第一部インフェルノ #10

 ASKが何かの略称であるという者もいる。

 真偽のほどはきっと神々にも分からない。

 またそれだけではなくASKについて分かっていないことはとても多い。世界最大の非公開会社であるASKは、一般的な非公開企業と比べてみても、公開している情報が遥かに少ないのだ。ASKについてよく考えてみることは少ないが(大海や星々の構造について誰がよく考えてみる?)、よく考えてみれば、ASKという会社がいつから存在しているかということさえ分からない。少なくとも……少なくとも、第二次神人間大戦の間からは存在していたようだ。第二次神人間大戦において、人間陣営側も、それに神々陣営側も。ASKから大量の兵器を購入したという記録が残っている。しかしながらえそれ以前については定かではない。一説によればASKという企業体は時間を超越しているのだという。それどころか可能性さえも。有りうることだ。

 一般的な人々は、ASKという会社について、きっとASKホンの会社であるという漠然としたイメージを持っているだろう。いうまでもなくそのイメージは正しい、そのイメージを持つ一般的な人々が思っているよりも遥かに正しい。実はASKホンの全て、そのハードウエア、そのソフトウエア、それだけでなく、そのネットワークまで。その全てはASKによって作られたものであるからだ。特にネットワークは、今では教会によって作られたアフォーゴモンと相互通信が可能になっているが(よく勘違いされることであるが二つのプロトコルは未だに「統合」されてはいない)、そもそもはAISKOという通信プロトコルによって組み立てられた独自のネットワークであった。

 では、このことから一体何を推測することができるだろうか? それは、こういうことだ。ASKの本質は、世界最大規模の、軍事情報企業であるということ。もちろんAISKOについて密かに語り継がれている伝説、このプロトコルがグーダガルドの「神殺し」一族であるマルクス家からの依頼によって作られたものであるという伝説については、ASKの企業イメージを貶めようとする連中が広めたまことしやかなデマゴギーに過ぎないだろう。けれども。それでも。AISKOが第二次神人間大戦中に作られた通信プロトコルであるということ、そしてそれによって組み立てられたネットワークは軍事目的で使用されていたということ、紛れもない事実なのだ。そして、今のASKも。いかに愚かな大衆が、誰もが持ってるASKホンの会社なのだし、色々と軍事関連の仕事もしているからといって、軍需企業だって決めつけるのはよくないんじゃないかと、なんとなく思っていたとしても。ASKは、絶対に、間違いなく、軍需企業なのだ。

 いや、まあ、軍需企業だから悪いっていってるわけじゃないんですけどね。なんにせよ何かの生き物を殺すことは楽しくないわけじゃないですし。とにかく、もしもその証拠、ASKが軍需企業であるという証拠が欲しいというのならば。どこの集団でもいい(トラヴィール教会とリュケイオンは別だけど)、その軍事費あるいは国防費の歳出を確認してみるがいい。サリートマト、フィールグッド・インク、ヴァンス・マテリアルといった名だたる軍需企業と並んでASKの名前を見出すことができるだろう。それも少なくとも仕入れ先上位五社の中に。ということで、つまり、ASKは「人をたくさん殺すこと」によって金を儲けてきた素晴らしく「強欲なプレイヤー」であって。

 アーガミパータで行われている。

 血と内臓とのゲームの参加者に。

 まさにうってつけの集団なのだ。

 さて、ASKの説明についてはこのくらいにしておくとして。物語の焦点を送迎船へと戻してみよう。デニーと真昼とマラーとが乗った送迎船は。今、ちょうど、製錬所の上空に辿り着いたところだった。この近さから見てみると……真昼にとって、それは、その製錬所は、何か信じられないくらい巨大な生き物の、がぱっと開かれた口腔であるかのように見えた。威嚇するように立ち並んだ煙突は獲物を引き千切る犬歯、待ち受けるように蹲っているタンクは獲物を噛み砕く臼歯、そういった煙突やタンクを結びつけるトランソロスは、歯と歯の間をねっとりと伝う唾液。

 送迎船は。

 その口の中。

 誘い込まれるようにして。

 そちらへと向かっていく。

 この船は一体どこに向かっているのだろうか。いや、どこにもなにも製錬所に決まっているのだが、その製錬所の中でも一体どの建物へと向かっているのだろうか。そんな真昼の疑問は、さりとてデニーに尋ねるまでもなく、すぐに答えを得ることができた。この製錬所が口だとすれば、夜空の星を舐めようとして、その口から突き出された、長い、長い、舌。いや、こんな風な書き方をすると、もしかして誤解されてしまうかもしれない。その建物……建物? とにかく、その物体が、どこか生物的な要素を持つものであると。だが、断言してもいい。それはない、その物体から何かしらの「生きた」印象を受けることは絶対にないと。

 その物体には、一片の愛も感じなかった。一片の作意も、一片の恣意も、一片の創意も。あるいは、その物体からは、一片の温度も感じることはなかった。それは……それは、しかし、何に例えればいい? 人間が知る者のうちで、その物体に一番近いものは。恐らく数式であろう。それは、数式そのものではないにせよ、その数式から必然的に求められるところの幾何学的現象だ。そして、具体的にいえば……それは、一つの六角柱であった。

 無秩序に広がっているように思える製錬所の、しかしながらその物体は、完全な中心に存在していた。色は白、こういう工業施設の中に立っているとは思えないくらい、傷一つ、汚れ一つない、恐ろしく潔癖な……要するに、このASKの社領を取り囲んでいたあの壁と同じ何かしら(限りなく物質に近い影響力)によって構造された白。頂面も他の六つの面もこの白い色で塗り込められていて、しかもその塗り潰し方は純然なる璧にも比せるほどであった。つまり、何らの入り口も、何らの窓も、その物体には開いていなかったのだ。それに、側面の壁(それを壁と呼んでもいいものか)について。もちろんそれは長方形をしていたのだが、それはただの長方形というわけではない。横の長さを一とすると、縦は一足す五の平方根を二で割った長さ。つまり、その長方形は、恐ろしいほど正確な兎耳比で成り立っていたのだ。

 デニーとは、まるっきり違った方向で。

 真昼には信じられないほどの非人間性。

 この世界を支配する法則によって。

 自然と、結晶した、だけみたいな。

 そんな物体に向かってこの船は進んでいたのだった。真昼は、ほとんど、本能的な、空恐ろしさ、みたいな、感覚を、覚える。それは今までアーガミパータで感じてきた恐ろしさとは全く別種の恐ろしさであった。アーガミパータの恐ろしさ、あるいはデニーやテロリスト達の恐ろしさといってもいいのだが、そういった恐ろしさは。確かに無知から発した純粋な恐怖ではあったが、それにしても、その無知が何についての無知であるかという点は共通していた。それは「死につながる暴力」への無知だ。アーガミパータは「死につながる暴力」の場所だから。けれども、この建物についての恐怖は……その「存在」それ自体についての無知からくる恐怖だった。この建物は暴力ではない。そんな分かりやすい概念ではない。一体何なのかが全然分からない。いや、こういいかえたほうがいいかもしれない。こういう建物を建てる「存在」が、一体、どんな思考回路をしているのか、それが分からない。

 人間にとっての機械。

 機械にとっての人間。

 そんな。

 超えることのできない。

 絶対的な、差異。

 真昼は。

 その差異を。

 感じたのだ。

 しかし、いうまでもなくデニーはそんな差異を、あるいはそんな恐怖を感じているわけがなかった。デニーちゃんは賢いからね! デニーは真昼よりずっとずっと多くのことを知っている。だから、ASKの考えそうなことなど、百も承知千もご理解万に至れば万知万能なのであって。だからこそ、ソファーからぴこりーんと立ち上がりながら、真昼に向かってこう言う。

「真昼ちゃーん、そろそろだよ。」

「そろそろ……」

「んもー、そろそろ着くってことだよー。」

 その白い六角柱のことをほとんど心を奪われるかのように見つめていたせいで、デニーの言った言葉をそのまま返してしまった真昼であったが。腰のあたりに拳をあてて、ちょっと爪先立ちになった、ぷんすこぴーみたいな感じのポーズをとって、ぷくーっとほっぺたを膨らましているデニーのことを見ると。その実に腹立たしい、可愛い子ぶった(といっても実際に可愛いのだが)ポーズへの苛立たしさによって一気に目が覚めてしまった。

「それで。」

「それで?」

 明らかに不機嫌そうな真昼の言葉。

 また、デニーは、そのままで返す。

「どうするの。」

「どうするの?」

「ここは、ASKの製錬所なんでしょ。」

「そーだよお。」

「ここに来て、あんたは、どうしようっていうの。テレポート装置でも借りるつもりなわけ? それとも国境までエスコートしてもらうとか? でも、あんた言ってたよね。ASKに頼るのはリスクが大き過ぎるって。そのリスクっていうのは何? それから、どうやって、そのリスクを解決するつもりなの?」

「んーとね。」

 真昼の言葉に、デニーは。

 暫くの間、考えていたが。

 やがて。

 まーいっか、とでもいった感じ。

 いかにも適当に、こう、答える。

「そういうことは、真昼ちゃんは、気にしなくていいよ。」

「は?」

「だいじょーぶ、デニーちゃんが何とかするから。」

「そんな……」

「真昼ちゃんは、お話だけ合わせてね。」

「ちょっと……」

 真昼の質問に何一つ回答していないにも拘わらず、きゃるーんというあの感じで、素敵にキュートなウィンクをして。無理やりな有耶無耶さで会話を打ち切ったデニーに対して、真昼は更に追及を続けようとしたのだが。これから何が起こるのか、せめてそれだけでも知りたいという意味合いの、その至極まっとうな要望は、しかし、真昼の口から出ることさえ叶わなかった。

 すしーんという、つまり、ずしーんよりもずいぶんと静かな衝撃。あたかも、この世界の全体を覆ってしまいそうな、けれどもとても柔らかくふわふわした雪の塊が、音もたてずに降ってきたような。そんな衝撃を真昼はその身に感じたのだ。それは、とても、とても、静謐であったので。真昼は驚いたりはしなかったのだけれど、ただ、ちょっとした違和感を感じて、その違和感の正体を掴むために、デニーに対する追及の言葉を飲み込んだのだ。

 このすしーんという衝撃が送迎船がどこかに着陸したことによる衝撃であるということは明白であった。それはいい、その事実には問題がない。問題なのは……真昼は、まだ、窓の近くに置かれた長椅子に座っていたのだけれど。その長椅子から立ち上がって、窓のすぐそばまで歩いていく、窓の外を見る、そして……違和感の正体が一体なんであるのかを確かめる。

 やっぱりだ。

 思った通り。

 この船は、どこにも着陸していない。

 なぜなら周りには何もないのだから。

 この船は、空中に、浮かんだまま。

 しかし、まるで、確固とした土台。

 その上に、停まっているかのように。

 完全に、虚無の上に、静止している。

 つまり、違和感とはこういうことだったのだ。この船は全く高度を下げていなかったのにも拘わらず一体どこに着陸したというのだろうか。いつもならば、ここらへんで真昼による真昼らしい反応、つまり阿呆丸出しの「どういうこと……?」みたいなセリフが入るところであるが。さすがに真昼も馬や鹿やの類ではあるまいし、少しずつではあるが学習してきたようだ。ちょっと考えれば分かることをちょっと考えて分かろうとしたということ。そして、ちょっと考えると……外の防壁に対してデニーが言っていた「フォース・フィールド」という言葉を思い出すことができた。偉いぞ真昼、もう少しだ! そして、真昼は、もう少し考えてみると……この船が目には見えないフォースフィールドのようなものの上に停泊したのではないかという推測に到達する。

「真昼ちゃーん、何してるの?」

 デニーの声がした。

 真昼は、振り返る。

「早く、早く、行くよ!」

 デニーは……いつの間にかまた開いて、外の世界への出入り口となっていた、例の軟口蓋の前に立っていた。真昼に向かって二度か三度ほどぱたぱたと手を振ると。それから、すててんっという感じで外の世界へと出て行ってしまう。

 それを見て、真昼は。どうしようかとほんの一瞬だけ逡巡してみるも、自分には選択肢などないということを思い出す。真昼は、要するに、この地獄、アーガミパータでは、デニーの庇護のもとでしか生きていけないのだ。ひどく腹立たしいことではあるが、それは認めなくてはいけないことで。だから、真昼は、真昼と同じように長椅子から立ち上がって、真昼のすぐそばで、不安そうに真昼のことを見上げていた、マラーの手。マラーのことを励ますように、あるいは自分のことを励ますように、ぎゅっと握りしめて。それから、デニーに従うようにして、開きっぱなしの軟口蓋の方へと歩き出したのであった。


 恐る恐る足を踏み下ろしてみると、案の定、スニーカーの底に何かが触れる感触があった。最初は僅かに、やがて大胆に、足に体重をかけていくと……大丈夫。その感触は急に失われるということもなく、無事に真昼の全体重を支えてみせた。片足だけ下ろしていた姿勢を、もう片方の足も、やはり恐る恐るながら下ろしていって。全身が送迎船の外側に出る。とうとう真昼の体は、少なくとも視覚の上では、何の支えもなく虚空の上に立っているように見える状態になったのだった。

 緊張し切っていた体から、ほっと息を吐きだして。その後で真昼はまた送迎船の中を振り返る。マラーがまんまるく目を見開いて真昼のことを見つめていた。上空五百ダブルキュビト、イコール一エレフキュビト近くの高さがあるこの場所に、足場さえもなく、それでもしっかりと立っている真昼のことを。そんなマラーに向かって、自分の側、一般的には狂気といわれるであろう側に、導くみたいにして手を差し伸べる。一般的には狂気であったとしても、ここでは、アーガミパータでは、それが普通なのだから。真昼は、優しく、優しく、こう言う。

「アトゥ、パラヴァーイレイ。」

 マラーは、真昼にそう言われると……不思議そうな顔をして、差し出されたその手に視線を落とした。それから、もう一度、真昼の顔を見上げる。この人が、この人がそう言っているのなら。きっと、大丈夫なのだろう。そういう顔をして、真昼の右手を、自分の右手で、ぎゅっと握りしめると。いとも容易く、此岸から彼岸への一歩を踏み出してしまう。子供という生き物は、愚昧なほどに、愚劣なほどに、他人を信じてしまうことの証明として。

 などと。

 真昼と、マラーと、二人が。

 愛と感動を演じている時に。

 一方の、デニーが。

 何をしていたのか。

 と、いうと。

 この場所が地上から約一エレフキュビトの場所であって、しかも自分を支えているのが目に見えないフォース・フィールドであるということなど、鼻先にも引っ掛けることなく。この場所が地上であろうが上空であろうがまるっきり関係ありませーんとでもいわんばかりの態度で、さっさかさっさかと随分と先の方まで歩いていってしまっていた。

 ちなみに随分と先の方というのは、真昼とマラーとがぐずぐずしている送迎船の地点から目的地へと向かってということであるが。その目的地というのは、つまるところ、例の六角柱の物体のことだった。何せ目に見えないもので、真昼にはフォースフィールドがどこにどうやって伸びているのか分からなかったが。送迎船から百ダブルキュビトほど先、こちら側を押し潰してしまいそうな迫力で立ち塞がっている、あの白い壁、六角柱の側面のうちの一つまでは、どうやら繋がっているようだった。

 なので真昼は。

 そちらの方へ。

 なるべく、デニーが通ったところ。

 足場があると、いえそうなところ。

 選んで、歩いていく。

 よく高いところに来た時には下を見ないようにして歩いた方がいいという話を聞くが。ここまで非現実的な状況だと、もう下を見ようが上を見ようが大して関係がなかった。なんだか馬鹿馬鹿しくなってきてしまうのだ、それにもし下を見て足が竦んでしまったとして、どこをどう踏み外せば下に落ちて死んでしまうのかが分からない。ということは失敗のしようもないというもので、そんなわけで真昼は思う存分下を見ることができた。

 下の光景は、とはいっても、特に何か見るべきものがあったわけではない。製錬所があるのはここからだと少し下の方で、しかも、今の時刻は既に宵の口、薄暗くてよく見えないのだ。辛うじて、真昼が通っているところの真下、灼熱に赤く燃え上がって、どろどろと溶けた何かの金属が、ゆっくりゆっくりと流れていく光景が見えているけれど。あとは、刺し貫くような造成の光、何かを照らし出しているライトの、その何かしか見えない。そして真昼にはその何かが何の機械であるか、または何の機械でないのかということが分かるほどものを知っているわけでもないのだ。

 というわけで。

 顔を、上げて。

 前の方を見る

 六角柱は……光を放っていた。いや、それは真昼の目には光と見えただけで、あるいはその「力」が周囲に及ぼしている影響が、まるで「照らし出している」という現象に似ていただけで。正確には光ではなかった。それは、光の力であり、重の力であり、あるいは他のあらゆる力であるところの、一種の歪み。時間と、空間と、その前にある、純粋な力……まあ、その力の、紛い物のような何かであるが。この世界の、この時間の、この空間においては。数個の超知性を持つ個体を除いては、その力は解き明かされていないからだ。ASKとて全能というわけではない、しかるべき道理から逃れることができるわけではないのだ。オルフォルテアはまだ明かされていない。少なくとも、人間によっては。少なくとも、セレファイス・ウォーが起こるまでは。

 ということで、仮にそれを光と呼ぶとして。その光がなんであるか真昼が知る由もないその光に、またもや真昼が魅入られてしまっていると。真昼って何かと魅入られやすいですね、それはともかくとして、その光の方向へと向かっていたデニーの後ろ姿が、急に歩みを止めた。真昼とマラーも、デニーが止まったところまで追いつくと、同じように止まる。一体、こんなところで何で止まったのだろう。まだ、目的地であろう六角柱までは、五十ダブルキュビトほどある……そんなことを、真昼が考えていると。

 どうやら、デニーが。

 小首を傾げたらしい。

 こちらからは、フードしか見えないけれど。

 けれども、そのフードが、ゆらんと揺れて。

 そして。

 それから。

 その行為に。

 反応を。

 示したかの、

 ように。

 白い六角柱の。

 一つの、側面。

 その、更に一部が。

 ぱっくりと、開く。

 開く? 開いていた? いや、そんなはずはない。ついさっき傷一つ汚れ一つないと描写したばかりだ。あの壁には、あんな穴が開いていたはずがなく……それでも、真昼には、その穴がまるで最初から開いていたもののように見えた。それほど自然に、あるいは、それほどいつの間にか、その穴は開いていたということで。真昼が向かっていた先、デニーが向かっていた先。この目に見えないフォースフィールドが続いている先の、白い壁に突き当たった突き当り。縦の長さが五ダブルキュビト程度、横の長さが八ダブルキュビト程度。つまりはこの穴も、横に倒した形ではあるが、恐らくは一点の瑕疵さえ有り得ない兎耳比によって構成されていて。

 さて。

 完全なる冷血。

 完全なる透徹。

 完全なる機械。

 完全なる数式。

 その穴から。

 何かが。

 姿を。

 表す。

 真昼は、それを見た時に……それが、その何者かが、死神であると確信した。その確信は、真昼の中では絶対の精度であって。その何者かが、死を、この世界に存在し概念するあらゆる死を、化身したものであると理解したのだ。もちろん、読者の皆さんもご存知の通り、実際の死神は死神なりに気さくなやつなのであって、この何者かは死神ではない。真昼の確信も理解もまるで見当外れのものだったのだが……とはいえ、それでも、真昼がそう考えてしまったことについては理解できないわけではないのだ。

 その何者かは冷たかった。ここで使用している冷たいというのは比喩的な意味であって、生命的な温度、愛の温かさ、血と肉の自然さ、そういったものが一切感じられなかったということだ。その何者かの動作からは、全ての、全ての、無駄が排されていた。その冷たさは決して冷酷の冷たさではない。冷酷にはまだ幾分かの人間らしさが通っている。その冷たさは、そんな生易しい冷たさではない。ただ存在しているだけの存在の、絶対零度の冷たさだ。まさに、そう、まさに、この六角柱の物体から感じる、完全な無感情と、同じような現象であるということ。

 白く、白く。

 凍り付いた。

 生命の欠如。

 そして。

 近づいてくるにつれ。

 その何者かの輪郭が。

 明らかになってくる。

 結論からいうと、それは一人の何者かではなく複数人の何者かであった。一人? 複数人? 人という単位を使用できるのは、それらが人と呼ばれるに値するものであるとするならばの話だが、まあ、ここでは、仮にそう数えておこう。正確には、その数は六人。一人の女と、五人の少女だ。

 まず、女についてだが……ひどく精巧で、ひどく巧緻で、ひどく緻密な、一個の人形のように見えた。だが、それほど良くできた人形でありながらも、何となく、どことなく、上手くいうことはできないが、何かが、どこかが、確実におかしいのだ。真昼が一番奇妙だと思ったのは、その纏っている物だ。いや、纏っている物それ自体がおかしいというわけではない。それ自体はごくごく普通のサーティーなのだから。

 まあ、ごくごく普通とはいえ、エスペラント・ウニートとかに難民として避難してきたアーガミパータの人間が、ニュースタンリー州あたりで開く土産物屋で売っているような、そういうサーティーではなく。いわゆる本物のサーティーではあったが。刺繍や捺染によるのではなく、経糸と緯糸とを織りなして描き出された図案。赤い綿をベースとして、金の糸で模様が織り込まれている。そして、その模様は、神話時代からアーガミパータに伝えられているある種の魔学式だ。布の右端と左端と、両端に簡易な魔学式が一本ずつ。それから中央には大きく複雑な魔学式。それは、ある種の魔除けとして機能するはずのものあったが。さりとて、その女が、そういった魔除けの効果を期待してこのサーティーを身に着けているかは疑問だった。

 なぜならば。体に巻き付けるようにして、余った布を右肩に垂らして。そして、左肩は露出した、パーフェクトに正しい伝統的な巻き方ではあっても。その女にとって、そのサーティーは、完全に、間違っているものだったからだ。その女がそのサーティーを身に着けているのは明らかに不自然だった。それは、例えるならば、そう、ご当地トゥルーディ・ベアみたいなものなのだ。ほら、月光国だったら着物を着せられてたり、ベルヴィルだったら司祭服を着せられてたり。その熊にその服を着せるのはちょっと無理があるんじゃない……?みたいな。その女にとってのサーティーは、つまり、そういう意味合いの服装なのだ。何か特別なシニフィエを目的としてきているわけではなく、ただ単純なシニフィアンとしての服装。だから、きっと、その女にとって、シニフィエとしての魔除けは、全く意味のあるものではないのだろう。そのように真昼には思えたのだ(そして実際にその通りだった、この女がこの程度の魔除けを必要とするはずがない)。

 その女は静かに眠ったまま雪の静寂の中で凍死するような白い色の皮膚をしていた。その女は残酷に溶けた鉛の断絶の中で溺れるような青い色の髪をしてた。そして、その女の目は……機械仕掛けの無原罪の蛇から、優しく抉り取った、光学センサーのように、はっきりとした青色をしていた。食材などありえない。食材などありえないのだ。髪は長く長く垂らしていて、大体腰くらいの長さまで伸びていて。そして、その全てが、その全てが、永遠に狂うことのない時計細工のようにきっちりと、あるべき場所に嵌まり込んでいる。しかし、それでもなお……その女の、全体は、驚くほど奇妙に狂ってしまっているのだ。

 さて、他に。

 五人の少女。

 それらの少女については特に語るべきことはない。なぜならほとんど女と同じような形状をしていたからだ。服装は、確かに異なっていた。真っ白なワンピース、飾り一つないひどく赤裸なワンピース。頭の上から、顔の全体を覆うようにして、透き通るようなヴェール。花婿を想定していない花嫁の、恍惚とした定言命法のようなヴェール。そのような服装であった。しかしながら、それ以外の、白い肌、青い髪、青い目。それだけでなく、本物の人間とは到底思えない、瑕疵一つない肉体の全てが。女の肉体と、ほぼ完全に、一致していたのだ。「ほぼ」と書いたのは、もちろん少女達と女との年齢の違いであって。女の年齢は恐らくは三十歳前後、そして少女達は十歳前後。だから、それは一致というよりも相似といった方が正しいのだろうが、とにかく、そういうことだ。あたかも、その女が母親で、その少女達が娘であるかのように。女と少女達とは似ていた。

 その女と、それらの少女達と。

 目に見えないフィールドの上。

 こちらに向かって。

 歩いて。

 きて。

 いる。

 近づいてくるにつれて、真昼にはその女の顔が見えてきた。ただし、見えてきたのは、顔であって表情ではない。わざわざこう断ったのはなぜかというと、その女の顔、美しい白紙のように、アブソリュートリーな無表情であったからだ。それは、ただ硬直しているとか、あるいは反対に弛緩しているとか、そういう意味の無表情ではない。欠如、単純に、欠如なのだ。円に直線が欠如しているように、多角形に曲線が欠如しているように。その顔には、表情が、欠如しているのだ。

 女は、そんな顔を、したまま。

 相似形の少女達を引き連れて。

 六角柱から、デニーまでの、距離。

 五十ダブルキュビトを歩いてきて。

 然る後。

 デニーの。

 すぐ前で。

 立ち止まる。

 デニーは……キュートに、首を傾げたままで。

 自分の顔の横のあたり、両手をぱっと開いて。

 見上げる。

 その先に。

 可愛らしい、ポーズ。

 女に向かって、言う。

「スマンガラム、ミセス・フィスト!」

「スマンガラム、ミスター・フーツ!」

 は?

 その時。

 真昼の。

 全ての。

 印象が。

 ひっくり返る。

 何が、何が……それは、最高の笑顔。え? でも……そんな……混乱した思考の中で、真昼の脳は混乱している。確かに、それは目の前に存在しているのだ。しかし、それは存在しているはずがない。ならば、それは嘘なのか? いや、嘘ではない。間違いなく、それは……最高のベスト・スマイル。最高はベストだし、ベストは最高なのだが、ここでの重文は恐慌を表す重文だ。びっくりした、真昼はびっくりした……そして、それから……すごくびっくりした。ちょっと馬鹿みたいにびっくりびっくり繰り返してしまったが、そのびっくりを文章に表すと、これほど支離滅裂になってしまうということであって。

 一体、何が起こったのか。

 つまり、こういうことだ。

 ミセス・フィスト。

 そう呼ばれた。

 その女は。

 あまりにも、不意に。

 あまりにも、唐突に。

 あまりにも。倐忽に。

 お手本のような、素晴らしい笑顔で。

 デニーに対して笑いかけていたのだ。

 ということで、デニーの挨拶に「ハロー、ミスター・フーツ!」と返したのも、当然のことながらミセス・フィストであった。ミセス・フィストの、その声は……その声について表現することは拍子抜けするほど簡単だ。愛想がよく親しみやすく、相手に好印象を与える、女性の声。それだけ、それだけだ。なぜならそれ以外の何一つ、その声から感じ取ることはできないからだ。辛うじて女性のものであるということは理解できるが、その声が年老いているのか分からず、その声が若いのかも分からない。高いともいえず、低いともいえず……一番奇妙なのは、それでいて感情がないわけではないということだ。感情は読み取れる、こちら側に対する好意の感情。だが、その感情が本物であるかどうかというのはまた別の話だ。それは、きっと、プログラムされた感情、合成された感情、そういったものなのだろう。真昼は、そう思った。

 とにかく、欠片も予想していなかったことが、何の前触れもなく、しかも一瞬のうちに起こったせいで。真昼は、びっくりしてしまったということだ。あれだけの、あれだけの無表情が。本当に、一瞬のうちに、あんな笑顔に変わっていたのだから。不気味を通り越して感心さえしてしまう、何に感心しているのかは分からないが。真昼は分からないことだらけだ、いや、そんなことを言いたいのではなく……とにかく(二回目)、ミセス・フィストと呼ばれたその女は(二回目)、まるで画面に映していた一つの仮面から、また別の仮面に映像を差し替えたかのようなやり方で、デニーに向かって満面の笑顔を向けたのだ。

 そして、愛想がよく、親しみやすく。

 相手に好印象を与える、女性の声で。

 こう続ける。

「ようこそアヴマンダラ製錬所へ! どのようなご用件ですか?」

「んもー、ミセス・フィスト! 知ってるでしょ?」

「もちろんです! ASKは、あなたが望むことをあなたが望む前に叶えることができます!」

 ここで、デニー達三人の前に立っている六人の、その身長について触れておいてもいいかもしれない。基本的な立ち位置としては、ミセス・フィストが一人だけ前に立っていて。残り五人の少女たちが、その後ろに控えるみたいにして立っているのだが。まず、五人の少女たちの背丈はずいぶんと低かった。といっても十歳前後の少女としてはごく普通の背丈であって、マラーよりも少しばかり背が高いくらい。それから、ミセス・フィストについてだが、この身長はだいぶん高かった。エレファントほどではないのだが、二ダブルキュビト弱はあっただろう。そんな背の高さで、それでいて「見くだす」といった印象を与えることなく、ミセス・フィストは、しっかりとデニーと目を合わせて話していたのだが。

 今度は。

 その目を。

 いきなり。

 真昼に。

 向ける。

「そちらの方が砂流原真昼ですね?」

「え!?」

 突然話を振られて、真昼はまたもや驚いてしまったのだが。

 ミセスフィストは、その驚きに反応することもなく続ける。

「ミスター・フーツ、私に砂流原真昼を紹介して頂けますか?」

「もっちろん! えーとね……ミセス・フィスト、こちらが真昼ちゃんだよ! 砂流原真昼ちゃん! ディープネットの常務執行役員にして、グループ財務統括本部長でもある、砂流原静一郎氏のご令嬢! 知ってるよね? それから真昼ちゃん、こちらがミセス・フィスト。ASKのアーガミパータ地域を担当してる……えーと、素敵なレディ!」

 真昼は。

 一瞬だけ。

 不愉快な。

 気分になる。

 今までの、制御不能な出来事の連続、しっちゃかめっちゃかな状況のせいで、すっかり忘れていたことを思い出したからだ。それは……このことを忘れていたということは、それ自体が真昼にとっては信じがたいことであったが。このデニーという男が静一郎の側の人間だということだ。

 いや、正確には覚えていた、全身の骨の一つ一つに刻み込むようにして覚えていたのだが、とはいえ、全身の骨の一つ一つに刻み込んでいたとしても、その骨の一つ一つを見なければ、そのことについて意識を致すことはない。要するに、覚えていたがはっきりと意識していたわけではなかったのだ。なんとなく、本当に、なんとなく。真昼は、デニーに対して、仲間意識のようなものを抱き始めていたということ。仲間というのはいい過ぎなのだが、なんといえばいいのだろう、嫌いではあるが、まあ、それでも、自分のために何かをしてくれる人に対して抱くような、そんな感情。

 しかし、今、この時に。デニーが、静一郎の名前を、出したことで。しかも静一郎のディープネットにおける役職さえも正確に言ってしまったことで。真昼のそんな幻想、勘違い、思い違いは、はっきりと指摘されて。そして、真昼は、己の骨に刻まれた言葉が、啾々と鳴き声を上げていることに気が付いたのだ。真昼は――なんという愚かなことだろうか――真昼自身もそれは愚かなことだと思っているのだが――デニーが静一郎の名前を出した時に。デニーがディープネットの名前を出した時に。裏切られたような気持にさえなったのだ。

 そんな、馬鹿げている。裏切られたも何もデニーがそういう人間だということは最初から分かっていたではないか。最初から、出会った時から。要するに、デニーが、あの哀れなパロットシングを、さも楽しそうに、噛み殺した時から。けれども、それでも……真昼は、その裏切られたという思いを噛み殺すことはできなかった。人間は下等知的生命体だから、よく勘違いしてしまうのだ。命懸けの状況を、何度も何度も、一緒に通り抜けたというだけで。その相手のこと、自分の命を預けてもいい相手であると勘違いしてしまうのだ。

 しかし。

 真昼の。

 そんな。

 優雅で、感傷的な。

 甘ったるい考えを。

 ぶった切るみたいにして。

 ミセス・フィストが言う。

「初めまして、砂流原真昼!」

「あ……え? その、初めまして。」

 快活で、元気よく、歯切れいい、その声に。

 真昼は、ついうっかり返事をしてしまった。

「私のことはミセス・フィストと呼んで下さい!」

「あの、はい。分かりました。」

「あなたのことはなんとお呼びすればいいですか?」

「えっと……真昼で大丈夫です。」

「あー! ダメダメ、真昼ちゃん、呼び捨てはダメだよ! ミセス・フィスト、真昼ちゃんのことは、ちゃーんと真昼ちゃんって呼んでね。」

「かしこまりました、真昼ちゃんですね! それでは真昼ちゃん、これからよろしくお願いします!」

「はい、よろしくお願いします……?」

 なんというか、強制的に、指示通りに、回答させられるこの感じは……そう、あれだ、スマートデヴァイスの初期設定をさせられているみたいな感じだった。何かを考える必要もなく、画面に現れた質問にその通りに回答していく。あの時のあの感じを真昼は覚えた。そして、これが初期設定なのだとすると――デニーに途中でスマートデヴァイスを奪われて、名前の部分を勝手に入力されてしまった、的なハプニングが起こりはしたが――どうやら、真昼については、無事に終了したようだった。

 そして。

 この場には。

 真昼と。

 デニー。

 それに。

 あと、もう一人。

「ミスター・フーツ。」

 また、顔の上、紛い物の表情を取り換えて。

 ミセス・フィストは、今度は、少しばかり。

 戸惑っているような、そんな顔で。

 デニーに、向かって、声をかけた。

「ほえー?」

「あなたは私が一つ質問をすることを許してくれますか?」

「質問? いいよー、なあに。」

「それでは、質問をします。」

 そう言いながら、ミセス・フィストは。

 当然、失礼にならない程度のやり方で。

 ちらりと。

 デニーの背後。

 視線を向ける。

「そちらの少女は、どなたですか?」

 デニーが、そんな視線を追うようにして、振り返ると。そこにいたのは、いうまでもなく、あともう一人の人物。つまりはマラーだった。その時のマラーは、真昼の背後に隠れるようにして、というか実際に体の半分は隠れてしまったままで。ミセス・フィストのことを、怯えた両眼で見上げていた。怯えていた理由としては、ミセス・フィストのその明らかに非感情的な挙動のせいもあっただろうが、どちらかといえば単純にその背の高さのせいだったろう。大き過ぎる体はそれだけで恐れの感情を引き出してしまうこともあるものだ。特にマラーのように、ついさっきまで命の危険にさらされていた、いたいけな少女の場合には。でも、まあ、しかし。この際、マラーがどうしたマラーがこうしたということは重要ではないだろう。デニーは、マラーを見て、「はいはいはい、そういえばいましたね」みたいな感じ、こくこくと頷くと。またミセス・フィストの方に向き直って答える。

「あーとね、気にしなくていいよ。」

「それは、どういうことですか?」

「この子は、ただの女の子だから。」

「それは、どういうことですか?」

「ふふふっ、ミセス・フィストってば……言葉通りの意味だよ! アーガミパータで「ただの女の子」を連れて歩き回る理由なんて一つしかないでしょ? そういうこと!」

「なるほど、そういうことですね!」

 デニーのなんとなくはっきりとしない、なんとなく不穏な答えに。といっても、その答えを発する時のデニーは、ちょっと前屈みな姿勢、右手の人差し指をちょんっと唇に当てて、ミセス・フィストを甘えるような上目遣いで見つめながら、軽くウィンクをして見せるという、マックスデストロイ可愛い(?)態度でそう言ったのだが。それはともかくミセス・フィストはその答えで完全にパスウェイシヴ・レレヴァンスされたようだった。

 その証拠に、困惑をシニフィアンしていた表情は、次の瞬間には、また笑顔をシニフィアンする表情に変わっていて。それだけでなく、マラーに向けていた視線、何事もなかったかのように、ぱっとデニーに戻した。どうやらデニーの答えによってマラーの存在自体が完全にミセス・フィストの関心の外に置かれてしまったようだった。まあ、ミセス・フィストのそれを「関心」と呼ぶことが適切かどうかは分からないが。

 それから、ミセス・フィストは。

 どこかしらわざとらしく。

 どこかしら作り物じみた。

 そんなやり方で。

 自分の胸の、すぐ前のあたり。

 ぱんっと両手を打ち合わせて。

 さっきまでと、全く同じ笑顔のままで。

 一ディギトも変わらない笑顔のままで。

 こう言う。

「それでは、ミスター・フーツ、真昼ちゃん! ご案内いたします!」

「ご案内?」

 その真昼ちゃんって呼び方もう変えることできないんですかね?と思わなくもない真昼であったが。それはひとまず置いておいて、差し当たりもっと気になっていることがあって、それは、今から、自分達が、どこにご案内されるかということだった。デニーは……デニーは、分かっているらしい。そして、その分かっているデニーの態度からいうと、それほど心配する必要のない場所なのかもしれない。

 それでも、やはり、真昼の心の底には抑えきれない不安のようなものがあった。それは、例えば……真夜中にテレビをつけてみて、どのチャンネルに変えてみても、延々と音楽と風景を映し続けるだけの、あの手の番組しかやっていなかった時の不安に等しかった。ああいう番組、月光国以外の国でもやっているのかということを真昼は知らなかったけれど。とにかく、真昼は、ああいう番組が大嫌いだった。何となく、あの手の番組を見ていると。真夜中、何の音もしない中で、まるで自分以外の人間が全て滅びてしまったかのような気持ちになるから。あの手の番組には人間が一人も出てこない。音楽と風景だけで、人間味が全く感じられない。そのせいで、世界が滅びた後、人間のふりをしたオートマタ達が、真昼のことを騙すために、このテレビ番組を映しているような、そんな気持ちになってくるのだ。

 このミセス・フィストという女は。

 例えば、そんなテレビ番組を流す。

 オートマタの。

 一人のようで。

 そんなミセス・フィストがくるりと振り返って。デニーと真昼の二人(あとマラーもいるのだが)を先導して、向かっている先は、ここから約五十ダブルキュビト先にある、あの六角柱だった。ただの現象、数式の具体化、自然に結晶した一個の物体。それでいて何者かに作られたものであるはずの、あの六角柱に。もちろんだ、なんの不自然もない。ミセス・フィストに最も相応しい場所があるとすれば間違いなくあの六角柱の中であろう。あの六角柱の中がどうなっているのかは知らないが。知らない? そう、今は知らない。けれども、真昼は、まさにそこへと向かっているのだ。

 というわけで、極力ミセス・フィストについていきたくないところの真昼であったが。とはいえ、そんな真昼のままでいることはどうやら不可能であるらしい。何ものも変わっていかないものはない、少女は大人の女になり、きらきら輝いていたはずの未来ではなく、妥協ばかりの人生を送るものだ。そう、真昼も、妥協しなければいけない。なぜならデニーは一欠片の躊躇の様子も見せることなくミセス・フェストの先導に従っていくからだ。しかもちょっとばかり素敵なスキップさえるんるんして。真昼には、ミセス・フィスト及びデニーについていくか、上空一エレフキュビトのこの場所に、マラーと二人だけで取り残されるか。どちらかの選択肢しかない。そして、真昼は、後者を選ぶほど蛮勇というわけではない。

 生存と妥協。

 呼吸の重さ。

 だから真昼は、マラーの肩にそっと触れて。

 優しく、促すように、歩き始めたのだった。


 開放的な空間であることを示したい時によく「広々と開けた」みたいな表現を使うが、これはいくらなんでも広々と開け過ぎなのではないだろうか。

 いや、いきなりこんなことをいわれても、読者の皆さんにはあっぱり分からないだろう。なので、順を追って話すと……前節の最後、ミセス・フィストが六角柱の方向に向かって行ったと書いたが。具体的に六角柱のどこに向かっていったかというと、それはいうまでもなく、自分と六人の少女達が出てきたところのあの出入り口。約五ダブルキュビトかける約八ダブルキュビトの大きさのあの穴に、であって。そして、当然ながら、その後についてデニーと真昼とマラーとも歩いて行ったということで。

 だから近づくにつれて、その穴の中に何があるのかということ、真昼にも見えてきていた。さて、そこは。一言で書くとすれば、そこにあったのは、会議室だった。本当に一般的な、何というか、ごく普通の会議室。壁と床と天井とは、六角柱の外壁と全く同じ、あの白い色をした影響力によって形作られていて。中央には長いテーブルが置かれていた。磨き抜かれた・艶のある・真っ黒な色をした天板は、石材とも金属材ともつかない物質でできていて、縦の長さが大体二.五ダブルキュビトで横の長さが大体四ダブルキュビトの長方形だ。その天板を支えているのは、天板と同じ材質でできていて、寸法的にも同じ比率である長方形。ただし、比率は一緒でもサイズは全然違っていて、縦の長さが大体八十ハーフディギト、横の長さが大体百三十ハーフディギト。そんな長方形が、横の面を下にして、縦の面を高さにして、天板の右と、左と、それに中心のあたりを支えているのだ。

 獣の栄光・獣の秘跡・獣の恩寵にも似てひどく重々しい黒、淫猥とさえ感じさせるほど無装飾なテーブルの周りには。幾つかの椅子が置かれていた。幾つかというのは、正確にいうと、こちら側(穴の側)に三つの椅子が、向こう側(穴とは反対の側)に六つの椅子が置かれているということであって。それらの椅子も、やはりそれが囲っているテーブルと同じように黒一色でできている。ただし、材質は全く異なっているようだ。それらの椅子に視線を向けてみよう。それは艶消しのされた、プラスチックに似た物質でできているようだ。とても軽いその一枚板を軽く曲げて、それが座面と背凭れの部分になっている。更に、座面の下から一本の脚が伸びていて、最下部で四つに分かれたその脚の先にはホイールがついている。右側と左側とには柔らかくカーブを描く肘掛けがついている。要するに典型的なオフィスチェアだということだ。ただし、一点だけ、奇妙な点があって……それは、一つ一つの形状が、微妙に異なっているということだ。例えば大きさや、背凭れのカーブ具合。座面が位置してる高さが。

 そんな。

 月並みな。

 会議室で。

 まあ、月並みといっても、幾らなんでも飾り気がなさ過ぎる気がしなくもないし。それに、五ダブルキュビトの高さと八ダブルキュビトの幅があるというのは少し大き過ぎると思うが。それよりもなによりも一番おかしい点は……その会議室が、完全に、外側に向かって開いていたということだ。つまり、真昼達が、今まさに入っていかんとするその出入り口のことだ。

 現代的なオフィスでは、四面ある壁のうちの一面、全面的に窓にしているようなオフィスがあるが。この会議室についても、大体似たようなものだといえないこともないかもしれない。ただし、この会議室は、窓にする代わりに、完全に壁を取り払ってしまっていて。ぱっくりと、外世界に、口を開いているのだが。

 さて。

 ミセス・フィストと。

 その五人の少女達は。

 目には見えないフォース・フィールドの上を踏んで、あの場所からこの場所までの五十ダブルキュビトの距離を歩いてきて。そして、壁に開いた出入り口、会議室の出入り口にまでたどり着いた。そして、そのまま、何の躊躇も何の感慨もなく。まるで当たり前のようにしてその会議室に入っていく。

 それから、黒いテーブルの向こう側に回り込んでいって。それぞれがそれぞれの椅子の隣に立つ。ちなみにまだ触れていなかったのだが、椅子の並び方はこのようになっている。つまり、ミセス・フィストのための少し大きめの椅子が一つだけ前に置かれていて、少女達のための小さい椅子はその後ろに五つ並んでいるという形だ。ミセス・フィストは、テーブルの向こう側で……ぱっと両手のひらを開いて、招いているみたいに、その手のひらをこちら側に差し出してきて。それから、こう言う。

「どうぞお座りください!」

 その言葉に、デニーは……ちなみに、デニー達三人も既に会議室に入っていた。会議室に入る時、真昼はほんの一瞬だけ、足元の光景を見て。なんだか、自分がとても変なことをしているような気持になったのだが、そのことについては別に特筆すべきほどのことでもないだろう。とにかく、その言葉に、デニーは。とんっとんっと、一歩一歩が何かのステップを踏んでいるみたいな歩き方。それから、ぴっと椅子の背を掴んで、くっとそれを引き寄せて、くるりーんと椅子を一回転させると(どうやら座面の下についているポール部分は回転式らしい)。その一回転の途中で、すとんと椅子の中、体を放り投げるみたいにして座り込んだのだった。そして、「うわあ、とっても素敵な座り心地!」「ほら、真昼ちゃんも座ってみなよ!」とかなんとか言いながら、自分の右隣の椅子、真昼に向かって指し示した。ちなみに、デニーが座ったのは、三つあるうちの真ん中の椅子だ。

 真昼は、もちろん気が進まなかった。椅子に座るのも、デニーの言う通りにするのも、両方とも気に食わなかった。ただ、いつまでも突っ立ってるというのはいかにも馬鹿みたいだし。仕方なく、言われた通りに椅子に座ることにした。

 ただしその前にやることがあった。指示されたほうとは反対の椅子、つまりデニーの左側の椅子を、がっと掴むと。自分が座るべき椅子、右側の椅子の隣に持ってきて。その椅子に、マラーを座らせるということ。それをしている間中、デニーは、まーた変なことやってるーみたいな顔をして真昼のことを眺めていたが。そういった行動に対して特に口を挟むことはしなかった。

 その後で、真昼は、自分も椅子に座ってみる。その椅子は……驚くというのを通り越して、ちょっくらけったいに思うほど。真昼の体にベストフィットする形状をしていた。一枚板は、実際に触れて、よく見てみると、微妙な凹凸がついていて。真昼の体はその凹凸にすっぽりとはまり込むのだ。まるで、真昼のためにオーダーメイドで作られたかのように……もちろん、それは、「まるで」ではなかった。その椅子は、実際に、真昼の身体情報を元にして、つい先ほど作られたばかりの椅子だったのだ。

 デニーと真昼とマラーと。

 その三人が、座ったのを見届けると。

 ミセス・フィストと五人の少女達も。

 機械仕掛けの、透明な態度で。

 それぞれの椅子に、腰掛けた。

 ところでその瞬間に、真昼は、自分が、違和感を感じているということに気が付いた。気が付くことに気が付かなければ気が付かないくらいごくごく僅かな違和感。何かが変だ、先ほどまでの一瞬とこの一瞬と、比較した時に何かが違っている。

 何が異なっている? 空気が。真昼の身体を包囲しているその空気の感覚が異なっている。先ほどまでは窓が開いているかのように空気の流れがあった。今はその窓が閉じてしまったかのようにその流れが消えてしまっている。密閉と、閉鎖と。

 真昼、そのことに気が付いた時に、ほとんど何かを感じることの以前性として、はっと、鮮烈な衝動のようにして後ろを振り返っていた。椅子に座ったままで、背凭れに左の手のひらをかけて、劇場の中心に立っている預言者にも似た態度にて。

 確かに、確かにその通りだった。真昼が感じたその通りだった。つまりは閉じていたということだ、さっきまでは、確かに開いていたはずの、その出入り口が。完全に外側に向かって開き切っていたところの、この立方体の一つの側面。今、真昼がいるところから見て、その背後の面。さっきまでは確かになかったはずの壁が存在であったのだ。

 何一つ、音が聞こえたわけではなかった。あるいはその他の何らの感覚も真昼は感じなかった。完全なる静寂のうちにその壁はいつの間にか表れていた。真昼は……一瞬、そんなことは有り得ないと思ってしまった。ただ、その後で、すぐに考え直した。有り得ないことではない。決して。この空間を形作っているのは、要するに「力」だ。物質ではない。いや、まあ、正確にいえば物質も力なのだが、ここでいいたいのはそういうことではない。この空間を形作っているその「力」は、恐らく、スイッチを入れるか入れないか、そういったことだけで現われたり消えたりといったことを簡単に入れ替えることができる類のものだということだ。そうであるならば、真昼が気が付かないうちにほんの一瞬でそこに壁ができていても何の不思議もない。

 真昼は、そう納得すると……ただ、とはいえ、それでも、何か不気味さのようなものは残った。その不気味さは、どちらかといえば壁がいきなり現れたということよりもここが密室になったということに由来していた。ここは閉ざされた。もう逃げ道はない。まあ、地上から一エレフキュビトのところに開いた穴を逃げ道と呼べるかどうかということは大変微妙な問題ではあるが。少なくともここから出る手段はあった。それがなくなったのだ。

 真昼は、ちらとデニーに目を向ける。デニーは何も気にしていない。後ろに視線を向けることさえしていない。いうまでもなくデニーがこのことに気が付いていないわけがない。気が付いた上で、このことについて、一切気にしていないのだ。真昼は、何も言わないまま、また体の向きを前方に戻した。

 さて。

 そんな。

 真昼に。

 ミセス・フィスト。

 言葉する。

「おや、真昼ちゃん?」

 表面的には、とても親しげに聞こえるが、その実全然親愛の情がこもっていない口調。そんな口調で「ちゃん」付けされると、なんとなく冷凍庫に閉じ込められたような気持になるものであるが。そんなぞっとした感覚を無理に抑え込んで、真昼は答える。

「はい、なんですか。」

「あなたは喉が渇いていますね!」

 その言葉の。

 次の瞬間に。

 テーブルの上には。

 四つのグラスが並んでいた。

 デニー、真昼、マラー、それからミセス・フィストの目の前に。ふわっと、何かが蒸発した時みたいに、青い光が浮かび上がって……それから、いつの間にか、グラスが置かれていたということ。つまり、それはデニーがバーカウンターで行った、お水召喚と同じ出来事が起こったということだ。ただし真昼もマラーも、お水召喚についてはよく見ていなかったので、この現象を見るのは今が初めてであったのだが。

 真昼は、ほんの一瞬、それが元からそこにあったかのように錯覚してしまったのだけれど。しかし、その一瞬が過ぎ去ると、そのグラス、確かにそこに存在していなかったはずのものであるということに思い至る。ひどく……ひどく、いい匂いがした。グラスの中の白い液体。九分目あたりまで入っていて、表面には、さらさらとした粉が浮かんでいる。埃だとか、そういった不快なものではなく、つまり、それは、スパイスだった。いい匂いがするのはこのスパイスのせいだったのだ。

 ストローがささった。

 おいしそうな、液体。

「あなたはヨーガズが好きですか?」

 ミセス・フィストの話しかける声が聞こえて。

 グラスに落としていた視線、はっと向け直す。

 さっきまでと、全く同じ笑顔をして。

 ミセス・フィストは、無感情に言う。

「それはあなたのものです!」

 無感情といっても、上っ面だけを聞いてみれば、どこをどう聞いても親切そうな声ではあったのだが。それゆえにただ無感情であるよりも一層不気味に聞こえるものだった。まあ、それはともかくとして……「それはあなたのものです!」なんて言われても。この液体が何なのか、これをどうすればいいのか、真昼にはさっぱり分からなかった。恐らく、この状況から察するに、それにこの匂いから察するに。飲み物として出されたものと思われるが……だが、本当に、これを口にしても大丈夫なのか?

 だから真昼は、ちらっとデニーの方に目を向けてみる。なんだかんだいって、デニーはこのミセス・フィストという人間を知っているみたいだし。これを飲んでも大丈夫なのか分かるだろう、そう考えたからだ。で、デニーはというと。小さな両手でグラスを包み込むみたいな、とっても可愛らしい持ち方をして。はむっという感じにストローを咥えて、ちゅーちゅーと白い液体を啜っていた。躊躇も何もなく、おいしいジュースを飲む子供みたいにして。と、いうことは。どうやらこの液体は飲んでも大丈夫な液体であるようだ。

 視線に気づいたデニーが。

 ん?みたいに自分の視線を真昼に向けて。

 ちゅぽんっと、ストローから口を離すと。

「んもー、真昼ちゃんってば!」

 にっと笑って。

 こう言葉する。

「やっぱり喉渇いてたんじゃーん!」

 その言葉を。

 聞いた瞬間。

 真昼は。

 イラっとする!

 正直な話、この白い液体をぶっかけてやろうかと思いもしたが。すんでのところで、具体的にいうとがっとグラスを掴んだところで、燃え盛る怒りのブチ切れファイヤーを何とか押さえつけて。それほどまでに真昼は喉が渇いていたのだ、そして吐き出すようにして「うるさい」とだけ言うと、掴んだままのグラスを持ち上げて、上唇と下唇の間にストローを咥えたのだった。

 匂いも、見た目も、口にするのに何の問題もなさそうであったが。ここがアーガミパータである以上、念には念を入れておいたとしても全然損はないだろう。ということで、その液体を恐る恐るストローで啜り上げると。ほんの数滴分だけ、真昼は舌の上に落としてみたのだった。味、味、味は……ごくごく、普通の、牛乳の味。ただし、ただの牛乳というわけではなく、その味の中にちょっとした隠し味が利いていた。甘く開いた花の匂いと、香ばしく炒った種の匂いと、混ざり合ったみたいな。それは、ちょっとしたスパイスの匂い。

 この液体が一体何なのかということ、真昼が質問することはないし、ミセス・フィストとデニーとが説明することもないので。ここで念のために解説を加えておくと、これはミセス・フィストが言った通りヨーガズという飲み物だ。ヨーガズというのはイパータ語で添加物を指す言葉で、その名の通り、牛乳にマサラ(アーガミパータで採れる様々な香辛料を混ぜ合わせたものの総称)を添加したものだ。アーガミパータだけではなく、世界的にも割と有名な飲み物なので、いつもなら聞かれもしないのにごちゃごちゃと説明するデニーも何も言わなかったのだが。どうやら、それなりに世間知らずな真昼は知らなかったらしい。

 そういうわけでありまして。

 これは、毒物じゃないです。

 そして真昼も、舌に触れた感じと喉に触れた感じで、どうやら体を害するものではないと判断したらしい。そうだとすれば、もう、我慢の限界だった。喉はカラカラを通り越してサラサラ、もうサラッサラだった。つまり砂漠みたいに乾いていたということだが、これは説明されないと分かりにくい例えなので良くない。とにかく、真昼はストローなんてまどろっこしい真似はやめて、グラスに直接口をつけてぐいーっと呷る。ごくごくごくと、そこそこ大きめのグラスに入っていたその液体、三度の嚥下で飲み干すと。ふーっと一息、ようやく人心地ついたのだった。

「その飲み物に満足して頂けましたか?」

 ミセス・フィストが聞いてくる。

 真昼は、はっと、冷静になって。

 ちょっと恥ずかしくなりながらも。

 一言、「はい」と答えたのだった。

 これでウェルカムの時間は終わりだ。自己紹介は終わり、ドリンクで喉を潤して。ここが月光国か、あるいはパンピュリア共和国であるならば。この後で軽い雑談なんかをして互いの距離を測りあったりもするだろうが……残念ながら、ここはアーガミパータだ。他愛もない世間話で親交を深めたりだとか、そういうどうでもいいことをしている暇なんてない。いつだって、ただ前へ前へ。限りなく剥き出しの欲望で、直截的に奪い合う。それこそがアーガミパータにおけるビジネスの一般的形式であって。

 だから、ミセス・フィストは。

 その視線を、デニーに戻して。

 こう言う。

「それではミスター・フーツ!」

「なあに、ミセス・フィスト?」

「Let's make a deal!」

「AK!」

 なんでこの人達いきなり汎用トラヴィール語を使いだしたんだろうと思った真昼であったが、その理由は真昼ごときには理解できまい。また、その理由を下等知的生命体に説明しようとするならば、かなりの紙幅を費やして、それでも分かるか分からないか五分五分ということになってしまうので。ここでは触れないことにして。物語を先に進めよう。

 さて、dealは始まったのであって。ミセス・フィストも、いつまでも笑顔というわけにはいかない。その表情は、真昼の目の前で、またもや瞬転し。喜劇的なまでに生真面目な表情へと変化する。それは、無表情というのとは全く違っていて。さっきまでの顔がsmileyであるとすれば、今度の顔は間違いなくseriousryと呼ぶことができるだろう。そんな顔をしたままで、ミセス・フィストは、デニーに、言う。

「ミスター・フーツ。」

「はーい。」

「あなたが私に要求するサービスは、アヴマンダラ製錬所のテレポート装置を使用することですか?」

「そのとーり!」

「それでは、あなたが提供できる財またはサービスを提示してください。」

「ふっふっふー、実はね、とーっておきのがあるんだ! 聞いてびっくり、だぞ! あのね、あのね、ASKとデニーちゃんってさ、ワトンゴリアン・パーセキューションが起こってから、ずっとずっとずーっと、ワトンゴラ内のSKILL販売ルートの件でもめもめしてたじゃない。あの件だけど、もちろん全部ってわけじゃないよ、全部ってわけじゃないけど……一部のルートについては、デニーちゃん、諦めてあげる。もしも、今、テレポート装置を貸してくれるならね。」

「なるほど。」

「うんうん。」

「素晴らしいですね!」

「でっしょー!」

「それで、一部のルートとはどのルートのことですか?」

「ピープル・イン・ブルー向けのルートと、それにワトンゴラ政府軍向けの、バーゼルハイム・シリーズ販売ルート。」

「ピープル・イン・ブルー向けのルートと、それにワトンゴラ政府軍向けの、バーゼルハイム・シリーズ販売ルート?」

「いっえーす!」

「なるほど。」

 ミセス・フィストは。

 また顔を転変させて。

 今度は、何かを考えているらしい注意深そうな顔だ。そっと目をつむって、ほんの少しうつむいて。carefullyとでもいうべきか、そんな顔だ。それから更に、両肘をテーブルの上について。親指から人差し指、中指、薬指、小指まで。右の指と左の指、そっと指の腹を押し付けあって。ちょっとわざとらしいくらいの、熟考のポーズをして見せる。

 そういえば……テーブルの上に両手が姿を見せたので、真昼はようやく気が付いたのだが。ミセス・フィストは、右の手と左の手に手飾りを嵌めていた。それは真昼が見たことのないタイプの手飾りで、親指から小指までの指、その根元のところに指輪が嵌まっていて。その指輪の一個一個から、手の甲に向かって鎖が伸びている。その五本の鎖が、一つの輪飾りによってハブされて、そして、その輪飾りからさらに、手首にはまった腕輪のところにまで一本の鎖が伸びているという代物だった。金細工に赤い宝石が埋め込まれたこの手飾りは、アーガミパータでは割合によく見られるアクセサリーのうちの一つだった。

 しばらくの間、その姿勢のままで。

 機能停止でもしているかのように。

 身動き一つしなかったのだけれど。

 やがて。

 ようやく。

 口を開く。

「コーシャー・カフェはワトンゴラにおけるバーゼルハイム・シリーズの販売ルートについてテロリスト向けのルートを除いて撤退する。あなたの提示した条件について私は以上のように理解しました。私の理解は正しいですか?」

「ピープル・イン・ブルーのことをテロリストじゃなくて自治政府だーって考えるんなら、そのとーり! その理解でぱーふぇくと!に正しいよ。」

「ということは、この条件内容からあなたは次のように主張したいんですね? 現在のワトンゴラで流通しているSKILL兵器の92.3834458%(小数点七桁以下は省略しました)はバーゼルハイム・シリーズであり、またワトンゴラにおける兵器の購入金額はその72.9976223%(小数点七桁以下は省略しました)が政府軍及びピープル・イン・ブルーによって占められている。よって、この条件内容を実行した場合、現時点でのワトンゴラにおける兵器売買の67.4377188%(小数点七桁以下は省略しました)をコーシャーカフェは放棄することになる。」

「いっえーす!」

「分かりました。」

 それで。

 どうやら。

 熟考は。

 終わった。

 らしい。

 合わさっていた指の腹をそっと離して、肘をテーブルからどかして。閉じられたはずの目はまたもや真昼の気が付かないうちに開かれていて。ミセス・フィストの表情はcarefullyからseriousryへと元通りに戻っていた。その顔で、再び、デニーに向かって口を開く。

「判断のために十六時間の時間を下さい。」

「つまり、一晩欲しいってこと?」

「はい、その通りです。」

「デニーちゃんと、真昼ちゃんは、ここに泊ってもいい?」

「もちろんです! ゲスト向けの寝室を用意させて頂きます!」

「じゃあいいよー、ぜーんぜん問題ありませーん!」

「あなたの寛大さに感謝します!」

 seriousryからsmileyへ。それから、またもや映し出された最高の笑顔のままで、ミセス・フィストはぱんっと両手を合わせて音を鳴らした。ミセス・フィストの、その一つ一つのジェスチュアが、真昼には、ひどく芝居がかっているというか、わざとらしいというか。例えばテキストチャットで使う絵文字か何かのように思われたのだが。その印象についてはひとまず置いておくとして、どうやらdealの、その第一段階はこれでお終いらしい。「他に何か付け加えることはありますか?」「ううん、ないよ。ミセス・フィストは?」「私もありません!」という会話を交わしてから。ミセス・フィストが「それでは、今日はここまでにしましょう!」と言ったからだ。随分とあっさりと終ってしまったというか、真昼はなんだか拍子抜けしてしまったくらいだが。ただ、デニーの言ったこと、その条件の内容に関しては……いや、そのことに対して真昼が思ったことについては、ここで書くのはまだ早いだろう。

 とにかく。

 デニーとミセス・フィストと。

 二人は椅子から立ち上がって。

 それから……それから起こったことを書く前に、ちょっと思い出してもらう必要があるかもしれない。この二人の間に横たわっているテーブルについて。これは普通のテーブルではなく、まあ普通といえば普通のテーブルなのだが、要するに普通の「会議用」テーブルだ。従って、かなり大きいサイズのものであり、その幅、つまりデニーが座っている場所からミセス・フィストまでの距離は二.五ダブルキュビトもある。ということは、このままの状態で二人が握手するのは、とても難しいということで。

 だからデニーはその行為を行ったのだろう。その行為というのはこういう行為だ。ぴょんっと椅子から立ち上がったデニーは、そのぴょんっの勢いもそのままに、とんっと床を右足で蹴って。その左足で、テーブルの上に、飛び上がったのだ。もちろん左足の後には、床を蹴った右足もついてきて。結果的に、デニーは、よっという感じ、テーブルの上に乗っかってしまったのだ。真昼は、確かに、アーガミパータにやってきてから、様々な常識外の出来事を、真昼は目にしてきた。しかし、たった今デニーが行ったその行為は、そういった諸々の常識外とは完全に種類が違っていて。なので真昼は全く素直に唖然としてしまった。

 そんな唖然としている真昼の目の前で。あたかも張り渡された一本のロープの上を渡ってでも行くかのように、素敵に軽やかなステップ、てんってんっと歩いて行って。二.五ダブルキュビトの距離、ミセス・フィストのところにまで辿り着くと。デニーは、ほんのちょっとだけ身を屈めて、さっと右手を差し出す。その態度は、自然で、何もおかしいことはないとでもいわんばかりで……いわんばかり? いや、本当に、おかしいことなど、何もないのかもしれない。なぜなら手を差し出されたほうのミセス・フィストも。会議が終わった後にテーブルの上を歩いて握手を求めに行くことがビジネスマナーの一つでも言わんばかりの態度。まるで当たり前に、そのデニーの右手に自分の右手で答えたからだ。

 シェイク・ハンド。

 ミセス・フィストの、手飾りの鎖が。

 しゃらしゃらと、静かな音を立てて。

「じゃあ、また明日ね。」

「はい、また明日!」

 そして、二人は。

 何かの温度を。

 測っているか。

 の、よう、に。

 あっさりと手を放す。

 それから、二人は……二人のうちの、まずデニーは。体の方向をミセス・フィストに向けたまま、つまり後ろ向きのままで。机の反対側、つまり真昼とマラーとがいる側へと、軽やかなステップで戻っていった。そして、一方でミセス・フィストは……いや、違う。ミセス・フィストは何もしなかった。何かをしたのは、その後ろでスタンド・バイしていた、五人の少女達。

 五人の少女達は、ミセス・フィストが椅子から立ち上がった時に、それと完全に同期しているみたいにして五人全員が立ち上がっていたのだが。その内の一人が、振り子時計の中の透明な振り子のような身のこなし、テーブルを回り込んで、デニー達の側へと歩いてきたのだ。無表情のまま、欠落という意味でのブランクのままで。少女は、そこに立っていて。

 ミセス・フィストは。

 ぱっと手を挙げて。

 その少女を示して。

「ゲストルームへご案内いたします!」

 ミセス・フィストがそう言った瞬間に、その言葉を合図としたかのように、驚くべきことが起こった。驚くべきこと、まあ、とはいっても、今日はあまりに驚くべきことに接しすぎて、これくらいのことでは驚けなくなってしまっていた真昼ではあったが。それはともかくとして、ミセス・フィストの後ろ側の壁、穴どころか傷一つなかったはずのその壁に、一枚の扉が存在していたのだ。それは……見た目だけは、何の変哲もない、至極有り触れたパネルドアだった。六つのパネルがある、木製のパネルドア。よく磨かれた木材は、つやつやと光を反射するくらい黒ずんでいて。あたかも使い込まれたもののごとく、見るものを落ち着かせる質感ではあったのだが……しかし、そんなことは有り得るはずがないのだ。なぜならこのドアは、今この瞬間に存在を開始したのだから。

 このドア、は。

 つまるところ。

 ゲストルームに通じるドアらしい。

 そして。

 それから。

 デニーと。

 真昼と。

 マラーと。

 三人は。

 ミセス・フィストを残して。

 時計のように正確な少女に導かれて。

 この会議室を、後にすることになる。

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