第一部インフェルノ #11

 SKILLとは、Species KILLerの省略形である。

 いわゆる対スペキエース兵器を指す言葉であるが、法律用語や科学用語として正式にその意味内容が定義されているわけではない。要するに俗称に過ぎないのであって、それゆえによく人口に膾炙されているということもできる。もともとはスペキエースの持つ偶有子に影響を及ぼすことのできる兵器を指す言葉として使われ始めたものであり、現在ではその意味だけではなく、スペキエースの何らかの能力を対象として設計された全ての兵器を意味するようになってきている。

 さて、そんなSKILL兵器だが。その大半はある一つの会社によって製造されているバーゼルハイム・シリーズという製品群である。他にも、例えばヴァンス・マテリアルの偶有子操作系生物兵器や、サリートマトのNY-5用特殊弾であるクラッパ弾など、全く存在していないというわけではないのだが。市場シェアでいえばバーゼルハイム・シリーズの占有率が圧倒的だ。

 バーゼルハイム・シリーズは多岐にわたっていて、イエロー・リズムのように偶有子に直接影響を与えるオーソドックスなタイプや、スピード系スペキエースを逃がさないため、射出時に発射用火薬を使用し、ロケット弾に初速をつけるBRR223のような変わり種もある。ただ、それらの製品にはたった一つだけ共通点があって……それは、スペキエースに対する明白な殺意。

 バーゼルハイム・シリーズは、その全てが、どれだけ効率的にスペキエースを殺すことができるかという設計理念基づいて作られている。もちろん、スペキエース以外の生き物にも使えないことはないのだが。明らかにオーバースペックであったり、あまり使用する意味がなかったり、大体の場合はそういうことになるのが落ちだ。そもそもSKIL兵器という概念自体がバーゼルハイム・シリーズの誕生とともに発生したものだといっても過言ではない。それ以前にもスペキエースという特殊な生命体に特化した兵器がなかったわけではないのだが、それはあくまでも「個人的」なものであった。つまり、つまり大量生産品・市場流通品として、スペキエース殺害に特化した兵器、その初めての兵器がバーゼルハイム・シリーズなのだ。

 そのためバーゼルハイム・シリーズを製造しているその会社はちょっとばかり悪名高い会社となってしまっている。これがまた人間時代以前、神々の時代であればまた変わってくるのであろうが。現在のパブリック・オピニオンの下では……確かに、現在でもスペキエースは差別の対象ではある。だが、それは、あくまでも、例えばポンティフェックス・ユニットやワトンゴラといった、旧神国圏に限られる。第二次神人間大戦の戦勝国側、つまりエスペラント・ウニート、内外不問的人間主義博愛国、サヴィエト・ルイドミといった人間至上主義の国々においては、(少なくとも表面的には)スペキエースに対する差別はポリティカル・コレクトネスではないこととされているのだ。

 トラヴィール教会でさえも第八百九十六回のベルヴィル公会議においてスペキエース差別を有するオイコノミア階級制度を排したくらいだ。そんな中で、その会社は、スペキエースを対象とした兵器を開発し製造している。これは……これは、明らかによくないことだ。スペキエースは特殊な兵器が必要なほど危険な存在だというメッセージを出しているに等しく(まあ実際にそうなのだが)、そのメッセージは世間の人々の間にスペキエースに対する不寛容を広めることになる。ということで、ポリティカル・コレクトネスの観点から、その会社は大変な非難に晒されている(その非難している人々が実際にバーゼルハイム・シリーズを購入していないのかという点は置いておいて)。

 それでも、その会社は、バーゼルハイム・シリーズの開発・製造をやめようとはしない。その理由は? まあ、大変月並みではあるが、憎悪と強欲の問題だ。そのうちの憎悪については、ここで説明することはできない。この物語には全く関係のないことであるし。それに、その憎悪は、絶望と信仰とによって形作られた透明な礼装、「新しい神々」の一人であるオキシュリマルの神話、深く深く海の底に覆い隠されたその会社の起源を、一枚一枚剥ぎ取っていくという作業と関係しているのであって。憎悪の神、憎悪の神、憎悪の神。とてもではないがその神話について書くだけの紙幅があるわけではないからだ。

 しかしながら、強欲については簡単に説明することができよう。全ての強欲と同じように、その強欲は、更に需要と供給とより成り立っている。需要、いくらポリティカル・コレクトネスで誤魔化そうととしても人間が抱く恐怖までは誤魔化せないということ。第二次神人間大戦によって、神々が追放されたこの世界において、人間という種が恐れるに足る天敵となりうる生命体は……スペキエースしかいないのだから。もちろんノスフェラトゥは人間よりも遥かに強く遥かに賢い生き物だ。とはいえノスフェラトゥは恐怖の対象ではない、むしろ畏怖の対象であって。恐怖と畏怖とは少しばかり異なった感情なのだ。人間という生き物は、恐怖の対象を排除しようとはしても、畏怖の対象には服従する生き物だから。そのようなわけで、自然と、恐怖の対象であるところのスペキエースだけが攻撃の対象となる。そして、その攻撃には、やはり兵器が欠かせないということだ。次に供給について、それも独占的な供給について。先ほども書いたように、SKILL兵器の大半はバーゼルハイム・シリーズだ。それがなぜなのかといえば、バーゼルハイム・シリーズを作っているその会社は、非常に特殊かつ独自の技術を有しているからである。その技術が一体どのような技術であるのか、どうやらスペキエースの偶有子に影響するある種の法則に関係しているらしいということ以外には全く分かっていない。その会社は一種の非公開企業であって、技術情報を必要最低限しか開示していないからだ。そして、その会社以外の会社は。その技術を、ほとんど解明することができていない。ヴァンス・マテリアルのそれは粗悪な紛い物に過ぎないし、サリートマトのそれはよく似てはいるが全くの別物だ。ということで、より簡単に、それでいてより良質に、スペキエースを赤い贄として捧げたいというのならば……是非ともバーゼルハイム・シリーズをお試し下さい! バーゼルハイム・シリーズは、お客様が最高のご満足を得るための唯一の選択肢です! そんなこんなで、需要と供給と、バーゼルハイム・シリーズはまさにその均衡点に位置しているのであって。そして、顧客のニーズにベストなアンサーを提案できる、あらゆる独占企業は、素晴らしい富を手にすることができるということなのだ。

 誰も、身を焦がす憎しみと腐り果てた嫌悪に逆らうことはできないし。誰も、素晴らしい富に対する強い欲望には逆らうことはできない。と、いうことで、その会社はバーゼルハイム・シリーズの開発・製造を止めることはできないのだ。それに、その会社が本拠地としているのが月光国であるという理由も大きく関係しているだろう。月光国は、この世界に残されたたった二国残された神国の内の一つであって。それゆえに、スペキエース差別の感情が根深く残っているのだから。

 さて。

 ここで、わざとらしく月光国の名前を出さなくても。

 この長々しい説明によって、何をいいたかったのか。

 読者の皆さんは、とうにお分かりですね?

 そう、その通り。

 バーゼルハイム・シリーズのメーカー。

 憎悪と強欲との直接的な表象。

 その「ある一つの会社」。

 それこそが、ディープネット。

 砂流原静一郎が勤める会社だ。

「ねえ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

 ふかふかと体を包み込むみたいに柔らかいソファーに座って、ちょうどいいサイズのクッションを胸に抱きかかえたままで。かなり長い間、一言も喋らなかった真昼が、ようやく口を開いた。この場の雰囲気にどうしていいのか分からず、といって疲れ切った肉体を襲う睡魔もなかなかの強敵で、そのためこくりこくりと水飲み鳥のように眠りかけていたマラーは。はっと目覚めて、一瞬自分がどこにいるか分からなくなってしまったのだろう、きょろきょろとあたりを見回していた。

「さっきの話。」

「さっきの話?」

「あの……ミセス・フィストっていう名前の女とあんたが話してた、色々な、条件だのなんだのの話。」

「んあー、あの話だね。」

「あれ、どういうこと?」

 その言葉に……ちなみにデニーは、真昼とマラーとが座っているソファーとは少し離れたカウンターのところ。ちょこんと座って、両手を椅子の座面の上について、足をぶらぶらとさせていたのだけれど。とにかく真昼の言葉に、デニーは、何かの言葉で返すことはなく。きょとんとした顔を向けて、いかにも幼く首を傾げて見せただけだった。これは大変愛らしい仕草であったのだが、同時に胃の腑がむかつく仕草でもあって。真昼は、苛立ちを隠す様子もなく続ける。

「あんたの組織、コーシャー・カフェだっけ。そのあんたが所属してる組織だけど、ワトンゴラでバーゼルハイムを売り捌いてるわけ?」

「うんうん、そーだよ。」

 言うと、デニーは屈託のない調子で。

 こくこくと、五回ほど頷いてみせた。

 真昼は、その答えを聞いて……また口を閉ざしてしまった。それは、デニーのそんな態度に対する怒りのためというよりも。どちらかといえば、自分自身の考えていること、言いたいことが、よく分からないせいだった。何か、自分が、怒りを感じているということは分かる。さりとてその怒りの具体的な内容が分からないのだ。誰に対して怒りを抱いているのか、デニーか? ミセス・フィストか? 静一郎か? あるいは、その全員なのか? それに、もしかしたら、それは怒りではないかもしれない。もっと複雑な、様々な感情が絡まりあった、解きほぐしがたい衝動のようなもの。そう、それは衝動だ。何かを言いたい。怒鳴るように、泣き叫ぶように、あるいは、本能的に、吠えるみたいにして。

「ほら、ちょっと前にム=フィニちゃんがアフォーゴモンに例の動画を流したよね。それがたくさんたーっくさん広がって、パーセキューションが起こって。それでー、スピーキーのテロリストが頑張ってくれるようになったおかげで、SKILL系の兵器がワトンゴラ中ですーっごい売れるようになったの! そうなったらさーあ、もう突っ込むっきゃない、このすたんぴーど!ってなるじゃない! で、コーシャーカフェは……」

「ねえ。」

 泣きたい。

 叫びたい。

 吠えたい。

 その怒りを。

 だから、真昼は。

 デニーの言葉を、途中で遮って。

 吐き捨てるみたいに、こう言う。

「そのスピーキーっていうの、やめてくれない?」

 さて、デニーと真昼との会話が、まあそれほどではないけれど、切りが良いといえなくもないタイミングなので。ここらへんで今の状況について触れておくのもいいかもしれない。今の状況、つまりデニーと真昼とマラーとがいるこの空間が、果たしてどこなのかということについて。

 #10が終わった直後、#10の最後で予言した通りに。デニー達三人はミセス・フィストの五人の少女の一人に連れられて、あの会議室を後にしていた。ちなみにミセス・フィストは、これもやはり予言にあった通り、三人プラス一人についていくことなく。あのシニフィエを一切感じることのない笑顔で、かちかちという音でも聞こえそうなくらい無機的なやり方で手を振りながら。そのまま会議室に残って、三人プラス一人がドアから出ていくのを見送ったのだった。

 ドアの外は廊下だった。と、こう書くとなんだか途轍もなく当然のことであって、わざわざそんなこと書くのはちょっと馬鹿みたいに見えるかもしれないが。ことはそう単純ではない。かといって、どう書けばこの異常さが伝わるのだろうか? それは、どちらかといえば、感覚によってはっきりと捉えられるものではなく、なんとはなしの雰囲気の問題だったからだ。

 なんとなく。

 硬質な生命体の。

 体内、のような。

 先ほどまでいた会議室と同じで、床も壁も天井も白く塗り潰されていて。けれども、さほど広い空間というわけでもなかった。せいぜいが、ファニオンズの査察官だとか政府の重役だとかが宿泊するような、それなりに格式が高いホテルの廊下程度の広さだろう。つまりルームサービスを運ぶボーイがお客様に不快感を与えないようにすれ違える程度の広さということ。ただし、そういう廊下と子の廊下には少々異なった点があって……それはこの廊下は、一つ所にしか通じていないということだ。

 会議室の出口から、その一つ所への入り口まで。この廊下は真っ直ぐに一本の廊下であった。長さもそれほど長いわけではなく、恐らく五十ダブルキュビトくらいだろう。向かう先にあるのは、これもやはり先ほど出てきた会議室にあったものと全く同じような、高級感のある重々しい黒、木造りのパネルドアだ。ミセス・フィストの少女は、デニー達三人を、そのドアにまで導くと。一本道である上に、目的地はそこにしかないので、明らかにそんな先導は必要なかったのではあるが……とにかく、ドアの目の前で、軽く膝を折って。いかにも「優雅」のシニフィアンとして一礼をしながら、その扉を指し示したのだった。

 まるで無言で。

 まるで無感情。

 そんな人形じみたコーテシーを全くもって当然のこととして受け止めて。「さーんくす、ぎびんぐっ!」と元気よくお礼の意思を表明しながら。ちゃんとお礼ができて偉いね、それからデニーは、鍵一つ見当たらないその扉、金色に光り輝くノブを掴んで、がちゃっと開いたのだった。

 その先に。

 あったのは。

 間違いなく。

 ゲストの。

 ための。

 素晴らしくファビュラスで、素晴らしくマグニフィセントで。そんなホテルの一室の、完璧な紛い物だった。まさに完璧だ、傷一つなく作られたガラス造りの模造ダイヤモンド。例えるならば、そんな印象さえ起こさせるくらいに。

 どこが、一体どこが紛い物なのか? 簡単なことだ、これがホテルの一室であるのならば、どんな安物のホテルであったとしても必ず一つの目的のもとに作られているはずだ。それは、人間が、その中で過ごすという目的。この世界にあるどんなホテルであっても、その想いの過多はあろうが、そこに宿泊する人間が過ごしやすく過ごしてくれるように、という切なる想いによって設計されている。だが、この一室からは、そんな想いはみじんも感じられなかった。あたかも何かしらの自動機械が「高級ホテルの一室」の最大公約数的なイメージを抜き出して。そのイメージを極力単純化した上で具体化しただけといった感じ。

 基本的には二つのベッドルームと一つのリビングルームから構成されていた。入り口を入るとリビングルームに直接繋がっていて、その奥の方、右側と左側のそれぞれにベッドルームへと続くドアがついている。まずはベッドルームに入ってみよう。右のそれも左のそれも、左右の配置が反転しているだけで全く同じ構造をしているのだが。どちらの部屋も、真ん中に置かれているのは、明らかにそんな大きい必要はないと思われるキングサイズのベッドだった。ゆったりと寛げるを通り越して、こんな大きい必要ある?とさえ感じさせる。ただ部屋自体がかなり広い部屋なので、圧迫感を感じることはなかった。部屋の全体が洒落た間接照明で照らされている。床には金槌か何かで叩いても音一つしそうにないほどゴージャスな絨毯が敷かれ、ベッドの両脇には一つずつベッドサイドテーブルがある。ベッドは枕元が壁際になるように置かれていて、その壁の上のところには一枚の絵が飾られているのだが、実際問題としてそれは絵ではなかった。どういうことかというと、何も書かれていないということだ。完全に白紙のカンバスだけが、何かしら意味があるもののように飾られている。

 ベッドルームには更に二つの扉がある。一つ目の扉は入って右側の奥にあって、ちなみにこの扉の近くにはなぜか安楽椅子タイプのソファーという不可思議なものが置いてあるのだが、これはウォークインクローゼットへの入り口だ。いやー、この世界には安楽椅子タイプのソファーなんてあるんですね、びっくりしました。これすごい嵩張らない? それはいいとして、次に左側の奥にある扉だが……っていうかその前にさ、バスルームの壁をガラス張りにする風潮、あれなんなんですかね? お洒落だってのは分かるんですけど、こう、シャワー浴びた後の水浸しの風呂場がいつまでもいつまでも目に入るのって何か嫌じゃない? 私は嫌です。ということで、その扉はバスルームへの扉だった。

 正確には、バスルームに至る前には脱衣所というか洗面所みたいな空間があって、その次のドアを抜けるとバスルームという構造になっている。ただし、先ほども書いたように……あーと、はっきりと書いたってわけじゃないけど、とにかくベッドルームの左側の壁はその一面がガラス(もしくはガラスに似た透明な物体)張りになっていて、更に脱衣所だか洗面所だかとバスルームを遮っている壁もやはりガラス張りになっていて。そのせいで、ベッドルームからバスルームまでが丸見えになっている。マジでこの設計にどういう意味があるのか分からないし、こういう部屋に泊まって「すっごく落ち着くー!」みたいなことを言ってるやつの気持ちが皆目見当不能なのではあるが、まあそういうわけなのだ。バスルームがどういう感じなのかっていうのはまた後々説明します。

 斯うっと、ベッドルーム周りについてはこのくらいにして。今度はリビングルーム周りについて。これがまた……どこから説明すればいいのか……まずホテルの部屋にキッチンなんて必要ある? ルームサービス頼めよ! そんなわけで、先ほど入り口を入ってすぐにリビングルームに繋がっていると書いたのだが、実はそれは正しくはなく。正確に書けば、入ってすぐのところにあるのはキッチン的な空間だった。しかもそこそこ本格的なキッチンで、人の背丈よりも大きな金属色の冷蔵庫や、作り付けの電気オーブン、不歌石に埋め込まれた流し台に対面式のカウンターテーブルと、この他にも必要なものは全て揃っている。そして、その対面式のカウンターテーブルがリビングルームに繋がっているということだ。そして、リビングルームには……暖炉がある!

 暖炉だよ暖炉! なんで? ここ、南アーガミパータなの。分かる? 熱帯地方で、冬がないの。よっぽどのことないと暖炉なんて使わないでしょ? ラグジュアリーの意味履き違えてんじゃねぇの? そして、その暖炉のすぐ隣には書き物机が置かれていた。どぉおおおお考えても設計ミスだろ! 暖炉に火ぃ入れたら暑いですからね! いや、暖炉使わないと思うけど、仮に使ったらの話! 絶対に暑いですから! 暑いを通り越して熱いです! 大体さ、書き物机から見て左側に暖炉が置かれてるんだけどさ、こんな近距離に暖炉があったら左側だけ熱いだろ! 左側だけ赤外線で焼かれる! 書き物なんてしてる余裕なくない? と、こんな感じでリビングルームの左側には暖炉があって、暖炉の左側には書き物机が置かれていて、それから暖炉の右側にはトイレへと続く扉が開かれている。トイレは……まあ、普通かな。普通っていっても高級ホテル的には普通っていうアレだけど。っていうかバストイレ別なんだね。そこはすごくいいと思う。真昼は月光国人なので、バストイレ一緒のシステムには少し抵抗感があるのだ。ちなみにトイレが具体的にどうなってるかって興味ある人います? いる? いないよね、じゃあ説明は飛ばします。

 次にリビングルームの右側であるが、暖炉から直線を引いたまっすぐその先にソファーが置いてあった。壁沿いに置かれた三人掛けのソファーと、そのソファーの右側、L字になるようにしてくっついておかれた二人掛けのソファー。ソファーの上にはふかふかのクッションが三つほど置かれている。そして、そのL字の形の内角の部分、ちょうどよく嵌まり込むくらいの大きさのダイニングテーブルが置かれている。ちょうどよく嵌まり込むといっても、もちろんぴったりと嵌まり込んでいるわけではなく、人が寛いで足を延ばせる程度の隙間を残して、という話であるが。ちなみにダイニングテーブルは、一度も錆びたことがない純銀みたいな物質を、一本の棒に加工して、それを滑らかな曲線に曲げた脚の上に、長方形に切り抜いたガラスの天板を乗せたものだった。

 それから、そのソファーの後ろ側の壁には……これが、本当に、マジで。この「高級ホテルの一室」的な空間の中で一番意味が分からない構造物なのであるが。つまり、水槽のようなものが埋め込まれていた。埋め込まれたというか、壁の一部がガラスになっていて、その向こう側が水槽になっていたという表現の方が正しいかもしれない。大きさはかなり大きいもので、まず高さとしてはソファーの背の少し上のところから、一ダブルキュビト程度の上部まで。横はその壁の右端から左端まで届くほどの長さだった。で、その水槽の中に何が入っていたのかというと……こう、なんか、白いものだ。いや、ちょっと待って、違うの、これすごく説明が難しいの。えーとね、具体例を挙げると、ほら、なんかよくあるじゃないですか。水と油を一緒の入れ物の中に入れて、その油だまりから小さな球体の油が幾つも幾つも、浮かび上がったり沈んだりするやつ。何が楽しいのか分からないけど、その油にいろいろなライトを当てて楽しむやつ。それです、というか、それっぽいやつです。どうやら水槽の中は水で満たされているみたいで、その下のところと上のところに白くてべたべたとした何かの粘液が溜まっていて。それで、下の溜まりと上の溜まりを、溜まりから分離した、小さな球体みたいに丸まった粘液が行ったり来たりする、そんなオブジェなのだ。別にライトに照らされたりはしていないのだが……恐らく、これは何かスタイリッシュであるような効果を狙って据え付けられたオーナメントなのであろうが。少なくとも真昼には、ただただ不気味な印象しか与えなかった。

 そして。

 それから。

 ベッドルームにも。

 リビングルームにも。

 この空間には。

 窓が一つもない。

 そんな。

 場所。

 だった。

 さて、そんな場所にやってきたわけなのだが。デニーと真昼とマラーとがドアを通り抜けて、その部屋の中に入っていくと。ミセス・フィストの少女は、自分はその部屋に入ることはせずに、無言のまま、そっとドアを閉めてしまった。何の音もしなかったのだが、自分の背後でドアが閉まる気配だけは感じることができた真昼は。はっと振り返る、ドアは既に完全に閉ざされていて……真昼は、金でできているのかと思うほどきらきらしたノブに手を伸ばして、がちゃがちゃと回してみるが。そのドアが、真昼の手によって開くことは、残念ながらなかったのだった。

 一方で、デニーは早速冷蔵庫の中を漁っていた。無邪気! かわいい! 百点! それはともかくとして、冷蔵庫の中には思いのほか色々なものが入っていた。ヤシやタマリンドやのジュースが瓶に入って並んでいて、先ほど会議室で振舞われたヨーガズもある。アルコール類はないようだが、それも当然だろう。真昼もマラーもまだ未成年だったし、デニーはアルコールが効果を発揮できるような体の構造をしていない。

 それから、色とりどりの果物だ。マンゴー、ライム、バナナ、リンゴにザクロ、パパイヤにブドウ。そういった果物が、綺麗に切り分けられて、白い陶器の皿の上に乗せられて、整然と並んでいたのだ。しかもどういう原理でそうなっているのか分からないが、少しも変色をしておらず、プラスチックで作った置物のようにつやつやと美しかった。

 そんな果物の皿の一枚を、左手に取って。

 それからジュースの瓶を、右手に取って。

 いかにも両手にハッピー!という感じ。

 デニーは、真昼に声をかける。

「真昼ちゃーん! 何食べたい? なんでもあるよお!」

 何でも。

 あるわけでは。

 ない。

 ちなみに真昼はというと、全然ハッピーではなかった。というか、この男はよくもまあこんな呑気でいられるものだと、ちょっとした感心の気持ちさえ抱いていた。どんなにがちゃつかせても全く開く気配さえないドア。要するに、三人は、ここに監禁されたに等しいというのに……と、ここまで考えて。いや、やめようと、真昼はその考えを打ち切った。アーガミパータで真昼が学んだことはめちゃくちゃたくさんあるのだが、その中でも最も重要な教訓の一つに「この世の中にはどんなに悩んでもマジで無意味なことがある」という教訓がある。現在のこの状況は、きっとこの教訓に当てはまるパターンだろう。ということで、真昼は悩むことをやめて、とにかく腹を満たしておくことにした。

「どいて。」

「ほえ?」

「そこから、どいて。」

「なんで?」

「自分が、食べるものは、自分で、選ぶから。」

 真昼の、その非常に感じが悪い態度に。けれどもデニーは全く気にする様子もなく「はいはーい」とだけ言って、冷蔵庫の前から離れていった。真昼は(それに未だに真昼のそばにくっついて離れないマラーも)、冷蔵庫の前に立つと、その中に入っているもの、一つ一つ目を向けていって。一番端の方にあった果物の皿の一つと、あとは、先ほど口にしても大丈夫だったヨーガズの瓶を取った。別にどれを口にしても死ぬことはないだろうとは思っていたが、人間のような下等生命体に特有の、大して意味があるとも思えない警戒心なのだろう。

 そして……ところで、デニーは既にカウンターのところ、椅子の一つに座って、ほわほわとキュートなお目目で真昼のことを見るともなしに眺めていたのだが。真昼は、両手が塞がっているために肘の先で冷蔵庫を閉じた後、デニーがいる方に向かうことはしないで、そのままリビングルームの中心の方へと進んでいった。つまり、それはソファーが置かれているところということで。三人掛けのソファーの方に、マラーと一緒に腰掛けると。ダイニングテーブルに、皿と瓶とを置いたのだった。

 さて、ここまでの描写をお読みになって、読者の皆さんは非常に重要なことに気が付かれたことだろう。そう、その通りだ。真昼は、そのダイニングテーブルに、一切のカトラリー類を持ってきていなかったということだ。フォークだとか、ナイフだとか、あるいはスプーンだとか。そういったものがないというわけではない。ちゃんと、一通り、キッチンに揃っている。けれども、真昼は、そういったものには全然関心を向けないで。目の前に置いた皿から、手掴みで果物を食べ始めた。

 フォークあるんだから使えよ! といってしまいそうになるが。真昼は、どうも、そういうことの一切が面倒になってしまったらしかった。一つ、二つ、果物をとって自分の口の中に運ぶ。それから、一つ、自分のすぐ横に座っているマラーの口の中に運ぶ。そういった作業の過程を、何度も何度も、繰り返して。

 一言も、喋ることのないまま。

 時折、天井から下がっている。

 無駄に豪華なシャンデリアを。

 見上げるともなしに見上げて。

 真昼と。

 マラーと。

 果物を。

 食べ終わり。

 そして。

 それから。

 今に至ると。

 いうわけだ。

 そう、このリビングルームって照明がシャンデリアなんですよ。そうかー、シャンデリアかー。まあシャンデリアくらいあるだろうって感じの部屋ではあるけど……天井もそこそこ高いし……いや、それはどうでもいいとして。真昼が「そのスピーキーっていうの、やめてくれない?」と言ったところにまで、物語が戻ってきたということだ。そして! 真昼のその言葉に対するデニーの反応やいかに!

 デニーは。純粋に驚いた様子で「ほえ? どーして?」と聞き返した。デニーがこういう反応を示す時には、わざわざ馬鹿正直に理由を説明しても何の意味もないということ、さすがの真昼も学んでいた。デニーは、きっと、何の悪意もなくスペキエースに対する差別を行っているに違いない。なんだか、真昼は疲れてきてしまった。それでも、こう答える。「とにかく、やめて」。まあ、悪くない。賢い返答だ。

 真昼は、それから。ダイニングテーブルの上に置いたヨーガズの瓶を取り上げる。瓶の口に直接自分の口をつけて、そのままぐいっと一呷りすると。隣にいたマラーにその瓶を渡した。マラーは、交わされている言葉については一言も分からないものの、何やら真昼が険悪な気持ちになっているということだけは分かるために、どうしていいのか分からず俯いてしまっていたのだけれど。渡された瓶を素直に受け取って。やはり瓶の口から直接に、一口分のヨーガズを飲み込んだのだった。

 真昼は……先ほどまでは、果物を食べ終わるまでは。ほとんど「生きること」だけに集中してしまっていた。大抵の下等生命体は、飢えて渇いている時にはまともに頭が働かないものだ。だから、今まで真昼の思考に思い浮かんでいた罪悪感についても。やはり、どこか……優先順位としては三番目くらいに来ていたもので。一番目、自分が生き残ること。二番目、マラーを生き残すこと。その二つが、真昼にとっての最優先事項であって。もちろん、その「マラーを生き残すこと」という目的は罪悪感から発生した目的ではあったのだが。少なくとも、その目的には具体的な対象が存在していた。その分では、それほど深い思考は必要なかったのだ。それはオートマティックに展開される論理であって。

 しかし、つい先ほど。獣でももう少し上品に食べるのでは?とさえ思わせるくらいの、ひどく貪欲な食べ方で。皿の上に載っていた果物を、一応はマラーと分け合いながら、食べ終わると。刻一刻と限界に近付いていた飢えと渇きとを、ようやくのこと満たすことができたために。真昼は、ようやく、罪悪感と向き合い始めたということであった。

 そして、それは。

 あくまでも。

 真昼自身の。

 罪悪感であって。

 衝動について。要するに、衝動についてだ。怒りであり、憎しみであり、悲しみでもあるその衝動。誰に向ければいいのか、よく分からない衝動。真昼の中で、今、一番、大きくなっている、感情。真昼はこの感情について考える必要があったということだ。持て余している感情を何とか御するためには、その感情が一体なんであるのか、具体的にはどういう感情であるのか。それを明らかにする必要があるから。だから真昼は、デニーに対して「とにかく、やめて」という言葉を口にした後で。黙り込んだまま……目の前に置かれている暖炉の奥、浅く冷たい闇を見つめて、その衝動について考え始めたのだったが。

 そんな。

 真昼に。

 対して。

 デニーは。

 くすくすと、笑い始めた。パロットシングを戮した時と同じように、ハッピーサテライトを嘲った時と同じように。無垢で、無邪気な、あの笑い方で笑い始めた。そして、今笑われているのは。パロットシングではなくハッピーサテライトでもなく、砂流原真昼であって。

 その笑い声に、脊髄に刻み込まれた反応として、真昼の全身がぞっと怖気を震って。真昼は、思わずデニーの方に目を向けてしまった。目を向けられた方のデニーは、その時に、ちょうど……座っていた椅子から、とんっとつま先を立てて、愛くるしい態度で飛び降りたところだった。その顔には、なんだか、とても他愛のない、子供らしい悪戯を、企んでいるような。そんな風な、子供っぽい表情が浮かんでいて。

 いつものデニーの歩き方、一歩一歩ステップを踏んで、軽やかに星と星の間を歩いていくような、あの歩き方で。真昼が座っているソファーの方へと歩いてくる。真昼は、そんなデニーに対して……特に、何もしなかった。何かしても無駄だということ、これもやはり、さすがの真昼とて、今日という一日で理解できていたからだ。デニーが何かをしようとしているのなら真昼にどうにかできることではない。だから、真昼にできることは、待つことだけ。稚い子供の形をした災害を、ただただ待っていることだけ。デニーは、楽し気に歌う種類の六脚虫ででもあるかのように、とんっとんっとステップを踏んで。

 真昼の。

 目の前まで。

 やってくる。

 それから、デニーは……ディンガー、ディンガー、ディンガー。いきなり、くるっと、その身を翻した。その拍子に、てんっと左足で床を蹴って、右足がひらっと泳いで。つまり、その体は、すとんっと、まるで、転んでしまったみたいに。ガラスのテーブルの上、当たり前の顔をして、座り込んだということだ。

 右足をすっと伸ばして、左足はちょっと曲げて。くすくすと笑うデニーの姿に、真昼は少しばかり虚を突かれてしまったようだった。なぜなら、虚を突かれていなかったら、そんなことをすることを許していなかっただろうからだ。そんなこと、とは。とても、とても、整った顔をしたデニー。死蝋みたいに綺麗な顔をしたデニー。が、笑ったままで、小さく、首を傾げて。そして、その手を、そっと伸ばして。まるで、いたわるみたいにして、真昼の、顎の先に、触れたということ。

 触れられたところから冷たく死んでいくみたいだった。それほどの低温というわけでもないのに、氷のように凍り付くというわけでもないのに。何か、生きるということに、決定的に重要な何かが、欠如しているという温度。それから、二つの目。柔らかく、べったりと、包み込もうとでもしているかのように、真昼の目を覗き込んでくるそれらの目は……中で、何かが……何かが、蠢いている……貪婪で、淫猥で、そして、何よりも、信じられないくらい古い何かが……

 欲情にも似た感覚を。

 注ぎ込まれて、いる。

 そんな風に、ただただ全てを。

 明け渡しかけている、真昼に。

「ね、真昼ちゃん。」

 デニーは。

 甘い声で。

 こう囁く。

「お風呂、入ってきたら?」

 その瞬間に、ぱっと、真昼を呪縛していた何物かが解かれた。今までの現象の全てが冗談であったとでもいうかのように、いや、実際にそうなのだろう。真昼の顎を離したデニーは、けらけらと徒に笑っているだけなのだから。「だって、真昼ちゃん、血塗れなんだもーん!」「それに、真昼ちゃんのおよーふく、ぐーっちゃぐちゃになっちゃってるよ!」。

 真昼が、まず感じたのは、羞恥であった。デニーの……この男の思い通りに。自分の肉体の何もかもを、弄ばれたという感覚。馬鹿にされた、決定的に馬鹿にされた。しかも、さほどの意味を持つわけでもなく。ただただ子供の暇潰しのようにして。顎に触れていたデニーの手を振り払いたかったが、先ほども書いたように、その手はもう既に離されている。

 ところで。その羞恥を別にして考えれば。デニーの言ったことは、全くもって的を射た指摘であった。今の真昼の状態は、よくいえばロックンロール、悪くいってもロックンロールであって。お世辞にもクラッシックのオーケストラとはいい難い状態であった。上に着ている丁字シャツは既に乙女の恥じらいというものをかなぐり捨てていたし、下に履いているジーンズはダメージ・ジーンズというのを通り越してペンネ・アラビアータみたいになっている。べっとりと全身を汚している血液は凝固しかけていて、ちなみにこの大半は真昼自身の血ではなくサテライトの衛星の返り血なのだが、しかも汚していたのは服だけではなかった。先ほど手掴みで果物を食べていたので、手のあたりと口の周りは、少しばかり拭われていはいたが。ていうか真昼……手、洗わないで食べてなかった……? そのことについては考えないとして、それ以外の部分は血と、その血によってべたべたと張り付いた塵によって、見るも無残に薄汚れていた。髪なんて見てみてよ、そりゃ石窟寺院で起きた時にも多少寝癖はついてたけどさ。全体的にぼっさぼさだし、ところどころが固まってどす黒い毛玉みたいになっている。

 だから。

 風呂に入るというのは。

 妥当な提案で、あって。

「……バスルームはどこにあるの。」

「んーとね、あそことあそこにお部屋があるでしょ? どっちもベッドがあるお部屋なんだけど、入ってから左側にあるドアがお風呂のドアだよ。んー、まー、見れば分かると思うけど。」

 もしも妥協することについて学ぶことが大人になるということならば。アーガミパータについてからの短い時間で、真昼は急速に大人になったということができるだろう。というよりむしろ老けたといった方がいいかもしれない。デニーは、基本的に話が通じない男で、何を言っても無駄なのだから、こちらに実害がない限りはその言う通りにしているのが無難だ。この事実は……それを、たとえ分かっていたとしても。それなりの賢明さがなければ実行できることではない。その意味では、真昼は、随分と懸命になったということもできるだろう。

 まあ、それはいいとして。真昼は、デニーのことを、その視線で射すくめようとしているかのように睨みつけたままでソファーから立ち上がった。それから、マラーのこと。一時たりともデニーと二人きりにしておきたくないのだろう、一緒に来るように促す意味合いで肩に手を添えながら、優しく立たせる。デニーは特に何のコメントもせずにそんな真昼のことを眺めていたのだけれど。やがて急に興味を失ったとでもいうかのようにふいっと目を離してしまった。なおざりに「いってらっしゃーい」とだけ言うとダイニングテーブルから立ち上がる。

 真昼は。

 右側の。

 寝室の方へと。

 向かいながら。

 ふと。

 どうでもいいことに気が付く。

 デニーは、部屋の中でも。

 フードを、外していない。


 風呂場に机いる?

 ということで、予告通り風呂場について。いや、分かる、分かるよ。たぶん風呂場でスキンケアとかするための机なんでしょ? お風呂から出るとすぐに肌の乾燥が始まるっていうし、湿度が保たれている風呂場でそういう諸々の作業を終わらせたいっていうアレ? 分かる、分からないわけじゃない。でもそれさ、脱衣所でやるんじゃだめなの? 出たばっかりならそんな変わらなくない? 湿度。

 風呂場の大きさは、縦の長さが七.五ダブルキュビト程度、横の長さが五ダブルキュビト程度。二つのフロアに分かれていて、その机は下のフロアにあった。あった、というよりも、壁から天板が突き出ているといった方が正しいかもしれない。風呂場に入ってすぐの左側、二ダブルキュビトくらいの長さがあって、烏冠石らしき黒い石材でできた、洗面用のテーブル。

 椅子の代わりに背凭れのないクッションソファーが置かれていて、濡れても大丈夫なように触り心地のいいビニールで包み込まれている。ソファーは二つ並んでいて、それぞれのソファーに座った時にちょうど目の前に来るように、一つずつ鏡が据え付けられている。神話時代にポンティフェックス・ユニットの国々で良く描かれていた、貴族階級向けの肖像画の、その額縁のようにして、シンプルな金細工で周囲を飾られた鏡だ。

 鏡の下側には蛇口が取り付けられているのだが、またこの蛇口が無意味にラグジュアリーな代物であった。まず蛇口自体が明らかに金っぽい物体でできていて、こちら側に向かって滑らかな曲線を描いて伸びている。そして、その曲線のところどころに、何か複雑な数式に従っているかのように切れ込みが入っているのだ。要するに幾何学的な金細工でできていたということで。それからその左右には一つずつ水栓がついているのだが、その水栓はきめ細かなファセットを刻まれた宝石でできていた。

 その蛇口の下には受け皿がついている。受け皿と書いたが、本当にただの受け皿であって、排水のための穴のようなものは一切開いていない。白い陶器に切子が刻まれて、その切子の一つ一つに金細工がなされている、その受け皿は……実は、この受け皿に水が落ちてくると、そのままその水が消えてしまうようになっているのだ。それは受け皿そのもののに仕掛けられた仕組みというよりも、この空間自体を包み込んでいるフォースフィールドによる仕組みといった方がいいのだが。とにかく、それゆえに、この受け皿には排水口は必要ないということだ。

 机の下には小さな戸棚が作りつけられていて。

 ここに基礎化粧品の類が入っているのだろう。

 しかし、真昼には関係のないことだった。

 なぜなら。

 真昼は。

 常時ノーメイクだからだ。

 高校生なんだからせめてスキンケアくらいはしろよ……と思わないこともないのだが。まあ、大半の男は生まれてから死ぬまで化粧をしないわけだし、本人がしたくないといっているのに無理やり押し付けるのもよくないことだ。それはともかくとして、今度は風呂場の右側について。

 その場所はガラスの壁で仕切られていて、要するにシャワーブースだった。このシャワーブースが……これもまた……本当に、なんというか……明らかにラグジュアリーを優先しすぎて、プラクティカリティを犠牲にしているとしかいえないシャワーブースだった。普通のシャワーって、ほら、ホースの先にヘッドがついるやつで、手に持って使えるじゃないですか。でもね、このシャワーブースは違うんです。なんと、天井そのものにノズルが組み込まれてるんです。どうです? いってることがよく分かんないでしょ? 天井に四角い板みたいなのが嵌め込まれてて、その板に無数の細かい穴が開いているんです。で、その穴からシャワーが出てくるってわけで、つまり局地的な雨みたいなシステムになっているということだ。あるいはスプリンクラーのようなシステムといってもいいかもしれない。これだと下半身を洗う時とかすごい面倒だし、それにちょっとタオルを濡らしたいだけなのに全身ずぶ濡れになってしまう。それくらい、ちょっと考えれば分かりそうなものだが……あっ、ちょっと待って? なんか、この、銀のワイヤーみたいなの……もしかしてこれってシャワーホース? シャワーホースだ! なんと、そこにはシャワーホースも取り付けられてあった! え? じゃあシャワーホースだけで良くない? このスプリンクラーみたいなシャワーは何であるの? 設計者の……意図が……よく分からない……とにかく! そのシャワーブースには他にちょうど手の届くくらいの位置に、小さめの壁龕が二つほど彫られていて。そして、片方の壁龕には石鹸が置かれていて、もう片方の壁龕にはシャンプーとかリンスとかが置かれていた。

 以上が、下のフロアについて。

 次は、上のフロアについてだ。

 といっても、上のフロアについてはさほど書くことはない。入り口から三ダブルキュビトくらいのところに、幅広の踏み板で三段くらいの階段があって。風呂場に階段とか取り付けんなよ……転んだら危ないだろ……その階段の上の空間に浴槽が置かれているというわけだ。不歌石を掘り抜かれたものらしき一枚板の浴槽で、まるで一本の指もない手のひらで水を受けているような柔らかい形になっている。二人か三人が一緒に入っても大丈夫なくらいの広さがあるにも拘わらず、ゆったりと横になっても溺れないくらいの深さに抑えられている。総合的な評価としては、なかなか使い心地のよさそうな浴槽といえなくもなかった。でもいくら浴槽がいい感じでもシャワーと浴槽が離れてるお風呂場は好きになれません。

 さて、これで。

 風呂場についての。

 説明は、お終いだ。

 ところで。

 今。

 真昼とマラーとは。

 その浴槽に、少なくとも傍から見れば、とても寛いだ様子で横たわっていた。もちろん浴槽の中には良い感じで湯が満たしてあって、その湯の中に、真昼とマラーとは肩のところまで浸かっているということだ。ちなみに、まずは真昼が仰向けの姿勢、浴槽の縁のところに寄り掛かっていて。そして、マラーがその上にちょこんと乗っかっている形。だから、体の大きさの違う二人、その二人ともがちょうど肩まで浸かることができているのだ。ちなみに、二人の姿は、シャワーブースできちんと全身を清めていたためにかなりまともなものになっていた。もちろん髪の毛はびしょ濡れで、梳かしてもいないのでぐちゃぐちゃではあったが。それでも先ほどまでの状態よりはよほどましだ。

 そういえばマラーは、シャワーというものを浴びるのも風呂というものに入るのが初めてらしかった。まあ、よく考えれば当然というかなんというか、アーガミパータの貧しい人々、いい換えるならば大半の人々は、自分達の家にバスルームなんていう構造物を設置していない。そんなものを作る金などないし、それ以前にそもそも必要ないからだ。このクソ熱い国で、わざわざ熱いお湯を浴びたがる物好きはいない。そこら辺の川に飛び込めば大抵の要件はなし終えるというもので。

 だからこのバスルームに入ってきた時、マラーは目を丸くして、口をぽかんと開けて、ただただびっくりしているようだった。なんだかよく分からないが、色々な未知の構造物がある部屋。いや、もちろん、リビングルームに入った時にも随分とびっくりしていたし。キッチンという空間に対して強い好奇心を見せたりだとか、あのよく分からない白い粘液が上に上がったり下に下がったりするオーナメントを不思議そうな眼で眺めていたりもしていたのだが。バスルームに関しては、そういった不思議好奇心よりも、もっと強い驚きを示したようだった。

 シャワーブースの中でいきなり全身にシャワーが降り注いできた時など、驚きのあまり声をあげてしまっていたし。石鹸だのシャンプーだので全身が泡だらけになった時も、その訳の分からない泡から逃れようとわたわたしていたし。皆さんも初めてシャワーを浴びた時にご経験があると思うが、シャワーに慣れていないうちはなんだか溺れてしまいそうな気分になるものだ。だから真昼は、マラーを洗ってあげる時に、天井から降り注ぐシャワーではなく、わざわざシャワーホースを使って、少しずつ少しずつ洗ってあげなくてはいけなかったくらいで。

 とはいえ、そんな真昼も。

 ちょっと不思議に思ったことがある。

 この浴槽の中の、お湯のことである。

 浴槽の周りには蛇口のようなものはついていない。それではこのお湯はどこから現れたものなのか? 最初から浴槽に溜められていたもの? それにしては、このお湯の温度はやけにちょうど良すぎるような気がした。全然冷めているという感じがしないのだ。まあ、しかし……この空間のホスト、ASKは。何もない空間からヨーガズを召喚できるような存在なのだ。お湯の温度が冷める冷めない程度のこと、その原因を、いちいち深く考え込む必要などないのだろう。

 深く考え込むべきことは。

 もっと他にあるのだから。

 ほんの少し前まで、浴槽の中に溜まっているお湯が温かいということ、しきりと不思議がっていたマラーも。いくら南アーガミパータが常夏の土地であったとしても川の水が温かいということはないからだ、そんなマラーも今ではすっかり落ち着いて、真昼の腕の中に抱きかかえられながらうとうととしている。水の中、ほとんど重さを感じないくらいの小さな小さな体。すーっと閉じたり、はっと開いたりしている瞼を見下ろしながら……真昼は、その「もっと他にある」「考え込むべきこと」について考え始める。

 衝動に。

 ついて。

 そもそも、少しでもまともに考えてみれば。そんなこと、分かり切ったことではなかったか? デニーがバーゼルハイム・シリーズを売り捌いていることなど。デニーが所属しているコーシャー・カフェという組織がどういう組織なのかは知らないが。それでも、今、この時、デニーがしていることは。その組織がどういう組織であるかということを推測するのには十分な材料だ。手段を択ばずに真昼を救い出し、そうすることで静一郎の機嫌を取ろうとしている。デニーみたいな男が所属している組織、そんな組織が静一郎の機嫌を取ろうとする理由なんてたった一つしかない。そして、そのたった一つの理由がバーゼルハイム・シリーズに関係していないわけがない。ただ、そうだとすれば、デニーがワトンゴラでのバーゼルハイム・シリーズの販売ルートを手放そうとしているのは、若干奇妙なことではあるが……そんなことは今は些細なことだ。今、本当に、重要なことは。デニーが死の商人であるということ。

 死の商人、死の商人? ああ、なんて陳腐な表現なんだろう。とはいえ、ぴったりだ。デニーほど死の商人という表現が似合う生き物がいるだろうか? そうだとすれば、デニーに出会う前に、多少手垢にまみれてしまった死の商人という表現も。それゆえにここで使ってはいけないという理由にはならないだろう。死の商人、その死の商人に、真昼は、今、助けられようとしている。これは……別におかしいことではない。むしろ自然なことだ。真昼は、しょせん、静一郎の娘なのだから。死の財務責任者の娘が死の商人に助けられることに何の奇妙がある? 死の財務責任者、これもまたぴったりな表現だ。それにこの言葉は手垢にまみれてもいないし。

 何を、真昼は怒っているというのか? 何を憎んでいる? 何を悲しんでいる? デニーとミセス・フィストとの会話を聞いて……真昼は、一体、なぜこんな感情を抱いたのか? 複雑な衝動。まさか、デニーを「信じていた」というわけでもあるまい! 真昼は自分がそこまで低能な人間だと信じたくはなかった。下らない冗談でもいうようにして、一人の人間を噛み千切り殺した男に。自分の兵隊を、平気で見殺しにするような男に。そして、何より……スペキエースのことを、スピーキーと呼ぶような男に。自分が、あろうことか、何らかの種類の「好感」を抱いていたなんて。そんなこと、真昼は認められるはずもなかった。そうだとすれば……真昼の奥で燃え盛るようなこの感情は。一体、どういった種類の感情だというのか?

 一つ。

 一つ。

 数式を解くように。

 自分の感情を。

 解き解していく。

 この感情に、一つの顔を与えよう。その顔は……ひどく醜いものだ。完全に錯乱した怒りと、不具の野良犬のような憎しみとのせいで、その顔は目も当てられないほど歪み切っている。薄汚れた髪の毛は哀れなほどに乱れ、ぎりぎりと噛みしめた口の中、ところどころの歯が欠けていて。そして、何よりも……その左目だ。ぽっかりと抉り取られ、腐りかけた眼窩だけが残された、その左目。要するに、その感情に与えられた顔とは、サテライトの顔だったということだ。

 目をつむって、深く深く、内省の冷静な温度の中に沈んでいく真昼の瞼の裏側で。サテライトの顔は、真昼には想像することもできないような憎悪と共に、その口を開いて。一言一言を、はっきりと区切って、こう言う。「てめぇが」「砂流原真昼」「だって」「いうんなら」「てめぇを」「殺すのに」「何の」「理由も」「いらない」。そう、つまりはそういうことなのだ。以前にも一度触れたように、この衝動は罪悪感から生まれた衝動であって。その罪悪感とは、真昼の最も根本的な感覚、ほとんど原罪の感覚といってもよいような感覚。砂流原静一郎の娘であることの罪悪感ということ。

 サテライトが言った通りだ。

 もしも、真昼が、砂流原真昼ならば。

 真昼を殺すのに何の理由もいらない。

 「砂流原」は溶けた鉛で作られた冠。その冠を戴けば、どろどろと、どろどろと、顔中に灼熱の温度が流れ落ちてくる。いくら手で拭っても無意味だ。拭おうとした手が、焼け爛れ、火脹れを起こして。叫ぼうとしても、口は、冷えて固まった鉛によって塞がれている。それに叫べたとしてなんと叫べばいいというのか? 助けて? しかし何から助ければいいというのか? お前は被害者ではなく加害者であるというのに。顔中に、顔中に、赤々と燃え盛る鉛が垂れ落ちて。顎の先から、したしたと滴っていく。そして、やがて、その鉛は、冠を被った人間の目を焼き潰し……結局のところ、この世界の絶望は、何も見えなくなる。

 真昼にとって、本当に、ぞっとするようなイメージ。しかしながら、ただのイメージというわけでもない。これは真昼が、よく見る悪夢なのだ。一時期は睡眠薬を飲んでいた、眠りの底にまで至れば夢を見ないから。けれども、次第に、睡眠薬の効き目も薄れてきて。今では、もう、何の意味もない。底に至るまでの眠りは、真昼からは、もう、奪われてしまって。諦めと共にその悪夢を受け入れるしかなくなったのだ。

 この夢の、最も、悍ましいところは。

 焼けた鉛が真昼の目を潰すところだ。

 そうして、真昼は、何も見えなくなり。

 誰の苦痛も、知ることができなくなり。

 そして。

 それから。

 静一郎と。

 同じ生き物になる。

 真昼は……ディープネットの強欲によってもたらされた食べ物を食べ、ディープネットの憎悪によってもたらされた服を着て。ディープネットの強欲と憎悪とに育てられて生きてきた。つまり、真昼は、強欲と憎悪との娘なのだ。この世界で一人のスペキエースが死ねば、その分だけ真昼の手のひらの中にさらさらと幸福の砂が注がれる。さらさらと、さらさらと。真昼は血に濡れた食べ物の味しか知らないし、涙で染められた布の触り心地しか知らない。真昼には、正子の気持ちがよく分かった……かわいそうに、最後には精神病院に閉じ込められて。クッションが敷き詰められた部屋の中で自殺するのは、きっと、とても難しいことだっただろう。真昼にも正子の一万分の一でも常識があれば。これ以上汚れる前に、自ら命を絶っていなければいけないのに。

 そう、その通り。真昼は、死ななければいけない人間なのだ。だからスペキエースが真昼を殺そうとしているのならば。本当ならば殺されなければいけない。何の抵抗も示さずに、その殺意を、無条件に受け入れなければいけない。それなのに今の真昼は果たして何をしている? 意地汚く、生きることに、しがみついている。今日、真昼は何をした? パロットシングが無残に殺されるのをただ見ていた。正当な憎悪を抱くサテライトの攻撃を全て退けた。そして、今、生き残るために、死の商人と、死の商人に、死の取引をさせようとしている。死の取引? ああ、馬鹿みたいな表現だ、笑ってしまいそうなくらい馬鹿みたいな表現だ。けれども、生き残ろうとする真昼ほどには馬鹿ではない。

 さて、真昼さん。

 これでもう、お分かりですね。

 自分が、誰に対して。

 どう思っているのか。

 その衝動の。

 正しい、内容が。

 そうだ、つまるところ、そういうことなのだ。真昼は自分自身に対して死ねと思っている。死ね、死ね、死ね。今ここで、このアーガミパータの地で。REV.Mにその身を投げ出して。ばらばらに引き裂いて貰え。それが、お前に、相応しい、運命なのだから。惨たらしく殺されろ。これ以上……これ以上、罪のないスペキエースを犠牲にして生きて……そして、静一郎のような人間になってしまう前に。

 このアーガミパータで目覚めてから、ずっとずっと物事をまともに考えることができなかった。ほとんどの生命体が持つ本能、自己保存の本能、生きたいという本能によって、引き摺られるみたいにして駆け回っていたからだ。たから、真昼の本当の望み、強迫観念にも似た祈りは完全に抑圧されていたのだ。しかし、しかし、今となっては。この、少なくとも見かけ上は安全な、いや、安閑とした空間においては。もう生きようとする必要はなくって。それゆえに真昼はようやく死ぬことを考えることができるようになったということだ。

 そうだ。

 死のう。

 死ななければならない。

 生きる、価値が、ない。

 自分は……一体、今まで何をぐずぐずとしてきたのだろうか。アーガミパータに来てからの時間のことだけではなく、その前の時間のことも言っているのだ。正子が……正子が死んだ時に。採るべき道を自らの行いによって示してくれた時に。自分は、すぐに、その道を進むべきだったのに。

 明日になったら。デニーとミセス・フィストとが、また醜悪で卑陋な契約を結ぶ前に。スペキエースを虐げる新たな取り決めを交わす前に。何とかして死んでしまおう。きっとあのキッチンに何か使えるものがあるだろう、包丁だとか、そういったものが。本当なら、サテライトか、あるいはエレファントに、謝ってから死にたかったけれども。もちろん許されるとは思っていない、ただ、ただ……自分が愚かだったと、それだけを伝えたいということだ。この身を彼女達に捧げて死にたかった。けれども、今は、もうそんな時間はない。

 明日になったら。

 明日になったら。

 明日に、なったら。

 と……そこまで考えた時に。真昼は、ふと、自分の腹の辺りにある何かくすぐったい感覚に気が付いた。自己嫌悪と罪悪感との深みから急速に引き上げられるみたいにして。死んだようにつむっていた両目を、はっと開く。その視線の先にいたのは当然のようにマラーだった。

 どうやら、うとうととした眠気もなんとなく覚めてしまったようで。いつの間にやら真昼の膝の上から降りてしまっていた。といっても湯船から出ていたというわけではなく。真昼の体の左側に、ふわんと収まっていたということだ。それから、マラーは、真昼の腹を何やら不思議そうに眺めていた。いや、違う。真昼の腹自体を眺めているわけではない。そうではなく、そこに描かれた魔学式を眺めていたのだ。

 シャワーを浴びていた時や、浴槽に浸かってからしばらくの間は。お風呂という体験にすっかり夢中になってしまっていて、きっと、この魔学式にまで気が回っていなかったのだろう。だが、今では、お風呂に関する興奮もすっかり落ち着いて。奇妙な色をして真昼の腹の上で光っているこの魔学式に興味を移したということだろう。そしてマラーはただ眺めていたわけではなかった。指先で触れて、くるくると、その魔学式の過程を徒になぞっていたのだ。

 真昼が感じた。

 くすぐったさ。

 要するに。

 その指先のことで。

 真昼は……真昼は、驚いてしまった。マラーを見た瞬間に、まるで、安っぽい悪夢から覚めたみたいに。死にたい、死ななければならない、という感情がすっかりどこかへ行ってしまったのだ。今まで生きてきた、真昼が生きてきた、その全ての総体としての結論、自分が死んだ方がいいという実に正当なコンクルージョンが、安っぽい? そう、それは安っぽい感傷に過ぎなかった。マラーを見た真昼の頭蓋骨の内側に、唐突に湧き上がってきた、この切実な、新しい、衝動に比べてみれば。

 ああ、いつだって昔の恋人のことはつまらなく思えるものだ。それはともかくとして、真昼の、その新しい衝動とは。つまるところ――ある意味では何も新しいものなどではなく――マラーのことを守らなくてはならないという衝動だった。このか弱い少女のことを。一つの罪によってもその身を汚されていない少女のことを、守りたいという衝動。マラーと出会ってから、ずっと、真昼のことを魅了していた考え。自分が、初めて、誰かの役に立てるのではないかという考え。

 ただただ無為に死ぬのではなく。

 誰かのことを守るために生きる。

 それは。

 とても。

 魅力的な。

 考えなのだ。

 デニーとは全く違う無邪気、デニーとは全く違う無垢。そんなイノセントで、マラーは、真昼の腹をこしょこしょといじっていたのだけれど。やがて、見下ろしている真昼の視線を感じて、はっと目を上げた。その真昼の視線とかち合ってちょっとだけ焦ったような顔をする。お腹を勝手にいじってしまったことで真昼の気分を害してしまったのかもしれないとでも思っているのだろう。真昼は、そんなマラーに向かって、心配ないとでもいいたげな顔をして笑いかける。

 そうだ。

 今は。

 死んでは。

 いけない。

 マラーのために生きよう。

 生きなければ、いけない。

 もしも真昼が死んでしまったら。マラーは一体どうなってしまうというのだろう? デニーはこの少女についてまるで気にもかけていなかった。ちょっと邪魔なお荷物くらいにしか考えていなくて。そしてデニーは旅先で邪魔になった荷物を何の感慨もなくいとも簡単に捨ててしまうタイプの人間で。それに、ミセス・フィストも同じようなものだ、利益にならないことをするわけがない。マラーのことを任せられるとはとても思えない。

 もしも真昼が死んでしまったら。マラーは……マラーも、間違いなく、死んでしまう。いや、死ぬことができれば幸せかもしれない。もっともっと恐ろしい運命は、このアーガミパータには、幾らでもあるのだから。げらげらと笑ってしまうほど愉快な運命。ということは、もしもマラーのことを守りたいというのならば、真昼は死ぬわけにはいかないということだ。真昼には自分勝手に死ぬことはもう許されていないということだ。

 確かに、真昼が生きることは。

 未来において、数多のスペキエースを。

 虐殺することに繋がるのかもしれない。

 けれど、それが、どうしたというのだろう。

 今、目の前に、いる。

 この少女に比べれば。

 それは、大した犠牲ではない。

 それは、大した犠牲ではないのだ。

 もちろん、真昼がはっきりとそう考えたというわけではない。けれども、はっきりと考えなかったとしても、要するにそういうことだった。真昼はここには存在しない数多のスペキエースとマラーとを天秤にかけて。その天秤は、マラーの方がより重いという判断を下したということなのだから。人間は、思考力の劣った、下等な生命体だから。目の前に確かに存在しているものの方が、目に見えない存在よりも、ずっとずっと大切なものだと、とかく思い込んでしまいがちなもので。

 とにかく、真昼は。死ぬのはやめることにした。生きることにした。その結果として、自分が、どんなに卑劣な人間になってしまうとしても。デニーとミセス・フィストが達するはずの邪な合意の上で、一つの駒にならなければならないとしても。無為に死んでいくよりも、誰かのために汚れてしまおうと決めたのだ。なぜなら……きっと、静一郎なら、絶対に、そんなことは、しないだろうから。静一郎が、誰かのために、自分のことを犠牲にするはずがない。だから、静一郎のようにならないためにも。真昼は、マラーのために、自分を犠牲にしなければならないということだった。当然ながら、真昼自身がこの通りに自分の考えを理解していたというわけではないが。それでも結論としては同じことだ。真昼は、汚れながらも、生きていくということ。

 だから、真昼は。

 体の横のところ。

 マラーに、向かって。

 そっと手を伸ばした。

 無抵抗な体、とても痩せていて、信じられないほど軽い体。すっかりと抱き上げ慣れた体をまた抱き上げて。それから自分の胸の中にすっぽりと抱え込む。マラーは、少しだけびっくりしていたけれど。絶対に危険はないということは分かっていたので、されるがままだった。抱え込む、抱え込む、抱え込む。真昼は、この少女の運命を抱え込む。あたかも、それは、自分の運命と一つにしようとしているかのように。

 生きよう。

 生きよう。

 二人で生きていこう。

 祈るように、そう思いながら。

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