第一部インフェルノ #18

 一般的に、ダイモニカスという種族は感情の制御に長けていると思われている。けれども、それは間違いだ。いや、それはもちろん人間のような下等な生命体に比べれば、感情というツールをずっとずっと正しく使うことができる。ただ、神々などと比べてみれば、ダイモニカスの感情の使い方はかなり人間に近い程度のものであるということが分かる。

 感情というものは、そもそも理性によって制御されるべきものではない。それは火を水によって制御しようとするのと同じくらい愚かな行為だ。そうではなく、火は火の論理によって、感情は感情の論理によって制御されるべきものであって。神々にとっての感情というものは、意識と無意識の間の軋轢によって引き起こされるエラー、ただ単純に状況を知らせるアラームのようなものとは全く異なっている。それに対して、ダイモニカスのそれは、もちろん個体差はあるが、人間のそれとさほど違うものではない。

 と、いうわけで。

 パンダーラのこの無表情は。

 極めて、極めて、人間的な。

 「自制心」によるものだ。

「私は。」

 その口から吐き出される一つ一つの言葉。

 その全てが、薄く研がれたガラスの欠片。

 それか、骨の剣か何かであるかのように。

「お前の言葉を、聞くつもりはない。」

 パンダーラは、ゆっくりと。

 デニーに、言って聞かせる。

「お前の言葉は、全て、嘘か、悪意のある真実だからだ。」

 しかし、ゆっくりと言って聞かせようが、あるいは早口でまくしたてようが。大した違いなどないのだ、デニーのような生き物が、自分が聞くつもりのない話を、まともに聞こうとするはずなどないし、大人しく理解しようとするつもりもないのだから。パンダーラが発した、たった数言のこの言葉。それさえも言い終わる前に……デニーは、既に、何かをしていた。

 何をしていたのかというと、軽く右手を上げて、中指と親指、二本の指先をぱちんと鳴らしていたということだ。するとその瞬間に……デニーの背後の辺りで、今まで響いていた振動、結界を作り出しているこの振動の性質が明らかに変化した。真昼は、少し離れたところではあったけれど、ちょうどデニーの後ろにいたので、はっきりとそれを感じることができた。

 何となくだが、一部の振動が、デニーの背後の辺りに集中してきたような気がするのだ。もちろん目に見えるものではなかったのだけれど。それは、次第に集中してきて……あたかも物質化したかのようだった。感じ取れそうなほどに、濃密になった振動は。やがて、その形を整えて……地面より少し上のところにある、横倒しになった円盤みたいな形状を取り始めて。

 と。

 デニーは、その円盤の上に。

 すとーんっ、と座ったのだ。

 つまり、この森に満たされた結界の力を拝借して、自分の座るための椅子の形を作り上げたということだった。それは、まあ、できなくはないことだ。律令演繹結界の方法を応用してオレンディスムス系結界の真聖性を引き摺り出し、そうすることで結界の内部にもう一つの結界を作り出す。その結界を椅子としての形に整えればその上に座れないことはないだろう。だが、理論上は可能だとしても……そんなことをやろうとする者がいるだろうか? それをするのにどれほどの対抗精神力が必要になるというのか。確かに、魔力としては、上手く経路を作れさえすれば反射魔力を使えるかもしれない。とはいえ精神力はどうにもならない。たかが座るものを作るためだけに、そんなことをする必要が、一体どこにあるというのか?

 しかしデニーは。

 それをしたのだ。

 しかも、なんの躊躇いもなく。

 そして、なんの不都合もなく。

 あっさりと、やってのけた。

 この行為は……本来であれば、パンダーラにとって、というかこの森に隠れるダコイティの全体にとって、大変重大な行為であるはずだった。なぜなら、このようにして真聖性を利用されてしまうということは、要するにこの結界を形成している「律令」に根本的な脆弱性があるということだからだ。そして、その脆弱性をデニーに把握されてしまったということ。下手をすればこの結界全体の存続に関わる可能性さえある出来事だ。

 事実、パンダーラ以外の十四人に関しては(十六人いたうちの二人、パンダーラと話していたあの二人はどこかに行ってしまっていた)デニーのフィンガースナップによって起こった出来事に対してひゅっと息を飲むような反応を示した。怯えるみたいに目を見開いて、恐怖の籠った声を漏らす者さえいた。けれども、パンダーラは。そんな、デニーの、行為を見ても……特に何の反応も示すことはなかった。

 まるで当たり前だとでもいうように。

 デニーならば、それくらいのことは。

 できて、当然だとでも、いうように。

 そして、それをした当のデニーも、自分が何か致命的なことをしたとは欠片も思っていないようだった。そこら辺においてあった椅子を持ってきて、それに座っただけだとでもいうような態度。そんな態度のままで、にっこりと笑って……それから、ぴこーんっ!とでもいうように伸ばした、左右の手、両方の人差し指を。ばーん!とでもいうようにパンダーラの方に突き出してから、大変元気よくこう言う。

「お互いの理解のためにはー……」

 でーんと体を預けるみたいにして。

 背中の後ろの、何かに寄り掛かる。

 どうやらこの「椅子」には。

 背凭れも付いているようだ。

「状況の整理が必要ですっ!」

 確かにその通りだが、そういう言葉がデニーの口から出てくるとなんだか奇妙に聞こえるな、と真昼は思った。特に「お互いの理解」というところがとんちんかんで、ちょっと面白くさえある。とはいっても、パンダーラにとっては面白いだとかなんだとかいっている場合ではないはずだった。パンダーラはどうやら(断じて「友達」ではないとしても)デニーについてよく知っているらしく、デニーが何かを話すということは、それだけで非常に危険であるということを、よくよく理解しているのであって。ただ、それでも……話し始めたデニーの言葉を遮ることはしなかった。パンダーラは、本当に、デニーのことを知っているのだ。だから、デニーがしようと思っていることを、邪魔しても、無意味だということも、よくよく理解していたのだ。

「ま、ず、は、デニーちゃんの状況からお話するね。うーんと、えーと……デニーちゃんがなんでアーガミパータに来たのかっていうと、ここにいるこの子、真昼ちゃんを助けに来たの。真昼ちゃんがどういう子かっていうことは、パンダーラちゃんも知ってるよね。直接は関係なくっても砂流原っていえば有名だし……そうそう、ディープネットの幹部のあの人! あの人の、ご令嬢なの。それで、REV.Mの子達に攫われて、アーガミパータまで連れてこられちゃったんだけど。そんな真昼ちゃんのことを、色々あってデニーちゃんが助けに来たってわけ!

「だから、真昼ちゃんのことをアーガミパータからパンピュリア共和国まで、ちゃーんとエスコートしなきゃいけないんだけど。そのためには移動の手段が必要でしょー? と、いうことで、その移動手段を借りよっ!って思ってASKに行ったの。テレポーターを貸して貰えれば、びゅーんって、一瞬でパンピュリア共和国まで連れていけるし。それ以外にも、ASKなら、色々な乗り物があるでしょ? でーもー……んーまあ、やっぱりっていうかー、なんていうかー。ASKは、移動手段を貸してくれるどころか、真昼ちゃんのことが欲しい欲しい!ってなっちゃって。それで、真昼ちゃんは、REV.MだけじゃなくってASKにも狙われることになっちゃったの。たーいへーん!

「それで、あそこにあるアヴマンダラ製錬所で襲われちゃったんだけど、なんとか逃げ出してきたの。ASKのシャトルシップをちょーっとだけ借りてね。でも、そのシャトルシップも……製錬所から逃げ出す時に、ばちばちーって、ASKと戦闘になったんだけど。その時に、シャトルシップにガードナイト弾が当たってたみたいでね。ガードナイトの色力浸食のせいで、墜落しちゃったんだよね。どーんって。でもでも、ちょーラッキーだったことにね……墜落した場所が、ちょーどこの森の真ん前だったの! そこの、そこのところね! それで、ここならパンダーラちゃんがいる、パンダーラちゃんと一緒なら、きっとASKを潰せるって思って……で、こーして、今ここにいるっていうこと。」

 そこまでを話すと。

 デニーは、一度。

 言葉を止めた。

 デニーの話を、パンダーラは、真昼には驚異的と思えるほどの抑制によって、眉の先一つ口の端一つ動かすことなく聞いていたのだが。それでも、その眼だけは、その目に燃える真闇のような炎だけは、抑えることができないらしかった。右の眼と左の眼、それに額の眼。黒々と沈み込むような三つの光彩は、永遠の魂の根底、深刻に穿たれた……傷口のようにして。デニーのことを凝視していたということだ。

 しかし、デニーは。

 そんな視線をまるで気にすることなく。

 軽薄なほど可憐な笑顔を浮かべたまま。

 嘘か、あるいは悪意ある真実の続きを話し始める。

「そーんな、わ、け、で。デニーちゃんが欲しいなって思ってるものは、次の二つですっ! 一つ目は、真昼ちゃんの身の安全の保障。特にASKからの安全だね。REV.Mとか、それか野良ノスフェラトゥくらいならデニーちゃん一人でもなんとかできるだろうけど、ASKが相手ってなると、さすがにちょっと無理だから。二つ目は、アーガミパータから脱出する手段。飛行機とか自動車とかでもダメなわけじゃないんだけど、やっぱりテレポーターがいいな。びゅーんって、早く帰れるし!

「それでそれで、この二つをいっぺんにげっと!できる方法がひとつだけあるの。分かるよね、パンダーラちゃんなら……そーです、その通り! この森にいるダコイティのみんなと一緒に、ASKのアヴマンダラ製錬所に攻撃を仕掛けるっていうことです! ここら辺が最近、どーなってるのかっていうの、実はデニーちゃんよく知らないんだけど。ASKが情報統制かけてるからねー、でもさーあ、まだ、さすがに、何人か残ってるでしょ? マーラの子達も。デニーちゃんとその子達が、もちろんパンダーラちゃんもね、みんなみんなで力を合わせれば、きっとASKなんて……いちころころりんのこんっ、だよっ!」

 ほとんど完全な無表情のままで、一言も発することなく聞いていたパンダーラに向かって。「だよっ」のところで、きゃるーんとでもいう感じの、さいっこーに可愛いウィンクをぶちかましたデニーであったのだが。普通の人間だったら心臓ぶち抜きものと思われるくらい可愛らしいそのウィンクも、人間ではなくダイモニカスであるところのパンダーラには通じなかったようだ。

 暫くの間、何も言わなず。

 じっと、デニーのことを。

 見つめていたパンダーラだが。

 やがて、重く、苦く、その口を開く。

「それくらい、お前一人でできるだろう。」

「ほえほえ?」

「とぼけるな。ASKの本社に攻撃を仕掛けるのならともかく、支店の一つ二つを潰すくらい、お前にはなんということもないはずだ。陸に上がった魚の首を落とすほどに簡単にできるだろう。それなのに、わざわざ、私達を巻き込むな。」

「一点目、あの製錬所には、今、ミセス・フィストがいます。」

「な……」

 その、デニーの言葉に。

 さすがのパンダーラも。

 ほんの僅かだけ。

 声の調子を変える。

「ミセス・フィストが……?」

「んー、たぶん、真昼ちゃんを確実に捕獲するためにアーガミパータ本社から派遣されてきたんだろうね。救出に来てるのがデニーちゃんだーっていう情報を、ASKが掴んでいなかったわけがないし。それから、二点目ー。今のデニーちゃんは、完全な状態じゃありませーん。ほら、見て、見て、この通り。こんな状態なの。パンダーラちゃんだって知ってるでしょ? デニーちゃんは、「許可」がないと、ぜーんぶの力を出せないって。これじゃ、ミセス・フィストとばちばちってするのなんて無理だよ! やっぱり誰かさんが助けてくれないとね……そう、パンダーラちゃんみたいに、やさしーい誰かさんが。」

 デニーは、そう言うと。

 くるんっとした目をして、パンダーラの方。

 一際キューティーな視線を向けたのだった。

 一方で、そんな視線を向けられたパンダーラの方は。デニーの口からミセス・フィストという名前が出たことで、少しばかり……態度に変化が表れていた。心を動かされたというほどではないが、それでも、何かしら考慮しなければならない状況に追い込まれたという感じ。

 ちなみに、そういった態度の変化は、パンダーラよりも、他の十四人のダコイティに顕著に表れていた。露骨なほどにざわつき始めていたということだ。デニーとパンダーラとの会話は共通語で行われているため、その内容は、デニー達をここまで連れてきたあの女と、それにあと何人かは共通語が分かる人間もいるかもしれないが、とにかく、全員が理解できるものではないはずだ。それでも、ミセス・フィストという名前だけは分かったらしく。そして、こういった反応を引き起こすにはミセス・フィストという名前だけで充分であったらしい。

 そんな反応に対して、デニーは。

 非常に満足そうに、くすくすと。

 あの笑い方で笑っていたのだが。

 そんなデニーに対して。

 冷酷で、酷薄な、声で。

 パンダーラ、こう言う。

「それで。」

「はーい。」

「お前達の状況は理解した。それでは、私達の状況についてはどうなんだ。さっき、お前は「お互いの理解のためには」状況の整理が必要だと言ったはずだ。お前は、私達の状況について、理解しているのか?」

 デニーは、ぱっと開いた手のひら。

 とんっと鼻の先に押し当てる仕草。

 小さく、小さく、首を傾げて。

 それから、パンダーラに言う。

「んー、それがねー。実は、さっきも言った通り、あーんまり知らないの。パンダーラちゃん達が、今、どんな感じなのかってこと。ASKが何かを隠そうとしたら、その隠そうとしていることを知るのって、とーっても難しいから。国内避難民キャンプとかから、ある程度の情報は漏れてくるんだけど……それでもやっぱり、ダコイティって、キャンプに辿り着く前にみんな殺されちゃうからねっ! っていうか、そもそも、ここから出ていこうとする子が、ほとんどいないし。シークレット・フィッシャーズとかー、ブラッド・クーシェとかー、情報を手に入れるルートがないわけじゃないんだけどねー。まー、まー、そこまでして欲しいなって思うような情報でもないし。

「でもね、でもね! ある程度の想像はつくよ! 今のことを知らなくても、昔のことは知ってるからね! んーとお、例えばねーえ……ふふふっ……まだ、カーマデーヌは、ASKに捕まったままみたいだね。」

 デニーが、そのカーマデーヌという言葉を発した瞬間に。

 周囲のダコイティのざわめきが、一斉に大きくなった。

 しかも、そのざわめきの性質は今までのそれとは明らかに変わっていた。ただ単純な驚きだったものが……その内側に、熱を帯びていて。しかも、それは、あからさまなほどの怒りの熱量であった。共通語を理解できるあの女などは、その「カーマデーヌ」という言葉を発した瞬間に、デニーの方を、明確な憎悪の視線によって刺し貫いたくらいだ。その言葉は、こんな風に、軽々しく口にされてよい言葉などではなく。そしてまた……

 パンダーラは、あくまでも冷静に。

 しかし、煮えたぎる怒りを込めて。

 デニーに向かって、こう言う。

「その名前はお前のような悪魔が口にしていいものではない。」

「えーっ? パンダーラちゃんってば、ひっどーい!」

 プリティなほっぺたを、両方の手のひらできゅっと挟んで。

 巫山戯たように、ショックを受けたのポーズを取りながら。

 デニーは。

 なんだか楽しそうに。

 こう、言葉を続ける。

「この森の、ぜーんぶが、死にかけてる匂いがするよ。とっても甘くて、とっても冷たくて、とーっても美味しそうな、あの匂いが。この森を満たしていたはずのカーマデーヌの「力」が、どんどんどんどんなくなっていっちゃってる。違うかな? 違わないよね! デニーちゃんは、とーっても賢いから、分かっちゃう! 例の「開発計画」から何年たったっけ。十年? 二十年? もっとだよね。とにかくっ! このままじゃ、この森の結界が使い物にならなくなっちゃうのも、時間の問題って感じかな。そーしたら! 遂に、ASKが、この地域を開発することができるってわけ!」

 デニーがここまで話し終えた時には、聾桟敷の連中、つまり十四人のダコイティが、既にデニーとパンダーラとが話しているその周囲に集まってきていた。ラジオみたいなものに耳を傾けていた四人も、機械を分解していた三人も、岩に座って居眠りをしていた一人も。あるいは、デニー達をここまで連れてきたあの六人さえも、心なしか身を乗り出すみたいにしてデニーとパンダーラとが話している方へと近づいてきていたのだ。

 この十四人の中では、あの女と、それに岩に座って居眠りをしていた男、その二人がどうやら共通語を解する人間であるらしく。デニーの言葉を一言一言翻訳しては他の人間達に教えているようだった。だから、この場にいる全員が、デニーの話している言葉を、大雑把にではあるが理解しているということになる。そして、その言葉を理解した結果として、十四人はデニーに対して大変強い敵愾心を抱き始めたようだ。

 もちろん、この話し合いが始まる前から、デニーに対する評価は決してナイスなものではなかった。デニー達をここまで連れてきたあの女が言ったように、デニーの指輪を見た時のパンダーラの反応があまり良くないものだったせいで。そのパンダーラに畏敬の念を抱いているところのダコイティも、自然と良くない印象を抱いていたから。だが、今の、この嫌悪、この反感は。そういった曖昧な印象よりも更にはっきりとした不快感だ。

 いつだって人間という生き物は預言者を殺したがるものだ。特に世界の滅びを予言する預言者を。デニーは、ひどく愉快そうに、ダコイティの世界が滅びることを予言した。しかも、その予言は、完全に正しい前提のもとに、完全に正しい推測として行われた予言であって。その正しさこそが一番の問題なのだ。要するに、何がいいたいのかというと。ダコイティも、しっかりと理解していたということだ。このままでは自分達は負けるだろうということを。このままでは、自分達は、破滅するだろうということを。それでも……なるべくそのことを考えないようにしていたのだ。

 それを、デニーはあからさまにした。

 しかも、とても、無邪気なやり方で。

 ただ、とはいっても……その言葉を向けられた、当のパンダーラは。まるで怒りの感情を見せていなかった。いや、正確にいうと、確かにその三つの目は怒りの冷度によって凍り付いていたのだが、その怒りはデニーという存在そのものに対する怒りであって、デニーの言葉に向けられたものではなかったということだ。

 パンダーラは知っているのだ。デニーには……全然、全く、すっかり、さっぱり、悪気がなかったということを。デニーは、状況を話すように言われたからそうしただけであって。それ以上の思惑はなかった、ダコイティを馬鹿にしたいとか、そういう考えは一切なかったのだ。悪気のないものに対して怒りを向けても何の意味もない、向けられた相手は、なぜ自分が怒りを向けられているのか、それさえも理解できないのだから。

 だから、下等な人間ではなく。

 比較的高等なダイモニカスであるパンダーラは。

 そんな無意味なことに感情を向けることはなく。

 ただ、事実に対して、事実だけを。

 言葉として返す。

「お前が何を言おうと、お前の誘いに乗るつもりはない。」

「へえー。あっ、そー。」

 デニーは。

 その言葉に。

 くすくすと。

 笑っただけで。

 そんな風なデニーのつれない反応に比べて、より一層大きな反応を見せたのは……やはり周囲にいるダコイティだった。ただし、その反応は少しばかり奇妙なもので。また、反応した当のダコイティも、自分達がなぜそのような反応をしているのかということがよく分かっていないようだった。

 本来であれば、ダコイティは。デニーを拒否したパンダーラの言葉に対して快哉を叫ぶべきところだろう。デニーのような生き物に対して自分達は何の協力もしないと、次々に同意の声が上がってもおかしくないところだ。それなのに、彼ら/彼女らの反応は、それとは少しばかり違うものだ。

 無論、それはパンダーラの言葉に対する同意の声ではあった。とはいえ、それは、「快哉を叫ぶ」とは程遠いやり方であげられた声であった。どこか歯切れ悪く、おずおずとしていて。なんとはなしに、心の底からの同意とは思えないような声だったということだ。自分たちの信条や、パンダーラの高潔さからいって。この言葉に同意の声をあげるのは当然なのであるが。それでも、そうだとしても、とはいっても……本当に、その回答が、絶対的に正しいものなのであろうか。それは、そんな声であって。

 要するに、ダコイティの一番の問題点は。知るべきことを知らずに知るべきではないことを知っているということだった。知るべきことというのは、もちろんデニーがどれほど悪辣な生き物であるかということに対する、真実の認識であって。そして、知るべきではないことというのは、デニーがどれほど力強い生き物であるかということだ。

 ダコイティはそれを見てしまった。デニーが、いとも易々と、自分達の結界から真聖性を引き摺り出したそのさまを。そんなことができるのは凄まじい力の持ち主だけなのであって、それは、もしかしたら、パンダーラに匹敵するかもしれないほどの力ということだ。一方でダコイティは、パンダーラと違って、デニーと一緒に何かを成し遂げたことは一度もない。ここでいうところの一緒に何かを成し遂げるとは、デニーが成し遂げたいと思っていることに協力させられて、それを成し遂げさせられるということであるが。それをさせられる過程において、デニーが、一体、どれほどまでに、軽薄で、卑劣で、それに何よりも邪悪でありうるのか。そういうことをダコイティは一切知らないのだ。ダコイティは、パンダーラが嫌悪しているから。何となく、自分達も、つられるようにして、嫌悪しているだけなのである。

 だから、ダコイティ、は。

 こう思ってしまったのだ。

 もしかして。

 もしかして。

 この、デニーという生き物に。

 力を、貸して、もらうことは。

 自分達にとって。

 利益になることなのではないか?

 ああ。

 なんて無知で、なんて幼くて、なんて甘えていて。

 それに、なんて、人間的な考え。

 それはそれとして、この会話の主役達に戻ろう。デニーとパンダーラとの現在の光景だ。カンバーゼーションにおける先ほどのピリオドから、二人は未だ一言も発していなかった。パンダーラはデニーのことをじっと見据えているだけで。その視線を受けて、まるでそれをくすぐったがっているかのごとく、くすくすと笑っているデニー。さはさりながら、いつまでもこうしていては、ただ悪戯に時間が過ぎていくだけであって。悪戯をするのはデニーも大好きなのであるが、とはいっても、次の行動を起こしたのはデニーであった。

 ぴこんっと。

 立ち上がる。

 その椅子から。

 そして。

 ぴっと、後ろで手を組んで。

 きゅんっと前屈みになって。

 官能的なほど。

 稚いやり方で。

「そういえばさ、パンダーラちゃん。」

 パンダーラを。

 誘うように。

 こう言う。

「髪の毛、切っちゃったの?」

 その次に起こったことは、真昼やダコイティはもちろんのこと、もしかしたらパンダーラさえも予想していなかったことかもしれない。その言葉を終えた瞬間に……デニーの姿が、ふっと消えたのだ。目に見えないほど早く移動したとか、あるいは何かの原因で掻き消えたとか、そういった消え方ではなく。一度目を逸らして、もう一度そちらの方を見たら、いつの間にかいなくなっていた、そういった類の消え方であった。

 それから。

 その次の瞬間に。

 いや、違う。

 その消失と。

 完全に同期して。

 デニーは。

 姿を現す。

 さて、一体どこに?

 それは、とても。

 当たり前の場所。

 つまり。

 パンダーラの。

 すぐ、背後に。

 ぞうっと……パンダーラは感じた。自分の生命の内側、張り巡らされた神経に、あたかもせせら笑うようにして。甘く、冷たい、蛆虫が這い回るような感覚を。いつの間にか自分が死んでしまっていて、誰も訪れず、物音一つせず、ただ凍り付いた骨の欠片だけが降り積もる奥津城に閉じ込められているような。その奥津城で、唯一生きている生き物――透き通るほどに純粋で、どろどろと濁りきっている、永遠の邪悪――可愛い、可愛い、蛆虫が、這い回っている、ような。

 パンダーラはその感覚を知っていた。感情の導管の内部に、永遠に消えることのない星の光の炎を燃やすようにして、記憶の、憎悪の、熱量は消えることなく、パンダーラの善良な部分を火刑の只中に閉じ込め続けるからだ。パンダーラの中の、一番良いところ、だった部分。純真で、美しく、愛されるに足る部分。パンダーラの中の、その部分は。その蛆虫によって、永遠に食い尽くされてしまったのだ。パンダーラに残されたのは、墓穴の中で眠る、死んだ骨の塊だけ。

 そう。

 その通り。

 その蛆虫。

 これは。

 デナム・フーツ、に。

 触れられている感覚。

「ふふふっ、とーっても残念。」

 右の、耳元に。

 淡く。

 淡く。

 愛撫するみたいに。

 その男の声がする。

「だってパンダーラちゃんの髪、あんなにすてきだったのに。」

 生まれることさえしていない汚れない胎児が、母親の胸にその身を預けている、そんな様子にも似た態度で。デニーは、パンダーラの髪の毛に、するりと顔をこすり付けていた。肩のところ、髪の一房を手に取って、口づけでもするみたいに唇を寄せていたということだ。

「お前……何をしてる!」

 と、パンダーラは叫んだのだけれど。デニーのこと、振り払うことも突き飛ばすこともできなかった。あまりにも嫌悪感が強くて、あるいは、あまりにも恐怖感が強くて。まるで全身が麻痺したようになってしまっていたのだろう。後々になって少し落ち着いて、この時に起こった出来事をまともに考えられるようになった時に、真昼は、そんなことを思ったものだ。

 例えばこの世界の全てに火をつけて、それで笑いながら踊っているみたいだ。デニーの顔は、そんな風に満足げに笑っている。うっとりと目を閉じて、手のひらの上の髪の毛から、次第に、次第に、頭の方へと、頬を寄せていって。柔らかく、幼い、その唇は、きゅっと奇麗な形をしていて……そして、それから。その唇が、また開いて、言葉を発する。

「ねえ、何人死んだの?」

 その言葉に、ようやくのこと。

 パンダーラの呪縛が解かれる。

 残っている方の手、左手で、ぐっとライフルを掴むと。デニーがいる右の半身に向かって、思いっきりそれを振り上げた。肩の向こう側に銃底を叩き付けるみたいにして、「悪魔が……!」という悲鳴のような声をあげながら。

 けれども、既にデニーはそこにはいなかった。またもやその姿を消して、またもやその姿を現して。今度は、パンダーラが座っている倒木の上、しかもパンダーラのすぐ横に、ちょこんと腰掛けていたのだ。こうして並んで座っているところを見ると、パンダーラの方がデニーよりもかなり背が高いことが分かる。頭半分くらい長身なのだろう、そのため、自然と、デニーは見上げるような姿勢をしていて。媚びるような上目遣いで、言う。

「あははっ、そんなに怒んないでよーぅ! ねえねえ、何人死んだの? ASKの開発計画が始まってから。十人? 百人? そんなに少なくないか、だって、森だったところ、もうほとんど残ってないもんね。すっかり採掘場になっちゃって。死んだ子の数、わざわざ数えてないかな? そんなことはないよね、パンダーラちゃんって、そういうところ、すっごくさぴえんすに似てるもん。一人一人の顔まで覚えてるに決まってるよ。ほーんと、ちょっとお馬鹿さんみたいだと思う。そんなことして何の意味があるのか……あっ、それから、それから、殺された子達はどうなったのかな、脳を抉り出されてオーガニック・インプランターとして売られちゃった? 残りの部分は輸出用の臓器として冷凍保存してあるの? 骨は、えーと、家畜の飼料かな? ASKは倹約家さんだから、ぜんぶぜーんぶ、残すところなく使ってるにきまってるよね! パンダーラちゃん、ねえ、答えてよ。死体がなくてお葬式もできなかった子達って、一体どれくらいいるの?」

 けらけらと、楽しそうに、笑いながら。

 ばたばたと、泳ぐように足を動かして。

 パンダーラは、その表情を繋ぎとめていた「自制心」さえもとうとう失ってしまったらしい。ぎりっと音でも立てるみたいに、全ての歯を噛み締めて。唇と唇の隙間から、荒い吐息が漏れる。バレルを掴んだ手のひらは、うっすらと燃えるみたいな光を放っていて……これは、ダイモニカスの感情が、極度の緊張を強いられているということの表象のようなものだ。人間でいえば血管が浮かび上がるとか、真っ赤になるとか、そういった類の現象ということ。デニーに向かって何かを叫ぼうとする……しかし、その口から声が出ることはない。何を言えばいいのか分からないのだ。

 この男には。

 何を、言っても。

 何の意味もない。

 だから。

 そんなわけで。

 パンダーラの代わりに。

 デニーが話してあげる。

 意味のあることを。

「ねーえ、パンダーラちゃん。デニーちゃんはさ、パンダーラちゃんの考えてること、よく分からないんだけど。でもさ、パンダーラちゃんは、ダコイティの子達を奪われたくないと思ってるんだよね? 何の得もないのに、っていうか、どうせ損しかしないのに。ほんっとーに、あんな子達のことなんて早く捨てちゃってさ、どっか他の、もっと住みやすいところに行けばいいんじゃないのかなあって思うけど……まあ、パンダーラちゃんは、昔から何でも取っておくタイプだし。せっかく自分の!ってなったもの、誰かに殺されるのはもったいないって思っちゃうのかな? んー、そういうのはデニーちゃんも分からなくもないけど……ま、あ、それはひとまず置いといて!

「とにかくさ、デニーちゃんが言いたいのは、もしもダコイティの子達のことを奪われたくないんなら、デニーちゃんのお話を受け入れるのが一番いいんじゃないかなあってこと。だって、このままじゃ、あの子達も死んじゃうよね。みんなみーんな、死んじゃうよ。だって、生き残ってる子達って何人くらいいるの? これは、ダイモニカスだけじゃなくって、さぴえんすも含めてって話。あっ、そういえば、さぴえんすも含めたら死んじゃった子達ってどれくらいになるんだろう! 何百万人って数になるよね? ま、どうでもいいか。人間って、いくら死んでもまたすーぐに生まれてくるもんね。今ここで死ななくても、百年もしたら死んじゃうし。で! 何人くらい生き残ってるの? ダイモニカスは数十人くらい、人間は数千人くらい、生き残ってればいい方だよね。

「そんな少ない人数でさーあ、一体さーあ、何ができるの? この結界を保つのだって、もう精いっぱいって感じじゃない。でー、もー……デニーちゃんがいれば! そんな心配は、もーういらないんだぜっ! パンダーラちゃんだって、さすがにぜんぶの死体を取られちゃったってわけじゃないでしょ? そりゃーそんなに多くはないだろうけど。ASだって、ダイモニカスの死体も、人間の死体も、そんなにすっごくすっごく欲しいってわけじゃないだろうし。千人分くらいの死体は回収できたでしょ? デニーちゃんならー、それをー、役に立つものにすることができるよ。とーっても、役に立つものに。それに、それだけじゃなくって、デニーちゃんがデニーちゃんであるだけで、とーってもお役に立てます! それは、パンダーラちゃんも、よく知ってるよね。」

 そこまで言うと、デニーは。

 意味ありげに、ぱちくりと。

 小さな瞬きをする。

 そんな、一連の、デニーの態度に。ダコイティは、次第に、次第に、自分達がどういう反応を示せばいいのかということがよく分からなくなってきてしまっていた。天秤の片側には、叫び出しそうなほどの憎悪と、掻き毟りたいほどの嫌悪感。けれども、もう片側には、パンダーラに捧げるそれと、ほとんど変わりがないほどの……畏怖の感情。

 この男は、この、恐ろしい、少年は。パンダーラと同じ場所に座って話している。ここでいう同じ場所とは、もちろん物理的な意味だけではない。比喩的な表現として、デニーが、パンダーラと、同じレベルで話しているということだ。それだけではない。それどころかパンダーラは……どうやら、このデニーという男を、畏れてさえいるようだ。

 そして。

 そんな男が。

 そんな化け物が。

 自分達に。

 手を貸すと。

 言っている。

 ということで、ダコイティは、二律背反というか、ほとんどダブルバインドにも等しい精神状態に陥ってしまっていたということだ。ただし、一人を除いて。それはデニー達をここに連れてきたあの女だった。あの女だけは、デニーのことを、純粋な嫌悪の目で睨み付けていた。

 もちろん、この女が共通語を解していたからという理由もあるだろう。共通語が分かるということは、デニーとパンダーラとの会話の、細かいニュアンスまでも理解できるということで。それゆえに、どんな口調でどんなことを言っているのか、そういう実際のところまで把握できるということだ。とはいえ……それだけではなった。それだけが理由ならば、共通語が分かるもう一人の男もこの女と同じくらいの拒否反応を抱いていて然るべきだろう。だがそういったことはなく。つまるところ、要するに、この女の、これほどの忌避の感覚は……あの指輪に触れたことに起因していた。

 デニーが「契約の指輪」と呼んだ、あの指輪。

 触れた瞬間に、手のひらから、全身にかけて。

 静かに、静かに、凍り付いた、雷鳴のように。

 一瞬のうちに走り抜けた、あの、邪悪の感覚。

 この女は、知っていたのだ。

 上古の邪悪。

 少なくとも。

 その、ほんの一部を。

 ただ、とはいっても。そういったダコイティの反応に対してデニーが何らかの反応を示すはずがない。それどころか視界に入ってさえもいないだろう。負け犬の屑共、生きていても死んでいても何の変りもない下等生命体、ホモ・サピエンス如きにデニーが注意を払うはずもないのだ。彼ら/彼女らは、ある種の所有物であって。つまるところ家畜やペットに過ぎない。しかしながら、家畜やペットというものは、それ自体が生得の権利を持つものではないが。それが失われることは、その所有者にとって、確かに、何らかの損害なのであって。

 だから、デニーは。

 パンダーラに対し。

 こう言う。

「これ以上、この子達と、バイバイしたくないでしょ?」

 そう言われたパンダーラは。デニーを睨みつけていた視線を、初めて、自分から、ふっと逸らした。真昼はその時のパンダーラの視線の内側にほんの僅かの怯懦さえも見たような気がした。これほど……生きることの全てを生き抜いてきたらしい生き物であっても。しかも、人間ではなく、ダイモニカスであっても。まだこんな目をすることがあるのかと真昼は少し不思議な気持ちになったものだ。

 それは。

 犠牲に対する怯懦。

 自分よりも、弱い何者かを。

 自分の下した判断のせいで。

 殺してしまうのではないかという。

 そういう種類の、恐怖。

 無論、デニーがそういった恐怖を理解しているというわけではない。だが、その感情自体を理解していなくても、その方向性を「所有への欲求」や「喪失への嫌悪」といった生理的感覚とパラレルに考えることは可能であるのだし。それに、そういった生理的感覚は利用するのに大変有意義であるということも、やはり知っているのだ。そして、デニーちゃんは、とっても賢いので。利用できるもののうちの利用すべきものを利用することに対してなんらかの躊躇いを覚えるようなことはない。だから、デニーはその生理的感覚……に、似ているものを、利用するということだ。

 すとんっと立ち上がる。

 座っていた、倒木から。

 とっ、とっ、という感じ。楽し気な、けれども支離滅裂で、全く筋道だっていないステップ。デニーは緩やかに崩れていく秩序のようなダンスを踊りながら、パンダーラに向かって歌うように言葉を続けている。「これは!」「ねえ!」「パンダーラちゃん!」「これは!」「とっても!」「とっても!」「すてきな!」「チャンスなんだよ!」「ミセス・フィストを!」「壊す!」「ことが!」「できる!」「絶好の!」「チャンス!」。くるくると、くるくると。まるで、パンダーラを、惑わすみたいにして。

 それから。

 ぴたりと。

 そのダンスを。

 止めて。

 さっき、自分が、この結界から作り出した椅子の前に立っていた。デニーは、ぱんっという感じ、胸の前で両方の手のひらを合わせて。いつものように可愛らしく首を傾げながら、パンダーラに向かって、先ほどの歌、歌詞の続きを口にする。

「ふふふっ! パンダーラちゃんなら分かってるよね。ミセス・フィストがあの製錬所にいるっていうのが、どれだけ、大切な、大切な、チャンスなのかってゆーこと。今、今! あの製錬所を叩き潰せば。もしかして、ミセス・フィストを壊しちゃうことができるかもしれないんだぜっ! そうすれば、もしかして、ASKは、個々の開発計画を考え直すかもしれないよね。まあ、それほど期待はできないだろうけど……でも、可能性はあるよっ! だって、アーガミパータの地域担当者を壊されちゃったら、ASKだってだーいそんがいっ!だし。そんな損害を、またまた与えられるかもしれない場所の開発なんて、やっぱりちょっと考え直した方がいいもの。そうなれば、この場所は……今より、もっと、住みやすいところになるよ。パンダーラちゃん達にとってはね。」

 てってっと、パンダーラの方を向いたまま。

 つまり、後ろ向きのままで、何歩か歩いて。

 それから。

 そのまま。

 倒れこむみたいにして。

 その「椅子」に、座る。

「もちろん、この子達にとっても。」

 そう、言って。

 ちょっとだけ。

 肩を、竦める。

 パンダーラは……逸らしていた視線を、なんとかデニーの方に戻す。本当に無理やり、反発しあう磁石の極同士をくっつけるみたいにして。明らかにその眼の色は苦しんでいた。デニーの言葉に迷わされているとか、そんな生易しい色ではない。むしろ、苦い音を立てながら燃え盛る氷の刃の上に強制的に押さえつけられて、目に見えない無数の針で串刺しにされているみたいだ。これは、もしもこのパンダーラの様子を見ているのが真昼以外の人間だったら。なかなか理解しがたい光景かもしれない。デニーが、これだけ力強い生き物が、手を貸すといっている。しかも、ASKを叩くための絶好の機会が訪れた、まさにその時に。これほどの好条件に対して何を悩む必要があるのか。

 真昼はその問いに対する答えを知っていた。パンダーラほどよく知っているわけではないが、それでも十分に知っていた。デニーという生き物が、どれほど、悪しき、生き物で、あるのか。デニーのいう「手を貸す」とは、要するに「利用する」ということなのだ。デニーは信用できない。絶対に、完全に、信用できない。そんな相手と一緒に戦う。そんな相手に命を預ける。そんなことができるはずがないのだ。いや、まあ、真昼は実際に命を預けてしまっているのだが。もしも選択の余地があるのならば、何があっても、この男、この少年、デナム・フーツを選ぶような真似はしないだろう。

 そう。

 選択の余地があれば。

 それこそが、問題だ。

 真昼にとっても。

 そして。

 パンダーラにとっても。

「私は……」

「ん? なあに、パンダーラちゃん。」

「私は……お前を……」

 選択の余地があるのか? これはいつだって誰かを殺してでもその答えを得るべき問題の一つだ。それでは、今、パンダーラに選択の余地はあるのだろうか? 誰を殺せばその答えは得られる? 残念ながらパンダーラには分からなかった。何も、何一つ、分からなかった。問いかけの上に問いかけが重ねられて。このまま……ただ、じっと、死んでいくのを、待つしかないのか? 自分だけが死ぬというのならば、それは別に構わない。ただ、しかし、パンダーラが背負っている命は、自分のもの、一つだけではない。信念と犠牲、諦念と渇求。

 長い。

 長い。

 沈黙。

 が。

 論理。

 を。

 析出。

 する。

 みたいに。

 続いて。

 その後で、もう、一度。

 デニーが、口を、開く。

「カーマデーヌを取り戻したくないの?」

 どこまでも。

 どこまでも。

 無垢な。

 やり方で。

「デニーちゃんなら、それをしてあげられるよ。」

 この時点で、既に、ダコイティは騒々しいブーイングをやめてしまっていた。喉の奥がべたべたとした接着剤で閉じ込められて、息をすることができないとでもいうような、窒息じみた静けさによって静まり返っていた。十二人の人間達は、ただただ阿呆のようにして。残りの二人が同時通訳をしている、デニーとパンダーラとの会話に聞き入ってしまっていて。ダコイティも、なんとなくではあるが、分かっていたのだ。今行われているこの会話が、もしかしたら、これから先の自分達の運命を決定的に決定づけてしまうかもしれないということを。

 それが、救済であれ。

 あるいは破滅であれ。

 一方で、その会話の主人公のうちの一人。パンダーラは……ぎりぎりと音がしそうなくらい歯を噛み締めていた。ディ・カ・ラーンダか何かのゲームで、盤上に駒を進める前に追い詰められてしまったプレイヤーのような表情をして。遠く遠く叫び声をあげながら、冷酷な燃焼を続ける二つの黒流石。パンダーラの二つの目は、それでも、まだ、なお、誇り高くデニーのことを凝視していて……しかしながら、パンダーラは、次のような事実についても、とても、とても、よく理解していた。それはつまり、こういうことだ。誇り高さでは一人の人間さえも救えないということ。

 だから、パンダーラは。

 ライフルの先、銃口を。

 とんっと地面に突いて。

 それから、そのライフルを。

 まるで、杖のように使って。

 倒木、から。

 立ち上がる。

「お前が……」

「デニーちゃん、だよっ!」

「……お前が言いたいのは、つまりこういうことだな。自分が協力をするから、ダコイティの持つ戦力を全てを投入して、ASKのあの「要塞」を叩こう。そして、まさに今あそこにいるミセス・フィストを倒し……そして……「彼女」を救出しよう。そういうことだな? 私の理解に間違いはないか。」

「間違いないない。だいじょーぶだよ、そのとーり!」

 パンダーラは、聾桟敷の連中に、要するにダコイティに、ちらりと視線を向けた。いや、正確にいうとパンダーラもダコイティなので、パンダーラ以外のダコイティにということであるが。とにかく視線を向けられたダコイティは……ひどく不安そうな表情をしていた。何か重大なことが起こりそうなのだが、その重大なことに関わることができないどころか、その重大なことがなんなのかも分からないという時に、人間がするあの表情だ。

 ここにいる自分以外のダコイティに対して、デニーの提案にどう答えるべきかということ、それを問いかけるつもりなどパンダーラには全くなかった。そんなことをすれば責任の放棄になってしまうということがパンダーラには分かっていたからだ。ここにいるのは、全員が人間であって。ダイモニカス、知恵あり、力強い、生き物は、一人もいないからだ。決断とは、知恵ある者、力強い者のなすべき義務なのであって。それを弱いものに任せるというのは卑劣で卑怯な行為なのだ。なぜなら、決断を下すことは、最終的に、その決断についての全ての責任を取るということだからだ。弱き者、愚かな者には背負わることのできるような重荷ではないからだ。

 だから、今。

 この場で下さなければならない。

 その決断を、下せる、生き物は。

 パンダーラしかいないのだ。

 人間達に向けていた目を。

 また、デニーに、戻して。

 口の中で、うごうごと蠢く蛆虫を。

 嫌悪と共に、吐き捨てるみたいに。

 静かに、静かに。

 こう言って。

「私はお前を信じない。」

 左手で、杖みたいに突いていたライフル。

 それを、野の獣に似た態度で振り上げて。

「絶対に、何があろうとも。」

 そして。

 それから。

 自分のすぐ背後に生えている。

 あの、ねじくれた、一本の木。

 歪な幹に向かって。

 勢いよく、透明に。

 あるいは、絶叫のように。

 その床尾を、叩き付けた。

 それは……地鳴りに似ていたのだと。後々になって、冷静にものが考えられるようになってから、真昼はそう思った。何か巨大な地震が起こって、この地表にあるあらゆるものが崩れ去る前に、ただ単純に予告するが如き冷静さで、生きている者たちの心臓を震わせる、あの地鳴りのことだ。

 とぷんっと、真昼の脳の外側で柔らかい髄液が水紋を描く。あるいは、真昼の全身が凄まじい悲鳴を上げながら痙攣している。あまりにも、あまりにも、強力過ぎて。その爆発をその身に受けた生き物は、自分が吹き飛んでしまったことさえ知らないうちにこの世界から消え去ってしまう。そんな爆弾が爆発したみたいだった。それは衝撃波だった。だが、その衝撃波は、人間程度の精神が耐えられるものではなく。そのせいで、真昼は、その衝撃波を受けた自分がどうなってしまったのかということ、それを知ることさえできなかったくらいだ。

 一体。

 何が。

 起きたのか。

 それは、端的に表現すれば……聖化された領域の聖性における共鳴現象だ。捻じくれた木、これは一種の聖性表象体(イタクァの一部族からはトーテムと呼ばれていた種類の物体のこと)として機能している物体なのであるが。この木をセイクリッド・アンテナとして使用して、パンダーラが、自分の「力」によって結界の全体を振動させたということだ。しかも、完全に正確な、一定のパターンによって。

 真昼が、自分という生き物について、その根底から揺さぶられてしまったような気がしたのも当然のことであろう。結界の内部にいる以上は真昼もその聖化という過程の一部となっているのであって、この振動が震わせたのは、その「過程」それ自体なのだから。結界を構成しているオレンダ周波数、妖理学的な振動に、するりと紛れ込まされたノイズ。パンダーラがした行為はそういう行為だったのだ。

 要するに、つまるところ。

 極限まで簡単にいうなら。

 パンダーラは、結界の全体にまで届くくらいの、凄まじく強力な信号を送ったということだ。結界の「内側」に関しては隅々まで届くのだが、一方で結界の「外側」には絶対に届かない信号。なぜならこの振動は、結界を構成するオレンダ周波数に乗せて送られたものなのであって、オレンダ周波数が届かないところまでは届かないからだ。パンダーラは、あの捻じくれた木を叩くことによって、結界内部の、様々な場所に散らばっているダコイティの仲間達に、何かのメッセージを送ったのだ。

 何かのメッセージ。

 そして。

 その。

 内容。

 は。

 世界を丸ごと飲み込んだ大波が、徐々に徐々に引いていくみたいにして。真昼は、衝撃波の影響から、少しずつ立ち直ってきた。脳味噌を痺れさせていた波紋が収まってくる、自分が何をしているのか、自分が何を見ているのか、自分が何を聞いているのか、それが分かるようになってくる。真昼はそこに立っていて、真昼はパンダーラのことを見ていて、パンダーラの言葉を聞いていて。そのパンダーラの言葉は……こう言っている。

「たった今、森のあちこちに散らばった同志達にメッセージを送った。この連絡は暗号化された通信で行ったが、恐らく、この程度の暗号はお前ならば簡単に解けるだろうな。だが、念のために教えておく。今日の南中時刻、一六〇五に、「死者の広場」で集会を行う。非常な重要な決定に関する集会なので全員が集合することを望む。以上だ。」

 そこで、パンダーラは、一度言葉を止めた。

 それから、屈辱と諦念とに満ちた顔をして。

 デニーに向かって。

 こう言葉を続ける。

「この意味は、分かるな。」

 そして、そんなパンダーラに。

 とても、嬉しそうな顔をして。

 デニーは、こう答える。

「えへへっ、ありがとー、パンダーラちゃんっ!」

 読者の皆さんも「この意味は、分か」りますよね。えーと……大丈夫? もしかして分からなかったりする? さっきのパンダーラちゃんみたいに「念のために教えてお」いた方がいい? パンダーラはデニー以外の生き物からパンダーラちゃんと呼ばれると、めちゃめちゃ嫌そうな顔をしながらも一応は「なんだ」と答えてくれるタイプのダイモニカスなんですけど、まあそれはいったん置いておくことにしまして。

 パンダーラが何も言わずともデニーが理解したのは、こういうことだった。パンダーラは、デニーの提案について、とりあえずのところは……一蹴しなかったということ。いうまでもなく受け入れたというわけではない。とはいえ、今、この場で、却下したというわけでもない。デニーの提案について、ダコイティの他のリーダー達、生き残っている他のダイモニカス達(もちろんダコイティのリーダーは全員がダイモニカスだ)と共に検討するという、第一の回答をしたということだ。

 第一の回答、そう、無論、これは第一回答だ。パンダーラは、この森のあちらこちらの散らばっているダコイティの「森林細胞」の、その一つのリーダーに過ぎないのであって。パンダーラの回答だけでダコイティ全体の意思とすることなどできるわけがないのだから。けれども、そうだとしても……パンダーラは、次のような事実を理解していないわけではなかった。これは、あくまでも、見かけ上の第一回答に過ぎないのではないかという事実を。これは、本当は、最終回答に等しいのかもしれないという事実を。

 この森の中で、本当に、デニーのことを知っているのは。実のところ、パンダーラ一人なのだ。うーん、真昼も……まあまあ知っていないわけではないのだけれど。でもダコイティじゃないから例外としますね。この男、この少年、デナム・フーツと、長い時を一緒に過ごしたことがあるのは。そして、デナム・フーツが、どういう時にどういう行動を取るのかという行動パターンを、嫌というほど思い知らされたことがあるのは。ダコイティの中ではパンダーラだけなのだ。

 ということは。

 他の同志達は。

 いとも容易く。

 惑わされ。

 誘われて。

 騙される。

 そんな可能性が。

 あるということで。

 あの時の……あの時のパンダーラと同じように。誘惑され、救われて、与えられた後で、惜しみなく一切を奪われる。そうして全てが絶望のうちに終わるのだ。永遠の絶望とはいわないまでも、少なくとも、生きているうちは、逃れることのできない絶望。ようやく逃れたと思っても、その絶望は、また、パンダーラの前に姿を現した。無垢で、純粋な、少年の姿をした絶望は――パンダーラの全部、ここに残されたものさえも奪うために――今、まさに、パンダーラの目の前で可愛らしく笑っていて。

 しかし。

 だから。

 どうしたと。

 いうのだ。

 先ほども書いた通り、これは選択肢の問題なのだ。パンダーラに、他の選択肢が与えられているとでも? ご冗談を、そんなものが残されているわけがない。パンダーラはこの運命を選ぶしかなかった。運命? はははっ、まあまあ陳腐ではあるが、それなりに正確な表現だ。冗談といい換えてもいいかもしれないが、まあそれはやめておこう。とにかくパンダーラの運命は決まっていた。それは、遥か昔。初めてこの男に出会った時……あそこで、この男に、助けられた時に。

 ああ!

 なんて、なんて!

 可哀そうなんでしょう!

 パンダーラは。

 あの時に死んでおけば良かったのだ。

 そうすれば、少なくとも。

 二つの選択肢から、死ぬという選択肢を。

 自分で選択することは、できたのだから。

 んー、でも終わったことをいつまでもくよくよ考えてても仕方ないよね、パンダーラちゃん! 元気出して、前向きに行こ! ということで、いつまでもパンダーラのことを書いていないで、物語を前に進めていくことにしよう。

 さて、とりあえずのところ第一回答をしたパンダーラと、とりあえずのところ第一回答をされたデニーは。ちょっとの間、何も言わず、目と目と合わせて、視線と視線を交わらせていた。それは睨み合っているというわけではなく、ただ単純に相手の出方を見計らっている、といった感じの場面だったのだが。やがて……パンダーラの方が、ふーっと一つ溜息をついた。

 長い、長い、とても長い溜息だった。顔を少し俯かせて、そのせいでデニーから視線が逸れる。例えるならば、深く、暗く、濁っていて、それでいて心地よいほどに生暖かい泥沼の中に沈んでいく時に、ある種の生き物が発する嘆息。それは、そんな音に似た溜息で。ひどく物悲しく、ひどく重たく、ひどく疲れ切っている、そういった印象を聞く者に与える溜息だった。

 そして。

 その溜息の後。

 パンダーラは。

 また、口を開く。

「さっき、お前はこう言ったな。」

「ほえ?」

「ASKのあの要塞からここまでやって来るのに、お前は……お前と、その少女は、ASKのシャトルシップを使った。しかし、要塞での戦闘の際にガードナイト弾に被弾したせいで、シャトルシップは色力浸食を受け、最終的にこの森の前に墜落した。」

「うんうん! そー言ったよお。」

 デニーのその答えを聞くと、パンダーラは軽く舌打ちをした。それはデニーに対する苛立ちというよりも、対処不可能なわけではないがただただ面倒な出来事が起こった時に、ほとんど生理的反応としてしてしまうような、そんな類の舌打ちであって。それからパンダーラは、その顔を、くっとダコイティの方へと向けると。パンダーラがこちらを向いたことに、ちょっとだけ焦って、気不味くなって、ざわっとなってしまったダコイティに向かって、ダクシナ語で一言か二言かを口にした。

 何かの命令だったのだろう。パンダーラのその言葉に、ダコイティは短く・即座に・的確に返事をしたからだ。デニーとパンダーラとの会話の間に自分達がしたリアクションのこと、若干恥ずかしくなっていたのか――まあ、デニー達を連れてきたあの女だけは、己の反応に恥じるべきところが何一つなかったのだが――ダコイティは、パンダーラがしたと思われる命令に対して、大変きびきびとした動きで動き始める。

 解体された機械部品を片付けて、調理用具をしまっていって、あるいは奥の方に置かれた荷物を取りに行く。たぶんここを出発する準備をし始めたのだろうな、と真昼は思ったのだけれど。その推測が当たっているのかいないのかを確かめることは、残念ながらできなかった。ダコイティがそういった行為を始めた直後に、とある出来事が起こったからだ。一体どんな出来事だったのか? まずは、パンダーラが口を開く。

「それならば……」

 それから、左手の杖。

 あるいはライフルを。

 すっと、持ち上げて。

「お前が散らかしたものを、片付けなければいけないだろうな。」

 それから。

 その銃尾。

 とんっと。

 とても。

 軽い。

 音を。

 立てて。

 大地を。

 叩く。

「いつものことだが。」

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