第一部インフェルノ #25

 世界が正しくありますように。

 せめて、今日、一日だけでも。

 真昼は目覚めた。残念なことに気持ちのいい目覚めとはいえなかったが。全身がまるで真夏の炎天に遮るものなく晒されているように暑かった。なぜなら真夏の炎天に遮るものなく晒されていたからだ。夜の間はそこから風が入ってきて、とても涼しく感じられた天井の欠如も。日が昇ってからはただただクソ暑い日の光が差し込んでくるだけだった。

 汗がだらだらと流れていて、それが寝袋をべしょべしょにしている。体中がぬるまったい液体で濡れていて、自分でも感じるほどの女の匂い。ただただ全てが不快だった。だが、とはいっても。幸いなことに、日が昇ってからそれほど時間が経っているわけではないようだった。開いた眼の先に広がっていた空は、まだまだ早朝の明るさだったからだ。

 額の汗を拭こうとして手の甲で拭うのだが、その手の甲がすでに汗まみれなのでなんの意味もなかった。とにかく、寝袋の中で身を起こしてみる。と、思いのほか――これほど汗だくでありながらも――さほど、体力が奪われた末の目覚めというわけではないことに気が付く。

 むしろ、体中に。

 力が満ちていた。

 それはただ肉体だけが万全だというわけではなく、もっと根源的な、魂魄の底から鳴り響いてくるような、スナイシャク自体の力だ。これほどの力はデニーに描かれた魔学式だけでは説明がつかない。恐らくは、その魔学式が……昨日の夜に飲んだソーマ、生命力の水割りみたいな飲み物と、相互に影響しあって。お互いの効果を最大限にまで高めた結果だろう。

 だから、昨日から着っぱなしの丁字シャツ・ジーンズが、べとべとと薄汚れて、不愉快なくらい体に纏わり付いてきていても。あるいは、目をつむっていても眩しいほどの、強烈な日射に晒されていても。真昼は、気持ちのいい目覚めとはいえないにしても、それなりにはっきりとした目覚め、起きてすぐの状態でまともに頭が働くくらいには健康的な目覚めではあったのだった。ただ、まあ、これだけ汗をかいているのだから当然といえば当然なのだが、少しばかり、喉が渇いてはいたが。

「あれー?」

 小屋の、出入り口の方で。

 非常に不愉快な声がする。

「真昼ちゃん、もう起きてたんだ。」

 出入り口といっても、カーテンとカーテンの隙間は全てが出入り口みたいなものだったが。とにかく、上半身だけを起こした姿勢で、声がした方を振り返る。そこにいたのはもちろんデニーで、なんだかちょっとだけ残念そうな顔をしている。

 きっと昨日の朝みたいに、はちゃめちゃな起こし方で真昼のことを起こしたかったのだろう。そうならなかったことに少しばかり安堵した真昼であったが、それはそれとして「早起きさんだね!」とかなんとか言いながら小屋の中に入ってくるデニーなのだ。その右手には、ダコイティのものらしき、あのぼこぼこの金属のコップを持っていて。どうやら真昼に対して何か飲むものを持ってきてくれたようだった。

「よく寝られたあ?」

「……まあまあ。」

「んー、それは良かったねっ!」

 そう言いながら、真昼の寝袋のすぐ近くに屈み込んで。手に持っていたコップ、はいっと渡す。真昼は何も言わずに、それでも素直にそのコップを受け取って。特に警戒感もなく、その中に入っている液体に口をつけた。

 予想通り、それはソーマだった。ただでさえ力に満ちた体に、更に力が注ぎ込まれていく感覚。そして、それだけでなく……左腕に、何か違和感のようなものを感じる。違和感というか、すうっと冷たく、あるいは熱く、何かが細胞と細胞の間に溶け込んでいくよう感覚だ。ちらりと視線を向けると、目に入ってきたのはあの入れ墨、パンダーラに強化してもらった重藤の弓。

 きっと。

 この弓も。

 この力を。

 感じているのだろう。

「夜は、ずっと森にいたの?」

「ふあ……何か言った、真昼ちゃん?」

「昨日は、一晩中、準備をしていたの?」

「あー、そーだね。」

「それで、いよいよ今日ってわけ。」

「ほえ? 何が?」

「何がって……ASKとの、戦いが。」

「うん、そうそう。そのとーり。」

 今の会話は真昼から始めたものだが、別に真昼はちょっとした世間話を楽しみたかったというわけではない。デニーの様子を探っていたのだ。デニーの様子は……昨日、この森に来てから、どこかおかしかった。今の会話から典型的に分かるように、ちょっと上の空なのだ。常に他のことを考えてる感じ。真昼のことを放っておいて……しかし、それは、ダコイティとASKとの戦いについて考えているというわけでもないらしい。何というか、例えば行将の次の手を考えているような、そんな感じ。

 何か、とても、とても、良くないことのような気がした。そんな風に、デニーが、考えていることが。特に今日みたいな、たくさんの生き物の運命が決まってしまうような日には。

 具体的に何が悪いのかということはいえない。ただ、例えるならば。デニーのその態度が、忌まわしく・禍々しく・破滅的なことが起きる、非常に精度の高い前触れのような。真昼には、そんな気がしたのだ。けれども、一体何を考えているのかということを問いただす前に……デニーが「じゃ、いこっか」と言って、立ち上がってしまったのだった。

 真昼は、寝袋から抜け出て。

 両足に、スニーカーを履く。

 とてとてと可愛らしい足音を立てながら先に行ってしまったデニーの跡を追い掛けるように、ぼろ布とぼろ布の境目のところまで歩いて行くと。右手で、さっと、そのカーテンを搔き開く。今まで遮られていた外の空間、その光景が、その瞬間に、真昼の視界へと飛び込んでくる。

 それは……しかし、それを何に例えればいいのだろうか? それを見て一番最初に真昼が思い浮かべたものは、この時・この場所には大変不似合いなものだった。つまりは、おもちゃ屋のショーウィンドウだった。

 しかも特別なアクションフィギュア・シリーズの発売の日。大量に仕入れられた兵隊の人形が、整然と並べられている。数えきれないほどの種類の人形があるのだが、それでも一つのシリーズで括られているものであって。どれもこれもが、結局のところは、似通っている。

 ダコイティは、そんな風にして、広場一杯に整列していた。真ん中にあるあの演壇を中心にして、そこから放射するようにして円形に並んでいるということだ。驚くほどの数の人間が、驚くほどの従順さで、そこに立っているのだった。

 もちろん彼ら/彼女らは軍隊ではない。だから多少の違いはあった。例えば戦闘服の上を脱いで腰に巻いている人がいたり。あるいは武器についても、アサルトライフルにハンディマシンガン、携行用無反動砲を持っている者までいた。

 それでも、やはり、彼ら/彼女らは。ダコイティという集団のメンバーなのだ。男も女も老いも若きも、戦闘服を身に纏って、その手にはなんらかの武器を持って。そして、その時を待っていた……自分達の運命が決定してしまう時を。

 ちなみに、真昼が一番驚いたのは。

 その光景の、昨日との差であった。

 昨日の混沌と今日の秩序。あれほどまで乱れていたのに、これほどまで整うことができるなんて。全然別の生き物みたいだ。というか、この人達はいつ寝ていたのだろう。ゆめうつつの中で真昼の耳に聞こえていた歌声から考えるに、昨日の遅くまで、今日の早くまで、あの祭りを続けていたはずだ。ほとんど眠る時間などなかったはずなのに……それなのに、一人として、これは比喩などではなく、本当に一人として、寝不足の顔をしている者はいなかった。ダイモニカスならば分かるが、人間が、これほどまでに己の肉体を律することができるなんて。真昼には信じられないことだった。

 さて、そんな中で……デニーは、どこにいるのだろうか? これもまた真昼には信じられないことであったが、なんとあの演壇へと向かっていた。先ほどの描写では書いていなかったが、この小屋からあの演壇へと向かう道、人間が足を踏み入れてはいけない道は、今日になってもまだ有効であるらしく。そのルート上には誰一人として人間のダコイティは並んでいなかったのだが。デニーは、そこを歩いていたのだ。

 しかも、その道の途中で、くるっと振り返って。いかにも無邪気な顔をして、こいこいみたいな感じ、真昼のことを手招きしたのだ。真昼にとってその招きは「おいおい、マジかよ」みたいな感じであり「ちょっと待ってくれよ」という話であった。この……この雰囲気の中を、ダコイティでもなんでもないあたし達が、あそこに向かって歩いていくの? それはちょっと、お門違いもはなはだしいんじゃない? しかしデニーは、絶対的強者の常として、そんなことを気にしている様子は全くなく。そして、真昼には、このことについて、デニーとじっくり話し合っている時間はない。

 というわけで、真昼は。

 有無をいうこともできず。

 ついていくしかなかった。

 ただし、眼前に広がっているあのような場所に、「おずおずと」や「恐る恐ると」やといった態度で出ていくわけにはいかないということくらいは真昼にも分かっていた。今、あの空間には、勇気が満ちている。それはほとんど蛮勇といってもいいほどの、致命的な勇気ではあったが。例えばASKのような相手に対して闘争を挑むためには、そういったものが不可欠なのだ。

 そんな空間に、怖気付いた心を持つものが踏み込んでしまったら。その心が、真昼の弱い心が、彼ら/彼女らに感染しかねないということだ。そんなことになれば、これから始まる命がけの闘争に、どれだけの悪影響が及ぶだろうか。それだけは絶対に避けないといけないことであって。

 だから真昼は――本当の心はどうあろうとも――せめて胸を張って行くことにした、せめて背筋を伸ばして行くことにした。深く息を吸い込んで、それからそれを大きく吐き出す。ただ、自分にとって一番重要なこと、マラーのことだけを思い浮かべて……そして、一歩を踏み出した。

 彼らは、彼女らは、真昼を一顧だにしなかった。考えてみれば当たり前のことではあるが、それでも真昼は内心驚いてしまう。それらの目は、恐怖さえ覚えるほどのアレジエンスで、ただただじっと演壇の上に注がれていて。その列と列の間を、滑稽なほど敢然とした態度で、真昼は歩いていく。

 さて、そんな中で、デニーは。

 さっさと演壇の上に上がって。

 昨日の、祭宴と、同じように。演壇の周りにアウラは張り巡らされていなかった。ただし、その理由はきっと昨日とは違うものだろう。それは、既にそういったことに対して割くことのできる余分なリソースが存在していないからだ。全ての魔力が、全ての共同幻想が、あたかもここにいる人間達の視線のようにして、一つの方向に向かっているということだ。

 それから、その演壇の上には、あの十一人のダイモニカスがいた。小屋から続いている道をそのまま延長させて一本の軸として。左翼側に四人、右翼側に四人、そして、軸の上、小屋とは石柱を挟んで反対側に三人。その三人のダイモニカスとは、オカティとレンドゥと、それにパンダーラだった。

 ダイモニカスのうちの十人は、立ち塞がるかのような敢然とした姿勢、演壇の下の人間達に向かって立っていたのだけれど。残りの一人であるパンダーラだけは座っていた。演壇の中心、それどころかこの広場全体の中心でもあるあの石柱に、体を預けるようにして寄り掛かって。その様は、まるで何かに……石柱が語り掛けている何かに耳を傾けているかのような、透明な金属のように敬虔な様子で。そして、その隣には、演壇の上にいるたった一人の人間として、ジュットゥが付き従うように立っていた。ジュットゥが、その腕の中、恭しく保持しているのは、パンダーラのためのライフル、あの隻腕用のライフルであった。

 デニーと、追いついた真昼とは。

 演壇の上、石柱を右回りに進んで行き。

 三人のダイモニカスと、一人の人間が。

 人間達に向かっている。

 その場所に、辿り着く。

 ジュットゥが、ほんのちらとだけ、気遣うような視線を真昼に向けてきた。デニーへの反感は変わらないようだったが、真昼に対しては多少の仲間意識のようなものは感じ始めているらしい。真昼はそれに軽く頷いて返す。その気遣いと、それにジュットゥに認めて貰ったことが、少なからず嬉しかった。ジュットゥはパンダーラの左側に立っていたので、デニーと真昼とは、自然にパンダーラの右側に立つことになる。そして、その位置に、決められていたかのようにして二人が収まった時に。

 ダコイティにとっての。

 全ての終わりが始まる。

〈同志達よ。〉

 口を開いたのはオカティだった。もっともその言葉はデウスパシーによって発されていたので、正確にいえば口を開いていたわけではないが。真昼は、こういう時に何か演説のようなことをするのはパンダーラだと思っていたので、意外に思ったのだが。そのパンダーラはといえば、何も言葉を発することなく、それどころか身動き一つすることなく、そこに座ったままでいた。

〈遂に今日という日が来た。その日が来ることを俺達が待ち望んでいた日、その日が来ることをやつらが恐れていた日。それは慈悲なき復讐の日であり、喜びに溢れる解放の日であり、そしてようやく……ようやく、俺達が払わなければならなかった全ての犠牲を悲しむことができる日である。

〈俺達の戦いは百年近く前に始まった。俺達は百年近く戦い続けてきた……いや、この言い方は正しくない。俺達は、百年近く、生き延びてきたのだ。やつらは、ASKは、ずっと俺達を皆殺しにしようとしてきた。それでも俺達は生き延びてきた。ASKは、ずっと俺達のことを排除することはできなかった。だから今日、俺は希望的で楽観的でいる。俺達は生き残ったのだ、あらゆる苦しみと痛みとを経験しながらも、生き残ったのだ。そして、一度たりとも、あの九百五十七年の悲劇の後でさえも、敵に向けた剣と矢とを下すことはしなかった。

〈これは……「完全な戦争」だ。やつらはそれを理解していないかもしれないが、これはただ単に強奪する者と強奪される者との戦いではない。アヴィアダヴ・コンダの全存在・全概念が、その生き残りをかけて、ASKという絶対的な悪に立ち向かっているのだ。この戦いは、総力戦であって……だから、アヴィアダヴ・コンダの全てが動員される。

〈この戦いには、この最後の戦いには、全てが動員される。もちろん、死者も含めてだ。死んでいった同志達、ある者は敵に致命的な打撃を与えて死んでいき、ある者は俺達の命を助けるために死んでいった。そんな死者達が、もう一度立ち上がり、俺たちと共に戦う。これは何よりも重要なことだ。なぜなら、それは、相手に対して知らしめることだからだ。俺達は、死さえも安らぎとはしないのだと。お前達を滅ぼすまでは、絶対に、この両目を閉じることはしないのだと。

〈だから、だからこそ、俺達は勝利するだろう。今日という日を、必ず勝利で終えるだろう。あらゆる痛みに耐え、あらゆる苦しみに耐え、それでも戦いを続けていた者が、どうして敗北する? 死ぬことさえも犠牲に供し、ただ勝利だけを求めてきた者が、どうして敗北する? 今日、俺達は勝利するのだ。ASKを滅ぼし、アヴィアダヴ・コンダを解放し……そして、彼女を、俺達の元に、取り戻すのだ。

〈同志達よ、解放の戦いで生死を共にしてきた俺の友よ。今日が……今日が、最後の日だ。だから、最後の最後に、俺が求めるものを聞いてくれ。それは、同志達よ、お前達の血だ。俺はお前達に、お前達の体の中を流れる血を求める。なぜなら奴らが俺達に流させた血に復讐できるのは、俺達の血だけだからだ。復讐と解放との対価として、唯一値するのは俺達の血だけだからだ。赤く、熱い、俺達の血だけだからだ。俺に、アヴィアダヴ・コンダに、血を捧げよ。そして、俺は勝利を約束する。〉

 オカティが演説を終えると。

 人間達は、一斉に。

 叫び声を、あげる。

 ある者は手に持った武器を掲げ、ある者は足で地を踏み鳴らし。それは、興奮に満ちた叫びであって、ほとんど獣の咆哮にさえ近いものだった。そこら中から「ラクタム!」という声が上がって、それが何度も何度も繰り返されたが、それはダクシナ語で「血を!」とかそんな意味合いの言葉だ。

 一方で、真昼は――これは真昼自身も驚いたことなのだが――非常に冷静に、その演説の真意について理解することができた。いうまでもなくそれは人間達を鼓舞するためのものであったのだが、ただ一番の目的はそれではなく、デニーが生き返らせた死者達の兵隊を人間達に受け入れさせるということにあるのだろう。

 昨日の集会の様子からも分かるように、ダコイティは必ずしも死者の兵隊という考えを受け入れることができているわけではない。というか、オカティ自身がその考えに嫌悪感を示していたではないか。それにも拘わらず、今、オカティは、その考えを全面的に肯定するような演説を行った。これはどういうことなのか。

 簡単なことだ。人間達にそれを受け入れさせるため。これから始まる戦いにおいて、死者の兵隊はかなり大きなウエイトを占めることになる。レザレクションの作業に最後まで立ち会ったわけではないので、真昼はその総数をはっきりとは分からなかったが……推測するに、生者の数の数倍はいると思われた。となれば好き嫌いをいっている場合ではない。それは戦いの勝敗に決定的な役割を果たすものなのだから。

 だからこそ、オカティはこの演説をしたのだ。ダイモニカスほど感情のコントロールが上手くできない人間達のために。都合のいい言い訳を用意したということ。集団の中のリーダー的存在、ダイモニカスが、これほどまでに死者の兵隊を肯定している。それならば人間がそれを肯定して何の不都合があろうか? 要するに、そういうことだ。

 そのことを、手に取るように。

 真昼には、理解、できたのだ。

 これは、たぶん、デニーと一緒にい過ぎたせいだろう。教えて欲しいと頼んだ覚えもないのに、デニーは、痛いほど、真昼に、教えてくれた。この世界を一つの海に例えるならば、表に見えている光り輝く水面だけでなく、全く光の当たらぬ海底を流れる、冷たく、透き通った、海流があるのだということを。その流れは水面のさざ波よりも遥かに力強く、それゆえに、その流れに足を取られてしまえば、後は溺れるしかないのだ。その流れの中に住んでいる、捻じれて、歪んだ、適応種でもない限り。真昼は……これもまた、自分では認めないだろうが。さざ波が揺らめく水面から沈み込んで、その先は一匹の適応種に導かれて。自らもその環境に適応しようとしているのかもしれない。

 とは。

 いえ。

 冷たい海流に浸しているのは、まだその指先だけだ。何がいいたいのかといえば、冷静でいたのは真昼の一部分だけだったということだ。

 人間の精神というものはかなり不完全なもので、きっちりとピースの嵌まったパズルのようなものではない。どちらかといえば、砂糖とミルクを入れた後で、二回か三回かスプーンで混ぜた宇宙のようなものだ。それは個人に所属しているというよりもむしろ「知性の構造」に所属していると考えてよく、意識とは単なる追認に過ぎない。しかも、それは手遅れの追認だ。だから、真昼の精神が、一方では冷静に事実を確認していながらも……もう一方では、抑えきれないほどの高揚を感じていてもなんの不思議もない。

 よく考えてみて欲しい。今から、あらゆることを決めてしまう賭けをしようとしているのだ。もし負ければ手元には何も残らず、もし勝てば全てを手にすることができる。更に、その賭けに参加するのは真昼だけではない。目の前にいる、これほどの巨大な集団、その全員が、テーブルの上に命の賭け金を投げ出しているのだ。演説の内容など……この際、関係がない。というか、むしろ、陳腐でありきたりな方がいいかもしれない。その分だけ考える手間が省けるのだから。

 真昼は、間違いなく高揚していた。自分の心臓が、興奮の感情を、全身に向かって送り出しているのを感じる。自分が叫びださないのが不思議なくらいだった、意味も分からず「ラクタム!」と叫んでいても何もおかしくない。目の前で、何かに取り憑かれたかのように、熱に浮かされたかのように、血を求めている人々。それを見て、真昼は、ようやく、はっきりと悟ったのだ。今から戦いが始まるということを、命懸けの戦いが始まるということを。もう、汗にまみれた服も気にならなかった。一瞬前までは(え、ちょっと待って……あたし、この服で行くの? 丁字シャツとジーンズで? せめてなんか、戦闘服とかに着替えたいんだけど……一着くらい余ってないの……?)とかなんとか思っていたのだけれど。そんな迷いは、もう消し飛んでしまっていた。

 まあ、とはいえ。

 着替えられるなら。

 喜んで着替えるが。

 しかしながら、どうやらそんな時間はないようだ。世界は真昼の時計で動いているわけではなく、事態というものは、しばしば真昼の都合なんてお構いなしに動いていくのだから。起きたばっかりで、コップ一杯のソーマを飲んだだけで、すぐさま戦場に突っ込まなければいけなくても、それは仕方のないことであって。

 今度は。

 オカティの、隣。

 レンドゥが言う。

〈それでは、最後に問おう。〉

 オカティと同じくらいの強さを持つダイモニカスだと思われた。二本の角、それから背中には羽が生えている。黒一色に、点々と白い斑点がついている、満天の星空のような模様。差し渡しで二ダブルキュビトほどもあるであろう蝶々の羽だ。その羽を、ゆっくりと揺らしながら、レンドゥは続ける。

〈この戦いに加わることを望まぬ者はいるか。いれば速やかに申し出るがよい。その者は、この森に残していこう。案ずるな、その者を責めることは我らが許さぬ。なぜなら、その者も我らと共に戦ってきた一人なのであり、今まで生き残ってきた者の一人なのだから。それだけでその者は同志と呼ぶに値する。どうだ、これが最後の機会だ。〉

 これは。

 聞くだけ。

 無駄だった。

 誰一人として名乗り出る者はいなかったからだ。勘違いしてはいけないのだが、この事実は、ここにいる全員が勇気ある戦士だということを意味しているわけではない。もちろん、彼ら/彼女らの中には、戦いに加わりたくない、死にたくないと思っている者もいる。だが、そういった者達でさえ……もう、この状況が続くよりは、死んだ方がましなのだ。

 どっちつかずの宙ぶらりん、毎日毎日ASKの飛行機に怯えながら、潰した蟻を食べるような日々。これ以上、この状況が続くのには耐えられないのだ。それくらいなら、この戦闘で、あっさりと命を落とした方がいい。そうすれば、少なくともこれ以上は苦しまずに済むのだから。レンドゥは、そんな人々のことを見渡して、誇らしげに(とはいえ実際に誇らしげに思っているかどうかは分からないが)一つ頷く。

 ということで。

 形式的な質問は。

 これで終わりだ。

〈勇気ある同志達よ。〉

 オカティと。

 レンドゥが。

 声を合わせて、言う。

〈いざ、勝利へ。〉

 そして。

 その声を聴き。

 パンダーラは。

 ぱっと、目を開いた。

 暫くの間、名残惜しそうに、石柱に頭を預けていたままでいたのだけれど。やがて、とうとう心の準備ができたとでもいうようにして、ゆっくりと立ち上がった。

 残っている方の手、左の手を、前に向かってすっと上げる。すると、それを合図にして、左側に侍っていたジュットゥが、パンダーラの前で、片方の膝を折って傅いて。その手に向かってライフルを差し出した。一つの儀式のように完璧な形式にのっとって、パンダーラは、そのライフルを受け取ると。静かに、静かに、前に向かって歩き始める。

 先ほどまで、血気に溢れて。

 吠え声を上げていた人間達も。

 見入られたように、静まって。

 一歩一歩前に進んで来たパンダーラは、オカティとレンドゥの間、二人よりも少し前の位置にまで至るとその足を止めた。息を吸って、それを吐き出して。それから、首だけで後ろを振り向いた。右斜め後ろから、この広場にいる千人近い人間、その一人一人と目を合わせているかのような態度で首を巡らせて。左斜め後ろまで、視線を向けて。

 もう一度、深く深く息を吸って、それを、重く重く吐き出して。顔を、真っ直ぐに、前へと向ける。その右手で持っていたライフルをおもむろに持ち上げて……パンダーラは、まるで変えられない運命を打ち砕こうとしているかのような勢いで、その銃底を、大地に向かって振り下ろす。

 そして。

 それから。

 真昼は、デニーは。

 十一人のダイモニカスと。

 千人を超える人間達とは。

 いつの間にか。

 戦場に立っていた。


 正確にいえば戦場の一歩手前だ。

 なぜなら、戦場は。

 一枚の壁によって。

 隔てられていたから。

 先を急ぎすぎたかもしれない、順を追って話そう。まず前提として……ライフルが打ち付けられた瞬間に、広場にいた全ての生き物が、パンダーラの御神渡りによって空間を渡ったのだということを確認しておこう。これはちょっと信じられないくらい驚異的な荒業であった。確かに御神渡りの運搬可能人数は、物理的な質量ではなく魔力や霊力や精神力やといった観念の総量によって決定される。そういった総量に関して、人間のそれなどダイモニカスのそれと比べれば微々たるものであるが……それにしても、これほどの人数を一時に運んでしまうとは。しかも、ダイモニカスに関しても、パンダーラを除いて十一人という人数を運んでいるのだ。パンダーラがどれほど強力な力を持つのかということが、ありありと理解できる行為といっていいだろう。

 また、移動させられたのは生き物だけというわけでもなかった。その場所に唐突に出現した集団の中で、人間達は……なんと、広場の中には存在もしていなかったビークルに乗っていたのだ。そのビークルには二種類あって、バイクによく似た乗り物と、ルカゴに似ていなくもない乗り物とだ。

 前者は、一人か二人か、凄い頑張れば三人くらいは乗れるかもしれない小型の乗り物だ。ベースとなっている形状は確かにバイクなのだが、ただしその下部についているのは車輪ではなかった。胴体の両側から直翅目の昆虫の後肢のように突き出ている、単関節のロッドの先に取り付けられていたのは、二枚の巨大な円盤だった。直径にして一ダブルキュビトはあるだろう。それは一種の魔力的な駆動機関だ。周囲の空間に満ちている魔力を集めて、それらの円盤から放出することにより、この乗り物を動かすことができる。アーガミパータにはほぼ無尽蔵に魔力が満ちているので、このような駆動機関を使えば、理論上は燃料切れになるということはほとんど有り得ない。

 また後者であるが、確かにルカゴに似ているといって良かった。ただ、それを引くものはウパチャカーナラではなかったし、後ろに取り付けられた「籠」の積載量も全然違っていた。まずはそれを引いている物であるが、陸上を走るホバークラフトとでもいったような代物だった。バイクに取り付けられていたものと同じ駆動機関が、車体の下部に浮上用の大きなものを一つ、車体の後部に推進用の小さなものを一つ取り付けられている。それから車体の周りには、めちゃくちゃといってもいいような感じで金属の板が打ち付けられていて、粗雑なつくりではあったが小型装甲車と呼んでもいいような状態になっていた。全てというわけではなかったが、車両搭載機関銃さえ取り付けられているものもあった。

 次に、引かれている「籠」について。「籠」の全てが同じ形をしているというわけではないが、どれもこれも、かなり巨大なものだ。その上に十人から二十人は載せることができるだろう。これにもやはり金属の板が打ち付けられていて、乗っている者の身の安全を守ることができるようになっていたが、ただホバークラフトの方よりは簡易的なものであるように思われた。どちらかというと乗っている者が乗降しやすいような形をしている。要するに、このルカゴのような乗り物は歩兵の運搬用であるらしかった。

 恐らくは、このバイク的な乗り物も、あるいはルカゴ的な乗り物も、ASKの破棄物から作り出されたものなのだろう。あの森の中で真昼がちょいちょい見かけていた、機械の塊をいじくっていた人間達は。自分達が破壊したASKの兵器をレストアして、こういった物を作っていたのだ。

 千人の人間のうち。

 一割くらいが、バイクに乗っていて。

 その他はルカゴに積み込まれている。

 そして。

 その背景には。

 まるで。

 静かに静かに、打ち寄せる。

 さざ波のような死者の軍勢。

 「主よ、あなたが海であるならば、わたしたちは砂浜の砂のようにこの地を軍勢で満たしましょう」。それは間違いなく砂浜の砂であった。それぞれが、やはりそれぞれの乗り物に乗っていて。ただし、死者の軍勢が使用しているルカゴ的な乗り物の「籠」は、生者が使っているそれとは少し違っているものだった。「籠」というよりも、ほとんど一枚のディスクのようなもので。しかも、それは金属などの材質でできたものではなく、何か、あの結界を形作っていた振動と同じようなもので出来ていた。また、大きさももっともっと大きく、一つの「籠」につき百人ほどが載ることができただろう。その大きさのせいか、それを引っ張るホバークラフトも三つか四つになっていた。

 真昼の……兵隊の数に対する推測は完全に間違っていた。死者は、生者の数倍どころか数十数倍はいたであろう。あの森にこれほどの死者が眠っていたとは。たった一度の戦闘、つまりミセス・フィストがカーマデーヌを連れ去っていった時の戦闘で、これだけの量の生き物が死んでしまったとは考え難い。これは、この数は、百年近く前に始まった戦争の中で、その死体を何とかASKに奪われずに連れ帰ることができた、全ての死体なのであろう。これほどの……これほどの生き物がASKによって殺されていたとは。真昼は、それを見て、恐怖にも似た憎悪を覚える。

 さて、その真昼は? どこにいて、どんな状態だったのか? 特に書いておかなければならないことは、御神渡りをした後で、いつの間にか真昼の服がお着換えされていたということだ。あの汗でべたべたの丁字シャツとジーンズは脱がされていて、その代わりに、さほど清潔とはいえなかったが、ダコイティが着ているものと同じような戦闘服が着せられていた(履いているスニーカーは変わらず)。真昼はマジでびっくりしたのだが、これは大変嬉しい驚きで、パンダーラはこんなことまでできるのかと改めて畏敬の念を抱いたものだ。また、ダコイティの仲間と認められたような、そんなこそばゆい気持ちにもなったものだった。

 そして、真昼は、この全ての兵隊達の先頭集団にいた。つまりパンダーラと十人のダイモニカス達との集団ということだ。その他にこの集団に属しているのは、例のバイクに乗っているジュットゥ(ちなみにバイクに一人乗りしているのはジュットゥだけだった)と、それにデニーだけだ。

 デニーと真昼と、二人も例のバイクに乗っていた。デニーが運転席に座っていて真昼は後部座席。この配置からすると、ルカゴに乗っていた時と同じように、デニーが運転役で真昼が迎撃役のようだ。デニーもやはり、アヴマンダラ製錬所に辿り着くまでは弾薬を温存しておきたいのだろう。

 その三人の前に。

 十人のダイモニカス達が、一列に並んでいて。

 更に、その前に、パンダーラが、立っていた。

 ところで……この場所は、果たしてどこなのだろうか? 端的にいえば草原地帯の真ん真ん中だ。先ほどまでいた森の中とは対照的なくらい緑が少なく、ところどころでは大地が剥き出しになってさえいる。もちろん真昼はこの場所を覚えていた。アヴマンダラ製錬所の外側に広がる、あの草原地帯だ。

 あの時はマイトレーヤの石窟寺院があった峡谷地帯と比べて見ていたため、随分と緑が多いように思われたのだが。今なら分かる、この場所は生命力を吸い尽くされ荒れ果てた荒野なのであると。もともとはこの地にもあの森と同じようにどこまでもどこまでも木々が広がっていたに違いない。それが今ではこれほどまでに死に絶えてしまったのだ。

 ただ、真昼は……それほど長い間、その荒野に注意を向けているわけにはいかなかった。真昼の目の前には、より一層注目を引くものが立ち塞がっていたからだ。立ち塞がる……まさに、その動詞が示す通りの態度で。あの、フォースフィールドでできた、白い壁が、そこにあったのだ。

 そう、真昼は今まですっかり忘れていたのだが、アヴマンダラ製錬所の全体は、このフォースフィールドによって守られていたのだ。デニーが言うところの「リクアイアメントタイプのフォースフィールド」。ASKから承認を受けない限り、このフォースフィールドを通り抜けることはできず……そして、それは、パンダーラの御神渡りも同じらしかった。あの移動方法ではこの壁を乗り越えることができなかったということだ。

 七ダブルキュビトくらいの壁が延々と世界を遮っている。そして、七ダブルキュビトというのは目に見えている部分だけであって、これは実際には巨大な球体なのだ。ダコイティが入ることのできる隙間などは存在していないのだ。一体、どうすればこの中に入ることができるというのか? そもそもASKに敵対するものがこの壁を超えることなどできるのか?

 もちろん。

 できる。

 できるのだ。

 先ほども書いたように、真昼とデニーとが立っている場所から数ダブルキュビトほど行ったところ、十人のダイモニカス達が立っていた。横に一列、ある種の幾何学的な図形ででもあるかのように、正確な等間隔で立っていて。その間隔がおおよそ二ダブルキュビト、それから、ダイモニカス達は各々が太鼓を持っていた。

 カンジールに似ていなくもなかったが、それよりは随分と華奢なつくりをしているし、皮が前後の両面に張られている。また、その皮は蜥蜴のものではなく……何か、ひどく薄くて、透明な、ラッピングフィルムのようなものだった。円の大きさが直径で三十ハーフフィンガー程度、厚さは五ハーフフィンガー程度。

 それは、ムガ・チェルマムという名前の楽器で……実は、楽器であるだけではなく、武器でもあった。これはアーガミパータに生まれ育った生き物でないとなかなかぴんと来ないかもしれないのだが、アーガミパータにおいて、音楽と殺戮とは混然一体としていて離れがたいものだ。アーガミパータの戦場においては音楽が絶えることがなく、その様は、まるで首を断ち切られた人間の傷口からほとばしる血液がそのまま甘美なメロディとなるかのようだ。刃と刃が軋む音、悲鳴、それに骨が砕ける音。そういった全ての音が、兵器としての楽器が奏でる歌と混ざり合って……一つの、美しい、芸術となる。

 だから。

 ダイモニカス達は。

 己の兵器を構えて。

 音楽の、殺戮の。

 始まりを告げる。

 その。

 合図を。

 待っている。

 そして、サンギータにおいて始まりの合図を出すのは、いつだって気高く清い一人の女なのであって……つまり、それは、ダイモニカス達の前に、全てのダコイティの先頭に、たった一人で立っている、パンダーラのことだ。

 パンダーラは、ライフルを背に負っていて。それから、その両足、足首のところに、真昼が見たこともないような形をした鈴を結び付けていた。これは今まで触れていなかっただけで、実は、今朝の決起集会の時から結び付けていたのだけれど。丸っこい巻貝の貝殻を二つ繋げたみたいな形をしていて、パンダーラが足を動かすたびに、しゃらしゃら、しゃらしゃらと、冷たいガラスの砂粒が擦れあうような、透き通った音を立てていたのだ。これはガンガッラと呼ばれる楽器であり……やはり、アーガミパータで最も危険な兵器のうちの一つだった。

 さて。

 心臓の鼓動さえ聞こえてきそうな。

 この、静まり返った荒野の片隅で。

 パンダーラが。

 この楽団の気高く清い指揮者が。

 遂に、始まりの、音を、鳴らす。

 運命が……その手に持つ雷鎚を振り下ろすような態度で。パンダーラは、己の右足を、大地に振り下ろした。そのせいで右の足首についていたガンガッラが音を立てる。ただし、その音は、今までガンガッラが立てていた音とは全然違った音だった。今までの透明な音はすっかりと姿を消してしまっていた。その音は、例えば、恒星と恒星とが響きあう音だった。

 全身が、いや、存在と概念との理が、揺さぶられたみたいだった。真昼はこんな風に感じた、真昼の全てを形作る根源情報式に組み込まれた数字の全てが、一度ばらばらになってしまって、その次の瞬間に、また新しく組み立てられたみたいな、そんな感覚だ。その音はあまりにも大きかった。あれほど小さな鈴がこれほど凄まじい音を出せるとは思えないくらいの大きさだった。この世界の終りの日にこの世界を閉ざすであろう氷が、罅割れて、その時に立てる音みたいな。雷鳴よりも、もっともっと恐ろしく、もっともっと冷たい音。

 その音が、荒野の全てに響き渡って。余韻が、うっすらと、この世界中を満たして。それから……その音を、始まりの音を聞いたダイモニカス達が、遂に動き始める。命なき石像が唐突に生を受けて動き始めたみたいにして、指先一つ動かさなかったダイモニカス達が踊り始めたのだ。なんらかのスター型ネットワークを通じて完全に同期しているかのように、十人いるダイモニカス達の全員が、パーフェクト・アラインによって、体を動かしている。まずはパンダーラと同じように右の足を上げて、しかしそれを振り下ろすことなく、左足の片足立ちの姿勢になる。両手を大きく広げて、そのまま三回飛び跳ねて。四回目で一際高く飛び上がって、太鼓を持っている方の手、右手を自分の心臓の方に引き寄せながら、空中を刈り取るみたいな前転で一回転する。着地する時に両足で着地して……そして、その時に、手に持っていたムガ・チェルマムを、勢いよく叩いた。

 十の波動が、一斉に時空間を振盪する。

 殴られたような衝撃を感じて真昼はくらくらしてしまう。

 バイクに乗っていなかったら倒れてしまっていただろう。

 しかも、これで終わりというわけではない。

 まだ、ダンスは。

 破壊の過程は。

 始まったばかりなのだから。

 ダイモニカス達が着地した瞬間に、パンダーラが、またもや動き始める。それはダイモニカス達とは少し違う踊りであったが、しかし間違いなくそれらの二つのダンスは共鳴しあっていた。パンダーラは、短い髪を振り乱して、大きく仰け反った。そのまま倒れこむみたいに腰を落として、その勢いもそのままに左の脚を、地面の上を薙ぎ払うみたいに回転させる。ガンガッラが音を立てて、そのままパンダーラは、あたかも何かの昆虫が羽化するかのごとき態度によって、体を真っ直ぐに整える。右足で飛び跳ねる、右に三回。左足で跳ねる、左に三回。そのたびにガンガッラは音を立てて、そして……「それ」にダメージを与える。

 一方でダイモニカス達は、恐ろしいほどの規律によって、マザー・ポイントとなるコンピューター、つまりパンダーラの動きに合わせている。パンダーラが左足を回転させた時には、まるでこするような叩き方でムガ・チェルマムを叩いて。パンダーラが跳ねた時には、叩き付けるようにして、自分の膝にムガ・チェルマムを当てる。その行為はガンガッラによるアタックを最大限に効果的にするための行為だ。その行為によって、「それ」に与えるダメージは、より一層大きくなって。

 いうまでもなく。

 「それ」とは。

 目の前にある。

 この、白い壁。

 その音は、あまりにも強力過ぎて、真昼のことをも揺さぶっていたのだが。それはあくまでも副作用のようなものに過ぎない。この攻撃の本当の標的はASKのフォース・フィールドだ。フォース・フィールドの周波数に完全に共振するように周到に計算された(その程度の計算はダイモニカスにとって児戯に等しい)音楽は。真昼を揺さぶるのとは比べ物にならないほどの威力によって、フォース・フィールドを「振動」させていて。

 パンダーラが左の膝を軽く折り曲げて、左の脚を右の膝に当てる。そのまま左足を、今立っている場所よりも少し前の方に、飛び跳ねるみたいにして振り下ろす。それから右足を上げて、左足で軽く二度跳ねた後で、右の踵を滑らせるみたいにして一回転する。右足を上げて、左の脚で小さく跳ねながら、左手でその足の裏を叩く。それを三度繰り返してから、斧を振り下ろすみたいにして左足を大地に叩き付ける。そんな風にして、あたかも一つの災害のように踊っているパンダーラの後ろで。ダイモニカス達は奇妙な踊りを踊りながらムガ・チェルマムを叩いている。

 そうして鳴らされた、ガンガッラの、全ての音が。

 フォース・フィールドに、根源から衝撃を与えて。

 その損害は。

 その損傷は。

 少しずつ。

 少しずつ。

 蓄積していって。

 そして、とうとう……その出来事が起こった。真昼はそんなことが起こったことが全然信じられず、自分の目を疑ってしまったのだが。サテライトの大量の衛星、押し寄せるような衛星でさえ、何のダメージも与えられなかった、あのフォース・フィールドに。小さな、小さな、罅が入ったのだ。

 一つの観念と、別の観念との間の。

 ほんの僅かな断層のようなものが。

 ずれて、歪んで、そして、割れた。

 ぱきんという、澄み渡る音。

 最初はたった一つの罅だった。それが、徐々に徐々に数を増やしていく。その度にフォース・フィールドは、ぱきんという音、頭蓋骨の中に直接注入されたレフリゲラントのような音を上げて。それから、とうとう、真昼のいる場所から見えるフォース・フィールドの全体まで広がってしまう。

 その頃には……ダイモニカス達のダンスもクライマックスに差し掛かっていた。まずはパンダーラのダンスであるが、ほとんどタップダンスのようになっていた。右足と左足とを、折り曲げて、伸ばして、打ち付けて、持ち上げて。その足の裏を腿や左手のひらに当てて、それから再び大地を踏み付ける。軽快なステップは、一度一度のタップごとに、凄まじい衝撃波を放って。衝撃波と衝撃派は重なり合って、まるで一つの竜波のごとく、フォース・フィールドに向かって一気に押し寄せる。

 そして、十人のダイモニカス達が、更に追い打ちをかける。ガンガッラの律動に対して、完全にイコールのビートで刻まれるムガ・チェルマムの鼓動。ダイモニカス達は、各々の体中に、その太鼓を打ち付けて。頭、肘、足の裏、腹に拳に膝、それにもちろん手のひら。その度ごとに、ムガ・チェルマムは、爆発するがごとき咆哮をそこら中に巻き散らす。

 ぱきん。

 ぱきん。

 ぱきん。

 がり、がり、がり、がり。

 罅は、もう罅と呼べるようなものではなくなっていた。それは、幾つもの、幾つもの、巨大な裂け目だ。フォース・フィールドは、それでもまだ辛うじて持ちこたえているのではあるが。パンダーラが足踏みをするごとに、ムガ・チェルマムが叩かれるごとに、間違いなく崩壊への過程を歩んで行って。

 そうして、あらゆるものに最期の時があるように。このフォース・フィールド(もしくはフォースフィールドのこの部分)にも、遂にその時がやってきたようだ。パンダーラが、今までにも増して、一際高く飛び上がる。跳躍の頂点において、地面と水平の方向に、くるっと一回転する。その三百二十度の回転の間に、パンダーラは……あたかも花が咲くのように……あたかも星が光るかのように……惨たらしいほどの華麗さで、孔雀の尾羽を開かせて。

 それから。

 そのまま。

 ガンガッラの絶叫。

 羽、羽、美しい羽。

 両方の足で。

 大地を。

 無慈悲に。

 踏み下ろす。

 その衝撃波は……真昼は、まるで、自分という観念が吹っ飛んでしまうかと思ったくらいだった。目の前にあったデニーの体に思わず抱きついてしまったのだが、よく考えたら観念が吹き飛ぼうとしている時に、物理的に何かに縋ったところで意味があるのだろうか? とにかく、それほど強烈な波動が、パンダーラの足、あのガンガッラから放たれたということだった。

 もちろん、真昼が感じた衝撃波は、しょせんは副次的なものに過ぎない。地震でいえば余震のようなもので、本震は、フォース・フィールドに、叩き付けられたものだ。ただでさえ罅だらけ、裂け目に覆われていたフォース・フィールドが、それほどまでに力強い振盪に耐えきれるはずもなく。

 一言でいえば。

 それは。

 一気に。

 吹き飛んだ。

 清々しいまでのカタストロフィだ。目に見える白い壁だけでなく、その上の、目に見えない透明の部分まで。ぱーんっ!というような、聞いている方の脳髄が弾け飛んでしまったのかと思うほどの破裂音を立てながら。粉々の破片となって、フィールドの内側に、弾け飛んでしまったということだ。

 ほら、ね。

 だからいったでしょう。

 この壁を、超えること。

 できるって。

 できるんだって。

 日の光に照らされた雪の結晶みたいにして、きらきらと光り輝きながら、フォースの欠片、時間と空間との狭間へと溶け込むように消えていって。そして、真昼の、デニーの、ダコイティの、目の前の空間が、ぱっくりと開かれる。視界を塞いでいた壁は失われて、今、皆の目に、ASKの砦の内側が映し出される。

 ああ。

 それは。

 端的にいって。

 絶望の、軍勢。

 ここにいるダコイティを海の砂に例えたのならば。この光景は、天の星に例えよう。打ち砕かれた壁の先にいたのは、大地を覆いつくす戦闘機械の大群と、空を覆いつくす飛行兵器の大群であった。戦闘機械については、大聖堂ほどの大きさがありそうな巨大な物から、少し大きな戦車程度の物、人間の半分もないくらいの小さな物まで。飛行兵器については、人間くらいの大きさの無人航空機から、それよりもかなり大きなもの、豪華客船ほどもある機体まで。本当の、本当に、数えきれないほどのウェルカム・パーティが、待ち受けていたということだ。

 よく考えれば当然のことだった。いくら僻地にある支店だとはいえ、デナム・フーツを相手にするのだから。その迎撃のために、ASKが、この程度の軍勢を用意しないわけがないのだ。フォース・フィールドの外側から見えなかったのは、きっと透明な壁の上に偽りの映像、軍勢のいない光景を映し出していたからだろう。そういった小細工は、デナム・フーツやパンダーラや、あるいは他のダイモニカス達には通じないだろうが。弱く愚かな人間に対しては、精神的な衝撃を与えられるという計画。

 そして、その計画、は。

 完璧に成功したようだ。

「なに、これ……」

 いつものように、いや、いつもよりもなお愕然とした声で、真昼はそう呟いた。いつもであれば、こういう頭の悪いことをいう真昼のことを馬鹿だの阿呆だの低能だの白痴だのという言葉によって形容するのだが。今回に限っては、まあ、こんな感じになってしまうのも仕方がないことなのかもしれないと思わなくもないのだ。なぜなら、そういう真昼の反応とほとんど同じ反応を……ダコイティの人間達も、していたからだ。

 ほとんどの人間達がぽかんと口を開いて、目の前に広がっている物事の状況を理解さえできていないようだった。例外はジュットゥくらいで、そのジュットゥはその状況から目を逸らすこともなく、真正面から睨み付けている。勘違いしないで欲しいのだが、この人間達は、人間とはいっても真昼とはまるで違う生き物だ。何度も何度も己の意思で戦場に向かい、命懸けの戦いを潜り抜けてきてきた、鍛え上げられた戦士達だ。そんな戦士達でさえ、思考が停止してしまうほどの「物量」ということ。恐らくは、これほど多数の軍勢を見たのは初めてなのだろう。それもまあ当然といえることで、ASKもデナム・フーツが相手だからここまでの本気を出してきたのだ。たかがアーガミパータの土人ごときにこれほどの軍勢を用意するなんていうことがあるはずもない。

 要する、に。

 それほどまでに。

 その光景は。

 絶望的なもので。

 ダコイティの間に広がっていた「熱」に似たものが、見る見るうちに冷えていくのが感じ取れるかのようだった。先ほどまでの闘争心溢れる態度は消え去って、蒼ざめた夜の馬が駆け抜けていくようだ。顔からは血の気が引き、口の中は乾き、指先は震え、立っているのがやっとという感じ。どうしよう? どうすればいい? このままでは、勝利どころか戦うことさえままならない。

 と。

 その時。

 パンダーラが。

 一歩。

 前に。

 踏み出す。

 待ち受ける、絶望に向かって。負けることなく、屈することなく、前進する。一歩目、二歩目、三歩目。そこまで歩くと……パンダーラは、あまりにも冷静な態度のまま右腕を上げた。右腕というのは、もちろん二の腕から先が切断されている方の腕であって。そして、真昼は、パンダーラがそういう動作をするシーンを前にも見たことがあった。

 真っ直ぐに軍勢に向かって突き出された右腕。その切断面から、また、あの光が発生する。勇気の光が、希望の光が……ダコイティの、抵抗の、象徴であるところの光が。太陽と同じくらいまばゆく、その右腕は、暗く陰っていた心、心、心を鮮烈に照らし出して。煌めきが感染していくみたいにして、人間達の顔は、ぽっぽっと音を立てるかのように明るんでいく。

 そう、それは願いではない。

 ダコイティの象徴は。

 光り輝く、腕なのだ。

 願うことが無駄だというのは。

 もう嫌というほど知っている。

 ダコイティに必要なのは。

 勝利を掴み取るための。

 その、栄光の、右腕。

 その右腕の再生の間に、左の腕は背に負っていたライフルを下ろしていて。銃身をぐっと握り締めて、床尾を大地に突いて、これから起こることの反動に耐えられるように、しっかりと自分の体の支えとする。これで準備は完了だ。

 パンダーラは、再び生えてきたその右腕の先、一度、何かを試すかのようにしてぐっと握り締めると。それから、またその手のひらを開いた。その右腕は、あくまでも左のそれと同じ大きさの、何の変哲もない形をしたものだったが……それでも、その手は世界さえ掴めてしまいそうで。

 そして。

 ああ。

 吶喊の。

 ごとく。

 迫撃砲は。

 勇気の。

 希望の。

 抵抗の。

 栄光の。

 光を放つ。

 ところで、ここにいる皆(ただしデニーを除く)がパンダーラの所業に見入ってしまっており、誰も突っ込みを入れなかったため、仕方なく地の文で書くしかなくなってしまったのだが。パンダーラがこの「放出」を行うまでの間、ASKの軍勢は、まるで魔学式を書き忘れたゴーレムか、あるいはただの馬鹿みたいにして、ずっと突っ立ったままだった。突っ立ったといっても飛行している機械さん達もいるのであるし、これは「ぼけーっとしていた」の比喩表現みたいなものなのであるが……とにかく、何の攻撃も仕掛けてこなかったということだ。

 これは一体なぜなのか? もちろん、ここで機械さん達が攻撃を仕掛けてきてしまうとそちらの描写もしなければならないため、解説と解説とが入り組んでごちゃごちゃになってしまうから、なるべく機械さん達には静かにしていて欲しかったというこちら側の事情もあるのだが。それはそれとしてあちら側の事情としては……恐らく、ダコイティ(プラスデニーと真昼と)がフォース・フィールドがあったところの外側にいたからなのだろう。

 これは推測なのであるが、それらの機械さん達は、フォース・フィールドの破壊された部分から入ってきた、そのタイミングを狙って攻撃するようにプログラムされていたに違いない。どういうことかといえば、いくら広範囲にわたって破壊されていたとはいえ、あくまでもフォース・フィールドに開いた穴は限られた範囲のものであって。そこから中に入ろうとすれば、ダコイティの集団はある程度のまとまりを作らざるを得ない。これらの機械さん達はそれを包み込むように配置されていたということだ。そうすれば、ある一定の範囲にまとまったダコイティの集団を、一人も逃すことなく殲滅できるから。

 ということで。

 機械さん達は。

 阿呆丸出しで。

 その、パンダーラの砲撃を。

 待ち受けていたのであって。

 四つの言葉でそれを表現しよう。軍勢は「薙ぎ払われ」、「押し流され」、「叩きのめされ」、そして、最後には「打ち砕かれた」。パンダーラの放った光は、この地の表から全てを洗う洪水のようにして、光よりもなお速い速度によって軍勢へと打ち寄せて。そのまま、その進行方向にあった全ての機械達を跳ね飛ばしたということだ。光に飲み込まれた機械達は、それに反応するプログラムを動かすことさえもできないまま消滅してしまって。それは文字通りの消滅だった、跡形も残すことなく不定子の塊になって、この世界に紛れて消えていく。

 そして、光が失われた後には。パンダーラの目の前、かなり広範囲にわたって、ASKの軍勢は吹き飛ばされていて。その後には、直線状に、大地が抉れたクレーターだけが残されていたのだった。とはいえ……それはあくまでも「かなり広範囲にわたって」ということであって「完全に」というわけではない。軍勢は、未だにダコイティの前方、フォース・フィールドに開いた穴を塞いでいて。しかも、パンダーラが吹き飛ばした後の開けた空間にさえ、その少し後には、既に新しい機械達が流入し始めていた。これではきりがない、外側からの攻撃だけでは埒が明かない。

 とはいえ。

 ダコイティに。

 心の。

 光は。

 灯された。

 人間達の顔からは、もう絶望の色など消え去っていた。その後に残っているのは、満々たる闘志の炎だけだ。人間達は、非常に重要なことを忘れていた。自分達にはパンダーラがついているのだ。あのミセス・フィストと戦っても片腕を失っただけで生き残ることができたパンダーラが。恐れることなど何もない、いや、正確にいえば「ミセス・フィストと戦っても片腕を失っただけで」って片腕失ってんじゃん、完全に敗北だよそれって感じなのだが、人間達はそんなことは気にしない。それほどまでにパンダーラへの畏敬の念は強く……パンダーラのためなら命を捨ててもいいという人間が、ダコイティには履いて捨てるほどいるのだ。そう、パンダーラの後ろに立ち、歯を食い縛るようにしてその所業を見守っていた、ジュットゥのような人間が。

 だから、人間達はこう考える。もしもこれらの機械達を殲滅できないのならば、ただ突っ切ればいいだけだ。突っ切って、製錬所のビルディングまで辿り着いて、そこにいるミセス・フィストを倒せばいいだけの話だ。炎は燃え盛り、やがては彼ら/彼女ら自身をも焼き尽くすだろう。しかし、それまでに、その炎で……より多く、ASKの機械を破壊すればいいだけの話だ。所業、所業、所業、人間は力によって導くことができる。パンダーラはそれを理解していた、他の全てのものは力に付随する要素に過ぎない。圧倒的な、力こそが、愛なのだ。

 饒舌など、必要ない。

 言葉は最低限でいい。

 だから。

 パンダーラは。

 ただ、ジェスチュアとして。

 手に持っていたライフルを。

 天に向かって高々と掲げて。

 たった一言、こう言う。

〈カーマデーヌのために!〉

 喉を裂くような。

 絶叫による唱和。

 そして。

 それから。

 ダコイティは。

 一斉に。

 内側に。

 進軍する。

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