第一部インフェルノ #1
鉛の。
冠の。
戴冠。
砂流原真昼はそれを乞うていた。まるで乞食のように。浅ましく、無様で、生きる価値のない乞食のように。砂流原真昼は常にそれを乞うていた。それというそれそのものがなんであるのかということさえも理解することができないままに。砂流原真昼は、それに渇き、それに飢え、ただ生きるということそのものの絶叫のようにそれを冀うていた。
冠?
冠?
ねえ、それは何の冠?
しかし……ああ……そうだ、そうだった。戴冠だ。これは戴冠式の光景だった。レディス、アンド、ジェントルメン。居並ぶ来賓。それぞれが右の列と左の列とに分かれて、まあ、随分とご整然とされていらっしゃることね。
左側に目をやろう。まずは二人連れ、蛇のような姿をした神父と疲れ切ったダイナーのウエイトレス。それから、五人の娘を連れた機械仕掛けのエグゼクティヴ。笑顔が素敵な新聞記者。黒い鱗の龍の王。甘やかされた吸血鬼のお坊ちゃんと、それに忠実に付き従う首輪をつけた狼女。
右側に目をやろう。片腕を失った気高く美しい王族の娘。幸せそうな顔をしている奴隷の少女。左目を抉り出されて気が狂った女の子は、背負いきれるはずもないほど他人の苦痛を背負った女と一緒に突っ立っている。そのすぐ近くにいるのは三人兄弟。シャッターを取り付けた穴が体中に開いている長男。時計のような甲虫に全身を蝕まれている次男。そして、頭部を丸ごとテレビの画面と取り換えられている三男。
みんな、みんな、真昼を見ている。真昼のことを見つめている。まるであなた方読者のように。そう、もちろんだ。もちろんこれは小説だ。そして、あなたは読者だ。あなたは真昼を見ている。真昼の姿を見つめている。真昼の戴冠の姿を見つめている。
真昼の目の前には一人の少年がいる。その少年が戴冠をする者だ。真昼に戴冠をする者だ。王。王。ただ一人、唯一の王。可愛らしい笑顔を浮かべて、純粋に、無垢に、その少年は、両の手のひらに冠を持ち、その冠を真昼の頭上に掲げている。
そういえば、その少年の後ろには誰かがいるようだ。しかし、真昼にはその姿は見えない。その姿は見通せない。その少年の後ろには誰かがいる。しかし、真昼は、その誰かが誰であるかということを知る必要はない。なぜなら、真昼には、その少年の姿しか見えないからだ。
冠。
冠。
ねえ、その冠なんだよ。
それは鉛の冠だ。どろどろと溶ける鉛の冠だ。燃え盛る地獄の炎によって溶かされた、鉛の冠だ。その鉛の冠から真昼の上に鉛の雫が滴り落ちてくる。鉛の雫は真昼を焼く。あたかも一滴一滴が真昼の罪であり真昼の罰であるかのように。その鉛の雫は真昼の肉の体を焼く。真昼の目を焼く。真昼の耳を焼く。真昼の鼻を焼く。真昼の舌を焼く。真昼からあらゆる光を奪っていく。
正常で健康な、生きている人間が大抵そうするように。真昼は常にその瞬間を待ち受けていた。望んでいたわけではなく、願っていたわけでもなく、ただただ待ち受けていた。自分が、完全に、一欠片の残骸も残すことなく、破滅するその瞬間を。真昼は罰を待ち受けていた。己の罪に値することのない罰を。己の罪に、決して、絶対に、値することのない罰を。自分の頭上に、自分の罪とは全く関係なく、ただ単に不合理な罰として、その罰が、破滅のように振り下ろされる瞬間を待ち受けていた。冠だ。冠だ。あんたがあたしに被せてくれる冠だ。ねえ、それを愛と呼んでもいい?
その瞬間、が。
今、ようやく。
あなたは招待客だ。もちろんだ。砂流原真昼のこの戴冠式に招待された、哀れで、悲しい、一人の招待客だ。戴冠式。無数の招待客が見つめる戴冠式。無数の、無数の、哀れで、悲しい、戴冠式。ああ、心配することはないよ。もうすぐ始まるから。ああ、ほら、もうすぐ始まるよ。今、扉が開いた。ほら、入ってきた。主人公が。この物語の主人公が。あの少女だよ。あの少女が主人公だ。名前は砂流原真昼。さあ、席について。それから、じっと見つめて。あの少女のことを。ねえ、席を立たないであげてね。最後まであの少女の傍にいてあげて。もちろん、そうしなくてもいいけれど。でも、できればそうしてあげて。ほら、来る、来るよ。あの少女が。あの少女が。今。
斯くの。
如く。
来る。
腐りきっていて、濁りきっていて、そのせいでひどく熱を放っている泥土の中から無理やり引きずり出されたのかと思った。もしもそうであるのならば、きっと、随分と長いことその泥土の中にいたのだろう。頭蓋骨の内側ががんがんと痛むからだ、決定的に酸素が不足している証拠だ。
真昼は……口を開いた。周囲に存在する空気を貪欲に吸い込むために。吸い込んで、それからすぐに吐き出した。腐りきっていて、濁りきっていて、そのせいでひどく熱を放っている、まさしく泥土のような空気。嘔吐するように咳き込む。
夏だ。
唐突に思った。
そしてそれは正しかった。
蛞蝓の体を葉の上からそっと剥がし取るみたいにして、真昼はそっと目を開いた。右の眼だけではなく、左の眼だけでもなく、両方の眼を。その時点、目を開く時点までは、自分が目を閉じていることさえも気が付いていなかったのだけれど、とにかく目を開いた。そして、その瞬間に気が付く。自分が泥土の底でゆらゆらと浮かんでいたわけではなく、ただ眠っていただけであるということに。
そう、真昼は眠っていた。
それから、今、目覚めた。
一度、二度、三度、瞬きをする。眼球の奥にどんよりとうずくまる鈍い痛みを抱え込んだままで、ゆっくりとその場に体を起こす。手のひらにざらざらとした砂の感触。全身に、硬いものに横たわっていた時に特有の鬱血の感覚。そして、そうして、真昼はようやく周囲の光景を見回してみる。
端的にいえばそこは洞窟であった。それも自然にできたタイプのものではなく造成的に掘り出されたタイプのものだろう。そう思えるくらいには、真昼のいるその空間は直角と直線とによって構成されていた。
正確なことは分からないが、恐らくは立方に近い形をしていた。縦横ともに三ダブルキュビトくらいの立方だ。真昼のことを拒絶しているかのように、無表情に、無感情に、ただ単純にその空間を塞いでいる床、天井、三面の壁。そして壁のうちの残りの一面は出入りができるように削り抜かれていた。大体、縦に二ダブルキュビト、横に一ダブルキュビト、ぽっかりとした穴。しかし、少なくとも今は、真昼はその穴からこの空間の外側に出ていくことはできないようだった。なぜならその穴は鉄格子でできた扉で塞がれていたからだ。赤い砂が浮かび上がるように、赤く錆びきった、鉄格子。
赤い砂、赤い砂だ。この空間のコンセプトとなっているのは。そこら中が赤い砂にまみれている。床も、天井も、それに壁も。真昼は、先ほど体を起こす時に床についた手のひらを自分の目の前に持ってくる。その手のひらについていたのは、ざらざらと、乾いた、赤い砂。
どうやら随分と乾燥しているようだ。それに随分と暑い。一体、ここは、どこだろう。そして、なぜ、ここにいるのだろう。だんだんと……真昼の内側、心臓の辺りに記憶が浮かび上がってくる。とくん、とくん、とくん、肉でできたポンプによって、汲み上げられてくるかのように。ここで目覚める前の記憶。もう少し正確にいうのならば、その前に、眠りにつく前の記憶。
記憶。
記憶。
記憶。
けれど。
その前に。
少しばかり、砂流原真昼という名前のこの少女について説明しておいた方がいいのかもしれない。少女、そう、真昼は少女だ。年齢は十六歳。少女と呼ぶに相応しい愚かさを備えた、少女らしい少女。首のあたりまで短く雑に切った黒い髪に、紛い物のガラス玉みたいに安っぽく光る黒い目。それに午後の後、夕方の前の、西の空みたいな色に薄く色づいた肌。そういった明らかに海果系の特徴の肉体だけでなく、その名前からも推測が付くように、真昼は月光国の人間だ。月光国で年齢が十六歳といえば、大体は高校に通っているはずの年齢であるが、真昼もやはり例外ではなく、飯綱大学付属飯綱高校に通っている。
通っている? いや、通っているというのはおかしいかもしれない。真昼は高校に通っているわけではなかった、ただ所属しているだけだ。簡単ないい方をすれば不登校、生徒名簿の中に籍だけを置いて、その校舎にはほとんど足を踏み入れたこともなかった。それでも、月光国で一位二位を争う名門校校である飯綱高校に、まだ退学にならず籍を置き続けていられるし、恐らく何の問題もなく卒業さえできるであろう理由は、真昼の父親である砂流原静一郎の持つ影響力にあるのだが……今はそのことについて、静一郎について触れるべき時ではない。
とにかく、今では真昼は高校に通うことはなかった。それだけでなく、自分の家に帰ることもなかった。真昼の戸籍上の住所は静一郎の家であり、その家には静一郎とそれなりの数の小間使いが暮らしているのだが(母親である正子は真昼が小学生の時に自ら命を絶った)、その家にはよほどのことがない限り近づかないようにしていた。ちなみにそのよほどのことというのは、静一郎の仕事上の部下である芥川が迎えに来て、強制的に連れ帰られるケースを指している。そういった場合は一時的に自分の部屋に閉じ込められ、そこでの生活を強いられるのではあるが、そのうちに真昼はそこから抜け出して家出生活に戻るのだ。
それではそういった家出の期間、つまりその生活の大半を真昼はどこで暮らしているのだろうか。その答えは、大体の想像はつくと思うのだが、その時々に付き合っている男の家だ。真昼は中学二年生の時に処女を失った。それは生活する場所と引き換えに差し出したのであって、相手は十才ほど年上の、大学生の男だった。それ以来、真昼は男の家を転々として暮らしてきた。男と生活の場所は一か月から二か月ほどで取り換えていたのだが(それ以上の期間を一緒にいると色々面倒になることを経験から学んでいた)、そういった男に困ることはなかった。真昼の、まるで剥製にされた子供の狼のような外見は、大変男に好かれるタイプのそれであったし、第一真昼は若かったから。
そして……その時も。
真昼は、男の家にいた。
眠りにつく前のその時。
記憶の中の、その時。
確か、ぼんやりとハンドデヴァイスを見ていたはずだった。真昼はASKホンではなくスマートバニーのユーザーなのだが、そのスマートバニーでSINGのアプリケーションを開いて、なんとなくタイムラインを眺めていたのだ。いつ干したのかも分からないような、じっとりと湿っていて、そのくせ埃っぽい布団の上、ごろんと寝っ転がって。男はそんな真昼の体に寄りかかるともなく寄りかからないともなく、膝を抱えるような座り方をしてテレビの方を向いていた。テレビでは、確かニュースをやっていたはずだ。大して面白くもないスポーツのニュースを。
それから玄関のチャイムが鳴った。ひび割れた水銀のように耳障りなチャイムが。真昼も、男も、どちらも動こうとしなかったが、やがて根負けしたように男が立ち上がった。はーい、と間延びした声を出しながら玄関の方に向かっていったはずだ。それほど広い空間ではない、というかはっきりいえば狭い空間だ。安アパートの一室で、男は数歩で玄関に辿り着いた。
わざわざチェーンをかける手間をかけることもない扉だった。だからチェーンはかかっていなかった。男は鍵を外して扉を開いた。真昼は訪問者に興味があるわけではなく、そのままスマートバニーをいじくっていたのだが……なんとなく聞き覚えのある声が耳に入ってきた。その声は、しばらくの間、男と何やら話をしていたようだったが、とうとう男が振り返って、真昼に向かって困惑したような声で呼びかけてきた。
真昼はスマートバニーから目を上げて、そちらの方にその目を向けた。扉の外には芥川が立っていた。いつもと同じようなスーツを着て、いつもと同じような顔をして。真昼は溜め息をついた。それから、ゆっくりと、面倒そうに、立ち上がった。
真昼は何らかの抵抗を示すような真似はしなかった。今までに何度も何度も連れ戻されて、さすがに学んでいたからだ。そんなことをしても全くの無駄で、馬鹿馬鹿しいだけであると。唯々諾々と扉のところまで来ると、男の方に一度だけ視線を向けて、しかし一言も発さないままで、芥川に従ってその家を出た。
背中に男の視線を、何かを言いたいのだが何を言えばいいのか分からないという感情に満ちた男の視線を感じていたのだが、それでも真昼は振り返ることがなかった。芥川に引き摺られるかのようにしてアパートの階段、軟鉄製の手すりがすっかり錆び付いた階段を下りて。それから芥川の指し示す、いつもと同じような黒塗りの車の後部座席に乗り込んだ。芥川は、扉が閉まったことを確認してから、運転席に乗り込む。
その時。
何の前触れもなく気付いた。
この女は、芥川では、ない。
なぜ気が付いたのかは分からないのだが、まるで天啓のように理解した。この男は芥川ではない。確かに芥川のようなスーツを着て、芥川のような顔をしているが、それでも誰か別の人間、全く知らない人間。真昼は小さな叫び声をあげると、車のドアに手をかけてそれを開こうとした。けれども無駄だった。もう遅すぎた。既に鍵は掛けられていて、真昼のいる席からはその鍵を外すことができなかったのだ。それでも真昼は何度も何度も扉を押した。そして、窓を強く叩いて車の外にいる男、昨日の夜まで真昼の体におざなりな愛撫を加えていた男に向かって叫んだ。車の外にいる男がそれに、その声に気が付いたのかは分からない。しかし気づいていたとしても気づいていなかったとしても同じことだ。車は、既に、走り出してしまっていたのだから。
そんな風にして足掻いている真昼に向かって。車の中にいた男、芥川ではなかった男が声をかけてきた。「無駄ですよ」、芥川のような声、芥川の、いつものような声で。「この車は防音ですから。それに、ついでに言っておくと防音っていうだけじゃなくて防弾ですしね」。真昼はぞっとした、それから驚いた。自分の中に、まだ、こんな風にして恐怖を感じる感覚が残っていたということに。とはいえ、恐れていたところで、何かが解決するわけではない。事態を変えたいのならば、何か行動をなさなければ。
だから、次の瞬間には。真昼は、ようやくのことではあったが、思い出していた。自分の左腕に仕込んだ「それ」のことを。真昼は、左手を「その形」にして芥川ではなかった男に向ける。しかし、芥川ではなかった男は。そんな真昼の方をちらっと振り向いてから、いたずらっぽい笑顔で、それだけは、芥川の、いつものような顔ではない笑顔で、もう一度口を開く。「これから、あなたは少し遠い所に行かなきゃいけないんです」。真昼は、芥川ではなかった男に向かって「それ」を発動しようとする……しかし、これもまた、ほんの一瞬だけ遅かったようだ。「だから、そこにつくまで寝ていた方がいいんじゃないかな」。
そして。
それから。
後部座席に取り付けられた空調。
真昼を向いた排気口の一つから。
何かガスのようなもの。
けれども、透明な気体が吐き出されて。
そして。
それから。
今。
真昼は。
ここにいる。
全てのこととは言わないまでも、必要なことを、どうやら真昼は思い出したようだった。要するに真昼は誰かも分からない誰かに誘拐されたということだった。これで、自分がなぜここにいるかという疑問に関しては回答を得ることができた。ということは、もう一つの疑問は……ここが、どこなのかという疑問。
薄暗い洞窟。灰の色と、黄土の色が混じり合ったような岩に刻み込まれた石窟。その石壁の、その石天井の、その石床のそこここから、さまざまな色合いの闇の色が、まるで鏡から見返してくる顔みたいにして真昼のことを見つめている。ぼんやりと、朧で虚ろな光に照らし出されて……ゆらゆらと、消えかけている赤い霧のように、砂埃が踊っている。
光に。
照らし。
出されて。
そう、この空間には光が差し込んでいた。本当に、うっすらと、眠りかけているような薄明ではあったが。それでも光が差し込んでいた。それは、もちろんこの洞窟自体が放っている光というわけではなく、この立方体に唯一開いた穴である、鉄格子の向こう側から差し込んできていたのだ。
透き通るような光。この世界に生きる者の習性、少なくとも、この世界の明るい側に生きている者の習性……光に引き寄せられること。そして真昼は(本人がどう思っているかなどということに関わらず)間違いなくこの世界の明るい側に生きている生き物だ。だから、真昼は、その精神を、本能的にその光の方角へと引き寄せられる。
不出来な粘土細工でできたオルゴールみたいに重たい体、を、引き摺って。あるいは単に睡眠に適さない場所で眠っていた人間に特有の気怠さ(わざわざいう必要もないと思うが真昼は石床の上に直接横たわっていた)を抱えたままで。真昼は、伏せていた体を立ち上げた。その時に……ふと、足元で音がする。右の足元で、しゃらしゃらしゃらと。それから、くるぶしの骨を冷たく引っ掻くような鈍い痛み。
見下ろす、足元を。
右の足首。
黒く、鈍い。
金属の色。
その金属の色は、真昼の足元から始まって、ずるずると引き摺るみたいにして壁のところまで繋がっていた。真昼は一瞬の間だけそれが何なのか分からなかったのだったけれど。けれど、その一瞬が過ぎると、すぐに理解できた。足枷だ、この空間の中に真昼を繋ぎ止めるための足枷。真昼の左足に嵌まった金属の足錠から、それと同じ材質でできた金属の鎖が伸びていて。そしてそれが石壁のところに鋲で打ち付けられている。
ふっと、遊離するような感覚。現実ではないような、今見ているもの、感じている全てが、先ほどまでの泥のような眠りの、悪夢の続きでしかないような。足枷、足枷? 足枷なんて、真昼は、もちろん、フィクションの世界の中でしか見たことがなかった。いや、フィクションの世界の中でも見たことがないかもしれない。なんとなく聞いたことがある程度の代物。それが、今、実際に、真昼の足に嵌まっていて。
でも。
今は。
それを気にしている時ではなかった。
今は……今はとにかくここがどこなのかということを確かめなければいけない。なぜなら、なぜなら、たぶんここは月光国ではないから。真昼はそう考えてから初めて気が付いた。自分が、この空間、この洞窟の外側にある世界、それが、たぶん月光国ではないだろうということに、気が付いていることに。
理由は単純だ、この場所は暑すぎる。月光国の、今の季節は春のはずだ。それなのにこの場所はまるで夏みたいに暑い。いや、夏という名称さえもこの暑さには生温いように感じた。まるで、この洞窟のすぐそばに、太陽でもあるみたいな。この比喩はある意味では正しかったのだが、それはそれとして真昼はそう思った。それに、それだけでもない。暑さの質も違う。月光国の夏はもっと蒸し暑い、じめじめとしているのだ、まるで性行為を終えた後の臥所にも似た湿度。それなのにここは乾いている。乾きすぎている。血と肉に囲われたことのない硬骨か何かのように。
明らかに知らなかった。
真昼はこの場所を知らなかった。
だから、知らなくてはいけない。
この場所が。
どこなのか。
ということを。
足を踏み出す、足枷がしゃらりと歌う。頭が揺れるとぼんやりとした頭痛の奥でずきんと頭蓋骨が痛む。それでもその痛みを無視するようにして真昼は体を引き摺っていく。この立方体の出口の方へ。この立方体の、閉ざされた出口の方へ。あるいは、ただ単純に光の方へ。
指先が鉄格子に触れる。
頬をその金属に当てる。
ざらざらとしていて。
そっと、冷たい感触。
不思議なことに、真昼が初めて感じたのは、視覚による感覚ではなかった。聴覚による感覚だ。さらさらと、途切れることなく、流れていく水音。どこか遠くで、真昼のことなんて全然関係ない顔をして、流れていく水の音。川だ。近くに川があるらしい、それも、それなりに大きな川。
けれど、その川、ここからは見えないようだ。というか、ここからはほとんど何も見えなかった、見たいもの、役に立ちそうなものは。真昼が聴覚ではなく、視覚によって最初に捉えたものは、柱だった。真昼の体よりも太く高いだろう柱、八角柱の形に刻まれた、ひどくシンプルな柱。それが大体一ダブルキュビト程度の間隔をあけて何本も何本も並んでいる。
どうやらこの鉄格子の外は真っ直ぐな廊下になっているらしい。しかも、なんとなく廊下と呼ぶのも躊躇われるような、かなり広い廊下だ。高さは四ダブルキュビト程度、幅は五ダブルキュビトもあるだろうか。まず真昼のいる場所から一ダブルキュビトほどの場所に最初の柱の列があり、それからその二ダブルキュビトほど奥にもう一列、全く同じような柱の列が並んでいる。更にその一ダルキュビトほど奥が壁だ、その壁には、恐らく真昼がいる……独房、独房と同じような独房がその先に開いているのだろうと思われる、鉄格子で閉ざされた穴が幾つか並んでいる。
そして、光は。光は右側から来ていた。廊下の、右の、奥の方。けれど、真昼のいる位置からはその光の方向がよく見えなかった。何かがあるのは分かる、何か、とても大きく開けた空間のようなもの、ホールのようなものがあるのは分かる。しかし遠くの方に連なっていく柱の列のせいで視界が遮られてしまうのだ。そういう意味では、廊下の右奥よりも左奥の方がよりよく見通すことができた。真昼のいるこの独房は廊下の随分と左奥の方にあるらしく、そちら側にはあまり柱が並んでいなかったから。ちなみにこの廊下自体の長さが大体二十ダブルキュビトくらいあって、真昼の独房は左奥から五ダブルキュビトほどのところに位置しているらしい。
だから、真昼は左奥へと目を向ける。
その瞬間。
背骨に、冷たい刃が、触れたような。
言葉にできない恐怖。
ひゅっと、掠れたような音を立てて息を飲み込んだ。叫び声なんてあげてしまったら、その恐怖、身の内を一瞬で凍り付かせたその恐怖に取り込まれてしまいそうな気がして。真昼のその恐怖は、真昼が視線を向けた先にあったもの、薄暗い闇の中に見たもののせいで引き起こされたものだった。
廊下の左奥、その突き当り。そこは壁龕のように岩壁を削り抜いて作られた空間になっていた。奥行きはよく分からないとして、高さと横幅はともに三.五ダブルキュビト程度。壁龕と呼ぶには少し大きすぎるような気もする空間ではあったが……しかし、真昼が恐怖を覚えたのはその壁龕の巨大さゆえではない。その中に、じっと佇んでいたもののせいだった。
何か。
巨大な。
ものが。
そこに。
佇んで。
いる。
それは人間ではない、明らかに人間ではない。三.五ダブルキュビトの高さがある壁龕の、ほとんどぎりぎりのところまである背丈。べっとりと沈み込むような闇の中で、微動だにすることもなく、じっとそこに立ち、廊下の方を見つめている。あまりにも、あまりにも、非人間的な。真昼は恐怖のあまり動くことさえできず……しかし、やがて、そのことに気が付く。
いや、違う。
あれは違う。
生物ではない。
ただの石像だ。
真昼が今いる場所も確かに暗いが、それよりもより暗い場の暗度に、次第に目が慣れてきて。そのおかげで、壁龕の中にいる、というか置かれている、その何かの姿がよく見えてきて、そのせいで、それが石像だということが分かったのだ。驚くほど大きな石像。これほどのものを作って貰える誰かなのだからそれが誰であれよほど重要な誰かなのだろうけれど、残念なことに真昼にはそれが誰なのかということは分からなかった。
すっぽりと隠すようにして、全身を波打つヴェールのようなもので覆われている。そのヴェールから外に出ているのは顔と、それに両手だけだったのだが、しかしながらその顔は顔と呼べるような顔ではなかった、とにもかくにも真昼の基準からいえば。目も、鼻も、口も、耳も、そこにはなかったのだ。無貌。それが歳月によって削り取られたせいなのか、それとも最初から何も刻まれていなかったのかは分からない。それでも、とにかく、そこには顔らしきものは一切存在していなかった。
それから、両手。まるで目の前にいる何者かを、計り知れない愛によって抱き締めようとしているみたいに。両手は、こちらの方に差し出されていた。ただ、その何者かが何者であったとしても、この石像が表している誰かに抱き締められるのは難しいだろう。その差し出されている両手は、既に、しなやかな猫科の生き物によって占有されていたからだ。ヴェールで覆われた誰かの石像、その手の先、左手と、右手と、両方の先には。それぞれ一匹ずつ、豹のような生き物の石像が置かれていた。ゆったりとそこに座っていて、大きさとしてはヴェールで覆われた誰かの腰くらいまでの大きさ。恍惚とした表情で、まるでうっとりと夢を見ているかのように口を開いて。そして、ヴェールで覆われた誰かの手の、それぞれ右手と左手と、愛撫するかのように舐めている。
もともと巨大な、黒い色の、一つの石から削り抜いた像のようだったのだけれど。この洞窟のそこここを汚している赤い砂、想像することもできないほどの歳月の中で、やはりその像も汚されてしまったらしい。顔と、両手と、それに豹らしき生き物の部分はそれほどでもなかったが、その誰かを覆っているヴェールはすっかり赤い色になってしまっていた。
姿と形を、一通り眺め終えて。
真昼は、ほっと一息つく。
その石像が、石像であったことに。
石像ならばそれほど危険ではない。
恐れる必要はない。
少なくとも、石像は。
「ああ、目が覚めたんですね。」
その声は全くの不意打ちだったので。真昼は「ひっ!」と声をあげながら、ほとんど脊髄の反応として鉄格子から飛びのいた。一歩、二歩、まるで崩れかけた朽木か何かみたいにして、後ろに向かってよろめくと。ちょうどその先でとぐろを巻いていた足枷の鎖に躓いて、そのまま尻餅をつくように倒れこんでしまった。
「大丈夫ですか?」
いつの間にか。
そこにいた。
声の主は芥川だった。
いや、芥川ではない。
あの黒塗りの車で。
真昼をさらった女。
「あんた……」
「んん?」
「あんた……一体、誰?」
真昼は、絞り出すようにして。
ようやく、それだけ、言った。
もちろん、色々あった。それこそ数えきれないほどに聞きたいことは色々あった。とはいえ、その全てを口にするには、真昼は混乱し過ぎていた。頭に思い浮かぶ疑問の全てをちゃんとした人間の言語に直して、それらに優先順位をつけて、一つ一つ問いかけていくには。真昼の頭蓋骨の中身はぐちゃぐちゃになり過ぎていたのだ。だからとにかく最初に思い浮かんだ疑問をその女に向かって投げかけたのだ。
女は、顎の辺りに手をやって。
しばらく何かを考えている素振りをしていたけれど。
やがて、真昼に向かって、笑いながら、こう答える。
「少なくとも、芥川さんじゃないですね。」
「ふざけないで!」
真昼は怒りもあらわに叫んだ。まるで追い詰められた草食の獣が吠えるかのように。そして、はっと気が付いたようにして、芥川紛いに向かってぐっと左の腕を伸ばした。左の手を「その形」にして「それ」を発動しようとする。しかし、できなかった。何度やっても「それ」が発動しなかったのだ。芥川紛いは……そんな真昼に向かって。芥川そっくりの微笑み、あのいかにも礼儀正し気な微笑みを浮かべたままで、こう言う。
「ああ、左手の「それ」は無力化させて頂きました。一時的にね。そんな物騒なものは私達の間には必要ないでしょうから。」
「あんた……なんなの……?」
足を繋ぐ鎖がなければ、芥川紛いに飛び掛かりそうな。
それほどに怒気を孕んだ声で、真昼は言う。
けれども、真昼のそんな様子を気に留めることもなく。
芥川紛いはその微笑みのままで、こう言う。
「まあまあ、そんなに怒らないで。そうだ、お腹がすいてるんじゃないですか? 随分と長いこと眠ってらっしゃったし、眠っている時には当然ながら何も食べられないですしね。私もお腹が空いている時はね、やっぱり少し不機嫌になりますよ。」
芥川紛いは、真昼の独房を閉ざしている鉄格子のその外側、光のさしている方向、右の廊下を少し行ったところに立っていたのだけれど。真昼のことをあやすように言葉を続けながら、鉄格子の方へと近づいてきた。真昼は立ち上がることもできないままに、後ろに向かってにじるみたいにして、少しでも鉄格子から離れようとして。ちょうど独房の真ん中あたりにまで来た時に、芥川紛いは鉄格子のすぐ向こう側のところにたどり着く。
芥川紛いは片方の手に鍵を持っていた。鉄格子とまったく同じ赤く錆び切った金属でできた鍵。その鍵を鉄格子の鍵穴に差し込む。ぎぎぎぎっと歪み軋む音をたてながら回転させる。かちん、と何かが外れる音がする。そして、鉄格子の扉は、いかにも呆気なく開かれる。
「いやー、ついてますよ、あなたは。あなたをここに連れて来る時にね、ついでに買い物も済ませてきましてね。ほら、こんなにたくさん、缶詰を買ってきたんです。今ならば好きなものを選び放題ですよ。」
そう言うと、芥川紛いは、鍵を持っていたのとは反対の方の手、ぶら下げていた袋を軽く持ち上げて、揺すって見せた。がちゃがちゃと騒々しい音を立てて、その中で何か金属の塊のようなものがぶつかり合う。一方で、真昼は、芥川紛いが鍵を開けている最中もずっと後ろ向きににじり続けていて。遂には、その先にはもうにじり続ける距離がないところ、この独房の、鉄格子がある壁とは反対の壁のところにまでたどり着いてしまっていた。
芥川紛いは入口のところから数歩入り込むと、真昼とは十分に距離をとったままでその場にしゃがみこんだ。そして、真昼と自分の間に空いている距離、石床の上に向かって、いかにも無造作に袋の中のものをぶちまけた。がらがらがらっとやっぱり騒々しい金属の音をたてながら。その袋の中から出てきたものは芥川紛いが言った通り大量の缶詰だった。
「本当ならここでしか食べられないものをお出しした方がいいのかもしれないんですけどね。こんなに遠いところまでやってきたんだから、名物の一つも……でも、あなたがお腹を壊してしまったら大変ですし、それにあなたも食べ慣れているものの方がいいでしょう? ほら、選んでください。どれがいいですか? 色々ありますよ。これは鶏肉を炒めたもの、これは鯖の味噌煮、これは……へえ、すごい。山芽焼きなんてのもあるんですね。」
お道化たように、そう言いながら。
一つ一つ、缶詰を手に取っていく。
その喋り方、いかにもわざとらしくて。
真昼は、ますます警戒感を高めていく。
「あんたは。」
「はい?」
「あんたは、誰なの。」
芥川紛いは。
しばらく真昼の顔を見つめた後。
はーっと、一つ、溜め息をつく。
そして、こう言う。
「誰にでもなれますよ。あなたの望む誰にでもね。」
「だから、巫山戯……」
「巫山戯てはいません、事実です。」
そう言いながら、芥川紛いはその場で立ち上がった。真昼はそれを見ると、びくっとしながら、自分の顔を庇うみたいにして両方の腕を持ち上げる。何かされるのではないかと警戒したのだ。だが、芥川紛いは真昼の方へと足を進めてくることなく……その場で、くるっと一回転して見せる。
その瞬間に。
真昼の、すぐ目の前に。
真昼の父が立っていた。
「え……?」
「ほら、ね。」
真昼の父の姿をしたその誰かは当たり前みたいにしてそう言うと。その場で、何度も何度も、くるくるとした回転を始めた。その誰かが回転するたびに、その姿は変わっていく。真昼の父の姿から、真昼が攫われた時に一緒にいた男に。真昼が攫われた時に一緒にいた男から、真昼がよく行っていた本屋の店員の女の子に。真昼がよく行っていた本屋の店員の女の子から、真昼がすっかり忘れていた、真昼のクラスの担任だった女性に。真昼は最初こそ目を丸くして、何が起こっているのか分からないというような、唖然とした表情でそのショータイムを眺めていたのだけれど。すぐに理解した、目の前にいる、男、女、何者かが何者であるのか。
口遊む、ように。
真昼はこう呟く。
「スペキエース……」
「ご名答。私はシェイプシフトのスペキエースです。よく分かりましたね、さすがディープネット幹部のご令嬢だ。」
また芥川の姿に戻ってから。
その何者かは、そう言った。
それから、言葉を継ぐ。
「だから何者にでもなれるんです。ただ、確かに、この答えだと私のことを呼ぼうとする時に少し不便ですね。だから答えを変えるべきかもしれません。私は……そうですね、こう答えましょう。私は、普段は、パロットシングと呼ばれています。」
芥川紛いは。いや、本人の名乗った名前を使うならパロットシングは。そう言うと、その顔にいかにも親しみやすそうな笑顔を浮かべながら、あまり芥川的とはいえないやり方でぺこりと一つ頭を下げたのだった。
これで、真昼は……ようやく、相手についての情報を、自分を誘拐した人間についての情報を、手に入れることができた。そう、考えてみれば当然のことで、真昼だってどうしようもない低能白痴というわけではないから薄々そうであろうとは気が付いていたのだけれど。それは、スペキエースだったのだ。スペキエース・テロリスト。
スペキエース。
スペキエース。
スペキエース。
ホビット語で「見られたもの」を意味する単語。しかし、この世界においてその単語は、もっと重要で、もっと人口に膾炙している、もう一つの意味を有している。それは、誤解を招きかねないような、とはいえ最も簡単ないい方をしてしまえば、「普通の生き物が持っていないような特殊な能力を持つ生き物」という意味だ。
一般的な生命体は一種類しか遺伝原理担体を持っていない。それは形相子と呼ばれるもので、二重螺旋構造を有する科子プラマヌだ。遺伝原理を発現させる際に、この形相子と呼ばれる担体は各々に特有の理性配列に従って生体内の科子プラマヌを合成し、高プラマヌ化合物を作り出す。そして、その高プラマヌ化合物が紡がれることによって生命体の肉体は作り出されている。
しかしスペキエースは一般的な生命体とは異なっている。彼ら/彼女らは、形相子の他に偶有子と呼ばれる特殊な遺伝原理担体を有しているのだ。非常に驚くべきことに、それは科子プラマヌでさえない。ぼんやりとした、雲のような構造を持つ、不定子の集合体だ。何らかの科子が偶有子内部に取り込まれると、その物質は不定子の状態にまで分解される。そして各々の偶有子が持つ特有な理性配列によって並べ替えられ、科子プラマヌか魔子プラマヌに再構成される。また、ここから分かるように、偶有子の行う転写・翻訳は物質の非常に微細なレベルにまで及ぶ。そのため、例えそこに取り込まれた物質が有機物であったとしても、それを無機物に置き換えることもできる。そのためにスペキエースの肉体はあらゆる種類の科子物質・魔子物質によって作り出されることとなる。それ故、スペキエースは一般的な生命体が持ちえないような様々な能力を持つことになる。例えば虹を操る能力。例えば自身の身体から金属を紡ぎだす能力。例えば電子機器と交信する能力。時間を飛び越える能力を持つ者さえいる。
そして、そういった特殊な能力、異様な能力のせいで、スペキエースは長きにわたり差別され続けてきた。いや「差別され続けてきた」という過去形を使うのは適切ではないだろう。実際に、今も、彼ら/彼女らは差別され続けている。その差別の根底には、もちろん自分とは異なるものに対して恐怖の感情を抱くという人間本来の性向も関係しているのだが。しかし、より大きな原因となっているのは、人間の、そういった本能的な側面というよりも、むしろ歴史的な側面であろう。それは、人間が神々に支配されていた神話時代に遡るような……しかし、そのことは、今ここで語るべきことではない。
とにかく、理解して欲しいのはこういうことだ。
スペキエースは、差別されている。
その種の存続さえ危ぶまれるほど。
そして。
砂流原の。
名を持つ。
人間は。
その。
スペキエースを。
「どうかしましたか?」
そう呼びかけたパロットシングの声に。ふっと、真昼は我に返った。スペキエースという単語から呼び起こされた様々な物思いが、まるで霧を晴らすようにして薄れていって。それから、誘拐されている最中であるという自分の状況について、また思い出したということだ。
真昼は、パロットシングに。
睨むみたいな視線を向けて。
それから、こう問いかける。
「スペキエース解放軍?」
「いいえ、近いですけどね。」
「じゃあREV.M?」
「ピンポーン、正解です。」
スペキエース解放軍もREV.Mも両方ともスペキエース系テロリスト組織の名前だ。真昼は、この物語の中でもいずれ触れなければならないであろうとある事情からそういった組織についてそれなりの知識を持っているのだが、その知識からいうと、パロットシングから与えられたこの回答はあまり好ましいとは言えないものだった。
REV.M、正式な名称で呼ぶとすればREVISION.MILLENNIUMは、スペキエース系テロリスト組織の中でも特に過激であるとして有名な組織だ。その創設者であるムバクと呼ばれる人物は、そもそもスペキエース解放軍に所属していた。しかしスペキエース解放軍リーダーであるツ=シニ・ベインガの「人類からスペキエースを開放する」という理想を生温いと感じたムバクは、ツ=シニと決別。そして「スペキエースは人類を支配するべきである」という理想のもとに新たにREV.Mを設立した。そのため、基本的にスペキエース差別者しか狙わないスペキエース解放軍とは異なり、REV.Mは完全に無差別に標的を選ぶ。更にその標的に対して行われる行為は徹底的に無慈悲だ。REV.Mに所属するスペキエース・テロリストは、かつて人類がスペキエースを取り扱ったように人類を取り扱う。
パロットシング、が。
あやすように微笑む。
「ああ、そんな顔しないで下さいよ。大丈夫です、今のところはあなたに危害を加えるつもりはありませんから。私達の目的はあなたを殺すことではありません、殺すつもりだったらもっと早く、少なくとも月光国内で殺しています。あなたはただの人質です。あなたのお父さんと交渉するためのね。」
パロットシングのその言葉は、大体のところ、真昼の想定内の内容だった。真昼には、真昼という人間自体には。そう、真昼もそのことはよく知っていたのだが、真昼という人間自体には、全然、全く、何の価値もない。価値があるのは真昼ではなく、真昼の父親の方。もっと正確にいうとすれば、真昼の父親がその集団の重要な地位を占めている、会社の方。
要するにREV.Mは、ディープネット幹部である静一郎との交渉のために真昼を誘拐したということだった。そうだとするならば真昼は、その交渉の間、少なくとも命だけは保証されているだろう。交渉される側がよほど特殊な教義の宗教に所属しているというのなら別だが、ただの死体は交換条件としてそれほど意味を持たないからだ。そして静一郎はそういった特殊な教義の宗教に所属しているわけではなく、一般的な月光国民のほとんどと同じように月光神話という宗教体系に所属している。ということは、REV.Mが静一郎と交渉したいと望むのならば、真昼を生かしておかなければならないということになる。
ここまではいい、何の問題もない。しかし、けれども。もしも……その交渉が決裂したら? 静一郎が、REV.Mの要求が何であれ、その要求と真昼の命とは釣り合わないと考えたら? その時は、きっと真昼は殺されるだろう。というか、今までREV.Mに誘拐された人間の末路を統計学的に考えるとすれば、殺されるだけで済めばましな扱いだろう。そして、真昼の知る限りの静一郎に関する情報を考慮すると。この誘拐事件がそういう結末を迎える可能性は非常に高いように思われた。
だが、今はそのことについて考えている時ではない。
だから真昼は、パロットシングに、こう問いかける。
「あんた、今、月光国内でって言ったよね。」
「ええ、言いました。」
「じゃあ、ここは、月光国じゃないってこと?」
「はい、その通りです。」
「じゃあ、一体、ここは、どこ。」
先ほども書いたことであるが、真昼は気が付いていた。ここが月光国内のどこかではないであろうということに。その上で、パロットシングの言葉からすれば、真昼のその気付きはただの思い込みというわけではなかったらしい。ということならば、これも先ほど書いたことではあるが、今この時に真昼が考えるべきことは、今この時に真昼が知ろうとすべきことは、ここが一体どこであるかということだ。
この、不吉なほどに渇いている場所。
この、不吉なほどに熱量を持つ場所。
真昼の問いかけに答えようと。
パロットシングが口を開く。
「ああ、ここは……」
その時。
唐突に。
絶叫と。
咆哮と。
悲鳴と。
真昼の独房から外に出て、廊下の右の方向。つまり、ここに差し込んでいる光の、その源があるはずの方向。先ほどまで静まり返っていたはずのその場所が、何の前触れもなく、急に騒がしくなったのだ。しかも、その騒がしさはパーティの類、陽気で愉快な類の騒がしさではない。それは……端的にいえば、闘争の騒がしさだった。何者かが、何者かに、襲われた時の音。攻撃と反撃のデュエット。パロットシングは驚愕に顔を歪ませながら立ち上がり、そのデュエットが燦然と歌われている方向を振り返る。
「一体……!」
歌声と歌声は、止むことなく。
むしろ、次第に高まっていく。
パロットシングは、真昼の方を振り返ると。
すっかり余裕をなくした表情で、こう言う。
「ここにいて下さい。」
それから明らかに、動揺し、動顛し、慌てている様子でその独房から駆け出して行ったのだった。きっとよほど焦っていたのだろう、鉄格子の扉を閉ざすこともなく、パロットシングの駆けていく音は闘争の音楽の方向へと溶けて消えて行ってしまったのだけれど……とはいえ、どちらにしても真昼はこの独房から出ることはできない。結局のところ、その足首は、足枷と金属の鎖によってこの独房に固定されていたからだ。
それに、もしもその足にその足枷が嵌まっていなかったとしても。真昼は、今、この時に、この独房から出ていこうなんていう気は全くなかった。どう考えても危険だからだ。間違いなく、何か、恐ろしいことが起こっている。真昼は確かに愚かではあったが、そのことを理解できないほど愚かではなかった。打撃音、斬撃音、何かが発射される音、何かが爆発する音。残響がこの独房にまで響き渡り、赤い砂がぱらぱらと落ちて来る。悲鳴が、一つ、二つ、三つ。混ざり合って、何かが噴き出して床に滴る音が、更にそれに被さる。硬いものが硬いものに当たって、そのままその硬いものが砕ける音。それから、これは、この声は……くすくすという、笑い声?
真昼の耳には、その絶叫とその銃声の合間に、確かに聞こえたような気がした。まるで……そう、まるで「ラミアと魚」か何かで遊んでいる未成熟の少年が。その遊びの楽しさのあまり、つい楽し気な笑い声を漏らしてしまったような、そんな笑い声が。でも、けれども、しかし……そんなことがありうるのだろうか? この独房の外で繰り広げられているはずの光景を見て、こんな風に笑う少年がいるとでもいうのか? その笑い声は、どうしようもないくらい、ここまで聞こえてくる他の音、闘争と苦痛と恐怖とが奏でる音楽とは不似合いで。
とはいえ、真昼には。
その笑い声について。
考えている暇なんて。
なくって。
驚くほど絶望的なことに狂想曲はどんどんとこちら側に近づいてくるようだった。真昼は少しでもその音楽から離れようとする、限りなく無意味な抵抗として、独房の左隅の方へと這いずっていく。それから、その音楽は……次第次第と、変質しているようだった。それは闘争から一方的な殺戮へと変容していたのだ。片方の楽団は、片方の楽団を、ほとんど駆逐し終わって。今では呻き声と、その呻き声に終止符を打つ音くらいしか聞こえなくなっている。
それに、足音。
真昼の独房へ。
速やかに接近してくる。
複数のブーツ、硬い音。
真昼は、どうしようもなく。
ただ、音の聞こえてくる方向。
目を逸らすことなく、睨んで。
そして。
やがて。
まるで、たった一人の観客から、喝采を求めるように。
戦闘服を着た人々の群れが、独房の中に突入してくる。
独房の中に散らばった缶詰をそこら中に蹴散らしながら、その人々は……整然としていた。その人々は整然と独房に踏み込んできて、整然と内部の状況を確認した。その整然としている様は、本能的な違和感を感じるほどに整然としていて。だが、真昼はその整然さに注意を払うだけの精神的な余裕はなかった。しっかりと歯を噛み締めて、自分が怯えている様子を見せないようにはしていたけれど。それでもその体は髪の毛の末端から足指の爪の先まで震えていて。一体……一体、この連中は、何者なのか。これから自分は何をされるのか。
そんな真昼の様子、しかし、全く目に入っていないかのように。その人々のうちの一人、リーダーらしき一人が、腰に巻かれたベルトにぶら下がっているポーチの一つに手をやった。その人々は大体同じ服装をしていて、頭にはヘルメット、上はジャケット、下はトラウザーズ、ブーツという典型的な陸軍戦闘服を身に着けていたのだけれど。リーダーらしき一人がポーチの中から取り出したのは、そんな軍事的な服装とは全く似合っていない代物だった。キラキラと、安っぽい模造宝石で全面をデコレートされたハンドデヴァイスだったのだ。
スマート・ゼネラル・ソフトウェア協会の刻印がされているので、恐らくスマートバニーだろう。とにかく、そのスマートバニーに軽く触れると、リーダーらしき一人はそれを自分の顔のところにまで持ってくる。そして、その通信が繋がっている先に、たった一言。まるで最新式の冷蔵庫の冷ややかな音声ガイダンスのような声でこう言う。
「クリア。」
クリア、クリア、クリア。リーダーらしき一人の声に唱和するようにして他の人々もそう答えながら、いつでも切りかかれるように振り上げていた鉈のような形の刃物を下して、腰のベルトのところに挟み込んだのだった。
そういえば、そう、その人々が持っている武器は、例えば小銃のようなものではなく、その鉈みたいな刃物だけであった。上底から下底までがひどく引き伸ばされた形をした、長い台形の刃。ひらべったい刃が木の柄に差し込まれた、粗雑なつくりの諸刃の刃物。それから、その刃先からは、したしたと血液が滴っていて……そういった血液は、もちろんその人々のジャケットのことも、べっとりと濡らしていて……それなのにその人々は、そういった血液に関して、全く気にしている様子も見せることもなく。今度は、スマートバニーを持っているリーダーらしき一人を除いて、自分達で蹴散らした缶詰を拾い始めた。その拾い集め方は、やはり非人間的なくらい整然としたやり方だった。
真昼は、その光景と、そして何よりも。
だんだんと、独房に充満してくる。
錆びた鉄に似た、べったりとした匂い。
そのせいで、吐き気を催してきて。
と。
また。
別の音。
が。
聞こえてくる。
その音は、最初は遠い音だった。どこか、どこか、遠いところで……誰か、真昼の全然知らない人の心臓が鼓動しているような音。でも、それが鼓動だとするのならば。その鼓動は随分とリズミカルであるようだった。タッカタッカタッカ・タン、タッカタッカタッカ・タン、タッカタッカタッカ・タン、タッカタッカタッカ・タン。四つの音節を一つの言葉にまとめて、それを何度も何度も繰り返しているような。近づいてくる、近づいてくる、その音は……そう、間違いなく楽隊の太鼓が刻むリズム。
まず最初に、彼ら/彼女らが入ってくる。彼ら/彼女らは、真昼の独房に最初に入ってきた人々とまったく同じ服装をしていたのだが、その手に持っていたものが違った。彼ら/彼女らが持っていたのは、鉈ではなく、それぞれの打楽器だったのだ。
合計六人で構成された打楽器だけの楽隊。六人のうち二人は首から楽器をかけていた。大体両腕に抱え込むくらいの大きさで、円筒形に形を整えた木材の内側を刳り抜き、その両面に膜を張った太鼓。幕を張った両面がそれぞれ右側と左側に来るようにぶら下げて、細長い木の枝のようなもので叩いている。これは実のところムリダンガムと呼ばれる両面太鼓の亜種だった。それから六人のうちの四人は手にタンバリンのようなものを持っていた。鱗を剥いだ蜥蜴の皮を張ったひどく武骨なフレームドラム。ちなみにこれはカンジールと呼ばれる楽器だった。
六人は大きく三人と三人のスクワッドに分けることができた。ムリダンガムを叩いている一人とカンジールを叩いている二人によって構成された、その二つのスクワッドは。それぞれの楽器を恐ろしいほど正確無比に演奏しながら真昼の独房に入ってくると、独房の入り口の左右に侍るようにしてさっと分かれた。タッカタッカタッカ・タン、タッカタッカタッカ・タン、タッカタッカタッカ・タン、タッカタッカタッカ・タン。楽隊は、全くこの場に似合わない、滑稽で晴れやかなリズムを刻み続ける。
真昼が知るはずもなかったのだが、つまるところ、この楽隊はヘラルドだった。この場所に「あの少年」がやってくることを知らせるための先触れ。「あの少年」は、大好きなのだ。こういうことをするのが。賑やかで楽しいことをするのが。この独房にいる、真昼を除いた、残りの人々。血まみれの姿をしたままで、散らばっていた缶詰をあらかた拾い終わった人々が、楽隊に従うようにして左右に分かれる。その後で、楽隊の音楽だけでは賑やかさも楽しさも足りないとでもいうように……たくさんの、たくさんの、花弁を撒き始めた。ポーチの一つにしまってあったらしい、うっすらとピンク色に染まった花弁。淡く透き通るような甘い匂いをさせながら、ひらひらと揺らめくように舞い踊って。
そして。
それから。
その声が。
聞こえる。
「ま。」
まるで、口の中に。
「ひ。」
甘ったるい飴玉を。
「る。」
含んでいるような。
「ちゃああああああああぁん!」
ああ。
そう。
その通り。
ピンキー、ハッピー、レイニーダウニー。きれいな、きれいな、ピンク色の、花弁の雨が降っていて。素敵な太鼓が、心臓がどきどきするように楽し気なリズムを刻んでいるこの場所に。どこまでも可愛らしく、どこまでも無垢な声を響かせながら……「あの少年」が、やってきたのだ。
「す、まーんがらむっ!」
くっと、首を傾げて。
元気よく挨拶をする。
その独房に入ってきた時に。「あの少年」は、いつもと全く同じ表情を浮かべていた。シュガーで、キャンディで、ハニーで、プディングな、いつもの笑顔。誰かに甘えるための、その方法を知っている子供がするかのような、ちょっとした上目遣い。お菓子を食べ過ぎて、少しだけハイテンションになっている子供みたいな口元。それから、いつもと全く同じようにぴんと背筋を伸ばして、うきうきとした爪先、踊りだしそうな踵、そんな風にして、真昼のいる方に、つまりはこの独房の左の隅っこに近づいてくる。
「そこにいるのが。」
くるくると。
悪戯っぽく。
目を回しながら。
「真昼ちゃんかなあ?」
真昼の。
すぐ目の前。
屈みこんで。
そのせいで、「あの少年」に向かって投げかけられていた花弁が真昼の頭にまで降りかかる。髪の毛に絡むみたいにして、柔らかいピンクの花弁が優しく、優しく落ちてきて。真昼は……真昼は、完全に混乱してしまっていた。それは、たった今真昼の名前を呼んだ「あの少年」のことを、真昼がすっかりさっぱり全く全然知らなかったという理由も関係していたのだけれど。それ以上に、この状況の全てが、真昼の頭をぐちゃぐちゃに掻き回していたからだった。この、今、目の前にいる、男は。一体……一体、何者なのか? 血に塗れた独房の中で、太鼓のリズムとピンクの花弁に迎えられながら入ってきた、純粋無垢そのものに見える少年。一体、一体、何者なのか。
しかし、真昼のそんな混乱をよそにして。
「あの少年」は、しゃがみこんだままで。
軍服を着た人々の方。
くるっと、振り返る。
「ね、ね! みんなっ! この子が真昼ちゃんだよねーえ?」
軍服を着た人々の、一人。
あのリーダー格の一人が。
全く表情を変えることなく。
こう答える。
「はい、ミスター・フーツ。その少女が砂流原真昼です。」
「だよねーっ!」
その答え、「あの少年」は満足したようにうんうんと頷きながら真昼の方に視線を戻した。そういえば、今まで触れていなかったのだが……というのは、そんな物体がこんな場所に存在しているということを真昼がよく理解できず、脳が認識し切れていなかったからなのだが……「あの少年」は、その両腕でふんわりと抱えるようにして、その胸の中に一つの花冠を抱きしめていた。薄い紙をくしゃくしゃに丸めたような、手のひらに乗るくらいの大きさの花を繋げたもので。たくさんの黄色い花と、数えられるくらいのサフラン色の花を繋げたもの。そして、「あの少年」は、シュガーで、キャンディで、ハニーで、プディングな、あの笑顔を浮かべたままで。ぱんぱかぱーんとでも効果音が付きそうなやり方で、その花冠をぱんぱかぱーんと掲げる。
「おめでとーだよ!」
そして。
怯え、恐れ、混乱して。
目の前の「あの少年」のこと。
強く、強く、睨みつけている。
真昼の、頭に。
その冠。
ふわりと、載せて。
「真昼ちゃんは、デニーちゃんに、救われたのですっ!」
それから……くすくすと。真昼が、あの、殺戮の音楽の向こう側に聞いた、笑い声で。いかにも楽し気で、いかにも幸せそうな、少年の笑い方で。「あの少年」は、真昼に向かって笑って見せたのだった。
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