第一部インフェルノ #24

 饗応の宴と考えていいだろう。

 客人に対するそれではなく。

 主人への行為、だとしても。

 先ほどの演劇が終わってから、演壇の上ではすぐさま用意が整えられた。礼遇の用意だ、ダイモニカス達への奉仕の用意。座るための御座筵が敷かれ、その前には食事を盛り付けるための広葉樹の葉が広げられる。そのような場所が、合計十一、ダイモニカス達の数だけ設えられて。それから、しっかりと全てが整ってから、ダイモニカス達が再び演壇に上がってくる。

 衣装を着ていた者も、もうそれを脱いでいた。集会で真昼が見た時に来ていた戦闘服だけを身に着けて、用意された席に一人ずつ座っていく。その座り方も集会の時とは違う、随分と寛いだ、月光国でいう胡坐みたいな恰好だった。ダイモニカス達が座り次第、皿代わりの葉の上に料理が置かれていって……けれども、それは人間が食べている料理とは少し違うものだ。

 以前も書いたことであるが、アーガミパータのような場所にいるダイモニカスは、基本的には食事をする必要がない。周囲に満ちている魔力から影響を受けるだけで生きていくには十分なエネルギーだからだ。とはいえそれは、あくまでも生きていくには十分というに過ぎない。今日のように、明日には大きな戦いが待ち受けているという日には、ダイモニカスとて何かを経口摂取しないというわけではないのだ。

 とはいえ、ダイモニカスと人間とでは身体を構成する原理が異なっているのであって、ペペロンチーノとかそういうものを食べてもあまり意味がない。どちらにせよこの場所にはペペロンチーノなどないのだが、それはそれとして、葉の上に置かれたものは、あの果肉、タマリンドに似た果物の皮を剥いた中にある、透明なゼリー状の果肉だった。そう、ほとんど神力と変わりないくらいに生物濃縮された魔力の塊。

 ダイモニカス達は、それを、薄めもせずに果肉のままで口にする。もしも人間がそんなことをしてしまえば、それは百パーセントのアルコールを大量に一気飲みするようなものである。いや、それよりも遥かに危険な行為といっていいだろう、アルコールは少なくとも魂魄を焼き尽くすようなことはないのだから。けれども、ダイモニカスにとってはそれくらいでちょうどいいのだ、それくらいでなければ意味がない。

 葉の上に果肉が置かれ、ダイモニカスがそれを食べ終わると、演壇の上に数人侍っている給仕がすぐさま次の果肉を持ってくる、そんな状況だ。それから、それだけではなく……饗応に必要なものは、食事と音楽とだ。だから、先ほどの演劇の時には傍観者の役割しか与えられていなかった鼓手達が、今では主役となっているのだ。演壇の上と演壇の下との中間地点、坂になっているところを、ぐるぐると回りながら。浮かれ切った心臓の鼓動みたいなテンポで太鼓を叩いている。タンタカタンタカ、タッカタッカタッカタッカ、それは真昼にはあまりにも原始的過ぎる、根源的過ぎる音楽に聞こえたのであったが……それゆえに、きっと、この場に最も相応しい音楽なのだろう。

 一方で。

 人間達。

 あらゆる饗応で、召使がおこぼれに与かるように。皆が皆、この祭りのおこぼれに与かっているようだ。ダイモニカス達のための音楽に合わせて、広場のそこら中で乱舞ともいえるような舞踏が始まっていた。幾つかのグループがあるらしく、それらは恐らくこの森の中で移動している細胞ごとのグループなのだろう。グループごとに、様々な種類の踊り、ほとんど無秩序といってもいいほどの有様だ。口が、口が、口が、歌っている。歌は、絶え間なく捕食と分裂を繰り返す生き物のごとく、混ざり合っては別の歌になり、あるいは幾つかのグループがいきなり同じ歌を歌い始めたりもする。

 とても、とても。

 めちゃくちゃな有様。

 誰もが生きることを楽しんでいるようだ。

 なぜなら、明日は死ぬかもしれないから。

 けれども。

 いつでも、どんな時でも。

 例外は発生するのであり。

 今この時の、例外は。

 間違いなく、真昼だ。

 真昼は……真昼のための定位置にいた。武器置き場ということだ、体育座りの形で膝を抱えて、その膝に顔を押し付けるみたいな姿勢。明らかにどんよりとしていて、暗く重く、こんなやつを祭りの会場で見つけたらいっぺんに楽しい気持ちに水が差されてしまうだろう。まあ、幸いなことに、この会場において、この武器置き場という場所はかなり目立たない場所にあったのであって。会場を満たしているアウラも何だかここでは薄暗く、きっと敢えて真昼のことを探し出そうという奇特な何者かでもなければ、真昼を見つけることなんてないだろうと思われた。

 そう。

 あえて。

 探し出そうと。

 しなけれ、ば。

「あの男はどうした。」

 不意に声を掛けられて、真昼は「ひゃっ!」という変な声を出してしまった。体がびくっとなって、誰かに襲われたかのような勢いで顔を上げる。真昼は……それほどまでに深く、深く、何かを考え込んでいたということだ。

 ところで声をかけたのは、いうまでもないことであるがパンダーラであった。真昼のすぐ横のところ、胡坐をかいて座っている。そういえば、よく見てみると演壇の上、十一ある御座筵は、その一つだけが空席となっていた。

「パンダーラさん……」

「姿が見えないが。」

 パンダーラが言っているあの男というのは、どう考えてもデニーのことだった。そういえば、考え事にすっかり気を取られて、全然気にしてもいなかったのだが。デニーはまだ帰ってきていないらしい。「その……分かりません」「分からない?」「私には何も言わないで、いつの間にかどこかに行ってしまっていて」「そうか」。そこで、会話の糸はするりとほどけてしまって。二人とも、口を噤んだままになってしまう。

 なぜ……なぜ、パンダーラはこんなところにいるのか? ダイモニカスとして、あの縁談の上で饗されているべきであるはずなのに。驚くべきことに、人間達は、パンダーラがここにいることに気が付いていないようだった。なるほど武器置き場は目立たない場所であったのだが。それだけではなく、パンダーラが魔力で何かをしているようだった。自分の姿を特別目立たないものとする何かを。そうでなければ、どんなに薄暗くても、人間達がパンダーラに気が付かないわけがないのだから。

 真昼には、なんとなく緊張させられる沈黙の中で。

 パンダーラは、ラゼノ・シガーの箱を、取り出す。

 シガーを唇に挟むと、またもや何もしていないのに火が付いた。ダイモニカスにとってこれぐらいの芸当は、人間にとってのまばたき程度のことなのだろう。一口分だけ煙を吸って、長々と引き伸ばしながらそれを吐き出す。煙が静かに浮かび上がって、二つの月が弧を描く天球の底へと紛れていく。

「奇妙に思うだろうな。」

「え?」

「この祭りについてだ。」

 唐突に、そんなことを言われて。

 どう答えていいのか分からない。

 真昼は、黙ってパンダーラに視線を向けて。

 パンダーラは、その視線に答える。

「おかしいとは思わないか。ダイモニカスがこんなことをするなんて。己の敗北を一つの芝居にして、それを何度も何度も繰り返す。一段高いところに座って、人間に食物を振舞わせる。神々ならそういったことをする必要があるかもしれないが、ダイモニカスには必要ない。どちらも不合理なことだ。それどころか、この祭り自体が必要のないものだ。明日は、最も重要な戦いがあるというのに。恐らくは、それが最後の戦いになるというのに。本当ならば、その戦いのために、一晩かけてでも完全な準備を行うべきところだ。そんな貴重な時間を、こんな騒ぎごとに使ってしまうなんて、ダイモニカスにあるまじき行為だとは思わないか。」

 言われてみれば。

 その通りだった。

 ダイモニカスは神々とは違う。神々は、魔力を導程する力としての外的観念(ちなみに観念と概念とは違う現象だ)と接続しており、世界の構造から直接影響を受ける生き物であって。その維持が何よりも重要な行為となっている。それゆえに外的観念の安定化のために祭りを行う必要がある。

 しかし、ダイモニカスは、外的観念とダイレクトに繋がっているというわけではない。魔力を介して、内的観念に対して、確かに影響は受けているのだが。神々とは違って、その安定化を何よりも優先させないといけないというほどではない。

 だから、本当ならば、ダイモニカスにはこのような祭りを行う必要などないのだ。そして、ダイモニカスは人間よりも賢明な生き物である以上、必要なことはあまりしないのが普通なのだ。パンダーラの言う通り、明日の戦いのための準備を行っている方がよほどダイモニカスらしい。

 それでは、なぜ。

 こんなことを。

 しているのか。

「確かに、これは、私達にとっては必要のない行為かもしれない。だが、人間達にとっては非常に重要な行為だ。人間という生き物は、ダイモニカスほど思考に関するシステムが整理されているわけではない。基本的には意識という不完全な傍観者によって統率を錯覚させられているだけだ。そのため、世界と一体であることを理解することもできなければ、相対的な独立者となることもできない。複雑に絡まりあって歪なほどに混乱しているその思考を、己の必要性に従う形で導くことができない。

「だから環境という回路でその思考を調整する必要がある。世界を儀式によって導くように、人間達を儀式によって導く必要がある。こういった祭りによって、人間達の感情を操作する必要があるということだ。太鼓の音が人間達の闘争心を煽り立て、芝居という形式に当て嵌めることでその闘争心を一方向に固定する。共に食らい共に飲むことで一体感を演出し、共に踊ることでそれを更に強めていく。もちろん、ソーマを、ソーマとはお前の持つそのコップに入っている液体のことだが、ソーマを飲むことで、明日への力を蓄えてもいる。

「明日の闘争はダイモニカスだけで勝つことができるわけではない。ASKは、そんなに簡単に勝てる相手ではないからだ。人間達の力、数の力がどうしても必要になってくる。全員の力を最大限に発揮しなければならないということだ。そうであるならば、この行為は必要な行為ということになる。」

 パンダーラは、そこまで話し終わると。

 またシガーに口をつけて。

 ふう、と煙を吐き出した、

「私が言いたいことは理解できたか。」

「あの……はい。」

「つまり。」

 もちろん真昼は理解できていない。

 だから、パンダーラは、もう一度。

 簡単な言葉で言い換える。

「必要なこと、なすべきこと、それを知るということは、私達が考えているほど容易いことではないということだ。」

 真昼はただでさえ人間であるのだし、人間の中でもさほど頭がいい方であるとはいえないのだから、もっともっと分かりやすい言葉にしてあげた方が親切だと思うのだが……案の定、真昼はまだぴんときていないようだった。

 というか、パンダーラも、この話だけで真昼に理解させようと思っているわけではないようだった。読者の皆さんは真昼ほど頭蓋骨の内側がすっかすかというわけではないのだし、既にご理解しているだろうが。要するに、パンダーラは、真昼自身が理解できてきない、真昼の困惑について話している。

 観客席から、演壇の上へ。真昼がその視線によって送ったところのメッセージ。いや、それはメッセージともいえないものであり、縋り付くような感覚であったのだが、それでもパンダーラはそれを理解した。自分がどうしたのか分からないという不安。自分から何かが失われたのだが、それが何なのか分からないという恐怖。正しいことについて、自分が、それが、どうしていいのか、正義と、自由と、平等と、そういった正しいことに対する、自分では理解できないほどの無関心。

 要するに。

 自分がどうすればいいのか分からないという、疑問。

 パンダーラはそれについて話しているということだ。

「砂流原真昼といったな。」

「は、はい!」

 いきなり名前を呼ばれて。

 真昼はまた驚いてしまう。

「その名前を、お前は恥じているようだが。」

「え?」

「どうだ。」

 いきなり、そんなことを言われて。真昼は、一瞬、頭が真っ白になってしまった。それは驚きという感情でさえない。本当に、完全に、思考が白紙になってしまったのだ。こんなに……こんなにあっさりと、こんなに核心に迫ったことを聞かれるなんて。真昼は思ってもいなかったから。

「それは……」

「あの男が言っていた通り、私はディープネットとは直接関係していない。ダコイティにスペキエースがいないというわけではないが、あくまでも少数だ。だからSKILL兵器と関わることはあまりない。しかし、それでも砂流原の名前くらいは知っている。そして、お前が、その名前にどんな意味があると考えているのかということも、たぶん分かっていると思う。」

 そう言うと、パンダーラは。

 一拍の間を置くかのように。

 シガーの煙、少し口にした。

 一方で、真昼は……なんとかパンダーラの言葉に答えを返そうとした。けれども、「私は」と言ったきり、先の言葉が出てこなくなってしまう。私は? 私は、私は、私は。私は一体何だというのか? 私は、鉛の冠をかぶっています。いつもいつも、その冠をかぶっています。その冠はとてもとても高い温度で熱されていて、そのせいでどろどろと溶けていて、私の顔には鉛のしずくが滴ってきます。たら、たら、その鉛は、やがて私の顔を覆ってしまうでしょう。私は、それが、怖いのです。

 もちろん真昼はそんなことを言えるはずがなかった。そして、そんなことを言う必要もなかった。パンダーラは知っていたからだ。真昼の頭の上に載っている冠のことを。だから、口の中の煙を吐き出して。それから、こう言う。

「お前は自分の名前を恥じている。正確に言えば、SKILL兵器の製造に関わる者の娘であることを、SKILL兵器の売買によって得られた金銭で育てられたことを恥じている。しかし、そんな必要はない。それはお前が選んだことではないのだから。お前は、お前の父親を選択したか? お前は、お前がその父親に育てられることを拒否できたか? 人間であれ、ダイモニカスであれ、神々であれ、自分で選択したこと以外の事柄に責任を持つことはできない。お前は、自分の選択したことだけに責任を持てばいい。」

 静かに。

 淡々と。

 パンダーラは。

 話して、いる。

「少なくとも、私はそうやって生きてきた。」

 そして、真昼はそれを聞いている。こんなことを言われたのは……初めてのことだった。今まで、一度も、誰にも、言われたことがなかった。真昼が砂流原であるということを、ここまではっきりと許してくれたのは。本当に、パンダーラが、初めてだったのだ。真昼は震えていた。だが、それは恐怖だとかそういうネガティブな震えではなかった。例えば、何か恐ろしい悪夢を見て、はっと目覚めた時に。すぐそばに母親がいて、優しく抱き締めてくれて。その胸の中で、心臓から溢れ出てくるような安心と共に、震えているような感じ。

 とても。

 とても。

 強くて。

 抑えきれない。

 感情の、震え。

 それは、まるで、真昼の中で何かが生き返り始めているみたいだった。体のどこか、深く深くのところに、ぽっかりと開いた穴の中から。何か、「生きている」何かが、少しずつ湧き出し始めているような感覚。血液を抜かれていた体に温かい血液を輸血してもらっているような感覚。

 言われていること自体は、笑ってしまうくらい単純なことで、誰でも言えるようなことに過ぎなかった。けれども、その言葉がパンダーラから真昼への言葉であるということに意味があるのだ。なぜなら、二人はある意味で……非常によく似ていたから。パンダーラが真昼のことをこれほどまでに理解できていたのは、きっと、ダイモニカスという非常に賢明な種族であるということだけが理由ではないのだろう。

 パンダーラは、それから。

 小さく震えている真昼に。

「そして、お前は。」

 視線を。

 向けることなく。

 言葉を、続ける。

「今、非常に重要な選択肢の前に立っている。」

 遠くで太鼓の音が聞こえている。

 まるで、全くの他人事みたいに。

 真昼は、ようやく分かり始めてきた。パンダーラが、自分のことを、助けに来てくれたということに。なんだかよく分からない、自分の中の、何もかもを飲み込んでしまいそうな空虚から。声を出すこともできず、それどころか何かの言葉を頭の中で考えることもできずに。生まれる前の赤ん坊のような、無防備で、素直な、そんな気持ちでパンダーラの言うことを聞いている。

「私も、その選択肢の前に立ったことがある。恐らく私は間違えてしまったのだろうな。選ぶべき選択肢を。だから、今、ここに座っているのだろう。ただ、私はそれについてお前に話すつもりはない。結局のところ、選択は一つの定数でしかなく、お前に変えることはできないのだから。お前は正しい道を選ぶかもしれない。間違った道を選ぶかもしれない。それは、どうしようもないことだ。人も、ダイモニカスも、神でさえ、この世界の前ではあまりにも非力だ。お前にも、私にも、最初から決まっている結果を変えることなどできはしない。

「お前は虚無感を感じているだろう。自分が何もできないことについて、自分が何も変えることができないということについて。だが、それを感じる必要はない。何もできないのは、何も変えることができないのは、誰であれ同じなのだから。私達は私達のするべきことだけをすればいい。私達ができることだけをすればいい。それは結果ではなく過程に関わることだ。絶対に変えることのできない選択肢に抗うということ。最初からそれを選ぶことが決まっていた選択肢について、自分が選んだものとして責任を持つこと。それが、私達のやるべきことだ。

「矛盾して聞こえるだろうな。私の言葉は。少し前に「自分が選んだわけではないことには責任を持たなくていい」と言い、今は「それを選ぶことが決まっていた選択肢について責任を持て」と言う。しかし、この二つは違うものだ。「自分が選んだわけではないこと」と「それを選ぶことが決まっていた選択肢」は全くの別のものだ。どちらも変えられない運命ではあるが、後者については、私達は抗うということができるのだから。その抵抗は、それがもたらす結果については完全に無意味だ。どう足掻こうとお前は違う選択肢を選ぶことができない。だが、その過程には意味がある。お前の行為には意味がある。

「結果などどうでもいいことだ。抗うということ、責任を持つということ。私達という生命体にとっては、この二つにだけ意味がある。なぜなら結果がどうあろうとも、私達がその過程で何をしたのかということは、その結果とは別の事実としてこの世界に刻まれるのだから。お前は、お前の最悪の運命に唯々諾々と従うことができる。あるいは、それに全力で抗うことができる。もしもお前が前者を選べば、お前はその運命の追従者として世界に刻まれるだろう。だが、お前が後者を選べば、お前はその運命の抵抗者として世界に刻まれる。これが、これだけが、お前ができることだ。お前がするべきことだ。

「虚無感を感じる必要などない。お前は見当違いのところを見て、そこに何かあるべきだと思い込んでいるだけなのだから。そこには最初から何もない。お前は……あの男が決めた結果を変えることなどできはしない。全てはあの男が決めた通りに進むはずだ、お前は、いずれは、心から……あの男を……いや、その話はしなくてもいいだろう。とにかく、お前は、運命を変えることなどできない。しかし、それでも、運命を変えようとすることはできる。そして、その運命に責任を持つことはできる。その点においてだけ、自分がどうするのか、自分が世界においてどういう存在なのか、それを変えることができる。

「お前がすべきことは、それだけだ。

「お前に必要なことは、それだけだ。

「少なくとも、私はそうやって生きてきた。」

 いうまでもなく。

 真昼は。

 パンダーラの言っていること。

 理解できた、わけがなかった。

 いやー、無理でしょ。何言ってるか分かんないもん。大体「非常に重要な選択肢の前に立っている」って、あれだけ溜めた感じで言っておいてさ、その直後に「結果などどうでもいいことだ」って言う? 普通? どうでもいいんならそんな勿体ぶった空気出すなよ。読者の皆さんもそう思いますよね?

 まあ、それはそれとして。ただ……しかし。真昼は、はっきりと理解できなかったとはいえ、パンダーラが言っていることのエッセンスのようなもの、パンダーラが一番伝えたかったことについては、ぼんやりと感じ取ることができていた。

 その証拠として、真昼は、ようやく……自分が生き返ったということを感じていた。これはもちろん比喩的な表現だが、本当に、自分の中で、全ての感覚が死に絶えていたような気さえするのだ。何となく冷笑的になり、何となく否定的になり。それに、今まで……この星空にさえ気が付いていなかった。

 変わってしまっていたこと。

 失ってしまっていた、もの。

 当然のように、この広場から見える空は、満天の星空だった。驚くべきことだ、こんな光景に今まで気が付いてさえいなかったなんて。満天の星空というものを、真昼は、何度かテレビで見たことがあった。その時は、特に綺麗だとは思わなかった。真っ黒な布の上に点々と白い穴が開いているみたいな感じ。こんなものに感動する人間の気が知れないと思っていた。それは……ある意味では当然のことだったのだ。テレビで見て、これを理解できるはずがない。この壮大さが、この鮮烈さが、理解できるわけがない。永遠に続いていく暗黒の中で、一つ一つの星が、その全てが、命を懸けてでもいるかのようにして、必死に輝いている。このことに……このことに、気が付かなかったなんて。一体、今まで、どうしてしまっていたというのだろう。

 例え、何かを変えられなくても。

 変えようとすることが、重要だ。

 真昼は、そのことを分かっていたはずだった。

 どうして今まで忘れてしまっていたのだろう。

 正確にいえば、真昼は「そのこと」を分かっていたわけではなかった。分かっているという気になっていただけだ。「そのこと」を理解するには相当の覚悟が必要になってくる。真昼にそんな覚悟ができたわけがないし……そして、パンダーラの言葉を聞いた後も、それができるはずがない。ということで、正確にいえば、真昼は今でも「そのこと」を理解できていなかった。

 その上、更にいうと、真昼が自分から失われたと思っているものは、実際には真昼の奥底に埋め込まれた種のようなものは、「そのこと」ではなかった。確かに「そのこと」が関係してはいるのだが、本質は「そのこと」ではない。もっともっと根源的で、もっともっと複雑なもの。真昼は、要するに、本当のことに気が付きつつあるのだ。デニーの導きによって、本当は……本当は、自分が、何を求めているのかということを。そして、パンダーラも、それについては重々承知していた。

 まあ、しかし、とはいっても。真昼が元気づけられたことは確かであって、そしてパンダーラも真昼を元気づけようとしただけなのだ。パンダーラはそれ以上のことは望んでいない、ダイモニカスという賢明な種族であるパンダーラが、そんな高望みをするはずもない。だから、真昼は、パンダーラが手渡したかったものについては、確かに受け取っていたということだ。

 はい。

 めでたし。

 めでたし。

 ですね。

「パンダーラさん。」

「なんだ。」

 真昼は何かを言いたかったのだが。

 何を言えばいいか分からなかった。

 だからこういう時の。

 定型句を、口にする。

「えっと……ありがとうございます。」

「礼を言う必要はない。」

 パンダーラはそう言うと、もうほとんど燃え尽きかけていたシガーを、ふっと指先から手放した。そのシガーは静かに落ちていきながら、まるで老衰で死んでいく老いた生命のようにして、この夜の中で燃え尽きて消えてしまう。その孤独な死を見届けながら、パンダーラは付け加えるようにしてこう言う。

「私がする必要があることをしただけだ。」

 その言葉には。

 どこか。

 不吉な。

 音が。

 含まれて。

 いたのだが。

 それが具体的になんなのかということは、はっきりと掴めたわけではなかった。今までの空気が、その一瞬で、すっと冷えてしまったような。そんな何かを確かに感じたのだが……けれども、それについてきちんとした考えがまとまる前に。パンダーラが、視線を真昼の左腕に注いだ。

 パンダーラは真昼の右側に座っていたのだが。残っている方の腕、つまり左腕を伸ばすと、真昼の左手、膝を抱えているその手を軽く掴む。いきなり触れられた真昼は、思わず「わっ!?」という声を漏らしてしまったが。パンダーラは、そんな真昼の戸惑いを気にする様子もなく言う。

「これはアストラか?」

「アストラ……?」

「すまない、月光語ではカムダカラといったか。」

「あ……はい、そうです。」

 アストラにせよカムダカラにせよ主にマホウ界で使用されている魔学兵器全般を指す言葉だ。「SKILL兵器」という言葉と同じように、意味内容が正確に規定されているわけではないのだが、その曖昧さのゆえにかえって便利に使われているという種類の単語のうちの一つ。真昼の重藤の弓は、魔学的な力によって作動する兵器であるため、間違いなくアストラあるいはカムダカラであるということができた。

 パンダーラは真昼の手を自分の方に引き寄せて、暫くの間それを眺めていたのだが。一度手放すと、手放された真昼がどうしていいのか分からず、中途半端な高さに腕を浮かせたままでいるうちに……自分の中指の先で、黒く濁った入れ墨の色を、静かに静かになぞり始めた。少しくすぐったくて手を引っ込めたかったのだけれど、そんなことをしたら失礼になってしまうので、真昼はされるがままになっている。

「一つ聞きたいことがある。」

「はい、あの、何ですか。」

「お前は、明日の戦いに加わるつもりなのか?」

 パンダーラの。

 三つの目は。

 真昼のことを。

 見据えていて。

 その問い掛けは、真昼にとってはなかなか根本的な問い掛けだった。もちろんこの言葉の意味は、ただ単純に、明日の戦いに真昼がついてくるのかどうかということを聞いているわけではない。真昼が、明日、本当に、ASKに対して、立ち向かうのか。そういうことを聞いているのだ。

 戦いについてくるのかどうかという意味では、真昼は間違いなく「戦いに加わる」といっていいだろう。今まで、特に深く考えることもなく、それは当然のこととしてそう思っていた。だが……真昼は、明日、ASKに立ち向かうのか?

 真昼は、本当に無意識のうちに、どうせデニーが守ってくれると思っていたのだ。大した覚悟なんてまるでせずに、ダコイティの命懸けの戦いに加わろうとしていたのだ。パンダーラの言葉は、真昼に、そのことを気が付かせたということだ。

 もちろんパンダーラは真昼のことを責めているわけではない。ただ、それでも、真昼にとって、その質問は、自分の心の奥深いところを抉られるような質問だった。自分は……少し、甘えが過ぎていたのかもしれない。正しいこと、自分が正しいと思っていることに、しっかりと向き合っていなかったのかもしれない。勇気について、正義について、生きる価値について。もう一度……真剣に考えなければいけないのかもしれない。

 つまり。

 ASKに。

 立ち向かわなければ。

 ならないということ。

 なのかも、しれない。

「私は……」

 だから真昼は。

 パンダーラに。

 こう、答える。

「明日の戦いに、加わります。」

 まあ、とはいってもデニーが助けてくれるだろうことに違いはないのだが。それでも、こういう覚悟をするのかしないのかということは、運命に抗うか抗わないかという問題とパラレルに考えることができるということだ。デニーの後ろに隠れてただ見ているのではなく。ちゃんと戦いに参加するということ、ダコイティと一緒に、ASKの巨体に、一つでも多くの傷をつけるということ。パンダーラの問い掛けに、真昼はそのように答えた。

 パンダーラはその答えに、ゆっくりと一つ頷くと。ただ一言「立て」と言った。パンダーラがなぜそんなことを言い出したのか、真昼にはさっぱり分からなかったのだが。それでも、今度は戸惑ったりなんだりすることなく、言われるがままにその場に立ち上がった。いうまでもなく、真昼と共にパンダーラも立ち上がり、二人の体は向き合う形になる。

「左腕を体の前に上げて、それを真っ直ぐに保て。」

 真昼は、重藤の弓が描かれている方の腕、真っ直ぐ前に差し出して。自分の体とパンダーラの体との間にくるようにして、ぴたりと止める。その行動に、パンダーラは「それでいい」とだけ言うと。差し出された腕、その上に刻まれた入れ墨に、左手を置くみたいにしてそっと触れる。

 と、今まで畳まれていたパンダーラの尾が……すうっと開き始めた。宝石を砕いて散りばめたみたいな、禍々しいまでに魅惑的な色彩が、緩やかに、緩やかに、この空間を引き裂いていくかのようにして。パンダーラの背後に、光背の如く現れた、その、一種の芸術は。まるで周囲に満ちるアウラの輝きを吸い上げるようにして――いや、実際に吸い上げているのかもしれない――魔力的な輝きを帯び始める。

 恐らくは、パンダーラの尾は。人間的な文脈で例えるならば、太陽電池のようなものなのかもしれない。太陽電池が太陽光を集めてエネルギーとするように、パンダーラの尾は、周囲の魔力を集めて、それを純化し、エネルギーとしているのだろう。そして、そのようにして作られたエネルギーが……今、真昼の左腕、重藤の弓へと注がれているのだ。

 真昼は、今まで味わったことのないような、不可思議な感覚を味わっていた。それは……ナシマホウ界の生き物にとっては、否定でしか定義することのできない感覚だ。熱いわけではなく、冷たいわけでもない。痛いわけではなく、快いわけでもない。赤ではなく、青ではなく、黄ではなく、緑ではない。うるさくも静かでもなく、更に香りでもない。敢えて表現するとすれば、腕の先、神経のように張り巡らされた淡性魂魄の、微細な振動だ。電子レンジによって分子が振動させられるように、パンダーラが注ぎ込むエネルギーによって真昼の魂魄が振動している、ような感じ。そうして、液体が気体になるのにも似た態度で……真昼の武器。重藤の弓も、次第に、次第に、変質していく。

 具体的に何がどう変わっていっているのかは分からなかった。けれども、その変化が外科手術のように正確に行われているということ、手順一つ間違わず、数式一つ間違わず、変わるべきものだけが変わっているということは、真昼にも理解できた。これほど繊細な作業は、この入れ墨を施された時でさえ感じたことがなく……その、ある意味では美しくさえある行為に恍惚となっているうちに。どうやら全てが終わっていたようだった。

 ふっと、気が付くと。

 パンダーラの尾は畳まれていて。

 パンダーラの手は離されていた。

「終わった。もう手を下げても構わない。」

 言われて、はっとなった真昼は。

 慌てて、上げていた腕を下げて。

 それから、また持ち上げた。

 持ち上げたのは、自分の左腕、というか重藤の弓がどうなったのかを確認するためだ。見た目は……何も変わっていなかった。相変わらず漆黒の色で、相変わらず腕の一面に描かれた、相変わらず重々しい藤の形。けれども、それでも、何かが変わっているということは確かだった。

「その、これは……」

「ASKに対抗できるよう強化した。」

 こともなげに。

 パンダーラは。

 そう言った。

「もともとはそのカムダカラ自体に込められた魔力しか使えなかった。それを、外部の魔力を吸収して使えるように改変した。周囲に満ちている魔力、お前自身の魔力、あるいは、容量が許す限りであれば、敵対する相手から放たれた魔力も利用できるようになっている。全般的な容量を増強したり、セミフォルテアに対する耐性を付加したり、他にも色々と変えているところはあるが、取り敢えずのところはそれだけ知っていれば問題ないだろう。」

 つまるところは。

 そういうことだ。

 真昼は、力を手にしたということだ。もちろんデニーやパンダーラやといった生き物と比べれば、まだまだ劣弱な存在に過ぎない。それでも、ある程度の力、ASKが所有する兵隊へと立ち向かうことのできる力を手にすることができた。これは真昼にとってどういうことを意味するのか? 要するに、それは……マラーを助けに行けるということだ。

 今、真昼がその頭蓋骨の中に有しているもの、唯一の希望、唯一の思念。真昼にとって、運命と呼ばれているものに抗うための、現時点での唯一の方法。ASKからマラーを助け出すということ。そのための戦いに、真昼は、本当の意味で加わることができるということだ。ただついていって、後ろから見ているだけではなく。この弓によって、ASKの兵隊を貫く矢を放つことができる。真昼にとって、それは、とても重要なことで。

 だから、真昼はもう一度。

 パンダーラへと向かって。

 こう言う。

「ありがとうございます。」

「さっきも言ったが、礼を言う必要はない。」

 そう言うと、パンダーラは……真昼が全く予想していなかった行動を取った。何の前触れもなく、いきなり、ふっと微笑んだのだ。パンダーラがこんな顔をするところを見るのは、出会ってから初めてのことだ。真昼に向かってわざわざ微笑んだというようなわざとらしさはなく、どちらかといえば、本当に自然に、その笑顔になってしまったというような顔。優しげでいて、それでいてどこか悲しげで……まるで、屠殺される直前の母牛が、子牛に向かって微笑むような、そんな笑顔で。

 真昼は、その笑顔を見て、何かを言わなければいけないような気がした。何か、何かとても大切なこと、恐らく質問の類だろう。きっと、それは、呆気ないくらい簡単に答えることができる質問だ。あなたは……どうして……そんな風に……笑うんですか? けれども、その質問を口にする前に。こちら側の岸とあちら側の岸との間を、情けも容赦もない洪水が分かつようにして、パンダーラと真昼との間を、こんな声が分かつ。

「わーっ! 二人とも、とーっても仲良しさんだね!」

 くすくすと。

 邪悪で。

 無垢な。

 音と。

 共に。

「いつの間に、こんなに仲良しさんになったのかなあ?」

 悪魔が。

 デニーが。

 ここに。

 戻って。

 来たのだ。

 まあ当然のことといえば当然のことだが、パンダーラの顔から微笑みは一瞬にして消えた。悲壮な覚悟、冷酷ささえ感じるほどの覚悟を決めた表情に戻って。そして、デニーの方に、挑むような視線を向ける。デニーは二人が全く気が付かないうちにそこに立っていて、そことは武器置き場の横のところ、広場と森との境目の広場の側だった。手を後ろに回して、ちょっとだけ体を傾けた姿勢。悪戯っぽい目をくるくるとしている。パンダーラは、一呼吸置いた後で、そんなデニーに向かって声を掛ける。

「どこに行っていた。」

「森の方だよっ!」

「……森で、何を、やっていた。」

 螺子巻き仕掛けの発条人形の、真似でもしているみたいに。一歩一歩、ゆっくりとこちらに近づいてくるデニー。痺れを切らしてしまいそうなほどの速度で、ようやくパンダーラの目の前にまでやってくると。何も言わないまま、何も答えないままで、ぱっと両方の手のひらを開いて見せた。

 それから、右の手を上に、左の手を下にして、それをパンダーラの前に差し出す。まるでその間に何かを挟んで持っているかのように、右の手のひらは下を向いていて、左の手のひらは上を向いていた。デニーが、とてもとても可愛らしく、媚態であるかのようにして首を傾げると……その二つの手のひらの先、それぞれの表面に一つずつ、ぽうっと穴が開いた。大きさとしてはまさに手のひらサイズ。暗黒よりもなお暗い穴、どこまでもどこまでも底がない、悪意そのもののような色をした穴。

 もちろん、真昼はその穴のことを覚えていた。それを見たことがあるということを覚えていた。忘れるはずがない、これほど鮮やかに禍々しい色のことを。それは、アヴマンダラ製錬所で、ミセス・フィストと彼女の五人の娘との戦闘をしていた時に。デニーがその穴の中から二挺の拳銃を取り出したところの穴と同じ穴だったのだ。大きさは随分と違うが、それでも全く同じ穴であることは、真昼にも間違いなく理解できた。

「デニーちゃんはあ。」

 そして。

 右の手のひらに開いた穴。

 上に位置している穴から。

 下に位置している穴に向かって。

 ぱらぱらと、何かが、降り注ぐ。

「セミフォルテア弾を作っていたのですっ!」

 デニーが言った通り、それはセミフォルテア弾だった。といっても、真昼がそれをそうであると理解できたわけではないが。とはいえ、その形が弾丸の形をしていて、その上、普通の金属では有り得ない光を放っていることくらいは分かった。

 パンダーラの目の前で、それらの弾丸は、小さな小さな降雨だった。上の手のひらから生まれては、下の手のひらで死んでいく。上の穴から吐き出されては、下の穴に吸い込まれていく。要するに、オルタナティヴ・ファクトの中に蓄積した大量の弾丸を、ホールからホールの短い距離の間だけ、この世界に顕現させているということらしい。出来損ないの砂時計にも似たその光景を見せながらデニーは言葉を続ける。

「明日はー、これがー、たーっくさん必要になるでしょー? だから、賢いデニーちゃんとしては、今日のうちに作っておかないとって思ったの。そ、れ、か、ら、詩弾とか、式弾とか、その他にも色々と使えそうなもの! ASKが相手だから、もう十分っていえるくらい作るのは無理だけどー。でも、いっぱいいーっぱい作ってきたよー。」

 つまり、デニーは自分が使う分の武器を作ってきたということらしかった。ここまで何度も書いてきた通り、この土地は魔力に溢れている。真昼にはどうすればそんなことができるのか見当もつかなかったが、その溢れている魔力を集約・固定することで、特殊な弾丸を作成してきたということだろう。

 ちなみに、武器を作成していたというデニーのその主張が真実であった場合、なぜ真昼の前から姿を消していたのかということの説明もつく。アーガミパータの木々というものは、品種改良をされていないものであっても、ある程度は魔力を蓄える性質があるのであって。それゆえに、木々を切り開いて作った広場よりも、木々が残っている森の方が、効率よく魔力を集めることができる。ということで、魔力を込めた弾丸を作るのならば森の中でやった方が効率がいいのだ。

 とても。

 とても。

 筋の通った。

 お話。

「お前がそんなものを必要とするとはな。」

 デニーは、ぱんっと音を立てて。

 二つの手のひらを鳴らし合わせる。

 すると、その拍子に、二つの穴も。

 この世界から、すっかり消え去ってしまう。

 それから、デニーは、こう答える。

「だーかーらー、言ったでしょお? 例の契約のせいで、デニーちゃんは、力の一部しか使っちゃダメーってことになってるの。まーあー? 人間の魔学者とか、それほど強くないスペキエースなら、この状態でも何とかできるけどね。でも、ASKが相手だから。こういうのがないと、どうしようもないのですっ!」

 どうやらパンダーラは、少しだけ。

 複雑な気持ちになっているらしい。

 どう表現していいのか分からないような顔をして、デニーのことを見ている。ふっと何かを思いついたらしく、けれどもその考えは明らかにいい考えとはいえないものだったのか、暫くの間、何かを躊躇っていたようだったが。結局のところ、その言葉を口にしたいという欲求には勝てなかったようだ。デニーに向かって、ほんの少しだけ乱暴に、それこそわざとらしく、吐き捨てるみたいにして言う。

「セミフォルテア弾なら……私に言えば、作ることもできた。」

「パンダーラちゃん、なんだか忙しそうだったから。」

 そう言ってから。

 デニーは、唇に人差し指を当てて。

 ぱっちーんと、ウィンクしながら。

 こう付け加える。

「でも、そう言ってくれてありがとっ!」

 パンダーラは、デニーのその言葉を聞くと。どんな罵倒の言葉を聞いた時よりも、どんな侮辱の言葉を聞いた時よりも、なおひどい屈辱を受けたとでもいうみたいな、そんな苦々し気な顔をして、ぎりっと奥の歯を噛み締めた。ただしその屈辱はデニーから受けたというわけではない。デニーちゃんはいつもと同じように素直で可愛かっただけだ。それは、パンダーラ本人が、パンダーラ自身に対して、与えた、屈辱。

 父を殺そうとする娘、兄を殺そうとする妹。

 それでもその手には、刺のない薔薇の花束。

 しかし……とはいえ。

 この屈辱は。

 真昼の物語には。

 直接関係ない事柄だ。

 だから、話を、先に進めよう。

 パンダーラがそんなアンビバノンノな反応を示している一方で、デニーはふいっと好奇の対象を変えてしまったようだ。視線の先をあっさりと移して、パンダーラから真昼の左腕へと、それほど興味があるというわけではないのだが、さりとてそのことについて触れずにいるのは退屈だとでもいうような目。

「真昼ちゃんはあ。」

「え?」

「随分と、パンダーラちゃんと仲良くなったみたいだね。」

 それはとても良いことであるが。

 自分には全く関係がないという。

 そんな感じの口調。

 そこまで触れたいというわけではないが、なんとなく手を伸ばしたという感じ、その左腕、黒い藤の入れ墨へと手を伸ばす。けれども、真昼がいかにも嫌そうに体を引いたので、デニーの指先がその弓に触れることはなかった。元からさほど大きくもなかった興味なので、触れなかったら触れないで特に問題もないらしく、更にその興味自体もすぐに消えてしまったようだ。

「さーてとっ!」

 今までの会話。

 どうでもいいことだったかというように。

 その一言で、全てを流し去ってしまうと。

「パンダーラちゃんのご用も終わったみたいだし、そろそろあらーむくろっきんぐの続きに戻ろっか!」

 そう言って。

 誰よりもキュートな笑顔で。

 デニーは、笑ったのだった。


 悪夢ではないというのならば。

 一体これは。

 なんなのか。

 気が付くと、真昼はまたあの場所にいた。この世界の深く深く、最も奥深い底に広がっている空間のように、とても冷たい緑色をした場所。棺。棺、棺、だけが、そこら中から真昼のことを見下ろしている場所。つまり、あの霊廟だ。この前の時とまるで同じように、真昼の体は、ホールの中心にある祭壇の上に横たわっていて。それから、真昼の……霊のようなものが、体よりも少し上のところで、その体のことを見ている。

 そして。

 真昼は。

 待っている。

 それが。

 起こる。

 ことを。

 しかし、それとは何なのか? それが必ず起こることは知っている、それが自分にとって必要なことは知っている。けれども、真昼にはそれ以上のことは分からなかった。それは、まるで……土の中に産み付けられた蝉の幼虫が、羽化の時を待ち続けているのと同じようなことだった。蝉の幼虫は、本能によって、自分がいつか別の存在になるということを知っている。ただし、それがいつ起こるのか、どのように起こるのかということまでは知らない。いつか、その時が、目覚めるべき夏が来て。自分の世界だったはずの地底から、全く別の世界である地上へと姿を現し。そうして、初めて見る世界の中で……ようやく蝉は悟るのだ。自分が、羽化をしなければならないということを。死体のように重たい、濁った殻を脱ぎ捨てて、白く透き通った、全く別の生き物にならなければいけないのだということを。

 夏。

 夏。

 夏。

 そうだ、夏だ。

 この冷たい霊廟の中にいても、今が夏だということが、真昼にははっきりと理解できた。しかも今まで経験したことがないくらい暑い夏。それは……月光国の夏ではなく……アーガミパータの夏であって……アーガミパータ? アーガミパータってなんだっけ。真昼にはよく分からない。

 けれども、とにかく、今が夏であるのならば、蝉は羽化しなければならないということだ。それならば、真昼にもその時が来ているということなのか? そこまで考えて……ようやく真昼は思い出した。今、この場所で、起こっていることを。ついさっき、この霊廟で起こったことを。

 真昼の周り。

 棺。

 棺。

 棺。

 が。

 一斉に。

 その蓋を。

 開いて。

 例えるならば、笑うような音を立てていた。棺と蓋とがかすれて、そのせいでくすくすという音がしていたのだ。くすくす、くすくすと、真昼のことを包み込むように、その密やかな笑い声が響く。真昼は……恐れてはいなかった。怯えているわけでもない。恐怖はなく、不安はなく、ただ……いつまでもいつまでも死んでいるような、遠くて暗い信仰があるだけだ。

 真昼は……見ていた。開いた棺の中から、その全ての棺の中から、何かが這い出して来るのを。とてもとても小さい何かで、たぶん真昼の小指ほどもないだろう。けれども、そんな小さな何かが、信じられないくらい大量に溢れ出てきたのだ。そう、溢れていた。体の中で腐りきった白血球が、膿となって傷口から溢れるように。一つ一つの棺桶から、数えきれないくらいの「それ」が這い出てきたのだ。

 「それ」は棺の縁からぽろぽろとこぼれては、下に敷かれた石畳の上に転がって、それからうごうごと蠢くみたいにして、「それ」自体の体を、その石畳の上に引きずり始める。ずるり、ずるり、無数の「それ」が、右から、左から、前から、後ろから、一つの方向に向かって這い進んでいく。その一つの方向とは、もちろん……真昼が横たわっている、その祭壇の方向。

 一匹。

 二匹。

 三匹。

 それから先はたくさん。

 棺からは途絶えることなく「それ」が吐き出される。棺の体積と比べると、明らかにその棺から出てきた「それ」の量の方が多いように思われるくらい。それでも、まだ「それ」は止まることがなく、霊廟の石畳は、ついに「それ」に覆いつくされてしまう。

 そして、もちろん……「それ」は祭壇に辿り着く。真昼は、「それ」のことをずっと待っていた。ずっとずっと待っていた、なぜなら真昼は、ずっとずっとここにいたからだ。生まれた時から、死んだように、動くことさえできず、この祭壇の上に、冷たく、冷たく、横たわっていた。

 でも。

 一体。

 「それ」って。

 何?

 じれったいほどゆっくりと、緑色の石材を登って、「それ」のうちの一匹が、ようやく真昼のいる祭壇の上にまで辿り着いた。真昼は、その何かが何なのかを見極めようとして、じっと目を凝らす。けれども、これもまた夢にありがちなことではあるのだが、どんなに目を凝らしても……「それ」が、よく見えないのだ。ぼんやりと靄がかかったように曖昧で、はっきりとした像を結ぶことがなく……それなのに、それでも、真昼は「それ」のことを確かに知っているようだった。

 「それ」を見ているだけで、たらたらと甘く滴るようにして、喜びの、感情を、感じるのだ。うっとりと冷たく、恍惚とするみたいに優しく……「それ」が、近づいてくるにつれて、その感じは、どんどんと、どんどんと、大きくなってくる。そして、その感じが、真昼の体を張り裂いてしまいそうなくらいに大きくなった時に。「それ」が、「それ」が、とうとう、真昼の、薬指の先に、口づけをするように、そっと触れて。

 そして。

 それから。

 ちょうど、その時。

 真昼は、目覚める。

 やはり、真昼は、静かに、静かに、目覚めた。閉じていた眼をただ開いただけとでもいうようにして、まるで奇跡みたいに優しい目覚め。だが、真昼がいくら静謐の中で目を覚ましたのだとしても……この世界までもが、しじまに包まれているというわけではない。

 歌う声。

 踊る足。

 そんな風に、高鳴る音は。

 止むことなく続いている。

 目覚めたばかりで少し霞んでいる目を、押さえ付けるみたいにして掌底の辺りでこすりながら。真昼は、寝袋から上半身だけを吐き出させるようにして身を起こした。

 寝袋というのは、体をすっぽりと包み込んでしまって、中にいる人間は身動きが取れなくなってしまうものなのだと、なんとはなしに思っていたのだけれど。実際にそれで寝てみると別にそんなことはなかった。どちらかといえば掛布団と敷布団が袋状に縫い付けられているという感じだった。それに布団自体もかなり薄手なので、ぎゅっと締め付けてきたりするような感覚もない。もしかしたら、これはアーガミパータのような暑い地方の寝袋に特有の性質であって、寒い地方の寝袋は真昼の想像した通りのものなのかもしれないけれど。とにかく、真昼が体を起こすのに、寝袋はなんの支障にもならなかった。

 真昼が眠りについてから、何時間経ったのだろう。

 分からないけれど、祭りはまだ続いているようだ。

 真昼がいるところ、真昼の寝袋が転がっているところは、例のあの広場の、例のあの小屋の、その中だった。ぼろぼろのカーテンを張り巡らせた天井のないテント。もともとは、儀式に出演するダイモニカス達の控室として使われていたもの。

 あれから……デニーがこの広場に帰ってきた後で。デニーとパンダーラとは、死人を生き返らせるために再び森へと向かった。「祭り」が始まる前から言っていた通り、あの二人は今まで生き返らせたリビングデッドだけでは、ASKと戦うには到底足りないと考えているらしく。恐らくは今夜いっぱいかけて、森の中で死んでいる全ての死者を眠りから覚ますつもりなのだろう。

 しかし、さりとて、その作業に真昼が必要なのかというと、全然そんなことはないのだ。死者が眠っている場所に案内するパンダーラと、死者を目覚めさせるデニー、この二人がいればことは済むのであって。ということで、真昼はこの広場でお留守番することになった。もう随分と夜も遅い時間であったし、明日に備えて真昼は十分な睡眠をとっておいた方がいいという判断だ。

 そこで問題になってくるのは真昼が眠るための場所だった。ダコイティは、人間もダイモニカスも、今日の夜が終わり明日の薄明がやってくるまでは眠りにつくことはないだろうと思われた。祭りとはそういうものであるのだし、またそういうものでなければならないからだ。少しくらい度が過ぎていなければ、現実を忘れることができないし、覚悟をすることもできない。ダコイティはやめないだろう、歌うことを、踊ることを。なぜなら、知っているからだ。明日が来てしまったら……もう、歌うことも、踊ることも、できなくなってしまうかもしれないということを。

 まあ、それはそれで別に構わないのだが。そんな風にしてはちゃめちゃにシンギング&ダンシングしている人間達の真ん真ん中では、普通の神経を持つ普通の人間は眠れないものだ。かといって、ダコイティに付き合って一晩中起きているというのは真昼の健康にとってあまりグッドなこととはいえないだろう。いや、デニーの魔学式によって強化されている真昼ならばそういうことができないわけではないのだが。それにしたって寝ておくに越したことはない。そんなこんなで真昼の寝る場所が問題になった。

 真昼としては、既に真昼の定位置となってしまっていた武器置き場の隅っこの方とか、そういった場所でも全然いいと思っていたのだが。パンダーラはそれでは良くないという意見だった。武器置き場は武器が置いてあるところだ。ここにある武器が全部ではないにしても、明日の朝になればこの場所にダコイティが集まってくること、戦闘に際しての諸々の準備を行うことは明白なのであって。その時に真昼が寝袋にくるまって転がっていたら、真昼もダコイティも気不味い思いをすることになるに違いない……このままの文章このままの修辞によって言ったわけではないが、大意としてはこんな感じの意見だ。ちなみにデニーは真昼の寝る場所とか心底どうでもいいと思っていたので、なんの意見も表明しなかった。

 そして、結局のところ真昼は。

 この小屋で眠ることになった。

 この小屋は演劇という儀式のためだけに作られたものであって、これから先、使う予定はなかった。それでいて、この中にダイモニカス達がいた場所であるからには、人間達がこの中に立ち入ろうとするわけがない。しかも都合のいいことに、広場の中心からは離れたところにあった。それはもちろん、武器置き場とか調理場とかと比べれば、決して端っこといえるわけではなかったが。それでも、この中にいれば、祭りの喧騒から少しだけ離れていることができる。真昼がぐっすりする、あるいはすやすやするには、最適の場所といえた。

 それゆえに、真昼は。

 ここで、眠っている。

 とはいえ、今はもう目覚めてしまっていたのだが。暫くの間、ぼんやりとした視線で自分の周囲を見回す。空に向かって開け放たれた天井のない小屋の内側には、小屋の外側と同じようにアウラの光が入り込んでいて。十分に物の形を、物の色を、見分けることができた。演劇で使っていた小道具が無造作に放り出されている。あれはカーマ・デーヌを象ったかぶり物。あれはミセス・フィストの五人の娘の人形。衣装に角笛、あそこに転がっているのは……腕と手、それにその手が握っている剣。パンダーラが身に付けていた義手だろう。それに、化粧に使う粉や液やを入れた小瓶、幾つも幾つも、これだけはきちんと並べて置かれている。

 真昼は、ずるりと、体に纏わりついている古い皮膚を脱ぎ捨てるみたいにして寝袋の中から抜け出す。アウラの光の中で、たった一人だけで立ち上がって。それから、この小屋の出入り口、出入り口と呼んでいいのか、空間を囲っている布と布との裂け目の方へと向かう。

 そっと、右手の指先で、右側の布をめくって。顔の半分だけが覗くようにして外の様子を窺う。真昼がいないその場所で、真昼とは全く関わりのないその場所で……ダコイティは、延々と、祭りを続けていた。それは、なんだか、現実離れしたことであるような気がした。

 不快なわけではない、ネガティブな感情を抱いているわけではない。ただただ奇妙なのだ。こちら側には真昼しかおらず、静かに停滞した泥濘のような空間で満たされている。それなのに、あちら側では、鳴りやまない太鼓の音に合わせてダコイティが儀式を紡いでいる。

 その儀式は、黄土色と、深い緑色、黒い色、それにひらひらと揺らめく白い色でできていて。その全ての色が混ざり合って、あたかも露出の速度を間違えてしまった写真のようにさえ見える。人々の踊りがあまりにもめちゃくちゃなので。目で追いきることができずに、たくさんの光の線がそこら中に跡を引いている、その様であるように見えるのだ。

 それに、この歌声。真昼には理解できない、けれども何かの意味があるということは分かる、音の羅列。それは獣の鳴き声だった、仲間のほとんどを殺されて、自分自身も追い詰められて。それでも、まだ、生きている、獣の咆哮。この世界が間違っているということは知っているのだが、それをどう直せばいいのかがどうしても分からないという叫び。

 真昼は。

 静かに。

 カーテンを。

 閉じる。

 また寝袋のところに戻って。非常に素直な子供のように、大人しくその中に包み込まれる。心臓の音がうるさい。呼吸がしにくい。心が、どうしても、乱れている。それを何とかして押さえつけて……それから、真昼は、マラーのことを思い浮かべる。

 真昼のすべきこと。

 真昼に必要なこと。

 それは、間違いなく。

 マラーを助けるということ。

 真昼はつい最近……というか、具体的にいえばアーガミパータに来てからのことなのだが。ようやく気が付いたことがある、それは、考えるということにもある程度の訓練が必要だということだ。真昼は、今までまともに考えるということをせずに生きてきた。物事を真剣に考えたことがなかったのだ。静一郎に対する憎悪だけを物差しとして、脊髄の反射で体を動かしているだけで。けれども、アーガミパータは、そんな風にお気楽に生きていける場所ではない。一挙手一投足が、自分の、あるいは他の誰かの、破滅に繋がりかねない場所なのであって。

 だから真昼はアーガミパータに来てから色々なことを考えなければならなくなった。だが、そうやって何かを考えようとすると……自分の思考がそれに追いついてこないということが多々あったのだ。思考というものは「AならばB、BならばC、BがCとなるならば、それは(任意の結論)である」というように、一つ一つを積み重ねていかなければならない。しかもその上、そう考える前提として、A・B・Cの全てを自分の中で言語化できていなければならないのだ。それは慣れていない者にとっては、困難を極める作業である。真昼は、まずA・B・Cを自分の言葉に置き換えることができなかった。なんとなく曖昧なイメージを、きちんとした記号に移そうとする。すると、そのイメージがぱっと霧散してしまう。そもそも自分は本当に何かを考えていたのか? それとも、そこには何かを考えていたいという願望しかなかったのか? そんなことさえ真昼には分からなくて。

 とはいえ。

 さすがに。

 真昼も。

 慣れてきた。

 自分が、普通の人のように考えられないということは十分に理解できたということは。それならば、自分自身の考え方をすればいい。真昼の場合、その考え方とは……対象を一つに絞り込むという考え方だ。たった一つの命題を設定して、それだけについて、真であるか偽であるかを考えていく。そうすれば、一つの目標へと到達する道程に思考が固定されるため、意味や言葉やがあちこちへと散乱することがない。

 例えば……今、真昼が考えている命題は。

 自分に正しいことができるかということ。

 これは真昼にとっての至上の命題だった。よく至上命題という単語は誤用だから使うなという人間がいるが、実際に至上の命題というのは存在しているのであって、これがその実例である。「自分には正しいことができる」、この命題が正しいものなのか、それとも間違っているのか。それこそが、真昼という生き物にとってのト・テイ・エーン・エイナイでありヒポケイメノン、アルケーでありテロスなのだ。

 アーガミパータに来て以来、この命題は様々な証明によって揺らいできた。それらの証明を行ったのは、もちろんデニーだ。まるでマッジシャンのように、マッジシャンが帽子から兎を取り出すように。いともやすやすとデニーは、真昼の「自分には正しいことができる」という命題にとっての否定の証明を、この世界から取り出して見せた。真昼は力弱い生き物である。力弱い生き物には正しいことをするだけの力がない。よって、真昼には正しいことをするだけの力はない。以上、お終いというわけだ。ちなみにデニーはマッジシャン(手品師)のようにというか実際にマッジシャン(魔法使い)なのだが、それはここでは置いておこう。

 真昼は……だから、疑ってしまった。自分のことを、正しさのことを、疑ってしまった。懐疑は不信となって、不信は虚無となって、やがて、真昼の心の中には、ぽっかりとした黒い穴が開いてしまった。もとは至上命題があったところで、その回答としての空亡が笑っているのだ。嘲笑、憫笑、そして、真昼は……自分自身を喪失していった。

 しかし。

 今。

 真昼には。

 全く新しい。

 公理がある。

 その公理は、今までデニーが行ってきた全ての証明を、容易く覆してしまえるものだった。あらゆる懐疑を消し去って、より強くより深い信仰のみを与えてくれるもの。その公理の名前は、パンダーラだ。何一つ論証を必要とせず、ただ己だけを信じ、ASKに立ち向かう英雄。ここでいう英雄とは真昼にとっての英雄ということであって、それ以外のことは何一つ意味してはいないのだが……とにかく、パンダーラは、真昼にとって、新しい論証の出発点となったのだ。

 パンダーラは言ってくれた。正しいこととは、何かをすることじゃない。何かをしようとすることが正しいことなのだと。結果自体はどうでもいいことで、重要なのはそこに至る過程なのだと。これは、真昼の全てを肯定してくれるような言葉だった。真昼が考えていたこと、いや、考えようとしていたことの、全てだった。この地獄の底では、真昼には何もできない。けれども、何かをしようとすることだけはできる。抵抗、それは、間違いなく、悪しきことへの、静一郎的なことへの、抵抗になりうる。

 結果として、どうなろうとも。

 真昼が、命を懸けて。

 マラーを助けに行く。

 それは間違いなく正しいことなのだと。

 パンダーラは、そう言ってくれたのだ。

 だから、真昼は、マラーのことを思い浮かべるのだ。マラー、マラー、マラー、このアーガミパータという土地で、唯一、真昼を正しさへと導いてくれるもの。唯一、真昼がしがみ付ける象徴。唯一、真昼が、静一郎とは違うと証明できるもの。

 次第に、次第に。

 心臓は、その鼓動を鎮めていって。

 規則正しく呼吸できるようになる。

 マラー、あたしは……あなたを助けることができなかった。でも、絶対に諦めない。生きている限り、あたしはあなたを見捨てるようなことはしない。何度でも、何度でも、あなたを助けに行く……そして、最後には、あなたを助ける。どんな犠牲を払おうとも、あなたのことを、ASKから、救い出す。真昼は、何者とも知れない何者かに対して、そう誓う。

 どんな。

 犠牲を。

 払おうとも。

 ああ、嘲笑、憫笑。その言葉が、実際にどんな意味を持つ言葉なのか。どれほどの重さを持つ言葉なのか。お前は理解しているのか? 当然ながら、真昼がそんなことを理解しているはずもないのだ。しかし、真昼はそれを誓ってしまった。そして、誓いというのは、いつだって果たされるもので。だから、真昼は、明日、知ることになるだろう。どんな犠牲でも払うと誓ったものが、一体何を犠牲にしなければならないのかということを。

 しかし、今日の真昼は。

 そんなこと、知るはずもなく。

 ただ、ゆっくり、ゆっくりと。

 アーガミパータに来て、初めての。

 安らかな眠りに、落ちていくのだ。

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