第一部インフェルノ #9

 いつの間にか空中に投げ出されていた真昼は自分が空中に投げ出されているということに気が付くことさえできていないうちにもうその「空中に投げ出されている」という状態から次の新しい段階へと進まなくてはならなかった。つまり「地面の上に叩き付けられる」という段階へ、だ。

 更にその段階の次には「地面の上を引き摺られるようにしてずざざーっと滑る」という段階があり、最後には「ようやくその肉体は停止したのだった」という段階に到達する。この四つの段階の移行は傍目から見るとはなはだクソ間抜けであるように見えるかもしれないのだが、その行為をしている本人は至って真面目であることが多い。これは人生における一つの悲劇であり、間違いなく解決するべき問題なのであろうが。とはいえこれほど大きな問題について何かを語るためにはやはり人生という期間はあまりにも短いものといわざるを得ない。

 閑話。

 休題。

 全身に擦り傷を負いながらも、そして履いていたダメージジーンズに更なるダメージを加えながらも。真昼の肉体はようやく停止した。マラーは……何とか守られたようだ。真昼は、何が起こっているのかさっぱり分からないながらも、とにかくマラーだけは助けなければならないという本能的な判断には到達することができたらしい。ここでいう本能とは母性本能とかそういう類の本能だろうが、それはそれとして、真昼は、白い壁に突っ込んだ直後、なぜか自分の体が何の支えもなしに空中に投げ出された、まさにその時に。マラーの体を強く強く抱き締めていたのだ。ということで、真昼の体がクッション代わりになって。マラーは、傷一つなくとはいわないまでも、ほとんど無傷の状態での今日この頃といった具合になったのだった。

 一方、で。

 デニーは。

 ルカゴから飛び出していたデニーは、自分の意思に反して何の準備もなく空中に放り出されたというわけではない。真昼やマラーやとは違って、自分から、じゃーんぷっ!したのであって……そのため、真昼やマラーやみたいに阿呆を曝け出すこともなく。高いところから飛び降りた子猫か何かのように、とってもエレガントかつとってもキュートに、しゅたりとした着地を決めたのだった。とんっと爪先から地面について、その勢いを借りるかのように、くるりと半回転回転して。それからお行儀よく踵をつける。半回転したということで、その視線の先には、後ろからついてきていた真昼とマラーとの姿があって……

「ほえ?」

 怪訝そうに。

 こう、言う。

「だいじょーぶ? 真昼ちゃん。」

 それから。

 とてとてと。

 可愛らしく。

 近づいていく。

 いうまでもなく真昼は大丈夫ではなかった。例の魔学式のおかげで骨折こそしていなかったが、打撲やら擦り傷やら、完膚と呼べそうな部分などほとんど見当たらないくらいに怪我を負っていて。全身のそこら中をどたばたと走り回るがごときの激痛のために、暫くの間は「う……くっ……!」とかなんとか、苦痛の呻き声しか上げることができなかったが。それでも、そのサファリング・アンド・ペインが少しマシになってくると、がばっとその場に跳ね起きた。

「あいつらは……痛っつ……!」

「あっ、真昼ちゃん! 落ち着いて!」

 言いながら、デニーはいかにもわざとらしく駆け寄った。すささーっとスライドするみたいにして真昼のすぐ隣に屈み込むと、馬とか牛とかそういう類の家畜でも大人しくさせようとしているみたいな態度、「ぎーぎー」と言いながら背中をさする。

 オン、ジ、アザーハンド、真昼は。マラーを抱きしめたままで、痛みに耐え耐えの荒い息を吐き出しながら、それでも自分がそちらから来たところの方向、つまり背後の方向へと目を向ける。その視線の先に見つけたものは……壁だ。あの、白い壁。どこまでもどこまでも続いている、白い壁。先ほどまではあんな状況だったので、じっくりと見る余裕なんてなかったのだが。これほど近くから、きちんと見てみると、その壁はますます奇妙なものに思えてくる代物だった。

 こんな場所に、つまりアーガミパータの真ん真ん中に建てられているのに。それでも、その壁は、ぞっとするほど清潔であった。傷一つ、汚れ一つない。注がれたばかりの白い闇のように、その表面、完全に凪いでいる。ただ、まあ、とはいっても。実は、そのことは大したことではない。少なくとも真昼が今驚いている他の事実に比べれば。

 その事実とは、つまり。

 そこに、壁があること。

 それ自体。

 真昼は……それに、デニーとマラーは。いかにして、壁のこちら側にやってくることができたのか? さっきも書いたように、その壁には傷一つない。ましてや、三人が通り抜けられそうな大穴など、見つけられるべくもない。これは、どういうことなのか? いや……もしかしたら、この壁は。

「フォース・フィールド?」

「ぴーんぽーん。」

 デニーが、両手の人差し指、ぴんと上のほうを指さしながら。にぱっと笑って、嬉しそうに小首を傾げる。なんともソウ・キュートなジェスチュアであったが、そのキュートさをあげつらっている暇はない。真昼は、忌々しいという気持ちを隠そうとしてもいないやり方で、背中に置かれたデニーの手を払うと。片方の手でマラーの体を抱えながら、もう片方の手を地面に置いて、何とか立ち上がる。マラーは心配そうな顔をして真昼のことを見上げたが、それでも真昼に促される通り、自分も立ち上がった。

 それから、真昼は。

 改めて、見上げる。

 その壁。

「しかもね、デニーちゃんみたいにちゃーんとしたビジターじゃないとダメーってしちゃう、リクアイアメントタイプのフォース・フィールドだよ。だから、安心してだいじょーぶなの、サテちゃんもエレちゃんも、こっちには入ってこられないから。」

「でも……」

 言いながら、真昼は。そちらに視線を向けることを、事実の確認をすることを、恐れているかのようにして。ゆっくりと、目を上げていく。七メートルの壁の上、その視線は滑るように上って行って。そして、その上、壁の途切れた上の空間へとたどり着く。もう一度、マラーの体、自分の体に引き付けるみたいに、ぎゅっと抱き締めて。それから、言葉の先を続ける。

「壁の上は……」

「だー、かー、らー、だいじょーぶだって!」

 元気よく。

 デニーは。

 言葉を返す。

 実のところ、真昼も……たぶん大丈夫であろうということ、心の奥底では理解していた。なぜなら、デニーが大丈夫だと言ったからだ。今までで、デニーが大丈夫と言った時。大丈夫でなかったことはなかった、そりゃまあ広義でいうところの「大丈夫ではなかった」ことは何度でもあったが、狭義の「大丈夫ではなかった」こと、つまり命に関わるような事態は、一度もなかったのだ。これもまた真昼自身は絶対に認めないことの一つであったが……真昼は、結局のところ、信じていたのだ。デニーの言葉、特にその「だいじょーぶ」という言葉を。

 その証拠に真昼は重藤の弓を構えていなかった。真昼が、今、懸念している事態は。つまるところ、この壁を越えて、サテライトの衛星達が襲ってくるのではないかということであって。もしもそれが本当の危惧・危疑・危慮であるのならば、その衛星達を迎撃するために弓を構えていなければならないはずだ。にもかかわらず、真昼は弓を構えることなく、その左手はマラーのことを抱いたまま、ただ壁の上を見上げているだけで。

 そして。

 やがて。

 そこに。

 衛星達が。

 姿を現す。

 真昼はマラーを抱きしめる腕にぎゅっと力を入れて、マラーもそれに応えるみたいにきゅっと強く抱きついた。衛星達は、速やかに浮かび上がってきて。それから、体中に壊疽のように開いている目、どろりと獲物の姿を見つける。その獲物とはデニーと真昼とマラー、主に真昼のことであったが、とにかく、衛星達は、其の獲物に向かって、見紛いようもない捕食者の速度で突進してきて……と、直後、その先頭の一匹が不意に消えた。

 前触もなく。

 音もなく。

 跡形もなく

 影もなく。

 完全に消失してしまったのだ。それだけじゃない、その先頭の一匹、後についてきていた、たくさんのたくさんの衛星達。壁のこちら側に来ようとしては次々に消えていくのだ。まるで空間のある個所に、何かのエネルギーのようなものが滞留していて、そのエネルギーによって焼き尽くされてしまったとでもいうみたいに。大群が、大軍が、空を覆いつくす群雲のように広がる衛星達が。どんどんと、どんどんと、そのある個所、あるサーフェイスを局面として、そこに突っ込んでは消えていく。

「目に見えないだけだよ、フォースフィールドは製錬所の全体を覆ってるの。上空も、もちろん地下も。くるんって、アイスクリンで掬い取ったアイスクリームみたいにね。あの壁みたいに見えてるところは、あくまでも、ここから先はASKの社領だっていうことを、みんなに分からせるために白い色になってるだけ。だから、ね、だいじょーぶでしょ?」

 くすくすと、あの笑い方で。この男が敵であれば間違いなく恐れと憎しみとを掻き抱かせる、けれども今の真昼には頼もしくさえ感じられる、あの笑い方で。デニーは笑った。どうやら、本当に、三人は、安全らしい。いや、安全の定義によっては全然安全ではないというか、アーガミパータにいるというそれだけで死と隣り合わせであることは疑う余地もないのだが。当座の危険からは逃れられたということだ。

 そんなわけで、真昼は、やっと生命以外のこと、真昼自身とマラーとの生命以外のことに思いを致すことができるようになったのだが……そこで、そのことに気が付く。

「猿は?」

「猿?」

「あの……ウパチャカーナラっていう猿。それに、あたしたちが乗ってた乗り物は?」

 そう、今まで気が付く余裕もなかったのだが、三人が乗ってきたあのルカゴは、ウパチャカーナラと籠とのセットでどこかに消えてしまっていたのだ。見回す限りどこにも見当たらない。よく考えてみれば……ルカゴが消えてしまったのは、三人があの壁を通り抜けた瞬間だということが分かった。だからこそ真昼とマラーとは空中に放り出されてしまったのであり、だからこそ真昼のダメージジーンズは更にスタイリッシュになってしまったのだ。

「んあー、あれね。」

 デニーは自分のほっぺたを。

 右の人差し指で、つんと突っついて。

 それから、こともなげに、こう言う。

「あーいう危険なものは持ち込めないから。」

「それって……」

「残念だけどねー。」

 そう言うと。

 肩を竦める。

 この二人の会話から何が起こったのかを察することができないような迂愚迂愚さんはサテライトくらいだろうと思うが、念のために明言しておくと、ルカゴはフォース・フィールドによって消滅させられてしまったということだ。しかもそのことを、このフォース・フィールドに突っ込めばルカゴが消滅するということを、デニーは、はっきりと、理解していた。理解していたからこそ、フォース・フィールドの手前で跳んだのだ。

 ということは、デニーは、分かっていてウパチャカーナラを犠牲にしたということになる。仮にも生き物であって、しかもあれほどデニーに忠実であった、あのウパチャカーナラを。それだけではない、デニーは、ここまでで、一体どのくらいの犠牲を出しただろうか。陽動作戦、しかも失敗した陽動作戦に使われた兵士達。その後で、エレファントとサテライトとの足止めに使われたウパチャカーナラ達。デニーは、あっさりと、こともなげに、そういった犠牲を、使い捨てていって。そして、後悔の涙一つ流すことがないのだ、今のように、軽く肩を竦めるだけで。

 しかしながら、そんなデニーの、無慈悲なやり方に対して。今の真昼は……それほど怒りや憎しみやの心が湧いてくることがなかった。もちろん、怒りを感じているし、憎しみを抱いている。それでも、今の真昼が今の真昼ではなかったら。このアーガミパータに来たばかりの真昼だったら。きっとデニーに向かって怒鳴りかかったり、掴みかかったりくらいはしていただろう。だが、今の真昼には……そこまでの感情はなかった。真昼自身は、そのことを不思議とさえ思わなかったのだが、それは、実際、確かに不思議なことなのだ。恐らく、推測するに、その現象の一番大きな理由は、マラーの存在だろう。いうまでもなくデニーの非情さに慣れてきているという理由もあっただろうが。それよりも、自分自身よりも大切な何か、守らなければならない何かができてしまったことで、真昼は、それ以外の者の痛みや苦しみや、あるいは死に対して。決定的に鈍感になってきているのだ。

 しかし。

 それは。

 今は。

 どうでもいいことで。

「それで、これからどうするの。」

 真昼は、デニーの冷酷無動な行為に触れることなく。

 ただ、それでも、不快そうに顔を背けながら言った。

「それで、これからお待ちするの。」

「待つ?」

「そう。」

「何を?」

「あーれっ。」

 そう言うとデニーは、壁がある方向とは反対の側、つまり真昼の背後の、その斜め上空を指差した。真昼は、未だに真昼の服の裾をしっかりと掴んでいるマラーの体、抱き締めていた腕の力を抜いて。それからデニーが指さした方を振り返る。

 そして、そこに。

 一匹の。

 巨大な。

 怪物の。

 姿。

 真昼は、はっと喉の奥で掠れるような呼気を吐き出して、反射的に一歩下がってしまった。その腕の中で、マラーがまたもやびくっと身を震わせる。そこに、その空に、浮かんでいたものは……ある意味で、そこに浮かんでいるのが最も相応しいと思われるような何かしらだった、つまり、アーガミパータの空に。

 それは確かに怪物であった。だが、それは本当に怪物なのだろうか? 真昼には判断が付きかねた。それは……いや、こういう迂遠な書き方はもうよそう。何も知らない人間の思考を、いちいち一つ一つトレースしていくのは時間ばっかりかかって仕方がない。「それは」「それは」「それは」ばっかり続く、馬鹿みたいだ、そんな効率の悪いやり方はやめて有り体に書くとすれば。それは、赤イヴェール合金を形相子的にリコンビネーションして作り出された生起金属生命体だった。

 なので、ある意味で真昼は正しかったのだ。それは生命体であって生命体ではない。造成的に作り出されたクニクルソイドなのだから(ここでクニクルソイドという語自体が「造成的な」という意味を含んでいるという指摘をなさる方もいらっしゃるかもしれませんがクニクルソイドは本来「兎穴の中で作られた生き物」という意味なので正確には「造成的な」という意味を含んでいません)。大きさとしては、分かりやすい例えでいうならば、エスペラント・ウニートでエクセルシオールからスマイリー島までを結んでいる定期船くらいの大きさだろう。頭部から尾部までの長さで二十五ダブルキュビト程度といったところだ。そして、その外見に関しても……やはり、ある意味で真昼は正しかった。

 全体の形状として、一番近いのは人間の肉体だろう。だが、腕が切り落とされて、右足と左足が溶け合ってしまっている、そんな人間の体だ。空中に浮かんだその肉体は俯せに横たわるような姿勢をとっているが、その背中から尾部にかけて、ゆったりと撓む一本の足のようなものが伸びている。足といっても指や足首やといった複雑な機構は備わっておらず、どちらかといえば鰭ではない尾鰭(つまり膜状の構造が備わっていない器官)といった方が正しいかもしれない。その足先から次第に視線をスライドさせていくと、ちょうど腕があるべきところに腕がない。その代わりにあるのは、まるでひどく突き出した肩甲骨のような形だ。羽のように見えないこともないが、それにしてはあまりにも小さすぎる。それに羽ばたいてさえもいない、ただ……光っているだけだ。何か、淡く、朧で、それでいて視神経の奥の方をちりちりと焼き焦がすような、奇妙な痛痒を伴う光によって。

 それから、そのやせ細った胴体の先には頭があるのだが、その頭は頭としての役割をほとんど果たせていないだろう。目のようなものも耳のようなものも存在していないからだ。辛うじて退化した鼻に似た機関が付いていて、それがどうやら呼吸をしているらしく、一定の速度で空気を吸ったり吐きだしたりしている。その下には口らしきものがあり、こちらはしっかりと閉じられている。さて、目のようなもの、耳のようなもの、そういったものがあるべき場所に何があるのかといえば……鼻から上、その頭部の全体を覆うようにして。何か、別のクニクルソイドによって寄生されているらしかった。

 昆虫に寄生するある種類のキノコのようにして、巨大なクニクルソイドの頭部に根を張っている。何本も、何本もの根が、上の方に行くにつれて次第に束なりあっていって、最後に、それは一つの体になる。これもまた人間の体で、どうやら臍から上の上半身らしい。このクニクルソイドについている臍は母胎からではなくアーキ・マルト・ヒステリアからの栄養摂取に使用されていたものだが、それはともかくとして。その小さいほうのクニクルソイドは、成人女性の肉体に非常に似た形をしていた。ほっそりとした胴部に、乳首は見当たらないが、二つの小さめの乳房。巨大なクニクルソイドと同じように肩から先が切断されているが、肩甲骨の肥大はなく、ただ滑らかな曲線を描いているだけで。そして、その上に、頭が付いている。

 目は、閉じられたまま失われてしまったように、瞼を閉じたくぼみだけが残っている。優しく穏やかに張り出した鼻。うっとりと夢見るように柔らかい唇は、何かの甘い残響に浸っているみたいにして、ぼんやりと開かれている。そして耳、頭の両側にぽっかりと、ただ穴の形が残っているだけで。他には……髪の毛の代わりに、巨大なクニクルソイドに張り詰めた根と同じような形をした、とはいえそれよりは随分と細い、のたくる触手が生えている。何本も何本も、それこそ数えきれないくらいのその触手は、肉体の背中の方に流れていって、そうしてそれはその肉体のそこら中に接続されていた。この構造が一体何の役割を果たしているのかは分からないが、どこかしら苦痛というか、刑罰に似た印象を、真昼に与えたのは確かだ。

 そして。

 その全体が。

 赤イヴェール合金の、あの赤。

 禍々しい赤色で、濡れている。

 ゆっくりと、海を泳ぐ赤鯨の態度によって、その……船はこちらにやってくる。そう、それは船だった。「あれはね、真昼ちゃん」あまりに巨大で、あまりに異様なその姿、言うべき言葉が分からずに、それでも馬鹿みたいに口を開いたまま、ただただそれを見上げている真昼に向かって、デニーが教えてあげる。「ASKの、シャトルシップだよお」。優しく、優しく「だから」教えてあげる「そんなに怖がらなくても大丈夫だぞ!」。

「シャトルシップって、送迎船ってこと?」

「えー、真昼ちゃん! なあに、その質問。ふふふっ、おかしいんだー。シャトルシップも送迎船もおんなじ意味ですよー?」

「だって、あれ……船……?」

「そう、お船っ!」

 真昼の全くはっきりとしない問いかけに対して、デニーは面白そうにそう答えながら。その船に向かって手を振り始めた。ぴょんぴょんとジャンプして、両手を大きくぶんぶんと降って。なんだか、自分だけしか知らない振り付けの、素敵なダンスを踊っている、可愛らしい子供みたいなやり方で。

 一方で真昼は、そのデニーが言うところの船のこと、もう一度、じっくりと、目を向けてみる。すると……確かに、その船には、船らしきところがあった。それは胴体部分に開いている窓だ。窓? そう、あれはたぶん窓だろう。横腹の、ちょうど肋骨があるあたりから、背中に向かって。あたかもガラスのドームででもあるかのようにして、全面的に、透明な窓になっていたのだ。

 そして、その窓の中に……見えたものは……とても過ごしやすそうな、ラウンジだった。いや、これは比喩ではない。本当に、それは、ラウンジだったのだ。広々とした空間は、壁も床も天井も、感じのいい白で統一されている。すっきりとシンプルな円形テーブルの両側に、一人掛けのソファが一つずつ、そんなセットがいくつか置いてあって。そして、窓際には、外の景色がよく見えるように、座り心地のよさそうな長椅子が置かれている。ソファと長椅子の色は赤で統一されている、その赤色は赤イヴェール合金の赤ではなく、目に鮮やかな快い赤色だ。奥の方には、よく見えないが、バーカウンターのようなものまで設置されていた。ただしそのバーカウンターの中には人がいないため、恐らく自動で飲食が提供される何らかのシステムが備わっているのだろう。

 そう。

 それは。

 紛うことなく。

 送迎船だった。

 その送迎船はイージーゴーイングな態度で、いや、こういう怪物じみた物体にイージーゴーイングという表現を使うのもなんだか変な気もするが、とにかくゆっくりゆっくりとした振る舞い、それでいて見る見るうちにこちらへと近づいてきて。そして、随分と上空を飛んでいたはずなのに……いつの間にか、デニーと真昼とマラーと、三人の目の前に、音を立てることなく、静かに、ふわりと、着地していた。

 マラーは、当然ながらその送迎船の外見に恐怖を感じていたし、真昼の背後に庇われるみたいにして隠れていたのだが。とはいえ、思ったほどに怖がってはいないようだった。それはたぶん、真昼がその送迎船に対してそれほど警戒しているようには見えなかったからだろう。まあ真昼が警戒していなかったのは、いうまでもなくデニーが警戒していなかったからなのだが。

 それでも、念のためにマラーを庇うようにしている真昼の目の前で。送迎船は、寄生されている側、巨大なクニクルソイドの方、くわぁあんとでもいうみたいにして、そのはなはだしくヒュージな口を、大きく、大きく、開いた。ほとんど生物学的な怯え、小さい生き物が大きい生き物に捕食されるのではないかという怯えのせいで、真昼は一歩だけ下がってしまったのだが。そんな心配は杞憂であって、真昼が弱者であることの一証明に過ぎない。

 デニーの姿を見てみるといい。

 デニーは、何物にも怯えることはない。

 強者は怒りを抱かない。

 強者は憎みを抱かない。

 そして、強者は、怯えを抱かない。

 だから、デニーは。

 ただ、笑って。

 真昼に、こう言う。

「じゃ、行こっか。」

「行こっかって……」

 躊躇うことなく口の中へ、空々茫々と開かれている送迎船の中へと向かって歩き始めたデニーに対して、真昼は、若干の怖気を含ませた口調でそう言った。アーガミパータに来てから強制的に乗り越えさせられた色々な経験のせいで、随分と危険に対する耐性ができていたし。それにデニーが大丈夫だと言っているのだから大丈夫なのだろうということは理論的には分かっていたのだが。それでもやはり化け物の口の中に入るというのは気が進まないものなのだ。そんな真昼のことを振り返って、デニーは言う。

「どーしたの、真昼ちゃん。」

「いや、どうしたっていうか……」

「歩いて行きたいの? でもさーあ、お客さんのための建物って、ずーっと遠いところにあるよ。真昼ちゃん、もう、疲れちゃってるでしょお? せっかくだからさ、乗ってこーよ!」

 言いながら。

 デニーは。

 手招きをする。

 折しも、デニーの接近に反応したのだろうか、送迎船の口の中からでろーんと舌が流れ出してきたところだった。流れ出してきたというか、どう表現すればいいのか。ねっとりとしたマグマが流れるように……もしくは、まるで、斬新な形状のタラップが下ろされたかのように。要するに、それは、口の中へと入りやすくするためのタラップが差し掛けられたということだった。

 スキップでもするみたいな軽やかな足取りによってデニーはそのタラップを駆け上がっていく。真昼は、しばらくの間その姿を見ていたのだが……やがて、覚悟を決めて、歩き始めた。マラーは思ったよりも抵抗しなかった、デニーと真昼と、その二人のことを余程信じているのだろう。真昼が進むのに従って、おずおずとではあるが、しっかりと歩を進めていく。

 崖を飛び越えようと思うのならば絶対に下を見ようなんて思わないことだ。それと同じように、何かを成し遂げたいと思うのならば、絶対に、立ち止まってはいけない。立ち止まって冷静になってしまえば、大抵の場合は「そんなことできるわけがない」と思ってしまうものなのだから。真昼は短いなりにも挫折ばかりの人生からそのことをしっかりと学んでいた。そして、その学んだことは、まさに今回の「行為」に生かすべき教訓であって。

 立ち止まってはいけない。

 立ち止まってはいけない。

 立ち止まってしまえば。

 自分が何をしようとしているのか。

 はっきりと理解してしまうから。

 真昼が何をしようとしているのかといえば、悪魔の導きに従って、怪物の口の中に入ろうとしているのだ。ああ、なんて、笑ってしまいそうなコメディ。そう、アーガミパータにはコメディが似合う。コメディには必ず落ちがあるように、アーガミパータにやってきた人間も、最後の最後には、必ず墜落するのだから。それはそれとして、真昼はそのタラップに足をかけた。

 思ったよりも硬質の感触だった、よく考えてみれば当然のことで、この送迎船は炭素ベースの生命体ではなく、赤イヴェール合金でできているのだから。まあ、真昼は赤イヴェール合金云々のことはそこまで詳しく知らなかったのだが(まともに勉強していなかったから)。一歩、二歩、三歩、立ち止まることなく、速度を落とすことなく、どんどんと舌の上を歩いていく。口の奥へ、喉の方へと向かって。ゼパウスよ、ゼパウスよ、あなたは自ら赤い龍に飲み込まれるおつもりですか? ああ、私は自ら飲み込まれよう、それが女王の望まれることならば。そのようにして、真昼と、マラーと、それにもちろんデニーとは、飲み込まれる。

 いつだったかテレビで見たことで、真昼は覚えているのだが、人が何かを飲み込む時に逆立ちしながら飲み込んでも吐き出さないのは軟口蓋という部分が喉の奥を塞ぐことで逆流を防ぐからだそうだ。舌のタラップを無事に上り終えた先に見えていたものは、真昼には、その軟口蓋であるように思われた。もちろん、嚥下する物質、つまりデニー真昼マラーの三人は、未だにその軟口蓋の外側にいるのだが。舌の奥には短めの廊下としての喉が繋がっていて、それから、その奥は、やはり赤イヴェール合金でできたところの肉のようなもので塞がっていたということだ。

 その、軟口蓋(仮)を見ていると。

 三人の後ろ。

 ゆっくりと。

 送迎船の。

 口が。

 閉じられて。

 案外に、パニックになることもなかった。真昼も、マラーも、もうパニックになっても遅いからだろう。口は閉じられた。出口はない。今更じたばたしたところで何の意味もないのだ。なのでじたばたすることもなく、次に起こることをじっと待っていると。すぐさまそれが起こった。軟口蓋(仮)が、ぶるぶると震え始めて、それからぱっかりと開いたのだ。そして、その奥にあったものは……そう、あのラウンジだ。

 趣味のいい音楽が聞こえてくる。

 恐らく、何かの、模奏曲だろう。

 こういった上品なラウンジにかけるにはぴったりの曲で、真昼はその曲の名前を知らなかったのだが、古典的なパンピュリア音楽、特にゲコルティエによく似た曲調だと思った。静かで、ユーモアがあり、それでいて深い深い悲しみに満たされていて。真昼の推測はほとんど正しかった、この曲は、造成知能にゲコルティエの作った全ての曲を記憶させて、その特徴を学習させることで、即興的に新しく作られた曲だったからだ。

 それはともかくとして、デニーと、真昼と、マラーの三人は。そのこざっぱりとしたラウンジに立っていた。洗練されているというかなんというか、視界に入るものの全てが洒落ていて、清潔で。こういうラウンジの持ち主は、きっとまあまあ良いフォークを半ダース持つよりも、本当に良いフォークをたった二本持つ方を好むような人だろう。その場所の描写は既に一度しておいたので重複は避けるが。外から見た通りのラウンジだった、ただし、その出入り口は、ドアの代わりに、盛り上がった肉の塊によって閉じたり開いたりするのだったが。

 三人がラウンジに入って、すぐに。

 音もなく、その送迎船は離陸した。

 本当に何の音もせず、振動さえなかった。だから、窓から見える光景、徐々に徐々に地上が遠のいていかなかったら、少なくとも真昼とマラーとは気が付かなかったに違いない。デニーちゃんは賢いから気が付いたよね。送迎船はどんどんと高度を増していって、やがて、ここから飛び降りたら間違いなく死ぬだろう高度に到達する。まあ飛び降りようとしたとしてもこの船から出る方法など真昼には思いつかなかったのだが。

 真昼は、まあ、こういったラウンジに慣れていないというわけではなかったが。それというのもブチ切れて家から飛びだす前はハイグレードなホテルで開かれるパーティによく連れていかれたものだったからであって。とはいっても、今のこの状況は、過去に経験したそういう状況とはあまりにも異なっている。何せ今の真昼はアーガミパータにいるのだし、服装だってちゃんとしたイヴニングドレスを着ているわけではなく……とにかく、いいたいのは真昼はかなり混乱していたということだ。外の地獄と、自分が今いる場所との鮮やかなコントラストに。

 そんなこんなで、しばらくの間どうしていいのか分からずに、真昼は精神的にも肉体的にもうろうろとしていたのだが。その間にデニーは、ててっと奥の方へとちっちゃい走りに走っていった。ちっちゃい走りというのは小走りの可愛らしいバージョンのことを指す言葉であるが、デニーのそのちっちゃい走りは特に可愛らしい走り方であって……そして、やがて、そのラウンジの一番奥にたどり着く。そこにあったのは、外から見た時に一度触れておいた通り、バーカウンターだ。

 さて、その「一度触れておいた」時にも一度触れておいたと思うのだが。そのバーカウンターにはバーテンダーらしき人間がいなかった。空っぽの空間、棚の中に何かしらのボトルがひどく整然と並べられているだけで。けれども、そんなことには欠片もお構いしたりする様子もなく。デニーは、ばしーんとカウンターに手をついて、ぴょーんと飛び跳ねるみたいにして、カクテリング・スペースの方に身を乗り出すと。とても元気のいい声で「お水を、一つ、下さいな!」と言う。

 すると。

 そこに。

 水が、あった。

 もちろん、いうまでもなく、当然のことながら。水だけがあったわけではなく、グラスに入った水があったということだ。こんなこといちいち書くまでもないと思うのだが、この世の中には時折信じられないほどの馬鹿がいるものなのだ、そう、サテライトのように。それはともかくとして、ひどく精巧に切子細工が施され、灰色がかった宝石のように静かな色をしたグラスは、本当に、いつの間にか、バーカウンターの上に載っていた。ふうっと淡い光、青っぽい色をした光が集まったかと思うと。間違い探しの間違いだったみたいにして、そこに存在していたのだ。

 その現象について、一つも不思議と思っている様子もなく。

 ひょんっと、グラス・オブ・ウォーターを、取り上げると。

 とーってもご機嫌な笑顔を浮かべながら。

 すててっと、真昼のところ、走ってくる。

「真昼ちゃーん。」

 間延びした。

 幼い、声で。

「お水だよお。」

 そう言って。

 それから。

 デニーは。

 そのグラスを、真昼に手渡す。

 手渡す、というのは語が示すそのままの意味であって、そのグラスは、間違いなくデニーの手から真昼の手へと渡されたということだ。真昼は不意を突かれたのか虚を突かれたのか、どちらも大体同じ意味だと思うが、それを受け取る時には何らの拒否反応を示すこともなかった。

 しかし、受け取ってしまってから「しまった」と思ったらしい。「しまった」というのは、主に、自分がデニーに対して見せてしまった素直さに対する「しまった」であるが。とにかく、真昼は、そのグラスのこと、全くもって不審そうに見つめながら、デニーに向かってこう言う。

「これ……何。」

「何って、だから、お水だよお。いーっくら賢いデニーちゃんの素敵な理程式でぱわーあっぷ!してるからって、こーんなにずーっとお外にいたんだから、きっと、真昼ちゃん、喉乾いちゃってるでしょ? だからお水。」

「この水……どういうこと。」

「どういうことって?」

「どこから、持って、きたの。」

 ここで一つ補足をしておかなければならないが、デニーがバーカウンターでお水召喚をしていた時に、真昼はそちらの方を見ておらずに、窓の外を見ていた。まあ、そうであっても、真昼も全くの白痴というわけではないのだし、恐らくあのバーカウンターから持ってきたのだろうという推測はついていたのだが。少しでも、デニーに対する反抗の気持ちを表すために、こう聞いたのだ。

「どこからって、あそこからだよ。」

「大丈夫なの?」

「ほえ?」

「これ、飲んでも……」

「えー? 変なところで心配性なんだね、真昼ちゃんって! だいじょーぶだよお、ASKだってー、さすがにー、ウエルカムドリンクに変なもの混ぜないでしょー!」

 そう言うとデニーは、いかにもおかしーい!という感じでけらけらと笑ったのだった。さて、一方で……笑われた方の真昼はというと、そんなデニーに対してちょっとばかりイラっとしたのは無論のこととして。それはそれとして、デニーの言葉の通り、ひどく喉が渇いているということに気が付いた。

 あまりにも連続して襲い来る危機また危機また危機また危機のせいで自分の肉体のことを完全に失念していたのだ。デニーのいう通りであると認めることは大変小癪に障ることであるが、この際小癪には少しばかり我慢して頂くことにして、かといって嫌々ながらという態度は断固として崩すことなく、この水を飲むという行為を実行した方がいいのかも知れない。

 と。

 そこまで。

 考えた。

 時に。

 真昼は、はっと気が付いた。この送迎船の外にいた時から、ずっとずっとずーっと真昼の服の裾を掴みっぱなしで、真昼のそばにすり寄るみたいにしてくっついて離れなかった、マラーのことに。その時、マラーが何をしていたのかというと。一言も発することなく、ただただ見上げていたのだ。真昼のこと、何かを、欲している、眼をして。

 何かを? いや、ぼかすような言い方をする必要はないだろう。真昼だって、マラーが何を欲しているのかということ、即座に理解したのだから。水だ、真昼の持っている水。マラーは、それを欲していたのだ。まあ当然といえば当然のことだった。幾らマラーがそもそもアーガミパータの人間であり、幾らほとんどの行動を真昼に庇われながら行っていたからといっても。マラーの喉が渇かないということにはならない、しかもマラーは真昼と違って魔学式による身体強化を受けていないのだ。

 と、いうことで。

 マラーは。

 ひどく。

 乾いていた。

 だから、真昼は……躊躇うこともなく、そのグラスをマラーに対して差し出したのだ。「え、えー!? 真昼ちゃーん!?」などと驚いているデニーの声。気にすることもなく、真昼は、マラーに、押し付けるみたいにして、その手にグラスを握らせた。マラーは、最初は、そんな受け取れません、あなたが飲んでください、みたいな感じで、受け取らなかったのだけれど。それでも最後にはそのグラスを受け取ったということだ。

 両手で包み込むように、といってもその小さな手のひらでは包み込めるはずもなかったが、グラスを持っているマラー。真昼の顔色を伺うようにして(国内避難民のほとんどが常に浮かべているあの表情だ)見上げる。「ねえ」「ほえ?」「この子に、飲んでいいよって言って」「そんなー! せっかく真昼ちゃんのために……」「いいから」というような会話を交わした後で。デニーは、ちぇーっという態度を隠すこともなく、マラーに向かって一言か二言、何かを言った。

 すると、マラーは。

 もう一度、真昼の方に、顔を向けて。

 一言だけ「ナンドゥリー」と言うと。

 そのグラスに、口をつけたのだった。

 「んもー、真昼ちゃんってば! さぴえんすって時々わけ分かんないことするよね!」みたいなことを言いながら。それでもその出来事に対して何らかの特別な感情を抱いた様子もなく、デニーは、すぐに忘れてしまったようだった。まあ、どうでもいいことをいつまでもいちいち覚えている必要もないしね。それからデニーは、ふんふんふーんみたいな、心弾むハミングを歌いながら。ソファーのうちの一つに、ぽふんっと腰掛けたのだった。

 一方で、真昼は。グラスの水をこくこくと一生懸命飲んでいるマラーのこと、満足そうに見下ろしながらも、大変、大変、喉が渇いていた。いや、まあ、我慢できないほどではないのだが、その我慢できないほどではないというところが厄介なのだ。もしも我慢できないレベルの渇きであれば、マラーにグラスを与えた後、すぐさま、デニーに対して何らかのアクションをとっていただろう。水をもう一杯持ってくるように言うとか、そこまでいかなくても、あのカウンターバーの使い方を尋ねるとか。しかし……我慢できないほどではない。

 渋るデニーに対して「いいから」とまで言って、マラーに水を与えておきながら。それにも拘わらず、もう一杯の水を望むということは、なんだかとても図々しいことのように思えたのだ。それに図々しいというだけではなく……真昼には、容易に想像がついた。「えー、やっぱり真昼ちゃんも喉渇いてるんじゃーん!」みたいなことを、ぷすすーという感じの大変むかつく笑い方をしながら言ってくるであろう、デニーの姿を。それはさすがに……真昼としては避けたかった。この事態もやはり小癪に障ることであったし、小癪としても我慢の限界があるだろうからだ。これ以上、小癪に無理をさせるわけにはいかない。

 ということで、真昼は。

 プライドと小癪とのために。

 グラス・オブ・ウォーター。

 我慢することにした。

 ところで小癪ってこの使い方であってるんですかね、何となく間違ってる気がするんですが。そもそも小癪って何? まあいいか、とにかく真昼は気を紛らわせるためにマラーに向かって「おいしい?」と聞いてみることにした。もちろん真昼はカタヴリル語を話すことができないため、共通語で聞いてみたのだが。こういう時にこういう顔をしてこう言う人が聞くことなんて世界のどこでも大体同じであるし、それに真昼の優しい口調、マラーにも何となく伝わったらしい。マラーは、その言葉に顔を上げると。小首を傾げるみたいに、しかも一度だけではなく、右に、左に、何度も、小刻みに傾げるような、そんな風にして頭を振って見せた。

 これは、真昼が知っているわけもなかったのだが、アーガミパータの全土で使われているジェスチュアの一つで、何となく好意的な・肯定的な・ポジティブな、そんな曖昧な気持ちを表したい時に使われるものだ。共通語的ジェスチュアでいえば「頷く」と似たような意味を持っているが、はっきりとしたYESを表すというわけでもなく、細かい部分では異なっている。そして……やはり、こう言う時にこういう顔をしてこうジェスチュアする人が答えることなんて、世界のどこでも大体同じであるから。このジェスチュアの意味も、何となく、真昼に伝わったのだった。ことほど左様に、コミュニケーションとはぞんざいな愛によって成り立っているものなのである。

「真昼ちゃーん。」

 そのように、やり取りをしている真昼に。

 ソファーにすっぽりと収まって。

 ぱふーん、と、ふんぞり返って。

 だらけ切ったデニーが、声をかける。

「真昼ちゃんも、座ったら?」

 それから、自分が座っているソファーからテーブルを挟んで反対側のソファー、ぴーんとした人差し指で指さした。「疲れてるよね? ほら、サピエンスって何かと疲れやすいし!」、賢いだけでなく気も使えるデニーちゃん。そしてその言葉の通りだった。真昼は疲れていた。だが、そうはいっても、デニーのそばに座る気などさらっさらのさらさらりんに存在していなかった。確かに、無意識のうちにおいては「デナム・フーツ」という大変他人行儀な呼び方ながらも、とにかく名前を呼ぶくらいにはストロングディスライク・レベルは低下していたのだが。それでも嫌いなものは嫌いなのだ。と、いうわけで。デニーが指さしたそのソファーに座るなんていうのは、完全にアウト・オブ・ア・論外であった。ちなみにこれは強調を意味する重文である。

 幸いなことに。

 このラウンジ。

 座る場所は。

 幾らでもある。

 水を飲み終わったマラーのこと、促すように背中を押しながら。窓際に置かれた長椅子のうちの一つに真昼は向かった。ちなみにマラーが飲んだこの水はただの水ではなかった。糖分だとか塩分だとか、そういった水分吸収に非常に適切な物質が非常に適切な分量含まれていて、それゆえに、水を飲み終わるとすぐに、マラーからは口渇の感覚が薄れていた。

 「真昼ちゃーん? デニーちゃんがいるのはこっちだぞ?」とかなんとか言っているデニーのこと、慈悲の欠片も示すことなく無視して。真昼と、マラーと、デニーが指差したソファーではなく、そこからかなり離れたところに置かれている長椅子に座った。

 デニーが座っている場所からほんの少しでも遠いところに座りたかったという理由もあったが。それだけではなく、純粋に、外の光景が見たかったという理由もある。送迎船の中から見る景色は……間違いなく、見る価値がある光景なのだ。高度はたぶん四百ダブルキュビトか五百ダブルキュビトくらいだろう。百ダブルキュビト違えばえらい違いだと思われるかもしれないが、これほどの高さになるとその程度の違いは分からなくなるものだ。そして、この高さから見るアーガミパータの光景は少なくとも不快なものではない。腐りはてた死骸も打ち砕かれた建築物も、この高さからならば捨象されて見えなくなるからだ。

 とはいっても、そういった死体だの廃墟だのが、ASKの社領であるこの空間に存在しているわけもなかったが。真昼の視線の先に見えていたのは……ただ……アーガミパータの夕暮れだけ……読者の皆さんはアーガミパータの夕暮れを見たことがあるだろうか? 写真や動画など、撮影された映像を見ただけでは、それを見たということはできない。これはひどく陳腐な言い回しに思われるかもしれないが、他の現象に対してはともかく、アーガミパータの夕暮れに関してだけは間違いなくこの言い回しが当てはまる。それは人間の卑小な業によって切り取ることができるものではない、あまりにも、あまりにも……大きすぎるのだ。極大や、莫大や、甚大や、壮大や、そういった全ての言葉はアーガミパータの夕暮れを表すのに全く足りていない。

 神なのだ、要するに。一柱の神が夜へと向かって死んでいく。しかも、それはただの神ではない。全ての神を生み出した神、そして、全ての神がそこに帰っていくであろう神。ヒラニヤ・アンダ、神卵。その神が、海を満たすほどの赤い血液を流しながら、少しずつ、少しずつ、この世界の底へと沈んでいく。もちろん赤い血液の部分は夕暮れの赤い光の比喩的な表現であるが。しかし、それほどまでにその光景は偉大であった。この世界が終わっていく時に、きっと、世界は、こんな色に染まるのだろう。いや、もしかして……今、本当に、世界が終りかけているのだろうか? ほんの一瞬ではあるがそんな錯覚さえ起こさせるような光景。そんな、光景を、見て。

 真昼は。

 その時。

 初めて。

 気が付く。

 そう、既に、時は。

 日が暮れる。

 時刻なのだ。

 読者の皆さんにおかれましては#8の中盤あたりで既に気が付かれていたと思いますが。真昼は、今、初めて、日が暮れ始めていることに気が付いた。それほどまでに過酷な運命に対して必死で向き合っていた真昼であることよ(詠嘆)。そんな真昼にも一時の安らぎの時が訪れたようだ。世界が終ってしまいそうな光景を、ただ、ぼんやりと眺めながら。真昼は、マラーと、お互いの体を、静かに寄り掛からせあう。

 死にかけた、神の血液は。

 世界の隅々まで、濡らす。

 赤く、赤く。

 全ての存在。

 最後の、最後の、炎で。

 焼かれているみたいで。

 そういえば……あの、マイトレーヤの石窟寺院があったあたりと比べてみると。ここら辺は、随分と「荒野感」というか「不毛感」というか、そういった感じが薄れてきているようだった。確かに、大部分では、駱駝の体毛にも似た薄い茶色の大地が剥き出しになってはいたが。それでも、そこここで地表を覆うささやかな草原がないわけではなかったし、かなりしっかりとした図体をした木々も、国内避難民キャンプの周辺に生えていたよりその数を増やしている。荒野というよりも大草原地帯といった方がよく当て嵌まるくらいだ。

 そんな光景が。

 どこまでも、どこまでも。

 まるで、永遠の真似事のように。

 窓の外、広がっている気がして。

 真昼は……段々と、段々と、眠くなってきてしまう。見渡す限り変わりのない、動きのないランドスケープと。それに、真昼の体の奥の方を、静かに痺れさせているみたいな、ほとんど気が付かないくらいのこの送迎船の振動のせいで。そりゃあ、キャンプからの華麗なるエクソダスの後、ちょっとだけ居眠りをしていないわけではなかったが。せいぜいが四十分だ。真昼のあの波乱舞闘の大活躍から考えてみれば、そんな程度の急速で足りるわけでもなく。更に、とっくのトークン・ピーナッツに眠りのあわいへと旅立っていたマラーの、その体温のせいで。どこで生まれ育った子供であれ、眠たい時の子供は暖かいものだ、とにかく真昼は様々な要因からかなり眠たい感じになってしまっていて。

 そして。

 それから。

 はっと気が付く。

 いつの間にやら。

 自分が。

 眠ってしまっていたことに。

 右手の甲、手首のところで、口の端から伝い落ちていた唾液を拭い取って。どれくらい寝てしまっていたのだろう、眠りに落ちたタイミングさえ覚えていないので見当も付かなかった。あまりにも疲れ切っているせいで、全然休まらない体勢で眠りに落ちてしまい、その上ほとんど疲れが取れないうちに目覚めてしまった、そんな人間に特有の、あの焦点の定まらない思考、自分が今どこにいて何をやっているのかということを良く理解できていない思考のままで、真昼は、こう口にする。

「あとどれくらいで着くの。」

「あー、真昼ちゃん。起きたんだ。」

 頭蓋骨の中まで乾き切ってしまったみたいに喉の渇きがひどくなっていた。寝ているうちに若干ながら汗をかいてしまったのだろう。ラウンジの温度自体はごく快適な温度に保たれていたのだが、なにぶん体温の高いマラーがずーっと寄りかかっていたものだから。

 一方でデニーはというと。目の前に置かれている円形テーブルの上に何やらいたずら描きみたいなことをしていたらしい。この送迎船は、デニーのものではなく、ASKのものなのに。テーブルの上に直接、まったく得手勝手に、何やらごちゃごちゃと、大して意味があるとも思えない絵を描いていて。けれどもそのいたずら描きは、デニーがぱっと手で払う動作をすると、まるで埃か何かで描かれていたかのようにぱっと消えてしまった。

 それから。

 デニーは。

 一体、何が面白いのか、くすくすと。

 さも愉快そうな笑い声を立てながら。

 言葉を続ける。

「真昼ちゃん、ぐっすりだったね。」

「あと、どれくらいで、着くの。」

 デニーとは対照的に、さも不愉快そうな声でそう言うと。真昼は、自分の髪の毛に手を突っ込んで、ぐちゃぐちゃと掻き回し掻き毟るみたいにして掻いた。すっかり寝惚けている頭の中を何とかはっきりさせるために、ちょっとした刺激を与えたのだ。次第に、次第に、思考が焦点を結んでくる。そして、真昼は、ようやく、自分が、今、見ているものに、気が付く。

「は……?」

 それきり。

 声が。

 声が。

 出なくなる。

 ここで一つ読者の皆さんに断っておかなければならないことがあるのだが。いくらディープネットの御曹司(このディープネットという会社については近々説明があります)であるとはいえ、真昼はまだ十六歳なのだ。人間が成長するにおいて最も重要な経験というファクターを未だにほとんどその身に刻んでおらず。しょせんは世間知らずのメスガキに過ぎない。なので、アーガミパータで見るもの見るもの、ほとんど全てに対して「え……?」だとか「な……?」だとか「は……?」だとか、そういった白痴じみた反応を示しても仕方のないことなのだ。見るもの全てが、真昼にとって、新しく、新鮮で、きらきらしていて。真昼は、そういう年代の少女なのだから。

 しかし、そうはいっても。

 今、真昼が目にしている。

 その光景は。

 そう、確かに。

 真昼のような人間ではなくても。

 驚きに値する光景だった。

 ハラギオ、ヘミタロナ、ヘミタロン。私はそれを見た、私はそれを見た、私はそれを見た。三度繰り返してザドック・アレンは息絶えたという。真昼の目の前に広がっているのは、例えばそういう光景だった。それが、なんであるか……真昼には分からなかったし、それに人類の大半にも分からなかっただろう。それでも、その光景を何とか表現してみるならば。巨大な滝が、空に向かって、勢いよく流れ落ちていく、そんな光景だ。しかもその滝は水でできた滝ではない。白く、白く、透析したミルクのような色、異様な光を放つ……つまり、白イヴェール生起金属の、液体金属だったのだ。怒涛のように、奔流のように、いや、まさに狂瀾する瀑布そのものとして。その液体金属は凄まじい勢いで天に向かって墜落していく。しかも、しかもだ。そのような滝が、たった一つだけあったわけではない。幾つも、幾つも、真昼の視界が続く限り。そこら中から、天上へと向かって、猛り狂い、逆巻いているのだ。それは……空風絶景であった、あらゆる意味で。

「えっとねーえ。」

 ぱふん、と真昼の肩に手が置かれる。

 真昼は、反射的に、ばっと振り返る。

「もー少しだよお。」

 当然ながら。

 そんなことをするやつは。

 デニーしかいないけれど。

 真昼が振り返った拍子に、預けていた体が揺さぶられたらしく。マラーが、変に気の抜けた声をあげながら、どうやら目を覚ましてしまったようだ。真昼は「あっ、ごめん!」と口ずさむが、もちろん共通語はマラーに通じない。さて、そういったちょっとしたどたばたは置いておいて。

 デニーは、真昼の後ろに立ったまま、真昼の肩に手を置いたまま。その顔を、ひょいっと真昼の顔の横に突き出した。フードの奥に隠れているので、横顔ではほとんど見えないのだが。幸いなことに、デニーは、その突き出した顔、ぱっと真昼の方に向けて見せる。可愛らしく、可愛らしく、可愛らしい、どこまでも無垢な顔が、真昼の顔のすぐ先、息がかかるくらいの近さにあって。その顔が、にこにこと笑いながら、こう言う。

「ほら、あれ。」

 一瞬何を言われてるのか。

 真昼には分からなかった。

 でも。

 すぐに。

 気が付く。

 デニーは、指さしていたのだ。

 窓の外、その光景の、一点を。

 真昼は視線を向けてみる。その一点は……つまり、滝、滝、滝、それらの全ての瀑布が、一度天の方向へと昇っていってから、また激流として流れ落ちていく、その先にある場所。そうなのだ、白イヴェール生起金属は、ただ上昇していくだけではなく、一度頂点へと至ってから、再び地上へと下降していく。それはどこかへと向かう流れなのであって。そして、真昼が見たのは、そのどこかなのであって。

 そして。

 その。

 どこか。

 こそが。

「あれがアヴマンダラ製錬所!」

 ASKがアーガミパータに持つ拠点の一つ、アヴマンダラ製錬所だったのだ。ある意味で、それは……真昼にとって、美しく感じられるエグジスタンスだった。だが、とはいえ、それは希望の美しさではなく絶望の美しさだ。冷静なまでに退廃的であり機械的に爛熟している。透明な蝶の羽に至るための腐敗ではなく数式の導き出す先にある腐敗であって。それは、間違いなく、科学的に合成されたアーキテクチュアとしての懶惰だ。

 ああ、失礼、ポエムが過ぎましたね。ここからはもう少し分かりやすく、かつ具体的にその製錬所について描写していこうと思います。といっても、さほど詳細に記述する必要はないのかもしれない。その製錬所は、製錬所としては、まあ製錬所だったからだ。巨大なタンクと超高な煙突とが整然として立ち並び、恐らく溶鉱炉だか製錬炉だかだと思われる、直線的な繭のような、奇妙な形をした構造物が横たわっている。それから、その炉ごとに、大きめのキャビンみたいな建物が建てられているのだ。タンクや煙突、炉などの建物の数は、尋常じゃないくらい多くて。その面積も見当がつかないくらい巨大ではあったが(少なくとも三千平方エレフキュビトは超えているだろう)。それでもあるワン・ポイントを除けばそれなりに普通の製錬所であった。

 ワン・ポイントを、除けば。なので、そのワン・ポイントについてだけは触れておく必要があるかもしれない。といっても、これもやはり些細なことだ。要するに、アヴマンダラ製錬所には……一本の、たったの一本さえも、ラインが通っていなかったのだ。ダクトラインといってもいいしパイプラインといってもいいのだが、液体及び気体を輸送するための管、導管が。普通の製錬所なら必ず備えられているだろう、というかそれがなければ製錬所として全く機能しないであろう、管が。金属製のものにせよプラスチック製のものにせよ、その他あらゆる物質的な存在として、そこには一切エグジスタンスしていなかったのだ。あっ、またエグジスタンス使っちゃいましたね、ごめんなさい。謝るこたないか。

 では、それでは。アヴマンダラ製錬所は、一体どのようにして輸送を行っているのか? とても、とても、簡単なことだ。その製錬所では、全ての液体、全ての気体が……そのまま、それ自体が、移動していく。冷却のための液体が、燃料としての気体が、あるい灼熱に熱せられて、第九階層を流れる獄緋の岩漿のごとく溶け切った金属も。あらゆるフルイドな物質が一種のストリームとなって流れていくのだ。もちろん、それは地面の上だけを走っているわけではない。それに、何らかの川床を走っているわけでもない。ただそれだけが。重力や慣性、そういったあらゆる物理の法則を、エゴイスティックに無視しているかのように、虚空の中の流れとなって、得手勝手に流れていくのだ。ちなみに、それ自体では流れることができない固体、確固とした物質はどのように運ばれていくのかといえば。それは、この製錬所に至る前に、あらゆる物質がそのようにして運ばれてくるように。つまりは白イヴェール生起金属の流れによって運ばれている。

 それから、今。

 その時は残照。

 既にして太陽は地平線の下に没し、その残りの光だけが、辛うじて世界を侵食している。西の空には気の早い星々がおずおずとながらもせわしない瞬きを始めていて。そして、真昼の目の前では、そんな臆病な光よりも、より一層はなはだしくより一層禍々しい光が、愚かな獲物を待ち構えているかのようにして蹲っている。製錬所を照らし出す、幾つも幾つもの眼球のような、造成の光。それに、赤熱した溶金の流れが放つ、真昼の視神経を焼かんばかりの光。そういった様々な光が、アヴマンダラ製錬所から、真昼のことを嘲るかのようにして、視覚的な歌声を歌っているのだ。

「この……」

「ほえ?」

「この、流れは、何?」

 真昼は、その流れのことを何と呼んでいいか分からず。

 ただ、流れと呼んだが……デニーには、通じたようだ。

「トランソルスのこと?」

「トランソルス?」

「あれとか、あれとか、白いやつのことでしょ?」

「そう。」

「流体独立輸送システムのASKでの商標登録名だよ、真昼ちゃん。ホビット語で輸送がトランス、独立がソロス、そのふたっつを合わせてトランソロス。ちょーっと適当過ぎる名前の付け方だよね。ま、あー? ASKってそういうとこあるからさ!」

「それで、そのトランソロスって……」

「だーかーらー、流体独立輸送システムだってば! でも、もーちょっとだけちゃんというと、その応用だけどね。流動体のまーんまの白イヴェールをトランソロスで制御して、その流れに採掘した原石を乗せて、製錬所まで運んでるんだよ。」

「採掘……?」

「あれだよー、ほりほりってしてるでしょ?」

 再び、真昼の後ろ側から。今度は送迎船から見て下の方向を指さしたデニーの人差し指の先。真昼は視線を向けてみる。それは、それは、例えば虹の根本。七色の虹の根本には、いつだって、宝物が埋まっているという。それでは、白い虹は? 白い虹の根本には、何が埋まっている? 簡単だ、やはり宝物が埋まっている。だから、真昼の目の前の、それらの虹の根本でも、どうやら、その宝物を、掘りだしているらしい。

 ここからでも、つまり四百ダブルキュビトから五百ダブルキュビトの上空からでも。その大きさが分かるくらいの、桁外れの大きさの重機だった。真昼が見たことのある重機、つまり月光国の重機の平均的な大きさの、十倍はあるだろう。しかも、その重機を何て呼べばいいのか分からない。真昼の常識から考えてみれば、どちらかといえば、それは車両というよりも昆虫と呼んだほうがいいような形状をしていたからだ。

 どういうことかというと、その重機が移動するための手段、車輪機構ではなく節足機構だったということだ。通常、キャタピラーなどのホイールがついているべきところに、何本も、何本もの、多関節の脚が生えている。その足が器用に動いて、大地に掘り抜いた穴の底から、ほとんど断崖のようになった壁を這い上がってくるのだ。また、それだけではない。その形状自体がちょっとばかり異様といえなくもなかったのだ。

 まず、それらの重機には前後がない。すべての方向に、自在に動くことができるように。例えばエキスカベーターであれば一本のシャベルが前方だけを向いて取り付けられているわけではない。五本のシャベルが全方向に突き出しているのだ。そのシャベルが、ある時には一方向に集中して、ある時には多方向に分かれて、穴を掘ったり、掘った土をトラクターに乗せたりしている。更に、そのトラクター自体も、ただの巨大な箱。蓋のない、脚の生えた、箱、みたいな形をしている。

 要するにこういうことだ。それらの重機には人間の介在する余地がないということ。人間的な発想によって構造されたのではなく、ただただその利便性からのみ構造された機械。規模からいっても形状からいってもそれは人間に制御できるようなものではなかったということだ。そして、そんな機械が、先ほども少し触れた通り、大地に穴を穿っている。

 これまた大きな穴だ、さっきから大きいものについて話しているので、少しばかり食傷気味であるし、もう大きさを表す言葉のストックも尽きてきたが。それでもその穴は大きかったのだから仕方がない。先ほど桁外れに大きいと書いた重機さえもが、その穴に群がる虫けら(まさに虫けら)みたいに見えたくらいに大きかったのだ。それは……もう……情け容赦なく掘り出された穴だ、もしもこれが人間的な存在によって掘りぬかれた穴であれば。その穴は、きっと、縁に向かって段々になって上がっていくような形になっていただろう。中にいる人間が外へと上がっていくための何らかのストラクチャーを必要とするからだ。だが、これらの穴には。そんなものは一切存在していない、ただ単に、真っ直ぐに掘り抜かれた、虚ろな口が、ぽっかりと開いているだけだ。まあ、そうはいってももちろんその穴の周りには掘り出した土が山のように盛り上がっているわけだが。

 と、いうわけで。

 デニーの、言った通り。

 それらは採掘場だった。

 そして、トランソロスは。

 それらの採掘場から、採掘したもの。

 製錬場へと、運んでいるということ。

 これほど。

 巨大な。

 これほど。

 膨大な。

 これほど。

 絶大な。

 システム。

「そ、れ、で。」

 ぼうっとして、見とれていた、真昼の。

 耳元に、また、デニーの声が聞こえた。

「あそこが、デニーちゃん達が向かってるところってわけ!」

 そう言うと、デニーは。

 何がおかしいのだろう。

 また、くすくすと。

 子供っぽい笑い声。

 真昼の耳を、くすぐったのだった。

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