第一部インフェルノ #6
今は質素で善良にさえ見えるこの掘っ立て小屋も、きっと前世ではよほどの悪事を重ねてきたに違いない。例えば無意味に高層に高層を重ねた挙句に近隣住民の日照権を奪っていたとか、それかどう考えてもそんなに広い必要のない庭によってそこを通りたい人々の通行権を奪っていたとか。いや、そもそものところ建築物に前世現世来世があるのかということについては、実のところ未だ解明されていない大いなる謎ではあるのだが。それでも、そう思わせるほどに、あるいはそう思わなければ説明がつかないほどに、この掘っ立て小屋は不幸な目にあっていたのだ。何せ、ついさっきエレファントの放つ強烈な左ストレートによって半壊させられたばかりだというのに。今度はその横っ腹に、四匹のウパチャカーナラがナイス・タックルをかましてきたのだから。
「ちっ、クソが……!」
「何、何なの!?」
「驚くのは後にして、真昼ちゃん! 今のうちに逃げなくちゃ!」
つまり。
何が。
起こったのかと。
いうと。
#5の終わり、サテライトが「は?」といったその直後に。デニーがずっとずっと待っていた援軍がやってきたということだ。ずっとずっとというのは具体的にいうと、真昼の体をひっ捕まえてデニーがこの小屋に転がり込んだ直後のこと。デニーが、真昼の耳元で、ぴゅーいという口笛を吹いた時からということだ。その合図によって、遠く遠く高台のところに置いてきたウパチャカーナラを、この小屋へと呼び寄せたデニーは。その猿達がたどり着くまでの間、時間稼ぎをしていたのだ。
そう、別に聞く必要など欠片もなかったサテライトの不幸な身の上話を最初から最後まできちんと聞いていたのも。それに、馬鹿な質問ばっかりしてくる真昼に対してセカンダリー・ブラック・イヴェールについての説明をきちんとしてあげたのも。全部時間稼ぎのためだったのだ、そもそも普通だったらデニーはセカンダリー・ブラック・イヴェールなどという長ったらしい正式名称は使わずにSBIという略称を使う。
そして、そんなデニーの努力の甲斐があって。あるいは、その時間稼ぎにわざわざ付き合ってくださった読者の皆さんの忍耐の甲斐もあって。ジャスト・イン・タイム、サテライトの忍耐がブチ切れたちょうどその瞬間に、ウパチャカーナラがこの小屋に突っ込んできたのだ。小屋の後ろの壁、というのはデニーと真昼とから見て後ろ側ということだが、その壁がぶち抜かれて、ウパチャカーナラが突っ込んでくる。そこら中に煉瓦を撒き散らしながら、サテライトとエレファントへと襲い掛かる。
サテライトとエレファントとの二人は、今まで横並びに並んでいたのだけれど……この二人が並んでいると、二百ハーフフィンガーあるエレファントの巨体と百五十ハーフフィンガーないサテライトの小躯(幼少期の栄養失調のせいで背が伸びなかったのだ)が奇妙な対比をなすのだが、とにかくそんな風にして並んでいた二人のうち、エレファントの方が。あたかもサテライトのことを守る忠実な騎士のようにして四匹のウパチャカーナラに立ち塞がった。エレファントはそのまま二本の腕、形作るSBIを大きく一度波立たせて。それから一気に自分の背丈と同じくらいの大きさに膨れ上がらせる。
一方で。
真昼は。
容赦なく降り注いでくる粉々に砕けた煉瓦の豪雨から、なんとか自分の体を守ろうとしていたのだけれど。そんな真昼の都合など構わうはずもないデニーにぐいっとその片腕を引っ張られた。声にもならない悲鳴を上げながら、その体は、ウパチャカーナラによって大胆に貫かれた壁の穴から青空の下の世界へと引っ張り出される。
「ダッシュダッシュダッシュだよ! 真昼ちゃん!」
「ちょ……待って!」
当然ながらデニーが待つはずもない。
外の道、転がるようにして飛び出て。
そのまま、真っ直ぐに、走っていく。
真昼は、喘ぎながら。
デニーに問いかける。
「どこいくの!?」
「教会!」
「教会って!?」
「主の教えの伝道の場所だね! 一人一人の心の中に……」
「そういうことじゃなくて!」
そう、デニーと真昼が向かう先は、というかデニーが真昼に一方的に向かわせてる先は。この道の先にある教会だった。先ほどまで道を塞いでいたチェックポイント・キャビンの半分は、既に向こうの方に吹っ飛んでしまっていて道を塞いではおらず。このまま一直線に向かえば、もう少し、具体的にはあと二百ダブルキュビトくらいで到達できるはずであった。
はず?
いや、もちろん、二人は、到達できる。
プロットにもちゃんとそう書いてある。
ただし。
あと一つ。
危機的状況を。
乗り越えて。
そして、その危機的状況を演出するべく、悲劇と絶望の才能にあふれたディレクターが。今まさに、この美しい青空へと、醜悪な肉体による浸食のようにして、醜く、醜く、浮かび上がってきたところだった。
さっきまで掘っ立て小屋があった場所。今ではエレファントと四匹のウパチャカーナラとの決死の格闘によって、瓦礫しか残っていない場所。その上に、浮かび上がり、姿を現したのは、サテライトだった。何物にも支えられることなく、一葉の羽搏きを行うこともなく、サテライトの体は、ただ、そのままの姿で、そこに浮かんでいた。
「てめぇら……馬鹿にするのも大概にしろよ?」
深く。
暗い。
憎しみを込め。
吐き捨てると。
その憎悪の温度、燃え盛る激怒の炎に、内側から煮え立つようにして、サテライトの全身が勢いよく泡立ち始めた。先ほどデニーと真昼に向かって、自分の手のひらを修復して見せた時のように。だが、それより遥かに物凄い勢いで。サテライトの皮膚は、肉は、骨は、内臓は、ぼこぼこと音を立てて暴れだす。
そして、その直後に。「ぐ……がぁああああああああっ!」という惨たらしい絶叫を上げながら、サテライトの、体は、出産した。出産? いや、果たしてこれを出産と呼んでもいいのだろうか。もっと悍ましくもっと嫌らしい現象。俄かには信じられないくらい凄惨で惨烈で、惨憺としている行為。つまり、具体的には、何が起こったのかというと……煮立って泡立ったサテライトの体、そのぼこぼこという泡のうちの一つが、一際大きくなったかと思うと、ずるんっという気持ちが悪い音を立てながら抜け出たのだ。しかもその出産はたった一度行われただけでは終わらなかった。ぼこぼこ、ずるん、ぼこぼこ、ずるん、ぼこぼこ、ずるん、ぼこぼこ、ずるん。合計して五の肉塊がサテライトの体から産み落とされたのだった。
汚らわしい。
五つの肉塊。
サテライトの体液でべとべととしたままに。それらの肉塊は、ゆっくりと、静かに、あるいはある種の聖性さえ感じさせるほど忠実に。サテライトの周囲、弧を描いて、回転を始めた。くるくる、くるくる、くるくると。そう、それは……紅蓮の岩漿をまとった瞋恚の惑星を回転する、五つの衛星にも似た態度で。だからこそ、この女は、ハッピー・サテライトと呼ばれているのだ。いや、まあハッピーの方の説明にはなってないけど。
とにかく、それらの肉塊は。サテライトの周りで回転しながらも、滑稽なほど奇怪な動き方で、ぶよぶよぶるぶると痙攣を始めた。それから、その痙攣に合わせて、次第に、次第に、その形を変化させ始める。それは……見ているものの脊髄に冷たい水銀を流し込むかのように、ひどくぞっとする過程であった。あっちやこっちを向いた指に似たものが生えた手がばらばらに生えてくる。いくつもいくつも目ができてそのどれもが何を見ているのか分からない。特に最悪なのは口だ、まばらに生えた歯、ぽっかりと開いて、「ハハハハハハハハッ!」と甲高い声で笑い始める。全体がくにゃりと伸びて、胸や、腰や、首のような部分を作り出して。やがて、それらの肉塊は……人間か、あるいは猿のような生き物の、醜怪なパロディのような姿を取る。
サテライトは。
それらに。
目を向けることなく。
ぽつりと呟く。
「殺せ。」
その瞬間に。サテライトの周囲をくるくると回転していたはずの肉塊達は、まるで前装砲の砲身から打ち出された五つの砲弾のごとく、猛然とした速度で、デニーと真昼に向かって飛んでいった。サテライトはそんな光景に向かって空中でのたうち回るかのような完全に取り乱した態度で「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!」と叫び続けている。これは個人的な意見なのだが、サテライトは本当に病院に行った方がいいと思う。
さて。
一方で。
デニーと。
真昼とは。
いかにエレファントと四匹のウパチャカーナラとの戦闘の音が激しいものであったとしても、これほど大きな声で叫ばれては気が付かないわけもなく、といってもデニーちゃんはとても賢いので叫び声が聞こえなくても気付いたことはまず確実なのだが、それはそれとしてデニーと真昼とは、走る足をそのまま走らせつつも、サテライトのシャウトが聞こえた方向を振り返る。
「な……」
「んー、やっぱりアヴァタイザー系のスピーキーだったんだね。」
「分身能力者!?」
「そーそー、それそれ。」
「やっぱりって、あんた、知ってたの!?」
「えー? うーん、知ってたっていうかさーあ、そうじゃないと説明つかないっていうかーあ。だって、ほら、先遣隊のみんなが誰と戦ってたのか分かんなくなっちゃうじゃん。右側の子達も左側の子達も、きっとサテちゃんの他の分身の子達に引っかかっちゃったんだね。」
あんなに高いところからでもデニーの声は聞こえていたらしく、サテライトが「てめぇ! どさくさに紛れてサテちゃんって呼んでんじゃねぇよ!」とマジ切れしているが。それはともかくとして、デニーの呑気な口調とは裏腹に、デニーと真昼との状況はそこそこ絶体絶命の状況といえなくもないだろう。
教会までの残りの距離について、先ほどは二百メートル程度と書いていたが。今では残り百メートル程度にまで近づいていた。それ自体はまあ望ましいことであるのだが、問題なのはつまりこういうことだった。ここから教会までデニーと真昼との姿を隠してくれそうな遮蔽物が一切存在しないということ。
教会は川沿いに……というか、ここまで近づいたところから見ると、陸地から川の方に突き出した埋め立て地的な場所に立っているのだが、その教会が立っている場所と避難民が住んでいる(住んでいた)掘っ立て小屋の区画との間、百メートルほど空間が開けていて、何らかの広場みたいになっているのだ。その広場状の空間は、掘っ立て小屋の区画のそこら中に広がっている配電線のようなものの集結地点のようになっていて、それから巨大な噴水に似たものが設置されている。噴水に「似たもの」と書いたのは、真昼にはそれが何となく噴水に見えたのだけれど、それにしては、何か、ちょっと、異様な形状をしていたからだ。そもそも水も噴き出していないし。
しかし、今はその異様な形状について説明している暇はない。とにかく、ここでいいたいことは。その広場状の空間がいったいどのような意味を持っているのかよく分からないとしても、とにかくその空間はとてもよく開けた空間であって、そこを走っているデニーと真昼との姿は、上空からは丸見えだということだ。
そんな。
いかにも狙ってくれといわんばかりの。
デニーと真昼とに向かって。
サテライトの衛星達は
一直線に向かってくる。
「と、いうことで! 真昼ちゃんの出番だよ!」
「は!?」
フードの内側で、にぱーっと最高の笑顔で笑いながら言ったデニーの言葉。全く意味が分からずに真昼は思わず聞き返してしまう。それに対して、デニーはそんな回答が(回答ではないが)返ってくるとは予想もしていなかったらしく、きょとんとした顔で「ほえ?」と口遊む。
「あたしの出番って、何よ!」
「何よって……あの子達、撃ち落としてよ。」
「撃ち落とす!?」
「ほら、それで。」
と、言いながら。
デニーは真昼の。
左腕を指さした。
真昼はそんなデニーの指摘に対して。ひどく驚いた顔をして、まるで初めて見るもののように自分の左腕に視線を向けた。そう、真昼の左腕は……兵器だった。魔学的な原理によって刻み込まれた兵器。その名は重藤の弓。
「これで……?」
「そう、それで!」
「あたしが……?」
「そう、真昼ちゃんが!」
普通に考えればそんなことをしている暇はないし、さっさとやれよと思うのだが、真昼は右の手のひらで、そっと左腕に手を触れた。普通に考えればそんなことをしている暇はないし、さっさとやれよと思うのだが、躊躇いの気持ちを露わにするかのような、明らかな困惑の表情を見せる。
あまりに突然のことでどうしていいのか分からないのだ。今、この瞬間まで真昼は……自分では全く意識していない完全な無意識の部分で、自分の身をデニーに対して委ね切っていた。デニーに助けられた時点で自分という存在を被保護者の立場に置いていたのだ。それに、こんな目に合うのは。ここまで絶対的な危機に対して、これほど短時間で認識の変更を図らなければならないというのは。真昼にとっては初めてのことだったのだ。
認識の変更。
それは。
つまり。
自分も戦わなければならないということ。
どうしていいのか分からず、というかどうすればいいのかは分かっているのだが、その行為に伴うリスクとリスポンシビリティに対して、そのあまりの大きさに戸惑ってしまって。真昼は大きく目を見開きながら、ついうっかりデニーのこと、縋るような目で見てしまった。そんなことはしない方がいいのに……しかし、こういう状況下において、人間という下等知的生命体は、そんなことはしない方がいいことをしてしまいがちなのだ。読者の皆さんもご経験ありますよね。
そんな、真昼の視線に対して。
デニーは、走り続けながらも。
真昼の手を取って。
ぎゅっと握りしめる。
「だいじょーぶだよ真昼ちゃん。」
明らかに誠意の籠っていない声で。
顔だけはにぱーと笑いながら言う。
「自分に自信を持って!」
よくもまあこれだけでたらめにこれだけ適当なことを抜かせると思うし、第一、救出作戦において被救出者に状況を丸投げするなよとも思うが、それはそれとしてその「状況を丸投げする」というところが良かったのかもしれない。大抵の人間は「状況を丸投げされる」と何となく自尊心みたいなものをくすぐられるものだし、自尊心をくすぐられた人間は大体においてとても前向きな気持ちになりがちだ。
そして、どうやら、真昼も前向きな気持ちになったらしい。いかにもいい加減なデニーの激励に対して、びっくりしたような顔、はっと小さく口を開くと。特に頷いたり言葉を返したりすることなく、しかし吹っ切れたように、後ろを振り返った。
よく考えたら……真昼は、誰かに「自分に自信を持って」などと言われたのは初めてかもしれない。いや、言われたことはあるかもしれないが、少なくともここまで切実な状況で、ここまであからさまに、誰かに信じて貰ったことは。間違いなく初めてだった、まあデニーは真昼のことを信じてなどいなかったが、こういうのは主観的な問題だし、細かいことは気にしないことにしよう。
それから。
真昼は。
恐ろしい、奇形の、集団。
サテライトのサテライト。
そちらに向かって。
左腕を、突き出す。
さて、この時の真昼の左手の形に注目してみよう。まず、薬指・中指・人差し指の三本だが、ぴったりとくっつけて、真っ直ぐに伸ばしている。小指と親指は、その三本から離して、広がるいっぱいにまで外側に広げている。これが重藤の弓の発動の基本形だった。真昼の目が、水面に映し出された月の、さざ波に揺らめくみたいにして、すっと揺らめく。極限までその精神をその腕に刻まれた藤の入れ墨に集中させる。
そして。
真昼は。
その言葉。
口にする。
「雷静動。」
その瞬間に、真昼の左腕を覆っていた入れ墨、虚ろな夜の色をした藤の花が、したしたと滴るようにして揺らめいた。平面に描かれた一つの絵として完全に静まり返っていたはずの藤は……現実を、あるいは普通の人間たちが現実だと思っているものを、他愛もなく破って。まるで永遠か何かのようにしてその下側に満ちているはずの、魔学的な世界から。真昼の皮膚の上へとその花を咲かせ始めたということだ。
「水破。」
するする、するする、と。夜の色の藤は、真昼の手の甲へとその蔓を伸ばしていく。何本かの蔓が、互いに互いの姿を紡ぎ合わせて。それは一本の糸になる。しかもそれはただの糸ではない。それは、真昼の小指から親指に向かって張り詰められた……弦なのだ。つまり、あたかも、弓に、弦が、張り詰めるみたいにして。それによって真昼の左腕は、腕から中指にかけての縦のラインを弦受に、小指から親指にかけての横のラインを弓にした、ちょうど弩のようなものになる。
これが。
これこそが。
重藤の弓だ。
重藤の弓とは、基本的には鳴弦をベースとして……いや、残念ながら説明している時間はない。五つの衛星のうちの一つは、既にデニーと真昼の背後、すぐそこにまで迫っているのだから。真昼はぎっと奥の歯を噛み締めて、一番近くにまで迫っているその衛星に視線を向けると。しっかりと見つめて、自分の左手、中指の先を、その衛星に定める。
さて。
その。
衛星は。
とてもとても狂っていた。それは実際のところ存在するべきではなかったものだ。サテライトの体の中の存在するべきではなかったもの。そうあるべきではなかったもの、別のものであるべきであったもの。つまるところそれは……サテライトが生まれてからずっとずっとその身に受け続けてきた「嘲笑」の象徴。だからこそ、その衛星は、笑っているのだ。「ハハハハハハハハッ!」と、あらゆるものを、とりわけサテライト自身を、笑い飛ばすような笑い声で。その衛星に足はなかった。必要ないからだ。サテライトには自分の足で立って歩く必要はなかった。サテライトは、たった一人、暗く冷たい場所に繋がれたままで……その衛星には爪と牙があった。たくさんの、たくさんの、牙と爪。三十二本と二十枚では、数えきれないほどの牙と爪。今まで、何度も、何度も、サテライトを傷つけてきたもの。人間の、人間どもの、獣性の象徴として。まるで刃のように鋭い爪と、弾丸のように尖った牙。そして、今、その牙とその爪が狙っているものは……もちろん、真昼で。
真昼は、その衛星に差し向けた左手、小指から親指にかけた弦を。右手で、ぐうっと引き絞った。矢がつがえられていないにも拘わらずそこには確かに何かが存在していた。全く目に見えない、あらゆる通常の感覚には捉えられない、何かの波動のようなもの。それが、蔓を束ねた弦を中心として、真昼の左手を覆っていたのだ。
真昼は……ほんの一瞬だけ、躊躇った。当然ながらそれは真昼の曖昧な意識によって意識されてはいない。脊髄に刻み込まれた感覚、いわゆる罪悪感のようなものによって、ほんの一瞬だけ、その右の指先を触れられたのだ。スペキエースに対する、あらゆる差別への、全般的な、罪悪感。もう少し正確にいうのならば、静一郎への、静一郎の会社への、吐き気がするような嫌悪……しかしながら、それは、所詮は、ほんの一瞬の出来事で。
そして。
その一瞬が。
過ぎ去ると。
真昼は。
引き絞った弓。
その先の標的。
まるで。
恋人でも見つめるように。
熱を込めて凝視しながら。
口づけの代わりに。
こう、囁く。
「兵破。」
真昼は、矢を放った。もちろんその矢は存在していない矢だ。その指先をぱっと開いて、真昼が蔓の藤を離すと、それと同時に真昼の手を覆っていた波動も一気に解き放たれたのだ。ビイイイイイイイイィンと、聴覚によっては感覚できないにも拘わらず、それでも耳を聾するような音が、そこら中に響き渡った。大きな大きな叫び声のような音。そして、その音こそが矢だったということだ。
先ほどまで耳障りな笑い声で爆笑していた衛星、デニーと真昼の背後の一ダブルキュビトにまで迫っていたあの衛星が。体中に開いていた口、口、口から、一斉に「グ、ギェ……」と叫びながら、デニーと真昼がいる方向とは、反対の方向へと勢いよく吹っ飛んでいった。それは、例えば、真昼の放った何本も何本もの矢によって撃ち抜かれたみたいに。しかも、その体中には、いつの間にか穴が開いていた。幾つもの幾つもの穴。いうまでもなく、矢によって貫かれたような穴。
衛星の。
返り血が。
真昼の顔に。
真昼の目に。
飛び散る。
「ないすしょっと、真昼ちゃん!」
「は? 何が……」
上空でサテライトが声を漏らす。
目に見えない矢は目に見えない。
だから、突然の出来事。
何が起こったのか把握できないのだ。
ただし、その何が起こったのかということを、サテライトに説明している暇は、残念なことに真昼にはなかった。まあ、あったとしても説明していたかどうかは微妙なところであるが……サテライトって大人しく人の話を聞きそうなタイプでもないし……それはそれとして、一つの衛星を処理してもまだ四つの衛星が残されていたし、その四つの衛星は次々にデニーと真昼の背後に突進してきていたのだ。
休む間もなく真昼はもう一度先ほどと同じ動作を繰り返す。目に見えない矢をつがえて放つあの動作だ。音ではない音、ビィイイイインというあの音が鳴り響き、二つ目の衛星がシュート、アンド、フォールされる。「てめぇ、何しやがった!」というサテライトの叫び声が聞こえてくるが、真昼はそれには構わずにその動作を繰り返す。
三度。
四度。
五度。
全ての衛星が。
流れて落ちる。
「んー、パーフェクトだね! 真昼ちゃん!」
デニーが真昼のことをちらっと振り返りながら満足げにそう言った。真昼は、自分でも驚いてしまったことに、一発も的を外すことがなかった。百発百中だ、いや五発五中か。真昼の体は、デニーの魔学式によって、消化器官や速力、脚力といった部分以外にも強化されているようだ。しかし、けれども……どうやら、それで万事解決とはいかないようだった。
「はっ! クソ人間ども!」
なぜならサテライトはフィールファクター持ちで。
その能力は、各衛星にも引き継がれていたからだ。
「そんな程度の攻撃で何とかなると思ったか?」
つい先ほど穴だらけになって吹っ飛んだはずのあの衛星が。つい先ほど大地に叩き落されたはずのあの衛星が。その大地の上で横たわっている間もなく、すぐさまぐじゅりと起き上がった。体中の口をがあっと開いて「ハハハハッ」と笑い声をあげると。またもや、デニーと真昼とに向かって突撃してきたのだ。
「どうしよう!」
その衛星をまたもや迎撃しながら。
真昼は、デニーに向かって叫んだ。
「切りがない!」
「んー……だいじょーぶ、だいじょーぶだよ!」
デニーは、真昼にそう答えると。
じーっと、目の前を、凝視した。
何かを確認しているかのように。
「教会は、もう、すぐそこだから!」
そう、その通り。教会はもうすぐそこだった、距離にしてあと五ダブルキュビト程度。だが、背後の衛星達は本当の本当にそこのそこにまで迫っていた。あと少し手を、というか爪の塊を伸ばせば触れてしまえそうなほどに。しかも「衛星達」と書いたように、そういった超接近衛星は一つではなかった。三つが、同時に、迫っていたのだ。そのうちの一つに矢を放ちながら、真昼が叫ぶ「ヤバい!」。まさにヤバい状況だった、明らかにあと一本しか矢を放つ余裕はないのに、残りの衛星は二つだからだ。
真昼はもう一本の矢を放つ。残りの衛星はこれで一つ。だが、その衛星が、まさに、今、爪の塊を伸ばしたところで。しかもただ伸ばしただけではなく、その爪の塊によってフルスイング、真昼の体を叩き潰そうとしているみたいに。これに殴られたら、間違いなく、真昼の体は、悲惨で無残なぐちゃぐちゃの塊になってしまうだろう。サテライトは基本的に馬鹿なので、生け捕りにせよとの命令をよく理解できていなかったらしい。
真昼は次の動作を始める。しかし、間に合うはずもない。藤でできた弦に指をかけたところで黒い影が真昼の視界を覆い隠す。つまり、爪の塊が、真昼の頭上、すぐそこのところにまで振り下ろされたということで。
真昼は……これもまた驚いたことに、それほどの恐怖を覚えることはなかった。それはまあ、確かに死への恐怖がないわけではなかったが。思ったほどではなかったのだ、例えば、この地に来たばかりの時に感じていた恐怖、わけの分からない状況に対する恐怖や、デニーへの恐怖といった感情に比べると、無視していいくらいの弱いもので。むしろ高揚感のようなものがあった。今、真昼は、少なくとも、何かに抗っている。今までのように、ぼんやりと、生きながら死んでいくような状態ではなく。肉体と精神との全力で何かに抗いながら死んでいこうとしている。それは、もしかして、このまま生きていくよりも、遥かに「真昼ちゃーん!」
真昼の、ごちゃごちゃとした。
少しだけ混乱して。
少しだけ矛盾した。
その思考を、引き裂くように。
デニーが。
ずばーん!と。
真昼の右腕を掴む。
つがえていた、目に見えない矢。
思わず、ぱっと離してしまって。
そして。
それから。
デニーの声が。
こう、叫ぶ。
「行っくよー!」
瞬間。
真昼の体は。
思いっきり。
投げ飛ばされる。
数秒前の段階でデニーが何を凝視していたのかというと、それは教会の扉だ。そういえばこの教会の名前をまだいっていなかったと思うが「迷える小魚のためのジョン・フラナガン教会」(ちなみにエドワードの方のフラナガンが慈善活動の責任者になってからアーガミパータに建てられた教会の名前は全てこれで統一されている)という。その名の通り、素晴らしい聖職者であり素晴らしい建築家でもあったジョン・フラナガンの建築に多大な影響を受けた建築物で、全体的には都市的象徴主義の構造をとっているのだが、ところどころのモチーフにジョン・フラナガンの好んだ後期ルルイエ様式を取り入れている。
その典型的な例といってもいいものが、もちろん正面ファサードに印象的に刻まれたティンダロス十字と、そしてもう一つ、三連の入り口だ。これらの門は後期ルルイエ様式に特有の構造で、中央の門がヨグ=ソトホースを、右側の門がトラヴィールを、左側の門がティンダロスを表している、いわゆる三位一体の門だ。まあ、そういったことはそういったこととして、この物語には特に関係のないことなのだが、一般常識として覚えておいてもらうとして。それらの三つの入り口は、あの信じられないくらい青い色をしたガラスみたいな物質のみで形作られた、非常に精密かつ非常に細部を見分けにくい(何せ全部が青い色でできているので)ステンドグラスでできていて。正確にいうと、デニーが見つめていたのはそのステンドグラスだったということだ。
そのステンドグラスに、よって。
その三つの門に効果されている。
魔学的な鍵。
それが、果たして。
開いているのかということ。
さて。
さて。
それらの門は。
一つの門を除いて。
デニーの思った通り。
驚くほど、率直に。
開け放たれていて。
だからこそ。
デニーは。
真昼の体。
その扉に向かって。
ぶん投げたのだ。
間の抜けた「はああああああああぁ!?」という叫び声を吐き出しながら。真昼の体はデニーの狙った通りの方向にぶっ飛んでいく。つまり三つの門のうちの右側の門、トラヴィールの門に向かって。ちなみに、鍵が解かれていた二つの門はトラヴィールの門とティンダロスの門で、そして、鍵が閉じていたのはヨグ=ソトホースの門だった。まあこれは当然のことだろう。ヨグ=ソトホースの門は基本的には開かれてはいけない門だ、何か特別なことでもない限り。そして今日は特に特別な日ではなく、従っていくらテロリストをこの中に導いてテレポート装置を壊させるためであっても、敬虔なトラヴィール教徒であるフラナガンがこの門を開かせるはずなどないのだ。
と、いうわけで。ちょっとした余談のせいでどういうわけなのか分かりにくくなってしまったが、要するに真昼の体はトラヴィールの門に勢いよく激突した。非常に気の毒なことに、というのは真昼にとって気の毒という意味だが、その門は、鍵は開いていても扉として開いているわけではなかった。真っ正面から思いっきり扉にぶつかって、それから真昼の体は、そのまま教会の中に二回か三回ほどバウンドしながら転げ込む。
その跡を追うようにして、デニーも軽やかに地を蹴って飛んだ。なんとなく気の抜けたぴょいーんという感じで、けれども直後に迫っていた衛星から逃れるには十分な跳躍速度で。デニーは一足飛びにトラヴィールの門までの距離を飛び越えて……既に真昼の体によって開かれていたその門から、教会の中に飛び込んだ。ざざーっと、履いていたローファーを引き摺るみたいにして。真昼が落っこちている(としか表現のしようのない)場所にまで到達すると、すぐさま後ろを振り返る。
それらの門に向かって。
ずびしっと、効果音が聞こえるような。
そんな調子、人差し指、指差しながら。
デニーは。
楽し気に。
こう叫ぶ。
「この門は王国の門っ! 去れっ、賢しらなる者よっ!」
本当に、あと、一ハーフフィンガー。あと一ハーフフィンガーだった。サテライトの衛星が教会の聖なる空間を犯すには。サテライトの衛星っていい方なんかちょっとおかしいですね、それはともかくとして、そのあと一ハーフフィンガーというところで、デニーの口ずさんだ聖句が効果を発してしまったということだ。粗野で粗雑で無神経な自動ドアがばたーんとその扉を閉めるようにして、何者も触れていないのにも拘わらず、トラヴィールの門がばたーんと閉ざされた。さっき真昼が激突した時と同じくらい勢いよく、衛星のうちの一つがその扉に激突するが……しかし、決して、その扉が開くことはなかった。
それどころか、次々と再生した衛星達、二つ目、三つ目、四つ目、五つ目と飛んできて。トラヴィールの門だけでなく、ティンダロスの門、ヨグ=ソトホースの門にさえ突っ込んでいくが、それでも一つの扉さえ開くことはできなかった。要するにデニーの聖句によって門に鍵がかけられたということだ、もう、これで……少なくともエレファントが来るまでは。テロリスト達がその体の一部でもこの教会に入ってくることはないだろう。
「ふー、危なかったね、真昼ちゃん!」
やれやれという感じのジェスチュア、汗一つかいていない額を手首の辺りで拭いながらデニーはそう言った。一方の言われた真昼は倒れ伏していた体をいかにも痛々し気に起こす。真昼の突っ込み方について、先ほど真っ正面から突っ込んだと書いたが、それは文字通りの意味であって、要するにどういう意味かというと、顔面から突っ込んだということだ。そんなわけで、起き上がった真昼の顔はもうなんというか凄まじいことになっており、その凄まじさについて一つ一つ説明していては読者の皆さんにとって退屈の極みとなってしまうと思われるが、とりあえず一つだけ触れておくとすると鼻が真横に折れていた。
「わあー、真昼ちゃん! たいへーん!」
そんな凄まじい真昼の顔を見て、デニーは、いつものようにさほど大変とは感じていなそうな声でそう言うと。すささっと真昼に駆け寄った。真昼はなんというか、いきなり思考を中断されたこととか、それ以前にデニーの自分に対する扱いとか。まさか投げ飛ばされるとは……そういったことのせいで、ほとんど茫然自失の体であったため、すぐ横のところに屈み込んだデニーが自分の方に手を伸ばしてきても、その行為の意味合いについてうまく把握することができず、完全になすが儘となっていた。デニーはそれをいいことに、伸ばした手、素敵に折れた真昼の鼻を、ちょんっと摘まむと。
そのまま。
その角度。
ごきんと。
まっすぐに戻す。
「くっ……がぁ!」
唐突に顔面の中心を襲った激痛に、茫然自失の状態から覚醒し、かっと目を見開いた真昼は。そんな風に若干愉快な声をあげながら鼻を摘まんでいたデニーの手を振り払った。当のデニーは「ほーら、これでもとどーりだね!」とかなんとか言いながらけらけらと笑っている。
ひとしきり、鼻を押さえながらめちゃめちゃ痛がった後で。ようやっとのこと目が覚めた真昼は辺りの状況を確認し始めた。どうやら、ここは、教会のエントランスらしい。明かりは全部消えてしまっているが、大きく開かれた窓、あの青いガラスみたいな物質によって外を見通せる窓から、深く深く沈んだ青い色の光が差し込んでいたので、周りを見回せないというわけではない。確かに、あたかも、この空間が、深海の底であるかのように、暗い青色に染まっていたが……それでも周囲の物事を確認するには十分な明るさだった。
いや、しかしながら、気が付いてみると。この場所で一番特筆すべきことは、視覚によって得られる情報ではなく、聴覚によって得られる情報であった。少なくとも真昼は、そのことに気が付いた時、それなりに驚きのインプレッションを受けた。
そのこととは、聞こえている音ではなく聞こえていない音。この場所は静か過ぎたのだ。有り得ないほどに静かだった、本来なら聞こえているはずの音さえ聞こえない。聞こえているはずの音とは、あの三つの扉の外側で、それらの扉のどれか一つでも開こうと獅子奮迅の努力をしている、衛星達のドラム・サウンズ。
何度も何度も体当たりをして、何度も何度も爪の塊を叩き付けて、口の動きからすると、全ての口が、あの耳障りな嘲笑を続けているはずなのに。それらの音は一切聞こえなかった。まるで……そう、まるで、この、青い色によって、何もかもを拒絶する物質によって、それらの招かれざる音さえ阻まれているかのように。
いや、違う。
「まるで」ではない。
「ように」ではない
まさに、その通り。
音さえも阻まれているのだ。
要するに、この青い物質は。
「青イヴェール合金……?」
「うん、そーだよ。教会の建物だからね。」
真昼の、独白に。
デニーが答える。
「と、いうわけで。しばらくはだいじょーぶってわけ!」
と、いうわけで。いや、何もデニーのセリフを真似する必要はないのだが、この教会を覆っているこの青いガラス様の物質は青イヴェール合金だった。正確には青イヴェール合金とフォースフィールドを混合することによって対世界独立性を極端に高めた強化フィールドであったが、そういう細かいことはともかくとして、とにかくこのひどく儚げな見た目とは裏腹に科学的な力にも魔学的な力にもかなりの耐性を有している。それゆえに、先ほども地の分で書いた通り、少なくともエレファントが来るまでは、デニーと真昼と、二人は何とか時間が稼げるだろう。
「しばらくって……どれくらい。」
「うーんとねーえ、ウパチャカーナラ一体につき五分として、ごー、かける、よん、は、二十分くらいかな?」
「二十分って……たった二十分?」
「まあ、大体ね。」
「大体ねって……あんた、これからどうするつもりなの?」
「と、り、あ、え、ずー、目的のものを確かめるつもりだよ。」
全く答えになっていない。
そんな答えを返しながら。
デニーは真昼からすっと離れるみたいにして立ち上がった。なんとなく奇妙な身振り手振り、奇妙というか、どことなく楽しげで、どこなくご機嫌で、どことなく陽気な身振り手振り。上の方を指さす形で、自分の胸の辺り、両手の人差し指を軽く突き出しながら、ゆらんゆらんとそれらの二本の指を揺らめかせて。何か自分にしか聞こえていない音楽に耳を傾けているかのように右に左に小首を傾げながら。軽やかなステップで、デニーは、教会の奥へと向かって歩いていく。
どうやらこの男は現在の状況について何一つ深刻に受け止めていないようだった。あとたった二十分で、致死的な二人の戦闘施設が、この場所に突っ込んでくるであろうという状況について。そんなデニーを見ていて、真昼はとても不愉快な気持ちを抱いたが……それ以上に、自分では認めたくないくらいの安心感が静かに体の中に満ちていくのを感じた。もうどうしようもないという状況下にいる時に、ふと隣を見て、そこにいる何者か、自分の側に立っている何者かが平気な顔をして笑っていると。その笑顔に何の根拠がなかったとしても、人間という生き物は安心感を抱くものなのだ。だから、真昼は何も言わずに立ち上がって、デニーの後についていくことにした。
とんっとんっと、春先の妖精が、喜びに満ち溢れたダンスを踊っているかの如き態度によって。重く深く、そして青く沈みこんだ教会のエントランスを通り抜けたデニーは、その先にあった扉に手をかける。
その扉は。
もちろん。
信聖なる場所への。
ドゥルーグへの。
扉。
デニーが、黒一色のダブルドア、ばーんと開け放った先には……その先に広がっていた光景は、真昼には、人間が辿り着けないほどに深い深い深海から汲み上げた、透き通って青い色の静寂を湛えた、直方体の水槽であるかのように見えた。もちろんそれは水槽などではない。先ほど特に意味もなく四回も行替えして、なんとなく意味ありげに書いた通り、この場所はドゥルーグ。教会で、最も、信聖な、場所。
ドゥルーグにしては、しかもオンドリ派のドゥルーグにしては。意外なほどに、シンプルなものに見えた。まあ、よく考えればそれも当然のことで、これはアーガミパータにある教会なのだ。この教会に来る人間なんて、国内避難民か、それか何かしらのビジネスのための一時的滞在者くらいであるし。それに今回みたいにいつテロリストからの襲撃を受けるか分からない。というわけで、そこまで過度な装飾、いわゆるオンドリ派的な装飾は、この教会には必要ないのだ。
ということで、このドゥルーグはたった二つの構成要素によって構成されていた。つまり会衆席とプレデッラとだ。まず会衆席であるが……どうしよう、ばらばらになった死体まみれってこと、先に書いとくべきですかね? 真昼が印象を受けた順に書くとそっちが先になるんですけど、ただ真昼はまだドゥルーグに入ってないし、会衆席そのものについての説明したいから、後回しにしたいんですよね……というわけで悲劇的な惨状についてはもう少し後で書きます。
会衆席はそれなりの人数を収容できる造りになっていた。具体的にどれくらいかというと、五人掛けのベンチが横に四列、縦に九列、五かける四かける九で、はい、後は各自で計算して下さいね、とにもかくにも最低でもその計算結果の人数を収容できる。ちなみに完全な余談になってしまうが、縦に並んでいる数がなぜ大罪者数である九であるかというと、単純にそれ以上のベンチが入らなかったからという理由もあるのだが、それ以上にそれはフラナガンの軽い冗談だ。
それぞれのベンチは一般的な教会のように木造りではなく、何かプラスチックみたいに軽々しくて、それでいて丈夫そうな物質でできた、真っ白なベンチだった。真っ白、真っ白、真っ白といえば、本来であればこのドゥルーグの全体が白い色をしているはずだった。壁も、床も、天井も。窓以外の部分は、白く塗り潰されていたからだ。けれど、その窓が、入って真正面の壁、牢獄の鉄格子にも似た形で壁に穿たれている、あの細長い窓が。やはり青イヴェール合金によって強化されたフォース・フィールドによってできていたせいで、そこから差し込む光、青く、青く、青く、この空間を、たやらたやらと満たしていたということだ。
その窓が穿たれた壁の、すぐ前には。当然ながらプレデッラが設えられていた。最も信聖な場所であるドゥルーグの中で、最も重要な箇所。その上に祭壇が置かれる聖なる階段。この教会のプレデッラは六段であって、これもやはり、門の配置と同様に、後期ルルイエ様式でよく見られる特徴だ。六という数は智慧持つもの、つまり聖職者を象徴している。だが、その階段の上にある祭壇、焼き尽くしの祭壇は。色こそ緑色、焼き尽くしの祭壇に最も相応しい色であったが、その形は、まるで、大学か何かで使われている教壇のように簡素な代物だった。
いうまでもなく、その、祭壇の、後ろ側に、置かれて、いたのは……ディンガー、ディンガー、ディンガー。まるでこの世界のように美しく残酷な、ティンダロス十字。
そして。
デニーが。
向かって。
いるのは。
その。
ティンダロス十字。
「あーっ、そうそう! ちゃんとお礼を言わないと。真昼ちゃーん、あ、り、が、と! サテちゃんのアヴァターをすとーっぷ!ってしてくれて。真昼ちゃんが時間を稼いでくれなかったら、今頃、真昼ちゃん、たぶん、死んじゃってたよ! ま、デニーちゃんはデニーちゃんだから、あれくらいなーんともなかったけどね! でも、真昼ちゃんが死んじゃってたら、きっと……コーシャー・カフェで一番偉い人にすーっごく怒られてたから。やっぱりお礼は言っておかなきゃね!」
ドゥルーグの奥へと。
幹廊を、伝うように。
軽いステップで歩きながら。
きゅるんっと首だけで真昼のことを振り返って、ぱやんっとした笑顔で、デニーはそう言った。何かと擬態語でなければその行動を表現しにくい男ではあるが、それはそれとして。デニーのその言葉に、真昼はひどく複雑な気持ちになってしまった。その気持ちは主に二つのコンポーネントより成り立っていた。
あー……えーっとですね。ここでわざわざ「コンポーネント」という汎用トラヴィール語を使ったのは、別に恰好をつけたかったわけではなく、ちょっと前に「構成要素」という単語を使ってしまっていたので、その重複を避けるためなのだが、それはマジで本当に心底どうでもいいとして。いや、どうでもいいならそんな説明をいちいち書くなよと思われるかもしれないが、それには二つの理由があるのであって、まず一つ目は何かと旧語を使うタイプのやつだと思われたくないという理由。そして二つ目はもう少しで旧語を使うキャラクターが登場するので、共通語や旧語やといった概念について、ちょっとしたフラグを立てておきたかったという理由、その二つが……いや、だから違うんだって。そうじゃなくて、今したいのは、真昼の感情のコンポーネントの話。
少しばかり不謹慎な喜びと。
それに、もちろん罪悪感と。
喜びという感情については、真昼は、自分の中にそんなものがあることを決して認めなかっただろう。とはいえ事実だ。真昼は、確かに、喜びを、感じていた。今までこれほど切実な状況下で、誰かの役に立ち、そのことについて感謝の言葉を投げかけられるということ。真昼は間違いなく一度も経験したことがなかった。当然ながらデニーの言葉は、ひらひらと軽薄で、ただ口遊んだだけのハミングにも似た、無意味な言葉だ。けれど、これまで生きてきた中で、真昼が発した言葉、発された言葉、その全てをひっくるめても、この切り絵の蝶々ほどに軽い言葉と比較できるほどの重さを持った言葉は、一言もなかったはずだった。それほどに真昼の人生は道化じみたものだったのだ。サーフェイス・ダンス、空っぽの心に幕を張って、そうしてできたすかすかな太鼓を叩いて、音を出しているような。今まで、真昼が、話してきた、聞いてきた、言葉は、そういう言葉だったのだ。それに対して、デニーが言ったお礼の言葉は。確かに一欠片の心もその中には溶け込んでいないかもしれない。それでも、それは、間違いなく重量を持っていた。現実の重量、真昼が今まで生きていた、安寧の腐りはてた泥土の中に、ゆっくりと沈んでいく、その時の重量ではなく。片方に生を、片方に死を、秤にかけて量るその時の、その重量。だから、真昼は、感じたのだ、今、恐らく、生きていて、初めて、自分が、生きていると。
一方で、罪悪感について。まず前提として、いくら命を救ってくれた恩人であったとしても(しかも救ってくれたというよりも無理やり救われたという方が実情に合っているくらいだ)、やはり真昼にとって、デニーは未だ静一郎と同類だということ。確かに、デニーは……真昼のことを、真昼自身の名前で呼ぶ。静一郎が、真昼の名前を「真昼」と呼んだのはいつのことだっただろうか? デニーは、真昼のことを……いや、違う、そんなことはどうでもいいのだ。そうなのか? 果たしてそれはどうでもいいことなのか? 真昼は……多少、混乱してきていた。しかし、とにかく、それでも、デニーが静一郎と同じ類の生き物であるということは紛れもない真実であった。そして、その前提より導き出されること。デニーがスペキエースに対する差別者であり抑圧者であるということ。真昼にとって、スペキエースは、いわば原罪の象徴のようなものだった。本来真昼のものではないはずなのに、それでも真昼のものであるところの罪。なぜなら、真昼の父親、静一郎のせいで、世界中のスペキエースは……そして、デニーは、その静一郎の同類で。だから、より一層浮き彫りにされてしまうのだ。真昼が、今、その手から逃げ出そうとしている相手が、スペキエース・テロリストであるということ。
真昼は、今更ながら。
顔中を、べったりと汚している。
サテライトの衛星の、返り血を。
丁字シャツの裾で。
何度も何度も。
擦るように拭い取る。
ハッピー・サテライトという女は、一体どんな目にあってテロリストになったのか? エレファント・マシーンという女は、一体どんな目にあってテロリストになったのか? 二人の女、いうまでもなく、どんな目にあっていたとしても、それは、絶対に、真昼のせいではない。けれども、真昼にとっては……全てのスペキエースに与えられた全ての虐待は、間違いなく静一郎に通じているのだ。そして、その静一郎は、真昼の父親で。真昼がREV.Mに誘拐されたのは……そういう意味では、自業自得なのではないのか? 静一郎が、あんなことをしたのならば、当然の罰なのでは? それなのに真昼は、あろうことか静一郎と同じようなスペキエースの虐待者であるデニー(それはデニーがスペキエースをスピーキーと呼ぶことからも明らかなのだ)の手を借りて、その罰から逃れようとしている。果たして、真昼は、そんなことをしていいのか? その行為は許されることなのか? だから真昼は……罪悪感を抱いているのだ。今頃になって左腕が震える。サテライトの衛星を貫いた、その目に見えぬ矢を放った左腕が。私は、矢を放った時、どんな感覚を感じた? その感覚は……快感……快感ではなかったか? ということは真昼もやはりスペキエースに対する虐待者だということなのか?
等々と。
よくもまあこんな風に。
詮も意味もないことを。
延々と考え続けられるものだと思うが。
とにかく、そんな風に思考のぐちゃぐちゃの中に沈み込みながらも、デニーを追ってドゥルーグの中に足を踏み入れた真昼の目の前に広がったのは。そう、先ほど地の分で触れたことをようやくここで書くことができますね、引き千切られた死体がそこら中に広がった聖なる空洞だった。
鼻先に触れる、ほとんど手で掴めそうなくらいの匂い。外の世界でしていた死と腐敗との匂いが、狭い空間に閉じ込められたまま凝固して、より一層濃厚に濃密になった匂いだ。あまりの濃さに、ほんのしばらくの間だけだが、目がずきずきと痛んだくらいだ。それから、まざまざと目に映し出された惨状。一体、どれだけ心の歪んだ人間ならばこれだけの虐殺を行うことができるというのだろうか。そこら中に肉体が飛び散っていたしそこら中が血液で塗り潰されていた。その有様はドゥルーグの全体に及んでいたのだが、その中でも特にひどかったのが、一番奥、プレデッラのあたりだった。右の端っこと左の端っこ、ほとんどスーパーリアリズムの芸術作品のようにして大量の肉片・骨片が積み重なっている。そこら中から足や、手や、あるいは恐怖に歪んだ顔が突き出したごみ溜めのようなもの。
恐らくは、サテライトとエレファントとがキャンプに襲い掛かってきた時に、キャンプにいた人間の一部はこの教会に逃げ込んだのだろう。だが、フラナガンによってその鍵は開かれていたため、そしてデニーのようにその鍵をもう一度閉ざせる者もいなかったため。何者も、二人のテロリストを阻むことができなかったのだろう。サテライトが教会に入ってきた時、ドゥルーグにいた人々は、奥へ、奥へと逃げて行くことしかできず……部屋の角に追い詰められた鼠、なすがままに殺されたということだろう。そのようにしてあの芸術作品が出来上がったということだ。
そして。
そんな匂いに対して。
そんな光景に対して。
真昼は。
ひどく驚いていた。いや、正確には匂い、光景、それ自体に対してではなく。その匂いを感じ、光景を把握した、自分の精神の反応に対して。真昼はほとんど何も感じなかったのだ。それは、あまりに稠密な匂いが、ドゥルーグに入った真昼の顔に、ぶつかるみたいに吹きかかってきた時は。さすがに吐き気を覚えたし、鼻の奥の痛みを感じて咳込んでしまったが。ただし、そういった現象は生理的な反応に過ぎない。真昼の頭蓋骨の内側、思考の部分は……要するに、こういった惨状に慣れきってしまっていたということだ。まあ、少しばかり度が過ぎてはいるが。それでもただ量的に過剰であるだけで、基本的なパターンは外の世界に広がっていたそれと何も変わるところがないのだから。
ひどい話だ。
教会の中で、たくさんの人が死んでいるというのに。
それに対して、なんの感想も抱くことがないなんて。
しかし。
まあ。
人生なんて。
そんなもの。
さて、そんな風にしてドゥルーグに入ってきて。しかし、さすがに元は人間だったところの肉片を踏むことには慣れていないらしく、ところどころに落ちている手だの肝臓(肺?)だのを避けながら。デニーを追って、幹廊を歩いていく真昼の耳に……その時、ふと、何かが聞こえてきた。
本当にかすかな物音だ。もしも教会の入り口、あの青イヴェール合金の扉が開いていたら、外の物音に紛れてしまって聞こえなかっただろう。それに、もし真昼の体が、デニーの魔式によって強化されていなかったら、やはり聞こえなかっただろう。けれども、その二つの条件が揃った結果として……今、確かに、その音が、真昼の耳に、聞こえた。
「待って。」
「ほえ?」
「何か。」
「何か?」
「聞こえる。」
デニーは、真昼の呼びかけに。
大して興味もなさそうに。
立ち止まって、振り返る。
デニーちゃんはとってもすーぺりあ!なので、当然ながら真昼に聞こえている音がデニーに聞こえていないわけがないのだが。ただ、デニーのような生き物にとっては、その音は、まるで注意に値しない物音だったというだけだ。要するに、その音は――デニーの足音も聞こえなくなって、真昼の耳には、よりはっきりと聞こえてくる――そう、その音は、誰にも聞こえないようにと必死で押し殺している泣き声。
泣き声。
誰かが。
泣いている。
死人ではなく。
生きている誰かが。
このドゥルーグで
泣いている。
その瞬間に、真昼の瞼の裏では、ぱちんと火花のようなものが走った。この凄まじいまでの無慈悲、生けとし生けるものの虐殺の跡に。誰かがいる、その虐殺を生き残った誰かが。「誰かいる」「知ってますー」「知ってるって……」「真昼ちゃーん、お時間がありませんよお」という言葉を交わした後で。真昼は、軽蔑し切ったような目でデニーを睨み付けると、その言葉を無視して、その誰かが隠れているはずの場所を探し始めた。
助けなきゃ。
助けなきゃ。
助けなきゃ。
それは、無論、義務感だ。低俗で無意味な誤解に基づいた幼稚な義務感。しかし、そうであったとしても、真昼にとっては、致命的な感情でさえあった。助けなきゃ、助けなきゃ、助けなきゃ。心の中に埋火のように燻っている罪悪感が叫んでいる。そして、それによって、真昼は見せつけなければならなかった。誰に? 自分自身に。何を? 自分が、デニーとは違う生き物であるということを。自分が、静一郎とは違う生き物であるということを。生きる価値が……生きる価値がある生き物であるということを。自分だけが助かればいいと思っているわけではない。違う! 違う! あたしは、自分だけが生き延びるために、スペキエースを攻撃したわけではない……あたしは、あたしは……何か、もっと、大切なもののために、生きようとしている。真昼は、そう思いたいのだ。
だから。
真昼は。
その声が。
聞こえる方に。
声というよりも、音といった方が正しいだろう。手のひらでぎゅっと押さえつけた口から、それでも漏れてしまっている、しゃっくりみたいなひっくひっくという音。デニーの魔式によって強化された耳を頼りに、そんな風な音が聞こえる方に。それは、どうやら、一番左端の列、一番後ろのところにあるベンチ、その下から聞こえてきているようだった。
音を立てている誰かを極力怖がらせないように、右足と左足と、静かに静かに歩かせていく。そのベンチのすぐ近くにまでやってくる。そのベンチの周りには、このドゥルーグの他の場所と同じように、幾つかの肉片が転がっていた。特に、そのベンチの足元のところには、恐らくもともとは胴体であっただろう、比較的大きめの肉塊が転がっていて。それから、その声は、その肉塊がちょうど隠す形になっている、ベンチの下側。そこから聞こえてきているようだった。
真昼は、ほんの少しだけ躊躇してから。
それでも、その肉塊へと、手を伸ばす。
ホモ・サピエンスの死体という物質、に、ホモ・サピエンスが触れる時には。その物質に独特の感触があるように思われるものだ。当然ながらそれは下等知的生命体に特有の、不完全な脳が引き起こす先入観、愚昧な錯覚であって、死体という物質とその他の物質との間に何かしらの差異があるわけではない。それは単純にオーガニックの集合体であって、ただ、まあ、感じてしまうものは感じてしまうものですよね。(実際にはそういうわけではないのだが)自分が人生で初めて死体に触れたのだと思っている真昼も、今、その感触を感じていた。
指先から突き抜けて、脳にまで到達する、虫が這いまわるような違和感。そんなに冷たいはずがないのにそんなに冷たく、どこかしらぬったりと柔らかすぎる。確実に、崩壊が始まっている、存在の根源のようなものが。真昼の皮膚に纏わりついて、その崩壊の過程へと引きずり込んでくるような、そんな感触。端的にいえば、ぞっとするような嫌悪感。
そんな感覚を、必死に抑え込んで。真昼は、その肉塊を引きずって動かす。ずるずるという音とともに……短く叫ぶような声が聞こえた。ベンチの下で、さっきまでしゃくりあげていた誰かが、悲鳴を上げたのだ。真昼は通路のところまで何とか肉塊を引きずっていくと。といっても強化された腕力のおかげでだいぶん楽な作業ではあったのだが、とにかく慌ててベンチの下、声が聞こえた場所を覗き込んだ。
そして。
それから。
そこにいたのは。
一人の、少女だ。
まあ、真昼も高校生なのだし、少女か少女ではないかでいったら間違いなく少女なのだが。それよりも随分と若いように思われた。月光国の教育制度に当て嵌めてみれば小学生、しかも低学年くらいの年齢であるように見えた。とはいえ、その少女は、明らかに月光国人ではなかった……まあ、普通に考えれば、トラヴィール教会オンドリ派がアーガミパータに作った国内避難民キャンプに月光国人がいる確率なんてかなり低いものであって、何か特殊な事情がない限りそんなことはあり得ないだろうが。
その少女は……だが、その少女は何人であるのか? 真昼にはどうにも判別がしにくかった。比較的、黒い色をした肌。だが、単純に黒人というわけではない、黒人にしては、少しばかり、不純であるように思われるのだ。この世界にいる色々な人種を混ぜ合わせて、その後で、このアーガミパータの太陽で焼き尽くしたような。そんな肌の色をしていた。ぼさぼさとばらけた髪の毛は少しだけ縮れているように見える。目鼻立ちがひどくはっきりしている。特に目は嘘みたいにぱっちりと大きい。
その、大きな目。
恐れ、怯えた目。
ベンチの下、小さく蹲って。
じっと真昼を見つめている。
なんとなく野良猫のように見えた。生まれたばかりの黒毛の子猫。母親から無理やり引き離されて、軒下かどこかに隠れている。世界の全てが自分を傷つけようとしていると、そう思い込んでいるみたいにしてこちらを見返している。
「ほえー。」
いきなり、背後で、デニーの声がして。
真昼は、驚いて、振り返ってしまった。
「ヨガシュ族の子みたいだね!」
真昼と同じようにベンチの下を覗き込んでいたらしいデニーは、振り返った真昼とぱちっと目が合うと。少女の怯えた様子に気遣いなどするわけもなく、いつもと同じように元気な声でそう言った。そんなデニーに、真昼は「しっ!」と注意すると。またベンチの下の少女に視線を向ける。
どうやらこの少女はベンチの下に隠れることによってサテライトとエレファント(というか主にサテライト)による虐殺から何とか逃れることができたらしい。少女が隠れたすぐ前のところにたまたま肉塊が落下したため、その偶然によってこの空間が隠されていたことが幸いしたのだろう。それにサテライトはいつもぎゃんぎゃんと何かを叫んだり、かと思ったらけたたましく笑い声をあげたりする、無意味に騒々しいタイプの人間だったので、そういったクソうるせぇ騒音のせいで少女の押し殺した泣き声が聞こえなかったのだろう。とにかく、この少女は、この虐殺の唯一の生存者らしかった。
「大丈夫。」
今の真昼に、というのはアーガミパータという地獄に放り込まれた挙句、レベル5のスペキエース・テロリスト(しかも二人)に襲われている最中で、しかも後二十分もしないうちにその二人がここに突っ込んできそうな状況下にいる真昼に、ということだが。そんな真昼に可能な限り優し気にした声で、そう言った。だが少女はそんな真昼に対して警戒を解くこともなく。何とか真昼から離れようとして、それ以上奥に行くこともできない空間、ベンチの一番奥の側にしっかりと体を引っ付けている。
「あなたを傷つけるつもりはないから。」
そう言いながら。
真昼は、そっと。
手を伸ばす。
しかし、そんな真昼の行動に対して少女は。悲鳴のような声で、何か、真昼には意味の分からないことを口走りながら。なんとか後ずさりをしようとしてぐいっぐいっと手足をばたつかせた。真昼は「大丈夫、落ち着いて、あなたを……あなたを助けようとしてるんだよ」と続けるが、少女は一向に落ち着く様子がない。大変困ってしまった真昼に対して、背後にいたデニーが、ちょっとわざとらしいくらいのひそひそ声で言う。
「真昼ちゃーん、その子には、共通語は、通じませんよー。」
デニーの言葉に。
真昼は、思わず。
振り返る。
「……どういうこと。」
「だ、か、らー。その子はヨガシュ族の子なんだってばー。アーガミパータで生まれてアーガミパータで育ったアーガミパータ人なのですよ。もーっちろん、休戦協定の影響なんて受けてないですし、そういうわけで、共通語は喋れませーん。」
「つまり旧語話者ってこと?」
「そうそう、そーいうこと。」
と、いうわけで。先ほど立てたフラグがようやくここで回収されたわけなのだが、第二次神人間大戦から百年近くたってしまった今となっては旧語という概念について知っている人間の方が少ないかもしれない。
第二次神人間大戦の休戦協定によって共通語がもたらされる前、人間が神々によって支配されていたころ。世界中にはたくさんの言語が存在していた。アフランシ語・グーダガルド語・エスカリア語などなど国ごとに存在している言語。あるいは汎用トラヴィール語のようにある集団に所属している人々が使う言語。そういった共通語以前に使用されていた言語を、全てひっくるめて旧語と呼ぶのだ。これらの言語は休戦協定とともに失われたため、今の世界に住んでいるほとんどの人々は話すことができない。ただし……そう、アーガミパータにおいては休戦協定が有効ではない。そのため、いわゆるアーガミパータ人と呼ばれる人々は、共通語を話すことができず、未だに旧語で話しているのだ。
そんなこんなのげんちんとん、この少女は脳内に共通語を埋め込まれていないタイプの人間であって(一般的に旧語話者と呼ばれており、ちょっと格好をつけたい時はオールドトーカーと呼ばれている)、従って真昼の話している内容を理解することはできないのだ。なるほど、そういうわけだったんですね。
とはいえ、このことを理解できたとしても、真昼にはどうしようもないことだった。月光国人である以上、真昼も一応はオールドトーカーではあったが。真昼が話せるのは共通語と月光国語だけだ。しかも月光国語は共通語のベースとなった言葉であって、若干の違いがあってもほとんど同じ言語であって。それだけでなく、真昼はろくに授業に出ていなかったので、月光国語でさえまともに話せない。いや、ここで月光国語が話せたところでクソの役にも立たなかっただろうが、学校教育なんてそんなものですよね……とにかく、真昼は、この少女と言語によるコミュニケーションができないということ。
だから。
言語以外の方法。
声の調子や表情。
それに、ボディランゲージ。
そういったもので。
何とかするしかない。
真昼は身振り手振りを合わせて「ここに、また、怖い人たちが来るの」「あなたも、あたし達と、一緒に来て」みたいなことを何度も何度も繰り返すが……どうでもいいけど一緒に来てって、この子を連れてったところでどうするつもりなんですかね、いや、デニーには救出プランがあるけど真昼はそのプランを知らないし、ということは絶望的な状況下にいるという点では真昼自身も大して変わりがないということで、確かにここに置いてくよりマシかもしれないけど……まあ、それはともかくとして、真昼が真昼自身の意思を伝えようとしても、少女には全く伝わる様子もなく。少女はますます頑なに、ベンチの下、自分では安全地帯だと思っている場所にへばりつくのだった。
「真昼ちゃーん、時間が、ありませんよお?」
「うるさい。」
「あと、十五分、ですよお。」
「うるさい。」
「んもー、その子がそこにいたいって言ってるんだからそこにいさせてあげなよう。その子が死んでも真昼ちゃんにはぜーんぜん関係ないでしょお? 早く、いこーよお。」
駄々っ子みたいにぶんぶんと両腕を振って。
うんざりした口調で、そう言う、デニーを。
真昼は、もう一度振り返って。
はっきりと、断言するように。
こう言う。
「この子がいかないなら、あたしもここに残る。」
「へ!? 何で!?」
「この子を、見捨てては、いけない。」
はわわー!みたいな顔をしているデニーに、真昼はそう告げると。また、少女に対する説得に戻った。デニーは……ちょっとの間、はわっはわっとしていたのだが。そのちょっとの間が過ぎると、やがて、すっかり諦めたような顔をして、真昼の肩を叩く。「真昼ちゃん」「だから、この子が……」「ちょっとどいて」。真昼は、そのデニーの声の調子に、具体的ではない、何か違いのようなものを感じ取ると。デニーに言われた通りにちょっとどいて、その場所を明け渡した。
デニーは、いかにも「やれやれまったくもー」と言いたげな様子で、真昼が屈み込んでいたところに屈み込むと。ベンチの下の少女に向かって何かを話しかけ始めた。それは、デニーが口にしたその言語は、共通語ではなかった。それどころか真昼の知っているいかなる言語とも異なった言語であった。なんというか……真昼の知っている言葉は、一つ一つの言葉が離れている。ある単語とある単語は別の存在であって、それを羅列することで成り立っている言葉だ。しかしデニーの話しているその言葉は、そういう種類の言葉ではないようだった。例えば、まるで、一つの流れ。真昼の知っている言葉が織物だとすれば、この言語は川の流れのようなものだった。どちらかといえば、会話よりも歌うことに適しているような言葉。それから、なんとなく「N」の音が強調されていて。大きな口を開いて、辺りのものを飲み込もうとしているような……そんな言葉で、デニーは、少女に語り掛ける。
そして。
その言葉を聞くと、少女は。
さわっと、身じろぎをする。
ぎゅっと体に押し付けていた顔を、デニーに向けて。
ぎゅっと閉じていた瞼を開き、デニーのことを見る。
デニーの話し方も良かったのかもしれない。真昼の話し方は、できるだけ優し気な話し方とはいえ、やはり「できるだけ」であるにすぎない。こんな状況下では、どうしても切羽詰まった感じになってしまうのは避けられないのだ。デニーのへらへらとした、どこか能天気な話し方に。次第に、少女も、なんとなく、安心してきたらしい。そして、とうとう……デニーの言葉に、真昼でも聴き取れそうな声、「マラー」と一言だけ呟いた。
「マラーちゃんだって。」
「え?」
「この子の名前。」
真昼のことを振り返ってそう言うと。デニーは、また、マラーと名乗った少女に向かって、何かを一言だけ言って。それから立ち上がった。ぱんぱんとスーツのズボン、跪いていたせいでついてしまった埃をとるようなジェスチュアをして見せたが、跪いたせいでついてしまったのは埃ではなく固まりかけのどす黒い血液であったので、大した役には立たなかったようだ。まあ、それはともかくとして、ベンチの前の空間からすすーっとデニーが退くと。恐る恐ると、ひどく怯えた様子で、それでも、マラーは、ベンチの下から這い出してきた。
きょろきょろと不安そうに辺りを見回して、それから真昼の姿が目に留まると。しばらくの間、心の中で何らかの葛藤があったようだが、やがて、おっかなびっくりではあったが、真昼の方に近づいてきて。真昼の服の裾のところを、控えめに、そっと捕まえた。
「あんた。」
「ほえ?」
「話せるの。」
「何を。」
「この子の話してる言葉。」
「カタヴリル語? うん、まーね。」
いつもならば「デニーちゃんはスマート、ワイズ、あーんどインテリジェントだからね!」くらいのことは言いそうなものだが、さすがにちょっと時間がなさ過ぎて、デニー的にも若干そわそわしてきてしまってるらしい。マラーのことを指さして「その子に真昼ちゃんが助けたがってるってこと伝えたから。あとは自分で何とかしてね」と言うと。「これでいいでしょ」と付け加えて、フードの中で、可愛らしく首を傾げた。
「早く行こ! あと十分くらいだよ!」
「……分かった。」
また一つ……また一つ、この男に恩を作ってしまった。そんなことを考えながら。あるいは、自分がいかに役立たずな人間であるかということをまざまざと感じさせられながら。それでも、この少女、マラーという名前らしい少女を、何とか助けられそうだということに、一抹の満足感を覚えて。真昼はデニーにそう答えたのだった。
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