第一部インフェルノ #5

「あ、真昼ちゃん! 上着脱いだら日焼けしちゃうよ?」

「このままじゃ、日焼けする前にまた熱中症で……」

 クソ熱い、この場所の熱量に、耐えられず。

 真昼が丁字シャツの上、着ていたフーディ。

 まるで、体から毟り取るようにして脱いで。

 まるで投げつけるように。

 そこら辺に、放り捨てた。

 ちょうどその時に。

「え?」

 ひどく。

 唐突に。

 晴天の下。

 響き渡る。

 銃声。

 まずは一発。そして、それに続く、銃声、銃声、銃声の驟雨。例えるならば真夏の蝉の鳴き声のように。真昼には……それが、ひどく気の抜けた音に聞こえた。なんとなく、銃声というのは、もっと、なんというか、緊迫した音を出すものだと思っていた。耳を貫くというか頭蓋骨に鳴り響くというか。けれど、その時に聞いたその音は、どこか間抜けじみているというか、調子外れのタイミングで爆発した爆竹の音みたいだった。もちろん、それは、その銃声が遠く遠くで鳴り響いたからだ。真昼が立っている高台から見下ろしたずっと先の方。目の前に広がる難民キャンプの中心あたり、その、右の区画と、左の区画。

 よく考えたら。

 真昼が、銃声を、聞くのは。

 初めてのことかもしれない。

「あー、始まった始まった!」

 銃声の能天気な感じに、なお一層輪をかけた能天気さで、デニーはそう言った。ぴょんこぴょんことその場で飛び跳ねて、いかにも嬉しそうに。どーん!という間延びした音が聞こえてきて、右側の区画で、土煙をあげながら建物が一つ倒れる。真昼はその様子を見て、積み木のおもちゃを壊したみたいだと思った。聞くもの見るものも、なんだか決定的に現実味が欠けていた。

 きっと、目の前で殺された。

 パロットシングのことを。

 思い出してしまうからだろう。

 一方で、そんなパロットシングのことを残虐無比に弄び殺した、当のデニーの方は。またもやつーんと爪先立ちに立って、目の上に手のひらで庇を作って、始まったらしい市街(?)戦の方を見下ろしながら。スーツのポケットから、スマートバニーを取り出した。画面の方を見もしないで、庇にしていない方の手、そのスマートバニーをタップしたり、スワイプしたりしていたのだけれど。やがて、それを、自分の耳のあたり、といってももちろんフードの上からだが、そのあたりに押し当てた。

 しかし少ししてから。

 がっかりしたように。

 それを、耳から離す。

「うーん、電話に出られないみたいだね。」

 フードの内側。

 首を傾げて。

 こう言う。

「忙しいのかな?」

 それから、特に理由もなくくすくすと笑った。例の、無垢で、純真な、あの笑い方。さすがに……真昼も慣れてきたらしく、こういうデニーの笑い方に対して、ぞっとしたりすることもなくなってきたようだ。それはともかくとして、デニーは「ま、いっかー」とかなんとか呟きながら、スマートバニーをスーツのポケットにしまうと。真昼の方を向いて言う。

「さて! どうやらみんながスピーキーを止めてくれたようです! 右の区画と左の区画でそれぞれどんぱちぱっぱが起こってるから、たぶん二人とも止められたんじゃないかな。報告が来てないから絶対ってわけじゃないけどね。でも、報告を待ってる時間はありません! たぶん、みんなすぐ殺されちゃうだろうからね。と、いうわけで! 真昼ちゃんは、さーっそく、デニーちゃんと出発しなければならないのです!」

 若干、テンション高めにそう言うと。

 デニーは、ずびしーっ!と指差した。

 キャンプへと、降りていく道の方を。

「あのルカゴってやつに乗っていくの?」

「ううん、乗らないよ。ルカゴは目立っちゃうから。」

「じゃあ、歩いていくってこと?」

「うん。でも、ちょっと速足!」

「分かった。」

 そんな会話を真昼と交わしながら。デニーは、またもやさっと手を挙げて、その場に残っていた四人の部下達に合図をした。部下達はその合図に従って……デニーと真昼とを中心として建てられた、四本の柱のようにして。さりげなく、それでいて忠実に、その周囲を囲んで守る陣形を取った。

 そして、デニーと真昼、それに四人の部下達が。(ちょっと速足で)歩いて、高台を降り始めたのだったが……その、少しばかり急過ぎる上に、そこら中が突き出た岩でぼこぼことしている坂道の途中で。何かに気が付いたような、ぴこーんといった感じの表情をして、デニーは真昼の方を振り返った。

「あ! そうだ真昼ちゃん。」

「何。」

「あのね、ここから先はちょーっとだけ危ないから、真昼ちゃんもね、手ぶらで行くのはよくないと思うの。だーかーらー、これを使うのだっ!」

 そう言いながら、デニーは。

 指先で、ひらっと合図する。

 デニーと真昼の周りを歩いていた、四人の部下達のうちの一人。真昼の少し前を歩いていた一人が、さっと振り返ると。その部下はアサルト・ライフルを持っていた部下のうちの一人だったのだが、そのアサルト・ライフルに取って代わられたせいで使わなくなって、腰に差していた、あの鉈のような刃物を、木でできた柄の方を向けて、真昼に差し出した。

「んー、まあ、あんまり役に立たないかもしれないけどね。」

 デニーは、ちょっと考えてから。

 可愛らしく小首を傾げて、言う。

「でも、ないよりはマシだよ。きっと!」

 それに対して、真昼は。

 黙って、じっと、その鉈を見ていたけれど。

 やがてデニーの方に目を向けて、口を開く。

「あのさ。」

「なーに、真昼ちゃん。」

「あたし、これは、いらない。」

「えー? でもでも、なんか持ってた方が……」

「これは、いらないって、言ったの。」

 そう言いながら、真昼は……デニーに向かって、しっかりと見せるようにして、左腕を差し上げた。上に着ていたフーディはもう脱ぎ捨ててしまっていたし、その下に着ていたシャツは半袖のシャツだったので、真昼の左腕は、特に袖をまくったりしなくてもよく見えたのだけれど。そこには、その腕の一面には……「それ」が刻まれていた。

「使うなら、使い慣れたものがいい。」

「え? 真昼ちゃん、これって……」

 これは今までになかった、大変珍しいことなのだが。なんと、真昼ではなくデニーの方が、言葉の接ぎ穂を失ったようにしてそこで言葉を止めた。真昼の左腕、その全体に蔓延り、貪るように広がっていたのは……濡れた烏の羽の色よりもなお黒い、漆黒の入れ墨であったのだ。ぐるぐると巻き付き、ぐったりと枝垂れて、真昼の腕に絡まっているその図案は、間違いなく、藤の図柄。隙間なく描かれた、黒い、藤の、絵。

 つまり。

 それは。

「重藤の弓。」

 真昼の体に。

 仕込まれた。

 護身の武器。

「あたしだって、一応は、月光国の人間だから。」

「へぇー。あっ、そー。」

 ひどく、楽しそうな声をして。まるで、ほんの少しだけ珍しいおもちゃを見つけた時に、幼い子供が出すような声をして。デニーはそう言った。ていうかデニーちゃん、今まで見えてなかったの? これ? まあ、真昼がフーディを脱いだのはついさっきのことだったし、その後すぐにキャンプの方で銃撃戦が始まったから……いや、でも、それにしても他者に興味なさすぎでは?

 と、いう話は置いておいて。この重藤の弓について。詳しいことは、また、これが使われる時に説明しようと思うのだが。ただ、誤解がないように書いておくと、真昼は、今まで、これを「実戦」で使ったことはほとんどない。真昼の言った「使い慣れた」というのは、純粋に、何度も何度もこれを使った訓練をしたことがあるということだ。また、真昼がこの重藤の弓をその身に刻んだ経緯については、この物語には全く関係がない上に、ひどく長ったらしい話になるので割愛させて頂く。ただ一つだけ言っておかなければならないのは、この入れ墨は静一郎の意志ではなく真昼自身の意志によって刻まれたものであるということだ。

「でも……」

「ほえ?」

「これ、今、使えないの。」

「使えないって?」

「REV.Mに無力化されたから。だから……」

 真昼は、そう言ってから……一瞬だけ、次の言葉を口にするのを躊躇った。今、自分は、何をしようとしている? この男に、悪魔のような、静一郎のような、この男に、頼ろうとしている? いうまでもなく真昼は目覚めてから今までのほとんどの時間をデニーに頼って生きてきている。ただ、厳密にいえば、それは積極的な信頼ではなかった。どちらかといえば消極的な依存だ。一度も、一度たりとも、真昼は、この男に、何かをしてくれと頼んではないな。全てこの男が勝手にやったことだ。

 けれども、今、真昼は。頼もうとしている、この男に対して、自分から、何かをしてもらおうとしている。それは……間違いなく、一歩を踏み出すことになってしまうだろう。この関係性を、もう少し踏み込んだものにしてしまうことになるだろう。それは、明らかに、真昼にとって、屈辱的なことで。

 しかし。

 真昼には結局のところ。

 選択肢など、ないのだ。

 だから真昼は、差し上げていた腕。

 デニーの方に、静かに突き出して。

 せめてもの、プライドとして。

 デニーの目から目を逸らさず。

 しっかりと、見つめ、ながら。

「だから、なんとか、して欲しい。」

 その言葉を。

 口に、した。

「あんた、魔学者なんでしょ。あたしの弓は、たぶん、魔学式かなんかで封じられてるんだと思う。その式を消し去って欲しい。そうすればあたしはこの弓を使えるようになるし、そうすればその鉈みたいなやつは必要ない。」

 デニーは。

 そんな風見つめてくる。

 燃えるような真昼の目。

「りょーかい。」

 やっと懐いてきたペットを見るように。

 とても嬉しそうに見返しながら答える。

「任せてよ真昼ちゃん。」

 そして……デニーは、真昼の左腕に触れた。咄嗟に、あまりの嫌悪感と拒否感とのせいで、いや、それ以上に、デニーのその手のひらの美しく透き通る冷酷のような冷度のせいで、真昼はその腕を自分の方に引き寄せかけたのだけれど。それでも、何とかその衝動を抑えて、その腕をデニーのなすがままに任せた。

 デニーは、その腕をそっと左手に取ると。右の手、しなやかに踊る中指の指先で触れた。肘のところから、撫で上げるようにして、手首のところまで、くるくると、幼態成熟の踊り子が、凍り付いた右足を滑らせながら、インプロヴァイズドを踊るように。真昼は……デニーが触れたその場所から、どんどんと自分が汚されていくように感じた。何かが……何かが、感染していく。人間性の欠如や、邪悪そのもののようなものが。まるで、まるで、踊り子の、凍り付いた右足の、その温度のせいで、その爪先が触れたところまで、凍り付いていくかのごとく。

 デニーの指先は、手首から更に上へ上へと向かっていって。ついには、真昼の指先にまでたどり着く。指先と、指先が、触れ合って。まずは、親指、次に、人差し指、次に、中指、次に、薬指、それから、最後に、小指。

「小指、小指、小指。一番小さな指、五番目の指。遊び女の指、噂好きの指、偉い人がしるしする指。愚か者が、最後の最後に無くしてしまう指。それから、それから、もちろん、これは……契約の指。」

 デニーは。

 まるで童歌を口ずさむようにそう言うと。

 真昼の、その小指に、そっと口を寄せた。

 真昼は、デニーのその行為に対して、思わず息を飲み込んでしまった。また、頭の中にあの光景がフラッシュバックする。パロットシングの姿が、惨たらしく傷つけられたパロットシングの姿がフラッシュバックする。しかし、真昼はそれを耐えた、頭の中でちかちかと叫ぶその光景を耐え抜いた。そして、一言も声を漏らすことなく、デニーの行為を受け入れる。

 デニーは、真昼の小指に近づけたその口から、ちろり、と舌を出した。まるで……月並みな例えになってしまうが……生まれたばかりの蛇のもののように、長く、赤く、それでいて可愛らしい舌。あるいは、ただ単純に、パロットシングの眼球を、飴玉のように転がしていた舌。その下で、真昼の小指を、チロチロと舐める。真昼のことを上目遣いな、ぞっとするように甘ったるい視線で見つめながら。爪のところから、次第に、次第に、指の付け根のところまでなめ上げていく。

 その時、真昼は。

 ふと、気づいた。

 自分が。

 小指に。

 指輪をしていること。

 デニーの舌が、ぺろぺろと舐めていたのだ。その指輪を。赤い色、まるで、熱に浮かされながら、夢を見続けているような、そんな赤い色をした。おそらく植物を模しているのだろう、絡まりあう蔓みたいな形に彫り込まれた、金属製の指輪だった。

 けれども、真昼は。自分がこの指輪を嵌めたという記憶はなかった。それどころかこんな指輪は見たこともなかった。それに、今まで嵌めていたことにさえも、全く気づいていなかった。これは、この指輪は、一体何なのか?

 一方で、デニーは。小指を舐めていた舌を、一度、その指から離した。それから今度は、おもむろに、真昼の小指を口に含んだ。一瞬、パロットシングの眼球にしたように、この指を噛み取るつもりなのかと思ったが。もちろん、デニーはそんなことはしなかった。くちゅくちゅと音を立てながら、何か甘いものを口の中で遊ばせるようにして、子供らしいしぐさでその指をしゃぶる。真昼は……本当に、脊髄の反応として。まるで理由のない、生理的な嫌悪感を覚えた。いや、もちろんこの口はパロットシングの眼球を噛み千切った口であって、そういう理由のある嫌悪感もなかったわけではないのだが。それ以前に、本能的な感覚として、身の毛がよだったのだ。例えば……例えば、そう、この小指を、蛆虫がたくさん入った壺の中に、突っ込んだような。そんな感覚を覚えたのだ。

 ぎっと奥歯を噛んで。

 必死に耐える、真昼。

 そんな真昼の様子、全然察する様子もなく。デニーは、小指を、徐々に、徐々に、その根元まで、口に含んでいく。根元まで、つまりその指にはまった指輪まで、すっぽりと口の中に入れると……それから、すぐに、ちゅるんと、その口からその指を抜き取った。ぞわっとする、脊髄に水銀を流し込まれたような感覚を覚えて。真昼は、とうとう、「あっ」と声を漏らしてしまう。

 それから気付く。

 自分の小指から。

 あの。

 指輪。

 消えていること。

 はっと見上げるみたいに、自分の小指からデニーの方へと視線を向ける。デニーは、パロットシングの眼球を転がしていた時みたいに、口の中で何かをころころと転がしていたのだけれど。やがて、ぱっとその口を開いた。真昼に向かって、べろーっとした先を突き出して見せる。当然のことながら、その舌の上には、あの指輪がのっかっていて。

 そして。

 デニーは。

 また、口を閉じると。

 その指輪。

 がりんと。

 噛み砕いた。

 それなりに展性と延性があるはずの物質である金属を、どうやって、がりんと音を立てて噛み砕くことができたのか。それは大いなる謎なのだが、そういう細かいことを気にしているやつは大成しないものだ。だからそのことについては気にしないことにして……デニーは、噛み砕いた飴玉を飲み込むようにして、その指輪の残骸を飲み込んだ。

「これで、もう、だいじょーぶだよ。」

「今の……指輪は……?」

「んー? 赤イヴェール合金でできた指輪だよ。真昼ちゃんも、赤イヴェール合金は知ってるよね? その赤イヴェール合金に、ベリ・ポルタエの魔法円の魔法円を刻んで、魔学的な力をある程度まで吸収できるようにした指輪。え? ベリ・ポルタエの魔法円? 真昼ちゃん、知らない? ほらほら、dirae ferro compagibus asrtisってゆーやつ! 知らないー? 知らないかー。まあ、ナシマホウ界では、あんまり魔法円って使わないしね。まー、まー、とにかく、真昼ちゃんが「それ」を展開しようとした時に、そのために必要な魔学的な力をちゅーって吸い取っちゃってたんだろうね、きっと。でも、もう、指輪はデニーちゃんのおなかの中。だから、だいじょーぶなの。」

 ちなみに、念のために赤イヴェール合金について少しだけ付け加えておこう。赤イヴェール合金というのは生起金属の一種で、魔学的な性質を持つ物質の中では割合にポピュラーなものの一つだ。ただし、ナシマホウ界においてはパンピュリア共和国でしか取れない物質であるために、そこまで知名度があるわけではない。まあ、真昼は、幸いなことに、月光国人であり、更には砂流原の一族でもあったため、一応は知っていたのではあったが。

 とにもかくにも、両手を背中に回して、ちょっとだけ前屈みになって。きゅっとした、とってもキュートな笑顔で、デニーはそう言った。その笑顔とその言葉に対して、真昼は……デニーの方に差し出していた左腕を、すっと自分の目の前に掲げてみた。先ほどまでは感じることができなくなっていた、脈動のようなもの。この入れ墨をこの左腕に刻み込んでから、ずっと感じていたはずの、その感覚が。今では、すっかり、元通りに戻っていた。力だ、力を感じる。

 もう、真昼は。

 無力ではない。

 一瞬だけ、殺意が抑え切れなくなりそうになる。目の前の悪魔に対する殺意が。この男を殺せば……静一郎のようなこの男を殺せば……しかし、もしもこの男を殺してしまえば。間違いなく、真昼は、この場所で野垂れ死ぬことになるだろう。真昼は、確かに、無力ではなくなった。しかし、十分に力強いというわけではない。だから、真昼は、そっと左腕を下した。

 そんな様子を、じっと見ていたデニーは。

 ふふっと、小さく笑ってから、こう言う。

「じゃ、いこっか!」


 当然のことながら、そのことについて、高台で気が付いていなかったというわけではない。真昼だって十分にそれを感じていた。ただ、高台では……これほどまでに、濃密ではなかったということで。何の話かって? 死臭と、それに腐臭との話だ。

 高台にいた時には、それはせいぜい風に乗って運ばれてくるアペリティフだった。それでも十分に吐き気を誘うものではあったけれど。高台とキャンプとの高低の差のおかげでだいぶん防がれていたし、それに、風向きによっては、随分と散らされもしていた。

 しかし、この場所では。

 つまり、キャンプでは。

 そういうわけにはいかない。

 真昼は思った。きっと、どろどろと腐りかけた水を満たした水槽の中に閉じ込められてしまった金魚は、こんな気持ちになるのだろうと。周りの空気は触れるのではないかと思うくらい濁っていた。もちろん、触れるわけがない、それに、何かどろどろとした色がついているというわけでもない。全く透明で、全く感触のない、空気。けれど、それでも、その空気は。真昼の体に、べっとりとまとわりついて離れなかった。

 真昼は初めて知った。悪臭というものは度が過ぎると鼻の奥を強く痺れさせる刺激臭になるのだということを。こめかみのあたりがずきずきと痛んで、くしゃみをしたくてたまらなくなる、だが、もしもくしゃみをしてしまえば、その拍子に嘔吐してしまうかもしれない。

 様々な匂いが混じりあっているのだ、血液の鉄錆びた匂い、千切れた内臓の苦い匂い、膿の匂いは少しだけ薬品に似た匂いを帯びていて、そして、もちろん、人間が腐っていく時の、匂いとさえ感じられないような匂い。

 けれど、まあ。

 実際のところ。

 もう、慣れた。

 もちろん、吐き気が収まったというわけではない。それに、このオドールについてフレグランスと形容しようという気持ちにもならない。だが、しかし、慣れたものは慣れたのだ。キャンプに足を踏み入れた時は、とてもじゃないけれどこの空気を呼吸できなかった。シャツの裾を引っ張り上げて、それを口に当てて。「わー! 真昼ちゃん、はしたなーい」とか何とか言われながらも、頭痛がするようなこの空気、少しでもましなものにしてから肉体の中に入れようと努力していた。けれども、今となってはもう、真昼はそんなことをしていなかった。この死臭を吸い込み、その腐臭を吐き出して。それでも結構平気になっていた。真昼は、この匂いに慣れてしまっていて……また、慣れてしまったことは、それだけではないらしかった。

 非常に不思議なことに。あるいは、真昼自身にも理解できないことに。真昼は、この状況自体にも、慣れてきていたのだ。石窟寺院で目覚めた時からずっと真昼の心臓はドキドキといっているのだけれど。そのドキドキは、ちょっと前から、少しずつ、少しずつ、変質していた。最初のころ、それは恐怖や怯懦といった原因によるものだったのだけれど。今では、それは、どうやら……高鳴りだった。

 真昼は。

 そう。

 信じられない、ことに。

 わくわくしていたのだ。

 この、非日常に。

 どうしようもないほどの開放感を。

 感じ始めていたのだ。

「まだ着かないの。」

「え?」

 自分の中でだんだんと高まってくるその感情、まるで現在の状況を侮っているかのようなその感情を、押さえ付けるようにして。真昼は、隣を走っていたデニーに問いかけた。

 しかし、デニーは……さっきまでの真昼、ぼんやりといろいろなことを考えていた真昼に、輪をかけて上の空であるようで。真昼言うことを、全然聞いてなかったようだった。

「まだ着かないのかって聞いたの。」

「ああ、ごめんね。このラインを突破したらすぐそこだよ。」

 デニーと、真昼と、それにその周りを囲んでいる四人の部下とは。今、かなりの速度で走っていた。真昼のすぐ目の前を走っているデニーは、とてもじゃないけれど「ちょっと速足」などという足の運び方はしておらず。タップダンスのように軽やかに、それでいて人間離れしたスピードで走っていたのだけれど。驚くべきことに、真昼は、その速度に全く問題なく追いつけていた。きっとデニーが描いた魔学式のおかげだろう。真昼の肉体は思ったよりも強化されているようだった。

 両側に建っていた煉瓦の小屋が。

 瓦礫と化して、塞いでいる道を。

 軽々と。

 飛び越えるように。

 進んでいく。

 上を見ると配電線のようなものが通っていて。整然と並んでいる煉瓦造りの小屋とは違って、真昼には理解できない、奇妙な法則に従って、大地に突き立てられた電柱と電柱とを繋いでいたのだけれど。その配電線のようなものには、ところどころで死体が引っかかっていて、その死体からしたしたと腐った体液が流れ落ちていた。それだけではなく、おそらくあれは腐肉に集る野鳥の類なんだろうけれど、烏とも禿鷹とも少し違う鳥が、その死体に集っていて。そこら中に食い散らかしているその肉片が、時折真昼の頭の上に振ってきたりもするのだった。

 そんな腐敗した肉片を。

 髪の毛から払いながら。

 真昼は、デニーに言う。

「どうしたの。」

「ほえ、何が?」

「さっきから、なんか、考えてるみたいだけど。」

「あー、うん。まーねー。」

 デニーは、真昼の方を、振り返って。

 何となく面白いことが起こりそうな。

 そんな顔をして、にぱっと、笑うと。

 こう続ける。

「ちょーっと、簡単過ぎるなーって思って。」

「何が?」

「おっとおっと、真昼ちゃんは気にしないでいいんだぞ!」

 それから、また。

 視線を前に戻して。

 くすくすと、笑う。

「It will all come down. And it will be good.」

「今、何か言っ……」

 真昼の、言葉は。

 中途で途絶えた。

 デニーと真昼とが駆けている最中のその道を塞いでいた、巨大な異物のせいだ。その異物のせいで、二人は駆けていた足を急ストップさせて、一度立ち止まらなければならなかった。その異物は、不気味なほど白く、まるで透き通っているかのような色をした、大体のところ直方体みたいな形をした物体で。真ん中のあたりに、割れたガラスのようなものが、帯状に通っていて。つまり、それは……いや、そんなことがあるだろうか? これは、これは。

「チェックポイント・キャビン……?」

「その半分だね!」

 そう、それは、あの検問所にあったチェックポイント・キャビン、半分に引き千切られていたキャビンの、その残りの半分だったのだ。確かに、あの検問所の周辺には、残りの半分はどこにもなくて。けれど、まさか、こんな場所にあるなんて。

「一体どうやって……?」

「うーん、誰かが運んできたんだろうね。」

「誰かって……?」

「真昼ちゃん真昼ちゃん真昼ちゃーん、少しは自分で考えてみよーよ! レベル5のスピーキーに決まってるじゃーん。キャンプをどっかーんってするのに使ったんでしょお、きっとお。こういう大きな金属の塊があると何かと便利だしねー。そんなことより! これを超えればとうとう教会だよ!」

 そう言うと、デニーは。

 白イヴェール生起金属の塊を、貫いた先。

 その向こう側を、指し示すみたいにして。

 ずびしーっと指差したのだった。

 正確には、ここから先にももう少しばかり崩壊した街並みは続いていたのだけれど。それはそれとして、チェックポイント・キャビンは道を完全に塞いでしまっていた。引き千切られたその切断面を上面にして、高さが二ダブルキュビトくらいの障害物になっていたということだ。「これを超えればって、どうやって超えるわけ」「んー、ぴょーんってして」「ぴょーんって……飛び越えるってこと?」「そーだよ。今の真昼ちゃんなら、このくらいの高さ……」などなどと。デニーと真昼とが、話していた、その時に。

 ああ。

 そう。

 いつだって。

 それは。

 起きてしまう。

 想定の通行。

 推測の定義。

 予言の成就。

 トーストが、必ずバターを塗った面を下にして落ちるように。

 舞台の上で弾倉に込められた弾丸が、必ず発射されるように。

 物語に、おいては、必ず、悲劇が、引き起こされる。

 主人公の身を危険にさらすための、恐ろしい悲劇が。

 天籟のごとく。

 地鳴のごとく。

 この世界の不完全性。

 美しく証明する数式。

 いつだって、それは、起きてしまう。

 そして。

 起きてしまったことは。

 その全てが、良きこと。

「え?」

「は?」

 デニーと、真昼は、同時に声を上げた。いうまでもないことではあるが、この疑問形は、地の文において繰り広げられた過度のポエジー、芸術性を優先しすぎてほとんど意味不明になってしまった二十行に対して発されたものではなく。目の前で起こった、その出来事に対して発されたものだった。そして、その出来事とは……唐突に、何の前触れもなく、目の前のチェックポイント・キャビン、その巨大な金属塊が、ごうっという音を立てて持ち上げられたということだった。

 何が……一体、何が起こったというのだろう。全く理解が追い付かず、一時的に思考停止状態に陥っている真昼の隣で。その光景をまん丸のおめめをして見つめながら、デニーは、ほえーっという感じで呟く。

「ゴー・フィッシュ。」

 そして。

 次の瞬間。

 真昼、の、肉体は。

 横ざまに吹っ飛ぶ。

 驚く暇さえもなく、ただの音として「な……?」と口ずさんだ真昼は。要するに、勢いよくデニーに体当たりをされたということだった。そのまま二人は絡み合うようにして道から飛び出して、その横に立っていた煉瓦造りの小屋の中の一つに突っ込む。ごろごろと転がりながら部屋の一番奥の壁にぶつかって、ようやく二つの体は停止する。

「何すんの……」

「真昼ちゃん、しっ!」

 訳も分からないままに、デニーに口を押さえつけられる。なおも何か抗議の声をあげようとする真昼であったが、その後に起こったことのせいで、すぐに言葉を失ってしまった。デニーと真昼が突っ込んだ小屋の外、つまり、今までデニーと真昼が立っていた場所。その場所を、薙ぎ払うようにして、チェックポイント・キャビンの残骸が叩き付けられたのだ。デニーの部下達が、空気を出したり入れたりして遊ぶ蛙のおもちゃが飛び跳ねるみたいにして、四方に飛び退ってそれを避ける。

 口を押さえつけられたままぽかんとしている真昼の耳元でデニーが口笛を吹いた。ぴゅーいっという風に、気の抜けた音をさせた後で、デニーは、こう続ける。「あーあ、ざーんねん」そう言いながらも、あまり残念そうではない声で。「やっぱり、そんな簡単にはいかないよね」どちらかといえば、少しばかり楽しげな声で。

 そして。

 それから。

 真昼の耳には。

 この小屋の、奥の方から。

 その声が、聞こえてくる。

「おいおい、随分と遅かったな……」

 信じられないくらいの、怒りと憎しみ。

 ぐつぐつと煮えたぎるような、その声。

 吐き捨てるように、言う。

「あんまり遅かったんで、こいつらを殺すのにも飽きてきたところだよ。」

 デニーが、そちらの方に視線を向けながら、押さえつけていた真昼の体をそっと離した。ようやく自由になった真昼は、一言も声を漏らさないようにして起き上がりながら、デニーと同じように、その声の主に視線を向ける。

 憎悪。

 憎悪。

 憎悪。

 たった、一つの、憎悪が。

 闇の中で燃え盛っている。

 それは……つまるところ、眼球だった。青い色をしてあらゆるものを焼き尽くす、非常に温度の高い炎のような、青い目。その声の主は、たった一つの眼球しかもっていなかったということだ。右目だけ。左目があったはずの場所は……その内側に落下していく、永遠の陥穽のようなもの。つまり、抉り取られていたのだ。だから真昼は、ほんの一瞬だけ、目の前にいるのがパロットシングかと思った。けれども、違う。これは、パロットシングではない。パロットシングは、これほどの怒りを、これほどの憎しみを、抱いてはいなかった。それに、その女の眼窩は、噛み砕かれていたわけではなかった。ただ眼球を引き抜かれただけで。

 その女……そう、声の主は女だった、ひどい猫背の、白人の女。年齢は二十台の前半くらいだと思われるが、あまりの憎悪で完全に歪んでしまったその顔からは、はっきりとしたことはいえそうにない。

 老化現象の一つとしてそうなったというよりも、むしろ単なる絶望のためにそうなったとでもいうような、汚らしく灰色に汚れた白髪。一度も櫛を通されたことがないみたいにぼさぼさな、長い長い髪の毛をした女。その長い髪は、何か、美しさのために伸ばされたものではなく。ただ無造作に、無関心に、見捨てられた庭園に蔓延る蔓草のように伸ばされたもので。それから、その女が着ているのは、ぞっとするほど薄汚れたホスピタル・ガウンだった。ほら、病院で手術する時とか、検査を待ってる時に着るあれだ。薬品の匂いのようによそよそしい白い色をしていて、体の前で襟を合わせるガウン。ちなみにぞっとするほど薄汚れていたという言葉の「ぞっとするほど」という部分の意味は、その汚れ、大体の部分が、どす黒い乾いた血液の色をしていたという意味だ。

 そして。

 その女は。

 掴み、ぶら下げるようにして。

 右の手に、何かを持っていた。

 先ほどのセリフの中で「こいつら」といった時に。その女は、右の手に持っている何かを、ぐいっとこっちに向けて、見せつけるように突き出してきた。薄暗い小屋の中、最初は、真昼には、それが何なのか分からなかったのだけれど。けれどすぐに分かった、それが発した、甲高く、弱弱しい、鳴き声のせいで。

 それは。

 赤ん坊だった。

 まだ、幼くて。

 とても、小さい、赤ん坊。

「念のために聞くが。」

 妙に、バランスが取れていない。

 動物の吠え声にも似た、掠れ声。

「てめぇが砂流川真昼か?」

 赤ん坊をぶら下げている方とは、反対の手で。

 真昼のことを指さしながら、その女は言った。

 しかし、真昼が何かを答ようとする前に。

 その横に立って、小首を傾げたデニーが。

 可愛らしく。

 甘える声で。

 こう、言う。

「ねーえ。」

「は?」

「デニーちゃんはね、デニーちゃんっていうの。でなむ、あーんど、ふうつ。デナム・フーツだよ! それで、あなたの、お名前はあ?」

「デナム・フーツ……」

 その名前を聞いた女は。

 ほんの、僅かの間だけ。

 射貫くような警戒の視線。

 デニーの、方に、向ける。

「……てめぇの質問に、答える必要があんのか?」

「うーん、必要はないけど……」

 デニーは。

 くすくすと笑いながら。

 その女に、こう、言う。

「答えてくれると、とっても嬉しいな!」

 その女は、いかにも苛打しげに舌打ちをしたが。

 それでも、デニーの問いかけに対して、答える。

「貴様がデナム・フーツだってぇんなら、あたしが誰かってことかくらい分かってんだろ。」

「まーねー。真昼ちゃんを攫いに来た、REV.Mのテロリストの子でしょ? でも、デニーちゃん、あなたのお名前は知らないもん。だから、教えてほしいんだよー。」

「……あたしには名前なんてねえよ。昔はあったがな、その名前をあたしにつけた人間は吐き気がするようなクズだったし、今じゃその名前を憶えてさえいない。ただ、他のやつらがあたしの名前を呼ぶ時には……こう呼ぶ、ハッピー・サテライトと。」

「え? ハッピー・サテライト?」

「んだよ、文句あんのか。」

「ううん、ないない。」

 そう言いながらも、デニーは、例のくすくす笑いを続けていた。けれど、その笑いは、さっきよりも……さっきまでは、大した理由もなく笑っている感じだったのだけれど。今では、その笑いは、何となくおかしさをこらえているような性質のものになっていた。その笑いは、段々と大きくなっていって。そして、とうとう、けらけらという笑い声に変質した。

「でもさ!」

 その笑い声の、合間合間に。

 デニーは、喘ぐように言う。

「ぜーんぜんハッピーそうに見えないんだもん!」

 デニーの、そんな風に、完全に馬鹿にしたような態度に。もちろんデニーとしては馬鹿にしているつもりなんてなくて、純粋におもしろーい!と思っているだけなのだろうが。それでも、その態度に対して、ハッピー・サテライトと名乗った女は、ぎりっと歯を軋らせた。「てめぇ、ふざけんなよ……!」とか何とか言いながら……どうやら、つい、手に力が入ってしまったらしい。ぶら下げていた赤ん坊の、掴まれている部分、つまり頭蓋骨がみしみしと音を立てて。赤ん坊の泣き声が、一際大きくなる。

 その泣き声。

 真昼の耳を。

 強く貫いて。

 そして、真昼は。

 思わず、口走る。

「あんた……」

「は?」

「その子を、放しなさい。」

 デニーの方を向いていた目。

 サテライトは、真昼に戻す。

 真昼は、ほとんど勢いだけで。

 サテライトに向かって、叫ぶ。

「その子は、関係ないでしょ!」

「関係ないだぁ?」

「そうだよ! あんたの目的は……」

 弱い犬ほどよく吠えるというが、その通り、怒りと憎しみとは弱者に特有の感情だ。強者が抱く感情は常に嫌悪と退屈とであり……とにかくキャンキャンとうるさく吠える真昼の、そのイエルプがまだ中途で終わっていないうちに、サテライトは、ぎいっと、壮絶な笑顔をして笑った。まるでそれは、錆び付いた金属に、静かに、静かに、亀裂が入るような笑い方。猫背だった背、くうっと首をもたげて。口の中の歯、薄汚れて、ところどころ欠けてさえいる歯を、見せつける。それを見て、思わず息を飲み込み、そのせいで言葉が出てこなくなってしまった真昼に向かって、見せつけるようにして、赤ん坊の体を、差し出す。

 そして。

 本当に。

 その。

 一瞬。

 だけ。

「いいか、甘ったれたクソガキ。よく覚えておけ。」

 全身を覆う。

 耐えられないほどの激痛が。

 ほんの少し。

 ほんの僅か。

 和らいだみたいな。

 そんな、目をして。

「この世界にはな……」

 うっとりと。

 赤ん坊の頭。

 握りつぶす。

「関係ない生き物なんていないんだよ。」

 見た目だけからいえば、何かの種類の南国の果物が腐り果てて破裂した、そんな様子にも見えないこともなかった。西瓜とか……あれ、西瓜って果物でしたっけ? 野菜? それはそれとして、かたい殻をもった果物の類が砕けたみたいな。どろどろとべとついた果汁がそこら中に飛び散って、その中では灰色がかかった果肉がぐちゃりと潰れる。もう、赤ん坊は泣いてはいなかった。首から下が変な音を立てて下に落ちる。不良品の人形みたいな手足の角度でその場所に横たわる。

 真昼は「や……なに……うあ……」という声にならない声を出しながら、両手で口を押えるという、なんかこういうシーンにすごく有りがちな態度をとることしかできなかった。まあ、腰が抜けなかっただけ褒めてあげるべきなのかもしれないし、その点ではだいぶんとウエルカム・トゥ・アーガミパータしたのかもしれないが。とにかく、そんな真昼に向かって、サテライトは軽く手を開いて見せた。サテライトの手のひらにはたくさんの白い棘、黒い毛の生えた白い棘みたいなものが刺さっていて。それは、つまり、赤ん坊の頭蓋骨であるらしかった。黒い毛が生えているというは、その骨にまだ頭皮がこびりついているということだ。

 育ちがあまりよくないので、サテライトは芝居がかったことが好きだし、まったく意味のない示威的な行為とかも平気でやるタイプなのだけど。この手を開いて見せるという行為は、あながちただの示威行為ともいえないものだった。真昼と、それにデニーも、見ている前で。その手のひらの肉がこぽこぽと音を立てて盛り上がり始めたのだ。見ていて心地のいいものではない、どこか生理的な嫌悪感を催すような動きをしながら。手のひらの肉から……そのひらいっぱいに刺さっていた頭蓋骨の欠片が次々と抜け落ちていって。しかも、刺さっていた傷さえも治っていく。それを見たデニーが、それほど関心がなさそうな口調で「へー、ヒーリングファクター持ちなんだあ」と呟く。

「何で……」

「なんか言ったか?」

「何で、そんなことを……」

「何でそんなことを、だぁ?」

 真昼が、抑えた口から漏らすようにして吐き出したその言葉に。サテライトは、またもや憎悪の火が、しかもさっきよりも、遥かに、遥かに、強く。その視線の先にあるものを、全て焼き払おうとしているかのごとき、そんな右の眼球で睨みつけた。真昼はそのあまりの温度にひるんでしまう。

「じゃあ聞くがな。」

 そして。

 サテライトは。

 その憎悪のままに。

 もう一方の眼球が。

 あったはずの場所。

 つまり、ぽっかりと開いた。

 左の眼窩を指さして、言う。

「てめぇらは、何で、こんなことをしたんだ?」

 そんなことを聞かれても、残念なことにその眼窩の件には一切関わっていないので、真昼には答えようがなかった。デニーの方は全く関わっていないといえば嘘になってしまうけれども、ほっとんど関係なかったし、直接の関係性についていえばはやはりゼロだったので、同じく答えようがなかったし、そもそも既にこの会話に飽き始めていたので、質問自体を聞いていなかった。

「人間どもは、何で、あたしに、こんなことをしたんだ?」

 サテライトは。

 主語と、目的語と、を。

 はっきりと明確にして。

 再度、問いかけた。

 とはいえ、主語が分かろうが目的語が分かろうが答えようがないものは答えようがないのだ。真昼は絶句したままで、たださすがに口を押えていた両手はその口から放して、困惑したようにサテライトに視線を向けていることしかできない。まあ、もともとサテライトも答えなど期待しておらず、自分の不幸な身の上話ができればそれで満足だったので(会う人会う人にこれを言わないと気が済まないのだ、それどころか一度話した人間にさえもう一度話すチャンスを窺っているくらいだし)しばらくの間をおいて十分に場を温めた後で、続ける。

「あたしの、左目は、なんで抉られたんだと思う? どういう理由で抉られたんだと思う? はっ! 分からないよな、てめぇみたいなお嬢様にはよ! これはな、てめぇら人間どもが、あたしを犯す新しい穴が欲しかったから抉られたんだ。分かるか、おい、分かるかって聞いてんだよ! この左目はな、てめぇら人間どもが、ここに、射精するために、抉られたんだ! てめぇらは、笑いながら、あたしの眼を抉り取ったんだ! 手で引き抜いて、神経を千切ったんだよ! そして、血溜まりの中に、笑いながら射精したんだ! おい、聞いてるかって言ってんだよ!」

 情緒不安定かよみたいな喋り方だが、実際にサテライトは情緒不安定だ。だから精神科に通って適切な向精神薬を処方してもらった方がいいと周りの人達は常々思っているし、それに仕事をする上でも、REV.Mの中でも比較的人格者ということで通っているエレファント・マシーンしかコンビを組みたがらない。いや、エレファント・マシーンは何かを積極的にしようと思うタイプではないので、組みたがるといういい方はおかしいのだが、とにかくエレファント・マシーン以外のスペキエースは極力サテライトとは関わりたくないと思っている。酔っぱらうたびに暗い身の上話をして酒の席を台無しにするようなタイプはテロリストだってやっぱり距離を置きたいと思うのだ。

 あれ、何の話をしてたんでしたっけ? あー、そうそう、サテライトの不幸な身の上話が終わったところでしたね、すみません、続けます。まあなんというか、パンピュリア共和国ではよくある話だったし、それほど大声で叫ぶような内容ではないと思うのだが。苦痛というのは多分に主観的なものであるのだからして、そういう野暮なことはいわないことにしよう。それに、真昼にとっては……十分に衝撃的な内容だったらしい。真昼はパンピュリア共和国の人間ではなかったし、それにもちろんアンダーテーブルズでもなかったので、こういう話に慣れていなかったのだろう。

 真昼は、サテライトの言葉に対して何かを言おうとしたのだが……言うべき言葉など、見つかるはずもなかった。一体何を言えるというのだろうか? 別に何を言ったって構わないと思うのだが、真昼にとってはそうではなかった。なぜなら、真昼は、人間によるスペキエース差別について(実際のところはほとんど知らなかったにもかかわらず)自分はよく知っていると思い込んでいたからだ。真昼は、よく知っていると、思い込んでいた、人間が、スペキエースに対して、どんな残虐なことをするのかということについて。なぜなら、真昼は、砂流原静一郎の娘であり……ところでデニーはというと、現在の状況について完全に飽きてしまっていた。

 しかし。

 デニーが飽きていようがなかろうが。

 サテライトは、構わずに喚き続ける。

「分かるか、クソガキ! 人間が、スペキエースに、何をするのかってことが、てめぇに分かんのか! 要するにな、てめぇら人間は、人間ってだけで罪なんだよ! 今、あたしが殺したこのガキだってな、決まってんだよ! 成長して、大人になったら、面白半分にミレニアミウスを殺すようになるなんてことは! 面白半分にあたしをいたぶった連中と同じようなやつになるなんてことは! だから、あたしが先に殺してやったんだ、それの、それの、何が悪いってんだよ!」

 言ってることが支離滅裂だし、全く論理破綻しているが、サテライトはいつもこんな感じなのでそれほど気にしなくてもいい。付き合っていればそのうち慣れてきて、スルーすべきポイントとスルーの仕方が分かってくるようになる。

 さて、そんなサテライトであるが。喋ってるうちに体の中の憎悪を抑えきれなくなってしまったらしく。片足を勢いよく振り上げると、足元に落ちていたあの赤ん坊の死体(胴体部分)を何度も何度も踏み付け始めた。サテライトが履いていたのはなんとスリッパで、アーガミパータでのフットウェアとしてはあまり適切とは言えないと思うのだが、それはそうとしてそのスリッパの下で、赤ん坊の死体(胴体部分)はぐちゃぐちゃに踏み潰されていく。真昼は、そんな光景を、見ていることしかできない。

 そんな。

 真昼の。

 ことを。

「それにな」

 満足、そう、に。

 見くだしながら。

「あたしがミレニアミウスってだけでこんな目にあったんなら。」

 サテライトは。

 こう、続ける。

「こいつが人間だってだけで殺されて、何が悪い?」

 ちなみにさっきからサテライトがちょくちょく使っているミレニアミウスというのは、スペキエースが自分達のことを呼ぶ時に使う自称なようなもので、非スペキエース種の生命体に対して自分達の種が優越しているという主張を多分に含んでいるため、スペキエース解放軍やREV.Mなどのスペキエース・テロリストの間ではよく使われている。

 また、もう一つ言っておくとすれば、サテライトはスペキエースとして生まれたからというだけでそんな目にあったわけではなく、女性として生まれたからという理由や、貧困層に生まれたという理由、更にはパンピュリア共和国に生まれたからという理由に、単純に運が悪かったという理由など、様々な複合要因からそんな目にあったのであって。「スペキエースとして生まれただけでこんな目にあった」という主張はほとんど被害妄想みたいなものなのだが、何せこういう性格なので、そういったことを指摘してあげるような友人は一人もいない。

 さて。

 まあ。

 そんなわけで。

 スペキエースに対する自虐にも似た罪悪感のせいで、真昼が一言も発することができないでいるうちに。あるいは、すっかり飽き果ててしまったデニーが、極限までぼーっとしているうちに。サテライトは、自分の不幸な身の上話だとか自分の政治的な主張だとかを一通り喚き散らし終えたようだった。

 いつもは(つまりREV.Mの同志たちに喚き散らす時は)途中で話を変えられてしまったり、相手が急用を思い出して退席したりしてしまうので、最後まで話し終えることができたのは大変久しぶりのことで。サテライトは随分とすっきりしたらしい。今まで歯軋りをするように怒りで歪んでいた顔、憎悪に燃える恒星のような眼球はそのままで、にいっと、凄まじい、笑顔で、笑った。今度は、先ほどの笑顔とは少しばかり違って……そう、どちらかといえば、獲物を狙う、片目のない野良犬みたいな顔。

 獲物。

 そう。

 いうまでもなく。

 真昼は、獲物だ。

「まあ、ただ。」

 そして

 今は。

 狩の。

 時間で。

「てめぇが砂流原真昼だっていうんなら。」

 だから、サテライト、は。

 言葉を失っている真昼に。

 嘲笑うかのように、言う。

「てめぇを殺すのに、何の理由もいらないがな。」

 サテライトがそこまで口にした時に……今まで、退屈し切った表情をして、そこの壁のところに寄りかかっていたデニーが。退屈し切った表情はそのままに、とんっとその壁から離れた。そして、特にコメントもなさそうな視線を、サテライトが立っている場所のすぐ横の壁に、ちらりと向ける。そんなデニーの様子には……気が付く様子もなく。まあ気が付いたって大した意味もないだろうが、サテライトは、傲岸に、不遜に、次の言葉を叫ぶ。

「なあ、エレファント・マシーン!」

 そして。

 一瞬の静寂。

 その後に。

 轟音。

 衝撃。

 破裂。

 粉砕。

 飛散。

 そして。

 青い空と。

 その女が。

 姿を、現す。


 例えば……二つの大陸がぶつかり合って、その衝突の境界線に盛り上がる、巨大な山脈のようだと。真昼は、その女の姿を見た時に、そう思った。また、真昼の印象だけでなく、実際にその女の肉体は巨大だった。恐らくは背丈だけでも二百ハーフフィンガーを超えていただろうその体躯は、総質量においても尋常ではなかった。肉体の内側から、皮膚を破らないのが不思議なほどに筋肉が盛り上がっている。そして、その筋肉が、その女が動くたびに、しなやかな液晶で構成された奇妙な芸術作品のようにして、ぞっとするほど従順にその動きに隷属する。そのせいで、その女の一挙手一投足は、巨大かつ凶暴でありながらも驚くほど冷静な印象をもたらすのだ。その女の動きは、凄まじい破壊を行う時でさえも、一つも乱れるところがないのだろう。もちろん山脈が乱されることがないということと全く同じように。

 ただし、その女の巨大さは、その女について目立つ特徴のうちの、少なくとも一つでしかなかった。あと二つ、その女については特筆すべきところがある。まずはその女の顔だ。といっても、顔それ自体ではなく、その顔がかぶっているもの。回りくどい表現はやめて一言で書くとすれば、つまりそれは象の仮面だった。象の顔を模った仮面、といっても顔全体を覆うものではない。いわゆるドミナス・マスカ、顔の鼻から上だけを覆うタイプのあのマスクだ。頭部上方に突き出した、二枚の巨大な耳。マスクをつけた本人の鼻を覆うようにして、滑り台にも似た形で前方斜め下に伸びている象の鼻。象の顔をひどく抽象的に形象化した(象・象・象と三つも象が重なってしまった)、黒一色の、ひどくシンプルな仮面。ただし、仮面舞踏会にでもつけていけそうな、ひどく洒落た仮面。スペキエース・テロリストがつけるには明らかに不似合いなそんな仮面を、なぜかその女はつけていたのだ。

 そして、もう一つ。

 その女についての。

 一番の、問題点は。

 その左の拳に。

 纏わりついているもの。

 それは……とても、とても、大きな、ガントレットだった。なんというか、ちょっと大きすぎて馬鹿みたいに見える。何せその女の肉体それ自体とほとんど同じくらいの大きさをしているのだ。というよりもその女の左腕自体がちょっと異様だった。その女の肉体が巨大であるのとは全く別の次元で大きすぎるのだ。その女の体とまるでサイズが合っていない。例えば左腕だけを後から付け足したみたいに大きい。

 そう思ってみてみると、その女の腕は、右腕も、左腕も、少しばかりおかしいところがあった。その女自体は黒人であって、たぶんダニッチ大陸の出身だろう、それはそれでいいのだが、明らかに肩から先だけ肌の色が違っている。ほら、黒人って、黒人という割にはせいぜいが焦げ茶色っていうか、少なくとも真っ黒というわけじゃないじゃないですか。「じゃないじゃない」ってなんか面白いですね、まあそれは置いておいて、その女もそこそこ濃い茶色みたいな肌の色なのだが、ただ、両腕、肩から先だけは本当の意味で黒い色をしていたのだ。星のない夜のような完全な暗黒。そして、その左腕の先には、その黒い色と全く同じ暗黒をしたガントレットがついていて。

 それから。

 それから。

 そのガントレットを使って。

 その女は、この小屋の壁を。

 ぶち抜いたのだ。

 正確にいえば、壁をぶち抜いたというよりも……この小屋の、サテライトがいる場所から後ろ側を、完全に吹き飛ばしたといった方がいいかもしれない。その女がそのガントレットで殴り飛ばしたところには。もう小屋の一部であったものの残骸しか残っていなかった。あのやけにポエティックな十二行(「そして」から「姿を、現す」までの十二行)で言及したように、ガラガラと崩れ落ちた煉瓦の屋根からは青空さえ覗いている。それでいて、サテライトがいる場所から前の側、デニーや真昼がいる場所までの屋根は全く崩れ落ちていない、煉瓦一つ抜け落ちていないのだから、この女がこの破壊をどれほど精密に行ったのかということが理解できるだろう。

 その女は。

 ゆっくりと。

 正確に。

 焦ることなく。

 小屋の中へ入ってくる。

 それから。

 サテライトの隣。

 黒色の不歌石でできた。

 彫像か何かのように。

 凝然と立ちはだかり。

 そして。

 その右手に持っていたもの。

 何か、灰色と、茶色と。

 それに赤色でできた。

 不格好に丸い、四つのものを。

 デニーと真昼に向かって。

 軽く、放り投げる。

 その丸いものはころころと床の上を転がってきて真昼がいる場所のすぐ目の前のところで止まった。見るまでもない、真昼には分かっていた。それが、四つの、人間の、頭であることなど。迷彩柄のヘルメットを被った、胴体からいともやすやすと引き千切られた、四つの頭。ついさっきまで真昼とデニーのことを守るようにして囲んでいた、四人のデニーの部下の四つの頭。要するに、わざわざいうまでもないことであるが、デニーの四人の部下は、デニーと真昼がサテライトの不幸な身の上話を聞いている内に、この女によって始末されてしまったということだ。

「一つ訂正がある、ハッピー・サテライト。」

 唐突に。

 ぽつんと。

 その女が。

 口を開いた。

 それは、そんな巨体から発せられるとはついぞ思えるはずもない声だった。ひどくはっきりとしていて、聞き取りやすい、よく通る声。まるで声楽家か何かの声のように、ある意味では音楽的でさえある。しかも現代音楽ではなく古典的な音楽、クールバース調のトラヴィール聖歌のように、繊細でありながら荘厳な音楽。そんな声に対して、まるで夜に生まれ夜に死んでいく惨めな溝鼠のように、ざらざらと掠れ、重く濁った低音の声で、サテライトは答える。

「は、訂正? んだよ。」

「私達が砂流原真昼を殺すことない。私達の任務は砂流原真昼を生きたまま捕獲することであってその殺害ではないからだ。」

「……なあ、あたしさ、これ、お前に言ったことあったか?」

「何をだ、ハッピー・サテライト。」

「てめぇは、本当に、ムカつく、やつだ。」

 そんな話をしながら、その女の左腕に……いや、もう「その女」という呼び方はやめよう。この場には三人も女がいてちょっと分かりにくいし、それにもう「その女」の固有名詞は出ているのだから。というわけで、エレファント・マシーンの左腕に。奇妙な変化が起こり始めていた。

 その腕の全体が、なんということかガントレットも含めて、まるで水面に小石を一つ投げたがごとくふるふると震え始めたのだ。それから風呂の水が少しずつ抜けていくのにも似た態度でエレファントの左腕は少しずつ少しずつ小さくなっていって。やがては右腕と同じサイズにまで縮小した。エレファントはその腕の神経系を確かめるように、ぐっぱーぐっぱーと手のひらを握りしめたり閉じたりしている。

 エレファントがちらっとサテライトの方に視線を向けて「ああ、そうだなハッピー・サテライト。お前が私に対してそう言うのを、私は何度か聞いたことがある」と言ったそのセリフに対して、サテライトがぷっつーんと切れた様子で何かを言い返そうとしたその時に。エレファントが入ってきてから、このタイミングまで、自分の唇にちゅっと人差し指を当てて、「うーん、なんだったっけ」とでも言わんばかりの表情で何かを考えていたデニーが。サテライトの言葉を遮るつもりなど毛頭なかったろうが、確かにそれを遮って、言う。

「あっ、そーそー! そーだよっ!」

 それから。

 エレファントのこと。

 ばしーんと指さして。

 こう続ける。

「えーと、その子、エレファント・マシーンっていうの?」

「ああ、そうだ。」

「へー、すごく見たまんまだね! それでさ、エレファント・マシーンちゃんさ……ねえ、エレファント・マシーンちゃんって呼ぶの、ちょっと長くてめんどー!ってなっちゃうから、エレちゃんって呼んでいい?」

「私は別に気にしない。」

「じゃあエレちゃんね! あとハッピー・サテライトちゃんはサテちゃんって呼ぶから。「は? てめぇ何どさくさに紛れて巫戯山たこと……」それはいいとして! エレちゃんってあれでしょ! 通称機関がやってたイヴェール再現実験で試験体だった子でしょ! えーと、試験体No.8の子!」

 そのデニーの言葉……特に「通称機関」という単語を聞いた時に。サテライトは、左目をぐうっと大きく見開いて、ぎりっと歯噛みするようにデニーのことを睨み付けたのだが。一方で、言われた当人であるエレファントの方は眉一つ動かすことなく(といってもエレファントは前述のようにマスクをしていたので眉一つくらいなら動かしていても見えはしなかっただろうが)、全くの平静の表情をしたままで答える。

「ああ、そうだ。」

「ふふーん、やっぱりね! デニーちゃん、エレちゃんのことどっかで見たことがあると思ったんだーあ。ねえ、ほら、覚えてる? デニーちゃんのこと。えーとね、デニーちゃんが実験を見学したのは、確かエレちゃんの脊髄に穴をあけて……」

「残念ながら。」

 デニーの言葉を、何の感情も感じさせずに。

 単純に口を挟むだけといった感じで遮って。

 エレファントは、その問いかけに、答える。

「私はあなたのことを覚えていない。」

「えー、そんなひどいよ! デニーちゃんは覚えてたのに!」

「恐らく、あなたは手術室のマジックミラーの向こう側にいたのだろう。その場合、あなたから私を見ることができても、私からあなたは見えない。」

「あー、なーるほどね。」

「それにしても、あなたは私のことをよく覚えていたな。あれは随分前のことだったし、それに試験体は私以外にもたくさんいたはずだ。」

「へっへーん! すごいでしょー。デニーちゃんは、さぴえんすなんかよりもずっとずーっと頭が良いからね!」

 これこそが、エレファントが人徳者と呼ばれている所以の一つなのだが、それが相対する何者かであっても、更に触れられたくない過去を掘り返してくる何者かであっても、一応は気を使ってフォローを忘れない。今回であれば、デニーが素晴らしい記憶の持ち主であるということをきちんと褒めておく。エレファントはそういう人間なのだ。

 まあ実際のところとしては、これはエレファントが人徳者であるかどうかということは一切関係なく。ただ単純に、エレファントは、他者と関係する時に、誰彼という差別を行うことなく、自分で定めた一定の手順に従って反応しているというだけなのではあるが。とにかくここでいいたいことは、これくらいの心の持ちようでなければサテライトと友好的な関係を築くことなどできない相談だということだ。

「ということは!」

 ひとしきり、えっへーん!とした後。

 デニーは、きゃるんという顔をして。

 エレファントに、問う。

「エレファントちゃんの、そのおてては……今のところは、セカンダリー・ブラック・イヴェールでできてるのかな?」

「ああ、その通りだ。」

 そんな二人の会話に……今まで、呆然とした表情をして、床に転がっている四つの首を見下ろしていただけだった真昼が。はっとした表情をして、エレファントの方に視線を上げた。それから、その視線を即座にデニーの方に向けて、こう言う。

「セカンダリー・ブラック・イヴェール!?」

「うん、そうだよー。」

「それって……」

「世界で二番目に硬いって言われてる合金だね。ほんとーは四番目だし、その硬さも科学的な硬度に限られちゃうけど。」

 これは、まあ、説明する必要もないことであろうが、念のため触れておくと。セカンダリー・ブラック・イヴェールとは黒イヴェール合金の二級品のことである。そもそも黒イヴェール合金とは白イヴェール生起金属に様々な加工を加えることで世界最高(といわれている)硬度を出すことに成功した物質のことだ。ただしこの黒イヴェール合金自体は加工が非常に困難であるため量産することができない。ということで、量産を可能にした上で、更にある程度の硬度を残したセカンダリー・ブラック・イヴェールという物質が開発されたのだ。

「あの手が……ブラック・イヴェールって……どういうこと? あの手が、黒イヴェール合金でできた、籠手みたいなもので覆われてるってこと?」

「真昼ちゃーん、違うよお。ブラック・イヴェールじゃなくてセカンド・ブラック・イヴェール。ブラック・イヴェールとセカンダリー・ブラック・イヴェールじゃぜーんぜん違う物質だぞ! それに、籠手なんかじゃなくって、エレちゃんの肩から先は、みーんなセカンダリー・ブラック・イヴェールになってるの。」

「それなら……」

 言いながら、真昼はまた。

 エレファントに目を戻す。

「なんで、あんなに簡単に動かせてるの……?」

「えー? 真昼ちゃん、それ、今、説明する必要ある? うーん、まーいいけどさあ……エレちゃんの骨髄にはね、不定子レベルまで構造を変数化した特殊なイヴェール合金がたーっくさん流し込まれてるの。それで、脊髄から神経的な電気信号を送ると、その特殊なイヴェール合金を自由に構造化したり流動化したりできるんだよね。と、いうことで! 脊髄に等間隔に開けられた排出口と、それと両肩の切断面、腕をじょっきーんてした部分に開いている排出口、それにたしか他にもいくつか骨に穴が開いてて、そこからどーんってセカンダリー・ブラック・イヴェールを吐き出すーみたいなことができちゃうってわけ! で、それを任意のタイミングでかっちーんってさせちゃうことで、武器として使ってるんだよ! だよね、エレちゃん!」

 ばちこーんと、ウインクしたデニーに。

 軽く頷いて、エレファントはこう言う。

「その通りだ。」

「ほら、ね!」

 ちなみに、少しだけ補足しておくと、エレファントの服装について。上半身は、胸部を覆う黒い色をした金属製のチェストプレートだけを身に着けていて。下半身は、やはり黒い色をした金属、を、編み込んで作ったようなトラウザーズを履いていたのだが。実はこれは両方とも服などではなく、体内のセカンダリー・ブラック・イヴェールをティンガロー結晶状態にして排出し、服のようにまとっているというだけの話だった。え、何? ティンガロー結晶状態を知らない? あのですね、これはイヴェール金属加工学の基礎中の基礎ですよ? こんなことまで説明してられません、自分で調べて下さい。まあ、一つだけいっておくとすれば、完全な固体として結晶した時の硬度を持ちながらも、液体時のような高度な柔軟性を持った状態ということです。超便利!

 さて。

 よくもまあ。

 これだけの

 長い間。

 サテライトは。

 我慢して。

 いられたものだ。

 もしかして、サテライトの「自分的には全然興味のない話を延々と聞かされる苦痛」我慢時間としては最長の記録かもしれない。それでも、相手がデナム・フーツだということで少しばかり警戒していたのと、いつも自分の身の上の不幸話を聞いてくれるエレファントの身の上の不幸話ということで少しくらい聞いてあげないといけないという義務感から、今までほとんど口を挟まずにいたのだけれど。遂に、とうとう、その我慢も限界に来たらしい。

 尚も、何か、阿呆なことを、問いかけようとした真昼。

 その問いかけ、遮って、焼き尽くすような激怒と共に。

 サテライトは、こう叫ぶ。

「うるせぇんだよ!」

 それから。

 デニーと、真昼と。

 指さして、続ける。

「これ以上! てめぇらの! クソみたいな! 無駄話に! 付き合ってる! 暇は! ねぇんだよ! 和やかな談笑の時間はもうお終いだ! あたしはてめぇを殺す、そしててめぇを攫う、その仕事の最中に、てめぇの手だか足だかを一本か二本もいじまうかもしれねぇがそれは不可抗力だ! それで、あたしとエルマの仕事は終わりだ! それでいいな!」

 デニーは、その問いかけに。

 まるで何かに耳を澄ますように。

 フードの中で、小首を傾げた後。

 にーっと笑って。

 こう答える。

「うん、いーよ!」

「はっ、聞くまでもなかったな。てめぇらの兵隊は皆殺しにした、そっちのデナム・フーツってやつは魔学者らしいが、さすがにあたしたち二人が相手でどうにかできるわけもない。これ以上はもう抵抗する方法なんて……」

「今、ちょーど来たところだから。」

「は?」

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