第一部インフェルノ #20

 そこにどれほどの人間がいるのか、真昼には数えることもできなかった……と、こう書くと。まるで何万人もの人間が集まっているように思われるかもしれないが、せいぜいが数百人といったところだ。ただし、その数百人の人間が、それほど広くない空間、直径七十ダブルキュビト程度の円形の中に詰め込まれていたのだ。ぎゅうぎゅう詰めというほどではないが、パーソナルスペースだとかなんだとかそういうしゃらくさいことをいっている余裕については、ないと断言してもいいだろう。

 まあ、この空間自体はもう少し広かったのだが。直径百ダブルキュビト程度はあっただろう、かなり広い場所だ。だが、その広い空間の中で、人々は「ある一点」を中心として、そこに群がるみたいにして集まっていたのであって……その「ある一点」については、もう少し後で触れることにしよう。

 そこは、森の中、唐突に開かれた。

 広い、広い、広場のような場所だ。

 整地されているわけではなく。

 とはいえ枯葉も落ちていない。

 剥き出しの。

 乾いた、土。

 そこにいる人間の全員がダコイティであるらしかった。デニーと真昼とがこの森に来た時に、最初に出会ったあのダコイティと、ほとんど同じ姿をしていたからだ。それはまあ何人かは、鉢巻みたいにして額のところに白い布を巻いていたり、襷みたいにして色のついた布を肩から掛けていたり、そういったちょっとした個性のようなものはあるが、それ以外のところは大体がそっくりの服装をしていたということだ。粗雑なつくりの戦闘服に、薄汚れたシャツ。白い布の腰巻、安っぽいスニーカー、とはいえ、武器については誰も持ってはいなかったが。こんな狭い場所で物騒なものを身に着けていたらどんな厄介なことが起こるか分からないからだろう。

 実に、全く、極めて、大変、ひどい熱気だ。

 お世辞にも、過ごしやすいとは、言えない。

 ただでさえクソ熱いアーガミパータ、しかもこれだけ狭い空間にこれだけ大量の人間。人間が放つ熱気が溜まりに溜まって、ちょっとばかり空間が歪んでしまうんじゃないかと思うくらいの温度になってしまっている。その上に、その暑さは、人間の汗と周囲の森林環境とのせいでじめじめとしていて不愉快な暑さだ。

 真昼にはとても耐えられたもんじゃないように思われたが……ただ、それでも。ここにいるダコイティは、そんな熱気さえも感じていないのではないかと思うくらいに。全員が全員、張り詰めた期待の感情を、ある一点に向けていた。確かに、隣にいる人間と喋っている者もいれば、興奮したように何かを歌っている人間もいる。何の意味があるのか手を叩いている集団さえいたが、それでも彼ら/彼女らは、自分が座るべき場所に座っていて。そして、彼ら/彼女らが本当に見ているのが、その「ある一点」であることは、まず確実であった。

 その一点、とは。

 この広場の中心。

 少しだけ盛り上がった。

 演壇の、ような、場所。

 この広場と相似形のようにして、円形をしている。大きさとしては直径で十ダブルキュビトくらいだ。端の方から少しずつ、坂になるみたいに盛り上がっていて。結果的に、他の場所からは二ダブルキュビトほど高くなっている。そのために、なんとかではあるが、その「演壇」の上で何が起こっているのか、この広場のどこにいても見ることができるようになっていた。

 斯うと、それでは。

 演壇の上について。

 まず目に入ってくるのは、その場所を包み込んでいる、何かアウラのようなものだ。それは……いや、包み込んでいるというのは少し違うかもしれない。例えば、あたかも、ぐるりと巡らされた防壁のように。透明な・見定めがたい・雰囲気じみた何かが、一枚の壁となってその演壇を取り囲んでいるのだ。その壁は確かに物理的なものではない。なんらかの種類の魔力を固めて作り上げた障壁のようなものだろう。ただし、物理的なものではないにせよ……その壁面には、一面に、壁画が描かれていた。

 アウラの上に、闇で描かれた壁画。どろどろと濁ってゆらゆらと揺らめく苦い闇が、絵の具の代わりにべったりと塗り付けられている。ひどくデフォルメされていて、稚拙とさえ思えるような画風だった。まるで子供が描いた悪戯書きみたいだ。画題については、真昼は全く分からなかったのだけれど、どうやら牛のような動物について書かれているらしかった。角のある人間の姿、つまりダイモニカスらしき姿が、その牛のような動物にわらわらと群がっている。ダイモニカスのサイズと比べてみると、随分と、その牛のような動物は大きいらしかった、ちょっとした豪邸くらいの大きさがあるだろう。ちなみに。牛、と断言してしまうのではなく、牛みたいな、とぼやかして書いたのは、もちろん大きさのこともあるのだが、その牛の頭、優雅な曲線としての角が、二本ではなく四本描かれていたからだ。

 そういう牛の図像が壁のあちらこちらに描かれているのだが、真昼が見た限りでは――それはなんとなくはっきりとしない印象に過ぎなかったのだが――それらの全ての図像は同一の牛について書いているらしかった。一匹の牛が送ってきた生の、幾つかのシーンを抜き出して、一枚の壁のそこここに書いているということ。例えば山のような場所からその牛が生み出されているシーン。例えばダイモニカス達がその牛を崇めているらしいシーン。例えばその牛が機械でできた不気味な甲虫みたいな物体に群がられて。それから、どこかへと連れ去られてしまうシーン。そういった断片的なシーンが、幾つも幾つも、壁中に描かれていて。そして、そういった図像の一つ一つが……動いていた。魔学的な力で命を吹き込まれたとでもいうように。あるいはアニメーションみたいにして、動いていたのだ。その様は、あたかも、一つのシーンを何度も何度も繰り返して上演する影絵のようにも見えた。

 その壁画の。

 向こう側に。

 広がっている空間には、一本の、柱が立っていた。高い高い柱だ。まるで天を摩そうとして、地の底から伸ばされた一本の指のように。直径一ダブルキュビトから二ダブルキュビトくらいの太さで、高さとしては十ダブルキュビト弱はあっただろう。灰色でありきたりな石を、そのまま削り出したという感じで、いかにもアーガミパータらしい粗雑な荒々しさがある。形状もひどくシンプルで、頂点の部分を丸く滑らかに加工しただけのごくごく単純な円筒形だ。ただし、その表面には、ほとんど隙間なく、何かの形が刻み込まれていたのだが。

 その形は人の姿をしていた。それから、その頭には、例外なく角が生えていた。要するに、その空間を取り囲む壁に描かれているのと同じように、ダイモニカスの図像だった。柱に描かれている図像は、壁に描かれているそれよりもさらにプリミティブなもので、ほとんど棒人間といった感じだった。頭と手足があって、頭には一本から二本の角が生えている。記号とも思えるほどに単純化されたそれは……ただただ、何かの数を数えるためだけに刻まれているように、真昼には思えたのだった。

 そして。

 その柱を、取り囲んで。

 十人のダイモニカスが。

 輪をなして座っていた。

 全員がヨガシュ族のダイモニカスだった。つまり、パンダーラみたいな白人のダイモニカスではなく、この土地の人々と同じような、黒く焦げたみたいな肌の色をしたダイモニカスだということだ。それから、特徴的なのはその目の大きさだ。十人が十人とも驚くほど大きな目をしている。真昼はその目を見て、梟みたいだと思ったくらいの大きさだった。真円とさえ思えるまん丸い目の真ん中に、その眼球の大きさに似合わない小さな黒目がらんらんと輝いている。恐ろしく感じるほどに力のある目だ。

 十人のうち、七人が二本角のダイモニカスで、三人が一本角のダイモニカスだった。一本角というのは成人していないということだが、ダイモニカスは人間よりも遥かに長命な種族だし、その成熟する時期にもだいぶん個人差があるので、実際にどれぐらいの年齢になるのかはよく分からない。ただし、その全員が……何か、ひどく、深刻で、残酷な、経験をしてきたとでもいうように。とても、とても、古びている、表情をしていた。

 まるで何かの儀式をしているみたいだった。全員が同じ座り方で、それをみて真昼は胡坐みたいな座り方だと思ったのだが、実際はバードラサナと呼ばれる特殊な座法だった。両足の裏をつけて、その踵を足の付け根のところまで持ってくる。両膝は地につけるようにぎりぎりまで下げる。爪先を、指を組んだ両手で包み込むようにして覆う。それから、背筋をピンと伸ばす。そんな座り方だ。そして、一人ずつ等距離をあけて座っていて、その車座はほとんど完璧な円形を描いている。

 ほとんど、完璧な円形。

 そう、その車座には一か所だけ。

 欠けているところがあったのだ。

 十一人目が、座るべき、ところ。

 そして、ここにいる。

 全ての人間。

 全てのダイモニカスが。

 その。

 十一人目を。

 待っている。

「ついたぞ。」

 広場を指し示すことさえせずに。

 パンダーラは、素っ気なく言う。

「ここだ。」

 さて……#19が終わってから。デニーと真昼とは、パンダーラに連れられて更に一時間ほど歩いていた。デニー魔学式のおかげなのかなんなのか、たった十分程度休んだだけだったにも拘わらず、だいぶん回復していた真昼は。元気一杯とはいわないまでも、死に損ないの犬程度には歩けるようになっていて。ひいひいはあはあといいながらも、何とかパンダーラについて歩いていくうちに……いつの間にか、この場所に辿り着いていたのだ。これで三度目になるが、視界を覆っていた植物を除けると、さっきまではその存在さえ感じ取れなかった広場が広がっていて。その広場がこの場所だったということだ。

 パンダーラが、姿を現すと。

 今まで、演壇に向いていた注目が。

 一斉に、パンダーラへと注がれた。

 数百人の目。

 数百人の耳。

 パンダーラへと向けられて。

 その中の一人が……二つの単語を、声として発した。それはダクシナ語であったが、真昼にも理解できる単語だった。一つ目は「パンダーラ」、二つ目は「ゴーヴィンダ」。一人が発した声が、二人目に感染する。二人が発した声が、三人目と四人目に感染する。次々と、次々と、その声は広がっていって。「パンダーラ」「ゴーヴィンダ」「パンダーラ」「ゴーヴィンダ」「パンダーラ」「ゴーヴィンダ」それは、まるで、叫びのような、祈りのような、静かに大地を揺らす合唱となる。

 もちろん、いうまでもなく、真昼はすっかり気おされてしまったのだが。名前を呼ばれているパンダーラ自身には、全くそんな様子はなかった。さっきまでしていたのと全く同じ、全ての生き物が死に絶えた夜みたいな顔をしたままで。その広場の中へと、一歩目を踏み出した。

 先ほどの情景説明では一言も触れなかったのだが……ダコイティの集団、その外縁から、中央の演壇まで。一本だけ道ができていた。どんなに人間がぎゅうぎゅう詰めになっていても、そこだけは、例えば何か聖なる場所で、触れてはいけないとでもいうかのように。誰一人踏み込もうとはしていなかったのだ。そして、パンダーラが踏み出したのは、その道だった。

 真昼は……明らかに、気圧されてしまっていた。パンダーラの後について、この光栄なる道程を進んでいくことについて、完全に躊躇いきっていた。それはそうだろう、これほどまでに熱狂的に、これほどまでに信仰的に、自分ではない何者かの名前を叫ぶ人々の間に入っていくことは。誰だって気が引けるものだ……誰だって、しかし、デニーを除いて。

 予想通りというか当然のごとくというか、デニーはそういうことは全く気にしていないようだった。いつもと全く同じ足取り、軽くスキップするようなspringな足取りで、パンダーラの後をついて行って。その途中で、ふっと、振り返る。道程のとば口でぐずぐずとしている真昼のことを。

 そして。

 何か。

 思い出したように。

 こう、口を、開く。

「あ、そうそう。」

 くっと小首を傾げて。

 とても可愛いポーズ。

「真昼ちゃんは、あそこには入れないよね。」

「え?」

「そこらへんで待っててよ。」

「そこらへんって……」

「ふふふっ、だいじょーぶだよ。」

 両手で、可愛らしくピースのポーズを作って。

 ぴょんぴょんと、何度かジャンプしてみせて。

 それから、真昼に、こう言う。

「ぜーんぶ、デニーちゃんに任せておいてっ!」

 いや、デニーに任せるのが不安だとか不安じゃないとかそういうことを気にしているわけじゃなくって。まず「あそこには入れないよね」という言葉が意味する内容が分からないし、それ以上に「そこらへんで待っててよ」といわれても、これほどまでにアウェイな環境下で、そんな気楽な感じは無理というか、できることとできないことがあるのであるし。そもそもそれ以前の問題として、これから何が起こるのかが全く分からないから、それくらいは教えておいて欲しいのだ。

 等々と、真昼には言いたいことが色々とあったのだけれど。もちろん、そういうことを問いかける前に、デニーは行ってしまったのであって。真昼は縋るように差し出した右腕の先、恥辱と屈辱との感覚の中で、そして自分では認めたくもない見捨てられたという思いと共に共に、その右手をぎゅっと握り締めることしかできなかったのだった。

 とはいえ、いつまでも「その右手をぎゅっと握り締めることしかできなかったのだった」状態でいるわけにもいかないのだ。結果的には無事に、この栄光の道程に足を踏み出さなくても済んだわけなのだが。今度は自分が何をすべきかを自分で考えなければいけない。もうついていくべき人がいないのだから。いや、すべきことは決まっているのであって「そこらへんで待って」いることなのであるが、「そこらへん」とは一体どこのことを指すのか?

 冷静に考えれば、このダコイティの集団の中のどこかしらということであろう。いや……無理無理無理。真昼の心境を端的にいうと、そういう感じだった。このアーガミパータについてから、まあ諸々の出来事があったせいで、そんなことをいっている余裕はなかったのだが。本質的な話、真昼はどちらかといえば人見知りなタイプなのだ。静一郎に頼らずに生きるために、男性と肉体関係を持って便宜を図ってもらうことは得意ではあったが。それ以外のコミュニケーション方法はというと、もうからきしであった。っていうかそもそも言葉が分からない。「すみません、ここ座っていいですか」をダクシナ語で言うことができない。

 そんなわけで、立ち竦むとはこのことかというほどの勢いで、真昼はその場に立ち竦んでいたのだが。これはもう、今から何が起こるにせよ、その起こった出来事が終わるまでここに突っ立っているしかないんじゃないか……?と思いかけたその時に。その広場の中に、ダコイティが密集している「観客席」の中に、一つの見知った顔を見つけた。

 見知った顔、というほどではないかもしれない。とにかく、知っている人間の顔だ。それは、デニーと真昼とをパンダーラのもとにまで連れてきたあの女の顔だった。どうやら真昼達よりも、先にこの場所に着いていたらしい。けれども他のダコイティよりはずいぶんと遅くついたものらしく(まあパンダーラが率いていた細胞は森の一番外側にいたのだし当然といえば当然なのだが)観客席のかなり外周の方にいたのだ。

 これは。

 かなり。

 助かる。

 こう、例えるならば、新しい学校に転校してきて。みんながみんな友達連鎖(circle of friendship)の中に組み込まれているので、その中に入っていくのがすごく難しい時に。たまっっっったま、昔通っていた塾で何度か顔を合わせたことがある人間の顔を見つけたみたいな感じだ。別に親しいわけではないし、こういうことがなければ親しくなろうとも思わないのだが、今この時にはどんなベストフレンドよりもありがたい存在。

 というわけで、真昼は。ほんの一瞬だけ逡巡した後で、思い切ってその女の方へと足を踏み出した。ダコイティは……なんというか、大変お柄がよろしくない。まあ、こんな場所に生まれて、まともな教育も受けることができず、それどころか明日まで生きていけるかどうかも不安定な状況の中では。お柄もクソもないのであって、どうしても内側に向かって閉鎖的に結集しがちだし、余所者に対してはお世辞にも愛想がいいとはいえない反応になりがちということは、真昼としても分かっているのだが。そして、アーガミパータに来る前の真昼であれば、そういった虐げられた人々、大企業によって抑圧されている人々、つまり静一郎のような人間によって搾取されている人々に対して、多大な同情の心と共感の心を持っていたはずなのだが……真昼は、唐突に気が付いた。今、この時に、ダコイティに対して。そういった心情を保つことが、とても難しくなっているということに。

 理由は単純であって、今の真昼は高みに立っていないからだ。月光国にいたころは真昼には余裕があった。家出を繰り返して、その日暮らしに生きていたといえなくもなかったが。それでも、一瞬一瞬ごとに命の危機があったわけではないし、それ以前に月光国に住んでいたのだ。それは、ダコイティとは全然違う立場だ。だが……今の真昼はアーガミパータにいる。少なくとも二つの集団から命を狙われている。そして、何よりも、疲れ切っている。

 これほどノー余裕な状態ではない状態で、期間も数日と限って、必ず帰れると分かっているという条件の下、ここにいるのならば。真昼も同情の心と共感の心とをダコイティに対して持ち続けることができただろう。しかし、今の真昼は……これらのダコイティに対して、ほとんど本能的な、ある集団に属していない動物がその集団に無理やり閉じ込められた時に感じるストレスに由来するであろう、反感のようなものさえ抱いてしまったのだ。

 真昼は、慌てて、その反感をかき消して。

 そして、自分の感情を、深く恥じ入った。

 何とか……何とか、理解をしようと真昼は思った。ダコイティが、どういった状況に置かれているのかということを。人と人の間を、跨ぐみたいにして通っていく真昼、言葉も通じないし肌の色も違っている完全な余所者である真昼のことを、完全な差別の視線で眺めるダコイティが、どうしてこれほど狭量になってしまったのかということを。真昼は、まだ信じていた、人間と人間とが分かり合えないのは、分かり合おうとする努力が足りないからであると。ただ、まあ、デニーのような特殊な例外は除いての話だが。デニーとは絶対に分かり合えないだろう、ただそれは置いておいて、とにかく、何にせよ、真昼は理解しようと努力すべきだった。ダコイティと分かり合い、そして、静一郎のような存在に対して、連帯していくために。

 そんな。

 決心を。

 しつつ。

 あの女が座っている場所。

 ようやく、たどり着いた。

 ちなみにダコイティの間を通っていかなければならなかったという描写がある通り、あの女は一番外周にいたというわけではなかった。随分と外側の方にはいたのだが、それでも、飲み込まれてしまいそうなほどの人群れの中に座っていたのであって……と、そこで、真昼ははたと気が付く。これほど混雑している空間、女のそばには、真昼が座ることのできる場所なんてどこにもないのであって。例え、今、あの女に話しかけたとしても……その後、真昼は、どうすればいいのか?

 まさか立ったままでいるわけにもいかないし……さりとて、この広場にいるダコイティの中で、唯一声を掛けられそうなのはあの女だけだし……等々と。どうしていいのか分からなくなってしまって、色々と考え始めた真昼であったが。そんな風に優柔不断さを発揮しているうちに、あの女の方が真昼に気づいてしまったようだ。まあ、これほど近距離で、なぜか一人だけ突っ立ってる人間がいれば、気が付かない方がおかしいのだが。とはいえ、あの女が真昼の顔を覚えていたというのは、確かに真昼にとって幸運なことだったのかもしれない。

 あの女は、真昼を見ると「おまえは……」と共通語で呟いた。それから、周りにいたダコイティに何やら声をかけ始める。この周りにいたダコイティというのは、あの場所、デニーとパンダーラとが会談を行った場所にいた十三人(あの女を含めると十四人)のダコイティであったのだが。あの女は、ひとしきり声をかけ終わると、その場に立ち上がった。

「その、あたし……」

「来い。」

「え?」

「こっちだ。来い。」

 そう言うと、女は真昼の腕を取って円の外周へと向かって歩き始めた。真昼はぐいぐいと無遠慮に引っ張られながらも、デニーの魔学式によって強化された足捌きを極限まで軽やかに、何とかダコイティを踏まないようについて行って。そして、いつの間にか、二人は観客席の外側に立っていた。

「あの……」

「ここなら、座れる。」

 ぶっきらぼうにそう言うと。

 女は、真昼の腕を軽く引っ張って。

 ざらざらとした砂の上に座らせて。

 それから、自分もその隣に並んで座った。

「えっと……ありがとうございます。」

「パンダーラさま、言っていた。」

「え?」

「おまえのこと、気遣え、そう言っていた。」

 女の言葉に真昼は少し驚いてしまった。パンダーラが、そんなことを言うなんて。デニーに付いてきた素性もよく分からない人間、くらいにしか思われていないと思っていたのに。そういえば、ここに来るまでにも一度、休憩させてくれたりもしたし……一体、パンダーラは、真昼のことをどう思っているのだろうか。

 ただし、その疑問について考える前に。真昼には、他にも、答えを知っておくべきたくさんの疑問があった。現在、真昼が置かれている状況を理解するために。現在、ダコイティが置かれている状況を理解するために。色々なことを理解して、その結果として分かり合って、そして……ASKに対して、連帯して戦っていくために。だから、そのために、真昼は、人見知りという本性を必死で押し殺して、女に向かってこう問い掛ける。

「この場所は、一体、何の場所なんですか。」

「死者の広場。」

 そう言うと、女は。

 広場の中心に立っている。

 例の、石の柱を指さした。

「ASKとの戦いで死んだ同志達、弔いの場所。」

 話の流れとその行為とがはっきりと繋がっていないので、真昼には確かなことは言えなかったが。ただ、推測すると、あの石柱が慰霊碑のようなものであるということを示したいのだろう。とすると、あの表面に刻まれている棒人間のようなものは、もしかしたら、死者の数を表しているのかもしれない。ただし、人間の死者も含めるとすると、あんなに少ない数で済むはずもないのだし。それに、頭に角が生えているところから考えても、ダイモニカスの死者だけを代表して刻んでいるのだろう。

「とても、とても、重要なこと、決まる時、みんな、ここに集められる。マーラ様達、話し合う。私達、聞いている。そういう場所。」

「重要なこと……」

「今回決めることは、あの男の提案したことだ。」

 その口が「あの男」という言葉を発した時に、女は明らかに嫌悪感を滲ませながらそう言った。その気持ちは真昼にもよく分かったので、特に何かのコメントをするようなことはしなかった。ただ、女から視線を動かして、まさに今、パンダーラとともに演壇に上がろうとしている「あの男」、つまりデニーの方に視線を向けただけだった。

 演壇の周囲、緩やかな坂になっているところを登ってから、その先にある透き通ったアウラ状の防壁の前にまでやってくると。パンダーラは、全然勿体ぶった様子もなく、何か特別なことをしているような気配もさせないで、ごく当たり前の態度でその防壁に向かって進んでいった。防壁は、パンダーラに対しては、その「防ぐ」という役割を果たす気などさらさらないらしく。ただ単なる幻だったとでもいうみたいにして、すっと己の内側に受け入れた。

 一方で、デニーもやはりその防壁へと歩いて行って、そして、それを通り抜けようとする仕草、ぴょんっと内側へと飛び込んだ。と、今度は、パンダーラがそうした時とは全く違ったことが起こった。防壁は、防壁としての役割を完全に全うしようとして。あたかもデニーのことを弾き飛ばそうとしているかのように、凄まじい勢いでばちばちっと雷撃のようなものを放ったのだ。電気ではない、けれども電気によく似た、その魔学的なエネルギーは、デニーの体を包み込んで……それから、その次の瞬間に。ちょっと呆気なすぎるくらいの呆気なさで、ぱしゅんという気が抜けるような音を立てながら消えてしまった。

 つまるところ。

 デニーを止めることは。

 誰にもできないという。

 単純な事実であって。

「パンダーラさんと、それにあの十人のダイモニカス……マーラ達がこれから話し合って、デナム・フーツと協力するかどうかを決めるっていうことですか? ということは、あのマーラ達があなた達のリーダーなの?」

「そうだ。」

 そんなことを話している、二人の視線のずっと先で。パンダーラとデニーとは、無事に防壁の中に入ったようだった。デニーが防壁を通り抜けた時、観客席のダコイティは、息を飲むような音をたてたり、悲鳴のような声をあげたりと、かなり驚いたようなレスポンスをしたのだが。どうやら驚いたのは演壇の上にいたダイモニカス達も同じようだった。なぜなら、十人いたダイモニカスの十人ともが、猛禽類のもののように大きなあの目を、一斉にデニーの方へと向けたからだ。さすがに、人間達ほどではないにしても、少しばかり驚かされたといった感じだ。

 ただ、もちろんパンダーラが驚くことはなかった。パンダーラにとってそれは当然のことだからだ。何が嬉しいのか分からないが、とにかく嬉しそうにくすくすと笑うデニーの声を背中に聞きながら。パンダーラは、この演壇の上、車座の一か所だけ欠けているところ、十一人目の席があるところに、滑るような足取りで歩いていくと。ひどく粗野な立ち振る舞い(というよりも居振る舞い)によって、そこに座ったのだった。

 十一人の主人と。

 それに、一人の客人。

 これで、揃うべきものは。

 全て揃ったということだ。

 そして。

 それから。

 次の瞬間。

 鳴り響く。

〈それでは。〉

 真昼の頭蓋骨の中。

 言語以前の、言語。

 とても純粋で。

 とても直截な。

 剥き出しの意味。

 みたいなものが。

〈決めるべきことを決めよう。〉

 それは、あまりにも強い、「印象」の爆発みたいなものであったため。真昼は思わず両手で頭を抱えて、「な……」という声をあげてしまったくらいだった。激痛に耐えるかのようにぎゅっと目をつぶって、それからまた開いて。その目を、ちらと、横にいる女に向けると……その女もやはり、軽くではあるが頭を押さえていた。真昼よりはこの「印象」に慣れているようだったが、それでも、やはり、人間には強すぎる感覚であるらしい。

「今のは……?」

「マーラさま達、使っている言葉だ。」

 女はそう答えただけだったので、またもや真昼はそこから想像することしかできなかったのだが。つまるところ、この「印象」は、縁台の上のダイモニカス達が放ったノソスパシーのようなものだということなのだろう。もちろんノソスパシーではない。ノソスパシーは純粋に科学的な現象だ、脳の底部、小脳と脳幹との間にあるゼノン小球と呼ばれる器官が発する、増幅された精神力の波動。それに対して、この「印象」は。どうやら、どちらかといえば、魔学的な力によるものだったからだ。

 とはいえノソスパシーと近いところもないわけではなかった。つまり、この「印象」がある特定の言語によって固定された意味ではなかったということだ。例えば真昼についていえば、最初はこの「印象」について、何の疑いもなく共通語によって話された言葉として理解したのだが。よくよく考えてみればこれは共通語ではなかった。純粋な意味としての非記号的コミュニケーションを理解できない下等知的生命体である真昼の脳が、共通語として翻訳しただけなのであって。受け取り手がダクシナ語しか解さないダコイティであったならば、この「印象」は、恐らくダクシナ語として翻訳されていただろう。あるいは、受け取り手がもっと高等な生命体、ノスフェラトゥやダイモニカスといった生き物であれば……言語としては受け取られていなかっただろう。

 要するに。

 科学的テレパシーではなく、魔学的テレパシー。

 簡単にいえばデウスパシーであるということだ。

 そして、そのデウスパシーによって。

 演壇の上にいるダイモニカス達が。

 代わる代わる、話すのが聞こえる。

〈今回の集会は、同志パンダーラの招集によるものだ。〉

〈だから、まずは彼女に話して貰おう。〉

〈この集会の目的、何を決定するのかということを。〉

〈そこにいる客人の紹介も含めて。〉

 そこにいる客人というのは無論デニーのことであったが、そのデニーが演壇の上で何をしていたのかというと、いつものように落ち着きなくそこら辺をうろちょろとしていた。このことについてはちょっと真昼も感心してしまったのだが、これほどの大観衆の前で、しかもこれから自分の提案を受け入れて貰えるかどうかという大切な場面であるにも拘わらず、デニーには、一切、いつもと変わったところがなかった。緊張なんて欠片もしていなかったし、それどころか興奮さえしていないようだった。

 一方で。

 集会の指名を受けたパンダーラは。

 これもまた、とても冷静な態度で。

 デウスパシーによって。

 こう話し始める。

〈まずは十人の長老達に、それに千人の同志達に、集会の開催に対する感謝の意を表明する。さて、早速だが本題に入らせて貰おう。召集の際にも伝えたことだが、今回の集会は非常に重要な決定をするためのものだ。その決定は、この客人、今そこにいる……デナム・フーツの提案に関する決定だ。〉

〈ご紹介に預かりましたー! で、な、む、あーんど、ふ、う、つ……デナム・フーツ! 初めましての人は初めまして。会ったことがある子も、やっぱりこのお名前で会うのは初めてだよね。とにかく、デニーちゃんって呼んでね!〉

 どうやらデニーもデウスパシーを使えるらしい。

 パンダーラの言葉に、いきなり割り込んできた。

 デニーは、今、ダイモニカス達が作っている円の中、石柱に比較的近いところに立っていたのだが。自己紹介をした後で、きゃるーんといった感じ、左の人差し指と右の人差し指で、自分のほっぺたを可愛らしく突っついて。あざとらしいとさえ思ってしまいそうなほどの勢いで愛想を振りまいていた。もちろん、デニーちゃんの可愛さは巧まざるところの可愛さであるのではあるが、それほどに可愛かったということだ。

 ただしその可愛さも、ダコイティ、特にダイモニカス達には通じなかったようだ。さすがに、ダイモニカス達は理解していたのだ……デニーについて、その本性までは見抜けなかったにしても。この生き物がどれほど強く、どれほど古い生き物であるのかということを。それに、それだけではなく。デニーの言葉からすると、ダイモニカス達のうちの何人か、恐らく(パンダーラを除いて)二人ほどは、パンダーラほど深く知り合っているというわけではなくとも、顔見知り程度ではあるようだった。

 デニーのデウスパシーが途切れると。

 また、パンダーラが、話を、続ける。

〈この男の提案とはこういうことだ。この森に住む我々と、我々から全てを奪おうとするASKとの戦いに、助力を提供する。その代わりに我々は、持てる全兵力を用いて、この男と共にASKのアヴマンダラ製錬所に攻撃を仕掛ける、と。〉

〈我々に手を貸すことによって。〉

 ダイモニカスのうちの一人が。

 口を、というか思考を挟んだ。

 比較的若いらしく、その頭には一本しか角がない。

 それから、顔の左半分が、ひどく焼け爛れていた。

〈その男に何のメリットがあるというんだ? 何のメリットもなくただ慈善の心から我々に手を貸そうなんてことをいう者を、あたしは信用するつもりはない。我々に手を貸そうという以上、必ず何かの目的があるはずだ。あたしはその目的を知りたい。〉

〈んー、そんなに深く考えないで! 簡単なことだよ、えーと……チェヴィ・プーダちゃん、かな?〉

 デニーが、その名前を発した瞬間に。

 顔の左半分が焼けたダイモニカスは。

 思わず、その姿勢を崩して。

 デニーに、身を乗り出した。

〈なぜ……なぜ、あたしの名前を? パンダーラから教わったのか?〉

〈ふふふっ、違う違う、そんなわけないよ。パンダーラちゃんがそんなことするわけないじゃない! そうじゃなくって、デニーちゃんが、チェヴィちゃんのお名前を知ってるのは……デニーちゃんが、とーっても賢いからだよ!〉

 デニーは、そう言って。

 それから、軽く傾げて。

〈デニーちゃんは、なーんでも知ってるんだ!〉

 ひどく愉快そうに。

 笑って見せたのだ。

 ちなみに、ここで少しばかり解説を加えておく必要があるかもしれない。ダイモニカスの名前について、というか、ダイモニカスだけではなく、マホウ界と関係がある全ての生き物の名前について。#13において魔学についての説明をした時にも少し書いた通り、いわゆる魔学的法則を使うに際しては、名前という要素が非常に重要になってくる。なぜなら、魔学的法則というものは、この世界を記述する言語についての法則なのであって。従って魔学上の意味においては、あらゆるindividualは、つまるところ名前によってdivineされたはずのものであるからだ。

 それゆえに、その者に名付けられた名前を知るということは、その者のindividualを把握するということに等しい。その名前を使うことによって、極めて簡単かつ極めて確実に、その者に魔学的な効果を与えることが可能になるのだ。そのため、マホウ界、つまり魔学的法則によって動いている世界に関係があるものは、極力自分の名前を明かしたがらない。

 例えばリュケイオンの学位を持つ魔学者であれば、本当の名前の他に「仮の名前」というものを持っている。それは卒業の際にセミナリオの指導教官から与えられる一種の称号のようなものであって、魔学者はそれ以降、よほど信頼できるもの以外にはこの名前を名乗ることになっている。リュケイオンに入学する者は、もともと生まれた時から本当の名前を明かさないような名門の一族であるか。そうでなければ、その入学の際に全ての過去を消し去ることになっているために。その仮の名前を使っていれば、本当の名前が知られることはなくなるのだ。

 「仮の名前」の一例をあげるならば、今までデニーの話に何度か出てきたエドワード・ジョセフ・フラナガンであれば、フラナガン・ザ・アンサードという「仮の名前」を持っている。もしもフラナガンが魔学者であれば、この場合に名乗るのは「アンサード」の部分だけということになる。ただし、フラナガンの場合には厳密にいえば魔学者ではなく聖職者であるし、一般的な魔学者とは違いリュケイオンに正式に入学しているわけでもないので、普通に本当の名前を使っているのではあるが。

 また、フラナガンのようなケース以外にも、それなりに力強いものの中には名前を隠していない者も多い。リュケイオンの学部長レベルであれば、名前を隠しているのは占秘学部学部長のエクピュローシスだけであるし。デウス・デミウルゴスの中でも名前を隠しているものはごくごく僅かだ。ちなみに、こういった力強い者の中で名前を隠している者達は、どちらかといえば魔学的な力よりも「言霊使い」という特別な種族を警戒している場合が多いのだが……そのことについては、ここで触れるのはやめておこう。ただでさえちょっと長くなり始めてるな?って感じの解説パートをこれ以上伸ばすわけにはいかないですからね。

 それから、デウス・ダイモニカスに関しても、やはり本当の名前を隠していないケースが多い。これまで何度も何度も書いてきているように、ダイモニカスは力強い生き物、マホウ界でも二番目に高等な種族であるからだ。一部の例外を除けば、ダイモニカスは己の名前を明かしているものであって……そして、ここにいるダコイティは、その一部の例外なのだ。なぜなら、ダコイティは、ASKを相手にしているからだ。ASKは、ダイモニカスを狩り獲ることのできる数少ない存在なのであって、そういった存在に対して自分の名前を明かしてしまうことは、大変致命的な結果に繋がり得るのである。

 と。

 そんな。

 わけで。

 ここに集まった十一人のダイモニカスの中で、本当の名前を明かしているのはパンダーラだけだ。パンダーラの本当の名前は間違いなくパンダーラ・ゴーヴィンダなのであり、ちなみにこのようにして名前が公になっている理由については、デニーとパンダーラとが知り合うことになった理由とも関わる、とある事情が関係しているのであるが……その事情は、ここで語られるべきことではない。それはパンダーラのプライバシーに関することであるし、そういうことを勝手に話すということは、普通に考えてよくないことだからだ。とにかく、ここでいいたいのは、パンダーラを除いた十人のダイモニカスの名前は、ここにいる十一人のダイモニカス以外知る者はいないはずだということだ。

 それなのに。

 デニーは。

 その名前を。

 知っていた。

 これは、どうやら……デニーがどういう生き物なのか。特にどれほどの「力」を持つ生き物なのか、ということについての、とても効果的なデモンストレーションとなったようだった。ちょうど、パンダーラとの最初の会見の時に、結界の力を盗み取って、簡易的な椅子の形を形成したのと同じような影響を。ダイモニカスであるか人間であるかを問わず、この場所にいるほとんどのダコイティに与えたということだ。

 しかし。

 そういった影響など。

 デニーに、とっては。

 どうでもいいことなのだ。

 周囲の反応、大して気にしている様子もなく。

 それどころか、気が付いている様子さえなく。

 デニーは。

 ただ。

 言葉を続ける。

〈そんなことより、デニーちゃんがどんなメリットを目的としてダコイティと仲良しさんになろうとしてるかっていうことだよね。このお話は、もうパンダーラちゃんにしてるんだけど……実は! デニーちゃんと、それからもう一人、真昼ちゃんっていう子は、ASKから命を狙われているのです! デニーちゃんはーあ、とある事情から、真昼ちゃんをアーガミーパータから月光国に送り届けるお仕事をしてるんだけどね。ASKにとって、真昼ちゃんはとってもとっても利用価値があるターゲットなの。あっ、真昼ちゃんっていうのは人間の女の子なんだけど。それで、デニーちゃんは真昼ちゃんをASKから守りながらアーガミパータから脱出しないといけなくって……それって、すっごくすっごく難しいことだってこと、ここにいる子達なら分かるよね。だーかーらー、ダコイティの! 皆さんと! 一緒に! ASKをなんとかしちゃおうって思ったわけなのです。そうすれば、ASKのこと、少なくともしばらくの間は気にしなくてもよくなるし……それに、うまくアヴマンダラ製錬所を制圧できれば、ASKのテレポート装置も使えるかもしれないしね。そうすれば、びゅーんって、月光国まで行くことができるでしょ? つまり、そういうことだよ!〉

 デニーは、両方の手、人差指をすっと伸ばして。それから、すっきりとした笑顔を浮かべたままで、そっと目をつむって。デニーにしか聞こえていない軽快なリズムを数えているかのように、伸ばした人差し指と、それに自分の頭を、右に、左に、軽く揺らしながら。楽し気な足取りで、石柱の周りを歩いていた。

 そんなデニーのことを見つめるダイモニカス達の視線は……パンダーラのそれを除いて、明らかに、さっきまでとは違うものになっていた。何か不気味なものを見るような、それでいて……どこか、期待しているような。そんな色合いが、それらの視線に混ざっていたということだ。

 チェヴィ・プーダと呼ばれた。

 質問をした、ダイモニカスは。

 デニーの回答に、言葉を返すことなく。

 無言のままで、崩してしまった姿勢を直す。

 その様子を、確認してから。

 パンダーラが言葉を発する。

〈一つ言っておくことがある。〉

 ダイモニカス達のうちの数人から、その言っておくこととは何なのかという、質問とも相槌ともとれる印象が放たれた。パンダーラは、一度息を吸って、その息をゆっくりと吐きだして。そして、言葉を続ける。

〈今、アヴマンダラ製錬所にはミセス・フィストがいる。〉

 ダイモニカス達から一斉に驚愕の印象が迸り。

 人間のダコイティからも、ざわめきが漏れる。

〈この男がもたらした情報だ。〉

〈それは、本当か?〉

〈少なくとも私は疑わない。〉

 ミセス・フィストという名前は……やはり、ダコイティにとって、非常に大きなものであるようだ。恐れと、それに興奮のような感情が、一斉に噴き出して。それが落ち着くまでには、暫く時間が掛かったくらいだった。ようやく、この場が、少しばかり冷静になってくると。その冷静さを更に広め深めるような、ひどく静かでひどく冷たい印象として、パンダーラが言葉を発する。

〈それでは。〉

 ダイモニカスの一人一人。

 ぐるっと、視線を向けて。

〈この男の提案について、まず私から意見を述べたい。〉

 そして。

 パンダーラは。

 こう発言する。

〈構わないか?〉

 十人のダイモニカス達、それぞれから、パンダーラの発言したことに対する同意の印象が放たれた。一方でデニーは、つむっていた眼のうち右目だけを開けて、ちらっとパンダーラのことを見ると。小さく肩を竦めて、〈どーぞ!〉とコメントしただけだった。

 これらの同意を受けて。

 パンダーラは、続ける。

(私は、この男の提案には反対だ。勘違いしないで欲しいのだが、この男の力を借りてもアヴマンダラ製錬所を落とせないといいたいのではない。この男の力を借りれば、まず間違いなくアヴマンダラ製錬所を落とせるだろう。それどころか、ミセス・フィストを倒すことも可能だと、私はそう確信している。それでも、私はこの男の提案に反対するということだ。

〈理由は二つある。まず一つ目は、この男は信頼できないということだ。この男は、絶対に、信頼してはいけない。恐らくこの場にいる者達は、この集会が始まる前に、同志オカティと同志レンドゥからこの男がどういう生き物なのかということを聞いているだろう。ということは、我々の土地がASKに奪われた時に、この男がどうやって裏切ったのかということも聞いているはずだ。私は、その時に、この男を信頼して……そして、それは完全な間違いだった。同じ間違いを、二度と繰り返すつもりはない。

〈二つ目の理由だが、この男は「悪」だということだ。この男は「悪」そのものだ。この男には、我々に備わっているような、善意や共感といった精神の動きは備わっていない。この男は自分の欲望によってのみ行動し、そしてその欲望は全て悪しき欲望だ。この男がすることは一つ残らず悪しき結末に帰着する。一見そうは思えなくても、最後の最後には、必ず最悪の終わりを迎える。だから、この男に手を貸すということは、その手を悪に染めるということだ。この男の悪しき欲望に手を貸すということ、最悪の結末を招来するということ。そんなことはしてはならない。仮に、この男を信頼できるとしても。アヴマンダラ製錬所を落とし、ミセス・フィストを倒せるとしても。目的のために手段を正当化することは許されない。正しい目的は、正しい手段によって達成されなければならない。そうしなければ、私達も、結局のところはASKと同類になってしまうからだ。

〈この二つの理由により私はこの男と手を組むことに反対する。この男に手を貸せば必ず後悔する結果になるし、そうでなくても私達が私達であろうとする限りは、この邪悪に手を貸すべきではないということだ。以上で、私の発言を終わる。〉

 ちなみに同志オカティと同志レンドゥというのは仮の名前であって、それぞれダクシナ語で「一人目」と「二人目」ほどの意味の言葉だ。また、先ほど本当の名前を明かされてしまったチェヴィは同志トニミディという仮の名前を使っており、これは「九人目」という感じの意味合いである。

 それはそうと、パンダーラの発言が終わると共に。少なくとも人間のダコイティの間、つまり観客席においては、ざあっと音を立てるような、そんな雰囲気が駆け巡った。それは賛同の意と、称賛の念と、それに畏敬の感覚により構成された雰囲気だ。賛同の意というのは、いうまでもなくパンダーラの意見に対する賛成の声が上がったということであり。称賛の念というのは、パンダーラが賢く、その上どこまでも正しくあろうとしているということについての、ある種の喝采だ。そして、畏敬の念というのは、そのように賢く正しいダイモニカスが自分達のリーダーであるということに対する感謝の祈りである。

 ただ、さすがに……この演説だけでこれほどの反応が示されるのは、ちょっと変なことであって。この反応には、それ以外の要因が関係していることも事実であった。それは、パンダーラの演説の中にも少し出てきたのだが、この会場にいるダコイティ、ダイモニカスも人間も、デニーがどういう生き物なのかということを予め聞かされていたという理由である。

 パンダーラ(とデニーと真昼と)は、一度森の外に出て、ガードナイト汚染に対する初動防疫を行ってからここに来た。他のダコイティは、もちろん森の中にいて、真っ直ぐにこの広場に来たのであって。そのため、パンダーラ(とデニーと真昼と)よりもかなり早くここに着いていたのだ。そして、到着時刻にそのような差が出ることを予測していたパンダーラは、この集会についての連絡をした際に、オカティとレンドゥに対して、デニーについて、どういう力を持った生き物なのか、どういうことをしてきた生き物なのか。そういったデニーのプロフィールを、大雑把にでいいから話しておくように伝えていたのだ。

 オカティと。

 レンドゥは。

 デニーのことを「知っている」二人だった。

 まあ、パンダーラほどでは、ないにしても。

 さて、一方で、デニーは。パンダーラの演説が終わると、閉じていた両目をしぱーっと開いて……くすくすと笑い始めた。〈んもー、パンダーラちゃんってば〉〈ひっどーい!〉という言葉を、耳元をくすぐるみたいにして放ちながら。それから、まるで、他愛もない悪戯みたいにして、右の手を自分の顔の横の辺りまで差し上げると。その手のひらをぱっと開いた。

 すると……有り得ないことが起こった。いや、有り得ないことではない、既に有り得てしまっているのだから。つまり、それは、あり得てはいけないことだった。

 何が起こったのかといえば。この演壇を包み込んでいたアウラ、その防壁の壁面に書かれていた絵が、ふわりと浮き上がったのだ。もともとその絵はアニメーションのように動いていたのであって、アウラに固定されていたわけではないというのは確かなのだが。それでも、デニーによってその絵が動かされるということは。ここにいるダコイティ、パンダーラを除くダコイティにとって、大変ショックなことだった。なぜなら、このアウラは、この演壇の上にいる十一人のダイモニカス達によって発生させられたものだからだ。集会が行われている間、その聖なる空間を守る防壁。多分に儀式的であって、さほど実用的な意味を持つわけではない。そのため、戦闘時に使うものとは違って、それほど強いものではない。それでも、デニーがしたことは、大変重要な意味を持つことだった。

 そもそもデニーは、既にこの防壁の中に入っているのであって。ここでもう一度ショックを受けるというのは、おかしいと思われるかもしれない。だがその認識は間違っている。なぜなら、デニーがここに入ってきた時は、ただ破っただけだったからだ。ついさっき書いたように、このアウラは儀式的なものであって、強度としてもそれほどではない。というか、この集会に参加する資格があるもの、それなりの力があるものなら、誰でも入ることができるようなものだ。まあ、それでも、「それなりの力がある」というのは「ダコイティのリーダーであるダイモニカス」程度の力があるということなので、だからこそ人間のダコイティは、デニーがこの防壁を破った時に驚愕の色を見せたのだったが。とはいえ、そこに描かれた壁画の操作は……それとはまったく別の行為、それよりも遥かに高度な行為なのだ。

 破壊ではなく。

 それは、操作。

 一匹の獅子を殺すのは、比較的簡単でも。

 その獅子を己の僕とすることは、困難だ。

 要するに、デニーは。このアウラを構成している魔学的理論を、完全とは言わないまでも十分に理解していて。その理論を、自分の都合のいいように書き換えることができたということなのだ。魔法円の調整や、あるいは根源情報式の再定義ほどではないにしても。それは強い「力」を持つ何者かでなければできない。

 ただ、いくら他の生き物にとって衝撃を受けるような行為であっても。当の行為者、デニーにとっては、ちょっとした冗談みたいなことだった。開いた右の手のひらを、おどけたように観客席の方に向かって振って見せるデニー。そんなデニーが壁から引き剥がした絵は、ひらひらと揺らめきながら、その右手のすぐそばにまでやってきて。デニーは、それらの図像、何匹も何匹もの牛の図像を、自分の周囲で泳ぐように躍らせて。それから、やがて、大したことのない遊び事みたいにして……そのうちの一匹の上に、ひょいっと右足を乗せた。

 右足を乗せた後。

 その先の図像に。

 左足を、乗せて。

 右足。

 左足。

 右足。

 左足。

 デニーは、次々に、自分の前に配置した牛の図像に足を掛けて。何もない空間を駆け上がって行く。それは、まるで、スキップ紛いの足取りで階段を駆け上がって行く子供。デニーの体は、星から星を踏んで超えるように、どんどん高い所へと昇っていく。

 デニーが軽やかに飛び跳ねるその「階段」は、どうやら螺旋階段の形をしているようだ。広場の中心の、あの石柱に巻き付くみたいにして、くるくる、くるくる、螺旋。デニーはその「階段」を昇って行って。そんなことをしながら、こんなことを口遊む。

〈デニーちゃんは!〉

 下にいる、ダイモニカス達を。

 本当の意味で見下ろしながら。

〈発言を求めまーす!〉

 そう言われた方の、ダイモニカス達は。つまるところ、その発言を却下することはできないのだ。なぜならこの場所は、ある程度の民主制が保たれている場所なのであって、その者に対して予め発言の権利が認められているのであれば、それがどんな生き物であっても……デニーのような、本当に本当の悪魔であっても。その者の発言を拒むことができないからだ。この事実から、民主主義というものがいかに愚昧なシステムであるかということが露呈するのであるが。ただし、その事実については、さしあたりこの物語とは関係のないことである。とにかく、ここでいいたいことは、ダイモニカス達は、デニーに対して発言の許可を与えることしかできなかったということだ。

 許可を得たデニーは、至極満足そうに首を傾げると。

 ぱーっと広げた両腕を、元気よく前後に振りながら。

 このように、言葉を続ける。

〈デニーちゃんは、デニーちゃんの提案にだーいさんせい! ここにいるみんなは、デニーちゃんとお友達になって、仲良く一緒にASKを叩き潰しに行くべきだと思いまーす! だってだって、よーく考えてみて。そうしないと、一体、どんなことになるのかっていうことを。

〈ねえねえ、このまま、こんな少ない人数で、今の状況をどうにかできるのかなあ? えーと、この森にいるダコイティが、ここにいる子達で全員かどうかっていうことはデニーちゃんには分からないんだけど。でも、ここにいる子達の十倍の人数がいたってどうしようもないーってことは、やっぱりそれはそうだよね。だって、アダヴィアヴ・コンダには、マーラだってさぴえんすだって、ここにいる子達の百倍はいたんだし。それにも拘わらず、ASKには敵わなかったわけなんだから。あっ! えーと、もちろん……そういう子達が殺されてた時には、ASKはRegions and Corporate Relationsのチームをここに送り込んでたよね。それで、今はそのチームは別のところでRelationsを育んでるんだろうけど。でもさーあ、それってあんまり関係ないよ。だって、そのチームがいてもいなくても、実際に、ダコイティは、ASKに手も足も出せてないもん。

〈と、いうことは! このままだと、ここにいる子達はみんなみーんな死んじゃうってわけ。ASKに殺されて素敵で便利な商品に加工されちゃうのか。それとも、そんなことになるくらいはーっていうことで、自分で死んじゃうのか。残されてる選択肢ってさーあ、それくらいだよね。それでもまあ……んー、ここにいる子達は別にいいって思ってるのかもしれないね。さぴえんすとか。さぴえんすとちょーっと仲良くなり過ぎたダイモニカスとか。そういった子達って、自分のことを大切にしようーとか、なるべく死なないようにしようーとか、あんまり思わないみたいだから。死んじゃうなら死んじゃういいですって思ってるんだよね? なんだっけー、さっきパンダーラちゃんが言ってたよねー。「正しい目的は、正しい手段によって達成されなければならない」だっけ。正しくないことをするくらいなら、死んだ方がいいって、そーいうこと? うんうん、そうだよね、それはそれで一つの考え方だよね。それはそれで全然いいよ。みんなが死んじゃっても、別に、そのせいで、デニーちゃんが死んじゃうわけじゃないし。デニーちゃんはみんなの考え方を尊重します!

〈でもね、みんな、ちょーっとだけ考えてみて? みんながいう、「正しい」ってなあに? デニーちゃんは……んー、よく分かんないんだけど。たぶんさあ、「より多くの命を救うこと、ただしこの命の中には自分の命は含まない」ってことなんじゃないのかなあ。すっごくすっごく簡単に言うとね。で、これを基本として考えていくと、パンダーラちゃんの言う「正しい方法」じゃない方法っていうのもなーんとなく分かってくることになるの。つまりそれは「他の命を奪う可能性がある方法」っていうこと。うわー、分かりやすくなってきたね! で、こう考えると、さっきパンダーラちゃんが言った「正しい目的は、正しい手段によって達成されなければならない」っていうのも、分かりやすく言い換えられるよね? つまり、こういうこと。「自分の命を除いたより多くの命を救うこと、ただしその過程で極力他の命を奪ってはならない」。はい、これで考えるべきことがはっきりしたね。

〈さてさて! こうしてはっきりさせたパンダーラちゃんの意見を、今回のケースに当てはめてみましょう! そうすると、ここで考えなきゃいけないのは一つだけってことになるよね。デニーちゃんとお友達になることで、果たして、誰か他の人の命を奪うことになるのかということ。ねえ、ねえ、ねえ! よく考えてみて、よく考えてみてよ! もしもデニーちゃんと一緒に反乱を起こすとして、その相手はだあれ? ASK! ASKなんだよ! アヴマンダラ製錬所に、誰かダイモニカスはいる? 誰か人間はいる? いないよね、一人もいないよ。誰もが知ってる通り、ASKの採掘・製錬拠点はぜーんぶ機械化・自動化されてるんだから。と、ゆーことは、デニーちゃんが誰かの命を奪うっていうのは論理的に不可能ってことになるよね。もーっちろん、オートマタはたくさん壊すことになるだろうけど……それだけ! それがどうしたっていうの? 何か問題がある? なんの、問題も、ありませーん!

〈一方で、デニーちゃんと一緒に反乱を起こすことで、一体どんないいことがあるのか! ASKを倒すことができる、アヴマンダラ製錬所を潰すことができる。そして、もしかしたら……ミセス・フィストを壊すことだってできるかもしれない! そうすれば、もしもミセス・フィストを壊すことができれば。もう、暫くの間、SKはアダヴィアブヴ・コンダに戻ってこないよね。だーって、そうでしょー? アーガミパータの地域担当者を壊されちゃったら、ASKだってすごい損失だし、そんな損失を出すようなところは、開発したいとは思わないはずだもん。そうすれば……ここにいる子達の命は、守られることになるってわけ。

〈みんな、隣を見て。右隣を見て、左隣を見て、前を見て、それから、後ろを見て。みんなはね、勘違いしてるんだよ。「自分の命は失っても構わない」、みんなはそう思ってるんだよね。でもね、デニーちゃんと仲良しにならないことで、みんなに起こる悪いことは、「自分の命を失うこと」だけじゃないの。右隣の人が、左隣の人が、前の人が、後ろの人が。死んじゃうっていうことなの。ねえ、どう思う? それは、いいことなの? それは「他の命を奪うこと」にはならないのかな? それに、それだけじゃないよ。みんながみんな死んじゃったら……アヴィアダヴ・コンダは、完全にASKのものになっちゃうってことで。そうなれば、この森に生きている、他の命も、ぜーんぶなくなっちゃうってことになるの。だってだって、ASKにとって、この森もそこに生きている生き物も、大した利益にはならないものだから。そんなものを取っておく必要なんてないよね。どう? 本当にそれでいいの?

〈それに。

〈何より。〉

 デニーは、そこまで話すと。

 ふっと印象を途切れさせて。

 「階段」を上っていた足をいきなり止めた。牛の絵のうちの一匹に、右足だけを載せて。反対の足、左足は、ゆらゆらと置き所なく揺らめかせて。それから、右の手のひら、目の前の何かを指し示すみたいにして、すっと差し上げた。デニーが足を置いていない牛の絵が、そのデニーの手のひらに向かって集まってきて。まるで、互いに、戯れ合うように躍り始める。

 デニーは。

 そんな牛の絵、を。

 うっとりとした顔。

 眺めながら。

 言葉を続ける。

〈もちろん、カーマデーヌのことも忘れちゃダメだよね。〉

 デニーがその言葉を発すると。観客席の人間達からも、それどころか演壇の上のダイモニカス達からも、まるで一時に押し寄せてくる大波のようにして、ざあっと怒りの感情が沸き上がった。この前に、デニーがその言葉を発した時に起こったことと同じように。あの時に、ダコイティが示した反応と同じように。怒りのざわめきが起こったということだ。

 真昼の隣にいたあの女さえも。声こそ発しなかったものの、明らかに、デニーのことを、嫌悪と憎悪とが入り混じった視線によって、その感情の温度によってデニーのことを殺そうとしてでもいるかのように睨み付けていた。真昼には、カーマデーヌと呼ばれているものがなんなのか、全く分からなかったのだけれど。どうやら、ダコイティにとっては、非常に重要な何かであるらしい。何かシンボルのようなもの、聖なるシンボルようなもの。そして、たぶん、それは何らかの生き物だ。

 そして、デニーは。

 これもやはり、この前の時と、同じように。

 その怒りの感情、全く気にすることもなく。

 言葉を続ける。

〈カーマデーヌ、カーマデーヌ、カーマデーヌ! アヴィアダヴ・コンダの、ぜーんぶの豊饒を、作り出してくれていた子! それなのに……今は、ASKに、取られちゃって。そのせいでさーあ、ほらほら、見てよ。森が、こーんなに小さくなっちゃって。その小さくなった森だって、いつまでもつか分かんないーってなっちゃって。あーんなに貴重であーんなに有用な生き物を、誰かに取られちゃったっていうことが……どういうことなのかっていうことはね、さすがにね、デニーちゃんもきょーかんできるよ。デニーちゃんだって、もしもみんなだったら、あんなに便利な生き物、絶対に手放したくないーって、そう思うもん。だから、みんなが、どれだけあの子を取り戻したいのかってゆーこと、とっても、とーっても、よく分かるの。うんうん、よく分かるよ! だってさーあ、あの子がいれば、好きなだけ「力」が手に入るものね! そんなカーマデーヌを……デニーちゃんとお友達になれば、取り戻すことができるんだよ。〉

 デニーの。

 その言葉。

 どうやら、かなり見当外れというか、ダコイティの気持ちを全く理解できていないのだろうということは、真昼にさえ分かることだった。デニーは明らかに、そのカーマデーヌという生き物を利用すべき対象としてしか見ていない。その生き物から「力」、それがどんな「力」なのかは分からないが、何かとても重要な「力」を得ることができるという、ただそれだけの道具としてしか見ていない。それに対して、ダコイティにとってのカーマデーヌは……先ほども書いたように、聖なるシンボルであって。ある種の信仰の対象でさえあるようだ。

 ということで、当然ながらそういったデニーの態度がダコイティにかなりの反発を巻き起こしたのは事実だ。そこら中から、ブーイングと呼ぶのさえ生易しいような罵声が飛ばされて。しかし、それでいて……ダコイティが、確実に、デニーの話に飲み込まれかけているというのもまた事実だった。罵声のそこここにほとんど無意識のうちに混ざっているのは、蠕々と柔らかい疑問の響きだ。もしかして、本当にもしかしての話だが……この男の言っていることは、考慮に値することなのではないか? 懐疑によって彩られた反抗、それは浅い土の中に埋められた種、根を張ることのできない芽であって……アーガミパータのような土地では、焼け付く太陽の光によってすぐに枯れてしまうだろう。

 さて、デニーは。

 耳を、傾ける。

 そんな罵声が。

 音楽であるかのように。

 いつだって……いつだって、弱者の罵声というものは心地よいものだ。その弱者の命が自分の手の内にあることを知っている者にとっては、より一層耳触りがよく聞こえる。いつまでも聞いていたいところだが、残念ながらそういうわけにもいかない。だから、デニーは、それらの罵声が少し静まってくるとともに、また話の続きを始める。

〈んー。これで言いたかったこと、だーいたい言い終わったかな。あっ、でもでも、もう一つだけ付け加えることがあるかも。あのね、あのね、ふふっ、ふふふっ……あはははははははっ! ごめんごめん、ごめんね、ちょーっとおかしくなっちゃって。みんなもこれを聞いたら、ぜーったい面白くなっちゃうと思うよ。えーと、つまり……数日以内に、ASKが、この森に攻め込んでくるってだろうこと。

〈ほら、ね? 楽しみーって気持ちになったでしょー! この森が焼き払われるんだよ! ばばーって、なーんにも残らず焼き払われるの! それから、ここに住んでる生き物、みーんな、みーんな、殺されちゃうよ! るん、るん、るん、ね? 歌お? 歌おうよ。死にぞこないの呻き声! 骨が砕かれる音! 何かが泣いてる、何かが泣いてる。血しぶきの赤色。脂肪の黄色。きらきら光る、ダイモニカスの折れた骨! 内臓が潰れる時の柔らかい感触。羽を引き千切る時の軽い触り心地。燃えてる、燃えてる、世界が燃えてる。視界に入るものの全てを焼き払う真っ白な火。それに何より! 激痛! 苦悶! 絶叫! ああ、素敵な歌を歌おうよ。あははっ! 虐殺だよ、デニーちゃん、虐殺、だーい好き! さいこーだよね、ね? んー! みんなも好きだよね! 虐殺! すっきりするもんね。だからさー、今から楽しみでしょー? ASKがここに来るのが。ASKがここで虐殺するのが。ただ、まあ、んー、虐殺されるのはみんななんだけど。

〈デニーちゃんがこの森までASKのシャトルシップに乗ってきたっていうことは言ったっけ? 言ってないよね。ちょっと色々あって、ASKとどんどんっぱちぱちっってなっちゃって。仕方なくシャトルシップを盗んで、この森の入口のところまで、その盗んだシャトルシップで来たの。それで、当然だけど、ASKがそういうシャトルシップに位置情報の発信機を付けてないわけがないじゃないですかー。ということは、つまり、ASKは、この森の入口のところまでデニーちゃんと真昼ちゃんとが来たってことを知ってるってことになるよね。シャトルシップ自体は、ちょーっと前に、パンダーラちゃんがぱーって消し去っちゃったんだけど。それでも、たぶん、ASKはこの森の中にデニーちゃんと真昼ちゃんとがいるっていうこと、推測がついてると思うんだよね。

〈そしてそして! ASKは、なんとしても真昼ちゃんのことをげっと!したいって思ってるわけ。そのために、あんな辺鄙なところにある製錬所、アヴマンダラ製錬所まで、ミセス・フィストを派遣してくるくらいにねー。と、なると……やっぱり普通に考えれば、この森に攻め込んでくると思うんだよね。ほら、だってちょうどいいじゃないですか! ASK的には、ずっとずーっとこの森が邪魔だって思ってたんだし。この際、攻撃して、この森を焼き払って。その上真昼ちゃんも手に入るーってゆーなら、一挙両得!って感じになるでしょお? デニーちゃんならやっちゃうなー、一回分のこすとで二回分のべねふぃっとってなるんなら、今しかないって思うよね。

〈そんなこんなでASKがここに攻め込んでくるのはほとんど確実ってことでーす。ASKは決定が速いし、決定した後の行動も早いから、準備が整い次第すぐに始まるだろうねー。さっきは、デニーちゃん、数日中って言ったけどお。んー、もしかしたら明日か明後日にも始まるかもしれないかなあ。そうなったら、この森はもうお終いだよね。もちろん……今までのお話は全部、デニーちゃんとお友達になって、先にASKを潰しておかない限りはってお話だよ。はい! デニーちゃんの言いたいことはこれでほんとーに終わりです。ごせーちょうありがとうございました! 拍手!〉

 いうまでもなく、誰一人拍手するものはいなかった。しかし、ある意味では……その反応は、万雷の拍手と似たようなものだった。つまり、デニーの発言に対して帰ってきた反応は、ほぼ完全な沈黙だったということだ。

 デニーが話している間、次第次第に、デニーを悪罵する声は静まっていって。今では口を開くものさえいなかった。あたかも……既にこの森の入口のところまでASKの軍勢が迫っていて、その軍勢に自分の居場所を知られることを恐れている、とでもいうかのように。ノスフェラトゥや洪龍などの一部の高等知的生命体を除いて、ほとんど全ての生き物に関していえることなのだが。彼ら/彼女らは、緩慢にやってくる脅威に対して驚くほど鈍感になれるものだ。一匹の蛙、水を満たした鍋に入れて、ゆっくりじっくり弱火で熱してみるといい。きっとその蛙は自分が茹ってしまうまで、その鍋の中に留まることができるだろう。だが、同じ蛙を煮立った鍋の中に入れてみれば……即座にその鍋の中から飛び出そうとするに違いない。

 要するにそういうことなのだ。ダコイティは、特に人間達は、いつか来るであろう破滅には耐えることができる。今ここにない破滅、それは必ず来るに違いないのだが、少なくともここには存在していない。いつかASKが攻めてくるだろう、そしてその時には自分達は皆殺しにされるだろう。そういった「予感」にならばいくらでも耐えることができる。

 しかし、差し迫った脅威は全くの別物なのだ。明日にもASKがこの森にやってくるかもしれない。明日にもこの森は燃やされるかもしれない。明日にも、自分が、死ぬかもしれない。こういった脅威は「予感」ではなく「現実」なのであって。デニーのこの発言は、人間達にとって、沸騰した熱湯に叩き込むのとほとんど同じ効果を持つものだったのだ。

 沈黙は。

 重く沈み。

 べったりと。

 空間に満ちる。

 けれども、そんな中で。

 その沈黙を引き裂くみたいにして。

 一人のダイモニカスが声を上げる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る