第一部インフェルノ #13

「お待ちしていました、ミスター・フーツ!」

 廊下がそうであったように、会議室もやはり昨日と全く同じ空間のままであった。白い色の壁、白い色の床、白い色の天井、中央のテーブルは輝く夜のように黒い色に潤んでいて。周りに置かれた九つの椅子、片側に三つ、片側に六つ、こちらはひどく浅はかなプラスチックの黒。

 それに、もちろん、六つの椅子のところ、昨日と全く同じ、舞台の上に立つ機械人形のような態度でそこに立っていたのは、ミセス・フィストと少女達だ。四人の少女に一つの空っぽの椅子、デニー達を迎えに行っていた、最後の一人の少女が、その空っぽの椅子の前に立って。

 これで、すっかり、全部、全部が、元通り! 本当に、一晩の間、あるいは十六時間の間。この会議室が、何か、全然冷たくない水晶の中に閉じ込められていて。今日の朝日が昇るとともに、その温度によってその水晶がたらたらと解けていって、その中に保存されていた空間、ミセス・フィストと五人の少女達が姿を現したとでもいわんばかりで。さて、ミセス・フィストは、昨日、デニー達と、別れた時と、全く、同じ、smileyのシニフィアンによって、デニー達を、迎えたのだった。

「あっ、ミセス・フィスト。はろはろー。」

「おはようございます!」

「ぐっどなもーにんぐだね。」

「ええ、とてもいい朝ですね!」

 とかなんとか、割合に適当な感じでミセス・フィストとの朝の挨拶を済ませると。デニーは机の反対側、三つの席の方へと向かったのだった。ところで、この会議室の中の全てのものが昨日の通りだと書いたのだが、ただ、実は、この三つの椅子だけは、デニー達がここを後にした時とは少しだけ違った位置に置かれていた。といっても大した違いではない。デニー達がここを後にした時には、この三つの椅子、立ったり座ったりしたせいで少しずれていたり、あるいは真昼がマラーのそばに自分の椅子を動かしたせいでちょっとばかり右側に寄っていたりしていたのだけれど。今日になって整然と並べ直されていたということだ。

 そのうちの、昨日と同じように、真ん中の椅子に。デニーはちょこんと座って。それから真昼は……これも、書く必要がないくらい昨日と同じ行動ではありますが、左側の椅子を掴んで、右側に持って行って。ただしその動作は、今日はそれほどがっという感じではなく、かといって穏やかというほどでもないのだが、ごく普通に椅子を持っていく人の態度であった。恐らく食べ物を食べたり一晩寝たりしたせいで多少は機嫌がよくなっていたのだろう。とにかく、真昼は左側に椅子を持ってくると、昨日と同じように、マラーと隣り合って座ったのだ。そして、最後に……これも、またもや、やはり、案の定、昨日そうであった通りに。デニー達が座ったことをきちんと確認したミセス・フィストと五人の少女達が、椅子に座ったのだった。はい、それではここまでで何回「昨日と同じ」と書いたでしょうか?

 椅子に座って。

 向かい合って。

 デニーと。

 ミセス・フィスト。

「さーて。」

「それでは。」

「continuation。」

「of。」

「yesterday's。」

「meeting。」

 昨日の交渉の。

 続きが始まる。

 ふと……真昼は、ちょっとした違和感に気が付いた。本当にちょっとしたことで、全くもって取るに足りない違いに過ぎなかったので。真昼は、自分がそのことに気が付いたということに驚きさえしたのだけれど。それは、つまりこういうことだった。ミセス・フィストの顔が、その顔に映し出されている仮面が、変わっていないということ。昨日の交渉開始時には、その仮面はsmileyからseriousryへと可及的速やかに移行していたはずなのに。今日は、交渉が開始されても、相変わらずsmileyのままだった。なんとなく……先ほどデニーから渡された、あの弾丸とともに。この違いもまた、真昼の心に不吉な予感を吹き込んだのであった。

 けれども。

 デニーは。

 そんなこと。

 ぜーんぜん。

 気にしないで。

「んーっ、で?」

 「んーっ」のところでぎゅっと目を閉じて。

 「で?」のところでぱっとその目を開いて。

 ぱーっと、きらきらするみたいな笑顔の横に。

 右の手のひらと左の手のひらを大きく広げて。

 ミセス・フィストに問いかける。

「はい、なんでしょうか!」

「ぴーったり十六時間たったよね。」

「正確には十六時間三分二十秒です!」

「と、いうことは!」

「と、いうことは!」

「あんさー、ぷりーず?」

 ところで、ここまで何度か触れてきたことではあるが。真昼は決して鋭いタイプではなく、むしろ鈍い方のタイプだ、そもそも人生経験が少ないし、その少ない人生経験もだいぶんと自堕落な生活であったのだから、鋭い人間になれるわけがないのだが。けれども、それでも、ここ一日ちょっと、アーガミパータで過ごした経験で、もしかしたら、ほんの少しだけ、鋭い人間になれたのかもしれなかった。というのは、デニーが「あんさー、ぷりーず?」と言った、その直後に。真昼は、意味不明の、全く理解できない、戦慄を、覚えたからだった。

 喉の奥で吸い込もうとしていた息が止まるほどの。思わず椅子のひじ掛けを強く掴んでしまうほどの。脊髄の反応としての、完全に本能的な震撼。全く訳が分からなかった、真昼が見たものは、別に恐ろしくもなんともない光景だったのに。ただ単に、ミセス・フィストが、椅子の下に下ろしていた手、右の手の動きと左の手の動きで寸分の違いもなく、左右の逆転以外は全く同じ動きで、ゆっくりと、ゆっくりと、テーブルに上げて。そうして、自分の唇の前で、音を立てないよう、静かに、静かに、指先と指先とを合わせただけだったのだから。

 指先の。

 向こう。

「提案を検討しました。」

「ありがとー!」

「残念ながら。」

 偽物みたいに。

 笑ったままの。

 唇が。

 動く。

「あなたが提示した条件を受け入れることはできません!」

「ほあー、どーして?」

「あなたが提示した条件は次の二点です。一点目、ワトンゴラにおける政府軍向けバーゼルハイム・シリーズ販売ルートの放棄。二点目、ワトンゴラにおけるピープル・イン・ブルー向けバーゼルハイム・シリーズ販売ルートの放棄。これらの条件が達成されれば、確かに現時点でのワトンゴラにおける兵器売買の67.4377188%(小数点七桁以下は省略しました)をコーシャー・カフェは放棄することになります。しかし、それはあくまでも現時点での話です。」

 ミセス・フィストの言葉に。

 デニーは、口に手を当てて。

 くすくすと。

 薄く、笑う。

「現在、パンピュリア共和国ハウス・オブ・ラブを仲介としてワトンゴラ政府とピープル・イン・ブルーの間で交渉が行われています。完全な秘密交渉であるため、メディアで取り上げられることは一切ありませんし、それどころか当事者である三集団の中でも限られた人間にしかアクセスできない情報ですが、あなたが知っているのと同じように私もそのことを知っています。さて、それではこの交渉が成功裏に終わり、ワトンゴラ政府とピープル・イン・ブルーの間で和平合意がなされればどうなるでしょうか? 当然ながらその合意にはブリスターが介入してくることになるでしょう! より正確にいえばミスター・シャボアキンが介入してくるということです。そしてミスター・シャボアキンが介入してくれば、その和平合意にSKILL兵器使用の全面的な禁止が盛り込まれることになるのはこれもやはり当然のことですね、ミスター・フーツ? となれば、少なくとも合意の当事者となるはずのワトンゴラ政府とピープル・イン・ブルーが表立ってSKILL兵器を買うことはなくなるはずです。ところで、このシナリオ通りに情勢が変化した場合、ワトンゴラ政府軍向け及びピープル・イン・ブルー向けバーゼルハイム・シリーズの売買額はどうなるでしょうか? 試算したところ、現在の2.1778635%(小数点七桁以下は省略しました)まで落ち込むとの結論に至りました! ということは、この情勢予測の下では、将来的にコーシャー・カフェが放棄する兵器売買は1.4687014%(小数点七桁以下は省略しました)に過ぎないということになります! これでは条件として適切ということはできませんよね、ミスター・フーツ?」

 そこまでを、言うと。

 ミセス・フィストは。

 一度、言葉を止めた。

 デニーは、少しだけ椅子を引いて。それから、テーブルの上に肘をついて、両方の手のひらでキュートなほっぺを包み込むみたいにして頬杖をついていた。にーっと笑った顔は、例えば……小さな虫けらが目の前でちらちらと動いているのを追いかけている時の、子猫みたいに可愛らしくて。そんな顔をしたままで、デニーは、とっても悪戯っぽくこう言う。

「んー、やっぱりバレちゃってたかあ。」

「ええ、もちろんです! ASKが知らないことはありません! ASKが目指しているもの、それは無限のインテリジェンスです!」

「あっ、じゃーさ! ついでに教えてくれるかな?」

「何をですか?」

「今のそのシナリオなんだけどー、ワトンゴラ情勢がそのとーりに進む可能性ってどれくらいなの?」

「97.1369999%(小数点七桁以下は省略しました)です。」

「へぇー。あっ、そー。」

 頬杖をついていた姿勢からぱっと起き直って。椅子の背凭れに寄り掛かるみたいにして反り返り、軽く組み合わせた指、体の前の方に向かってぐーっと腕を伸ばしながら。デニーは、ひどく興味深そうにそう言った。「じゃあ、シャビーちゃんが介入してくるのはほとんど確実ってことなんだね」といった意味合いのことを、紛うことなき独り言として呟きながら。フードの奥の方で、他愛もなく首を傾げる。

 それから。

 もう一度。

 ミセス・フィストに。

 言葉を向ける。

「それでー、それからー?」

「ということで、私としてはあなたの提示した条件を受け入れることはできません! あなたは他に条件を提示しますか?」

「他の条件? 例えば、どんな条件かな。ミセス・フィストは、何と引き換えにすればテレポート装置を使わせてくれるの?」

「それは真昼ちゃんです!」

 完全なる傍観者の気持ちで。

 その交渉を聞いていたので。

 いきなり、名前を呼ばれて。

 真昼はびっくりしてしまう。

 しかもあろうことか「ちゃん」付けだ。この会話の流れにそんなフレンドリーな要素ないよね? と思わないこともない真昼であったが、まあそれは置いておいて。真昼のような人間に特有の当事者意識の欠如が、ここでありありと浮き彫りになった形だろう。そもそも、この交渉の大前提として、デニーがミセス・フィストからテレポート装置の使用権を獲得しようとしているのは真昼の救出のためという事実がある。それならば真昼は傍観者などではなく、完全な当事者、それどころかこの交渉の主人公といっても過言ではないのだ。ということで、ここで真昼の名前が出てくるのはむしろ当然といってもいいくらいなのだが。それはそれとして……真昼が条件とはどういうことなのだろうか。

 真昼が、それを問いかける前に。

 ミセス・フィストが話を続ける。

「ディープネットが開発・製造しているバーゼルハイム・シリーズにはスペキエースについてのとても先進的な技術が使われています。そしてその技術は「完全秘密特許」としてファニオンズに登録されているため、その技術に関する情報は全く「赦免」されていません。ということは、その技術に関する情報を得るためにはディープネットから情報公開の許可を受けるか、もしくはディープネットから合法的に奪取するしかないということです。もちろん私もファニオンズからの「監査」受けているためこの事実の例外ではありません。そういうわけで、私は何とかしてディープネットからその技術に関する情報を得たいと思っています。

「真昼ちゃんがいれば! ミスター・フーツ、私は真昼ちゃんを必要としています! 昨日あなたから紹介を受けた通り、真昼ちゃんはディープネット常務執行役員兼グループ財務統括本部長である砂流原静一郎の娘です。ということは真昼ちゃんを使えばディープネット常務執行役員兼グループ財務統括本部長から何らかの情報を得られる可能性があるということです! もちろん砂流原静一郎の思考パターンから導出すると、真昼ちゃんと引き換えに何らかの情報を得られる確率は0.6666783%(小数点七桁以下は省略しました)しかありません。しかし真昼ちゃんを使った方法は他にもたくさんあります。そういうわけで、私はテレポート装置の使用と引き換えに、真昼ちゃんを要求します。」

 あたしと引き換えに静一郎が何かする確率って1%以下なの……? 常々薄情な人間だとは思ってたけど、それはさすがに薄情の度が過ぎない……? みたいなことを思わなくもない真昼であったが。ただ今はそのことについて詳しく検証している場合ではないようだった。段々と、この交渉の、雲行きが怪しくなってきているということ。そのことは真昼にも理解ができたからだ。

 ちらり、と横目でデニーの様子を伺ってみる。デニーは……なんと、というべきか、やはり、というべきか。デニーは、ひどく面白そうに、友達と何をして遊ぼうかと考えている子供のように、笑っていたのだ。顔を軽く上の方に傾けて、真っすぐに伸ばした人差し指で自分の喉に触れて。もう片方の手は、だらしなく肘掛けにかけている。それから、ミセス・フィストに向かって言う。

「真昼ちゃんが欲しいっていうのは、具体的にはどーいうことなの? デニーちゃんに、真昼ちゃんをここに置いて行けっていうこと?」

「はい、そういうことです!」

「えー、それは無理だよお。デニーちゃんは真昼ちゃんを助けにここに来たんだから! 真昼ちゃんをここに置いてったりしたら、デニーちゃん怒られちゃうもん。」

 それから。

 さも何かを考えていますと言いたげに。

 いかにも、わざとらしく、首を傾げて。

 言葉を続ける。

「じゃあさーあ、こういうのはどう? デニーちゃんが真昼ちゃんを助けることでディープネットから得られる情報の一部を、ASKと共有するの! それなら真昼ちゃんをここに置いていかなくても、ASKが情報をげっと!することができるでしょ? ASKが欲しいなって思ってるのは、真昼ちゃんじゃなくて情報なんだから。真昼ちゃん自身は、別にいらないでしょ?」

「残念ながら、その条件も受け入れることはできません。」

「えー? なんでさー!」

「その条件の下では、私が得られる情報は一部です。そうですね、ミスター・フーツ。」

「うん、そーだね。」

「全部ではありませんね。」

「全部じゃないよ。」

「それでは受け入れることはできません!」

 完璧な笑顔を、浮かべたままで。

 ミセス・フィストはそう言った。

 デニーは、テーブルの下。椅子の先で、足をぴーんと伸ばして。両肘を肘掛けから下ろして、お腹よりも少し上の辺りに当てて。胸のところでぎゅーっと両手を組み合わせて、その手に左頬をこすり付けるようなポーズ、何だかひどく他愛ない印象を受けるポーズをとりながら。芝居がかったみたいに、ほへーっと溜め息をついた。

「と、いうことは。」

「と、いうことは。」

「交渉は決裂ってことだね、ミセス・フィスト。」

「交渉は決裂ということですね、ミスター・フーツ。」

 水銀が凍り付いたみたいな。

 暫くの、空っぽな、沈黙。

 その後で。

 デニーは。

 ぴょこんと跳ねるように。

 椅子の上で、起き直って。

 そういえば、とでもいう感じ。

 ミセス・フィストにこう言う。

「でもさーあ。」

「はい、何でしょう。」

「なんで判断のために十六時間も必要だったの? ミセス・フィストさ、もー分ってたよね? 昨日の時点で。ぜんぶ、ぜーんぶのこと。それで、ぜんぶ分ってたなら、交渉がどうなるのかーなんてことは、答えは一つしかないよね。じゃあ、十六時間もいらなかったんじゃない? 昨日、あの時に、交渉を終わらせておいても、ぜーんぜん良かったんじゃない?」

 その問い掛けに、ミセス・フィストは、自分の唇の前で合わせていた十本の指。右の五本の指と、左の五本の指を、すっと離して。デニーの方に向かって手のひらを見せるみたいにして、両手を広げて見せた。それは、いうまでもなく、大した動作ではない。それなのに、その動作は……真昼には……まるで……何か……プログラムによって制御された死刑台みたいに思えて……ミセス・フィストは、デニーに向かって言う。

「知っているでしょう、ミスター・フーツ!」

「まーね。でも、聞いとこうかなーって思って。」

「それでは、こうしてはどうでしょうか!」

「えー、どうするの?」

「その問い掛けに対する答えを、私とあなたで同時に言ってみるのです!」

「同時に? わー、面白そうだね! やってみようっ!」

「準備はいいですか?」

「いいよっ。」

「せーのっ!」

「せーのっ!」

「「戦闘計画の策定。」」

 そして。

 霊黒。

 真濫。

 楽些。

 糖虚。

 雑誤。

 蛍諦、鳴諦、星諦。

 それに、永諦。

 まず動いたのはミセス・フィストだった。といっても、ミセス・フィスト自体の動きはどうということのない動きだった。開いていた両方の手のひら、その十本の指を、軽く曲げただけだ。傾げるように、招くように、自分の側からデニーの側に、くっと差し向けただけ。だが……その手の動きに、連動して、連関して、従属して。ミセス・フィストの背後、五枚の絵画のような静寂のままで停止していた五人の少女達が、一斉に行動を開始したのだ。

 まるで電子制御されたレガトン反動弾のような荒々しさだった。精密に、精巧に、偽装された破壊の衝動。それは炎の獰猛ではない、氷の残酷だ。自分達が座っていた椅子を、完全に同期した正確さにおいて蹴倒して。それから、そのまま、五体全員がデニーに向かって突っ込んでいく。もちろんだ、当然だろう、デナム・フーツに対して下手な小細工をしても無意味だ。戦力を分散させたとしてもこちら側が不利になるだけで、全力を一点に集中させるやり方が一番効率的で一番論理的なやり方なのだ。ほとんど無限の知性とほとんど無限の知性が対峙する時には、知性の量り合いをする意味がない。得てして、何もかもが単純になりやすく……今回も、その例に倣ったということだろう。

 一方で、デニーは。その首を、こんな状況下でも可愛らしく傾げた後で。ぱーっと万歳のポーズ、上の方に向かって両方の腕を伸ばした。まるでお手上げでもしているかのように……いや、違う……これは……デニーが、手を伸ばした方向に。つまり、デニーの、頭上に。何か、黒々とした穴が開いていた。何もない空間にぽっかりと開いた、直径一ダブルキュビト程度の、穴……その黒い色を果たしてなんと表現すればいいのだろう? それは、間違いなく悪意であった。純粋で、無垢で、無邪気で、稚い。ああ、それは、果たして……端的にいえば、呪い。この世界が、この世界となった時に。この世界に放たれた呪いが、美しく、冷たく、凝固したもの。それが、その色であり、その穴であった。

 そして、デニーは、その穴に両手を差し入れていたのだ。まるで自分の体を引き裂いて、その中から柔らかく腐った心臓を取り出すみたいに。デニーが、その穴から、二つの手を、引き抜いた時に……その両手には二挺の拳銃が握られていた。甘い悪夢を見続けているような禍々しい赤、つまり赤イヴェール合金によってフレームを形作られた拳銃。かなり旧式の、恐らく第二次神人間大戦の頃に使われていたタイプと思われるリボルバーで。そして、デニーのような可愛らしい男の子が持つにはあまりにも不似合いの代物だった。なぜなら、それらの拳銃は、異様に頑丈で、異様に堅牢で、異様に重厚だったからだ。元から人間の手によって持たれることを想定されていないかのような設計、まるで手のひらの中に無反動砲でも収まっているみたいに。

 デニー、は。

 二挺の拳銃。

 一丁ずつに、ちゅっ、ちゅっ、と。

 キュートな口づけを落とした後で。

 その巨大で過重な拳銃。

 五人の少女達に向けて。

 楽し気に。

 ぶっ放す。

 お気に入りのおもちゃで遊ぶ子供、ばんばんばーん!という感じでめちゃくちゃに乱射しているようにも見えるが。しかし、それでいて、その射撃はぞっとするほど正確だった。それらのリボルバーは二挺ともが九発の弾丸を込めることができるタイプのものだったのだが。デニーが発射したのは右側の弾丸のうちの一発と左側の弾丸のうちの五発であった。

 まず、右側の。

 一発について。

 これはミセス・フィストを狙ったものだった。その弾丸は……明らかに、金属でできた弾丸ではなかった。それどころではない。強化プラスチックでもなければ宝石でもなく、ゴムでもなければ、もちろん木材でもない。そもそも物質ではなかった、それは、何か、美しい、光。その光は、この世界の初めの業火よりもなお灼熱で、この世界の終りの氷河よりもなお凍冷であろう。見るもの全てに崇拝の感覚すら抱かせるほどの真聖な光。いや、果たしてそれを光と呼ぶのが正しいのだろうか……それは……光というよりも……振動。この世界の根底を震わせる態度にも似た、最も原初で、最も根源の、振動。はっきりいえば、要するに、恐怖だったのだ。この世界を支配する、二つの原理のうちの一つ。理の外側にある理、混沌の原理。完全なイーヴィルと相似形であるところの粒子、絶対的な意理現象。

 つまり。

 それは。

 セミフォルティアの弾丸。

 物理的に不可能と思われるほど完全な直線経路を通過して、その振動はミセス・フィストへと向かう。だが、当然ながら、ミセス・フィストはそうなることを知っていた。今日この場で起こるはずの全ての出来事は、透徹された論理の下に、予めシュミレートされていたからだ。そして、そのシュミレートに従って、十六時間の計算のもとに計画された戦闘計画の通りに。ミセス・フィストは、自らの体内に埋め込まれている転送装置を起動して。それから、セミフォルテアの振動が、その身体に到達する直前に、この会議室から、完全に、姿を消したのだった。

 次に、左側の。

 五発について。

 これらの弾丸は、いうまでもなく五人の少女達を狙ったものだ。こちらの弾丸は……どうやらミセス・フィストに向けて発射された物とは少しばかり違うもののようだった。確かにこちらも光り輝く弾丸であって、光によって構成されていたが、どちらかといえば振動というよりも物質に近いようだ。光が、絶対零度の下で、結晶化したような。その結晶の中では、何か、文字のような、記号のようなものが、ふわふわと揺らめいていて……そう、その通り。これは、この会議室に入る前に、真昼に手渡されたあの弾丸と同じものだったのだ。

 それらの弾丸も、やはり非常識なほど真っすぐに標的へと直進していって。だが、五人の少女達は、ミセス・フィストのように、この会議室から別の場所へと短距離テレポートをすることはなかった。それらの弾丸を回避しようとする素振りさえ見せることなく。そのまま、デニーに向かって、つまり五つの弾丸に向かって、突進していって。

 その。

 次の。

 瞬間。

 衝突の。

 直前に。

 少女達の体。

 ぱしゃんと。

 溶ける。

 あたかも液体のように。液体? いや、違う、少女達の体は、何十億個、何百億個、何千億個もの、極小の立方体に分裂したのだ。まるでスリムニーか何かみたいに可塑的になった五人の少女達の身体は、五つの怒涛、少女の怒涛のような姿となって。それから、くるんと踊るようにして。四散というべきか、五散というか、とにかく限定された範囲ではあるがその身体を散らばせた。

 弾丸は、打ち抜くべき対象が様態を変化させてしまって。しかも、その弾道から逃れてしまって。どうしようもなく虚空を引き裂いていく……ように、見えた。もちろん、そう見えただけだ。そんなわけがない、魔学者の放った弾丸に何の仕掛けもしていないわけがない。それらの弾丸が、跳ねたり歪んだりして回避した少女達、飛び散った怒涛に対する、可能最近接点まで到達した時に。

 デニーは。

 コッ、という音を立てて。

 舌を、弾いて、鳴らした。

 その瞬間に、その音に反応して。五つの弾丸が一斉にエクスプロードした。凍り付いていた光、内側から暴走するなんらかの力に耐えきれず、一瞬にして溶けてしまって。そうしてそれらの弾丸は、その周囲に向かって、自分達が秘めていたものをぱっとぶちまける。秘めていたもの、秘めていたもの。いつだって、この世界に秘められたものは、「それ」ではない「それ」、象徴ではない象徴、によって明かされる。

 さて、魔学について。「英雄の時代」に生きる人間達はどうやら根本的に勘違いしているようだが、魔学と科学とは完全に異なった学術体系というわけではない。少なくとも、リュケイオンの創設者であり「魔学の父にして科学の父」でもあるゼノンによって魔学十二科及び科学十二科として体系化されるまでは、それらの二つの学問は一体化した一つの法則学だった。ただし、この一つの法則学が二つに分かたれるにあたって、当然ながら、何の理論もなくでたらめなシスマが行われたというわけではない。この二つの学問について、ゼノンは、端的に、次のような言葉で表している。「科学は冷酷の方法であり魔学は傲慢の方法である」。そう、つまり魔学とはヒュブリスの学問なのだ。

 この世界の内側に含有されている法則を扱う科学とは違い、魔学はこの世界の外側に秘されている法則を扱っている。つまり、私達のものではない幸福を私達が信じるということだ。存在と概念とが、まだ生命を介在として一つになる前の法則。それを露呈させ、自分のための論理とする。簡単にいえば二つの工程から成り立っている。「名前からの解放」と「名前からの拘束」。ああ、何たる驕り、何たる侮り。名前を持つことが原罪の証明であるとするのならば、それは間違いなく賢しらなる贖罪であって……そう、その通り。それは記述されるべきではない事柄を記述する言語についての物語である。それゆえにリュケイオンにおいては、全ての魔学の基礎として詩学からその学を開始するのだ。

 従って。

 デニーが放った。

 その弾丸は。

 名前の弾丸。

 くるくると、暗くない夜にステップするダンスのような態度。図形と文字とが密やかに笑っている。ぶちまけられた「名前」は、次第に一つの詩の形を構成していき……曲線は円となる。直線はその縁に内接する九角形になる。そして、更に、その内側で、九つの三角形は九芒星へと一体化する。これが「大罪の詩行」の基本形であるエニアメトロスだ。大罪者数の九より成り立つこの詩行が意味するところは、例えば「罪食い」。罪ある者の罪を食らい、その罪を身の内に閉じ込める。

 もちろん純粋なエニアメトロスによって閉じ込められるものなんてたかが知れている。拘束者と非拘束者の間によほどの魔力か精神力かの差があるというのならば別であるが、そうだとしても、詩は美しくなければならないのだ。美しくなければ優雅でなく、美しくなければ賢明ではない。そして、デニーちゃんは、優雅で、賢明な、生き物であるのであって。その声が歌う詩は、何よりも、何よりも、美しくなければいけない。

 直線が、曲線が、九つの詩行を修飾していく。円を、九角形を、九芒星を、でたらめに、めちゃくちゃに、それでいて甘美に、装っていって。巨大なエニアメトロスの内側には、更に九つのエニアメトロスが配置されるのだ。それから、それから、何よりも、ホビット文字だ。リンガ・ゲバル・ホビッティカ、高等四種のうちで最も賢い生き物であったとされるホビットが使用していた言語。それは、それ自体が法則であるところの言語。それ自体の法則を法則としている言語。無論、ケレイズィの使っていた「完全なる言語」よりは劣っているが……「完全なる言語」は理解できるものではない(まあデニーちゃんは賢いから理解できるんだけど)。それに、あまりに力が強すぎる、この世界に生きるものにとっては、ホビット文字で十分なのだ。そのホビット文字、力を持つ文字が、ある言葉を、ある象徴を、ある秘密を明かしていく。その文字は羅列され、次第に一つの言葉となっていって……

 そして。

 それから。

 その言葉の

 その意味は。

 ああ。

 恐れよ。

 「磁器でできた白い蛆虫」。

 その五つの詩は、あるいはもう少し下位のタクソンによって呼ぶとすれば、その五つの魔法円は。ぽんっと、可愛らしく、広がって、そうしてその周囲に飛散する極小のキューブを次々に絡めとっていく。まるで蜘蛛の巣のように、まるで掃除機のように、まるで投網のように。魔法円によって定義された空間の中に、キューブを取り込んで、食らっていくのだ。

 当然ながら少女達もされるがままであるはずがない。少女達はただの少女達なのではなく、ミセス・フィストの少女達なのであって……キューブの一つ一つが奇妙な角度に回転する。そんな角度がこの世界にあったとは信じられないような、三次元を超えた方向、観念重力が導く方向へと。その角度によってキューブは光を発し始めて、その光は、キューブの六つの面に、次第に、次第に、図形を描き始めて。その図形は特定の基本形を持たず、対象の詩に対するパロディーの形で歌われる。つまり、これは復讐の詩行。対抗詩イアンバスだ。

 魔法円と。

 キューブ。

 互いの傲慢なる力によって。

 互いを屈服させようとして。

 その光景は繊細な金属片を爆発させた花火にも似ていた。キューブの一つ一つは魔法円の定義する空間の中でぱちぱちとスパークルを放つ蝗の大群。分からないのか? 低能、低能ども。少女達とて、全ての拘束を破れるという結論を導き出すほどに愚かな計算機械ではないのだ。光り輝くキューブをサンダルキアを海の底に沈めた洪水にも似た二つの奔流へと構成し直して。そして、拘束のうちの二つを一気に破壊した。

 破壊し切れなかった残りの三つの魔法円によってかなりの部分が奪い取られてしまったのだけれど。まだ五つの身体のうちのおよそ五分の二、より正確にいえば39.1237985%(小数点七桁以下は省略しました)は残されている。ちなみに、拘束されたキューブの部分はその魔法円の内部で即座に再構成されて……奇形の少女の姿へと凝固した。例えば片方の足がなく、指先に半分の眼球が埋め込まれ、額から手が生えているような。きっとそれぞれの拘束の中で、ばらばらになった数人の少女の欠片がめちゃくちゃにまじりあってしまってこのような形になったのだろう。

 その奇形の姿に向かって。

 デニーは次の行動をとる。

 右の拳銃。

 セミフォルテア弾の拳銃を向けて。

 速やかに三発の弾丸を放ったのだ。

 無論、「この状態」のデニーが少女達を壊せるはずがない。そんなことはデニーも分かり切っている。とはいえ、ある程度の無効化は不可能ではないのだ。空間という概念自体を切り裂いて飛んでいって、それから、セミフォルテア弾は、奇形の少女の三つの身体に衝突する直前に急激にショットする。例えるならば散弾銃によって放たれた散弾のようにして。そして、少女達の全身に、晴れた日に虹を濡らす雨のごとく降り注ぐ。

 そのまま魔法円ごと少女達の身体は吹っ飛んで行って。凄まじい勢いで白い壁に激突した。奇形の姿のそこら中に、この世界を根底から揺るがしかねないほどの意理の振動、セミフォルテア弾の破片が突き刺さっていて。つまるところその全身が、一時的に、観念の場に釘づけにされる形になったということだ。少女達の傷口からは、不可思議な機械仕掛けが露出して、がりがりと、紫色に光る、まるで静電気のような閃光が走ってはいたのだが。それでも、この程度で機能停止するような脆弱な作りではない。魔法円の拘束が解ければ、すぐさま全ての傷口は回復するだろう。とはいえ、けれども、残念なことに、魔法円の拘束を解くためにはそれなりの力を必要とするのであって。半壊しているこの状態ではそれほどの力は出せない。よって拘束を解くには随分と時間が掛かるだろう。

 ということで。

 少なくとも、三体の少女を。

 一定時間、無力化したのだ。

 残りの少女の数は二体。正確にいえば、39.1237985%(小数点七桁以下は省略しました)。その二体の少女達は、キューブの洪水の姿のままデニーの方へとなおも突進していって。それからデニーに激突する寸前になって、その突端の方向からにわかに身体を具体化し始めた。だが、それは既に少女の姿ではなかった。それは、少女の体二つ分の体積を持つ……巨大な、触手の塊。

 ダメージを受けた少女達の、あの傷口から放たれていた紫色の静電気、と、全く同じ色をした、大量のチューブの集合体だった。よく見てみるとそのチューブの中に、光の粒子のような、光の波動のような、紫色の液体が閉じ込められているらしい。その液体が、チューブの外側に向かってエネルギーを放っているのだ。ということで、そのチューブに触れることは、そのエネルギーの浸食を受けることであるらしく。チューブが通過した空間は、何か、奇妙な、ぐにゃぐにゃとした歪みを帯びているように見えた。空間を構成する最も重要な何らかの構成要素を、決定的に汚染する紫のエネルギー。それが、悍ましいほどたくさんの触手の形をとって、デニーに襲い掛かってくるということだ。

 けれどもデニーにとっては。

 些細な日常のワン・シーン。

 ここに至って、というかこうなる少しばかり前に至って。とうとうデニーは椅子から立ち上がった。というか、先ほどの少女達がしたのと同じように、椅子を蹴倒すみたいにして跳ね上がったということだ。テーブルの上に飛び乗って……テーブルの上の、真昼の眼前、真昼に向かって攻撃を仕掛けてくる何者かの盾となるように。もちろん現段階では少女達の攻撃目標はデニーなのだが。とはいえ、とっても賢いデニーちゃんは何手か先を読んでいるということなのだ。とにかくデニーはテーブルの上で、少女達を、触手の群れを、待ち受ける形になる。

 状態を低く保った姿勢によって重心を心持ち下の方に落として。それからデニーは、左手の拳銃によって、詩弾の拳銃によって、躊躇うこともなく……自分の両足を打ち抜いた。文字通り打ち抜いたのだ。その弾丸は足の甲を貫通して、足の裏にまで至って。だが、デニーの足には傷一つついておらず、その代わりに……デニーのローファー、その靴底に魔法円が展開する。

 詩の発動は基本的にはその詩を析出した者の意思に依存している。精神力が析出者よりもよほど強い者であれば自分のものではない詩を勝手に発動させることも可能であるが、そんなことは滅多に起こることではない。ということで、その詩弾は、自分の足を傷つけようとする意思のないデニーの足を傷つけることはなかったということだ。その代わりに魔法円はローファーに装備されることになって。そして、その魔法円は、先ほどとは少しだけ違う詩形をとっていた。

 基本的な詩行、エニアメトロスは同じなのであるが。その九という数字以外の部分が微妙に異なっているのだ。先ほどの魔法円は「罪食い」の魔法円だった。だが、大罪者数には、拘束以外にも様々な意味がある。猟犬数や王数と同じように比較的汎用性の高い数字なのだ。ということで、今度の魔法円は、「奇跡盗人」。世界によって与えられた何らかの種類の恩寵。他人のものであるはずの恩寵を己のものとするための魔法円。

 デニーは。

 魔法円が膠着したローファーを。

 するっと、テーブルに滑らせて。

 それから。

 そのまま。

 紫色の触手。

 思いっきり。

 蹴り飛ばす。

 「要素」を捻じ曲げる触手のエネルギーは、あしらわれ、受け流されて、どうやらデニーを傷つけることはできなかったらしい。その代わりに、そのエネルギーは……ほんの一部分。デニーのローファーによって蹴り飛ばされた部分だけではあるが。するっと、触手の内側から「盗み出さ」れて、魔法円の所有のもとに置かれてしまったのだ。

 そんなわけで、触手のその一部分だけはただの触手となってしまった。ということは、デニーの攻撃の効果を受けてしまうということだった。デニーのしなやかな蹴撃は、非常に適切な量のエネルギーを衝突させて。そして、その触手の塊は、先ほどの三人の少女達と同じように、白い壁に向かって吹っ飛んでいくことと相成ったわけなのだ。

 さて。

 永諦の瞬間から

 今、この時まで。

 その全ての出来事は。

 実は。

 涅槃静寂、あるいはヨクトを単位として。

 少なくとも、人間が解知できる速度を。

 遥かに超えた速度によって起きたこと。

 当然ながら、真昼がその出来事について何らかの確認を行うことができたわけもなく。気が付いた時には、その一瞬の最初から最後までが過ぎ去ってしまっていた後のことだった。ということで、デニーとミセス・フィストとが声を合わせて「戦闘計画の策定」と言った後で、真昼が初めて認識することができた光景は以下のようなものだった。

 まずテーブルの上、目の前には、デニーが着ているスーツの背中が見えていた。そのひどく華奢なスーツはどうやらテーブルの上に屈みこんでいるようで……襲撃を放った後のデニーが、滑らせた足を軽く伸ばして、軸足を少しだけ曲げて、銃を持ったままの左手をついていたということだ。銃? そう、デニーは銃を持っていた。右手にも左手にも、どうやら赤イヴェール合金でできている銃らしいのだが。そういえば、先ほど何やら銃声のような音が聞こえたような気がする。でも、それが銃声というのならば、あまりにも、あまりにも、それは澄んでいるように思えた。爆発音というよりも、何かの結晶がぱきんと割れる時の音のような。

 それから、その両足には何かが纏わりついていた。がりがりと弾けている、紫色の電撃のようなもの。電撃。の。ような。けれども、それは、どことなく見定めがたい何かだった。その電撃が弾けている周囲の空間が、陽炎のようにして歪んでいるせいで、何となく視線がぼやけてしまうのだ。そんな紫のエネルギーが……この白い空間には、あと四つ存在していた。そのうちの三つは、少女の姿をしていた。いや、違う。え? 違わない? それは、少女なのか、少女でないのか。真昼には判断が付きかねた。ついさっきまでは、少女達は。多少は人間離れした無表情であったものの、それでも、マジョリティ的な人間の形をしていた。髪の毛、二つの目、二つの耳、鼻、口、首、胴体、二本の手、十本の指、二本の足、またしても十本の指。ごく多数派的な、人間理解のベースメントとなる姿。ところが、今の少女達は。少しばかり、そういった姿からはかけ離れた姿をしていたのだ。どういう姿をしていたのかということは少し前の描写をご参考下さい。

 それから、四つ目の、紫のエネルギー。それは真昼から見て真正面の壁。その白い壁の下のところにごっそりと蹲っていた。べたりべたりとのたくって奇妙な周波数でふるふると震えている。あれは一体何なんだろう? 真昼がそれを見た時に、一番最初に思い出したものは……あれだった。あれですよあれ、イヤホンとかパソコンの電源コードとかの絡まりやすいものを一緒に置いておくと、何だか知らないけどぐちゃぐちゃに絡まってることあるじゃないですか。あれです、あの絡まりまくった塊。あれってなんでああなるんでしょうね? 外部からは何の力も掛かってないはずでしょ? だって普通に置いといただけなんだから。なのになんで絡まるの? 有り得なくない? どう考えてもエネルギー保存の法則に反してるだろ。生命誕生の神秘と同じくらいに謎なんですけど……いや、ごめん。全然関係ないですね。とにかく、その塊は。どろどろと蠢動する触手の塊であった。そして、その触手の塊は、なんだかよく分からないうちに、ぐちゃぐちゃと蠢きながら、一つの塊から二つの塊へと分裂を開始していて。

 しかしながら。

 今。

 真昼、には。

 そのことを。

 気にしている暇など。

 ないのだ。

「真昼ちゃん!」

 現在の状況を、未だ理解できていないうちに。

 目の前のデニーが、くっと首だけ振り返って。

 真昼に向かい。

 大声で、叫ぶ。

「あれ飲んで!」

 あまりにも急激に状況が変化したために、ほんの瞬間、一秒未満の間、「あれ」という言葉が指しているものが何なのか分からなくなってしまったのだけれど。それでも、さすがにここ数日の諸々のせいで修羅場慣れしてきたらしい、すぐさま気持ちを持ち直すことができた。「あれ」とは、つまり、この会議室に入る前にデニーに手渡されたあの弾丸のことだ。こういう危機的状況下ではデニーに逆らっている場合ではないということくらい真昼もよくよく学習している。なので真昼はすぐさまポケットに手をやってあの弾丸を取り出そうとする。

 そして。

 その時。

 ようやくのこと、真昼は。

 本当の「現在の状況」を。

 理解することになる。

 腕が動かない。というかそれをいったら脚も動かないし、何なら体のほとんどの部分が動かない。一体、これはどういうことなのか? 首は辛うじて動くようなので、真昼は何とかして自分の体を見下ろすと……真昼は、自分が、何かのホログラムのようなもので覆われていることに気が付く。

 先ほどまでは気が付いていなかっただけで、自分のこと、それに自分のすぐ周囲を見回してみると。自分が、そのホログラムのようなもの、で作られた、立方体の折の中に閉じ込められていることに気がついた。真昼の座っている椅子を、一辺が一.五ダブルキュビト程度の正方形が囲んでいて。その正方形からホログラムのようなものが投影されているのだ。ホログラムのようなもの、と先ほどから何度も書いているが、それは、例えば、ひどく正確な多角形に切り取られた虹の、でたらめなパッチワークと表現した方がいいかもしれない。ぼんやりとした、二次元の、いやに毒々しい光。それが様々な多角形の形になって真昼の体のところどころを照らし出しているのだ。その光のせいで真昼は動けないということ。

「デナム・フーツ!」

「なに、真昼ちゃん!」

「動けない!」

「知ってるよ!」

 デニーは既に真昼の方を向いておらず、紫色の触手の方をしっかりと見据えながら、リボルバーへの装填を行っていた。ラッチを押して、シリンダーをスウィング・アウトさせて。セミフォルティア弾も詩弾も薬莢を必要としない弾丸なので(弾丸自体のエネルギーもしくは射撃者の魔力によって発射される)空薬莢の排出は必要ない。右側に四発、左側に五発、発射した分だけの弾丸を装填して。

「デナム・フーツ!」

「い、えーすっ!」

「動けないんだってば!」

「知ってるってば!」

「動けないと、飲めないの!」

「飲めないって、何が!」

「あんたからもらったあれ!!」

 それくらい分かれよと思わなくもない真昼であったが、そのことを口に出していうほど愚かではなかったようだ。真昼はそれほどASKについて詳しくないので、今の状況が具体的にどういう状況なのかということについては分からないが。とはいえ、それでも、何だかとてもヤバそうだということは分かったからだ。真昼の視線から真っ直ぐ、例の触手の塊は。今ではすっかり二つに分裂していて、だんだんとまた次の形態を取り始めていた。次の、というか、元の、というか。要するに、触手と触手とは束なり合って、二人の少女の姿に戻ろうとしていたということだ。

「名前!」

「名前!?」

「名前を言って!」

「誰の名前だよ!?」

「賢しらなる者の名前!」

「何それ、知らないよ!?」

「ほえー、真昼ちゃん知らないのお? んもー、真昼ちゃんってば、ほんとーに……」

「いいから! 早く! 教えて!」

 何だか知らないけれど唐突に緊迫した空気をガン無視して真昼を煽りにきたデニーに向かって、真昼はとうとうブチ切れて叫んでしまう。まあ、これについては真昼に幾分か分がないわけではないが、それにしてもデニーちゃんはデニーちゃんなのだからこれくらい可愛いのは仕方がないのではないか? とにかく、デニーは、その名前を真昼に教える。

「ニコライ・サフチェンコだよ、真昼ちゃん!」

「サフチェンコって、ノヴィ・レピュトスの……?」

「それは後で教えてあげるから! 早く名前を言って!」

 そう、今は、そんなことを。

 説明している暇はないのだ。

 だから。

 真昼は。

 教えられたその名前。

 何も分からないまま。

 大声で。

 叫ぶ。

「ニコライ・サフチェンコ!」

 デニーが小声で「んー、そんなおっきな声で叫ばなくてもいいんだよ真昼ちゃん」みたいなことを言っていなくもないような気がしたのだが。今はそのことについて検討している余裕はなかった。真昼がその名前を叫ぶとともに、真昼のポケットの中から、何か、とても、とても、禍々しい、「力」が放出されたのだ。真昼は、魔力がどんな力であるのかということは知っていたので、その「力」が魔力であるということは知っていたのだが。それが何の魔力なのかということまでは分からなかった。それは、真昼が、これまで、一度も、感じたことのない力であって…そう、それは間違いなく「大罪者」の魔力。放出元は、いうまでもなく、デニーからもらったあの詩弾だった。

 その禍々しい魔の力によって。

 ホログラムの光を打ち破って。

 それから。

 その詩弾は。

 ふわり、と。

 浮かび上がる。

「うわ……」

 真昼の口から、声が漏れる。詩弾は、そのまま、真昼の目の前に浮かび上がって。そして、その姿を真昼に見せたのだ。何か……明らかに普通の光ではない、濁ったような、どろどろした光を放ちながら。真昼がひどく嫌そうに「うわ……」と呟いたことに対しては、きっと読者の皆さんも完全に同意できることだろう。こんな……毒々しいというか……体に悪そうな……ものは。どう考えても口に入れたくはない。

 しかし、真昼には。

 選択肢はないのだ。

 首は何とか動く、それはさっき書いた通りだ。だから、真昼は。目をつぶって、があっと口を開いて。その首を、デニーから渡された詩弾、禍々しい詩弾の方に、思い切ってぐいっと伸ばす。舌の先に何かが触れる感触、楽園を満たしていた暗く広い海のように、夢を蒸発させて製糖した砂糖の甘さ。すーっと息を一つ吸ってから、がちんと口を閉じる。

 飲み込む。

 蛞蝓が、喉の内側。

 這うような感触が。

 次第に次第に。

 体の奥の方に。

 落ちて行って。

 そして。

 その弾丸は。

 美しい詩を歌う。

「は?」

 真昼は思わず声を出していた。いや、勘違いしないでほしい。真昼が、そのあらゆる感覚に、何かを感じたわけではない。そうではなく、真昼が何も感じなかったにも拘わらず、そのことが起こったことに対して、真昼は「は?」と言ったのだ。

 真昼が詩弾を飲みこむと。その直後に、ぱんっと音を出すみたいにして、真昼を縛り付けていたホログラムが弾け飛んだ。もちろんホログラムなので本当に音が出ていたわけではないのだが、それでもその音が聞こえそうなくらいいきなり消え去ったということ。それから、真昼の全身に……何かが浮かび上がっていた。傷跡のように刻み付けられた無数の闇。円と九角形と九芒星のエニアメトロス、曲線と直線、それにホビット文字。その魔法円、それらの魔法円が表しているのは……そう、「賢しら」。あらゆるものを、隠されているべきものさえも、解き明かしてしまう、賢しらの罪。

 もちろん真昼本人に「賢しら」を与えるわけがなく、その「賢しら」は魔法円の内側に保留されている。とはいえ、それでも十分用をなしていた。真昼の全身、ところどころに浮かび上がった魔法円が、真昼を閉じ込めていたホログラムの檻を、ASKがコンポジションした光の方法から理解して、その方法を逆転した闇を投射したのだ。それによってその牢獄は破壊されて、真昼は無事に解放されたということだ。

 そして、解放された真昼が?

 一番最初に、気にした者は?

 その問いに対する答えは、それは、本当に、分かり切った答えだ。もちろん、いうまでもなく、自分の左隣にいたマラーのこと。そのマラーはというと、椅子に座ったまま、先ほどまでの真昼と同じようにしてホログラムの牢獄の中に閉じ込められていた。真昼の肉体は、真昼の思考が介在する余地さえもないうちに、椅子から立ち上がってマラーの方へと駆け寄る。

「マラー!」

「え!? 真昼ちゃん何してるの!?」

 真昼の姿が横目にちらっと入り込んだらしく、デニーが叫ぶように呼び掛けた。けれどもデニーの声をAとして真昼の耳をBとした場合、基本的にAはBに届かないか、AはBに無視されるというパターンが多い。そんな基本的パターンに忠実にのっとって、今回のAもBに届かなかったか無視されるかしたようだ。真昼は答えを言おうとする素振りさえもせずにマラーが閉じ込められた牢獄へと駆け寄る。

 当然のことながらマラーは真昼よりも状況がよく分かっていなかった。いきなり自分が何だかよく分からないものに閉じ込められて、その上、優しくて自分を守ってくれる女の人(真昼のことです)から隔絶した空間に置かれてしまって。しかもちょっと怖いけど自分を守ってくれる男の人(デニーのことです)は何だかよく分からない紫色のぐちゃぐちゃと戦っている。何だかよく分からないことばかりの状況の中で、自分がとても危険な状況にあるということだけは分かっている人間が、大抵の場合することをマラーもしていた。要するに叫んでいたということだ。

 なんと叫んでいるのかは真昼には分からなかった。カタヴリル語だったからだ。デニーちゃんは分かるけどね、それはともかくとして、真昼は駆け寄ると……いや、真昼が駆け寄っても。マラーの檻には何も起こらなかった。真昼は、どこか無意識のうちに、自分の閉じ込められていた檻を破壊したみたいにして、マラーの檻についても、全身を覆うように描かれたこの魔法円(魔法円という概念くらいは真昼も知っていた)が破壊してくれると思っていたのだけれど。残念なことにそんな奇跡は起こらなかった。

「デナム・フーツ!」

「真昼ちゃん! 危ないよ!」

「この子を……この子を、何とかして!」

「デニーちゃんの後ろに隠れてて!」

 二人の話は喜劇的なほどに噛み合っていなかったが、この緊急の状況下ではそれも仕方がないだろう。デニーと話していても何の役にも立たないと見切りをつけて、真昼は自分でなんとかすることにする。いや、なんとかするって。こんな危険な状況なんだから早くデニーの後ろに隠れた方がいいのでは?

 一体……一体、どうしたらいいのだろうか? 真昼の頭はそこまで回らなかったのだが、恐らくは次のような理由によってデニーの魔法円はマラーの檻を破ることができないのだろう。まず大前提として考えなければいけないのは、この檻がASKの作った檻だということだ。ASKがどういう企業かということは既に書いたのでここでもう一度触れることはしないが。そんな企業が、しかもアーガミパータの製錬所に設置した拘束システムである。これは、絶対に、生半可な知性で解ける問題ではないのだ。ということで、デニーの作り出した魔法円は「真昼を拘束した檻」の一点突破を狙ったものであったと考えた方がいいだろう。さすがのデニーであっても、しかもこの状態で、ASKの問題を解く時にそれほどの余裕があるはずもない。一方で、真昼が解こうとしているのは「マラーを拘束している檻」だ。どんなに頭の悪い人間でもSINGアカウントのパスワードとK-freeアカウントのパスワードを一緒にしないのと同じように、ASKは一つ一つの拘束を解くための「パスワード」を同じにしない。その「パスワード」は対象者を拘束した時点でランダムに(人為的に決定される不完全なランダムではなく真実の意味におけるランダムに)決定される。「真昼を拘束した檻」と「マラーを拘束している檻」とは「パスワード」が異なっているのであって。ということで、「真昼の檻」用に調整された魔法円では、その拘束を解くことができないのだ。

 しかし、真昼は! その拘束を解くことができないのだ(完)で納得するような人間ではない。その拘束を解くことができないのだ(完)で納得するような人間であったらもっと人生充実していただろうし、そもそもこんな状況下のこんな場所にいなかっただろうが、既にそうなってしまったことについてくよくよ考えるのはよくないことだ。とにかく真昼は、完全なる強迫観念として、マラーのことを救いたいと思っているということ。マラーを助けてあげたい、マラーを幸せにしてあげたい。しかしその願いも、今ここでこの檻を破れないのならば……ココナッツのように無意味なものになってしまうだろう。ちなみにこの「ココナッツのように」という表現は適切な比喩表現が思いつかなかった時に代入する咄嗟の比喩表現として有名である。みんなも使ってみよう!

 ココナッツはともかくとして、ではどうすればいいのか? どうしようもない。下等生命体である人間はよく勘違いしがちなのであるが、この世界は「なんとかできること」ばかりでできているのではなく、確実に一定の「どうしようもないこと」が含まれている。そしてどうしようもないことはどうしようもないのだ。真昼にはどうしようもない、全然全くどうしようもない。

 その証拠として、ここで二つの方法を考えてみよう。一つ目は、デニーに魔法円を再調整して貰うという方法。先ほどの会話からも分かるように、デニーに対して「魔法円を調整して欲しい」という希望を伝えることにさえかなりの時間が掛かるだろう。そんな時間を掛けている余裕は今の状況下にはない。ということでこの方法は現実的とはいえない。二つ目は、真昼自身が魔法円を調整するという方法。孤独な男性、lone guy、つまり論外だ。ついさっき説明したことであるが、当該魔法円の析出者以外が魔法円を発動しようとする場合、その発動しようとするものは析出者以上の精神力を必要とする。これは調整についても同じである。幸いなことに(魔力によるロックがかかっていない限り)魔力は必要ないが、ほえー、だからどうしたの?って感じだ。真昼の精神力を真昼の体一つ分くらいの精神力とすると、(現在の)デニーの精神力はたぶん惑星くらいはある。これは別に大袈裟にいっているわけではなく、むしろデニーの精神力を過小評価してる嫌いがあるくらいなのだが、要するにいいたいことは、真昼がこの魔法円を再調整するのは一人の人間が惑星全体を呑み込むことと同じくらい難しいということだ。はい無理、絶対無理です。ということで、この二つの方法のどちらも不可能ということになり、結論として導き出されるのは「どうしようもない」という事実だけなのである。

 と、まあ。

 普通の人であれば。

 ここら辺で、無力感に陥って。

 いい感じに諦めるであろうが。

 しかし、真昼は普通の人ではないのだ。諦めない、絶対に諦めるということをしない。こういうところはある意味でサテライトに似ているのかもしれないが、とにかく自分という生き物がいかに卑小であるのかということを理解しないのだ。この世界における自分の立ち位置というものを分かっていない、どれほど無意味でどれほど無価値であるかということを分かっていない。それは傲慢であり、傲慢は罪であり、罪にはいつか罰が与えられるだろう。だが、それは今ではない。ということで、真昼は……マラーをこの牢獄から出すこと、諦めなかった。

 では、どうしたのか?

 簡単なことだ。

 どうにも、ならなかった、人間が。

 最後に頼るものに頼るということ。

 つまり。

 それは。

 暴力。

 本当に嫌ですね、人間って。野蛮っていうか、病的っていうか、世界における自らの立ち位置を理性的に理解することのできない自己中心的な姿勢の全般が軽蔑に値する。そんな人間であるところの真昼は、その生物的本性から、自分という生命に逆らう世界と和解することなどできることもなく。どうにもならないということに対するどうしようもない怒りに任せて、ぎゅっと己が拳を握りしめると。その拳を振り上げて、勢いよくホログラムに叩き付けたのだった。

 なんの音もしなかった、なんの手応えもなかった、残念なことに。ホログラムの檻はただただそこに存在しているだけで。真昼の拳はまるで夢を殴りつけたようなものだった。それでも、それでも、真昼は諦めなかった。いや、違うかもしれない。これは、諦めなかったというよりも、ただの現実逃避に近いだろう。もちろん「諦めなければならない」という現実から逃避しているということなので、結果的には諦めなかったということになるのだが。とはいえニュアンスが少しばかり違うのだ。これは不屈ではなく悲痛、使命に燃えた闘志ではなく、痛々しいまでの愚かさに過ぎない。真昼は……また、拳を振り上げて、それを叩き付ける。もう一度、もう一度、もう一度。助けなきゃ、助けなきゃ、助けなきゃ。何度も何度も、その檻を殴りつけて……その行為には何の意味もない。

 檻の中で、縋るような眼をして見つめてくるマラー。

 野犬のように叫びながら、その檻を殴り続ける真昼。

 それでは。

 デニーは。

 デニーは何をしているのか? 少し時間を前に戻してみよう、真昼に対して「デニーちゃんの後ろに隠れてて!」と言った直後のことだ。その言葉を口にした時には、デニーの注意は視界の端で意味不明の行為をしている真昼に向いていたのだけれど。だが、その注意は即座に視界の真ん真ん中、デニーから見てまっすぐ前の空間にいる、二つの触手の塊に移っていた。

 その頃には既に二つの触手の塊はほとんど二人の少女と呼んでも良さそうな物体になっていた。ほとんど、そう、ほとんどは。その二つの物体はあくまでも少女によく似たものだった。白いワンピースを着た、華奢な体つきの少女の姿で……ただし、その少女の肉体のあらゆるところから、手から、足から、胴体から、頭部から、それに片方の眼球から、何かが突き出ていたのだ。金属でできていて、細長い円筒形のもの。ドーナツのように真ん中に穴が開いていて、中空になっているもの。要するに、それはライフルのバレルだった。

 それを、見て。

 デニーが呟く。

「ゴー・フィッシュ。」

 そして。

 その言葉に反応したみたいにして。

 少女達の全身に、怜悧な針山のように。

 合理的に突き刺さった、それらの銃身。

 一斉に。

 弾丸を。

 射出する。

 「色」だ。物質でもなく、光でさえなく、その弾丸は「色」だった。それに触れられるとは思えないし、輝いているわけでもない。ただ、「色」として、全く別の世界から、注ぎ込まれているかのように。沸騰し、感覚し、包含し、到達し、閃々し、歪曲し、何よりも重要なことは、完全に有害だとわかるやり方をして、泡立っている。それは非次元の色彩であり、秘密の毒素だ。二人の少女の全身から放たれた何十発もの弾丸。その全てがその「色」でできていたということ。鮮やかに降り注ぐ原色の流星みたいなその光景を見て、デニーは「わーお」と口にする。まるで何度も何度も見ている映画の、一番好きなシーンを見て、それでもまた驚いている子供みたいに。

 それから、フードの奥。

 可愛らしく首を傾げて。

 こう言う。

「ガードナイト弾だあ!」

 即座に次の行動に移る。両手に持っていた二挺の拳銃を、自分の頭上に向かってぽんっと放り投げたのだ。武器を手放したデニーは、即座に自分の足元に屈みこんで。空になった両手、人差し指の先で自分のローファーをぴんと弾いた。その瞬間に、ローファーに付着していた魔法円は、手のひらにも付着して……それが「盗み出した」エネルギーもそのままに。両手と両足、魔法円は合計して四つに増殖する。これで準備完了だ。

 ちらっと背後を伺う。真昼は……ちょうどこの時にマラーを閉じ込めた檻に対する怒りを爆発させたところだった。何の音もさせずに、いたずらにホログラムの牢獄を殴り続ける真昼に向かって。「んもー、真昼ちゃんってば」とだけ呟くと、デニーは、その真昼のことを庇うようにして、というか実際に庇うために、たんっと自分の右側に跳ねた。

 少女達が放った弾丸は、この会議室の空間、その全体を、完膚なきまでに埋め尽くすように計算された弾道であった。そのため逃避する場所はなく、迎え撃つ以外の選択肢はないのだ。当然ながらその全てを打ち落とす必要はない。デニーちゃんはとっても賢いので、やろうと思えばできなことはないだろうが。差し当たっては自分と真昼とが入る分だけの空間を確保すればいい。デニーは、きゅっと軽く手のひらを握り締めると。「よーし、行っくよー!」と元気よく宣言する。

 そして。

 それから。

 明るく。

 楽しく。

 可愛い。

 ダンス。

 これは、ラビット・トレイル? リュケイオンの関係者ならば誰だって踊れるダンス。それほど難しいステップではない、前と後、右と左、そうやって足を動かす、基本的な繰り返しだから。リュケイオンで開かれるパーティでは、少なくとも正式なパーティにおいては、パーティに参加した魔学者達は皆がこのステップで踊るのだ。今、デニーが踊っているのは……そのラビット・トレイルによく似たダンスだった。

 しかし、リュケイオンのパーティで踊るラビット・トレイルよりも、遥かに強引で、遥かに過激な、攻撃的といっていいほどの踊り方だった。ステップはそのままに、脚を大きく振り上げて、腕を思いっきり伸ばして。ロックンロールのようにビートを刻む、スピーディでアグレッシブな舞踏。それでいて自分自身のキュートなスタイルは手放すことなく……デニーは、襲い来る弾丸を次々と撃ち落としていった。

 無論、その弾丸に直接触れているわけではない。ガードナイト弾と接触するような真似をデニーがするはずがない。両手と両足、籠手と籠足のように包み込んでいる魔法円によってその迎撃を行っているのだ。正確にいえば、その魔法円が「盗み出し」た紫のエネルギーによって。これはこの物質の性質の一つであるが、ガードナイトは特定の種類のエネルギーと相互に引き合う。そして、この紫のエネルギーはその「特定の種類」に含まれる。ということで、デニーの手や足がある程度近づくと。それらのガードナイトは魔法円の方向に、自然と引き寄せられてしまう。すると、魔法円に閉じ込められた紫のエネルギーが迸り……まるで雷か何かのようにして弾丸を打ち抜くのだ。

 打ち抜かれた弾丸は。

 ワン・アフター・アナザー。

 まるで、ぽっとでもいうように。

 最初から、なかったかのように。

 消えていって。

 確かにこの方法によって、デニーと真昼とが入る分の空間は確保された。だが……生憎ではあるが、この方法にいつまでも頼るわけにはいかないようだ。この紫のエネルギーも、無条件でガードナイトを消し去ることができるわけではない。あくまでも相殺しているだけなのだ。ガードナイトを消し去った分だけ、紫エネルギーも目減りしていって。そして、その上、少女達は、たった一回の一斉射撃で攻撃を終えるつもりはないらしい。

 一回目の掃射を防ぎきる前に。

 既に、二回目が放たれていた。

 またもやその弾道は会議室を塗り潰すように広がって。しかも少女達は、三回目、四回目、五回目と、休むことなく掃射を続ける。吸って吐いて、吸って吐いて、まるで呼吸でもしているみたいな脈動の様子。一方のデニーは、ほとんど切れ目なく襲い掛かってくる銃弾を防ぐのに精一杯みたいに見えて……少なくとも、しきりと誘う二体のパートナーのせいでデニーはダンスをやめることができない。そして、そんなこんなの内にも、魔法円が「盗み出し」た紫のエネルギーは目に見えて減ってきているのだ。

 まさに!

 状況は!

 絶体絶命!

 このまま防戦一方であれば。やがてデニーは競り負けるだろう。とはいえ、残念なことに、ちなみにここでいう「残念なことに」とはミセス・フィストの少女達にとって残念なことにという意味なのだが、デニーが防戦一方なんていうことをするはずがない。ふふふっ、だってさ、そんなの面白くないもんねっ! ということで、デニーのこれはただの防戦ではなく、伺っていたということだった。反撃の、タイミングを。

 くるくる、くるくると。デニーの頭上からデニーの両手へと、何かが落下してくる。何かも何も、読者の皆さんは覚えていますよね? デニーが両手に魔法円を纏った時に放り投げたあの二挺の拳銃だ。ようやく落ちてきたの? ちょっと滞空時間長くない? と思われるかもしれないが、滞空時間が長かったわけではなく、デニーがこれらの拳銃を放り投げてから今までの時間がほとんど経っていないというだけのことだ。全ての出来事が可及的速やかに、普通の人間では追いつけないほどの速度で進行しているというだけの話。それはともかくとして、デニーの拳銃は鮮やかなほど予定通りのタイミングで落ちてきたのだ。

 呼吸をするような脈動。

 吸って吐いて。

 吸って吐いて。

 そして。

 その。

 吸って、の。

 タイミング。

 デニーの右手と左手のうち、ここで注目するべきは右手だ。まるで挨拶でもするように軽く伸ばされた、その右の手のひらの中に。はなはだ当たり前の顔をしてするりと拳銃が滑り込む、セミフォルテア弾が込められた方の拳銃。その瞬間に、デニーは、何度も聞いたお馴染みの冗談でもいうみたいな態度によって、軽やかにその引き金を引く。BANG! BANG! その回数はちょうど二回。当然ながら、二発の弾丸が発射されることになり……その向かう先も、当然ながら二体の少女。

 先ほど「吸って」のタイミングと書いたが、実は、これは、比喩的な表現ではない。少女達は実際に吸い込んでいるのだ。ASKといえども無から何かを創造できるわけではない。いや、まあ正確にいうとできないわけではないが、ASKはアルファクラス知性所有者ですからね、不可能なことはありません、とはいっても無からの創造はなかなか面倒ったらしい行為であって、目下目的となっているこういう目的には使わない。ということで少女達は大量に消費する弾丸をどこからか補給しなければならないことになる。

 補給の方法は幾つかあるのだが、一番簡単なやり方はガードナイトで満ちた空間からそれを吸い上げることだ。そういう空間はこのディメンションには存在しないのだが、あるディメンションからあるディメンションへと通じる導管を作ることは、無からの創造行為よりも遥かに容易なことであって、少女達はこの方法を取っている。そういったわけで、少女達は、「吸って」のタイミングで、このディメンションとは異なるディメンションからガードナイトを吸い込んでいるということなのだ。

 さて、ここで注目するべきことは。ガードナイトを吸い上げて、弾丸の形に整形し、それから発射する、という一連の工程を行うためには、少女達は自らの身体を何ほどか固定化させていなければいけないということだ。考えてみれば当たり前の話であるが、とにかく、この「吸って」に付随する一連の工程の間、少女達は先ほどのようなキューブ・フルードの状態になることはできない。ということで、攻撃に対して無防備な状態になるということ。そして、デニーは、そのタイミングを、狙っていたのだ。ちなみに……読者の皆さんはこう思われるかもしれない。そんな限られたタイミングを狙わなくても、さっきみたいに、「罪食い」の魔法円を使って封印してしまえばいいだけの話ではないか。生憎とそれは不可能だ。ミセス・フィストの少女達には適応能力が備わっている、一度受けた攻撃、それがセミフォルテアのような圧倒的な「力」ででもない限り、その時点で適応してしまうのだ。そのため「罪食い」の魔法円と「奇跡盗人」の魔法円はもう使えない。

 と、いうことで。

 デニーが打ち出した。

 セミフォルテア弾は。

 一発目、左の少女に。

 二発目、右の少女に。

 それぞれ。

 完璧な。

 「吸って」のタイミング。

 その、無防備な、身体に。

 着弾する。

 打ち抜いたわけではない。だが、ダメージは与えた。セミフォルテア弾が着弾した少女達の身体は勢いよく吹っ飛んだ。床に叩き付けられた時に、突き出ていたライフルのバレルが、何本か折れてしまう。これで十数秒間は行動不能にできただろう。とっても満足そうに、デニーはそんな少女達の姿を眺めながら。ふっと左手を差し上げて……その左の手のひらの中に、二丁目の拳銃が滑り込んだのだった。

 右手に拳銃。左手に拳銃。そして、その次の瞬間に。ずるり、とでも音を立てるようにして世界に傷口が開いた。腐敗さえも腐敗してしまったような、悍ましい、生命の完全な枯渇、が、膿のように溢れ出すような。穴、穴だ。そう、デニーがそこから二挺の拳銃を取り出したあの穴が開いたのだ。

 デニーの、左手と、右手と、その直下に。一つずつの穴、合計二つの穴。そうしてデニーは両方の手のひらをぱっと開いた。手のひらからはするりと拳銃が滑り落ちていって。その穴の中に滑り落ちていって。

 それから、それから、それらの穴は、もともとそこに何もなかったかのような態度によって跡形もなく閉ざされた。要するに何が起こったかといえば、デニーがその穴の中に拳銃をしまったということだった。

「さあ、真昼ちゃん!」

 そう言って!

 振り返った!

 デニーの視界に!

 入ってきたのは!

 相も変わらずマラーの檻を殴り続けている真昼の姿だった。別にエクスクラメーションマークを付けて強調するほどのことでもなかったですね、ごめんなさい。まあ実際にはそれほど時間が経過していないというのもあるのだろうが、それにしても諦めの悪いことだ。普通、二回か三回やってダメだったらやーめたってならない? デニーはそもそも真昼が何をしているのかが分からないので、その気持ちを素直に言葉で表現する。

「何やってんの真昼ちゃん!」

「助けなきゃ!」

「ふあ!?」

「助けなきゃ、助けなきゃ、助けなきゃ!」

 デニーの質問に答えるというよりも自分に言い聞かせているみたいにして真昼はそう言った。デニーはそんな真昼のこと、うわーお!みたいな、あちゃー!みたいな、そういう種類の顔をして見てから。ぴょこんっとテーブルから飛び降りて、すててっと駆け寄った。それから真昼のことを正気に戻すため、その肩をきゅっと掴んでゆさゆさと揺さぶる。

「何よ!」

「そんなことしてる時間はないよ!」

「そんなことって何よ!」

「そんなことってこんなことだよ!」

「助けなきゃ!」

「諦めてよ、真昼ちゃん! それくらいの女の子ならパンピュリアに帰ってからいくらでも買ってあげるからさ!」

「そういう問題じゃないんだよ! この子を、この子を……」

「真昼ちゃん、真昼ちゃん、真昼ちゃーん! 女の子なんてどれも同じでしょ! かるむだうんっ、かるむだうんだよっ! 時間がないんだってばあっ! 早くここから逃げちゃわないとっ! あの子達が再起動する前にっ!」

「逃げるって、どうやって逃げるんだよ! 出口なんてどこにもないだろ!」

 だったらお前、その檻壊してもマラーのこと助けらんないだろと思わないわけでもないのだが。確かに真昼の言っていることは正論であった。この空間、この会議室は、どこにも出口がない。そんなことに触れている余裕がなかったので、今まで一言も書いていなかったのだが、デニー達が入ってきたあのドアは、いつの間にか消えてなくなっていたし。それに、消えてなくなっていなかったとしても、この状況下で開くとは思えない。傷一つない、汚れ一つない、文字通りに完璧な、真っ白い直方体の箱。デニーは一体どうやってここから出ようというのか?

 デニーとしてみれば。

 本当ならば、もう少し勿体ぶって。

 劇的に発表したかったのだろうが。

 そんなことをいってる状況ではない。

 なので、デニーは、仕方なく。

 自分たちの背後の壁。

 あっさりと指差して。

「あそこに、今、できるからっ!」

「は!? 何言って……」

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