第一部インフェルノ #7

 いつだって人間は自分よりも無力な人間がいるという事実に何となく励まされるような生き物だ。全くもって吐き気がするような、ひどく屈折した精神構造だが、人間は下等知的生命体なので仕方がない。そんなこんなで、真昼は、今、大変励まされていた。おずおずと、それでいてしっかりと、真昼の服の裾を掴んでいるマラーに。まるで真昼の影、といっても細やかな影の子供、みたいにして、ぴったりと真昼の後についてくるマラーに。

「ねえ。」

「なーんですか。」

「その……この子の言葉で、大丈夫だよってなんていうの?」

「アトゥパラヴァーイレイ。」

「え?」

「アトゥ、パラヴァーイレイ。」

 と、デニーに教えてもらった言葉。真昼は、マラーに、可能な限り優しさをにじませた声でかけてあげる。その度に、マラーは大きく見開いた眼、何かを問いかけたげな目をして、けれども黙ったままで、真昼のことを見上げるのだった。

 まあ、そんなこと言っても現状全く大丈夫ではないのだが、そういった野暮なことは置いておくとして。今、マラーは真昼を追いかけていて、真昼はデニーを追いかけている。そして、そのデニーはどこに向かっているのかというと……幹廊の先にある場所、ドゥルーグの一番奥にある、一番聖なる場所。つまりはプレデッラの方向へと向かっているのだった。

 ふわふわとどことなく地に足がついていない足取りで。ステップあるいはスキップのような足取りで、デニーは、プレデッラまでたどり着いた。るるんっという感じ、重力を感じさせないくらいの身軽さで、とんっとんっと爪先を躍らせながら。その六段の階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。二段目、四段目、それから六段目。デニーはすぐにその一番上の空間にまでたどり着く。それは、焼き尽くしの祭壇と……そして、もちろん、ティンダロス十字が置かれている場所。

 ただし真昼とマラーと、要するにトラヴィール教徒ではない二人にとっては、焼き尽くしの祭壇よりも、ティンダロス十字よりも、その二つの信聖な舞台装置よりも。それらを埋め尽くすように、プレデッラの上に積み重ねられた死体の方が注目に値するものであったようだが。ここまで何度か触れてきたように真昼は既に死体という物体に随分と慣れ親しんでいた。それに、マラーの方も、それほど死体を恐れるということはなかった。まあこれほど幼いとはいってもマラーはアーガミパータの人間だ。日常的に死体と触れ合う経験も多かったのだろう。しかし、それでも。どうやら二人とも、死体を踏み越えていかなければいけないという状況には未だ慣れていなかったらしい。

 それほどまでにプレデッラの上は死体でいっぱいだった。先述したように、ここまで追い詰められた人々、一気に屠殺・解体されたらしく。例えるならば早朝の食肉市場のような賑わいを呈していた。胸肉に肩肉、脛肉に腿肉。キドニーにレバーにハート、それにもちろんタン。どんな部位も揃っていて、持ってけ泥棒状態であったのだが……至極残念なことに、真昼もマラーも泥棒ではなく、また人肉料理にも興味がなかった。というわけで、プレデッラの上にまでデニーを追いかけていこうとするならば、これら大量の肉片を踏み付けないわけにはいかないのであって……真昼とマラーとは、プレデッラの五段目に至って、ついに足を止めてしまったのであった。ちなみにデニーは全然そんなことはなく可愛らしいローファーでがんがん肉片を踏み付けて進んでいた。

 マラーは真昼のことを見上げる。

 マラーの方、気遣わし気に視線を向けていた真昼は。

 未だに怯えが抜けていない、二つの目と、目が合う。

 そう、真昼は、助けを求められている。

 自分よりも、遥かに、無力な存在から。

 だから、真昼は。一度、ぐっと、手のひらに爪が食い込むほど両手を握りしめて、覚悟を決めたのだ。マラーの方に屈み込み、真昼の服の裾を掴んでいたマラーの手を取って、そっと両掌で包み込む。小さい手、真昼の手よりももっと小さい手。ゆっくりと、温めるように撫でさすりながら、さっき覚えたばかりの言葉を口にする。「アトゥ、パラヴァーイレイ」、それから、立ち上がって、マラーの体を、抱き上げる。

 小さかった、それに軽かった。まあ、マラーはアーガミパータで生まれた少女なのであって、当然のごとく慢性的な栄養失調のまま育ったのであって。真昼自身の筋力が例の魔式で強化されていたのもプラスに働いたらしい。思ったよりも全然苦労することなく持ち上げることができた。

 マラーの方は、一瞬だけ、びっくりしたように体を固くしたのだが。それでも、励ますような視線を向ける真昼を見ると、全身の力を抜いて、真昼のするがままに身を任せたのだった。これで、少なくとも、マラーは死体を踏み付けることなくプレデッラの上を移動できるということだ。

 真昼は。

 ごくんと、喉に唾を飲み落とすと。

 そのまま、プレデッラの、六段目。

 あるいは。

 死体の上。

 一歩、足を、踏み出したのだった。

 一方で、そんなドラマティック・シチュエーションとはほとんど関係ないところで。ひょいっと拾い上げたキドニーを口の中に放り込んで、もぐもぐとお菓子を頬張った子供のように咀嚼しながら。デニーは既に祭壇の向こう側へと到達していた。いうまでもなくそこに置かれているのは、いとも高きしるし、いとも聖なるしるし、ティンダロス十字。

 先ほどの教会全体の情景描写の際はあまり触れていなかったが。このティンダロス十字はまさにオンドリ派の教会に置かれるに相応しいティンダロス十字だった。つまり、それはただの十字架なのではなく、救い主トラヴィールの似せ姿としての十字架だったのだ。無知の象徴は白髭、賢しらの象徴は黒髭。胸にまで垂れるほどの長い長い白髭を垂らして、顔には一面の皴が刻まれた老人が、両方の腕を痛々しく広げ、両方の足を苦しげに伸ばし、十字架の姿をしていた。その周り、その老人のことを囲うようにして、のたうつような触手、何本も何本もの触手が、束ねられ、紡がれて、円の形を作り出している。その触手は、明らかに、何もかもを見通すような永遠をその内に宿している……そう、その老人は無知なるトラヴィールであって、その触手は全知なるヨグ=ソトホース。その二つの象徴によって、角度と円形、ティンダロス十字は作り出されていたのだ。

 その。

 犯すべからざる。

 至聖の、偶像に。

 デニーは。

 無垢なる笑みを。

 浮かべたままで。

 密やかに。

 密やかに。

 近づく。

 無論、それは涜聖だ。しかし、それはもともと聖なるものであったのだろうか? 誰にも分からない、なぜなら、最も根源的な意味合いにおいて信聖と汚穢とは表裏の関係にあるからだ。無造作にコインを投げれば誰にもその結果が分からないように。それが聖なるものなのか、それとも汚らわしいものなのか。それは誰にも分からないことではないか?

 白く、白く、触れれば折れてしまいそうなほど愛らしい……一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。合計で、十指の指先が。その偶像に、そっと伸ばされる。それから、デニーは、己の右の手のひらを、救い主の左の手のひらへと合わせて。己の左の手のひらを、救い主の右の手のひらへと合わせる。それは体を投げ出すような祈りの姿勢。全てを救い主に任せて、ただただ救いだけを求めるもののための、祈りの姿勢。はりつけにされたかのように、両腕を、救い主へと伸ばして……デニーは、聞き取れないほど細やかな声で、こう囁く。

「ラゼノ=コペア。」

 しかし。

 それは。

 本当に。

 デニーの。

 声なのか。

「祈りを捧げよ。」

 ほとんど聞き取れないほどの、些喚きのような声だったので。はっきりしたことはいえないのだが……しかし、それでも、真昼には。その声は、デニーの声とは、少しばかり違った声であるように思われた。それは、その声は……確かに、デニーの声とよく似ている。にも拘わらず……どこか、もう少し……赤い色をしていたような気がするのだ。自分がなぜそう感じたのかは分からない、それに音に対してなぜ色のイメージが出てきたのかも分からない。けれど、それは、その声は……なんていうことを考えていた、真昼の思考。

 その結論を出す前に。

 目の前で起こった出来事のせいで。

 ばっさりと、断ち切られてしまう。

 何が起こったのかといえば、デニーの言葉、そのデニーのものではないような声によって、したしたと滴らされた言葉に従うみたいにして、いきなりティンダロス十字が動き始めたのだ。その十字架はデニーの背丈プラス踏み付けていた死体プラス偶像の頭分くらいの大きさがあるもので、つまりそこそこ大きいものだったのだが。この教会の、目に見えている表面を引き剥がした裏側、骨の髄のようなところから鳴り響く、がらがらごうごうという歯車の回転の音と共に、速やかに、後ろ側へと、退いたということ。

 真昼の腕の中で。

 マラーが、ひっと小さな音を立てて息をのむ。

 真昼自身は、ただただ目を大きく開いたまま。

 その出来事を、見つめている。

 そして。

 それから。

 聖なる十字架の下。

 ひどく暗く。

 ひどく重く。

 ひどく濁った。

 闇、を、満たした、穴が現れる。

 それは、つまるところ、地下へと続く階段だった。先ほど行われた、デニーの、まるで祈りのような行為は、このぽっかりと開いた暗黒を、開くための行為だったということだ。救い主に手と手を合わせたことは指紋認証で、デニーのものではない声によって囁かれた声は声紋認証で。だが、なぜ? なぜ教会の、しかも最も聖なる場所であるはずの、ドゥルーグのプレデッラに。なぜ、こんなにも、禍事の予兆じみた暗黒が広がっているのか?

 残念ながら真昼にはそのことについても考えている暇はないようだった。真昼が見つめている視線の先で、デニーは、さして躊躇する様子もなくその穴の中に足を踏み入れてしまったからだ。何か、何か、その穴の中に満ちている、禍々しさのようなもの。その感覚が全く分からないらしく、デニーはぴょんこらさっさと階段を降りていく。そして、体の半分ほどが闇の中に消えていったところで、くるるんと真昼の方を振り向き、こう呼びかける。

「ほーらー、真昼ちゃん! 早く早く!」

 どうやら、真昼には。

 選択肢はないようだ。

 だから、真昼は、仕方なくデニーの後についてその穴の中に入っていくしかなかったのだった。さて、デニーの体がその穴の中に完全に消えて、それに、真昼の体も同じように闇の中に沈んでいくと。再びこの建物の奥の奥で響き渡ったがらがらごうごうという音とともに、二人の、というかマラーを入れれば三人の頭の上で開いていたあの入り口は、光の一筋も残さず閉じてしまった。結果として、デニーと真昼とマラーとは、ほとんど完全な闇の中に閉ざされてしまったことになり……まあ、当然のことながら、マラーは悲鳴を上げた。

 ただでさえ緊張していた上に、しかも人間は誰だって闇を恐れるものだ、ぴんと張った神経が、骨ばって歪んだ恐怖の指先によって爪弾かれるようなもので。マラーは叫び声を叫びながら、真昼の腕の中でじたばたと暴れてしまう。これほど幼いのだからこれは仕方のない反応であったろうが、とはいえ、マラーを抱いている真昼からすればたまったものではない。マラーの体、ぎゅっと抱き締めることで自分の体温を分け与えて。それからマラーの耳、できるだけ安心させるような声をして、何度も何度も「アトゥ、パラヴァーイレイ」と囁きかける。すると、だんだんとマラーの悲鳴は小さくなっていって、ようやく、もがいていた手足も落ち着いてきたのであった。

 さて、それでは。

 一方の、真昼は。

 その暗闇の中で……自分でも驚いてしまうくらい冷静だった。その理由としては、まず第一に、真昼がデニーのことをほんの少しばかり信頼しかけているという理由があったのだが、とはいえ、そちらの理由については置いておこう、真昼自身も認めないだろうしね。それに二番目の理由の方が重要なのだ、それは、真昼が、その大方のところ全き闇の中でも、しっかりと物が見えていたという理由。そう、真昼は、見えていた。どこまでもどこまでも続いているような螺旋階段も、スキップするようにその階段を下りていくデニーの姿も。たぶん、これもまたデニーの魔学式による効果だろう。眼球が夜行性の動物ほどにも闇に適したものにされていたのだ。全くなんとも都合のいいことだと思わないでもないが、まあ、魔学というのは大体において都合よくできているものだ。

 と、いうことで。ぎゅっと目をつむって真昼の体にしがみ付いてくるマラーのことをその胸に抱いたままで。いわゆるお姫様抱っこみたいな感じですね、そのままで真昼は、デニーの後について、階段を下りていく。その階段が刻まれた空間はひどく湿っていた。乾ききった外の空間と比べるとちょっとおかしいように思われる現象であったが、よく考えれば当然のことであった。デニーと真昼とが教会に突っ込んでいく時に書いたと思うが、この教会は、川の上に突き出すように建てられているのだ。恐らくこの空間は、川の一部を埋め立てた埋め立て地を、下に下に突っ切るように掘り抜かれた空間なのだろう。じっとりと水気を含み、重く苔が生えた土壁からも、そのことが推測できた。

 そんな階段、一歩一歩降りていって。

 まるで、地の底に至るように感じられる。

 けれど、実際は二分か三分の時間の後に。

 三人は、その扉に辿り着く。

 透析されたミルクのように白く透き通った色をしていた扉、要するに白いヴェール金属でできている扉だ。それはそれでいいのだが、その扉はこういう場所、螺旋階段を延々と降りてきたその先、なんとなく不吉な感じがする闇の中にあるにしては、ちょっとばかりあっさりとしすぎている気がしないでもなかった。装飾一つない開き戸で、軽薄な感じさえ受ける当たり前の扉。

 そして、その当たり前の扉を。

 デニーは、当たり前に開いて。

 それは。

 まるで。

 よく知っている友達の家に。

 勝手に入っていくみたいに。

 デニーが一歩足を踏み入れると、ぱっと光が満ちた。扉の先にあった部屋で明かりがついたのだ。天井全体が光っているような、というか実際に天井全体が光っているのだが、はっきりとしていてそれでいて目を焼くことのない光。その光によって、その部屋の姿が、真昼の目の前に曝け出されて。

 まず最初に結論から提示するとするならば、その部屋はコントロールルームだった。四方ある壁の、入り口から入った先の壁、一面に、幾つも幾つもモニター画面が取り付けられている。もう少し正確に書くのならば、中心に大きなモニターが一つあって、その周りにそれよりも小さなモニターが幾つも幾つも取り付けられている。それらのモニターの目の前にはテーブルが一つ置かれていて、その上には更にデスクトップ型のパソコンが置かれている。そう、それはドラマや映画で見るような典型的なコントロールルームだった、あまりにも典型的過ぎて、真昼が、ほんの一瞬だけ、これは本当に本当の出来事なのかと、眩暈にも似た混乱を覚えてしまったくらいに。

 しかし真昼がいくら疑おうと、これは全き現実の存在なのであって。それでは、この部屋が本当の本当にコントロールルームなのだとすれば。一体何をコントロールするためのルームなのか? それは、その壁一面のモニターに映し出されているものを見れば明らかであった……と書きたいところなのだが、残念なことに、少なくとも真昼にとってはそれは明らかではなかった。

 いや、勘違いしないで欲しい。それらのモニターが何も映し出していなかったわけではない。デニーがこの部屋に入ってきた時、この部屋の明かりがつくと同時に、モニターの電源もついていた。それでも、真昼は……要するにそこに映し出されているものが何なのかが分からなかったのだ。大きい一つのモニターに映し出されているものは地図で、周りのたくさんのモニターに映し出されているのはその地図の部分部分の実際の映像だろうということは推測がつく。しかし、その地図は何の地図なのか。そして、その実際の映像はどこを映し出している映像なのか。

 それが何なのかは分からない。しかし、それが悍ましい何かであるということは分かる。それは、その光景は……端的にいえば、何かの工場だった。しかし、一体何の工場だというのか? それは、例えば、でろでろと砂糖にまみれた悪夢を作り出す工場なのかもしれない。温く柔らかく肉体を包み込んで、その精神だけをたらたらと抽出する、終わることのない悪夢を。全てが……そのモニターに映し出されている全ての光景がまるで夢のように美しい灰色がかった緑色で照らし出されていた。本当に美しいものは、実際のところ美しいとしか表現できないものだが、その緑色はその本当に美しいものに属しているのだろう。いや、もしかしたら違うのかもしれない。甘く痺れるようなその緑色は、真昼から思考能力を奪ってしまうように忌まわしい色だったから。

 水槽だ。どこまでもどこまでも並んだ水槽。そして、その中に、その緑色をしたものが、たくさん、たくさん、浮かんでいた。それは、まるで目をつむったままの天使達のようにひらひらと浮かんでいき、口を柔らかく縫い付けられた死体のようにゆっくりと沈んでいく。何度も何度も、まるで終わることのない性的な戯れのように揺蕩いをくりかえしているそれは……そう、クラゲだった。大量の、クラゲが、養殖されているのだ。そして、それらのクラゲが、適切な大きさにまで育つと。それは水槽から水揚げされて、加工ラインへと送られる。非感情的で吐き気がするほど論理的な数式にも似た複雑な過程を経てそのクラゲは溶かされて、無意味に思えるほど精密で無意味に思えるほど巧緻な機械を通り抜けてそのクラゲは精製される。それから、そうして抽出されたエッセンスのようなものが、小さな小さな小瓶に注ぎ込まれていく。

 そして。

 それが。

 つまり。

 悪夢だ。

「これは……」

 久しぶりの真昼の「これは……(絶句)」であったが、ぴーちくぱーちくとよく喋るデニーにしては珍しく、その真昼の不完全な問いかけもどきに対して答えることもなく。モニターの目の前に置いてあった椅子の方へとずしずしかつせかせかと歩いて行く。その椅子は、いや、まあ、椅子のことまでいちいち言及する必要もないかもしれないが、なんというか、こういう感じの、いかにもコントロールルームですみたいなところにあるにしては割合に快適そうな椅子であった。ふかふかとしたスポンジを詰めた白い革張りの椅子で、肘掛けまでついている。一応ころころと転がして移動できるキャスター付きの椅子ではあったが、事務的な椅子というよりも、どちらかといえばちょっといいとこの会社の、まあまあ重役みたいな人が座りそうな椅子。

 デニーは、その椅子、ころころーという感じで自分の方に引き寄せて。モニターの方を向いていた方向、くるーんと半回転させて自分の側に向けると。すとーんと身を投げ出すみたいな例の座り方で、すとーんと座った。「んー、ふっかふかだね!」と上機嫌な口調で独り言みたいに言ってから、同じく上機嫌そうな態度で、もう一度椅子をくるーんと半回転させる。そうすると自然とデニーはテーブルの方に向かうことになり、その後で、デニーは、とーんと地面を蹴って椅子ごとテーブルの方へと自分の体を動かした。これでデニーはそのテーブルに着いたということだ。

 デニーちゃんは一挙手一投足が可愛いですね。それはともかくとして、テーブルに着いたデニーは、モニターの方に視線を向けながら、テーブルに置かれていたデスクトップのパソコンを弄り始めた。具体的にいうと、ぱしーんとマウスを手に取って、それをテーブルの上でころころと動かし始めたということ。すると、デニーの手の動きに同期して、モニター上のポインターも動き始めて。今まで真昼が気が付いていなかったか、もしくは動かすまでは消えているタイプのポインターなのか。とにかくそれは、一番大きなモニターの、地図の上をすいーっと動いて行って。

 そして。

 その地図のグランド・フロア。

 入り口から出てすぐのところ。

 そこで、ストップする。

 その地図は、そういえば今まで触れていなかったが、ある特定の区域の地図というわけではなく、何かの建物の地図だった。しかも普通の地図というよりも、どちらかといえば複層的な立体図のようなもので。斜め方向から見た透過図の形で、五階建ての各階プラス小さな地下室一つを表示していた。そして、グランド・フロアの図面だけはその外側の空間についても描かれていたのだが、デニーはその外側の空間にポイントを当てたということだ。

 デニーがマウスをかっちーんとクリックすると、たくさんある小さなモニターのうちの一つ、それだけが他のモニターよりも少しだけ大きい、いわば中くらいのモニターに、ある映像が映し出された。それは他のモニターに映し出されている映像とは違っていて。真昼も、よく、知っている、光景。そこに映し出されていたのは、この教会のすぐ外側、あの広場状の空間の映像だったのだ。デニーが、「良かったあ、サテちゃんもエレちゃんもまだ来てないみたいだね!」と嬉しそうに呟いて。と、いうことは。つまり、ここにある複数のモニターが映し出している映像は。

「この教会の映像ってこと……?」

「え? あー、うん。そーだね真昼ちゃん。」

 なーに当たり前のこと言ってるんですかーみたいな、いい加減というか投げやりというかな態度でデニーは答えた。しかしながら、デニーにとっては当然であっても、その事実は、真昼にとっては、当たり前のことではなかったのだ。中くらいのモニターに映し出されている以外の映像、この悪夢を作り出す工場みたいな映像は。どう見ても、どう考えても、教会という施設に当てはまらない光景だったからだ。

「でも、この工場の映像は一体……」

「ほえー? 真昼ちゃん、まーた聞いてなかったの、デニーちゃんの言ったこと。言ったじゃーん、ここはただの教会じゃなくって、ラゼノ=コペアの生産拠点だって。」

 いや、「言ったじゃーん」て言われても……確かにデニーは真昼に向かってこの国内避難民キャンプがラゼノ=コペアの生産拠点だみたいなことを言っていたが。それはあくまで話のついでみたいなものだったし、それに真昼は、デニーの喋ることにあまりにも知らない固有名詞が多すぎるので、そういう知らない固有名詞が出てきた時は聞き流すことにしていたのだ。と、いうわけで。真昼はラゼノ=コペアを知らないし、なぜその生産拠点が教会にあるのかも知らないのだ。

「ラゼノ=コペアって、何。」

「真昼ちゃんって、なーんにも知らないんだね。」

「ラゼノ=コペアって、何。」

「えー、何って言われても……ラゼノクラゲから抽出できるお薬だよ。ほら、麻薬とか覚醒剤とかそんな感じの。まー、肉体じゃなくて存在自体にずばばーん!とするお薬だから、麻薬とも覚醒剤とも違うんだけどね。」

 デニーの説明の仕方はかなり誤解を招くもので、実際にはラゼノ=コペアは儀式的な側面がある存在中枢刺激系の薬物であって、ダニエル書にさえ記述が見られる……いや、ラゼノ=コペアについての説明なんてしていたら紙幅がいくらあっても足りなくなるのであって、まあ、確かに? 現代では依存性薬物として禁止している集団も多いし、大体のところは麻薬だとか覚醒剤だとかと同じような使い方をされているし。そんなこんなで、一応のところは、このデニーの説明に対する真昼の驚愕・義憤の感情も故ないことといえないわけではないとしておこう。

「それって……依存性薬物ってこと?」

「そーそー、それそれ。」

「なんで、そんなもの、教会で……」

 いつもだったらこういう真昼の馬鹿みたいな質問に「全くもー、真昼ちゃんってばお馬鹿さん!」みたいな感じで、聞いていないことまで長々と喋りだすデニーなのだが。さりとて、真昼にとっては残念なことに、そして読者の皆さんにとっては幸いなことに、デニーは真昼との会話よりも他のことに気を取られているようだった。その他のこととはつまり目の前のパソコンを弄ることであって。デニーは、今度は、ぺっぺこぽっぽこみたいな感じでキーボードを叩いていた。

 何かのキーワードを打ち込んで、それからぱしこーん!とエンター・キーを叩く。華麗で、それでいて瀟洒な指先のカレイド・バリスモスが、そのパソコンへと指示を送り出して……すると、一番大きなモニターの、この教会の地図の上、幾つかの黒いウィンドウが映し出された。それらのウィンドウにはテキストボックスだったり、何かの状態を表すグラフが描かれていたり、奇妙な数式のようなものが並んでいたりしていたのだが。細かい説明を抜きにして、次のデニーのセリフを聞いて頂くのが一番分かりやすいだろう。

「ほわほわー、やっぱりだねー。」

 これも、また。

 独り言として。

「テレポート装置、ぜーんぶ壊されちゃってるみたい。」

 デニー、は。

 そう言った。

 そう、それらのウィンドウは、この教会に設置されていた緊急用テレポート装置の細かいステータスを表していたのだ。そして、それらのステータスが表すところによると。そのテレポート装置は、完膚なきまでに叩き壊されているということだった。「壊されちゃってるって、それじゃ使えないってこと?」「そりゃあそうだよ真昼ちゃん」「そりゃあそうだよって、あんた……ここまで来て、一体どうするつもり……」と、ここまで会話を交わした時に。真昼は、腕の中から注がれている視線に気が付いた。

 当然のことではあるがその視線の主はマラーだ。この部屋の中に入って来た時、瞼の上に眩しさを感じて。闇を恐れたがゆえに強く閉じていた目を、既に、そっと開いていたのだ。マラーは、デニーと真昼との会話の内容、もちろん全く理解できていなかったけれど。それでも真昼の声の調子に不安そうな(というか恐慌寸前みたいな)響きを感じ取ったのだろう。なんとなく心配そうな顔をして真昼のことを見上げていた。

 そんなマラーのこと。はっとした顔をして見下ろした真昼は、胸の中、自分にしがみ付いているマラーの体を、一度、ぎゅうっと抱きしめた。一言も口にせずに、それでもマラーに対して大丈夫だよと伝えようとして。そうだ、真昼は……もう、この教会に入る前の真昼のままであってはいけないのだ。真昼は、既に、ただ守られるだけの人間であってはいけないということ。実際のところは、ほとんどのこと、デニーに頼りきりではあったが。それでも、今、真昼は……この少女の、マラーの、命を預かっているのだ。少なくとも真昼の主観的には。

 だから、真昼は。

 強く抱き締めていた腕の力を抜いて。

 それでもマラーの体、抱いたままで。

 デニーに向かって、言う。

「でも……ここにいれば安全だよね。」

「ほえ? 何で?」

「だって、ここに入ってくる入り口は隠されてたし。あの二人だって、そんな簡単には見つけられないでしょ。上手くいけば、ここでじっとしてれば、あたし達のこと見失って、どっかに行ってくれるかもしれない。」

「真昼ちゃん、真昼ちゃん、真昼ちゃーん。おぷてぃみっく・がーるなのはいいことだけどさーあ、あんまり素敵な世界のことばーっかり考えてると、いつか、いつか、わるーい人にあっさり食べられちゃうぞ?」

「……どういうこと。」

「あのね、真昼ちゃん。ここの入り口はティンダロス十字の置物で塞がれてたでしょ? とーっても重たい置物。それで、だから、とっても重たいから、それが動いた時に、あたりに落ちてた死体も一緒に引き摺っちゃってたじゃない。そうやって引き摺っちゃってたところはすっごく不自然なことになってるわけ。そこだけ死体が落ちてないってこと。そんなの見たら誰だって気づくよ。この置物、何かおかしーなあって。うーん、まあ、サテちゃんは気づかないかもしれないけどね。でも、エレちゃんはぜったいぜったいぜーったい気が付くに決まってる! そうしたら、あとはあの置物をどかーんってするだけだから。簡単でしょ?」

「じゃあ……じゃあ、どうするの? このままじゃ……」

「えっへっへー、だいじょーぶ、だいじょーぶだよ真昼ちゃん。今、とっても賢いデニーちゃんが何とかしてるところだからね。」

 そんな会話を。

 交わしながら。

 デニーは、相変わらずパソコンに向かって何かの作業を続けていた。その作業がいかなるものであったかというと……まず、マウスを使って、一番大きなモニターのポインターを動かして。地図の上、あの広場のところ、その先に一つだけぽかんと浮かんでいた矢印のようなアイコンをクリックした。すると、大きなモニターに映し出されていたものが、ぱっと移り変わったのだ。今まではこの教会の、立体的な地図であった、今度は、完全に平面的な、町みたいな場所の地図。そして、その町みたいな場所は、つまるところこのキャンプであった。

 それから、またポインターを動かして。その新しい地図の左側、幾つか表示されていた、スイッチのような姿をしたアイコンのうちの一つを押した。すると、キャンプの地図の上に、何かしらの、複雑な、数式を描くようにして。しかしそれは数字によって描かれた数式ではなく、直線と角度によって構成された数式だ。要するに、その地図の上に、たくさんの、たくさんの、赤いラインが引かれたのだ。例えば蜘蛛の巣か何かがその地図の上に張り渡されたみたいに。そこら中に真っ赤な色をした線が引かれたということ。その線は……おそらく、何かの法則によって、精密にその配置をなされたものであるはずだった。だから、それが数式に見えたのだ。しかし、その法則が、真昼には理解できず……いや、これは、もしかして……何らかの、魔学式?

 そう。

 それは。

 見たこともないほど大きく。

 見たこともないほど複雑な。

 一つの、魔学式。

 それが。

 町の地図の上に。

 描かれて。

 ああ。

 ああ。

 そして。

 真昼の。

 目の前にいるのは

 どこまでも無垢で。

 どこまでも純粋な。

 一つの。

 古い。

 邪悪。

「あはっ、フランちゃんてば。」

 その。

 邪悪の。

 名前は。

 デナム。

 フーツ。

 は。

 淫らに。

 淫らに。

 笑みを、浮かべて。

「ほーんと、こういうところが甘いんだよね。」

 そして。

 デニーは。

 デニーは。

 デニーは。

 右の手のひら、マウスを離して。左の手のひらと一緒に、たらたらと滴る砂糖水のように、甘く甘くキーボードに何かを打ち込み始めた。それは、本当に、妖艶で、優雅で、窈窕で、それでいてどこか幼くて。なんというか、一種の前衛的な・芸術的な、舞踏のようなタイピングであった。白い宝石の骨を作り出して作った、ような指先。ソフィスティケーテッドな口づけを、ついばむ唇にも似ていて。それならばキーボードは、欲望を満たした仮初の肉体であるのか? それにしては、その様は、無垢に近く……いや、それは無垢それ自体。どこまでも傲慢に、どこまでも端正に、デニーは、一つの、コードを、打ち込んで。

 それから。

 エンター。

 そのキーを。

 薬指。

 契約の。

 指先で。

 弾く。

「でーきたっと。」

 いかにもハッピーにそう言ったデニーの声に反応するがごとく。ぱっと、またウィンドウが開いた。先ほどと同じような、黒い色のウィンドウだ。しかし、先ほどとは違って数は一つ。それに、そこに書かれていることの内容も真昼に理解できるものだった。といっても、大したことが書かれていたわけではない。大きなウィンドウに、大きな文字で。たった一言だけこう書かれていたのだ「グリーンハウンド・プログラム スタンバイ」。

 デニーは。

 くるんと。

 椅子を回して、振り返る。

 その顔は、いつもの通り。

 可愛らしい顔で。

 椅子の座面に、ぺたんと両手をついて。

 ぐっと、真昼の方に身を乗り出す姿勢。

 こう言う。

「はい、おっしまい。」

「は?」

「じゃ、行こっか。」

 そう言うと、デニーは座面についていた両手に力を入れて、とんっと飛び出すようにして椅子から立ち上がった。それから、ちょっとだけ速足な感じですたすたと歩いて真昼の横を通り過ぎる。それから、くるっと振り返って言う。

「真昼ちゃん、早く早く!」

「行くって、どこに?」

「どこにって、屋上だよ。」

「屋上……」

「んもー、時間がないの! 早く!」

 ぷんすこぴーという感じでそう言ったデニーには、真昼の当惑を解いて差し上げようという気持ちなどさらさらないらしかった。そんなデニーに対して、真昼はなおも問いを重ねようとしたのだけれど……その時に。

 遠い。

 遠い。

 破滅の預言者の。

 最初の、叫び声。

 みたいにして。

 この建物の。

 全ての構造。

 揺さぶるような。

 衝撃。

 遠い、遠い、と無意味な行替えをして書いた通り。その音は、この部屋にいる人間にとっては、それほどの衝撃ではなかった。どこか遠くの方で何かが何かにぶつかったとでもいうような衝撃。だが、それは、この部屋が地下室だからという理由によるものに過ぎない。確かに、地下室の上にあるもの。その、教会、の、全体、が、振動していたのだ。何か巨大で極重なものが、凄まじい勢いで激突したかのように。

「うーん、予定通りのばっど・たいみんぐ!」

「これって、もしかして……」

「もしかしなくてもエレちゃんだね。」

 デニーと真昼と、二人とも、即座に理解した通り。それは、エレファントが、己の左腕と己の右腕とを一つに合体させるようにして構成した破城鎚によって、この教会に対して攻撃を開始した音であった。どうやら四匹のウパチャカーナラ達はとうとう……まあ、とうとうというほどの時間は経過していないのだが、とにかく一所懸命(この場所から先は通さないぞという強い意志の表れ)の戦いに敗れ、力尽きてしまったらしい。ずしーんずしーんという音が、何度も何度も、真昼のことを急かすみたいにして響いてくる。

 マラーが、真昼のこと、また不安な目で見つめてくるが。一方の真昼は、実は、それほど不安な気持ちになっているというわけではないようだった。なぜなら……真昼は、この気持ちも、自分では認めないだろうが。なぜなら、デニーが平気そうな顔をしているからだ。むしろ、デニーは、笑っていた。くすくすと、あの、恐ろしい子供の笑い顔で。ということは、デニーには、何か策があるということだ。エレファントと、それにサテライトも。その二人のスペキエースを、愚弄することさえできるような策。

 なので、真昼は。

 マラーのこと、元気づけるように。

 一度だけ、強く、頷いて見せると。

 体の向きを真昼の方に向けたままで、とんっとんっと後ろ向きにスキップするように、あるいは真昼のことを導こうとしているかのように、前を進むデニーの後について走り出した。飾り気のないコントロール・ルームの扉を抜けて、長い長い螺旋階段を駆け上って。いつの間にか開いていた穴、ティンダロス十字によって塞がれていたはずのぽっかりとした穴から、子兎を抱いた親兎のように飛び出す。

 いうまでもなくここで比喩が施されている対象は子兎がマラーであって親兎が真昼なのであるが。それにしてもよく真昼はマラーのことをお姫様抱っこしたままでこれほど早く走れるものだ。これは魔式の効果だけではなく、いわゆる「追い詰められた魚には牙が生える」的なアレなのだろう。なんにせよ、穴から飛び出した真昼とマラーと、それにデニー。デニーは、既に、その体の向きを真昼の方に向けてはおらず、真っ直ぐに先の方を向いて走っていたのだが。

 二人と一人。

 三つの身体。

 死せるドゥルーグから。

 転がるように駆け出て。

 エントランスに。

 至る。

「屋上って、どうやって行くの!」

「いつもだったらエレベーターで行きたいんだけど!」

 その時に。

 美しく、青い、扉。

 三つの、聖なる扉。

 その、左側の、壁が。

 勢いよく、吹っ飛ぶ。

「そんな暇は、なさそうだね!」

 どうやら青イヴェール合金でできた三つの扉を破壊するよりもその横の壁を破壊した方がよほど早くことが済みそうだと考えたらしい。エレファントらしい即物的な考え方であるが、確かにその考えに間違いはなかった。ざらざらと周辺の空気に舞い散ったコンクリートの細かい破片。その靄の中から、豪とした、魁とした、エレファントの、黒い影が、姿を現す。

 マラーがひっと空気を飲み込んだ。真昼は何とかしてそんなマラーを安心させてあげたいと思いはしたが、ただそれを実行に移すだけの余裕はなかった。まさに脱兎のことく(先程の親兎子兎の譬えと掛けてるんですよ)、エントランスの隅の方、暗く目立たない空間に駆けていくデニーのこと。何とかかんとか追いかけるだけで精いっぱいだったのだ。

 さて、エントランスの隅の方ということは……三つの扉からエントランスに入った先、もちろん、真っ直ぐ先にはドゥルーグへの入り口があるのだが。そこから少し離れたところ、エントランスの右端と左端には、薄暗い通路が開いていた。何も意識しなければほとんど気が付かないような通路。そういえばあそこに何か通路みたいなものがあるなと思っても、その後すぐに忘れてしまいそうな、そんな通路。

 デニーが向かったのはそういった通路であった。コンクリートで塗り固められた、これは建築美的な意味合いというよりも実用的な意味合いの方が大きそうだったが、そんな風な、教会にしては殺伐とした通路の先には……一つの扉があった。

 ひどく重々しく、見るからにしっかりとした、拒絶するような扉。世界樹から切り出したのかと思うくらい黒く沈み込んだ色をした、木造りの扉。磨き抜かれた鏡板に刻み込まれているのは、どうやら「墜落せるレピュトス」のモチーフらしい。

 そして、その扉が。

 完膚なきまで、に。

 破壊されていた。

 だから、「拒絶するような」扉という表現は間違っているだろう。「拒絶していたような」扉と書いた方が正しい。それがまだ扉であった頃は、絶対に開くまいという頑なな態度さえ漂わせていただろうが、とはいえその扉は既に開かれてしまっていた。両開きの扉であったのだが、その両方の戸板が、面白いくらいあっさりと跳ね飛ばされてしまっている。恐らく、というか、間違いなく、エレファントによって破壊された後なのだろうと思われた。

 デニーと真昼、それに真昼の腕の中にすっぽりと収まったままのマラーは、その扉だったもの、今となっては鴨井と縦枠と敷居の三位一体しか残されていないそれを、走ってくぐり抜ける。

 それから、デニーは、ちらっと振り返った。どうやら真昼が潜り抜け終わったということを確認するために振り返ったらしいのだが、そのことがきちんと確認できると、体の横で、足の運びに合わせて軽く振っていた右腕の先。その右手、特に腕を上げたりすることもないさり気なさで、ぱちんと、一度、指を鳴らした。

 すると。

 真昼の背後で壊れていたはずの扉。

 安っぽい自動ドアか何かのように。

 軽々と、閉ざされる。

 確かに、その直前までは。デニーが指を弾く一瞬前までは、その扉は壊されていたはずだった。戸板は戸枠から外れ、無残にもその体躯を横たえて。けれど、何かが起こったことを感じて振り返った真昼が見たものは、まるで何でもない顔をして、傷一つなく閉ざされている、全き扉。真昼はそれを見て、枕元に百足でも立っていたかのような気持ちになったが、ただしその扉についてどういう仕組みになっているのかだとか、そういったどうでもいいことを、しかもこのタイミングで質問しようと思うほど白痴ではなかった。どうせ魔学的な何かの仕掛けなのだろう。

 ということで、特にコメントもないままに、一人と二人とは走り続ける。いや、正確にいうと、扉が閉まった後、ちょっとしてからデニーが「まあ、時間稼ぎにもならないだろうけど……」なんていうことを呟いたのが聞こえた気がしたのだが、真昼は賢明にもその言葉について聞かなかったことにしたのだった。

 扉の先にあったのは階段だった。基本的な雰囲気のようなものは、ティンダロス十字の下にあった階段に似ていなくもなかったが。だが、よく考えてみると全くの別物であった。ティンダロス十字の下にあった階段は、土をそのまま掘りぬいたような明かり一つない完全な闇であったが。こちらの階段は、光によって眩いばかりに照らし出されていた。全面が白イヴェール合金で塗りこめられていて、どうやらその白イヴェール合金自体が光を放っているようなのだ。これは魔学的な操作によるものではなく、どちらかといえば生物学的な操作を施されているためなのだが、それは今はどうでもいいことだ。それにこの階段は螺旋階段でもなかった、真っ直ぐ前へ前へと続いていく階段で、途中で折り返しが一つだけある。そう、よく考えてみると全く別物なのだ。それでも似ていると思った理由は、恐らくは、その空間の、なんとはなしの罪深さのせいなのだろう。

 と、いうことで。

 一人と二人とは。

 一つ目の階段を。

 何とか無事に。

 駆け上がって。

 辿り着いたのはファクトリーだった。いうまでもなく、地下のコントロール・ルーム、あのモニターに映し出されていたあの工場。夢、夢、夢、揺蕩うような多幸感に満ち、永遠に続くエピファニーの味がする、沈み込むような悪夢、にも似ている、緑色に満たされた、あの工場。それは、ラゼノ=コペア・ファクトリー、「あなたがたは祈りを捧げるものになりなさい」。ヴール語と汎用トラヴィール語を混ぜた片端の言葉だが、まあ大体のところそんな意味だ。

 デニーと。

 真昼と。

 その工場を。

 笑うように。

 笑うように。

 駆けていく。

 笑うように? 違う、そうじゃなくて……存在が……存在が、飲み干されていく。真昼は、そんな感覚を覚えた。例えるならば……いや、この感覚を例えられる比喩など、一体あるのだろうか? 頭蓋骨の中から、何か大切なものが……本当に、大切だったはずのものが、腐り果てて、とろとろと溶けていき、脊髄の方へと流れだしていく気がする。その緑色を見ていると……優しい、優しい、欺瞞。見渡す限りの水槽から、緑色の悪夢が、たらたらと溢れ出していて。その悪夢が真昼のことを捉えて捕まえて離さないのだ。

「真昼ちゃん!」

 目の前を走るデニーが。

 真昼に向かって叫んだ。

「あんまり、じっと、見ちゃだめだぞ!」

 何を。

 光を。

 真昼は、悪夢から覚めようとするかのように強く頭を振った。ラゼノ=コペアはかなり強力な薬品であって、神々さえも篭絡する美しい祈りだ。ここに満ちている光は、ラゼノ=コペアとして生成される前の、ラゼノクラゲから吐き出される光であるにも拘わらず。あまりにも大量のラゼノクラゲを一か所に集めているせいで、その光さえも、人間という脆弱な生き物である真昼にとっては有害だったのだ。

 真昼はデニーからの言葉であることに反発するだけの余裕もなく、そのアドバイスに従って、なるべく緑色の光を目に入れないことにした。といっても、どちらに走ればいいのかということを真昼は全く知らないので、目をつむったり、あるいは下だけを見ていることはできない。自然と両目をちらちらと動かして、なるべく光のないところに視線を向けようとすることになる。すると、そのせいで、あることに気が付いた。

 モニターで見た時には全然気が付かなかったのだが、この工場は、全く健やかな状態であるわけではなかったのだ。外の世界、避難民キャンプの他の場所みたいに、絶望と残酷とをぐちゃぐちゃに引っ掻き回した惨状というわけではなかったが。例えば水槽が叩き割られていたり、何らかの機械が叩き潰されていたり。ある特定の場所が、ある特定の意思に従っているかのように、サージカルに破壊されていたのだ。どうやら、誰かが、そこに、通り道を作ったかのように。最短ルートを通ろうとして、その場合に自分の通るべき進路を塞いでいるものだけを、的確に砕いていったかのように。そして、この場合の誰かとは、もちろんエレファント(とサテライト)だった。

 真昼にはそれほど深く考えている余裕はなかったが、そうなった理由、なんとなく分からないわけではなかった。このキャンプ内の惨劇について、虐殺のアクトレスはサテライトだろうが、破壊という演目を演じたのは間違いなくエレファントだ。そして、エレファントは、サテライトとは違って。憎悪を原動力とした無差別な爆発というわけではない。もっと抑制された、冷却された機械だ。確かに、一見したところでは、避難民キャンプの破壊は爆発的であるかのようにも見える。しかしそうではない。あれは、もっと、徹底した行為だ。決して感情的に行われたのではなく、論理的に、なさねばならないことを、全て行ったという行為。それは、要するに、キャンプにいる全ての人間を殺すという目的を達成するために導き出された、一つの命題のようなものなのだ。エレファントは全てを殺すために全てを壊した。ただそれだけのこと。

 他方で、この工場についてエレファントに与えられた目的はきっと殺戮ではなかっただろう。真昼の見た限りでは、この工場は全てが自動化されている、殺すべき人間は一人もいなかったはずだ。その目的は、恐らくではあるが、テレポート装置の破壊という一点に絞られていたに違いない。ということは、無意味な破壊は必要ないということだ。エレファントは、ただ、自分の邪魔になるものだけを破壊していって。結果的にこのような限定的な破壊にとどまったのだろう。真昼はそのように推測して、そして、その推測はほとんど完全に当たっていた。

 ただ。

 まあ。

 だからどうしたって。

 話ですが。

 デニーなら「真昼ちゃんってさーあ? そういうどおおおおでもいいことばーっかり考えてるよね」とでも言いそうなところだが。とにかく、そんなことを考えて気を紛らわせつつも、真昼はデニーの後について走っていく。なんだかよく分からない機械と機械の間を通り抜け、がこんがこんと間抜けな音を立てて動き続けているベルトコンベアを飛び越して。壊された水槽の横を通る時には、その水槽からざっぱーんとこぼれたのだろう何らかの液体(アーガミパータの川の水を純化して作ったセミフォルテア・リキッド)を跳ね上げたり、踏み心地については意外と普通のクラゲと変わらないラゼノ=クラゲを踏み潰したりしながら。真昼とデニーは、このフロアを突っ切って。

 それから。

 更に上の階へと。

 続く階段に至る。

 どうやら真昼は、前を走るデニーに急き立てられるようにして、気が付かないうちにかなりの速度で走っていたらしい。なぜそう思ったのかといえば、デニーと、真昼と、その階段に至った時に、ようやく、下の階から、何かが吹っ飛ばされる音が聞こえてきたからだ。何かというのはいうまでもなくあの扉、教会と工場とを分かっていたあの扉のことであって、デニーが魔学的に封鎖していたはずのあの扉も、やはりエレファント(とサテライト)を足止めすることはできなかったらしい。

 デニーも、それに真昼も。もう、何かをコメントすることはなかった。そんな余裕はなかったからだ(まあ本当のところをいうとデニーちゃんは余裕綽々だったのだが別にこの状況に対するコメントはなかった)。それに、マラーはマラーでラゼノクラゲの緑色の光に当てられて、なんだかぼんやりとした心地になってしまっていたのだ。

 そんなこんなで一人と二人とは無言のままで階段を駆け上がって。女の子一人抱っこしたままでよく疲れないですね真昼さん、次のフロアへと上がって来た。さて、ここから暫くは……実をいうと、特に書くべき出来事は起こらない。三階も、四階も、五階も。二階と変わるような光景が広がっているわけではないからだ。同じように破壊された、同じような工場が、同じように緑色の悪夢を揺らめかせているだけで。なので、思い切って、三階にたどり着いたこのタイミングから、屋上へとたどり着くその時まで、間のシーンをばっさりとカットしてしまおうと思う。ただし、一つだけ覚えていて欲しいのは、一人と二人とが上の階へ上の階へと昇っている間、常に、その後ろでは、「ハハハハハハハハッ」という例の嘲笑が、どんどんどんどんと近づいて来ていたということ。

 それから。

 三階。

 四階。

 五階。

 駆け抜けて。

 デニーと、真昼と、マラーと。

 やっとのことで。

 屋上にたどり着く。

 やっぱりというか当然ながらというか、よく考えるとこの二つの言葉は大体同じ意味なのだが、とにかく真昼は限界という曲線にぎりぎりまで近づいた漸近線、いうなればリミテッド・ガールといっても過言ではなかった。心臓はハートビート呼吸はブレスハイ、手足はトレンブリングに震えている。そりゃあ、いくら栄養失調気味で平均体重よりは軽いとはいっても、女の子を一人抱えたままで一階から六階(屋上のことです)まで一気に駆け上がったらこうもなりますって。今にも倒れそうであるところの真昼であったが、それでもマラーを助けたいという純真かつ馬鹿げた一心によって何とか倒れずに頑張っているところの真昼でもあった。なんと健気であることよ。

 ただ屋上へと上がってきたところで……ちなみに、この屋上というのはほとんど名ばかりの場所で、打ちっ放しのコンクリートを敷き詰めただけのフラット・ルーフ、恐らく雨なんてほとんど降らないから排水対策の必要もないのだろうが、それにしてもエッジのところに落下防止の柵さえもないという次第だった。ここにごろんと寝っ転がって満天の星空を見たところでロマンティックな気分に浸ることなど望むべくもないだろうと思われる場所であったが、それはともかくとして、この屋上に上がってきたところで、マラーはその全身に太陽の光を浴びることになった。

 そして、それはただの太陽ではない。ヒラニヤ・アンダ、神聖なるセミフォルテアの光で。剥き出しのままにその光を浴びたマラーは、しかも随分と長い間、あの椅子の下の空間、薄暗い空間に閉ざされていたのだ。当然のことながら、ぱあっと洗われるようにして目を覚まして。ラゼノ=コペアの、あの悪夢のような緑色の光の営業が、一気に押し流されたみたいで、すっかりと覚醒した表情で、いかにも眩しそうに、しぱしぱと目をしばたたかせたのだった。それから、冷静なというか、冷静にはなっていないだろうが、とにかくまともに思考できるようになった視点から真昼のことを見てみると。真昼が、自分のせいで、リミテッド・ガールとなっている今の姿を認識させられることになったのだ。

 マラーは慌ててじたばたとして、真昼に向かい、申し訳なさそうな口調によって、何かを訴えかけ始めた。もちろん真昼にはカタヴリル語が理解できないのでマラーが何を訴えようとしているのか分からない。どうやら恐れや怯えではないだろうということは分かるのだが、それ以上は皆目見当がつかない。どうしていいのか分からず、真昼はデニーの方に、すがるようにではなく、それでいて困惑したような、複雑な視線を向ける。そんな真昼の視線を背中で十分に感じ取ったのか、振り返ることもなく、デニーは「もう降ろしていいですよー、だって」と答える。

 ところで、その。

 デニーについて。

 なんというか、かんというか、ひどく危機感に欠けていた。屋上へと至る扉は、やはり先ほど、デニー自身の手によって魔学的な封印を施されてはいたが、さりとてそんなものがクソの役にも立たないということは、既に証明済みの事実だ。それでも、デニーは、くすくすとあの無邪気な笑い声で笑いながら。一人で踊るワルツ、まるでベルヴィル・ワルツのように、くるくると素敵なメリー・ゴー・ラウンドをしながら。屋上の縁、遮るものさえないエッジの方向へとステップを向ける。

 デニーが何を考えているのか、真昼にはさっぱり理解できなかったのだが。ただ、今、この状況で、デニーから離れていることはあまり良いことではないということだけは本能的に理解できたらしい。お言葉に甘えてコンクリートの上に降ろしたマラーの手、それでもしっかりと握りしめたまま、デニーを追って屋上のエッジの近くまで向かう。デニーが向かった方角は、ちょうどキャンプを見下ろす方角であって。真昼の眼下に、虐殺され、破壊された、キャンプの全景が広がって。

 そして。

 真昼は。

 それを。

 目にする。

「な……」

 ぜいぜいと擦るように疲れ切った呼吸の隙間から、それでも真昼は絶句した。なんとも器用な真似をしてくれるものだが、真昼は、その行為によって、自分が目にしたものが、いかに不可思議なものであるかということを、非常に分かりやすく示してくれたということだ。そう、それは不可思議な光景だった。

 いや、違う。確かに、キャンプが受けた虐殺や破壊も、異質なものではある。だがそれは、ただ単純に日常生活を律する旋律とは異なっているという意味での異質に過ぎない。これほど虐殺であっても、これほどの破壊であっても、決して起こりえないものではないという意味においては、一つも不可思議ではないのだ。だが、真昼の目の前に広がっていたその光景は……文字通りの意味で不可思議であった。

 全てが。

 全てが。

 穢れ切った。

 赤い光で。

 燃えていた。

 いうまでもなく、その「穢れ切った」という表現は真昼の主観によるものでしかない。さりとて、それ以外の方法で、この暗濁を表現できるだろうか? 暗く、重く、沈み込むような、それは……光、光であった。けれども、それを光と表現する人間は、一人もいないだろう。まるで死人が起き上がり、腐りきった魂を嘔吐した、その吐瀉物のような色。しかも、より一層恐ろしいことに、真昼はその赤色を知っていた、確かに、間違いなく、この赤色を、知っていたのだ……呪いの色……悪夢の色……そんな赤色をして、キャンプの全体が、燃え上がっていたのだ。

 いや……よく見てみると……そうではない、そうではなかった。キャンプは、その光ではない光によって、照らし出されているだけだった。そして、照らし出しているところの、その光源は……キャンプ中を、まるで剥製された血管のように這い回っている、あの配電線であった。

 その電線が。

 今。

 赤く。

 赤く。

 溺れている。

 そして。

 その。

 赤の。

 水位は。

 次第に、次第に。

 強く、強く。

 なっていき。

 まるで

 この世界を。

 満たそうと。

 している

 ようで。

「これは一体……なーんて聞かないでね、真昼ちゃん。」

 目を見開いて、その光景を見下ろしている真昼に。

 デニーは、恐ろしいほど可愛らしい顔をして言う。

「もう、お話してあげる暇はなさそうだからさ!」

 そして。

 デニーがそう言った、その瞬間に。

 獰猛で、それでいて冷酷な破裂音とともに。

 屋上へと至る扉が、勢いよく叩き壊される。

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