第一部インフェルノ #16

「ああああああああああああああああっ!」

 ラウンジ中に真昼の叫び声が響き渡るが差し当たりその絶叫に注意を割いている余裕はない。「真昼ちゃーん!」「デナム・フーツ!」「だからどこかに掴まっててって言ったのに!」「掴まってたよ! でも、これじゃ……だああああああああっ!」「真昼ちゃーん!」等々と、真昼とデニーとの叫喚の応酬が続く。

 真昼ちゃん、随分元気になったみたいだね。良かった良かった。さて、それはそれとして、現在の状況について。ここまでの描写ともいえない描写から何となくご理解頂けると思いますが、もう、なんというか、てんやわんやのどんちゃん騒ぎといっても決して過言ではない状況だ。端的にいえば……送迎船は、現在進行形で、墜落していた。

 惚れ惚れするくらい美しい錐揉み落下。画期的な(中略)構造のスタビライザー(Made In ASK)は既にその機能を停止していて、ラウンジの内部はノリノリで踊りまくるバーテンダーがシェイクするシェイカーの中みたいな状況になっている。とはいっても、シェイクされているのは真昼一人であったが。真昼はそこら中を飛んだり跳ねたりしていて、その飛んだり跳ねたりのごとに、体のどこかをしたたかに打ち付けている。もしもデニーの魔学式の力によって、すんでのところで受け身を取れる反射神経と、多少打撲したくらいではなんともない頑強な肉体を手に入れていなければ、骨の一本や二本や十本は折れていただろう。

 一方で、デニーは。真昼とは違ってきちんと地に足をつけた立ち方をしていたのだが。その代わりに凄まじいスピードで魔学式を展開しまくっていた。デニーが立っていたのは、もちろん例の魔学式が描かれているテーブルの前であって。ただその魔学式はもうテーブルの上からはみ出してしまっていた。真昼の腹に描かれているあの魔学式と同じ色の光、で描かれた魔学式が。テーブルの外側、つまりは空中に、めちゃくちゃに書き殴られているということだ。そしてデニーは、そんな魔学式を、人の身には不可能としか思えないほどの勢いで操作していた……ただし、右手の先は切断されたままの状態で。

「これ……ぐえっ! 死ぬっ、死ぬからっ!」

「大丈夫、大丈夫だよ真昼ちゃん! あと少しだから!」

「あと少しで、どうなるっていうんだよ!」

「あと少しで着くのっ!」

「どこに!」

「地面にっ!」

「はっ!?」

 真昼は更に何かを怒鳴りつけようとしたが、その言葉を発する暇もなく、またもや天井に勢いよく体をぶつけることになってしまい、結局のところ「どわあっ!」という間抜けな声を上げただけで終わってしまった。

 ところで、一体全体どうしてこんなことになってしまったのか? いや、まあ、どうしても何も、こうなるのが当然というかなんというか……読者の皆様には一度、#15の最初のシーン、デニーが送迎船の被害状況を確かめていたシーンを思い出して頂きたい。デニーの目の前に表示されたホロスクリーンは、どのような情報を表示していただろうか。ダメージは破局的、エネルギーは空っぽ、それに船体に打ち込まれたガードナイト弾は、既に外次元色力浸食を開始していた。あの状態で普通に飛んでいたことがむしろ奇跡であろう。そして、現在、#15から随分と時が経って。その間ずっと、賢いデニーちゃんのとってもパーフェクト!な操縦技術によって何とか飛行状態を保たせていたのだが。とうとう限界が来たという、ただそれだけの話だ。

 特にガードナイトによる浸食はひどかった。熱病によって捻じ曲げられたかのような赤イヴェール合金の赤色、で統一されていたはずの外観は。既に赤という色彩を完全に喪失してしまっていた。その内側に満たされていたはずの、存在を吸い尽くされて、概念を食い尽くされて。その代わりに……あの「色」を注ぎ込まれていたからだ。決して視覚によって認識しているわけではなく、感覚の、もっともっと深い部分、直接浸食されることによって、初めて感覚出来るかのような、あの「色」。赤ではなく、青でもなく、黄でもなく、緑でもなく、それでいてその全てでさえあるあの「色」。外側から見た送迎船の全体は、そのほとんどの部分が、疫病の感染によって壊死した組織のように、ガードナイトの「色」によって覆われてしまっていたということだ。

 しかも、そればかりか。変色ばかりか、変形さえも始まっているようだった。送迎船の肉体のそこここに、ぼこぼこと、不気味で、無秩序な、腫瘍が浮かび上がってきていて。それらの腫瘍は、時折破裂しては、その周りに「色」を吹き散らすのだ。あたかも、何かしらの形のない菌類の集合体が、そこら中に胞子を撒き散らすかのようにして。

 ラウンジの内部こそ、未だに、人の心を落ち着かせるような白い色の内装のままであったが。だが、そのオフ・ホワイトさえもが禍々しい浸食の魔の手に触れられてしまっているようだ。すっかりとあの「色」に変色してしまった出入口、軟口蓋に触れている部分から。徐々に、徐々に、まるで亀裂が入るみたいにして、変色が始まっていたからだ。

 飛行のためのエネルギーは、もう残っていない。

 重要な機関は、全てガードナイトに汚染された。

 要するに。

 あとは。

 落ちていく。

 だけなのだ。

「地面に! 着くって! 墜落って! ことじゃない!」

「そうとも言うね、真昼ちゃん!」

「あんた馬鹿じゃないの……ぎゃあっ!」

「あっ! 真昼ちゃん! 大丈夫!」

「大丈夫じゃない!」

 そんな風に、してもしなくても状況に一切関わりのない無駄話をしながらも。デニーは壮絶かつ凄絶なスピードによって魔学式を操作していた。左の腕は、もちろんその先に手のひらが付いているので、五本の指を駆使することによって、そのそれぞれの指が細かく複雑な作業をこなしていて。一方で右腕は、その先は光り輝く肉の塊になってしまっているため、ある式をどこかに移動させるとか、円に触れて魔学式を起動するとか、そういった大雑把な作業に使っているようだった。

 読者の皆様は……エネルギーもほとんどないし、機関もろくに動かないという状況下で、果たして何をやることがあるのだろうかと思われるかもしれないが。そんなことを思わないでほしいものですね! デニーちゃんだってたくさんたくさん頑張ってるのですから! 全く、傍観者というのはいつだってそうだ! 人の努力を軽んじて、嘲笑ってばかりいる! 不愉快だ、大変不愉快だ! まあそれはそれとして、端的にいうと、崩壊しかけている船体の維持のために必要な最低限のエネルギーを「色」から快復させたりとか、ガードナイトの支配下にある機関からそのコントロール権を何とか取り返そうとしたりとか、そういったことをしているのだ。もしもデニーが何もしていなかったら送迎船はとっくのトークン・ピーナッツに崩壊していただろう。

 ただ。

 まあ。

 それはそれとして。

 送迎船は。

 そろそろ。

 地面に激突する。

「デナム・フーツ!」

 たまたま窓のところに叩き付けられた真昼が、重力だか遠心力だかによって、罅だらけのエネルギー・フィールド(そう、実はこの窓はエネルギー・フィールドでできていたのだ、じゃあ何で罅が入ってるの?)に、べったりと顔を押し付けられながら。その向こう側の光景を見て全力で叫んだ。全力で叫んだといっても、重力だか遠心力だかによって肺を押し潰されそうになりながらの全力でということだが。それにしてもデニーはその声に気が付いたようだった。

「なーに、真昼ちゃん!」

「大地が! 大地が!」

「そうだね、真昼ちゃん! まざーあーすは……」

 魔学式に、最後の操作を加えてから。

 デニーは、軽くウィンクをして言う。

「いつだって優しく抱きとめてくれるものだよっ!」

「ぎゃうぁああああああああああああああああっ!」

 そして。

 墜落の直前に。

 デニーは。

 魔学式の。

 中心円に。

 触れた。

 そして、その瞬間に……いや、その瞬間に起こったことについて書く前に、予め、一つ、説明しておいた方がいいのかもしれない。それはASKと「マテリアルによってマテリアルなソリューションを提供する」ヴァンス・マテリアルとの関係についての説明だ。ちなみにこのキャッチコピーは、何とかうまいことをいいたかったが無残にも失敗してしまったということ以外何も伝わらないと大半の社員から大変に不評であるが、ヴァンス・マテリアルの創立以来変えられる気配はない。

 一般的に、ASKとヴァンス・マテリアルとの関係はライバル企業の関係であるとされている。ASKは、その基礎のところは軍事情報企業であるとはいえ、その他の事業領域にも多角的に食指を伸ばしていて。そういった食指はヴァンス・マテリアルの主な支配分野である科学工業にも伸ばされているからだ。とはいえ、企業間の関係性というのは、無論のことながら単純明快な一本槍というわけにはいかないのであって。ASKとヴァンス・マテリアルとの関係性についても、その実際においては、やはり有効と敵対とが表裏一体となっているのだ。

 その関係性のベースメントとなっているのは、やはりエコン族の策略、持てる者と持てる者との対立よりも、持てる者と持たざる者との対立の方が、遥かに重度の構造であるという至極当然の事実なのであるが。そのことについてはここでいちいち取り上げるようなことはしない。当たり前すぎてわざわざ書くほどのことでもないからだ。この世界で誰が「企業」のことを信頼する? 人と金とを天秤にかけた時、どんな場合でも金を選ぶ選ぶような組織に、誰が心の底から帰属したいと思う? よほど気が違ってでもいない限りそんな人間はいないだろう。

 その通り……そんな人間はいない!

 資本家どもは、人間ではないのだ!

 肥え太った神々の手先、豚どもめ!

 さあ、今こそ叫べ!

 万国の人間労働者よ!

 打倒、神授資本主義!

 まあ、神授資本主義の打倒はともかくとして。そんなわけでASKとヴァンス・マテリアルはある面では協力関係にあるということだ。事実として、互いに技術提供をしているし、製品の共同開発を行ってもいる。というか、それ以前に、この二つの会社は互いが互いの顧客でもあるのだ。ヴァンス・マテリアルはASKに企業システムの構築を任せているし、ASKはヴァンス・マテリアルから大量に物質を買い入れている。と、いうことで。ASKの製造した何かしらにヴァンス・マテリアルの技術・物質が使用されていたとしてもなんの不思議もないのだ。

 それは。

 例えば。

 エクスパンション・バッファー。

 デニーが、魔学式の中心円に触れた瞬間に。ラウンジの壁・床・天井、それらを形作っていたところのオフ・ホワイトの物質が、ぱしゃん、という音を立てて一気に破裂した。個体だったはずの物質はなんの前触れもなく液化して。まるで鉄砲水ででもあるかのようにラウンジ中に展開する。

 その白い液状の物質は……もう既にお約束といっても過言ではないだろうが、何が起こったのか全く分からずに、「は!? え!? は!?」みたいなことを言っている真昼のことを、勢いよく飲み込んで。何が起こっているのかちゃーんと分かっているし、それゆえに落ち着いて待ち受けていた、かしこーいデニーちゃんのことも飲み込んでしまう。

 エクスパンション・バッファー。ヴァンス・マテリアルが開発した衝撃緩衝システムだ。このシステムはアーキメタロン(未加工の白イヴェール生起金属)の遺伝原理担体をアーティフィカルに変質させて作り出した物質をベースとして構築されている。その物質は、密閉空間に閉じ込められている時は液体の状態を保っているのだが、その空間から排出されて外気に触れるとともに瞬間的に硬質化するという特徴を持つ。このシステムが取り付けられるのは主に船舶・車両・飛行機などであり、そういったvehicleに対して、内部の乗員の身体に重大なダメージを与えかねないレベルの衝撃が加えられると、各所に設置された装置の中からその物質が一斉に排出されるのだ。排出された物質は液体の状態で乗員を包み込むと、そのまま外気に触れている外部だけが硬化して、一種の繭を作り出す。そうして、その繭が乗員を衝撃から守るということだ。

 で、この送迎船に取り付けられた。

 エクスパンション・バッファーも。

 やはりデニーと真昼とのことを包み込むとともに、外側を硬化させて繭を作り出した。繭の中は液体のままの物質に満たされているのだが、この液体が衝撃のほとんどを吸収する役目を果たすことになる。こうして、デニーちゃんのすっばらしーい頑張りによって、落下に対する準備がきちんと整った、まさに次の瞬間に……とうとう、送迎船は、地面に、叩き付けられたのだった。

 その様は、もう、なんというか……豪快だった。仮に、誰かしらが、この落下を間近で観察していたとすれば。まずはその音、超ダイナミックな「どっかーんっ!」という音によって、頭蓋骨の中に思い浮かんでいたあらゆる印象は、爽快感を感じるくらいの爽快さで一気に吹っ飛ばされてしまうだろう。っていうかこういう時って本当に「どっかーんっ!」っていう音がするんですね、初めて知りました。まあ、音の通り正確に書くとすれば「どっおーんががががかーんっ!(ずざっずざっざざざざーん、すかぽんっ)」という感じだが、どちらにしてもなんか馬鹿みたいだ。とにかく、その音、というかその衝撃波は、観察者の脳味噌さえも吹っ飛ばしかねない勢いで突き抜けていって。そして、その音とともに繰り広げられた光景も、これまた実に傑作であった。

 先ほど、この船体はデニーの操船技術によって何とか崩壊せずにいるとかなんとか、そんな感じのことを書いたと思うが。そんなギリギリのところで持っている船体が、これほどの衝撃を受けて、その衝撃を耐えきるということが有り得ようか? いうまでもなくここの「有り得ようか?」は反語として使っているのであって、そんなことは有り得ないのだ。送迎船は、その鼻面(退化した鼻に似た器官面)から勢いよくマザーアース――母なる大地――に突っ込んでいって。そして激突した瞬間に、スラップスティック・コメディの小道具かよと思ってしまうくらい清々しく砕け散った。巨大なクニクルソイドの頭部と、それに寄生している小さいクニクルソイドを合わせた比較的大きな破片は、ばわん、ばわん、みたいな感じ、何度か面白おかしくバウンドしてからやっと止まった。胴体部分は爆発するみたいに粉々に砕けて、羽に似た肩甲骨みたいな器官は右と左のそれぞれが別々の方向にすっ飛んでいって。それから尾部は、地面に叩き付けられるとともに、明らかに曲がっちゃいけない方向に折れ曲がって。そのまま、がががががっ!みたいな音を立てながら慣性によって引きずられていって、地面の上に凄まじい引っ掻き傷を付けて止まったのであった。

 さて、それでは。

 デニーと真昼と。

 一体どうなったのだろうか?

 いや、もちろん物語も半ばのこの段階で主要キャラクターが二人も死ぬわけないのであって、しかも、傷を負ったとしても、今後のストーリー展開に支障がない程度の傷でしかない、つまり特筆すべきほどの傷ではないということは明白ではあるが。ここでいいたいのはそういうことではなく、二人がどのように助かったのか、今どのような状況に置かれているのかということだ。

 元はラウンジだったもの、ひどく不格好な白い繭は、衝突の瞬間に、砕け散った船体から放り出された。思いっきり明後日の方向にぶん投げられたみたいにして、空中に投げ出された白い繭は。そのままぐるぐると若干の回転を加えながら、優雅で感傷的な放物線を描いて……その放物線の終点において、ひどく滑稽な有様で地面に叩き付けられた。どのように滑稽だったのかということはちょっと見てもらわないと分からないのでここでは詳述しないが、その後で、白い繭は地面の上を、どげんっどげんっと二度ほど小さく跳ねて。跳ねるほどの運動エネルギーがなくなると、今度はごろろんごろろんと少しばかり転がってから、いかにもしぶしぶといった感じで停止した。

 それから……そう、これから起こることこそが、エクスパンション・バッファーの特に優れている点なのだ。もしも凡庸百般の物質であれば、液体から個体になればそのままであって、何かエネルギーが加えられたりしない限りは相転移が行われることはないだろう。だが、この物質は、空気に触れて変質が開始すると、時間とともに・自動的に、三回ほど状態を変化させるのだ。まずは一回目の相転移として即座に個体になる。その後、暫く時間が経つと、二回目の相転移、再び液体に戻るのだ。ということで、転がりの惰性によってその場でゆらゆらと揺れていた白い繭は。まるで熱を加えられた白い蝋のようにとろりとろりと溶け始めた。科学的な変化の速度は、溶けるごとに早まっていくようで……暫くは、ゆっくりと溶けていくだけだったのだが。その溶解がある時点に達すると、一気に全体が液化して。そうして、どばーっと内部の液体を吐き出したのだった。

 まるでミルクで満たされた卵から生まれた卵生の哺乳類のように、デニーの体と真昼の体とは、その吐き出された液体に弄ばれるがままべちゃーっと流されていって。それほど遠くまで流されないうちに、打ち上げられた漂流者か何かみたいにして、そこら辺にべったりと転がったのだった。

 べったりと全身を液体にまみれさせたままで。真昼は……のたうち回るみたいにして転げ回りながら、明らかな苦悶の表情、両手で自分の喉を掻き毟って、ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしていた。その口からは、ごぼっごぼっと音を立てて、でろでろとした白い液体が流れだす。そう、エクスパンション・バッファーに慣れていない真昼は、唐突に起こった出来事に動揺しすぎたせいで、呼吸を止め切ることができず、この物質をしたたかに吸い込んでしまったのだ。肺の中に大量に溜まった物質のせいで息をすることもできず、絶体絶命に思われた真昼であったが……まさにその時、物質の三回目の相転移が始まった。

 液体が蒸発して気体になっていく。ひどく慎重なやり方だ、あたかも一気に気化してしまうことで真昼の肺を傷つけることを恐れているみたいに。ゆっくりゆっくりと、もどかしいくらいに、真昼の肺から失われていって。やがて真昼は「がはっ」という一際大きな音を立てて残っていた液体の大部分を吐き出すことができたのだった。その後で、まだ残っているほんの少量の液体のせいでちょっとばかりげほげほと咳き込んでいたのだが。どうやらそれも蒸発したらしく、はーっ、はーっ、という荒い息、なんとか呼吸を整えようとしている息を吐き出しながら、真昼は、ようやくまともな状態にまで回復した。ちなみに、エクスパンションバッファーはその全ての部品について人体に全く無害な物質を使用しており、FUN-CoS(ファニオンズ標準化委員会)の認証も受けております。消費者の皆様にいつでも安心をお届けする。そのためにヴァンス・マテリアルは人命の尊さに対して真摯に向き合っています。

 一方で。

 デニー。

 は。

「真昼ちゃーん!」

 何が面白いのか。

 いつものような、あの。

 くすくすとした笑い方。

「生、き、て、る、か、なー?」

 歌うみたいにしてそう口ずさみながら。ひょこっとでもいう感じ、仰向けに横たわったままの真昼の顔を覗き込んだのだった。その全身は、やはり真昼みたいに、エクスパンション・バッファーの白い物質で濡れていたのだけれど。とはいえ真昼みたいに、その液体によって肺を満たしてしまって、無様に咳き込むというような、そのような馬鹿な真似はしていなかった。

 見下ろしているデニーの顔から、真昼の顔に向かってしたしたと白い液体が滴り落ちてくる。その液体が真昼の頬にぶつかって、音もたてずに蒸発していく。

 真昼は……デニーの顔を、改めてまじまじと見ることになった。もちろん、デニーの頭上には怖ろしいまでに濃い青色をした晴天が広がっていて、逆光になったデニーの顔はうっすらと影に染まってはいるのだけれど。むしろ、その方が、この男の顔から甘ったるい印象がほんの少しだけ拭われて、より本質が透けて見えるような気がする。滴り落ちてくる白い液体は、例えばその睫毛をも濡らしていて、真昼は、この男の睫毛は、こんなに長かったのかと思ったりもしたのだった。

 はーはーという荒い呼吸も。

 次第次第と、収まってきて。

 真昼は、自分の体を。

 ゆっくりと起こした。

 まずは上半身だけ。「おーっと!」とかなんとか言いながら、見下ろしていた顔をお道化たようにして退かせたデニーのことは無視したままで。真昼は周囲の状況を見回してみる。ひどいひどい有様だった。予想はしていたのだが、その予想よりもだいぶん悲惨な有様だった。

 そこら中に欠片が散らばっていた。送迎船の肉体を形作っていたところの肉の欠片だ。それらの残骸はごく小さな拳大のものから、クニクルソイドの巨大な顔面がまるごと破片になったものまで様々な大きさをしていて。その全てが、度合いこそ様々であったが、ガードナイトの浸食を受けていた。あるものは既に「色」に染まり切っていて、完全にエネルギーを吸い取られてしまった後なのか、奇妙にもほろほろとした、死んで焼かれてしまった後の灰みたいな物質に変化してしまっていて。あるものはまるで肉が致死性の熱病に侵されていく過程のようにして、じわじわと「色」に侵されていく、まさにその最中であったりもした。

 まあ、とはいっても、そこまでは真昼の予想の範囲内だった。予想していなかったのは……その肉片の一つ一つが、蠢いていたということだ。あたかも生きた肉の塊が、筋肉を捩じらせているかのように。完全に断片となってしまった残骸は、その表面を、くにくにとくねらせている。ドローンを打ち落としていたあの腕、先端に眼球の付いた腕は、死にかけた蚯蚓のようにのたうち回っている。羽なのか肩甲骨なのか分からないあの器官は蠢いてこそいなかったが、放っている光、充電がほとんど残っていない懐中電灯みたいに、弱まったり強まったりを繰り返している。全てが、残骸の全てが……苦悶しているかのごとく、真昼に対して耐えきれない痛みを訴えかけてきているかのごとく。

 そして、それらの残骸が。

 この地に生えていた木々。

 めちゃくちゃに。

 薙ぎ倒していた。

 送迎船が墜落するのかしないのか、墜落した場合に自分は死ぬのか死なないのか、そういった大変切実な問題に完全に気を取られてしまっていたせいで。真昼は、今の今まで全然気が付いていなかったのだが……この地は、既に、荒野といえるような場所ではなかった。どちらかといえば、緑豊かな肥沃な土地とさえいえるだろう。真昼には名前も分からないが、瑞々しく肉厚の葉をつけた、生命力にあふれた広葉樹。それが、真昼のいるあたりではまだまばらに生えているといったくらいであったが、段々と、段々と、密集してきて。少し先では、森というか、密林といっても過言ではないような状態になっている。しかも真昼が手を付き身を起こした大地は、茶色く乾いた沙漠の土などではなく一面に広がっている草原の一部であった。先が尖っている草は、縁のところが鋭いといってもいいほどに薄く、触れると濡れた刃のように痛みを感じる。息を吸い込むと……潰れて破れた草の、冷たいくらいに青い匂いが肺に落ちてくるくらいだ、無論それだけでなく、それらの草木が焼け焦げた匂いもしていたが。

 送迎船の残骸が落ちたところが、ぶすぶすと音を立てて焦げている。煮え切らない態度というか焼け切らない態度というか、内部に水分を満たした植物の類はやはり燃えにくいのだろう。残骸の衝突によって叩き折られた木の幹は、苦い色をした煙を吐き出しながら燃えている。その炎も小さく弱々しく、すぐに消えてしまいそうだった。草原はところどころが抉れて土を剥き出しにしていたが。その土も、乾燥した砂などではなく、粘土のようにさえみえる柔らかい土で。真昼は、さっきまで自分がいた場所、あの荒野とはあまりにも違った場所に自分がいることに対して、ちょっとした混乱の感情を抱いたくらいだった。

「ここは……」

「ざーんねんながら。」

 真昼の問いかけに。

 先回りするように。

 デニーが、言う。

「まだまだアーガミパータだよっ!」

 真昼は、そう言ったデニーの言葉には特に答えを返すことなく。今度は、自分の全身に視線を落としてみる。見た限りでは……どうやら大きな怪我はしていなそうだ。念のため、体の色々な箇所に手を触れてみる。痛いとか、何か変な感触だとか、そういったことも特になかった。思い切って、地面に付いていた手に、ぐっと力を入れてみて。その場に立ち上がってみる。少しだけふらっとしはしたが、それ以外には大した障害もなくすんなりと立てた。

「さっきまでいた場所とは。」

 デニーには視線を向けず。

 目の前に広がっている森。

 その奥の方、じっと見据えながら。

 何でもないことのようにして話す。

「随分と違うようだけど。」

「えー? そうでもないよう。今までいたあっちのところも、今いるこっちのところも、同じアダヴィアヴ・コンダだしね。」

「アダヴィアヴ・コンダ?」

「ダクシナ語圏の地域名のことさー。」

 ろくな教育も受けられないようなよっぽどの貧困家庭にでも生まれない限り、まず誰でも知っていることだとは思うが……一応、補足しておこう。アーガミパータは使用される言語によって二十二の行政区画に分かれている。行政区画といってもまともな行政が行われているわけもないし、そもそもアーガミパータには確認されているだけでも八百以上の言語が存在しているのであって。暫定政府が自己満足で決定した押し付けの行政区画に過ぎないのだが、それでも何の区画もないよりはマシなので世界的に承認されてはいる。なんだかんだいっても全ての権力は上からの押し付けであるのだし、その押し付けが長い時を経て社会的な慣習・制度になっていくのだから、まあとりあえずのところはこれで問題ないのだろう。ちなみに暫定政府があるのはイパータ語圏である。

 ダクシナ語圏とは南アーガミパータの中でもかなり南の方に位置している語圏であって、その南にはアーガミパータ大陸最南端のカタヴリル語圏くらいしかないくらいだ。その中でも、アダヴィアヴ・コンダは比較的内陸部に位置している。天然資源が非常に豊かであって、そのせいで内戦の初期のころから様々な勢力によって狙われてきた土地だ。ただ現在では、世界的な共通認識として、暫定政府から承認を受けたASKが代理支配を行っているという認識が出来上がっているため、比較的安定した争いの少ない土地となっている。さすがにASKに喧嘩を売ろうという集団は少ないのだ。

 ただ。

 それでも。

 全く、争いが。

 ないわけではない。

 ところで、真昼が視線を向けていた、この森の奥の方は。どうやら小高い丘になっているようだった。アダヴィアヴ・コンダ。「森に住む牛の丘」。まさにその地名の通り、その丘の麓は生命力に溢れた木々に覆われていて。だが、その頂上付近は、木々が生えておらず、剥き出しになった土が見えていた。

 全体的に、なんとはなしに……荒廃したような雰囲気があった。具体において何かしらがあるというわけではなく、曖昧な印象に過ぎないのだが、本当にぼんやりと、傷ついているような、弱々しいような、そんな感じがしたのだ。

 そのようにして、なんなく、衰退と退廃との気配を纏わり付かせている丘に向かって。遠くを見る時の視線、少しだけ目を細めたあの視線を、訝し気に投げかけながら。真昼は、デニーに、問い掛けるというよりももっとずっと独り言に近い感じで「ここは、どこ」と呟いた。

 デニーは……またもやくすくすと笑った。けれども、今回のこの笑い方は、先ほどまでの笑い方とは少しだけ性質が違っているようだった。さっきまでの笑い方は、誰かにくすぐられて、思わず笑ってしまった笑い方で。今回のこの声は、甘いものでも貰って、ふんわり幸せでいる子供みたいな声。

 そして。

 真昼の。

 問いかけに対して。

「ふふふっ、ここはね。」

 いかにも。

 得意そうな。

 口調をして。

 こう言う。

「デニーちゃんが来たかったところだよっ!」

 基本的に、真昼の質問に対するデニーの回答は二つのパターンに分かれている。一つ目のパターンは、べらべらべらべらと真昼の質問していないことまで喋りまくるので、聞いている方はまるっきりうんざりしてしまうパターン。もう一つは、こちらの必要な情報とは全く関係ない見当違いなことしか言わないので、この上なくイライラさせられるパターン。もちろんこの二つのパターンの合わせ技もしばしばあって、そういう場合には真昼はうんざりするやらイライラするやら大変なのだが、今回のこの回答については典型的な二つ目のパターンといっていいだろう。

 ただし真昼は、デニーとのコミュニケーションにだいぶんこなれてきていたので、この程度のことでイライラすることはなかった。とりあえず、あの丘の光景から目を離して。その視線を、一度、デニーの方に向けてから。はーっと溜め息をつく、わざとらしい溜め息ではなく、当て付けるような溜め息でもなく、ごく自然な、ちょっと疲れてしまっただけ、とでもいうような溜め息。それから真昼にしては珍しいくらい忍耐強くこう問い掛ける。

「あんたが来たかったところ?」

「そのとーり! まさにここ、ここの、ここが、デニーちゃんが来たかったところなのです! この場所に墜落させよーって思ってたところから、ぜーんぜんずれてない位置に墜落させたんだよ。あそこにちょーっと大きめの岩が剥き出しになってるでしょ? あれが目印っ! えへへ、あれだけぼっこんぼっこんのぺっこんぺっこんにされちゃったシャトルシップで、よーくここまでぴったりのところに落とせたっていうかーあ。やっぱりさー、デニーちゃんはさー……とーっても賢いからね!」

 褒めて欲しそうな。

 とても得意げな顔。

 そんな顔を無視して。

 真昼は言葉を続ける。

「あんたは、今にも船体がばらばらにぶっ壊れそうだったから、仕方なく、場所のことなんて考えずに、出たとこ勝負の成り行き任せでここに不時着させたわけじゃなくて、初めから、この場所に来ようとして、この場所を目的地にして、ここにこの船を……墜落させたってわけ?」

「へっへーん、すごいでしょー!」

「それじゃあ、ここに……」

 真昼は。

 少しだけ、考えるような顔をしてから。

 なんとなく、違和感を感じてるような。

 そんな声で、言う。

「あんたの友達がいるところってわけ?」

 特にその「友達」という言葉を発する時に。真昼は、自分が、どこかしら荒唐無稽なこと・でたらめなこと・非論理的なことを言っているような、そんな発音の仕方をした。例えばこの音は緑色だと言っているかのように。例えば球体に角度があると言っているかのように。この男の、デナム・フーツの、友達? 一体、自分は何を言っているのだろう、そんな生き物、いるはずなんてないのに。ただ……それでも、真昼は。その、存在するはずのないものの存在を信じなければいけないのだ。もしも、本当に、マラーのことを、助け出したいと思っているのなら。その緑色の音が、その球体の角度が、唯一の希望なのだから。

 真昼の問い掛けに。

 デニーは、答える。

「そーだよ、真昼ちゃん。」

 目の前の。

 あの森を。

 指差して。

「この森の中にいるの。」

「森に住んでるってこと?」

「うーん、住んでるっていうか、隠れてるっていうか。」

「隠れてる? 何から?」

「そりゃー、ASKからだよ。」

「あたし達みたいに、ASKから狙われてるってこと?」

「ちょーっと違うかなあ。ASKは、別にパンダーラちゃんのこと欲しいとは思ってないわけだし。でも、殺したいとは思ってるだろうから、狙われてるっていえば狙われてるんだけどね。」

 軽く、肩を竦めて。

 そう答えたデニー。

 ここまでの会話では全然埒が明かないというか、デニーの友達であるというその生き物について、「パンダーラ」という名前であるということ以外、具体的な情報がほとんど得られていない真昼は。更に質問を続けようとしたのだが……その質問は、デニーの「あ、真昼ちゃん。少しだけ待ってて!」という言葉に遮られる。

「どうしたの。」

「えーっとね。」

 デニーは、そう言いながら真昼から目を離して。自分達の周囲を、ぐるりと一周見回すような素振りを見せた。だが……何を? 何を見回したのだろうか。デニーと真昼との周りには、もちろん色々なものがあった。まあ、そのほとんどが送迎船の残骸であったが。デニーが見ているのは、どうやらそういったものではないようだったのだ。デニーが、その視線で撫でたらしい空間に。真昼は、何物も見出すことができなかった、真昼の見た限りでは、そこには、空気が詰まった空間があるだけで。

 しかし、その何もないはずの空間に向かって。

 悪意の欠片もない、無邪気な笑顔を浮かべて。

 デニーは声をかける。

「お迎えに、来てくれたのかなあ?」

 答えはない。

 わざとらしいほどの。

 静寂だけが聞こえる。

 デニーはフードの奥で首を傾げた。とても不思議そうに、どうして答えが返ってこないのか、全然分からないとでもいうように。人差し指をぴんと立てて、唇のところにちゅっと当てる、あの仕草をして、そうしてから「ええーっ! もしかして隠れてるつもりなのーっ!」と言う。

 ちゅっとした人差し指、ぴんと立てたままで。今度は、自分の周囲の空間、つい先ほど声をかけた空間に向かって、ぴっぴっと指さしをしていく。まるで、一人、二人、三人、と数を数えているみたいなジェスチュアだ。四人、五人、六人、そのカウントが六人までを数え終わると。デニーはまた口を開く。

「みんなみんな見えてるよーだ。そんなてきとーな境界迷彩じゃ、ラミアと魚だってできないよ! まー、暫定政府とか多国籍軍とかの子達なら騙せるかもしれないけどね。」

 デニーがいくら話しても。

 何の答えも返ってこない。

 それでもデニーは、特に気を悪くしたりなんだりした様子も見せないで。暫くの間、きょとんとした可愛らしい表情をして、なんらかの反応を待っていたのだけれど。やがて、ふへーっという感じ、ひどく気の抜けた溜め息をついた。「んもー、しょーがないなー」とかなんとか言いながら、すっと左足を上げる。

 トウを立てるみたいにして、地面と直角になるように爪先を向けると。大きくも小さくもなく、さほど気合も入っていない、ごくごく普通の声をして。「王の羽、王の羽、王の羽。皮膚を剥がれた犬、灰を清められた竈。天幕の撚糸はほどけよ」と言いながら、その爪先、とんっという感じで大地に向けて落とした。

 すると。

 その瞬間に。

 何もなかったはずの空間。

 デニーと真昼との、周囲。

 唐突に、六人の人間の姿が現れる。

 「六人」といってるんだから現れたのは人間に決まってるじゃないかというご指摘もあるかと思いますが、この物語の中では人間以外の生き物についても「人」という単位を使ってるので、その現れた姿が確実に人間のものであるということを示すためにわざわざ人間と記載させて頂きました。それはそれとして、この六人はただ現れただけではなかった。その姿が視界に映し出されたと思うと、何かの突風に煽られたとでもいうかのように、いきなり吹っ飛んでいったのだ。

 そのまま、六つの体は。

 一ダブルキュビトか二ダブルキュビト。

 そのくらいの距離を、跳ね飛ばされて。

 少なくとも、そのうちの五つは。

 勢いよく地面に叩き付けられる。

「ほーら、これで分かったでしょ?」

 そんな様子を。

 満足げに見回しながら。

 デニーは。

 お気に入りの歌でも。

 歌うみたいに、言う。

「強くて賢いデニーちゃんから、隠れることなんてできないって。」

 ところでそんな状況の中、一方の真昼は。いつものことながら何が起こったのかよく分からなかったのだが、まあーなんだかんだいってもいつものことーということで、こう、自分の立場というものが把握できてきたらしく。自分が状況を理解していないということについての焦りはどうやらあまりないようだった。慌てず騒がず視線を動かして。自分の周りで起こったことについての情報を集めていく。

 デニーと真昼とを中心として、円を描くかのようにこの六人は倒れていた。正確にいえば、先ほどもちょっと触れたが、倒れていたのは五人だけで残りの一人は倒れていなかったのだが。それはそれとして、恐らく姿を見せる前、吹っ飛ばされる前は、二人のことを取り囲んでいたということなのだろう。ということは、デニーが視線を巡らせた時に見たもの、真昼が視線を巡らせても見えなかったものは、きっとこの六人の姿だったのだ。

 六人は大体同じような格好をしていた。迷彩柄の戦闘服、といってもアーガミパータ北部迷彩ではなくアーガミパータ南部迷彩だ。黄土色と深い緑色と、それにところどころの黒が混ざった模様。腰のベルトのところには鉈のような刃物を差している。そして、六人全員が何らかの銃火器を手にしていた。

 といっても六人全員が同じものを手にしていたわけではなかったが。そのうちの四人が持っていたのはFPP(Factory for Perpetual Peace)製のアサルト・ライフルであるPGO-BG(Peace Grows Out of the Barrel of a Gun)だ。これはアーガミパータ暫定政府下の陸軍において標準装備とされているアサルト・ライフルであり、アーガミパータのどの気候地帯でも使えるように非常に丈夫な構造をしているが、その反面、粗雑なつくりをしているために命中率の面では著しく劣っているという欠点がある。ちなみに製造元であるFPPは人間至上主義圏からの資金提供によってアーガミパータ暫定政府が設立した工廠だ。

 残りの二人が持っていたのはなんとテンプルワーカーだった。いや、テンプルワーカーというのは正式名称ではなく通称なのだが、正式名称で呼ぶやつなんて誰もいないのでここでもテンプルワーカーと呼ばせて頂こう。誰でも知っている通り、これはサリートマト社が開発した短機関銃だ。射程が非常に短いので、塹壕内に大量の銃弾をばら撒くことには適しているのだが、いかんせんそれ以外の用途にはほとんど使えないため、アサルト・ライフルが開発されるとともに戦場ではほとんど使われなったという代物であって……真昼は、一応は武器屋の娘ということもあり、そういう事情を知っていたので。紛れもない戦場であるはずのアーガミパータで、こんな前時代的な兵器を使っている者がいるということに、少しばかり驚いてしまったのだった。

 さて、そんな六人だったのだが。ただし、そんな服装をして、そんなものを持っているにも拘わらず、どうも正規の軍人というわけではなさそうだった。例えば着ている服は確かに戦闘服ではあったのだがどう見ても陸軍戦闘服ではない。どこか不格好な縫製で、しかも体とサイズが合っていないのだ。なんとなくぶかぶかな服を麻でできた幅広のベルトで止めている。まるで他人の体に合わせて作られた服をどこからか奪ってきたとでもいう感じだ。中に着ているのは白いシャツ一枚だけだったし、そのシャツも随分と薄汚れていた。ヘルメットをしておらず、履いているのはブーツではなくスニーカー。ミリタリーのスニーカーですらなく、安っぽい、ただのスニーカー。

 更に、軍人のように見えない上に、テロリストのように見えるわけでもなかった。確かに麻のベルトの上から腰布を巻いている。この腰布は、そもそもアーガミパータの灼熱の気候ではズボンのような形の衣類が大変不快であるため、風通しを良くするためにその代わりとして着用されるものであって、ズボンの上から巻き付けたところで何の意味もないのだが。なぜだか知らないが、暫定政府あるいは多国籍軍に所属していないところの、テロリストや神閥やの戦闘員達が、戦闘服の上から好んで身に着けているものなのだ。一説によれば、この腰布を付けることはアーガミパータの文化的なものを固守することの象徴であるとか何とかいう話なのだが……ただ、それでは、なぜスペキエース・テロリストもこの腰布を付けることがあるのかという疑問が出てくる。また、この腰布を付けることで味方側と敵側を区別しているのだという説もあるが(テロリストや神閥やの戦闘員は殺した相手の戦闘服を剥ぎ取って着ることがあるため)、そもそもゲリラ戦を仕掛ける側のテロリストが目立っては駄目だろという気もする。

 そんなこんなで腰布を巻いているというのはテロリストかどうかの指標の一つとなりうるのだが。ただ、この六人は……腰布は巻いているのだが、顔を隠してはいないのだ。アーガミパータのテロリストであれば、こういった腰布と同じ色の、白い布を巻いて顔を隠しているのが普通だ。なぜなら、もしも顔を隠さずにいて、その顔がどこかしらの諜報機関にチェックされてしまえば。自分がどこの誰なのかということ、全ての身元は即座に明らかにされてしまうからだ。そうなったとしても、まあ自分だけが狙われて殺されるくらいならさほど問題はないのだが。世界というものはそんなに甘い場所ではない、そのどこかしらの諜報機関はまず間違いなくそのテロリストの家族を捕獲することになるだろう。そして、適正な法的手続きなしで拷問を行えて、公開裁判なしで死刑判決を下すことができるような、そんなしっかりした法制度が整っている国に移送して。拷問に次ぐ拷問の末に搾り取れるだけの情報を搾り取ったら、適当な罪状をでっちあげて濡れ衣を着せた挙句、さっさと処刑してしまうのだ。ということで、大切な家族を守るためにも、なんの後ろ盾もないテロリスト達がこんな風にして顔を丸出しにしたままでいるはずはないのだ。

 それでは。

 この六人。

 ひょっとすると。

 後ろ盾を持った。

 神閥の人間か?

 そういったことを、真昼が考えているうちに。それらの六人はブロウオフの衝撃から立ち直ったようだった。というか、少なくともそのうちの一人は、地面に叩き付けられる直前に、人間にしては驚くほど冷静な身のこなしで、回転するように受け身をとって。その衝撃のエネルギーをうまく受け流す形で、そのまま滑るみたいにして身を起こしていたのだ。

 肩にかかるくらいの長さ、縮れた黒い髪を、うなじの辺り、紐で一つにまとめた若い女。若いといっても真昼よりは年上で、たぶん二十代の前半くらいだろう。肌の色はマラーと同じような色。黒人ほど純粋なダークブラウンではなく、どこか混ざりものをしているような、曖昧な黒。典型的なアーガミパータの人間の色で。それから、はっきりと大きな目。

 その目で。

 デニーのこと。

 見つめながら。

 野生の生き物が。

 威嚇するような。

 ひどく敵意のこもった声で。

 女は、こう問いかける。

「おまえ、何者だ。」

「あれー? 共通語でお話しできるんだね。」

「聞いてる、答えろ。」

「何者だって言われてもぉ……」

 デニーは(本人はそんなつもりはないのだろうが)かわい子ぶったような声でそう言うと、その女が自分に向けている銃口のこと、ちらっと視線を向けた。そう、女はデニーに銃口を向けていたのだ。ちなみに女が持っていたのはPGO-BGであったが、それに対してデニーは、別にそれを恐れているとかそういうわけではなく、純粋に不思議そうな顔。この人はなんでこんな無意味なことをしているのだろうとでも思っていそうな顔。

 デニーと女が話しているうちに、他の五人も立ち上がり始めていた。手に持った銃を、女と同じようにデニーだけに向けていて。真昼のことは……まるで無視しているみたいだった。ただ、まあ、真昼としても、自分が相手の立場だったら、きっとデニーの方に銃口を向けていただろうと思うので。そのことについて、特に気を悪くしたりだとかそういったことはなかった。

「ここにいるみんなは、パーンダラちゃんに言われてデニーちゃん達のことをお迎えに来たわけじゃないの?」

「おまえ……パンダーラさまのこと、知ってるのか?」

 デニーの言葉に、女が驚いたことは歴然としていた。

 女だけではなく他の五人も戸惑いの色を見せている。

「知ってるも何も、デニーちゃんとパンダーラちゃんはお友達だよーだ。第二次神人間大戦の時に、デニーちゃんのお仕事をちょーっとだけ手伝ってもらったんだけどね。そ、れ、か、ら、ずーっとずーっと仲良しなの!」

 続けられたデニーの言葉に、六人の動揺は更に大きくなる。先ほどの「パンダーラさま」という言葉、それに、その言葉に込められていた、溢れ出るような・抑えきれないような敬意の響きから考えてみると。パンダーラと呼ばれている何者かは、どうやらこの六人が所属している組織のリーダー的な存在のようだ。それもただのリーダーではなく、かなりのカリスマ性を持ったリーダー。そんな何者かが、この男、このデナム・フーツという男と「お友達」だなんて言われたら……確かに冷静ではいられないだろう。真昼は、そんなことを考える。

 デニーが言ったこと、思考の九割がたは信じていないのだが、それでも残りの一割の思考がもしかしたらと思っている。そんな風な顔、誰を疑ったらいいのか分からないといった風な顔をして、女は軽く目を眇めた。銃口は降ろさないままで、静かに、呼吸を整えるみたいに、何かを考えていたようだったが……そんな黙考を、デニーの言葉が破る。

「パンダーラちゃんはあ、まだこの森にいるんでしょーお? オレンディスムス結界が森中を覆ってるせいで中が良く見えないんだけど……でもでも、匂いはしてるもん! あのね、デニーちゃんはね、パンダーラちゃんにちょっとご用があって来たの。だから、デニーちゃん達のこと、パンダーラちゃんのいるところまで連れてってくれないかなーあ?」

 考えを、まとめている時に。

 不意を突かれる形になって。

 女は少しだけ虚を突かれた顔をしたが。

 すぐに、そんな顔を取り繕って、言う。

「おまえ……」

「デニーちゃんって呼んでね!」

「……おまえ、パンダーラさまと知り合いだという証拠、あるのか。」

 デニーちゃんは、デニーちゃんと呼んで貰えないことに対して少しばかり不満そうな顔をしたのだけれど。すぐに気を取り直したようだ。それから、女の言葉に対して「証拠?」と空とぼけたような声を出した。もちろんデニーは空とぼけているわけではなく、女の言ったことがよく分からなかっただけなのだが。真昼は、この状況下では空とぼけているように聞こえても仕方がないだろうなと、他人事のように思ったのだった。

「証拠って、なんでそんなものが必要なの?」

「ふざけるな。おまえ、ASKの「船」に乗ってきた。そんなやつのいうこと、どうして信じられる? お前、ASKの「人形」ではない、そんなこと、どうして信じられる? なんの証拠もないのに、おまえの言うこと、言ってるままに信じること、できるわけない。なんの証拠もなしに、パンダーラさまがいるところ、連れていく、そんな危険なこと、できるわけない。」

 デニーは女の言葉に、「ええー?」という声を漏らしながら、明らかに、なんだか全体的に面倒になってきちゃった、みたいな顔をした。今の会話から、どうやらこの女達が所属している組織はASKと敵対関係にあるらしいと真昼は考えた。それにその組織の本拠地はこの森の中にあるらしいということも。そうであるのならば女達がとった行動は大変納得がいくものだった。敵対している相手の「船」が、自分達の本拠地の、その玄関先に突撃を仕掛けてきたのだ。まあ、真昼達としては突撃を仕掛けたつもりなどなく、ただやむに已まれぬ結果として墜落しただけなのだが。とにかくそんなことが起こったならばいくら警戒してもし過ぎるということはないだろう。

 「そんなこと言われてもぉ」なんていうことを言いながら、デニーはフードの中で小さく首を傾げた。真昼には……もうこの男とは一日以上付き合っているのだ、だからデニーの考えていることが手に取るように分かった。きっと、ここにいる六人を皆殺しにしてこの森の全てを焼き払ってしまうのと、この女に言われた通り「証拠」を見せるのと、どちらが面倒が少ないか考えているに違いない。ちなみに、自分の頭の中に浮かんだ、デニーがこの森の全てを焼き払えるという考えに、真昼は一点の疑いも抱かなかった。目の前に広がっている森はひどく広大であって、もしかしたらその中に小さな国の一つや二つ入ってしまうのではないかと思うほどだったのだが。デニーならば、それくらいのことをできるだろうし、躊躇いもなくやるであろうことを、確信していたのだ。

 真昼は。

 その光景を思い描き。

 一瞬だけぞっとする。

 ほんの、一瞬だけだ。

 けれど。

 デニーは。

 幸いなことに。

 その選択肢を。

 採らなかったようだ。

「あ、そうだっ!」

 何かとてもいいことを思いついたとでも言いたげに、元気よくそう言った。それからデニーは自分の左腕にちらりと視線を落とす。料理をしようと思ったら少し塩が足りなかったとか、そんなことを言うみたいな口調、本当に大したことないことを独り言として呟く時の口調で「これじゃ、指輪を外せないよね」と言うと。その次の瞬間に、その左腕の先から。切断された後の傷口、淡く光る手首の肉から。ひどく細い繊維のようなものが、しゅるしゅると音を立てて伸びてきた。まるで、それは、何か、糸に似た寄生虫が、肉の塊を食い破って、たくさんたくさん這い出してきたとでもいうみたいに。

 それらの繊維、糸、あるいは触手、のようなものは。うごうごと蠢きながら次第に重なり合い束なりあっていく。デニーは、そんな仕草をしている左腕の先を……軽く上げた。自分の顔の前まで持ってくると、手遊びでもしているみたいにして、その繊維、糸、あるいは触手、のようなものをひらひらと動かしてみる。その紡がれていくファイバーの塊は、デニーの目の前で、まずは手の甲を形作って。次に小指を、次に薬指を、次に中指を、次に人差し指を、親指を形作る。大体の形ができるとともに、ファイバーの塊からうっすらと白い色をした液体が染み出してきて。そのファイバーの塊を覆い始める。それが皮膚となって爪となって……それから、最後には、デニーの手の先には何事もなかったかのように手のひらが出来上がってた。

 そして。

 デニーが、太陽に、神さまの卵に。

 透かしているようにして見ている。

 新しく、華奢で、冷たい手のひら。

 その右手の。

 その薬指の。

 先に。

 嵌まっていたのは。

 一つの、指輪、だ。

 指輪を嵌めた様子はなかった。そんな動作は一切なかった。ということは、右手を再生していく過程で、その指輪はいつの間にかそこにあったということになる。まるでデニーの肉体から生み出されたみたいなその指輪は、ひどく変わった姿形をしていた。

 金属でもなくプラスチックでもなく、恐らくは象牙のような物質でできているのだろう。それか陶磁器の類かもしれない。割合に透光性が高いらしく、どこかつやつやとしているのだ。金鎚で叩いたら粉々に砕けてしまいそうな脆さもある。

 そんな物質が、デニーの薬指に巻き付いた……蛆虫の形をしていたのだ。ぶよぶよとしていて、幾つかの節に分かれた体。頭部と尾部はすぼまっていて、そのすぼまった部分が軽く触れるみたいにしてリングの形状を作っているということ。

 無論、それが陶器だか磁器だかのようなもので出来ている限り、本当の蛆虫であるということはあり得ない。しかし、デニーが、すっと右手を差し上げて、左手の薬指に嵌まった指輪に触れた時に……真昼は、その指輪が、僅かに、僅かに、身をくねらせたように見えたのだ。ただ、それはたった瞬間の出来事で。本当の出来事であったのかどうかも分からないうちに、デニーは、あっさりと、自分の薬指からその指輪を外してしまっていた。

 汚れ一つない。

 まるで、デニー本人みたいに。

 とても、とても、無垢な白色。

「はい、これっ!」

 デニーは。

 その指輪。

 女に向かって。

 ぽんと放った。

 女は、デニーのそんな行動に……かなり取り乱した。それはそうだろう、敵だか味方だか分らない相手、しかも敵である可能性のほうが高い相手が、いきなりなんらかの物体をこちらに向かって放ってきたのだ。女は受け取るか受け取らないかを迷う暇もなく、反射的に、持っていたPGO-BGの銃身でそれを弾き飛ばした。それを見てデニーは、ぶーぶーとぶーたれる感じで「あっ、ひどーい」と言って。その言葉を無視する形で、女が叫ぶ。

「あれ、なんだ!」

「なんだって、指輪だよお、契約の指輪。見たことないの?」

「答え、なってない!」

「んもー、そんなにぴりぴりしなくても大丈夫だよ! みんな、まだ生きてるんだから! デニーちゃんがみんなのことを殺そうと思ってたら、もうみんな死んじゃってるでしょ? でーもっ、生きてるってことは、みんなを殺すつもりはないってことなんだから! ね、大丈夫でしょ?」

 至極理にかなった事柄を、頭が悪い犬か何かに、一つ一つの前提から解きほぐして説明していくみたいにして。まあ犬には何を言っても無駄なのだが、とにかくそう言いながら、デニーは何気なく一歩を踏み出した。女と他の五人は、そんなデニーの行動にはっとして、慌ててかつ一斉に銃口を向けたのだが。とはいえ引き金を引くことまではしなかった。

 その様子は、デニーの様子を窺っているというよりも、本当に引き金を引いていいものかどうなのか判断がつきかねているといった方が正しかっただろう。もし、ここで、引き金を引いたら。何か……とてもよくないことが起こりそうな、そんな気配を感じているかのように。その気持ちは真昼にはよく分かった、真昼がこの六人の立場だったとしても、きっと引き金を引くことはできなかったに違いない。それは、例えば、煮え滾る溶岩の塊を殴りつけるように愚かなことなのだから。

 デニーは、そんな六人の目の前で。ひらひらとした軽やかさ、花から花へ踊る蝶々か何かのような歩き方をして、歩いていくと……やがて、女が弾き飛ばして、草原の上に落ちた、指輪のところまで辿り着いた。ひょいっと拾い上げて、埃か何かを吹き飛ばそうとしているかのようにふーふーと息を吹きかけると。それから、その指輪を、くるくると指先で転がすようにしながら……きらっと煌めくお星さまみたいな笑い方をして。

 女に向かい。

 笑いかける。

「ほーら、危なくないよー。」

 客観的に聞いたら、完全に馬鹿にしたような言い方だと。

 真昼は、なんだかしみじみとした気持ちで思ってしまう。

「答えろ! それ、なんだ!」

「だーかーらー、契約の指輪だって! 指に嵌めなければなーんにも起こらないし、指に嵌めたって……まあ、アンハッピーなことにはならないよ! きっとね! とにかく、これをパンダーラちゃんのところに持っていって。これを見れば、パンダーラちゃんもデニーちゃんが来たんだーって分るだろうし、そうしたら、えーと……きっと、とーっても大喜びするよ!」

 この時点で真昼は。

 そのパンダーラという何者かは。

 デニーが来たという知らせに対して。

 全く喜ばないであろうということを。

 ほとんど確信にも似た形で予感していたのだが。

 それは、まあ置いておくとして。

 デニーは、その美しいといえなくもない笑顔を浮かべたままで。とっとっとでもいう感じ、軽い足取りで女の方に近付いていく。女は、どうしていいのか分からず、さりとて、思い切って引き金を引いてしまうほど無分別というわけでもなく。ただ怯えるような表情をしたままでそんなデニーのことを見ていることしかできなかったのだが。

 やがて。

 デニーは。

 目の前に。

 立っている。

 デニーよりも、女は、少しだけ背が高い。握り拳で一つ分くらいは高いだろう、だから見下ろす形になるのだが、それでもまるで女の方が見下ろされているみたいだった。ちょこんと顔を上げてフードの奥から見上げているデニー。フードの先のところで、少しだけ隠れている眼を……銃口を向けたままの女に向かって、ばちこーん!という感じでウィンクさせた。

「お前……」

「はい、これ。」

「待て、それ以上……」

「はやくはやくー。おててを出して!」

 今、女が何を考えているのか、あるいは何を考えられないでいるのか。真昼にはよく分かった、それに、女がデニーに言われた通りに手を差し出してしまうだろうということも。女は、暫くの間、歯を食いしばるみたいにしてデニーのことを見ていただけだった。意味のあることを何も言うことができず。ただただ、その、デニーの、笑顔に、魅入られたかのように。だが、そのしばらくの間が終わると……女は、いつの間にか、自分が銃口を下ろしていることに気が付いた。

 魔力のようなものではなかった。あるいは科力のようなものでも。ただただ女は命令されていたのだ。デニーの、その、笑顔によって。そしてその命令は拝命されなければならないものであって、だから女は手を差し出していたのだ。胸にPGO-BGを抱えている方とは反対の手を、手のひらを上にして、デニーに向かって差し出して。デニーは、そんな女に向かって「よくできましたっ!」と笑いかけると。その手のひらの中に、あの白い指輪を、ぽとんと落としたのだった。

 残りの五人は。

 呼吸を止めて。

 見守っている。

 女は、戦闘服を肘のところまで袖まくりしていた。だから、その腕、指輪を受け取った方の腕、が、指輪が落とされた時に、ぞっと総毛立ったのが、ありありと見えた。本当に、そうっと、音を立てるかのように。腕の毛が浮かび上がったのだ。何かの熱病に、その瞬間に、感染したかのように。女は腕から震え始めた。ふるふると小刻みに。女は呆然としていた。自分が何に触れたのか分からなかったのだ。しかし、やがて、それが分かる。

 ただの、指輪。

 ただの指輪だ。

 何を恐れる必要がある?

 唐突に、はっという音を立てて息を飲み込んだ。女はやっと我に返ったようだった。手のひらの中に落とされたものを、初めて見るものを見るかのような顔をして、少し驚いているかのように目を見開いて、見つめる。

 女は……もう銃口を下ろしてしまったのだから、これ以上構えていても仕方がない。だからストラップで、アサルト・ライフルを肩にかけてしまうと。空いた手で、手のひらの上に乗っかっている指輪を持ち上げてみる。人差し指と親指で、恐る恐る摘まんで、日の光に透かすみたいにして、その全体を眺めてみる。どうということもない。何の変哲もない。ただの指輪だ。「磁器でできた白い蛆虫」の指輪。

 どうやら危険がないことを確認すると。

 女は、ようやく、警戒を解いたらしい。

「これ、見れば……」

 ちらりと、油断のない目を。

 デニーに向けてから、言う。

「パンダーラさま、分かるのか。おまえ、誰なのかということ。」

「そうそう、そーいうこと。」

「それで、おまえ、誰なのか、分かれば、パンダーラさま、会いたいと思うのか。」

「もっちろーんっ!」

 女は、指先で指輪を摘まんだままで、デニーの話した事柄について何かを考えていたのだが。少しするとその考えがまとまったらしい。それから……デニーに向かってではなく、テロリストっぽい恰好をした残りの五人に向かって、大きな声を上げた。叫んだというわけではなく何事かを命令した感じの口調だ。だが何を言ったのかということは真昼には分からなかった。女の発した言葉は、今まで話していた共通語ではなく、何か他の言葉だったからだ。

 基本的にはマラーが喋っていたのと同じような言葉だった。注意深く聞いていなければ全く同じものだと思えるくらいに似ている。けれども、マラーが喋っていた言葉がなんとなく「N」の音を強調していたのに対して、こちらの言葉は「R」の音が耳についた。「R」の音の、巻き舌になる部分で、舌を喉の方に押し込んでいるような。全体的に、聞いている方の喉が詰まってしまいそうな感じ。そんな言葉で女は話していた。

 とはいえ、話していたとはいってもそんなに長々と何かをしゃべっていたわけではない。必要最低限の状況説明と、一つ二つ指示を出したという程度だ。それから、女がその指示を出し終わると。残りの五人は、まるで猛禽類の鳴き声のように鋭い声で、その指示について了解したことを返事したのだった。ちなみに、そんな風にして他の五人に向かって話している間も、女はずっとデニーから視線を離すことはなかった。

 そして。

 その睨みつけるような視線のまま。

 女はまた、言葉を共通語に戻して。

 デニーに向かって、言う。

「私、これから、パンダーラさまのところに戻る。この指輪、見せてくる。おまえ、言った通り、パンダーラさま、おまえのこと、知ってるようだったら、私、連れていく。おまえのこと、パンダーラさまのところに。ただ、もし、パンダーラさま、おまえのこと、知らなかったら。それか、おまえと会いたくない、そう言ったら。その時は……私、おまえを殺す。」

 デニーは、特に、返事を返すこともなく。

 ただ軽く、肩を竦めてみせただけだった。

 女は、少しの苛つきを滲ませながら。

 言葉を続ける。

「私、パンダーラさまのところに行ってる間、この五人、おまえのこと、見張る。おまえ、少しでも変なことしたら、すぐ殺すよう命令してある。いいか、私、おまえに教えてやる。五人の銃、ただの弾丸ではない。フロギストン弾、使ってる。「賢い」おまえ、知ってるな? フロギストン弾、どういうものなのか。せいぜい、変なこと、考えるな。」

 案の定、女は「おまえ達」ではなく「おまえ」とだけ言った。その「おまえ」という言葉が指しているのは、もちろん真昼ではなくデニーであって、その事実だけでも、女が、どれだけデニーに対して怯えを抱いているのかが露呈しているのだが。ただ、それもまあ仕方がないことだろうと真昼は思った。

 一方で、言われた方のデニーは。女が「「賢い」おまえ」と言ったことに対して大変大変サティスファクションな気持ちになったようだった。当然ながら、ここで女が「賢い」と言ったのは、文字通りの意味というよりもむしろ当て付けとしての目的の方が大きかったのだが。絶対的強者に皮肉や当て付けが通じると考える方が間違っているのだ。というわけで、女の言葉に嬉しくなってしまったデニーは、すっごくご機嫌な口調で「はいはーいっ! 分かりましたっ!」と答えたのだった。

 当て付けが全く通じなかったことによって女は更に苛立ちを募らせたようだったが、とはいえ、いつまでもここでイライラしているわけにもいかないのだ。暫くの間、視線によって射殺そうとでもしているかのような(陳腐な表現ではあるがこのシーンに最適な比喩だ、視線だけで殺せるものなら女は間違いなくデニーのことを殺していただろうから)顔をして、デニーのことを睨み付けて。その後で、ちっと一つ舌打ちをすると、その視線をデニーから逸らした。ちなみに真昼はというと、そんな女のことを見て、その気持ちが大変よく分かった。

 それから、女は。

 先ほどの、言葉。

 共通語ではない言葉で。

 残りの五人に向かって。

 何かを、最後に言うと。

 まるで背後の風景に掻き消えるかのように。

 再び、その姿を、消してしまったのだった。

 デニーは、くすくすと笑いながら。

 女が消えた、その方向に向かって。

 小鳥が囀るような言葉、こう言う。

「いってらっしゃーいっ。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る