第一部インフェルノ #21

〈俺も意見を言いたい。〉

 そう言ったのは、パンダーラから。

 同志オカティと呼ばれていた男だ。

 二本角の生えたダイモニカスで、それだけでなく、背中の全体、着ている戦闘服を貫くようにしてたくさんの花が咲いていた。まるで抱えきれないほどの花束みたいだ。その花は、全体的には真っ白な色をしているが、中心だけが橙色に染まっている。珊瑚か何かのような質感があり、恐らくはジャスミンに似た種類の花であろうと思われた。これはつまり……少なくとも一つは異相を持っているということであって、それなりに力強いダイモニカスであろうと推測できた。

 この異相と、それから。

 一人目を意味する名前。

 演壇のダイモニカスの中でも。

 かなりの古株、なのであろう。

〈たった今、この男は「正しい方法」を「他の命を奪う可能性がない方法」という定義をした。そのことについて俺は異を唱えたい。他社の命を奪う以外にも、俺達がすべきではない間違ったことはある。それは死者を汚すことだ。

〈先ほど、この男……今はデナム・フーツと名乗っている男について、私と同志レンドゥが話したことを思い出して欲しい。もしも手を組むことになった場合、この男がどうやって俺達に「手を貸す」ことになるのかということを。

〈それは、死者に対する侮辱だ。俺達と共に戦ってきた者達に対する侮辱だ。そんなことはしてはならない。そんなことは、絶対に、してはならない。俺達は、この男に、仲間の高潔な犠牲を汚されてまで、手を組むべきではない。〉

 オカティの言葉に。

 静まり返っていた。

 観客席の方向から。

 反応が返ってくる。

 概ね好意的であるようだ。最初はおずおずとした声が、段々としっかりとしたものになっていく。一部のダコイティは、手のひらを拳にして、どんっどんっと地面を叩き始めた。これはアーガミパータに住む者達にとっての拍手のようなもので、相手に肯定の意を表すとともに自分自身のことを励ますような役割も果たす。パンダーラの時よりは随分と控えめになってしまってはいたが、それでもやはり賛同と称賛と畏敬と、プラスの感情が込められた反応であることは確かだ。

 ちなみに、真昼は……オカティの言ったことに、なんとなく違和感というか、引っ掛かりというか、もっといってしまえば不吉なものを感じていた。「死者に対する侮辱」とは、一体どういうことだろう。そういえば、デニーは、パンダーラとの会話の中でも何か言っていた気がする。「人間の死体も」「ダイモニカスの死体も」「デニーちゃんならー」「それをー」「役に立つものにすることができるよ」「とーっても」「役に立つものに」。

 これは一体どういう意味なのだろうか。いや、真昼にも見当がつかないわけではない。デニーは、確か治癒学者だと言っていた。治癒学はその学の目的、「世界の誤謬を修正する」という目的から、魔学をよく知らない人間からは非常に健全な学問であると誤解されがちであるが。それでも呪系五科の一派なのであって。他の科よりは遥かにましではあるが、やはりそれなりにおどろおどろしいとしかいえないことをすることもある。

 真昼は治癒学を専門に学んだことはないので、よく知っているわけではないのだが。それでも聞いたことのある話では、ある生き物の生きた肉体を治療するために、別の生き物の死んだ肉体を使用することもあるそうだ。「生き物の死んだ肉体」ってなんか変ですね、それいったら「生き物の生きた肉体」の方が変か。それはともかくとして、そういう文脈から考えてみれば、オカティの言ったこともデニーが言っていたことも、納得できないというわけではなかった。しかし、真昼は……そういったことよりも、なんというか、さらに深いところにある何かを感じていた。歪つで、禍いで、透き通るみたいな吐き気がする、何かを。

 その不吉な感覚がなんなのかということは、まあ普通に考えれば分かることだし、読者の皆さんもとっくのトークン・ピーナッツにお気付きのことと思われますが。真昼はまあまあ馬鹿だったし、それ以上に、今は疲れ切っていた。脳髄がろくに働いていない状態だったので、まともに思考を働かせることができず。それゆえに、眼前に提示されているにも等しい事実に気が付くことができなかったのだ。その事実とはもう皆さんお分かりの通り、デニーが治癒学者などではなく死霊学者であるということなのだが……この事実はもう少し先で「驚くべき事実」として華々しく発表する予定なので、読者の皆さんはここで聞いたことをきちんと忘れて下さい。あっ、それから後々この事実が明かされた時にはきちんと驚いて下さいね。どんな低能でも気が付くようなことであったとしても「驚くべき事実」として提示されたらきちんと驚く。これは物語を読む時の礼儀です。サプライズの誕生パーティみたいなものですね。自分の誕生日覚えてないやつなんていねーよ。

 さて。

 誕生パーティは。

 置いて、おいて。

 デニーは、このオカティの言葉にどう反応したのだろうか。デニーは……ふむっという感じで、両方の手をぎゅっと握って、腰のところにぽむっと押し当てて。そうして、右足と左足とを牛の図像の上に置いたままで、オカティのことを見下ろす形、その話していることを大人しく聞いていたのだが。オカティが話し終わると、今度は観客席の方に視線を移した。

 観客席の人間達が、声を上げたり地を叩いたり、ある程度の反応を示しているのを、きょとんとした眼で眺めていて。それから、その反応が収まってくると……また、歩き始めた。歩くというか、例の階段を上っていくステップだ。今度は、ゆっくりと、足を動かす。牛の図像が少しずつ少しずつデニーの体を上の方へと運んで行く。そして、とうとう、石柱の天辺に辿り着く。

 するとデニーは、くるんと身を翻すみたいな仕草、スーツの裾をふわりとさせて、フードの形をゆらりとさせて。牛の図像から、くらくらとして、足を踏み外してしまったみたいに……とんっと、その階段から跳んだ。跳んだ先は石柱だ。石柱の天辺、滑らかに丸く、といってもその上に乗れないわけではない、その場所に、デニーは、すたり、と着地して。それから、ひどく芝居がかったやり方によって、くるっと一周あたりを見回すと……すとん、とそこに座り込んでしまった。

 普通に考えれば。

 そんなことを。

 するべきでは。

 ない。

 いや、普通に考えなくてもそんなことをするべきではない。とにかく、真昼はそんなことをするべきではないと考えたし、間違いなくその考えにはダコイティも同意するだろう。強く強く、非常に強く同意するはずだ。

 実際にダコイティは、デニーがその行為を行った瞬間に。ダイモニカス達も人間達も、パンダーラを除いて、悲鳴にも似た叫び声をあげた。あの女が真昼に対して教えた(あれを教えたというのならばの話だが)通り、この石柱は、ASKとの戦いの中で死んでいったダコイティのための慰霊碑なのであって。そういった非常に重要なものを文字通り足蹴にされて、しかもあんなどうでもいい感じでその上に座られてしまったら、それは反感を抱かない方がおかしいのだ。といっても反感の反応を見せなかったパンダーラはおかしかったわけではなく……まあデニーならそれくらいのことはするだろうなということを知っていたから、そういう反応を見せなかっただけに過ぎないのだが。

 しかし、そういったことを考えるのはデニーの仕事ではない。だからデニーはそういったことを考なかったのであって、従ってするべきではないという結論にも至らなかったのだ。論理的に明快ですね。そして、また、自分よりも下等な生命体の反感について考えることもデニーの仕事ではない。デニーの仕事は要するに一つだけであって、それは真昼をこのアーガミパータから連れ出して、ディープネットとの交渉を有利に進めるための駒とすることだけなのだ。だから、それに必要なことだけを考えて、それに必要なことだけをする。

 つまり。

 デニーは。

 また。

 口を開く。

〈みんなーっ!!〉

 その印象の発露があまりに強力だったせいで。

 ダコイティは、一斉に口を閉ざしてしまった。

 その様を満足そうに見下ろしながら。

 デニーは、言葉の続きを発し始める。

〈えーと、じゃあ今度はブーカンパムちゃんが言ったことをみんなで考えてみようね。「死者を汚す」ことはしてはいけないっていう意見だったけどお……んー、ほんとのことをゆーとねー、デニーちゃん、よく分かんないんだー。ブーカンパムちゃんの言ったこと。だってさーあ、死んでるんだからさーあ、汚すとか侮辱するとかないんじゃないかなあ? そう思わない? でも、まあ、デニーちゃんは賢いから! 頑張って、色々と、考えてみます!〉

 ちなみに、ブーカンパムはオカティの本当の名前だ。

 正式には、ブーカンパム・プーダというのであるが。

〈ブーカンパムちゃんは言ったよね? 「仲間の高潔な犠牲を汚され」るって。つ、ま、り、その「死者を汚す」っていうのは、ただ死んだだけの生き物に対してされることじゃなくって、何かの犠牲になって死んじゃった生き物に対して適用されるーっていうことだよね。それなら、その「死者を汚す」っていうのは、どっちかっていえば「死体そのものを損なう」ことっていうよりも、「犠牲に伴う価値を損なう」ことっていった方がいいんじゃないかなあ。そう考えれば! さっき、デニーちゃんが、みんなと考えたこと! 「自分の命を除いたより多くの命を救うこと、ただしその過程で極力他の命を奪ってはいけない」っていう結論とも、なんとなくぴったりしてくるもんね! だって、その「犠牲」っていうのは「より多くの命を救う」ためになされた犠牲ってことでしょー? っていうことは、その「犠牲」は、さっき「正しい手段」だーっていうことにしたその手段っていうことになるし! そうなれば、その「汚す」っていう行為の対象は、「正しい手段」の中にある正しさってっていうことになる! すごいすごいっ! これで、ブーカンパムちゃんの言ったことは、うーんと分かりやすくなったよね。

〈それでわっ! 次に考えるべきことは、デニーちゃんのすることが「死者を汚す」ことになるのかっていうことだよね。うーん、これは難しい問題だね。でも……ちょーっと考えてみて欲しいんだよねー。そもそもさーあ、死んじゃった子達がさーあ、生きてる子達に、ほんとーのほんとーにして欲しいことって、なんなんだろうっていうこと。考えてみよう! 自分が死んじゃった子達だったらーって。どう? どうかな? どう思う? た、ぶ、ん、なんだけどー。自分が、そのために死んだ目的を、達成して欲しいよーって思うんじゃないかな? よーするに、今回のケースでいうと、ASKを倒して、カーマデーヌを取り返して、それから、アヴィアダヴ・コンダに平和を……くふふっ! あっ、ごめんね。デニーちゃん、平和ーって言うと、なんか面白くなっちゃうんだよね。とにかく! アヴィアダヴ・コンダに平和を取り戻すことだよね。

〈だってそうしないと、自分達が死んだことって、ほとんど無意味なことになっちゃうもんね! 死んだ子達が死んだことを、無駄にしちゃう、しかも、本当なら無駄にしないで済んだのに……本当なら、ASKを倒せたし、カーマデーヌを取り返せたし、アヴィアダヴ・コンダを平和にできたのに! それってさ、死んだ子達からしたら……とーってもあんはっぴーなことだよね。きっとさ、自分達がそのために死んだ「正しさ」を、ぽいって捨てられちゃったような気分になっちゃうんじゃないかなあ。だって「正しい目的」を放棄されちゃったってことなんだから。じゃあさ、っていうことは……もしかして、デニーちゃんがすることよりも、そっちの方が、死んだ子達の死んだことを無駄にする方が、ずっとずーっと「死者を汚す」っていうことになるんじゃないでしょーか。

〈だってさーあ、さっき、みんなで結論したよね。「死体そのものを損なう」ことよりも、「犠牲に伴う価値を損なう」ことの方が、もっと「死者を汚す」ことになっちゃうーって。デニーちゃんがすることは、確かに「死体そのものを損なう」ことになるかもしれないよ? でもでも、「犠牲に伴う価値を損なう」ことにはならないよ! そんなことには、ぜーったいなりません! っていうかさ! むしろ、むしろ! その価値を、ぶらっしゅあっぷすることになるんです! だってだって、そうでしょー? デニーちゃんが手を貸すことで、死んじゃった子達が、死んじゃった目的を、達成することになるんだから! しかも、デニーちゃんのおかげで、強くて賢いデニーちゃんのおかげで、死んでいった子達は、もう一度、戦いに加わることができるんだよ。ねえ、みんな、考えてみて。もしも自分達が死んじゃった子達だったらって。それって、もう一度目的のために何かできるのって、とーっても嬉しいことなんじゃないかな?

〈おん、じ、あざー、はーんど。もしもデニーちゃんが手を貸さなかったら……死んじゃった子達は死んじゃったままです。何もできないで腐っていくままです。んー、まあ……もう全部腐っちゃって、それ以上腐るところがないって子もいるかもしれないけどね。それはいいとして、自分達はもう何もできないーってゆーだけじゃなくて、しかもその上、自分達がそのために死んだところの目的も達成されないんだよっ! みんなだったらどおお? そんなこと耐えられるかな? 自分達の死が「汚」されて、みんなは耐えられるかな? デニーちゃんだったら耐えられない! 自分が死んじゃったのが、ぜーんぜん無意味になるなんて! とーっても耐えられないよ! ASKも倒せず、カーマデーヌも取り返せず、アヴィアダヴ・コンダは……全部、全部、ASKの採掘場になっちゃう。そんなの、絶対に、嫌だと思うなあ。

〈と、ゆーことで! みんな、これで分かったよね。ほんとーに「死者を汚す」っていうことが、どういうことなのかっていうことが。それは、デニーちゃんとお友達になるっていうことじゃなくって、そうじゃなくって、デニーちゃんとお友達にならないで、このままASKにされるがままになるっていうこと。みんな! 死んじゃった子達のためにも、デニーちゃんとお友達になって……ASKを倒そう! ASKを倒そう! ASKを倒そう!〉

 饒舌は偽りであるというが。

 恐らくその通りなのだろう。

 こんなこと説明されなくても分かると思うのだが、この世の中にはとんでもない馬鹿というものがいるもので、そう、それはサテライトのことだ、というわけで念のために説明しておくと、今行われたデニーの演説は二つのパートから成り立っている。「ASKを倒そう! ASKを倒そう! ASKを倒そう!」の部分が一つのパートで、それ以外の部分がもう一つのパートということだ。

 まず「ASKを倒そう!」の部分は、人間達に向かって主張されたパートである。主張というかほとんどただ叫んだだけに近い行為ではあったが、これは大変効果がある叫び声だったようだ。そもそも人間というものは驚くほど下等な生き物なので、それがいくら論理的な主張であっても、その主張が長くなれば長くなるほど退屈を覚え、説得されなくなってしまうという性質を持っている。これはちょっと信じられないほど愚かな性質であって、普通に考えれば論理的な文章であればあるほど長くなるのは理の必然、もっと端的に分かりやすく説明しろというのは自分の耐久力のなさと理解力のなさを「端的に分かりやすく」表現しているに過ぎないのだ。こんな性質があるからこそ人間というのはいつまでたっても泥土や塵芥と変わらないような生活しかできないのであるが、それはまあ置いておこう。

 とにかく、どうにかして人間を煽動したいと思った時には、どんなに論理的に説明しても無駄だということだ。それがどれほど理も筋も通っていない支離滅裂な主張であっても、できればワンフレーズ、最低でもツーフレーズ以下で、しかもはっきりとした断言調の主張によって主張されなければならない。人間にとっての「分かりやすい」というのは「理解しやすい」という意味ではなく、「分かった気持ちにさせてくれる」ということなのだ。だから「理解させよう」と思う必要はない。はっきりと言い切れば、向こうは勝手に「ああ、そうなのか!」と分かった気になってくれるものなのだから。そして、その主張を主張をする時には、いかにも自信満々で、できるだけ大きな声で叫ぶことだ。人間というのは理性で説得されるのではなく本能で説得される。自信満々な生き物を本能的にリーダーだと思う性質があり、大きな声に本能的に委縮させられるという性質がある以上、そうするべきことは、まあ当たり前といってもいいことであるのだが。

 ということで。

 このセオリー。

 忠実に守って。

 デニーは。

 そう叫んだということだ。

 そして、これまたそのセオリーの通りに。人間達は、デニーの煽動に対して、少しばかりの興奮の状態を示して見せたのだ。もちろん、いうまでもなく、全面的に降伏したというわけではない。慰霊碑の上に座って、こちらのことを見下ろして、馬鹿にしたようにけらけらと笑いながら話すような誰かに対して、そんなことをするはずがないだろう。しかし、それでも……デニーが話し終わった後に。罵声や怒声を飛ばすものは、一人もいなかったということだ。それは、ちょっとくらいブーイングのようなものはあったかもしれない。それでも、そういったブーイングはいかにも弱々しく、自信がないものになっていた。

 それどころか、例の「ASKを倒そう!」のくだりになった時に。ほとんど脊髄の反応として、どんどんと拳によって大地を叩いてしまったものまでいたほどだ。いうまでもなく、そうして叩いた次の瞬間にははっとした顔をして。そんなことをしてしまった自分のことを恥ずかしく思ったらしく、随分と赤面して、辺りの人々の顔をきょろきょろと伺ったものだったが。とはいえ、そうして見回した人々の顔には……その叩いた人間を責めるような顔をしていた人間は、一人もいなかったのだ。

 ところ、で。

 それならば。

 デニーは、なぜ最初からそのアギタティオを行わなかったのか? なぜあんなにも長々しく見せかけの論理を積み重ね、偽りの正当性を演出したのか? つまり、もう一つのパート、「ASKを倒そう!」以外の部分は本当に必要があったのか?

 それは、まあ、いくら下等生命体たる人間であっても、多少は説得しておかなければ煽動され得ないという理由もあるだろう。サテライトレベルのミラクル低能ならともかくとして、人間にも知性と似た機能が備わっていないわけではない。ということで、ある程度の正当性もなくただ悪戯に叫んだだけでは、さすがに心動かされることはないのだ。

 しかし、とはいっても。それはあくまでも下拵え程度の話であって、先ほどのデニーの演説ほど「正当」なものである必要はないはずだ。事実、デニーが「ASKを倒そう!」以外の部分について話していた時に。大半の人間達はひどく退屈そうというか、苛々した表情をしていたのだし、何人かは居眠りまでも始めていたくらいだった。これでは説得するどころか逆効果になってしまってもおかしくなかったのであり、ということは……その演説は、人間達に向けられたものではなかったということだ。

 それでは、その演説は。

 誰に向けられたものか。

 簡単なことだ。

 人間以外の生き物。

 つまりは、ダイモニカス。

 ダイモニカスは馬鹿ではない。少なくとも、人間ほどには。だから、安易な煽動にほいほいと乗るような生き物ではない。けれども、一方で……その生半可な賢さゆえに、それがいくら長々しい理論であったとしても、そこにある程度の適切さ・正当さが見られるのであれば、その適切さ・正当さを認めてしまうということなのだ。ダイモニカスはそれを理解することを求める、分かった気持ちになるのではなく。

 そして、デニーは、よく知っていたのだ。このダコイティという組織がいかにヴァルナ、つまりは階級制度によって支配されているのかということを。ぱっと見ただけでは、確かにある程度の民主制は担保されているように見える。例えばこの集会だ、重要な決定を必ず全構成員に対する公開のもとに行うという制度。とはいえ、それはあくまでもヴァルナという前提があっての民主制に過ぎない。要するに、何がいいたいのかというと。ダコイティという組織において、ダイモニカスは、人間よりも上の立場に置かれているということだ。

 これはよく考えてみれば当然のことだ。彼ら/彼女らは一定の脅威のもとに置かれている。そういった環境下では、例えば構成員同士の意見の相違によって僅かな判断の停滞があっただけで、即座に組織全体の危機に繋がりかねない。ということは、どうしてもある程度の強権性が必須になってくるということだ。民主的な側面は、あくまでもダコイティという集団が元はといえば地域共同体に根差したものであることから発生した側面であって。ダコイティの本質、「抵抗する者たちの集団」という性質から発生したものではないのだ。

 ということは、デニーが、説得すべきは。

 馬鹿な人間などではなく、ダイモニカス。

 民主的な側面もあるということから、人間達からも一定の支持を受けておいて損はない。だがそれはついでだ。デニーが、演説の本当の向け先としていたのは、ダイモニカスなのだ。本当の決定権がある者達、この集会において票を投ずる権利がある者達。それは、演壇にいる十一人のダイモニカスであって……ただ、デニーが相手にしていたのはそのうちの十人であったが。

 パンダーラのことは初めから相手にしていない。説得できるとは思っていなかったし、それにパンダーラは集会の長としての権限しか持っていないからだ。意見が真っ二つに割れた時の決定権はあっても、それ以上の何かを強制する権利はない。ということは、集会の人数が十一人という現在の状況下では、他のダイモニカス達と何の違いもないということだ。

 それでは。

 その、ダイモニカス達。

 デニーの演説に対して。

 どう反応したのか?

 概ね、好評といったところか。好評といっても、もちろん拍手喝采で迎えられたわけではない。それどころか、その反応は重々しい沈黙であった。だが、重々しく沈黙したということは、それだけで既に、ダイモニカス達がデニーに……説得されかけているということの証明なのだ。その意見を馬鹿馬鹿しいとして一蹴することができなかった。それはデニーにとっての勝利であり、ダイモニカス達にとっての敗北である。

 これが普通の状況であれば、まったくニュートラルの状態でデニーの演説を聞いていたのなら。こんな反応にはならなかっただろう、ダイモニカスは、一応は、人間よりも高等な生命体なのだから。だが、今は、事情がある。

 要するに、ダイモニカス達は、デニーの提案を受け入れたいのだ。ダイモニカスはその賢さゆえに完全に理解している。自分達が滅びるであろうであろうことを。このままではASKに絶滅させられるであろうことを。彼我の実力の差は明白であった、ダイモニカスは人間とは違う、明白な事実から目を背けることはしない。ということで、普通だったら、どうしようもなく、ただクソの役にも立たない誇りだけを抱えて、ASKに皆殺しにされるしかないのだ……だが、そこで、デニーが現れた。

 デニーならばこの状況をなんとかできる可能性がある。オカティは知っていた、レンドゥは知っていた、デニーが、一体、どんな化け物なのかということを。確かに、あの当時とは少し様子が違う。あの当時よりも、「力」を制限されている。それでも、デニーがいれば、ASKに対抗できる可能性がある。何よりも、あのパンダーラが言っていたではないか。この男の力を借りればまず間違いなくアヴマンダラ製錬所を落とせる。それどころかミセス・フィストを倒すことも可能だ、と。

 だから、本当は、デニーと手を結びたいのだ。デニーの言葉を借りるならば、「お友達」になりたいのだ。ということで、デニーが適当な「言い訳」さえ用意するれば。ダイモニカス達は、容易にその「言い訳」に飛びつく……はずであった。

 けれでも、「言い訳」が用意された今でも、ダイモニカス達は躊躇っていた。なぜかといえば、一つはオカティとレンドゥが話した話だ。デニーがこのアヴィアダヴ・コンダで何をしたのかということ。その悪辣さを知っているということ。

 しかし。

 それ以上に。

 大きい理由。

 デニーという。

 この男の全身。

 存在と概念との、根底から。

 どろどろと流れ出している。

 禍々しいほどに甘ったるく。

 忌まわしいほど透き通った。

 絶対的な。

 邪悪の感覚。

 さて、デニーがその演説を終えてから。何となく居心地の悪い沈黙、後ろを振り返ったらそこに誰かが立っていそうな、にやにやとした笑いを口元に浮かべながら立っていそうな、そんな沈黙が、広場の全体に降りたままであったのだが。やがて、その沈黙を殊更に破るようにして、チェヴィが声を上げた。

〈お前の言いたいことは分かった。〉

〈ほんとー? デニーちゃん嬉しい!〉

〈だが、お前が裏切らないという保証はどこにある。〉

 チェヴィは敵意を剥き出しにしたままその大きな目でデニーのことを睨みつけた。これはダイモニカスにあるまじき、とても愚かな行為だった。こういう行動を軽々にするのは、自分がまだ若く、弱い生き物であるということを証明することだからだ。なぜなら、チェヴィの二つの目の中には――その敵意の中心には――自分がこの男に説得されることへの恐れが見えたから。

 デニーは。

 集会を見下ろすように。

 石柱の上に座ったまま。

 可愛らしく笑って。

 チェヴィに、言う。

〈ほえほえ?〉

〈お前が、ASKに、寝返らないという、保証は、どこにある。〉

 一言一言を区切って。

 更に、その一言一言の内側へと。

 埋火のように怒りを込めながら。

 チェヴィはそう言った。

〈お前は……お前の中には、何もない。お前はどこまでもどこまでも空っぽな生き物だ。それに従うべき法も、それに殉じるべき理も、お前は有していない。そんな生き物をどうやって信じることができるというんだ? さっき同志パンダーラが言った通りだ。お前のことなんて、信頼できるはずがないだろう。

〈あたし達がお前と手を組んだとしよう、そしてASKを追い詰めることができたとしよう。もしもASKに止めを刺すぎりぎりの瞬間に……ASKが、お前に有利な条件を提示したらどうなるんだ? 例えば、無条件にお前に降伏して、その真昼という人間を諦め、更にテレポート装置を貸すという提案をしたら? お前は容易く裏切るんじゃないか? お前はASKの側に付き、あたし達の敵に回るんじゃないか?

〈それに、そもそも、今のお前がASKの手先なんじゃないか? お前はこの森までASKのシャトルシップで来たと言うが、それはいかにも怪しい話だな。そのシャトルシップはASKから奪ってきたものではなく、ASKがお前に提供したものなんじゃないか? お前の役目はあたし達を煽動することで、お前に言われたままASKに攻め込んだら、待ち受けていたASKに皆殺しにされるんじゃないか? どうだ、違うか?〉

 チェヴィは、そう言い終わると。

 もう一度、弓矢で射るみたいに。

 デニーに敵意を向けたのだった。

 この主張に対してデニーは、その印象を発しかけたのだが……しかし、その前に。口を挟んだ、というかテレパシーを挟んだ者がいた。それは、パンダーラだった。チェヴィの言葉に同意して、その言葉を補強するようなことを言うのだろうと、当然のように真昼はそう思い込んだのだったが……パンダーラの言葉は、その予想とは少しばかり違っていた。

〈「今」のこの男は。〉

 パンダーラはそう言うと。

 ちらとデニーを見上げて。

〈ASKの手先ではない。〉

 そのように続けたのだ。

 そして、更に、続ける。

〈もしもこの男がASKの手先であったならば、今頃、私達は皆死んでいただろう。森は焼き尽くされて、その後に残っているのは灰と骨だけになっていたはずだ。この男がASKの手先であったならば……私達に手を貸すなどという、下手な小芝居を打つ必要などない。ここにやってきたら、すぐに「兵隊」を整えて、森中に魔力の火を放ち、この男の大好きな虐殺をすれば済む話だからだ。この森の全てを秤にかけたとしても、この男に適うわけもない。そして、そのことを、この男は十分に知っている。〉

 パンダーラは。

 ただ、淡々と。

 事実だけを述べている、とでもいうように。そして実際に、パンダーラの口にしたことの全ては事実だったのだろう。もしそうでないのならば……これほどの説得力は、持たなかったであろうから。チェヴィは、パンダーラの言葉に。まるで母親からお化けの話を聞かされた子供のように押し黙ることしかできなかった。どうやら、「今」のデニーがASKの手先ではないということは、完璧に理解できたようだ。

 そんなチェヴィに。

 視線を向けながら。

 パンダーラは。

 また言葉する。

〈しかし。〉

 怯え過ぎた子供を。

 更に脅かすように。

〈確かに、「これから」のこの男が裏切らないとは言えない。〉

 あるいは。

 ただ。

 淡々と。

 事実を。

〈いや……確実に、裏切る。〉

 一方で、そう言われたデニーの方は。両手のひらを石柱の天辺についたままで、ちゅーっとキスでもねだっているかのようにして唇を尖らせて。右に、左に、右に、左に、という感じ、一定の間隔で時間を置きながら、左右の方向に繰り返し首を傾げさせていたのだけれど。暫くすると、尖らせていた唇、あーっと開いて……大きな大きなあくびの仕草をした。それから、そのあくびが終わって、ふにゃふにゃとでもいう感じ、口を開いたり閉じたりしていたのだけれど。やがて、随分と間延びした〈あのさーあ〉という言葉を発した。

〈ちょーっと考えてみれば分かると思うんだけどお。さっきチェヴィちゃんが言ったことってえ、有り得ないよねえ。なんだっけ? えーと、ASKを倒す直前に、ASKが、真昼ちゃんのことを諦めるし、テレポート装置を貸すから、ダコイティの子達を裏切ってASKの側についてーって言ったら、デニーちゃんが裏切るかもしれないって話? んーもうっ! そんなことあるわけないじゃん! デニーちゃんはー、そこまでお馬鹿さんじゃないよー? だってだって、ASKがそんな有利な条件をこっちに提示するってことはさ? よーっぽど追い詰められてるってことでしょ? たぶんこんな感じだよ。アヴマンダラ製錬所のほとんどの部分は制圧されてて、あとはミセス・フィストを倒すだけ。しかもそのミセス・フィストも、デニーちゃんの手の中に拳銃があって、デニーちゃんの指は引き金にかけられて、それであとはその引き金を引けばぜーんぶおしまいっていう状況。

〈そんな状況で、なんでASKの側に付かなきゃいけないの? どういう理由があればASKの側に付こうと思うの? だって、ASKが提示した条件って、ASKの側に付かなくても、その引き金を引けばぜーんぶ手に入るんだよ? 一方でっ! もしもASKの側に付くことになったら、そこからまたすっごいすっごい大変な思いをしなきゃいけないわけじゃないですかーあ。だってそうでしょーお? ASKの側に付いたら、今度はダコイティの子達を相手にしなきゃいけないってことで、しかも味方はぜーんぜんいないんだから! ASKは全滅寸前で、その一方でダコイティの子達は……まあ、元気いっぱいってわけにはいかないだろうけど、それなりにたくさんいますよーって感じで。どーお考えても、引き金を引くだけっていう方が楽だよね。デニーちゃんだったら、ぜーったいそっちを選ぶよ。

〈も、し、か、し、た、ら、チェヴィちゃんが提示した条件以上の条件を提示してくるかもしれないよお。でもさ、それだって、なんでもあげるーっていうことにはならないよお。ASKだって企業なんだし、企業は利益を生み出さないようなさむしんぐはしないよね。ってことは、ASK側が提示するかもーっていう条件は、その条件を出さなかった時にこうむるであろう損失を超えることはあり得ないってことで。と、なると! ASKが提示する条件は、アヴマンダラ製錬所一個分を超えることはあり得ないわけだよ。なぜなら! ASKがこうむるであろう損失って、要するにアヴマンダラ製錬所の壊滅ってことなんだから。しかもしかも、アヴマンダラ製錬所を全部くれるわけないし、貰えるものっていうとその一部、しかも大して役に立ちそうにないデータだとか部品だとか、それくらいじゃないですかー。となると、それって、条件として、デニーちゃんには、まーったく魅力的じゃないってことにならない? なるよね? なるよね? なるんだなあ。

〈だってだって、もしもASKがダコイティによって追い出されたら、あの製錬所はダコイティの子達のものになるんだから! ダコイティの子達はあの製錬所になーんの興味もないでしょ? データにも、部品にも、なーんの興味もないよね。アヴィアダヴ・コンダであの製錬所が稼働してなければ、アヴィアダヴ・コンダをこれ以上荒らさなければ、それでいいってことでしょ? そうだとすればーあ、ASKが条件で提示する程度の部品だとか、データだとか、それくらいは、ダコイティの子達だって、デニーちゃんにくれるってことになるよね。だっていらないんだから、それくらいはくれるでしょ? ま、デニーちゃん、別に何もいらないんだけどね。あそこにあるくらいのものは、だーいたい持ってるし……それ以上に、アーガミパータではあんまり荷物を増やしたくないからね。んー、まー、そういうこと。

〈と、いうことで! デニーちゃんが裏切るなんていうことは、論理的に考えてあり得ないっていうわけでーす。さっきからさあ、チェヴィちゃんは考えすぎなんだよお。それにパンダーラちゃんもねっ! デニーちゃんは、ただただ、ほんとーに、みんなとお友達になりたいだけっ! それで、ASKを倒したいだけっ! 以上、デニーちゃんの主張でしたっ!〉

 確かに、理も筋も通っている主張だったといっても過言ではないだろう。けれども、少なくとも……真昼は、その主張に説得されることはなかった。それは、デニーが邪悪だとか、饒舌は嘘だとか、そういう次元の問題ではなかった。もっと具体的でもっと個別的な……悪寒のようなものだ。それは、今、デニーが、嘘をついているという感覚。いや、嘘はついていないだろう、嘘はついていないのだが、何かを隠している。デニーは、ダコイティにとって非常に不利な事実を知っていて、それを隠している。そういった、予感めいた感覚だ。

 そして、どうやらパンダーラも。

 その感覚を、感じているらしい。

 きっとこの感覚は、生存という位相において、デニーとともに非常に稠密な時間を過ごしたものにしか理解できない感覚なのであろう。パンダーラは、デニーとともにそういう時間を過ごしたことのある生き物だった。恐らくは、そういった生き物は、この広場の中で、たった二人だけ。オカティとレンドゥとは……なるほど、デニーのことは知っているかもしれない。とはいえ、真昼やパンダーラほどにはデニーとともに生きたことはないようだ。

 とにかく、パンダーラはデニーが何か隠しているということを知っていた。それも今日、この森にデニーがやってきた時。ひどく長い、長過ぎた時を経て、再びその顔を見たその時……既に、そのことを完全に理解していた。だからこそ今、パンダーラは。主張を終えて、満足そうな子猫みたいな顔をして、にーっと笑っているデニー。こちらを見下ろして笑っているデニーのことを、何もかも諦め切ったような冷たい視線で睨みながら……こう言う。

〈それでも。〉

〈ふあ?〉

〈それでも、お前は裏切るだろう。〉

 デニーはその言葉に少し考えるような素振りをして。

 それから、可愛らしいウィンクとともにこう答える。

〈んー、かもねっ!〉

 そう。

 パンダーラは。

 諦めて、いた。

 勝ち負けなんて最初から決まっていた、デニーの勝ちだ。あの男は、パンダーラなどが抗える相手ではない。しかし、それでも、パンダーラは抗わなければならなかった。結果などはさして問題ではない、その過程こそが、最も重要なことなのだから。だから、パンダーラは、最後の最後までこの男に対する抵抗をやめないつもりだった。

 しかし、その一方で。デニーはそれほど悲観的……というか、悲観的というのはパンダーラからしてみればということで、デニーからすれば楽観的な見解を持っているわけではなかった。いや、自分の勝ちについてはデニーも確信していたのだが、ただ、今のこの状態では十分ではないということを理解していたのだ。演壇上のダイモニカス達も、観客席の人間達も、まだ踏み留まっている。崖の上、崩れかけた岩に掛けた指は人差し指と中指と親指だけ。そんな状態ではあったとしても、まだ崖下に落ちてはいないのだ。そして、デニーは十分に知っている、もしも誰かを崖下に落とすことが目的であるならば。その誰かを崖下に落とさない限りは、決して、決して、勝利ではないということを。

 当然のことながら。

 デニーは。

 親指と。

 中指と。

 それに、人差し指。

 なぜ、まだ、岩を掴んでいるのか。

 その理由も、分かっていた。

 大変愚かで、間が抜けているといってもいいような理由であるが……なんというか、デニーが、彼ら/彼女らよりも、高い場所にいるということだ。デニーが石柱の上にいるという物理的な高低の差、というよりも。もっと抽象的な立場の話、デニーが彼ら/彼女らよりも有利な立場に立って交渉を進めているという、そういった事実についての話だ。

 こういった特徴はダイモニカスよりも人間について当て嵌まることなのであるが、ただしチェヴィのような未熟なダイモニカスにもそういった傾向がないわけではない。つまり感情を上手く制御出来ない生き物全般の特徴といってもいいのだろうが……それは、自分よりも有利な立場にいる生き物に対して本能的な反感を抱くという特徴である。

 要するにデニーが弱みを一つも見せていないのが問題なのだ。まあ、確かにデニーは条件を提示している。だがその条件をダコイティが飲まなかったからといって、デニーが困るだろうか? それは、少しくらいは困るだろうが、それほど大きな問題が起こるわけではない。ダコイティが手を貸さなかったからといって、即座にデニーが殺され、真昼が奪われてしまうとか、そういったことが起こるわけではないのだ。反対に、ダコイティの、側は? デニーが手を貸さなかったら一体どうなる? そのことについてはデニーが先ほど詳しく説明したのでここで触れることはしないが。一言でいうならば「虐殺」ということだ。

 これではあまりに不均衡である。デニーの側が有利というよりもダコイティの側が不利すぎるのだ。そして、制御されていない未熟な感情というものは、こういった不利な関係性に何かと反感を抱きがちなのである。例えデニーが、これは関係性において不利であっても実際にダコイティの側に不利があるわけではない、デニーが裏切ることは有り得ないのだし、ダコイティに手を貸す以上はデニーだって全力を尽くさないわけがないのだから、これは見せ掛けの不利に過ぎないのだ、ということをどんなに説得しようとも。これは理性ではなく感情の問題なのだ。いくら論理において正当性があっても、何の意味もないことなのだ。

 解決策は、一つしかない。

 それは弱みを見せること。

 デニーとダコイティとの間。

 不均衡をなくすということ。

 もちろん、それは。

 見せ掛けの上だけで構わない。

 そういったことをデニーは理解していた。完全に理解していた。全ては織り込み済みのことなのだ、なぜならデニーちゃんはとっても賢いのだから。だから、デニーは……石柱の天辺、寄り掛かっていた両方の手のひらでぽんっと叩くみたいにして、自分の体をぴょこんっと飛び上がらせると。そのまま、自分を投げ出すみたいにして、石柱から飛び降りた。

 くるくると回転する体。緩やかな直線を描いて落下していって……すたりっと着地する。美しい着地だ、それに少しばかりのお茶目もあって。きちんと揃えられた両足、ばーんっという感じで真横に広げられた両手。真っすぐに見据えられた視線は……目の前にいるパンダーラのことを見ている、悪戯っぽい光を湛えたままで。これが何かの競技会であれば、間違いなく最高得点を叩き出したことだろう。

 これで、少なくとも。

 物理的な高低の差は。

 なくなったということだ。

 更に、デニーは、伸ばしていた右手の先、中指と親指でぱちんっと指を弾いた。すると、未だに石柱の上の辺り、いきなりいなくなったデニーのことを探しているかのようにしてふわふわと浮かんでいた、あの牛の図像達が。その音に反応して、すいっと宙を泳ぎ始めた。その向かった先はデニーの方ではない。牛の図像達がもともといたところ。演壇を囲っているアウラの方向だった。牛の図像達はそのままアウラの上、自分達が描かれた板場所にぴったりと当て嵌まって。そして、また、その場所で、何度も何度も繰り返し同じ動作を演じ始めた。

 さて。

 全てが。

 元通り。

 つまるところ。

 憐れみを乞うには。

 最適の状況である。

 デニーは、暫くの間、パンダーラのことを見つめていた。あの目で、可愛らしく、無邪気で、汚れ一つない、あの目で。だが、暫くすると、不意に飽きてしまったとでもいうように、唐突にその視線を離した。それから、右足を支点にして、おもちゃの兵隊が回れ右をするみたいな仕草によって回れ右をすると……その先にあった石柱と向き合ったのだ。

 そうして。

 明らかに芝居じみた。

 大袈裟過ぎる調子で。

〈こーんなに、いっしょーけんめい頼んでるのに!〉

 とても、とても。

 悲しげに、言う。

〈みんな、まだデニーちゃんのこと信じてくれてないみたいだね。〉

 ちなみに人間時代に入った頃から急速に「一所懸命」という言葉が広がり始めて「一生懸命」という言葉が間違いであるかのようにいわれてきているが、これは逆であって正しいのは「一生懸命」である。「一所懸命」という言葉は第二次神人間大戦の頃、どうやら月光国正教会辺りで使われ始めた言葉らしいが、もともとあった「一生懸命」という言葉をいい換えたのか、はたまた単純にいい間違えたのか。神々との戦いにおいて、人間が神々から奪った「一所」を「懸命」に守るという意味合いらしいのだが、とにかく最初にあった言葉は「一生懸命」なのだ。というわけで、先ほどのデニーのセリフを読んで「あっ、間違った言葉を使ってる」と思ったやつは、間違っているのはデニーではなくお前なのである。デニーはお前なんかよりも遥かに賢いのであり、存在価値などほとんどないお前は(お前が死んで世界の大勢に影響があるか?)もっと生きることの全てに謙虚になるべきなのだ。お前だよお前、お前のことをいってるんだぞサテライト。

 いや。

 サテライトは。

 どうでもいい。

 のだ。

 さて、デニーは。先ほどのセリフの後で〈デニーちゃん、とーっても悲しーい!〉とかなんとか言いながら、とんっという感じ、まるでステップでも踏むみたいな、うきうきした調子で、その場所から一歩を踏み出した。その一歩は真っ直ぐ前に向かって、つまり石柱に向かって踏み出された一歩ではなく……自分の左側に向かって。そのまま浮かれたステップを踏みながら、デニーは、石柱を、右回りに回り始める。

〈みんな、みんな、デニーちゃんの言うことを信じてくれてなくって。みんな、みんな、デニーちゃんのお友達になりたくないって思ってるんだね。デニーちゃんは、とっても、とーっても、悲しいよ。でも……もしかしたら、それも当然のことなのかもしれないね。だってー、デニーちゃんは、こーんなに強くて、こーんなに賢いのに。みんなみたいに弱くて愚かな子達に頼ろうとするなんて。ぜーったいおかしい、ぜーったいなんかあるって思っても、それはしょうがないことだよね。

〈だからっ! デニーちゃんはね、ほんとーは、言わないでおこうと思ってたことを、言おうと思うんだ。これは、デニーちゃんにとっては……うぃーくぽいんとになっちゃうことだから。あんまりね、みんなに、教えたくないの。でも、仕方がないよね。こうしないと、みんな、信じてくれないんだもん。〉

 デニーは。

 石柱の周囲をくるくると回りながら。

 あちらへこちらへと、視線を動かす。

 背中の後ろ、腰の辺りで、きゅーっと手を組んで。まるで目の先の蝶々でも追っているかのように、デニーの目は様々な場所に向けられる。演壇上のダイモニカス達、それに観客席の人間達にさえ向けられる。そして、ほんの一瞬だけ……その二つの目、可愛らしく禍々しい目は、真昼の上に注がれた。その瞬間、ほんの一瞬だけ、デニーの目は、フードの奥から、しゃらんとでも音を立てるかのように、歪んだ光を放って……それから、その視線はまた別のところを泳ぎ始める。

〈実はね。〉

 とっておきの秘密。

 話すみたいにして。

〈デニーちゃんは、ASKに、人質を取られてるの。〉

 デニー、は。

 そう言った。

〈人質?〉

 パンダーラが少しばかり警戒するような口調でそう言った。そんな話、全く聞いていなかったからだ。今までのデニーの話は、予め聞いていたか、あるいは聞いた話から推測がつく話だった。だから、どうすればその話が与える印象を削ぎ落すことができるか、どうすればこの集会がデニーの好きに操作されることを防げるのか、大体の対策を考えておくことができたのだ。その対策がパーフェクトに功を奏したのかと聞かれれば、まあそれは否定せざるを得ないのだが。ただ少なくとも、この集会に対して、デニーの提案を疑わせ続けることには成功している。

 しかし。

 今から話される話は。

 全く別の問題になる。

〈そう、人質。〉

 デニーは、勝ち誇った顔をしてそう答える。

 全てはデニーの計算通りに進んでいるのだ。

〈その子はね、アーガミパータの子で、ヨガシュ族の子なの。たぶんカタヴリル地方の子なんじゃないかな、カタヴリル語を話してたから。十歳にもなってないくらいの、小さな小さな女の子だよ。名前はマラーっていうの。ここにいる子達の中にも分かる子がいると思うけど、カタヴリル語でお花っていう意味だよね。マラー、マラー、マラーちゃん、とっても素敵なお名前!

〈その子と会ったのはね、ここからずーっと向こうにある国内避難民キャンプでのことなの。ほんとーは、デニーちゃんと真昼ちゃんはね、そのキャンプから出る飛行機に乗って、アーガミパータを脱出するつもりだったんだよ。国内避難民とか、キャンプの職員とか、そーいう人達に紛れてね。でも、そのキャンプは……テロリストに襲われちゃってたの。どうして襲われたのかーとか、そういう詳しいことは長くなっちゃうから言わないけどね。とにかく、キャンプはテロリストに襲われてて。建物はめちゃくちゃに壊されちゃってたし、それにそこにいた人達も、みんなみんな殺されちゃってたの。その……マラーっていう子以外はね。

〈その子は、大きな椅子の下に隠れてて、だからテロリストに見つからなかったみたい。とってもとってもらっきー!だったんだね。それで、デニーちゃんと真昼ちゃんが来るまでずーっと隠れてたみたいなんだけど。その子のことを真昼ちゃんが見つけたの。真昼ちゃんはね、デニーちゃんとはちょーっと違う子で、どっちかっていうとここにいる子達に近い子なんだけど。な、な、なんと! そのことのことを、連れて行こうって言ったの。ここに残しておけば、テロリストに殺されちゃうかもしれないから、それくらいならデニーちゃん達が連れて行こうって。

〈信じられない!って感じだよね? だってさ、ここってさ、アーガミパータだよ? お荷物は少ない方がいいに決まってるじゃないですか! それなのに、そんなお荷物に、さぴえんすを一人を増やすなんて。とーぜん、デニーちゃんはそんなことダメ!って言ったんだけどさーあ。真昼ちゃんはぜーんぜんデニーちゃんの言うこと聞いてくれなくって、デニーちゃんとしても仕方なく連れていくことにしたの。ぜったいぜったいぜーったい、後で後悔することになるぞって分かってたんだけどね。

〈それで、物事はその通りになりましたーってわけ! その子のこと、アヴマンダラ製錬所までは連れて行ったんだけど……そこでASKとばちばちーってした時にね、デニーちゃん、そのマラーちゃんって子のことまで助けられなかったの。真昼ちゃんのことを助けて、そこから脱出するのでせーいっぱいって感じでね。だから、マラーちゃんは、今もアヴマンダラ製錬所に取り残されたままなの。ASKに捕まったまーんま。

〈デニーちゃん的には……っていうかさーあ、普通はさーあ、こういう場合って、その子のこと、助けに行こうとは思わないよね? だって、助けに行こうとすればこっちまでASKに捕まっちゃうかもしれないもん! そんな子のことまで考えてられないよ、そんなに大切!ってわけでもないし。でもでも……真昼ちゃんは違ったの。普通の子じゃなかったの。つまり、デニーちゃんに、その子のことを助けに行こうって言ったの。

〈もちろんね、デニーちゃんも何とか説得しようとしたんだけど。真昼ちゃんってすごく意地っ張りな子で、もしもデニーちゃんがそうしないなら、自分だけでもそうするって言い出して。自分だけでもアヴマンダラ製錬所に行くっていう意味だよ、そんなのとってもスーサイド! そんなことしたって、真昼ちゃんが捕まるだけじゃないですかー! デニーちゃんとしては、デニーちゃんのお仕事が真昼ちゃんのことをアーガミパータから助け出すことである以上は、そんなことをさせられるわけもなく。そんなこんなで、ASKに捕まってるそのマラーちゃんって子のことを助け出さなきゃいけなくなったってわけでーす。

〈デニーちゃんが人質を取られてるっていうのはね、よーするに、そういうことなの。どっちかってゆーと、ASKにマラーちゃんのことを人質に取られてる真昼ちゃん、そして、真昼ちゃんに真昼ちゃんのことを人質に取られてるデニーちゃんって感じかな。とにかく! どっちにしてもデニーちゃんは、ASKに捕まってるそのマラーちゃんっていう子のことを助けに行かなきゃいけないの。ヨガシュ族の、小さな女の子。すっごくすっごく愚かで……すっごくすっごく弱い子。ASKに、抵抗なんてできるはずがないよ。されるがまーんま、ばらばらにされちゃう。ばらばらにされて、血も、肉も、骨も、内臓も、ぜーんぶ残らず売り払われちゃう。今は、たぶん、デニーちゃん達が取り戻しに来るかもしれないーって思ってると思うし、ゆーずふるでゆーてぃりてぃだから、ASKも殺してないと思うけどね。でも、早く、早く、助けに行かないと、きっと、そうなっちゃう。

〈だからさーあ。〉

 デニーは確信していた。

 己が、勝利することを。

 いつだってそうなのだ。

 退屈なほど。

 絶対の精度。

〈みんな、お願い。〉

 デニー、は。

 必ず、必ず。

〈その子の命を救うために。〉

 勝利。

 する。

〈デニーちゃんと、お友達になって。〉

 そして、その確定した真実を、パンダーラも知っていた。ずっとずっと知っていたのだ。デニーは勝利する。相手が、どんな相手であっても。この男が敗北したのは、長い長い生命の過程において、たった一度だけなのだから……その話はまた別の話だ。とにかく、パンダーラには分かっていた、今日、この男に会った時から。それどころか、この男の物であるあの指輪を見た時から。自分に、ダコイティに、アヴィアダヴ・コンダに、逃れようのない破滅が訪れたということを。

 しかし、とはいえ……その破滅が、どうやって訪れるのかということまでは分かっていなかった。まさかデニーがこんな手を使ってくるとは思ってもみなかったのだ。残酷そのもののような、善意の欠片もない、この男が。これほどまで直接的に同情という感情に訴え掛けてくるとは。確かに、あの時から、デニーとパンダーラとが最初に出会った時から、この男は「同情」という感情のことは知っていた。自分にはないものではあるが、とにもかくにも利用できるものとして。そして、あの頃から、それを利用してはいたが。これほどまで巧妙に、その同情という感情を餌として、麗しく華やかな罠を仕掛けてくるとは。パンダーラには想像さえできなかったことだ。

 誤解しないで欲しいのだが、歴史的に見れば、ダクシナ人とカタヴリル人は決して仲が良いわけではない。ちょっと考えれば分かって貰えると思うのだが、同じヨガシュ系の言語を話す人々であり、隣り合う土地に住む人々であるにも拘わらず、ダクシナ語を話すダクシナ人とカタヴリル語を話すカタヴリル人に分かれたのだ。これでこの二つの集団の間に何らかの確執がなかったら、それはある種の奇跡のようなものだろう。しかもその上、ここはアーガミパータなのであって。当然のように二つの人種の間には、何度も何度も、血で血を洗い、骨を骨で砕き、内臓で内臓の味付けをする、そんなキュイジンヌな殺し合いがあったのである。

 とはいえ、それは過去の話だ。正確にいえば第二次神人間大戦よりも前の話。この土地に外からの生き物が入ってきて、そういった外来種があらゆる地位を簒奪し始める前の話だ。今となっては、アーガミパータに生まれアーガミパータで育った生き物は、そのアーガミパータに生まれアーガミパータで育ったという事実だけで、無条件に団結の気持ちを共有する。そういった助け合いの精神がなければ、在来種というものは、いつだって外来種に駆逐されてしまうものだからだ。

 だから、そのマラーという少女がカタヴリル人だというだけで、ダクシナ人のダコイティの間にはある程度の同情の心が沸き起こっていたはずだ。そして、それどころか、その上……そのマラーという少女は「少女」なのだ。誰よりも弱く、誰よりも助けを必要としている、という印象を与えるところの、「少女」という存在。実際は「少女」よりも「寝たきりの老婆」とか「全身の骨がどんどん脆くなっていく奇病を患った中年男性」とかの方が弱く助けを必要としていると思うが、ここではそういうことを言っているのではない。あくまでも印象の問題なのだ。少女というものは、いつだって、弱者を象徴するアイコンなのである。

 助けを求めている少女。

 これを、助けずにいられる生き物がいられるだろうか。

 デニーなら助けずにいられるかもしれない。

 あと、まあ、サテライトとかも大丈夫かな。

 しかし。

 普通の感情がある。

 普通の生き物には。

 そんなこと、できるはずがない。

 そして、ここにいるダコイティは、ダイモニカスであれ人間であれ、皆が皆、普通の感情がある普通の生き物なのだ。ということで、できるはずなどなかった、その「カタヴリル人」を、その「少女」を、見捨てるなんていうことは。たった一人を除いて……パンダーラを除いて。

 パンダーラは知っていたからだ、時には死ぬことよりも悪い運命があるということを。それが、デニーに助けられることだということを。ただしそのような知識があるということは例外的なケースだった。あのチェヴィまでが、黙り込んでしまっていた。衝撃を受けたような顔をして、デニーのことを、食い入るように見つめながら。本人は、きっと自分が葛藤していると思っているのだろう。だが、それは違う、チェヴィは既に葛藤を終えている。決定は下されていて、後はその決定を認めるだけだ。あのオカティまでが、俯いて、誰とも目を合わそうとしていない。オカティはチェヴィよりも年老いたダイモニカスだ、だから十分に理解していた、自分が敗北したということを。そして、その敗北を、ただただ恥じている。

 天秤は傾いた。

 いや、そもそも、その天秤は。

 デニーの手の中にあったのだ。

 両方の皿を、指先で突っついて。

 楽し気に遊んでいただけの話で。

 デニーは……話している間に、石柱を一周回り終えていた。随分とゆっくり一周していたように思われるかもしれないが、ただ歩いていたわけではない。ダコイティの一人一人の顔を覗き込むようにして、自分の主張を訴えかけて。観客席の方、ざっと薙ぎ払うようにして、そこら中に視線をばらまいて。そんなことをしながら、この石柱を、右回りに回っていたのだ。ちなみにアーガミパータでは、何かの周りを右回りに回るということは、その何かに対する礼拝・崇拝の意味を表す行為だ。もちろん、デニーが、この石柱に、ダコイティの戦死者たちに、礼拝や崇拝やをするわけもないのだが。それを見ている、デニーについて無知なものどもは……きっと、その行為から、随分とポジティヴな印象を受けたに違いなかった。

 そうして、デニーは、一周を回り終わって。また、パンダーラの目の前まで戻ってきた。後ろで手を組んだまま、すてっという感じでそこに立ち塞がって……そう、パンダーラのことを通せんぼしているみたいにして、立ち塞がって。それから、足をぴんと伸ばしたまま、腰から上の上半身だけを、前方に向かってくっと屈ませるみたいな姿勢。蜂蜜をかけたキャンディみたいに甘ったるく笑っている顔を、パンダーラの方に、少しだけ傾けてみせて……まるで、鼠を弄ぶ子猫のように。

〈これで、大体の意見は出そろったよね?〉

 こう。

 言う。

〈じゃーあー……そろそろ票決しよっか!〉

 いうまでもなく、デニーのこの提案を拒否することなどパンダーラには出来ない。何度も何度も繰り返しているように、ここは民主的な制度が保たれている場所なのだから。せめてもの抵抗を試みているかのように、パンダーラは、この演壇の上にいるデニー以外のダイモニカスに対して、他に発言がないかどうか聞いてみるのだが。もちろん、それは完全に無意味な行為だった、十人いるダイモニカスの十人とも、声帯を切り取られた蛙のごとく黙り込んで。ただひたすらに、静かな沈黙がそこにあるだけだった。

 それどころか。観客席の、人間達からも。デニーのその提案に対して痛罵・悪罵の声一つ上がらなかった。それはもちろん、ダコイティの一員ではないデニーから、この集会において完全に余所者であるはずのデニーから、票決のタイミングについて勝手にインストラクションがあったことに対するぼそぼそとした非難の声は、幾つか上がらなかったわけではない。だが、そんな声はすぐに立ち消えてしまって。後には、何かを待ち受ける者達の、導かれることを待つ羊達の、従順で、緊張した、音一つない雰囲気だけが残されていて。

 つまるところ。

 もう既に、結論は出ているということ。

 後はそれを、この世界に露呈するだけ。

 それでも、パンダーラは……それに抗わなければならなかった。パンダーラとて理解していないわけではない。むしろ、この場にいる誰よりも理解している。結論は事実であり、事実は絶対であり、絶対は絶望であるということを。ここでいう絶望は、一般的な意味の絶望ではない。例えばこぼしてしまったミルクのような、例えば割ってしまった花瓶のような、そんな絶望だ。つまり、それは、文字通りの意味で、望みは絶えているということ。その上で……「それでも」なのだ。

 それでも。

 その絶望に。

 パンダーラ。

 抗って。

〈票決に入る前に。〉

 ここにいる。

 ダコイティ。

 全員に向かって。

 こう言う。

〈最後に、私から、一つだけ言わせて貰いたい。〉

 デニーは、パンダーラに傾けていた上半身、ひょいっと起こした。それから後ろで組んでいた手を外して、右の手を顔の横に持ってくる。すうっと伸ばした、透き通るように残酷な白、い、色をした人差し指。つんっと右の頬っぺたに当てて、そのまま右の側に首を傾げて見せる。パンダーラちゃん、なぁに、とでもいうような格好だった……ただし言葉一つ発しなかったが。

 デニー以外の。

 ダイモニカスも、人間も。

 パンダーラの言葉に。

 精神を、集中させる。

 そして。

 そのアテンションの中で。

 パンダーラは話し始める。

〈私は……この男の言ったことに、何一つ反論することができない。私も十分に理解している、この男の言っていることは全て筋道が通っていて、論理的であり、まるで予言のようにさえ聞こえるということを。この男の手を借りれば、あらゆることがこの男の言う通りになるように思える。この男の言う通り、アヴマンダラ製錬所を破壊することができ、聖なる……聖なる「彼女」を取り戻すことができるように思える。この男の言う通り、アヴィアダヴ・コンダからASKを追い出して、この地を再び緑溢れる場所に戻すことができるように思える。

〈それから、それだけではなく、この男が裏切ることは絶対にないようにも思えるだろう。それはこの男の人間性を信頼出来るからではない。筋道立って考えた一つの論理の帰結として、そう思えるのだ。この男は自分の利益のことしか考えていない。そしてASKを倒すことはこの男の利益になる。一方で私達を裏切りASKの側に付くことはこの男の利益にならない。となれば、この男が信じられるか信じられないかという話以前の問題として、この男が私達を裏切るということは、この男の本性からして有り得ないということになる。

〈また、それどころか、この男に手を貸さないということは非倫理的であろうようにさえ思えるだろう。なぜなら、この男に手を貸さないということは、一人の少女を見捨てることに繋がるのではないかという危惧があるからだ。この男は、自分がASKに対して戦いを仕掛けるのは、その一人の少女を救うためだと言う。そして……恐らく、それは真実だ。この男は、その一人の少女を救うためにASKに対して戦いを仕掛けるのだろう。ということは、私達が手を貸さず、そのせいで、この男がASKに対して敗北してしまえば。それはつまり、私達がその少女を救わなかったということを意味している。

〈つまり、私達には、一つの選択肢しか残されていないということだ。それは、この男に手を貸すということ、この男の手を借りるということ、そのようにこの集会で決定を下すということだ。そうしなければ……私達は、聖なる「彼女」を助けることができず、それどころかASKによって打ち砕かれ、アヴィアダヴ・コンダは完全にASKの手に落ち、そして、一人の少女さえ見捨てることになるのだから。この男の「友達」にならなければ私達は全てを失う。聖なる「彼女」やこの森、自分の命や同志の命だけでなく、その依って立つべき何か、信じるべき何かさえも失ってしまう。一人の、少女を、見捨てるということによって。この男の話を聞く限り、そのように思えてくる。

〈しかし、それでも。

〈十人の長老達よ。

〈千人の同志達よ。

〈それでも、私はこう言わなければならない。

〈この男の提案を、受け入れてはならないと。

〈その理由を明確にすることはできない。少なくとも、皆が納得するような理由を言うことはできない。それでも、私は、知っているのだ。この男が今言ったことは……全て嘘であると。その全ての予言が偽りの予言であると。信じて欲しいということはできない、私が皆の立場だったら、こんなことを信じることなどできないだろう。だが、私はこう言わなければならないのだ。皆に願う、切に願う、この男の言うことに惑わされないでくれと。この男の提案に、賛成の票を投じないでくれと。〉

 そこまで言い終わると。

 パンダーラは、会場を。

 ぐるっと一周見回した。

 ダイモニカス達は、人間達は。

 まるで、これから、飼い主の手を噛まなければいけない。

 一匹の飼い犬のような眼をして、パンダーラを見ていて。

 全てが。

 全てが。

 予想通りだった。

〈私が言うべきことは言い終わった。〉

 最後に、諦め切った声で。

 パンダーラは、こう言う。

〈それでは、票決に入る。〉

 その言葉と共に演壇にいた十一人のダイモニカス達は一斉に立ち上がった。今までのバードラサナの形から、欠片も均衡を崩すことなく、それでいて極めて速やかに、その体を直立の姿勢まで変化させて。そして、その後で……自分の目の前に、右の手のひらを差し出す。

 一方で、真昼がいる観客席の方でも。やはり、何かが起こり始めていた。千人近くいるであろう人間達が、一斉に大地を叩き始めたのだ。大きく開いた両方の手のひらで、タタンタンタン、タンタンタンタン、タタンタンタン、タンタンタンタン、例えるならば、太鼓でも叩いているみたいにして、極めてリズミカルに。自分の周りでいきなりそんなことが起こったので、真昼はすっかりびっくりしてしまったのだが……隣にいたあの女が、真昼のことを落ち着かせようとしているかのように、その肩に手をかけた。「大丈夫だ、危険、何もない」「え?」「それに、おまえ、何もしなくていい」。そう言い終わって、じっと真昼のことを見て。真昼が、落ち着いたとまでいわなくても、少しは状況を受け入れられるようになったことを確認すると。あの女も、やはりその大地を叩く動作に加わったのだった。

 ひどく単純で粗野なリズム、それでいてこの空間全体を揺らしてしまうほど巨大なリズムに、やがてメロディが加わる。つまり人間達が歌い始めたということだ。それは、だが、歌と呼んでもいいものだろうか? 真昼がダクシナ語を理解できないとか、そういう問題ではなかった。人間達の口から出ている声は、そもそも言語と呼べるものではなかったのだ。まるで恍惚に震えているだけとでもいうかのように、痙攣にも似た態度で喉を震わせて。そうして出た声を大きく開いた口から吐き出しているだけで。一度大きく「あー」というような声を出したら、口の中で激しく舌を動かして、「な、な、な、な」というような音を出す。人間達は、そんなことを何度も何度も繰り返していて。それは、歌と呼ぶにはあまりにも原始的に過ぎたのだ。

 しかし、それでも。

 そのメロディは。

 ハーモニーへと。

 収束していき。

 やがて、それは……朧に溶けるような、無限の幻覚じみた、一つの音へと変化した。その音は、この空間全体を咀嚼し、飲み込んで、何か永遠に落ち込んでいく穴の中へと引き摺り込んでしまいそうで。真昼は、その音によって誘発されたのであろう、座っていても抑えきれない眩暈の感覚のせいで、体を真っ直ぐに保つだけで精一杯の状態になってしまう。

 そして。

 そんな真昼の視線の先。

 あの、演壇の、上では。

 十一人のダイモニカス達、彼ら/彼女らが差し出した右の手の中で。ゆらゆらと揺らめく何か、ある種の恒星が放つフレアのような何かが、静かに、静かに、光を放ち始めた。その静けさは、観客席の大音声とはまるで対照的なものであって。ただ、それにも拘わらず、真昼には理解できた。その光が、人間達の歌うの歌声によって構成されている何かであるということを。

 その光は、次第に、次第に、一つの形状へと変化し始めて。それは、つまり、十一本の剣であった。形を保っているとはいえ、全体としては輪郭の曖昧な光のままであり、確固とした物質とは到底いえないものであったため、それが具体的にどのような剣なのかということは、真昼にはよく分からなかったのだけれど……どうやら諸刃・直刃の剣であるようだった。縦の方向にひどく細長く引き伸ばされた二等辺三角形が、柄にそのままついているみたいな形という意味だ。

 その剣を。

 十一人のダイモニカス達が。

 それぞれ手にしたその時に。

〈この提案に賛成する者は。〉

 パンダーラが。

 こう言葉する。

〈手に持つ剣を掲げよ。〉

 この提案、デニーの提案。ちなみに、そのデニーはというと……いつの間にか、石柱の前から移動して、ダイモニカス達が形作る円の外側に出てしまっていた。具体的にいうとパンダーラの後ろに立っていたということだ。パンダーラの、すぐ背後。大体一ダブルキュビト程度しか離れていないところに、まるで、一筋の、可愛らしい、影のように立っていて。

 しかし、今はデニーについて触れるべき時ではないだろう。なぜなら、この集会において、デニーは議決権を持たないのだから。例えこの集会の全てが、デニーの手の中で転がる一個の壊れやすいガラス玉であることは明白であるとしても。少なくとも、形式上の議決権を持っているわけではない。それを持つのは、やはり十一人のダイモニカス達なのである。

 ということで。

 その十一人の。

 ダイモニカス達は。

 今まさに、議長であるパンダーラの指示に従い、投票を開始したところであった。真っ直ぐに、石柱へと差し出されていた十一の切っ先は。その方向を変えていく……賛成であれば上へ、反対であれば下へ。上へと向かった切っ先は、直線に伸ばされた腕の先で、石柱の頂点を指し示して。下へと向かった切っ先は、手のひらによって柄の部分から押さえ付けられて、大地に向かって降ろされる。これこそがダコイティという集団における投票の方法であった。

 さて。

 その。

 投票の。

 結末は。

 十の切っ先が上へ、そして、残りの一つの切っ先は下へ。圧倒的な投票結果であった。オカティさえも、チェヴィさえも、その切っ先を石柱の頂点へと向けていて。そして、パンダーラだけが――ちなみにパンダーラは、その右手の喪失のゆえに、右手ではなく左手によって剣を持つ唯一のダイモニカスでもあったのだが――その切っ先を大地へと沈めていた。左の手のひらを、柄の上に乗せて。その視線は、真っ直ぐに前を向いていて。確かに彼女は敗北したのだ、そして彼女もそれを完全に理解している。それでも……彼女の誇りだけは、何者であっても、デニーであっても、傷つけることはできなかったのだ。

 しかし。

 それが。

 どうしたというのだろうか?

 誇りだけでは、誰も。

 救えないというのに。

〈賛成十、反対一。〉

 誰も救えなかったパンダーラは。

 無意味な誇りを。

 大地に沈めながら。

 冷徹な声で宣言する。

〈よって、この提案は我々によって受け入れられた。〉

 その瞬間に。

 大地を叩く無数の手が。

 痙攣を歌う無数の口が。

 一斉に、その行為を停止して。

 拍手はなかった。歓声はなかった。ただただ、サイレンスだけがあっただけだ。クワイエットではなくサイレンス。これは勘違いされやすいことであるが、クワイエットとサイレンスは決定的に異なった現象だ。前者はただ音がないというだけのことである、それはニュートラルな現象であって、それ以上の意味は何も持たない。しかし、サイレンスは……違う、全く違うのだ。それは、何かを待ち受けている沈黙。何か、災いが起こることを知っていて、静かに静かにそれを待っている、羊達のような現象。

 この場にいる、誰もが、理解していた。

 この決定が、災いであるということを。

 しかし、そうするしかなかった。

 そう決定するしかなかったのだ。

 なぜなら。

 ここには。

 悪魔がいるのだから。

 真昼は……見ていた。その悪魔のことを、要するにデニーのことを。デニーは、パンダーラの後ろに、禍々しい災厄の影として立っていた。後ろに立って、ただ票決の結果を聞いていた。デニーは、その顔に、とってもとっても無邪気な、とってもとってもハッピーな、あのくすくすという笑いを浮かべていて。

 そして、それから、デニーが、その悪魔が、ふっと真昼のほうに顔を向けた。この千人の観客たちの中から、真昼の顔だけを、決定的に選び出して……「やったね、真昼ちゃん」声を出さずに、そう口を動かして。まるで共犯者へ示す親愛のジェスチュアのようにして、軽く投げキスをしてよこしたのだった。

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