの話なのだ。しかし、とはいえ……ミセス・フィストとの戦いにおいて、もし自分が重要な役割を果たすことを期待されているとするのならば。それが失敗した時には、ことは自分の命だけでは済まない可能性もあるのだ。

 無論、デニーとパンダーラとならば、真昼が失敗してもきっとなんとかするだろう。そう思えるくらいには、真昼は二人のことを信頼してはいた。それでもやはり……真昼の心に、ほんの少しの、不安は燻ぶっているのであって。そして、真昼にとってのデニーは、そんな不安をぶつけられる程度の相手にはなっていたということだ。まあ、もちろん、真昼自身がそんなことを意識しているわけもなく、こういった弱音、無意識のうちにデニーにぶつけていたのではあるが。

 うーん、複雑なレディ心ですね。

 しかし。

 そんな真昼の気持ちなど。

 考えても、いないような。

〈真昼ちゃん、色々心配し過ぎだよー。〉

 そんな調子で。

 デニーは。

 こう言う。

〈もっと自分を信じて、ねっ!〉

 ああ。

 こんなこと。

 絶対に。

 認めたく。

 ないけど。

 それでも……デニーにそう言われると。真昼は、本当に、心の底から、自分のことを信じることが出来るような気がするのだ。今までなかったほどに、自分には出来ると感じる。何の根拠もなく、自分にはそれだけの力があると信じることができる。なぜなら、デニーは、賢いからだ。デニーは、真昼なんかが一生かかっても解けないような問題を、いとも簡単に解いてしまう。本当に、真昼は、今まで出会ってきた誰よりも、デニーのことを、賢く感じるのだ。デニーは間違えない、間違うことをデニー自体が望んでいない限りは。だから……だから。デニーが、真昼に、自分を信じるように言うということは、真昼は自分を信じていいということなのだ。だって、それは、間違いのない真実で。

 だから。

 真昼は。

 デニーに。

 こう言う。

〈あんた、が、能天気過ぎるんだよ。〉

 さて、デニーと真昼とがそのようにして心温まる交流をしている間にも。実は……真昼は限界に達しかけていた。なんの限界かといえば、それは吐き気の限界だ。めちゃくちゃな姿勢で抱えられてめちゃくちゃに振り回されて、胸はぎゅうぎゅう押さえ付けられるわ頭はぐらんぐらん揺らされるわ、こんな扱いを受けて吐き気を覚えない方がおかしいのであって。それでもまあ、こんなところでぼみぼみしてしまうわけにもいかないので(正確にはvomittingなのでヴォミヴォミであるが)、乙女の名誉と誇負とを懸けて我慢に我慢を重ねていたのであったが……それが、とうとう腹八分目を超えてしまったのだ。

 それどころか真昼の胃の内容物は腹九分目を突破し、腹十分目……食道まで達している。このままでは口蓋垂を超えて、この広い世界へと飛び出すのも時間の問題だろう。まあ、昨日の夜、真昼は何も食べていなかったのだし。出てくるものは唯一口にしたソーマ、それに胃液と唾液とが混ざったものであろうが。ことはそういう問題ではない。

〈デ、デナム・フーツ……〉

〈なあに、真昼ちゃん。〉

 別に秘密の話でもなんでもないのだし。

 デウスパシーを使う必要はないのだが。

 口を開くと出てしまいそうだったのだ。

〈あたし、もうそろそろ、限界かも……〉

〈ほえ?〉

〈だから、その……〉

〈あー、いいよ? 出しちゃえっ!〉

〈え……はっ!?〉

〈真昼ちゃんってば、デニーちゃんのスーツのこと気にしてくれるなんてやっさしー! でも、デニーちゃん、そういうこと気にしないから。どうせもう汚れちゃってるしね! 出しちゃいなよ、すっきりするよ!〉

 真昼としては、は??マジかよ??って感じだったが。どうやらデニーはマジで言っているらしい。確かにデニーのスーツは、埃や泥やでまあまあ汚れていたし、右袖なんて肘の辺りから完全になくなっていたのではあったが(ちなみにあのラグジュアリー・ホテルみたいな部屋で新しいスーツに着替えていたので血だのなんだのは付いていない)。そういう汚れと吐瀉物の汚れとでは全く違うだろう。というか、あんたが気にしなくてもあたしが気にするんだよって話だった。

〈えー、何が気になるのー?〉

〈だから……!〉

〈んあー、やっぱりさぴえんすってよく分かんないや。〉

 うわ、話の埒が全然明かない。

 その間にも、真昼の胃の内容物は。

 食道を、順調に駆け上がってきて。

〈せめて……持ち方変えて……〉

〈そんな余裕はありませんっ!〉

 ううっ……だよね……と思う真昼。ノリ・メ・タンゲレの姿は真昼には全く感じ取れないので(正確にいうと少しは感じ取れているのだがあまりに微弱であるため気が付いていないのだ)、周囲が一体どうなっているのかということは、あくまでも推測でしかないのだが。その推測によれば、状況はデンジャーを超えてクライシスに差し掛かっているようだった。

 デニーの駆ける速度は、人間が到達できる速度などとうに超えてしまっていて、バレットトレインもかくやという感じになっている。真昼も、体当たりしてくる突風やら、全身を押し潰しかねない加速度やらで、デニーの魔学式で強化されていなかったらとっくに意識を失っていただろう。まあ、そっちの方が幸福であっただろうが……それはそれとして、それほど早く移動しているにも拘わらず、追っ手を振り切れたという様子は全くない。

 なぜそう思うのかといえば、デニーの援護をしているパンダーラの攻撃が激しさを増していく一方だからだ。少し前までは、ライフルの使い方として、観念の弾丸を発射しているだけであったのだが……今では、それを銃剣のように使ってさえいた。あたかも刃のように鋭くした観念を、銃身の部分に纏わり付かせて。それによって、何かを叩き切っているのだ。もちろん、弾丸の発射も続いていて、近接と遠隔の双方で攻撃を仕掛けているらしい。よくもまあそんな器用な真似ができると思ってしまう真昼なのだったが……要するに、そうしなけらばならないくらい追い詰められているということなのだろう。

 つまるところ、真昼の尊厳と、三人の生命と。

 その両方が危機的状況化にあるということだ。

〈あと……あと……どのくらいで着くの……〉

 セリフの中に三点リーダーがどんどん増えていく真昼であるが、それはそれとして、とにかく後どのくらい我慢すればいいのか、それだけでも分かれば気が紛れると思ったのだ。それに対して、デニーは……珍しく、その問いかけに対する答えを知らなかったらしい。周りを飛び回るみたいにしてノリ・メ・タンゲレを迎撃しているパンダーラに、こう言う。

「パンダーラちゃん!」

「何だ!」

「真昼ちゃんがおえーってしちゃいそうなんだって! デニーちゃんは別にいいよっていったんだけど、なんだか気になるみたいで! 我慢するために、せめてあとどれくらいで着くのか教えて欲しいんだって! それで、あとどれくらいで着くの!」

 プライバシーも何もあったもんじゃねぇな、と思った真昼だったが。背に腹は代えられないし、プライバシーにプライドは代えられないのだ。さて、それに対するパンダーラの答えであるが。

「もう少しだ……あと千ダブルキュビト! 時間に直せば、この速度であれば十秒!」

「だって、真昼ちゃん!」

 デニーのクソみてぇな回答に慣れすぎていたため、あまりに簡潔かつ的確なパンダーラの回答に感動すら覚えた真昼であったが。それはそれとして、目的地(それがどこなのかは分からないが)がそんなに近いということに驚いていた。あと十秒、今となってはあと八秒だが、今まで走ってきた距離からすると、もう目の前にまで迫っていたということだ。え……いや、ちょっとまって、千ダブルキュビトを十秒って、今、二人とも、秒速百ダブルキュビトで走ってるってこと? すごいな。

 などと考えながら。

 真昼は。

 なんとか体を捩じって。

 前方を、視界に入れる。

 しかし……トンネルの先には何も見えない。見通すことのできない、手に触れられそうなほどの重量を持った闇が、黒々と溜まっているだけで。あと八秒で、というかもうあと五秒であるが、一体どこに着くというのだろうか? 真昼の目には、五百ダブルキュビト先の地点から向こう側にも、どこまでもどこまでもトンネルが続いているようにしか見えないのだが。

 いや、そんなことを考えても大した意味はないだろう。

 あと五秒、あと四秒で、そこへと、辿り着くのだから。

 あと三秒。

 あと二秒。

 あと一秒。

 そして。

 それから。

 真昼は。

 光に飲み込まれる。


 優しく。

 暖かく。

 柔らかく。

 絶対的な愛と共に抱き締められて。

 ゆっくり海底に落ちていくような。

 そういう光だった。

 こんな光がアーガミパータに存在しているなんて。真昼には、全く信じられないことだった。真昼が今まで見てきた光、今まで生きてきた中で触れたことのある光の、どれとも、完全に、違っていた。種類が違うのだ、性質が違うのだ。その光は……純粋な、生命力の光だった。

 和解だ。赦免だ。充実だ。柔らかいベッドの中でぐっすりと眠っているみたいに。暖かい羊水の中でうっとりと溺れていくみたいに。体の奥の奥、一番奥にある、何か一番大切なものが。静かに静かに痙攣している。あまりに大きな喜びに耐えられず、甘やかに痺れているのだ。

 そんな風にして。

 真昼が。

 光の中で。

 淡く。

 淡く。

 快感を。

 貪っていると。

 その愛しい愛しい瞬間を。

 無残に引き裂くみたいに。

 耳元で、大きな声。

「真昼ちゃん、着いたよ!」

 それから真昼の身体は、どさーっという感じ、明らかにぞんざいな感じでどこかに落とされた。今までの恍惚とした感覚が、そのせいで一気に消滅してしまって。ようやっとのことで真昼は我に返ったようだった。

 さて、真昼の目に最初に飛び込んできたものは……いや、それに触れる前に、まずはここがどこなのかということから書いていった方がいいのかもしれない。といっても、ここが一体どういう性質を持つ、どのような場所なのかということは、真昼にはさっぱり理解できなかったのだが。それでもこの場所について真昼が注目した様々な特徴を挙げていくことで、その雰囲気だけでも伝えることができるだろう。

 要するに。

 この場所は。

 白い宇宙だ。

 読者の皆さんも一度くらいは銀河の中心に到達したことがあると思いますが(何せ絶好の観光スポットなのだから)、そこからぐるっと辺りを見回した光景にそっくりの空間が、この場所の上空に広がっていた。あるいは、もっと卑近な例を挙げるならば、暗黒の天球に白く光り輝く星々が無限に広がっている、満天の星空。ただし、この宇宙の銀河や、この星から見る星空とは違っている点が、たった一つだけあって……それは真っ白な空間に漆黒の星々が浮かんでいるということだ。

 人間の知っている星空をネガティブにしたような色合いだったということだ。色合いも何も白と黒の二色なのだが、とにかく、そんな真っ白な夜空の下に、機械仕掛けで動く銀色の大地が横たわっている。この大地は何枚も何枚もの金属のパネルを繋ぎ合わせて出来ていて、そのところどころで明らかに回路としか思えないような電子工学的な部品が剥き出しになっている。あるいは、その大地に木の代わりに生えているのは、複雑なアクチュエーターを繋ぎ合わせて作った多関節のマニピュレーターや、光や振動を対象に対して放つ非接触型のセンサーだった。そういった機械は非常に大きなもので、人間の身長と比べても十数倍はあるのだが、それらの機械が何をしているのかということについてはもう少し後に触れることにしよう。

 そんな大地の上に……幾つかの、奇妙な形をした建築物が浮かんでいる。これは比喩的な表現ではない、本当になんの支えもなく宙に浮かんでいるのだ。それらの建築物は、端的にいうと非常に大きな塔であった。大きさとしては十数ダブルキュビトは下らないだろう、幾つも幾つもの層を重ねて作られた方錐の形をした、いわゆるペレムウェス式の塔だ。ただし、一般的に想像されるペレムウェスよりも随分と高さの方が長く、底面の一辺と比べると三倍くらいの長さがある。また層の一つ一つに大変細かい細工が施してある。その細工は、ダコイティの森、集会の広場、あのアウラに描かれていた絵画とよく似たモチーフであって、要するにダイモニカスと牛とによって構成されたモチーフということだ。大量のダイモニカスがあたかも柱のように彫刻されている。ところどころに何かの象徴のようにして大きな牛が刻まれている。

 その塔の数は全部で八で、この空間の中心を取り囲むようにして、なんの法則性もないとしか思えないやり方でばらばらに配置されている。中心からの距離も、浮かんでいる高さも、それぞれ別の塔となんの関連もなさそうなのだ。それでいて、一つ一つの塔にじっくりと視線を向けていくと。あと一歩でなんらかの数学的な正当性を感じられそうな気がしてくるのだが。その正当性を理解するのは、人間如きの知性では無理なのだろう。

 中心、そういえば、この空間には「中心」がある。そして、デニーと真昼とパンダーラとがいる場所も、その「中心」と関係している構造物だった。その構造物とは、これもやはりなんの支えもなしに浮かんでいる、ドーナツ型の円盤だ。ドーナツ型といっても、穴の方がかなり大きめのドーナツであって、リングの方は幅五ダブルキュビト程度しかないのに、穴の直径は数百ダブルキュビトある。このドーナツが「中心」を囲うような形で作られているので当然といえば当然なのだが……そう、このドーナツは「中心」を観察しやすいように作られた足場であった、ちなみに八の塔の内側に作られている。リングの両側には手すりがついていて、それから、リングの上、等間隔に四つ。東西南北に配置しているとでもいうかのような場所に、コンソールなのかターミナルなのかはよく分からないが、とにかく、幾つかのホロスクリーンと、かなり大きなインプット・デヴァイスを組み合わせた、なんらかのコンピューターが据え付けられていた。

 それらのコンピューターに、恐らくはマニピュレーターとかセンサーとかが送ってきたデータが送信されているのだろう。そう、マニピュレーターとかセンサーとかは、どうやらある一つのものを対象として加工・解析・その他を行っているらしいのであって。その対象こそが「中心」であった。

 「中心」は、つまるところ一つの巨大なドームだった。透明なボウルを逆さに伏せておいたような形状をしているが、その頂点には何やらアンテナのようなものが取り付けられている。これは透明ではなく、金属の色をしていて、四角い土台の上に、四つの傘を重ねて置いたような形をしていた。

 そして。

 そのドームの中に。

 真昼の見た。

 美しい。

 美しい。

 恍惚。

 あの光が。

 閉じ込められていたのだ。

 光というか、光を放っているもの。それは、信じられないくらいに膨大な、一頭の牛であった。いや、牛というか……牛に似た何か。便宜上牛と呼ぶが、牛ではないだろう。こんなに大きな牛がいるはずがない。体高で既に七十から八十ダブルキュビト、体長は百ダブルキュビト近くあるのだから。「真昼は今までこんな牛を見たことがなかった」と書くことさえ馬鹿みたいに思えるほどの大きさだ。とにかく大きくて、大きかったので、真昼が我に返った時に最初に見たものは、もちろんこの牛であった。

 この牛が牛ではないと思える理由は大きさ以外にもあった。まず、普通の牛なら二本であろう角が、あと二本余計に生えていたのだ。耳の上あたりに二本と、その後ろ側、背中の方に流れるみたいにして二本。計四本の角だ。前にある角よりも、後ろにある角の方が長く。それに、前の角が上に向かって曲がっているのに対して、後ろにある角は付け根から横向きに傾斜している。それから、もう一つの特徴が……孔雀の尾羽。

 パンダーラのそれとほとんど同じような羽だ、いうまでもなく牛についているものの方が遥かに巨大だったが。これは実のところ、パンダーラよりも先に、この牛の特徴として存在していたものであって。そもそもこの牛の方がパンダーラよりもずっとずっと長く生きているのだから。

 そして、パンダーラの孔雀の尾は、ダコイティにとってはこの牛を想起させるものであって。まさにゴーヴィンダ、牛飼いとしての象徴。それゆえに、パンダーラはダコイティにとって特別な存在となったのであって……もちろんそれだけが理由ではないが、重要なファクターの一つ。

 その牛の全身は神々しいまでの真白であった。胴体が白い色なのは無論のこと、蹄も白く、鼻も白く、二つの眼球さえも完全な白色で。孔雀の尾だけが唯一の色彩だった、そのため、その尾羽は、体の他の部分と奇妙なコントラストをなしていて。その尾羽だけが別の生き物であるようにさえ見えるくらいだった。そうして、その白い色は……同時に、聖なる、聖なる、光であった。

 この場所に来た時に、真昼のことを包んだ、あの光。この白こそがあの光だということだ。要するに、真昼が感じた全ての優しさ・全ての温かさ・全ての柔らかさ。あるいはその絶対的な愛は、この牛が持つ性質なのだ。真昼は、その牛を見ていると、漠然と、抽象的に、本当になんとはなしに、ある一つの単語が頭の中に浮かんできた。それは「母なる」という単語だ。別に自分の母親を思い出したというわけではない。ただ、「母なる」という単語に付随する、あらゆる感覚が、その牛から感ぜられたのだ。

 それは。

 アヴィアダヴ・コンダに住む。

 全ての生き物にとっての、母。

 つまり。

 この牛。

 彼女こそ。

 カーマデーヌ。

 ミセス・フィストによってダコイティの森から攫われ、アヴマンダラ製錬所にまで連れてこられたカーマデーヌは、メイン・コンプレックスの本当の中心であるこの場所に閉じ込められていたのだ。では、ASKは一体なんのためにカーマデーヌをここに閉じ込めているのか? もちろん、先ほども書いたように、大地から伸びた様々な機器によって、実験と観察とを繰り返している。だが目的がそれだけであればこの場所に留めておく必要はないはずだ。ASKの本社に送った方が、より一層素晴らしい実験施設が整っているし。それに何よりダコイティが奪還のために攻め込んできても、この場所にいなければ彼ら/彼女らは取り返すことができないだろう。それにも拘わらず、なぜ、こんな物騒な地域の物騒な支店に閉じ込めたままにしているのか?

 それはカーマデーヌの。

 下半身を見れば分かる。

 カーマデーヌは、右の後ろ脚と左の後ろ脚との間、その巨体に似合った、巨大な乳房を有している。その乳房に、何本も何本ものチューブのようなものが取り付いているのだ。チューブの先には滑らかな金属で作られたカップが付属しており、そのカップが四本の爪によって乳房に固定されている。要するに、それは搾乳機だということだ。

 ただし、その搾乳機が絞るのはただのミルクではない。透明のチューブの中を、ひっきりなしに流れていく液体は……液体ではなかった。というか、そもそも存在でさえなかった。概念でもなく、その二つとは全く別のもの……それは、生命そのものだった。真昼はスナイシャクを見たことがあるわけではないのだが、あのチューブの中を流れていく何かは、たぶんスナイシャクによく似たものだろうと思われた。色でいえば虹色に光り輝くような白なのだが、色があるというわけではない。形でいえば原初の海、後々生き物となって世界に遍く満ちていくであろう全ての材料が溶けて混ざり合った黎明の海なのだが、やはり形があるというわけではない。それは原理なのだ。人間によって数字という形式を与えられる前の方程式のようなもの。ライフ・エクエイション。

 ASKは。

 カーマデーヌの乳房から。

 それを、搾り取っている。

 搾乳機と繋がっているであろうポンプ(この場所からでは見えないが)が、無慈悲な心臓のごとく鼓動を打つたびに。カーマデーヌは苦痛に満ちた叫び声をあげる。その声は一つの聖歌であるが、これほど絶望と悲劇とに満ちた歌を真昼は聞いたことがなかった。例えば人間であれば、静かに静かに、頭蓋骨から脳髄を吸い出されているような。その時に、段々と失われていく自分という生き物に縋り付こうとしている絶叫。長く、長く、低く、低く、聞いている者に少しでも感情があるのならば、その感情を刺し貫くほどに鋭い、牛の鳴き声だ。

 そして、カーマデーヌの乳房から光が奪い取られていく。その光はチューブを伝って大地へと飲み込まれていき……アヴマンダラ製錬所の隅々にまで浸透していく。今まで真昼は勘違いしていたのだが、よくよく考えれば、いくらアーガミパータが魔力に満ちているからといって、その魔力だけでこれほど巨大な製錬所を動かせるわけがないのだ。何か特別な動力源が必要になる。その動力源こそが、カーマデーヌの乳だったのだ。

 いや、もちろんその乳は燃料となっているだけではなく、実験の対象ともなっているのだが。この場所のそこここで、火山地帯に噴き出す溶岩みたいにカーマデーヌの乳が噴出していて。ぼこぼこと泡を立てながらどろどろと流れていく。様々な機器は、カーマデーヌだけではなく、湧き出した乳に対しても加工・分析・その他を行っていたということだ。ただ、それはごく一部であって、大部分は燃料として使用されているらしい。

 それから。

 傷つき。

 窶れて。

 倒れそうなほど弱った。

 カーマデーヌの、横顔。

 間違いなく……随分とひどい目にあってきたようだ。と、それはそれとして。真昼は、ずべしゃーみたいな感じで落とされた地面の上から立ち上がって、辺りを見回して。大体、以上のような情報を確認したということだ。

 ああ、あともう一つ見た光景があって、それはこの場所自体に関係があるというよりもパンダーラの行動であった。パンダーラは真昼が放り落とされたすぐ横のところにいたのだが、地面に両膝をついて跪き、両方の手のひらを合わせて合掌の形を作り、そして深々とこうべを垂れて、目の前にいるカーマデーヌに向かって祈りを捧げていた。

 真昼は、ほとんど驚愕といっていいほど驚いたのだが……なんと、パンダーラの頬には、一滴の涙が伝っていた。とても綺麗で、純水と見まごうほどの雫。まさか……まさか、ダイモニカスが涙を流すなんて。というか、まず、ダイモニカスに涙を流せるような生理的機構が備わっているということ自体が真昼にとっては驚くべきことであった。

 真昼はカーマデーヌを見た時に、(まあ、あそこに見えるのはカーマデーヌだろうな)くらいのことを思いはしたが、それが絶対にそうだという確信は持てなかった。しかし、パンダーラの、その涙を見た瞬間に……自分が見ているものが、カーマデーヌ以外ではありえないということを理解したのだった。

 と、そんな風に。

 感慨に浸ってる。

 真昼の耳に。

 全くもって可愛らしい。

 底抜けイージーゴーイング。

 そんな声が聞こえてくる。

「さっ、真昼ちゃん! もうおんぶしてないんだし、デニーちゃんのスーツを汚す心配はないよね! 遠慮なくおえーってしていいんだよ! ほら、無理しないで、おえーっおえーって!」

 もちろん。

 デニーの。

 セリフだ。

 うーん、感傷の欠片もないが……可愛いからAK! 一方で、そんな言葉を掛けられた真昼の方は、ここに来た時にカーマデーヌの光に包み込まれたせいで、すっかり気分がよくなってしまって、吐き気のことなんて完全に忘れていたのだけれど。そんなことを言われたせいで全ての感覚を思い出してしまった。

 いきなり胃袋がひっくり返ったみたいにして込み上げてくる液体、込み上げてくるどころか突き上げてきて、慌てて手すりのところまで駆け寄る。ただまだ多少の分別は残っていたらしく、というかパンダーラが祈りを捧げるのを邪魔したくなかったらしく、カーマデーヌがいる方向とは逆の方向の手すりだった。

 手すりから身を乗り出すみたいにして頭を突き出して、胃袋の中のものを一気にぶちまける。ソーマ、輝くような色をした液体が、真昼の口から怒涛のように流れ出し、きらきらとした光を放ちながら落ちていく光景は……なんとなくシュールだった。

 せっかく我慢。

 できてたのに。

 内心も表情も明らかに忸怩たる有様で、そんなことを考えながら。真昼は顔を上げると、手の甲で口を拭いながら振り返った。すると、いつの間にかすぐ横にデニーがいて、真昼の吐いたものが落ちていくところを面白そうに見ていたということに気が付く。「うわー、すっごーい、きらきらだねー」「あっ、べちゃってした、べちゃってしたよっ」みたいにひとしきり騒いだ後で、すっかり飽きてしまったのか、死んだ鼠をそこら辺に捨てる猫のように、ふいっと顔を上げてしまった。

 この男は……どこまで人に恥をかかせれば……! みたいなことを考えた真昼であったが。何せ、今度は吐瀉物まで見られてしまったのだ、とはいえ、起こってしまったこと、見られてしまったものはどうしようもないのであって。まるで、今、一切、何も、起こらなかったかのような態度で、あらゆる全てをはぐらかすように、デニーに向かってこう言う。

「ここはどこ。」

「どこって、アヴマンダラ製錬所だよお。」

「そういうことじゃなくて。」

「んーと……」

「ここはどういう場所なの、どういう性質の場所なの。建物の中にあるにしては広過ぎるくらい広いし、全体的に異様な感じだし、なんだか普通の場所じゃないみたいだけど。」

「あー、そういうことだね! えーと、ここはタンジェンシーって呼ばれてる場所なの。ナシマホウ界とマホウ界がくっついてるところ。ほら、真昼ちゃんも知ってる通り、アーガミパータってリリヒアント階層がめちゃくちゃになっちゃってるでしょ? それで、そのせいで、ほんとーなら別の階層にあるはずの場所がへんてこりんな形でくっついたりしてるわけなんだけど。ここはその接触点だーっていうことだよ。」

「つまり……ここは、マホウ界だっていうこと?」

「んー、厳密にはマホウ界でもナシマホウ界でもないね。その両方がぐちゃーっとしてる場所。そういうところって、いろんな法則が変形してるから、こういう実験したりなんだりするところにちょーどいいんだよね。だからASKも、わざわざこの場所にメイン・コンプレックスを作ったんだと思うよ。」

 デニーにそう言われて、真昼は改めて辺りを見回してみた。そこここに見えているのは普通なら有り得ないような光景だ。視覚を混乱させてしまう白い星空のせいで、どれだけ広いのかさえ分からないけれど……真昼が見る限りでは果てがないようにさえ見える場所。

 それに、今まで見ていたのがカーマデーヌがいる方向、このリングの内側だったせいで、気が付かなかったのだけど。何か特別な自然現象のようにして、この場所のところどころに表れているのは……巨大な、空間自体の、歪み・軋みだ。それを上手く表現することは難しいのだけれど、例えば透明な粘土を思いっきり捻じ曲げたみたいにして。真昼が見ている先、漠々として広がっている空間のところどころがぐにゃりとひしゃげるのだ。ひしゃげては元に戻り、元に戻ってはひしゃげて。あたかも目の錯覚とでもいうみたいにして空間自体が捻じ曲がる。

「あー、でも。」

 デニーの声がして。

 真昼は、振り返る。

「ここがこーんな感じなのは、全部が全部、タンジェンシーだからーってわけじゃないけどね。例えばお空が白かったりするのは、たぶんASKが可能性だのなんだのをいじくってるせいだし。」

 まあ。

 それでも。

 とにかく。

 この場所は。

 普通ではないらしい。

 真昼はそのことを理解すると。リングの外側に向いていた体を、またリングの内側の方向へと戻した。どうやらパンダーラも、あの祈りのような行為を終えていたらしく。跪いた姿勢から、すっと背を伸ばした直立の姿勢に戻っていて。それでもその視線は目の前のカーマデーヌのことを焦がれるようにして凝視したままであったが。

「それで、ここが目的の場所?」

「ぴんぽーん、その通り!」

 今更の質問と。

 今更の答えだ。

 なんだか……全然実感が湧いてこない。これから全てが決まってしまうなんて。真昼にとって、色々なことが不思議だったのだけれど。一番いぶかしく思っているのは、自分が全然緊張していないということだ。今の緊張感と比べてみれば、小学校のころ、まだ真面目に学校に通っていたころ、試験の前に緊張していたその緊張の方が、ずっとずっと強く張りつめていたくらいだ。これはたぶん……ついさっき、そこで嘔吐したせいだろうと思われた。恥も外聞もなくへどを吐いた人間が、今更緊張したところで、なんだか間が抜けている気がするのだ。

 もちろんそれだけが理由というわけではなくて。この場所が静か過ぎるということも理由の一つだろう。最終決戦の場所にしては、見渡す限り、敵の姿、影も形も見当たらないのだ。それは、ノリ・メ・タンゲレのような存在ならば、影も形も見当たらなくても、この場所にいる可能性もあるのだが。デニーとパンダーラとの様子を見る限りはそういうわけでもないようだ。いや、よく考えると……それはおかしいのではないか? この場所は、アヴマンダラ製錬所で、最も貴重なものを閉じ込めている場所なのであって。それならば、警戒レベルも最高でなければいけないはずだ。一体これはどういうことなのだろうか。

 真昼は、疑問に思い。

 その疑問を口にする。

「ねえ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「ここに、あのノリ・メ・タンゲレとかいう連中はいるの?」

「いないよー。」

「それじゃあ、他の……警備システムみたいなものは?」

「ないですね。」

「何もないの?」

「うん。」

「それっておかしくない? だって、ここに……彼女がいるのに。ASKだって、あたし達の目的が彼女だっていうことは分かってるでしょ? それなのに、なんの対抗策も用意してないの? そんなの、普通に考えて有り得ない。大体、さっきまで追いかけてきてたノリ・メ・タンゲレはなんでいなくなったの?」

「なんでって、必要ないからじゃない?」

「必要ない?」

「そーだよ。」

「それ、どういうこと。」

「どういうことって……」

 真昼の、そんな疑問が。

 本当に、理解できないとでもいうように。

 デニーは、可愛らしく、その首を傾げて。

 それから、真昼の背後。

 リングに備え付けられた。

 コンピューターの一つを。

 ぴっと、指差す。

「ミセス・フィストがいるんだから、それでじゅーぶんってこと!」

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