第一部インフェルノ #19

 アーガミパータにおいて通常の方法でテレポートを行おうとすると大変な苦労が伴う。ちなみに、ここでいうテレポートとは「ある地点から別の地点まで、その二点間を隔てている空間を通過せずに移動する」ということであり、通常の方法とは「移動させる物体を純粋な情報にまで分解して、その情報を移動先の地点で証明する」方法と「空間を変形させることによって、移動前の地点と移動後の地点を接続する」方法の二つだ。

 それはなぜかというと、簡単にいえばマホウ界とナシマホウ界が混ざり合ってしまっているせいだ。この物語の最初の方でも書いたのだが、アーガミパータは第九階層から第一階層までの全てのリリヒアント階層が入り混じり、一つの世界を作り出している。だが、本来ならば、マホウ界は魔学的な原理によって律せられた世界であり、ナシマホウ界は科学的な原理によって律せられた世界であるはずだ。この二つがぐちゃぐちゃになっているということは、つまるところ、時空間が切り刻まれ、根源情報式が歪み切って、世界自体がめちゃくちゃになっているということなのだ。

 時空間が切り刻まれているのにも拘わらず、それを考慮に入れずに空間を変形させれば、目的としていた場所とは異なった地点に空間を接続してしまうことになるだろう。根源情報式が歪んでいるにも拘わらず、それを考慮に入れずに情報の証明を行ってしまえば、移動前の情報と全く異なった情報として証明されかねない。ということで、このような悲劇的な結末に終わらないためには、アーガミパータにおける、時空間の断絶、あるいは根源情報式の歪曲、そういった条件に付いて熟知しておかなければならないのだ。少なくとも移動前の地点から移動先の地点までの状態については完全な情報を手に入れておかなければならない。

 一般的に、アーガミパータにテレポート装置を設置する際には、幾つかの地点を選んでそれらの地点の間に「ルートを通し」ておく。「ルートを通す」というのはアーガミパータでよく使われる俗語であって、ある地点からある地点までの間の断絶・歪曲を予め計算した上でそれを記録しておくということだ。こういったテレポート装置は、その記録してある地点間のテレポートしかできない物、ちょうどワーム・チューブ式の瞬間移動装置のような物になる。ちなみにこの物語の時点ではボールドヘッドは未だに可撓性ワーム・チューブを開発していない。

 と、いうことで。

 ここまで、長々と説明してきて。

 結局何がいいたいのかというと。

 たった今起こった、この出来事は。

 テレポートではないということだ。

 #18の最後のシーン、パンダーラが持っていたライフルで大地を突いた瞬間に。その「とんっ」の瞬間に、真昼はちょっとした眩暈を覚えた。なんというか、よくある立ち眩みのような感じだ、あるいは、自分の足元に敷かれていたシーツか何かをいきなり引き抜かれてしまって、一時的に平衡感覚が狂ってしまった、みたいな。意識を失うというほどではないが、ほんの一瞬だけ、ふっと思考が飛んでしまって。そして、その思考を取り戻した時には……目の前に、あの送迎船の残骸が横たわっていた。

 送迎船が? なぜ? しかもそれだけではなかった。唐突に、目を焼くような光が真昼に襲い掛かってきて。あまりの眩しさに、思わず両手で目を覆ってしまった。何が起こったのか分からない、けれども、明らかに……今、真昼が立っている場所は、ついさっきまで真昼が立っていた場所とは違った場所であった。たった今、見たばかりの光景には。ふらりと世界が揺らぐ瞬間まで見ていた光景のような、森の中の薄暗さは欠片もない。それに、足元は……少しだけ、足を動かしてみる。あの、埋もれてしまいそうな、がさがさとした枯葉の感触ではない。これは、これは、ふわふわとした草原の踏み心地。

 目を覆った真昼の耳に、パンダーラの声、#18の終わりにも書いた、あの「いつものことだが」という声が聞こえてくる。真昼は、その声を聴いてから……恐る恐る、両方の瞼から、自分の手のひらを、放していく。

 思い切って目を開くと、そこには、目をつぶっている間に予想した通りの光景が広がっていた。つまり、さっきまでいたはずの森の外側。デニーと真昼とが乗ってきた送迎船が、大変痛ましく落下した、あの場所だ。

 つまり、真昼は。

 あの場所から。

 この場所まで。

 瞬間的に。

 移動したということだ。

 しかし、繰り返しになるが、これはテレポートではない。詳しい説明は省くが、「御神渡り」と呼ばれている移動手段であって。人が歩くように、鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように、神々が空間を渡るやり方だ。これは基本的に神々の移動方法であるが、ダイモニカスの中でもそれなりに強力な個体であればできないわけではない。また紫内庁高官やベイン・ナイツ、シークレット・フィッシャーズのハイレベルエージェントなど、ほんの一握りではあるが、人間の中にもこれを行える個体が存在する。

 ただ、魔学の勉強をまともにしてこなかった真昼は、残念ながらこれを何らかの種類のテレポートだと思ってしまったのだが……まあ、それはいいだろう。ここで真昼が何を勘違いしようとも、大勢に影響はないのだから。とにかく、真昼は、御神渡りによって、さっきまでいた森の中から、森の外側、送迎船の残骸がある場所にまで、一瞬で運んで来られたのだった。

 あたりを見回してみる。

 すると。

 ここにいるのは。

 自分と。

 パンダーラと。

 それにデニー。

 三人だけだということが分かる。

 自分が、いきなり、別の場所にいたという事実に。かなりおたおたとしてしまった真昼とは違って、案の定というか果せるかなというか、デニーは全く平然とした顔をしていた。ただの平然とした顔ではなく、とっても可愛い平然とした顔であるが、なんにせよ動揺はしていないようだ。

 そして、ここにいるもう一人、パンダーラであるが。そのパンダーラがどんな顔をしているのかということは真昼には分からなかった。真昼に対して背を向ける格好だったからだ。ただ、そのおかげで、顔を見る代わりに別のものが見えた。あの薄暗い森の中で、しかもパンダーラが正面を向いている時には、全く気が付かなかったものだ。

 それは。

 パンダーラの、腰の辺りから。

 パンダーラに不似合いなほど。

 優雅に。

 典麗に。

 垂れ下がっている。

 孔雀の、尾だ。

 王妃の纏うケープのように。惜しみなく束ねられた何本もの羽は、高貴なる有様で大地を掃いている。鮮やかに煌めく緑によって縁取られているのは、眼球にも似た青と赤の斑点。角膜が赤で、光彩が青、それより深い瑠璃の青は瞳孔だ。幾つもの、幾つもの、眼球が、あたかも真昼のことを凝視しているかのように……美しく、ただ、そこに描かれている。

 これもまたパンダーラがいかに強力なダイモニカスであるかということの証明であった。額の目と孔雀の尾、二つの異相を持つということは……少なくとも、第二次神人間大戦前を生き延びたダイモニカスであるということは確実だ。そういえば、デニーも言っていたような気がする。パンダーラとは、第二次神人間大戦の時からの付き合いであると。

 さて、パンダーラは。

 そんな尾を、ゆっくりと、艶やかに。

 それでいて、粗野に引きずりながら。

 送迎船の残骸が。

 散らばっている方向へと。

 歩いていく。

 残骸は……#16の最初のところ、墜落のシーンでも触れた通り。天堂から地獄まで一直線に落下した絹漉豆腐もかくやと思うくらいのばらばらさで砕け散っていたのだけれど。とはいっても、その欠片・断片が散らばった方向というか、地帯というか、そういった諸要素に法則がないわけではなかった。まあそれも当然のことであって、この墜落は(完全というわけではないにせよ)そのほとんどがごくごく普通の物理法則の支配下に行われた墜落なのだ。その過程で発生した欠片・断片が、ほぼほぼ支配者である物理法則が指示する通りの地点に落下するという現象に、なんら不思議を覚えることはない。

 何がいいたいのかといえば、それらの残骸の全ては一本の直線の周りに散らばっていたということだ。送迎船が大地へと向かって突っ込んできた時に向かっていた方向。それは草原から森に向かう方向ということだが、そこに真っ直ぐな線を一本引いて、その線の周囲、ちょうど統計学における線形回帰のグラフみたいにして、残骸が点在していたということだ。

 パンダーラが歩いて行ったのは、そのグラフの原点ともいえる場所であった。もちろんこの比喩は、線形が原点から開始しているという前提の下での比喩であるが。とにかく、その場所とは、墜落の終結点であり、あの最も大きな残骸……巨大なクニクルソイドの、その顔面が横たわっている場所のことだ。

 未だに。

 死に損なっている。

 クニクルソイドは。

 ぱくり、ぱくり。

 無残にも引き裂かれた。

 魚か何かみたいにして。

 その口を。

 開いたり、閉じたり、している。

 色は……既に、巨大なクニクルソイドの頭部に寄生した小型のクニクルソイドをも完全に覆いつくしてしまっていた。その小型のクニクルソイドは、やはりまだ死に切ってはいないのであるが、その目、その窪みは、何も見ていないようだった。いや、まあ、ただの窪みなんだからそもそも何かが見えるようなものではないだろうという話なのだが、そういうことではなく、焦点の合っていない曖昧でぼんやりとした表情になってしまっているということである。癲癇の発作にも似た痙攣は止まっていて、指先がぴくぴくと、余韻のように震えているだけだった。また、それだけではなく。その口の端から滴り落ちている液体さえもが色によって染められていて。その体の下に滴った液体は、べったりとした油だまりのようにして、ガードナイトの色によって草原を汚していた。

 パンダーラは、そんな断片の、真正面に。つまり巨大なクニクルソイドの顔が、そちらを見ている方向の、真正面に。すうっと、一筋の不吉な影みたいにして立っていた。不吉な影。不吉な影? 実は、真昼は、一度だけ、死神を見たことがあった。本当の、本物の、死神だ。

 その「事件」は、この物語にはほとんど関係がない。その「事件」のせいで真昼は重藤の弓を左手に刻むことになったので、多少は関係がないわけではないが。とにかく、ここでその「事件」に立ち入ることは差し控えさせて貰う。豚頭をした、シルクハットの、とても紳士的な、死神。真昼はその死神に出会ったことがある。ただし、その時の記憶は、真昼からはほとんど完全に拭い取られているのであって……何か訳の分からない印象として、不確かな印象として、真昼は、そのパンダーラの姿が、何かに似ているような気がした。とても不安な、死そのもののような、何かの姿に。

 死に損ないの魚、に。

 運命を伝えるために。

 やって、きた、死神。

 しかし、とはいっても。魚と寄生虫とは、その死神の存在にさえ気が付けないほど衰弱しきっているようだった。それでいい、別に構わない。運命には自己主張というものはなく、ただ淡々と執行するだけの、ある種の官僚制度なのだから。パンダーラ、今回の運命の執行官は……ふと、声を聴く。その声はデニーの声だった。デニーは、いつの間にか、パンダーラがいる場所、真昼がいる場所から、随分遠くの方に離れていて。それがなぜかは真昼にはよく分からなかったのだが、とにかく、その離れたところから、両手を拡声器みたいな形にして、こう叫びかける。

「パンダーラちゃーん! デニーちゃんも、なんか手伝おっか?」

「必要ない。私一人でやる。」

「分かった! ありがとー、よろしくねっ!」

 真昼は、その会話を聞いて。なんだかよく分からないけれど……今自分が立っているところに立ったままでいることは、大変危険なことであるかのように思われてきた。急に、服と背中の間、凍り付いた真鍮の液体を流し込まれたかのように。こう、何というか、背骨のあたりにぞっとした寒気を覚えたのだ。慌てて、ちょっとした小走りみたいな感じでその場を離れて。そして、デニーがいるところにまで退避する。

「あんた。」

「ほえ?」

「なんで、こんなところにいるの。」

「こんなところって?」

「だから……なんで、あの人から、こんな離れたところにいるの。」

「ええー、決まってるじゃーん! 巻き込まれないようにだよ。」

「巻き込まれないようにって、何に。」

「あれにっ!」

 そう言って、元気よく指差したデニーの指の先で。パンダーラは、静かに、静かに、右腕を差し上げていた。右腕? だが、パンダーラの右腕は、二の腕の真ん中辺りから切断されていて、失われてしまっていたはずではなかったか?

 いや、それなのに、それにも拘わらず。パンダーラは、送迎船の残骸がある方向に向かって、その右手、手のひらを、何かしらの宣告みたいにして広げてさえいた。手のひら……手のひらの、形をしているもの。けれども、それでいて、完全に、血と肉と骨によって構成された体ではない、何か。

 いつの間にか。本当にいつの間にか。パンダーラの腕の、その切断面から発生していたものは。聖なる、聖なる、光だった。あるいは、かくも忌まわしく、かくも厭わしく、輝いている光。熱でもなく冷でもない、ただただ純粋な波動が。その光から放たれたエネルギーとして真昼のいる場所にまで伝わってくる。その光は……あらゆるものを照らし出しているみたいだった、あたかも、太陽のように。

 そう、それは。パンダーラの腕の代わりに、腕の形をして、そこに新しく生えていたものは。太陽と同じほどに、鮮烈で熾烈な光の色をして光っている光であった。絶対的でありながらも、真昼の目を焼き尽くすことさえしない光。それは、ある意味では光ではない。もっと魔学的で、もっと真聖な、概念としてのエネルギーであって……つまるところ、それは。

 神々の力である。

 セミフォルテア。

 パンダーラは、その切り落とされてしまったらしい腕の代わりに、己の身のうちで燃え滾り凍り塞ぐセミフォルテアを錬成して、新しい腕として形作っていたのだ。凄絶な光は、まるで固形物であるかのようにして、滑らかな曲線と柔らかい角度を描きつつ。パンダーラが着ている戦闘服を焦がすこともなく、長く伸びる腕と、ぼんやりとした境目を持つ手のひらとを映し出していて。

 確かに、ダイモニカスを作り出しているエネルギーは純粋なセミフォルテアであるというわけではない。だが、あらゆる科学的な力がオルフォルテアの一つの局面であるのと同じように、あらゆる魔学的な力はセミフォルテアの一つの局面でしかない。ということで、強力なダイモニカスは、己の身の内にある魔学的な力を深化させることによって、そこからセミフォルテアを抽出することができるのだ。そして、そのセミフォルテアを……ある種の兵器として、使用することもできるのであって。

 先ほども書いたように、パンダーラは、送迎船に向かって、その右手、セミフォルテアでできた右手を開いていた。それから、それだけではなく。左の手は、まるで杖を突くようにして、ライフルの床尾を大地に突いたままでいて。その様はまるで……これからすることによって、自分の体が吹き飛ばされないようにするために、何かしらの支えを必要としているかのようだった。しっかりと、自分の体を大地に固定しているのだ。一体なぜ? なんのために、そんな必要が? 真昼はそう思ったのだが……真昼ちゃんってば、ほんとーにお馬鹿さんっ! そんなこと、決まってるじゃーんっ! 要するに、これは無反動というわけにはいかないのだ。あまりにも強力過ぎて、自分でもその反動に耐えられないくらいのものであるということ。

 そう、これは。

 迫撃砲なのだ。

 パンダーラの右の手のひら。

 次第に、次第に、その光は。

 光度を。

 聖度を。

 エネルギーを。

 増していって。

 その魔力に、真昼が。

 見入られてしまった。

 まさに、その時に。

 真昼の。

 目の前。

 全てが。

 炸裂する。

 光ではない光、音ではない音。それは光ではなく豪風で、それは音ではなく激痛だった。真昼は自分の肉体がどうなってしまったのか分からなかったのだが、世界が勢いよくひっくり返ったということは分かった。強烈な光に世界が吹き倒されて、強烈な激痛で体が弾け飛んで。どうやら悲鳴を上げているらしいのだが、というか上げたらしいのだが、とはいえその悲鳴も、蛇口から落ちる水滴が、海峡の大渦巻に飲み込まれていくみたいにして、喉を震わせる感覚さえ感じることができない。

 ほんの一瞬だった、全ての出来事が、心臓の鼓動の一拍よりも短い時間のうちに終わってしまったのであって。真昼の心臓が、びっくりしたようにして、その一拍を終えた後で……全てが終わった後で……真昼は、ようやく気が付くことができた。ひっくり返ったのが、実は世界ではなく自分だったということに。

 目の前に見えているのは、何かの液体が滴ってきそうなくらい青々とした空であって。真昼は、大地に、仰向けに倒れていたのだ。恐らく倒れた時にしたたかに頭をぶつけたのだろう、倒れたという記憶さえなかったのだが。ただ、そのぶつけたところが草原だったせいか、幸いなことに頭に傷はないようだった。

 手の先に生えている草を、引っ掻くみたいにして掴みながら。一体、今、何が起こったのかを考えている。まず気が付くことは……この場所の空気が、恐ろしいほどすっきりしたものになったということだ。別にこの場所に限らないのであるが、アーガミパータの空気というのは、なんとなく、澱んでいて、沈んでいて、どんよりとしている。そこら中に染み付いた死と腐敗との気配が、じくじくと空気に染み出してきているみたいな。どんな場所であっても、常に、死人が背後から覗き込んでいるみたいな、そんな雰囲気で満ちている空気なのだ。しかし。今は。真昼は、アーガミパータに来てから初めて(正確にいえばASKの製錬所でもそういう空気は注意深く切除されてはいたがあの場所はあの場所で消毒された死体の匂いがする)、その空気が、自分の周囲から、振り払われた気がしたのだ。

 ただ。

 そうはいっても。

 たった今起こった。

 本当の、出来事は。

 横たわったままでは。

 分からないのだ。

「真昼ちゃん、大丈夫?」

 デニーが。

 ひょこっという感じで。

 真昼の顔を、覗き込む。

「ほら、掴まって!」

 それから真昼に向かって右手を差し出してくる。そういえば真昼は右利きだって書きましたっけ? まあ重藤の弓が左腕に刻まれている以上は分かると思いますけど。もちろん、賢いデニーちゃんもそれくらいは理解しているのであって。

 それはともかくとして、真昼は、指先で掻き毟っていた草をゆっくりと手放すと、まるで幼児のような素直さで差し出された手を取った。そのまま、くいっと、ひどく軽々しく、引き起こされて。そうして真昼はその光景を見ることになる。

 そこに。

 あったはずの。

 大地が。

 深く。

 深く

 抉れて。

 削がれて。

 なくなって。

 いた。

 真昼の視線の先……草原だったはずのその場所が、大々的に消え去っていたのだ。まるで、何者か、真昼には想像がつかないほど巨大な手を持った何者かが、世界の一部を剥ぎ取っていってしまったかのように。その喪失はパンダーラが立っている地点から始まっていた。そう、パンダーラは今もその地点に、真昼が倒れる前と同じ地点に立っていたのだが。そこから放射的に広がっていくみたいにして、あるいは……何か、強大な力が激突したみたいにして。草原の広大な範囲が吹き飛んでいた。

 いうまでもなく、それを吹き飛ばしたのはパンダーラだった。右手として形作られたセミフォルテアから、そのエネルギーの波動、あまりにも純粋で、あまりにも直接な、魔学的な力を放つことによって。それは誰でも分かることで、けれども、真昼にはそれが信じられなかった。人間とほとんど同じような姿をした生き物が、これほどまでに凄まじい傷跡を作り出すことができるなんて。これは……どちらかといえば、何らかの兵器によってなされるべきことだ。しかもただの兵器ではなく大量破壊兵器によって。

 ただ、まあ、真昼が信じようと信じまいと。ことは実際に起こってしまったのであって。呆然と見つめている真昼の目の前で、パンダーラは、静けささえ感じさせる態度、こちらを振り返った。右腕のところに生えていたあの光、形態を伴ったセミフォルテアは、既に形を失っていて。戦闘服の裾だけが、取り残されたみたいに、無風の世界の中でだらんと垂れ下がっている。パンダーラは、振り返る時に、突いていたライフルをさっと持ち上げて。バレルの付け根の辺りからバットストックの辺りまで伸びているスイベルによって、当たり前のことをするみたいにして、そのライフルを肩に担いだ。

 デニーと真昼とがいる。

 この場所に、向かって。

 歩いてくる。

 冷酷な視線であった。けれども、その眼には、どこかしら諦め切った悲哀のようなものがあった。この世界はもうどうにもならないということを知っている生き物に特有の、あの色だ。真昼は、これほどの力を持っているパンダーラさえもがこんな目をすることにちょっとした恐怖のような感覚を抱いた。こんな、破壊の、力を、持っているにも拘わらず。世界というものは、それでもどうにもならないものなのか?

 そんな風なことを、ぼんやりとした頭で、呆けたみたいに考えている真昼の方に。ふと、その冷たく悲しげな視線が向いた。その色とその色の中に、別の色が……あの同情の色が混ざり合う。そこら中に罅が入り、埃で薄汚れた鏡を覗き込んでいるみたいな目。けれど、すぐにその眼を逸らしてしまって。

 今度は。

 デニーに向かって。

 こう、口を、開く。

「終わった。」

「さーんくす、ぎびんぐっ!」

「行くぞ。」

「はいはーい。」

 きゃるーんっとでもいう感じで。ぱちんっと両目をつぶってしまうくらい力が入った、最高の笑顔を作って。それから自分のほっぺたを、自分の人差し指で突っつくという、尋常ではないほど可愛らしいポーズを決めたデニーであったが。そんな可愛らしさには一片の注意さえも傾けず、パンダーラは、ただただ森に向かって歩いて行ってしまっただけだった。

 まあ、とはいっても、こういったことはデニーにとってはいつものことであるらしく。特に気にする様子もなく、そんなつれない態度のパンダーラの跡を追って、森の方へと歩き始めかけたのであったが。ただ、その時に、ふっと真昼のほうへと注意を向けたようだ。真昼は……今もまだ、惹き込まれるみたいにして、消滅と壊滅との後を眺めていて。

 そんな真昼に。

 デニーは。

 声をかける。

「初動防疫だよー。」

「え?」

 真昼は、そのデニーの声に。

 ようやく目が覚めたようだ。

「デニーちゃん達が乗ってきたシャトルシップって、色力浸食されちゃってたでしょ? あのままほーっといたら、ここら辺の草原どころかあの森にまでガードナイト感染が広がっちゃうから。そうなる前に感染した患部を消毒したってわけ。」

 そう言うとデニーは、まあデニーちゃんはどうでもいいんだけど、とでもいいたげな調子で、ちょっとだけ肩を竦めた。デニーの言葉は、いつもの通り、真昼がある程度の知識を持っていることを前提としたものではあったが。真昼も真昼で、そういうデニーの話し方にそこそこ慣れてきたらしく、なんとなくではあるが、デニーの言っていることが分かった。

 送迎船の残骸が散らばっていた地点、今はすっかり消えてなくなってしまっているのだが。そういえば、今から考えてみると、墜落した直後よりも、つい先ほど見た時の方が、あの「色」が広がっていたはずだ。送迎船の欠片・断片だけではなく、そこからじわじわと流れ落ちていくかのようにして、草原そのものにまで広がっていて。一部の草は、すっかりその「色」に染まってしまっていたくらいだった。恐らく、「色」は、それに侵された物質が接触している部分から、段々と感染してしまうタイプの影響力なのであろう。ということで、パンダーラはその感染が広がる前に感染したもの全てを拭い取ってしまったということだ。

 そう思うと……パンダーラの、あの悲しさを帯びた視線は、なんとなく別の意味を持ってくるように真昼には思われた。この草原の姿を、ASKによって開発されてしまったあの荒野の姿と比べてみる。パンダーラが、そしてパンダーラが所属しているダコイティが、もしもASKと対抗して、この地域をあるべき姿に戻したいと思っているのならば。この草原も、やはり、彼ら/彼女らが守るべき光景の一部であったはずだ。草原に生えた植物、あるいはそこに生きていた生き物。そういったものを……それでも、パンダーラは、犠牲にしなければならなかったということだ。

 これは普通の人々にとっては些細な犠牲と思われてしまうかもしれないが。そういった犠牲を重ねることによって、生き物は、最後の最後に、ASKや、あるいは静一郎のような生き物に代わってしまうということを知っている者にとっては。決して、些細な犠牲ではないのだ。そして、真昼は、幸いなことに、あるいは不幸なことに、そのことをよく知っている。

 まあ、それは。

 それと、して。

 デニーは、その一方的な説明を終えると。右の手をしきりとぱたぱたさせて、どうやら真昼のことを招いているようだった。招いているというか急かしているというか。「早く行かないとおいてかれちゃうよ真昼ちゃん」なんていうことを言いながら、反対の手、人差し指の先で、パンダーラのことを指差している。

 一方の、指差されているパンダーラは。確かにデニーと真昼とのことを置いて、既に森の入り口近くにまで行ってしまっていた。このまま、いつまでも、ぼうっと突っ立っていては。パンダーラは森の中に消えてしまって、追いかけることさえ困難になってしまうだろう。ということで、真昼は、デニーの言う通り。

 少し慌てて、パンダーラを追いかけて。

 森の方向へと、駆けていったのだった。


 それはまるで……何か偉大な存在、聖なる力を持った権力者が、そこを通過していくのに対して、その進む先にいるあらゆる生き物が、自然と道を開けて、その足元へと傅く、そんな様に似ていた。パンダーラが森の中のある場所を通ろうとすると、切り開く必要もなく、進行方向にある全ての植物が道を開けていくのだ。それがどんなシステムによってなされていることなのか、真昼にはさっぱり分からなかった。そもそも植物ってそこに根を張っているはずじゃなかったっけ? それにも拘わらず、パンダーラが通るところはそれだけで道になって。そのために、パンダーラも、ついでにその後ろを通っていくデニーと真昼とも、一本の枝を折ることもなく、一枚の葉を裂くこともなく、森の中を進んでいくことができたのだった。

 どこまで歩いて行っても森の景色は変わることなく、時折上の方や横の方で何か生き物の気配がするくらいで。そういった生き物が見えることもなく、どこまで行っても木・木・木といった感じ、とうとうそんな景色にも飽きてしまった真昼が、退屈しのぎにそんなパンダーラのことをじっと見続けていた結果、なんとなく分かったのは……実は、植物達は道を開けていないということだった。植物達はパンダーラが通る時にもずっと元あった場所にあり続けて。それにも拘わらずパンダーラのルートには道ができるのだ。どうやら、空間を少しいじったりとか、そんなことをしているのかもしれない。ただどちらにせよ、真昼にとっては、人間のダコイティに連れられて歩いていた時よりもだいぶん楽に歩けるということに変わりはなかったのだが。

 それ以外に気が付いたことといえば、顔の周り、ぶんぶんとあれほどうるさく飛んでいた蠅達が、いつの間にかいなくなっていたということだろう。現在の真昼の姿は、思春期の女の子がしていいとはお世辞にもいえないというか、新陳代謝がとてもよさそうですねというか、はっきりいってしまえばすごい汗まみれの状態であったので。こんな森の中を進んでいけば、大量の蠅にたかられてもおかしくないはずだったのに。それにも拘わらず、一匹の蠅さえも見当たらなかった。何かの力に畏れの感覚を抱いて、この周囲から飛んで行ってしまったとでもいうみたいに。

 森の、森の全てが。

 パンダーラの力に。

 崇敬の念を。

 抱いている。

 と、そう感じたのはもちろん真昼の思い込みであって。実際のところは虫だの何だのにそんな感覚があるわけではなく、ただただ機械的に、パンダーラの魔力の力強さに対して、捕食者を避けるようにそれを避けているだけであったのだが。まあ、そうはいっても、パンダーラがこの森の中、輪廻連鎖のうちで、最も上位の存在にいるというのは間違ってはいなかった。

 ところで、パンダーラとデニーと真昼とは。一列に歩いているその順番でいえばパンダーラ・真昼・デニーなのだが、それはそれとして、随分と長いこと森の中を歩いていた。真昼はもう五時間くらい歩いてるんじゃないかと思っているくらいなのだが、それはさすがに考えすぎで、実際には二時間か三時間くらいだ。それにしても長いことには変わりないが。

 いつものようにデニーがべらべらと、下らない上に訳の分からないことを話してくれていれば、うざったいとはいえまだしも気が紛れるのだが。そのデニーは、な、な、なんと! さっきからずっと、一言も話すことなく、ただ黙々と歩いているだけだった。右の手と左の手、人差し指を立てて、親指をそれと直角の角度にして。オーケストラの指揮者か何かのように、とはいえ恐らくはでたらめに、ぴんっぴんっと振り回しながら。深く深く何かを考えこんでいるみたいだった。このことは真昼にとってかなり驚くべきことであって、実際にも驚くほど珍しいことなのであるが。真昼的には、何もこのタイミングで黙らなくても……という思いでいっぱいになるようなタイミングだった。余談ではあるが、デニーが何を考えているのかというと、自分が完全にASKの策中に嵌まっていることは理解できているのだが、その策の詳細について、どのように動けば自分にとって一番メリットのある形で終結させることができるかということを考えているのだった。

 一方のパンダーラはというと、これまた何かを話すことはなかった。これは真昼にとって、意外というよりも当然と感じられることであって、むしろ何かを喋ってきたとしたら、そちらの方が驚いてしまったところであろう。ちなみに、なぜパンダーラが御神渡りという移動方法を使わずに、森の中を歩いているのかというと。御神渡りにはそれなりの魔力を使うので、そんなに気軽に使えるものではないからだ。人間でいうとそこそこ全力疾走で走るみたいなイメージで、先ほど使ったのも、さっさと初動防疫を終わらせないとガードナイトの浸食が進んでしまうので、ちんたら歩いてはいられないという理由があったからだ。それならばデニーとの会話について、消毒を終わらせた後で話し合えばよかったのではと読者の皆さんは思われるかもしれないが。デニーの脅威とガードナイトの脅威とを比較した時に、パンダーラの中ではデニーの脅威が遥かに上回っていたという、それだけの話だ。

 さて。

 そんなこんな。

 というわけで。

 あまりに汗をかき過ぎて、もうなりふり構っていられなくなり、丁字シャツの裾のところをぐいっと引き上げて、それで頬だとか額だとかを拭きながら。無言のまま、ただただ歩いている真昼なのだったが。

 その時に。

 ちょっとばかり。

 驚くべきことが。

 起きた。

「大丈夫か。」

「え……へっ!?」

 思わず間抜けそうな声をあげてしまった真昼だったが、それはなぜかというと、パンダーラに声を掛けられたからだ。いや、本当にこれは自分にかけられた声だったのか? パンダーラは相変わらず前を向いたままで、足も止めていなかったので、いまいち自信が持てない。なので、答えることを躊躇っていると……また、パンダーラが、口を開く。

「お前に聞いている。」

「はい、あの……大丈夫です。」

 ちらりと振り返ったパンダーラに、ほんの一瞬だけ視線を向けられて。どうやら真昼に向けた言葉で間違いないようだ。真昼は、だいぶん気圧されたようにそう答えることしかできなかったのだが。その気圧されたというのを感じ取ったのか、パンダーラは更に言葉を重ねてくる。

「人間は脆い。」

「えと……」

「お前も人間だろう。」

「はい。」

「なら、無理はするな。」

 ぶっきらぼうというかなんというか。それでもパンダーラは、どうやら、真昼のことを気遣ってくれているようだった。今までのパンダーラの挙動から考えると、人間に対してひどく思いやりがあるというか、これはそれほど驚くべきことではないのかもしれないが。それでも真昼は驚いたというか、なんとなく恐縮してしまって。どぎまぎしっぱなしであったのだが。そんな時に、助け舟を出すみたいにして、デニーが会話に割り込んでくる。

「真昼ちゃんの体はー。」

 何やら考え込んでいたのが。

 嘘みたいに気楽で陽気な声。

「デニーちゃんが、壊れにくくなあれってしたから。おなかのところからデニーちゃんの魔力を感じるでしょ? そこにね、デニーちゃんのとーっておきの理程式を書いてあげたの! だからだからー、ふつーのさぴえんすよりはずっとずっと丈夫で長持ちするはずだよー。」

 そこまで言ってから。

 ふと、言葉を切って。

「それでも……」

 思い直したように。

 こう、言い添える。

「ちょーっとだけ疲れてるかもね。」

 デニーのその言葉は……ちょーっとだけ、控えめな表現であったといわざるを得ないだろう。どんなに慎ましやかないい方をするとしても、事実を事実として伝えるならば、こういうしかない。つまり、真昼は、クソほど疲れていた。

 そもそもの話として、本日お目覚めの時点で昨日の疲れがまだ抜け切っていなかった。他でもないアーガミパータで、ほとんど丸半日の間、しかもテロリスト達に命を狙われながら過ごしたという疲れが。ちょっとばかり快適な寝室の、ちょっとばかりふかふかなベッドで、ちょっとばかりラグジュアリーな睡眠をとったところで、癒されるわけがないのだ。体力は未だ回復しておらず、そこに朝っぱらからのあの大騒動。まずもってこの場所に至る前提の状態からして、かなり疲弊した状態だったということで。

 そんな状態でこの地獄の行軍ときたもんだ。まあ、現在のこの道のりは、パンダーラの何らかの力によって開かれていたし、比較的歩きやすいといえなくもなかったので。地獄というのはいい過ぎかもしれないが、それにしても、とてもじゃないが楽園の散歩とはいえないというのは事実だ。

 真昼は……この森にやってきてから、とにかく歩き続けている気がした。真昼はどちらかといえばインドアなタイプの人間なのであり、どちらかといわなくてもインドアなタイプの人間なのだ。こんなに歩いたのは、恐らくは、小学校とかの遠足系イベント以来だろう。昨日だって、なんだかんだいってもルカゴに乗ったりだとか送迎戦に乗ったりだとか、何かしらかの乗り物に乗った移動が多かったのであって。もしかすると、昨日経験した全てのことよりも、ここ数時間の歩き詰めの経験の方が、真昼にとっては地味にきついことかもしれないくらいだ。

 そこに来て、この温度。この森に辿り着いたばかりのころは、まだ耐えられないわけではなかったが。今は太陽も中天に近付いて来ており、時計を持っていないので正確なことはいえないが、時刻は間違いなく日の盛りタイムに差し掛かっているだろう。木々によって直射日光は遮られているのだが、その分籠ったような湿度が真昼のことを襲ってくる。月光国の夏の、比較的乾いた温度とはまるで違っている。湿っていて、じめじめとして、体の全体に纏わりついてくるような暑さ。汗をかいても汗をかいても全く表皮から蒸発する気配がなく、結果的に、その熱量がどんどんと体内に溜まっていく。

 確実に、体力を奪っていく熱気と。

 いつ終わるのかも分からない行程。

 強化された肉体であっても。

 限界というものがあるのだ。

 というわけで、「大丈夫です」とは言ったものの、真昼は全然大丈夫ではなかった。しきりと汗を拭きながら、はあはあと荒い息を吐きながら、我慢に我慢を重ねて歩いていた、というような状況だったのだ。たぶん、パンダーラも、真昼のそんな有様を見るに見かねたということなのだろう。

「もう少し行くと水の流れに突き当たる。川というほどもなく、せいぜいがせせらぎといったところだが、とにかくそこで一度休むことにしよう。」

「それは……ありがとうございます。」

 パンダーラの申し出を、ほんの一瞬だけ遠慮しようとは思ったのだが。ただ、よく考えてみるまでもなく、自分は体力的にもう限界なのであって、ここで休まなければ倒れてしまうことは間違いないということに思い当たった真昼は。遠慮することなくその申し出を受け入れることにしたのだった。

「もう少しってー、あとどれくらいなのー?」

「すぐそこだ。」

 デニーの質問に対して相当素っ気なく答えたパンダーラは、今までずっと向かっていた方向から、左側の方向へと、すっと進路を変えた。そして、そこから五ダブルキュビトも歩かないうちに、垂れ下がって視界を隠していた枝が、するりと道を開いて……その先に、唐突に、川が現れた。

 その枝が道を開くまでは、普通であれば川のそばで聞こえるはずの水音さえも聞こえなかった。もしかすると、この森の中、この結界の中では。ダコイティが集まっていた広場や、この川など、重要な構成要素は、より深いところに隠されているのかもしれない。広場は、もちろん襲撃されたら大変だし。それに川は……例えば毒を注がれてしまえば、速やかに森のあちこちへと広がってしまうのだから。

 それはともかくとして、その川は真昼にとって紛れもなく川と呼んでいい代物だった。確かにそれほどの深さはなく、一番深いところでもせいぜい太腿の辺りまでしかないだろう。けれども幅は五ダブルキュビト以上ある。ここが月光国であればこれを川と呼ぶのに躊躇いを覚える者はいないのだろうが、ただしここはアーガミパータなのであって、これくらいの大きさでは川とは呼べないのかもしれない。

 川。

 水。

 真昼が今、一番。

 欲しているもの。

 これだけ汗をかけば当然ではあるが、真昼はすでに喉がからから、いや、からからを通り越してがらがらであるといっても過言ではない状態だった。デニーの魔学式によって体内の水分状況が最適化されていなかったら、ほぼ確実に、アーガミパータに来て以来二度目の意識喪失状態に陥っていただろう。ということで、真昼は……その川を見ると「あっ」と、小さく声を漏らしてしまったくらいだった。

 パンダーラは、その川を真昼に見せると。そのまま、真昼の方を振り返りもしないで、川岸へと降りて行った。川岸といってもそれほど広いものではない。一ダブルキュビトないくらいの、石と礫が積み重なってできたものだ。そこここに緑色の苔が繁茂していて、そういったところは少し滑りやすそうで。パンダーラは、それを避けて、川のすぐそばにまで下りて行って……そこで、すとんと座った。

 これはさすがの真昼も知っていることなのだが、ダイモニカスにはそもそも疲れるという感覚がない。ナシマホウ族と純粋マホウ族とでは生理的な構造が全く違っているのだ。魔力を大量に消耗した状態が、いわゆる疲れたという状態に、まあまあ近くないわけではないのだが。それでもナシマホウ族のような「疲労」の症状を呈するわけではない。だから、パンダーラには休憩の必要などなく、ここで座る意味もないはずだ。

 それでもパンダーラが座ったということは……もしかして、真昼に気を使ってる? こうやって自分が先に座ってしまえば、真昼が気兼ねすることもないだろうと? ダイモニカスが人間に気を使うなんて、とてもじゃないが信じがたいことではあったが。それでも、こういったパンダーラの行動が、真昼にとってとてもありがたいことであるということは確かであった。

 気兼ねする必要もなく。

 パンダーラについていくように。

 真昼も、川岸へと、降りていく。

 パンダーラが座った場所の、すぐ左側。河原と水の通り道とが接しているその場所に、真昼は屈みこんだ。正直な話、飲欲をそそるとはいい難い色をしていた。透明なことは透明なのだが、なんとなく、こう、濁っているというか、汚れているというか。それからその匂いも明らかに生臭かった。全体的に、真昼がいつも飲んでいる水、飲用水に比べてみると、大変自然そのものの生々しい水であった。ただ、それでも、水は水に違いない。

 だから、真昼は。

 その流れに手のひらを沈めて。

 一掬い分の水を、掬い取って。

 それを、口元に、近づける。

「それを、そのまま飲むのは。」

 と、その時。

 横に座っていたパンダーラが。

 独り言のように、口を開いた。

「よくないんじゃないか。」

「え?」

「アーガミパータに慣れていない人間が川から直接水を飲むのはよくないと聞いている。お前は、問題ないのか?」

「それは……」

 全くもってパンダーラの言った通りだった。生水を飲むなんて、しかもアーガミパータの生水をそのまま飲むなんて、普通の人間にとっては自殺行為もいいところだ。そういう水に慣れているアーガミパータの人間でさえ、例えば上流で何かの生き物が死んでいて、それは大抵の場合無慈悲に殺された人間の死体であるのだが、とにかくその人間の死体から流れ出た、腐りきった膿だとか溶けきった内臓だとかの物質で汚染された生水を飲んだりすれば、少しばかりお腹を壊すことだってあるというのに。

 ここに来たばかりの真昼であったならば……間違いなく、そんなこと、しようとさえ思わなかったに違いない。せめて川に近いところに穴を掘って、その穴から湧き出てきた水を飲むとか(そうした方がいいとテレビか何かで見たことがある気がする)、それくらいの配慮はしただろう。だが、今の真昼は、色々なことに麻痺してしまっていたのであって。生水だのなんだの、その程度のこと、考えもしなかったのだ。

 真昼はちょっと考えてから。

 ふっと、後ろを振り返って。

 ちょっと離れたところで、河原の石ころを拾って、川の方にぽんぽん放り投げて遊んでいるデニーの方を見た。ちなみにその石を投げる遊びは、本当にただ石を投げているだけなので、傍から見ていると本当に面白さの欠片もなさそうなのだが。やっている本人は、なぜだか知らないが、ひどく面白そうにけらけらと笑いながらそんなことをしているのだった。

 そんな、デニーに。

 真昼は声を掛ける。

「ちょっと。」

「ほえ? なあに、真昼ちゃん。」

「あんたの……あの魔学式なんだけど。」

「うん。」

「この水、飲んでも大丈夫なの。つまり、こういう生水って普通は飲んじゃ駄目でしょ。寄生虫とか、細菌とか、ドミトルとか、そういうのに感染したりするかもしれないし。この魔学式って、そういうの、大丈夫なの。」

「だいじょーぶだいじょーぶ! デニーちゃんの理程式は免疫機能も強化するやつだからね。それくらいへっちゃらぽんだよ!」

 真昼も。

 随分と。

 慣れてきたものだ。

 こう、デニーとコミュニケーションを取るという行為についての話だ。最初に質問を提示して、それから質問内容について誤解のないように詳細を説明、最後にもう一度、違う形で要約した質問を投げかける。ほとんどパーフェクトといっていいほど分かりやすい質問だ。デニーと出会う前の真昼だったら、これほど丁寧に問いかけるなんていうことをするわけがなかった。さほど正確ではない質問であっても、相手は察してくれて、的確な回答をしていてくれたし。それより何より、たった一つの質問が……真昼の身の安全、命さえも左右するなんていうことはなかったから。

 そういう真昼の成長については、大変感慨深くはあるが、まあおいておくとして。どうやら生水を飲んでも大丈夫そうだ。デニーのことだから、百パーセントの信頼が置けるというわけではないが。そんなことをいったらアーガミパータには百パーセント信頼を置けるものなど何一つないのであって。だから、真昼は、取り敢えずその水を飲んでみることにした。

 そっと口をつけて。

 一口すすってみる。

 味は……なんというか、少し苦い気がする。苦いというか、ちょっと魚っぽい味がする。もちろん死んだ魚である。とはいえ、不味いことは不味いのだが、飲めないわけではない。味が大丈夫ならば……今気を付けて飲んだところで、もし仮にお腹を壊すとしてもだいぶん後のことだろうし、後のことは後のことである。ということで真昼は、ほとんどやけになったようにして、その川の水、掬っては飲み掬っては飲みすることにしたのだった。

 そんな真昼のことを。

 パンダーラは、座ったままで。

 見るともなく見ないともなく。

 相変わらず冷たい視線。

 眺めていたのだが。

 やがて。

 何気なく。

 口を開く。

「あの男を信頼するな。」

「え?」

「救われたわけではない、利用されているだけだ。」

 パンダーラは、まるで独り言のようにそう言ったので。真昼は、一瞬、自分に向かって言ったことだとは分からなかったのだけれど。だが、ここには、その言葉が向けられるような相手は真昼しかいないのであって、そして「あの男」という言葉が指す相手はデニーしかいないのだ。真昼ははっとして、水を飲む口を止める。少し困惑したような顔をして、川面から視線を上げる。

 パンダーラはもう真昼のことを見ていなかった。川の流れに視線を向けて何やら思索を巡らせているみたいな顔をしている。真昼は……今のパンダーラの言葉について、もう少し突っ込んだことを聞いてみたかった。一体このパンダーラという女は……デニーと、どういう関係に、あったのか。あの広場のような場所で交わされた会話から推測してみると。どうやら、真昼のように一度デニーに助けられたことがあって、その後でかなり手ひどく裏切られたらしい。

 この人は、どのように救われたのか。

 そして、どのように裏切られたのか。

 それを、真昼は知りたかった。もちろん好奇心もあったが、それ以上に、自分が裏切られないためにだ。真昼は、自分が、段々と……デニーに取り込まれていくのを感じていた。段々と、デニーに対しての不快感とか嫌悪感とか、そういったものが消えていって。もしかしたら、パンダーラの言った通り……信頼さえしかけているのかもしれない。それは恐ろしいことだった。恐ろしいことのはずだった。しかし、真昼は、それが恐ろしいということの実感さえ曖昧になってしまっていて。

 だから、真昼は。

 もう一度、知らなければならなかったのだ。

 この男が、どれだけ残酷なのかということ。

 それを、もう一度。

 ただ、とはいっても。真昼は、パンダーラに話し掛けることができるほどのコミュニケーション能力があるわけではなかった。それほどのコミュニケーションの能力があれば、もう少しハッピーな人生を送っていただろう。少なくとも不登校にはならなかったはずだ。だから、何も言うことができないままで、なんとなくパンダーラの顔を見ていることしかできなかった。

「ここから。」

「は、はい!」

 と、いきなり話しかけられて。

 真昼は、びっくりしてしまう。

 あんまりびっくりしすぎたので。

 意味もないのに立ち上がってしまった。

「あと、もう一時間くらい歩くことになる。必要なだけ水を飲んでおけ。十分ほど休んだら出発するぞ。」

 言った切り、パンダーラは。

 また、口を閉ざしてしまう。

 真昼は「あ……分かりました」とかなんとか、分かったのか分からなかったのかよく分からないような返事をして。それから、また、水を飲む作業に戻った。不思議なことに、どんなに飲んでもまだ飲めるような気がする。普段だったら、これほど水を飲んでしまえば、もう喉のあたりまで水が溜まっているような感じになってしまうものだが。これもデニーの魔学式の影響なのだろうか? きっとそうなのだろう。

 ちなみに、そういえば、そのデニーはどうしているのか。もしかして今の会話ともいえない会話、パンダーラが真昼に対して発した言葉を聞いていただろうか? もしも聞いていたとすれば、その言葉についてどう思ったのだろうか? そんなことを思いながら、真昼はデニーがいる方をちらと窺ってみた。デニーは……もう石を投げるのに飽きてしまったらしかった。では何をしているのかというと、川に入ってばしゃばしゃと水遊びをしていた。うわー、すごく可愛い……などと、真昼は思わなかったのだが。デニーのことを知らない人間が見たら、その様子はいかにも無邪気な少年のように見えたことは間違いない。川の中を走って水を蹴り上げたり。かと思ったら手のひらを突っ込んで、そこら辺にびっびっと水を跳ね上げたり。

 無論、聞こえていたはずだ。

 デニーは、とても耳がいいのだから。

 しかし、まるで気にしていなかった。

 絶対的な強者には。

 虫けらの羽音など。

 気にするまでもないこと。

 デニーの様子が、特にいつもと変わったところもなかったので。真昼も、この件についてはあまり深く考えないことにして、水分の補給を続けることにした。飲んでも飲んでもまだ喉が渇いていて、自分の肉体がいかに乾き切っていたか、細胞の隅々までが絞りつくされて、その水分を汗として流し出してしまっていたのか、そういったことがよく実感できたのだが。両手に一杯の水を十回ほど飲み干したところで、さすがに落ち着いてきた。

 川面から、顔を上げて。

 と、その時に。

 ふと聞こえた。

 何かの、音。

 遠く遠くの方から聞こえてきていた。海の底に響いている潮騒の残響のようにして。こちらに向かって段々と近づいて来ていた。大きな獣の屍の匂いを嗅ぎつけた腐肉食の昆虫のようにして。真昼は、耳を澄ませて……そして、立ち上がった。

 真昼はその音を知っていた。その音が何の音であるのかということを知っていた。けれども……それは、こんな場所には、あまりにも不似合いの音楽であった。そう、それは音楽だった。とても軽快なテンポ、心をくすぐるようなメロディ、それに浮き浮きしてしまいそうなリズム。基調となるノスフェローティの踊りだしそうな笑い声は……これは、交響曲。ゲコルティエ作曲の「子猫の交響曲」だ。

 そんな、そんなはずはない。

 しかし疑いようもなかった。

 ゆっくりと、ゆっくりと、焦らすように聞こえてくる音楽は。どうやら、随分と上の方で聞こえているようだった。上空といってもいいほどの高さ、少なくともこの森の木々の、更に上から聞こえてきている。何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか。全く分からないで、まあそれはいつものことではあったが、それでも立ち竦んだようになってしまっている真昼に向かって。パンダーラが声を掛ける。

「偵察用のドローンだ。」

「ドローン……ですか?」

 真昼は、声がした方向。

 反射的に視線を向ける。

 パンダーラは、特に危ぶんでいるような様子も焦ったような様子も見せることなく、ただ当たり前のような顔をしてそこに座っていた。その左手の中には、いつの間にか小さな箱、手のひらくらいの大きさの紙の箱が握られていて。その箱を、ぱっぱっという感じで、軽く二・三回ほど振ると……その中から、一本の、紙巻き煙草みたいなものが出てきた。

 みたいなもの、と書いたのは、たぶんそれは紙巻き煙草ではないからだ。ダイモニカスは人間が吸うような煙草は吸わない、そんなことをしても何の意味もない。ルンペリンはあくまでも科学的な物質であって、魔学的な物質をベースとしたダイモニカスの肉体にはほとんど効果を及ぼさないからだ。

 恐らくは――もちろん真昼がこういったことを推測したわけではない、真昼はラゼノ・シガーのことを知らなかったし、そもそもこの煙草的な何かについて気にも留めていなかったのだから――ラゼノ・シガーであると思われた。ラゼノ=コペアを染み込ませたバーゼルハイムの葉を、紙で巻いた作られたシガー。ラゼノ=コペアであれば、存在自体に直接作用するので、ダイモニカスにも影響を与えることができる。そう思ってよく観察してみると、ここで観察しているのは真昼ではなく読者の皆さんだが、そのシガーが入っていた紙の箱にはティンダロス十字が描かれている。このラゼノ・シガーが教会で作られたものであるという印だ。

 ただ、それはまあ。

 ともかくと、して。

 パンダーラがそのシガーを口にくわえると、何かがそこに火をつけた様子なんて全くないままに、そのシガーの先端がぽっと燃え上がった。その炎はすぐに消えて、そして、その代わりに、煙が吐き出されるようになる。

 ふーっと、その口からも。

 シガーの煙を吐きながら。

 パンダーラは、続ける。

「ASKが放ったものだ。攻撃するためのものではないから心配する必要はない。ああいったドローンが、毎日、同じ時間に派遣されてくる。そして全く同じルートを通って何かを確認していく。詳しいことは分からないが、どうやらこの森全体を覆っている結界の状態を記録しているらしい。結界の奥を見通すことはできなくても、その結界自体の状態から、内部がどうなっているのかということをある程度推測することができるからな。」

 パンダーラが吐き出した煙は。

 まるで、この世界の、本当の姿を知ってしまって。

 そのせいで、とろとろと溶けてしまった。

 一匹の、可哀そうなクラゲみたいにして。

 ふわふわと浮かびあがって、それから消えていく。

 その煙に紛れるみたいにして……パンダーラが言ったところの偵察用ドローンが姿を現した。川のせいで途切れてしまっている、木々と木々の間。錆びた刃物で雑に切り裂かれた傷口みたいな空にちょうど差し掛かったのだ。

 青い空にふわふわと浮かんでいるそのドローンは。例えば、何か、不気味なほど巨大な昆虫のような姿をしていた。先端から後端まで一ダブルキュビトほどはあっただろう。透き通って、太陽の光できらきらと光る、長い長い羽根が四本生えていて。それを小刻みに動かすことで宙に浮かんでいるらしい。前後に細長い楕円形の胴体はつやつやと光る真鍮色の金属でできていて。その胴体には、まるで油で磨いたみたいにして、虹に似た色彩がゆらゆらと揺れ動いていた。そして、その胴体部分には大量の黒い球体が埋め込まれている。恐らくこの球体がセンサーの役割を果たしているのだろうと思われた。

 真昼は、ドローンが見えてくると、どこかに隠れなければという危機感に反射的に駆られた。森の中とは違って、この河原は、上空から丸見えだからだ。隠れられるところを探して、ばっばっとあたりを見回して……けれども、そこで気が付いた。デニーも、パンダーラも、一欠片も焦った様子を見せていないということに。パンダーラは相変わらず煙草をふかしているし、デニーに至っては、そんな風にしてあわあわと慌てている真昼のこと、指差してけらけらと笑っているくらいだった。

「あははっ! 真昼ちゃんってば、何慌ててんのー?」

 久しぶりに、本格的にイラっとさせる反応。

 真昼が、何も答えず、睨んだままでいると。

 デニーは、水遊びしてた川から上がってきて。

 それから、濡れた服をぱっぱっと払いながら。

 こう続ける。

「のーぷろぶれむ、真昼ちゃん! この森は結界に包まれてるから、外からじゃなーんにも見えないよ。もしも結界を通しても見えてるんだとしたら、そこら辺に隠れても無駄だしね。」

 言われてみれば……その通りだった。真昼も勉強して(勉強させられて)よく知っている通り、この種の結界はあらゆる感覚を遮断する。視覚や聴覚やといった科学的な感覚だけではなく、魔学的な感覚さえも。共同幻想を共有していない限りは外部から結界内を探ることはできず、従って、あのドローンが真昼のことを「見る」ことはないはずだった。

 知っているはずのことを指摘されるのは知らなかったことを指摘されることよりも一層恥ずかしいものだ。真昼は、結界について知ってはいたのだが、あくまでも理論的に知っていただけであって。こういう風に実際の状況下で、その知識を実践的に生かす段階となると、どうしてもうっかりしてしまったというか、つまりはそういうことだ。

 恥ずかし紛れに。

 視線を、デニーから逸らし。

 ドローンの方に向けながら。

 くっと、奥の歯を噛む。

 ドローンは、川の蛇行したところ、森の木々の上からやってきて。そして、今は、川に沿うみたいにして進んでいる。人が早足で歩くくらいの速度。こんなにゆっくりしていてこれほど広い森を一日で回りきれるのかと、真昼がそう思ってしまうくらいの速度だった。もちろん、いうまでもなく、このドローン一台で森の全体をカバーしているわけではなく、他にも数台こういったドローンが放たれているのだが。それはそれとして、ドローンは、透明な羽を、ほとんど見えなくなってしまうくらいの速度で羽搏いていて。そんな風にして見ているうちに、真昼は……その羽搏きの音、振動が、どうやら今聞こえているこの音楽になっているのだということに気が付いた。

 そういえば。

 この音楽は。

 一体、なんなんだろう。

 あのドローンは偵察用ドローンなのだという。ならば、普通であれは、極力目立たないようにするのではないだろうか。結界内部から結界外部の物事を感覚する際に結界は障壁とならないとしても、あそこからここまでかなりの距離がある。ということは、それなりの大音量で……クラシカルなミュージックを流しているということになる。そんな「偵察」聞いたことがない。

「ねえ。」

「ほえ?」

 思わず、またデニーに声を掛けてしまった。

 やっぱりこの男のことを信頼しかけている。

 そう実感しつつ、問い掛けを吐き出す。

「この音楽は、何?」

「何って、「子猫の交響曲」だよ。」

「そんなことは分かってる。」

 さっきみたいに分かりやすく質問すればいいのに、そのことを真昼も十分に理解しているのに。いざ意識してしまうと、そうすることが、この男の思い通りになっているようで、苛立たしくて。とはいっても既に質問をしてしまっているのだし……等々と、真昼が内心の葛藤に悶々としていると。

 横から。

 パンダーラ、が。

 口を挟んでくる。

「お前が聞きたいのは、あのドローンがなぜ音楽を流しているのかということだろう。偵察用ドローンであるにも拘わらず、どうしてあんな目立つ真似をしているのかということ。違うか。」

「え? その……はい。」

 また、いきなりのことで。

 びっくりしてしまう真昼。

 そんな真昼のこと、見もしないで。

 煙草の煙を、一口だけ吸って。

 それから、それを吐き出して。

 パンダーラは、続ける。

「ASKがすることは誰にも理解できない。当のASKを除いてな。ただし、ASKがする全てのことには必ず理由がある。合理的な理由、絶対的に合理的な理由。だから、あの音楽にも何らかの理由があるのは確実だ。恐らくは……一種の反響装置として使っているのだろう。この付近一帯に音楽を流すことで、この結界を形作っているhiketesの精神状態に何らかの影響を及ぼし、その影響の結界への反映を観察しているのだと思われる。ちょうど川の中に石を投げ込んでみて、それに驚いた魚達が動くことによって発生した波紋を観察するようなものだ。そうすればどこにどんな魚がいるのかが分かるだろう。」

 わ……分かりやすい! と真昼は思った。デニーの説明と比べると簡潔で的を射ていて、特に最後の比喩が分かりやすかった、馬鹿な(サテライトほどではないが)真昼も大助かりだ。とはいえ、パンダーラの説明には……どこかデニーのそれと似ているところがあるような気がしたのも確かだったが。どこが、とはいえないのだが、何となく、全体的に、雰囲気が、似ている気がする。

「分かったか。」

 デニーとパンダーラと、どこが似ているのか。ぼーっと考えていて、レスポンスがすっかり抜けていた真昼に、パンダーラはそう問い掛けた。無反応に対して怒った様子があるというわけではなく、ただ淡々と質問したという感じだ。それでも真昼は自分の失態に随分と恐縮してしまって、口籠もるみたいな言い方で「はい、ありがとうございます」と答える。

「そうか。」

「良かったね、真昼ちゃん!」

 何が良かったのかさっぱり分からないが、恐らくめちゃくちゃ適当に言ったのだろう。デニーはそういうやつだ。そんなことを思いながら、真昼は、デニーの方に、じろっと視線を向ける……と、デニーの服が、いつの間にか、すっかり乾いているということに気が付いた。

 あれだけばしゃばしゃと水を跳ね上げて、全体的にべっそべそ、腕と脚の裾のところなんて特にずぶ濡れだったのに。しかも乾いているだけではなく、スーツはまるでクリーニングから帰ってきたばかりのように、靴は誰かに磨いてもらったばかりのように、ぴんぴんしていた。たぶん、なんらかの魔法を使って。服のそこここをぱっぱっと払う仕草、あの仕草によって。スーツやら靴やらの状態を元の状態へと戻していたのだろう。

 じろっとしていた視線を、まじまじとしたものに変えて。

 そんなデニーのこと、真昼が感心したように見ていると。

 不意に。

 パンダーラが。

 こう言う。

「そろそろ出発すべき時間だ。」

「ええー、もうなのお?」

「喉の渇きは大丈夫か。」

 ぶーたれるデニーのことは無視して。

 真昼に向かって言った、パンダーラ。

「あ……はい、大丈夫です。」

「そうか、なら行くぞ。」

 そう言うと、パンダーラは立ち上がって、今まで吸っていたシガーを、ぴんと指先で弾くようにして放り捨てた。そんな仕草まで、なんとなくデニーの仕草に似ているように。一度意識してしまうと、そんな風に真昼には見えてしまって……パンダーラが弾いた吸い殻は、揺らめくこともない放物線を描きながら、その先端の赤い色によって、空中に精密なカーブを映し出す。川面に落ちる前に、ぽうっと燃え上がって、そうして跡形もなく燃え尽きる。

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