第一部インフェルノ #17

 ところで、見た目や性格が良く知的で金持ちでその上ユーモアのセンスに溢れているだけではなく、なんと勘が鋭くもある読者の皆さんは。きっと、既に、その勘の良さによって、ちょっとした違和感を抱かれているに違いない。#16から、特にASKの送迎船が墜落してから。真昼の態度が、なんというか、かんというか、その少し前のそれとはひどく違っているということについて。なんとなく他人事というか、なんとなく蚊帳の外から物事を見ているというか。今この時に真昼が置かれている状況からすると、不自然なくらい冷静なのだ。

 真昼は、その存在こそが生きていく理由であり、その存在こそがレゾンデートルであるといっても過言ではないほどに、その存在に完全に依存しきっていたマラーを。もっとあっさりといえば、絶対に守ると誓ったマラーを。ASKによっていとも容易く奪われてしまった。そのせいで、切羽詰まってしまって、デニーに、あのデナム・フーツに、泣きながら縋りつくような真似までしたのだ。それなのに、今の真昼は……一体、どうして? あれほどの激情に身を任せていた真昼がどうしてここまで自分を落ち着かせることができたのか。

 つまるところ、その激情こそが真昼の冷静さの原因であった。真昼はあの時、デニーの片腕の中で涙を流していた時。自分の中にある、自分では制御できないほどの激情を、全て吐き出してしまったのだ。人間というのは単純な生き物であって、暴れ狂う激情を制御できないというだけでなく、その激情を暴れ狂わせ続けることさえできない。一度、剥き出しの感情を、はしたないほどに露出させてしまうと。大抵はすっきりとしてしまってそれで満足してしまうものだ。

 まあ、いうまでもなく、真昼は満足しているわけではなく、マラーを助け出すまでは満足することはないだろうが。それでも、あれほどの激情をいつまでもいつまでも維持することはできない相談であって。従って、その感情の暴走の反動として、今はなんとなく冷静な気持ちになってしまっているのだ。いや、「なっている」というよりも「している」といった方が正しいかもしれない。デニーに対して、デニーという生き物に対して、感情を曝け出してしまったことは。真昼にとっては端的に恥であった。だから今は、無理やりといわないまでも、意識して冷静であるように努力しているということだ。

 また、それだけではなく……自分の思惑みたいなものが、現在進行形で起こっている事態が、自分の手から離れてしまったという感覚も、もちろんそのフリジディティに関わっている。フリジディティ、そう、精神的な不感症のような症状。何かを感じたい、何かを思いたいと思っても、どうすれば感じたり思ったりすることができるのか、奇妙に思い出せないという感じ。真昼は、要するに、どうすればいいのか分からないのだ。というか、どうしたいのかさえも分からない。

 本当は、本当ならば。全ては単純で簡単なはずだった。死ねばいいのだ、ただ死ねばよかったのだ。自分一人でASKの製錬所まで戻る。マラーを助けるという目的のために自分を犠牲にする。その結果としてマラーを助けられるか助けられないかということは真昼にとってどうでもいいことだった。というか、ほぼ確実に助けられないだろう。でも、それでいいのだ。真昼にとって重要なのは、自分がマラーを助けようとしたということ。そして、その目的のために命を投げ出したということ。つまり、自分が、静一郎と同類ではないと証明することなのだから。それにも拘わらず……現実はそうならなかった。なぜなら、デニーが、その真昼の計画に協力すると申し出たからだ。

 デニーが。静一郎と同類であるはずの、デニーが。真昼のためにマラーを救う手助けをする。これは真昼にとって全く信じられないことだった。混乱、自分が……どうしたいのかということに対する。もちろんマラーを助けるということこそが真昼の願いだ。マラーを「助ける」ということが。けれども、もしも、デニーが。真昼に手を貸すというのなら。恐らく、真昼は……ただ見ているだけになるだろう。それは、少しくらい何かをさせてもらえるかもしれない。とはいえ、基本的に、真昼の行動にはなんの意味もないはずだ。デニーは、本人が言う通り、強く、そして、賢い。マラーを救い出す者が真昼ではなくデニーとなるのはほとんど間違いない。

 そうだとすれば、それはどういうことなのか? 分からない、真昼は分からない、真昼は、分かりたくない。マラーは「助かる」だろう、だが真昼が「助ける」わけではない。これは、この違いは、一体、どういう意味を持つのか? デニー、デナム・フーツ。静一郎と、同類のはずの生き物。それなのに……真昼を救った生き物。自分の右手を犠牲にしてまで、真昼のことを救った生き物。それが、今度は、マラーまでも、救おうとしている。真昼は、弱く、愚かで。マラーを失ってしまっただけでなく、取り返すことさえもできない。真昼は勝手な真似をして、その結果としてデニーは右手を失った。それは、ついさっき、また生えてきたのだけど……これはそういう話ではない。救いと犠牲、犠牲と救い。

 つまるところ。

 それこそが。

 問題なのだ。

 しかしながら……それは、真昼が考えるにはあまりにも複雑すぎる問題だった。真昼の、サテライトほどとはいわないまでも、やはり愚かであることには変わりない思考能力には負担が重過ぎるということだ。真昼が、本当に、意識して、考えていたのは。「マラーを助けよう、例えデニーの手を借りなければならないとしても」ということだけだった。なぜ自分がマラーを助けたいのかということや、なぜ自分がデニーの手を借りることにこれほどの心理的な負担を覚えるのかということ。あるいは……自分が、本当に、何かを犠牲にして、何かを助けようという、覚悟があるのかということ。そういう問題について真昼は、考えないどころか、脳裏にちらと走りさえもしなかった。

 蓋をして。

 抑え込む。

 あとは。

 見て見ぬふりをする。

 だから、真昼は、自分が努めて冷静に振舞っているということは知っていたのだが、それがなぜかということはよく分かっていなかった。思考を停止したままで、何度も何度も自分に言い聞かせている。「マラーを、助けなきゃ。マラーを、助けなきゃ。マラーを、助けなきゃ」。sleepの前にsheepの数を数えている、頭の悪い子供みたいにして。

 さて、そんな真昼と、それからデニーのことを。戦闘服を着た五人の男女が取り囲んでいる。といってもそれほど近い距離にいるわけではない。十ダブルキュビトくらいは離れているだろうか。半径が十ダブルキュビト程度の歪な円を描いて、デニーと真昼とに銃口を向けたまま、五人は油断なく立ち竦んでいた。油断なく……立ち竦む? なんだか矛盾しているような気がしなくもないが、確かにその通りの様子をしていたのだ。デニーと真昼と、一挙手一投足、その全てに目を凝らしていて。けれども、それでいて、自分達がやっていることは全然無意味なことなのではないかと疑っている。五人も一応は理解しているのだろう。もしもデニーが自分達を殺すと決めたならば。自分達は、何かの抵抗をする暇さえもなく、呆気なく皆殺しにされるだろうということを。

 先ほどここにいたあの女とこの五人とのコミュニケーションから考えてみるに。この五人に話しかけても無駄だろう、恐らく共通語を解さないだろうから。どうでもいいことではあるが、あの女は、だからこそ自分が残るのではなくこの五人を残したのかもしれない。デニーの話すこと、その声音、その口調、その内容。まるで、全てが、聞いている誰かの脳髄を、ゆっくりと洗っていくみたいで。もしかしたら、自分がここに残ってしまったら。この男の話す言葉に抗うことができず、何かとんでもないことをしてしまうかもしれない。あの女は、もしかしたら、そう思ったのかもしれない。だからこそ、デニーの言葉を解することのない人間を、ここに残していったのかもしれない。真昼はそんなことを思いながら、そこら辺をうろうろと歩き回る。

 五人に話し掛けられないのならば。あの女のことを待っているこの時間、それ以外には特にするべきことが思いつかなかった。何か変な動きをしたら、すぐに撃ち殺されてしまいそうだし。それはそれで問題ないのだが、でも、そうなるとマラーを助けられなくなってしまう。だから真昼は、いかにも手持無沙汰そうに、足元の方に顔を俯けて歩いている。

 と……爪先がそれを蹴った。ASKの送迎船の、残骸の一部だ。落下の時の衝撃で少しだけ土に埋まっている。そこら中に阿呆ほど落ちているのだから、真昼がそのうちの一つを蹴飛ばしたところで、さほど注目に値することもないのだが。何にせよ真昼にはやることがなかったのだ。だから少しだけ屈み込んで、その残骸を、ちょっと触ってみたりする。

 それはドローンに向けて光線を発していた例の眼球の一つだった。ガラス玉にも似て透き通った虹彩の反対側から、視神経の束がぶら下がっているみたいにして、送迎船と繋がっていた腕状の器官が伸びている。大体五十ハーフディギトくらいごとに関節がついていて、三番目の関節のところで、捻じくれたような形で千切れていた。屈み込んだ真昼は、その眼球を人差し指で押して転がしてみた。ボーリングの時に使う玉みたいに重くて、質量だか慣性だかのせいで転がりにくいのだが、質量だとか慣性だとかいう単語は、ろくに学校に行っていなかった真昼には縁遠いものであって。真昼は(ああ、学校の勉強ってこういう時に役に立つんだな)なんてことをぼんやりと思ったのだった。

 そもそも、これって眼球なのかな。

 ものを見るための器官じゃなくて。

 光線を発するだけの、器官なのに。

 そんなことを、している真昼の背中に。

 のっかってくるようにして影が掛かる。

「なーにやってんのっ!」

 能天気な声がして。

 真昼は、振り返る。

「何も。」

「ほえ?」

「何も、していない。」

 きょとんとしたデニーの顔を無視して真昼はその場に立ち上がった。真昼が突っついた眼球は、ゆらゆらと揺れることさえもせずに、我関せず見たいな顔をしてそこに転がっているだけで。何の前触れもなく、本当に唐突に、真昼は(生きている)と思った。(生きている)(生きている)(自分は生きている)。ただし、だからどうしたというわけではない。さっき眼球を突っついた人差し指。顔の前に持ってきて、ゆっくりと動かしながら、不思議そうな目で見つめて。真昼は、また、口を開く。

「ねえ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「この連中……この人達、神閥の関係者なの?」

「あははははっ、そんなわけないじゃーん!」

 人差し指から目を離して、周りにいる五人に向かって、ちらりと視線を流しながら問い掛けた真昼に。デニーは、とてもおかしそうに笑いながらそう言った。ちなみに、真昼が「この連中」と呼ぶのを躊躇して「この人達」と言い換えたのは。デニーと話していたあの女の態度に、どこか……「正しさ」のようなものを感じたからだった。デニーのような生き物と相対する時に、正しい人間がするであろう態度。何か邪悪な生き物に対して、その邪悪を拒否するだけの勇気がある人間の態度。

 この人達のリーダーは。

 果たして、本当に。

 デニーの友達、なのか。

「神閥なら、もうちょーっとまともな武器を持ってるよ!」

「神閥じゃないってこと? でも……」

 真昼は人差し指を下ろして。

 今度は五人のうちの。

 一番近くにいる一人に。

 しっかりと目を向ける。

「それなら、この人達は何なの? こんな服装をしてて……ある程度組織力があるみたいだし、訓練もされてる。それに、こんな広い森の中に、隠れるようにして拠点を築いてるんでしょ? 神閥じゃなきゃテロリストっていうこと?」

「えー? でもさー、そもそもさー、神閥とか、テロリストとか、ゲリラとか、どういう違いがあるのかーって、デニーちゃんよく分からないんだよね。さぴえんすってお馬鹿さんだから、必要最低限の定義もされてない言葉、へーきで使ったりするでしょ? でも、たぶん、この子達は神閥でもテロリストでもないよ。一番近いのはゲリラだけど、でもゲリラでもないかな。この子達には目的になる思想も主張もないもん。」

「じゃあ、一体……」

「ダコイティ。」

「ダコイティ?」

「盗賊。」

 デニーは、ふいっと真昼から目を逸らすと。覚えたばかりのお遊戯でもするみたいなステップで、とんっとんっと飛び跳ね始めた。それはひどく気まぐれな仕草だった。ちらちらと定まらない視線を、あちらこちらへと向けて。真昼の体に纏わり付いている蠅のような虫けら、そこら辺に落ちている残骸、五人の「ダコイティ」のうちの一人。あれに興味を持ったと思ったら、次にはこれに興味を持つ。どうやら、デニーも、女のことを待つことに随分と退屈してきてしまっているらしい。

 ちょろちょろとせわしなくそこら中を動き回っているので、五人もちょっと焦り始めたようだ。まずデニーのことを銃口で捉えるのが難しい。デニーがあっちに行ったりこっちに行ったりする度に、それに合わせて照準を動かさなければいけないからだ。しかも、それだけでなく、デニーには自分が包囲されているという意識さえ欠片もないようだった。

 銃を向ける五人のうちの一人の方向へ平気で向かっていったりする。もちろん、デニーはその一人に襲い掛かろうとしているわけではなく、単純にそっちの方に面白そう(あるいは退屈ではなさそう)なものがあったから、少しばかり興味を引かれただけなのだ。なんだかへんてこりんな形をした残骸とか、ちょっと綺麗な花だとか、そういったもの。

 それでも近寄られた方としてはたまったものではない。妙な動きしたら撃つようにと言われているが、この動きは妙な動きに分類されるのだろうか? そして妙な動きに分類されるとして、本当にデニーを撃ってもいいものだろうか? もしかしたら、この男は、自分達のリーダーの友達かもしれないのに。それに、この男を撃ったら……逆に殺されるかもしれないのに。

 だから、結局のところ、その近寄られた一人はデニーのことを撃つことはできないのだ。その代わりに、デニーが近づいた分だけ自分が後ずさって。判断を後回しにする、本当に、どうしようもなく、判断しなければならない状況になるまで。そして、その後ずさった一人に合わせて、残りの四人も立ち位置をずらしていって。円の全体が、少しずつ少しずつ、ずれていく。

 賢明な判断だな、と真昼は思った。

 それに、ひどく人間らしい判断だ。

 歪に歪み、ずれていく円に従って。

 真昼も、ゆっくりと、歩いていく。

「アーガミパータではね、盗賊のことをダコイティって呼んでるの。ただ、んー、盗賊っていう意味しかないわけじゃなくって、もう少しだけ複雑な言葉なんだけどね。武装集団っていうか、私的な軍事組織っていうか。すっごくすーっごく昔から、それこそ「神話の時代」から、そーいう人達がいたんだけど。

「ほら、アーガミパータってずーっとけんかばっかりしてるところじゃない。楽しいところだよね、どんどんっぱちぱちっっていうかさ! だから「ヴェケボサンの大移動」とかが起こった後で、えーっと……真昼ちゃん、civitate deiって分かる? なんていえばいいのかな、絶対神政の下での国民国家とか、そんな感じ。とにかく、世界中でcivitate deiができ始めても、アーガミパータでは、神国と神国の境界線がね、あーんまりはっきりしてなかったの。だから……誰のものでもない場所、なーんにも所属してない場所、どこでもない場所がたくさんあったっていうこと。

「そういう場所ってさ、神国に所属できないような生き物がたくさんたくさん生きてるみたいな、そんな場所になるよね? civitate deiの前だったら、ほら、トラヴィール教徒とかバルバロイとか。今はバルバロイじゃなくて勇者って呼ぶんだっけ? とにかくっ、そういう生き物のことだよっ。それで、ダコイティもそういう種類の生き物なの。

「どこの神国にも所属しないで、どんな神々の支配も受けないで、あっちこっちに放浪して生きている生き物。ふつーの盗賊とおんなじみたいに、定住してる人達を襲ったりもするんだけどね。他にも、遠いところにお荷物を運ぶお仕事をしたりだとか、兵隊さんが足りなくなっちゃった神国に雇われて傭兵のお仕事をしたりだとか、そういう便利屋さんみたいなこともしてたのさ!

「それで、第二次神人間大戦が終わっても……ほら、アーガミパータってこーんな感じ、戦争の前のまんまじゃない。だから、ずーっとおんなじことをして生きてるってわけ。パンダーラちゃんもね、デニーちゃんと会った頃からそういうことをしてた子で。あの大戦の時に、ちょーとだけ、色々と、デニーちゃんのお手伝いをしてもらったんだけど……それからずーっと、デニーちゃんとパンダーラちゃんは大の仲良しなのだ!」

 ぽんっと背中で手を合わせてから。

 右足の踵を、支点にして。

 くるんと振り向きながら。

 デニーは、真昼に向かって。

 可愛らしく、笑ってみせた。

 真昼は、そんなデニーの笑顔からふいっと目を背けると。「ああ、そう」という、とても曖昧な言葉で返事を返した。ちなみに、目を背けたところの、その真昼の目がどこに視線を向けたかというと。すぐ近くに落ちていた送迎船の破片、しかも、あの巨大なクニクルソイドの顔面の部分の破片だった。

 いつの間にか。

 こんなところにまで。

 歩いてきていたのか。

 落ちているというよりも聳えているといった方が正しいかもしれない。真昼の背丈を遥かに超えて、そこに存在しているその残骸は。ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしていた。なんというか生け作りか何かにされる直前の俎板の上の魚みたいだ。これはひどくありきたりな比喩ではあるが、その残骸が横倒しになっていて、そのせいで顔面も横向きになっているところとか、そういったところが特にそっくりだったのだ。

 口が開いたり閉じたりするごとに内側の光景が見えるのだけれど、そもそもその残骸が首(?)のところから断ち切られていたせいで、口の奥にあるのは喉ではなく広々と開けた空間だった。口が開くと、その向こう側に、どこまでも広がる草原と、どこまでも広がる森が見えるのだ。なんとなく滑稽だった、それにとても貞淑でもある。

「あんたさ。」

「なー?」

「あの大戦の頃から生きてるの?」

「うん、そーだよ!」

 デニーの話を聞く限りでは、たぶん。この人達が顔を隠していないのは顔を曝け出すことを恐れる必要がないからだろう、と、真昼は思った。確かに後ろ盾はないようだ。けれども代わりに隠れる場所がある。この、茫漠な、無辺な、森だ。この森のいたるところが隠れ場所になりうる。無数のハイディング・プレイス。

「そんな長く生きてて疲れない?」

「えー、そーでもないかなあ。」

 隠れる場所があるというのは……みんな勘違いしている、と真昼は思う。隠れる場所があるというのは、一つの場所を所有しているということではない。そうではなく位置にまつろわないということなのだ。広い範囲に、無数にあるポイントを、転々とすることができる。一つの場所に隠れ続けることしかできなければその場所が暴かれた時点で何もかもが終わってしまうからだ。真昼はそのことをよく知っていた……ただ、知っていたところで、結局何の意味もなかったのだけれど。

 そんなことを考えながら。

 真昼は、視線を。

 上に向けていく。

 巨大なクニクルソイドの頭部、鼻から上の部分には。未だに、未練がましく、小型のクニクルソイドがしがみついていた。張り巡らされた根は、そのほとんどが千切れてしまっていて。たった数本によって辛うじて体を支えられているといった程度だ。まるで、焼け焦げた焼死体の頭蓋骨に、べったりとへばりついている、前髪の束のように。その小型のクニクルソイドは力の抜けた体をだらんと垂らしている。

 もちろんその身体はガードナイトの色によって蝕まれていた。それをいうならば、巨大なクニクルソイドの顔面もすっかりと色によって染められてしまっていたのだが。ただし、小型のクニクルソイドの方は、惨たらしい病の痕跡は、まだそれほどというか、少なくとも全身を覆いつくしているわけではなかった。恐らく、その病に直接感染したわけではなく、巨大なクニクルソイドを侵しているところのその病を根によって吸い上げることによって移植されるという経路での感染だったからなのだろう。

 完全に死に切っているというわけでもないようだ。ガードナイトの色から逃れようとでもしているかのように手のひらを揺らめかせながら、ねとねととした動きで全身をねとつかせている。頭から背中にかけて流れている触手は、びくびくと痙攣している上に、裂断した部分から何かの液体を垂れ流している。柔らかい唇は、甘く甘く開かれたままで、その端からは、触手から流れ出ているのと同じ液体が滴っている。そして、その目は。というか、目があるはずの場所にある、ただの窪みは。あたかも真昼のことを見ているかのようにこちらに向けられていて。

 いや、気のせいだろう。

 そんなわけがないのだ。

 真昼が、そう思い込んでいる。

 ただ、それだけのことで。

 デニーがこちらに向かってくる気配がした。気配というか音、軽やかなステップで草原を踏み躙る音が聞こえたのだ。それと、それだけではなくて……何か、とても、凍えるような、冷度のような感覚を、真昼は感じていた。それは、その冷たさは、氷の温度でも雪の温度でも、ましてやレフリゲーターの温度でもない。そういった種類の温度は、所詮は相対的な温度に過ぎないのだから。そういう意味では絶対零度でさえもこの冷度と比べてみればまだ暖かいだろう。

 デニーが、その視線を向けた相手。可愛らしく、上目遣いで、母親にキスでもねだる子供みたいに、その視線を向けられた相手が感じる冷度は……それは、要するに死の冷度なのだ。全てが死に絶えてしまい、腐敗さえ完了した後の冷度。相対的ではなく、絶対的な……それ自体が、「冷たい」という概念であるような冷度。そんな冷度によって、魂の根底まで凍り付かされるような。真昼は、ふっと、そんな感覚を覚えたということだ。

 つまり。

 それは。

 デニーが、真昼のこと。

 見ていたということで。

「まー、ひー、るー、ちゃんっ!」

 振り返ろうともしない真昼の背中に。

 デニーは、面白そうに、声をかける。

「いいこと教えてあげようか。」

「いいこと?」

「そう、いいこと!」

 振り向かなくても、十分に分かった。

 デニーが、あの、悪戯っぽい笑顔で。

 真昼に向かって、にっと笑っている。

 真昼は、まるで、逃れることの全てを。

 すっかり諦めてしまった獲物のように。

 そっと目を閉じ、デニーに言葉を返す。

「何。」

 他愛もない歌を。

 歌うようにして。

 デニーの声、は。

 それを、答える。

「雛鳥は親鳥に比べて食べにくいんだよ。」

 とても。

 とても。

 嬉し。

 そう。

 に。

「ちょーっとだけ、骨が多いからね。」

 結論からいうと、真昼は、デニーの、その言葉の意味を理解できなかった。いや、正確にいえば……完全に、絶対的に、理解していた。少なくとも無意識のうちには、心の底では。しかし、それを意識上に、心の表面に、浮かび上がらせるだけの暇がなかったということだ。それは真昼にとって、幸いなことであり、災いなことでもあった。ただ、まあ、どちらにしても。真昼は、いつかは、この言葉の意味を、理解することになるのだろうが。

 さて、ところで、なぜ真昼には、その暇がなかったのか。

 それは、デニーがその言葉を発した、ちょうどその時に。

 デニーと真昼、二人に向かって。

 こう言う声が、聞こえたからだ。

「おまえ、何者だ。」

 それは間違いなくあの女の声だった。あの女、デニーが渡した指輪を持って、パンダーラという名前らしいデニーの「お友達」に、デニーをどうするべきかという指示を仰ぎに行った女。何の気配もなくその声が聞こえたことに若干驚いてしまって。真昼は反射的にその声がした方に振り返ってしまう。

 いつのまにか女は戻っていた。音もなく、最初からそこにいたみたいにして、そこに立っていた。そして、その雰囲気というか、そもそも声にこもっていた響きが、明らかに……ここから姿を消す前とは違ってしまっていた。姿を消す前には、女は、確かに恐怖を抱いていた。デニーに対して、ただ、その恐怖には特に理由はなかった。非常に曖昧な形で、デニーという生き物が捕食者であることを、脊髄によって感じ取っていただけであって。その恐怖には明確な証拠があるわけではなく、そのために、その恐怖は、なんだか輪郭のない恐怖だったのだ。

 しかし、今となっては。女は明白に恐怖していた。というかほとんど畏怖に近いものだった。目の前にいるこの男が、何らかの災害であるとでもいうかのように。燃え盛る火災や、荒れ狂う水災、あるいは、あらゆるものを覆いつくす氷河。そういった人間には決して制御できないものを目の前にしているかのようにデニーのことを畏れていたのだ。

「おかえりなさーいっ!」

 デニーは。真昼とは違って、女の唐突な出現に驚いている様子もなく。ワルツでも踊っているようなステップで、エレガントに、キュートに、くるんと振り返った。それから、ぱっちーんとウインクをしながらひらひらっと右手を振るという、とても可愛らしい仕草をして見せる。だが、女は……デニーの、そんな連続可愛いコンボにも、まるで可愛いと思っている素振りを見せることなく。さっきと同じような口調で、こう続ける。

「私、見せた。パンダーラさまに、お前から渡された指輪。パンダーラさま、本当に、お前のこと知っていた。しかし、パンダーラさま……ASKと、何度も何度も戦って、一度も怯えず、一度も懼れず、一番前に立って戦い続けた、パンダーラ様……おまえの指輪、見た瞬間に……一体、おまえ、誰だ。」

「えー? デニーちゃんはデニーちゃんだよー。」

 ちょっとそっぽを向くみたいにして、顔を傾けて。その顎のところを、左手の人差し指で、ちょんっと触りながら。きゅっと唇を尖らせてデニーはそう言った。女の問いかけに対する回答は、その答えでも何でもない答えで終わりかと思ったのだが……だが、その後で、デニーは「あっ、でも!」と付け加える。

「パンダーラちゃんはあ、もしかしたら、別のお名前しか知らないかもねっ。パンダーラちゃんと最後に会ったのはずーっとずーっと前だったし、その頃のデニーちゃんのお名前は、デニーちゃんじゃなかったから。」

 やはり意味の分からないこと。女からの質問に対してその疑問に一つも答えていない答え。女は苛立ちの色を見せて、更に質問を続けようとしたのだけれど。その前に、その口は……デニーに対する畏れの感情のために閉ざされて。

 そして、その口を、もう一度開くと。

 何かを質問する代わりに、こう言う。

「パンダーラさま、お前に会う。」


 森の中、密かに太鼓の音が響いている。

 どこから聞こえているのか分からない。

 しかし、その音は確かに聞こえていた。というか真昼の体の一番深いところを、としん、としん、と振動させているみたいだった。遠い遠いところ、あるいはすごく近いところ。その太鼓の音は、例えば森の中の木々の全てが、何かのステレオフォニックの装置として、それぞれが振動を響かせているみたいに。

 不快感はなかった。うるさいだとか、気持ち悪いだとか、そういう感覚は全くなかった。というか、むしろ、聞くともなしにその音を聞いていると真昼は心地よい気持ちになったくらいだ。なんといえばいいのか、優しい母親の胸に抱かれて、ずっと、ずっと、その呼吸の音を聞いているような気持ちになった。

 森の。

 心臓が。

 鼓動。

 してる。

 静一郎によって無理やり学ばされた兎魔学の知識の中には、結界についての一通りの情報も含まれていた。そのため真昼は、デニーに質問しなくても、この振動がオレンディスムス結界を構成する基本的な要素であるということを知っていた。

 これは物理学的な振動ではなく妖理学的な振動なのだ。この結界の共同幻想的境界性を共有する者達(この者達のことをパンピュリア語でhiketesというのだが真昼は真面目に勉強してなかったのでその単語を思い出せなかった)が作り出した、オレンダ周波数を持つ振動。この振動と共振することによって、一定範囲の時空が、一般的な人間が所属している時空と違う周波数で振動し始めて。そのせいで、その一定範囲は、この世界から隔絶したある種の観念領域を作り出すのだ。ということで、真昼は、この森がオレンディスムス結界によって覆われているというデニーの言葉について身をもって実感することができたのだった。

 ただ、そうはいっても。この振動がオレンダ周波数の振動であるということは、これほど心地よく感じるということの説明にはならない。オレンダ周波数にも色々な性質のものがあるからだ。振動の性質はhiketesの共有している共同幻想の種類によって異なってくる。ということは、この森に存在しているhiketes、それは恐らくパンダーラという何者かがリーダーを務めている組織とイコールであると思われるが、その組織、ダコイティは……とても、プラスの関係性を築いているということだ。満ち足りたとか、安心しているとか、そういうといい過ぎかもしれないが。少なくとも組織の構成員同士は信頼し合い固く結束しあっている。そうでなければオレンダ周波数がこれほどのハーモニーを奏でるわけがなく……しかし、けれども。

 真昼は。

 その調和の中に。

 ほんの微かな不調和。

 悲痛な叫びのような。

 そんなリズムを感じた。

「えへへー、でも良かったよお! パンダーラちゃんが死んでなくって。アダヴィアヴ・コンダがASKの領域になってから……っていうか、例の「開発計画」から、この地域のダコイティのお話、ぜーんぜん聞かなくなっちゃったからさーあ、もしかしたらすっかり駆逐されちゃったかもって。デニーちゃん、ほーんの一瞬だけ思ったりもしちゃったんだあ。まー、でも、パンダーラちゃんなら大丈夫!って信じてたよっ!」

 今、デニーと真昼とは森の中を歩いている。まあ、人間のような下等生物は、一般的には結界の中にいない限り結界のオレンダ周波数を感じることはできないはずなので、今までの描写からして当然といえば当然の話であるが。とにかく、パンダーラにデニーの指輪を見せに行ったあの女(残念なことにこの女はデニーに名乗る名前はないようだ)に導かれて、送迎船の落下地点の目の前に広がっていた、広大な森に足を踏み入れていたのだ。この女、それに他の五人に囲まれるようにして。厳重な警戒態勢の下に置かれたままで、デニーと真昼と、かなり長い距離を歩いていた。

 しかし真昼にはどこまで行っても自分がいる場所の区別がつかなかった。先ほどまでいたところと今いるところ。全く同じ、鬱蒼と生い茂る木々の姿しか見えないのだ。道なき道、獣道さえも見当たらない。あたかも夜に沈む鉛のように黒い色をした幹の、ありきたりな広葉樹を中心として。扇みたいにして葉を広げている低木に、足元に敷き詰められた枯れ葉、枯れ葉、また枯れ葉。木々の枝から紛い物の鸞翠みたいにして垂れ下がっている樹葉は、太陽、ヒラニヤ・アンダの素晴らしい光を浴びて、透き通るようにして些喚いていて。それは、何か緑色の昆虫が脱ぎ捨てた抜け殻みたいにも見えた。

 それから匂いだ。今まで嗅いだことがないような、凄まじいまでの緑。植物がそのまま蒸発しているのだろうかと思われるくらいのそんな匂いの中に、ほのかに土の匂いが混じっている。それだけじゃない。周りを囲むように漂っているのは、明らかに獣の匂いだ。動物園とか、そんな場所でしか嗅いだことがないような。しかも動物園のそれよりも遥かに生々しい、剥き出しの獣の匂い。それは、どうやら、真昼の周りにいる、六人のダコイティから発されている匂いのようだった。だが、勘違いしないで欲しい、それは人間の匂いではなく、確かに獣そのものの匂いであるように感じられたのだから。きっと長い間森で生きていると人間もこんな匂いになるのだろう。

「パンダーラちゃんは元気? んー……大丈夫大丈夫、言わなくても分かるよ! とーっぜん元気だよね! あの子が元気じゃないところなんて想像つかないもん! 思い出すよー、ここらへんの無教徒を皆殺しにした時のこと。パンダーラちゃんのあの顔ってば! たんたんたーんって、まるで音楽みたいだったよ! 骨がばらばらになる音楽、肉がぎざぎざになる音楽、とーっても綺麗な音楽!」

 顔の周りには、常に何かの小さな虫が飛んでいる。多分蠅なのだろうけれど動きが素早すぎて何の虫なのかはっきりしたところは分からない。遠くの方で、時折何かが動く音がして、明らかに人間ではない生き物、何か大きな生き物が逃げていく姿が見える。頭上では鳥の声がしたり、小動物が枝から枝に飛び移る音が聞こえる。総合的にいって、この森は生命に溢れた森であるようだ。ただし、そうはいっても……真昼には、なんとなく、そういった生命の力が。少しだけ弱まり始めているというか、衰退の気配のようなものが感じられたのだが。

 そんな森を。

 手に持った鉈で切り開きながら。

 先頭に立った女は、進んでいく。

 恐らくデニーはそんな女に対して話しかけているのだろうが。本当に、マジで、一言も、女が答えを返さないために。べらべらと独り言を喋くり倒しているようにしか見えない。歩いている間中、ずっと、この森が昔はどうだったかとか、パンダーラとの思い出話とか、ダコイティ全般について自分がどう思っているのかとか。そんなどうでもいい話、無駄話としか思えないことを話し続けているのだ。

 そんな中で、ふと……ダコイティのうちの一人、一番後ろにいた男が声を発した。もちろん共通語ではなく「R」の音を強調するあの言語によって。相手はデニーではなく先頭を行く女だったようで。女は二言か三言で男に答える。男はその答えに対して更に何かを言って、女は少し長い答えを返した。その答えに今度はダコイティの全員が笑った。どこか野卑なところを感じさせる図太い笑い方で。

 暫くの間、笑い声が続いて。

 その声が、収まった、時に。

「んーとねー、一応言っておくけどー。」

 デニーが、肩を竦め。

 ぽつりと、こう言う。

「デニーちゃん、ダクシナ語分かるからね。」

 いうまでもなく、気を悪くした様子はなかった。気を悪くするというのは、ホモ・サピエンスのような弱く愚かな生き物だけがする行為なのであって。デニーのような強く賢い生き物にはそんな行為が似合うはずもないのだ。ただ事実を指摘しているだけ。みんなはお馬鹿さんだからたぶん知らないと思うけど、賢いデニーちゃんが教えてあげる! そんな感じの口調。

 しかし、それでも、女の動きがぴたりと止まった。森を切り開いていた手も、森を歩いていた足も。あたかも自分の背後に人間を捕食する動物が近づいているということに気が付いて。どうしていいのか分からずに、行動も思考も停止してしまったというかのように。共通語を解さない他の五人が、訝し気な顔をして。そのうちの一人が、女に向かって何かを問いかけた。女が一言でその質問に答える。その瞬間に、残り五人の雰囲気も、ぞっと凍り付いたように冷たくなって。

 だいぶん経って。

 ようやくのこと。

 また進み始める。

 今度は、少しばかり。

 気まずい沈黙の中で。

 どうやらダコイティが話している言葉はダクシナ語というらしい。そういえば、アヴィアダヴ・コンダはダクシナ語文化圏だとかなんだとか、デニーが言っていた気がする。ちなみに以前はケーンドラム語と呼ばれていたのだが、そのことについてはここでは書かないことにしておこう。アーガミパータにおけるヨガシュ族とゼニグ族の戦いの歴史、その壮大な叙事詩を一から書き起こすだけの余裕は、残念ながら今はないからだ。とにかく真昼は、急に性質が変わってしまった沈黙に、ちょっとだけ面白い気分になりながら。ダクシナ語という名前を覚えるともなく覚えたのだった。

 そんな風にして。

 六人と二人とは。

 歩き続けていたのだが。

 やがてデニーが。

 また、口を開く。

「ねーえー、まだ着かないのお?」

「……あと少しで、着く。」

「あと少しって、どれくらいー?」

「そこだ。」

 女がそう言うと……いつの間にか、本当にいつの間にか。まるで、目の前を覆っていた紗を、いきなり取り去ったみたいにして。六人と二人との前方に広々とした空間が存在していた。

 それは、まさに広場と呼ぶに相応しい空間だった。蓊々たる有様で草木が生い茂るフォレストを抜けた先に、唐突に開けている場所。大雑把な円形をしていて、半径でいえば十ダブルキュビトはあるだろう。もちろん周りは木々に覆われているのだが、この空間自体には、たった一本の木しか生えておらず……しかし、この木についてはもう少し後で語るべきだろう。

 森の他のところと同じように、枯葉が敷き詰められているその場所は。大体において四つの空間に分けられていた。一つ目が、一番奥まったところ。デニー達が入ってきた「入口」の反対側、一本だけ生えた木の向こう側にある荷物置き場だ。ここにはたくさんの荷物が積み重ねられているのだが、その体積の大半は十七個のリュックサックだった。何か切れ端のような布を継ぎ接いで作ったらしい、粗雑なリュックサック。それらのリュックサックは中に詰め込まれている物でぱんぱんになっているのだが、それだけでなく、更にあちこちから紐がはみ出していて、その紐にも荷物がぶら下がっている。古ぼけた靴だとか、歪んだ金属製のコップだとか、丸められたシートだとか。あるいはライフルの弾倉らしきものが束になって括り付けられていたりもした。リュックサックの他にも、同じような布切れで継ぎ接ぎされた、出来損ないのホールドオールのようなものも積み重ねられていた。

 二つ目が、デニー達から見て右側。ここはどうやら調理場として使われているらしかった。今は、特に料理が行われているということはなかったが。簡易的な土竈が二つほど作られていたからだ。かなり大きな土竈で、深く掘り抜かれた穴の周りに石と土を積み重ねて作られている。その上には土竈の大きさに見合うほどに大きな鍋が一つずつ乗っかっていた。その土竈の周りには、人が座れるくらいの大きさの岩が四つほど置かれていて、それらの岩の近くにはそれぞれ一つずつポリタンクが置かれている。その中にはどうやら調理に使う水が入っているようだ。

 三つ目が、デニー達から見て左側と、空間の手前の部分を合わせたところだ。自由ゾーンというかなんというか、とにかく雑然としている。調理場に置かれていた岩と同じような岩が置かれていたり、あるいはシートが敷かれていたりして。人々が、各々の場所に座ったり、あるいは立っていたりした。その部分にいる人々の数は八人で、それぞれが思い思いのことをしている。ある岩の上にはラジオみたいなものが置かれていて、そのラジオみたいなものから聞こえてくる音を四人の人間が集まって聞いている。ある岩の上に座った一人はうつらうつらと居眠りをしていて、その近くのシートに座っている三人は何かの作業をしていた。どうやら機械を分解しているようだ。人の頭ほどの大きさに分けられた部品が山のように積まれていて、その横にはもっと大きな、半分に裂けたオートマタの断片のような物まで転がっている。それらの機械から、刃物とか、銃砲とか、光り輝くエネルギーの塊とか、使えそうなものを分別しているらしかった。

 そして、四つ目。

 この空間の。

 中心の部分。

 そこは、例の、一本の木が生えているところだった。いや、それは、その木は……本当に「一本」といっていいのだろうか。何か奇妙に捻じくれて、瘤だらけになった幹。その幹は、最初は細い蔓みたいだったものが、太く太く育ち、表面が硬化して、最終的に木質化したとでもいうような、そんな茎が。何本も何本も束なってできているように見えたのだ。それは異様なほどの生命力の塊だった。あまりにもヴァイタリティを注ぎ込まれすぎて、膨れ上がり、歪に歪んでしまったとしかいいようがない形。

 その木は巨大だった。二人の大人がようやく抱え込めるくらいの幹が、上天を突き刺すみたいにして伸びていて。その先で、まるで雷雲のような枝、枝、枝を伸ばしている。枝が雷雲であるのならばその先にぶら下がっている葉々は間違いなく豪雨だろう。粉々に砕けた緑色の光、に、似た態度で、降り注ぐ雨だ。それらの枝と葉とは、五メートルくらいの高さにあって、この広場の全体を包み込むように茂っている。この広場を、日の光や雨、あるいは上空から監視するASKのスパイ・ドローンなどから守る役目をしているのだろう。

 また、それだけではない、この木の枝の先、よく見てみると……幾つも幾つも果物がなっているのだ。とても奇妙な形をした果物で、五つから九つくらいの種子が一つの莢に納まっている。見た目はタマリンドによく似ているのだがサイズは随分と違う。一つ一つが人間の腕くらいの大きさがある。鞘の色は灰褐色。真昼の見間違いでなければうっすらと光を放っているようだ。ただ、普通であったら光を放つ果物など不気味で食べる気が起きないものだが。その果物に限ってはどこか見るものに対して安心させるようなところがあった。

 さて、そんな。

 木の根元には。

 一つの丸太的なものが置かれていた。二ダブルキュビトくらいの長さの倒木を横倒しにしたものだ。枝は邪魔にならないくらいに切り離されていて、ちょうどベンチのような形になっている。そして、そこに、一人の……何者かが座っていた。

 それは。

 明らかに。

 ホモ。

 サピエンス。

 に。

 非ざる。

 生き物。

 その「女」についてどこから描写し始めればいいのか……まず、信じられないほど白い色の肌をしていた。それは、白人だとか、そういう白さではない。白人の肌の色は、いってしまえばうっすらとしたベージュ色に過ぎない。軽く茹で上げた桃みたいな色というか、色落ちした黄色人種というか、所詮はそんな色だ。だが、その「女」の肌の色は、本当の白だった。まるでそれはスカーヴァティーに降り積もる雪のごとき白。まるでそれはアビラティーの波に洗われた砂のごとき白。一点の穢れさえ感じさせない、その穢れを焼き尽くしてしまうような、白。

 そんな白い肌をぼろぼろになって薄汚れた戦闘服が包み込んでいる。例えばデニー達をここまで案内した女や、それ以外のここにいる人間達と、全く同じ種類の戦闘服だ。違うところがあるとすれば……その「女」が着ている戦闘服の方が、もう少しばかり無残な状態になっているということだろうか。そこら中に切り傷や焦げたような跡がついていて、それに泥にまみれているのだ。それなのにそれを着ている「女」自身は全然汚れていないので、なんとなくちぐはぐした印象を受けるくらいだ。

 ただし、その「女」は、汚れていないとはいっても傷一つないというわけではない。それどころか隻腕であった。右側の腕が、二の腕の真ん中あたりから断ち切られてしまっているらしく。戦闘服の右袖はだらんと垂れ下がる形になっていた。そのせいで……その「女」は剣で刺してでもいるかようにしてライフルの銃底を地に突いて、その上に左手を載せているのだが、それは隻腕用のライフルだった。バットストックのところに固定具がついていて、その固定具で一の腕に固定することによって、片腕だけでも安定して銃撃を行うことができるのだ。

 髪、髪について。背中に向かって夜の闇をそのまま流しているかのように、漆黒の髪が背中に向かって流れている。葉と葉の隙間から漏れる日差しを浴びて、きらきらと艶めいていて、さんざめく星々が瞬いているかのようだ。それでいて視線を飲み込んでしまいそうなほどの暗黒は……それは、本来であれば長く長く滴り落ちていなければならないものだった。たぶん、その何者かが立ち上がれば、腰の辺り、下手をすれば膝の辺りまで達するような、そんな長さがなければならないはずのものだった。なぜなら、その髪はそれほど神聖なものだったからだ。何者も傷付けることの許されざる黒だったからだ。それどころか、触れれば、その力によって焼き尽くされそうな黒だったからだ。

 そうであるはずなのに、そうであるにも拘わらず……不条理なほどの惨劇。なにか、誰も知らない悲劇のようにして、その髪は断ち切られていた。ちょうど肩の辺りでざっくりと切断されていた。そう、切断。間違いなく疑うことなく切断であった。自らの意思で髪を切ったというわけではないということだ。何者か、明確な害意、明確な悪意、によって、外的な敵対者、強制的な力、その髪を、完全に取り返しがつかない形で、損なったのだ。その有様はその隻腕に似ていた。恐らくは戦闘中に断ち切られただろう傷口であったということだ。

 さて。

 ここまでは。

 いいだろう。

 確かに、まあ、ちょっと人間離れしているところはあるが。それでもここまでは人間であってもあり得ないわけではない姿だ。真昼がその何者かを見て、この人は人間ではない、そう思ったのは。ここまで書いた形ではなく、次の二つの形が理由だ。

 まずは、目。その目は……力に満ちた目だった。まるで、「意志」そのものが、「信念」そのものが、結晶化した宝石のように。常にその視線の先を睨視している瞳は、深淵の底で魂を飲み込みながら燃え盛る黒い炎によく似ているのだろう。その目は今、真昼には向けられていなかったのだけれど。こんな炎を向けられてしまったら、それを受け止めきれるかどうか分からないと、そんなことを思ってしまうくらい強い視線。もしも、その目に、見つめられたら。きっと、真昼の体の最底にある……何か、とても薄汚い、卑劣な本能のようなものまで見抜かれてしまいそうで。夜行性の獣みたいに大きな目は、酷薄ささえ感じさせるほど鋭利なレンズ形をしているのだけれど。それでも、その酷薄さは決して本人が望んで己のものとした性質ではないはずだった。それは、きっと、ひどく残酷で、ひどく冷薄な、そんな世界で生きてきたせいで。金属から余分なものが削り取られて、いつの間にか刃となっているように、自然と身についた酷薄さに違いなかった。

 そんな目が……右目と、左目と……それに、額の目。その「女」は、三つの目を持っていたのだ。右の目と左の目とは人間のものと何も変わらなかったが。三つ目の目は、横向きではなく、縦の向きで、ぱっくりとした傷口のように開いてた。すっと通った鼻梁の先にあるその三つ目の目は、左右の目と大きさも色もそう変わることがないのだが、それでいて何か……別のところを見ているような、そんなところがあった。何を見ているのか? 実は、真昼はそれを知っていた。あの三番目の目、三つ目の目は、光の振動を見ているのではなく……魔子の振動を見ているのだ。

 そして、もう一点。

 明白に、人間ではないと。

 すぐに、理解できる特徴。

 それは。

 頭部から生えた。

 四本の、角。

 右側に二本、左側に二本、合わせて四本。睥睨にも似た態度によって横向きに大きく大きく広がっている。緩やかに広がっていって、その先で、王者そのもののように、天の方向を突いている。上方へと湾曲している。頭蓋骨から直接突き出しているような、その白い色は……見間違いようもなく、牛の角にそっくりだった。

 角を持つ生き物。人の姿をしていながら、その頭部から、獣の角を生やした生き物。人よりも昔からこの世界に存在していて、そして、人よりも後の世界にまで生き延びるであろう生き物。その角は強者の象徴、その角は異形の象徴、その角は、魔力を持つ者の象徴。人などという下等な生物種と比べて、遥かに偉大なその生物種のことを、真昼は、確かに、知っていた。実のところ、その生き物はナシマホウ界にいるべき存在ではない。ナシマホウ族ではなくマホウ族の生き物なのだから。魔力に満ち満ちた真聖なる支配者。

 それは。

 マホウ族の中でも。

 神々の次に力強き存在。

 人はそれを天使と呼び。

 時には、悪魔とも呼ぶ。

 真昼は知っていた。

 それを。

 何と呼ぶべきか。

 学術的な名称を。

 そう。

 その。

 生き物の。

 学名は。

「デウス・ダイモニカス……?」

「え? ああ、そーだね。」

 驚きのあまり、呆然として。

 つい言葉を漏らした真昼に。

 軽く肩を竦めながら。

 デニーは、こう言う。

「アーガミパータではマーラって呼ばれてるけど。」

 デウス・ダイモニカス。現在確認されている二種のデウス種のうちの一種。いうまでもなくもう一種のデウス種とはデウス・デミウルゴスであって、それはつまり神々を指し示す学名だ。神々はマホウ界で最も高等な生命体とされている……そして、デミウルゴスは、その次に高等な生命体とされている。

 ダイモニカスの起源は、実のところよく分かっていない。人間という種族が知る限りでのダイモニカスに関する最も古い記録はサンダルキア・レピュトス記まで遡る。ということは、少なくともこの星における黎明の時代、「古き者達」や「カトゥルンの子ら」、あるいは「イス」といった外世界の種族が支配していた頃から存在していたということになる。恐らくは神々と同時期か、それよりも少し後、どちらにせよ観念重力によってマホウ界ができた直後に誕生したのだろう。そして、その後、ダイモニカスは、長く長く、非常に長くにわたって、マホウ界における支配的種族のうちの一種であり続けた。

 その形状は基本的には人間とそっくりだ。しかもわざと形状を人間に似せている神々とは異なってダイモニカスの場合はその姿が本当の姿である。人間と見分けようとする場合、一番手っ取り早いのが頭部に生えた角だ。角の形は個体によって様々ではあるが、とにかく、人間のような姿をしていながら角を生やしていれば、それはダイモニカスだと考えていい。まあ、人間の中にも角が生えている方々がいらっしゃらないわけではないのだが……ただし、実をいえば、生まれたばかりのダイモニカスには角が生えておらず、長く生きるごとに、強くなるごとに、その数が増えていく。二本目が生えた時点で人間でいう成人の状態に達したものとされ、確認されている限りでの最高の本数は九本だ。だが、ほとんどのダイモニカスは二本の角しか生えてこないのであって、三本の角があるものでさえ非常に稀な個体である。

 また、角だけでなく、例えば羽だとか尾だとか、それこそ三つ目の目だとか。他にも、(一部の特殊な方々を除いて)人間には有り得ないような器官が付属していることもある。これもまた、その個体がより長く生き・より強くあることの証明である。こういった付属器官の生成は、角が増えるよりも一般的な現象であって、多くのダイモニカスに見られるというほどではないが、普通のダイモニカスと強力なダイモニカスを見分ける時には割合によく使われている指標だ。

 デウス・ダイモニカスの「力強さ」は、彼ら/彼女らが純粋マホウ族であるということに由来する。マホウ族の中でも非常に珍しい純粋マホウ族は、物理的な力とは一切関係なく完全に妖理学的な力のみによって発生する生命体である。要するにその体は科子ではなく魔子によって構成されているということだ。一定範囲の領域に過剰な魔力が集中している時に、領域の内側に、核となるなんらかの観念が入り込むと、その核を中心としてデウス・ダイモニカスが発生するのだ。

 ちなみにダイモニカスの発生方法にはもう一つある。二人以上のダイモニカスが(二人以上でも可能だが繁殖者の数が増え過ぎると観念の共通化が難しくなるため大抵は二人で行われる)、互いの魔力を混ぜ合わせ、そこに共通の観念を挿入することによって新たなダイモニカスを作り出すという方法だ。実際のところ、この発生方法には性別は関係なく、女同士や男同士でも子をなすことが可能であるため、なぜダイモニカスに性別という概念があるのかは不明であるが……まあ、男であり女でもあるダイモニカスや、男でも女でもないダイモニカスもいるので、なんか、こう、特に深い意味はないのだろう。また、これは噂に過ぎないのだが、非常に強力なダイモニカスが一人だけで繁殖した例もあるらしい。こうなっちゃうともう無性生殖ですね。

 そんなこんなで。そのようにして発生したダイモニカスは、その身体の全てに魔力が満ち溢れている。ということは、魔学的な力、人間がいうところの「魔法」を易々と使うことができるのだ。もちろん魔法とは、その律法に際して精神力を必要とするのであって、魔力だけではいかんともしがたい部分もあるのではあるが。ただし、その威力に関しては完全に魔力に依存しているのだ。ということで、存在が魔力そのものといっても過言ではないダイモニカスは、人間のような下等生命体よりも、ずっとずっと威力の強い魔法を使えるということだ。ただ、本当のところは……ダイモニカスを形作る魔力は、多少不純物の混じる魔力であるため。完全に純粋な魔力であるセミフォルテアをベースとして形作られる神々と比べれば、その力は少しばかり劣っているのだが。

「本物……」

「ほえ?」

「本物なの?」

「そーだよ、本物のマーラ。」

「信じられない、こっちの世界にいるなんて。」

「アーガミパータには結構いるよお。ほら、ここって休戦協定が有効じゃないから、色んなマホウ族がいるのさっ! メルフィスとかダガッゼとか、それに洪龍もいるし……あー、でもヴェケボサンはこっちの側にはいないみたいだけどね。ヴェケボサンの領土は、向こう側って決まってるから。」

「あたし……初めて見た。」

 呟くように言った真昼のことを。

 怪訝そうな目で、デニーが見る。

「えー? 初めてじゃないでしょーお。」

「は?」

「二人目だよっ! 少なくともね。」

 真昼に向かって、素敵にウィンクをしながら。

 いつものように意味不明なことをいうデニー。

 その言葉、とりあえず無視をして。

 真昼は、そのダイモニカスを見る。

 ダイモニカスが座っている倒木の周りには。二人の人間が集まって、そのダイモニカスと話をしていた。というか……対話をしているというよりも、ダイモニカスが話していることを一方的に聞いている感じ。命令というわけではないが、何か助言を受けているみたいだ。ダイモニカスは座っているが、二人の人間は立っている。どうやらこのダイモニカスは、間違いなくここにいる人間達のリーダーであるようだった。

 なるほど、ダイモニカスがリーダーであるならば。デニー達をここまで連れてきた女が、あるいは他の六人が。あれほどまでの崇敬の念を表したのも納得できることだった。あれは神に近しい存在に対して人間が抱く自然な感情だったのだ……と、そこまで考えた時に。真昼は、一点だけおかしなことに気が付いた。おかしなことというか、別にそこまでおかしいわけではないのだけれど。なんにせよ、それは肌の色だ。

 ダイモニカスは先ほども描写したように白い色の肌をしている。それに対して、ここにいる、ダイモニカス以外の十六人、要するに人間達は、黒い肌の色をしている。もちろんこの黒い肌の色というのは、ダイモニカスの「白い」肌とは異なっていて。黒というよりも焦げ茶色に近い色なのではあるが。とにかく、これはちょっと奇妙なことだった。ダイモニカスの肌の色は、別に白と決まっているわけではない。その生息している地域ごとに、大体、まあまあ、そこそこ、人間と同じような肌の色をしているはずなのだ。ということは、このダイモニカスは、本来ならば黒い肌の色をしてなければならないのではないか? 光一つ残さずに、全ての色を飲み込むような、完全な黒い色の肌を。

 そんな真昼の疑問を察したのか。

 あるいは、全然察してないのか。

 たぶん後者であろうけれど。

 デニーが、口を開く。

「パンダーラちゃんはねー、ゼニグ族なんだよー。」

「ゼニグ族?」

「そう、ゼニグ族のダイモニカス。」

「それって……」

「ダコイティってさーあ、わりとヴァルナ制度がしっかりしてる組織なの。だからゼニグ族でダイモニカスなパンダーラちゃんが、えらーい人達の一人になってるってわけ。ふふっ、それだけが理由じゃないけどねっ。」

 そんな風に言ってから、デニーは。

 おかしーんだっ、とでもいう感じ。

 くすくすというあの笑い方で。

 愉快そうに、笑ったのだった。

 さて、ところで。デニーと真昼とがこんな風に、比較的呑気なお喋りをしていられたのは、デニー達を連れてきた女が、何かを話しているらしいダイモニカスと二人の人間、その話が終わるのを待っていたからなのだけれど。どうやら、その話がちょうど切りのいいところまで終わったらしかった。

 女は、デニー達のことを振り返りもしないでダイモニカスの前へと進み出でる。他の五人のダコイティはその場に留まったままだったので、真昼は進むべきなのか留まるべきなのか、一瞬だけ迷ったのだが。迷いもせずにずしずし進んでいくデニーを見て、慌てて自分もそれに従った。

 女の姿に、それに恐らくは……その後ろにいるデニーの姿に気が付いて。ダイモニカスと話していた二人の人間は、すっと退いて、ダイモニカスの前の空間を開いた。その開かれた空間に、女は進み出て行って。真昼には分からない言葉、たぶんダクシナ語だと思われる言葉で何かを語りかける。

 その言葉に気が付いて、ダイモニカスが視線を向ける。

 すると、その視線の先に、その姿を認めることになる。

 そう、それは……「あの少年」の姿。

 心臓に縛り付けるように。

 頭蓋骨に刻み付けるように。

 手のひらに焼き付けるように。

 よく。

 知っている。

 その姿。

 つまるところ、簡単にいえば、デニーの姿を見たということだ。その瞬間に、ダイモニカスの表情は、ふっと変わった。それは……とてもではないが、一匹の生き物が担いきれるとは思えないほどの、様々な感情の奔流であった。怒り、痛み、悲しみ、憎しみ、苦悩、絶望、諦念、そして、溺れそうなほどの……ノスタルジア。勘違いしないで欲しい、その変化、表情の変化自体は、それほど大きなものではなかった。少しだけ大きく目を見開き、すっと曖昧に口を開いただけで。だが、その僅かばかりの動作が……僅かばかりであるがゆえに、なお一層のこと、そのダイモニカスの、止めどない感情のヴォルテックスを表していたのだ。

 暫くの間、ダイモニカスは。

 一言も喋れず、そのままでいたのだが。

 やがて、ようやく、擦り切れるような。

 ひどく掠れた、声をして。

 デニーに向かって、言う。

「民のいない王……」

「今は。」

 その言葉を。

 遮るように。

 デニーは。

 にっこりと笑いながら。

 可愛らしく、こう言う。

「デニーちゃんって呼んでねっ!」

 それから、まるでかわい子ぶっているかのようなやり方、右の踵を支点にして、その場でくるんと回って見せた。上に着ているスーツの裾を、華やかな態度、とても楽し気に翻らせて。ぱっと開いた両手を、その指先まで、白くて美しい小鳥の羽先みたいにして伸ばして。

 一方で、デニーと真昼と、二人をここまで連れてきた女は、ダイモニカスの表情の変化を気遣わし気に窺っていたのだけれど。どうやら自分がここにいてもどうしようもないということを理解したらしく、一度だけ、デニーの方に鋭い瞥視を向けてから、先ほどの二人と同じように、デニーとダイモニカスとの間の空間から退いていったのだった。

「ごぶさた、さたさた、さたれーしょんぼみんぐっ! 元気だった? パンダーラちゃん。ふっふーん、デニーちゃんはね、ずっとずっと元気だったよ。」

 左の踵で地面をタップして。

 とんっと音を鳴らしてから。

 デニーは、くっと首を傾げながら。

 なんだか嬉しそうに、そう言った。

 それに対して、ダイモニカスは……ようやくのこと、少しばかり落ち着いてきたらしかった。見開いていた目を、睨み付けるようなあの視線に戻して。けれども、ライフルの上に乗せていた手のひら、その銃口を握り締めるみたいにしてぐっと力を入れると。恐ろしいほどの冷静さ、冷酷といっていいほど冷静さをその声に装わせながら、こう言う。

「今更、何をしに来た。」

「パンダーラちゃんってば、何だかよそよそしーい。」

 しかし、ダイモニカスの声に込められた、そんな冷度も。やっぱりというか案の定というか、デニーには何の効果もないようだった。少し反ったような形に開いた左手で、花びらみたいにふんわりと口元を押さえて。人差し指をぴんと伸ばした右手で、ダイモニカスのことを指差しながら。何が面白いのか分からないが、とにかくデニーはけらけらと笑っただけだったということだ。

 しかも、その、すぐ後で。

 特に深い考えもなさそうに。

 それとは全く違う話を始める。

「あっ、そーそー! パンダーラちゃんは真昼ちゃんに会うの初めてだし、真昼ちゃんはパンダーラちゃんに会うの初めてだよね! つまり……パンダーラ・ゴーヴィンダ、みーつ、砂流原真昼! 二人とも、仲良くしようねっ!」

 こういうタイミングで紹介するというのは、紹介される方が本当に気不味い気持ちになるので、できるだけやめて欲しいものだと真昼は心の底から思ったのではあったが。ただ、もう紹介されてしまったものはしょうがない。

 このダイモニカス、デニーからパンダーラ・ゴーヴィンダと呼ばれたダイモニカスが、一体どういう生き物であるのか。今までの状況から、なんとなく真昼は理解していた。要するにASKと闘争を続けているアーガミパータ現地住民達のリーダー的な存在なのだ。侵略者、資産の略奪者であるASKに対して武装抵抗を率いている存在。

 実は、真昼は、そういう存在に……淡い憧れのようなものを抱いていた。この場所に、アーガミパータに来る前から。真昼は、そんな……義賊に対して。まるで、少女が恋をするようにして恋をしていたといっても過言ではない。人の身でありながら神々に反旗を翻したニコライ・サフチェンコ。スペキエース解放という理想のために戦い続けるツ=シニ・ベインガ。あるいは、そういった革命を、弱者の立場から、大衆の視点から、実際の戦場に単身で飛び込んで取材し続けている、反骨の記者であるマコト・ジュリアス・ローンガンマン。

 それに、それ以外にも、数々の英雄達。自由と平等、それに平和のために戦いを始めた英雄達。彼ら/彼女らについて書かれたものを、手に入る限り真昼は読み漁った。自らは小さく・弱く・惨めな存在でありながら。自分達の尊厳を守るために、絶対的な強者に対して、敢えて立ち向かっていったのだ。勝ち目のない戦い、それでも、自分が、自分であるために。それだけのために、命を懸けて戦った。

 絶対的な強者、己の欲望を満たすためにはなんでもする連中。痛めつけ、苦しめて、そうしてあっさりと殺してしまう。あまりにも不正な方法で「力」を使い、抑圧して、強制して、苛斂する。そんな、そう、それは……静一郎みたいな、そんな生き物達に対して。そういった、義賊達は、立ち向かってみせる。勝ち負けなんて関係ない、というか、むしろ、立ち向かったことが勝利なのだ。少なくとも真昼にはそれこそが勝利だった。勇気を示して見せること。希望を示して見せること。人間であるという、それだけで生きる価値がある、それを示して見せること。それこそが……真昼にとっての、本当の、正義だったのだ。

 だから真昼は。

 そんな義賊の、一人。

 パンダーラに対して。

 とても、とても、強い。

 敬意の気持ちとともに。

 少し緊張しながら、こう言う。

「初めまして、真昼といいます。」

「真昼ちゃんったら、なーに緊張してるのっ!」

 デニーは面白そうに。

 そう言って、笑った。

 この人が、この女性が。なぜこんな男と知り合いなのだろうか。真昼はひどく不可解な気持ちになった。ただ……やはりというかなんというか、この二人は「友達」ではないようだった。昔はどうだったか知らないが、今は「友達」と呼べる関係性にはない、それだけは断言できる。女がデニーに向ける視線は、明らかに「友達」に向けるそれではない。それは……例えば……虐待を続ける父親に対して娘が向けるような視線。心の底からの軽蔑と、冷めきった憎悪、それにも拘わらず、その対象を愛さなければいけないという、あまりにも理不尽な義務感のようなもの。一体、この二人は、どういう関係にあるのか? 真昼がいくら考えても、その視線からは皆目見当もつかなかった。

 パンダーラは。ほんの一瞬だけ、ちらりと視線を向けた。真昼に向かって、なんだか、奇妙な視線を。その視線を受けた真昼が初めに感じ取った感情は哀れみの感情だった。真昼のことを憐れんでいる、いや、それはもう少し深い感情かもしれない。哀れみ、ではなく、同情。なぜならその哀れみには苦痛が混じっているからだ。過去の自分、まだ何も知らなかった頃の自分を見つめているような、そんな苦痛の感覚。そんな視線を向けられて、真昼はちょっとだけ混乱してしまった。一体、なぜ、そんな視線を? その視線には、パンダーラの視線が本来持っている、力強さ、苛烈さ、そういったものがほとんど見られずに。その代わりに……どこか弱さのようなものさえ見えたのだ。

 ただし。

 パンダーラが、真昼に。

 視線を向けていたのは。

 ほんの一瞬のことで。

 すぐに、その視線は、デニーに返って。

 また、あの、力強く苛烈な視線に戻る。

「それで。」

「ほえ?」

「要件はなんだ。」

「ふふふっ、相変わらずせっかちさんだねっ!」

 ぴんと立てた、人差し指を。

 ぴっぴっと軽く振りながら。

 揶揄うように、そう言った。

 そんなデニーの言葉に対して。

 奥の歯をぎりっと噛み締めて。

 それから、パンダーラは言う。

「要件がないのならば、今すぐに私の目の前から消えろ。」

「ふえぇ、そんなこといわないでよー!」

「お前は。」

 あくまでも巫山戯た態度を崩さないデニーに。

 パンダーラは、吐き捨てるように、こう言う。

「よくも、おめおめと顔を見せられたものだな。」

「ほえ?」

「あんなことがあって……この地を、ASKに、売り渡しておいて。」

「パンダーラちゃんってば、まだそんなこと言ってるの? だーかーらー、あれはデニーちゃん、関係ないんだってばっ! 何度も説明したよね? デニーちゃんの知らないところで、暫定政府とASKの間の、いろーんなお約束がされちゃってたんだって。デニーちゃんが気が付いた時には、コーシャー・カフェみたいなとーっても小さな組織がなんとかできる段階じゃなかったのっ! と、いうわけでっ! デニーちゃんのせいじゃありませーん。」

 顔の両側で、ひらひらと手を振って。

 可愛らしくべーっと舌を出しながら。

 デニーは、パンダーラにそう答える。

 よくもまあこれだけ癇に障る態度がとれるものだと感心するような態度であるが、もちろんデニーは悪気があってこういう態度を取っているわけではない。純粋に、こういう性格なのだ。だからデニーちゃんの可愛さに免じて許してあげて欲しいと思う今日この頃なのだが……それはそれとして。

 デニーの、このような答えに対して、パンダーラは驚異的な自制心を見せたようだ。既に指の骨に銃口がめり込んでいるのではと思うほど、その手のひらに強く強く力を入れて。デニーに対して感情を剥き出しにしようとする自分をなんとか抑えきってから。完全に冷静な口調で、こう言う。

「お前の望みが何であろうと、私はお前に手を貸すつもりはない。」

 それから、少しばかり。

 屈辱を感じさせる口調。

 一言、こう付け加える。

「もう、受けた分の借りは返したはずだ。」

「んもー、何言ってるのパンダーラちゃん! デニーちゃんとパンダーラちゃんは、貸し借りなんて、そーんなぽーきーなことをいうような関係じゃーないではないですかっ! そう、そうだよ、デニーちゃんはそんな話をしに来たんじゃないの。あのね、あのね、今日は、何で、ここに来たのかっていうとね……」

 そこで、ちょっとだけ言葉を止めて。

 それから、悪戯っぽく片眼をつむり。

 しーっと伸ばした人差し指を。

 ちゅっと、軽く、口付けると。

「パンダーラちゃんに、提案があってきたの。」

 デニーは。

 何かを

 可愛らしく。

 企んでいる。

 そんな口調で。

 こう、言う。

「一緒に、ASKを、叩き潰しに行きませんか?」

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