第一部インフェルノ #22

「あの……」

 奇妙なくらい赤い色をした蟻を潰してペースト状にする作業の途中、ふと手を止めて真昼はそう言った。隣で同じ作業をしていたあの女、パンダーラに忠実な人間の女は、木製の擂鉢から顔を上げることもなく、従って真昼のように手を止めることもしないで、声だけを発してこう答える。

「ジュットゥ。」

「え?」

「名前だ。私、ジュットゥ。」

「あ。」

「これから、その名前、呼べ。」

「はい、分かりました。」

 真昼はその女、ジュットゥから名前を教わって初めて気が付いたのだった。そういえばこの人の名前、教えて貰ってなかったし、聞いてもいなかったな、なんていうことを。まあ、名前が分からなくても大して不便はなかったのだし、別に大きな問題ではないのだが。真昼はなんとなくジュットゥに対して失礼なことをしてしまったような気になったのだった。だから、「えーと、私の名前は真昼です……すみません、知ってますよね」みたいなことを言ってみたのだが。案の定、「知ってる」とつれない答えを返されただけであった。

 ちなみに、ジュットゥという名前はダクシナ語で髪という意味を表す言葉である。このジュットゥという女が生まれたちょうどその時に、住んでいた村がASKによって「開発」の対象とされて。迫りくるASKのスマート・アーム(自動で生き物を殺してくれる大変便利な兵器のことです)の大群によって、ジュットゥの家族も含めて村人のほとんどが殺されて、更にジュットゥまでもあわや殺されんとしたその時に……パンダーラが颯爽と現れて。己の髪を犠牲にしながらも、何とかジュットゥを助け出したことに由来する名前だ。ちなみにパンダーラはその時以来髪を伸ばしていない、別に伸ばすこともできるのだが、ASKとの戦いにおいて長い髪は何かと邪魔だからだ。

 ジュットゥのパンダーラに対する忠誠は。

 この出来事に由来しているものなのだが。

 まあ、その話は置いておこう。

 この物語には大して関係のない話であるし。

 そもそもジュットゥは。

 それほど重要なキャラクターじゃないですしね。

「それで。」

「は、はい。」

「なんだ。」

「え……?」

「おまえ、話、あるだろ。」

「あ……はい、そうですね。」

 それに、ジュットゥの過去よりも、読者の皆さんは、なぜ真昼がひたすら蟻を潰し続けているのかということの方が気になるだろう。いや、まあ、なぜも何も食べるためなのだが。そういうことではなく、この状況に至るまでの前後関係の話だ。

 #21が終わってから、というのは要するに、デニーの提案が圧倒的多数によって賛成と決議されてからという意味なのだが、もちろん目的を果たし終えた集会はお開きとなった。とはいえ……それで、全てが終わるというわけではない。というか、あの集会は始まりでさえなかったのだ。始まりを始めるかどうかという選択でしかなかった。そして、その始まりとは、ダコイティによるASKへの総攻撃の始まりである。

 ということで、やらなければならないことは山ほど残っているのだ。その第一は、作戦計画の立案である。それは確かに、ダコイティというのは良くいっても烏合の衆、悪くいうならば羊群の兵に過ぎないのではあるが、さすがに計画も何もなく突進していくほど畜生じみた低能というわけではない。ということで、ダコイティの中で長老と呼ばれている十一人のダイモニカス達と、それにいうまでもなく、強くて賢いデニーちゃんも加わって(頼もしい!)、アヴマンダラ製錬所への侵攻作戦を立てるための会議が始まったということだ。

 ただしこの会議に関してはあの集会とは違って人間達は参加しない。なぜならこの会議は何らかの決定というわけではなく、その決定を実行するための会議なのであって。こういう会議にまで民主的なシステムを導入するのは、無駄というかむしろ害にしかならないからだ。それに、実のところ人間達も……こういう会議に参加しても、すぐに飽きてしまうだろう。先ほどまでの会議において、ダイモニカス達は、その「言葉」を、極力人間にも分かるような形で使っていたのだが。高度な戦闘の策定においては、どうしても高度な「語彙」を使わざるを得ない。それは人間の言語では把握しきれない、いわば人語以前の神語の「語彙」であって、そういう「語彙」は特殊な学習をした人間しか理解しえないのだ。従って、自分には理解できない言葉を延々と聞かされても、いつの間にかうとうとと乳海夜船してしまうのが落ちなのである。

 と、いうことで。

 ダイモニカス達がその会議をしている間。

 つまり今、人間達は別のことをしている。

 闘争の前夜、戦闘計画の立案以外にするべきこととは一体何であろうか? そう、祭宴である。戦闘の本質とは死ぬことと殺すことであって、死ぬことと殺すこととは彼岸の行為だ。彼岸の行為は此岸にいるものにできることではなく、それを行うためにはどうしてもある種の儀式が必要になってくる。ということで、闘争の前夜には、祭宴が必要不可欠となるのだ。

 そしてもちろんなんの準備も用意もなく祭宴が行えるわけがない。いや、正確にいえばアルファクラス知性所有者がいる場合は別だ。アルファクラス知性所有者には不可能なことなどないのだから。だが、ここにいる人間達、ダコイティの人間達にアルファクラス知性所有者などいるはずもない。よって、今、人間達が、していることとは、祭宴の準備なのであった。

 どうやら演壇は重要な決定が行われる場合にしか使われないものであるらしく、ダイモニカス達プラスデニーは既にそこにはいなかった。会議のためにどこか別の場所に行ったらしいのだが、それがどこかということは真昼には分からなかった。デニーは、その場所に行く時に「デニーちゃんはあ、もーちょーっとだけこの子達とお話ししなきゃいけないんだよねえ。だ、か、ら! 真昼ちゃん、いい子で待っててね?」としか言い残さなかったからだ。ちなみにその時にデニーと一緒にいたパンダーラは、真昼の隣にいたジュットゥに対してダクシナ語で何かを命じていたようだったが、それは真昼のことをよろしく頼むとかそういった意味合いの命令だった。ということで、よろしく頼まれたジュットゥは、この場所では完全無欠のアウェイ・ガール状態であるところの真昼の居場所を作ってやったというわけだ。

 具体的には、祭宴の準備における蟻のチャツネ作りとしての役割である。チャツネというのはアーガミパータにおいて重要な調味料の一つであり、植物や動物をペースト状にしたソースのことを指す。要するに蟻のチャツネとは、蟻酸の酸味を生かした蟻のソースということだ。

 これは南アーガミパータの森林地帯では貴重な蛋白源の一つであって、いわゆるダコイティ、狭義においてダコイティと呼ばれていた人々の間ではよく食べられていたものだ。基本的にアーガミパータには菜食主義者が多いので、読者の皆さんは蟻のチャツネと聞くと変な気がするかもしれないが。狭義においてダコイティと呼ばれていた人々は、そもそも菜食主義をするようなジャーティの人々ではなかったのだ。彼ら/彼女らは農耕の民ではなく山々を駆け巡る民なのであり、植物しか食べないような生活ができる人々ではないのだから。ということで、食べられそうなものはなんでも食べる彼ら/彼女らは、当然ながら蟻も食べるのであって。どうせならおいしく食べたいということでチャツネにしたということだ。また、現在では、このダコイティという集団の中に、一般的には菜食主義者とされるジャーティの人々も入ってはいるのだが……そこはまあ、郷に入れば郷に従えということだ。哺乳類だの鳥類だのを殺して食べるよりも、蟻を殺して食べる方が、菜食主義者の人々的にもなんとなく罪悪感も少ないみたいですしね。

 ちなみにダイモニカス達は、アーガミパータのような魔学的エネルギーに満ちている場所ではそもそも生物を殺して食べる必要がないので(まあ別に食べられないこともないけど)蟻のチャツネところか植物も食べない。また、確かに、森のサークル・オブ・ライフを守るために、不要な殺傷については忌み嫌っているのだけれど。森に住むある生き物が森に住む別の生き物を食料にするために殺すということは、不要な殺傷には含まれないので別に問題視するようなこともない。

 と。

 まあ。

 そんな。

 わけで。

 真昼は、蟻を。

 潰して、いる。

「その……教えて欲しいことがあるんです。」

「なんだ。」

 真昼は、また擂棒を動かし始めながら、なんとなく辺りの様子を窺ってしまった。これからジュットゥに聞こうとしていること、というかその質問事項の主題であるところの単語を、むやみに口にしていいのか迷っていたからだ。

 この場所は集会があったあの広場なのだが、集会の時の静まり返った空気はもうすっかり押し流されてしまったようだ。全体的に騒然とした雑音の洪水に満ちている。すぐそこにはたくさんの土竈(この森にやってきたばかりの時に見たものよりももっと大きいやつ)が並んでいて、それぞれの竈の上では大きな鍋が何かを煮立たせている。もう少し先では料理の仕込みをしているらしく、何人もの人々が並んで何かの仕込みをしている。真昼がいる場所は料理の区画なのだが、それ以外にも広場を飾り付けている人々や、何が入っているのか分からない大きな甕をたくさん運んできている人々、川から水を汲んできたらしい人々に、それに既に楽しくなってきてしまったのか、数人で集まって歌ったり踊ったりしている人々もいる。そんな楽しげな人々の間には、なんと、子供達までいるらしかった。集会の最中には全然気が付かなかったのだが、よくよく考えれば当然のことなのかもしれない。子供達だって子供達だけで生きていくわけにはいかないのだから。

 ただ、まあ、全員が全員とも浮かれ鼠のすちゃらかぼんちきなのかというと、そういうわけでもなかった。いや、ごめん、ここにいる人々についても浮かれ鼠のすちゃらかぼんちきはいい過ぎでしたわ。来るべき戦いへの不安や緊張からちょっとハイになってるだけです。お詫びして訂正します。はい、謝ったからこの話はお終いね、で、何だっけ? そうそう、ここにいる人間達は、先ほど観客席に座っていた人間達の五分の一くらいしかいない。二百人くらいだ。それ以外の人間達はというと、荷物を持って、どこかに行ってしまっていた。その人間達がどこに行ったのかということは、真昼は知らなかったのだけれど。つまるところ彼ら/彼女らは、闘争のための武器を取りに行ったのだ。ASKが攻め込んできた時のリスクを分散するために、森の中の至るところに隠されている、大量の兵器。それらの大部分を回収するために出かけたということだ。明日は総攻撃になるのであって……恐らくは、この総攻撃に敗北すれば、もうそれらの武器を使うこともないのだろうから。出し惜しみしても仕方がないのだ。

 そんな風にして、先ほどまでの深刻で張り詰めた空気が嘘だったみたいに、わいわいと賑わっている広場の中で。真昼がいるのはマサラだのチャツネだのいわゆる調味料を用意する場所だ。いうまでもなく、ここで擂り潰されたり混ぜ合わされたりしているのは蟻の死体だけではない。真昼が見たこともないような、種だとか葉っぱだとか、あるいは何かの皮みたいなものだとかが木鉢で粉々にされたり石臼で引かれたりしている。ここまで何度か触れてきたと思うが、南アーガミパータは常夏の地、いつでも高温多湿な熱帯気候の土地なのであって。それゆえにあらゆる食べ物は何もしなければすぐさま腐ってしまう。ということで、その腐敗の匂いを消したり、あるいは腐敗自体を防いだりするために、香辛料の文化が発達するのは必然であったのだ。それに、まあ、そもそもアーガミパータには色々な香辛料が自生していたという理由もあるけどね。

 そして。

 ここも。

 やはり。

 大変賑わっている。

 粉を引くごりごりという音、それに調理に関わっている人々のがやがやいう声。これならば、ジュットゥだけに聞こえるようにその言葉を言うこともできないことではないだろう。ということで、真昼はちょっとだけ声を潜めて。そのことについて、問い掛けることにする。

「さっきの、あの集会で出てきた名前なんですけど……」

「名前?」

「カーマデーヌって、誰なんですか。」

 カーマデーヌ。

 聖なる、彼女。

 真昼が口にすることを躊躇っていたのは、その名前だった。デニーがその名前を発しただけで、ダコイティが強く憤った名前。パンダーラが、その名前を口にすることさえ憚っていた名前。恐らくは、この名前はそれだけで真聖な「意味」や「力」や、とにかくそういった何かを持ちうる名前なのだろう。だから軽々しく口にしてはいけない名前なのだろう。真昼は、そう考えていたのであって……そして、それは、完全に正しかった。

 真昼の口からその名前を聞いた途端。

 ジェットゥは、蟻を潰す手を止めた。

「その名前は。」

 顔を上げて。

 真っ直ぐに。

 真昼を見て。

「言うな。」

 簡潔、に。

 そう言う。

 それに対して真昼は、とても素直に「すみません」と謝った。偉いぞ真昼ちゃん! まあ、こうなるであろうことはなんとなく予測できていたし、自分が良くないことをしたのであろうということも理解できていたからだ。しかし、とはいっても。その名前を口にしない限りカーマデーヌという「彼女」が何者かということは真昼には質問できなかっただろう。ただでさえディスコミュニケーション・ガールな真昼である上に、相手は共通語が自由闊達とはいいがたいジュットゥなのだから。

 ところで、そのジュットゥはというと。素直に謝った真昼に対して、それ以上咎めるようなことはしないで。また視線を落として、蟻を潰す作業に戻った。暫くの間、何も答えることなく、ただ赤くて酸っぱいチャツネを作っていたのだけれど……やがて、唐突に、口を開く。

「母。」

「え?」

「「彼女」は、母だ。」

 どうやらカーマデーヌのことを言っているらしい。

 真昼は、また、ジュットゥの方へと視線を向ける。

「母?」

「全ての母。」

 そう言うと、ジュットゥは持っていた擂棒を擂鉢の中に置いた。それからゆっくりと手を上げて、ある方向を指さしながら真昼に「あれ、見えるか」と問い掛けた。

 その方向にあったものは……丘だ。真昼がこの森にやってきた時に、といってもこの森に入る前に。森のずっとずっと奥の方に見えていた、あの丘らしい。どうやら森の奥へ奥へと入っていくうちに随分と近づいていたようで、森の中にあるはずのこの広場からでもあの丘の頂上辺りは見ることができたのだ。

「丘……ですか?」

「そうだ。」

 ジュットゥは、また。

 擂棒を、持ち上げて。

「「彼女」、あの丘に、住んでいた。」

 さっきまでよりも、少しだけ強い力で。

 鉢の中、蟻の死骸を、引き潰し始める。

 溢れ出るような崇敬の感情と。

 それに、少しばかりの痛みが。

 その声に滲み出ている。

「「彼女」、力があった。凄い力、私達の全員を、とても強く、生きること、できるようにする力。「彼女」のおかげで、私達、みんな幸せになれた。木は強く生き、花は強く生き、獣は強く生き、人は強く生き、そして、マーラさま達も強く生きていた。「彼女」のおかげでアヴィアダヴ・コンダの森は生きていた。しかし、今、森は生きてない。「彼女」、いないから。」

「それって……神ってことですか?」

 ジュットゥの言葉の途中で真昼がそう口を挟んだ。そのように描写される類の存在を、真昼は神しか知らなっかったからだ。だが、ジュットゥは、それに対してこう答える。

「「彼女」、神ではない。」

「神じゃない?」

「「彼女」は……牛。」

「牛?」

「偉大なる牛。」

 そう言ってから、ジュットゥは「手が止まっている」と付け加えた。さっきから真昼の蟻を潰す手が止まっていたからだ。書いている側でさえそろそろ蟻を潰す描写に飽きてきてしまっているので、実際に蟻を潰している真昼がその手を止めてしまう気持ちも分からないでもないのだが。ただ、今の真昼はまあまあいい子の真昼ちゃんなので、スローダウナーであるというよりも、むしろジュットゥの言葉に注意が向いてしまっていただけという方が正しいだろう。真昼は「あっ、すみません」と謝って、また擂棒を動かし始める。

「「彼女」、「最初の木」から生まれた。だから、神よりも偉大な生き物。「彼女」、この世界と、あの世界の、全ての牛の母。普通の牛と違う、「彼女」の乳は強い強い力。私達が望むもの、なんでもその乳から生まれる。大地の繁栄、肥沃な繁殖、犠牲、母性。マーラさま達は、「彼女」の牛飼いだ。だから、私達、人間、マーラさま達、すごいと思う。」

 ジュットゥの言葉の途中で、唐突に難しい、少なくともオールドトーカーにとっては難しいであろう単語が五つほど出てきたのだが。繁栄、肥沃、繁殖、犠牲、母性ね。これらの単語については、どうやらジュットゥも、よく意味を理解できていない状態で使ったようだ。たぶんパンダーラあたりが使った言葉を何かの折に聞いていて、いつか使ってみたいとでも思っていたのだろう。日々命懸けで戦っているゲリラだってそういうことを思わないということはないのだ。さりげなく韻を踏んでるのが猪口才ですね。

 さて、ジュットゥは。

 更に、話を、続ける。

「あの丘、「彼女」の眠る場所だった。あの丘から、「彼女」の乳、流れて、アヴィアダヴ・コンダの全部に流れていた。でも、ある日、アヴィアダヴ・コンダに、ASKがやってきた。たくさん、たくさん、大きな機械の人形、生き物を殺す道具、持ってきた。私達、なんとかASKを防いだ。たくさんのマーラさま、死んだ。たくさんの人間、死んだ。それでも、この森だけは守っていた。でも……でも、ある日、ミセス・フィスト、やってきた。ミセス・フィスト、それに、五人の娘。あいつら、たった六人しかいなかった。それなのに、この森を守っていたマーラさま達、みんな倒した。ここを守っていたマーラさま達、パンダーラさま以外、みんな死んだ。パンダーラさまも、右の手、無くした。他のところにいた、マーラさま達、人間達、急いでこの森に来た。でも、遅かった。もう、ミセス・フィスト、この森にいなかった。「彼女」を奪って行ってしまった。」

 ジュットゥは。

 そこまでを、言い終わると。

 しんと黙り込んでしまった。

 蟻を引き潰すがりがりという音だけが、辺りの賑わいの中へと混ざり合って消えていく。真昼の引き潰していた方の擂鉢の中には、まだ少しだけ、蟻の触覚だとか足だとかがその形を残していたのだけれど。ジュットゥの擂鉢の中は、すっかり潰されていて、どろどろとした赤色の泥土みたいになっていた。蟻酸の酸っぱい匂いが鼻先を突っついてくるようだ。

「おまえ、続けろ。」

「え?」

「私、これ、渡してくる。」

 真昼に向かってペーストを見せながらそう言うと、ジュットゥはその鉢を持ったまま立ち上がって、土竈が並んでいる方へと行ってしまった。何をしに行ったのかと真昼が(無論手を止めることなく)見ていると、土竈の上にある鍋の様子を見る係らしき人間のうちの一人のそばに歩み寄っていく。そして、そのペーストは、その人間に渡されると。鍋のうちの一つへと、特に料理に対するこだわりもなさそうな感じ、いかにもそのままぶち込みましたという感じで投入されたのだった。

 アーガミパータに来る前の真昼であったら、さすがにこれに対して何かの拒否感を抱いていたかもしれない。なぜなら月光国には蟻を食べる習慣がなく、それどころか月光人は昆虫食に対して何となく抵抗感を抱くタイプの人々だからだ。蝦や蟹は食べるのだし、同じ節足動物なんだから大して違いはないだろうと思うのだが、どうやら月光人にとっては蛯蟹のたぐいと昆虫のたぐいとは厳密に異なるものらしい。どうも納得がいかないが、そういうことをいっているとまた神国系に対する差別だのなんだのうるさくなりそうなので、ここでは深く言及しないことにしておこう。とにかく、大体の月光人は蟻を食べることに対して抵抗感を抱くものであって……それは、真昼も、同じだった、はずだった。

 しかし、今となっては。蛯蟹のたぐいも昆虫のたぐいも真昼にとっては大して変わらないものとなってしまっていたのだ。それが食えるのであるのならば、胃袋に入ってしまえば大して変わらない。それに、もしもそれが食えないものであっても……まあ、デニーの魔学式が何とかしてくれるだろう。とにかく真昼はお腹が空いていたのだ。それに何より蛋白質に飢えていた。読者の皆さんはきちんとご記憶のことと思われますが、アーガミパータに来てから、真昼がまともに何かを食べたのは、というかまともでなくても何かを食べたのは、ASKに出された果物だけである。動物性蛋白質の類は、それが鳥獣であろうが魚介であろうが一口も口にしていない。なので、そういう蛋白的なものが食べられるのならば、まあ虫でもいいか、みたいなテンションになってしまっていたのだ。生来の育ちの良さから摘み食いこそしなかったものの、真昼は、ダコイティの祭宴に出されるであろう食事のこと、心の底から楽しみにしていたということだ。

 そんな真昼が。

 いかにも物欲しそうに。

 鍋の方を、見ていると。

「まーひーるーちゃんっ!」

 いかにも可愛らしく。

 いかにも悪戯っぽい。

 そんな声が、聞こえる。

 「そんな声」も何もこれはデニーの声だ。ダイモニカス達と計画立案に向かったはずのデニーの声。あれから一時間くらいしかたっていないはずで、時計とか見てるわけじゃないから正確にはいえないけど、それにしてももう終わったのか?と真昼が振り返ってみると。デニーの人差し指が、つんっと真昼のほっぺたを突っついた。どうやら真昼の顔の横に指を出していて、真昼が振り返った時につんってなるようにしていたらしい。全く、デニーちゃんってば可愛いんだから! まあ、真昼は欠片も可愛いとは思わず、むしろちょっとイラっとしたのだけれど。

「あー、真昼ちゃん、引っかかった!」

 けらけらと笑うデニー。

 真昼は、一度は何かを言おうとしたのだが。

 諦めて、ただその指をどかしただけだった。

「もう終わったの。」

「ほえ、何が?」

「例の……作戦会議とかいうやつ。」

 聞くまでもないことではあるが、一応聞いてみる。

 デニーは、きょとんとした顔をして問いに答える。

「終わったよー。」

「随分と早かったみたいだけど。」

「早かったー? むしろ時間かかりすぎーって感じ!」

 これについては、デニーが正しいことを言っている。いや、まあ、デニーちゃんはいつだって正しいんだけどね! それはそれとして、一時間というのはダイモニカスの会議としては長い方なのだ。ダイモニカスの会議というものは、普通であれば一分かそこらで終わるものなのである。ダイモニカスの使う言葉は、人間にとっては抽象的とさえ思えるような、随分と複雑な概念を、非常に容易に伝達することができる。そのため一つ一つの発言はかなり情報量が多いものとなり、人間の会議とは比べ物にならないくらい効率がいいのだ。「会議室」までの移動時間を考えたとしても……有り得ないくらいの時間がかかっている。人間であれば一週間ぶっ通しで会議し続けたくらいの印象だ。

 恐らくは。

 ASKを倒すということは。

 それほどまで。

 難しい、こと。

 例えデニーがいたとしても。

 さて、それはそれとして。真昼は、自分のすぐ横のところに屈んでいるデニー(なぜなら真昼は地面に敷かれたシートの上に胡坐をかいて座っていたからだ)の後ろに、パンダーラが立っているということに気が付いた。道理で周囲が何となくざわついているわけだ。そのざわめきは同然ながらダクシナ語のざわめきだったので、何を言っているのかまでは分からなったのだが。皆が皆、料理の手を止めてパンダーラに視線を向けていた。そして、その全ての視線が……尊敬の・畏敬の・崇敬の感情を、泳いでも泳いでも湖底に辿り着くことのできない湖のようにして、深々と湛えていた。ほとんどの人が両手を合わせていたし、何人かは両膝を地についてさえいるくらいだ。

 そんな中、土竈に行っていたジュットゥが戻ってきた。いうまでもなくパンダーラの存在に気が付いており、真昼のいるところに寄ることもなく、真っ直ぐにパンダーラに向かっていく。両手をしっかりと合わせて、それからパンダーラの目の前で片膝をついて跪いた。ジュットゥが何かを言うと、パンダーラが随分と簡潔に何かを答える。それに対してジュットゥは、静かに、静かに、しかし明らかに感激の色を隠すことなく、更に何かを言った。ダクシナ語なので何を言ってるのか分からないが、たぶんパンダーラはジュットゥを褒めたのであろうし、ジュットゥはそれが嬉しくて仕方がないのだろう。真昼はそう思ってなんとなく微笑ましい気持ちになったし、その推測は完全に当たっていた。

 しかし、そんな微笑ましさ。

 全くお構いなく。

 ぶち壊すように。

 デニーが、口を挟む。

「ほーんと、助かったよー!」

 ジュットゥ。

 跪いたまま。

 振り返って。

「デニーちゃんからもありがとー、だよっ!」

 デニーのこと。

 嫌悪感を露わにして。

 睨むみたいに、見る。

 そういえば……真昼は思い出したのだが、集会の時、あの決議の時も。ジュットゥは、今と同じような目をしてデニーのことを睨んでいた。拒否と反抗、抑えきれない憎悪。それに、少しばかりの恐怖が混じっている目をして。恐らくではあるが……もしも、ジュットゥに、この集会における議決権があったならば。間違いなく、一瞬の躊躇いさえも見せずに反対票を投じていたのだろうなと思わせるような、そんな視線だった。

「私、おまえの感謝、いらない。」

「そんなー、ジュットゥちゃんてばひっどーい!」

 明らかにひどいともなんとも思ってなさそうな口調でデニーはそう言った。いかにもわざとらし気に、ぱっと開いた手のひらによって、自分の口を押えながら。ジュットゥはそんなデニーのことを完全に無視してその場に立ち上がると。またパンダーラの方を向いて、両手を合わせて一礼をした。それから、ようやく真昼の方にやってくる。

「それ。」

「それ?」

「鉢。」

「あ……はい。」

 どうやらジュットゥは真昼から擂鉢と擂棒を受け取ろうとしているらしかった。なんだかよく分からないままに、真昼はその場に立ち上がると。いわれるがままにそれらのセットを手渡す。受け取ったジュットゥは、一つ頷いて「あと、私、やっておく」と言って、シートの上に座ってしまった。それから、がりがりと、また蟻を潰し始める。

「それじゃ、真昼ちゃん。」

 少し困惑してる真昼に。

 ちょこんと屈んだまま。

 可愛すぎる上目遣いで。

 デニーが、話しかける。

「行こっか。」

「行こっかって……」

 戸惑うように真昼はそう言った。この「行こっかって……」というノーヒール・ハイヒールな言葉の先に言われるべきであった単語は、汎用トラヴィール語でいうならばもちろんWhere?なのであったが。その真昼のWhere?という疑問を十分に理解した上で、しかしその問いに直接答えるわけではなく、より分かりやすい回答を、デニーは提示する。

「革命の準備に行くんだよお。」

「え……?」

「んー、まあ、どっちかっていうと維新なんだけどね。「神猿革命順乎愛而応乎人」っていうよりも「易雖旧邦其命維新」だから。でもさ、革命って言った方がさーあ、何となくわくわくするでしょー!」

 デニーが、唐突に愛国語を使い始めたので。

 真昼は、何が何だかさっぱりだったのだが。

 とにかく、真昼は、デニーとパンダーラとに連れられてどこかに行くことになっているらしかった。そう、デニーの後ろに立っているその感じからして、どうやらパンダーラも一緒に行くらしいのだ。これで、一緒に行くのがデニーだけであったならば、真昼も文句の一つくらい言っていたのだろうが。パンダーラも来るとなるとさすがにそうもいかなかった。ということで、何も言葉を発することなく、デニーの言葉にただただ頷くことしかできない真昼であったのだった。

 デニーはそんな真昼に向かってにこーっと笑うと、「素直でよろしい!」と言ってから、屈んでいた姿勢を立ち上がらせた。真昼としては、ジュットゥのしていたカーマデーヌの話が、いまいちまだ途中な気がしていたし。それに他にも色々な話を聞きたかったのだが(デニーはいい加減な答えしかしないしパンダーラに聞くのもちょっと気が引けるからだ)。かといって、真昼は愚かで弱い生き物なのであって、運命において一つ以上の選択肢があるというわけでもない。だから、デニーに向けていた視線、もう一度だけジュットゥの方に向けて、「ありがとうございました」とだけ言ったのだった。ちなみにジュットゥは、真昼の方を見ることはせず、右と左とに何度か首を傾けるあのアーガミパータ特有のジェスチュアでそれに答えた。

「それで。」

 真昼は、またデニーの方を見て。

 今度は、ヒールのついたハイヒール。

 きちんと、最後まで、こう質問する。

「どこに行くの。」

「決まってるじゃーん!」

 それに対してデニーは。

 けらけらと笑いながら。

 こう答える。

「死体が、たくさん、あるところ。」


 ということで、真昼は(比較的)居心地のいい広場を出て、じめじめとして蒸し暑い森の中をひたすら歩くという苦行に戻らなくてはいけなかったのだが。その道中の描写は省略しよう、どうせ何も起こらなかったのだから。いや、一つだけ「何か」が起こりはしたし、その「何か」はあと一歩でとても深刻なことになりうることであったのだが、真昼はどんちきぱっぱらくるくるぷーなのでそれに気が付くことさえなかった。

 その「何か」とは……パンダーラ、真昼、デニーの順番で、真昼のことを囲むように歩いていた三人の歩いている、その随分と後ろの方、日の光一つ射さないような闇の中で。まるで弦楽器みたいな音がしたことだ。弓によって弦の上を引き摺るような、透き通っていて冷たい音。こんなところで何の音?と真昼は思った。暢気にも、他のダコイティが、何かの楽器を弾きながら広場に向かってる途中なのかな、とかなんとか思ったのだが。それは真昼がもの知らずのどうしようもない阿呆だったからだ。他の二人はその音を聞くと、あたかも巨大な肉食獣にばったり出くわしてしまったとでもいうような態度によってばっとそちらの方を振り返った。いや、しかし、それは肉食獣ではないのだ。もっと、もっと、たちが悪い生き物であり……そして、賢い生き物だ。そう、賢い生き物。だから、暫くの間、真昼のことを浚っていくことができるかということ、考えていたようだったけれど。パンダーラとデニーと、この二人を相手にしてそれをすることは不可能だと判断したらしい。弦楽器の音は次第に次第に遠ざかって行って、そして、しまいには聞こえなくなってしまった。

 これが唯一起こったことだ。真昼は命拾いをしたのだが、低能過ぎてそのことに気が付かなかった。まあ大衆的人間なんてそんなものだ。そして、それから、他には何も起こらなかった。デニーもパンダーラも真昼も一言さえ発することなく(あのデニーさえも何も言わなかったのだ!)(さっき森の中を歩いていた時と同じように何かを考えこんでいるようだった)、一時間ほどの道程を歩き終えて。今、その場所に、辿り着いた。

 それは。

 つまり。

 村だった。

 といっても、普通村と聞いて思い浮かぶほど広い村ではない。先ほどの集会のための広場と比べても……ほんの少し小さいくらいの大きさしかなかった。そんな空間の中に、掘立小屋としかいえないような家、ぽつりぽつりと五十軒くらい並んでいる。土を塗り固めて作った壁と、そこら辺の植物を手あたり次第のっけましたという感じの屋根。大きさとしては五平方ダブルキュビト強しかない。軒を長い木の棒で支えていて、それが何となく竪穴式住居っぽさを添えている。

 また、村のそこら中には木が生えていた。どちらかというと緑化効果を狙ってわざと生やしているというよりも、伐採するのが面倒なのでそのままにしてある感じだ。生えてきてしまったものはしょうがないという投げやりさを感じる。そこここに、枝を編んで作った椅子のようなものが置かれていたり、草を編んで作った茣蓙のようなものやが敷かれていたり。そういった場所がちょっとしたコミュニティの形成に役立っているのだろう。

 しかし。

 真昼は一目で理解した。

 この村には一人として。

 人間は、いない。

 それどころか生きている動物の気配さえなかった。完全に死に絶えた村なのだ。見渡す限りに動くものはなく、聞こえる限りに音を立てるものはない。ただ植物がいけしゃあしゃあとそこに生きているだけで。

 恐らくは……ここで、何かしらの戦闘があったのだろうと思われた。なぜなら、先ほどの描写では書かなかったのだが、そこら中に破壊の痕跡が残されていたからだ。しかも生半可な破壊ではなく、局地的な嵐が通り過ぎたとでもいうほどの破滅的な災害だ。掘立小屋、あるものは天井が吹き飛んでいて、あるものは壁に何かが突き抜けた穴が開いている。完全に崩壊して植物と土との山になってしまっている小屋さえあった、というかそういう小屋の方が何とか輪郭を保っている小屋よりも多いくらいだ。椅子は焼かれ黒く焦げ、茣蓙は焼かれ灰になり、そこらへんに生えている木は無残に切り刻まれているものが大半だ。そして、驚くべきことに、そうして切り刻まれている木は、完全に腐敗し、完全に枯渇し。その残骸から新しい芽吹きが起こることは決してないようだった。

 一体、この場所で。

 何が起こったのか。

 などと問いかける必要などないだろう。徹底的に阿呆な真昼にさえ分かったのだから。つまり、この場所は、ASKの襲撃を受けたのだ。それも、たぶん、ジュットゥの言っていた、「ミセス・フィストと彼女の五人の娘」が襲撃を仕掛けてきた時のことだろう。そうでないと説明がつかなかった。もしもASKが軍勢を率いてやってきたのなら、この村は完全に消滅していただろうから。先ほども書いたように、この村はあくまでも「局地的」な嵐に襲われたように見えるのであって。未だ、辛うじて、その形は保っていた。

 三人は、無言のままで村に入って。

 一番大きな道を選び、進んで行く。

 その道は真昼から見てもかなり広いものだった。というか、道を広く作ったというよりも、村の密度がそれほど高くないので自然と道幅も大きくなっているのだろう。大人が五人くらい横並びに並んでも通れるくらいはあった。そして、それほど広い道が、村の真ん中をまっすぐに通っていて。遮るものさえない真昼の視線の先に……「それ」が見えていた。

 「それ」は、その時にはあまり気にしていなかったのだけれど、後から思い出してみると、村のちょうど真ん真ん中にあったのだろう、と真昼は思ったものだ。といっても、村の真ん中に何らかのパブリックなスクエアだとかサークルだとかがあって、そこに「それ」があったとか、そういうわけではなかった。そういう都市計画的な空間は、ほとんど無秩序とも思えるやり方で構造されたその村には相応しいものではなかったし。ただし、それでも、「それ」が作られたその場所は、白々と開けた空間ではあった。

 凄惨な。

 破壊の。

 痕跡として。

 道の両脇にあった家々は、その空間を中心として、特に凄まじく壊されていた。壊されていたというよりも吹き飛ばされていたといった方が正しいといえるかもしれない。この空間があるこの場所で、最も激しい戦闘が行われたのだろう。そして、「それ」を作るにさして邪魔なものが何もなくなったので……ここに、「それ」が作られたのだろう。

 「それ」は、要するに、土を盛り上げて作った小さな山であった。半径三ダブルキュビト程度の円に、五ダブルキュビトほどの高さで土が山になっている。その山は、正確にいえば、恐らくこの村の地面を掘ったものと思しき乾いてさらさらとした土に、そこら辺の瓦礫を混ぜたものでできていた。山のいたるところから、元は土壁だっただろう破片や、元は草ぶき屋根だっただろう植物が、突き出ていたということだ。そして、その頂点にあたる部分には――そういった瓦礫とは全く異なる存在、ある種のシンボルとして――一本の旗、ひどく薄汚れてしまってはいるが、元は真っ白だったと思われる旗が突き刺さっていた。

「これは……」

 いつものように、真昼が。

 馬鹿丸出しで独りごちる。

「お墓ですねえ。」

「墓?」

「そう、お墓ですっ!」

 なんでいきなり敬語なのか分からないが、とにかくデニーがそう答えた。言われてみれば……というか、よく考えれば当然のことだった。これは墓、もっと分かりやすくいえば土墳だ。死んだ生き物を埋葬したもの。とはいえ、たった一匹の生き物のための墓としては少々大き過ぎるもののように真昼には感じた。よほど大きな何かが埋められているのか……それとも、よほどたくさんの何者かが埋められているのか。状況から考えて恐らく後者だろうと真昼は思ったし、それは実際に正しかった。

 どんどんと、土墳に、近づいて行って。

 ついに、三人は、その麓にたどり着く。

「それでっ!」

 デニーが、足を一歩、踏み出して。

 パンダーラに向かって声をかける。

「これがそうなのですか?」

「そうだ。」

「なるほどっ! 分かりましたっ!」

 さっきからずっと敬語を使っているが、恐らくそのことには何の意味もない。なんとなく、タイミング的に、敬語を使ってみたくなっただけだろう。それはそれとして、デニーが足をもう一歩踏み出すと、ちょうどその体はパンダーラと並ぶ形になった。

 そのパンダーラは、デニーのことを見ていなかった。いや……少なくとも視線は向けてはいなかった、といった方が正しいのかもしれないが。とにかく、パンダーラは、その土墳のことを見上げていて。何か、とてもいい表しがたい感情、自分がどうしようもなく間違ったことをしているのは理解しているのだが、それを正すことは絶対にできないということも理解している、そんな生き物が抱くであろう感情を、その顔に表していた。

 そんな表情のまま。

 パンダーラは、ぽつりと。

 まるで、独り言みたいに。

 けれども、確実に。

 デニーに向かって。

「お前がしようとしていることは。」

 こう。

 呟く。

「してはいけないことだ。」

「そうかもしれませんねー。」

 デニーは、可愛らしくくすくすと笑いながら。

 共感の欠片も感じさせない声で、そう答えた。

 それから。

 念のためとでもいう感じ。

 パンダーラに、こう問う。

「それで、みんなを起こしてもいいですか?」

「……やれ。」

「かしこまりました! 始めまーす!」

 三歩目。

 デニーは。

 その足を。

 踏み出す。

 これで、デニーの体はパンダーラのいる場所よりも前に来ることになった。デニー、パンダーラ、真昼の順番で土墳の前に立っていることになるが、ただし、たった今真昼が前に進み出て。デニーがいた場所にすっぽり収まる形になったので、デニーの後ろに真昼とパンダーラの二人がいるという形に変わる。

 真昼は、デニーとパンダーラとが話す話を聞いていた。パンダーラが真昼に気を使っているのか、それともデニーがなんとなく惰性で共通語を使っているだけなのか、どちらにせよ二人の会話は共通語であったので、真昼にも理解できたのだが。しかし……デニーの言った、「みんなを起こしてもいいですか?」というセリフだけは、よく呑み込めなかった。いや、呑み込めなかったというか……どちらかといえば、あのわけの分からない、吐き気がするような、不吉な感覚を呼び起こしたというべきかもしれない。

 何かが、何かがおかしいのだ。そして、何がおかしいのかということ、もう少しで理解できそうなのだが。どうしても、何か、自分の中で、そのことを理解することについての拒否感があった。点と点を繋ぐことに対する、恐怖にも似た嫌悪感。そう、さすがの真昼も、心の奥底では理解していたのだ。しかし、認めたくなかった。そのことを認めてしまえば……自分が……手を借りたのは……助けられたのは……冒涜の……デニーは、この男は、もしかして、治癒学者なんかじゃなくて。

 さて。

 その。

 デニーは。

 土墳の、すぐ目の前に立っていた。まるで、綺麗な宝石に罅が入る時のような音をして、笑っている。そっと右手を差し出した。土墳の表面に触れるためだ。触れた手、指先を動かす。くすぐるみたいにして。一匹一匹が、信じられないくらい白い色をした蛆虫のようだ。この墓の中の死体を求めて蠢いている五匹の蛆虫ということ。それから、デニーは、あたかも、そこに口づけでもしようとしているみたいにして唇を寄せて。明らかに誘惑者の言葉遣い、明らかに、幼い、子供の、姿を、した……悪魔の言葉遣い。

 こう。

 囁く。

「あなたはずっとねむっていることのできるしにんというわけではありません。きっとあまりにもながいあいだそこにいたせいで、しぬということさえもしんでしまったのでしょう。」

 妊娠した女の腹に。

 頬を当てるように。

「さあ、朝だよ。」

 土墳に、柔らかく頬を当てて。

 優しく、優しく、こう命じる。

「みんな、起きて。」

 最初。

 何も。

 起こらなかった。

 いや、本当は、最初から何かが起こっていたのだけれど、そのことに気が付くのに時間がかかったというだけだ。それは……真昼がようやく気が付いたのは、不吉なまでに絶対的な静寂だった。虫の声一つ聞こえなかった。それどころか、風が葉と葉との間を吹き抜ける音さえもしなかった。先ほどまで吹いていた風は、なぜか完全に停止してしまっていて。自然の全てが息をひそめているような、完全な無風の状態。そう、全てが、全てが、何かを待っていた。これからどうなるのかということ、真昼以外の全てが理解していて……起こるべきではないこと、なされるべきではないこと、完全な冒涜……その忌まわしい、けれども必然的な出来事を、待ち受けているのだ。

 何が?

 何が?

 何が?

 それは。

 裸泥の洪過。

 星煉の羊庭。

 死糸と死糸。

 顕鳴。

 卵鳴。

 膨鳴。

 望葬を開き、晦葬を暴く、虚ろな王の姿。

 そして。

 それから。

 何もない場所に巣食っている。

 白い色をした、無垢な蛆虫の。

 あらゆる些喚き。

 肯定しよう、その通りだ。それは些喚きだった。完全なサイレンスの中から、耳元で囁く運命の吐息のようにして、真昼が聞いた音は。何かが、まるで、真昼の頭蓋骨の中に閉じ込められて、そこから出たがっているかのよう。頭の裏側を引っ掻かれているみたいな、極めて、不愉快な、音。

 どこから聞こえてきているのか? それを、真昼は、疑問に思うこともできなかった。そんなことは真昼には許されていないのだ。明白な悪夢と、突き付けられた顕栄。理解しろ、理解するんだ。それは王の栄光であり、民の栄誉である。例え、一人とて、その民が残されていなくても。要するに……その音は、その些喚きは、目の前の土墳の中から聞こえてきていたのだ。

 母親の腹の内側で、胎児の指先が、子宮の壁面に、何度も何度も触れている。そんな音だった。それは比喩表現であるとともに、完全な事実である。彼ら/彼女らにとって、それは第二の出産であって。そうだとするならば、この土墳こそが、彼ら/彼女らにとっての子宮であるからだ。土に触れ、土を掻き、そして、土を引き裂く音は、段々と大きなものになっていって。

 ああ。

 その時。

 とうとう。

 真実が。

 露呈する。

 土墳の上の方。立てられた真っ白な旗の少し下の辺り。ぼこり、と一度、土が盛り上がった。ぼこり、もう一度。ぼこり、ぼこり、もう二度。そして、最後に……ずべっ、と音でも立てるようにして。その盛り上がっていたところから、何かが突き出してきた。土墳を作っている土よりも、随分と深黒い色をしたもの。細長く、先が幾つかに分かれている、奇形の枝にも似た何か。いや、そんな風に……誤魔化すのは馬鹿げている。それを見た瞬間に、真昼はなんであるかを理解したのだから。それは手だ、人間の、あるいは人間に類似した生き物の手。

 その手は、何度か虚空を掴もうとするように蠢いた後で。ずるっと土墳の表面に落ちて、ぎっと爪を立てるようにして、それに五本の指を突き刺した。ぐっと押し込むように、手に力を入れる。すると……ずるり、と、勢いよく。その手に付随しているところの肉体が、土墳から抜け出してきた。それは……蝉が脱皮する光景によく似ていた。真昼の家はいわゆる豪邸で、その庭はちょっとした森になっているのだが。夜に、勝手に家を抜け出して、その森の中を徘徊していると。特に夏の前の時期など、真昼はよく蝉が脱皮するところを見たものだった。白く生々しい肉体が、泥だらけの偽物じみた殻の中から抜け出てくる。目覚め、目覚めは復活であり、復活とは奇跡である。真昼はその脱皮の光景に、ある種の奇跡を見ていたのであって……そして、今、本当の奇跡が、目の前で行われている。勘違いしないで欲しい、奇跡とは神の業であって、神は人とは異なる価値によってjudgementを下す。よって、奇跡とは、人の身には理解し得ないものであって。

 従って、この現象は。

 まさに、奇跡なのだ。

 もしも。

 デニーちゃんを。

 信じるのならば。

 さあ。

 その石を。

 どかしちゃえ!

 土によって形成された母の紛い物の中から、それは顕かなる栄光を見た。それは栄誉である。民の栄誉。だから、それは二度目の出産を果たしたのだ。あるいは堕胎か? どちらでもいい、どちらでも変わらない。とにかく、その者は、その民は、この世に再びの再来を果たしたのだから。いうまでもなくこの重言は顕栄と奇跡との強調をするための重言である。それから、その者は……べたり、べたり、と。全身を使って、蚯蚓か何かのように土墳の上を這いずって、その麓のところまで下りてきた。

 生まれ落ちた最初の時点では、どうやら体の動かし方がいまいち分からなかったようだったが、草食動物の幼子のように、急速にそれを理解していって。土墳の麓にまでやってきた時には、既に立ち上がることさえできるようになっていた。立ち上がり、ぎこちないながらも歩き始めて。そして、その者は、その者の王に向かって進んでいく……その者の全てを支配するべき、強く賢い王……その者の体に満ちる栄誉の主……それは、もちろん、いうまでもなく、デナム・フーツしかいないのだ。

 デナム・フーツは。

 くすくすと笑っていた。

 土墳から、少し離れたところ。

 甘く首を傾げて、立っていて。

 その者に、流し目を送りながら。

 初々しいほど可愛く。

 禍々しいほど淫らな。

 白い。

 手を。

 差し出す。

 拝跪する。その者は、そうするべき仕草として。その者は……よく見れば、人間ではなかった。頭には二本の角が生えていて。それに、口からは、二本の牙が突き出ている。長い長い牙で、顎よりも長く伸び、鍾乳石か何かのように垂れ下がっている。まるでネコ科の獣みたいに、全身には橙色の毛が生えていて……つまるところ、それはダイモニカスであった。しかも、かなり年経たダイモニカス。よほど年老いて、よほど力強いダイモニカス。そんなダイモニカスが、デニーの前に跪いて。

 差し出された。

 王の。

 手の。

 薬指。

 いつの間にか。

 その。

 指先に

 嵌められていた。

 白い蛆虫。

 契約の指輪。

 に。

 口づけを。

 落とす。

「ミスター・フーツ。」

 重く、深い声。

 その者の、声。

 こう言う。

「我々は、あなたの命じること全てに従います。」

「んー、よろしくねっ!」

 デニーは。

 ぺろりと。

 可愛らしく。

 自分の唇を。

 舌で舐めずる。

 ところで、我々は? 確かに、この者は、今、我々はと言った。それにデニーも言っていたはずだ、「みんな、起きて」と。ということは……と、真昼がここまで考えたところで。その浅はかで愚かな思考が終わることなど待っていられないとでもいうように、次の出来事が起こった。

 土墳の表面、その全面から。あちらから、そちらから、こちらから、ずるっ、ずるっ、ずるっ、と腕が突き出し始めたのだ。次々と、次々と、まるでその光景は……あぶくで包まれた卵の中から、無数に生まれた蟷螂の幼虫が、一斉に外界へと這いずりだしてきたかとでもいうように。腕の数は、今の段階で、既に二十本を超えているだろう。しかもその数はどんどんと増えてきている。浅い部分にいた者達の腕が先に突き出して、深いところにいた者達の腕が後から突き出しているのだろう。そして、先に突き出た腕は、どんどんと、体を、土墳から、排出して。それから、次々に、デニーの周りで、跪き始める。

 声なく。

 静寂のまま

 ただ、ひたすら。

 その者達は。

 忠誠を誓う。

 その時、真昼は、唐突に理解した。猫の毛繕いを見ている時に、唐突に永遠を理解するように。ようやくのこと、真昼は理解したのだ。デニーは、デニーは、治癒学者などではなかった。

 あの者は、この者は、その者は。ここにいる、王の足元に跪いている、全ての者は、間違いなく「生き物」ではない。healingを施された生者ではなく……resurrectionを施された死者。

 要するに。

 デニーは。

 死霊学者だったのだ。

 デニーの言ったこと、無条件に信じるのではなく少しは疑っていれば、すぐに気が付いていたはずのことだった。今までも、おかしいことは幾らでもあったのだから。真昼が奇妙だと思ったことは幾らでもあったのだ。それが、全て、今、この瞬間に、繋がってくる。例えば、ばらばらにされた死体を見るたびにデニーがぶつぶつ言っていた「使えないー」だとか「役に立たないー」だとかいうセリフ。あれは死体を生き返らせて、自分の兵隊として用いることができないということだったのだ。

 それに、最初に会った時、デニーが言っていたこと。デニーは確かこう言っていた、「色んな組織に怪しまれないようにアーガミパータで動き回るには」「ぜーんぶのことを一人でできなきゃいけないでしょ」。その時には、この男は何を言っているのだろう、これだけの部下を引き連れておいてと思ったものだったが。今なら分かる、その言葉の意味が理解できる。デニーは、本当に、たった一人でアーガミーパータにやってきたのだ。一人だけでこの国に入り込んで……そして、部下は現地で調達した。簡単なことだ、ここはアーガミパータで、死体など腐るほどあるのだから。ちなみにこれは「死体」と「腐る」を掛けた冗談である。

 更に、真昼はより一層忌まわしいことにも気が付いてしまう。あの石窟寺院を後にした時のことを思い出したからだ。あの時、デニーの部下には二種類の兵隊がいた。一種類目は、陸軍戦闘服を着た、明らかに軍人と思しき集団。二種類目は、白い腰布を巻き付けた、明らかにテロリストと思しき集団。石窟寺院にいた時には一種類目の兵隊しか見なかったはずなのに。それなのに、そこを出る時には、いつの間にか、二種類目の集団が加わっていた。

 あの時は、この二種類目の集団について、後から追加で雇った戦闘員なのだろうと思っていたのだが。今なら分かり過ぎるほど明白に分かる。違う、全然違う。あれは、デニーが、石窟寺院で、あの場所で、殺した、テロリスト達だったのだ。なるべく肉体を傷つけずに殺しておいて後から利用した。REV.Mのテロリスト達は、スペキエースであって、テロリストとしての訓練も受けているはずであって。兵隊として非常に有用であるがゆえに。

 この男は。

 自ら殺した者さえも。

 己の奴隷としていた。

 最後に……最後に。オカティの言っていたこと、死者に対する侮辱ということ。なぜダコイティと手を結ぶことにデニーがこれほど執着していたのかということ。なんて愚かだったのだろう。真昼は何一つ気が付いていなかった。何一つ気が付いていないままに、えへらえへらと蟻を潰して喜んでいたのだ。いや、別にえへらえへらはしてなかったし、喜んでもいなかったのが、蟻を潰していたのは確かだし、それくらい間が抜けていたということだ。客観的に見てみれば「いや……ちょっと待って……本当に馬鹿だな……普通は気が付くでしょ……もう少し生きるということについて真剣に考えた方がいいのでは……?」と少し引き気味で思ってしまいそうなほど気が付いていなかった。

 デニーは、自らの、兵隊として、ダコイティの、死骸を、求めていたのだ。それも、恐らくは、特にダイモニカスの死骸を。人間の死体なら求めるまでもなくそこら辺に落ちている。けれども、ダイモニカスの死体となれば……ここがアーガミパータであっても、それほど易く手に入るものとはいえない。だからデニーは、それが手に入りそうな場所、この森にやってきたのだ。

 ダコイティが、あれほどデニーに対して嫌悪感を抱いていた理由、ようやく理解できた。デニーは、彼ら/彼女らにこのように条件を提示したのだ。この森にある死んだ者の体を差し出せ。そうすれば、その体を、兵隊にしてやろう。もちろん口調はもっとプリティでもっとキュートであったのだが、ここでは可愛らしさはあまり関係ない。それが天下無双の可愛さであっても、だ。

 術遍く。

 何もかも、理解して。

 真昼は、声を漏らす。

 意味のない。

 掠れた、音。

 いうまでもなく、デニーが。

 そんな音、気にするわけもなく。

 口を開け、呆然としている真昼。

 その目の前で。

 民に。

 民に。

 民に。

 傅かれて。

「あははっ!」

 デニー、は。

 うっとりと。

「みーんな、ほんとーにハッピーさん達だね。」

 その言葉を。

 滴らせ、る。

「デニーちゃんとお友達になれるなんて。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る