第一部インフェルノ #12

 初めに断っておくが。

 これは悪夢ではない。

 それはこういう夢だ。真昼はどこかに横たわっている。目をつむって、胸の上に指と指とを組んだ手を置いて。頭の下には枕も敷いておらず、ひどく真っすぐに伸ばした足。血の一滴までも奪われてしまったかのように全身が冷たく、苦く硬直でもしているかのように指一本動かせない。

 けれども、それにもかかわらず。目をつむったまま、瞼を開くことができないにもかかわらず、真昼は自分がどこにいるのかということが分かった。それどころか、真昼は自分の姿を見下ろしていた。魂みたいなものが、体の中から抜け出して、少し上のところに浮かんでいるようにして。

 その場所は霊廟であるようだった。真昼が今まで見たこともないような、といっても真昼が見たことがあるものなんてたかが知れているのだが、とはいっても恐らく読者の皆さんも観たことがないような、すうっと冷たく、暗い色で輝く、緑の宝石のようなもの。それを原石から乱雑に切り出したような、そんな石材を、ぞっとするくらい精密に積み上げて建築された密閉空間。その場所が霊廟であるということはこういう事実から理解できた。真昼が横たわっている地点の、右側にも、左側にも、それ以外の方向にも、数えきれないくらいの棺が並んでいるという事実。それらの棺には、それぞれに名前が刻まれていた。どこか幼い、落書きのような削り文字で、だが、それらの名前を読むことは真昼にはできなかった。なぜならそれらの名前は旧語で書かれていたからだ。しかも、どうやら一種類だけの旧語で書かれているというようでもなかった。汎用トラヴィール語らしいと分かる文字や、明らかに易字と分かるもの。それだけでなく、真昼には全く分からない、たくさんの文字。

 ところで当の真昼はどこにいるのか? 真昼というのは、正確にいえば真昼の体のことであるが。それはどこに横たわっているのか? この霊廟の、まさに中心とでもいうべきところ。延々と本棚が並ぶ書庫にも似た態度によって延々と棺棚が並んでいるこの場所で、唯一、棺棚が並んでいない場所。ある種のホールのようだった。円形に開けた空間、開けたといってもここは密室で、息苦しいほど光の射さない場所であることは間違いないのだが。それでも、ある程度は開けている空間。その空間のセントラルに、真昼はいた。どうやら、真昼は何かの台の上に横たわっているようだ。この霊廟を形作っている緑の石と、全く同じ石を積み重ねて作られた、儀式用の祭壇みたいなもの。

 真昼は自分がここに横たわる前の状況を全然思い出せなかった。けれども、それでも……これは夢にありがちなことではあるが、それでも、真昼は、自分がどうしてここにいるのかということが理解できた。いや、それは理解というにはあまりにもぼんやりとした確信に過ぎなかったのではあるが。真昼は、これから何が起こるのかということを、絶対的な信仰にも似た精度によって知っていた。そう、それは信仰だ。なぜなら信仰は理解ではないからだ。信仰は待機だ。やがて起こるべきことへの渇望。真昼は渇望していた、疑いもせずに渇望していた。さりとて、何を? 真昼は分からなかった、何が来るのかということ。だが、何かが来るということ、それだけは本当のことであって。

 そして、やがて。

 その時が、来る。

 真昼の周り。

 無数の。

 無数の。

 棺。

 それらの、全てが。

 一斉に、密やかに。

 あくびをするような。

 透明な、音を立てて。

 その。

 蓋を。

 開く。

 その夢が、真昼に対して、そこまでの場面を見せたところで。真昼は静かに目覚めた。これは一度書いたことであるし、繰り返しになってしまうが、この夢は悪夢ではない。なので、真昼は、大声で悲鳴を上げながらがばっと起き上がるだとか、その類の目覚め方をしたわけではなかった。本当に、ただ単純に、両の目を開いただけだ。それから、これもまた静かな仕草によってベッドの上に起き上がる。

 ここは霊廟ではない。ASKのアヴマンダラ製錬所、その中心にある、白く高い塔の中だ。まるで高級なホテルの一室のようなラグジュアリーな空間。そのベッドルームに真昼はいる。キングサイズのベッドの横たわって、というか上半身は起こしているのだけれど。その隣ではマラーが寝息を立てていた。胎児か何かのように小さく丸まって、真昼の腰の辺りにしがみ付くような姿勢のままで。だから、真昼は、サイドテーブルにあるテーブルランプは点けないことにした。真昼とマラーとはキングサイズのベッドの、まさに中心に寝ているのだし。サイドテーブルまでは距離があって、少しでも動いてマラーの目を覚ましてしまうのではないかと恐れたからだ。キングサイズのベッドというのはこういう時にひどく不便なものなのである。

 さて。

 今の。

 状況に。

 ついて。

 #11が終わってから、というのはつまり真昼とマラーとが風呂場から出てからということだが。脱衣所に脱いであった二人の服がいつの間にか処分されていて、全く同じ服、だが破れてもいなければ血がついてもいない新品の服が用意されていたので、少しばかり戸惑ったり。しかもその新品の服が用意されていたのがウォークインクローゼットの中だったので、それを見つけるまでにバスルーム・ベッドルーム・ウォークインクローゼットのラインで一騒動があったり。あるいは、真昼がマラーに対して、ふわふわ真っ白なバスタオルで体を拭いてあげるだとか、ドライヤーで髪の毛を乾かしてあげるだとか、櫛で髪の毛を梳いてあげるだとか、なんやかんや世話を焼いたり。そういった身支度が終わった後で、真昼とマラーとは、もう一度、リビングルームにやってきた。

 本当は、真昼としては、リビングルームに行くのはマラーを寝かしつけてからにしたかったのだが。マラーがどうしても真昼から離れようとしなかったので仕方なく一緒に連れてきたのだ。それはデニーと話をするためであって。その話とは、風呂場に行く前に話していたあの話の続きだ。もちろん浴槽に浸かって様々な思いを巡らせているうちに、真昼の考えていること、真昼の衝動は、完全に逆転していた。死にたいという思いから生きたいという思いへ。とはいえ、ある一点を中心として分度器を真逆の位置に回転させたところで、そのある一点は全く動いていないように。真昼の思考のうちのある一点もやはり全く動いていなかった。それはデニーが悪い生き物であるという事実だ。もう少し正確にいえば、デニーが静一郎と同じ種類の生き物であるという事実。そして、もしも真昼が生きたいと望むのならば。真昼は、その悪しき生き物に頼って生きていかなければいけないということ。

 ということで、真昼は話をしたかったのだ。デニーとミセス・フィストとの間で行われている交渉について詳しいことを知りたかった。真昼にも人間としての誇りというものがある。人間としての誇りなんて、人間が下等知的生命体である以上たかが知れているのだが、それでもあるものはあるのだ。どんなに汚れても生きていこうという決意はどんなに汚れても全然気にしないということではない。本当に、どうしても、汚れてしまうのではないなら――その汚れが避けられるものであるのならば――少なくとも避ける努力はしなければならない。だから真昼は交渉内容を知りたかったということだ。

 デニーとミセス・フィストとの間で、あまりにも悪辣な、あまりにも背徳な、合意がなされそうなのであれば。真昼は、デニーに、あらかじめ言っておきたかった。その合意を自分は拒否するということを。拒否するも何も、真昼にそんなことをする権利はなかったし、仮にそんなことをする権利があったとしても、デニーとミセス・フィストとの間の交渉に対して、まともに口出しできるだけの情報も知性もなかったのだが。それでも真昼は、真昼の主観的な視点からいえば、絶対に、言わなければならなかったのだ。真昼が、真昼の、なけなしのプライドを保つために。一本の矢も放つことなく運命に身を任せるような怠惰で無責任な真似をするつもりはなかったということだ。

 しかし、そんな高邁かつ愚昧な決意とともに。

 真昼がリビングルームへの扉を開けた時には。

 残念なことに。

 既に、デニーは。

 そこにいなかった。

 その場所を照らし出していたはずの、蛍光灯の光にも似た、煌々と明るい光が消えてしまっていて。その代わりに、眠たげに沈み込むダウンライトの光、みたいな薄明が、リビングルームの全体を照らし出していた。まるで、窓一つないこの空間にいる生き物達に、それでも今の時間がもう寝る時間なのだと教え諭しているみたいに。

 真昼は虚を突かれたというかなんというか、いつの間にか光の性質が変わっていたことに、ちょっとばかり気勢を削がれたような気持になってしまったのだけれど。それでも睥睨するがごとき態度で、いや睥睨はちょっといいすぎだけど、とにかくそんな感じでリビングルームを見回した。ソファーのところ、カウンターのところ、冷蔵庫の前、それに書き物机。だが、デニーの姿は、そういった場所のどこにも見当たらなかった。

 ちょこちょことついてくるマラーと一緒に、ベッドルームからリビングルームへと入っていって。その部屋の中、一通り改めてみる。カウンターの裏側だとか、キッチンの方。もちろんトイレの中も確かめてみたし、それに暖炉の中も一応確認してみた。それでもデニーの姿はどこにもなかった。ということは、未だに真昼が確認していないのは左側の扉、もう一つのベッドルームだけであって……ということは、デニーは。真昼とマラーとが風呂に入っているうちに、どうも自分のベッドルームへと引き上げてしまったということらしかった。

 真昼に、お休みとさえも言うことなく。

 自分のタイミングで好きなことをする。

 勝手というか気ままというか。

 いかにもデニーらしい行動だ。

 いくら図々しく、また常識知らずの真昼とて。ベッドルームで眠っているらしい誰かしらのそのベッドルームに突撃して、誰かしらを叩き起こしてまで話し合いをするようなめちゃくちゃ理不尽ガールではなかった。それに、明日目覚めてから、デニーとミセス・フィストの交渉が始まるまでには。全く時間がないというわけではないだろう、少なくとも朝食を取る時間くらいはあるはずだ。それならば話はその時にすればいい。

 ということで、真昼は、デニーとの会話を諦めて大人しくベッドルームに引き上げたということだった。その後は、寝る前にマラーをトイレに連れて行ったり(真昼は魔学式の効果で排泄を行う必要がなかった)、脱衣所に用意してあった歯ブラシと歯磨き粉で歯を磨いたり(ちなみに歯ブラシと歯磨き粉はバスルームの中のあの机にも用意してあった)、寝る前に行うべき色々の準備を終えてから。真昼は、マラーと一緒に、キングサイズのベッドでの眠りについたのだった。

 そして。

 アライブアット。

 ザ・プレゼント。

 悪夢ではなかった。繰り返しもこれで三度目になってしまったが、たった今、真昼がそれから目覚めたところの夢は。あの霊廟の夢は、真昼がいつも見てしまう夢、鉛の冠の夢に比べてみれば、決して悪夢とはいえなかった。もっと、何ていうか……真昼の全身を支えている骨格の内側の、死んで、硬くなって、白くなってしまった、全ての細胞の。その一つ一つが、静かに、静かに、凍り付いていくような。そんな風に、ある意味では「象徴的」な夢であった、象徴的? しかし、問題なのは、その夢の象徴しているところの何かが。ほとんどの象徴的な夢がそうであるように、この夢に関しても、真昼にはさっぱり理解できないということだった。

 あの霊廟は一体何を意味しているのか? 棺、棺、棺の中からは一体何が現れようとしていたのか? 真昼には、想像することもできず……けれども、何かしら、ほんの少しだけ。引っかかることがないわけでもなかった。どこか、体のどこかに、目に見えないくらい小さな針が刺さっているような。そんな、不思議にもどかしい感覚。とはいえ、そんな感覚も……目覚めた後に夢が遠ざかっていく、あのいつものやり方で。次第に、次第に、真昼から遠ざかってしまっていったのであった。

 そして。

 その夢が。

 すっかり。

 消えてしまった。

 その時に。

 真昼はベッドルームの闇の中で何かの音がしているということに気が付いた。ひどくか細く、ひどく弱々しい、例えば獣の子供の唸り声みたいな音。当然、こんな真っ暗な中でそんな音がすれば。一般的な神経を持つ高校生であれば、ちょっとびくってするだろうし、悲鳴くらいは上げてしまうだろう。だが、アーガミパータで一日を過ごした今となっては。真昼の神経は、一般的な高校生のそれとは異なった、非常にユニークな神経になっていた。そのため、真昼はびくってすることもなく、悲鳴を上げることもなく。極めて冷静にその音がする原因を探し始めた。

 それは、すぐに見つかる。

 ベッドの上、シーツの中。

 真昼の、腰の辺り。

 つまり、その声は。

 マラーが、夢に。

 うなされる、声。

 そういえば真昼とマラーとがバスローブを着てるって話はしましたっけ? その二枚のバスローブは風呂から上がった時に脱衣所に用意してあったものだが、二人はバスローブを着ている。さすがに、まあ、いくら新品とはいえT字シャツだとかジーンズだとかそういう服装で寝るっていうのもどうかと思いますしね。

 ちなみに、全然関係ない話ではあるが。最初に風呂から上がった時、真昼はそこにバスローブがあることに気が付かなかった。目には入っていたのだが認識できなかったのだ。それよりも何よりも自分がそこに脱いでおいた服がなくなっていることに意識が行ってしまっていたのである。そのため、真昼とマラーと、二人は、素っ裸で新品の服を探す羽目になったのであった。「脱衣所にバスローブがある」「バスローブは着用することができる」ということにようやく思い当たったのは、ウォークインクローゼットの中で新品の服を発見した、まさにその瞬間のことである。

 ところで、バスローブというものは着慣れていないととかく乱れやすいもので、睡眠中なんて特にだ。ということで、マラーのバスローブはずいぶんと寝乱れてしまっていたのだけれど。そんなマラーが、どうやら、ひどく悪夢にうなされているみたいだった。

 どろどろと口の端から膿んだ血液を垂らしているような、そんな風に苦し気な唸り声。こんな小さな少女がこんな声を上げるなんて信じられないような声。それだけでなくその顔もひどく歪んでいた。一体どんな夢を見ているのか知らないが、その夢がひどくひどいものであるということが、一目で分かるような歪み方だ。苦悩と恐怖とで死んでしまった人間からは、きっとこんな顔をしたデスマスクが取れるのだろうというような顔。

 よく考えてみれば……そう、よく考えてみれば。マラーは、恐らく両親を失っているのだ。それが真昼と出会った「あの時」のことなのか、それよりもとうの昔に死んでしまっているのかは分からないが。それどころか、身内のほとんども死んでしまっているだろう。マラーは、ほぼ確実に、天涯孤独の身なのだ。いや、まだアーガミパータ国内にいるので、どちらかといえばドメスティック・ロンリーといった方がいいのかもしれないが。とにかく、マラーの親しい人間が、たった一人でも生きているかどうかというのは非常に疑わしいことだ。

 そして、しかも、それだけではないのだ。今までのその短い人生を、マラーがどんなふうに送ってきたのか、そのほとんどの道のりを真昼は知らなかったが。それでも、あの避難所で起こったことは分かる。それが本人達のせいではないにせよ、サテライトがどんなに残酷か、エレファントがどれほど冷酷か。そういうことを真昼はよく知っていたのだし、それにその残酷と冷酷とが引き起こした結末についても実際にその目で見ていた。だから、マラーの目の前で、どんなことが起こったのか。あの避難所で、マラーが、一体何を見せられたのか。真昼にはよく分かった。

 これほど幼い子供が。

 これほどの孤独。

 これほどの恐怖。

 その身に余るほどの苦痛を味わって。

 こんな風な声、こんな風な顔。こんな風な悪夢を見ない方がおかしいのだ。二人が出会ってから、マラーがうとうととしていたことは何度かあったけれど。その時にうなされていなかったのは、ただ夢を見るほどの深い眠りしていなかったからというそれだけの理由だろう。あるいは危機的な状況の中で神経が高ぶっていたので、まだ自分の状況をまともに理解したり、人生について振り返ってみたりしたりするだけの余裕がなかっただけで。

 今、この時。絶対に安全ではないし、生と死の瀬戸際で揺らめいている運命であるところのマラーであることは、それは間違いないことなのではあるが。それでも安全であると錯覚できる程度には落ち着いた状況。涼しい部屋の中で、暖かいシーツにくるまって。そして、優しい庇護者(と思っている人間)が隣にいる、この状況。事ここに至って、ようやく、マラーは、悪夢を見ることができるだけの余裕ができたということなのだろう。

 真昼は、マラーのことを起こさぬよう。

 静かに手を伸ばして、その髪に触れる。

 とてもごわごわとしていて、それにぼさぼさとしている。ついさっき、寝る前の時間、櫛を通してあげた時にも感じたことだったが、今までまともに手入れをされたことがないとしか思えない髪質だった。今日という日まで、アーガミパータに来るまで、真昼は……ずっと、ずっと、自分は不幸な人間であると感じていた。しっかりと意識してそう思っていたわけではないが、それでも漠然な印象として、自分の人生は不幸なものであると、常にそういう印象を抱き続けていた。だが、この子と比べてみれば。自分の人生のどこが不幸だというのだろう? この子が生きてきた、これまでの時間に比べてみれば。

 まあ実際のところは、不幸という感覚は多分に主観的なものなので、客観的な「災害」の総量よりも本人の感受性の方が遥かに重要なファクターであって。その意味では、不幸を感じる能力があまり発達していないマラーよりも、こういう性格をしている真昼の方がずっとずっと不幸であるというロジックが成り立たないわけではないのだが。ただ真昼はそれほどロジカルなシンキングをするタイプの人間ではなく、それゆえに、ひどく感情的に、自分よりもマラーの方が不幸であると決めつけてしまったというわけだ。マラーと比べてみれば。自分の人生は、せいぜいのところが幸福の欠如であって。いや、それも成り立たないだろう、月光国の、あれほど裕福な家庭に生まれておいて、幸福が欠如しているなんて口が裂けてもいえるわけがない。

 自分のことしか、自分のことしか考えてこなかったからだ。自分の希望、自分の不満、自分の人生、そういったことしか考えてこなかったせいだ。真昼はそう思った。そう、それこそ……静一郎のように。静一郎と全く同じだ、自分勝手な人間、自分がどうやって幸福になるのかということしか考えていない人間。そのせいで、自分が幸福かどうかも分からなくなってしまって。もうやめよう、やめるべきなんだ。これからは、誰かのために生きよう。この少女のために、マラーのために生きよう。そのようにして、真昼は、風呂場で一度考えた考えをまた新たにする。マラーのために生きよう、自分のために、自分勝手に、死ぬのではなく。

 そうだ、それに、それだけじゃなく、月光国に帰ってからも。何か、誰かのためにできることがあるはずだ。なんでもいい、できることはいくらでもある。例えば、そう、スペキエースの権利のための運動とか。どこかの非営利団体に入って、募金を集めたり、デモをしたり。具体的に何をすればいいのかは分からないけれど、とにかく何かをしなければいけない。今までのように、無意味に、怠惰に生きるのではなく。何か、誰かのために、意味のあることをしよう。真昼は、そう思った。この考えは、真昼の考えにしてはそれほど悪くない。前向きで、それに有益だ。スペキエースの権利向上を目的とした非営利団体が、この世界に対してどれほど役に立つのかという根本的な問題は置いておくとすれば。

 真昼の手、ゆっくりと、マラーの髪を撫でて。

 どうやら、その感触が、悪夢を遠ざけていく。

 マラーの、苦しそうな唸り声が。

 次第に、次第に、収まってきて。

 マラーは、眠ったままで。髪に触れていた真昼の手のひらに鼻先をこすりつける。子猫が親猫に見せる態度にも似て、本能的に安心を貪ろうとしているかのように。そんなマラーの、ひどく痩せた顔の感触を感じながら。真昼は、起こしていた上半身を、もう一度、ベッドの上に寝かせて。それから目をつむる、また眠りのただ中へと落ち込んでいく。


「どーん!」

 惑乱。

 錯乱。

 大混乱。

 マジで、真実、何が起こったのか分からなかった。それどころか何かが起こったというそのことさえもまともに理解しきれなかった。そのことが起こる直前まで、夢も見ないような眠りの底に沈んでいた真昼は。まるで海底火山の噴火によっていきなり空中に吹っ飛ばされた一匹の魚のように、なすすべもなく叩き起こされて。人間がこんな悲鳴を上げることができるのか、こんな面白おかしい悲鳴を上げることができるのか、そんな気付きを与えてくれそうな「ぎゃぁああああああああ!」みたいな悲鳴を上げたのだった。ついでにマラーも悲鳴を上げていたが、こちらはもう少し可愛げのある「きゃぁああああああああ!」みたいな悲鳴だった、

 要するに。

 それは。

 衝撃だ。

 真昼とマラーとが寝ているベッド。

 いきなり、何かが、衝突したのだ。

「ま、ひ、る、ちゃーん! あ、さ、だ、よー!」

 その何かは、ベッドの上、真昼達の上で。傍若無人にもごろごろと転がりまくる。真昼は状況が理解できないにせよ、状況が理解できないなりに、マラーのことを抱え込むようにして。這いずるみたいにしてそのごろごろから逃れようとする。無駄だ、全く無駄な行為だ。その何かは、逃げようとする真昼をきゅーっと抱き締めて。そうして、真昼の耳元で囁く。

「早く起きないと、食べちゃうぞー。」

 ぞっとするほど。

 愛くるしい、声。

 その声を聴いて……というか、ここに至ってようやく真昼の脳も覚醒してきたらしく。真昼は、頭に一発サンダーストライクでも食らったかのように、唐突に理解した。自分に、マラーに、そしてキングサイズのベッドに、何が起こったのかということを。自分にしがみついて離れない、その何かに向かって。真昼は、いかにも苦々し気に、こう言う。

「デナム・フーツ。」

「ほえ?」

 そう、その通り。つまりはそういうことだったのだ。その何かは、デニーで。そして、ついさっき起こったこととは。真昼達が寝ていたベッドの上に、何の断りもすることなく、デニーが飛び乗ってきたということだった。真昼達が寝ていたベッドの上にというか、ベッドに寝ていた真昼達の上に。

 真昼とは違ってまだ状況が呑み込めておらず、真昼の腕の中でじたじたとしているマラーのこと。髪に顔を埋めて「大丈夫、大丈夫」と呼びかけつつも(アトゥパラヴァーイレイという言葉を思い出している余裕はなかった)、優しく体を撫でてあげながら。真昼は、デニーに向かって、こう言う。

「何を、して、いるの。」

「何をって……真昼ちゃん達を起こしに来たんだよお。」

 デニーは。

 そう言って。

 ウィンクする。

 人間がこれほどの熱量の感情を抱くことができるのかと思わせるような、絶対的な激怒。もう何かほんとこいつ殺してやろうかみたいな、激しい憎悪。そんな風に、燃え盛る炎にも似た感情を、双眸の奥深くに灯しながら。真昼は、デニーに言う。

「勝手に、他人の部屋に、入って、こないで。」

「んもー、真昼ちゃんってば! デニーちゃんと真昼ちゃんはもう他人じゃないでしょー! ほら、そんなことよりも! 起きて起きて、もう朝だよー!」

 もう何かほんとこいつ殺してやろうか(二回目)。デニーは、真昼の言ったことなんて、ぱっぱらぱーのぴっぴろぴーに気にすることなく。両方の手のひらで、真昼達が寝ている、というか真昼達が起きているベッドのマットレスを、ばんばんと二回ほど叩いてから。ぴこーんと立ち上がって、それからぴょーんとベッドの上から飛び降りたのだった。

 そして。

 たった。

 一言。

「朝のご飯!」

 そう言うと。

 ばったーんとドアを閉めて。

 部屋から。

 出ていく。

 なんというか、まるで、突発性豪雨か何かみたいだ。真昼はそう思った。めちゃくちゃ迷惑なところとか他人のことなんて全然考えないところが特に似ている。ちなみに、マラーはようやく事態が呑み込めたらしく。ただし事態が呑み込めたとしても、なぜ自分がこんな目に合わなければならなかったのか、そのことが全然理解できていないようで。真昼の腕の中、呆然とした顔、ただただデニーが出て行ったドアの方を見つめているだけだった。

 一方で真昼は、そんなマラーの背中を、慰めるようにして撫でながら。その撫でていた手は右の手であったのだが、反対の手、左の手で、自分の胸の辺りを掻いていた。寝乱れたバスローブのせいでほとんど剥き出しになった鎖骨の周囲である。真昼の指先、お洒落のために伸ばしたというよりも、いつの間にか伸びていたというような、形の整っていない、白くだらしない爪。そんな爪で、がりがりと音を立てるくらいに、強く引っ掻いていたのだ。

 デニーのアサルト、そのアフターマスがだんだんと収まってきて。重藤の弓で一発くらいお見舞いしておけば良かったみたいなことを割と本気で思いながらも、自分の身体のコンディションについて考えを巡らせるだけの余裕が出てくると。どうやら痒いところは胸の辺りだけではないということに気が付き始めた。右腕に左腕、それに顔全体も、ひどく痒い気がする。

 一体、どうしたというのだろう。ほとんど無意識に胸の辺りを掻いていた手を、自分の目の前に持ってくる。すると、すぐに、その理由が理解できた。というか、こんなこと、昨日の夜に風呂に入っていた段階で気が付いていてしかるべきことだ。頭を支配していた色々な心配事のせいできっとそのことにまで気が回らなかったのだろう。それが今日になって、身体に痒みという異常を覚えたことで、ようやく思い至ったのだ。

 いや、別に大したことではない、つまるところ、真昼は、日焼けをしていたということだ。右腕に左腕、顔と首筋については自分では見ることができないが、とにかく肌を露出していたところ。かなり濃いブラウンに焼けてしまっている。真昼の体を守っているはずの魔学式も、どうやらアーガミパータの凄まじい日差しまではカットすることができなかったらしい。

 そう。

 大したことではない。

 どうでもいいことだ。

 そんなことよりも……また胸の辺りを掻き始めながら。真昼は、シーツの上を這いずって、ベッドの縁のところにまでやってくる。それから、すっとした裸足のままでベッドから降りると。後からついてきたマラーと一緒に脱衣場まで向かう。

 そんなことよりも、早く朝の準備をしなければいけない。備え付けの歯ブラシと歯磨き粉で歯を磨いて、これも備え付けの接見で顔を洗って。髪は、まあ、整える必要はないだろう。この場所で、アーガミパータで、真昼の寝癖に注目するような人間に出会えるとも思えない。それから、ふーっと一つため息をついてから、ウォークインクローゼットへと向かう。

 ずたずたのへたへたに引き裂かれて、血塗れの襤褸っ切れと化したあの服装の、完全なるコピー。それでいて、全く真新しい、明らかに新品の、丁字シャツとジーンズとスニーカー。あと下着もね、それが、きちんとハンガーにかけられていたり、シューズボックスに入れられていたり、下着用の棚に畳んで置かれていたりして用意されている。もちろん、マラーが着ていた服も同じように新品が用意されていた。

 これだけ広いクローゼットの中に、二人分の服装一式しか入っていないという事実も相まって。ひどく非感情的で、ひどく不気味なことであるように思われた。だが、真昼に選択肢はない。正確にいえばバスローブとスリッパのままという今の状態でいるとか、あるいはいっそのこと真っ裸でネイキッドしてしまうとか。そういう選択肢はあったのだが、それを選ぶような蛮勇は真昼にはないのだ。ということで、真昼は、大人しく用意されていたものを身に着けて。マラーにも同じように服を着せたのだった。

 さて、これで。

 準備は終わり。

 今度は、左手で右腕を掻きながら。その右腕の先、右手でマラーの手を握って。それから真昼はベッドルームの扉を開いてリビングルームへと入っていった。リビングルームには……デニーがいた。まあ当然といえば当然というか、わざわざ書くまでもないことだが。ちなみにそのデニーが何をしていたのかというと、例のカウンターテーブルの上、ダンシングラビット・ウィズ・シークレットフィッシャーズの"Build That Wall"をハミングしながら、そのハミングに合わせて何となくご機嫌なステップを踏んでいたのだ。それは非常に無邪気で他愛のない行為ではあったが、真昼にとっては、ただただ不愉快な行為でもあった。

 デニーは。

 ベッドルームから出てきた真昼に気が付くと。

 ぱっとその可愛らしい顔を明るくして。

 真昼のこと、ばしーんと指差しながら。

 楽し気に、こう言う。

「んもー、遅いよ真昼ちゃん!」

 真昼は。

 とても。

 イラっとする。

 しかし、とはいっても、真昼がイラっとしようがしまいがデニーには毛ほども関係のないことで。それ以前に、デニーと一緒にいる時には、真昼はいつでも不愉快そうな顔をしているので。このタイミングでイラっとしているのかどうかということは、いわれなければ分からないことだ。なので、デニーは真昼のイラっを全く気にかけることもなく、相変わらずとっても可愛い態度で、ぴょこーんっ!とカウンターテーブルの上から飛び降りた。

 うーん、すごくスウィートですごくチャーミングだ。このスウィートさ、チャーミングさを、その愚かなプレジュディスのせいでちゃんと理解できない真昼のことが哀れに思えてくるほどに。いや、それはどうでもいいことなのだが、カウンターテーブルから飛び降りたデニーは。とっとっという感じ、ご機嫌なステップの続きのような足取りでソファーのところにまでやってくると。そのソファーの上に飛び乗って、爪先立ちの姿勢、ぴこっぴこっという感じで真昼に向かって手を振りながら、こう言う。

「早く早く! 取引が始まる前に食べとかないと!」

 そして。

 そのソファーの前に置かれた。

 ダイニングテーブルの上には。

 デニーが言った通り朝食が用意してあった。まあ用意してあったといっても、冷蔵庫に入っていた例の果物類を出してきただけだったが。ああ、あとヨーガズが瓶ごとではなくちゃんとコップに入れられて置いてあった。

 真昼は、瞬間だけ本気で嫌そうな顔をして。というか、嫌そうな顔をしただけでなく、ほとんど脊髄的な反応としてデニーの「用意した」朝食を拒否しようと思ったのだけれど。ただ、これを拒否してまで自分で冷蔵庫からあれこれを出してくるのは、いかにも子供っぽく、またデニーのことを意識しすぎた行為とも思えたし。何より、その朝食を見たマラーが、とても嬉しそうな顔をして真昼のことを見上げてきたので。仕方なく、デニーが招くがまま、唯々諾々とソファーの方に向かったのだった。

 デニーから。

 ほんのちょっとだけ。

 離れたところに座る。

 それから、無言のままで。しかもデニーちゃんがきちんとフォークを用意していたのもかかわらず、手掴みで。真昼はその「朝食」を食べ始めた。「真昼ちゃん、昨日はよく寝られた?」だとか「このリンゴ、おいしいね!」だとか、しきりと話しかけてくるデニーの言葉をオールシングエブリシング、トゥ・パーフェクションに無視しながら。ただ黙々と、それらの栄養物としての固形物質・液状物質を口の中へと運んでいたのだが。

 しばらくして、一息ついて。

 ヨーガズを一口飲み終えて。

 それから。

 ふっと。

 口を開く。

「ねえ。」

「ほえ?」

 ブドウの粒を一粒摘まみながら、真昼ちゃん、すっごく日焼けしたね!という意味合いのことをほとんど独り言みたいにしてまくし立てていたデニーは。その話をいきなりぶった切られて、ほんの一瞬だけ不思議そうな顔をしたのだけれど、それでも、にこーっとした顔で笑って、「なぁに?」と真昼に問いかけた。

「これから……今日、あんたが、あのミセス・フィストっていう女とする、交渉のことなんだけど。」

「うん、それがどうしたの?」

「交渉っていうか、要するに昨日あんたが言ってた条件ってやつをあの女が飲むか飲まないかっていう話だよね。」

「そうそう、そーいうこと。」

「それでその昨日言ってた条件っていうのは、あんたんとこの組織……コーシャー・カフェっていう組織が、ワトンゴラでバーゼルハイムを売り捌くルートを放棄するって話だよね。」

「うーん、まあ全部ってわけじゃないけどね。」

「それで、そのことについて……」

 そこまで、会話を進めた時に。

 真昼は、はたと、口を止める。

 自分がデニーに対して言いたいこと。それを一体どんな言葉で表現すればいいのか、よく考えてみれば分からないということに気が付いたのだ。この会話を始める前にはそんなことははっきりとしているように思われた。けれど、いざ、こうして、それを口にしようとすると。その姿は、曖昧としていて、ぼんやりとしていて、まるで掴みどころがなかったのだ。水の面に映し出された月の姿を手で掬おうとした時のように。その姿は、真昼の思考から、さらさらと流れ落ちてしまって。

 つまるところ……簡単だ、簡単なはずだ。デニーとミセス・フィストとの交渉の、その結末として、スペキエースが傷つかないようにして欲しい。真昼が言いたいのはそういうことだ。しかし……それを、どうやって、デニーに伝えればいいのか? デニーに、この男に、この悪魔に。そもそもの大前提として、デニーは悪いことだと思っていないのだ。差別も、虐殺も。とても無垢に、とても無邪気に、まるでちょっとした悪戯のようにしてやってのける。そんな男に対して……どうやって、真昼の言いたいことを、伝えればいいというのか?

 真昼は、考え込んでしまう。

 けれども答えは出てこない。

 出てくるわけが、ないのだ。

 だから、真昼は仕方なく。

 ただ言いたいことだけを。

 言うことにする。

「そのことについて、言いたいことがあるの。」

「言いたいこと? なぁに、真昼ちゃん。」

「あんた達が、あんたとあの女が、どんなことを企んでいるのかってことはあたしには分からない。この交渉の結果で、どんなことが起こるのか、全然分からない。でも、あたしは……もしも、あんたが提示したあの条件のせいで、少しでもスペキエースが辛い目に合うんなら。あたしは、そんな条件で助かりたくなんてない。助かりたくなんて、絶対にない。もしも、そういうことが……あたしが助かったせいで、スペキエースが傷つくようなことがあったら。もしも、もしも、そんなことがあったら。その時は、月光国に帰り着いていたとしても、あたしは自殺してやる。しかも遺書にはあんたのせいだって書いてね。そうすれば、あたしを助けたっていうことであんたが静一郎と「お友達」になっても、何の意味もない。あんたは、すぐに「お友達」じゃなくなる。あたしの言いたいことは、要するに、そういうこと。分かった?」

 頭の中から絞り出すようにして、考え考え、思いついたことから一言ずつ話していったせいで。随分とまとまりがないというか、よくよく分かりにくい主張になってしまったが。それでもこれで言いたいことは全部言えたはずであった。真昼の主張は……なかなかの傑作だった、特に「あたしは自殺してやる」というところがいい。真昼の腹にはいまだにデニーの魔学式が立式されていて、その魔学式によって真昼の行動はコントロールされうるということを、真昼は覚えていないのだろうか? ありうることだ、サテライトほどではないといえ真昼は低能なのだから。

 真昼・イズ・メンタルデフィシエンシーということは置いておいて。その主張に対して、デニーは一体どのような反応を示したというのだろうか。デニーは、真昼の話を聞きながら、半分に割ったザクロをあぎあぎと噛んでいたのだが。その話が終わると……ちょっとの間、きょとんとした顔をしていた。真昼が何を言っているのか、根本から理解できていない、そんな顔だ。しかし、そのちょっとの間が終わると。今度は、急に笑い始めた。さもおかしそうに、けらけらと、大きな声を上げながら。

「真昼ちゃんってば!」

 笑い声の合間合間。

 喘ぐように、言う。

「ほんとーにおっかしーんだから!」

 そういったデニーの反応、まあ予想していなかったわけではないのだが、それでも非常に腹立たしいというか、クソムカつくというか、そんな表情をして。奥の歯をぎっと噛み締めながら、視線だけで相手を殺そうとでもしているかのように、デニーのことを睨みつけている真昼(と、あとおろおろしてるマラー)の目の前で。デニーは、ソファーの上で転げるみたいにして、だいぶん長いこと笑っていたのだけれど。ようやく落ち着いたようで、ほへーみたいな溜め息をつきながら、真昼に向かって起き直った。

「だいじょーぶだよ、真昼ちゃん。」

「大丈夫って、どういうこと。」

「昨日、デニーちゃんがこれでどう?ってした条件はね、スピーキー……えーっと、スピーキーって言っちゃダメなんだっけ? スペキエースを傷つけちゃおうとか、辛い目に合わせちゃおうとか、そんなことはぜーんぜん考えてないやつだから。えーっとね、デニーちゃんが言った通りのお話なの。コーシャー・カフェが、特定のルートから撤退するっていう、ただそれだけのお話。で、そのルートで流れてた武器はスペキエースを傷つけるものなんだから。そーいう武器がなくなればスペキエースは傷つかないでしょ? まー、コーシャー・カフェが撤退してもどっかの組織が入り込むと思うけどね。でも、この条件でスペキエースがひどい目に合うってことは……少なくとも、新しくひどい目に合うってことはないよ。だから、ほら、安心してよ真昼ちゃん!」

 そう言い終わると。デニーは、先ほどまでのけらけらとした笑いの残響みたいにして、くすくすと口の中に含むようにして笑った。デニーの言っていることは、確かに、一聞、筋が通っているように思われた。武器の販売ルートから手を引くのだから、それによってスペキエースが傷つくということはないはずだ。だが、真昼は。何となく腑に落ちないような気がした。それは、デニーの話したことの、その内容のせいというよりも。むしろそれを話した時のデニーの話し方、どことなく全てを話していないような、どことなく悪戯っぽいような、そんな話し方のせいだった。

 しかし、そうではあっても。

 真昼にはどうしようもない。

 真昼の持っている、情報は。

 あまりにも少ないのだから。

 だから真昼は、デニーの言っていること。

 その通りに、納得するしかないのだった。

 ということで、はっきりとしない、口ごもるような言い方で、デニーに対して「分かった」と言った真昼だったのだ。そんな真昼の言葉に、デニーは、いかにも満足げな顔をして、うんうんと何度も頷いていたのだけれど。やがて……ふと、顔色を変えた。何となく何かを考えているような顔をして、くるんと目を一回転させると。すっと伸ばした人差し指を、ちゅっと自分の唇に当てて。

「んー、でも、まあ。」

 それから。

 独り言みたいに。

 こう言う。

「あの条件でいいよってなるとは思えないけどね。」

「え?」

「んーん、なんでもなーい。それより真昼ちゃん! 朝ご飯食べ終わった?」

 ぱっと両方の手のひらを開いて、顔の横のあたりでひらひらと振って見せながら。デニーは、話を変えるかのようにしてそう言った。ただ、そうはいっても実際に……テーブルの上に置かれていた食べ物・飲み物はあらかた片付いていた。残っているのは、種と皮くらいで。言われた真昼の方は、念のためマラーの方を見て(ちなみに今更になってしまうがソファーにはデニー・真昼・マラーの順に座っていた)、マラーがきちんと満足するまで食べたり飲んだりしたかどうかを確認してみる。マラーは、デニーと真昼とのあまり友好的ではない会話の余韻のせいなのか何なのか、未だにちょっとおろおろした感じではあったが。ただ、食欲の充足という面では不足するところはないようだった。

 ということで。

 朝食の時間は。

 これで終わり。

 しかしながら……というか、いつものことながらというか。真昼はデニーの問いかけに答えることもなく、ただソファーから立ち上がった。そして、一言も発することなくキッチンまで行くと、果物のせいでべたべたになってしまった両手を流し台のところで洗い始める。随分とまあ迂遠な意思表示ではあるが、つまるところ、この行為によって、自分が朝食を終えたということをミーニングしているということだ。

 そんな遠回しなことされたって分かるかよ普通……と、思わないこともないが。デニーちゃんはとっても賢いからね! ぜーんぜん分かってしまうのだ! ということで、デニーは真昼の発信した微細なシグナルをパーフェクトに受け取って。うんうんとしきりに頷きながら、「よーしっ! じゃーあ、そろそろ時間だし、行かなくっちゃね!」と言ったのだった。

 それから、デニーは。

 ソファーから、ぴょこんと立ち上がり。

 暖炉の隣、あの書き物机のところまで。

 るんるんとしたステップ、まるで川を渡ろうとして泳いでいる子猫の頭の上を踏んでいくみたいに軽やかに歩いていくと。書き物机の上に置いてあった、一つの、ハンドベルを取り上げた。ハンドベル? 一体……いつの間に、これはこの場所に置かれていたのだろうか? 真昼は、その存在、デニーがそれを手に取るまで気が付きもしなかった。

 何というか、少しばかり特徴的な形をしたベルだった。いや、ベルのベルたる部分には別に特徴的な点はない。淑女のロングスカートにも似た形、裾のところに向かって静やかに広がっていく、ごく普通のベルの形。特徴的なのはその上のところ、その持ち手の部分だ。持ち手は、ほんの少しだけ上に突き出た後で、まるで止まり木のように緩やかに捻じ曲がり、その止まり木の上には一匹の梟が止まっているのだ。もちろん本物の梟ではなく梟の彫り物に過ぎないのだが。

 デニーは、そのベルの。

 梟ではなく、止まり木のところ。

 ひょん、という感じで摘まむと。

 それを自分の右耳のあたりまで持ち上げて。

 あたかも耳を澄ますかのように目をつむり。

 それから。

 それから。

 いともあっさりと。

 そのベルを鳴らす。

 真昼は、そのベルの音が、聞こえた瞬間に……聞こえた? それは、本当に、聴覚による感覚だったのか? とにかく、そのベルによって励起された、ある種の「振動」によって。真昼は、自分の頭蓋骨の内側に、冷たい薄氷にも似た薬品の味が広がっていくのを感じた。ほんの一瞬だけ、目の前が凍り付くようにして。眩暈に襲われた真昼は、倒れてしまわないように、流し台の縁のところを掴む。振動は恐ろしいほど正確にこの世界のフォンドストラクチャーをあやためかせて……その構造には、距離がなく、時間もない。だから、「振動」の起点は、理解可能な形で、永遠と無限の一点として記録されて。

 そして。

 その記録の上には。

 こう書かれている。

 お客様がお呼びです。

 かちゃん、という囁き声のような音がして、真昼ははっと我に返った。キッチンに直接繋がっている、この空間への出入り口。昨日の夜には、いくらノブをがちゃがちゃとうるさくがちゃつかせた真昼であっても、全然それを開くことができなかったところのあのドアが。驚くほどあっさりと開いていたのだ。

 と……こう書くと。読者の皆さんは「まーた大げさな、外から鍵かけてただけでしょ? 驚くほどのことでもないじゃん」みたいなことをお考えになるかもしれないが。その推測は残念ながら間違いだ、昨日閉じられてから、今日開かれるまで、このドアには鍵がかけられていなかった。ことはもっと単純な話であって、今この瞬間まで、この空間の外側には、全く空間が存在していなかったのだ。空間が存在していなければ、そこに出ることもできない。要するにそういう話だ。まあ別に、わざわざ説明するほどのことでもありませんでしたが、もしも読者の皆さんが誤解されているといけないため、念のために説明させて頂きました。

 さて。

 外側に空間を作り出して。

 このドアを、開いたのは。

 「慇懃」と「鄭重」のシニフィアン。機械仕掛けの猫の人形のようにこの部屋に入ってきたのは、ミセス・フィストの少女であった。昨日と同じような態度、絶対的な無表情と絶対的な無言とを婢のように従えながら。少女は、戸口から一歩だけ入ってくると、時計の針みたいにして一礼をして見せた。

「真昼ちゃん。」

「え?」

「忘れ物はなーい?」

「……ない。」

 これもいつものことであったが、デニーの問い掛け、真昼は思わず素直に答えてしまった。まあ、忘れ物も何も、真昼はほとんど身一つで誘拐されてここまでやってきたのだから、はなっから手に持っている荷物などなかったのであって、この「……ない」という答えで何の問題もなかったのだが。

 それはともかくとして、デニーがベルを鳴らしてから少女が来るまでの時間は僅かに数秒あるかないか。しかもその数秒とて、ベルの「振動」が尾を引いている、その余韻を壊さないようにして、わざとインターバルを置いていただけに過ぎないように感じられた。まるで……まるで、少女は、ドアの外で、ずっと、ずっと、待っていたみたいに。

 しかしデニーは、そのことについても特に何かの驚きを示すこともなく。真昼の答えに「よろしい!」と、なんだか偉そう可愛い感じで返事を返すと。そのまま、書き物机のところから、少女のいる出入り口のところにまで歩いて行って。そして、少女に向かって「じゃ、行こっか!」と言ったのだった。


 通路は。

 昨日と。

 同じ。

 白い。

 白い。

 廊下。

 その廊下を、少女、デニー、真昼、真昼の背中に隠れるようにしてマラーという、これまた昨日と同じ順番で歩いていたのだけれど。ただし、この部屋からあの会議室までという昨日とは逆転した行程の途中で、そのルートの逆転という現象以外に、もう一点だけ昨日とは違う出来事が起こった。

 それは、驚いたことにマラーの行為だった。マラーは、真昼の背中のところで、ということはもちろん真昼には見えていなかったのだが、暫くの間、何やら悩んでいるかのようにもじもじとしていたのだけれど。やがて何事かを決意したらしくその安全地帯(とマラーが思っている地帯)からぱっと抜け出て、たたっと走り出した。真昼を追い越して、デニーのところへ。マラーがそんなことをするなんて予想もしてなかった真昼は、完全に意表を突かれて、そのショートダッシュについて何の対応もできなかったのだけれど。どうやら別に危険なことではないようだった。

 デニーの隣のところまでやってくると、マラーはカタヴリル語で何かを話し掛けた。デニーは、お馴染みの「ほえ?」という間の抜けた反応をしたのだけれど。マラーの話すことを聞くと、一言二言、何事かを答えた。その答え、真昼にはよく聞こえなかったけれど……何か……「ありがとう」という言葉が聞こえたような……とにかく、その答えを聞くと。マラーは、満足そうな顔をして、真昼のところまで帰ってきた。

 ただ、今度は。マラーは、背中に隠れることはせずに、真昼の隣を歩き始めた。一体どうしたのだろうと、真昼が不思議そうに眺めている視界の中で。またもや、しばらくの間、何やらもじもじとしていたのだけど。会議室の扉が近づいてくるにつれて、再び何事かを決意して、きゅっとして真昼のことを見上げた。先ほどから肩のところに触れそうになっていた真昼の腕、手のひらで、ひどくおずおずと触れる。

 真昼は、できるだけ優しそうな声で。

 「どうしたの」と問いかけてあげる。

 その問い掛けに対して、マラーは。

 とても、真剣な顔をして、答える。

「あ、り、が、と、う。」

 何を……何を言われたのか、真昼にはよく分からなかった。言われた言葉は、共通語の「ありがとう」に似ている気がしたのだけれど。しかし、真昼はカタヴリル語を知らない。と、いうことで。いまいちピンと来ていない顔をしている真昼であったので、言いたいことが伝わっていないということがマラーにも分かったらしく。何度も何度も、真昼に向かって「あ、り、が、と、う」「あ、り、が、と、う」と繰り返す。

 とうとう、真昼の右手、人差し指の先、助けを求めるみたいにしてデニーの肩を一回、二回、三回、突っついた。ふわんっという感じで、顔だけで振り返って、フードの奥から「んー、なぁに?」といったデニーに対して。真昼は、「その……この子が何を言ってるのか、教えて欲しい」と訴えたのだった。

「何を言ってるって、そのまんまだよ。」

「そのまま?」

「だから、「ありがとう」って言ってるの。」

「え?」

 デニーは、明らかにどうでもいいと思っているように。

 くるりんと黒目を動かしながら、肩を竦めて、続ける。

「んあー、その子ね、今までも何度か「ありがとう」って真昼ちゃんに言ってたんだけど……あっ、ちなみに「ありがとう」はカタヴリル語だと「ナンドゥリー」っていうんだよ! デニーちゃんやっぱり賢ーい! それで、えーと、何だっけ? あーそうそう、何回か「ありがとう」って言ってたんだけど。でも何だかちゃんと言えてなかった気がしたんだって。ほら、真昼ちゃんってカタヴリル語分かんないから。で、真昼ちゃんにちゃんとありがとうの気持ちを伝えたくって、真昼ちゃんの分かる言葉で「ありがとう」って言ったってわけ。」

 そう言った後で、「さぴえんすってそーいうどうでもいいことこだわるよね」みたいなことを呟いたデニーだったが。真昼は既にデニーの言葉を聞いていなかった。

 マラーが、自分に、感謝をしてくれている? デニーの言葉の通り、今までもマラーは真昼に対して何度か感謝の言葉を伝えてはいたのだが。その「ナンドゥリー」という言葉を、真昼はよく分からないままに聞いていたのだ。もちろん真昼とて、サテライトレベルの他者共感能力欠如者というわけではないため、何となくありがたがられてるんだろうなということくらいは分かっていた。とはいえ……それと、面と向かって「ありがとう」と言われるのとは。やはり、全く違う種類の経験だった。

 マラーが、しかも、わざわざ、真昼のために、デニーから、共通語を(たった一言であるが)教わって。真昼は……今までにない感覚を味わっていた。この感覚を、なんといえばいいのだろう? 心臓から、何かの温かい液体が染み出してきて。それから、自分の肋骨の内側を、とろとろと満たしていくように。小説や漫画などで「胸が暖かくなる」という表現を見ても、真昼は特に感慨を抱かずに読み飛ばしていたものだったけれど。今、真昼は知ったのだ。人は、こういうことが起こった時、実際に、胸の内側に、暖かい何かを感じるのだということを。

 真昼は、マラーのことを、見下ろして。

 自分の心臓から感じた温かさのような。

 とても、とても、暖かい笑顔を見せる。

 どぎまぎしているマラーの。

 頬に、柔らかく手を添えて。

 優しく。

 優しく。

 撫でる。

 と、まあ感動のシーンを演じた真昼とマラーとだったのだが、それはそれとして、当然ながら読者の皆さんは一つの疑問を抱かれるだろう。それは……一体なぜこのタイミングで?という疑問だ。デニーから「ありがとう」という共通語を教わって、真昼に感謝の意を表そうというタイミングは、幾らでもあったはずだ。難民キャンプから逃げ出した直後のルカゴの中で、この白い建物に来るまでの送迎船の中で、あるいは昨日の夜、お風呂に入る前のあの時間に、それをしても良かったはずなのに。それなのに、なぜ、マラーは。デニーとミセス・フィストとが重要な交渉を行う直前、しかも廊下を歩いている途中というこのタイミングで「ありがとう」の気持ちを伝えたのか?

 そう。

 その通り。

 もちろん。

 これは。

 死亡フラグだ。

 正確にはまだ死ぬわけじゃないけどね。これからすぐにそれに類似したことがマラーの身に起こります。分かりやすいしょ? きちんとフラグを立てずにそういうことが起こってしまうと読者の皆さんがびっくりしてしまいますから。重要なことが起こる前にフラグを立てないような不親切なことはしませんよ! これで安心してこの先を読み続けることができるというわけです。さて、無事にフラグも立て終えたところで……どうやら、少女と、デニーと、真昼と、マラーとは。会議室の扉にまで、辿り着いたようだ。

「あっ! そうそう、忘れてた!」

「は?」

「ねえねえ、真昼ちゃん。」

「何。」

「あのね、一つだけね、デニーちゃん、真昼ちゃんに、渡しておかなきゃいけないものがあったの。」

「渡しておかなきゃいけないもの?」

「これ!」

「これは……」

「この部屋で何かあったら、すぐにこれを飲み込んでね。」

 この会話はひどく小さな囁き声でなされた。まるで他の誰にも聞かれないようにしているみたいに。そして、真昼に手渡されたものは……これを飲み込む? しかし、それは、明らかに弾丸にしか見えないものだった。弾薬ではなく弾丸、ケースには入っていない弾頭部分。けれども、ただの弾丸というわけでもなかった。それは……なんとなく氷に似た光のような。あるいは、光が凍り付いて、凝固したような。しかも、真昼の眼球を貫いて、その存在だとか概念だとかの向こう側に向かって放射されているような。そんな輝きを発している、透明な弾丸だった。

 しかも、よくよく見てみれば。その弾丸の内部では何かかが蠢いているようだった。ゆらゆらと、うねって、歪んで、捻じくれるみたいにして。様々な形が浮かび、泳いでいる。例えば、たくさんの直線と曲線。例えば、三つごとに分けられた九つの三角形。そして、これは……ホビット文字? 真昼は、ホビット文字について詳しく知っているというわけではないのだが。その文字、基本的には汎用トラヴィール語と同じような形の文字、それでいて何となく未発達な落書き、動物の足跡みたいな印象を覚える文字は、恐らくホビット文字だと思われた。ホビット文字とはエオストラ地方の魔学者達が使用するイージートークの一つであるところのホビット語を表すための文字であって、魔学的な道具を作る際にある種の記号として刻まれることもある。

 ということは、これは。

 マジックツールなのか。

 しかし。

 だとしたら。

 一体、なぜ。

 こんなものを?

「ちょっと、何かあったらって……」

 ちょっとした嫌な予感というか、デニーがこんなものを渡してきたことに、不吉な感覚を覚えて。真昼は、デニーに対して問いただしかけたのだけれど……残念なことに、ホエン・トゥ・レイトであったようだ。デニーと真昼がこそこそと喋っているうちに、少女は会議室の扉を開いていて。デニーは、真昼にその弾丸を渡すと、さっさかさっさと会議室に入ってしまっていたからだ。

 別に会議室の中であっても普通に問いただせばいいのではないかと思わないわけでもないのだが……真昼は、何となく、この弾丸を、ミセス・フィストとその少女達に見せてはいけないような気がしたのだ。だから真昼は、こっそりと隠すみたいにしてこの弾丸をジーンズのポケットの中にしまうと。ふーっと一つ、深呼吸なのか溜め息なのかよく分からないような息をついて。

 そして。

 それから。

 マラーの手を、しっかりと握って。

 デニーの跡を追いかけたのだった。

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